文字に対する敏感

久保田万太郎




 此頃の発句を作る人ほど、文字に対して敏感を欠いてゐるものも少なからう。
 文字に対する敏感――
 こゝに一つの句があるとする。
 その句の存在は、耳に聞く前に、まづそれが眼に訴へられるものである事を考へなければならない。
 その眼にうつたへられる場合、その文字を選ばない事によつて、其の句の持つてゐるものを――感じをハッキリ伝へることの出来ないことが屡々ある。
 趣向がよくつてもそれはいゝ句とはいへない。
 調子がよくつてもそれはいゝ句とはいへない。
 出来上つた一句の、それを纏めてゐる文字が、読む人の眼にどんな感じをあたへるか、果してその句の持つてゐるものをハッキリ伝へてゐるか、そこまで考へなければ本当ではない。
 たとへば、此頃の人々がよく使ふ「陽」と云ふ文字である。
 誰が使ひはじめたのかは知らない。云ふところの新らしい人たちのうちの誰かゞ、今迄使はれて来た「日」と云ふ文字では、はつきり心もちを現はせないと考へたとき、余儀なくそれは使はれたものであらう。
 だが、一度それが人々の眼にふれると、いかにも新らしい発見でゞもあるやうに、我も/\と猫も杓子も「陽」と云ふ字を使ふ。内容にふさはうが、ふさふまいが、そんな事は一向考へずに使ふ。
 いふならば、私は、其の最初に「陽」の字を使つた人の心もちさへ疑はれる。
 古くから発句といふものゝ季題に用ひられてゐる文字、すべて調子の低い色の薄い、ある陰影を持つた文字ばかり常に並べられる間にあつて、そこに使はれた「陽」と云ふ文字が、どの位あくどく、強く、さうして濁つて居るか分らない。
 ――蓋し穿きちがひである。
 これを翻訳に例をとる。
 それは恰も彼の、メエテルリンクの「家の内」を、「内部」と訳し、ヱデキントの「春の目覚め」を「春期発動」と訳し、いゝと思つてゐる手合である。
 発句を作る人は誰も発句と云ふものゝ、持つてゐる本質、味はひ、さうした事を、つねに深く考へないではいけない。
 もし此の説に首肯出来ないものがあるならば、私はたやすく、その人を文字に対する敏感を欠いてゐるものと断定すると同時に、発句を作るほんたうの資格のないものと断定することが出来る。





底本:「日本の名随筆 別巻88 文字」作品社
   1998(平成10)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「久保田万太郎全集 第一四巻」中央公論社
   1967(昭和42)年6月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2014年1月2日作成
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