江戸の昔を偲ぶ

野村胡堂




 江戸という時代は、まことに悪い時代であったに違いない。封建的で、階級的で、迷信的で、一つも取柄とりえはなかったようであるが、一方からはこんなのんきなのんびりした時代はなかったようでもある。ネコのノミをとっても一生楽に暮らせ、居候の名人になっても、一生楽に暮らせる世界は、今の世からは想像も及ばないことである。
 それが移り変って、月に三十円あればと歌った、啄木の生きていた明治の代となり、三万円もなければ、どうにも暮らせない今の世の中となったのである。
 古い江戸の地図や絵図面をひろげて見ると、私は一種の郷愁を感ずるのである。丸の内から話を始めると、見附みつけ見附には枡形ますがたがあり、そこは長いものを通さず、やりや鉄砲や梯子はしごと間違えられるので、竹ざおなどを持ちこむのに、風呂敷をかぶせて、――ヘエ風呂敷包でございますが――といって通ったということは、落語や講談の〈まくら〉につかわれている。丸の内には三百諸侯が供ぞろえいかめしくひしめき合い、天保年間の日食は一刻のまちがいで人死にができたと伝えられている。正うまこくといったのが天文方のまちがいで、午前十時の刻にまっくらになったというから、笑えないまちがいである。安藤対馬守あんどうつしまのかみはここで斬られ、井伊直弼いいなおすけは桜田門を入るとき駕籠かごの中で斬られた。その首を持った有村某は、帝劇のほうへ逃げ出したという笑われない話もある。ある町人の小僧は、お使いに来てこの事件に出っくわし、土手下に隠れてふるえながら見ていたというのは、桜田門の外であろう。明治年間このへんへ遠くなく甘酒屋まで出ていたのを私が記憶しているくらいだから、万延元年の変では、そのような事があったかも知れない。
 有楽町は織田有楽斎おだうらくさいの屋敷跡、いまの有楽町駅あたりに、南町奉行所があったことだろう。このへんに、遠山の金さんもおり、大岡越前守も姿を見せたにちがいない。昔の奉行は、いまの警視総監よりもさらに権力が強く、法三章な概念で裁判を片付けていったものらしい、大岡さばきにはソロモンの伝説まで織り込まれており、十中八九は信ずるに足りないが、死んだと思ったたばこ屋喜八が生きていたり、地蔵様に縄を打って引立てたり、大岡様も伝説稗史はいしに従えばなかなかにやったものらしい。
 この思想――すなわち罪を憎んで人を憎まざるていの大岡さばきが、後世捕物小説の基本概念になったかも知れない。もっとも家事不取締で罰せられたり、御諚ごじょう百箇条的思想で人を律されては、少しぐらい手加減をして頂かなければ、人民どものほうがかなわないわけである。
 泥棒伯円や小団次がはやらかしたわけでもあるまいが、悪徒には義賊と称せらるる一種のカテゴリーに編入されるものが交っていた。鼠小僧ねずみこぞうもそれであり、木鼠小僧のように、人名辞書にまで何ぺージか費やされているものもある。日本左衛門もそれであり、雲切仁左衛門もそれである。悪事はすれど非道はせずというのをモットーに、江戸中を荒らしまわった梁上りょうじょうの君子達は、ずいぶん厄介なものであったに相違ないが、われわれ貧乏人にとっては、いささか溜飲りゅういんの下がるしろものであったにちがいない。幕末に一種義賊謳歌時代をうんだ原因でもある。
 昔といえども、徹底的な悪人はないではない。不幸にして江戸時代には、そんな化け物はあまり伝わらず、明治以後、大正、昭和の悪人は、芝居に出て来る敵役にその例を見るだけである。
 汚職というのは昔からあったにちがいなく、田沼父子のごときは、その代表的なものとされている。しかし汚職で建てた蔵は、やがてつぶれるにきまっており、少なくとも終をまっとうした例はない。昔はずいぶん、わいろをむさぼった役人も少なくなかったが、その反面には一紙半銭も私にしないといった、恐るべき頑固一徹な人達も少なくなかったのである。筆者はむしろ、そういった正直者の多かった例をうんと知っている。
 銀座から日本橋へとたどってみることにしよう。銀座は昔の面影もなくなったが、天金といった天麩羅屋は、いまの服部はっとりの裏にあり、その所蔵の馬琴、一九、三馬の扇面を私はいま愛蔵している。このへんに京伝のたばこ屋があったにちがいなく、一九や馬琴も彷徨ほうこうしたにちがいない。
 日本橋は鉄橋になってしまったが、昔の木橋を私も知っている。安藤広重が犬に小便をさせているのも日本橋のたもとだ。この橋詰には、おかみの高札があり、相対死にの死におくれのさらし場があったりした。八百屋お七も、裸馬に乗ってこの橋を渡ったにちがいなく、白子屋お熊もこの橋の上で、世上の皆様に一場の訓示をしたにちがいない。
 江戸橋へかけての眺め、広重が描いたままの風情ふぜいは、明治のころまで残っており、河岸の寿司すしの立ち食いから、一心太助の活躍した魚河岸はいまはない。
 日本橋広重の見た富士が見え――という川柳は大震災後の私の選であった。日本橋白雨の江戸名所絵は、十万円しようと、それは木橋は鉄橋にならぬが、駿河町の越後屋は三越になって、昔の人が考えなかった繁盛である。駿河町畳の上の人通り――これも古い川柳だが、明治のころまでは確かに畳の上の人通りであったにちがいない。店の中を畳のままにしようか、下駄履きで入れるようにしようか、有識者の意見を伺ったのは古いことではない。
 このへんは昔の後藤(金座)の跡で、一石橋の名の由来は、バスガールも心得ていよう。日本銀行から三越本店のあたり、その近所に鍛冶橋の北町奉行所もあったわけである。
 突き当って筋違すじかい見附、右へ行くと、柳原から両国だ。柳原は辻斬りの名所、柳の下にむしろを抱えて仲間ちゅうげんや折助相手の、辻君つじぎみが遊泳した。われわれの知っているころは、古着屋の本場で、私は高等学校の制服をここで買ったことがある。川岸の柳にひもをかけて、広重や国周が一枚一銭から五六銭で売られていたころのことである。
 浅草橋のいろはで木村荘八君が生まれ、ここの高札場を私はいく度も小説に書いた。町々に木戸があり自身番があり、タクシーをかっとばしてどこへでも行けるという時代とはわけがちがう。芝居の八百屋お七は、鐘楼(火の見櫓)にかけ登って、からくも町木戸をあけさせた時代である。
 両国に垢離場こりばがあり、両国ですばらしい花火の揚がった時代である。川開きの風情は五十年、六十年前までは少しく昔を伝え、広重は二三十枚も花火の両国を描き残しているが、いまの仕掛花火はますます巧者になって、「玉屋あ、鍵屋あ」といった昔のおもかげは遠ざかる。
 下谷へ、浅草へ、行く手は長く、こう書いているとまったく際限もないことである。





底本:「銭形平次捕物控(十五)茶碗割り」嶋中文庫、嶋中書店
   2005(平成17)年9月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物全集第二六巻」河出書房新社
   1958(昭和33)年
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2015年9月1日作成
2019年11月23日修正
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