「親分、変なことがありますよ」
八五郎のガラッ八が、
「びっくりさせるじゃないか、俺は糸瓜が物を言ったのかと思ったよ」
「冗談でしょう。糸瓜が
ガラッ八はその
「だから、変なんだよ。糸瓜が髷を結ったり、意気な袷を着たり――」
「まぜっ返しちゃいけません」
平次とガラッ八は、相変らずこんな調子で話を運ぶのでした。
「じゃ、何が変なんだ、そこで申上げな」
「その前に煙草を一服」
「世話の焼ける野郎だ」
平次は煙草盆を押しやります。
「恐ろしい粉だ。
「
「相変らずですね、親分」
ガラッ八は妙にしんみりしました。江戸開府以来と言われた名御用聞の銭形平次が、その
「大きなお世話だ。粉煙草は俺が物好きで呑むんだよ。――それよりもその変な話というのは何なんだ」
「根岸の
「下手人でも判ったのか」
「あればかりは
「じゃ、何が変なんだ」
「親分に言われて、この間から気をつけていると、あの家の下女――お菊という十八九の可愛らしい娘が、毎日浅草の観音様へお
「信心に不思議はあるまい。日参をして岡っ引に
「それが変なんで」
「娘が綺麗すぎるんだろう」
「その綺麗すぎる娘が、観音様にお詣りをするだけなら構わないが、必ず
「毎日か」
「一日も欠かしません。その上、引いた御神籤を八つに畳んで、
「毎日同じことをやるのか」
「あっしがつけてから十日の間、一日も欠かしませんよ。降っても照っても」
「時刻は?」
「
「待ちな、
「だからあっしが変だと言ったじゃありませんか――糸瓜に髷を結わせたり、意気な袷を着せたのは親分の方で――」
「そんなことはどうでもいい。――その娘は誰かと逢引をする様子はないのか」
「根岸から真っ直ぐに来て、真っ直ぐに帰りますよ。もっとも、ときどき、変な野郎が娘の後をつけている様子ですがね、振り向いても見ませんよ」
「変な野郎?」
「若くてちょっと渋皮のむけた娘の後をつけるんだから、どうせまともな人間じゃありません」
「お前もそのまともでない人間の一人だろう」
「へッ」
「ところでその娘は、引いた御神籤をていねいに読むのか」
平次の問いは妙なところへ立ち入ります。
「丁寧にもぞんざいにも、見ようともしませんよ」
「フーム」
「そのまま八つに畳んで帯のあいだへ挟んで、御神籤所からだんだんを降りて石畳を踏んで、仁王門を出て、粂の平内様のお堂の前へ立って、帯のあいだから
「その手順に間違いはないだろうな」
「毎日同じことをやるんだから間違いっこはありません。よほど念入りな願をかけるんでしょうね」
「面白いな八、明日は俺が行って、娘の
「ヘエー、親分が乗出すんですか。――三輪の親分が気を
「そんなこともあるまい」
平次は相変らず
根岸は隠殿裏の武家出らしい
母親の女主人は
引っ越して来たのは去年の暮、ひっそりとした暮しようで、西国の武家出とばかり、
表の格子戸は内から乱暴に外され、六畳一パイの血の海です。土地の御用聞三輪の万七は、時を移さず乗込みましたが、まるっきり下手人の見当もつかず、そのまま愚図愚図と一と月という月が経ちました。そのあいだ係りの同心の勧めで、銭形の平次は呼出されましたが、一応現場を見ただけ、三輪の万七に義理を立てたか、あまり口を出さずに帰ってしまい、その後は三輪の万七にも
その八五郎が、美しい下女のお菊の動静を見張っているうち、浅草の日参と、
「親分、出かけましょうか」
翌る日の朝、まだ飯も済まぬうちに飛んで来たのは、勢い込んだ八五郎でした。
「たいそう早いじゃないか」
「でも根岸から観音様に廻ると、昼近くなりますよ」
「そいつは正直すぎるだろう、御神籤所を見張っただけでたくさんだよ」
だが、このガラッ八の馬鹿正直さが、平次のために、いろいろのことを発見してくれるのでした。
観音様にたどり着いたのはちょうど
「親分、来ましたよ」
ガラッ八はそっと平次の袖を引きました。
見るとちょうど仁王門を入って来るのは、平次にも見覚えのあるお菊という可愛らしい下女。鳩にも五重の塔にも眼をくれず、真っ直ぐに段を登って、
「ちょいと、可愛らしいでしょう」
「黙っていろ」
鼻筋の通った、ふくよかな横顔をガラッ八は指します。
「親分」
「何だ、うるさいな」
「あれがまともでない人間で――」
振り返ると段の中ほどのところに立って、不精らしく懐ろ手をしたまま、
「なるほど」
「あ、娘は御神籤を引いていますよ」
「しッ」
下女のお菊は御神籤を引くと、別段それを見るでもなく、八つに畳んで、もう一つ中ほどから折って帯のあいだへすべり込ませました。
そこから御堂を出て、石畳を渡って仁王門を出るまで、娘の取済ました顔は、一度も
お菊は粂の平内様の堂の前に立つと、これも事務的な冷静さで、帯のあいだから先刻の御神籤を取出し、堂の格子へ器用な手付でざっと結びました。
「四方を見ようともしない。――おそろしい
銭形平次がそう言った時、お菊はもう平内様の堂を離れて、
そのときどこからともなく現れた
「ここまで見て、お前は引揚げたんだろう」
平次はガラッ八のぼっとした顔を顧みました。
「あの娘をつけてみましたが、御隠殿裏へ真っ直ぐに帰るだけで、何の変哲もありませんよ。江戸の真ん中じゃ、真昼の天道様に照らされて、どんな送り
ガラッ八は長い
「何を言うんだ。娘のことじゃない。あれだよ」
「ヘエ――」
平次は粂の平内様のお堂を指しながら続けました。
「あの格子に、たくさん
「?」
「端っこをちょいと
「ヘエ――」
「あの娘は観音様の本堂からここまで来るあいだに、御神籤の端を染める暇がなかったはずだ」
「?」
「だが、あの御神籤は前には無かったことは確かだ。やはりあの娘が結わえたんだ。――間違いはない。いま引いた御神籤を、読みもせずに平内様の格子に結ぶはずはないから、やはり帯の間に
「ヘエ――。手数のかかる細工ですね」
「それどころじゃない、娘は赤い御神籤を結ぶとき、前にあの
「本当ですか、親分」
ガラッ八は見事に十日間娘に馬鹿にされていたのです。
「赤い印や青い印の付いた御神籤は、何百何千の中でも一と眼に解るよ。俺は先刻ここへ来たとき、確かに見定めておいたから間違いはない」
「ヘエー」
「驚いてばかりいずに、あの赤い御神籤を解いて来るがいい。青いのを見なかったのは手ぬかりだが、なあに、赤いのを見ただけでも、大体の当りはつくだろう」
そう言ううちにもガラッ八は、平内様の堂の格子から、お菊が結び捨てて行った、赤い印のある御神籤を解いて来ました。
「こいつは楽じゃありませんね、親分。皆んながジロジロ顔を見るんだ」
「心配するなよ、泥棒と間違えられっこはない。――男のくせに縁結びのまじないなどをするのは、どんな野郎だろうと思われるだけのことさ」
「なお悪いや」
「おやおや、やはり御神籤だ――たぶん昨日引いたのへ書き込んで今日持って来たんだろう。『第廿七吉、禄を望んで重山なるべし、花紅なり喜悦の顔、か。――病人は本服すべし、待人来るべし――』そんな事はどうでもいいとして、見事な
「それは何の事でしょう、親分」
「判らないよ」
「驚いたなア、親分が判らなかった日にゃ、天道様にだって判るわけはねエ」
「馬鹿なことを言え。――ところで、もう赤い御神籤を取りに来る刻限だろう。これを元の通り格子へ結んでおいてくれ」
「ヘエ」
「いやな顔をするな。――精いっぱい縁結びに
「驚いたなア」
ブウブウ言いながらも、八五郎は赤い御神籤を、元の格子に戻しました。
それからほんの煙草を二三服した頃、
「それ見るがいい。お前みたいな、縁結びに取憑かれている野郎が来たじゃないか」
平次が指した粂の平内様の格子の前に、威勢の良い男がフラリと立ちました。まだ若そうな着流し、
「捕まえましょうか、親分」
「馬鹿、御神籤泥棒じゃ引っ立てばえもあるまい。――黙って後をつけるんだ。落着く先を見極めさえすれば、わけもなく眼鼻がつくよ」
「それじゃ親分」
「抜かるな、八」
「なアに、二本差でなきゃ、たかが知れていますよ」
八五郎はヒラリと身をひるがえすと、怪しの男が平内様の堂を離れるのと一緒でした。二人は仲見世の人混みの中を縫って、雷門の方へ泳いで行くのを、平次は何か
その晩、平次の家へ戻って来たガラッ八の八五郎は、申分なくさんざんの
「あ、驚いた。親分の前だが、あっしはまだ、あんな野郎に出っくわしたことはありませんよ」
自分の
「何という恰好だい、裏へ廻って泥だけでも落すがいい――お静、俺の袷を出してやれ、一番
口小言をいいながらも、ともかくも男振りだけでも直して、長火鉢の前に
「驚いたの驚かないのって、こんな目に逢うと知ったら、親分も一緒に行って貰うんでしたよ」
ガラッ八の仕方話は始まりました。
赤い
「腹ごしらえはどうした」
平次は訊きました。
「呑まず食わずですよ。
「馬鹿だなア」
それが平次の
「
「それからどうした」
「二つ三つねじ合ったと思うと、――口惜しいがこの通り、手もなくやられましたよ。
ガラッ八は手放しのまま、ポロポロと涙をこぼすのです。
「馬鹿野郎ッ」
平次の声はりんとしました。
「…………」
「なんだって夜っぴて後を
「ヘエー」
「ヘエ、じゃないよ。
「ヘエ」
「それとも何か動きのとれない証拠でも押えて来たのか」
「お
「お生憎様てえ奴があるか、馬鹿だなア」
平次もとうとう噴き出してしまいました。
「もう一度行きますよ、親分。明日は姿を変えて平内様のお堂の前に頑張って、三日分ばかり
「勝手にするがいい」
ガラッ八は頭を抱えて飛出しました。その晩のうちに、大坂へ行くほどの仕度を整え、翌る日早々浅草へ乗込んだことは言うまでもありません。
その翌る日、ガラッ八は見事に使命を果しました。
「親分、大変ッ」
大変の
「さア来たぞ。今晩あたりはその大変が降りそうな空模様だと思ったよ」
平次はそれを期待していたのでしょう。
「昨日と
「その巣はどこだ」
「本所
「それから」
「一日頑張ったが、それっきり出て来ませんよ。あの風体だから、見落すはずはないんだが――」
「お前と同じことだ、姿を変えて出たんだろう」
「あっしもそれに気が付いて、いきなり飛込みましたよ。すると、大時代の婆アが一人、念仏を
「それからどうした」
「さんざん
「誰が驚くものか。――二千五百石の大旗本、駒形にお屋敷を持っていま長崎奉行をしていらっしゃる、久野
「どうしてそれを親分」
ガラッ八の驚きようは見事でした。
「お前が三十里も歩くあいだ、俺はジッとしているはずはないじゃないか。あのお菊という娘を脅かしたり、すかしたりこれだけのことを言わせるのに二日かかったよ」
「人が悪いなア、親分」
ガラッ八は少しばかり不服そうです。
「まア怒るな八、何でも判りさえすればよかったんだ。二人とも判ったんだから、
「それっきりですか、親分」
「まだいろいろのことが判ったよ。手っ取り早く言うと、主人の久野将監様がお役目で一年前から長崎へ出張、異人との掛合いに骨を折っているのに、駒形の留守宅では、叔父の深田
平次の話はつづきました。
根岸に籠った奥方は蔭ながら屋敷にのこした倅謙之進の上を案じ、女の智恵の及ぶ限りの工夫をこらしてそれを守護しました。腰元のお菊と、用人進藤市太郎の倅で、屋敷に踏止まった勝之助が、青と赤の印の付いた
主人将監は長崎のお役目が済んで、いよいよ三日の後には帰ることになりました。その三日さえ無事に過せば、奥方の無実を言い解く道もひらけ。若君謙之進の身も安泰になるでしょう。が、悪人のあせりようも一段猛烈をきわめて、その三日を無事に暮せるかどうか、はなはだ
「親分、そう聴いちゃ放っておけません、乗込んで行きましょう」
「馬鹿なことを言え、町方の岡っ引が、二千五百石のお旗本の屋敷へ乗込めるわけはない」
平次の悲しみはそこだったのです。いかに証拠が山ほど揃っても、武家屋敷の塀の中までは、町方の手は届きません。
「口惜しいじゃありませんか、親分」
「だが、たった一つ」
平次は深々と考え込みました。
明日はいよいよ主人
「それじゃ、どうしろというのだ。――拙者はいかにも進藤勝之助、
意気な
「進藤さん、そう打ち明けて下さると何よりありがたい――。あっしの申すことを聴いて下されば、あなたの親御――市太郎様を殺した相手も教えて上げましょう」
「父親を討ったのは、誰だ。まずそれから聴こうじゃないか」
「いえ、それは一番後で申上げます。それより、親御様市太郎様は、奥方様の御味方ですか、それともお部屋様方ですか、あなたは御存じでしょうね」
「…………」
勝之助の顔色はサッと変りました。
「私から申上げましょうか。――父上市太郎様もさいしょは奥方様の御味方だったに相違ありません。が、フトしたことから悪人どもに悪い尻を押えられ、後には次第次第にお部屋様方に味方するようになり、亡くなる頃は、動きの取れない悪人方になっておりました。――あなたがそれを、どんなに心苦しく思われたかもよく解っております」
「…………」
勝之助はジッと膝に眼を落しました。この一年間、悪人方に転落して行く、心の弱い父の姿を見ることが、どんなに凄まじい苦痛だったでしょう。
「ところが、亡くなった後に残る、父上市太郎様の汚名は何となさいます」
「父の汚名?」
「悪人どもは
「それは本当か」
勝之助の顔はもう一度変りました。
「父上市太郎様の
「どうしてそれが解った」
「お菊の言葉や、父上市太郎様の最期の様子、奥方のお言葉の端々からそれくらいのことは察しました。それに駒形のお屋敷には一昨夜から、三人の
平次の周到さは、たった二日一夜の間に、早くも事件の
「…………」
「あっしの申すことが本当か嘘か、今晩お屋敷の内のどこかに、三人の悪人が相談しているところを突き止め、その話の様子が少しでもわかれば、何もかも分明になります。その上で、御隠殿裏の奥方様の御隠れ家にお出で下されば、親御様の
平次は念を押しました。この青年武士を用いるよりほかに、悪人どもの
「よし、
勝之助は青白い顔を挙げます。屈辱と義憤に、ワナワナと頬が
「万一私の申すことが嘘でしたら、平次の首を差上げましょう――と申しても張合いのないような私でございます。こうしましょう。私の見込みが外れたら、今晩かぎり十手捕縄を返上し、この髷節を切ってお詫びいたしましょう」
「よし、
勝之助はフラフラと立ち上がりました。
この後のことは、長々と書くと際限もありませんが、ざっと筋だけを通すと、その晩進藤勝之助は、深田琴吾、山家斧三郎の二人の悪者を取って押えて、御隠殿裏の奥方の隠れ家に飛込んで来たのでした。
「平次殿、――一言もない。まさに察しの通り、悪人どもは亡き父一人に悪名を負わせ、明日は帰府の殿を
「とうとうやりなすったか、進藤様。――御心中御察し申します。しかしこれより外に、御家安泰の道はなかったでしょう。見事父上の過失を
平次は挙げかけた手を膝に置いて、奥方の方を振り返るのです。
「ところで、父の敵だ。約束通り、教えて貰おうか、平次殿」
勝之助の膝は、きっと平次の方を向きます。
「申しましょう。――父上市太郎様の敵は、何を隠そう、父上御自身」
「何? 何と言う」
「父上市太郎様は、身を恥じて自害をなすったのです。それを
「…………」
奥方浪乃はうな垂れたまま涙を拭き、女中のお菊は眼をあげて、大きくうなずきました。
「よく判りました。親の敵を討とうとしたのは、この勝之助の浅はかさでございました。それでは、私はこのまま退転いたします。奥方様には、今夜のうちに駒形のお屋敷にお帰り遊ばし、明日は晴れて殿様の御入府をお迎え遊ばすよう」
勝之助は畳に
「ありがとう、勝之助、何もかもお前のお蔭。――折があったら帰っておくれ。――殿様へは、私からよく申します」
奥方は蒼白い顔を挙げました。激情に
「では、奥方様」
「お待ち、これは、せめても私の志」
奥方は手文庫から、
後には貰い泣きのお菊と平次。――ガラッ八の八五郎も隣の部屋で大きく鼻を
*
明る日は奥方浪乃、屋敷に帰って良人久野
一件落着の後、ガラッ八の八五郎は、
「市太郎は本当に自害したんですか、親分」
割り切れない顔を平次にブチまけるのです。
「自害なものか、立派な
「ヘエー」
「奥方だよ」
「へッ」
ガラッ八はさすがに
「用人の進藤市太郎は、さいしょ悪人に
平次はこう説明するのでした。お菊と勝之助とのあいだは青と赤の御神籤を通して結ばれた。ほのかな親しみの始末については、いずれ勝之助が久野家に帰参の上、平次の橋渡しで何とかなることでしょう。