死の予告

野村胡堂




伯爵の悩み


千種ちぐさ君、しばらく此処ここへ掛けたまえ、平常ふだんあまり人が来ないから、掃除は行届かないが、その代りこの辺なら決して話を人に聞かれる心配は無い」
 わたしのためには旧藩主に当る元伯爵海原光栄うなばらみつえ氏は、尊大が通りものの顔を柔げて、広大な庭園の奥の、洒落しゃれ四阿あずまやの中に私を導き入れました。
 真中まんなかから綺麗に分けた毛は、いくらか胡麻塩になりかけましたが、血色の良い見上げるような若い頃美男で鳴らしたおもかげを充分留めて居ります。
 それにしても、その典麗な顔をネジ曲げるような、不安とも懊悩おうのうとも付かぬ、不思議な表情の往来するのはうしたことでしょう。
んなお話ですか、伯爵」
「こんな場所へ引張って来たら、さぞ不思議に思うだろうが、うでもしなければ、私はどうも安心して話が出来ない」
「…………」
「千種君、君は私と旧藩の関係はあるが、公人としては東京第一という敏腕な新聞記者だ。私の話を聞いたら、その中から、キット事件の核心を掴んで、この私の不安を一掃してくれるに相違ない――」
「お言葉中ですが伯爵、私は関東新報の社会部長をして居るだけで、決して敏腕な記者でも何んでもありません、十日ばかり前お屋敷の書生さんが変死されたということですが、そんな事件に絡んでの問題でしたら、警察の方へおっしゃって、然るべき専門家に探索して貰いなすった方がよろしいかと思いますが――」
「御忠告は有難う。しかし、私のこの不安や悩みは、警察当局は勿論のこと、素人探偵の耳にも入れくないほど重大な事なのじゃ、言わば私の恥だからな」
 伯爵の容易ならぬ顔色を見ると、私はそれ以上耳を塞いで逃げるわけにも行きません。
かく、承りましょう。その上で、私の力に及びませんようでしたら、何んとか外の方法を採って頂きます」
「それは言うまでも無い」
 二人は四阿あずまやの粗末な卓に対して、一段声を落しました。原生林をかたどった深い木立が、四阿あずまやの三方から迫って、一方はローンの緩いカーブに開けて居りますが、林も藪も非常に厚く、人間の忍び寄る隙間などはとてもありません。

書生の死


「十日ばかり前宅の書生の大川というのが、場所もあろうに、私の書斎――これは仕事をするのに気が散らないように、私の好みで特別に小さく作らせてあるが――その中で死んで居たのだ。然も朝の九時頃で、私はブラブラ食後の散歩をして居ると、家の中が急に騒がしくなったから、驚いてこの庭口から帰って見ると、書斎を掃除に来た女中が発見して、大変な騒ぎになって居た。君も知っての通り、私の小さい書斎は、この庭に面して一つ出入口が付いて居る。私が其処そこから散歩に出たのは、騒のあったほんの五分ほど前だから、私が庭へ出ると同時に、反対側の廊下の入口から、大川が入ったにしても、書斎の中には五分とも居なかった筈だ。それがどうだろう医師の診断によると、死因は炭酸瓦斯ガス中毒と、言うではないか。そんな事があるものだろうか――もっとも私は疳性かんしょうで、朝のコーヒーは自分で入れなければ承知しない。その日は春と言っても、少し薄寒かったので、コーヒーを入れた後の瓦斯ガスストーブを、そのままけっ放しにして居たことは事実だ。しかしそんな事で炭酸瓦斯ガス中毒を起すものなら、あの書斎に住んで居る私は、とうの昔に死んで居なければならぬわけだ。医師がそう診断して、誰も疑わないものを、私はそれ以上れこれ言う必要も無いようなものだ、がどうも私には腑に落ちないことがある。千種君、これは誰にもまだ言わずに居るが、実は一週間も前からあの事件は予告されて居たことなのだ」
「予告? 書生さんが死ぬという予告ですか」
「いや、書生の大川はあやまって死んだのではなくて、私と間違えられて殺されたものらしい」
「エッ」
「予告は私にだけわかるような一種の形式で、あの日私に危害を加えるという事が書いてあったのだ」
「何んかお間違いではありませんか」
「イヤ断じて」
「もう少し詳しくお話し下さい」
「予告の文句は非常に簡単だが、私に復讐するという意味には寸毫すんごうの疑もない。見給え、これが大川が死ぬ一週間前に私が受取った予告だ」
 伯爵の手から受取って、明るい午後の陽の光で読むと、く粗末なカードに、非常につたない字で、
二十三年目の三月三日、死を以てあがなえ、
 という十六字が二行に書き流され、別に伯爵の宛名を書いた安い西洋封筒があります。
 誰でも気の付くことですが、念のために消印を見ると、明瞭に東京中央とあって、封筒の文字も中のカードの文字も、郵便局備付の非常に粗末な墨汁を使って書いてあります。
「どうして書生さんが死んだ時、これを警官へお見せにならなかったのです」
「そう言われると誠に恥じ入るが、そのカードはどうも人に見せられない」
「それはどういうわけです」
「何も彼も言ってしまおう――こう言うわけだ――」
 暫らく躊躇した伯爵は、思い切った様子で又話しはじめました。
「その二十三年前の三月三日という文字には、重大な意味がある。外の人が見ては解らんが、私が見ると、それだけの文字が一つ一つ茨になって、私の心臓を刺し貫くような気がする――」
 恥を言わなければ解らんが、その日私は、一人の女を葬ったのだ。葬ったと言うと語弊があるが、仔細あって捨ててしまったのだ。今となっては後悔もして居るが、その時は青年の客気かくきで、女一人のむくろを横たえる位の事は何んとも思っては居なかった――
 簡単に言うと、海原伯爵家の次男に生れた私が、ある許されない女と、神戸へ逃げて世帯しょたいを持って居たことがある。一時は愛しも愛されもした女だが、境遇が悪かったかそれとも遺伝のためか、神戸へ行ってから重症のヒステリーにかかって、どうにも手の付けようが無い。つくづく困り抜いて居るところへ、折も折、東京の海原家から、跡取りの兄が死んだから、早速さっそく私に帰って来て相続をしろと言う使いだ。貧苦には疲れ切って居る私だから、ぐにも飛んで帰り度いが、その時同棲して居た女が一緒では、親類や母親の手前、東京の本家へ帰るわけに行かない。仕方が無いからまるで気違いのようになって居る女を捨てて、私は永久に神戸の仮住居かりずまいから姿をくらましてしまった。それが、丁度ちょうど二十三年前の三月三日であった。私は知っての通り用心深い性質で、女に自分の本当の素性を明さなかった。そのために、そうでなくてさえ気の変になって居る女は、私を追駆けて来ることさえ出来なかったらしい。その後女はどうなったか知らないが、兎に角、女のことではあったが私も自責の念が年と共に強くなって行くから、二十三年前の三月三日という日を、忘れようとしても私は忘れることが出来なかったのだ」
「その婦人が伯爵の素性を突き止めて、二十三年後に至って復讐を計画したとおっしゃるのですか」
「そうでも考えなければ、外に考えようが無いではないか」
「そんな小説のような事が、この世の中に実際あり得ることでしょうか」
「サア、それを君に鑑定してもらい度いのだ。兎も角、そんな事情であって見れば、そのカードを警官に提出して、こんなわけと打開けては言い難い」
 伯爵の恐れるところも体面を極端に重んずる大名華族としては、無理のないことかもわかりません。
「で、書生さんの死体には、他に何んか異状は無かったでしょうか」
「無い、何んにも無い。炭酸瓦斯ガス中毒を起した人の特徴だそうで、死体の血色が非常に美しくなって居ただけのことだ、死体があんなに美しい血色をして居るのが不思議なので、その点だけを私もよく記憶して居る」
「兇器とか、特別の器具とかはありませんでしたか」
「何んにも無い」
「外から人の入った形跡は?」
「それもあり得ない事だ。庭の出入口の前には私が居たし、廊下の方には、あのお転婆てんばの姪の瑛子と、家政婦のかがみという女が話をして居たそうだし、窓はあの通り高いから、まさかあれへ飛付いて入るわけには行かない」
「すると、もし殺されたものとすれば、へやの中で、絶対に見えない、空気のような人間か、又は特殊の仕掛かによって殺されたということになりますネ」
「まあそうだ」
「部屋へ入る前に、異状は無かったでしょうか」
「それも無いらしい。廊下に居る姪と家政婦に、冗談を言いながら入ったんだそうだから、身体からだに異状などがあった筈は無い」
「外に、何んにも変ったことが無かったでしょうか」
「たった一つある」
「…………」
「死体の左手ゆんでに手紙を一通持って居たように思うが、それが、騒ぎの最中に無くなってしまって、どうしてもわからない」
「手紙? 伯爵へ来た手紙でしょうか、それとも自分の手紙だったでしょうか」
「茶色いハトロンの安封筒だったと思うから、私へ来た手紙ではあるまい。――ことによると、姪がよく知って居るだろう、あ、丁度いいところへ来た」
 この時、四阿あずまやの前のローンへ、書生とラケットを持って飛出したのは海原伯爵の姪で、瑛子という美しい女性でした。もう二十歳はたち位でしょうが、美しい上、陽気で明けっ放しで、実に鮮かなお転婆振りを発揮します。
「何? 私?」
 伯父伯爵がさしまねくと、美しいローンを、小兎のように飛んで来て、二人の前へ立ち止ります。
「あら、千種さん、何時いつの間にらしったの? 今日はんな事があったって帰しやしませんよ、此間のかたきを討ってキュウキュウ言わして上げるから」
 美しい素顔を上気のぼせさせて、ハアハア息をはずませ乍ら物を言う様子は、眼の前へパッと咲いた桜のような感じのする娘です。
「何んという行儀だ。第一に挨拶をしないか、いきなり敵を討つなんて、いやな言葉じゃないか」
 伯爵は妙なところへ神経を尖らせます。
「テニスの事よ」
「何んだつまらない」
「伯父様、どんな御用?」
 可愛らしく首をかしげて、ラケットに頬ずりしそうなポーズになります。空色の薄いセーターに、運動靴、短かく刈り込んだ柔かい毛が春の光を天鵞絨ビロードのように吸い込んで居るのも美しい限りです。
「瑛子さんは、死んだ大川が手に持って居た手紙の事を詳しく知って居たようだネ」
「まア、そんな話をして入らっしゃるの。千種さんは此家ここへ入らっしゃると、新聞気を出さないお約束になってらっしゃるのよ」
「新聞記者ではなくて、今日は探偵なんです。その手紙というのを詳しく説明して頂けませんか」
「エ、じゃお話しましょう」
 急に真面目まじめな表情になって、瑛子は言葉を継ぎます。
「ハトロンの封筒で、字はたしかに大川が自分で書いたのよ。神田かんだ――まち――とだけは見たんですが、あとは覚えちゃ居ません。新しい切手が貼ってあったようですから、大川が書いてまだ出さずに居る手紙だったでしょう」
「それが、何時いつ、どうして失くなったんです」
「まあ、変な探偵さんね、そんな事がわかれば、失くしなんかしないワ。私がお医者へ電話をかけて、もう一度書斎へ飛んで帰ると、その時はもう大勢の人が入って居て、大変な騒をやって居たようでしたが、たしか、その時はもう手紙は無くなって居たようよ」
「それだけか」
「エエ」
「じゃ、もう宜しい、彼方あっちへ行っても」
「まアー」
 伯爵がローンの方をあごで示すと、瑛子は少し機嫌を損じたらしく、ムッとした顔でクルリと背を見せます。
「探偵さん探偵さん、お話が済んだら入らっしゃい、テニスで油を取って上げるから」
「あれだ、この節の女は本当に仕様が無い」
 伯爵は、いとも苦々し気にその後ろを見送って居ります。

第二の予告


「それだけですか伯爵」
「イヤ、これだけなら、別に私も驚かない。世の中には随分暗合というものがあるから、どんな間違いでこんな事が起こらないものでも無いとあきらめて仕舞ったかも知れない。ところが、例の予告の手紙が、又今日も私の手元へ配達された」
「エッ」
「これを読んでくれたまえ」
 伯爵の差出したのは、前のと同じような西洋封筒、同じような粗末なカードに、同じような郵便局の墨汁で、
十日生き延びた、三月十三日には容赦をせぬぞ。
(二十三年前の女より)
 少し言葉も多くなって居りますが、伯爵の身代りに大川を殺したのは、この無名の復讐者に取っても、甚だ不本意だったことは明かです。
「三月十三日と言うと」
「明日だ」
「これは捨て置けません、警察へそう言って、直ぐにも手配をしなければ」
「いやいやこんな昔の恥をさらす位なら、私は死んだ方がいい。そうでなくてさえ此節は、我々仲間に何んとか非難される人が多くなって、世間を騒がして居るではないか――それに、臭い者身知らずで、私なども随分声を大にして、矯風運動などをやったが、今となっては、それもきまりが悪い」
 二十三年前の放埒な生活に思いを馳せたのでしょう。伯爵は思わず端麗な顔を伏せて、眼をつぶりました。
「それではうして、此不思議な襲撃者を防がれるのですか」
「そのために、君をお願して、名記者千種十次郎君の手腕に信頼して、私は一切をお任せしようと思う」
「…………」
 私は思わず爪を噛みました。
「どうだろう、私の願いを聴き入れてはくれまいか」
「私で出来るだけの事はいたしましょう。が、助手を一人呼んで頂き度いと思います。早坂勇と言って、私の部下の外交記者ですが、非常に忠実な男で、頭や筆より足で種を取るから、『足の勇』という愉快な綽名あだなを付けられて居ります。この男なら決して伯爵の秘密を漏らすような事はありません」
「どうか、その辺の事はよろしくやってもらい度い」
「では直ぐ使をやりましょう」

左の手の疑問


「何んの用事だい」
 使を出してから三時間目に、「足の勇」は伯爵家の応接間に入って参りました。
 少し柄が大きい癖に、ダブダブの洋服を着て、お小遣はあまり持って居たためしは無いが、その代り快活な微笑を欠かしたことの無いという男です。
「大層遅かったじゃないか、何処どこに居たんだ」
「上野さ。ポン引きの心理研究をやって居たんだ。面白いぜ、あれは君一種の芸術だね」
「何をつまらない、それより伯爵へ挨拶をしないか」
「あ、そうか、私は早坂勇です」
「私は海原、千種君には昔から御懇意に願って居ります。どうぞ宜しく。今回は又飛んだ面倒な事をお願いするかも知れんが――」
至極しごく結構です。なるべく面倒な事件ほど面白いんで――」
「何をつまらない事を言うんだ」
「つまらない事って奴は無いよ、サア、聞こう、どんな話だ」
「足の勇」へどんな事を話したか、此処ここへ繰り返す必要はありません。伯爵からも事件の経過を隠すところなく話して、
「さて、うしたものでしょう早坂さん、三月十三日というと、あと五六時間しか無いが」
 伯爵の言葉を押えるように、
「ナニ、御心配はありませんよ。頭の悪い犯罪者ほど、かえってそんな事をするものです。そんな事でもしなければ、相手を嚇かすことが出来ないからです」
「早坂、大層君は賢こそうになったじゃないか」
「賢こいのは俺の地だよ。平常ふだんはこれに馬鹿でいぶしをかけて居るだけの事さ――それはそうと、その二十三年前に捨てられた婦人というのは、今生きて居たら幾つ位になるでしょう」
「四十五六にもなるでしょうか」
「その婦人は、雇人か何んかに化けて、此屋敷の中へ紛れ込んで居るような事はありませんか」
「それはあり得ません」
「その婦人の身寄とか親類とか言う者は?」
「それもありません。近頃は身許の確かなものでないと決して採らないことにしてありますから」
「兎も角、書斎を一応拝見さして頂き度い」
「どうぞ」
 伯爵に案内されて書斎へ行って見ましたが、成程なるほど小さい部屋で、これが伯爵の書斎かと驚くほどですが、神経質な人には稀に小さい書斎を好む人がありますから、伯爵自身の好みと言えばこれもむを得ませんが、調度はなかなか贅沢ぜいたくで、その辺に置かれた小物には、こんな家でなければ見られない高価なものが沢山たくさんあります。
「こんな品は一つも紛失しませんでしょうな」
「無くなったものはありません」
「現金は」
「現金はこの書斎へは置かないのです」
 急所急所を斯う問い乍ら、「足の勇」の眼と手は、せわしく活動します。
「書生さんは、手紙を左の手に持って死んで居たと言いましたね」
「そうです。たしかに左でした」
「左利きでは無かったのですか」
「いや、そんな事はありません。左利きの書生は、先刻テニスをやって居た小村という方で、死んだ大川は、平常ふだん小村の左利きをひやかして居ました」
可怪おかしいぞ」
「足の勇」は、眼を半眼に何処どこともなく、っと見詰め乍ら、斯うつぶやきます。
「何が可怪おかしいんだ、勇」
「そうじゃないか。君は新聞作りはうまいが、探偵の真似事はまるっきり駄目だね。いいか、左利きでなくて、左に封筒を持つのは、どんな時だ。君のいい頭で考えて見てくれ」
「封筒を書く時か――封を切る時か――」
「もう一つある」
「切手を貼る時か――」
「そうだそうだ、サア面白くなって来たぞ」
「足の勇」の活動は目覚ましいものでした。
「失礼ですが伯爵、郵便切手は何処どこに入れてあります」
テーブルの左の引出しに、小さい切手入れがあるでしょう。エ、塗物の中を開けて見て下さい。切手が二三十枚入って居る筈です。大川が死んでから此書斎は使いませんが、その前に入れた切手はそのままある筈です」
「ありません、伯爵、切手入れの中は空っぽです、思い違いではありませんか」
「そんな事は無い、私は毎日手紙を出すが、切手は必ず二三十枚は用意してある。現に大川が死んだ日の朝も、切手箱には切手が沢山入って居たのを記憶して居る――」
「そこで、伯爵は切手をめて貼るような事はなさらないでしょうな」
「そんな事はしません」
「サア、愈々いよいよ以て面白くなって来たぞ。――伯爵、この匂いをかいで見て頂き度い。あとで、千種さんもかいで置くといいな――あんずの匂いがしませんか、巴丹杏はたんきょうや、杏仁水きょうじんすいなどと同じような酸味のある匂いです」
 切手入れの古雅な塗物の中に、「足の勇」が言う通り、ほのかに、杏の香いが籠って居るような気がいたします。
「青酸だ!」
「そうだ、千種さんは気が付いたか。伯爵を狙う者は、誰だかわからないが、兎に角、伯爵の書斎に忍び込んで、切手入れの中の切手全部の裏へ、青酸を塗って置いたのだ。ところが、伯爵は切手の裏を舐めるような下品なことはされないから、何時いつまで経っても御無事だ――がその日の朝、たまたま用事があって此書斎へ入って来た書生が、テーブル抽斗ひきだしが開いて居て、中の切手箱が見えるから、下司げすの浅ましさで、ツイ一枚切手をくすねる気になった――昨夜ゆうべうちに書いて、封をして出すばかりになって居る手紙を、懐から取り出して、左の手に持った――右手で抽斗ひきだしの中の切手箱から、切手を一枚取出し、その裏を舐めて手紙へ貼った――切手の裏には猛毒薬青酸が塗ってあるから、アッと言う間もなく死んでしまったのでしょう。世の中に血の通って居る人間に取って、青酸ほど恐ろしい毒薬は無い。ある法医学博士は、青酸を舐めるのは、たぎり返って居るボイラーへ水をぶっかけるようなものだ。生命いのちは瞬間に絶えると言った」
 何んと言う、「足の勇」の頭のよさでしょう。私も伯爵も、あっけに取られて、その現場を見て居たような、素晴らしい仮説に傾聴してしまいました。
「ところで、人間が青酸を口の中に入れると、人間の五体を流れて居るヘモクロビン[#「ヘモクロビン」はママ](血色素)がその酸素又は二酸化炭素を失って、青酸と結合し、たちまちチアン・モクロビンとなる。しかもこの変化は、実に瞬時に電光的に行われる、青酸中毒者は血色が鮮麗になるのはその為めだ。が、炭酸瓦斯ガス中毒者の血液も酸素又は二酸化炭素を失って、一酸化炭素とヘモクロビンと[#「ヘモクロビンと」はママ]結合するから、血色が鮮麗だ。青酸中毒を炭酸瓦斯ガス中毒と間違えたのは無理もない事だが、もう少し早く気が付いて、死体の化学的検査をすると何も彼も解った筈だ、死体は火葬にしてしまったでしょうな」
 伯爵が無言に頷くのを見て、「足の勇」は長大息しました。
「どうも仕方が無い――伯爵の代りに書生が死んだ。書生の手にある手紙の切手には、まだ青酸が残って居る。犯人はドサクサに紛れて死体から手紙をむしり取り、何処どこかへ要領よく隠してしまったのだろう。伯爵が切手を舐める習慣が無いとすれば、切手箱に青酸の付いた切手などの入れて置く必要は無い、直ぐ抽斗ひきだしの中から全部の切手を抜いてしまって、人目につかぬ方法で焼くか捨てるかしてしまったのだろう。これも当然の事だ」
「すると、此家の中に、私の命を狙う者が居ると言うことになるわけですな」
「お気の毒ですが、そうより外に考えられません」
 三人は狭い書斎のあかりの下に顔を見合せました。
「この上は御家族の方は勿論、奉公人もすべて、この家に住んで居る者全部にお引合せを願い度い」
 勇は伯爵に、こんな事を申出もうしいでます。

首実検


「早坂様とおっしゃいましたな、私は伯爵家の取締りを致して居ります、長谷部雄三郎と申します」
 丁髷ちょんまげと帯刀を取払ったばかりの古風な老人は、いとも丁寧に一礼して、家族、奉公人を一人一人書斎に呼び入れます。夫子ふうし自身は青酸などと関係のありそうな存在ではありませんから、これは全く問題外です。
「エー、此方は殿様のお姪御様で瑛子様とおっしゃいます。お年は――」
「厭な長谷部、年なんか言うものじゃなくてよ」
 ツンとした瑛子は、赤い燃え立つような絹のブラウスを着て存分ぞんぶんに明けっ放しな顔に、老人の時代錯誤をあわれむような笑が浮びます。
「千種さん、何て馬鹿な事をなさるの。随分滑稽ね。この方は一体どなた、人をジロジロ見て何と言う失礼な方でしょう。アラそう、貴方あなたのお友達? 少し半間だけれど、どっか坊ちゃん坊ちゃんして可愛らしい所もあるわね、何んておっしゃるの、足尾勇さん、エ? 足の勇ですって、ハッハッハッハハハ。足が達者だから、そう、短距離なの、中距離なの、レコードは? なに、ランニングの選手じゃないの、新聞の種取り? まア――」
 言うだけ言って瑛子はサッサと出て行きます。
「この方は鏡照子さん、当家の家政婦で御座います。お生れは北海道、お年は――あッ、それを申しては失礼だとか言いましたな」
 わずかに顔を挙げたのは、まだ若い割にくすんだ洋装をした婦人――いや娘と言った方がいいかも知れません――兎に角、無口な、上品な、夕顔のように淋しいところのある女性です。
 これも、「足の勇」の不遠慮な視線に射すくめられて、脅えた小鳥のように逃帰ってしまいました。
「あれは可愛相な娘です。両親を失って路頭に迷って居るのを、紹介する人があって引取りましたが、あの通り真面目まじめで忠実ですから、唯今では家政全部を任されて、取りさばいて居ります」
 長谷部老人は自分じしんの娘のような自慢口調で、こんな事を申します。
「次は」
「園丁の定公さだこう夫婦、お庭の中に一軒建てて住んで居ります」
 四十前後の植木屋夫婦、別に取立てて言うほどのことはありません。
 続いて、書生二人、女中五人、運転手、助手、その中には変った人間も居りますが、これとても言うほどのことはありません。
 最後に出て来たのは、二十二三歳と見える、繊弱かよわそうな青年、コバルト色の背広にラッパズボンを穿いた、年寄が見ると胸を悪くしそうな風体です。
「若様、敬太郎様で御座います」
 それでも家扶かふの長谷部は、特別丁寧なお辞儀を一つして引っこみます。
「やア、失敬。君は何んかい。探偵君かい。なに新聞記者? ホウ、そうか、何んか面白いことはありますか、近頃の新聞はどうも面白くないネ――」
 弁じ立てそうにするのを、
「もういい、帰れ」
 父伯爵が追い返してしまいます。

第二の犠牲


 あくる日。
 伯爵の不安と懊悩を見兼ねて、私も「足の勇」も到頭伯爵家に泊り込んでしまいました。幸い社の方にも忙しい仕事はなく、間がよく行けば、この種が大物になるかも知れなかったので、編輯長の諒解を得て、暫らくは此事件に没頭することになったのです。
 三月十三日は、斯うして賑やかに暮れてしまいました。伯爵令嗣の敬太郎というのは、実は養子で、実子の無い伯爵は、これを姪の瑛子と一緒にする積りで居るようですが、どう言うものか、この二人は全く性が合いません。
 併し遊び友達には、どちらも誠に結構な人物でした。屋外遊戯の部に属するものは、瑛子は何んでも心得、屋内遊戯に属するものは、敬太郎が何んでも相手になってくれます。
 夕刻まで、ず何事も起りません。伯爵は徹頭徹尾私達と一緒で、一日の大半は階下の大客間で暮らしてしまいました。
「お風呂をお召し遊ばせ」
 と女中が来たのは四時頃、一応私と「足の勇」に勧めましたが、たって辞退すると、
「それでは御免蒙ろう」
 伯爵は鷹揚に起って風呂場の方へ行ってしまいました。
 後に残ったのは、私と「足の勇」と瑛子だけ、暫らく話に夢中になって居ると、急に、実に急に、風呂場の方から唯ならぬ絶叫が聞えます。
 ハッと驚いて飛んで行くと、お勝手の真後ろにある風呂場はもう人間一パイ。
「早く電話を、先生へだ、博士へ」
「もういけない」
「兎も角お身体からだを外へ」
 大変な騒をやって居ります。
 私と「足の勇」は、ハット顔を見合せました。一日見張って居た甲斐もなく、ほんの少しばかりの油断で、伯爵がやられたのでは無いかと思ったのですが、人をかき分けて中の様子を見ると、風呂の中で卒倒したのは、伯爵ではなくて、あの身体からだの弱いのを自慢のようにして居る、養子の敬太郎だったのです。
「どうした、何? 敬太郎が――」
 二階の大きい書斎の方から降りて来た伯爵は、此場の様子にサッと顔色を変えました。
「あツ、とうとう」
 何んと言う悲痛な言葉でしょう。いきなり駈け寄って、敬太郎の濡れた身体からだを隠すように抱き上げました。
 間もなく医者が来ました。診断の結果、病名は心臓麻痺、何んの変哲もなく、そんな簡単な文字で、青年一人の命を片付けられてしまいましたが、伯爵と「足の勇」と、私の胸はそれでは納まりません。

天才的殺人


一寸ちょっと、起きてくれないか」
「何んだ」
「足の勇」が重大そうな顔をして私の枕元に立って居ります。
昨夜ゆうべ一晩考えて、大変な事を発見したんだ。まだ誰も起きないうちに実験し度い、一寸ちょっと立ち合ってくれ」
「よし」
 私がガバと飛起きました。昨日の手際てぎわで、この男の異常な頭の働きはよく見て居りますから、唯ならぬ顔色を見ると、一瞬もジーッとしては居られなかったのです。
「風呂場へ行くんだ」
「足の勇」はグングン私を引張って、昨夜ゆうべの悲劇の跡に案内します。
「なア、千種君、感電して死んだ人間の身体からだうなるか君は知って居るだろうな」
「電紋とか樹枝状紋とか言うのが現われるそうだな。俺は見たわけでは無いが、物の本で読んだ事があるよ」
 早朝から人を叩き起して不思議な事を聞く男ですが、その真剣な顔を見ると、怒ることもならず真面目まじめに挨拶させられます。
「その通りだ。血液や神経の経過に従って、高圧の電気が身体からだに流れるから、身体からだに樹の枝をさかさまにしたような斑紋が現われる。感電死ほど解りいいものは無いよ。ところが――低圧の電気で死んだらどうなると思う」
「解らないな」
「俺もそれが解らないので、唯夜ゆうべ一晩考えたんだ、今朝けさ明るくなってからようやく解った。いいか――人間の死ぬような電力は体質によって多少の違はあるが、先ず、どうしても五百ボルト以上の電圧だ。普通百ボルトの灯火用の電気や、電熱用の電気では、人間は死ねない。馬は五十ボルト位の電気でも死ぬそうだが、これは別だ。ところで、灯火用や電熱用の低圧電気で人間が死ぬ場合は無いものだろうか――いろいろ考えたが、一つだけは確かにあることが解った。それはオイ、驚くな、風呂へ入って居る人間へ電気をかけるのだよ。畳の上に居ると、大地へ跣足はだしで立って居ると、下駄を穿いてると、鋲を打った靴を穿いているとで、人間の身体からだに電気の感じ方の違うのは誰でも知ってるだろう。それは簡単に言えば電気の流れようが違うからだ。水の中に全身をひたして居ると、接触が完全で、電気の流れようが充分だから、こんな上等の良導体は無い。その場合人間の血管や神経はヒューズになり、心臓は電灯になるのだ。見給え、これだ」
「足の勇」のゆびさしたのを見ると、昨夜敬太郎が死んだ風呂の上には、ニッケル鍍金めっきをした水道の蛇口があって、その蛇口の後ろの壁には、ほんの火箸が通るほどの穴が明いて居るのです。
「何んだ、これは」
「この裏は直ぐお勝手だ。電熱器から火箸で、蛇口へ電気を伝えさえすればいい。湯を少し熱くして置けば、頼まなくとも、風呂へ入って居る人は蛇口へ手をかけるよ。百ボルトの電気でも、全身湯につかって居る人の手から伝われば、心臓の弱い人なら決して殺せないことは無い。伯爵はあの通り肥って、心臓の弱いのを気にして居るし、身代りになった坊ちゃんは、それにもまして、ビードロのような脆弱ぜいじゃくな心臓を持った青年だ。湯へ入って居るところへかけられたら、一たまりもあるもんじゃない。全く心臓が丈夫なら百ボルトの電気では死ねなかったろうよ」
「アッ、本当か、そんな事が出来るのか」
「出来るか出来ないか、兎に角昨日は三月三十日だ。そして、風呂へはあの時伯爵が入る筈だったんだ。女中に呼ばれて来て見ると、坊ちゃんの方がお先へ失敬して入って居るから、伯爵はそのまま二階の書斎へ行き、可哀相に養子は、その身代りにビリビリとやられてしまったのだよ。実に恐ろしい事を考える人間があったものだ」
 私はほとんど口をきく事も出来ませんでした、「足の勇」の推論には、少しの隙もありません。蛇口の後ろの壁の穴、その裏はお勝手の電熱器、長い火箸。
「大変だ、直ぐにも警察へ」
「駄目だよ。博士は心臓麻痺だって診断したし、伯爵はあの予告をどうしても発表しないだろうし、騒いだって何んにもならないよ、低圧電気で死んだ死体は、解剖したってわかるわけは無い、もう少し見て居よう、今度はどんな事があったって逃さないぞ」
 不意にきぬずれの音。
 飛付くように障子を開けると、女中達が二三人、生欠伸あくびを噛みしめ乍ら起きて来たところでした。

最後の予告


 その日の午後。
 私と「足の勇」に宛てて、不思議な手紙が舞い込みました。例のカードへ拙劣極まる字で、
命が惜しくば手を引け。
 これだけ書いてあるのです。消印はツイ近所の郵便局、明らかに脅迫ですが、何を考えたか「足の勇」は、その不思議な敵の命令にしたがって、素直に此屋敷を引揚げようと言うのです。
 一番驚いたのは伯爵でしたが、この上たって引止めるわけにも行かず、又引止めたところで、「足の勇」は聴入れそうもありません。万一何か重大な変化のあった時は、直ぐ駈け付けるという約束で、一先ず二人は伯爵邸を出ることになったのです。
「警官をお頼みになっては」
 別れる時、私はくれぐれも伯爵に忠告しましたが、この尊大な貴族はどうしても聴入れようとしません。
「そればかりは君の忠告に従われない。どうか又、お願いしたら直ぐ来てくれ給え」
 伯爵の顔にも隠し切れない悲痛な色が動きます。
 伯爵にもまして心細がったのは、姪の瑛子と、家政婦の照子でした。併しこの美しい二人の懇請も「足の勇」の決心を動かすには足りません。
 それから七八日、不安のうちにも無事に過ぎました。時々伯爵家を訪ねてその後の様子を聞きましたが、敬太郎が死んで後は不思議な曲者くせものも攻撃の手を緩めたか、暫らくは何んの音沙汰もありません。
 九日目の晩、伯爵家から、あわただしく電話がかかって来ました。用件は言わずに、兎も角、二人で大急ぎでやって来てくれと言うのです。
 心待ちに待って居たらしい、「足の勇」を促して、円タクで伯爵邸に乗り付けたのは、やがて真夜中近い時分でした。玄関まで迎えに出た伯爵は、直ぐ二人を二階の大きな居間へ案内して、座も定まらぬ内から、
「とうとう来ましたよ、三回目の予告が」
 さすがに顔色を変えて居ります。
「エッ、本当ですか」
「これを見て下さい」
 伯爵の手から渡されたのは、例のカードに例の悪筆で、
三月二十三日が最後だ。今度は逃さぬぞ。
 と引吊ひきつったような不気味な文字が、精一杯の威嚇と呪いにノタ打って居ります。
「もう犠牲者を二人出した。今度はいよいよ私かも知れない」
 さすが一時政界の怪物扱をされた伯爵も、こんな心弱い事を言っておびえ切った瞳を四辺あたりの闇に投げます。
「いよいよ警察の力を借りる時ではありませんか」
「いや、それは困る」
 伯爵の決心はまだ動かすべくもありません。
「それでは、二人で兎も角明日一日警戒して見ましょう」
「どうか、そう言うことに願い度い、外に方法は無い」
「伯爵――私に少しばかり、考がありますが、容れて下さるでしょうか」
「足の勇」は思い定めた様子で申します。
「どうぞ、何んなりと、決して私は貴方あなたの意見にそむかない積りだ」
「それでは、明日一日、私に一切の命令権をお譲り下すって、一挙手、一投足も、ことごとく私の言葉に従って頂けるでしょうか」
「それ位の事は何んでもない」
「御家族や雇人の方にも、明日一日だけ絶対に私の命令に従うということを誓わせて頂き度いのです」
「お易いことじゃ」
 不思議な約束は、斯うして成り立ちました。

殺人鬼の正体


「足の勇」の専横は、三月二十三日の夜が明けると同時に始まりました。実に横暴極まる主人で、雇人は申すまでもなく、瑛子も、照子も朝の食事の時は、もうすっかりこの新主人「足の勇」の気違い染みた専断に腹を立ててしまいました。
「相手は非常に危険な人物だ、容易の事では勝てない」
 というのが「足の勇」の意見で、伯爵以下家族奉公人全部を、階下の大サロンに集め、四方の門は勿論、玄関も、勝手口も、あらゆる窓と云う窓を悉く閉め切ってしまいました。
 サロンに集まった人間は全部で十五名、これがこの家に住む全員です。食事一切はパンと缶詰物で間に合せ、女中をお勝手へも立たせません。十五名全部に対して厳重に身体検査をして、兇器薬品類を持って居ない事を確めたことは申すまでもなく、尾籠びろうな話ですが、一人では便所へ立つことも許さないと言う厳重な警戒振りです。
「何だってこんな事をなさるの坊ちゃん」
 勝気者の瑛子は一番先に「足の勇」に喰ってかかりました。
「見えざる敵に備えるためです」
「そんな者は何処どこに居るの」
「書生の大川と、敬太郎さんがその敵にやられました。お嬢さん今日一日だけ我慢なすって下さい」
「いやですよ、こんな牢のようなところへ入れて、私は一日外へ出ないと病気になるんです」
 この娘では、なるほどもあろうと、私はほほ笑ましい心持になりました。
「千種さん笑いましたネ、覚えてらっしゃい。貴方あなたもこの仲間でしょう」
「サア」
「照子さん、私共二人だけ出して貰おうじゃありませんか」
 今度は家政婦の鏡照子を誘いかかります。
 それでも、うやらこうやら日が暮れて、不思議な晩餐の卓が持ち出されました。食物と言っては、パンと、ソーセージと、缶詰物と、菓子と、それから飾り皿の果物だけ。
 雇人達はそれでも神妙にして居りますが、瑛子の癇癪かんしゃくはもう爆発しそうになって居ります。
 此時――
「こんな事をして、何んかの足しになるでしょうか」
 不意に不思議な晩餐の席から、嘲るような声が起こりました。若い女の美しいアクセントですが、瑛子ではありません。
「見えざる敵とやらが、こんな事で恐れ入って引込んで居るでしょうか」
 何んと言う妙な言い廻しでしょう。ゾッとした心持で声のした方を見ると、果物の皿を持って、食卓の人達に食後の果物を分けてやろうとして居る、家政婦の鏡照子の口から物凄い言葉が出て居るのです。
 髪を一束につかねた、黒っぽい洋装の娘が、沈鬱な眼をあげると、鼻筋の通った、口元の締った美しい顔が、異常な魅力を発散して、一座の人を惑乱しそうです。
「何? 何を言う」
 伯爵は愕然として起ち上りました。化物の正体を今初めて見た人の驚きは、その顔を藍のように真青にさせます。
「お前か」
 伯爵は家政婦の顔を指さして、僅にこれだけ言いました。真直ぐに突き出した指はワナワナふるえて、続く言葉は喉の内にかすれてしまいます。
「何んだ何んだ、何をするんだ」
 書生、運転手、園丁など、屈強な男達は、主人の大事と見て立ち上りました。いざと言わば、この繊弱かよわい女の上へ、猟犬のように飛びかかろうとしましたが――
「騒ぐと為にならないよ、みんな静かにおし。私の手には、世界で一番強力な爆弾がある、これを投げると、一ぺんにお前達は粉々になって飛んで仕舞うよ。黙って私の言うことをお聞き」
 驚いたというわけでも無かったでしょうが、競い立った男達も思わず顔見合せて息を呑みました。
「伯爵、サア、私の顔をよく御覧。二十三年前に捨てた女子おんなに似て居るところは無いか。母親はお前に捨てられてから、犬のように十年も生きて居たよ。それから、誰の子ともわからぬ私を生んで、時々正気に還っては、かたきを討ってくれ、相手は伯爵の次男だ。名前は知らないが、お前が生れる前の年東京へ帰って家督を相続した男だ。その男を見付け出して八つ裂きにしてくれ、女の怨みはどんなものか、思い知らせてやるんだ――母はそう言い乍ら野良犬のように死んでしまったよ。私は情け深い人に拾われて、相当に学問をさせられた上、ある科学者の研究室に長い事助手をして居たが、母の敵と言うのは、海原伯爵と判って、二年前に素性を隠して此処ここへ乗り込んで来たよ」
 一座はもう口をきく人もありません、家政婦の気狂きちがい染みた声が、物凄くもサロンの隅々に響き渡ります。
「私の先生の科学者は、いろいろなことを私に教えてくれた。それを一つ一つお前の命へ試みるのだ。青酸と、電気と、二度までは身代りを殺して助かったろうが、今日はどんな事があっても逃がさないぞ。サア、伯爵、覚悟はいいだろうな。私の脈管には、世を呪い人を呪う親譲りの悪血が渦を巻いて居る。容赦や手加減というものは、私のようなもののする事ではない。伯爵と一緒に死に度い奴は皆な一緒に集まるんだ」
 青白い幽鬱ゆううつな顔も、少し上気のぼせて、半殺にされた毒虫のように、ワナワナふるえる唇、美しい頬の肉は醜く引吊って、眼は魔神の像のギヤーマンの眼玉のように、ギラギラと虚ろな光を投げます。美女が悪鬼に変った相恰そうごうの無気味さは、正面まともに顔も向けられません。
 サロンの中に居る、十五人の驚きは言葉にも尽きません。この一番無難らしく見えた、淋しい美しい婦人は、世にも恐ろしい殺人鬼の仮面に過ぎなかったのです。

足の勇は誰


「ワッ」
 と言う恐ろしい動揺どよみと共に、右往左往する人の流れが、唯サロン中に渦を巻いて、空しい努力を続けて居ります。
「逃げられまい。あの馬鹿な坊ちゃんが、四方のドアへ鍵をかけた筈だ。サア、此辺で切り札を投げよう、いいか」
 と罵りたける女の前へ、ぼんやり突っ立って居るのは「足の勇」です。此騒ぎの中、此男ばかりはいささかも驚いた色がなく、物凄い照子の顔を眺めて、ニヤリニヤリとして居るのはどうした事でしょう。
「オイオイ女、その切り札と言うのを投げて見ろよ。丁度食後に一つ欲しいところだ、皮をいて食って見せるよ」
「何?」
「遠慮することは無いよ、ほうって見ろよ」
ほうらなくてさ。之が一つお前達二十人位は楽に殺せる筈だ」
 飾皿の中の林檎りんごへ手をかけて照子はハッと驚きました。
「アッ」
「あるまい、なア女、お前の最後の切り札というのは、博物の標本に作った張子の林檎の中に精巧な爆弾を仕込んで、その皿の本当の林檎の中へ忍ばしてあったんだろう。それならばとうの昔に俺が取って、安全な場所へ隠してしまったよ。その中にあるのは本当の林檎ばかりだ、遠慮することは無い。威勢よくほうって御覧。なア女、伯爵も若い時悪い事をしたには相違ない、お前の母親を捨てたのは何んと言っても償うことの出来ない罪だ。けれども、お前も、そんなに執拗しつこく人の命を絶つには及ぶまい、人間二人殺したら、大抵眼が覚めてもいい頃だ」
 一座はシーンとして「足の勇」の話に聞き入りました。爆弾を隠したと聞いた安心に、がっかりして動けなくなったのかも知れません。「足の勇」は言葉を続けて、
「そんな無法な復讐は許されない事だ。お前はお前の無法な復讐の犠牲に、償をしなければならない。警官はもう来る筈だ。それ、あの門を入って来る足音がお前にも聞えるだろう、気の毒ではあるが、お前のような殺人鬼はこの世の中へ放し飼にして置くわけには行かない――それッ」
 後ろ手にドアを開けると、サッと飛込んで来たのは、警官では無くて、其処そこへ立って居る、「足の勇」そっくりな、もう一人の「足の勇」です。
「やア遅れてすまなかった。警官は直ぐ後から来る筈だ」
 先の「足の勇」の方がいくらか年を取って居るようですが、服装から態度から口調まで、並べて見ても紛れるほどよく似て居ります。
「お前は何んだ、お前は?」
 驚きと怖れと、激しい憤怒におののく女の眼の前へ、
「わからないか。俺は警視庁の花房はなぶさ一郎だよ」
「アッ」
 驚いたのは照子ばかりではありません、思いもよらぬ名探偵の出現に、一座は開いた口も塞がりません。
「エッ口惜くやしい、斯うなればお前の世話になるものか」
 花房一郎の方の「足の勇」が飛び付く暇もなく、女の手は素早く口へ、四辺あたりはプンと杏仁のにおいがします。
「アッ、まだ青酸加里カリを持って居たのか」
 言いも終らぬに、殺人鬼鏡照子の身体からだは朽木のように床の上に倒れてしまいました。

 最初伯爵の話を聞いた時、私――千種十次郎――は、この事件の容易でないことを知りましたが、伯爵はどうしても警察の手に委ねる事を拒んだので、懇意な名探偵花房一郎の隠れ家に手紙をやって、「足の勇」に化けて海原伯爵邸へ入り込ましたのです。
 この私の勝手な処置については、くれぐれも伯爵に詫びましたが、これ程の重大事件と解って見れば、私のやった事に対して、却って伯爵は感謝するばかりでした。
 後で、どうして殺人鬼の正体を突きとめたかと花房探偵に聞くと、
「何んでも無いよ。犯人は家の中に居ることは確かだから、一番身許の不明なあの女を調べたんだ。紹介者から知人を手繰たぐって、あの女がかつて有名な科学者の許に助手をして居た事がわかった時は、シメタと思ったよ。青酸のトリックや低圧電気の利用は、並大抵の人間の気の付くことでは無い。それから伯爵邸を一寸ちょっと引揚げた時、大急ぎで神戸へ行って洗って来たんだ。あの女は母親の遺伝をけて、恐ろしい偏執狂だが、一寸ちょっと見は正気の人と少しも変りなかったんだ。併し伯爵も悪いさ、何んとか罪亡ぼしをさしてやりたまえ」
 そんな事を言って居ります。
 それから間もなく、私と二人の「足の勇」に、瑛子を加えて、内緒で慰労会を開きました。その時の馬鹿馬鹿しさと面白さは、此処ここでは申し上げられません。





底本:「野村胡堂探偵小説全集」作品社
   2007(平成19)年4月15日第1刷発行
底本の親本:「悪魔の顔」愛翠書房
   1949(昭和24)年1月
初出:「文芸倶楽部」
   1929(昭和4)年7月
※初出時の表題は「殺人鬼」です。
入力:門田裕志
校正:阿部哲也
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード