――まど子さん、何年になつたの、今度?……
と、ぼくは、たま/\逢つたKさんの、上のはうのお嬢さんに、何んの気なしに訊いた。
――来年、卒業です。
と、まど子さんは、ニッコリ、口もとをほころばした。
――えッ、来年、卒業?……
ぼくは、おもはず大きな声をだして、
――ほんと、まど子さん?……
と、改めて、まど子さんの顔をみた。
――えゝ。
まど子さんは、もう一度、ニッコリした。
――へえ、それァ……
ぼくは、おもはず今度は、溜息を……自分だけにわかる溜息をついた。……のは、嘗て、まど子さんの慶応義塾の大学の入学試験をうけるときの心配と、そして、首尾よく合格したときの喜びの幾分とを、まど子さん、及び、まど子さんのお母ァさんとゝもにわけ合つたぼくだからである。……お父さんのKさんは、ちやうど、そのとき、フランスへ行つてゐた。……そして、それが、そのまど子さんの返事を聞くまで、ついまだ、
――驚いたなァ、それァ……
いつ、そんな……いゝえ、いつの
ぼくは、いまさらのやうに、ぼくをめぐつて去つた年月のかげを追ひ、身のまはりをみまはした。
□
東京にでゝゐて、七八日ぶりで鎌倉に帰ると、
――はて?
と、ぼくは、わが目を疑つた。……しかし、みれば、その八百屋の店で働いてゐるのは、いつもの、よれ/\の古洋服を無精ッたらしく着た、もとの、矢つ張、雅楽多堂の老主人だつた。
すれば、雅楽多堂が転業したので、
しかし、古道具屋と八百屋……
下河原には、もう一けん、同じやうな店がある。雅楽多堂よりはあたらしくできた……といふことは、ぼくが鎌倉に住むやうになつてからできた店だが、雅楽多堂とはちがつて、このはうは
――
と、年のわかいその店の主人のこたへは、しごく簡単だつた。
――しかし、いやになつたからつて、右からひだり、道具屋なんてものが、すぐに?……
――
――と思ふけれど、われ/\にすると。……手もちのものを処分するだけだつて、君……
――そんなことは、あなた。……トラックに積んで、
――なるほど、さういふ手があれば……
――ですから、逆に、はじめようと思つたら、金とトラックをもつて市場にさへ行けば、
――八百屋はどうだらう?
――八百屋ですか?……このはうは知りませんが、これだつて、
ぼくは、主人のすゝめてくれた、
――鎌倉ッてところ、こんなにも寂しいところだつたのか?
ヒョイと、ぼくは、さう思つた。……途端に、血の
□
――
と、たま/\東京から来た客はいつた。
――えゝ、
と、ぼくはこたへた。
――今度は、当分、こちらで?……
――いゝえ、
――それは、また。……それぢやァ、せッかく、お帰りになつても……
――さうなので。……何んのために帰つて来るのか、自分でも分りません。……しかし、夜、十一時十五分の終電車に乗つて帰り、あくる朝、すぐ、また、九時まへの電車に乗つて、十時までに新橋に下りたりする諸君のことを思つたら、ぜいたくはいへません。……寝に帰るばかりのわが
――しかし、どのみち、馴れておしまひになれば……
――ところが、馴れません。……不思議な位、馴れません。……といふことは、いつになつても、何年たつても、鎌倉、東京間の距離はちッとも短縮されません。……短縮されるどころか、年とゝもに、その逆になつて来るやうな気さへするので……
――それは、なぜで?……
――それだけ、こッちの健康も衰へて来たんでせうね、とる年で……
――何年におなりになります、こちらへおうつりになつて?……
――ちやうど、十年になります。
――十年?……
――一

――なるほど、それだと……
――東京から帰つて、停車場に下りても自動車はおろか、リンタクさへなかつたんです、その時分。……いやでも、この材木座まで、あるくより外に方法がなかつたんです。……仕方がない、あるきました、真つ暗な道を、二十分かけて……勿論、十時……といひたいが、じつは、九時すぎたら、人通りはなくなり、起きてゐる家なんぞ、一けんもありません。……何も、これはしかし、鎌倉にかぎつたことではなく、そのころは、銀座でもさうでしたが……
――わたくしも、一度、新橋演舞場のところの橋の上で、三人づれのアメリカの酔ッぱらひに追ッかけられ、“シェーム、オン、ユウ”と怒鳴りながら、逃げました、逃げました……
――鎌倉にはクロンボのわるい奴が出没しましてね。……だから、ぼくは、万一にそなへて、右のかくしに、ナイフに附いてゐるキリを握りづめでした。……そして、大きな声でウタを……うたふんぢやなくて、呶鳴りつゞけてあるいた。……いまは八幡まへにゐる漫画のSさんが、まだ、材木座にゐた時分で、帰る方角が同じだつたんで、しば/\一しよに合唱しながらあるいたことをおぼえてゐます。
――何を合唱なすつたので?……
――“青葉しげれる”です。……知ってますか、あの歌?……
――知つております。……“青葉しげれる桜井の、里のわたりの夕まぐれ……木の下蔭に駒とめて、世の行末を、つく/″\と”……、子供の時分、上の兄のうたふのを聞いておぼえました。
――ぼくは、好きでしてね、むかし、あの歌が。……ぼくの小学校の二三年時分に

――兄は、そこまではうたひませんでした。
――いゝえ、だれも知りません、こゝまでは。……しかし、一寸さきもわからない真つ暗な道を、この歌をうたつてあるいてゐると、しまひには胸が一ぱいになつて、だん/\声が小さくなつた。……いまにして思へば、それこそ“世の行末”だつたんですね。……“世の行末”が案じられたんですね、いはず語らずに……
――じッさい、あの時分は、このさき自分がどうなるのか、まるッきり見当がつきませんでした。……そのくせ、われ人ともに、わりに平気で、カストリを飲んで酔ッぱらつてゐたといふことは、度胸がよかつたのか、バカだつたのか?……
――両方ですよ。
――両方?……
――だから、鎌倉でも、たッた一人、靴みがきがでゝゐたゞけの若宮大路に、そのうち、だん/\、闇市はできる、リンタクはできる、パン/\宿はできる。……さうなると、ぼくも、歌をわすれたカナリヤになつて、自然“青葉しげれる”と縁が切れた……のを、あるとき、“あなた、ちッとも、このごろ、あれをうたひませんね”と、ある人からひやかされました。……で、さういはれて、ぼくは、はッと思つた。……さういはれるまで、うッかりしていたんです、ぼくは……
――どなたです、そのある人といふのは?……
――やッぱり漫画のYさんです。……
□
四五日、また、東京の宿屋ですごして、ある晩、終電車よりずッと早い、九時十五分といふのに乗つた。あたまが重く、何か、気もちがさッぱりしなかつたからである。
電車に乗るなり、ぼくは、腐つたやうに眠つた。
鎌倉に着くと、いつふりだしたのか、雨がビショ/\ふつてゐた。そればかりでなく停電だつた。
――めづらしいナ、こんなあんたんとした光景は……
と自分にいひつゝ、ぼくは、駅まへの、“リンドウ”の
どのテーブルにも、蝋燭の火が瞬いてゐた。
ぼくはそこから電話をかけた。……わが家へではない、わが家のそばのF医院へ……
電話口にでた声は、奥さんだつた。
――
と、ぼくはいつた。
――じつは、宅も、いま、少々熱がありまして、休んでをりますんでございますが……
と、奥さんはいつた。
――お風邪ですか?
――と思ひますんでございますが、……
――御診察ねがへなくつても、お薬だけでも頂戴に、いま、すぐ、うかゞひますから……
F医院の院長のF博士は、満洲帰りのもと軍医で、六七年まへ、材木座に開業したのだが、二三人、むづかしい病人を直したので、たちまち“名医”だといふことになつた。そして、近所でも、おどろくほど繁昌した。ぼくとは、学校の関係で……Fさんも、ずッと、慶応義塾だつた……医者対患者の
十分ほどのあと、ぼくは、F医院の門のまへで自動車を下りた。大きな水たまりが門のまへにひろがつてゐた。こゝも停電で、蝋燭の火がたよりだつた。
ぼくは玄関に立つたまゝ、奥さんからうけとつた検温器を腋の下にはさんだ。
八度すこしの熱があつた。
――宅は、九度越してをります。
と、奥さんはいつた。
雨の音が、蝋燭の火の瞬きにかよつた。
□
Fさんは、それから十日ほどして、この世を去つた。
何といふ、あッけなさ。……と思ったのは、ぼくが知らなかつたので、Fさんは、それまでに、幾たびも喀血してゐたのだつた。
しかも、その胸のやまひは、患者から感染したものだつた。
□
ぼくは、このごろ、世の行末ならぬ身の行末についてのみ考へてゐる。……なぜだらう?……庭の、まッさかりの連翹の黄が、春の漸くふかいことをつたへてゐるのは……