本篇は、銭形平次がまだ独身で活躍している頃の話です。
「た、助けてくれ」
若党の
八丁堀の
留守宅は用人の
そこへこの騒ぎです。
「それッ」
と飛出してみると、玄関にへた張った勇吉の背中には、主人新三郎の一粒種、とって五つの
「あッ、若様が」
「どうしたことだろう」
身分柄、
若党の勇吉は眼を廻したまましばらく玄関の板敷に
「これこれ勇吉」
小田島老人が後ろから呼止めます。
「ヘエ、ヘエ」
「一体これは何という
「ヘエ――」
「第一、何でお前だけ先に帰って来たのだ。奥様方はどうなすった。
「ヘエ――」
勇吉というのは、二十五六の
「頭を掻いて済むどころではない。何が一体お前を取って食おうとしたんだ、言わないか」
「ヘエ――、どうも相済みません。両国の人混みの中で、奥様やお女中方を見失ってしまいましたが、どうせお帰り支度のようでしたから、浜町へ一言お断りして、若様をおんぶしてやって来ると――」
「――フム」
「どうも――、人間が皆んな両国に集まってしまったせいか、今晩の江戸の淋しさというものはありませんでしたよ」
「馬鹿野郎」
「どこへ行ったって人っ子一人居やしません。背中の若様といろいろお話をしながらやって来ると、人形町の往来で、いきなり前に立ちはだかった者があるじゃありませんか。何だろうと思って、ヒョイと見ると、ブル、ブル、ブル」
「
「それがその、一件なんで」
「何だ、一件というのは」
「
「えッ」
「今日鈴ヶ森で
「そんな馬鹿な事があるものか」
「馬鹿だか馬鹿でねえか、若様に聞いてみりゃア判ります。――ハッと思って駆け抜けると、そいつがまた執念深く追っかけて来るじゃありませんか。人形町から八丁堀まで駆け通し、お屋敷の玄関へ着くと気がゆるんでブッ倒れてしまいましたが、まだ門のあたりに磔柱を背負った血だらけな奴が居やしませんか、そっと覗いてみて下さい」
歯の根も合わないような恐怖のうちに、これだけ話の筋を通すのは、勇吉にしては全く手一杯の努力でした。
「そんなものが居てたまるか、馬鹿野郎。確りしろ、みんなお前の臆病がさせたことだ」
小田島老人はまるで相手にしません。
「そう言ったって、途中でブッ倒れずに、ここまで
「目の廻しようを自慢するんじゃあるまいネ、
「ヘエ――」
この騒ぎの中へ、主人笹野新三郎と、妻のお国は相前後して帰って来ました。
与力笹野新三郎一家に対する不思議な
その晩も
ハッと思って見直すと、紛れもない人間の生首。
「あっ」
お国は思わず声を立てました。
しかし、さすがは武家の女房で、生れ落ちるから
そっと床を脱け出して、隣の
「旦那様、旦那様、ちょっと、お目に掛けたいものがございます」
と
「何だ、泥棒でも入ったというのか」
一刀を
遅い月が一杯に射した
「フーム」
新三郎は一度は
水のごとく流れ入る月影。
その青白い光を半面に受けて、窓格子に
「あッ」
お国は気が遠くなったようにそこへ
笹野新三郎の記憶にはこの首の
それから引続いて起った不祥事は、不思議なことに、なんか、お仕置のある日に限られておりました。ちょうど吟味与力笹野新三郎を忌避して、無実の罪を訴えでもするように、生首と死体とが実に頑固な
いろいろ人手を殖やして、締りや夜廻りを厳重にしましたが、結局は何の
「旦那様、何とか遊ばして下さいまし。このまま
お国は時折そんな事を言って、夫新三郎の決意を促しますが、新三郎にはどんな考えがあるか、それを取上げようともせず、言葉少なにうなずく日が多くなるばかりでした。
思案に余ったお国は、夫新三郎の留守の時、そっと
お国は二十六の女房盛り、美しさも賢さも不足はなかったのですが、倅新太郎の容体がはかばかしくないのに、後から後から不気味な事ばかり続いては、ツイ我慢がしきれなくなってしまったのです。
「利助、こういうわけだ。役目柄、こんな事が世間に知れてはまずいが、何とかなるものなら、一と骨折ってはくれまいか」
と言うと、
「よく判りました、奥様。何の、たかが
利助は大呑込みで、少し
「これはやはり、内に手引するものがありましょう。外からだけでは、そんな器用なカラクリは出来るものじゃございません。ただ今お屋敷に居る人別を片っ端からおっしゃって下さいまし」
「主人と私と坊やの外には、身内の者というと、主人の遠縁で、お吉さんというのが居るよ。年は私と同じ二十六で、そりゃア美しい人だが、お前は逢ったことがなかったかねエ」
「いえ、存じております。元なんでも旦那様のところへお嫁にいらっしゃるようなお話のあったのが、御両親がお亡くなりになって、そのまま縁談は流れ、それっきりお宅の
「よくお前、そんな事まで」
「へッ、へッ、商売商売で、そんな事に抜け目はございません」
「気味が悪いねえ」
「疑えばまずその方が疑えるわけでございますね。旦那様にも奥様にも、そう言っちゃ何ですが、怨みがましい心持を持つとすれば、このお屋敷の中では、その方が一番強いわけで――」
「そうねえ、そう言えば言えないこともないけれど、お吉さんはそりゃいい方なんだよ」
「大それた事をする人間は、思いのほか人触りのいいものでございます。それから外には」
「あとは奉公人ばかし。まず用人の小田島さんに」
「あの方は化物とは縁がございません」
「若党の勇吉――」
「あの臆病者の!」
「それに、平次の
「フーム」
お国は片っ端から雇人を数え上げましたが、石原の利助の興味をひいたのは、お吉一人だけ。
「そのお吉さんを呼んで頂けませんでしょうか」
「そんな事をしたら、一ぺんに主人へ知れてしまいます」
「構やしません。今のうちに睨みを利かしておかないと、増長してどんな事をするか解りゃしません。それに旦那様は
「知行所の世話番の方が御病気で、その代理にいらしったから、四五日はお帰りがないだろうよ」
「ちょうどいい
事ごとに若い平次にしてやられて、少し功を急ぐ心持のある利助と、賢いようでも、夫新三郎と縁談の
こう屋敷中で見張っているところへ、新太郎の膳のお菜の中へ、
お国はツイかっとしてしまって、石原の利助を呼寄せ、二人相談の上、主人新三郎は留守ですが、とりあえずお吉を一と間に閉じ
「ね、お吉さん、こんな事を言いたくないが、細工が器用すぎて、お前さんのような方でなきゃア、出来ない芸当だ。旦那様や奥様を怨むのも
「あれ、お前は何を言うのだい。本当に呆れて物が言えない」
「白ばっくれちゃいけねえ、ここで口を開かなきゃア、お
「まア、何という事だろう。この間っからの不気味な
今では
「お前さんは、旦那様と奥様の仲の好いのを好い心持で眺めているわけじゃあるまい」
「そりゃア私だって人間だもの、でも――今では何もかもあきらめているんだから、お主だと思ってお勤めしているよ」
「うまく言うぜ、そんな甘い口に乗るものか。とにかく、お前さんを放し飼いにしておいちゃ物騒でかなわねえ。窮屈でも旦那様のお帰りまで、ここで我慢をして貰おうか。もっとも、その間俺が
とうとうお吉を納戸に
驚いたのは、お吉と一番仲よくしていたお静です。
思案にくれているところへフラリとやって来たのは、お静とは許嫁の仲の、銭形平次です。
新三郎はまだ下総から帰って来ないので、用事は足りませんが、奥へちょっと挨拶をして、何の気もなくお勝手へ下がろうとすると、日頃仲のよくない石原の利助が、閉め切った納戸の前に
「お、石原の
「銭形のか、久し振りだったな」
「掛け違って久しく逢わねえが、そこで何をしているんだ」
「なアに、何でもねえよ」
「…………」
少し妙な調子――、頭の早い平次は、仔細ありと見てとって、そのうえ追及をせずに、天気の挨拶かなんかをして引下がってしまいました。
お勝手口から、八丁堀の往来へ出ると、
「ちょいと、親分、待って下さいな」
少し息を切って追って来たのは、
「何だ、お
「だって、私には何と呼んでいいかわからない」
「まアいいやな。まさかこちの人とも言えまいから、何とでも言っておくがいいやな」
「あら」
「ところで用件は何だ。美しいところを見せようて寸法ばかりじゃあるまいね。大方納戸の前に頑張っている石原の一件だろう」
「え、そうよ、大変な事が始まったんです。お吉さんが可哀想で、可哀想で」
「何をいきなり涙ぐみやがるんだ。順序を立てて話してみるがいい」
捕物の名人銭形の平次と一時両国で鳴らした美しいお静とは、人目と陽射しを避けて、街の片蔭へ入りました。
それから銭形の平次は、お静と
石原の利助はすっかりお吉を張本人と決めてしまって、屋敷の外から呼応した、相棒の名を言わせようと、手を替え、品を替え責め立てますが、お吉は執拗に口を
一方、その間に平次は、第一番に奉公人の身許を洗ってみました。小田島伝蔵老人の三十何年を始め大抵は五年十年と勤めた者ばかり、一番短いので一年以上ですから、主人を怨む者があろうとも思われません。
お仕置のあるたびに、何か嫌がらせな
平次の調べは遅々たるうちに、またもう一つ大変な事が起ってしまいました。
それは、近頃はすっかり丈夫になってお静と一緒に庭や門の外まで遊びに出ていた新太郎が、水天宮様の縁日へ行ってみたいと言い出したのです。
お国も思案に余って利助に相談すると、新太郎へ祟ったお吉はこの通り取っちめているから、大概大丈夫だろうという話。子供には甘すぎるお国は、それでもと留めるほどの母親ではありません。
念のため、お静の外に勇吉を付けてやりましたが、それから二た
「若様とお静さんはまだ帰りませんか」
フラリと、気楽な顔をして戻って来ました。
「坊やとお静が、どうしたと言うのだい」
お国も驚いて飛んで出ました。
「お静さんが知ってる人に逢って、境内の水茶屋に入りましたが、いつまで経っても出て来ません。どうかしたら裏から帰ったのじゃないかしらと思って戻って参りましたよ」
という気のない話です。
「それッ」
と手分けをして、八方を探しましたが、どこへ行ったか、新太郎とお静の
水茶屋で聞くと、混んでいる最中で、気が付かなかったと言い、お静の里やら平次の留守宅やら、心当りへ全部人を出しましたが、どこへも行った様子はなく、二人の姿は、水天宮様の境内から、煙のように消えてしまったのではないかと思うような、見事な
お国は気も
「坊やを探しました者には、望み次第の褒美をやる」
と言いますが、これだけに手際よく
その騒ぎの中へ、一人の女中が変なものを持って来ました。
「ただいま、お勝手口へこんなものを
と差出したのは、
「どれどれ」
利助が受取って中を開くと、
――新太郎を殺したくなかったら、お吉をゆるせ。その女に罪はないぞ――
と書いてあります。
「畜生ッ、人を
利助は
「坊やに万一の事があってはならない。口惜しいけれど、その女を納戸から出して、どこなと、好きなところへやっておくれ」
お国はさすがに母親らしい弱いことを言いますが、
「とんでもない奥様、これは
利助は意地になって聴き入れません。
「どうなとお前のいいようにしておくれ。私には、何が何だか判らない」
お国は精も根も尽き果てて、たださめざめと泣くばかりです。
「よし、この上は容赦しねえ。女来い」
納戸を開けて、三日越しの監禁に、すっかり弱り果てているお吉を引出しました。
「これ、何をするのさ」
「黙って来てみりゃ判る。それが嫌なら、相棒の名前とその巣を言えッ」
いきなりねじ倒して、悲鳴をあげるお吉の腕を後ろに、キリキリと縛り上げてしまいました。
「邪魔が入ると面倒だ、歩けッ」
「あッ、ッ」
悲鳴をあげてお吉は縁側に倒れかかります。
平次が飛込んで来たのは、ちょうどその後――。
「若様がお見えなさらない? 何ッ、水天宮様で
お勝手から奥へ真一文字に、
「奥様、大変なことになりました。さぞ御心配でいらっしゃいましょう」
今度の事件では、面白くないことばかりの平次ですが、こうなっては遠慮してもいられません。敷居の外から声をかけて、お国の機嫌を伺います。
「お、平次よく来てくれた――。どうぞ坊やを助けてやっておくれ、お願いだよ」
日頃の
「石原の
「お吉さんに縄を打って、どうしても仲間の事を白状させるって、奉行所へ行ったよ」
「えッ、そんな、そんな無法な事を」
「そうでもしなければ白状する女ではない」
「とんでもない、お吉さんは何にも知っちゃいません。それより吟味与力のお家から、縄付を出してその納まりがどうなると思います」
「え?」
「軽くてお役御免、重くて食禄召し放し。旦那様が家事不取締の罪は
「えッ」
「それでなくてさえ、お若くて切れものの旦那様、お役所向きは味方ばかりと思うと大当て違い、これはとんでもない事になりましたなア」
平次の恐れるのはそれでした。吟味与力で相当に敵も作っている笹野新三郎が、家族から縄付を出して
お国は女で気がつかないのも無理はありませんが、そんな事は百も承知の助の石原の利助が、宵とはいっても、人の目につかないとは限らない縄付を、与力の家の門から引張り出して、わざわざ奉行所まで
「若様は急に命に
「ツイ今しがた」
お国はさすがに恥入って顔も挙げません。
「それでは及ばぬまでも追っかけてみましょう。御免」
平次は挨拶もそこそこ、真一文字にお勝手へ抜けて、
三十間堀へ来ると、
「石原の、ちょいと待って貰おうか」
平次は飛鳥のごとく駆け抜けて、二人の前へ
「何だ平次か、何の用だ」
石原の利助は、
「お吉さんは何にも知っちゃいねえ。気の毒だが縄を解いて渡して貰えまいか」
「何を言やがる。こっちには証拠があってすることだ。十手捕縄を預かる利助に、人を縛っちゃならねえという法でもあるのか」
「そうじゃないよ、兄哥。吟味与力の笹野の旦那のお屋敷から、縄付を出したとあっちゃそのままじゃ済むめえ。お互い旦那には言葉に尽せねえ恩を受けている身体だ。よしんばどんな証拠があったにしたところで、お吉さんにお白洲の砂利を噛ませて、笹野の旦那の破滅にはしたくねえ。解ったかい、石原の、お
「えッ、何を言やがる。黙って聞いていりゃ、悪者を縛って、俺の手柄にさしてやるッ? 若僧の癖にしやがってなんて口の利きようだ、
「それじゃ、兄哥、これほどまでに頼んでもか」
「知れた事を言えッ、この女は近頃の大物だ。手前などに
「えッ、聞分けのない。笹野の旦那のためだ」
飛付くようにお吉の縄尻を引ったくって、
「何をしやがる」
利助は年甲斐もなく、平次へ武者振り付きます。
「兄哥、勘弁してくんな」
身体を
「あッ」
折からの
「
お吉を促して元来た道へ、平次は飛ぶがごとく取って返します。
平次が利助を追って駆け出した後――。
笹野新三郎は
「お国や奉公人達から、いろいろ話を聞いて、驚きに驚きを重ねていると、先刻水天宮様からぼんやり帰って来た勇吉が庭口からヒョックリ顔を出して、
「旦那様、今思い出しましたが、水天宮様の水茶屋へ、お静さんを誘い入れた男が判りましたよ」
妙な事を言い出します。
「なんだって今まで黙っていたんだ。誰だ、その男というのは!」
「すっかり忘れていました。――その男てえのは、名前はわかりませんが、なんでもお茶の水辺の男で――」
「家は知ってるか」
「行ってみたら大抵見当はつきましょう」
「よし、それじゃ案内しろ」
新三郎は、飛立つ思い、旅装束のまま、
「ここで降りて歩かなきゃアなりません。駕籠で行っては拙い」
案内者の勇吉がとんでもないことを言い出します。
仕方がないから駕籠を帰して、勇吉を先に立てた新三郎。聖堂の前をダラダラ登って、お茶の水の方へ、その頃は橋はありませんが、眺めの良いところで、数丈の断崖の上へお茶屋が二三軒建ち並んでおります。余談に
お茶屋といったところで、道端に建った粗末な板屋根で、お茶の水の絶壁数丈の下から、足場を組み上げて張り出した、
もっとも、この辺一帯、聖堂の前から元町へかけては、恐ろしく淋しいところ、明治になってからでさえ、松平某の
臆病者の勇吉が、そこへスタスタと入って行ったのですから、笹野新三郎も少し面喰らいました。
しかし、一子新太郎の生死にも拘わる場合、
「ここでございますよ、旦那」
勇吉は案内顔に入っていきます。
「ここに新太郎が居るというのか」
「確かにここに相違ありません。
新三郎を中に誘い入れて、勇吉はそのまま外へ出てしまいました。
しばらく待ったが帰って来ません。なにぶんひどい闇で一寸先も判りませんが、床板一枚の下は、数丈の
「ハテ」
新三郎は立上がりました。愚直な勇吉を信じ切ってはいますが、何となく不安な心持になったのでしょう。立上がって戸口の方へ探り寄ろうとすると、床板の釘が抜けていたものか、それとも、
「あッ」
新三郎の身体は、数十尺の下へ、支えるものもなく落ちて行きます。
「へッ、へッ、とうとう
どこからともなく、闇の中の人声。
見るとそれは、今まで臆病者とばかり思い込ませていた若党の勇吉。妙に
「おーい
「勇吉か」
遥かに下からは応ずる声。
「野郎はどうなった」
「まだ落ちて来ねえぞ」
「そんな事があるものか」
「落ちて来さえすりゃア、ボチャンとか何とか音がするだろう――万一舟か岸へ
「はてな」
勇吉は左手の蝋燭を穴の中へ差し込むようにして下を覗きました。
「あッ、居るぞ、居るぞ」
「それ見ろ」
床の下の
言うまでもなく穴から落ちる
歯を喰い縛って辛くも身体を支えているうちに、上から射した蝋燭の光で、自分をこの九死の境に陥れたのは、臆病者の勇吉だとはわかりましたが、下の舟に居る相棒がわかりません。
その顔を見るつもりで、大骨折りで身体をねじ曲げると、最初に眼に映ったのは、舟の中の
「あッ、新太郎。――お静も」
と言ったが、どうすることも出来ません。
上の勇吉は早くもそれに気が付いたか、
「旦那、気が付きなすったかい。
憎々しくも歯を
「勇吉、お前は何だってこんな事をするんだ。随分目をかけて使ってやったはずだが、何の怨みでこんな非道なことをする――、俺を怨むのはともかく、罪も
新三郎は血を吐く思い、次第に力の抜ける
「まだ解らないのか。今下の舟にいる兄哥に、
「えッ」
「悪い番頭が勝手にそんなものを
「…………」
「いかさま枡を拵えた張本人の番頭は、それっきり行方知れず。俺達兄弟の怨みは、両親に縄を打ったお前――与力笹野新三郎にかかるのは当り前の事じゃないか」
「…………」
「下にいるのは俺の兄哥の
「…………」
「兄哥、落してやるよ。気を付けてくれ」
「よし心得た。宙に留めて竹槍で芋刺だ」
勇吉はどこから持って来たか、脇差を抜いて麻縄を切り始めました。
三本
「それ一本」
ブツリと切ると、縄の縒りが戻ってキリキリと三人の身体は宙に廻ります。
「もう一本」
「待て、待て勇吉。お前の怨みは筋違いだが、今更それを言っても始まるまい。――
新三郎は下から、わずかに支える身体をのし上げて、必死の言葉を絞りますが、赤い蝋燭の
「どうしような、兄哥」
「どうもこうもねえ。俺達は
「よしッ」
「さあ、あと一本だ、念仏でも
逆落しに毒々しい声。
「新太郎、お静、気の毒だが、お前達も聞いての通りだ。あきらめてくれ、一緒に死ぬんだぞ」
と観念を決めた新三郎、
「いい覚悟だ」
と勇吉が最後の一本へ刃を、
「南無――」
その時遅く、
宙を飛んで来たは一枚の銭。
勇吉の拳をハタと打って、思わず、脇差の手が緩むところへ、
「待て、待て、待て」
闇の中から、銭形の平次が飛出しました。
「えッ、邪魔をしやがる」
振り上げた脇差は叩き落されて、上になり下になり、しばらくとっ組み合いましたが、平次の力は遥かに優ったものとみえて、勇吉をとって押えて、猫の子のように
「どうともなれッ」
数十尺の下、夜のお茶の水の流れの中へ、水音高く投げ込んでしまいました。
*
平次が危機一髪のところへ駆け付けたのはこうしたわけでした。
三十間堀に利助を叩き込んで八丁堀へ引返した平次。主人新三郎が勇吉に誘われて出かけたと聞くと事件の秘密が鏡に映したように、
お静からいろいろの事情を聴かされた時、雇人のうち手引のあることも、役向きの事で怨みを買ったらしいことをも直観してしまった平次は、それから三日経たないうちに、独特の機関で奉公人の全部の身許を洗い上げ、秘し隠しに隠してはいるが、若党の勇吉が刑死した越後屋の倅であったことも、お茶の水に立ち腐れになった茶店のあることも知り尽していたのです。
勇吉が「お茶の水辺」と言ったと聞いて、大方事件の落着きを察した平次は、
新太郎やお静と一緒に、大骨折りで茶店の床へ引上げられた新三郎は、
「勇吉兄弟を捕えろ」
と言うと、平次は暗い夜の水を眺めながら、
「多分死にましたよ、放っておきましょう。親が無実で死んだと思い込んでいるんですから、可哀想じゃございませんか――それに、あの兄弟は二度とあんな
と、けろりとしております。