にはかへんろ記

久保田万太郎




まづ船に旅の幸えし五月かな



杖            五〇円
笠           三三〇円
べんたう行李       五五円
荷物行李(おひずる)  三〇〇円
首掛袋          八〇円
鈴           二五〇円
数珠          二五〇円
札箱           五〇円
お札           二〇円
納経帖         一〇〇円
脚絆          一五〇円
白衣          四五〇円

 以上のへんろ装束、並びに、持道具一切を、われ/\、四国第一番の札所は、阿波、霊山寺門前の浅野仏具店で調とゝのへることができた。
 その前日の午後、神戸から乗つた“あきつ丸”を小松島で下りた途端、その汽船発着所の待合室にたま/\みいだした広告……それによつて、われ/\、その浅野仏具店といふ、おもひもよらぬ器用なものゝあるのを知つた。……といふことは、そこへ行きさへすれば、へんろ装束一切が、右からひだり、簡単に、すぐにでも間に合ふであらうといふことが、われ/\に、おのづから了解できたのである。
 すなはち、
 ――大丈夫だよ、君。……何も心配するがものはなかつた……
 と、ぼくは、同行、池田吉之助君をかへりみた。
 ――さうなんですなァ。……安心しました、これで……
 と、東京出発以来、いかにして調達すべきかと、それをばかり苦にしつゞけた池田君は、はなはだ、正直に、惜みなく、口もとをほころばした。
 が、そのあと、その広告のちかくに掲げられた告知……小松島保安部、小松島巡査派出所、及び、関西汽船株式会社名による乗客への注意書は、もッと、太だ、われ/\をよろこばした。
 なぜか?

“――船内でのインチキ賭博には手を出さないで下さい。絶対に勝てないばかりか、刑事上の罪になります……”

 といふ一くだりの文句をその中にみつけたからである。

“――絶対に勝てないばかりか……”

 なか/\、素直に、かうはいへるもんぢやァない……
 ――よきかな、四国……
 ぼくは、ひそかに、ぼくにいつた。


 その晩、われ/\は、徳島市内を流れる新町川沿岸の“清風荘”といふ宿屋に入り、徳島新聞の松本さん、福島さん、郷土研究家の林鼓浪さんたちから、徳島に関する話をいろ/\参考に聞いたのだが、これよりさき、
 ――わたくし、文藝春秋新社の……
 と、池田君、みづから名告りつゝ、林さんに名刺をさしだした。
 と、
 ――あなた、池田吉之助さんで?
 それをみるや、林さん、突然、驚きに似た声をあげたのである。
 ――は?……はァ……
 池田君は、一瞬、キョトンとした。そして、大きな目をパチ/\させた。
 ――池田吉之助といつたら、あなた、角藤定憲がはじめて壮士芝居の旗上げをしたときの重要な座員の一人です……
 と、林さんはいつた。
 ――さうでしたかしら?
 と、引取つてはいつたが、ぼくには、かいくれその名前、記憶になかつた。
 ――横田金馬、笠井栄次郎位なら、知つてますが……
 ――その仲間です。……はじめは池田吉造といつてましたが、後に、吉之助になりました。
 ――どうも、いけません。ぼくの名前は……
 と、池田君は、あたまを抱へてみせた。
 ――何んのかの、いつも、いろ/\サカナにされます……
 が、池田君のおかげで、ぼくは、角藤定憲についての新しい知識をえた。……すなはち、明治二十一年の十二月、岡山県人角藤定憲が“大日本壮士改良演劇会”といふものを組織、中江兆民たちの支援をえて、大阪の“新町座”で旗上げをしたあと、近畿から九州にかけての各地を巡業、失敗に失敗をかさねたあげく、やッとのことにたどりついた徳島で傷害事件を起し、一月あまり警察に拘置された顛末をくはしく林さんから聞くことができたからである。……帰つたら、これは、早速、“新派の六十年”の著者、柳永二郎につたへるべきだと思つた。
 それにしても、林さんの話のうまさは、林さん自身、嘗て、その仲間に居たかのやうな感じをさへ、ぼくに与へた。ぼくと一つか二つしか年のちがはない以上、そんなはずはないのだが、それほど、でも、生き/\と、すべての人物が林さんの舌頭に舞つた。……そこに、ぼくは“研究”のある方法の、空想を、きはめて容易に現実化させうる一つの場合をみいだした。
 なほ、むかしの池田吉之助は女形だつたらしい。……いまの、ぼくとゝもに遍路の旅にでた池田吉之助君は、東大出身、近世ドイツ史専攻の学士さまである。
 しかし、角藤は、明治四十年の一月に、四十二で死んでゐる。とすると、“新町座”旗上げのときは、まだ、二十三にしかならなかつたわけの、座長にしてそれだつたら、座員はもッと若かつたにちがひない。ことに女形だつたとすれば、むかしの池田吉之助は、いまの池田吉之助君より、当時、七八つは若かつたであらうこと必定である。……しかも、いまの池田吉之助君たる、白面、純情、蝶ネクタイいやしからぬ好青年、一たび遍路すがたに身をやつすや、
 ――まァ、学生さんのお遍路……
 と、室戸岬で、道行く少女たちにさゝやき交されたといふ……
 これは、そのあと、三日してのはなしだが……


 翌日、よせばよかつたのに……遍路はうそはつかない、全く、あとで、さう思つたのである……途中、えうもない、吉野川橋だの、阿波十郎兵衛屋敷あとだの、大毛島おほけじまのナルトに巻く渦だのをみて……といふのはあたらない、みせられて、おもはぬ道草をくつたゝめ、かんじんの霊山寺に着いたときには、すッかり、もう、西へまはつてしまつた日ざしが、門前の、二三げん、ひッそりと並んだへんろ宿の傾いた軒さきを、何か、しら/″\と、心細く、去りがての春を追ふかに染めてゐた。
 四国第一番の札所……といふよりも、“霊場”といつたはうがひゞきもよく、感じの厚みもでるといふことが、大きな仁王のひかへた山門を入るとゝもに、ぼくにわかつた。
 広い境内には、幾年月いくとしつきの空気が、しッとりと冷めたかつた。鐘楼があり、多宝塔があり、そして、正面、石段による適当な高さをもつた本堂には“寂光殿”とした額がかゝり、その下に、マルにまんじの、浅黄いろの幕が張つてあつた。
 その浅黄のいろの褪めかたといはうか、古びやうといはうか?……どッちでもいゝ、その褪めかたに、古びやうに、ぼくは、いまゝで知らなかつた世界を感じた。……いまゝで知らなかつた仏の世界の哀しみを……
 ぼくは、線香を買つて、自分でそれに火をつけた。
 ぼくの手から煙がながれた。
 参詣をすませて、石段を下りた。池田君のすがたがみえなかつた。
 ――ねえ、どこへ行つたでせう、池田君?……
 と、ぼくは、訊き、且、みまはした。
 ――さァ……
 と、松本さんとも/″\、今日もぼくの写真をとるために一しよに来てくれた福島さんも知らなかつた。
 とにかく、山門をでゝ、自動車の待つてゐるところまで引つ返すことにした。……と、何んと、そこまで行かないうちに、一けんの、間口の広い、ガランとした、一寸ちよつとみたゞけでは何んの商売か見当のつかない店のあがはなに、端然と腰をかけたかれのすがたがみつかつたではないか……
 ――池田君……
 と、ぼくは、おもはず立留つた。
 ――先生……
 と、池田君は、すぐに立つて、
 ――こゝです、こゝです……
 と、店のなかをゆびさした。
 すなはち、その店が、小松島の汽船発着所の待合室に広告してあつた“浅野仏具店”だつたのである。そして、池田君は、霊山寺に着くや、ぼくが境内をうろ/\して、多宝塔のまへに立つたり、鐘楼をみ上げたりしてゐる間に、早いところ、その店をさがし、二人分のへんろ装束、並びに、持道具一切を、ちやんとすでに註文したといふわけだつたのである。
 が、そこで、すぐにまさか着替へることもできないから、一応、一まとめにして、宿へもつて行くことにした。その荷作りのできる間、ぼくは、いま手に入れたばかりの部分品の一つ、納経帖をもつて、池田君とゝもに、もう一度、山門を入つた。納経所で、その帖面に、参拝した証拠の判を押してもらふためである。
 納経所は、山門を入つてすぐの道を右へ切れたところにあつた。五十恰好の、おそらく住職であらう、無精ヒゲを生やした老僧がひかへてゐて、われ/\のさしだした帖面を、あけてすぐの一枚を残した二枚目のところに、

奉納経 本尊釈迦如来 霊山寺

 と書いて、べた/\判を押してくれた。……あけてすぐの一枚は、高野山へ行つたときのためにとつて置くのださうである。……手数料として、われ/\、十円づゝ、二十円支払つた。
 第二番の札所の極楽寺は、おなじ板野郡板野町で、そこから十町ほどゝ聞いたが、ぼくは昨夜ゆうべ聞いた知識によつて、とくに由緒あるにかゝはらず、いまは、大へん荒廃してゐるといふ第十五番の札所、名東郡国府村の国分寺へ行くことを希望し、自動車にその方角へ行つてもらつた。
 いくつかの町々をすぎ、村々をよぎり、やゝ黄ばみそめた麦ばたけ、また、麦ばたけの中を行くこと一時間余。……
 といふことは、霊山寺ですこしゆッくりしすぎたからもあり、目的地に着いたときには、もう、その国分寺の山門を、鐘楼を、本堂を、そして、その他の小さな建物を、ほのかな夕暗が、水のやうにしづかに、靄のやうにしめやかに浸してゐたのである。しかも、いまだ、どこにも灯火あかりのかげはさしてゐなかつた。
 ぼくは、その中につて、本堂に懸つた額に目をこらした。……“瑠璃殿”と辛うじて読めた。
 ――わかりました。……こッちです……
 と、納経所をさがしに行つた池田君が、帰つて来ていつた。
 ――どこ?
 と、ぼくは、池田君のあとに従つた。
 が、池田君がぼくを拉したのは、納経所ではなく、広い庭に面した、おそらく、それは、住職の居間であらう座敷のまへだつた。そして、うたがひもなくその人が住職の、六十一二、眉のやさしい、頬のあたりのなごやかな老僧が、
 さァ。……さァ、どうぞ……
 と、あいそよく、縁側に座ぶとんをもつて来てくれたりした。


 昭和九年にでた鉄道省編纂“日本案内記”四国篇には、この寺について、“奈良朝創始の国分寺で、天正年間の兵火に焼失したが、寛保元年に再興した。境内に往時の礎石がのこつてゐる。”としるしてある。……その礎石を、ぼくは、ぼくの腰を下ろした縁側から程近きところにみいだした。福島さんに教へられてゞある。が、ぼくには、さうした部分的な、しかも遽かに信じられないほど遠い時代の柱の痕をのこした石のくぼみに注意するよりも、その庭、全景の、
 ――なるほど、これは、荒れたもんだ……
 と、しみ/″\吐息はつかせても、同時に、さぞや、嘗ては、その“寂び”をうたはれたであらう木々枝々のとりなし、心づかひ。……消しても消えぬ気品の、身についた、骨の髄までしみこんだ床しさの、夕暗にいたはられつゝ、すでに今宵の、やすらかな眠りに落ちた哀しみをみるはうが、よッぽど胸にしみた。
 やがて、住職の、

奉納経 本尊薬師如来 国分寺

 と書いてくれた納経帖をうけとつて、いとまを告げ、われ/\は、手近てぢかの裏門から外へでた。
 そこも、また、一めんの麦ばたけの、そのうへの空にでゝゐた二日月のひかり……
 ――どうだ、あれ?……
 と、ぼくは、おもはず立留つた。
 ときに、どッかで、しきりに犬が吠えたてゝゐた。


 ――おなじ霊場で、かうもヘンパのあるものか?……
 と、国分寺へ行つたあくる日の午後、海部郡日和佐町の薬主寺……札所二十三番……の桜並木をぬけ、仁王門をくゞり、女厄坂三十三段、男厄坂四十九段、あはせて八十二段余の石段を上り切つたとき、ぼくは、おもはず呟いたのである。
 桜並木の敷石だけにみてもわかる境内の、すべての整然とした、布置、設備。……たとへば、女厄坂をあがつたところに“絵馬堂”がある、といふよりも、女厄坂と男厄坂とのあひだが“絵馬堂”になつてゐる、あるひは、巧みにそのきが“絵馬堂”にしくんである、といつたはうが適切であるやうな、すこしのスキもムダも許さない建造への構想に、ぼくは、すくなからず驚いた。しかも、それは、直ちに経営のうへにも及んで、たとへば、また、女の厄の三十三、男の厄の四十九、それぞれの年を刻んだ石段が出来、そして、それによつて、つぎのやうな“厄除祈願やくよけきぐわん”の方法さへ工夫された。

“まづ新しき草履を求めて厄坂の下に至り(男は男厄坂、女は女厄坂)草履をはき、石段毎に賽銭を供へ参りつゝ、坂を上りて草履を脱ぐべし。厄坂の石段下には、薬師本願経一千部を一字一石にして納め、男女の厄災を払ふ効験がある。次に絵馬堂にある抹香臼の杵をもち、自己の歳の数だけ搗くべし。それより諸堂を参拝し、随求塔ずゐぐたふの前に備へたるかねを自己の歳だけ打ち鳴らすべし。尚、本堂にて厄除の万灯を奉納し、厄除の守を受け、又、寺務所に於て、厄除祈祷を申込まるべし”

 この祈願、年に一度かと思つたらさうでなく、旧の正月、旧の五月、旧の九月、旧の十二月と、しば/\行はれるらしい。のみならず、“薬王寺案内”といふ小冊子をみると、この外に、二月の涅槃会、三月は正御影供、四月は釈尊花祭、五月は大般若会、六月は弘法大師降誕会、七月は盂蘭盆会、といつた工合に、毎月、欠さず何かしら、催しものをする運びをつけてゐる。そして、それらの行事によつて、いかにこの寺が繁昌してゐるかの、旧正月十二日の初会式のごとき、数万の人出があり、日和佐港は旗幟翻る大小の船舶を以て埋められ、“まさに県南第一の大市である”と、その“薬王寺案内”のしるすところ、けだし、ほんとだらう。ぼくは額面通りにうけとる。……といふものが、この寺、明治三十一年に焼けて、四十一年に再建してゐる。入れものゝ新しいことが、おのづと中味を新しくさせ、寺の近くに湧きでた“霊水”のラヂウム含有量を大阪衛生試験所に証明させて、日和佐鉱泉株式会社の創立をさへみたのである。……となると、これ、ぼくがもし、片手に杖、片手に鈴、遍路すがたでこの境内に登場したとせよ、果して、それは、悲劇だつたらうか、喜劇だつたらうか?……と思ひつゝ、八十二段のぼりつめた石段の上に立つて、ぼくは、夕日にうかぶ日和佐湾、日和佐の町々の、あかるい、カラッとした、しかも、その中に“藍”と“緑”の適当に溶け合つた遠眺めに目を遣つた。
 ――お待たせしました。
 と、そこへ池田君が納経所から帰つて来た。
 ――こゝも薬師如来が本尊か?
 と、ぼくは、池田君からうけとつた納経帖をあけてみていつた。
 ――さうなんです、国分寺とおなじなんです。
 と、池田君はこたへた。
 ――あはれ、国分寺よ。……二日月のひかりよ……
 と、ぼくは、ひそかにまたつぶやいた。


 日和佐を出発したのは午後四時五十分……
 牟岐、八坂八浜、宍喰しゝくひをすぎて、かんうらにかゝつたとき、とッぷりと日は暮れた。……といふことのはッきり分つたのは、たま/\そこがバス会社の車庫の近くで、徳島ゆきの終バスと、室戸岬ゆきの終バスとが落合ひ、でなくつても狭い道が一層せまくなつて、ためにわれ/\の自動車は、身動きができなくなつたのである。そして、そのとき、軒を並べたパチンコ屋の、暗い海へと、宵の灯影をあか/\と溢れさせてゐる漁村風景が、われ/\の目に映つたからである。……ぼくは、いさゝか、旅愁を感じた。
 十分ほどで、自動車はうごきだした。
 甲の浦……野根のね……佐喜浜……
 自動車は、たゞ……ひたすら、たゞ、闇を衝いて走つた。
 乗つてゐるわれ/\は、どこを、どんなところを運ばれてゐるのか、かいくれ分らなかつた。果して、まちがひなく室戸岬へ向つてゐるのかどうかさへ分らなかつた。
 それだけに、時たま、材木を一ぱい積んだトラックの、こッちをめがけて走つて来るヘッドライトに出逢ふと、理由なく、ホッとした。
 が、それとて、すれちがつてしまへば、それッきりだつた。あとは、また、もとの、あやめもわかぬ闇だつた。
 と、遠くに、一つ二つ、灯火あかりがみえだした。
 ――室戸岬の町です、あれ……
 と、運転手はいつた。
 が、その灯は、すぐにみえなくなつた。沖のいさり火だつたのである。
 ――じつは、わたくしも、この道は一度通つたことがあるッきりなんで。……ことに、夜みちだもんで、どうも……
 と、運転手は、白状した。
 さうなると、不安は、われ/\ばかりの所有ではなかつた。運転手も、また、その分けまへのほしい一人だつた。
 ぼくは、もう、運を天にまかせて、目をつぶつた。
 突然、はげしく、木々をゆすつて風が湧いた。……と思つたのは、田圃、一めんにひろがつた蛙の声だつた。
 何んと、あゝ……
 ぼくも、池田君も、運転手も、無言をつゞけた。
 かくして、室戸岬、岬ホテルに着いたのが午後十時。
 高知新聞の人たちが、夕方、まだあかるいうちから来て待つてゐるといふ……
 ぼくは、しかし、すぐに湯に入れてもらつた。
 五右衛門風呂だつた。
 室戸岬は水に不自由してゐる、水を節約せよ、浴槽ゆぶねの中で手拭をつかふな、といふ貼紙がしてあつた。
 湯からでゝ、座敷に入ると、これはまた、大きな食卓の上に、早くもすでに、ズラリと料理が並んでゐた。大きな伊勢海老の真つ赤ないろが目にしみた。
 考へたら、われ/\、朝、徳島で食事をして出たッきり、パンの半カケすら、口に入れてゐなかつたのである。
 よくも辛抱したものだ。
 で、改めて、ぼくは、高知新聞の人たちに……松田さんと浜田さんとにあいさつした。
 となつたら、これ、

火蛾去れり岬ホテルの午前二時

 といふことになつたとて不思議はあるまい……


 以下、手帖二三枚……

五月十七日、午前十時、へんろ装束に身をかため、岬ホテルを出で、札所第二十四番最御崎寺に向ふ。……
空、やゝ曇り、風、全く無く、室戸岬の海、太だ平穏、むなしく灰白色にひかるのみにて、何んらの奇なし。(二句)
岩群れてひたすら群れて薄暑かな
薫風やいと大いなる岩一つ
その岩をえて弁当をひらく。朝ともつかず、昼ともつかず……(二句)
薫風や岩にあづけし杖と笠
べんとうのうどの煮つけの薄暑かな
はまゆふ、いまだ咲かず、黄あやめに、蝶、しづかにとぶ。(二句)
はまゆふのまだ咲かぬ風薫りけり
この町や水にこと欠くあやめ黄に
阿波にては、まだ黄ばみそめし位なりし麦、土佐にては、すでに真ッ黄色なり。
あてことのはづれてばかり麦の秋
阿波は暮春、土佐は首夏……
暮春、首夏、まだげんげ田の残りけり

 □徳島の林さんは、角藤定憲を語つて、空想を現実化した。ぼくは、へんろ装束に身をやつすことによつて、現実を空想化した……

 □浅野仏具店でとゝのへたへんろ装束のうち、手ッ甲だけ間に合はなかつたのを、徳島の宿屋でわけなく縫つてくれた。足袋は室戸岬のホテルで買つてもらつた。たゞ、草鞋といふもの、どこにも売つてゐなかつた。やむをえずいはひつけた草履にしたが、このごろのおへんろさんは、大ていは地下足袋ださうである……

 □うちをでるとき、いひつけて、新しい手拭を一本、鞄の中に入れさせた。おへんろさんになる以上、笠をかぶるにしても、タオルではこまると思つたからである。
 岬ホテルで、すッかりこしらへをして、さて、鞄の中からその手拭をだしてみた。“あッ”と、ぼくは、おもはず声を立てた。なぜなら、その手拭、落語家の左楽が引退披露にくばつて来たものだつたからである。いゝえ、それだけなら何んでもない、それをくばるかくばらないに、かれ、高座ばかりでなく、突然、この世からまで引退してしまつたのである。
 生前、縁なくして、一度も逢つたことのなかつた人だけに、ヘンな気がする。……帰つたら、すぐに、かれの愛弟子まなでし文楽に話すことにしよう。

 □最御崎ほつみさき寺、またの名を“東寺ひがしでら”は、山の上にあつた。木の根、岩角を、攀ぢつゝ、四十五分かけて上つた。杖と、いはひつけた草履とが、どんなに役に立つたらう。へんろ装束に身をかためたこと、かくて、決してムダではなかつた……

 □仁王門の下に、小さな猫が鳴いてゐた。
 ぼくは、すぐに側へ行つて、抱いてやつた。……四国へわたつて以来、はじめて、ぼくは、うちのことを思つた。
 遍路と猫。
 ぼくが、画人ゑかきなら画にするが……

 □この寺、一言でいへば、鄙びてゐる。そして、つゝましい。
 が、住職の島田信保さんは、四十そこ/\で、まだ若く、寺の仕事以外に、観光協会副会長だの、児童福祉審議会委員長だの、保護司だのゝ役をしてゐる。手のつけられないほど荒れてゐたといふこの寺を、すくなくも、いまのやうに落ちつかせるには、いろ/\苦心があつたにちがひない。ぼくは、もッと、それについて聞くべきだつた……

 □野根饅頭。……指頭大で、“いしごろも”みたやうなみかけをもつてゐるのがめづらしい……


 これよりさき、ぼくは、霊山寺の納経所で、“聖跡を慕うて”といふ本を、目についたまゝ、何ごゝろなく買つた。
 何ごゝろなく買つた位だから、何ごゝろなく読んだ。……読んで、そして、こんないゝ本のあるのを、なぜ、もッと早く知らなかつたかと、ぼくは、ぼくの寡聞を恥ぢた。
“聖跡を慕うて”とは、すなはち、明治三十九年、著者二十八歳のとき、兄事する一人の先輩とゝもに、四国八十八ヶ所の霊場を巡拝した七十余日間についてつぶさにしるしたものだが、それについてはあとで書く。いまは、まづ以て、その本文につけ加へた“巡礼遍路の意義”といふ文章の示すところに従つて、“遍路とは何んぞや”といふそも/\のあなたの問ひにこたへる。
“巡礼と云へば西国三十三ヶ霊場の、観音巡拝者のことであり、遍路と云へば、四国八十八ヶ所の、大師参詣者の呼称である。今日では仏教に於ける大衆的修道者の巡拝群として、この二者が最も有力なものになつてゐる。”といふ書出しではじまつてゐるこの文章は、巡礼及び遍路の宗教的意義として、つぎの五つをあげてゐる。
一、自然に還ること。
二、つねに仏とゝもにゐること。
三、人間愛に徹すること。
四、心身の病魔を去ること。
五、宗教生活の意義を体験すること。
 以上のどれも、説明されゝば(あるひは、説明されなくつても)納得の行くことばかりだが、とくに“二”の“仏とゝもにゐること”については、遍路の笠にかならずしるされる“同行二人”、及び、“迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処有南北”の説明をとほして、著者の心魂からほとばしる生きた知識を、ぼくは、うけとることができた。著者の文体を紹介する意味からも、ぼくは、その一くだりをこゝに抄出しよう。

“四国、西国の巡礼者は、日々仏と倶に居るのである。冠れる菅笠に、同行二人と記せるのがその証左である。彼等は到る所の霊場で納経をいたゞき、その本尊を負笈おひずるに入れて、之れを背負うて行く、これ仏、我と倶にいます表示である。
「迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処有南北」
 菅笠や金剛杖に書かれたこの文句は、利害得失に苦しむ、人間界の迷ひを離れて、十方無碍の楽しみを得る、仏の境域に処するといふことで、一切の社会的罪悪から脱して、日々是好日の世界に暮して居ることを、自覚せよとの警示である。
 すでに我は仏の子にして仏と倶に在り、人も、亦、仏の子にして仏と倶に在り、かくて倶に行く友も人にして仏である。向うより来る巡礼遍路も、亦、人ながらの仏である。されば途中にて出逢ふ人々をば仏と思ひ、必ず合掌して礼拝する。同行する友に対しても、朝夕手を合せて相拝む。ここに於て人も我も昨日までの闘争の街から脱して、菩薩聖衆の如く優遊する、極楽浄土を眼前に将来するのである。
 昼は宝号を念誦して山川の間をたどり、村落に入りて詠歌を放唱して接待を受け、各霊場へ詣でては、生みの親の家に帰りしが如く、法悦歓喜して御本尊を礼拝し、夕方宿に到着すれば、急坂険路に我を扶け、終日我を導きたる金剛杖を、先ず浄水にて洗ひ清め、仏の御足なりと押し頂きて、床の隅に置き、菅笠は仏が捧げて、我を覆ひ下されし天蓋なりと思ひて、大切に杖の傍に置き、負笈の中より納経を出して床上に安んじ、懇に一日の御守護を感謝し、心ゆくまで読経念誦して、自己本来の魂を錬磨し、仏我一体の三昧に入るのである。”

 東京哲学館在学中、境野黄洋、高嶋米峰たちの新仏教同志会に加入したり、そのころ勃興した社会主義思想を研究したりするかたはら、正岡子規の門を叩いて、和歌、俳句の道にいそしんだ著者は、明治三十六年、二十五歳で郷里の寺の住職になつたが、古い因襲のクモの巣十重二十重の“お寺さま”の生活に何んとしても慊らず、僧籍を脱しようとさへ決心した。著者のその悩みを知つて、同郷の先輩が四国の霊場巡拝をすゝめ、山河幾百里、ともに七十余日の旅をつゞけたのである。そして、その間、あるひは遍路にでたまゝ行方知れずになつた父親をたづねて、家を捨て、妻子を残し、おのれもまた、一人、遍路にでたといふ男に逢つたり、あるひは、レプラのきざしのでて来た二人の不幸な子たちのために、夜ッぴて、大師堂の縁に、ふきまくる山風の中“南無大師遍照金剛”の宝号をとなへ、仏に祈りつゞける母親の必死の声を聞いたり、あるひは、道で、髪は抜け、顔は腫れ上り、目は片目、鼻のかたちもわからない老遍路に逢ひ、あまりのその醜さに驚いて、おもはず顔を背けて行き過ぎようとすると、その遍路は、いともいんぎんに著者のまへに合掌し、宝号をとなへ、夢中で拝みかけた。著者は、おもはずその真剣さにうたれ、直ちにその遍路のまへに、跪坐、合掌、とも/″\“南無大師遍照金剛”をとなへ、ぬぐひあへぬ泪を流したりしたのである。
 かくて、著者の信仰の目はひらけた。……しだいに、家のことだの、世の中のことだのを一切わすれて、その日その日のかてと宿りとを求める以外には、ひとへにたゞ、大師の恩徳をのみ思ふやうになつた。

“……信仰を求めるには、赤子の心にならねばならぬと云ふが、丁度余の心も世事から離れ、朗然として塵一本も留めぬやうになりかけて、その快感は云ふばかりなきものがあつた。此数十日間、世塵を離れて、数百里の道をたどり、ひたすら大師の恩徳を念じ、深刻なる宗教味を味はふやうに、霊場参拝の道を遺されたことは、修道者にとりて真に有難い方便である。”

 と、著者は教へてゐる。
 この著者……和田不可得といふ著者の、さきの高野山の管長、和田性海さんといふ大徳だといふことを、ぼくは、勿論そのときはまだ知らなかつた。


 現実の空想化は、長続きさせてはならぬ。……と思つたから、最御崎寺の下から乗つて、真つ直に高知へ向ふ自動車の中で、ぼくは、脚絆をとり、手ッ甲をはづし、白衣をぬいで、洋服に着替へた。だから、三時間余のあと、高知に入り、長岡郡五台山村の札所第三十一番“竹林寺”に着いたときには、ぼくは、金剛杖は突いてゐなかつた。
 しかし、それでよかつた。キマリのわるいおもひをしないですんだ。……といふものが、その竹林寺、東京の愛宕山の七八倍以上の高さをもつ五台山の頂上にあつた。しかも完全な自動車道路がついてゐて、どんな大きな遊覧バスでも、平気で山門に横づけができた。まして、われ/\の乗つた、ついとほりの自動車くるまをや、……しかし、われ/\は、ちッともそんな驚いた風はみせず、微笑をさへ示しつゝ、山門をくゞつた。……大きな木の多い山の、どこか暗い、しッとりした、冷めたい空気が、たちまち、われ/\をつゝんだ。
 昔、聖武天皇、大唐の五台山で文珠菩薩に逢はれた夢を御覧になり、僧行基をお召しになり、本朝に五台山に似た霊地はないか、あつたら、かの山にならつて伽藍を建立せよ、と仰せられた。
 行基は、それに対して、
 ――臣僧、行化して遍く諸洲をみるに、土洲長岡郡に奇異の霊島ありて、そのかたち震旦の五台山に異ならず、五峰たかく聳えて、文珠の頂に五髪あるに似、三池ふかく湛へて、三解脱の法門をしめすが如し。伝へ聞く。むかし金輪際より一夜に湧出せり、故に此山地震動揺せずといへり、まことに是、文珠大聖の浄土なるべし、ねがはくは此地に伽藍を建立し給へ。
 と、申上げた。天皇には叡感斜めならず、すぐに勅して神亀元甲子年、伽藍を営興せしめ給ふ、と、“竹林寺縁起”にしるしてあるが、その後、いろんな時代に於ける修理また修理が荒廃を救ひ、かくべつ大きな火事にも逢はず、維新のときの廃仏毀釈のときも助かつて、本堂の文珠堂は、明治三十七年、内務省特別保護建造物の指定をうけて、今日にいたつてゐる、といふ……
 何んとしても、それより、山内のすみ/″\まで広いことが……そして、坂だの、石段だのが、その広さに適当な変化を与へてゐることが、いかにも“霊場”といふ感じを……何か、奥底の知れない、森閑とした、“霊場”らしい“霊場”を打ちだしてゐた。
 住職の海老塚義隆さんに逢つた。大柄な、眉の逞しい、みるから、うちにもつた知恵と勇気とを感じさせる人だつた。……なるほど、この人なら、あの自動車道路位、計画するだらうと思つた。
 ――いまゝでまはつたお寺は、どこも鐘楼がからッぽでしたが……
 と、ぼくは、ぼくのいち早い発見について、海老塚さんにたゞした。
 ――いゝえ、この寺も、供出しろといはれましたから、いつでも持つて行けるやうに下に下ろしました。……いくらつてもとりに来ません。……そのうちに終戦になりました。
 つと、海老塚さんはわらつて、
 ――さうしたら、今度は、アメリカの兵隊が来て、なぜ鐘をこんなところに抛りだして置くのだといひました。……べつに抛りだして置くわけでもないが、簡単にさう処理できないからといふと、何かブツ/\いつてましたが、やがて大ぜい仲間を連れて来て、もとへもどしてくれました……
 ……玄関のまへの、べにかつらの細かい葉を一ぱいからました低い垣が、あかるく、しづかに美しかつた。


 以下、手帖一二枚……

竹林寺を辞して、五台山麓、五台山荘に入る。……主人、さすがに心得たるものにて、自動車より下ろしたる金剛杖を浄水にてきよめ、笠とゝもに床に運び来る。
ゆく春やさゝやきかはす杖と笠
浦戸湾。……阿波にてみたる二日月、すでに、はやくも、五日月なり。
船のひく水尾のひかりも五月かな
高松にて。(二句)
志度寺へ三里ときゝしあざみかな
けふもまたなまじ天気のあざみかな
七日の旅を了りて京都まで帰る。
……大文字屋にて。
春雷やたどりつきたる京の宿





底本:「日本の名随筆 別巻21 巡礼」作品社
   1992(平成4)年11月25日第1刷発行
底本の親本:「久保田万太郎全集 第一〇巻」中央公論社
   1967(昭和42)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2015年2月20日作成
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