……渡しをあがったところで田代は二人づれの若い女に呼びとめられた。――小倉と三浦とはかまわずさきへ
「何だ、あれ?」
すぐにあとから追ッついた田代に小倉はいった。
「あれは、君……」いいかけて田代は「慶ちゃん、君は知ってるだろう?」
それがくせの
「チビ三郎の
ずけりと
「チビ三郎?」
小倉はその、体に合せて小さな眼を眼鏡のかげにすくめるようにした。
「千代三郎さ、あの。」すぐに田代は引取って「成駒屋んとこの、それ……」
「あゝ、あの
「だからチビ三郎よ。」
ずけりとまた三浦はいった。
「どっちだ、しかし?」小倉はその
「ハイカラのほうだ。」
「それなら大したこたァねえ。」
「ねえとも、あんな。」三浦は吐出すように「だのに、あの。――何だ、あのふやけたざまァ……」
「なぜ?」
「そうじゃァねえか、なぜって? ――
「多寡が何だって?」
「役者のよ。」
「と、われ/\は? ――そういうわれ/\は……?」
「だからよ、おなじ流れの身だからそういうんだ。――ことさら安くするんじゃァねえが、そうならそうのように、役者のかゝァならかゝァらしく、まるで知らねえ
「だって、それは……」
「それも堅気の上りとか何とかいうなら仕方がねえ、手めえだって
「…………」
田代は口をつぐんだ。
「どだい気に入らねえ。――あんまりものを知らなすぎる……」
三浦は一人でそう毒を……やがてそれが「三浦幸兵衛」と仲間うちにいわれる所以の……ながした。小倉は、どこを風がふくといったかたちに、冬がれや、冬枯の……しきりに一人、句をあんじながらあるいた。
いたずらにだゞッ広くひろがった向島の土手。――桜といったら川のほうにだけ、それも若木といえば聞えがいゝ、細い、
「おや?」
急に田代は立留った。
「何だ?」
その
「
「牛の御前が?」
田代と一しょに三浦も土手の下をみた。――なるほど、そこには
「何てこッた。」
三浦はいった。――舌打するように。――半ば自分にいうように……
「どうしたんだろう、しかし。――どッかへ引越したんだろうか?」
その尾について田代はいった。
「そうには
「焼けたんだろうね、こゝ?」
「いつ?」
「いゝえ、震災のときに。」
「大焼けのこん/\ちきだ。――一めん、こゝいら、火の海になったんだ。」
「水のそばのくせにどうしてだろう?」
「その水が燃えたんだ。――たのみにおもうその水まで燃えてながれたんだ。――だから助かろうとして川ん中へ飛込んだ奴がみんな逆に命をおとしたんだ。」
「だけど、それは……?」
「みねえ奴には分らねえ。」ついと三浦は突ッぱなして「とてもあとからおもい及べるこっちゃァねえ。」
「そうかなァ。」
渡しでいま越して来た川の上をいまさらのように田代はながめた。――どんより一トいろに、冷めたく塗りつぶされた水のうえに浮いたいくつもの船。――浮世はなれた感じにぼんやり浮いているそれらのなかを縫っていそがしく白い波を蹴立てる蒸汽。――それは、田代の、いまのようにまだ役者にならない時分、
「げんざい吾妻が死んでいる……」
ふいと小倉がうしろをふり返っていった。
「えゝ?」
田代は
「いゝえよ、吾妻はこゝで死んだんだ。」小倉はしみ/″\した
「あの人が。――あの人が、しかし……」田代はいった。「どうしてそんな死に方を。――大阪で聞いてあたしァびっくりした。――みんな、いゝえ、はじめに聞いたときには誰もほんとうにしなかった。」
「そうだろう、それは。」
「それにあの人。……といえば麻布の
「そうだ、それは。」小倉はうなずくように「これが吾妻でなくって三浦とでもいうなら、たとえそれは麻布が四谷に住んでいたにしろ、そうかい、やられたかい、あの男? ――どうで満足に畳の上で死ねる奴とは思わなかったが矢っ張そうだったかい? ――因縁という奴は矢っ張……」
「
三浦はわざと不機嫌にいった。
「いえば、しかし、そんなもんだ。」小倉はいっそ真がおで「吾妻のようなあんな善人があんな終りをしようとは誰しも思わない。――そこへ行くと君なんざァ、筋はいう、にくまれ口はきく、嫌がらせはいう。――誰をつかまえてもロクなことはいわねえ。――だからそこは人情で、三浦がこれ/\だそうだ、向島で可哀そうに焼死んだそうだ。……といったって誰もかばい手はない、ざまァみろ、いゝ
「だから、人間、
それに乗って田代もいった。
「何をいやァがる。」三浦は逆に「俺にいわせれば吾妻こそ心がらだ。――
「すぐだ、それ。」田代はすかさず「どうして心がらだ? ――どうしてあの人が心がらだ?」
「
「だって、それは。――仕方がないじゃァないか、それは。」
「なぜ仕方がない?」
「だってそうじゃァないか? ――
「よく知ってるな?」
「聞いたさ。――あとですっかり聞いたから知っているさ。」
「じゃァ、吾妻が、どうしてそんな公園の芝居へ……それも喜劇の一座へなんか行くようになったかそれも知ってるだろう?」
「それは知らない。」
「何だ、知らねえのか、それを?」
「そんなことまでは知らないさ。」
「金になるからよ。」
「殴るぜ、ほんとに。」
田代はいきなり立留って大きな声を出した。
「なぜ?」
三浦はわざとそうすました。
「
「誰が?」
「あたしがさ。」
「あたりめえじゃァねえか。――いわなくったってそんな分ってるじゃァねえか。――どんなふみ倒しの屑屋にみせたって
「そんならそうのように。――そうのようにすこしは扱ってもらおう。」
「どうすればいゝんだ?」
「公園に出れば金になる位、このごろじゃァ、おい、三つ子だって知ってるんだよ。」
「だって知らねえといったじゃァねえか?」
「それは相手があの人だからだ。――あゝいう金なんぞにこだわらない吾妻さんだからだ。――そうでもない、どんなまた蔭にいきさつが……」
「下りるんだ、さァ……」
いつかまたさきへ立ってあるいていた小倉がそういってそのときふり返った。――そのまゝ三人は長命寺のほうへ土手を下りた。
門……といってもしるしばかりの柱を左右に立てたゞけ。――一トすじつゞいた敷石の両側に、いろんな恰好をしたいしぶみの、
「
三人は
「本堂だって、みねえ、焼けたッ放しだ。」
突あたりの、ぽつんと空いた地面のほうを小倉は頤で指した。
「あゝ、ほんとに。」田代は再び歎息するように「驚いたなァ、しかし……」
「ちッともまだ手がついていねえんだ、こっちのほうは。」
「そうなんだねえ。――銀座なんぞあるいている分にはちッとももう
「こんな風にしてだん/\名所もくそもなくなって来るのよ。」
そばから、三浦は、はッきりそう結論を下すようにいった。――桜餅やの裏っ側に二三本咲き残ったコスモスも、その下にすくんだ鶏のかげも、柳北の碑の鼻の欠けた柳北の顔も、すべて惨めな、空しい、霜に荒れたそのあたりのけしきだった。
「……まだコスモスの咲き残り。」
小倉は自分にそう口の中でいってみた。――それへ附ける
むかしはあった……に違いない裏門の、しるしばかりの石段をあがって三人はまた土手へ出た。
「けどしかし、あの人。」ふいとまた田代はいった。「どうして、しかし、あの人が……?」
「…………?」
だまって三浦は田代のほうをみた。
「吾妻さんさ。――あの人のこったから、自分からそんな売込むなんてわけはないと思うが……?」
「そんな器用なことの出来る男ならいつまであゝピイ/\してやァしなかった。」
「といって買いに。――さきから買いに来るってことも。……一体あの人のどこに眼をつけたんだろう、さきじゃァ?」
「ふん?」
三浦はわざと鼻でわらった。
「芸は勿論、
「………」
「それはあれだけの人だ。――あれだけの
「そんな役者じゃァねえ。」
と、三浦は、じゃけんにそれを
「そんな役者?」
「そんな潰しのきく役者じゃァねえ。」
かぶせてまた三浦はいった。
「けど、それは……」
田代は
「
「でも、しかし……」
「喜劇が出来るの出来ないの、そんなどころの沙汰じゃァねえんだ。――どだい、そんな、――はじめッからそんな
「そ、それァいけない、それァうそだ。」田代は躍起になって「そんなことをいうッて法はない。」
「あるからいうんだ。」三浦はあくまで冷かに「
「そんなこといったってそれァいけない。――以前はどうでも――以前はどんなだっても『矢の倉』へ来てからは――『矢の倉』の弟子になって東京にいついてからは……」
「それッていうのが手めえで光ったんじゃァねえ。相手に光らせられたんだ。――無理から相手にそうさせられたんだ。――それには、
「それにしたって。――それにしたって、しかし……」
「
「あんまり、だって、いくらなんでも
「俺だって
すぐ、また、三浦はいった。
「じゃァ、なぜ。――そんなら、なぜ?」
「俺もあの男をむかしから知っている。」小倉はしずかに中をとって「だからしだいはよく知っている。――が、三浦のようにいってしまっちゃァ実も蓋もねえ。」
「が、それに違えねえもの。――あの男の巧いの味があるのといわれたのは畢竟『矢の倉』の大将のつかい方がよかったからだ、いえば、それァ、あの男ばかりじゃァねえ。――菱川だって西巻だって古く『矢の倉』のうちにいるものはみんなそうだ。」
「が、そこはあの男は正直だった。――自分でよく知っていた、それを。――菱川や西巻のように決して自分をそれほどの役者たァ思っていなかった。」
「だから……だからいうんだ、俺は。」三浦は力を入れて「世間じゃァ、しかし、いっぱし手めえで納った役者のようにあの男を思っている。それじゃァ可哀想だ、あの男が……」
「じゃァ何だって公園へ。――何だって、あんなとこへ……?」
田代は突ッかゝるようにまた話をあとへもどした。
「買われたんだ。――立派に引ッこ抜かれたんだ。」三浦はしかしケロリとした感じに「が、さきじゃァ役者として買ったんじゃァねえ、おもての人間として買ったんだ。」
「おもての人間として?」
「そうよ。――敵は本能寺、何もあの男がほしいんじゃァねえ、もっと外に入用なものがさきにはあったんだ。」
「…………」
「分らねえか? ――さきじゃァ若宮がほしかったんだ。」
「若宮君が?」
「若宮を引っ張りたいために吾妻を引っ張ったんだ。――若宮にとって吾妻はたった一人の伯父さんだ。――つまりはだから
「だって、それは……」
「何が?」
「いゝえ、若宮君を。――人もあろうにあの人を。―――そんな乱暴な……」
「そうよ。乱暴よ。――随分無茶な話よ。――が、それを承知で無理からしかけたいくさだ。」
「それより若宮君を引っ張って。……いくら若宮君が綺麗だからって、いくらあれだけの人気をもっているからって、あの人を引っ張ってあの人に喜劇の出来ようわけがないじゃァないか。」
「誰が若宮をつかまえてそんなことをさせる……」
三浦はわざと声を出してわらった。
「矢っ張じゃァ表の人間にか?」
田代は皮肉のつもりでいった。
「新派をやらせるんだ、新派を。」三浦はそれにはこたえず「はじめはあの
「そんなことを、あの、楽天団の奴は?」
「どうして、あの楽天坊主、一ト筋縄で行く奴じゃァねえ。――肚の底を叩いたらどんなまだ
「が、若宮君。――勿論、若宮君、乗りゃァしなかったろうね、そんな話に?」
「気の早え。――まだ、その、吾妻を引っ張ったばかりなんじゃァねえか。」
「だって……」
「ほんの、まだ、小手調べのすんだばかり。――ちょうどそこへがら/\ッと来たもんだ。」
「あ、地震……」
「何もかもそれで市が栄えたのよ。」
「と、吾妻さんは……」
「だから一番馬鹿をみたのは吾妻だ。――わざ/\死にゝ狸穴から這出したようなもんだ。」
「ほんとうに。」
「いゝやな、しかし……」ふいとまた小倉は口を出した。「その代りには、あの男、生れてはじめて二千と三千
大倉の別荘のまえをすぎていつか三人は中の渡しのまえをあるいていた。――そこの、入江になっているすこしの部分の、いま汐のあげている最中であろう、たっぷりした感じにふくれた水が、二三本の枯れた雑木の影と、まだ出ない渡しの中の若い女の赤い帯とをさびしくうつしていた。
「あい、御免よ。」
「市か、もう……?」
つぶやくように小倉はいった。――聞えなかったのか、三浦も、田代も、二人は何ともいわなかった。
やがてまた三人は土手を下りた。それが向島へ来たそも/\の目的の、百花園へ行くために、下りてすぐの道を左へ切れた。そこには
「変ったなァ、こゝいらも……」しげ/\と田代はみ廻して「けど、焼けなかったのかしら、こゝは?」
「焼けなかったんだ。」小倉はこたえて「わずかなところでこゝいらは助かったんだ。」
「それにしても一めん田圃だったんだがなァ、せんには……」
が、そこをまた右に折れると大きな
「まだか、おい?」
三浦のそういうのをわらって小倉は
「そこだ。――そこにもうみえている……」
「春夏秋冬花不断」「東西南北客争来」とした二枚の
「しずかだなァ。」
田代は感歎するようにいった。
「あたりめえよ。――この寒空にこんなとこへ来るのはよッぽどすいきょうな奴かヒマな奴かだ。」
「じゃァわれ/\は。――どっちだ、われ/\は?」
「こちとらは両方よ。」
「両方?」
「そうじゃァねえか? ――すいきょうばかりじゃァねえ、ヒマだから。――ヒマで、もう、体をもちあつかっているんじゃァねえか?」
「たまにはいゝんだ。――たまには骨休めに……」
「といってるうちに頤の干上るのを知らねえな。」
「ふん、
「まァ安心しねえ、当分芝居はあかねえから。」
「いゝよ、あかなくっても。」
「
……三人の行くてには、まだ刈られない
その枯薄のあいだを三人は池のふちへ出た。そこには、
「何と、また……」感歎するようにまた田代はいった。「
「いつ来たんだ、お
「いつ来たって、もう。――よっぽど
「七八年?」
「だのに――だのに、ちッとも……」
「俺なんざァ日露戦争のすぐあとに来たっきりだ。」三浦はわらいもしないで「覚えているだろう、貴公は? ――その時分こゝで『怪談会』のあったことを?」
「知らねえ。」
小倉はハッキリこたえた。
「そんなわけァねえが?」
「日露戦争の時分じゃァ、まだ、こっちは旅をあるいていた。」
「じゃァ俺のほうが、さきへ君より東京へ出て来た勘定か?」
「そのはずだ。」
「俺にしたって、しかし、出て来たばかりのときだった。――歌舞伎座で『矢の倉』と、死んだ柳田さんとが合同して『牡丹燈籠』を明治に直した『恋無常』って狂言をやることになった。――で、そのまえに、いまでいえば宣伝だ、景気づけにこゝで『怪談会』をやったもんだ。――大した、また、それが人気になった奴よ。」
「誰が来たんだ?」
田代が口を出した。
「誰がってみんな来たのよ。――東京中の新派という新派の役者はみんなあつまった。――それへ持って来て
「で、一体どんなことをしたんだ?」
「それがよ、はじめのつもりじゃァ皮切りにまず商売人が怪談ばなしを一席やる。――つゞいて誰かそんな話を持合している奴が五六人出てせい/″\怖がらせる。――と、ちょうどそのうちいゝ刻限になるから、一人でこの草の中を通ってあずまやへ行き、そこへめい/\名前を書いて来るという趣向……だったんだ。――たか/″\来て四五十人のつもりだったからそんなことも
「と、二百……」
「うそをいやァ隣の料理屋……といったっていまあるあれじゃァねえ……どの座敷も人で身動きも出来ねえ
「いゝことをいやァがる……」
そういいながら小倉は池に沿ってしずかに足を運んだ。
「そうなったらもう趣向も蜂のあたまもあったもんじゃァねえ。」三浦も田代もともにそのあとに従いながら「七月はじめの夜の短けえさかりだから、一人ずつその名前を書きに行った分には夜が明ける。――そこで二人ずつ、三人ずつ――多いのは五人十人隊を組んで押しかけるんだから凄いことも何にもねえ。――こまったのは虫笛だ。――矢っ張それもはじめに趣向して、どしこと虫屋から仕入の、あっぱれ草の中へ
……で、これではいけないと急に
「新参のなさけなさには嫌といえねえ。――そこがいまの大部屋と違うところで、その時分そんなことをいおうものなら、生意気な野郎だ、ふざけた畜生だで折角辛苦して
「何にしたんだ、さんだらぼッちを?」
「尻へしいたのよ。――そのうえにつぐなんで、一ト晩中、蚊にくわれながらピイ/\やったのよ。」
「で、うまく行ったのか、それ?」
「うまく行くも行かねえもねえ、大ていの奴は感づいて
「それじゃァ引っ込がつかないじゃァないか?」
「でも、はじめのうちは、それも奉公のうちと思って気が張っていた。――だん/\夜の更けるにつれて眠くはなる、腹はへる、冷え上っては来る。――こんなことなら北海道で御難をくってたほうがよっぽどましだった。――俺ァそのときしみ/″\そう思った。」
「
田代のそう笑いかけるのを、
「じゃァねえ、ほんとうだ。――ほんとうのこった。」三浦はすぐに押えて「そのときッきりだ。――そのとき来た以来だ。」
草に、木に、水に、夢のようにすぎた二十年の月日の、どんなその破片でもいゝみつけたい、さすがに三浦もそうした寂しいとりなしをみせた。――夏なら
「君は来るのかい、始終?」
小倉のほうを向いて田代はいった。
「始終も来ねえが三月に一度位ずつは来る。」
「何しに来るんだ? ――矢っ張発句のほうの……?」
「そうじゃァねえ、ぶらッとたゞ来るんだ。――芝居のたまの休みにこゝへ来てぶら/\するほどいゝ心もちのものはねえ。」
「三浦の釣堀と一対だ。」自分だけ田代はうなずいて「どうだ、そっちは? ――行ったかい、もう?」
「行かなくってよ。――二三日つゞけて行ったが面白くねえから
「どうして?」
「いま小倉のいった通り、俺の釣堀だって芝居のたまの休みに、それこそ
「そうよ。」
「けど。――けど、それは……」田代はあくまで肯えない顔で「
「どうしてそれがお
「けど、あたしァ、
「いうと思うのか、正直に?」
「それァいうと思う。――げんにあたしァ、来月はどこです? ――そういってあたしァ聞いたんだ。」
「何といった、そうしたら?」
「どこになるか小屋はまだ分らない……」
「みねえ、それ。――いゝ証拠じゃァねえか、それが。――そも/\幾日だと思うんだ、今日を?」
「十二月の十五日さ。」
「いつものことにしてみねえ、いつもの? ――いまごろまでいつも小屋も決らねえ、狂言も分らねえ。……あったか、いまゝでに、そんなためしが?」
「それはなかったさ。」
「つまりは会社と手が切れたんだ。――俺たちァ、もう、みんな会社をクビになったんだ。」
「そ、そんな馬鹿な……」
「いゝさ、まァ。――どうせいつか分るこった。」三浦はそれを見透かすように冷かに「お
「でも。――でも、しかし、そうならそうのように……」
「止せよ、また。」
小倉は眉をひそめるようにした。
「だって、君……」
「はッきりそうとまだ決ったこっちゃァねえんだ。」小倉はしずかに
「と、じゃァ、矢っ張……」
「かりにそうなったっていゝじゃァねえか? ――俺たちには『矢の倉』というものがついているんだ。――『矢の倉』というしっかりした師匠がついているんだ。――会社と縁が切れたって天下に
「それは――それはそうだけれど……」
「師匠にさえくッついていれば、あの師匠、決してそんな座員を路頭に迷わせるようなこたァしねえ。――喰ってく
「…………」
そのまゝしばらく話は途切れた。――土橋をわたり……土橋の下には枯れた蓮の太い茎がらちもなく水に潰っていた。……障子の閉ったお
「お、鶴がいるぜ、鶴が?」三浦はどんなものでもみつけたように「むかしァいなかった。むかしァあんなものはいなかったぜ。」
そういいながらすぐまたその檻のほうへ立って行った。
「どうした、おい、田代?」小倉は女中の運んで来た
「急にいま……何だかこう急にいまおちぶれたような……」
「おちぶれた?」
「そんなような、心細い、なさけない気になったんだ。」
「馬鹿だなァ。」
小倉は憫むようにわらった。
小倉と、三浦と、田代と三人がそうやって向島をほッつきあるいているとき。――もっと、もし、くわしくいうなら、ちょうどその三人が長命寺の境内をまた土手へ出、死んだ吾妻一郎について三浦と田代としきりに議論をしながらあるいているとき、おなじ一座の西巻は……かれらの兄弟子で古い三枚目の西巻金平は一人寂しく矢の倉の
その日、西巻は、その前の日田代もそうしたように久しぶりで師匠のところへ顔を出した。歳暮の挨拶かた/″\その後の模様……というのは、十一月の、会社では
というのも畢竟、西巻は、同じ師匠のうちのものになっていても、小倉や三浦、死んだ吾妻なんぞとはそも/\の育ち……役者としてのそも/\の育ちが違っていた。そのあるいて来た道がまるで違っていた。小倉でも、三浦でも、吾妻でも、いえばそれらの人たちは、みんな好き勝手に役者になり、さんざ旅を叩いたり、自分大将の一座をもって押しまわしたり、
ことのついでにいってしまえば、もと西巻は、日本橋の
その午後、すぐかれは支度をして、その浅草座座附のある茶屋に倭をたずねた。
あくる日、かれは、いわれた通りの
その日からすぐかれは稽古に入った。わたされたかれの役は「戦争」の場に出る総出の支那兵だった。
毎日いさんで芝居へかよった。
大枚十六銭ずつの日給をかれはもらった。
倭一座のその興行は大当りに当った。――たゞに当ったばかりでなく、その一ト興行によって、「書生芝居」というものが東京の劇壇にはッきりした存在を……ゆるぎのない根ざしをもつことになった。役者としてよりも興行師としての手腕をより多くもつ倭は、その機を外さず、すぐまたかぶせて二の矢を継いだ。今度は前とまるで眼さきの変った探偵芝居をやった。――そのとき二十五人のその臨時雇のうちからさらに
見習生になると一しょに、改めてかれは、自分から由良の草履をつかむことにした。そのあとまた乙部座員になり、大部屋頭になり、首尾よくついに甲部座員に昇進するまで三年とかれはかゝらなかった。どん/\かれは出世した。――
倭とわかれて由良の手もとに返ってからは一層その影が舞台に濃くなった。由良の一座になくてはならぬ愛嬌ものになった。かれが出るとわけもなく客は喜んだ。劇評家たちは、その
ちょうどそのころである。市村座で『闇黒世界』という西洋
かれは口惜しかった。その晩、一ト晩、まんじりとも出来なかったほど口惜しかった。――夜明けに三十分ほどトロ/\としたと思うと、いつだか歌舞伎座でみた『
が、そうはいっても表立ってまだそんな苦情のいえる役者ではなかった。たゞお客の間に評判がいゝというだけで、甲部座員とはいえ、いたってまだ楽屋では
せめてその役をうけとった奴がどんなことをするか? どんな不味いことをしてカスをくうか? ――よそながらそれをみて、ざまァみろ、出来るもんか、そんなこって師匠がうんというものか、そういってひそかに自分だけ溜飲を下げることが当時のかれとして出来るせい/″\の心ゆかせだった。その目的でばかりかれは稽古に入った。――生憎なことに、また、そのときに限って、かれの与えられた役は凝ろうにも凝りようのない車夫の役たった一つだった。
案の条、その役者、一日稽古をしたゞけで落第だった。体のおもうように動かないのがそも/\由良の気に入らなかった。軽く、たゞもう軽くというのが由良の註文だった。――とてもだからいけなかった……
「出来なきゃ仕方がねえ。……出来ねえものを無理にやれとはいわねえ。――だが、それじゃァこっちの芝居が出来ねえ。」
……つねはそうした荒い物言をする由良ではなかった。たゞ舞台のことについてだけまれにそう癇癪を起して巻舌になった。同時にそうなるとこれ何う車を横に押すか分らなかった。――誰も、たゞ、手をつかね、鳴りをしずめてその雲行の険しさをみまもるばかりだった。
「軽業師を呼んで来ねえ、軽業師を。――軽業師なら出来るだろう。」
とゞ話はそこまでこじれて行った。そこまで由良はつむじを曲げた。――そのときたまらなくなってかれは飛出した。――夢中でかれはその役をやらしてくれと由良のまえにいった。
「出来るか、お
「出来ます。」
「きッとか?」
「へえ、きッと。」
その晩からかれはうちへ帰らなかった。一人芝居に残って稽古をした。蝋燭をつけて三階で夜の明けるまで一心に稽古した。
一心にそう稽古した甲斐はあってみごとにかれは成功した。一座のものさえ驚くようなケレンをかれはやってみせた。ことに最後のイルカ飛。――立っている人間を一しょに三人飛越すくだりについては、初日にみて、由良にしてその鮮さを激賞した。――果してその一ト幕が評判になり日々見物は突ッかけた。――こと/″\くかれは面目をほどこした。
と、ある日、その日も満員という大した景気の日だったが、いつもの通り十分にその「狂い」をみせたあと、いよ/\という最後のとき、どうした
そのまゝ楽屋へかつぎこまれたかれは一日一ト晩というもの意識を恢復しなかった。それほどの大怪我だった。が、
折った前歯は入歯によって
が、かれの人気のそうした風にたかまって来たのも、畢竟はそれは、由良の、由良一座の人気の日にましだん/\たかまって来たのによってだった。倭とわかれたあとの二三年は、もと/\無理な旗挙だったゞけ、色々さまたげもあれば困難も伴った。一ト芝居は一ト芝居と蓋をあけるに先立ってまず金の工面をしてかゝらなければならなかった。小屋でも、本所だの深川だの浅草だのゝ小劇場、でなければ、腐った、何をかけても客の来ないまゝ誰もかまい手のないようなぼろ小屋、そうしたところでなければその一座の体を入れることの出来るところはなかった。由良はそうした小屋から小屋を転々した。――その間で、倭のほうは、幾たびか歌舞伎座の檜舞台に成功したあと、座員をつれて息抜に洋行したり、小さいながら東京の真ん中に自分の持小屋を建てたりして並びない全盛をみせていた。
が、一トたび由良の人気をえたあとはその全盛に拮抗するくらい何のわけもないことだった。間もなく、由良は、日本橋
かれが外の二人と一しょに由良の「三羽烏」と呼ばれだしたのもそのころだった。――外の二人とは、一人は「
が、菱川は、かれとはまた違った意味で如才なかった。倭と離れて由良の手に附いた当時は、勿論、だから、由良君、由良君と、呼ぶにしても君づけだったが、だん/\由良が時をえて来るにつれ、いつかそれが由良さんになり座長になり、いよ/\「中洲」の芝居へ根を下ろすとなったその前後には、完全にもう旦那、旦那……面とむかってさえちゃんとそう呼んでいた。――由良は弟子たちに、いつのころからか「先生」と呼ばせず、つねにそう「旦那」と呼ばせていたのである……
だからそうしたそも/\を知らないものは、だれも菱川を、かれだの鷲尾だのと同じおんこ譜代。――大ぜいいる弟子たちのなかで特別ゆかりの深いものと思っていた。――そう思って勝手に「三羽烏」の一人にした。――いっそそれを喜んだ菱川は、それからというもの、一層それまでより羽を伸ばし、ほう/″\由良の贔負さき……兜町だの、木場だの、土木のほうだのゝ客さきを縦横に飛びまわった。
かれにするとそれが面白くなかった。面白くないというよりもっとすゝんで苦々しかった。さらにすゝんで不平だった。機会のあるごとに、かれは、そのいわれないことをだれを掴えても話した。が、それを聞いて、しんじつ眉をひそめるものよりも、手を打って「
「当世だ。――それが当世だ。――器用にそう立廻る奴のほうがいまの世の中じゃァ勝利をえるんだ。」
実際そうだった。如才ないといっても
そうした、その、惨めなけじめをくわないためには、後手にまわらないためには、かれとして飲んだくれるより外に方法はなかった。たゞもう出鱈目にそうするより外はなかった。そうでもしなければ恰好がつかなかった……
「止せよ、おい、そんな無理に飲むなよ。」
「仙人」という綽名をもった鷲尾は……もう一人の三羽烏はつねにそれを心配した。――が、世間ではそうしたかれをもっていつか金箔附の酒のみにしてしまった。
そのあと二十年。――そのあとの二十年はかれにとって、
……とめどなく伸びたといって、また、由良の、由良一座のその名声は、その二十年の間に、到頭また「中洲」から東京の真ん中にその一座を乗出させ、歌舞伎座だの新富座だの、そのころあった東京座だの、そうした大きなところを隈なく打たせ、それこそ満都の人気を一身にあつめさせた。――日露戦争のあとで、世間の景気もいわれなく
その後、そのころ出来たある大きな演芸会社との契約が出来てその専属となり、
が、立てるものは立て、押えるものは押える由良の律義さは以前とすこしもかわらなかった。従って菱川もかれも、身分だの
が、かれにとっては何のことでもなかった。かれにすると、むしろ、折合のつかないほうが勝手だった。義理を欠いてもそんな金をためる奴、金さえためればいゝという奴……そんな奴と一つにみられてたまるもんかというかれの肚だった。かりにも役者じゃァないか、芸人じゃァないか、芸術家じゃァないか。――その役者が、芸人が、芸術家が、うそにも
が、そうはいっても在りようは、そのために、菱川のその
が、かれにとって、菱川との間はそれでよくっても、由良との間はそれではいけなかった。どうでもいゝですましてはいられなかった。――というものが、年々だん/\師匠との折合がつかなくなって来た。……というほどのことはなくっても、その間に、へんにどこか
「中洲」時代にはそういってもよく
そうなると自然、そこに芝居以外で顔を合せるということもなくなる勘定だった。神詣りとか、座敷とか、義理さばきとか、そうした色々な
が、その後、御新造も亡れば、今戸のそのおもいでの深いうちも震災で、跡方なくなった。――それ以来、由良は、今戸を捨てゝ今の矢の倉へ移った。八丁堀と矢の倉だから、まえの今戸のことにすれば、すぐもう隣といってもいゝ位の近所になったのである。以前だったら、毎日のように、それこそ喜んで
だから、今日の訪問は、実に
「じゃァお嬢さんは?」
「お嬢さまもお留守でございます。」
「どこへおいでになった?」
「お嬢さまは今日はお寺詣りにおいでになりました。」
「と、おきたさんもいないのか?」
「へえ、おいでになりません。」
おきたというのはむかしからいるお嬢さん附の古い女中である。この女中がいれば誰がいなくっても「まァ西巻さん」と出て来てすぐ恰好をつけてくれる。――でなくっても、いゝえ、押していえば、書生でも
「ぼくァ西巻だ。――よろしく申してくれ。」
そういってかれは、手に下げた小田原屋の漬物の樽……かれの歳暮の挨拶はいつもそれときまっていた……をそこへ置くと、そのまゝすぐ、その無愛想な女中をうしろに門の外へ出た。――で、一人寂しく矢の倉の
「おや?」
急にかれは立留った。――その少しまえ、向島で、
そこに、河岸から、桟橋でつながれた船料理。――いつみても客のない、ガランとした……ことに寒い時分にあって一層それの酷い……いえば手持無沙汰な感じに水の上をふさいでいる大きな船のさまと、それへさそう無器用な門とのぽつねんとそこに突ッ立っているのはむかしながらのけしきだが、そのあと、そこから両国の袂の、一銭蒸汽の発着所のあるところまで、以前はそこに、河の眺めを遮る何ものもなかった。むしろ寂しい位おおどかに
「酷くなったなァ……」
自分に歎息するようにかれはいった。――矢っ張、田代が、長命寺の境内の
かれは眼を転じて電車通りをみた。そこには広い道の上を電車に交って自動車と自転車とが目まぐるしく
「変ったなァ……」
じきにかれは歩き出した。――あてもなく一人寂しく両国のほうへかれはあるいた……
「で、どこへ行こう、こゝへ行こうのあげく向島へ……」
「とは、また、酷く
「というのが、いゝえ、その病気見舞に行ったさきというのが吉野町。……毘沙門さまのすぐそばなんで帰りに山谷堀についてぶら/\あるいているうち、どうだ、百花園へ行ってみねえか。――小倉君がそういい出したんで……」
「と、あなたと、小倉さんと、それから三浦さんと……?」
「それだけで。――三人だけで。――とにかく小倉君という人は御存じの通りの風流人、――ごみ/\したところよりしずかなところのほうが好きなんで。」
「いまの
「何にもみるものはありゃァいたしません。ほんとうの冬枯の、薄が枯れて立っているばかり。――人だって、だから、一人も入っておりゃァしません。」
「それには、一トころほど、百花園とあんまり人がいわなくなりましたから。」
「いわないのが当りまえ。――
「…………」
「いよ/\以て心細くなったという奴が、みんなその陰気なけしきに
「と、では、はじめから西巻さんは御一緒……?」
「……じゃァなかったんで。――ヒョックリそうこゝで落合ったんで。」
「あゝ、それで……」
「お互に、おや? ……ということになって、これ。――ちょうどそう、あなたのいまいらっしゃるところ、そこんとこに金平さんがいて、われ/\三人そのまえに陣取りました。――で、さァ四人でそれから飲みだしました。」
「と、もう、お三人のみえたときには、西巻さん、さきへあがっておいでだったんで?」
「二三本もう並んでおりました。――が、ちっともまだ酔っておりません。――酔っていないどころか妙にこれが沈んだ元気のない顔をしております。」
「はて?」
「それが――それが、いゝえ、
そういって、その一人は、話にほぐれてしばらく閑却してあった自分のまえの
「その日、金平さんは、『矢の倉』の師匠のところへ歳暮に行った人なんで。」
すぐまた田代はいった。「と、生憎、師匠も留守ならお嬢さんもいなかったんで、そのまゝ玄関で引っ返し、
「いゝえ、そういうこと、わたくしなんぞでもとき/″\あります。始終みつけている光景でも、時の表裏で、いまさらのように、おや? ――そう思って
「そのなかで、いゝえ、もう一つ金平さんのビックリしたのは俥の通らないこと。――そんなにも自動車や自転車の通るなかで人力というものが一台も通りません。――空俥一つ通りません。」
「なるほど。」
「俥なんてものはなくなってしまったんだ、いつの間にか東京の往来から消えてしまったんだ、だれももうそんなものを相手にするものはなくなったんだ。……はッきりそうその証拠をみせつけられたような、何ともいえない心細い、いやァな気がしたというんですが……」
「西巻さんらしい。」
「そのまゝ電車通りを越して柳橋のほうへ入ったといいます。――義理にもすぐ電車に乗れない、とてもそのまんますぐうちへ帰れない……といったかたちの、そのトボンとした料簡で、代地だったら場所柄だ、一台位通るだろう。……そう思ったんだそうです。が、半チクな時間だったからか因果とやっぱり一台も通りません。――それにはすれ違う
「以前だったら通り切れるこっちゃァありません。」
「
「以前、いゝえ、木場の福井さんという方がおいでになりましてね。――わたくしなんぞも御贔負になりましてすが、この方が大した遊び手で、福井さんといえばどこの花柳界でもそのころ知らないものはない位。……とりわけ柳橋がお好きで始終あの
「と、当人のいうことでもまんざら懸値の……?」
「いゝえ、それは。――それは、もう、その時分だったら知らないものでも
……年の市の
「しかし、実際は……」すぐまた「うたむら」の主人は言葉を継いで「いつかはそれはそういうことになる、……そうなるときが来るとはわたくしどもでもそう思っておりました。が、こんなに早く、こうまで急にそうなろうとは。――わたくしどもにいたすと不思議……というよりは怖い気がいたします。」
「………」
田代は、鯛チリの、豆腐をすくいかけた眼を相手のほうに向けた。
「いゝえ、俥。――おんなし人間を人間が乗ッけて曳く。……いゝものじゃァござんせん、決していゝ図のものじゃァござんせんが、わたくしどもの若い時分には外に何にもたよるものがなかった。――鉄道馬車があり、円太郎馬車があったものゝ、いまの電車のように方々すみ/″\まで四通八達はしておりません。すこし遠みちをしようというとき、知らない土地へ行こうというようなとき……そういうときには嫌でもそれに乗らないわけにはまいりません。――つまりわれ/\、その全盛のときに生れ合したんで、よけいそれだけに無常を感じます。――西巻さんにしても矢っ張それ。――あなたがたのようなお若い方から御覧になったら、いゝえ、どうでもいゝことゝしかお思いになれないかも知れませんが……」
「うたむら」の主人はわらって
「いゝえ、あたくしたちにしたって、それは。――矢っ張それは春なんぞ、出を着た白襟の芸妓衆のそれに乗って通るのを、いゝなァ、綺麗だなァとうれしがってまいった玉ですから。」
「それさえこのごろは、新橋なんぞでは、三人と四人一しょだと円タクで運んでもらう。――そのほうが手ッとり早くもあれば、第一けいざいに上るといいます。――なるほど、それは、そうすれば
「一つにはしかし寒いんで……」
「いえ、御尤も……」
かるくそれを
田代は箸の尻を返して
「しかし、いゝえ、それは俥のことばかり申せません。」わらってまた「うたむら」の主人は話を
「それは、どういう方面の?」
「いゝえ、あなたがたにもまんざら御縁のなくないもので……」
「と、それは?」
「そうなるのがほんとうの……そうならなくっちゃァならなかった稼業ですが……」
「さァ?」
「芝居茶屋です。」
「…………?」
「以前わたくしどものいたしておりました稼業……」「うたむら」の主人はもう一度わらって「俥のほうは、これ、東京でこそ相手にされなくなりました。一ト足、東京の外へ出ればどうにかまだ露命はつないでおります。が、このほうは、どこにもそういう逃げみちがきゝません。――ぺしゃんこにされたらそれっきり、どうにも外に
「なるほど。」
「いつかそういうことになる、そうなるときが
「あたくしなんぞでも、それは、お茶屋さんのまえにずっとあの花暖簾のかけわたしてあった
「高島屋さんが西洋から帰っていまゝでの芝居の仕来りを改良なさろうとなすったのが明治四十一年。……一がいに茶屋や
「十五年……」
田代は感心したように首をふった。
「変りました。――実際この世界ばかりは変りました。」
「うたむら」の主人はしずかに銚子を取上げた。
「いま、しかし、芝居の一ばんのお得意さまを花柳界だなんぞといったら……」
「酷い目にあいます。――そんなことをいってるから時勢におくれるんだ。相手にされなくなるんだ。……目の玉のとび出るほど叱られます。」
「そこ。――そこなんで……」
「それについていゝ話。――あなた、遠州屋を御存じでおいでゞしょう?」
「えゝ、あの、清元のお上手な?」
「まァ/\素人にしちゃァ。――あの男、わたくしどもの仲間でも、いまだに五代目ほどの役者はないと思っていたり、空也念仏の連中と附合ったり、
「だって、それは?」
「随分、いゝえ、分らない話。――が、あの男のこってす、涼しい顔で、一寸、えゝ、事務所まで。――と、あなたさま、どなたでいらっしゃいます?」
「どなた?」
「遠州屋ですよ、わたし。――そういったらいかに相手が新米の女給さんでも分るだろう。……分らないまでも誰か分るものを連れて来るだろう。……そう思ったのが大へんな間違い、遠州屋さんてどちらの遠州屋さんでいらっしゃいます?」
「
「しみ/″\、遠州屋、あとで愚痴をこぼしました。――あんまり情なくって俺ァ泪も出なかった。――
「それァそうです。――遠州屋さんのそう
「と、わたくしどもでもそう思います。――が、一ト足しりぞいて考えるとそのほうがほんとう。――知らないほうがほんとうだという気がいたします。――つまりは西巻さんのいまの柳橋のお話……それとおんなし道理だと思います。」
「旦那のようにそうあきらめておしまいになっちゃァ。――あたくしなんぞ、まだ、そうなんだなァ、そういう世の中になったんだなァと思っても、いざとなると矢っ張そこにうぬぼれが首を出します。」
「それは、あなたは、お若くっておいでだから……」
「いゝえ、それが。――外のことじゃァそうもうぬぼれもいたしませんが……」やゝ鼻白んだかたちにわらって田代は料理場のほうをふり向いた。「下さいな、お銚子を。」
「ついでに此方へも……」と「うたむら」の主人もその尾について「お話が面白いもんでつい今日はいたゞきます。」
「折角、しかし、お一人で
「いゝえ、こちらはもう相手ほしやでおったところ。――そちらこそ飛んだ御迷惑で……」
「いゝえ、あたくしはもう。――それよりぶちまけて一ついゝ
「何ですか、しかし?」
「いゝえ、旦那なら。……きッと旦那ならハッキリいって下さるだろうと思うんで。」
「とてもそんなむずかしいことは……」
「いゝえ、やさしいことなんで。――『新派』っていうものはこのさきどうなりましょう?」
「…………?」
「それと『
「…………」
しばらくして「うたむら」の主人は口を開いた。「さァ……」
「お待ち遠さま。」
「あたくしは、いゝえ、御存じの通りの暢気もの。――ついぞ、そんなこと、思ってみたこともなければ、そばで誰が何といおうと平気なもんで、だからお前は
「それは、もう……」
「よく金平さんがいいますけど、ずっと以前旧派の人たちが新派に押され、古いものばかりやっていたんじゃァお客が来なくなったんで、いまのあの歌右衛門さんや幸四郎さんが、『
「それは、もう、それだけの
「そうでござんしょう。――ですから。――ですから、あたくし、
「お世辞じゃァござんせん、実際みなさん、しっかりした方ばかりです。」
「新しい芝居だの、剣劇だの……剣劇なんざァはじめッから問題にはなりませんが、『芸』ってことのうえで、この四人の足もとへでもよッつける役者が何人あります? それだけの修行をしているものが何人ござんす? ――旧派さんのなかにだってほんとに肩を並べることの出来る人たちは十人とはいないだろうとあたくしは思います。」
「そ、それァもう……」こと/″\く「うたむら」の主人は同感のように「ことに若宮さん。――若いけれど、あの方。――あれだけの女形さんは旧派にだって……いゝえ、いまの旧派の女形の中にはとてもあんな方はおりません。」
「そういって下さいますか?」
「それは、あなた、わたくしは大の若宮さん贔負。――顔のあの通りいゝ上、品があって、色気があって、何ともいえないしッとりした味があって、することからいったって女優なんぞ……いまいる女優なんぞそれこそ足もとへもよれません。――女形の天才。――あゝいう方のいる間はまだ/\女形は……女形はどうだなんてことに、いゝえ、なりっこございません。」
「それが――それが、その……」急に田代は遮るように「自分で、若宮君、女形をこのごろ嫌だといっておるんで……」
「女形を嫌だ?」
「ふつ/\嫌だから
「そ、それは、また……?」
かぶせて田代はいった。「ですから。――ですから、あたくし……」
……と、そのとき、しずかに入口があいた。
「何をしているんだな、おい。」みるなり田代はキメつけるようにいった。「
「お前のようなヒマ人じゃァないよ。」
入って来た小倉猛夫は、むッつりと、でも、「うたむら」の主人のほうへそれとないこなしをして、そういいながら田代のいるテーブルのほうへすゝんだ。
「でも、電話をかけたら、細君が出て来てすぐ行くといったじゃァないか?」
「うるさいからそういわしたんだ。――雨の中を、何も、幾たびもそんな人のうちへ行ったり来たりさせるこたァない。」
しずくの垂れる傘を
「おい、君、御紹介しよう。――日本橋の『うたむら』さんの御主人……というよりはもとの二長町の……」
「分ってる。」田代のそういうのを押えて「御挨拶はしないがお目にはよくかゝっている。――小倉です。」
いっそ無愛想に小倉は頭を下げた。
「いゝえ、わたくしも、舞台では始終……むかしまだ常盤座においでの時分からお目にかゝっております。」
それにこたえて「うたむら」の主人は愛想よく会釈した。
「舞台のまんまの、舞台もふだんもちッとも違わない、気のいゝ、ごく大味な……」
すぐ、また、田代のそばからそういいかけるのを「黙ってろよ、うるさい。――酔ってるのか、もう?」
「酔ってる。――すこしいま酔って来た。」
「だらしのねえ。――酔ってなんぞいるんなら来るんじゃァなかったんだ。――急な用だというから出て来てやったんだ。」
「さ、まァ、一つ……」田代はそれにはこたえず「酔ったって、そんな。――酔ったってちゃんと、新派というものがこのさきどうなる、女形ってものがこのさきどうなる? ――旦那と、いまその研究をしているところだ。」
「ふん。」小倉はそれに乗らず小女に「
「ですから。――ですから、あたくし……」田代はそのまゝ話をもどして「考えました。――考えました、あたくし……」
「しかし、それ? ――またどうして若宮さんが、そんな?」
「うたむら」の主人は注意深く田代の顔をみた。
「女形ってものは片輪なもの。――どうしたってそういわれるのがほんとうのもの。――どうしたってこれからは女優……女の役は女がやらなくっちゃァいけない世の中が来ている……」
「でも、そういっても、その女優さんたちがみんな
「喧嘩にならない。――だからそういいました、あたくしも。――と、それはいまゝでの見物……古くから芝居をみて来ているいまゝでの見物だけのいうこった。これからの、だん/\出て来るこれからの見物は決してそうみやァしない。――よし不味くったってこれからの見物にはそのほうがほんとうだ。いくらうまくったって女形は嘘だ。同時にまた
「なるほど……」
……運ばれた蟹の足をたんねんにむしりながら、小倉はそれにあずからず、しずかに一人、猪口のかずを重ねた。
「しかし。――しかし、この間の……」「うたむら」の主人はなお
「いゝえ、あれは、若宮君のこのごろでの当り役。――楽屋でもみんなそういっておったんで、そのわりにあれの評判にならなかったのは全く狂言がわるかったから。……残念だったと思います。」
「わたくしにいわせれば、うそもかくしもなく、新旧つッくるめたうえの今年中でのみもの。――そこまで、いゝえ、買いたいと思ったくらいなもので……」
「そういっていたゞくとあたくしどもまで肩身の広いわけになります。……けど、あれをやっている間でも、自分じゃァ若宮君、ちッともそれを喜んじゃァおらないんで、そばで何かいうものがあると、
「…………」
「げんにいわれました、あたくしも。――
「…………」
「これが評判が悪いとか、人気が落ちたとかいうなら気を腐らすわけも分ります。そうでないんだけこまります。――それだけ此方も。――いゝえ、いくら暢気でも、これ……」
「お幾つです、若宮さん?」
ふいと「うたむら」の主人はいった。
「あたくしより三つ上ですから二で……」
「と、来年三十三……?」
「そうなります。」
「で、どこかお悪い……ということもべつに?」
「えゝ、それは。――ほッそりしているわりには丈夫な方で……たゞとき/″\、どうかすると寝られない。――夜よく眠れない。――そういっちゃァよく、そのほうの薬を飲んでおるようですが……」
「あんまり、それは、詰めてものをお考えに……」
「そうなんで。――あんまりものを深く考えすぎるんで。――あんまり気を細かにつかいすぎるんで。――師匠もそれは始終心配しておるんですが。」
「役者なんてものはお天気のほうがいゝんだ。」
……と、そのとき、どう思ったか小倉が口を出した。
「お天気の?」
「そうよ、お前のようによ。」
おもむろに小倉は蟹で汚した指を拭いた。
「いや、これは、すっかりお
おもい出したようにそういって「うたむら」の主人の立上ったのはそれから間もなくだった。
「お帰りですか?」
田代はやゝ名残の尽きないかたちにいった。
「でももう、あなた、四時になります。」「うたむら」の主人はしまった時計をもう一度出して「今日は、実は、昼まえからうちを出ておりますんで。――区劃整理のことで田町の地主のところまでまいったかえり、ふいと思いついて吉原の……御存じでしょう、お直婆さん?」
「えゝ、知っておりますとも。――師匠の連中に始終来て下さいます。」
「あゝそうでした。あの婆さんはむかしから由良さん贔負でした。」
「そうなんで。」
「久しく逢いませんし、どうしているかと思って声をかけに一寸
「吉原には、しかし、あゝいう方をいつまでも……」
「と
「…………」
「これは、また……」「うたむら」の主人は機嫌よくわらって「では、おさきへ……」
「これは失礼いたしました。」
「いずれ、また。――そのうちに春にでもなりましたら、一度ゆッくり、
「有難うございます。」
「どうぞ由良さんによろしく。――では、小倉さん、御免を……」
「…………」
小倉はだまって頭を下げた。――
「あの大将、よく来るのか、こゝへ?」
小倉は銚子の代りをいいつけたあとでいった。
「うん、とき/″\来るらしい。」田代はうなずいて「あゝいう見物が大ぜいいてくれるとこちとらも心強いわけなんだが……」
「そうじゃァねえ。」小倉は眉をひそめるように「あゝいう客ばかりたよりにしているからわるくかたまるばかりなんだ。」
「止せよ、そんな。――そんな憎まれ口は慶ちゃんにまかして置けばいゝんだ。」田代は銚子を取って「さァ、ま、熱いのゝ来るまで一つ行こう。」
「何だ、それより、急な用っていうのは?」
「いま話す。――話すから、もっと、――もっと何か喰べないか?」
「酷く気前がいゝんだな?」
「いゝんだとも。――心得ているんだから、今日は……」
「大した景気だな。」
「景気だとも。――お金は小判というものをたァんともっておりまする、だ。」田代は全くの浮れ拍子に「
小倉はだまってしばらく田代の顔をみていたが、
「
いきなり吐出すようにいった。
「何が?」
田代はキョトンとした顔をふり向けた。
「いゝえよ、帰らねえんだろう、この間ッから?」
「…………」
急に田代は声を上げてわらった。
「どうだ、そうだろう?」
「さァ来た、熱いのが……」田代はそれにこたえず、小女の
「あれは十五日だから、十六、十七、十八、十九、――四日じゃァねえか、今日で?」小倉はいっそ憫むように「一しょか、三浦も?」
「一しょさ、みんな。」
「みんな一しょ? ――と、西巻もか?」
「金平さんが先棒をふったんだ。――慶ちゃんだってあたしだってそんな料簡は毛頭なかったんだ。」
「どうしたんだ、しかし?」小倉はもう一つ合点の行かないように「俺は、吾妻橋で、あすこですぐ西巻を自動車に乗せたものとばかり思っていた。」
「そのつもりだったんだ。そうするつもりだったんだ。――ところが金平さん、どうしても聞かない。――どこかでもう一杯飲もうっていうんだ。」
「随分飲んでいたじゃァねえか。――あれ以上西巻に飲めるわけがない。」
「でも、そういって聞かないんだ。――面倒だから、じゃァ、どこへでも行ってごまかせ、行きさえすれァそれで気がすむんだ。……ということになって仲見世までまた引っ返した。――それがいけなかった。」
「…………」
「手ッとり早くと思って洋食屋へ飛込んだ。――そこでまたうッかり五六本飲んだ。――と、今度は、慶ちゃんがガックリ行った。――あ、いけないなと思ったときには此方の眼もいゝ加減ちらくらしていた。」
「…………」
「さァ、金平さん、すっかり喜んでしまった。――はじめの元気どこへやら、だ。――どッかへ行こう、こう巧く顔の合うってことはないからどッかへ行こう。――何でもいゝ附合え。――何でもいゝから俺に附合え。――かゝることもやあらんかと、ちゃんとふだんから軍費は用意してあるんだと、腹巻からこれがざく/\札を掴み出す奴だ。」
「…………」
「で、行ったのは宮戸座の裏の待合。――まァ先生しばらく……どうなすったの、まァ、その後は……といったけしきで金平さん大した扱いだ。いよ/\恐悦の、すっかりこれがもて来い/\になったところへ現れたのを誰だと思う? ――昼間向島で逢った千代三郎の内儀さんだ。――驚いたよ、あたしァ。――だって、君、あの女、千代三郎のまえは金平さんだったらしいんだ。」
「…………」
「飲むんだ、また、これが
「…………」
「で、とうとう四日というものぐず/\にぶん流しの……」
「よく心細くなかったな?」
ずけりと小倉はいった。
「何が?」
「ふところがよ。」
「心細かったよ。――何としたって、君、慶ちゃんと二人の総財産金三円五十銭也だ。」
「知ってるからよ、それを。」
「いくら金平さんが心得ているにしたって、これ……」
「どうした、それで?」
「仕方がない、お詣りと称して外へ出の、チョコ銀へ駈けつけた。」
「チョコ銀へ?」
「いやな奴だけど、また、そういうときは調法だ。」
「どうした、そうしたら?」
「それが――それがまた不思議なことに。」田代は声を落して「さァさとばかりいとも器用に。――そういっても渋らずに……」
「出したか?」
「出したにも何にも。――大した御機嫌で入るならいくらでも持って行け……とまでいわなかったが……」
「で、いくら借りた?」
「百円。」
「…………」
「で、まだ、そッくり半分残ってる。――入るなら貸すぜ。」
「誰が借りる、そんな金。」
「どうして?」
「お前、それを何の金と思うんだ。」
「何の金と?」
「そうよ。」
「…………?」
ふッと田代は小倉の顔を見た。――なぜならその小倉の言葉のなかにたゞならないものが感じられたから。――弁天山の鐘の音の落ちかゝるように響いて、
……三浦と田代にわかれてうちへ帰ると一しょに西巻は病人になってしまった。そのまゝずっと寝込んでしまった。――要は飲みすぎ……連日の暴飲がたゝったには違いないが、一つには、そうでもしなければ家のものゝ手まえ恰好のつき兼ねるものがあった。――実際、西巻は、女房のまえに、何とそのふしだらの言訳をしていゝか分らなかった。はッきりいって女房や子供に合せる顔がなかった。友だちとの附合。……そういうにしても四日は長すぎる……
「何だって、俺は……」
たゞもうかれは悔まれた。思案すればするだけ自分のだらしなさがはッきりした。切上げかけてはもう少し。……器用に、じゃァ、もう一杯飲んで。……いま帰ったって
「酒なんぞ飲んでどこが面白いんだ。」
歎息するようにかれは自分にいった。――実際そうだった、実際かれには酒の有難さが分らなかった。三十年来、酒といえば西巻、飲むことゝいえば金平さん。――天下の酒飲みと人も許せば自分でも信じて来たものゝ……そう信じてめくら滅法飲みつゞけて来たものゝ、ほんとうに俺という奴は酒が好きなのかしら? ――とき/″\そうわれとわが胸に
「止せよ、おい、そんなに無理に飲むなよ。」
むかし、よく、鷲尾にそういわれた。あの「仙人」はそういってはよく介抱してくれた。あの男は、あの時分から、自分のほんとうの飲み手でないことをちゃんとそう知っていたのかも知れない……
「が、それにしても弱くなったもんだ。」
歎息するようにまたかれは自分にいった……
酔うことは酔った。酔うことはむかしだってすぐ酔った。もっといまより
「強いんだなァ、金平さんは……」
大ていのものはそれをみたゞけで感心した。
「不死身なんだね。――つまりはそうなんだね、俺は。」
それに対して、かれは、そういってはつねに
が、四十という声のかゝる前後からだん/\その不死身があてにならなくなって来た。そうして五十という声のいよ/\聞えて来たとき、いつかかれは飲むとすぐ眠くなるくせがついていた。文字通り前後不覚になるくせがついていた。ともすると二日酔の、一日ですまず、ずっとそのあくる日まで持越すといった風なくせがついていた。――勿論そうなっては、熱い湯も、熱い奴も、却ってその
が、かれは
「が、何だぜ、やまいが怖くって俺ァ酒を止めたんじゃァねえんだぜ。――病煩いなんぞ俺ァ気にするんじゃァねえぜ。――たゞ正坊が――正坊が可哀いから俺ァ止めたんだ。――正坊が中学へ
かれは真面目な顔で負惜しみをいった。
が、その禁酒は三月とつゞかなかった。いつともなしネジはもとへもどっていた。――すくなくもその正坊のめでたく中学の試験のうかったとき、有頂天になったかれは、すぐにその晩、仲間を大ぜい呼んで来て、たゞもう夢中にその晩一ト晩飲明したことだけはたしかだった……
「すっぱり、しかし、あのとき止めてしまっていたら?」死んだ子の年でとき/″\そう未練におもい返されることがあった。「つまりは……つまりはそれもチョコの奴にのせられたんだ。――
おもい返す都度、かれは、菱川をうらんだ。彼奴さえよけいなことをいわなかったらとかれは口惜しがった。――よく止めた。よくおもい切って止めた、さすがは金平さんだと楽屋でみんなそういってくれたのを……名物のなくなったのはさびしいが、そのほうが身のためだ、よくその気になったと無暗にそうものゝ善悪をいわない筑紫までがそういってくれたのを、その中で、菱川だけ安く鼻であしらった。
「酒を飲まない西巻なんてものは気の抜けた風船だ。――役に立たねえってこれほど無駄なものはねえ。」
かげでそうせゝら笑ったと聞いてかれはカッとした。「よくも、畜生。」とかれは脣を噛んだ。そうでなくっても
が、もし、それが筑紫なりだれなりの口から出たのだったらそうは思わなかったかも知れない。いっそ却って有難いうれしい台詞にうけとったかも知れない。「気の抜けた風船……」かれのいかにも喜びそうな文句だった。――が、菱川がいったのでは……天下にかれの最も気に食わない菱川のそういったのでは金札でも鉄札……飲めばいゝんだろう、飲んだら不思議はねえんだろう。――ついしてそう不貞腐れもいわざるをえなかった……
「あいつ。――どこまでたゝるんだ、彼奴……」
と、いまさらのようにそのだらしなく酒を飲みはじめたそも/\、……飲んだくれることを覚えたそも/\。……そうでもしない限り、客の座敷で、始終菱川にけじめを喰い通しだった二十年まえのことがさびしくおもい出された。――と、そのおもいではまた、最近の、ついその一ト月まえの本郷の芝居の舞台での歪んだ互いの心もち。――二十二日の間、たゞの一日もその両方の
それはかれにとって久しぶりについた好い役だった。仕出し同然の
で、結果は散々だった。当然うけるべきものが根っからうけなかった。うけないばかりでなくむしろ不評だった。いつもかれに同情をもつ新聞の劇評にさえ「菱川、西巻、ともに当年のおもかげのないのは寂しい。」と、みごとに匙を投げられた。
「畜生。――菱川の畜生……」
かれは、うそもかくしもなく、その劇評を見て口惜し泪をこぼした。
……で、その五日ほどの間に、かれは、うそのようにげッそり
「馬鹿だなァ、俺は……」
強いてかれは自分にいった。――勇気を出してわらおうとした。――が、駄目だった。――笑えなかった。――逆に、眼の中に、なぜとも知れない泪が浮んで来た……
「年だ。――つまりは年だ……」
そう思うと、泪のひまに、女房や子供の……自分だけをたよりにする女房や子供のいとしいすがたが眼さきに浮んだ。
「が、もしものことがあったら? ――俺に、いま、もしものことがあったら?」
不意にかれはうしろから
「止める。――今度こそきッと止める。」かれはふかく誓った。「誰が何といったって――誰が何といったって今度はきッと止める……」
……が、急に、……急にそうかれのこと/″\く気落のしたのは、からきしいくじのなくなったのは、一つには、今度のふしだらについての女房の
いえばかれは拍子抜がした。
……かれは、すぐ、言葉すくなにいいつけて床を取らせた。言葉すくなにいいつけて薬を持って来させた。――帯を解くなり吉原つなぎの羽二重の長襦袢のまんまかれはころがるように横になった。
「苦しいんですか?」
「うん。」
「お医者さまを呼びましょうか?」
「うん。」
いそいでかの女は枕許を立って行った。
「すまねえ。――すまなかった……」
かの女の足音の階子段の下へ消えて行くのを聞きながら
ちょうどその、「菊の家」で田代が鯛チリの鍋をひかえて一杯はじめた時分。――八丁堀の空にも雨はふっていた。……みぞれをまじえたその雨がかれの耳にも冷々と音を立てゝいた……
が、あの日のビショ/\したけしきに引替えて何という今日は馬鹿な天気だろう。真っ青に晴れた空、うら/\とした明るい日影。……おかげで料簡がカラッとする。――かれは床の上を離れて窓のそばに立った。そうしてみるともなく外の
かれは窓を閉めて床のうえに返った。いそいでかれは手を叩いた。――返事がないとみると「おます、おます……」とかぶせてまた大きな声で呼んだ。
「御用で?」
唐紙をあけて顔を出したのは書生の西崎だった。
「おますはいねえのか?」
「一寸いま買物にお出かけになりました。」
「正ちゃんはどうした?」
「
「と、誰もいねえのか、
「へえ。」
「何時だ、いま?」
「もう少しまえに三時をうちました。」
「三時を?」
「へえ。」
「湯に行くからすぐ支度しねえ。」
ふいとかれはこういって寝巻――長襦袢は、あの晩、医者の来たあとですぐ脱いだ――のヒラグケをしめ直した。
「へえ?」
西崎は自分の耳を疑うように訊きかえした。
「湯に行くから
「しかし……?」
「早くしねえ、早く……」
西崎の何かいいかけるのを押えるようにかれは立上った。枕許のお召の丹前を取って寝巻の上に引ッかけた。――それをみると西崎は
かれは手拭を下げて外へ出た。あらためてその真っ青に……青く冷めたく水のようにそういっても美しく晴れた空をみ上げた。……と一しょに、かれは、いつの間にかそのあたりの、眼に触れるすべてのものゝいそがしくすでに年の暮の粧いをしているのに気がついた。――おもいなしか往来をあるいている人たちでも浮足立って感じられた。――大通りにはすでに春を待つ笹の影さえつゞいていた。
「お湯ですか、先生?」
うしろからかれは声をかけられた。
「えゝ?」
ふり向くとそこに、近所の鰻屋の、芝居の好きな出前持が立っていた。
「おう、金公……」かれは
「だめですよ、もう、こゝへ来ちゃァ。」
「だめだ? ――生意気いっていやァがる。」
「生意気じゃァありません、ほんとうですよ。」
「そうだ、ちょうど好かった。」ふいとかれは思いついたように「あんまり荒くないところを三人前に、どんぶりを一つ、あとで家へとゞけてくれ。」
「荒くないところを三人前にどんぶりを一つ?」
「そうだ。」
「かしこまりました。」
出前持にわかれて間もなくかれは湯屋のまえに立った。
「『今日
つぶやくようにいってかれは入口の戸をあけた。
……日の短い頂上である、ガタリと急に、わずかな間に、日かげも褪せ、空のいろも艶をうしなった。――で、いつになくかれのおちついてゆッくり柚湯につかり、さば/\した、生返った……同時にやゝぐッたりした恰好で外へ出たとき、いつかもうあたりは、
「まァ、お前さん……」
格子をあけてうちへ入るなりいきなりかれはおますにいわれた。「いま西崎をみせにやろうと思ってたところじゃァありませんか。」
「どうして?」
「どうしてってそうじゃァありませんか。――わたしのいない留守にだまってお湯になんぞ……」
「そんなこといったっていつ
「何もそう急に行かなくったって。……行くなら行くようにお医者にも訊いて、お医者がいゝといったらそれから……それからだっていゝじゃァありませんか。――いゝえ、いゝじゃァない、そうしなくっちゃァいけないんですわ。――ほんとうに快くなったのかどうか分らないんじゃァありませんか、まだ?」
「快くなったのよ。――すっかりもう快くなったのよ。だから湯にも
「自分でそう勝手に決めたって。――もし、また、そんなかるはずみをしてぶり返しでもしたらどうするんです?」
「ぶり返すなんて、そんな。――そんな大したこっちゃァねえんだ。――それほどの病人じゃァねえんだ。」
「そんなら、じゃァ。――いゝえ、それだからいけないんですよ、あなたは。――お医者が何といったと思うんです。」
「医者が?」
「すこしはもう自分の体も思わないじゃァ。――いつまでそう若くっておいでじゃァないんだから……」
「床上げをするんだ、床上げを。」おもわずヒヤリとしたかれはそういってそれをごまかした。「いま伊豆屋の出前持にそういってやったから鰻が来る。――すぐに、だから、膳の仕度をしねえ。」
そのまゝ、かれは、手拭と
「唯今……」
そこへ正太郎が外から入って来た。「あ、起きたんですか、お父さん?」
「うん。」
「直ったんですか、もう?」
「直った。」
「大丈夫なんですか、ほんとに?」
「大丈夫だ、ほんとに。」
マントを脱ぎながら懸念そうに立った正太郎からかれは眼をそらした。――人こそ知らね、そらしたそのかれの眼にキラリとそのとき泪が光った……
間もなく長火鉢のそばにチャブ台がひろげられ、おますが西崎を手伝わせ、そのうえにならべる夕食のしな/″\を広蓋にのせて運んで来た。――とも/″\、かれも、茶箪笥をあけて箸箱を出したり、鉄瓶を下ろして茶を焙じる仕度をしたりした。
「あ、そいつ。――入らねえんだ、
いつものように、おますは、最後に自分も火鉢のまえにすわって、はる/″\嘗て大阪の贔負からとゞけてよこした錫のちろりを銅壺のなかへしずめようとした。――それをみると
「…………?」ふいにそういわれておますはかれの顔をみた。「どうしてゞす?」
「飲まねえんだ。――飲まねえんだ、俺ァ……」
「飲みたくないんですか?」
「そうじゃねえ、飲まねえんだ。」
「…………?」
「止めたんだ。――止めたんだ、俺ァ。」
「急にまた……」おますはわらって構わずちろりをしずめた。「駄目ですよ、そんなこといったって……」
「なぜ。――なぜだ?」
「止められやァしませんよ、いまさら。――いうだけ無駄ですよ、そんな……」
「どうして? ――どうして無駄だ? ――お前でも、
「いいましたわ。――でも、それは、お酒のことをそういったんじゃァありませんわ。」
「じゃァ何のことをいったんだ?」
「何のことってことはなく、いろ/\。――すこし調子に乗るとすぐ羽目をはずすんですもの、あなたって人は。――それがいけないんです。――すぐそうがむしゃらになってしまうのがいけないっていうんです。――お酒だって、うちで、一本なら一本、二本なら二本、定めてちゃんと飲む分にはちッともそんなかまやァしません。――薬になるったって毒になりっこありゃァしないんですわ。」
「……じゃァねえ、そうじゃァねえ。」かれは固く執って「どう間違ったって薬にはならねえ。――毒だ。――しみ/″\分ったんだ、毒だってことが。――一ト口飲めば一ト口だけ……すぐもうそれだけいけねえんだ、わりいんだ。……それァもう
「でも、あなたのような人は……あなたのようないまゝでお酒浸しになって来た人は、急にそう止めたりなんかすると却ってそのほうがいけないんだっていいますわ。――そればかしでなく、お酒をたくさん飲んだ体は、お酒の気が切れると、いざどこが悪いとなったってそのまんまじゃァ薬だって効かないっていいますわ。」
「そんな……そんな馬鹿な。」かれは頭からわらった。
「いゝえ、そうだっていいますわ。――お医者がそういいましたわ。――ねえ、正ちゃん。」おますは怯まず正太郎をふり返って「そういったね、この間、山地さんが?」
「そういった。」正太郎はハッキリうなずいて「お父さんは飲んだほうがいゝ。――飲まないとこのごろ元気がなくっていけない。」
「元気が?」そういう正太郎のほうをかれはみた。
「そうですよ、ほんとうに。」その尾についてやゝ
「そ、そんなこたァねえ。」
いそいでかれはそういった。――が、それと同時にかれは、いい解くすべを知らない寂しさに身うちを引きしめられた。たとえば
「床上げだ。――床上げの祝だ。――じゃァ、まァ、今夜だけは特別だ。」すぐかれは猪口を取上げて「明日から――明日からきッと止める。」
おますは銅壺からちろりを出した。
「つきましたよ、お燗が……」それにこたえず、底へ手をあてゝ加減をみると、火鉢越しにはじめの一つだけ酌をした。
「さ、喰べねえ、正ちゃん。」そのまゝかれは猪口をふくみながら正太郎のほうを向いた。
「どッか前川へでも久しく行かねえから連れてってやろうかと思ったんだけれども、こっちが寝込んじゃったもんでそう行かなくなった。――春になったら連れて行く。――どこへでも好きなところへ連れてってやる。――だから、まァ、今年はそれで負けといてくんねえ。」
「えゝ。」
そうこたえたゞけで正太郎は、すぐその蒲焼の蓋をあけて皿にそれをとり分けた。
「おます、お前も喰いねえ、正坊と一しょに。――冷めねえうちに早く喰いねえ。」
「えゝ、喰べます。」
「西崎、お
「は……」
「あゝ、久しぶりで手めえの体になった気がする。――どこへ行ってもしかしわが家ほどいゝところはねえ。」
猪口を下に置くとぐッと一つえりをしごき、出来るだけかれは晴れやかにとりなしてみせた。
「それだけ矢っ張年をとったんですね。」
わざとおますは冷かにいった。
「そうなんだ。――全くそうなんだ。」すぐかれはうなずいて「一人でいるときにはさほどにも思わねえが、田代なんぞと一しょになるとしみ/″\そう思う。――ばか/\しくってあいつらのすることなんぞみちゃァいられねえ。――ほんとうだぜ。」
「だって、それは、あなたの田代さん位の時分を思ったら……」
「そうじゃァねえ、そんなことをいうんじゃァねえ。」いそいでかれは遮って「俺のいうのはだん/\俺も年をとって来た、いまゝでのようなちょろッかなことはやっちゃァいられねえ。いえばそれだけの味を舞台にも持たせなくっちゃァいけねえ。……そういうんだ、つまりは。――田代にも三浦にもそれをいった。田代も三浦もその通りだといった。――そこで一つさえ返ってもう一度こゝで西巻金平を売ってみろと二人もそういうんだ。」
「と、矢っ張……?」
ふいとおますは言葉を挟んだ。
「えゝ?」ちろりを取上げようとした顔をかれは上げた。
「ほんとうなんですか、矢っ張、あの新聞は?」
「新聞?」かれは
「えゝ、この間の……」
「出ているのか、何か?」
「今度のことが、あなた……」
「今度のこと? ――何だ、今度のことっていうのは?」
「いゝえ、今度の由良一座の解散した……若宮さん
「何だって?」思わずかれはおますの顔をみた。「由良一座が解散した?」
「えゝ。」
「で、若宮が座頭だ?」
「えゝ、若宮さんを座頭にしてあとはいまゝでの由良一座の重立った人でかためた一座が出来る。――で、ちゃんと、筑紫さんの名前も出ていれば
「と、じゃァ、俺の。――名前も……?」
「いゝえ、入っていません。」
「入ってねえ?」
「『矢の倉』の先生と、汐見さんと、あなたと三人の名前だけそのなかにないんです。――だから、わたし……」
「菱川はあるのか?」
「ありました、ちゃんと。」
「…………」
「菱川さんの名前がなければ、これは、あなたと二人だけは矢っ張『矢の倉』の先生のところに残る。――そう思いますわ。――けど、菱川さんの名前の出ているのにあなたゞけ。――汐見さんは活動のほうへ行くんだというし……」
「そんなことも出ているのか?」
「えゝ、それは外のところに……」
「そ、そんな箆棒な……」急にかれは遮るようにいった。「何新聞だ、そんな。――あるか、その新聞?」
「あります。――とってあります。」
「みせねえ。――持って来てみせねえ。」
そういうと一しょにかれはちろりを取って猪口のなかをみたした。そうしていそがしくそれを口へ運んだ。――と、そのとき
そこにまだいた西崎が立ってすぐそれを持って来た。
「どこへやった、眼鏡?」かれはいつもそこへ入れて置く火鉢の抽斗を掻きまわした。
「入っているでしょう、そこに?」
「入ってねえ。」
「そんなことないでしょう?」
「……あった。」すぐまた不機嫌にそういって眼鏡を……みッともねえ、だらしがねえ、いまッからそんな外聞のわるいことが出来るものかと長い間強情を張りぬいたあと、とうとう負けてこの冬からかけ出した老眼鏡を出してかけ、いそがしくまたかれは新聞を取上げた。
……その通りだ。おますのいう通りだった。いよ/\今度、長い間の縁が切れ、会社の手を離れて独立することになった新派は、それを機会に従来の由良一座を解散し、新たにそこに
かれは日附をみた。十七日としてあった。十七日といえば……十七日といえば二日目である。飲んだくれていた二日目である。……そんなことゝは夢にも知らずうじゃじゃけ放題うじゃじゃけていた最中である。
が、それにしても三浦や田代はそれを知ってたのだろうか? ――知ってゝ黙っていたのだろうか? ……
会社と手が切れた。みんなもう会社をクビになった。……はじめの晩、そういえば、「菊の家」でもあとの洋食屋でもしきりに三浦はそうしたことをいっていた。――そんなことがあるもんか、そんな馬鹿なことがあるもんかと、田代と二人、意地になってそれをやり返した。昼間もいゝえ、向島で、小倉と三浦にそういわれて心細くなった。……田代はそういった。……何だ、金平さんも知らないのか、金平さんでも知らないことか? ――そんなら安心だ、そんならえばったもんだ、つまらないことをいって余計な心配をさせやァがる。――急にそう田代は気を強くした……
とすれば……してみれば田代は知らないんだ。知らないに違いないんだ。知ってゝそんな芝居の出来る男じゃァない。――そういえば三浦だってそんな男じゃァない。――なるほど理窟はいう、筋はいう、にくまれ口はきく、が、三浦は、肚はごく綺麗なもんだ。菱川のような下手なすいのうばりじゃァない。――もし知っていれば、会社と縁が切れたとはッきりいったくらいだ、そのうえのことだってはッきりそういったに違いない。――いわないのは……それをいわないのは知らないからだ……
田代も知らない、三浦も知らない、小倉だって知らない。……その知らない三人の名前が出ている。――
かれは投出すように新聞を下に置いた。鬱陶しそうに眼鏡を
「若宮さんが、しかし……?」さぐるようにおますはかれの顔をみた。
「…………」
だまってかれは冷えた猪口を取上げた。
「だれもそう側にいなくなって……どうなさるんです、『矢の倉』の先生は?」
「そんなまだはッきりしたことじゃァねえんだ。――決った話じゃァねえんだ。」
にべもなく、かれの、はき出すようにそういったその言葉のかげに救うことの出来ない心弱さがあり/\かくれていた。――かれはちろりを取上げていそいでまた猪口を一ぱいにした。
「……が、だれがいなくなったって俺はいる。――俺だけはそばにいる。」
すぐに言葉を継いで半ば自分にいうようにかれはいった。――と一しょにかれは目蓋のうらの熱くなるのを感じた。
「おい、つけてくれ、あとを……」
……遠く霜にひゞく火の番の金棒の音。――更けることの早い冬の夜である。
……これよりさき「菊の家」で「お
「
それがくせの、たゞその「戯談だろう」をくり返すだけだった。
「だって仕方がねえ、
「ちゃんともう新聞にまで出ているもんだ。」
「新聞にまで?」
西巻でも知らない位である、田代の知るわけがない……
「みねえのか、あれを?」
「みやしない。――そんなものみやしない。」
「迂闊な奴だ。」
「だって。――だって、それは。――たとえ新聞に出たって、それは。――乱暴な、――そんな乱暴な……」
「どうして乱暴だ?」
「そうじゃァないか、乱暴じゃァないか。……本人の承知もしないものを勝手にそう……先方でばかりそう……」
「しらねえことがあるもんか。――ちゃんともう承知しているんじゃァねえか。」
「戯、戯談だろう。――そんなことがあれば……うそにもそんなことがあれば君にだって慶ちゃんにだって相談するよ。……だまってそんな不人情な真似はしないよ。」
「そんなことをいって、お
「手金まで?」
「そうじゃァねえか。――しかも、お前、
「百円?」
「まだ残っているはずだ、半分……」
「な、なにをいやァがる。――それはチョコ銀に……」
「だから借りたんじゃァねえか。――たしかにそうなんじゃァねえか。」
「そうさ。――それはそうさ……」
「チョコがしかし、そんなあてのねえものを貸す風か?」
「あての?」
「みとめのつかねえ金を器用にそう出す奴か?」
「…………」
「だからいうんだ。――お前、それを、何の金だと思うんだ?」
「だってさ。」
「チョコの仕事なんだ。――大体今度のその仕事っていうのが菱川信夫のさりゃくなんだ。」
小倉はずけりとそういった。
が、田代は、にわかにそれを
「だってチョコが? ――可笑しいじゃァないか、それは?」
「どうして?」
「それは、あのじゞい、慾張っちゃァいる、こすッからくは出来ている。……随分、ふてえ、小癪に障る、それこそ人の小股をすくうようなことばかり
「そうよ、大百じゃァない。……そんな大百でないだけチョロリ人に乗せられる。――
「だって、そういったって、それじゃァ『矢の倉』の先生に弓を引くもんじゃァないか?」
「そうさ。」
「そんな――そんな義理を知らない……何年附いているんだ、先生のそばに?」
「うぬの命の
「えゝ?」
「いざとなれば先生より手めえのふところのほうが可愛いのよ。」
「しかしそれは……それは君だの慶ちゃんだのならいゝ。……いゝってことはなくってもまだ堪忍が出来る。――譜代じゃァないんだから。――つまりは外様なんだから……」
「またはじめやァがった。」
「いゝえ、ほんとうに。――けどチョコはそうじゃァない。――それじゃァ、チョコはすまない。――そんなことを金平さんに聞かせたらどんなに腹を立てるだろう? ――でなくってもあいつは薄情だ、不人情だ、先生、先生と前へ出ると
「だから、お前は引っ張ったって西巻は引っ張らねえ。」
「と、誰を引っ張るんだ、一体? ――新聞には誰とだれの名前が出ているんだ?」
「みんな出ている。」
「みんな?」
「汐見君と西巻を抜いたあとのものはみんな出ている。」
「神代君もか?」
「あの男は稼げさえすればどこへだって行くんだ。」
「と、君も慶ちゃんもか?」
「御多分にはもれねえ。」
「そんなことをいったら、君。――それじゃァ、君、由良一座はナシじゃァないか?」
「だから由良一座の代りに若宮一座が出来る。――はじめッからそういってるじゃァねえか?」
「したら先生はどうするんだ? ――『矢の倉』の先生はこのさき誰と芝居をするんだ?」
「誰も相手がねえのよ。」
「そ、そんな――そんな――そんなってことがあるものか。」
「俺にそういったって仕方がねえ。」
「いやだ。――いやなこった。――誰がそんな……」
「俺だっていやだ。」
「じゃァなぜ承知した。――いやなものをなぜ承知したんだ? ――あたしァ知らない。――あたしゃァ何にも知らないんだ。――けど君は知ってるんじゃァないか、それほどちゃんと事のしだいを知ってるんじゃァないか?」
「誰が承知なんぞするものか。」
ずけりとまた小倉はいった。
「しない?」
「するものか。」
「だって、君。」田代は出鼻をいなされたかたちに「どうして?」
「
「じゃァおんなしじゃァないか? ――おんなしこっちゃァないか、あたしと?」
「でも、俺は、お
「返しゃァいゝんだろう、返しゃァ……」
「うけとると思うのか、チョコが?」
「うけとらなくったってうけとらせる。――
「そこがむこうの思う壺だ。――
「そ、そんなことをいって行ったのか、君のところへは?」
「俺のところばかりじゃァない、ほう/″\その手で口説いてまわったんだ。」
「畜生! ……そんなことこれッぱかりもいやァがらない。」
「あたりまえさ、いわなくってすむならいわないほうが
「慶ちゃんとこへも行ったろうか?」
「行ったろうさ。――が、三浦のところへ行って、矢っ張そういったかどうかは分らねえ。――ことによったらいまゝでの奴の半分だけ負けるといったかも知れねえ。」
「そうだといって、しかし。……
「あたりめえよ。チョコはたゞ儲けたい一心よ。どさくさ紛れの火事泥を稼ごうって奴よ。――だから
「誰だ? ――誰なんだ、それ?」
「承知してくれゝばといってなか/\いわねえ。わるく伏せている。それだけ臭いと俺はにらんでる。――新聞には関西のある若宮を贔負の金持が尻押だとしてあるがどうせほんとうのこっちゃァねえ。」
「誰だろう? ――どこから出た手だろう?」
「俺には分ってる。」
「誰だ? ……誰だ、おい?」
「吾妻のいのちを縮めた奴だ。」
「吾妻のいのちを?」
「この間、向島をあるきながら話したことを忘れたか?」
「向島? ――と、あゝ、公園の?」
「そうよ、楽天団の楽天坊主よ。」
「
「地震でそのまんまになったたくらみがこゝへ来てまたさえ返ったのよ。――まえのときじり/\と遠巻にして行こうとして
「どうして分る?」
「お前のようなふところ育ちじゃァねえ。」
「そんな、また……」
……そのあと、小倉は、その楽天坊主というものゝそも/\田舎廻りの旧役者だったこと、だが機をみるに敏なかれは「書生芝居」が流行るとみると書生役者、「活動写真」が流行るとみると弁士、「喜劇」が流行り出すとみると喜劇役者、転々としてつねにその所在を変えて来ていること、体は小さいが望みは大きく、一生旅廻りで朽ちる料簡のなかったことは早くから浅草という土地に目をつけ、そこがまだ「奥山」だの「六区」だのと安く扱われ、玉乗だの、娘手踊だの、改良剣舞だの、かっぽれだのゝ見世物の軒を並べていた時代、勇敢にかれはその渦中に飛込んで、「楽天団」という看板を上げたこと。――はじめはだれからも相手にされず、幾度そこにいたゝまれない羽目になったか知れなかったものゝ、強情にもちこたえ、だん/\客を呼ぶようになり、十年後には「浅草」での押しもおされもしない人気ものになり了せたこと。――主としてしかもその成功がかれの興行師的の手腕(それは
が、田代は、その話のあいだにこと/″\くしおれ返ってしまった。「うたむら」の主人を相手に
で、勘定をして「菊の家」を出ると、無理に小倉を、わずかな間につもった雪の中を松葉町の三浦のうちへつれて行った。が、三浦はいなかった。
「
「帰る?」
「帰れよ、お前も、いゝ加減に。――いつまでそんなほッつきあるいていることもねえじゃァねえか。」
「けど……」
「すこしは
そういわれると一ト溜りもなかった。でなくても、先刻から、酔いのさめるのと一しょにいゝ加減さとごゝろがついて来ている。――いまゝでゞも、それは、二タ晩や三晩はざらにあけているから……そうして、また、それを役者の附会、芸人としたらその位なことはあたりまえで、売れゝば売れるほどよけいうちを外にする。……清元の師匠のむすめといっても、そこは堅気だけに、あくまでそう正直におもいこんでいる相手だから、五日あけようと十日あけようとそんなことは何でもない。――が、それだけに、そう音無しいだけに、いざとなると
「じゃァ、また……」
ふんぎりをつけて田代はいった。
「明日でもまたやって来ねえ。」
小倉はしずかに眼鏡を光らした。
「どこへ?」
「俺のとこへよ。」
「うん。」
「きッと、留守に、菱川から何とかいって来ているに
「あたしァ嫌だ。――いやなこった。――何といって来たってあたしァ断る。」
「断るにしても、しかし、下手なことをすると後腐れが面倒だ。――相手が相手だ。」
「けど、それは……」
「いゝえ、菱川ならかまわねえ。――が、もし、お前のうけとったその金が楽天坊主から出てゞもいると、どうまた車を横に押して来ねえとも限らねえ。――それァ、あの坊主、あんな太ッ腹のようにみせて、いざとなると執念深い、まむしのような奴だから……」
「…………」
「用心にしくはねえ。――用心しといて間違いはねえ。――だから……」
「…………」
「三浦もきッと来るだろう。――俺たちがいま二人侍で行ったと聞いたら……」
すぐに電車は来た。小倉はそれに乗った。――灯ともしごろのふりしきる雪の中にたちまちその電車のかげはみえなくなった……
そのあと、田代は、借りて来た「菊の家」の番傘をさして、一人とぼ/\公園のなかへまた入って行った。――代地の明治病院のそばまで帰るんだから、ほんとうなら一しょに小倉と、蔵前ゆきのその電車に乗るのがあたりまえだった。が、そうしなかったのは、四日ぶりで逢うかの女のために、かの女の好きな名所焼のみやげを仲見世で買う必要があったからだった。――で、公園へ入ると、かれは池のふちを真っ直に仁王門のほうへあるいた。――とッぷりもう暮れ切ったなかに、ふみしだかれた雪みちの、一トすじほそ/″\とつゞいているのと、両側の木立の、暗い梢をしずれて落ちる雪の音とがむやみにかれを寂しくさせた。
で、名所焼を買うと、今度はかれは一刻も早くうちへ帰りつきたくなった。雷門を出るとすぐ茅町までかれは円タクに乗った。
が、そうはいっても、やがてわが家のまえに立ったとき、今更のようにかれは
「おい……」
ことさらかれは勢いよく、しまりをしたその格子に手をかけた。
「はい。」
ものゝ響きに応ずるように返事が聞えた。――すぐに上り端と茶の間との間の唐紙があいてあかりのいろが暗い中に流れた。かの女は土間に下りて

「お帰んなさいまし。」
そういうかの女の片頬に江戸ざくらのみじめに貼ってあるのをかれはみ逃さなかった。
「どうかしたのか?」
「えゝ?」
「いゝえ、頬ッぺたよ。」
「えゝ、歯が……」
「痛いのか?」
「えゝ。」
「よッぽどか?」
「いゝえ、すこしなんです。――直ったんです、もう……」
が、そうはいっても、
「あゝ冷めたい……」
そのまゝかれは、問わず語りにそういうと、傘と名所焼のつゝみをかの女にわたし、手袋を
「誰か来なかったか、留守に?」
座敷へ上るなりかれはいった。
「えゝ、もう少し
「三浦が?」
「えゝ、二時間ばかりまえ。――どこへ行ったろう、疾うに帰ってなければならないんだが? ――しきりにそういってゞした。」
「で、何とかいって行ったか?」
「いゝえ、じゃァまた来る、そういってすぐお帰りになりました。」
「何にも外にいわなかったか?」
「いゝえ、何にも。――いつもと違ってなんだかむずかしい顔をしておいでゞしたわ。」
「ごた/\が出来たんだ、ごた/\が。――それでみんなほう/″\駆けずりまわっているんだ。」
「…………」
「
「………」
「外には誰も来なかったか?」
「いゝえ、誰も。」
「昨日ぐらい菱川のところから誰か来やァしなかったか?」
「いゝえ。」
「来なかったか?」
「えゝ。」
「可笑しいな。」
「来るわけになっているんですか?」
「なっているんだ。」
そういいながら、かれは、上着の
そのなかの五十円……
何にも知らないかの女は炬燵のほうからかれの
「寂しかったろう、おい……?」
あくる朝、起きぬけに……といってももうそのときは十時をすでにすぎていたが、いそいで田代は三筋町の小倉のところへと家を出た。――雪は止んだが、空はまだ暗く陰気に、未練たらしく灰いろに曇っていた。――時間のわりにつもりようの早かった……ということは、それだけよけいに降り、それだけよけいにつもった
途中、かれは、公衆電話で「矢の倉」の師匠のところへ電話をかけた。女中が出て来て「先生は御旅行中でございます。」といった。ではお嬢さんはというと「お嬢さんも御一緒でございます。」と木で鼻をくゝるすげないあいさつだった。かれは寂しい気がした。……と同時に、まァよかった。――なぜかそういうほッとした気がした。
小倉の顔を見るとすぐかれはそれをいった。
「旅行中だ?」小倉は眉を
「それは聞かなかったが、お嬢さんと一しょというんだから、いつものまた修善寺へでも行ったんだろう。」
「何日行ったといった?」
「それも聞かなかった。」
「何にもならないじゃァねえか、それじゃァ。」
「だってあのこのごろ来た女中。――まるッきし分らないんだ、話が。――よッぽど
「この間お前の行ったときにはそんな話はなかったのか?」
「何の話もなかった。――だから急にでも行ったんじゃァないかと思う。」
「うむ、そうかも知れない。」
「矢っ張、今度の話なんぞいろ/\耳に入るんで。――こっちにいちゃァ、矢っ張、何かと面倒臭いんで……」
「そうだろう、おそらく。――が、そういえば、若宮もいま東京にいないんだ。」
「どうして? ――可笑しいじゃァないか、それは? ――誰に聞いたんだ、そんなこと?」
「昨夜三浦が行って聞いて来たんだ。」
「三浦が?」
「昨日、三浦、西巻とお前にわかれて家へ帰ると菱川から手紙が来ている。二三度足を運んだがいつもいないからというんで寄越した手紙だ。――すぐ来いとしてあったから行ってみると実はこれ/\……みんなもう承知しているこったから否やはあるまいがという高飛車な掛合だ。――万一、もし、不承知のようならいまゝで貸した金を残らずこゝで綺麗にしてもらいたいといったそうだ。――が、あの男のこった、逆にさきをくゞって、いまゝでの奴を負けろとはいわない、それはそれとして、べつにこゝで改めて五百と六百とまとまったものを都合してくれるなら身売をしてもいゝ。――その代り
「酷い奴だ。――だが、それじゃァ君んとこへ来た話とは違うじゃァないか?」
「
「で、行くと?」
「書生が一人留守居をしていて、先生は東京にいらっしゃいません。」
田代にはしかし信じられなかった。留守をつかうんだ、それは。……そうとしか思えなかった。――が、そうはいっても、また、相手が相手である。やみ/\そう留守をつかわれて、左様ですかとそのまゝ音無しく引下る三浦ではない。ことによると、これは、手筈のすべてとゝのうまで、わざとどこかに身をかくしているのかも知れない。――そうとすれば不思議はない……
「が、それは。」小倉はうなずかなかった。「世間にまだこのことのぱッとしないうちなら、それは若宮のような神経の強い男のこった、そうする必要もあったろう。が、新聞にまであゝ麗々と出てしまったいまとなっちゃァ、何もそんな卑怯に逃げかくれするこたァねえ。そんなことをしていたら一座の規模が立たねえ。」
「それは、しかし、チョコと楽天坊主とですっかり取仕切っていれば……」
「それじゃァ、いまゝでの、こっちの芝居とおんなしじゃァねえか。――何でもかんでも会社まかせの御無理御尤もにしていたいまゝでの由良一座とちッとも変らねえじゃァねえか。――そんなことなら、若宮。……そんな、いゝえ、ちょろッかなことだったら、あの男、どうしてはじめッからそんな話に乗るものか。――あゝみえて、あの男、いざとなったらテコでもうごくんじゃァねえ。」
「とは思うけど……」
「さきへ行ってはどうでも、はじめの一ト月二タ月は諸事若宮のいうなりにするに違いない。――すくなくもそういう約束になっているには違いない。」
「と、いよ/\
「そうだろう、大方。――女優を使うということが一つのまたうりものになっているんだから。」
「だが、そんなことをいって、若宮君の相手の出来るような女優がどこにいるんだ?」
「どこにだっている。『楽天団』の中にだけだって十人や二十人はいる。」
「あんな――あんなもの……」
「と思うのはお前のような奴ばかりだ。世間じゃァそうは思わねえ。――よくしたもんだ。」
「だって、君……」
「とにかく『矢の倉』の一座にいた分には嫌でもいつまで女形でいなくっちゃァならない。いくらそれじゃァ当人が
「いえ、それは。――それはその通りだ。――あたしァ、若宮君のような、あゝいう人こそ天才というんだろうと思っている。――だからあたしァ同情する。――だから、自分から、たとえあの人が『矢の倉』の手を離れたからって義理を知らないとも恩を知らないとも決してあたしァ思わない。」
「そんならことのついでに行ってやったらいゝじゃァねえか。」
「いやだ、それァ嫌だ。」
「どうして?」
「そも/\のイキが気に入らない。人をペテンにかけるような、そんな。――第一チョコなんぞの中へ入ってるのが間違っている。あんな奴の出て来るって法はない。――何が分るんだ、あんな奴に?」
「そんなことをいったって仕方がねえ。」
「いゝえ、これがもし、若宮君
「そんなこと思うか、お前でも?」
「あたしだって若いんだ、何かしたいよ。」
「『矢の倉』と心中するのは嫌か?」
「ほんとういえば嫌だ。――いまのようなあんな、引っ込思案の、大事ばかりとっている、料簡のぐず/\な『矢の倉』と心中するのは嫌だ。」
「以前はあゝじゃァなかったんだが。」
「だから――だからいうんだ、あたしァ。――芸だって、
「お前なんぞまでしかしそういうたァ……」小倉はそれにはこたえず憮然としていった。「いよ/\由良一座もどうかしなくっちゃァいけねえときが来た。」
……で、小倉も、三浦も、田代も、もう一度菱川から何とかいって来たところでおたがいの態度をはッきりさせよう、そういい合せてわざと音無しく待つことにした。――が、二日たっても三日たっても、何とも菱川からいって来なかった。――何の音沙汰もなかった……
「どうしたんだろう? ――どうしたっていうんだろう?」
いっそしびれをきらしたかたちに、田代は、おちつかない紛れ、その日も小倉のところを訪ねた。と、かれよりもさきに三浦が来ていた。三人、その日もまた一しょになった。
「はじめの話じゃァ、明日にも顔よせをして、すぐにも稽古にかゝる。――だからすぐ返事をしろ。――大した勢いだったが……」
小倉はわらった。
「俺にも狂言まで決ってるようなことをいってた。」三浦もその尾について「何をいやァがると思ったら案の条だ。」
「案の条って何がさ?」田代はいった。
「そうじゃァねえか。
「そうさ。」
「春
「どこだろう、しかし、某大劇場っていうのは?」
「そんなこと
「矢っ張、じゃァ、浅草かしら?」
「そうよ、浅草出演よ。――このごろのセリフの大衆的って奴よ。」三浦は冷かに「あんな、人を喰った、ふざけた、小癪に障る言草はねえ。」
「何が?」
「いゝえ、大衆的って奴よ。――何でもお値段が安くって、手ッとり早く、ごそくさいでさえあればいゝしろものよ。」
「けど、それよか、あきらめたんじゃァないだろうか?」田代は話の
「何を?」
「いゝえ、あたしたちを。――引っ張ろうとはしたものゝそこに何かの工合でも出来て、急に止しにしたんじゃァないだろうか?」
「そうならしめたもんだ。――逆に因縁をつけてとッちめてやる。」
「どうして?」
「はじめに、勝手に、ことわりなしに名前をつかやァがったんだ。――そっちは景気になってよかったろうがこっちはそのためどんなに迷惑したか知れねえ。――そのしらちは、どうつけてくれるとそういってよ。」
「君たちはそれでよくってもあたしァそうは行かない。」
「どうして?」
「そうなれば、あたしァ、借りたものを返さなくっちゃァならない。」
「何だ、そんなことを怖がっているのか?」
「怖がっちゃァいないさ。怖がっちゃァいないが、そうしなかったら、チョコのこったもの、どんなまた
「いって来たっていゝじゃァねえか。――
「君じゃァないよ、そうは行かないよ。」
「感心だ。――わけえものはそれでなくちゃァいけねえ。」
「おだてなくたっていゝ。」
「おだてやァしねえ。――が、それほど覚悟をきめているなら……というよりは、それほど気前がいゝならどうせ手のついた金だ。まだ残ってるだろう、すこしは。――どこかへ連れて行きねえ、二人を。――『菊の家』でいゝから連れて行きねえ。――なァ小倉……?」
「いゝだろう、それも。」ともに小倉もいった。
「
田代はいそいでふところを押えた。……というのは、めずらしくその日、荒い縞の、いかにも女形らしいお召の着附に、意気な、幅のやゝ狭い
「往生際のわるい。――骨は拾ってやるよ、二人が。」そういって、すぐ、有無なく三浦は立ち上った。「さァ、おい、早いところ出かけよう。」
……ちょうど、それは、冬至の日の、時間にして西巻が湯に行く途中、鰻屋の出前持と機嫌よく立話をしていたと同じころだった。――刻限はよし、天気はよし、どのみち三人あつまればそのまんま恰好をつけずにわかれるわけがない。……田代にしても、そこはしまりのない東京育ちの、あらかじめそんなことになるだろうとは思っていたのである。――三浦のいう通りどうせ手のついた金だ、足りないものだ、いざとなればまたどうにかなるだろう。――かれはくゝるつもりもなく多寡をくゝった……
「わるい友だちはもつもんじゃァない。」
わざと、ふしょう不承、田代もそういいつゝ立上った。――と、そのとき、急におもての格子があいた。
「御免……」
……聞覚えのある声である。――おもわず田代は二人の顔をみた。
「どなた?」
小倉の代りに三浦が突ッ慳貪にそれにこたえた。
「へえ、わたくしで。――吉沢で……」
「吉沢?」
……といえば「矢の倉」の
「何だ、君。――誰かと思った。」
障子をあけて拍子抜のしたように田代はいった。
「へえ。――実は、いま、お宅へ上りましたので……」
相手はあいそよく中腰を
「うちへ?」
「へえ。」
「何か、用……?」
「へえ、その。――一寸その『矢の倉』までお越しをねがいたいんでございますが。」
「帰って来たのかい、先生?」
「へえ。」
「
「
「急に?」
「へえ。」
「どうして? ――それより、しかし、どこへ行ってたんだい、先生?」
「へえ、修善寺へ。」
「だろうと思ったんだ。――きッとそうだろうと思ったんだ。――けど、何だってそんな。――何だってそう急に……?」
「いゝえ、それが。――よく分りませんのですが、しかし。――何かしかしそのことでみなさんにおいでを願うような……」
「と、あたしだけじゃァないのかい?」
「へえ、小倉先生にも。……三浦先生のところへもこれからうかゞうんでございます。」
「いるぜ、君、三浦君も。――矢っ張こゝにいるぜ、君。」
「あ、さよでございますか? ――それは大へん……」
「おい、慶ちゃん……」田代はうしろを向いて三浦を呼んだ。
間もなく、吉沢は、もう一けんこれから頭取のうちへ行くといっていそがしく帰って行った。――そのまゝ座敷へ返った三浦と田代は、小倉と三人、急に引緊った感じの顔をたがいにみ合せた。
「何だろう?」
とりあえず田代はいった。
「そんなこったろうと思ったよ。」三浦はおもむろに
「何が?」
「いゝえ、大将がよ。」
「知らなかったんじゃァないだろうか? ――急にそれが分ったんで、驚いてすぐ……?」
「そんな馬鹿な奴があるものか。」
「とは思うけど……」
「そんなことなら、しかし、頭取が来なくっちゃァならない。」小倉はしずかに口を開いて「それを吉沢がつかいに来たのはこれは……きッとこれはそうじゃァなく外のことだ。」
「そうかしら?」
「とにかく、しかし、すぐ来いっていうんだから行かなくっちゃァなるまい。――出かけようじゃァないか。」
「何だかしかし気味がわりいなァ。」
「なぜ?」
「なぜってさ。」
「何をいやァがる、『菊の家』を助かりやァがったくせに……」
そういってすぐまた三浦は立上った。
――――――――――――――――――――
……行ってみて驚いた。――明るい
だまって由良は一通の手紙を三人のまえに出した。――三人はおず/\それをあけてみた。――信州のある片田舎から由良にあてゝよこした若宮柳絮の書置だった。
……一時間あと、小倉と田代は、汐見と一しょに若宮のその自殺した場所へいそぐため上野から汽車に乗った。――三浦は、あとから来た頭取の岩永と二人で、一座の重立ったものゝところへそのことを触れてあるいた。
……
一月の二十日すぎになって、それ/″\みんな、おの/\のその出さきから帰って来た。小倉でも、三浦でも、田代でも、……またその外の、田代以下の四五人の人たちでも、そのまゝそこにいつこうと思えば、……そのまゝもっと働こうとさえ思えばいくらでもそこで働くことが出来たのだったが、さすがに誰も、いざとなると、東京恋しく約束の
で、帰るとすぐ、みんなそれ/″\帰ったことのあいさつに「矢の倉」へ顔を出した。
田代は……ほんとうなら、かれは、
行くと、ちょうど、小倉と三浦とが言合せたようにさきへ来ていた。書斎の次の間に火鉢を控えて涼しい顔ですわっていた。――小倉も、三浦も、ともにその前の日ぐらい帰って来たのらしかった。
「いまお前のうわさをしていたところだ。」
書斎の大きな机のまえから由良はいった。「いつ帰って来たんだ、お前は?」
「へえ、今朝……」
「今朝?」
「へえ、いえ、一寸帰りに名古屋へ寄りましたもんで……」
うッかりそういって、田代は、三浦のそばにいることにすぐ気がついた。
「何しに?」
「へえ、一寸……」
「飲みにか?」
「へえ、いゝえ……」
「いゝから、まァ、飲め。――たんとずッこけろ。――若いうちはそのほうがいゝ。」
「…………」
おもわず田代は由良の顔をふり仰いだ。――いつにもそんなことをいったことのない人である、勝負事のつぎには酒のことをやかましくいう人である、飲むな、決して飲むな、いゝ役者になろうと思ったら決して飲むな、始終いまゝで、自分にむかってもそうばかりしかいわなかった人である……
「若宮が……お前の半分でも若宮が飲んだらあんなこともしなかったろう。……もっと外に思案のしようもあったろう。……そう思うんだ、俺は……」
すぐ、また、言葉を継いで由良はいった。――そういって、わざと、晴れやかに、機嫌よく由良はわらった。
三人、そッとさびしく眼を交した。
「たしか、しかし……」さりげなく小倉はいった。「ちょうど、今日、三十五日に……?」
「そうだ、そうなるんだ。」由良はすぐ引取って「だから、これから、墓まいりに行ってやろうと思っているんだ。」
「喜んでおりましょう、しかし……」
田代はそれに調子を合せた。
「誰が?」
「いゝえ、若宮君……」
「可哀想な男よ。」由良は、それにはこたえず、半ば自分にいうようにいった。「日の経つにつれてだん/\身にこたえて来る……」
「へえ。」
「どこかへ行くのか、これから?」と、急に、由良は眼を上げた。
「あたくしでございますか?」
「いゝえ、小倉も、三浦も……?」
「べつに、いえ……」
そういって小倉は三浦をふり返った。――来たぜ、おい。……三浦はそういった工合にそッと
「もし体があいているなら、どうだ、一しょに行かないか、俺と?」
「へえ、有難うございます。」田代は頭を下げた。
「有難うございますじゃァない、行かないかとさそうんだ、こっちは。――よかったら行ってやれ。」
「どうせ、いえ、行こうと思っているんでございますから……」
「どうだ、そっちは?」
「いえ、わたくしどもゝ。――お供いたします、こちらも……」
小倉に代って三浦はこたえた。
「じゃァすぐ。飯をくって出かけよう。」
由良は性急に手を叩いて女中を呼んだ。昼の仕度をいいつけると一しょに自動車の用意を命じた。――さァといえばさァが江戸っ子の悪い病である。
「墓まいりって奴は大ぜいの方がいゝ、――一人や二人だとわるく料簡がこずんでいけねえ。」
そのあといっそまた機嫌よく由良はわらった。
それからじき一行五人は……由良とその三人の外に吉沢が加わった。……谷中の天王寺の五重の塔のまえで自動車を下りた。空のあさ/\と晴れた、風のない、日のいろのおだやかに和んだ午後だった。
「陽気は正直だ、――わずかなところでぐッともう春めいた。」
さきへ立った由良のふいとそう振返っていった。
「そうでございます。――このまえ三七日にまいったときにはまだ……」
それにこたえて吉沢のそういうのにかぶせてまた由良はいった。
「どこもかも凍てついていた。――いまの時間でまだ霜柱がとけなかった。」
あたらしい、木の香の濃い塔婆にかこまれ、贔負さき客さきからの心をこめた美しい……というよりは、早咲の梅だの水仙だの、いっそ寂しい、しめやかな花のかげにうもれた、古い、小さな墓……それは、若宮の、ありし日のおもかげを偲ばせるには、あまりに惨めないじらしいものだった。……のまえにやがて五人は立った。――由良は、帽子と外套を吉沢にわたし、そのまえにすゝんで、しずかにしばらく
「お待ち遠……」
そういって由良はそのまえをはなれた。――手近の要木垣に外套を投げかけ、そのあと代って、小倉がすぐそのまえに立った。
「……感心な男よ。」
半ば自分にいいながら由良は帽子だけ吉沢からうけとった。
「へえ?」田代はいった。
「いゝえよ、西巻よ。」
「…………?」
「ちゃんともう今日でも早く参詣に来ている。――むかしの奴ァ、矢っ張律儀だ。」
田代も、三浦も、由良のその指すほうへ眼を遣った。――その梅だの水仙だの、なかにあって、冬つばきの、哀しくもやさしい真紅のいろを綴っているのが金平さんの心いれだった……
「それにしても、これ。」すぐまた由良はいった。「いつまでこの墓の中に居候させて置くことは出来ない。――そう思っていそがしている。――だから百ヶ日までには、ほんとうの、若宮だけの奴が出来る。」
「あゝ、それは……」
田代はそれにこたえた。
「出来たら、そこで、にぎやかに追善をしてやろうと思っている。――当人の料簡がいじらしいから、……当人のそういうのがもッともだからいまゝでこっちも強情を張りつゞけた。入らざる意地を立てぬいた。――が、もういゝだろう。――百ヶ日までになればもういゝだろう。」
「へえ。」
……とはいったけれど、田代には、若宮がまたどうしてそう儀礼がましいことや供養がましいことを一切やらないでくれ……なぜわざ/\そうしたことを書置に書いたのか? どうしてそうしたことをやられるのが嫌なのか? ――かいくれその理由が分らなかった。――ということは、また、同時にそれを、その遺言を、そうまで師匠がどうしてそんな
「…………」
だまって小倉は墓のまえをはなれた。――代ってまた三浦がそのまえにすゝんだ。
「しかし……俺もしかし若宮の墓の心配をしようとは思わなかった。」
やがてまた由良は寂しくわらっていった。――どこかで落葉を焚いている煙が、浅い春を、しずかにうす/\とあたりに立迷った。
……五重の塔の下まで五人は引っ返した。そこで、小倉、三浦、田代の三人は体よく由良とわかれた。――由良は吉沢をつれて待たせてあった自動車に乗った。
そのまゝ、三人は、上野の方へは逆の、広い墓地のなかをなおあるきつゞけた。
「いゝのかい、こんなところへ来て?」
ふいと、田代は、立留ってあたりをみ廻した。
「いゝからあるいているんだ。」
邪慳にそういって三浦はずん/\さきへあるいた。
「どこへ行くんだ、しかし?」
「停車場へ行くのよ。」
「どこの?」
「日暮里のよ。」
「日暮里?」
「大丈夫か、おい?」そばからしかし小倉もいった。
「だまって附いて来ねえ。――何にもいうこたァねえ。」
みるかぎり墓と塔婆の冷々とうちつゞいた細い道を右へ曲ったり左へ切れたりした。――が、やがてその墓地を出抜けて、立並んだ格子づくりの小さなその家々の間に、おもいもよらない木立だの寺の門だのをみ出したりする、しずかな、しら/″\した感じの古い往来のうえに三人は出た。――そこにはまれな人通りの外に車の音さえ……それこそ自転車のベルの音さえどこにも響いていなかった。
「御機嫌だったな、しかし……」
急におもい出したように田代はいった。
「何が?」三浦はふり返った。
「いゝえよ、おやじよ。――いつにも、あたしァ、このごろおやじのあんなハッキリした顔つきをみたことがない。」
「以前は始終あゝだったんだ。」
「だから、いゝえ、このごろといっているじゃァないか。――以前、始終、あんなだッたこたァあたしだって知っている。――知ってるから、だから、あたしァそういうんだ。」
「どこへでも俺たちをつれて出る。――その料簡になればいゝんだ。――うそにもそうした気になればそれでいゝんだ。」自分にうなずくように小倉はいった。
「何だぜ、あれ。……わかれたくなかったんだぜ、まだ。……ことによるとどッかへもっと連れて行くつもりだったかも知れないぜ。」
「このうえ窮命させられてたまるものか。」
「可笑しいよ、実際可笑しいよ。」田代は急にわらって「おやじの前へ出ると、慶ちゃんでも不思議に手も足も出なくなってしまうから可笑しいよ。」
「ふざけちゃァいけねえ。」
「そうじゃァないか、ほんとじゃァないか。――まるで猫みたいに音無しくなってしまうじゃァないか?」
「何かいえばうるせえからよ。」
「そんな、また……」
「この二三年、どこへ行くにも必ず一人だった。」小倉は話をあとへもどして「よしそこに、眼のまえに誰がいたって、決して一しょに来いといわなくなった。――どうしてそうこずんでしまったか? ――あんなにぎやか好きの人がどうしてそうしゅんでしまったか? ――気にしていたんだ、俺は……」
「そうなってからだ、しょッちゅう額に八の字をよせるようになったのは。」三浦はいった。「不思議に、今日は、はじめッからその八の字が出ていなかった。」
「いゝからまァ、飲め、たんとずッこけろ、若いうちはそのほうがいゝ。……驚いたよ、あたしァ。――何年にも、あたしァ、あんなさばけたことをおやじにいわれたこたァない。」
「うん、あれは俺も
「が、そのあとがいけねえ。――お前の半分でも若宮が飲んだらあんなこともしなかったろう、もっと外に思案のしようもあったろう。――あいつは一寸痛かった。」
わらって小倉はいった。
「けど。」田代はそれを遮るように「知ってるんだろうか、おやじは? ――分ってるんだろうか、おやじには?」
「何が?」
すぐ、また、三浦はいった。
「若宮君の死んだわけがさ。――どうして若宮君の死んだかゞさ。」
「嫌になったからよ。――生きてるのがいやになったからよ。」
「そんなこたァ分ってる。――生きてるのがいやになったから死ぬ、だれだってそんなこたァ分ってる。――こっちのいうのはその、なぜ、じゃァ、いやになった? なぜそう生きてるのがいやになった? ……それをいうんだ、あたしァ。」
「みねえのか、お前、新聞を?」
「みているさ、毎朝。――それも君のように、いち/\大屋んとこへ頭を下げて借りに行くんじゃァない、ちゃんと自前で、うちへ毎日来るのをちゃんとみているんだ。」
「うるせえな、大きにお世話だ。――どっちだって読む味にかわりはねえ。」
「幾らかわりはないッたって……」
「そんなことよりみていたら分りそうなもんじゃァねえか? ――あんなにいろ/\……七十五日まだ経たねえんだから無理もねえが、いまだに好きなことをいろ/\書いているじゃァねえか?」
「というのは?」
「おもう女に捨てられたからだとか、借金で首が廻らなくなったからだとか、師匠にそむいて旗挙しようとしたのがうまく行かなかったからだとか。……一番可哀そうなのは気がへんになったからだ、でなくっても前々から工合が可笑しかった、だから用心して転地させた。――と、附いて行った女房の眼をぬすんで、予て用意のピストルを出して……」
「君は。――君は、慶ちゃん……」いそいで田代はいった。「ほんとにするのか、そんなことを? ――ほんとゝ思うのか、君は? ――でたらめな、そんな、いゝ加減な、根も葉もない……」
「……ことゝは思わねえ。」三浦はずけりといった。「何をいってやァがるとは思ったけれど、でもない、また、大きにそうかも知れねえ。ことによったら、
「そんなことをいって、君……」いそいでまた田代は遮った。「じゃァ、君は。……いゝえ、どこにそんな若宮君のおもう女がいた? どこに、そんな、若宮君に首のまわらないほどの借金があった? ――『若宮一座』の話だって、いまになってみりゃァ、チョコと楽天坊主とが勝手にそうしくんだ仕事で、ほんとうに若宮君に、そんな気があったかどうかそれさえ分らなくなって来ているんじゃァないか。――気がへんになったといえば一番それが手ッとり早いもんだから……都合もそのほうがいゝもんだから、
「じゃァどう思うんだ? ――どう思うんだ、お
いっそ冷かに三浦はいった。
「分らないんだ。――分らないんだ、あたしには。――だから訊くんだ。」
じれッたそうに田代はいった。
「ざまァみろ。」わざとそう
「何をいやァがる。」田代は
「知ってるんだ、三浦は。――俺もこの男に聞いたんだ。」小倉は三浦のほうを向いて「外のものじゃァない、話してやれよ、おい。」
「知ってるだろう、お前、若宮んとこの家の中を?」
それにはこたえずケロリとしたさまに三浦はいった。
「若宮君のとこの?」
「どんなさまだかってことをよ。――若宮のおやじやおふくろってものがどんなしだいだかってことをよ。」
「それは知っている。――お父つぁんて人もおっ母さんて人も、如才のない、愛想のいゝ人たちだ。――だから家ん中は始終にぎやかだ。」
「そんなことをいってるからものゝ間違いが出来るんだ。」
「どうして? ――若宮君は、あの通りの、世間でも評判の親おもいの人なんじゃァないか? ――そうされゝば、人情で、誰だってそうするのが当りまえかも知れないけど、そういっても、だから、お父つぁんやおっ母さんのほうでも若宮君を
「まるく行ってるものが、じゃァ、何だってあとでべつになったんだ。」
「べつに?」
「あとで、若宮、おやじやおふくろとわかれて別に一人で家をもったじゃァねえか。」
「もったさ。――もったけど、それは……」
「じゃァ、もう一つ、それほど
「それは若宮君が――若宮君が自分の好きで……」
「お
「知ってるとも、よく知ってる……」
「あの女がどんなに若宮に惚れ、若宮がまたどんなにあの女に惚れていたかそれじゃァ知ってるだろう、お前だって?」
「だってしかしあの女は。――あの女は若宮君を捨てゝ大阪の……」
「じゃァねえんだ、無理から
「ど、どうして?」
「勘平さんじゃァねえが、三十になるやならずの若い身そらの役者……というよりは芸人が女房をもっちゃァ折角の人気に障るからよ。」
「そ、そんな……」
「分らねえことはねえといったところでいまさら間に合わねえ。――そも/\の
「しかし……」
「しかしもへちまもねえ、あいつらは若宮の、ほんとうのおやじでもおふくろでもねえんだ。――若宮のほんとうの親たちは外にあるんだ。――若宮は藁の上から親知らずにもらわれて来た奴なんだ。」
「つまり十一月の芝居のあの芸妓よ。」ふいとそのとき小倉は口を出した。「お前がしきりに感心していたあの、悪い
「…………」
「あの芸妓はしまいに気が違った。――が、若宮は、気の弱い、あゝいうやさしい男だけに、気の違わねえさき手めえで死んだんだ。」
「…………」
「今度の『若宮一座』の話だって若宮は知らねえことだったんだ。――おやじやおふくろの勝手にさりゃくしたことなんだ。――チョコと楽天坊主にのせられて好きな熱をふいてまわったゞけのものなんだ。」
……トタン塀のなかに立並んだ古い大きな桜の木でその枝々は往来のうえまで拡っている。――みるとそれは小学校だった。――その塀の外れに、三四けん、荒物屋だの煙草屋だのゝ小さな店のつゞいたあと、三人の行くてに、石の大きな鳥居が一ぱい日を浴びてしずかに立っていた。
「おや?」急に三浦は立留った。「
「何だ?」
ともに小倉も立留った。
「こゝはもう諏訪神社だ。」
「そうよ。」
「こんなとこへ来ちゃァ。――日暮里の停車場はずっとあとだ、この……」
「いやだぜ、おい。――だから、あたしの……」
田代のそういいかけるのを三浦はかぶせて、
「ぐず/\いうこたァねえ。――日暮里を来すぎたら、こゝまで来たんだ、もう
「田端?」
「驚くこたァねえ、こゝを抜けて崖ッぷちへ出りゃァ一ト足だ。」
日を浴びた鳥居も、また、玉垣も、枯々とした木々の、入交った枝の影をさびしくその膚にうつし出していた。――
「むかし、俺たちの、始終こゝへ小遣いをかせぎに来たことをお前なんぞ知らねえだろう?」
そういいながら三浦はあたりをみ廻した。
「知るもんか、そんなこと。」
「活動をうつしに来たんだ、活動を。――『金色夜叉』でも『ほとゝぎす』でも、その時分には、みんなこゝで……こゝだの、花見寺だの道灌山だのでみんなうつしたもんだ。」
「外にはどんな連中?」
「どんな連中もこんな連中もねえ、その時分の大部屋のものは
「誰だ、それは?」
「チョコなんぞその先立だったのよ。」そういって小倉のほうをかえりみた。「チョコ、
「そうかも知れねえ。」そういって、また、小倉は田代のほうをふり向いた。「そういえば、おいどうした、いつかの金は?」
「まだあのまんまになっている。」
「早く返してやれ。――でないと、菱川、ことによるとあの男も死ぬかも知れねえ。」
「死ぬかも? ――どうして?」
「半月ほどまえ、出さきで急に引っくり返り、そのまんまずっとうちに寝ているそうだ。」
「どうして? ――どうして、また……?」
「脳溢血だ。」
「脳溢……?」
田代はそういいかけたがすぐ「誰に聞いた、そんなこと?」
「
「吉沢に? ――どうしてまた吉沢が……?」
「西巻に聞いて来たんだ。」
「どうして? ――どうして金平さんが? ――可笑しいじゃァないか、そんな……」
「ちッとも可笑しかァねえ、どこからかそれを聞くと一しょに西巻は見舞に行ったもんだ。」
「見舞に?」
「いくら犬と猿のような仲でもいざとなれば古い附合だ、三十年来の深馴染だ。……菱川のほうはどうでも、西巻にすれば、あゝいう男だ、矢っ張どこか心細い気もするだろう。」
「みていねえ、チョコにもしものことがあれば誰よりもさき泪をこぼすのは金平だから……」
ふいとそばから三浦はいった。
間もなく三人は境内の寂しい木の間をもと来た道のつゞきへ出た。ぽつんと一けんだけそこに立った小さなペンキ塗の西洋館について曲るとそこはだら/\と低くなった坂だった。――片側は高い石垣の、日のさゝない、暗い、ヒッソリした道のうえに冬の名残の落葉が小砂利まじりに
「しかし、それ……」しばらくしてまた田代はいった。「脳溢血かしら、ほんとうに?」
「どうして?」
「矢っ張、それ、いくらか若宮君のことを神経に……とでもいうんじゃァないかしら、それ?」
「ビックリして眼をまわしたか?」三浦はすぐ茶化して「『夏小袖』の灰吹やじゃァあるめえし……」
「いゝえ。……いゝえ、そうじゃァなしに。――チョコにしたら随分寝ざめがわるかろうじゃァないか。」
「そんな男じゃァねえ。」
「いゝえ、そんな男じゃァなくっても……」
「かつぐとしたら楽天坊主だ。」三浦は引取って「吾妻に死なれ、若宮に死なれ、これでまたもしチョコに死なれたらいかに料簡の
「それに懲りて身にすぎた望みを起さなくなればそのほうが天下のためだ。」
「ふざけちゃァいけねえ。……一度や二度へたばったってそのまんま音無しくへたばり切る相手じゃァねえ。――一度みこんだら決してあきらめるこっちゃァねえ。」
「そんなにも、けど……?」
「芸妓でも、女優でも、あいつにこうとみこまれたら助かりっこねえ。――いくら逃げてもきッとものにされる。――そのまた逃げるのを無理から追ッかけてしめるのがあいつの味噌なんだ。」
「押しの強い奴にはかなわねえのよ。」小倉はいった。
「出来りゃァいゝんだ、話さえつきゃァいゝんだ。」三浦はそれをうけて「たゞそれだけ……たゞそれだけだ。……恥も外聞もあるもんじゃァねえんだ。」
「そうかなァ。」
感心したように田代はいった。
……その坂は尽きた。が、それよりも、もっと広い、埃っぽい傾斜がすぐまた三人のまえに展けた。――それを上りつめたとき、三人は、省線電車の間断なく馳せちがう
「一めんのねえ。」遠く田代も
「三月から四月にかけての菜の花のさかりのころなんぞったらなかったもんだ。」
「菜の花のねえ。」
その光景のうえにひろがった大空。――水のように晴れたその大空に影を曳いた夕焼雲。……小倉はそれをみて無言だった。――淋しさやうかびて遠き春の雲、そうした句をしずかにかれはおもい案じていた。
――――――――――――――――――――
……田端から電車に乗って上野で下りた三人はそこでまた浅草まで地下鉄道に乗った。――三人はいつかの向島のかえりのようにまた「菊の家」へとこゝろざしたのである。
(「大阪朝日新聞」一九二八年一月五日〜四月四日)