上野界隈

久保田万太郎




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 上野界隈。……山下から不忍池畔、広小路、湯島天神、そうしたあたりを舞台にとった黙阿弥のしばいに『霜夜鐘十字辻筮』がある。『天衣紛上野初花』がある。『黒手組曲輪達引』がある。――あんまり人の知らないものに『三題噺魚屋茶碗』がある……
 このうち『霜夜鐘十字辻筮』と『天衣紛上野初花』とは、まえのものは五幕十場、あとのものは六幕十六場というそれぞれ長いしばいである。しかもその長いしばいの、ほとんどそのすべての部分が「下谷」を世界にしている。すなわち、まえのものでは二幕目の奥山のくだりだけを除いて、あとはすべて、序幕の「不忍新土手の場」以下五幕目の「入谷杉田薫宅の場」まで、あるいは「根岸道芋坂の場」、あるいは「上野三枚橋の場」、あるいは「車坂町入口の場」、あるいは「忍ヶ岡原中の場」、あるいは「安泊丹波屋の場」、あるいは「忍ヶ岡袴腰の場」、あるいは「根岸石斎宅の場」等、上野を中心としたある限られた範囲の町々がそれらの舞台になっている。あとのものでは二幕目の吉原のくだりと、三幕目の出雲守の屋敷のくだりと、四幕目の幸兵衛閑居のくだりと、五幕目の比企の屋敷のくだりとを除いて、あとはすべて序幕の「湯島天神境内の場」以下大切の「広小路見世開の場」まで、あるいは「長者町上州屋の場」、あるいは「日本堤金杉路の場」、あるいは「入谷村蕎麦屋の場」、あるいは「大口屋別荘の場」、あるいは「上野屏風坂外の場」、あるいは「池端宗俊妾宅の場」、あるいは「入谷浄心寺裏の場」等、それらは、まえのものとおなじく上野を中心としたある限られた範囲のもろもろのけしきを、そのそれぞれの場面のうちにもっている。
『黒手組曲輪達引』も四幕七八場にあまる長いしばいだが、この作のもつ世界は、下谷と浅草と両方にまたがっている。すなわち前半が下谷で後半が浅草である。が、その前半の一部分「忍ヶ岡道行の場」は、「浮気な風に白玉が廓を抜けて落椿」という角書をもった『忍ヶ岡恋曲者』、吾妻路連中出語りの有名な浄瑠璃で、この作の中に重要な役目をもった一ト場である。――『霜夜鐘十字辻筮』の序幕の「不忍新土手の場」も、そういえば、おなじく不忍の池附近を舞台にした「忍ヶ岡の森蔭に人目を厭ふ二人連」という角書をもった『二十日月中宵闇』という清元出語りの浄瑠璃だが、このほうはあんまり重要でもなくまた有名でもない。
『三題噺魚屋茶碗』というしばいは序幕の「両国船中の場」と「同西河岸の場」とだけ……ということは『時鳥水響音ほととぎすみずにひびくね』としてはじめに書下かきおろされた部分だけ……が有名であとから書足された二幕目以下は上演される機会もすくなく人気にも乏しい。筋をいうと花垣七三郎の妹のお露が嫁に行くことにきまり、その暇乞いとまごいかたがた根岸の親類をたずねた帰りみち悪車夫に誘拐されて上野の山の寂しいところへ連れこまれたところを、蝮の次郎吉がゆくりなくそこを通りかかって助ける。前まくの船の場ですでにお露は次郎吉を見染めている。だからそれが縁になって二人は恋に落ちる。……その運びをつけるためにえらばれた場面が「下谷坂本入口の場」及び「忍ヶ岡新坂道の場」である。

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『霜夜鐘十字辻筮』の序幕の「不忍新土手の場」のト書にはこうした指定がしてある。「本舞台正面小高き丸石の石垣四つ目垣樹木の植込、うしろ一面座敷の書割、障子灯入り、下の方二間の屋体、伊予簾を下し、平舞台上下に柳の立木、日覆より同じく釣枝、総て下谷広小路松源裏手の体。こゝに幸蔵 音松 半纏紺の股引腹掛草履、植木屋のこしらへにて植木の荷をおろし縁日帰の心にて休みゐる、松源の流行唄にて幕明く」。そうして『二十日月中宵闇』の文句はその景情を叮嚀に説明してこういっている。「春ならで朧に空の霜曇り二十日の宵の月代も梢放れて影凄く、忍ヶ岡に撞き出す鐘の音沈む池の端、更けて往来も中島の、一むら繁る蘆原へ落ち行く雁の唯一羽枯残りたる蓮の葉の、そよぐ音さへ追手かと後ろ見らるゝ忍び足、運ぶ時雨の村雲に隠せし影も小夜風に晴れて見かはす月の顔……」
 これにくらべると『黒手組曲輪達引』の序幕のほうのものは単純で且あらッぽい。「本舞台三間の間正面桜の林、うしろ忍ヶ岡の山の遠見、左右藪畳み、舞台前はしがらみ附きの浪板にて不忍の池の心、総て不忍の池の辺の体。……時の鐘かすめたる騒ぎ唄の合方にて幕明く」というト書にしても、「絵にかゝば墨絵のさまや朧夜の、空ににじみし月影も闇き其身に後や先き、忍ヶ岡を二人連れ、散り来る花の白玉に、鐘の音霞む権九郎、手に手を取つてそこはかと、籠を離れし鳥ならで初音の里もいつしかに谷中を越えて車坂、余所目に見れば二本の離れぬ松の道行は、味な縁を出雲にて結び違ひし神垣や、稲荷の森へ歩み寄り……」といった工合の浄璃瑠の文句にしても、ほんのただ上っ面だけのことで、ことさらそのけしきを掴んでもいなければ描いてもいない。――『霜夜の鐘』は明治十二年一月、作者六十四歳のときの作『黒手組』は安政五年三月、作者四十三歳のときの作である。

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『霜夜の鐘』のその「不忍新土手の場」が廻って「根岸道芋坂の場」になり、さらにそれが廻って「上野三枚橋の場」になる。「宵に呼ばれた茅町の……」という按摩宗庵の台詞によった有名な個所である。「本舞台正面三枚橋上下駒寄せ、黒塗りに白く広小路と記せし用水桶、日覆より雲のかゝりし月をおろし、総て上野三枚橋夜更の体、時の鐘、水の音、犬の声にて道具留る」とあるト書が簡単ながらよく明治の初年のそのあたりの色彩と気もちとを感じさせる。そうしてそれを裏打うらうちするものに天狗小僧金助の「降るかと思つた雨雲も、ぞつと身に染む夜風に晴れ、影さへ凄い冬の月、宵にしまつた屋体見世の中に己が寝てゐるとも知らぬが譬の仏店、常念仏の六阿弥陀を、向うに見ながら年寄が、後生をねがふ心もなく、慾に目のねえ振をしてごまかす按摩の荒療治」という台詞がある。――その「仏店ほとけだな」の所在をいまわたしはつまびらかにしないが、何としてもそのあたり、あくまで東叡山寛永寺の支配をうけた、暗い、沈んだ、謙虚な陰影に満たされた町筋で嘗てあったことだけはたしかである。

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「湯鳥天神境内[#「湯鳥天神境内」はママ]」をつかったものに『天衣紛上野初花』の序幕のほか盲長屋梅加賀鳶めくらながやうめがかがとび』の序幕がある。「本舞台一面の平舞台、真中奥深に石の大鳥居、この左右石の獅子、同じく奉納の燈籠、この後一面本社より横に松金屋の入口、その外を見たる書割の張物、上の方斜に竹矢来の小屋、是れへ定紋附の幕を張り、此の前に大戸の出這入り、天満宮奉納剣術試合催主金子市之丞を記したる建札を立てあり、下の方屋根附の水茶屋、奥の方一間の腰掛、後誂への聯をかけ、此の外銅の銅壺茶道具など飾り、御憩所といふ掛行燈、軒提灯をかけ、舞台よきところに床几二三脚並べ、日覆より松の釣枝、総て湯島天神境内の体」というのがまえのもののト書で「本舞台上手石の鳥居、左右玉垣、此下九尺宛二軒の茶見世、本庇し、内落間、跡へ下げて常足の二重、正面板羽目、是に聯を沢山掛け、軒先へ組合の団子提灯赤銅の銅壺茶道具よろしく、上手の柱に桜木と記せし掛行燈、下手は梅松といふ同じ掛行燈、桜木の正面上手一面のひぢ掛窓、此向うより鳥居の後ろへかけ浅草辺を見たる遠見、梅松の奥三尺障子の出這入り、よきところに梅の立木、二軒の前床几一脚宛出し、総て湯島天神境内の体」というのがあとのもののト書である。そうしてまえのものは「丁度時候も十二月、年忘れの茶番をする気で、一狂言おれが書いた」とその後の幕ではッきりそう河内山のいっているのに徴して季節は冬である。従ってその幕明きの鳴物はありまえの「大拍子」だが、あとのものは梅の立木という指定のあるのに徴しても「今日は見世の者が宿入に出て、留守番の役に当つたが、十五日だから参詣すると天神様を出しに遣ひ、実は内々逢ひに来たのだ」と番頭佐吾兵衛のそういっているのに徴しても季節は春である、従って幕明きの鳴物は「鳥追通り神楽」である。
 が、ついしてこう古い狂言では筋うりの序幕にしかつかってもらえなかったこの湯島天神も近年になってぐッとその相場をあげた。泉先生の『婦系図』のなかに「湯島の境内」という一ト幕が書下かきおろされたからである。『魚十』(といってしまっては曲がないが)からででもあろう、たまたま聞えて来る清元の「三千歳」をつかって早瀬主税とおつたとが義理のために哀しいわかれをする一段である。

お蔦 貴方……貴方。
早瀬 あゝ。(と驚いたやうに返事する)
お蔦 いゝ月だわね。
早瀬 うかい。
お蔦 御覧なさいな、この景色を。
早瀬 あゝ成程。
お蔦 可厭いやだ、はじめて気が付いたやうに貴方、何うかしてゐるんだわ。
早瀬 何うかもしてゐようよ。月は晴れても心は暗闇やみだ。
お蔦 えゝ、そりや、世間は暗闇やみでも構ひませんわ、うせ日蔭の身体ですもの……。

 といったようなことで、以下「月を見な、時々雲も懸るだらう。星ほどにも無い人聞だ。ふつと暗闇やみにも成らうぢやないか。」の「そりや褄を取つてりや、鬼が来ても可いけれども、今ぢや按摩も可恐いんだもの」の、「切通しを帰るんだわね、おもひを切つて通すんでなく身体からだを裂いて分れるやうな」のと、いうところの鏡花好みの名台詞はふんだんに出て来る、香やはかくるる梅の花の、ほのかに咲いた風情はよし、そうして伊井と喜多村の、これだけは外に真似手のない情緒的写実主義の名演出によって、いまはもう通し狂言の一部としてでなく、独立した一ト幕ものとして立派に通用するようになった。
 が、その場面としての梅月夜の効果は前記『加賀鳶』の序幕の幕切にすでにつかわれているのである。

おすが (空を見上げ)今の間にすっかりと、雲を放れた今夜の満月
己之助 春の月夜といふものは、歌俳諧にもよくあるが
おすが あかぬ詠めの戻り道
おやま 月夜の梅の薫りよく
おたみ ねんねこ歌でも唄ひますべい。
おすが ほんに此子も風流人
己之助 こいつを聞いたら(とおたみをみるを木の頭)夜雪庵もはだしだらう。
      と両人気味合よろしく、このもやう流行唄大拍子にて

 と幕になっている。……といつても、これ、勿論『婦系図』のほうには近代的憂苦のかげをやどした抒情詩が蒼褪あおざめている。

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 それにつけても不忍の蓮のことである。夏の、あの、花のかげをかくして池一面、堆くもり上るように伸びかわした大きな葉の水々しさを、濃淡を、晴れ切ったさおな空の下に遠くのぞむのもよければ、冬、素枯すがれつくしたあとの褐色のふとい茎のかげをひたしてめたくひろがった水、その水のうえにそそぐ時雨の音の忍びやかに「夕暮」をさそいかけるながめもいい。が、折角のそのけしきもしばいの役には根っから立っていない。最も有名なのが前記『黒手組曲輪達引』の番頭権九郎の突落されである。近年になっても、何々情話式の、安価な赤本新派劇の序幕あるいは二幕目に、たとえば山崎長之輔扮するところの仕事師と河原市松扮するところの芸妓とが相合傘あいあいがさで雨の中を出て来る底の色もようの道具位にしかつかわれずえないことおびただしい。――そのくせ小説の方には森先生の名篇『雁』というものが出て来ている。

 石原は黙つて池の方を指さした。岡田も僕も、灰色に濁つた夕の空を透かして、指さす方角を見た。其頃は根津に通ずる小溝から、今三人の立つてゐる汀まで、一面に葦が茂つてゐた。其葦の枯葉が池の中心に向つて次第に疎になつて、只枯蓮の襤褸のやうな葉、海綿のやうな房が碁布せられ葉や房の茎は、種々の高さに折れて、それが鋭角に聳えて、景物に荒涼な趣を添へてゐる。此の Bitume 色の茎の間を縫つて、黒ずんだ上に鈍い反対を見せてゐる水の面を、十羽ばかりの雁が緩射やかに往来してゐる。中には停止して動かぬのもある。

 その結末に近いある部分の描写である。――西洋の子供の読む本にある話の、一本の釘から大事件が生じたように、青魚さば未醤煮みそにが下宿の夕飯の膳についたため永遠に相見ることの出来なくなった勉強家の医科大学生と可憐な高利貸の妾との果敢ない恋物語にしてその傷いた一羽の雁は果して何を象徴するものだろう。

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 が、すべて、そうしたものの哀れは湯島の高い石段の上と不忍のその水のほとりとに残っているだけである。一とたびその石段を切通しへ下りたとき、一とあしその池のそばを広小路のほうへ出抜けたとき、そこにすぐよこたわっているのはかがやかしい街衢である。整然とごった返した近代的大街衢である。疾駆する電車、自動車、自転車、貨物自働車、その間を縫ってつづく人の流れ、それに伴奏する建物だの広告塔だのの、雑多ざったな色彩、雑多ざったな様式。……『雁鍋がんなべ』の屋根に飛んでいた漆喰しっくい細工の雁のむれを、不忍から忍川の落込むきわの「どん/\」の水の響きを、ああ、われわれはいまどこにもとめよう。――そこにはもう『霜夜鐘十字辻筮』もなければ『天衣紛上野初花』もない、『黒手組曲輪達引』もない……
 が、一つ、ただ一つそこに欠けているものがある。「知的な美しさ」である。――という意味は、必ずしてその大通りに、ただ一けんの雑誌店をさえみ出すことが出来ないという謂でもない。そうしてまた、だるま、米久、世界、そうしたいうところの大衆的の飲食店くいものやばかりすさまじく軒を並べているという謂でもない。……





底本:「日本の名随筆9 町」作品社
   1983(昭和58)年7月25日第1刷発行
   1999(平成11)年9月30日第18刷発行
底本の親本:「下谷上野」松坂屋
   1929(昭和4)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2014年9月11日作成
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