銭形平次打明け話

野村胡堂




 昭和六年のある春の日の午後のことである、かねて顔見知りで、同じ鎌倉に住んでいる菅忠雄すがただお君が、その当時報知新聞記者であった私を訪ねて来て、二階の応接間でこう話したのである。
「今度オール読物を月刊雑誌にすることになったが、その初号から岡本綺堂さんの捕物帳のようなものを連載したいと思うがどうだろう、君にそんなものは書けないか」というのである。岡本綺堂さんは『修禅寺しゅぜんじ物語』の作者であるばかりでなく、捕物帳にもすぐれた江戸情緒を盛って、われわれ後生の及び難い才分を示した人ではあるが、私にはまた、私の考え方があるかも知れず、「岡本先生の真似まねは出来ないが、私はまた私の書き方があるかも知れない」と、簡単に引受け、銭形平次は、その月から、連載読切として出発し、五十回前後で半歳ばかり休んだ外は、戦争中の休刊を別に、まずまず今日まで続けて来たのである、その間二十五年間、約三百回に及び、新聞その他、他誌の発表を加えて、三百頁五十巻(注・まだ定本にならぬ前の別の本)という、驚くべき大量となったのである。
 最初私は、同心、与力または御奉行であってはいけない、最初から江戸の市民でなくてはいけず、シャーロック・ホームズのように、自由でなければいかず、もう一つ、特殊の技能を持った、英雄人でなければいけないと思ったのが、銭形平次を作り出した動機であるとも言えるだろう。四文銭をほうらせたのは、第一回からの特技で、これは『水滸伝』の没羽箭張清ぼつうせんちょうせいが、腰に下げた錦の袋を探って石を投るのと同一型の思い付きに過ぎない、毛利玄達もうりげんたつ吹矢ふきや、八丁つぶての喜平次の礫、古来作家は屡々しばしばこの手を用い、放送や映画などになると、近頃はいっこうに銭を投らせないではないか、などとお客様に叱られたほど、これが通俗になってしまい、いささか作者を閉口させている次第である。
 しかし作者の意図は別にあるわけで、今日はそのことについて少しくお話しようと思う。一体私は東北の僻村へきそんの出で、祖先の名は、源九郎義経とも平清盛とも伝わらず、元禄時代からの墓碑ぼひも残っているが、全くの水呑み百姓である、祖先のお蔭で中農程度の土地は持っていたが、士族が通れば、道の一隅に避けて、丁寧にお辞儀して通った百姓の子である。明治初年に生れて、十年代に成人し、封建思想が村の隅々まで残っていた私の少年時代に、われわれをしいたげ尽した階級をにくみ、庶民に同情しようと思い定めたことはまた已むを得ない。
 捕物帳という、かりそめの仕事をするに当って、この初一念が、私を鼓舞こぶしたことも考えられないではない。侍階級でも随分立派な人はないわけではなく、中には驚くべき清廉せいれんな君子人も少なくはなかったが、それは物心ついてから、私が掘り出したことで、その例をもって侍階級の一般を律するわけに行かず、私の少年の頃の憎悪は、依然として徒食する人達や、駄馬だばの背から、飛降りて道を避けさせた人達に向けられたことは言うまでもない。
 私の書いた、三百七、八十篇の銭形平次を丁寧に読んで下すった人は、すでに気がついておられたことであろうが、私は大した意識もなしに、侍階級に対する反抗を企てていたのである。三百年前の槍一筋の手柄を言い立てて、子孫代々徒食する不合理さは、至るところに指摘してあったと思う。史を調べるまでもなく、私の祖先の幾人かは天保期の南部藩の有名な百姓一揆に加わり、殿様に反抗して、仙台藩の仲介までもわずらわし、その記録は、私の書庫にも残っており、私が子供の頃故老からも親しく聴かされたものである。それは早くも時代をへだて世紀を変えて、今は昔物語に過ぎない。私の弟は今以て祖先の土地を守り、裕福に暮しているのである。私が百年前の階級制度を鳴らしたところで、一向に詰らない話である。
 捕物帳に反抗精神があると言われたのは、探偵評論家の白石きよしであったと思う。今の人は百姓一揆も知らず、天馬、手振りの賦役ふえきの激しさも知らないが、明治生れの私には、人ごとならず実感を伴うのである。平次が江戸の風物を愛しながら、一脈の反骨を蓄えるのは、こういった私の経験に根ざすものがあるのではあるまいか。
 だがしかし、平次の成功は八五郎の成功だとも言えるのである、この大長篇に八五郎という者が出なかったら、なんと淋しいことであろう。正直で魯鈍ろどんで、いささか惚れっぽくて、足の達者な八五郎は、銭形平次にとっては申分のない相手でもあり、助手でもあったのである。八五郎の登場は、連作物平次の第三話あたりのように思うが、八五郎の発見は、平次を書き続けさしたとも言えるのである。八五郎を以て代表する江戸ッ子はなんと多いことか。
 落語に出て来る熊公、八公、芝居の仕出し、おびただしい野次馬族、すべてが八五郎族であり、少しの英雄素質のない存在であり、少しの才分も天才もない、平凡そのものの存在である。近頃ある評者が、八五郎が段々賢くなると言っている、賢くない人間を、三十年間賢くないままに描くということは、なかなか容易ならぬわざである、あるいはまた、近頃は八五郎の方がより江戸ッ子になり、平次の方が遥かにフェミニストになったと言っている。
 長く書き続けている間にそんなことになったのかも知れない、私自身は決してそんな積りではなく、八五郎を道化役者にする積りなど、毛頭あるわけはない、ただ、正直で勤勉で、邪念じゃねんがなくて、職業意識だけを身につける、八五郎という人間を考えたに過ぎない。
 もう一つ私は長い間新聞記者をしていたために(明治の末から太平洋戦まで)、骨の髄まで新聞社の空気がみこみ、平次と八五郎が、新聞記者になっていたかも知れないのである。江戸の岡っ引が、実際平次や八五郎のようなものではなく、明治の新聞記者が実際は平次や八五郎に似ているかも知れないのである、親分子分には違いないが、小父さんの書く平次と八五郎は、新聞社の部長と部員のようだ、――とこれは、若い新聞記者の言った言葉である。二十五年の長い間、平次と八五郎を、新聞社の編集局の同僚のように書いて来たかも知れないのである。新聞社に三十年も住んで一つも新聞記者小説を書けなかった私が、思わぬところで馬脚ばきゃくを出したわけである。
 人は何時いつの世にも、大岡裁きを喜ぶものである、子争いに始まって、石地蔵をお白洲しらすに引出す興味、三方一両損の論理、皮剥かわはぎ獄門のトリックは、何時になっても変らない興味である。旧約(聖書)の昔からソロモンの伝説があり、大岡越前守は未だに天下の名判官で通っている。われわれは法治国の国民であり、坐作ざさ進退ことごとく法によって縛られているに拘わらず、法の外の法を楽しもうとしているのである。信賞必罰は結構なことであるに違いないが、実際の世の中は、も少し融通のきいた、知謀を以て裁いてもらいたいものである。
 法は冷たく厳しい、ジャン・バルジャンは、かかるが故に生涯をかけて、追い廻されたのである。
 木鼠小僧はやはり許してもらいたいのである。それは読者心理である。捕物小説はこうして生れ、こうして発達した、捕物小説の世界では、偽善者は深酷に罰せられるが、木鼠小僧は大手を振ってのさばり返っている。大岡裁きはこの世界では、生きて通用する。
 江戸という世界は、決して良い世界ではなかったかも知れない、侍階級は威張り返り情実に依って物事が運ばれ、賄賂わいろは公行したに相違なく、各所にボスが幅をきかし、あらゆる進歩は止まったことであろう。それは良い世界ではないが、時をへだてて考えると、まことに良い時代だったとも言えるのである。ここには幡随院の長兵衛が生きており、式亭三馬や十返舎一九も生存し、鼠小僧次郎吉も、弁天小僧菊之助も、生きていたに違いない、人間は寡欲かよく恬淡てんたんで、時には途方もない物堅い人間が生存していたに違いない、随分苦しい生活であったが、猫ののみを捕えても暮しが立ち、耳の穴を掃除しても三度の飯にありついたのである。
 今の世の中、汚職という字が新聞から消える間もない世界とは、なんという違いであろう、人々が暮し好かった昔の時代を恋しくなるのも、また已むを得ないことではあるまいか。
 捕物小説はの文学だと言われている。捕物小説と限らず、日本のあらゆる芸術は、季の芸術であると言えないことはあるまい、和歌、俳句、雑俳ざっぱい、音曲から美術にいたるまで、季感の支配を受けないものは一つもないとも言えるのである。
 宗祖岡本綺堂先生は、この点に眼を注がれ、作物の中に、季感と江戸の年中行事を取り入れて、『半七捕物帳』の成功を生んだと言えるのである、試みに六十余篇の遺作のうち一つを読んだだけでも、紙面にあふるる季感に、読者万人は打たれずにはいないだろう。われわれ後生はその遺風を学んで、岡本先生の域に達しないのは、時代の違いであり、年齢の違いであり、更にまた天分の違いであると申すの外はない。
 この季感の採り入れは、岡本先生の成功であるばかりでなく、われわれ後生をして及び難しの感を抱かせる原因である、名著『江戸に就ての話』を生んだ岡本先生は、まことに及び難き篤学とくがくでもあったのである、間違ってはいけないがそれは単なる知識の量ではなく、これを処理した、岡本先生の詩人的要素でもある。作者としての働きでもあったのである。
 季感の処理の次に、私は矢張り知識の量を挙げなければならぬ、あらゆる作物は、夥しい知識の量を必要とするが、捕物小説もその例にもれず、潜在的に博識でなければならないのである、少なくとも外国の新しい探偵物語には、精通していた方がよろしい。この意味において、コナン・ドイルは経典的で、遡上さかのぼってポーや、近頃アメリカで騒がれている、新人の作物も一と通りは知っていた方が宜しい。
 私はかつて、弱電気に感電死を書いて得々としていた事があるが、同じ月の或る雑誌に小酒井不木氏の同じ弱電気死を扱ったのを発見して、きもをつぶした事がある、すべての物を読むのは、人間業として出来ないことであるが、少なくも「赤髪組合」や「まだらの紐」は出来るだけ避けなければならない。
 私は筋立てに行きづまると、かつてコナン・ドイルを読んだものである。オルツイ夫人は思いの外役に立つ、あのトリックをそのまま利用しては困るが、逆または反対に利用することは出来るわけである、私はかつて「十二の刺傷」の一部を利用して、筋は全く違っているのであるが、探偵作家の某氏に指摘されて弱ったことがある。
 新人の例えばクイーンなどのものは、理窟が多くて、筋が複雑で、あまり役には立たない、それよりは、コリンズ以前の古典探偵小説の方が面白かろうと思う、但し読者も多いことだから、そのまま筋やトリックを利用してはいけない。
 棠陰比事とういんひじ桜陰比事おういんひじといった、比事物の古書は案外役に立つ、私は盛んに利用するが、種の出所を必ず明記しているので、かつて文句は来たことはない。焼跡から人の死体を発見した、口中に灰があれば焼死で、灰がなければ他殺死体つまり死後に火を放ったものと比事に載っているが、私はその話を利用して死体の口中に灰を押込んだことを書いている、口中に灰を押込んだが、鼻の穴には押込まなかったという落ちである。これも比事から得た材料の一つである。
 豆粒まめつぶを敷居の溝に置いて、夜中に人が出入りすれば豆は独りでに動くという話である、その敷居の上の豆をわざわざ動かして、反証を作ったと書いたこともある、これも比事物から得た材料である。
 この種の材料には皆出所を書いて置いたはずであるが、比事物から少なくとも十個の材料を得た筈である。
 桜陰比事は井原西鶴の作と言われるが、名文であるに相違ないとしても、棠陰比事ほどの材料はないようである。
 物識り顔をする人間を私は好きになれないが、本当の専門家の話には、思いもよらぬ好材料が潜んでいることがある、私は一日駅路えきろの研究者に逢って、その講演を聴き思いも寄らぬ材料を二つ得たことがある。一つは田舎の出来事だが、主殺しの町人は三属まで死刑にされたという例が二つ、もう一つは、田舎の遊女つまり飯盛り女郎は自殺や相対死を防ぐために、不自然死の場合それが、己意に出たとわかると、親許に身のしろ金を弁償させたということである。
 昔の法令には如何いかにも残虐ざんぎゃくなものが多かったようである。
 一と昔前は、青酸加里と明記することさえ禁じられた時代がある、その頃の小説はいかに間の抜けたものであったか私が改めて書くまでもあるまい、小説にまたは新聞に青酸加里という文字を使わなかったところで、青酸加里の自殺や犯罪は減ったわけでなく、丑刻詣うしのこくまいりが唯一の殺人方法であったわけではない、随分可笑おかしな話である。
 私は毒物として、もっぱら玉芹たまぜりを使った時代がある、玉芹の毒にてられて、友人の夫人が暴死したからである。世の中には私共の考えも及ばない毒物も存在するのである、近頃は時々鳥兜とりかぶとを用いるが、その毒性は詳しいことがわかっているわけではなく、馬酔木あしびも時々用いたが、そんな大した毒性はないと植物学者から聴いていささかがっかりしたところである。
 馬酔木をめて馬がひょろひょろになる図などはなかなかに面白いが、そんなわけには行かぬものらしい。
 これを要するに私はフトしたことが機縁となって、銭形平次三百八十何篇五十巻始め、池田大助十巻外幾つかの捕物小説を書いてしまった、今更百の悔も及ばない。しかしこういうことを考えている、何時いつの時代を舞台にして、如何いかなる小説を描こうと、結局は何らかの形で現生活と結び付かないものはあり得ない。
 百の『ドン・キホーテ』を描こうと、千の『ダルタニアン』を描こうと、それは大した変りはないということである、それでよろしいのである、われわれは現代以外の生活を経験しないからである。





底本:「銭形平次捕物控(十三)青い帯」嶋中文庫、嶋中書店
   2005(平成17)年7月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物全集第二六巻」河出書房新社
   1958(昭和33)年
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2015年9月1日作成
2019年11月23日修正
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