浅草の喰べもの

久保田万太郎




 料理屋に、草津、一直、松島、大増、岡田、新玉、宇治の里がある。

 鳥屋に、大金、竹松、須賀野、みまき、金田がある。

 鰻屋に、やつこ、前川、伊豆栄がある。

 天麩羅屋に、中清、天勇、天芳、大黒屋、天忠がある。

 牛屋に、米久、松喜、ちんや、常盤、今半、平野がある。

 鮨屋に、みさの、みやこ、清ずし、金ずし、吉野ずしがある。

 蕎麦屋に、奥の万盛庵、池の端の万盛庵、万屋、山吹、藪がある。

 汁粉屋に、松村、秋茂登、梅園がある。

 西洋料理屋に、よか楼、カフエ・パウリスタ、比良恵軒、雑居屋、共遊軒、太平洋がある。

 支那料理屋に来々軒がある。

 この外、一般貝のたぐひを喰はせるうちに、蠣めし、野田屋があり、てがるに一杯のませ、且、いふところのうまいものを喰はせるうちに、三角、まるき、魚松がある。

 これらのうち、草津、一直、松島、大増、新玉、及び、竹松、須賀野、みまき等は、芸妓の顔をみるため、乃至、芸妓とゝもに莫迦騒ぎをするために存在してゐるうちである。宴会でもないかぎり、われわれには一向用のないところである。
 往年、五軒茶屋の名によつて呼ばれたうち、草津、一直、松島の三軒は右の通り、万梅は四五年まへに商売をやめ、今では、わづかに、大金だけが、古い浅草のみやびと落ちつきとを見せてゐる。
 座敷のきどり、客あつかひ。――女中が結城より着ないゆかしさがすべてに行渡つてゐる。つくね、ごまず、やきつけ、やまとあげ、夏ならば、ひやしどり、いつも定つてゐる献立も、どこか、大まかな、徒らに巧緻を弄してゐないところがいゝ。――われ/\浅草に住む人間の、外土地の人の前に自信をもつて持出すことの出来るのは、このうちと金田とだけである。
 金田は、同じ鳥屋ながら、料理は拵へず、鍋で喰はせるばかりのうちである。先代の主人は黙阿弥と親交のあつた人だつたさうだが、さういふ人の経営したところだけ、間どりもよし、掃除もつねに行届き、女中も十四五から十七八どまりの、始終襷をかけた、愛想のいゝ、小気のきいたものばかりを揃へてある。諸事、器用で、手綺麗なのが、われ/\には心もちがいゝ。――使ふしなものも、われ/\のみたところでは、人形町の玉秀、大根河根の初音、池の端の鳥栄とゝもに、きび/\したいゝものを使つてゐる。
 たゞ、残念なことに、こゝのうち、功成り、名とげて、近いうちに商売をやめるといふうはさがある。もしそのうはさが真実ならば、われ/\は、あつたら浅草の名物を一つ失ふわけである。われ/\はそのうはさの真実にならないことを祈つてゐる。
 前川といふと、われ/\は子供の時分の印象で、今でも、落ちついた、おつとりした、古風な鰻屋だといふことが感じられる。だが、このごろでは、以前ほどの気魄はすでに持合はさないやうである。時代は、浅草のうなぎやとして、こゝよりも田原町のやつこのはうを多くみとめさせるやうになつた。――無駄をいふことを許してくれるならば、わたしは、名代な、あの、おひさといふ女中。――六十は、もう、何年かまへに越したであらうと思はれる、このころでは馴染の客の顔さへとき/″\み忘れることがあるといふ、いつも正しく小さな髷に結ひ、襷がけで、太儀さうに、また、張合なさゝうに働いてゐるあの女中が、ところもたま/\駒形の前川といふうちの運命を寂しく象徴してゐるといひたい。
 やつこは前川にくらべると、今でも、やゝ品下つたところがある。それだけ景気がいゝ。活気がある。表の見世は入れごみだけれど、裏にまはれば、玄関、座敷、その他、芸妓を入れることの出来るやうな設備がしてある。
 伊豆栄は、吾妻橋の際のもとの伊豆熊のあとである、今でも、ときに伊豆熊の名によつて呼ばれる。それほど売込んだ伊豆熊といふ名である。が、これは、格別、いさくさのないごくあたりまへの、入れごみ鰻屋である。
 わたくしの子供の時分、田原町の、いま川崎銀行のある角に、鰻をさきながら焼いてゐる小さなな[#「小さなな」はママ]床見世があつた。四十がらみの、相撲でもとりさうに肥つた主人が、二人の、年ごろの娘たちと、十三四になる悪戯な男の子とを相手に商売をしてゐた。外に、みるから気の強さうな、坊主頭の、その子供たちにおぢいさんと呼ばれてゐる老人がゐたが、そのうち、鰻屋をよして、広小路に、夜、天麩羅の屋台を出すやうになつた。種のいゝものを使ふのと、阿漕に高い銭をとるのとで、わづかなうちに仕出し、間もなく、今度は、伝法院横町の、待合のあとに入つて店を出した。――それがいまの中清である。
 うまいからいゝといへばそれまで、こゝのうち、あまりにすべてが無作法すぎる。――座敷の汚さ、器具の悪さ、女中の無精つたらしさ。――いかな贔屓眼を以てしてもわれ/\には折合へない。
 天勇は仲見世の裏にある古いうちである。天麩羅の外に小料理もする、気の張らない、臆劫なところのない、広小路の天芳とゝもにあくまで浅草むき、田舎の人向に出来上つてゐるうちである。広小路ゐまはり、公園ゐまはりにある、さういふうちの、代表的のものである。
 大黒屋は二三年まへまで蕎麦屋だつたうちである。蕎麦屋の時分から天麩羅を以て鳴つてゐたが、いつの間にか、店の構へをそのまゝ、蕎麦屋をよして、天麩羅屋にかはつた[#「かはつた」は底本では「かはった」]。屡、わたしは、その前を通つて、只今満員とした客どめの札の掲げられてあるのをみる。――蓋し、蕎麦屋へ入る気易さを以つてその暖簾をくゞることが出来るからであらう。
 だが、おそらくはその真似であらう、このごろ、さうした恰好のうちが、活動写真のある近所に二三軒出来た。
 天忠は、公園から離れた、象潟町に存在する毛いろのかはつたうちである。向島の其角堂――このごろ老鼠堂になつた楓一宗匠の好みを帯した喜加久揚といふものをうりものにしてゐる。落語家、吉原の幇間、及び、その落語家や幇間と友達附合をすることを喜ぶ客たち、さうした手合の間に評判されるうちである。――浅草のある面を物語るものとみることが出来る、
 牛屋については、わたしは残念ながら何事も説く資格がない。――たゞ、田圃の平野といふうちの、朝がへりの客を相手にするうへからいつて、朝、この土地の、どこの、何の食ひものやよりも、早く、店をあける重宝さをだけいへばいゝ。
 みさのは、鮨を大専にする小料理屋である。芸妓さへ入るうちである。鮨屋の範疇へ入れるのは皮肉かも知れない。
 ほんたうの鮨屋としては、三四年まへ商売をやめた馬道のみさごずしの贅沢さをしばらくいはないとしたら、清ずし、金ずし、吉野ずしの三軒が、蓋し、公園ゐまはりに数へ切れないほどある屋台上りの鮨屋の、握りを大きくすることを信条にしてゐる鮨屋のなかの代表的のものであらう。――このうち、清ずしは、以前広小路にあつて時めいた初音の職人の経営するところである。
 みやこずしは、それらのものゝことにすると、いさゝかそこに横題ものゝかたちを持つてゐる[#「持つてゐる」は底本では「持ってゐる」]、嘗ては鯖の押鮨を以て聞えた店ださうである。
 奥の万盛庵は藪系統の蕎麦をくはせるうちである。だが、池の端の万盛庵は、蕎麦屋といふよりも、むしろ、蕎麦を看板にした小料理屋である。山吹も、また、蕎麦といふよりも、こゝは饂飩を看板にした小料理屋である。
 松邑といつても今のものは三四年まへまであつたものゝ謂ではない。以前の松邑は、公園裏の道路改正とともに商売をやめ、今のは、山谷の葉茶屋の主人が、松邑の名を惜むのあまり、半ば道楽にやつてゐるのである。
 梅園よりも秋茂登のはうが花柳界をもち地元のものを多く客に持つてゐる。といふことは、秋茂登よりも梅園のはうが堅気の客が多いといふことになる。秋茂登の主人はわたしと同じ小学校出身である。
 よか楼は女の綺麗なのがゐるので売出したうちである。雑居屋は一品料理屋から仕上げたうち、しかも一品料理屋であつた時分の繁昌をいまはみるよしもない。
 共遊軒は公園裏にあつて玉突を兼業してゐるうち。――草津一直の近所なだけ遊蕩的な色が濃い。
 浅倉屋の路地の太平洋に至つては、やゝ異色ある一品料理屋にすぎない。
 これを要するに、この土地は、並木の芳梅亭を失つて以来、西洋料理屋らしい西洋料理屋をどこにも持つてゐない。
 由来浅草には、われ/\の、しづかに、団欒して、食事をたのしむことの出来る場所がない。われ/\は不仕合である。





底本:「日本の名随筆59 菜」作品社
   1987(昭和62)年9月25日第1刷発行
   1997(平成9)年5月20日第8刷発行
底本の親本:「久保田万太郎全集 第一二巻」好学社
   1948(昭和23)年10月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2014年1月2日作成
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