「永い間こんな稼業をしているが、変死人を見るのはつくづく
捕物の名人銭形の平次は、口癖のようにこう言っておりました。血みどろの死体をいじり廻すのを商売
それが一番凄惨な死体と逃れようもなく顔を合せることになったのですから、全くやり切れません。
「ガラッ八、
「縄張違いは承知の上ですが、
「つまらねえお節介だ」
舌鼓を一つ、それでも振りもぎって帰ることもならず、柳橋の側に
子分のガラッ八が差出した
「あッ」
死体嫌いの平次は思わず顔を
「これは
そのうちに平次は職業意識を回復して、一歩女の死体に近づきました。
「何か持っていますぜ」
ガラッ八が注意するまでもありません。平次は早くも近寄って見ると、苦悩に

「これは
その紐を

女の前髪は

眼に突っ立てた銀簪は、
それを松の葉になった足の方三寸ほども、人間の眼の中へ突き立てたのですから、
「親分、布袋屋の旦那が、ちょいとお話申し上げたい事があるそうで――」
岸から小腰を屈めて、恐る恐る船の中を覗き込んだのは、涼みの一行に立交っていた
「ここで宜しければお目にかかりましょう――、と言って貰おうか」
「ヘエ」
平次は小首を傾けて、
乗合は外に
芸妓の奴は、若くて美しくて、
それから
ツイ
血の海、
眼球に突っ立った銀簪、乱れる
たった一目で、直助は仰天しました。
「わッ、た、た、大変ッ」
睡気も酔いも覚めてしまって、鶴吉の離屋へ鉄砲玉のように飛込んだものです。
騒ぎは
「親分、こういうわけだ、なにぶん宜しく頼みます」
布袋屋の主人万三郎は、小判を五六枚鼻紙に
「あッ、何をなさるんです。そんなことをしちゃ、かえって旦那の
平次は小声でたしなめて、小判の包みを、万三郎の手に返しました。小判五六枚というと、今(昭和六年当時)の相場にして二三百円にも匹敵するでしょうから、ケチな岡っ引を買収する袖の下としては不足はありませんが、万三郎は平次の心持を測り兼ねて――もう少し多くしなければならなかったかしら――といった疑いに悩まされておりました。
平次は委細構わず、桟敷の上に不安な顔を押し並べた同勢を見渡しました。布袋屋万三郎は三十七八、少しのっぺりしておりますが、なかなかの好い男、その頃の通る大商人らしく、少しく派手ではあるが
その後に従うのは、
万三郎の袖の蔭から、恐怖に引きつった蒼白い顔を覗かせているのは、踊りの師匠のお才、二十七八の中年増ですが、商売柄身のこなしの鮮やかな水際立って美しい女です。しかしこれとても人間の眼の中へ、銀簪を三寸も叩き込める柄ではありません。
最後にまだ船の中に残っている船頭の直助があります。三十前後の独り者で、人は好いが酒癖の悪い男、疑えばまずこれが一番疑われる地位にあります。
平次は腕を
川をわたる夜の風が、六月といっても少し冷え冷えとして、
その時、
「銭形の
顔を挙げると、平次と張合って手柄を争う石原の利助が、四十男の押の強そうな顔を、皆んなの後ろから覗かせているのでした。
「平次」
「ヘエ」
「わざわざ来て貰って気の毒だったな」
「どう致しまして、――御用は何でございましょう」
若い
「ずっと、中へ入るがいい、――少し聞きたい事がある」
「ヘエ――」
「
「えッ、それは無法、――いえなに、石原の兄哥の
あまりの事と言わぬばかりに、――平次の口調はひどく弾みます。
「ホウ――、それはどういうわけだ。余程確かな事を握っていなければ、そんな事を言えるわけはない、話してみるがいい」
「ヘエ」
そう言われると平次も当惑しました。確かな証拠といっては一つもありませんが、何となく平次の第六感に、そういった響きがあるというだけの事だったのです。
「万三郎は、あの晩お前の袖に小判を落して、ひどくお前に怒られたというではないか」
どこから聞いたか、新三郎はつまらぬ事まで見透しです。
「ヘエ」
「平次の気風を知らなかったのは、万三郎の手落ちだ。そんな
「それは旦那様、お考え違いでございましょう」
「どうして」
「人殺しの下手人が本当に万両分限の万三郎なら、五両や三両で岡っ引の口を
「なるほど」
「万三郎が五両や三両の包みを、平次に掴ませようとしたのは、あまりの事に
「フーム、利助とは大変な違いだが、そう考えられない事もないな」
笹野新三郎は
「
「では聞くが、殺された女の手が、万三郎の羽織から

笹野新三郎は――今度は弁解の仕様があるまいといった
「それが


「フーム」
これは、
「それに、紐を

「…………」
「もう一つ、後で鶴吉の奉公人どもに訊くと、最初船から上がって、

「判った、平次、
「それは私も聞きました」
「利助は、万三郎は大金持だから、女中の三人や五人の口を塞ぐのは何でもない――とこう言うのだか」
「それは乱暴でございます。生き証拠が三人も、五人もあって、口が揃うのまで疑っては際限がありません」
二人は顔見合せて銘々の考えに沈みました。万三郎が下手人でないとすると、さて誰があんなむごたらしい事をしたでしょう。
「平次、お蔭でよく解ったよ、明日は
「ヘエ――」
そう言われると、さすがに
万三郎が許された
「親分、石原の利助は今度は船頭の直助を挙げました」
あわて者のガラッ八が、長屋中響き渡るような声で、こう言いながら飛込んで来ました。
「とうとうやりやがったか、そう来るだろうと思ったよ」
平次は畳の上へ
「ね親分、本当に下手人は船頭でしょうか」
「それは判らない」
「じゃ、
「それも判らない、いくら酔っ払っていたにしても、
「してみるとやはり石原の見込み通り、下手人は船頭に相違ねえことになる」
「さア、船頭が
「な――る」
「でなきゃア、船の中には刃物もあるはずだ」
「…………」
「どんな
「そりゃネ」
「それに、本当に船頭が殺したのなら、もう少し細工をするだろうじゃないか、酔っ払って寝ていて、何にも知りませんでは智恵がなさすぎる」
「そう言ったものでしょうね」
平次にそう言われると、少々お
二人はもう一度柳橋まで行ってみました。わざわざ船を鶴吉の裏手に着け、先夜の一行がやったように、
その足で
「どうも近頃売った覚えはございません。一体その簪は古い型で、二代も三代も持ち伝えた品のようですから、江戸中の小間物屋を当っても無駄でございましょう。その鷹の羽の紋や足がすっかり擦れているところをみると、どうかしたら五十年も、三十年も昔に、お求めになった品じゃございませんか」
小間物屋の言い草は大同小異で、この上当ってみようという気も
がっかりして戻って来ると、
「お客様ですよ、親分」
雇い婆さんが、気を揉んで外に立っております。
「どんな人だ」
「女の人ですよ」
「女? おかしいなア」
「親分もお安くねえぜ、
「馬鹿な事を言えッ」
女客というのは、二十四五の中年増、眉の跡も青々とした、凄いほどの美人ですが、小弁慶の
「銭形の親分でいらっしゃいましたか、御免下さいまし、図々しいようですが、上がり込んで御待ち申しておりました」
歯切れの良い調子、
「ちょいと留守にして、済まなかったが、お前さんはどちらからお
平次は自分の家ながら妙に迎えられるような心持で上がり込んで、上がり
「
「…………」
「あの下手人はもう挙がりましたでしょうか。押付けがましいようですが、少しわけがあって、それを伺いに参りました」
言いにくそうですが、それでも案外、スラスラとやって
「いや一向――私には見当も付かなくて困っている。石原の利助のところへ行って聞いてみなさるがいい、石原のは、何か当りが付いたということだ」
「ヘエ――、石原の親分じゃ伺うまでもございません」
妙に奥歯に物の
「あ、もう帰りなさるのか」
「いずれまたお訪ね申上げます。それでは親分、お
「あッ、待った、お前さんの名は何と言いなさる、それから
「いえ、それには及びません。用事があればまた私の方から参ります、それでは親分さん」
丁寧に会釈をしたと思うと、滑るように戸口を出て、ツ、ツ、ツと路地の外へ。
「八」
「ヘエ――」
「頼んだぞ」
「合点」
ガラッ八は女の後を追って外へ飛出しましたが、しばらくすると、つままれたような顔をして帰って来ました。
「どうだ、八」
「親分、ありゃ人間じゃありませんぜ。路地の外へ飛出すと、右へ行ったか左へ行ったか、
「何だと」
「
「乗物はいなかったか」
「それに油断があるものですか、乗物と名の付くものはたった一つ、とんでもねえ立派な
「それだッ」
「えッ」
「あの女は、右手の方にズッと離れて待たしておいた駕籠へ乗って、左手へ通り抜けたんだ。馬鹿野郎、それくらいの事に気が付かねえか」
「あッ」
と言ったが追っ付きません。
その上、女の帰った跡を見ると、留守中に探したものとみえて、
平次の直感から言っても、船頭が下手人でないことは解っておりますが、意地になって楯をつく、石原の利助を押付けるほどの反証がありません。
船頭直助の母親が、涙片手に平次のところへ飛込んで来たのは、その
しかし、今の内に動きの取れない証拠を進めて、石原の利助を取って押えない以上は、直助の命を救う道はまず絶望と思わなければなりません。
母親は泣きながら帰って行きました。平次を訪ねて慰められるどころか、かえって、大きい失望を
しかしこの悲しみも永くは続きませんでした。芸妓殺しの下手人は、船頭直助でないという、消極的ではあるが、動きの取れぬ証拠を提供してくれる事件が起ったのです。
それはこうでした。
今は跡形もありませんが、その頃
お駒は浅草から両国までの間に、並ぶ者がないと言われた美しさで、まだ十七になったばかり、唄にも絵にもされた小町娘でした。それがなんの心願があっての夜詣りか知りませんが、焙烙地蔵のお百度石の下に、眼を突かれた無慙の死体になって発見されたのですから、江戸中の騒ぎは大変です。
利助や平次は言うに及ばす、町方与力の笹野新三郎まで現場に駆け付けましたが、柳橋の芸妓殺しと、手口が全く同じだという外には、毛ほどの手掛りも残ってはいません。
派手な縫模様の
「利助、平次、これは容易ならぬぞ、手柄争いをする時ではない。二人心を併せて下手人を探し出してくれ、下々の騒ぎは、いつかは必ずお上のお耳に入る」
こうしみじみ新三郎に言われると、平次も利助も
船頭の直助はその日のうちに許されましたが、さてこうなると、さすがの利助も、もう縛りようにも縛る当てがありません。
そのうち、第三、第四の犠牲者が現れました。第三人目は、お蔵前の飲屋の看板娘おさん、これは銭湯の帰り、露地の入口で銀簪に眼を刺され、第四人目は駒形の小間物屋の若女房お国、所用で出かけた夫の帰りを待ちながら、店を早仕舞にして奥へ入ったばかりのところを、これも右の眼を銀簪で刺されて、長火鉢の側に無慙の死体を横たえていたのです。
手口は四人とも判で押したよう、
その頃若い女が、夜分一人で外へ出るのが怖いような事を言うと、――ヘン、一かど
南町奉行
「親分、この四本の
「何?」
銭形の平次もこれには驚きました。四人の女を殺した四本の簪を役所から借り出して、顔見知りの飾り屋に鑑定して貰うと、この始末です。
しかし、銀流しと聞いて平次の心の中には、驚きの底にも一道の光明がサッと射し込みます。
大事の証拠の簪はガラッ八に持たせて役所に返し、自分はその足で両国の盛り場へ。
言うまでもなくその時分の東西の両国の賑わいは、今(昭和六年当時)の浅草の六区のようなもの、見世物、軽業、歌舞伎芝居が軒を並べ、その間に水茶屋が建て込んで往来の客を呼ぶ外、少しの空地へもテキ屋が割り込んで、人寄せの
その中に立ち交って、銀流しの露店が一つ、大道の上に
「さア、よく見なさい。これはオランダ人から伝わった、南蛮秘法の銀流し、あすこにもある、ここにもあるという物ではない、ちょいと
能弁にまくし立てる女を、ヒョイと覗いて驚きました。
いつぞや平次の留守宅へやって来て、覚え帳を盗んだ上に照れ隠しに銀簪の曲者の手掛りを聞いて行った、あの凄いほど美しい中年増に紛れもなかったのです。
しかし平次は、人混みの中へ十手を
手拭を出して、ちょいと
もう一つ驚いたことに、よくよく見ると、
この中には、青銅の香炉もあり、
平次は、すっかり興味をそそられて、その辺から去りもやらず、ほとんど半日銀流しの美人を見張りました。夕方、人通りが少し
ちょうどたそがれ時、人通りが絶えて、町家も水の上も、一様に雀色に見える頃でした。柳原の淋しい土手に掛ると、
「ちょいと、お
平次はたまらず声を掛けてしまいました。
「何だえ、気味が悪い、用というのは私にかい」
「そうだよ」
「
相手の出ようを測り兼ねて、お六と名乗る女は夕闇をすかします。
「お六、御用ッ、神妙にせえ」
キラリと十手。
「あッ、お前は平次」
飛退くと、どうして肩から解いたか、重い荷物は草の上に落ちて、お六は柳を
「お六、逃れぬところだ、観念してお縄を頂けッ」
「何をッ、銀流しのお六
「黙れッ」
平次は飛込んで女の肩をハタと打ちました。
「あッ」
逃げようとする手首に絡んだのは、いつの間に掛けたか一条の捕縄。
「神妙にせえ」
これはお六が弱いのではなく、平次の手練があまりに鮮やかなためでした。宵の人足が、三人と立ち止らないうちに、銀流しの美女は銭形平次の手でキリキリと縛り上げられてしまったのです。
近所の自身番まで、縄付きの女と大風呂敷包みを持ち込んでピシリと障子を締切ると、平次は早速、
「女、もう叶わぬところだ、みんな申上げてしまえ」
「平次、増長しちゃいけないよ。調べはお役人のすることだ、岡っ引のくせに、お六姐さんの口を取ろうなんて、生意気だよ」
と、大変な鼻息、
「黙れッ、若い女四人も殺して、命が幾つあっても足りないお前だが、素直にしていれば、まだお上にはお慈悲もあるというものだ」
「何だって? もう一度、言って御覧よ、私が四人の若い女を殺した? 冗談も休み休み言っておくれ、盗みはしないと言わないが、人殺しなどは身に覚えのないことだ。銀流しのお六は、虫を殺すのさえ嫌いな
さすがにお六も驚いたようです。
「隠したって駄目だよ、証拠は銀流しの
「何だ、その事か、それなら早くそう言えばいいのに、――銭形の平次親分も
「何?」
「柳橋で殺された芸妓の奴は、私のためには親身の妹さ。私は
「…………」
「何とかして敵を討ちたいと思うばかりに、捕物の名人とか何とか言われるお前さんのところへ行って、様子を探ったまでの事さ。覚え帳を取ったのは悪かったが、そうでもしなきゃア下手人の心当りを話してくれるお前じゃあるまい」
平次の打撃は見るも気の毒でした。お六は悪い女には相違ありませんが、眼に涙を浮べての述懐に嘘があろうとは思われません。
「よし、俺が悪かった。縄も解いてやろう、黙って見逃してもやろう、空巣狙いやコソ泥を縛って手柄顔をするような平次じゃねえ」
「…………」
平次は女の縄を解きながら、続けました。
「その代り、これだけは隠さずに話してくれ、――近頃お前のところへ行って、真鍮の簪二本に銀流しを掛けさした女があるだろう」
「ある、ある、その上不思議な事に金脚の簪にまで、念入りに銀流しをかけさせて、小銭がないから今晩
「何、何?」
それから
銀流しのお六は、筋違見附外の、薄暗い塀の蔭に立っておりました。
「銀流し屋さんかい」
どこからともなく現れた一人の女、薄暗がりの中で、顔は見えませんが、洗練された声が、妙に人なつかしく響きます。
「ヘエ――、御新造様、お簪は確かに持って参りました」
「有難う、それでは引替えにお代を上げますよ。それからこれはお駄賃」
「まア、こんなに沢山、どうも有難う存じます」
小腰を屈めたお六の後ろへ、ヒラリと廻ると、女の左手は後ろから前髪に掛りました。
「あッ」
実に非凡な
悪党がっているお六も、
「えッ」
どこからともなく飛んで来た銭が一枚、怪しい女の振り上げた
「あっ」
簪は下に落ちて、
「待て、御用ッ」
追いすがった十手は、
*
平次の手に捕えられた怪しの女は、踊りの師匠のお才だったのです。
この女は武家に育って相当に武術も心得、ことに女には珍しい強力でしたが、年頃になってから身を持ち崩し、踊りの師匠になって、世を忍んでいたのでした。
娘盛りの頃、強盗に
一度は布袋屋の主人万三郎と人知れず
それだけで
二人まで
五人目にはそれも尽きました。たった一本残った母の形見の金簪を持出して、それにまで銀流しをかけて、お六を最後の犠牲にしようとしたのです。
銭形の平次は、首尾よく銀簪の殺人鬼を捕えましたが、銀流しのお六はそれっきり行方がわかりません。与力笹野新三郎はさぞ苦い顔をして、
「平次、またお前は
と言った事でしょう。