「引札」のはなし

久保田万太郎




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 田端に天然自笑軒といふ古い料理屋がある。古いといつても、明治の、日露戦争のあとをうけた好況時代に出来たものらしいが、わたくしの二十三四、さうした場所に関心をもちはじめた時分、すでに相当、有名でもあれば、洒落れた贅沢なうちとして、一部に、ことさらな勢力をもつてゐたこともたしかだつた。いまでは、毎年、七月二十四日、芥川龍之介君の河童忌をやるうちになつてゐる。
 このうちのために森鴎外先生が「引札」を書いておいでのことを、人はあんまり知らない。しかし当の自笑軒のあるじ……いまのあるじである……でさへ知らない位だから、知らないはうが当りまへかも知れない。わたくしといへども、『鴎外遺珠と思ひ出』を読んではじめて、へえ、かういふものがあつたのかと驚いたのである。

「蛙鳴く田端の里、市の塵森越しに避けて茶寮営み、間居のつれづれ洒落半分に思ひ立ちし庖丁いぢり、手まかせの向、汁椀、焼八寸、吸物と木の芽、花柚の口ばかりは懐石の姿はなせど、味は山吹の取立てて名物もなき土地柄ながら、濃茶薄茶の御所望次第、炉風呂の四季のその折折、花紅葉探勝のお道すがらあるは又山子規虫聞きなどの雅賞にも広間、囲ひの数を備へ、御窮屈ながら茶事を省き、酒飯は時のあり合せ、ただ風流のおくつろぎを第一とし、詩歌、俳諧乃至書画、声曲の仙集にもあてさせられ給はんこと、これ亭主の希望とするところなり。電車の便も都ちかきこの郊外にこの寮あるは、世忘れの仙境之に過ぎたるはなしと、茶音頭とりて亭主にかはり、古き口上振を敬つて白す

この寮のお目じるしには
江戸に見し辻行灯や子規」

 といふのがその全文だが、いまみると、「蛙鳴く田端の里」という書出しからしておもしろい。いまでこそ田端といふところ、大東京のなかに包含されて、どこをみても家だらけのきはめてせせツこましいところになつてしまつたが、わたくしがおぼえでも、大正のはじめごろまで、そのあたり一めんの田圃だつたのである。うそもかくしもなく「蛙鳴く田端の里」だつたのである。「花紅葉探勝のお道すがら」とあるのは、いふまでもなく、花は飛鳥山の、紅葉は滝の川、さうした江戸以来の名所を手近にひかへたからであり、「山子規虫聞きなどの雅賞にも」とあるのは、すぐその上をあがつたところの道灌山が、矢つ張むかしから、画だの文章だのに、夏、秋の、さうした風流を試みるの好適地とされてゐたからによらう。生憎にして「詩歌、俳諧乃至書画」の附合をまだここでもつたことはないが、五六年まへ、一度、唄の封切をこゝできいて、うき世はなれた夜寒の感じの一入身にしみたことをわたくしはおぼえてゐる。……酌人が入用だと、このうち、かならず吉原からよぶのを以て仕来りとしてゐるとそのとき聞いたが、いまでもまださうだらうか?……目じるしの辻行灯はいまでもしづかに点つてゐる。……
 なほ『鴎外遺珠と思ひ出』の編輯後記に、
「天然自笑軒は俳人岡野知十氏の創められたもの」
 としてあるが、わたくしの聞いた限りでは、このうち、もと兜町で商売をしてゐた宮崎さんといふ人が「間居のつれづれ洒落半分に思ひ立」つてはじめたうちとなつてゐる。……おなじ兜町にゆかりのあつた知十さんでもが口をきいて、森先生、これをその宮崎さんといふ人に書いてお与へになつたのが、後にさう誤り伝へられたのではあるまいか?……

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 この外にも、先生、日本橋檜物町の蔵多家といふ料理屋の「引札」も書いておいでになる。このはうは有名で、さういふ珍しいものがあるとはまへから聞いてゐたが、矢つ張『鴎外遺珠と思ひ出』によつてその全文をわたくしは知ることをえた。
「名は空也豆腐の寂びを伝ふれど、今めかしき文化の果実をも棄てず。さりとて洋風の真似事に、日本料理の特色を失はんは暖簾の恥なるべし。東に常磐あり、北に八百膳ありて、これも食饌に縁ある鼎の足の勢をなさんとすなる、この蔵多家の主人の志を誰かは壮なりとせざらん。爰に火後の経営新に成れる主人に代りて一文を艸し、四方同嘱の客に檄すと云爾。」
 このはうが簡潔でもあり、はツきりしてゐて「これを食饌に縁ある鼎の足の勢をなさんとする」など、自笑軒の「味は山吹の取立てて名物もなき土地柄ながら、濃茶薄茶は御所望次第」よりもずツと先生らしくつて有難い。が、残念ながらこの蔵多家といふうちいまはない。大正十二年の震災を境として、明治伝来の文化は、いろ/\そこにすがたを消したが、これも一つの、蔵多家ばかりでなく、「東に常磐あり」の浜町の常磐もなくなれば、「北に八百膳あり」の山谷の八百膳もいまは築地に引つ越して、以前のやうな鬱然たる勢力を感じさせなくなつた。鼎の足の二つは欠け、あとの一つもぐら/\になつたのである。この万物流転の相を誰かはあはれなりとせざらん、である。

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 電車だのバスの広告をみて、とき/″\、たまらなく可笑しくなつたり、わけもなく腹が立つたりするのはわたくしばかりだらうか?
 たとへば浅草公園裏の、そこがまだ田圃の名残をとゞめてゐた時分からの、草津といふ宴会専門の料理屋の広告に、「浅草田甫、草津」とことさらめかしく書いてあつたり、橋場の、このごろ出来た蟹料理……ではないのかも知れないけれど、すくなくもその程度にしか評価出来ないうちの広告に「浅草橋場の大川端」とれい/\しく書いてあつたりするのをみるとたまらなく可笑しくなる。そして、たとへば、小石川あたりの、おなじく宴会料理屋の、真ん中に角かくしをかけた花嫁のすがたを描き、その上に大きく「産めよ、殖せよ、み国のために」とした婚礼料理の広告をみたりするとわけもなく腹が立つのである。
 なるほどわたくしの育つた時分には……わたくしは浅草で育つたのである……田甫の何々と。……たとへば田甫の大金とか、田甫の平野とか、田甫の太夫とかいつてもちツとも不思議ではなかつた。むしろその古風な言ひ方になつかしさをさへ感じた。が、だからといつて、浅草と下谷とをつなぐ目貫の道路、自動車自転車の氾濫する鋪装道路をその門のまへにもつにいたつた存在にして、今さら何もさうした回顧的な看板をあげる手はないのである。あげたところで、根ツから通用しないのである。通用しないかぎりあきらかにそれは穿違へである。まだしも、あとの、隅田川の沿岸ならどこでも大川端といへると思つてゐる物知らずのはうがつみがない。
 しかし、穿違へや物知らずはわらつてしまへばそれだけだが、婚礼料理の、「産めよ、殖せよ、み国のために」のあつかましさにいたつては義理にもわらつたゞけではすまされないのである。すくなくも、この広告のまへに顔を赤くするであらう婦人たちのためにも、一ト言、恥を知れと位はいひたいのである。怖るべきは、そして哀しむべきは、いつの時代にあつても「詩」をもたない手合の存在である。





底本:「日本の名随筆75 商」作品社
   1989(平成元)年1月25日第1刷発行
   1999(平成11)年7月10日第7刷発行
底本の親本:「久保田万太郎全集 第一二巻」好学社
   1948(昭和23)年10月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2014年1月2日作成
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