浅草風土記

久保田万太郎




雷門以北


広小路



 ……浅草で、お前の、最も親密な、最も馴染のふかいところはどこだときかれれば、広小路ひろこうじの近所とこたえる外はない。なぜならそこはわたしの生れ在所だからである。明治二十二年、田原町で生れ、大正三年、二十六の十月までわたしはそこに住みつづけた。子供の時分みた景色ほど、山であれ、河であれ、街であれ、やさしくつねに誰のまえにでも蘇生よみがえって来るものはない。――ことにそれが物ごころつくとからの、わたしのような場合にあってはなおのことである。
 田原町、北田原町、東仲町、北東仲町、馬道一丁目。――両側のその、水々しい、それぞれの店舗のまえに植わった柳は銀杏の若木に変った。人道と車道境界の細い溝は埋められた。(秋になるとその溝に黄ばんだ柳の葉のわびしく散りしいたものである)どこをみても、もう、紺の香の褪めた暖簾のれんのかげはささない。書林浅倉屋の窓の下の大きな釜の天水桶もなくなれば、鼈甲べっこう小間物店松屋の軒さきの、櫛の画を描いた箱看板の目じるしもなくなった。源水横町げんすいよこちょうの提燈やのまえに焼鳥の露店も見出せなければ、大風呂横町の、宿屋の角の空にそそる火の見梯子ばしごも見出せなくなった。――勿論、そこに、三十年はさておき、十年まえ、五年まえの面影をさえさし示す何ものもわたしは持たなくなった。「渋屋」は「ペイント塗工」に、「一ぜんめし」は「和洋食堂」に、「御膳しるこ」は「アイスクリーム、曹達ソーダ水」に、おのおのその看板を塗りかえたいま。――そういっても、カフェエ、バア、喫茶店の油断なく立並んだことよ。――偶々むかし、ひょうきんな洋傘屋あって、赤い大きな目じるしのこうもり傘を屋上高くかかげたことが、うち晴れた空の下に、遠く雷門からこれを望見することが出来たといっても、誰も、もう、それを信じないであろう。しかくいまの広小路は「色彩」に埋もれている。強い濃い「光」と「影」との交錯に溺れている。――ということは、古く存在した料理店「松田」のあとにカフェー・アメリカ(いま改めてオリエント)の出来たばかりの謂いではない。そうしてそこの給仕女たちの、赤、青、紫の幾組かに分れている謂いでも勿論ない。前記書林浅倉屋の屋根のうえに「日本児童文庫」と「小学生全集」の厖大な広告を見出したとき、これも古い酒店さがみやの飾り窓に映画女優の写真の引伸しの貼られてあるのを見出したとき、そうして本願寺の、震災後まだかたちだけしかない裏門の「聖典講座」「日曜講演」の掲示に立交る「子供洋服講習会」の立札を見出したとき、わたしの感懐に背いていよいよ「時代」の潮さきに乗ろうとする古いその町々をはっきりわたしは感じた。――浅倉屋は、このごろその店舗の一部をさいて新刊書の小売をはじめたのである。さがみやもまたいままでの店舗を二つに仕切って「めりんすと銘仙」の見世を一方にはじめたのである。
 が、忘れ難い。――でも、矢っ張、わたしにはその町々がなつかしい……
 何故だろう?
 そこには、仕出屋の吉見屋あって、いまだに、「本願寺御用」の看板をかけている。薬種屋の赫然堂かくぜんどうあって、いまなおあたまの禿げた主人が、家伝の薬をねっている。餅屋の太田屋あって、むかしながらのふとった内儀かみさんがいつもたすきがけのがせいな恰好をみせている。――宿屋のふじや、やなぎや、鳥屋の鳥長、すしやの宝来、うなぎやの川松、瓦煎餅の亀井堂、軽焼のむさしや。――それらの店々はわたしが小学校へ通っていた時分と同じとりなしでいまなおわたしをつつましく迎えてくれるのである。――それらの店々のまえを過ぎるとき、いまもってわたしは、かすりの筒っぽに紫めりんすの兵児帯、おこそ頭巾をかぶった祖母に手を引かれてあるいていたそのころのわたしの姿をさびしく思い起すのである。――それは北風の身を切るような夕方で、暗くなりそめた中に、どこにももう燈火がちらちらしているのである。――眼を上げると、そこに、本願寺の破風が暮残ったあかるい空を遠く涙ぐましくくぎっているのである……


 ……広小路は、両側に、合せて六つの横町と二つの大きな露地とを持っている。本願寺のほうからかぞえて、右のほうに、源水横町、これという名をもたない横町、大風呂横町、松田の横町、左のほうに、でんぼん横町、ちんやの横町、――二つの大きな露地とは「でんぼん横町」の手前のさがみやの露地と、浅倉屋の露地とをさすのである。――即ち「さがみやの露地」は、「源水横町」に、「浅倉屋の露地」は、「名をもたない横町」に、広い往還をへだててそれぞれ向い合っているのである。
 が、「源水横町」だの「名のない横町」だの「大風呂横町」だの「松田の横町」だの「でんぼん横町」だの、それらはすべてわたしの子供の時分には……すくなくもまだわたしの田原町にいた時分まではだれもそう呼んでいたのである。――嘗てそこに松井源水が住んでいたというのをもって源水横町、その横町が「大風呂」という浴場をもっていたのをもって大風呂横町、その右かどに料理店の「松田」をもっていたのをもって松田の横町(それはまた、その左かどに牛肉屋の「いろは」をもっていた理由でいろはの横町とも呼ばれた)――で、「でんぼん横町」とは「伝法院横町」のいい、「ちんやの横町」とは文字通りちんやの横町の謂である。そういえば誰でも知っている大衆向の牛肉屋「ちんや」の横町である。――由来はいたって簡単である。
 このうちいま残っているのは「ちんやの横町」だけである。「ちんやの横町」という称呼だけである。浅倉屋の露地だのたぬきや横町だのに、行きつけのカフェエをもつほどのいまのそのあたりの人たちに「源水横町」といういい方はむなしい響きをしかすでに与えなくなった。それと同時に「これという名をもたない横町」は「川崎銀行の横町」という堂々としたいいかたをいつかもつようになった。わたしのその町を去ったあと、それまでの際物きわもの問屋、漬物屋、砂糖屋その外一二けんを買潰して出来たのがその銀行である。いまでこそ昼夜銀行が出来、麹町銀行がまた近く出来ようとしているものの、いまをさる十二三年まえにあっては、そうした建物を広小路のうちのどこにももとめることが出来なかったのである。銀行といえば、手近に、並木通りの浅草銀行(後に豊国銀行)の古く存在するばかりだったのである。――「大風呂」のすでに失われた今日「大風呂横町」の名のいつかは昔がたりになるであろうとともに、「松田の横町」の「松喜まつきの横町」と呼びかえられるであろう日のそう遠くないことを、カラリとした感じの、いち早く区画整理のすんだ、いままでより道幅の遥に広くなった往来のうえに決定的にそうわたしは感じた。――いままでの「松田の横町」は外の三つの横町のどこよりも暗く陰鬱だった。――「松喜」とは「いろは」のあとに出来たこれも大きな牛肉屋である。――そこに、ちんやと、すべてに於て両々相対している。……
 その四つのそれぞれの横町について、これ以上巨密なふでを費すことをわたしはしないだろう。なぜならそれはいたずらにただわたしの感懐を満足させるにすぎまいから。ただ、わたしに、それらのほうぼうの横町で聞いた「はさみ、庖丁、かみそりとぎ」だの、「朝顔の苗、夕顔の苗」だの、定斎屋じょうざいやかんの音だの、飴屋のチャルメラだの、かんかちだんごのきねの音だの、そうしたいろいろの物音が、幾年月を経たいまのわたしの耳の底にはッきりなお響いている――それらの横町を思うとき、わたしの心はしぐれのような暗い雨にいつもぬれるのである……


 ところで「でんぼん横町」である。いまではその「大風呂横町」に向合った横町を――三好野と三川屋呉服屋とを(かつてはそれが、下駄屋とすしやだった)その両角に持ったにぎやかな横町を「でんぼん横町」といわないのである。そういわないで「区役所横町」というのである。そうして伝法院の横の往来――その「区役所横町」の出はずれによこたわって仲見世と公園とを結びつけているむかしながらの狭い通りを「でんぼいん横町」(「でんぼん横町」とよりはやや正しく)と、いまではそう呼んでいるのである。
 その「区役所横町」(最近までわたしはそれを承服しなかった。強情にわたしは「でんぼん横町」といいつづけた。が、たまたまわたしと同年配の、それこそ「珍世界」の太鼓をたたく猿の人形も知っていれば、電気館のあごなしの口上いいもよくおぼえているさる人の、躊躇なくそこを「区役所横町」と呼びなしているのを聞いてわたしは我を折った。「区役所横町」では身につかない感じだがやむを得ない)を入ってすぐのところに、以前共同廁のあったことをいっても、おそらくだれもその古い記憶をよび起すのに苦しむだろう。それほど、整った、美しい、あかるい店舗の羅列をその両側がもつにいたったのである。ことにその下総屋しもふさや舟和ふなわとの大がかりな喫茶店(というのは、もとよりあたらない。といっても、そもそもの、ミツマメホールというのもいまはもうあたらない。ともにその両方のガラスの球すだれを店さきに下げたけしき――この頃の暑さにむかってのその清涼なけしきがいまはまれにしかみられない「氷店」といった感じをわたしに与えるのである)のすさまじい対立は「新しい浅草」の繁栄とそれに伴う無知なよろこびとをいさましく物語っている。――下総屋は「おかめ」の甘酒から、舟和は芋羊羹いもようかん製造から、わずかな月日の間に、いまのようなさまにまでそれぞれめざましく仕出したのである。
 ……が、仕出したということになると、わたしの十二三の時分である、前章に書いた川崎銀行の角、際物師の店の横にめぞッこ鰻をさいて焼く小さな床見世とこみせがあった。四十がらみの、相撲のようにふとった主人が、年頃の娘たちと、わたしより一つ二つ下のいたずらな男の子とを相手に稼業しょうばいしていた。外に、みるから気の強そうな、坊主頭の、その子供たちにおじいさんと呼ばれていた老人がいたが、そのうちどうした理由かそこを止し、広小路に、夜、矢っ張その主人が天ぷらの屋台を出すようになった。いい材料を惜しげもなく使うのと阿漕あこぎに高い勘定をとるのとでわずかなうちに売出し、間もなく今度は、いまの「区役所横町」の徳の家という待合のあとを買って入った。――それがいまの「中清なかせい」のそもそもである。
 ついまだそれを昨日のようにしかわたしは思わないが、広小路のあの「天芳」だの仲見世の「天勇」だののなくなったいま、古いことにおいてもどこにももう負けないであろう店にそのうちはなった。が、そこには、その横町には、さらにまたそれよりも古い「かきめし」がある ――下総屋と舟和をもし、「これからの浅草」の萌芽とすれば、「中清」だのそこだのは「いままでの浅草」の土中ふかくひそんだ根幹である……


「ちんやの横町」のいま「聚楽」というカフェエのあるところは「新恵比寿亭」という寄席のもとあったところである。古い煉瓦レンガづくりの建物と古風なあげ行燈あんどんとの不思議な取合せをおもい起すのと、十一二の時分、たった一度そこで「白井権八」の写し絵をみた記憶をもっているのとの外には、その寄席について語るべき何ものもわたしはもっていない。なぜなら、そこは、わたしが覚えて古い浪花ぶしの定席だったからである。――その時分わたしは、落語も講釈も義太夫も、すべてそうしたものの分らない低俗な手合のみの止むをえず聞くのが浪花ぶしだとおもっていた。そう思ってあたまからわたしは馬鹿にしていた。――ということはいまでも決してそうでないとはいわない……
(ついでながら、わたしの始終好きでかよった寄席は「並木亭なみきてい」と「大金亭だいきんてい」だった。ともに並木通りにあって色もの専門だった。――色もの以外、講釈だの浄瑠璃だのとはごくまれにしか足ぶみしなかったわたしは、だから、吾妻橋のそばの「東橋亭とうきょうてい」、雷門の近くにあった「山広亭やまひろてい」、「恵比寿亭えびすてい」、そうした寄席にこれという特別の親しさをもっていなかった――が「山広亭」、「恵比寿亭」とおなじく、いまはもう「大金亭」も「並木亭」も、うちよせた「時代」の波のかなたにいつとはなしすがたを消した。残っているのは「東橋亭」だけである。)
 いまでこそ「聚楽」をはじめ「三角」あり、「金ずし」あり、「吉野ずし」あり、ざったないろいろの飲食の場所をそこがもっているが、嘗ては、はえないしもたやばかりの立並んだ間に、ところどころうろぬきに、小さな、さびしい商人店あきんどみせ――例えば化粧品屋だの印判屋だのの挟まった……といった感じのくうな往来だった。食物店といってはその浪花節の寄席の横に、名前はわすれた、おもてに薄汚れた白かなきんのカーテンを下げた床見世同然の洋食屋があるばかりだった。――なればこそ、日が暮れて、露ふかい植木の夜店の、両側に、透きなくカンテラをともしつらねたのにうそはなかった。――植木屋の隙には金魚屋が満々と水をみたした幾つもの荷をならべた。虫屋の市松しょうじがほのかな宵闇をしのばせた。燈籠屋の廻り燈籠がふけやすい夏の夜を知らせがおに、その間で、静かに休みなくいつまでもまわっていた。……
「さがみやの露地」「浅倉屋の露地」ともにそれは「広小路」と「公園」とをつなぐただ二つの……という意味は二つだけしかないかなめのみちである。そうして「さがみやの露地」には、両側、すしや、すしや、すしや……ただしくいえば天ぷら屋を兼ねたすしやばかり目白押しに並んでいる。まぐろのいろの狂瀾のかげにたぎり立つ油の音の怒濤である。――が、嘗てのそこは、入るとすぐおもてに粗い格子を入れて左官の親方が住んでいた。その隣に「きくもと」という待合があった。片っぽの側には和倉温泉という湯屋があり煙草屋を兼ねた貸本屋があった。
 ……そこで、一段、みちが低くなった。
 あとは、両側とも、屋根の低い長屋つづき、縫箔屋ぬいはくやだの、仕立屋だの、床屋だの、道具屋だの、駄菓子屋だの、炭屋だの、米屋だの……あんまり口かずをきかない、世帯じみた人たちばかりが何のたのしみもなさそうに住んでいた。――と、わたしは、その露地のことを七八年まえ書いたことがある。――が、そのときはまだ和倉温泉はあった。かたちだけでもいま残っているのはその途中にあるお稲荷さまの祠だけである。
 で、「浅倉屋の露地」は――「公園劇場近道」の下に「食通横町」としたいまのその露地は……


仲見世



 ……わたしは、小学校は、馬道の浅草小学校へかよった。近所にいろいろ小川学校だの青雲学校だのといった代用学校があり、田原町、東仲町界隈のものは、みんなそれらの「私立」へかようのをあたりまえとしたが、わたしは長崎屋のちゃァちゃん(いまも広小路に「長崎屋」という呉服屋は残っている。が、いまのは、わたしの子供の時代のとは代を異にしている。もとのそのうちは二十年ほどまえ瓦解した。その前後のゆくたてに花ぐもりの空のようなさびしさを感じて、いつかはそれを小説に書きたいとわたしはおもっている)という子と一しょに、公立でなければという双方の親たちの意見で、遠いのをかまわずそこまでかよわせられた。――浅草学校は、浅草に、その時分まだ数えるほどしかなかった「市立」のうちの最も古いものだった。
 毎日、わたしは、祖母と一しょに「馬車みち」――その時分まだ、東京市中、どこへ行っても電車の影はなかったのである。どこをみても「鉄道馬車」だったのである。だからわたしたちは「電車通り」という代りに「馬車みち」といった。東仲町の今電気局のある所に馬車会社があったのである。――を越して「浅倉屋の露地」を入った。今よりずっと道幅の狭かったそこは、しばらく両側に、浅倉屋の台所口と、片っぽの角の蕎麦屋の台所口との続いたあと、右には同じく浅倉屋の土蔵、左には、表に灰汁桶あくおけの置かれてあるような女髪結おんなかみゆいのうちがあった。土蔵のつづきに、間口の広い、がさつな格子のはまった平屋があった。出羽作でわさくという有名なばくちうちの住居だった。三下さんしたが、始終、おもてで格子を拭いたり水口で洗いものをしたりしていた。――ときには笠をもった旅にんのさびしいすがたもそのあたりにみられた。
 道をへだてて井戸があり、そばに屋根をかやいた庵室といったかたちの小さなうちがあった。さし木のような柳がその門に枝を垂れ、おどろに雑草がそのあたりを埋めていた。――と、いま、ここにそう書きながら、夏の、ぎらぎらと濃い、触ったらベットリと手につきそうな青い空の下、人あしの絶え、もの音のしずんだ日ざかりの、むなしく白じらと輝いた、でこぼこに石を並べたその細いみちをわたしは眼にうかべた。駄菓子屋のぐッたりした日よけ、袋物屋の職人のうちの窓に出したぽつんとした稗蒔ひえまき……遠く伝法院の木々の蝉が、あらしのように、水の響きのようにしずかに地にしみた。――その庵室のようなうちには、日本橋のほうの、小間物問屋とかの隠居が一人寂しく余生を送っていた。
 出羽作の隣は西川勝之輔という踊りの師匠で、外からのぞくと、眼尻の下った、禿上った額の先代円右に似たその師匠が、色の黒い、角張った顔の細君に地を弾かせ、「女太夫」だの「山がえり」だの「おそめ」だのを、「そら一ィ二ゥ三ィ……ぐるりとまわって……あんよを上げて……」と小さい子供たちにいつも熱心に稽古していた。――それに並んで地面もちの、吉田さんといううちの、門をもった静かな塀がそのあとずっと出外れまでつづいていた。――子供ごころに、いまに自分もそうした構えのうちにいつかは住みたいとそこを通る毎しばしばそうわたしは空想した。商人のうちに生れたわたしたちにとって門のある住居ほど心をそそるものはなかった。
 ……「浅倉屋の露地」を出抜けたわたしはそのまま泥溝どぶにそって公園の外廓を真っすぐにあるいた。いまのパウリスタの角を右に切れて――その左っ角に大鹿という玉ころがしがあった――いうところのいまの「でんぼいん横町」を「仲見世」へ出たのである。


 ……と、簡単にそういってしまえばそれだけである。が、片側「伝法院」の塀つづき、それに向いてならんだ店々だから、下駄屋、小間物屋、糸屋、あるへい糖を主とした菓子屋、みんな木影を帯び、時雨のこころをふくんで、しずかにそれぞれぬかをふせていた。額をふせて無言だった。――それには道の中ほどに、大きな榎の木あって逞しい枝を張り、暗くしッとりと日のいろを……空のいろをいていた。――その下に古く易者が住んでいた。――いまの天麩羅てんぷら屋「大黒屋」は出来たはじめは蕎麦そば屋だった。
 したがってそこへ出る露店も、しずかにつつましい感じのものばかりだった。いろは字引だの三世相さんぜそうだのを並べた古本屋だの、煙草入の金具だの緒締おじめだのをうる道具屋だの、いろいろの定紋のうちぬきをぶら下げた型紙屋だの。――ときに手品の種明しや親孝行は針のめど通し……そうしたものがそれらの店のあいだに立交るだけだった。だから、それは、「仲見世」に属して、そこと「公園」とを結びつける往来とよりも、離れて「伝法院」の裏通りと別個にそういったほうが、より多くそこのもつ色彩にふさわしいものがあった。――と同時に「伝法院」の裏門がもとはああしたいかめしいものではなかった。いまの、もっと、向って右よりに、屋根もない「通用門」といった感じの、ごくさびしい雑な感じのものだった。
 が、それはひとりその往来ばかりでなかった。「仲見世」のもつ横町すべてがそうだった。雷門を入ってすぐの、角にいま「音羽」という安料理屋のある横町、次の、以前「天勇」の横町といった、角にいま「金龍軒」という西洋料理のある横町、そのつぎの、以前「共栄館」の横町と呼ばれた、いまその角に「梅園うめぞの」のある横町、右へとんで蕎麦屋の「万屋よろずや」の横町――それらの往来すべてがつい十四五年前まで、おかしいほど「仲見世」の恩恵をうけていなかったのである。お前はお前、わたしはわたし、そういったかたちにわかれわかれ、お互が何のかかわりも持たず、長い年月、それでずっとすごして来たのである。――そのうち「金龍軒」の横町にだけは、「若竹」だの、「花家」だの、「みやこ」だのといった風の小料理屋がいろいろ出来、それには「ちんや横町」を横切って「区役所横町」まで、その往来の伸びている強味がそこをどこよりも早く「仲見世」と手を握らせた。でも、そこに、いまはどこへ行ってもあんまりみかけない稼業の刷毛屋はけやがあり、その隣にねぼけたような床屋があり、その一二けん隣に長唄の師匠があって、癇高い三味線の音をその灰いろの道のうえに響かせていたのを、昨日のことのようにしかわたしはおもわない。後にそのならびに出来た洋食屋の「比良恵軒ひらえけん」、九尺間口の、寄席の下の洋食屋同然に汚かったその店は、中学の制服を着立てのわたしに、「カツ」だの「テキ」だの「カレエ」だのと称するものの「やっこ」のいかだ「中清」のかき揚以上に珍味なことをはじめて教えてくれた店である。――その時分、その近所、「浅草銀行」の隣の「芳梅亭ほうばいてい」以外、西洋料理屋らしい西洋料理屋をどこにももっていなかったのである。「音羽」の横町には格子づくりのおんなじ恰好のしもたやばかり並んでいた。正月の夜の心細い寒行かんぎょうの鉦の音がいまでもわたしをその往来へさそうのである。――「梅園」の横町については嘗てそこに「凧や」のあったことを覚えている。よく晴れた師走の空がいまでもわたしにその往来の霜柱をおもわせるのである。――どこもともにけしきは「冬」である。
 で、「万屋」の横町は……
 ……道草をくってはいけない、わたしはいま学校へ行く途中である。


 角、「たつみ食堂」と称するもののいまあるところに「梅園館」という勧工場があった。――そこを「仲見世」へ出たわたしは、そのまま左へ仁王門のほうへ道をとった。その時分からあったのがいまの「大増だいます」の手まえを木深く奥へ入った「大橋写真館」である。「大増」のところには、その時分、浅草五けん茶屋の一つにかぞえられた「万梅まんばい」があった。……とだけでは何のこともない、いまも立ちならぶ大きなあの榎のかげに、手堅い、つつましい、謙遜な、いえばおのずからそれが江戸まえの、ぬばたまのくろ塀をめぐらしたその表構えが「古い浅草」のみやびと落ちつきとをみせていた。そこの石だたみだけつねにしぐれている感じだった。――ことにはそこに、その榎の下に、いつも秋早くから焼栗の定見世の出ることが、けそめた月の、夜長、夜寒のおもいを一層ふかからしめた。――「仲見世」というところはときにそうした表情をもつところだった。
 その後、「万梅」は、公園の中「花やしき」の近くに越して、そのころ「仲見世」に勢力を張っていた牛肉屋の「常盤ときわ」がそのあとをうけついだ。そうして「奥の常盤」という名称で営業をつづけた。……といっても、それは、そうした事業家らしい料簡の、そのなつかしいおもてつきの一部を改築して簡易な食堂をこしらえたり、湯滝をはじめたり、花壇を設備したりした。そうしていままでよりも広い世界の客をさそおうとした。――とくに「奥の常盤」と呼んだのは、それ以外「雷門の常盤」だの「中の常盤」だのというおなじ店のいろいろそこに存在したからである。
 それほどさかった「常盤」もだんだんその影がうすくなった。どの店のおもてにも秋風がふいてすぎた。――そうしたとき、その「奥の常盤」を、ありがたちのまま引きうけたのがいまの「大増」である。――そのうちも、その以前、「今半」のならびにもう一けん店をもっていた。そうしてそれは地震まえまで残っていた。――だから、かつては「奥の大増」と、とくにやっぱりそこをそう呼んだのである……
 そんなことはどうでもいい、それよりも、そこの「万梅」の時分、いまの木村屋のところが「写真屋」だったのである。東京名所だの役者だのの写真をうる店だったのである。――いかに夢中で、吉右衛門だの、小伝次だの、宗之助だの、当時浅草座出勤少年俳優の写真をわたしは買込んだことだろう。そのまえを通れば必ずわたしは祖母をせがんだ。――いうまでもなく絵葉書のまだ出来ない時代である。――絵葉書の出来たのはそのあと六七年たってからである。
 ……その「写真屋」(その店の名まえを忘れたのは残念である)の角をしるこやの「秋茂登」のほうへ曲り、「岡田」の屋根の両方のはじにくッついた鯛の装飾をみながら弁天山の裾をまわり、いまは酒やになった米屋の角を馬道の往来へ出ると、学校のまえの銀杏の梢がすぐもうそこにみえたものである。わたしの足はおのずと早くなった。――そのころ、浅草学校、いまのようにまだ味噌屋の「万久」の通りに門をもっていなかった。――宿屋の「釜屋」のならびにいまの半分もない小さな門しかもっていなかった。――ということは、だから、その門の方を向いて教場の窓からみると、その銀杏の梢のかげに、五重の塔の青い屋根が絵のようにいつもくっきり浮んでいた。


「旧雷門のありしところより仁王門に至る間、七十余間を仲見世といふ。道幅五間余を全部石にて敷きつめ、両側に煉瓦造りの商店百三十余戸あり。もとこの地は浅草寺支院のありしところにて左右両側各六院ありき。その仁王門に近きところには茶店ありて二十軒茶屋と称したりき。明治維新後、支院は或は移り或は絶えて、そのあとには露店など並びしが、今の店は、明治十八年十二月、東京市によりて建設せられたるものなり。仲見世各商店は一棟を数戸に分割し、間口九尺奥行も亦それ以上に出でざるを以て内部の狭隘はいふばかりなく、出店商人は夜間は店を鎖してうちに帰り、翌日また弁当を持ちて通ひ来たる有様なり。然れどもこの仲見世は公園内の最も繁昌するところにて、凡そ観音に参詣するものは、家へのみやげ物は大抵こゝにて買求むるを以て日々の商売額甚だ多きを以て出店を希望するもの多く、多額の金円をいだすにあらざれば容易にその店株を得る能はず、場所によりては三百円以上に達するものありといふ」と明治四十三年に出た『浅草繁昌記』という本の「仲見世」を説明したくだりに書いてある。明治四十三年といえばいまから十七年まえである。わたしの慶應義塾予科二年のときである。が、それにしてもその株の売買価の三百円は相場でなさすぎると思って、友人伊藤貫一君にこれを質した。伊藤君は、仲見世入ってすぐの角の清水屋書店の主人である。「そんなことはありません、その時分でもその五倍や六倍はしました」と伊藤君はいった。「では、いまは、その十倍位になっていますか」とわたしは聞いた。伊藤君は笑ってこたえなかった。
 その代り、伊藤君、いろいろそこについて参考になることを聞かせてくれた。たとえばもとの煉瓦づくりの時分、九尺だった間口が今度の奈良朝づくりになってから平均八尺(というのは中には七尺八寸のところもあるのだそうである)になったことや、各戸その一けん一けん一こま二こまという呼び方をしていることや、総々でそれが百四十七こま九十九世帯あることや、震災を助かっていまなお以前の「仲見世」の名残をとどめている仁王門のそばの七けんに「新煉瓦」という名称のついていることや、物日なんぞ人の出さかるときは東側にいて西側の店の見えないことや、等、等、等、――まさかいちいち書き留めるわけにも行かないからぼんやりした顔でわたしはそれらを聞いていた。
 が、いまわたしが昔ながら(わたしにとってはそうである)の「仲見世」を通って感じることは絵草紙屋えぞうしやのすくなくなったことである。(そのなかで最も大きかった清水屋……伊藤君のその店にしていまでは「中央公論」「改造」を二三百ずつもさばく書店になってしまったのである)豆屋、紅梅焼屋こうばいやきやの以前のように目につかなくなったことである。(数のうえでも豆屋は絵草紙屋とともにすくなくなった)「木村屋」を真似た名所焼の店のほうぼうに出来たことである。――そうして「武蔵屋」が衰え「伊勢勘いせかん」のさかえたことである……
 由来そこは外のほうぼうの霊場がもつようなことさらな「名物」はもっていなかった。「煎豆いりまめ」があり、「紅梅焼」があり、「雷おこし」があったといっても、それらは直接「観音さま」に関聯する何ものも持たなかった。それはただ「仲見世」あるいは「雷門」附近をえらんで店舗をもつにすぎなかった。――と、たまたまパン屋の「木村屋」あって「名所焼」を売りはじめた。わたしの記憶にもしあやまりがなければ、いまから十五六年まえのことである……


観音堂附近



 それはただ在来の人形焼……で思い出したが、そのずっと以前、広小路の「ちんや」のならびにそれの古い店があった。夫婦かけむかいでやっていたが、そろって両方が浄瑠璃好き、ときどきわたしでも細君が三味線をひき、そのまえで主人の首をふりふり夢中でそれを語っているのを店のかげにみたことがあった。しかく大まかなせかいだった。電車も通らず、自動車も響かず、柳の葉のしずかに散りしいたわけである。――前にいうのを忘れたが、その時分まだ「ちんや」は牛肉屋をはじめなかった。ヒマな、客の来ない、景気のわるい天麩羅屋だった。……その人形焼を、提燈、鳩、五重の塔、それぞれ「観音さま」にちなみあるものに仕立てて「名所焼」と名づけたにすぎなかったが、白いシャツ一つの男が店さきで、カンカンおこった炭火のまえにまのあたりそれを焼いてみせるのが人気になったのである。そうして長い月日のうち、とうとういっぱしの、そこでの名代の店の一つになったのである。――ということは前にいった、あらわにそれを模倣する店の一二軒といわず続いてあとから出来た奴である。
 こうして、いま「仲見世」に、「煎豆」「紅梅焼」「雷おこし」以外の新しい「浅草みやげ」が出来た。「煎豆」「紅梅焼」「雷おこし」の繁栄の、むかしをいまにするよしもなくなったのは、ひとえに「時代」の好みのそれだけ曲折に富んで来た所以である。――「梅林堂」の看板娘おくめさんの赤いたすきこそ、いまやついに完全な「伝説」になり了った。
「武蔵屋」の、震災後、いままでのいうところの「ぜいたくや」を止め、凡常な、張子の鎧かぶとを軒にぶら下げ、ブリキの汽車や電車をならべ、セルロイドの人形やおしゃぶりをうず高く積みあげた、それこそ隣にも、そのまた隣にも見出せるような玩具屋になり了ったことは、わたしに再び、「仲見世」の石だたみの上にふる糸のような春雨の音を聞く能わざらしめた感がある。わたしは限りなく寂しい。そこで出来る雛道具こそ榎のかげにくろい塀をめぐらした「万梅」とともに「古い浅草」を象徴するものだった。箪笥、長持、長火鉢のたぐいから笊、みそこし、十能、それこそすり鉢、すり粉木こぎの末にいたる台所道具一切の製品、それは「もちあそび」とはいえない繊細さ精妙さをもつものだった。しかも其繊細さ精妙さの内に「もちあそび」といってしまえない「生命感」が宿っていた。堅実な沁々した「生命感」が潜んでいた。――しかも、うちみのしずかに、さりげないこと、水の如きものがあった……
 そこのそうしたさまになったと一しょに、伝法院の横の、木影を帯び、時雨のこころをふくんだその「細工場」は「ハッピー堂」と称する絵葉書屋になった。――その飾り窓の一部にかかげられた「各博覧会賞牌受領」の額をみて立つとき、わたしのうなじにさす浅草の夕日の影は、いたずらに濃い……
「伊勢勘」で出来る品ものは「子供だまし」という意味での「大人だまし」である。絵馬だの、豆人形だの、縁起棚だの、所詮それらは安価な花柳趣味だけのものである。かつての「武蔵屋」のそれが露にめぐまれて咲いた野の花なら「伊勢勘」のそれはだまされて無理から咲いた「むろ」の花である。でなければ糊とはさみとによって出来た果敢はかない「造花」である。……わたしにいわせれば、畢竟ひっきょうそれは「新しい浅草」の膚浅な「殉情主義」の発露に外ならない……
 が、一方は衰えて一方はさかえた。――いつのころからか「助六」と称するそれと同じような店まで同じ「仲見世」に出来た……


 だが、「大増」のまえの榎のしげりの影がいかに貧しくなっても、絵草紙屋がいかに少くなっても、豆屋が減っても、名所焼屋がふえても、「伊勢勘」がさかえても、そうして「高級観音灸効果試験所」の白い手術着の所員がここをせんどのいいたてをしても、大正琴屋のスポーツ刈の店員がわれとわが弾く「六段」に聞き惚れても、ブリキ細工の玩具屋のニッケルめっきの飛行機の模型がいかにすさまじく店一ぱいを回転しても、そこには香の高い桜湯の思い出をさそうよろず漬物の店、死んだ妹のおもかげに立つ撥屋ばちやの店、もんじ焼の道具だの、せがんでたった一度飼ってもらった犬の首輪だのを買った金物屋の店……人形屋だの、数珠じゅず屋だの、唐辛子屋だの……そうしたむかしながらの店々がわたしのまえに、そのむかしながらの、深い淵のようなしずけさをみせてそれぞれ、残っている。――が、それよりも……そうしたことよりもわたしは、仁王門のそばの、「新煉瓦」のはずれの「成田山」の境内にいま読者を拉したいのである。
 岩畳がんじょうな古い門に下ってガラスばりの六角燈籠。――その下をくぐって一足そのなかへ入ったとき、誰しもそこを「仲見世」の一部とたやすく自分にいえるものはないだろう。黒い大きな屋根、おなじく黒い雨樋、その雨樋の落ちて来るのをうけた天水桶、鋲をうった大きな賽銭箱さいせんばこ。――それに対して「成田山」だの「不動明王」だのとしたいろいろの古い提燈……長かったりまるかったりするそれらの褪せたあけの色のわびしいことよ。金あみを張った暗い内陣には蝋燭の火が夢のように瞬いている。仰ぐと、天井に、ほうぼうの講中から納めた大きな額、小さな絵馬がともに幾年月の煤に真っ黒になっている。納め手拭に梅雨どきの風がうごかない……
 眼をかえすと、狛犬こまいぬだの、御所車ごしょぐるまだの、百度石だの、燈籠だの、六地蔵だの、そうしたもののいろいろ並んだかげに、水行場すいぎょうばのつづきの、白い障子を閉めた建物の横に葡萄棚が危く傾いている。――そのうしろに、門のまえの塩なめ地蔵の屋根を越して、境内の銀杏のそういっても水々しい、したたるような、あざやかないろの若葉につつまれた仁王門のいただきが手にとるようにみえる。――みくじの殻の数知れず結びつけられたもくせいの木の下に、鶏の一羽二羽、餌をあさっているのも見逃し難い……
 左手の玉垣の中に石の井戸がある。なかば土にうもれて明和七年ときざまれたのが辛うじてよめる……
 金山三宝大荒神、――それに隣った墨色判断――門の際につぐなんだ乞食……
 わたしはただそういっただけにとどめよう。――お堂(観音さまのである)のまえの水屋の、溢れるようにみちみちた水のうえにともる燈火のいまなおランプであることを知っているほどのものでも、ときにこの「成田山」の存在をわすれるのをわたしはつねに残念におもっている。――これこそ「仲見世」でのむかしながらのなつかしい景色である。
    ―――――――――――――――
 ……金龍山浅草餅の、震災後、いさましい進出をみせたのが、商売にならないかしてたちまちもとへ引っ込んでしまったのをまえに書きはぐった。――おそらく後代、その名のみを残してどんなものだったかと惜しまれるのがこの古い名物の運命だろう。


浅草学校



 ……学校の、門のほうを向いた教場の窓から、五重の塔の青い屋根のみえることをいったわたしは、それと一しょに、そこを離れた北のほうの窓から、遠くまた、隅田川の水に近い空をしらじらとのぞむことの出来たのをいわなければいけない。――花川戸、やま宿しゅく、金龍山下瓦町(広小路の「北東仲町」をいま「北仲町」といっているように、そこもいまは「金龍山瓦町」とのみ手間をかけないでいっている)、隅田川に沿ったそうした古い町々が、そこに、二三町乃至五六町のところに静かに横たわっている。――「馬道」とそれらの町々との間をつらぬく広い往還に、南千住行の、「山の宿」だの「吉野橋」だのという停留場をもつ電車のいまのようにまだ出来なかったまえは、同じ方角へ行くガタ馬車が、日に幾度となくわびしい砂けむりをそのみちの上に立てていた。そうして、いまよりもっと薄暗い、陰気な、せせっこましいそのみちの感じは、そのガタ馬車の、しばしば馬に鞭を加える苛酷な馭者の、その腰にさびしく巻きつけられた赤い古毛布のいろがよくそれを語っていた……とわたしは微かにおぼえている。
 だから、わたしの、学校で毎日顔をみ合せる友だちは、南は並木、駒形、材木町、茶屋町、(まえにいったように、すこしのところで、わたしの近所からはあんまり通わなかった)北はその花川戸、山の宿、金龍山下瓦町。――猿若町さるわかまち聖天町しょうでんちょうを経て、遠く吉野町、山谷あたりから来るものばかりだった。まれには「吉原」からもかよって来た。――というと、いまでもわたしの覚えているのは、まだわたしの尋常二三年の時分、運動場にならんでこれから教場へ入ろうとするとき、その水を打ったような中で、突然うしろから肩さきをつかんでわたしは列外に引摺り出された。そのまま運動場の真ん中に、一人みっともなくとり残された事があった……
 わたしの記憶にもしあやまりがなければ、わたしはそのとき泣かなかった。なぜならどうしてそんな目にあうのか自分によく分らなかったから。それには、それまで、柔和おとなしいというよりはいくじのないといったほうがほんとうの、からきしだらしのなかった、臆病だった、そのくせいたってみえ坊だったわたしは、いまだ嘗て、そうした恥辱をあとにもさきにもうけたことがなかったのである。そんなへまをしたことは一度もなかったのである。――たとえば夢ごこちに、茫然とただ、われとわが足もとをみてわたしは立っていた。――やがて悲しさが身うちにはっきりひろがった――ボロボロととめどなく涙がこぼれて来た。
 が、それをみてわたしのためにってくれたのが「つるよし」のおばァさんである。「つるよし」のおばァさんというのは、わたしと同じ級に女の子をよこしていた吉原のある貸座敷の隠居で、始終その子に附いて来ては、ともども一日学校にいた。外の附添いたちと小使部屋の一隅を占めて宛然「女王」の如くにふるまっていた。小使なんぞあごでみんなつかっていた。――その「つるよし」のおばァさん、「あの子はそんな子じゃァない、立たせられるようなそんな悪い子じゃァない――そんな間違ったことってあるもんじゃァない」とわが事のようにいきり立ち、わたしをそういう事にしたその先生のところへその不法を忽ちねじ込んだものである。


 その先生、高等四年(というのは最上級のいいである)うけもちの、頬ひげの濃い、眼の鋭い、決してそのあお白い顔をわらってみせたことのない先生だった。学校中で最も怖い先生だった。その名を聞いてさえ、われわれは、身うちのつねにすくむのを感じた。――いかに「小使部屋の女王」といえど、とてもその、どこにも歯の立つ理由はなかったのである。
 が、すぐにわたしは放免された。そのまま何のこともなく教場へ入ることを許された。――素直にその「抗議」が容れられたのである。
 勿論、わたしは、「つるよし」のおばァさんのそのいきり立ったことも、先生にその掛合をつけてくれたことも、そのためわずかに事なきをえたことも、すべてそのときは知らなかった。あとで聞いて不思議な気がした。――同時にいまさらのように、そのとき不注意にわきみをするとか隣のものに話しかけるとかしたかも知れなかった自分をふり返ってわたしは赧然たんぜんとした。なぜなら「えらいんだね、『つるよし』のおばァさんは――ああいう先生でもかなわないんだね、『つるよし』のおばァさんには」といった風の評判の一しきり高くなったから。――当座、わたしは、その先生の眼から逃れることにばかり腐心した。
 が、そのずっと後になって、その先生にとって「つるよし」のおばァさんは遠い縁つづきになっていることを、わたしは祖母に聞いた。なればこそ、先生、「小使部屋の女王」のそうした無理も聞かなければならない筋合をいろいろもっていたらしいのである。――そうと分って初めてわたしは安心した。祖母もまたわたしに附添って、そのあとでは二三年わたしより遅れて入学したわたしの妹に食ッついて、ときに矢っ張、ともどもその小使部屋で日を消す定連の一人だったのである。
 ……ただそれだけのことである。が、ただそれだけ……といってしまえない、すくなくともそういってしまいたくないものを、わたしは、このなかからいろいろ探し出したいのである――そこには、唖鈴だの、球竿だの、木銃だのをことさらに並べた白い壁の廊下……わたしの眼にそのさまが浮ぶのである。――青い空をせいた葭簀よしず日覆ひおいが砂利の上に涼しい影を一面に落していた運動場……わたしの眼にそのさまが浮ぶのである。――唱歌の教場の窓に咲いた塀どなりの桐の花……そのけしきがいまわたしの眼に浮ぶのである。――そうしていま、煙もみえず、雲もなく、風も起らず浪立たず……黄海々戦の歌である……あなうれし、よろこばし、たたかい勝ちぬ、百千々の……凱旋の歌である……そうしたなつかしいオルガンのしらべが夢のようにわたしに聞えるのである……
 女はみんな長い袂をふりはえていた。……男の生徒といえど袴をはいたものはまれだった……
 が、それから二三年して、わたしの高等科になった前後に、それまでの古い煉瓦の校舎は木造のペンキ塗に改まった。――門の向きが変ると同時に、職員室も、小使部屋も、いままでより広くあかるくなった。――時間をしらせる振鈴の音は以前にかわらず響いたが「つるよし」のおばァさんたちのすがたは再びそこに見出せなかった。
「すみだに匂うちもとの桜、あやせに浮ぶ秋の月……」
 そうしたやさしい感じの校歌の出来たのもその時分だった。


「古い浅草」と「新しい浅草」



 その学校の、古い時分の卒業生に、来馬琢道氏、伊井蓉峰氏、田村とし子氏、土岐善麿氏、太田孝之博士がある。わたしと大ていおんなじ位の時代には、梅島昇君、鴨下晁湖君、西沢笛畝君、渋沢青花君、「重箱」の大谷平次郎君たちがいる。わたしよりあとの時代には、松平里子夫人、中村吉右衛門夫人、富士田音蔵夫人なんぞがいる――勿論この外にもいろんな人がいる。――が、これらの諸氏は、銀座で、日本橋で、電車で、乗合自動車で、歌舞伎座で、築地小劇場で、時おりわたしのめぐりあう人たち、めぐり逢えばすなわちあいさつぐらいする人たちである。――尤も、このうち田村とし子氏は七八年前にアメリカへ行ったなりになっている。「けだし浅草区は、世のいはゆる、政治家、学者、或は一般に称してハイカラ流の徒なるものがその住所を定むるもの少し、今日知名の政治家を物色して浅草に何人かある。幾人の博士、幾人の学士、はた官吏がこの区内に住めるか、思ふにかかる江戸趣味及び江戸ッ子気質の破壊者が浅草区内に少きはむしろ喜ぶべき現象ならずや。今日において、徳川氏三百年の泰平治下に養はれたる特長を、四民和楽の間に求めんとせば、浅草区をおきてこれなきなり」と前記『浅草繁昌記』の著者はいっている。その著者のそういうのは、官吏だの、学者だの、教育家だの、政治家だの、実業家だのというものはみんな地方人の立身したもので、いくら学問や財産やすぐれた手腕はあっても、その肌合や趣味になるとからきし低級でお話にならないというのである。「紳士にして『お茶碗』と『お椀』との区別を知らず、富豪にして『清元』と『長唄』とを混同し『歌沢』『新内』の生粋を解せずして、薩摩琵琶浪花節の露骨を喜び、旧劇の渋味をあざけりて壮俳の浅薄を賞す」といろいろそういったうえ「かくの如きはたゞ見易き一例にすぎずして、家屋住宅の好みより衣服の選択など、形式上のすべてがいはゆる江戸趣味と背馳するもの挙げて数ふべからず」とはっきり結論を下している。そうしてさらに「およそ斯くの如きは、山の手に至りては特に甚だしく、下町もまたやうやく浸蝕せられ、たゞ浅草区のみは、比較的にかゝる田舎漢に征服せらるゝの少きをみる」とことごとく肩をそびやかしている。――いうところはいかにも「明治四十三年」ごろの大ざっぱな感じだが、その政治家だの学者だの官吏だのの浅草の土地に従来あんまりいなかったということだけはほんとうである。すくなくとも、その当時、わたしのその学校友だちのうちは……其親たちはみんな商工業者ばかりだった。それも酒屋だの、油屋だの、質屋だの、薬屋だの、写真屋(これは手近に「公園」をもっているからで、外の土地にはざらにそうない商売だろう)だの、でなければ大工だの、仕事師だの、飾り屋だの……たまたま勤め人があるとみれば、それは小学校の先生、区役所の吏員、吉原の貸座敷の書記さん……そうしたたぐいだった。女のほうには料理屋、芸妓屋が多かった。――いまでも、おそらく、そうでないとはいえないであろう……
 ところで芥川龍之介氏は『梅・馬・鶯』のある随筆の中でこういっている。「……浅草といふ言葉は少くとも僕には三通りの観念を与へる言葉である。第一に浅草といひさへすれば僕の目の前に現はれるのは大きな丹塗にぬり伽藍がらんである。或はあの伽藍を中心にした五重塔や仁王門である。これは今度の震災にも幸と無事に焼残つた。今ごろは丹塗の堂の前にも明るい銀杏の黄葉の中に相変らず鳩が何十羽も大まはりに輪を描いてゐることであらう。第二に僕の思ひ出すのは池のまはりの見世物小屋である。これは悉く焼け野原になつた。第三にみえる浅草はつつましい下町の一部である。花川戸、山谷、駒形、蔵前――その外どこでも差支ない。たゞ雨上りの瓦屋根だの、火のともらない御神燈だの、花のしぼんだ朝顔の鉢だの……これも亦今度の大地震は一望の焦土に変らせてしまつた」と……


「古い浅草」とか「新しい浅草」とか、「いままでの浅草」とか「これからの浅草」とか、いままでわたしのいって来たそれらのいいかたは、畢竟この芥川氏の「第一および第三の浅草」と「第二の浅草」とにかえりつくのである。――改めてわたしはいうだろう、花川戸、山の宿、瓦町から今戸、橋場……「隅田川」のながれに沿ったそれらの町々、馬道の一部から猿若町、聖天町――田町から山谷……「吉原」の廓に近いそれらの町、そこにわたしの「古い浅草」は残っている。田原町、北仲町、馬道の一部……「広小路」一帯のそうした町々、「仲見世」をふくむ「公園」のほとんどすべて、新谷町から千束町、象潟きさかた町にかけての広い意味での「公園裏」……蔓のように伸び、花びらのように密集したそれらの町々、そこにわたしの「新しい浅草」はうち立てられた。……「池のまはりの見世物小屋」こそいまその「新しい浅草」あるいは、「これからの浅草」の中心である……
 が、「古い浅草」も「新しい浅草」も、芥川氏のいうように、ともに一たび焦土に化したのである。ともに五年まえみじめな焼野原になったのである。――というのは「古い浅草」も「新しい浅草」も、ともにその焦土のうえに……そのみじめな焼野原のうえによみ返ったそれらである。ふたたび生れいでたそれらである。――しかも、あとの者にとって、嘗てのそのわざわいは何のさまたげにもならなかった。それ以前にもましてずんずん成長した。あらたな繁栄はそれに伴う輝かな「感謝」と「希望」とを、どんな「横町」でもの、どんな「露地」でものすみずみにまで行渡らせた。――いえば、いままで「広小路」を描きつつ、「仲見世」に筆をやりつつ、「震災」の二字のあまりに不必要なことにひそかにわたしは驚いたのである……
 が、前のものは――その逆に「古い浅草」は……
 読者よ、わずかな間でいい、わたしと一緒に待乳山まつちやまへ上っていただきたい。
 そこに、まずわたしたちは、かつてのあの「額堂」のかげの失われたのを淋しく見出すであろう。つぎに、わたしたちは、本堂のうしろの、銀杏だの、椎だの、槙だののひよわい若木のむれにまじって、ありし日の大きな木の、劫火に焦げたままのあさましい肌を日にさらし雨にうたせているのを心細く見出すであろう。そうしてつぎに……いや、それよりも、そうした木立の間から山谷堀さんやぼりの方をみるのがいい。――むかしながらの、お歯黒のように澱んで古い掘割の水のいろ。――が、それに続いた慶養寺の墓地を越して、つつぬけに、そのまま遠く、折からの曇った空の下に千住の瓦斯ガスタンクのはるばるうち霞んでみえるむなしさをわたしたちは何とみたらいいだろう?――眼を遮るものといってはただ、その慶養寺の境内の不思議に焼け残った小さな鐘楼と、もえたつような色の銀杏の梢と、工事をいそいでいる山谷堀小学校の建築塔と……強いていってそれだけである。
 わたしたちは天狗坂を下りて今戸橋をわたるとしよう。馬鹿広い幅の、青銅いろの欄干をもったその橋のうえをそういってもときどきしか人は通らない。白い服を着た巡査がただ退屈そうに立っているだけである。どうみても東海道は戸塚あたりの安気な田舎医者の住宅位にしかみえない沢村宗十郎君の文化住宅(窓にすだれをかけたのがよけいそう思わせるのである)を横にみてそのまま八幡さまのほうへ入っても、見覚えの古い土蔵、忍び返しをもった黒い塀、鰻屋のかどの柳――そうしたものの匂わしい影はどこにもささない。――そこには、バラックのそばやのまえにも、氷屋のまえにも、産婆のうちのまえにも、葵だの、コスモスだの、孔雀草だのがいまだにまだ震災直後のわびしさをいたずらに美しく咲きみだれている……


 もし、それ、「八幡さま」の鳥居のまえに立つとしたら――「長昌寺」の墓地を吉野町へ抜けるとしたら……
 わたしたちは、そこに木のかげ一つ宿さない、ばさけた、乾いた大地が、白木の小さなやしろと手もちなく向い合った狛犬とだけを残して、くうに、灰いろにただひろがっているのをみるだろう。――そうしてそこに、有縁無縁の石塔の累々としたあいだに、鐘撞堂をうしなった釣鐘が、雑草にうもれていたずらに青錆びているのをみるだろう。――門もなければ塀もなく、ぐずぐずにいつか入りこんで来た町のさまの、その長屋つづきのかげにのこされた古池。――トラックの音のときに物うくひびくその水のうえに睡蓮の花の白く咲いたのもいじらしい……
    ―――――――――――――――
「……歌沢新内の生粋を解せずして、薩摩琵琶浪花節の露骨を喜び、旧劇の渋味をあざけりて壮俳の浅薄を賞す」と『浅草繁昌記』の著者がいくらそういっても、いまその「新しい浅草」の帰趨するところはけだしそれ以上である。薩摩琵琶、浪花節よりもっと「露骨」な安来やすぎ節、鴨緑江おうりょっこうぶしが勢力をえて来ている。そのかみの壮士芝居よりもっと「浅薄」な剣劇が客を呼んでいる。これを活動写真のうえにみても、いうところの「西洋もの」のことにして、日本出来のなにがしプロダクションのかげろうよりもはかない「超特作品」のはるかに人気を博していることはいうをまたない。
 みたり聞いたりするものの場合にばかりとどまらない、飲んだり食ったりの場合にして矢っ張そうである。わたしをしてかぞえしめよ。「下総屋」と「舟和」とはすでにこれをいった。「すし清」である。「大黒屋」である。「三角」である。「野口バア」である。鰻屋の「つるや」である。支那料理の「来々軒」「五十番」である。やや嵩じて「今半」である。「鳥鍋」である。「魚がし料理」である。「常盤」である。「中清」である。――それらは、ただ手がるに、安く、手っとり早く、そうして器用に恰好よく、一人でもよけいに客を引く……出来るだけ短い時間に出来るだけ多くの客をむかえようとする店々である。それ以外の何ものも希望しない店々である。無駄と、手数と、落ちつきと、親しさと、信仰とをもたない店々である。――つまりそれが「新しい浅草」の精神である……
 最後までふみとどまった「大盛館」の江川の玉乗、「清遊館」の浪花踊、「野見」の撃剣……それらもついにすがたを消したあとはみたり聞いたりのうえでの「古い浅草」はどこにももう見出せなくなった。(公園のいまの活動写真街に立って十年まえ二十年まえの「電気館」だの「珍世界」だの「加藤鬼月」だの「松井源水」だの「猿茶屋」だのを決してもうわたしは思い出さないのである。「十二階」の記憶さえ日にうすれて来た。無理に思い出した所でそれは感情の「手品」にすぎない)飲んだり食ったりのうえでも、「八百善」「大金」のなくなった今日、(「富士横町」の「うし料理」のならびにあるいまの「大金」を以前のものの後身とみるのはあまりにさびしい)わずかに「金田」があるばかりである。外に「松邑」(途中でよし代は変ったにしても)と「秋茂登」とがあるだけである。かつての「五けん茶屋」の「万梅」「大金」を除いたあとの三軒、「松島」は震災ずっと以前すでに昔日のおもかげを失った、「草津」「一直」はただその厖躯ぼうくを擁するだけのことである。――が、たった一つの、それだけがたのみの、その「金田」にしてなお「新しい浅草」におもねるけぶりのこのごろ漸く感じられて来たことをどうしよう。
 ……「横町」だの「露地」だのばかりをさまよってしばしばわたしは「大通り」を忘れた。――が、「新しい浅草」のそもそもの出現は「横町」と「露地」との反逆に外ならないとかねがねわたしはそう思っている。――これを書くにあたってそれをわたしはハッキリさせたかった。――半ばそれをつくさないうちに紙面は尽きた。
 曇ってまた風が出て来た。――ペンをおきつつ、いま、公園のふけやすい空にともされた高燈籠の火かげを遠くしずかにわたしは忍ぶのである。……
(昭和二年)
[#改ページ]

吉原附近




「此年三のとりまでありて中一日はつぶれしかど前後の上天気に大鳥神社のにぎはひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より乱れ入る若人達の勢ひとては、天柱くだけ地維ちゐかくるかと思はるゝ笑ひ声のどよめき、仲之町の通りは俄に方角の変りしやうに思はれて、角町京町処々のはね橋より、さつさ押せ/\と猪牙ちよぎがゝつた言葉に人波を分くる群もあり、河岸の小店の百囀ももさへづりより、優にうづ高き大籬の楼上まで、絃歌の声のさま/″\に沸き来るやうな面白さは大方の人おもひ出でゝ忘れぬものに思すもあるべし」とは「たけくらべ」の十四章「酉の市」の光景をうつし出した一節である。――何とみたらいいだろう、われわれ、この光景を?
 というのが昨夜、五六年ぶりでわたしは……いいえ、もっとである、七八年ぶりでわたしはその「酉の市」のむかし可懐なつかしい光景をみに行ったのである。そう思いつつ「初酉」にも行けず、「二の酉」にも行きはぐり、これはまた今年も縁がなかったかとあきらめていた矢先、昨夜「三の酉」に、たまたま連れをえて思いもよらず行くことが出来たのである。――で、わたしと、わたしのその三人の連れとは、八時ややすぎるころ、ゆきの電車の入谷の車庫まえで円タクを下りた。――下りたのではない、下ろされた。警戒にあたった巡査と在郷軍人との勇敢にふりまわす提燈の火に、自動車という自動車(そうしてまれに俥という俥)ことごとくそこにせきとめられたのである。
 そのまま、わたしたちは、その電車の線路に沿って弓形に大きく曲った広い往来を――区画整理の完了した広い往来を――広い故に暗い……ということは、両側、おなじような恰好の、きわめて栄えない、きわめて実直な、きわめて世帯じみた、たとえばおでんだの、すしだの、アイスクリームだのの屋台の既製品ばかり所狭く並べた万屋台車製造販売の、銅壺どうこだの鍋だの天ぷらの揚げ台だのをうず高くつみ上げた銅器類製作の、煙草だのパンだのの飾り棚を引拡げた店飾陳列の、「時代の生んだ」鉄網万年襖商の、そうした特殊の、めずらしい、誰にでも呼びかける必要のない店々ばかりのならんでいる関係で、その店々たがいの、謙遜な、つつましい燈火の影は決してそこにまじり合ったり溶け合ったりしないからである。……往来をぞろぞろつづく人の流れのなかにまじってあるいた。自動車も俥も通らないから、あたり、そうなるとうそのようにしずかである。聞えるのは人のその流れの音だけである。――ときどきただ風のように、満員の、三の輪ゆきの電車だけがおもい出したようにうしろから抜いて行った。――その行く手の線路の、工事のために置かれたところどころのカンテラの火の瞬きが、曇った空、しぐれた月……ありようは、人形町でその円タクに乗るとき、一滴、二滴、冷い雨の粒がわたしたちの顔のうえに落ちていたのである……のほうへ心細くわたしたちの眼をさそった。
「この電車、どこを通るんだ[#「通るんだ」は底本では「通るんた」]、お酉さまの?」
 わたしと同じ浅草の育ちながら、ずっと上方へ行っていたあとの山の手住居で、いつにもこっちのほうへ来たことのないわたしの連れの一人はいった。
「どこって門の前をさ」わたしはこたえた。
「門の前?――と、何か、電車通りになったのか、お酉さま?」
「そうさ」
戯談じょうだんだろう、いつからそんな?」
「十年もまえからだ」
「十年も?」
 信じられないようにそのわたしの連れはいった。「そうかなァ……」
「そうかなァじゃないさ」
 が、そういうわたしにしても、「お酉さまへ行ってもいいけど、田圃に落ッこちないようにおしよ」といわれたのを昨日のようにしかまだ思わないのである。
 千束町の停留所のほうへ曲ると一しょに往来の幅は一層広くなった。公園のほうからのものと合してそれまでの人の流れの音は一層そこで高くなった。――が、あかあかと灯しつらねた露店は、その暗い人の流れに背を向けて、右側の歩道のうえにだけ並んでいる。わたしたちはそのほうへ電車の線路を越した。そうして完全に「酉の市」の群衆のなかに交った。――が、さて、それにしても吉例の、大頭おおがしら、黄金餅、かんざしの店々のすくないことよ。――まず最初にわたしのまえに展けた七八年ぶりでの「酉の市」の光景はそれだった。


 ……正面に高く「沢の鶴」醸造元の大きな提燈の列が暗い中ぞらを画っている。両側には、木馬館、松竹館、三友館、大勝館、そうした公園の活動写真の小屋の名を一つ一つにしるした、玉子形の、やや小ぶりな提燈が透きなく並んでいる。――その提燈のあかるい光の中にひしめく群衆、真っ赤な中へ真っ黒に大頭と大きく書いた看板、金箔うつくしい熊手、鳥居に立添えたカサカサの笹、客をよぶ商人たちの姦しいわめきにまじる神楽の音。……一足「大鷲おおとり神社」の境内へ入ると一しょに、辛うじてわたしたちは、それまでの凡常な「縁日」意識からすくわれた。
 と同時にわたしたちは人波にもまれ出した。いままでのように安閑とあるいてはいられなくなった。やっこ、万盛庵、梅園、来々軒、一仙亭、透きなく並んだ両側の提燈の記名は間もなくそう「活動写真」から「飲食店」に移って行った。実だの、小楽燕だの、清吉だの、浪花ぶし語りの芸名が時を得顔にそのなかに立交っていた。――と、急に、神楽堂の近くまですすんだとき、どッと前方から逆にわたしたちは後ろへ押返された。――危くわたしたちはふみ留った。
「押しちゃァいけない、押しちゃァ……」
 みおつくしのように立った巡査たちは声を嗄らしていった。赤い筋の入った提燈がどこにもふり廻された。
「女はこっちへ来い、此方へ。――危いから此方へ来い」
 混乱――
 連れの名を呼交わす声。
 賽銭を投げる音。
 子供の泣く声。
 わたしはそのまま神楽堂の下を左へ切れた。わずかにその渦中から抜出すことの出来たわたしたちの行く手に立ちふさがった熊手店。――五彩まばゆい熊手店。――狭い道を圧してずらりと両側に立並んだその店々の小屋がけの光景こそむかしに変らない光景である。むかしながらの可懐しい光景である。――わたしたちは……すくなくもわたしは、その瞬間、電車をわすれ、自動車を忘れた……今を人の出さかりと、ただもうわめき立てる商人達の声をいっそ夢みごこちにわたしは聞いたのである。
 が、そうしたわたしの心もちはすぐ冷え返った。「検査場の門」から吉原の廓内へ入ったことによって惨めに冷え返った。なぜならそこに「天柱くだけ地維かくるかと思はるゝ笑ひ声のどよめき」も感じられなければ「さつさ押せ/\と猪牙がゝつた言葉に人波を分くる群」もみ出されなかったからである。「河岸の小店の百囀りより、優にうづ高き大籬の楼上まで、絃歌の声のさま/″\に沸き来るやうな面白さ」の、そうした光景を廓内のどこにもわたしは求める事が出来なかったからである。――たった一けん、大門に近いとある引手茶屋の店さき、閉めた障子の硝子越しに一人のお酌の大鼓おおかわを火鉢の上にかざしているのをみた以外には、三味線の音、太鼓の音一つわたしは聞かなかった。座敷へいそぐ芸妓の姿一つわたしはみなかった。
 これよりさき「検査場の門」へ入ろうとする際で道は二つにわかれる。一つは、「吉原へ」である、一つは、「公園へ」である。大鷲神社の境内を流れ出た人たちは原則としてその前のみちをとるべきだとわたしは信じていた。すくなくもわたしの子供の時分にはそうした「慣例」が作られていた。が、いまはもうそうした「原則」も「慣例」も無力になったことを、その証拠を、昨夜まのあたりにわたしはみた。わたしたちのようにそこからそのまま、「検査場の門」へ入るものは実に其うちの三分の一、いいえ、もっと少いかも知れなかった。後はみんな有無なく「公園」のほうへ流れ去る群衆だった。――しかもそこには、中ぞらに張りわたされた一本の綱の真ん中に、「公園近道」そうした文字の、墨痕淋漓ぼっこんりんり、夜目にもしるく書きなぐられた紙片のしずかにしらじらとぶら下っていることを誰も不思議と感じないのをどうしよう……
「たけくらべ」の出来たのは明治二十七年から八年にかけてである。明治二十七年といえばわたしの六つのときである。「角町京町処々のはね橋より」とあるように非常門の外でさえなお刎橋の行きかいだった時分である。だから「何とみたらいいだろう。われわれ、この光景を?」とそうは正面を切るもののその光景をわたしたちの知ろうわけがない。でも物ごころがついてからは毎年欠さず書入にして(ということは、どこにもこれという遊び場所をもたなかったそのころの浅草の子供たちは、正月を除いて、夏は三社の祭礼と富士市、冬はこの酉の市と年の市とをどんな事ででもあるように、その日の近づくのをそれぞれたのしみにしたものである)あるいは親たちと、あるいは店のものたちと、やや長じては友だち同士、必ずわたしたちはその人込のなかへもまれに行った。だからそのことは、わりとはッきりした印象をわたしたちは残している。――それだけわたしたちにすると、大鷲神社の境内ほどのことはなくっても、とても仲の町、押しッ返されないまでもたやすく通り切れることではあるまいとおぞくもそう思ったのである。――いいえ、「張見世はりみせ」だの「積夜具」だのといったもののあった時代のことをおぞくもわたしたちはおもい浮べていたのである。
 折からの御大典奉祝、廓の中にはどこにも紅白の布で巻いたはしらが立ち、花暖簾はなのれんといった感じの、天地を紅と浅黄とで染めた鶴と亀との模様の幕が張りまわされ、そのうえに提燈の火があかるく照りはえていた。そうして仲の町には、市松の油障子、雪洞ぼんぼり、青竹の手摺。――丹精を凝らした菊の花壇が出来ていた。――が、いえば三々五々、何の混雑もみせずおもいおもいのしずかな歩みを運んで行く人影は、それぞれの人かげは、あまりにその華やいだ光景を裏打しなさすぎた。――ということは、その空しい、白け切った、浮足立った感じの行きかいの中に、その花壇の菊のいろは褪せ、下葉は枯れ、茶屋々々のかどの番手桶の濡れは乾いていた。――あかるい燈火のかげをふいてわたる冷めたい夜風をわたしは襟もとに感じた。
 ……忘れられた吉原よ


 わたしたちは角町の非常門を千束町のほうへ出た。――おはぐろ溝がなくなって幾年、その代りともみられた千束堀(その大溝にそうした名称のついていたことをつい最近までわたしは知らなかった)も覆蓋ふくがい工事が施されて暗渠あんきょになったいまでは、そこはただ、いたずらにだだっ広いだけの往来をよこたえた、無味な、とりとめのつかない裏通りになった。(嘗て、その蓋をした溝のうえに青いものを植える計画のあることをわたしは聞いた。が、間もなく、またそうした器用なことの出来るわけのものでないことが分って止めになったということを聞いた。真偽は知らない)が、また、そこのそうした往来にならないまえから住んでいる人たち、例えば竹細工だの、袋物製造だの、帽子の洗濯だの、自転車の修繕だの、あるいは比羅屋びらやだの、建具屋だの、せんべやだの、つつましく、寂しく、決して栄耀を望むことなしにその毎日を送っている人たちに(ここに限っての光景ではない。が、すぐその眼のまえにそそり立った廓内の大きな建物に対して、何というそれが不思議な取合せをみせていることだろう)立交って、このごろ、暖簾を下げたり、ビールの瓶を棚の上に並べたりしたような小料理屋のちらほらそのあたりにみえ出して来たことをわたしは何とみたらいいだろう? 勿論その暖簾のかげに、棚のまえに、白粉の厚い女たちが立ったりすわったりしているのである。……心許なきは半年あと一年さきである。
 わたしたちはすぐその往来を左へ切れ、おでんやだの汁粉屋だのの煽情的な真っ赤な提燈(いかにそのいろの所柄の夜寒さをおもわせることよ)の下っている細い道を表通りへ出た。――わたしたちはみんなまだ夕飯を食べていなかった。――なればこそどこへ行こう、何をたべようと、わたしたちは、そこもまた区画整理の完了して以前とはみ違えるように広くなった往来を、前方から後方から間断なく来る自動車のヘッドライトを避け避け熱心に評議した。
 やがてその評議の、仲見世の「金田」ということに決着し、それなら少しいそぐ必要がある、あすこのうちは店を閉めるのが早い、そうしたことをさえお互のいいかけたとき、急にわたしの連れの一人は嘆息するようにいった。
「お酉さまの帰りといえば、だまってむかしは大金だいきんだったもんだがなァ」
 と、おなじわたしの連れの一人はすぐそれに同じた。
「あのうちさえあればいさくさはないんだ」
 ……というのはいうまでもなく田圃の「大金亭」のことである。公園裏にあったあの古い鳥料理屋のことである。もと浅草五けん茶屋の一つ、黒い塀をたかだかと贅沢にめぐらした、矮柏ちゃぼひばが影のしずかに澄んだやや深い入口への、敷石のつねに清く打水に濡れていたその表構えについてだけいっても、わたしたちは「古い浅草の黄昏のようなみやびとおちつき」とを容易にそこにみ出すことが出来たのである。一口にいえば江戸前の普請ふしん、江戸前の客扱い、瀟洒しょうしゃな、素直な、一すじな、そうしたけれんというものの、すべてのうえに、それこそ兎の毛でついたほどもみ出すことの出来なかったそのうちの心意気は、空気は、どういう階級の、どういう育ちの人たちをでも悦喜させた。そうしたうちをもつことを「浅草」のほこりとさえわたしは思った。――が、惜しくも震災でそのうちは焼けた。――そのままそのうちはわたしたちの前からすがたを消した。――古くいたそこの女中の一人に、その後、築地の「八百善」でゆくりなくわたしは邂逅めぐりあったりした。
「行こう、じゃァ、大金へ」
 二人にこたえてわざとわたしはいった。――というのは、もとのそのうちといかなる関係をもつうちか知らない、おなじ「大金亭」という家名の、もとのうちで調理したとおなじ種類のものばかり調理するうちの、富士横町の裏通りに出来たことをわたしはおもい出したから……
 が、それ以上わたしは説明する必要はなかった。だれもその存在だけは聞いて知っていた。そうしてわたしたちの気紛れはすぐその「金田」説をそのうちに搗替つきかえた。すなわちわたしたちは、それと一しょに、いまはただわずかにそこの交番の名乗にだけ名残をとどめている「小松橋」を象潟町のほうへ急にまた左折した。――うッかりしている間に雲はすっかり切れ、さえざえとあかるい月の光は水のように空に満ちていた。わたしは喜んだ。なぜなら熊手はもたなくっても、とういもは下げなくっても、黄金餅は買って来なくっても、それによって、その冷え冷えとした「月夜」をえたことによって「酉の市の帰り」という心もちをはッきり自分に肯うことが出来たから……。「年の市」の雪に対して、「酉の市」はつねに月である……
「が、いけない、もっと陽気が塞くなくっちゃァいけない」
 わたしの連れの一人はいった。
「そうとも。――もっと下駄の音が凍てて聞えなくっちゃァうそだ」
 すぐまた一人が賛成した。
「そんなことをいったら吉原に菊の咲いているのが一番間違っている。――あれじゃァ秋の光景だ。――『冬のはじめ』でなくって『秋の末』だ」
 それに対してまたわたしはいったのである。「酉の市」というもの、いままでわたしにとって冬の来たという可懐なつかしいたのしい告知以外の何ものでもなかった。「酉の市という声をきくとすぐに、霜夜ということばを、北風ということばを、火事ということばを誰もが思い遣った」の「霜のいろと一しょに寒さは日に日に濃くなり、ほうぼうにもう夜番の小屋が立って、其時分から火事の噂が毎晩のように聞えだしました。――ことに今年は三の酉まであるから火事が多いだろうということがいつものことで誰にも固く信じられました」のと、いままで始終そうしたことを書いて来たわたしである。
 本街道はいかほどにぎやかでも、一足そこをわきへそれるとうそのようにしずかになるのがそうした晩(「年の市」の場合でもそうである)の習いである。象潟警察の角を一たび富士横町へ入ると、月の光にうかんだ広い道はただもう森閑とすみずみまで霜げていた、いッぱしもう更けたように火の番の拍子木の音ばかり高かった。――間もなくわたしたちは、大ていこのあたりと当てずッぽうに曲った細い道の、あかりのぼやけた、人通りの全くない中に、めざすその「大金」の――以前のそのうちとは似ても似つかない恰好の、どう贔負目ひいきめにみてもむかしのそのうちの後身とはおもえない作りの、一坪にも足りない土間のうえにすぐ階子口のみえるといった風の、浅い、むき出しの、ガランとしたその「大金」の門口をみ出した。――宵からまだ一組の客もなかったらしい心弱さを、月の中、もり塩のかげは蒼くしずんだ。
 わたしたちは三間ほどしかない座敷のその一つを占めた。わたしたちは、ごまず、やまとあげ、やきつけ、そうしたむかしながらの言い方の、むかし可懐しいしなじなの運ばれて来るのをみながら盃をふくんだ。――しずかに、寂しく……
 で、わたしは、もう一度そこで「吉原」を思った。……


「……十二階のまえをつきあたって左へ切れ、右へ曲ると、片側は幸龍寺の古い筋塀の、片側は幅六尺あまりの大きな溝のまえに、屋根の低い、同じような恰好をした小さな古家ばかりずっと立続いていました。――店に堆くがらくたを積んだ道具屋、古鉄をならべたふるがねや、襤褸屋ぼろや、女髪結、かざり工場。――そうしたうす暗い陰気な稼業のものばかりがその溝の上にかたちばかりの橋をわたして住んでいました。」

 わたしは嘗て「ふゆがすみ」という文章のなかにこうしたことを書いた。

「その家つづきの尽きたところにやや気ましな橋があり、そこを右へ入ったところに、狭くはあったが、しずかな、おちついた、しめやかな感じの往来がありました。右手には格子づくりのしもたやが二三げんならび、左手には、めぐらした建仁寺のかげにいくつもの盆栽棚の出来ている植木屋の広い庭と、古い、がっしりした格子をおもてに入れた三番組の仕事師の住居とが並んでいました。――その往来の行きどまりは十二階の裏門で、仰ぐと十二階の巨人のようなすがたがすぐその眼のまえにそそり立っていました。」

 ……というのは十二三の時分、わたしは、半年ほどその近所で毎日をくらした。――その時分、その仕事師のうちの前をまた入ったところの細い道に、わたしの祖母の姉にあたる人が住んでいた。わたしはこの人のことを「大きいおばァさん」と呼んで祖母につぐ好きな人としていた。その関係で始終わたしはそのうちに入浸った……とはいうものの、それに上越すもう一つの大きな理由は、その「大きいおばァさん」という人が、意気な、華奢はでな、娑婆っ気の強い人だっただけ、唄の師匠は来る、芸妓は来る、役者は来る、始終うちのなかが賑やかだったのである。それがわたしにうれしかった。「夜学」へ通うのに近いということを理由にしてしまいには泊りッきりにとまり込んだりした。――どんなにそれが親たちの機嫌をわるくしたことだろう……

「……馬道の学校から帰ると何をする間もなく夕方になります。あたりが刷かれたように暗くなります。――と、近所に用のあるものでない限り、でなければ松井源水のほうからの近みちの露地を抜けて来るものででもないかぎり、そこを往来するものといっては絶えてないその道のうえを――そのしらじらとした道のうえを植木屋の建仁寺について溝のうえの橋に出ると、吉原のおはぐろ溝のほうから来る水が、ことに雨上りででもあると、岸を浸して、深く、寂しく、おもいかさなるさまに流れていました。――その水に、そこの紺屋の店さきに咲いた夾竹桃の未練らしい影を映していたのを昨日のようにしかまだ思わなくっても、風はもうしみじみと身にしみて、幸龍寺の、新谷町のほうまで長々とつづいた塀も、塀の角に屋台を出している団子屋の葭簀っ張も、その葭簀っ張のまえに置かれた人力車も、すべて末枯うらがれの、悲しく眼をふせ額をふせた光景でした。――わたしの記憶にもしあやまりがなければ、空は毎日、日の目をみせずどんより曇ってばかりいました。」

 そういうそこは寂しい土地だった。「眠ったような」とでもいえれば「生活力を失った」とでもいえるすがたをした所柄だった。そうして、その溝について真っ直にどこまでも行けば、吉原の、前記「検査場の門」のまえにおのずから出られた。
 さすがにもうその時分には一めんの田圃もだんだん埋められ、以前のように太郎稲荷(「たけくらべ」の第六章「……鰐口ならして手を合せ、願ひは何ぞ行きも帰りも首うなだれて」畦道あぜみちづたいに美登利みどりの帰ってくる中田圃の稲荷とはこれである)の森もみ通しにはみえず、道の両側に拡った水田の影もすでにみられなくはなったものの、すすんでその「検査場の門」のまえくらいまで行けば、田圃の名残の、枯れ枯れになった蓮池が夕ぞらのいろをしずめているといった風の光景を寂しくなおそこにみ出すことが出来た。

「夕飯をたべると、わたしは包みをかかえて宮戸座の近くまで『夜学』にかよいました。包みの中にはナショナル読本リーダーと論語とが入っていました。――すがれた菊の鉢のかげにほそぼそと虫の鳴いている夕あかりのなかを、抜けみち伝いに『米久』のまえの広い往来へ出ました――そのまえ、通りすがりに萩野という酒屋のうちの友だちと、石川という比羅屋のうちの友だちとをいつもさそいました。」

「宮戸座の近く」とそういっていえないことはないけれど、その毎晩「夜学」にかよったさき、ほんとうをいうと宮戸座よりもずっともっと手前のとある横町の露地の中にあった。もと浅草学校の先生で、其ころ本所の江東小学校の先生をしていた三木さんという人のところへ通ったのである。江東小学校といえば亡き芥川君のいた学校である。ことによるとだから芥川君もこの先生を知っていたかも知れないと思った。聞いてみようみようとおもいながらいつも忘れてとうとう聞きはぐった、惜しいことをしたと思っている。
 一しょにその「夜学」へかよった仲間の萩野という男は第三中学を出たあと京都の高等学校の一部へ入ったが、在学二年にして世を早くした。石川という男は、いまは他姓を名乗り、帝展派の聞えた画かきになっている。

「ほんとうにすればそこから千束町の通りをぐるッと廻らなければならないのを、土地っ子の勝手を知っているままに近みちをして『草津』の裏の芸妓新道をわたしたちは抜けました――行きは三人ですから何のこともなかったものの、『夜学』の暗いランプの下で一二時間すごしたあと、待合せて同じ方角へ帰るものばかり六七人、その同勢で再びその新道を抜けるとき、必ずそのなかの一人が『草津』の離れの、ほの明るく燈火のかげのさしている障子めがけて石をぶつけました。それと一しょに、わたしたちは、大通りさして一散に、呼吸もつかずに逃げました。――そうしたいたずらを毎晩のようにつづけました。」

「草津」といえば公園切っての大きな料理屋である。――「大きな」という意味は「資本主義的色彩のそれほど濃厚な」というほどの意味である……

「……が、秋の深くなるにつれてそれもいつとはなしに止みました。草津の離れにも燈火のみえない晩がだんだんとふえました。――両側にしつッこく立並んだ同じような格子づくりのうちの、土間のうえに下げた御神燈のかげが[#「かげが」は底本では「かけが」]いたずらに白く更け、どこからともなく聞えて来る三味線の音じめがすでに来た夜寒のさびしさを誰のうえにも思わせました。」

 そのころ「米久」の向っ角に、当時はまだめずらしかった支那料理屋が出来た。「支那料理」といえば横浜しか思わなかった時代である。必ずわたしたちはその「夜学」の帰りその店のまえに引ッかかった。なぜならその店のまえで売る揚饅頭の白い湯気が冬の近い燈火のいろをいつも明るくつつんでいたから。――そこにはかけ声いさましい「吉原通い」の俥の音が、狭い往来の上をれきろくと絶えず景気よく響いていた。
 で、十一月は来た。――そうしたなかに「酉の市」の季節は来た……


 そのあと三四年してである、いうところの「十二階下」という一区画の出来たのは……
 これよりさき公園の中の、玉乗だの、剣舞だの、かっぽれだの、都踊だの、浪花踊だの、そうした「見世物」の一部にすぎなかった「活動写真」がその前後において急に勢力をえて来た。そうしてわずかな間にそれらの「見世物」のすべてを席巻し「公園」の支配権をほとんどその一手に掌握しようとした。と同時に「公園」の中は色めき立った。新しい「気運」は随所に生々なまなましい彩りをみせ、激しい、用捨のない響きをつたえた。――幸龍寺のまえの溝ぞいの町も、そうなるとまたたく間に、「眠ったような」すがたを、「生活力を失った」その本来の面目をたちまち捨てて、道具屋も、古鉄屋も、襤褸屋も、女髪結も、かざり工場も、溝を流れていた水のかげとともにいつかその存在を消した。そうして代りに洋食屋、馬肉屋、牛肉屋、小料理屋、ミルクホール、そうした店のげるさまなく軒を並べ看板をつらねるにいたった。――ということは、勿論そのとき、その横町の、しずかな、おちついた、しめやかなその往来の、格子づくりのしもたやも、建仁寺の植木屋も、「三番組」の仕事師も、いつかみんな同じような恰好の小さな店。――それは嘗て「公園」の常盤座の裏、でなければ、観音堂の裏で念仏堂のうしろ、大きな榎の暗くしずかに枝をさし交していた下に限ってのみ、み出すことの出来た小さな店……銘酒屋あるいは新聞縦覧所……にたち直っていたのである。
 その後また大きな火事があって「公園」の大半を焼いた。「公園」ばかりでなく、その火は「広小路」の一部をさえ焼いた。――それまではまだ隅々に幾分でも「奥山」のすがたを残していた「公園」がそれ以来根本から改まった。すなわち猿茶屋がなくなり、釣堀がなくなり、射的がなくなり、楊弓場がなくなった。松井源水の歯みがきを売る人寄せに、独楽をまわしたり居合抜きをしたりすることも再びそこにみられなくなった。――十二階株式会社の、余興と称して入場者に小屋がけの芝居をみせたり、最上階で甘酒の接待をしたりしだしたのもその火事以後のことである……
 で、「公園」は、そこで完全な活動写真街になった。――曰く電気館、曰く富士館、曰く三友館、曰く大勝館、曰くオペラ館、曰く何、曰く何……
 かくして可哀想に「千束町」は……つみも報いもない千束町という町は、浮気な、悪性な、安白粉の匂の骨の髄まで浸込んだ町として天下に有名になった。――そうして、それは、それ以外の存在の何ものでもなくなった……


 と、震災である。十二階は十二階劇場……嘗てのかの小屋がけの余興場から出発した十二階劇場をだけ残して亡びた。――が、幾ばくもなくいまの昭和座が出来、その十二階劇場もまたわたしたちのまえから永遠にそのすがたを消した。
「けど、では、十二階のあとはどうなっている?」
 そう思って今日……昨夜の今日である……晴れぬいてさびしい青空の下、いとおしく輝くあかるい日の中をわたしは御苦労にも古なじみの幸龍寺のまえに立った。――どうしてそう助かることの出来たものか、幸龍寺の門、焼けないでもとのままの……震災以前のままの古い、大きい、すべり落ちそうな瓦屋根をもったそれである。
 そのくせ境内はみるかげもない。
 その往来を……むかしのその溝ぞいの往来をあるくことはわたしにとって決してめずらしいことではない、三月ほどまえにもあるいた、一月ほどまえにもあるいた、必要によってつねにわたしはあるいている――が、つねに、いつもは、そこをあるくのが目的ではない。――それだけにわたしは、くうにいつもみてすぎていたその往来のうえを、しげしげといまみ守ることによって軽い驚きを感じた。――整ったからである、おちつきが出来たからである、ヒレがついたからである……
 いいえ、その家ならびのうえに。――町としてのそのいとなみのうえに――
 といって当年の洋食屋、馬肉屋、牛肉屋、小料理屋、ミルクホール、そうしたものの怯げるさまなく立並んだ光景を再びそこにみるよしのなくなったわけではない。牛鳥御料理、鮮魚御料理、酒場、喫茶店、カフェエ(馬肉屋とミルクホールとはいまにして完全に「昨日」の存在になった)そうした店々の、競ってその両側に、それぞれのその看板をかかげていることは、むかしの光景にまさるとも劣らない位である。――が、いえばその家づくりに、店飾りに、嘗てのような「てらい」がなくなった。「焦慮」がなくなった。……しかもそれらのその水稼業みずしょうばいに立交って、自動車屋だの、ラジオ商だの、なにがし金融事務所だの、そうした堅気かたぎ(この場合の水稼業に対してである)の店々のそこにそういう適当な配置をもつにいたったことが否むことの出来ない堅実感を与えている。……それにはまた倍余り広くなった道幅がそうした光景を許す機縁になったこともたしかである……
 狂燥な「新しい町」にも年月はふりつもった。
 わたしは薬屋と小料理屋とを両角にもった「昭和通り」という狭い横町を入った。そこがむかしの、しずかな、おちついた、しめやかなあの往来のあとに違いないと思ったからである。が、そこには、こまごました商店の、平凡な規則ただしい羅列があるばかりだった。
「こんなはずでは?……」
 そう思いつつわたしはさきへすすんだ。――と、わたしは、いつかその往来を出外れていた。――いつかわたしは「米久」のまえの、人通りのいそがしい往来の中に立っていた。
「此奴は……」
 やや狼狽あわててわたしは引っ返して。――左へ曲れる道を発見して試しにそれをえらんだ――飽っ気なくわたしは昭和座の横へ出た。
 縦横十文字。――整然とした十字路……
「そうかなァ」
 ひそかにわたしは嘆息した。分り切った話の、「十二階」のあとは「昭和座」になったのである。――はッきりそういえばいいのである。――よけいな心配をする必要はないのである。
 ぼんやりわたしはきびすを返した。――空は青く日のいろは濃い……


 ……が、わたしは失望しなくってもよかった。入谷と山の宿とをつなぐ新開道路の、自転車、自動車、貨物自動車のはげしい行きかい。――その瀬戸の荒い波の中を乗越したとき、急にわたしは、いままでのあかるい日のいろの代りにしずかな月のひかりを感じた。しずかに可嘆なげかしい夕月の匂を感じた……
 とは何か?
 古着屋である、堅光地蔵のほとりの古着屋である、そこに四五けんかたまって並んだ「確実正札附」の古着屋である。
 その店さきに下った双子縞ふたごじま唐桟柄とうざんがら御召縮緬おめしちりめん。――黒八のいろのさえた半纏はんてん、むきみや、丹前。――帯の独鈷とくこ献上けんじょう、平ぐけ、印半纏しるしばんてん長繻絆ながじゅばん、――その長繻絆の燃え立つようないろにまじった刺っ子、刺っ子半纏……
 その刺っ子である、刺っ子半纏である。――その刺っ子半纏の紺のいろの褪せである、その背を抜いた朱のいろの古びである。そのまた朱のいろをつぶした紺のいろの――その紺の糸のいろの情の強さである……
 はッきりそこに「三の酉」のあくる日をわたしは感じた。すでに来すぎている「冬」を感じた。浅草という土地を支配する「吉原」のいのちを感じた。――そうしてしずかに可嘆しい夕月の匂を感じた。
「……通ふ子供の数々に或は火消鳶人足、おとつさんは刎橋はねばしの番屋に居るよと習はずして知る其道のかしこさ、梯子のりのまねびにアレ忍びがへしを折りましたと訴へのつべこべ、三百といふ代言の子もあるべし、お前のとゝさんは馬だねえと言はれて、名のりや辛き子心にも顔あからめるしをらしさ、出入りの娼家の秘蔵息子寮住居に華族さまを気取りて、ふさ附き帽子面もちゆたかに洋服かる/″\と花々しきを、坊ちやん坊ちやんとて此子の追従するもをかし、多くの中に龍華寺の信如しんによとて、千筋となづる黒髪も……」
 ……「たけくらべ」の第一章である。


 ……去年の暮である。「一葉とその大音寺前時代」を書く必要のため、馬場(孤蝶)先生におねがいして、龍泉寺町の、むかし一葉が一文菓子を売って住んだあとをわたしは連れてあるいていただいた。
 馬場先生の、真筆版『たけくらべ』の跋にお書きになったところによれば、そこは、下谷龍泉寺町の三百五十八番地である。――すなわち龍泉寺町の交番の角でわたしたちは自動車を下り、そのまま馬場先生のあとについて電車通りを越し、角に大きな瀬戸物屋をもったやや狭い往来へ入った。そうして、左側の、とある酒屋の角の番地早わかりの掲示板のまえに立って「三百五十八番地」をさがした。が、「三百五十七番地」はあったが「三百五十八番地」はなかった。可笑しいと思ったがとにかく「……五十七番地」まで行ってみることにした。――すなわちその掲示板の命ずるところによってその角を左折した。
 が、いくらさがしても「……五十八番地」はみつからなかった。訊いても分らなかった。「……五十七番地」はその店たった一けんの小さな自転車屋へ入って訊いてもそんな番地は聞いたこともないというにべもない返事だった。
「いいえ、こんな横町じゃなかった」
 そのとき先生はいわれた。「とにかく真っ直の通りだった」
 何分古い事なのに先生も大事をとられたのである。大事をとられてまず番地にたよられたのである。が、よく読めば、げんに、その真筆版『たけくらべ』の跋のあとのほうにでも「吉原遊廓の北面の西端は揚屋町の非常門である。その非常門のところから、西へ、即ち上野の方へ向けて大凡一町位来てからの右側の家であった。」と、先生、はッきりそう書いていられる。――そこでまたわたしたちはもとの往来へ出、改めてその往来の突きあたりの揚屋町裏の非常門のまえに立った。そうしてそこを起点として、西へ、先生の記憶をたどりつつ幾たびかその往来を行ったり来たりした。――そこにすでに三十何年という月日の距りがあるばかりでなく、そのあたり明治四十四年の吉原大火のおりにも焼け、大正十二年の大地震のときにも罹災をまぬかれなかった場所だけに、そうした番地の存在のことによるともうすでにむかしの話になったかは知らないが、それにしても樋口家の、位置としてこの往来の左っ側(揚屋町の非常門のほうへ向いて)ということだけはたしかにいえる、はッきりそう先生はいわれた。
 この頃よくある手の、例の土地の整理から来る番地の組替え、そうした都合でことによると、大きにいま行われているものはこのごろでの新しい番地かも知れないとも疑ってみたり、揚屋町の非常門というのは京町裏の非常門の間違いではないかという説を立ててもみたり、そうでもない、もしやと、もう一度その界隈に住む人と一しょに以前のその「……五十七番地」の自転車屋のまえに引っ返してもみたりしたあと、あぐねつくして、ものは試しと連れの一人が交番にぶつかってみた。――と、交番の返事はきわめて簡単だった。「三百五十八番地」なら表通りの肴屋の並びだと有無なくそういうのだった。が、その肴屋のもつ番地は「……五十八番地」でなく「三百六十八番地」だった。しかもそこなら、先刻から、その十番違いをうらめしくながめながらわたしたち幾たびとなく無駄にそのまえを行ったり来たりしていたのである。――全く私たちは失望した……
 と、急に、わたしたちのもう一人の連れのすがたがそのときみえなくなった。どこへ行ったかと思っていると、すぐそばの煎餅屋の店から出て来た。その人の機転がそのあたりでの最も古い居住者をその人に訊き出させたのである。それによると、そのあたりで、二けんある酒屋のどっちかが最も古いとされているということだった。そこで手分けして、その一人は最初にわたしたちが掲示板をみて立った角の酒屋をあたり、わたしともう一人の連れとはもう一けんのほうの伊勢屋という店をあたってみることにした。
 が、何としても雲をつかむようなたずねごとである。何といって訊いていいものかと思案した。結句、わたしは、以前そうした古い店があったと聞いたがと前置して、石橋の田村やの所在をまず訊いてみた。主婦とみえる五十恰好の人がそれならあの時計屋のあるところがそうだと反対の側の、やや揚屋町のほうに近い見当をすぐさし示してくれた。つぎに上清じょうせいの所在を訊いた。同じく反対の側の、その時計屋よりやや手まえの葛籠屋がそのあとだと教えてくれた。厚く礼をいって、いさんでわたしたちは馬場先生のそばへ引っ返した。
 石橋の田村や、上清、ともに「たけくらべ」の中に出て来るその界隈の店舗の名まえである。すなわちあの「春は桜の賑ひよりかけて」のくだりの「……赤蜻蛉田圃に乱るれば横堀に鶉なく頃も近づきぬ、朝夕の秋風身にしみ渡りて上清が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく」とあるその「上清」と「田村や」である。――くわしくいえば田村やは龍泉寺町百四十八番地、上清はおなじく百四十四番地……いまのその時計屋と葛籠屋との占めている位置からいってわたしははッきりそういうことが出来た。――ということは田村やと上清との所在のしかくあきらかになったことによって、先生の記憶の「真っ直の往来の左側」ということのいよいよたしかになったとともに、いえばその十番違いの「三百六十八」というのがほんとうの番地で、延いてその伊勢屋といううちは、肴屋の並び四五けんだけを同番地とすれば、まさしくそれは日記「塵の中」に「左隣りの酒屋なりければ……」とあるその「左隣りの酒屋」である。急にすべてがばたばたと解決した。すなわちその伊勢屋の右隣の「鈴音」という乾物屋にわたしたちは長い間の念願の「たけくらべ」の作者の住んだあとをみ出すことが出来たのである。
 ……堅光地蔵のまえを去ったあと、一年ぶりでわたしはその龍泉寺町三百六十八番地を訪問したのである。あとになってみれば、そんないまさらのような騒ぎをしなくっても、その真筆版『たけくらべ』よりずっともっとまえに出ている『一葉全集』後編の跋をみればちゃんとそう「三百六十八番地」になっているのである。そればかりでなく、もっとよく此方に下読が出来ていれば、おなじその「春は桜の賑ひよりかけて」のくだりの「……つゞいて秋の新仁和賀には十分間に車の飛ぶこと此通りのみにて七十五輛と数へしも」とある描写の、日記「塵の中」に「一昨日の夜我が門通る車の数をかぞへしに十分間に七十五輛成けり、これをもつておしはかれば一時間には五百輛も通るべし、吉原かくて知るべし」とあるのから出ているのに徴しても、そのうちの表通りに面していたことはすぐ分ったわけなのである。下司げすの智慧はあとからで、いまとなってみれば、キマリのわるいことだらけである。――そうしたことを思いながら、そのとき以来はじめて、久しぶりで、わたしは、とに角にその大きな瀬戸物屋をもったやや狭い往来をめがけてあるいたのである。――が、一年のうちに、わずか一年のうちにこれはまた何という変り方だろう! 去年まだ、わずかにその指さきだけしかみせていなかった「区画整理」が、一年のあいだに全くその手を拡げ切ったのである。――ということは、「やや狭い往来」の道幅は、旧に倍して決してもうそんな、去年のような「狭い」といった感じをかんじさせなくなった。そうして、そのわたしたちが三島神社のほうから入ってそのまえで自動車を止めた、あぐねつくして、ものは試しと改めてその番地を訊きにぶつかった角の交番は、そこもまた以前よりだだッ広く拡った電車通りのコバのそろった家並の間にそのかげを潜め、「田村や」のあとの時計やは、去年と同じ店つきをみせていても「上清」のあとの葛籠屋は、今年はもうそこにその存在を消していた。――可懐しくその伊勢屋という酒屋の店の前を通りすがりに覗いたとき、去年それらの店の所在をわたしに教えてくれた其うちのおかみさんの、去年と同じ前垂形まえだれなりで、並んだ樽のまえに立ってぼんやり外をながめているのをわたしはみ出した。――田村やを知り上清をおぼえているその人に、この変りつくした町の光景……そういっても、そこは、わたしが覚えてからでさえ、いかにも廓の裏らしい感じの、暗い、陰気な、悒鬱な、そのくせどこか時雨気のしみじみした町だった……は果してどう感じられるだろう?――もし生きていれば、一葉も、明治五年の生れだから今年五十七の、ちょうどこのおかみさんぐらいになっているわけである……
 わたしは揚屋町裏の非常門につきあたって左へ曲った。そうしてまた江戸町裏の非常門のはずれを右へ切れた。――そここそ、わたしの、はじめて「たけくらべ」を読んだとき以来、「仲之町芸者が冴えたる腕に、君が情の仮寝の床にと何ならぬ一ふし」のあわれも深く三味線の音とともに落ちかかるように聞えて来る土手下の細道ときめている、わたしの大好きな道である。信如が「昨日も今日も時雨の空」に田町の姉のところへ長胴着をとどけに行ったのも、その道なら、「仮初の格子門、のぞけば鞍馬の石燈籠に萩の袖垣しをらしう見えて、縁先に巻きたる簾のさまも」なつかしい大黒屋の寮の存在したのも、その往来のどこかの部分と、むかしからわたしは固くそう決めていたのである。――またわたしにそう決めさせるに足る風情を、そのお歯ぐろ溝にそった、狭い、寂しい往来はもっていた。――二階三階のそそり立った廓の中の大きな建物と、その下に並んだしずかな生垣つづきの家々と……ことにそれが晴れた冬の午前ででもあると、日の光のいとど澄んだ中に山茶花のかげがやさしく匂って、飴屋のちゃるめらの音がどこにともなくうすら哀しく漂っていた。そうして、そのあたりうそのように人通りがなかった――しかも、一足土手へでれば、眼もあけられない「浮世」のゆきかいが、はげしくそこに織り出されていたのである……
 が、それも震災ずっとまえまでの光景だった。お歯ぐろ溝がなくなり刎ねばしがなくなって、そこの風情のあらましは消えた。――刎ねばしの名残をとどめた小刻みの段々にいたっては、汐の退いたあとのどんな桟橋でも、これよりはわびしい感じを与えないであろう。
 ことに震災後……いいえ、震災後もしばしばわたしはその道を通った。通ってはひそかに返らぬむかしの光景を偲んだ。……だから何も、今日にかぎってのそうした惨めさではないのだが、それにしてもこの……何という、この荒廃の仕方だろう! うちつづいた煉瓦塀、そのかげに枯れた枝を力なく張った無花果、不細工にうちつけた窓の目かくし、捨車、そうしていまいった刎ねばしの名残をみせ間に合せの段々。――それが吉原の外廓の一部である。……生垣のつづいた嘗ての片っ方の側はほとんどまだ空地のままの、おりからの夕影に、遠くただ灰いろに拡った広さの末をつぎの往来に立並んだ小さな家々の燈火のいろがさむざむと霞んでいるだけだった……
 先刻よりずっと濃くなった月のかげを仰ぎつつ、土手のほうへとわたしはあるいた。
(昭和四年)
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続吉原附近




…………
…………
いつか吾妻へ筑波根の
かのもこのもをみやこどり
いざ言問わん恵方さえ
よろず吉原山谷堀

 とは清元の「梅の春」の文句である。

楢まつの葉のおちそめて
夕暮しろき待乳山
時雨しぐれに啼く鴫の
声もこおるや、干潟道
衣紋坂越えて、鐘の音
…………
…………

 とは長唄の「初しぐれ」の文句である。
 そんなものを持って来なくっても、山谷から橋場今戸、待乳山、そうした隅田川沿岸の諸景の嘗て「吉原」と切っても切れない関係にあったことはだれでも知っている。「吉原」を描くのにそのあたりから出立するのも一つの方法である。……と思ったわたしは――そこもやっぱり子供の時分からの古馴染の、つまりは心やすだてに、いままでちょろッかにみ来った町々をいま改めて、はッきりみ直そうとしたわたしは、十二月末のある午後、根岸から出る小さな乗合自動車を言問橋ことといばしの袂で下りると同時に、おや? と、おもわず、そこに眼をみ張ったものである。――むかしからその位置にある聖天町の交番、それを真ん中に、山谷のほうへ、今戸橋のほうへ、二股にわかれた道の、後のほうのものの信じられないほど、野広くなったことにわたしは驚いたのである。――ということは、以前の、「河岸」に沿った「表通り」と「裏通り」と、二筋、そこにならんでいた往来の、その境界をなしていた家つづき――はえないその一側のあとなく綺麗に取ッ払われた――とばかりじゃないが、そういえば手ッとり早く感じが出る……と一しょにいままで「裏通り」の角だった材木屋の「松幾」が、店の向きをかえて「表通り」の角になり、同時にその整然と板材を立てかけたり簡素にがッしりした腰障子を閉てたりした、きわめて古風な建物をかぎりに、あとは「河岸」まで、つつぬけに、ガランと、はればれとそこに一めんの空地が拡っているのである。――そうしてそこに、立並んださびしい冬木のかげに、隅田川の水がまのあたりしらじらと、鈍く光りつつながれているのである……
 いつかは出来る「隅田公園」の一部である。
「此奴ァいい」
 おや? と、おもわずそう眼をみ張ったつぎの瞬間、わたしはすぐ立直って自分にいった。なぜならそれは、いままでの「浅草」に決してみることの出来なかった明るい光景だったから。いままでの「古い浅草」に、決して求めることの出来なかった快活な風情だったから。――たとえば広重でもなく、北斎でもない清親の「味」――そうだ、そういえばいい……
 おもい出すのは去年〔昭和二年〕の夏のことである、東京日々の「大東京繁昌記」のためにわたしは「雷門以北」を書くことにした。その必要のため、二三人の連れと一しょに、仲見世、馬道、猿若町、そうした場所の近状をつぶさにみてあるいたあと、わたしは、待乳山の石段を上った。そうしてすぐ隅田川から向島へかけての馴染のふかい眺めに眼を放った。たちまち、わたしと、わたしの連れとはひとしく暗然とした。なぜならそこに遠く横たわったのは、ところッ剥げのした緑の土手である、そのうえを絶えず馳せちがう自動車である、林立する煙突である、三囲みめぐり華表とりいを圧して巍然ぎぜんそびえたコンクリートの建物である、――六月の曇った空のいろを浮べた隅田川のものういながれが、一層その眺めを荒廃したものにみせていた……
「それにしてもあのコンクリートの建物は何だろう?」
 わたしは半ば自分にいうようにいった。
「訊いて来ましょう」
 そういうと一しょに、本堂のまえのすこしの石段を、むかしの額堂のほうへ下りて行った連れの一人は、すぐまた返って来ていった。
「小梅小学校だそうです」
「小梅小学校?」
 わたしたちは改めてその建物をみ直した。――そうすることによって、地震後まだ一度も吾妻橋をわたらない自分を、はッきりわたしはおもい返した。
「乱暴なものをこしらえたもんですねえ」
 わたしはそういわざるをえなかった。
「全く……」
 わたしの連れはひとしくまたそういった。
 が、やがてそこを離れ、裏の石段を瓦町のほうへ下りようとしたとき、急にそのとき思いもよらない「眺め」がわたしたちのまえに展けた。――わたしたちは、すくなくもわたしは、下りかけた石段の中途に、おもわず凝立したものである。
 そこからは隅田川が一眼だった。……ということは、河岸に、すぐその下の河岸に、わたしの眼を遮るただ一けんの移動バラックさえなかった。雑草の茂るにまかせた広い空地が拡っていた。――ということは、また、そこから、小梅小学校が一眼だった……
 青い草、そのかげをながれる河の水、その水にのぞんだ灰白色の建物。――時間にしてその五分まえ「向島」の風情をことごとく否定していたその「建物」が、「向島」のいのちを無惨にうばっていたその建物が、いかにそこに力強く、美しく、寂しく生きていたことだろう。――実に、一沫の、近代的憂苦の影をさえその「眺め」はやどしていた……
 むしろ茫然とわたしはそうした「隅田川」の一部をみふけったのである。
 ……その驚きである、そのよろこびである。――その驚き、そのよろこびに再びわたしは出会したのである。


「……そこに、まず、わたしたちは、かつてのあの『額堂』のかげの失われたのを淋しくみ出すであろう。つぎにわたしたちは、本堂のうしろの、銀杏だの、椎だの、槙だののひよわい若木のむれにまじって、ありし日の大きな木の、劫火に焦げたままのあさましいその肌を日にさらし、雨にうたせているのを心細くみ出すであろう。そうしてつぎに……いや、それよりも、そうした貧しい木立の間から山谷堀のほうをみるのがいい。――むかしながらのお歯黒のように澱んで古い掘割の水のいろ。――が、それにつづいた慶養寺の墓地を越して、つつぬけにそのまま遠く、折からの曇った空の下に、千住の瓦斯タンクのはるばるうち霞んでみえるむなしさを、わたしたちは何とみたらいいだろう?――眼を遮るものといってはただ、その慶養寺の境内の不思議に焼け残った小さな鐘楼と、もえ立つようないろの銀杏の梢と、工事をいそいでいる山谷堀小学校の建築塔タワーと……強いていってそれだけである」

「雷門以北」の「待乳山」のくだりに、去年のわたしはこうしたことを書いた。

「わたしたちは天狗坂を下りて、今戸橋をわたるとしよう。馬鹿広い幅の、青銅いろの欄干をもったその橋のうえを、そういってもときどきしか人は通らない。白い服を着た巡査がただ退屈そうに立っているだけである。どうみても東海道は戸塚あたりの安気な田舎医者の住居位にしかみえない沢村宗十郎君の文化住宅(窓にすだれをかけたのがよけいそう思わせるのである)を横にみて、そのまま八幡さまのほうへ入っても、見覚えの、古い土蔵、忍び返しをもった黒い塀、鰻屋のかどの柳――そうしたものの匂わしい影はどこにもささない。――そこには、バラックの蕎麦屋のまえにも、氷屋のまえにも、産婆のうちのまえにも、葵だの、コスモスだの、孔雀草だのが、いまだにまだ震災直後のわびしさを、いたずらに美しく咲きみだれている……」

 おなじく「今戸橋」及び「今戸」のくだりについてわたしはこう書いた。
 ……が、わずか一年半ほどの間に、そうしたくずおれた光景はあとなく掻消された。――ということはすべて整理され、準備された。――その「隅田公園」の一部(ただしくいえばその敷地の一部)の新鮮さにうたれたあと、以前とはまるで勝手の違った環境のなかを待乳山へ上ったわたしは「待乳山聖天堂再建」についての木の香あたらしい寄進札の羅列をまず境内の両側にみ出した。(千円、二千円、三千円という大口のものは、べつに葭簀っ張の、花壇のような小屋がけのなかにことさらいちいち制札にしるされて並んでいた)そうして、その再建せらるべき本堂の縮尺五十分の一の絵図面の、青写真に焼かれて堂々とその間に介在するのをわたしはみ出した。――と同時に、バラックの仮本堂、そのうしろの「劫火に焦げたままのあさましいその肌を日にさらし雨にうたせている」ありし日の大きな木の、嘗てのその生々しさを失ったのをみ出したとともに、銀杏、椎、槙、それらの若木のむれの、決してもうそこに、嘗ての日のひよわさを感じさせていないのをまたわたしはみ出した。――むしろわたしに、伸立って行くものの力強さが感じられた。
「……恢復している――矢っ張、恢復している」
 わたしは自分にそういいつつ、山谷堀のほうをみ下した。が、「お歯黒のように澱んで古い掘割の水のいろ」は、隙なくいつか立並んだ崖の下の屋根々々に完全に遮られた。みえるのはただ、対岸、慶養寺の墓地の空高々と干された竹の皮のむれ。……とのみはいうまい、竣工した山谷堀小学校をみよ、巍然とそこに(実にそれは小梅小学校以上に)あたりを払ってそそり立っているではないか……
 わたしは間もなく天狗坂を下りた。――といっても、その裏みち、以前のように暗く建込んだ家々の間に落ちこむ、急な、けわしい勾配をもった細い石段ではなくなった。――そうしてもうそこを下りても、再びわたしは、古い佃煮やの「浜金」を、店のまえに網を干した何とかいったあの船宿をみるよしがなくなった。

「…………
 …………
『有難う』と鈴むらさんはいった。『浜金のまえにうまい蕎麦屋があってね。――雨がふろうが何うしようが、日に一度は、必ずそこへ蕎麦を喰いに来るんで、今戸橋をわたる』
『浜金のまえに、角に、以前、船宿が一けんありましたけれど、いまでもまだありますかしら?』
 と、せん枝はいった。
『いまでも其奴はあるよ』
『以前、よく、あの軒に網の干してあったのを覚えていますが……』
『いまだに天気のいい日は干してある。――つり舟と書いた行燈もまだ以前の様に出ている』
『浜金の内儀さんも年をとったでしょうね』
『つまらない心配をしているぜ』
『旦那、色気じゃァありませんよ』
『分っているよ』と、鈴むらさんは、わらった」

 大正四年四月の「中央公論」に書いた、わたしの作「今戸橋」の一節である。盲目の落語家せん枝とその贔屓の客の鈴むらさんとに、わたしはこうした応酬をさせた。――なぜこうした応酬をさせたかということは、いいかえてまた、どうしてわたしがせん枝を瓦町に住ませ、どうして鈴むらさんを今戸にすまわせたかということは、そのあたりのわたしにとって子供の時分からの好きな場所であったばかりでない、いまにしてはッきりいえば、永井〔荷風〕先生の名作「すみだ川」によって示唆されるところ多大だったからである……


「すみだ川」のはじめて「新小説」に出たのは、明治四十二年の十二月だから、わたしの二十一のときである。わたしはそれを、朝、慶應義塾へかよう電車のなかで読んだ。そうしてことごとくわたしは昂奮した。勿論「あめりか物語」を読んで以後、「趣味」で「深川の唄」を、「早稲田文学」で「監獄署の裏」を、「中央公論」で「祝盃」及び「牡丹の客」を読んで、世にもこうした美しい小説があるものかと、密かにそう生甲斐を感じていたわたしである。いつも持ちあぐむ雷門から薩摩っ原までの間を、時間にして四十五分……わるくすると、だまって一時間かかる長い間を、ただもうわたしは夢みごこちにすごした。――その「新小説」に附いていた口絵の、飜る納め手拭の下、御手洗みたらしの水に白い手をさしのべた、若い芸妓の恰好をさえいまなおわたしは覚えている……
 この作のわたしを魅了した所以は、一にこの作の主人公長吉の生活のうえにある。――という意味は、その弱い、寂しい長吉の性格のうちに、ゆくりなくわたし自身をみ出したからである。わたし自身の少年の日をみ出したからである。――が、もし、その長吉にして、そうした下町の育ちでなかったら、同時にお豊にして浅草の片隅に住むしがない常磐津ときわづの師匠でなかったら、松風庵蘿月にして向島の土手下に住む安気あんきな俳諧の宗匠でなかったら、そうまでしかし無条件に、わたしは傾倒しなかったかも知れない。この作にみちた、美しい、すぐれたいろいろの自然描写。――その描写の対象がまた小梅である、柳島である、浜町河岸である、今戸橋である、山谷堀である、公園裏である、観音さまの境内である、宮戸座の立見場である。――そうして季節は、秋から冬、冬から春。――子供の時分から東京住居をしつづけたものにとって、最も感じの強い、愛着の深い期間である……
 実際、わたしにとって「たけくらべ」を読んだとき以来の歓びだった。
 が、その美しいすぐれたいろいろの描写のうちでも、とりわけ深くわたしのこころに喰入ったのは「宮戸座の立見場」と「今戸橋」界隈との部分である。まえのものについてはしばらく措く。あとのものについては、それこそ、そこに描かれた光景こそ、わたしの十四五の時分から震災直後まで残っていたそのあたりの古い光景である。わたしにとって忘れることの出来ない古い光景である。

「そこ此処に二三軒今戸焼を売る店にわづかな特徴を見るばかり、何処の場末にもよくあるやうな低い人家つづきの横町である。人家の軒下や露地口には話しながら涼んでゐる人の浴衣が薄暗い軒燈の光に際立つて白くみえながら、あたりは一体にひつそりして何処かで犬の吠える声と赤児のなく声が聞える。天の川の澄渡つた空に繁つた木立を聳やかしてゐる今戸八幡の前まで来ると、蘿月は間もなく並んだ軒燈の間に常磐津文字豊と書いた妹の家の灯を認めた。家の前の往来には人が二三人も立止つて内なる稽古の浄瑠璃を聞いてゐた」

 いま、わたしは、長吉母子の住居に関するくだりを、その作の第一回から抜き出した。
 その「低い人家つづき」ということと、「涼んでゐる人の浴衣が薄暗い軒燈の光に際立つて白く」みえることと、「天の川の澄渡つた空に繁つた木立」のそびえていることと、わたしにいわせればそれだけで、それだけの少しの言葉で、その八幡さま附近の、しめやかな、つつましい景情は残りなくつくされている。――というものが、そのあたりの家々、どこもいい合せたように二階をもたなかった。そうしてどの家も、古い普請の、ガタガタな格子を閉めた軒さきが暗かった。たまにしか俥の音も響かず、いたって人通りに乏しい狭い往来ながら、そのせいか、み上げる空の感じにどこかカラリと放たれたものがあって、そこに八幡さまの境内の大きな銀杏……一際目立ったその梢が、飽くまで高くそそり立っていた。――冬、時雨が来て、その黄に染った落葉が用捨なく道のうえに散りしくと「それがわずかな特徴」の(という意味は、そうした格子づくりのうちばかりの、外に商人やといったら数えるほどしかない)今戸焼を売る店々が急にその存在をはッきりさせた。白い腰障子、灰いろのかまど、うず高くつまれた土細工のとりどりに、すぐその裏をながれる隅田川のしずかな水の光が、あかるくさむざむと匍上った。
 ただし今戸橋をわたってすぐの右側には、土蔵をもったり、土塀をめぐらしたりした「寮」といったふうの建物がしばらくそこに立並んでいた。その片側には、慶養寺以下、二三の寺の筋塀だの黒い門だのがつづいていた。――「そのまま八幡さまのほうへ入っても、み覚えの古い土蔵、忍び返しをもった黒い塀、鰻屋のかどの柳。――そうしたものの匂わしい影はどこにもささない」と「雷門以北」に書いた所以である。

「お豊は今戸橋まで歩いて来て時節は今正に爛漫たる春の四月であることを始めて知つた。手一つの女世帯に追はれてゐる身は空が青く晴れて日が窓に射込み、斜向の『宮戸川』といふ鰻屋の門口の柳が緑色の芽をふくのにやつと時候の変遷を知るばかり。いつも両側の汚れた瓦屋根に四方の眺望を遮られた地面の低い場末の横町から、今突然、橋の上に出て見た四月の隅田川は、一年を二三度と数へるほどしか外出することのない母親お豊の老眼をば信じられぬほどに驚かしたのである。晴れ渡つた空の下に、流れる水の輝き、堤の青草、その上につゞく桜の花、種々の旗が閃く大学の艇庫、その辺から起る人々の叫び声、鉄砲の響、渡船から上下りする花見の人の混雑。あたり一面の光景は疲れた母親の眼にはあまりに色彩が強烈すぎる程であつた。お豊は渡場の方へ下りかけたけれど、急に恐るゝ如く踵を返して、金龍山下の日蔭になつた瓦町を急いだ」

 このくだりでわたしの心を惹くのは「汚い瓦屋根」である、「四方の眺望を遮った両側の汚い瓦屋根」ということである。――先生はそれほどの深い用意をもって書かれたのでなかったかも知れない。が、前記カラリとした感じの空の下に、濃い、うららかな春の日のさしそめたとき、まず眼にうつるのは汚い瓦屋根……低い、汚い、両側のその瓦屋根だった。――青い空、立迷う陽炎かげろう、よかよか飴屋の太鼓の音、そうしたあかるい色と響きとの間に、せんべやで干す煎餅の種の白さが、汚いその瓦屋根に照り添って、そのあたり東京の……というよりは「江戸」のといった方がいい……外れの佗しさをよく物語った。「『宮戸川』といふ鰻屋の門口の柳の緑色に芽をふくのに……」とあるのは、おそらく「喜多川」というその附近にあった鰻屋のことをいわれたのだろう。八幡さまのまえ、今戸橋のほうへややよったところにある古い鰻屋だった。ごくの小さな栄えない店だったが、門に柳を植えたけしきが妙に人目を惹いて「今戸のあの鰻屋……」といえば「あの、ああ、柳のある……」と、そのあたりを知るほどのものだったら誰でもすぐそういった。――以前は知らず、わたしが知ってからは出前だけの、上りはしないと聞くうちながら、岡鬼太郎氏の戯曲「女魔術師」の二幕目「今戸河岸鰻屋清川の場」とあるのをみたときも、矢っ張わたしはこのうちを思い起した。
 一言にして古風な人情。――古風な人情をもった町だった。しかく、しずかな、哀しい、つつましい往来だった。……


 が、それも夢、いまはそこも「隅田公園」の敷地の一部の、河岸を縁取っていた家々はすべて取払われた。勿論、沢村宗十郎君の文化住宅も、救命艇庫も、喜多川も、あとなくそこにすがたを消して、みるかぎりの水にのぞんだひろっぱ、植込まれた雑木のかげに、一つ二つ、一文凧のあがっているのもむしろ長閑な感じだった。――と一しょに、慶養寺の横を斜に、山谷のほうへと広い道路が出来、八幡さまの並びの、嘗てその門々に葵だのコスモスだの孔雀草だのを咲かせていた小さな家つづきのあとに、ものものしい構えの、「寮」というべくはあまりに近代式な邸宅がそれぞれ、いま、工事をいそいでいる。――わずか一二けんだけ残った今戸焼屋が、なにがし製陶所と看板をあげ、古い菓子屋の「塩瀬」が、おもての硝子戸に「喫茶」としるし、そうして、建ち直った新しい家つづきの、軒並、小鳥を、飼って啼かしている……
 うかうかとわたしは、もとの小松の宮さまのまえまであるいた。そうして、そうだ、長昌寺はどうした? そう思ってあとへ引き返した。みつからなかった。まさかになくなるわけはないと思って、二三度同じところを行ったり来たりした。――が、肝心の、その大きな門のみ通しにみえた横町をさえ、わたしはさがすことが出来なかった。
 あきらめて、わたしは左へ切れた。そのまま橋場へすよりも、いい加減で山谷へ出たほうがいいと思ったからである。すなわちもとの喜多村緑郎のうちのまえの狭い横町……だったのが、いまはそれもまたみ違えるように広くなった横町、そこに立てられた工事用の制札のおもてによれば「第四一地区補助街第三九号路線」のほうへわたしは曲った。いかにも「出来たて」の感じに一めん荒い砂利を敷きつめた道を、あるきにくくしばらくあるいたとき、わたしは、ふとそこに寺の境内らしい空地の左手にあたって拡っているのをみつけた。――念のため入ってみた。――長昌寺だった……
 いえば、そこも、整然と片附けられた。有縁無縁の累々とした石塔も、鐘撞堂を失った釣鐘を埋めていた雑草も、トラックの音の響く水の上に睡蓮の花が咲いた古池も、震災のあとのいたましい限りをつくしたそれらの光景は、拭われたようにすべて除かれた。――と同時に、いくら探しても分らなかったわけである、正面の、本堂真っ直のむかしの道は、完全にふさがれて、べつに横に、その境内にかかわりのない新しい道路が、吉野町のほうへ一途にあかるく走っていた。
「なるほど……」
 わたしは感心して、そこをもとの「第三九号路線」へ出た。――間もなく「痔の神さま」をみ出して、以前の曲りくねった道のいかに真っ直になったかということを悟るとともに、辛うじてたしかめえた方角をたよりに(という意味は、その横町、そのつもりで曲って来はしたものの、あるいているうちに、だんだん勝手が違って来たのである)そのままずっと吉野町の停留場へとわたしは出た。
 電車通りの景色は以前の通りである。震災まえと同じである。……とはいっても、一つだけ違ったことがある。「八百善やおぜん」のなくなったことである。――あの、黒い品のいい高塀と、深いしずかな木立とをもった「八百善」のあとに、大きな二階づくりの、硝子戸を立て、土間を広くとった、荷造りにいそがしい何かの問屋の出来てしまったことである。
 が、それをいまわたしは惜まないだろう。むしろわたしは、さっさとそうみきりをつけて未練けなくその土地を捨て去った「八百善」の賢明さを嘆称するだろう。――いうまでもなく、むかしの山谷でなくなったからである。いまはもう「千両のうちで山谷はくらしてい」ないからである。
 が、「八百善」はなくなっても「重箱」はまだ残っている。日本堤警察署管内のたった一けんの料理屋として(という意味は、その管内の三四百にあまるもろもろの食物屋、あとのものはみんな飲食店としての鑑札しかもっていないのだそうである)むかしの山谷の名残をとどめている。ことに今度の、区画整理後出来上った普請には、黒い塀なら、浅い植込なら、いかにも江戸前の鰻屋といった工合の器用さ手綺麗さをもっているのがいい。……とはいうものの、むかしのこのうちの、明治四十四年の吉原大火以前のこのうちの、生野暮きやぼな、大まかな、広さにしても三四倍の嵩をもっていた時分がわたしには可懐しい……
 なぜなら子供の時分、いまをさる二十五六年以前、わたしは学校のかえりに屡※(二の字点、1-2-22)このうちへ遊びによったのである。いまの主人の平ちゃんこと大谷平次郎君と、同じ学年同じ学級だったからである。――うちで、今度、裏へ器械体操をこしらえたから来ないか? うん、行こう、学校のかえりにすぐ行こう。……そうしたさまに簡単に、おもえば暢気な話である。広小路へかえるのより二倍も三倍もの道程みちのりをもったそのうちへ、さそわれるまま、平気でわたしは遊びにまわったのである。――まえにもいったように学校は馬道にあった。
 勿論、まだ、吉野橋まででさえ電車の敷けなかった時分である。いいえ、その段か、そもそもその通りというものが、いまの半分にも足りない狭さだった。そうしてそのわりに、人通りでも車の行きかいでも、つねに頻繁な往来だった。だから、狭いばかりでなく、陰気にごみごみした感じだった。――だから山谷といえば、その時分、わたしたちにとって「千住」へつづくいそがしい街道の一部といった感じだった。――いいかえれば、それだけ田舎びていたのである……
 が、その狭い通りを一足そのうちの門のなかへ入ると、驚くほど広い庭の、木の繁った築山があり、水銹みさびの浮いた大きな池があり、その池をめぐって、ほうぼうに手丈夫な座敷が出来ていた。――しかもそればかりでなく、そのうえ裏に、何につかうともない四五十坪の空地があった。夏はそこに土俵がつかれた。――その場所へ持って行って、器械体操をこしらえたものである。
 ここに器械体操というのは「鉄棒」の謂である。その少しまえ、学校の運動場にはじめてそれがとりつけられ、ものめずらしいのに、わたしたちは夢中になった。それがやりたいばかりに、朝、課業のはじまる一時間もまえから、わたしたちは学校へつめかけた。大ぶりだの、中ぶりだの、海老上りだの。……一日も早くそうした離れわざまで行きたいと、毎日、砂だらけになってわたしたちは勉強した。
 その「鉄棒」が友だちのうちに出来たのである。これにくわたしたちの歓びはない。――うちへ帰るのをわすれて、わたしたちは、屡※(二の字点、1-2-22)平ちゃんと一しょに食ッついて行ったわけである。
 さそわれるまま、ある日もわたしは食ッついて行った。十二月のはじめの、日のつまるさかりの、しかも曇って寂しい日だったが、わたしたちはそんなことに頓着なく、兵隊に行ったことのある洗い方を師匠番に、シャツ一つになって、ようやくのこと卒業することの出来た肱かけを幾たびとなくやり返した。――疲れてもう腕がいうことをきかなくなってもなお、強情にわたしたちは止めなかった。――店のほうから、面白がって、料理場のものだの女中たちだのが代る代る見物に来るので、一層わたしたちは昂奮した。
 そのうち日が暮れて来た。いくら口惜しがっても見当がつかなくなった。見物もいつとはなし退散した。――わたしは、今度をまた約束して残念ながら着物を着た。
 外へ出て、吉野橋まではみんな一しょだったが、それをわたると一人わかれ二人わかれ、しまいにとうとうわたし一人になった。――わたしのうちの見当へ帰るものは誰もいなかったのである。――わたしは、猿若町を馬道の通りへ出て、そこの、まさるやという古い菓子屋で切山椒きりざんしょを買った。――その時分、わたしは、どんな菓子より切山椒が一番好きだった。
 後生大事にその袋をふところに入れて、あかりのいろのすでに濃くなったみちを、ひたすらわたしはいそいであるいた。披官稲荷の露地を抜けて、三社さまのわきまで来たとき、ばらばらと暗い空から、急に冷めたいものがふって来た。――雨かと思ったらみぞれだった。
 うちへつくと、すぐ、買って来たその切山椒をむさぼるようにわたしは食べた。夕食の支度の出来るのが待ち切れないほど腹が空いたのである。――立ちどころに、わたしは、ふくろをからにした。
 その晩、みぞれは雪にかわって、戸外にしずかな音を立てた。わたしはその雪の音をやさしく聞きながら、桜井鴎村の『漂流少年』をよみふけった。
 記憶という奴は不思議である。いまでもわたしは切山椒をみると、そのときのことをおもい出す。――山谷の狭い通りをおもい出し、ふって来たみぞれをおもい出し、『漂流少年』をおもい出す。――が、いまにして思えば、それもまたすべて夢である。――しずかにやさしくさしぐまれる夢である……


 吉野橋をわたって、わたしはそのまま右へ切れた。すなわち、さばさばと空地になった「道哲」のあとを横にみて、そのまま土手……といっても今はもう決して土手じゃァない、区画整理後、そういわれるだけの特別の高さをその道は失った。両側の町々と同じ低さに平均された。つまりは、三の輪へ続く一筋の平坦な広い往来になったのである。が「先刻よりずっと濃くなった月の影を仰ぎつつ、土手のほうへわたしはあるいた」と「吉原附近」の最後にもわたしは書いた。便宜のためしばらくわたしはそういいつづけるであろう。……へ入った。以前は、そこから、だらだらと田町へ下りられたからそれだけの風情もあった、ただそのままの、凡常な、ついとおりの往来の、とある曲り角になったのでは、合力稲荷の幟のかげも、霜げた、間のぬけた感じである。――十年まえ「続末枯」を書いたとき、わたしは、狂言廻しの真葛庵五秋という俳諧師に、わざわざこのあたりをあるかした。――と、ふとそれをわたしはおもい出した。

「……どうせここまで来たものだ、出たついでに、公園の近所まで伸して、宮戸座のそばに三味線屋をしている甥のところでもたずねようと、五秋は考えた。
 合力稲荷のところから、田町へ、土手を下りた。店を閉めた上総屋のまえを通り、如燕の看板の出ている岩勢亭いわせていの前をとおって、鬘屋のところから右へ切れたところで、五秋は、小梅の宗匠のところへ来る吉原の引手茶屋の主人の紅蓼に逢った。
『五秋さん、どちらへ』
『一寸、いま、今戸まで』帽子をとりながら五秋はいった。
『今戸は鈴むらさんですか』
『そうでございます。――ところが、生憎留守で』五秋はいった。『どちらのおかえりです』
『今日は古笠庵の芭蕉でしてね』
『ああ古笠庵の――』五秋はすっかり忘れていたことを思い出した。『そうでございましたね。――今日……すっかり忘れておりました、わたくし』」

 五秋、紅蓼、ともにわたしの空想の人物である。手近にみ出すことの出来た二三人の人間をあつめ、それをわたしの空想に浸して、それぞれ都合よくでッち上げた存在である。が、この二人、十年まえの、よし、店は閉めたとしてもまだそこに、うそにも「上総屋」という名まえの残っていたていの、そうした古い、すぎ去った情景のなかにだったからこそ、自由にわたしに動かすことが出来たのだろうか? こうした会話を、忌憚なく勝手にとり交させることが出来たのだろうか? ――そうしたうたがいがふとわたしの胸を掠めた。
「そうじゃァない。――そんなことはない」
 すぐにわたしは自分にいった。五秋も紅蓼もまだ生きている。震災が来ても、区画整理が出来ても「八百善」がなくなっても「道哲」が空地になっても、そうしてその「日本堤」が平坦になっても、この二人はなお生きている。――生きている以上、どこへでも出て来ていいわけである。――どこへだって、出て来ていけないというわけはないはずである。
 かれらをして、いま、合力稲荷のまえにひさびさに出会せしめよ。――おそらくかれらは十年まえと同じ調子でいうであろう、こうしたことを……

「しばらくお目にかかりませんでしたね。――どうなさいました、その後?」
「有難う存じます。――相変らず、貧乏暇なしで……」
「いつ、けど、お目にかかったきりでしょう? いつでしたろう、あれは、このまえお目にかかったのは?」
「たしか、あれは、一昨年の……」
「一昨年?……と、まだ、ここに土手のありました時分?……」
「そうでございます」
「大した、それは、古い……」
「いかがでいらっしゃいます、お景気は?」
「といっていただくのも面目ないくらいのもので。――いえ、実際、全く不思議な世の中になりました」
「ほんとでございますか、このごろ横町のおんなたちがみんな廓外へ稼ぎに出ると申すのは?」
「みんな、ええ、土手の飲食店へ入ります。――そうしない分には立ち行きません」
「左様でしょうかねえ」
「台屋だって、あなた、このごろじゃァ廓外の出前でも何でもします。――そのほうが利方りかたです」
「…………」
「それをそうした算用にしないと、いつまでむかしのような料簡でいると、平八のようなことが出来上ります」
「どうかいたしましたか、あの男?」
「御存じありませんか?」
「存じません」
「吉原におりませんよ、もう、あの男」
「で?」
「満洲へ行きました」
「満洲?」
「いろいろ曰くもあったんでしょうけれど。――とにかく土地にいられなくなったことだけはたしかです」
「可哀想に」
「満洲へ行くまえ、しばらく大阪あたりにいた塩梅です。――その時分、どこからともなくよこした句があります。――後厄あとやくのとうとう草鞋はいちまい……」
「後厄のとうとう草鞋はいちまい……」
幇間ほうかんもらくは出来なくなりました」

 ……震災が来ても、区画整理が出来上っても、「八百善」がなくなっても、「道哲」が空地になっても、「日本堤」が平坦になっても、かれらの精神生活は、焼けず、潰えない。かれらの感傷はつねにかれらをつつみ、かれらの人生はつねにかれらをめぐって身動みじろがない。――ということは、たとえば、水の底にしずんだ落葉……一たび水の底にしずんだ落葉はつねにしずかに冷やかだから……
 おもわず話が横へ外れた。――が、話は横へそれてもわたしの足はそれなかった。土管、瓶類、煉瓦、石炭、タイル、砂利、砂、セメント、そうした文字のいたるところ、壁だの看板だのに書きちらされた右手の家つづきをながめながら、わたしは真っ直にあるいた。そうしてそのあと、左手に、千束町への曲り角に瓦斯会社の煉瓦の建物をみ出したとき、いつかわたしは、小料理屋、安料理屋の、けばけばしくいらかを並べた「吉原」のまえに立っていた。……

「江戸演劇の作者が好んで吉原を舞台にとつた理由は明白である。当時の吉原は色彩と音楽の中心だつた。花魁おいらんしかけにも客の小袖にも。新流行の奔放な色と模様とがあつた。店清掻みせすががきの賑かさ、河東、薗八のしめやかさ。これを今日の吉原に見る事は出来ぬ。今日の吉原は拙悪なチヨオク画の花魁の肖像と、印絆纏に深ゴムを穿いた角刈と、ヴイオリンで弾く『カチウシヤの唄』の流しとに堕している。当時の吉原は実際社会の中心であつた。百万石の大名も江戸で名うての侠客も、武家拵への大賊も、みんなここへ集まるのであつた。それ故、劇中の人物に偶然な邂逅をさせるのに、こゝ程便利な場所はなかつたのである。併し今日の吉原をさういふ舞台に選むのは無理である。大門側のビイアホオルのイルミネエシヨンの下で、計らず出会ふのは奥州訛りの私立角帽と農商務省へ願ひの筋があつて上京中のその伯父さんとである。裸の白壁に囲まれた、ステエシヨンの待合じみた西洋作りの応接間で、珈琲入角砂糖の溶かした奴を飲まされて、新モスの胴抜に後朝の背中をぶたれるのは、鳥打帽のがふひやくか、場末廻りの浪花節語りである。今日の吉原は到底 Romantik の舞台ではない」

 いまは亡き小山内〔薫〕先生、嘗て『世話狂言の研究』の「三人吉三」のくだりでこうしたことをいわれた。いまはその「花魁の肖像」も覗き棚のなかに収められて一層商品化し、「カチューシャの唄」は「ソング・オブ・アラビー」にまで幾変遷して、いよいよ低俗になった。――そうした内容をもつ「吉原」の、なにがし酒場と、なにがし牛鳥料理店とによってまずその入口を支持されるということは、あまりにこれ、ことわりせめてあわれではないか。――しかもそのなにがし酒場のまえ、うつし植えられた「見返り柳」のそばに立てられた磨硝子のたそや行燈、老鼠堂機一筆の立札。――その立札のうらにしるされた一句をみよ。

きぬ/\のうしろ髪ひく柳かな

 この気の毒な老宗匠は器用にただ十七文字をつらねる職業的訓練以外になんにも持っていない。
 ……風の落ちた、冬の日の暮ほどわびしさのつのるものはない。――わたしは、そのままなお、大門を横にみつつあてもなく三の輪のほうへあるきつづけた。


 …………
 …………

まあおとうさんお久しぶり、そつちは駄目よ、ここへお坐んなさい……
おきんさん、時計下のお会計よ……
そこでね、をぢさん、僕の小隊がその鉄橋を……
おいこら酒はまだか、酒、酒……
米久へ来てそんなに威張つても駄目よ……
まだ、づぶ、わかいの……
ほらあすこへ来てゐるのが何とかいふ社会主義の女、随分おとなしいのよ……
ところで棟梁、あつしの方の野郎のことも……
それやおれも知つてる、おれも知つてるがまあ待て……
かんばんは何時……
十一時半よ、まあごゆつくりなさい、米久はいそぐところぢやありません……
きび/\と暑いね、汗びつしより……
あなた何、お愛想、お一人前の玉にビールの、一円三十五銭……
おつと大違い、一本こんな処にかくれてゐましたね、一円と八十銭……
まあすみません……はあい、およびはどちら……

八月の夜は今米久にもう/\と煮え立つ。
ぎつしり並べた鍋台の前を
この世でいちばん居心地のいい自分の巣にして
正直まつたうの食慾とおしやべりとに今歓楽をつくす群衆
まるで魂の銭湯のやうに
自分の心を平気でまる裸にする群衆、
かくしてゐたへんな隅々の暗さまですつかりさらけ出して
のみ、むさぼり、わめき、笑ひ、そしてたまには怒る群衆
人の世の内壁の無限の陰影に花咲かせて
せめて今夜は機嫌よく一ぱいきこしめす群衆、
まつ黒になつてはたらかねばならぬ明日を忘れて
年寄やわかい女房に気前を見せてどんぶりの財布をはたく群衆、
アマゾンに叱られて小さくなるしかもくりからもん/\の群衆、
出来たての洋服を気にして四角にロオスをつゝく群衆、
自分のかせいだ金のうまさをぢつと噛みしめる群衆、
群衆、群衆、群衆。
八月の夜は今米久にもう/\と煮え立つ。

 読者は、藪から棒に、わたしが何をいい出したかと不思議におもうかも知れない。が、ここへもって来たのは、いまの時代でわたしの最も敬愛する詩人高村光太郎氏の「米久の晩餐」という詩の一部である。――どんなに、わたしは、この詩の載った古い「明星」を今日までさがしたことだろう。――今日この文章を書き終ろうとしたとき、ゆくりなくわたしはそれを手に入れることが出来たのである。
 わたしは、この詩を、「吉原附近」の「千束町」のくだり、資本主義的色彩のそれほど濃厚な「草津」に対しての、いうところの大衆的の牛肉屋「米久」を説く上で是非そこに引用したいと思ったのである。――が、それには間に合わなかった。――それには間に合わなかったが、けど、わたしはいま、むしろこの詩をもって、この文章を終ることの機縁をえたことを歓びたい。――それほど、わたしは、この詩の中に、わたしのいう「新しい浅草」の、強い、放恣な、健康な、新鮮な、生き生きした息吹をはっきり聴くことが出来るからである。――そうしてその、強い、放恣な、健康な、新鮮な、生き生きした息吹こそ、これからの「新しい浅草」を支配するであろうすべてだからである。

むしろ此の世の機動力に斯る盲目の一要素を与へたものゝ深い心を感じ、
又随処に目にふれる純美な人情の一小景に涙ぐみ、

 と、この詩の作者はそのあとにまたこう歌っている。
「新しい浅草」と「古い浅草」との交錯。――そういったあとで再びわたしはいうであろう……つぶやくように、寂しく、わたしはこういうであろう。
 ……忘れられた吉原よ!
(昭和四年)
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隅田川両岸



吾妻橋


 浅草に住むわれわれ位の年配のものは、吾妻橋あづまばしの、いまのような灰白色の、あかるい、真ったいらな感じのものになったことをみんな嘆いている。なぜなら、かれらの子供の時分からみつけて来た吾妻橋は、デコデコの虹梁をもった、真っ黒な、岩畳がんじょうをきわめたものだったから。……みるからに鬱然たる存在だったから。……
 ということは、雷門に立って遠く東をみるとき、つねにその真っ黒な、岩畳をきわめたものが、その鬱然たる存在が、郵便局のまえの人波のかなたに、せせッこましくその行くてを遮っていたのである。……どんなにそれが、そのせせッこましさが、かれらに、浅草めぬきの部分の「名所的風景」を感じさせたことだろう。……
 勿論、この場合、「かれら」という言葉の代りに「わたくし」という言葉をつかってもすこしもさし支えないのである。

一銭蒸汽


 勿論、いまは、「一銭蒸汽」ではない。そして、経営者の変ったことによって、船の恰好も、いまではむかしと全く違ったものになっている。……が、「一銭蒸汽」とそう呼んだほうが、船の恰好の違ったいまなお消えないその、存在についてのゲテな感じをはッきりさせていいのである。
 吾妻橋の袂から出て、かの女は、言問により、白髯橋により、水神により、かねふちにより、汐入によったあと、千住大橋に到着し、再びそこから同じ航路を吾妻橋へと引返すのである。が、それにしても、東京のあらゆる交通機関のなかで、かの女ほど、わびしい、さんすいな感じをもつものはないだろう。……その乗客層からいっても、その発着所の所在感からいっても……
 以前はしかし、白髯橋という発着所はなかった。その代りに小松嶋という発着所があった。そしてその小松嶋のつぎが鐘ヶ淵で、鐘ヶ淵のつぎがすぐ千住大橋だった。……その時分、冬になると、その小松嶋の発着所のまえにも、鐘ヶ淵の発着所のまえにも、枯蘆かれあしのむれが日に光りつつ、しずかに、おりおりの懶い波をかぶっていたのである。……その感傷に触れたいばかり、二十代のわたくしは、用もないのにしばしばかの女を利用したのである。……

隅田公園


 隅田公園の土曜日の夕方ほど男と女の、……くわしくいえば、若い会社員と、それに準じた年齢の女事務員との一対ずつのもつれ合いつつあるいているところはないだろう。……と、しみじみそう感じられるほど、かれらは、おたがい同士、無知であり、ほしいままである。……雨の降らない七月の末の、風のない、曇った空の下での、ぱさぱさに乾いた芝生、真っ白に埃をかぶった植込み、それらのまた、何んとかれらに無関心なことよ。……しかも、そこには、河に沿った柵のそとのスロープに、浴衣がけの一人の若い男あって、しきりにそのとき尺八をふいているのである。……上げて来ている潮の、かれのなげ出したその足の下に、しきりに塵芥を運びつづけていることでも、かれは、かれの耳にはさんだバットの吸いかけとともにことごとくすべてを忘れ切っているのである……それほどかれは夢中でふいているのである。……

隅田公園


 隅田公園の売店で何を売っているか御存じですか?

西瓜。
ラムネ。
うで玉子。
塩せんべい。
キャラメル。

 以上がそのおもなるものであります。……蜜パンと焼大福のないことを残念におもいます。……
 所詮は浅草というところ、西瓜であり、ラムネであり、うで玉子であり、塩せんべいであり、キャラメルであります。……

今戸橋


 聖天山しょうでんやまの工事の出来上らない限り、今戸橋いまどばしについて何かいうのは無駄である。……が、それにしても、山谷堀のお歯黒といってもない水のいろについてだけは哀しみたい。
今戸橋塵芥取扱所。
 そうした掲示をもった建物が……トボンとした感じの建物が、真っ黒な、腐ったその水にのぞんで立っているのである。そして、そのまえに、一号から十三号までの厨芥車が、出勤命令を待つ犬の如く、忠実に、しかも油断なくならんでいるのである。
 とはいうものの、間もなく、そこから十足とはなれない日本堤署今戸橋巡査派出所の裏に……すずかけの葉をその前面に茂らせたコンクリートの交番の裏に、手ずさみの朝顔の蔓のつつましく伸びているのをわたくしはみいだした。……そして、その蔓のさきに、みえない夕月のほのかにやさしいかげをわたくしは感じた。

橋場


 横に大きく、
play
 と書いて、その下に、縦に、
ボート
 と、やや小さく書いた細長い行燈が暗い中に高くあがっている。……橋場の、隅田公園が尽きて間もなくのところの、河につづいたとある露地の角にである。

 ……涼んで、遊んで、爽快な良い気もちになって、ウンと業務能率を上げましょう。

 ……船を利用し、海洋を制するものは、これがやがて世界を制するものでしょう。

 ……男性も、女性も、水に親しみ船に興味をもつのは海国民の本能でしょう。

 その行燈には、また、そうした文句が一ぱいに書いてあった。そして、その下に、ボート三十銭、スカール荷足五十銭、と小さく値段が書いてあった。
 立留って、読み終ったあと、わたくしは、こんなことを書いて、一たいこれをだれが読むだろうと思った。……それほど、そのとき、人通りというものをもたないそのあたりだったから。
 が、それは、そのときに限ったことではなく、人通りというものをおよそもたないのが橋場というその町本来のすがただった。すくなくも、十年まえ、十五年まえのその町はそうだった。……そして、わたくしに、そういわせるだけの、以前をそうおもい起させるだけのたのもしさを、その暗い往来の上にならんだ家々が……格子づくりの、小さい、しずかな家々のどこもがもっていた。……と同時に、その家々の、あるいはすだれを透き、あるいは葭戸よしどに照り映えている燈火のいろは、夫婦かけ向いの、そうでなければ親子水入らずの、そうした人交ぜしない、優しい、しみじみした生活のこの世にあることを、何年ぶりかに、わたくしの胸にささやいてくれた。

「関西はまた水の騒ぎだ」
「またですか?」
「山が崩れて家がつぶれたりしている」
「まァ……」
「藤吉つぁんのいるところは大阪のどこだっけ?」
「ええと、あれは。……何んとかいう……」
「大阪の市内じゃァなかったろう?」
「市内じゃァありません、田舎です。……何んでももう京都に近いほうだということを、だれかに聞いたと思いますけど……」
「と、あぶないぞ。……今度騒いでいるのは、どッちかといえば京都に近いほうだ」
「まァ、そうですか?……けど分りませんわ、あの人のことだから。……いないかも知れませんわ、もう、大阪に……」
「そういえば、今年は、いつも欠かさずよこす人が年始状をよこさなかった」
「ですもの。……大阪にいればよこしますよ。……去年だって、一昨年だって、ちゃんとそこからよこしているでしょう?」
「うん」
「じゃァ、そうですわ、きッと。……いないんですわ、もう……」
「大将、また、しくじったかな?」
「そうかも知れませんね」
「人間、そうなると、目さきのみえすぎるのもよしあしだ」
「みえすぎるから、つまり、遣りすぎることにも……」
「そうなんだ。……始終はそういうことになるんだ。……だからこまる。……」

 ……たまたまみてすぎた一けんの、夕飯のいますんだあと、主人が妻楊子を噛みつつ夕刊をよみ、細君が、袂の端をくわえてチャブ台の上のよごれものを片附けているけしきが、わたくしに以上のような会話を空想させた。……この会話に七月の夜の蚊遣線香の濃い匂のまつわるべきはいうをまたない。

白髯の渡し


 白髯しらひげわたし。……隅田川に残っているたった一つの渡しである……といっても、それとて、むかしのまんま残ってはいないのである。……むかしのことにして、いまは、七八間川下にその位置を占めているのである。そこには、「白髯の渡し」としるしたものの代りに「土木局浅草出張所材料置場」としるした棒杭が立っている。……はッきりいえば、だから、そこは決して「白髯の渡し」の上り場ではなく、「土木局浅草出張所材料置場」の一部に、たまたま「白髯の渡し」がその桟橋をもっているのである。
 が、そんなことはどうでもいい、それよりも、ある夕方、十年まえ紐育ニューヨークで乗ったきりついぞ渡しというものに乗ったことがないという一人の紳士とともに、わたくしは、その桟橋のすぐ上の岸に馬鹿な顔をして立ったのである。……矢っ張、七月の末の、風のない、曇った日だった。
 五分、十分、十五分、用捨なく時間は経って行った。が、みえるはずの舟のかげはいくら待ってもみえて来なかった。……はげしく桟橋をあらいつつ上げている汐のいろと一しょに、あたり、みるみるうちに暗くなったということは、それまでは、でも、おぼつかなく読めていた制札の、乗客金二銭、自転車金二銭、乳母車金二銭、人力車金二銭、そうした個条書の文字がわずかな間に、ばッたりと全く見えなくなってしまったのである。
「来るんですか、たしかに?……」
 紳士は心細そうにいった。
「来ます」
 自信をもってわたくしはいった。
 どうしてわたくしに、自信をもってそういえたかということは、わたくしたちの外に、わたくしたちよりもまえからそこに立っている二人の女性があったからである。二人とも浴衣形ゆかたなりの、一人は髪を引ッつめにして、大きな新聞紙包みを抱え、一人は銀杏返しの、小さな袱紗づつみを抱えた片っ方の手に、音無しく涼傘ひがさをもちそえていた。……ともに、さすがに、足袋をはいていないことに徴しても、うたがいなく土地っ子の、始終この渡しに乗りつけている人たちとわたくしは鑑定した。……すなわち、わたくしは、その二人をたよることによって、その自信を得たのである。……
 そのあと、また十分ほどすぎた。……依然、手がかりをさえわたくしたちはもたなかった。
「行きましょう。……あきらめましょう、もう……」
 紳士はまえよりも一層心細そうにいった。
「大丈夫。……」
 どこまでも、わたくしは、強情を張った。
 と、そのとき、突然その引ッつめの一人はわれわれのむれをみ捨てた。通りのほうへ向いてさッさとあるきはじめた。そして、あとに、女一人、男二人、「土木局浅草出張所材料置場」といえば聞えがいい、要は製氷会社の裏の、ガランとした、真っ暗な、震災の名残をいまなおとどめている焼野原のような中に、謎のように残されたのである。
 二分、三分、五分。……
「行きましょう。……通りへ行って、早く、自動車に乗りましょう」
 逆に、紳士、今度は勇気を出してこういった。
「口惜しいな、けど……」
 半ば自分にいうようにわたくしはいった。……わたくしとて、いつまでも、そうしていることの下らなさは知っている。……が、それにしても、その銀杏返しの人の、しずかに、そういっても安心し切ったさまに、河の上をみまもったままうごかないことである。……それをみると、わたくしに、いまさらあとに引けないものが感じられるのである。
「五分。……あと五分」
 わたくしはわたくしの連れの紳士にいった。
 その五分。……あとのその五分に於てしかし、暗い水の上にポツリと一つ、赤い火がうかんでいたのである。そして、だんだんその赤い火のわれわれのほうに近づいて来たとき、われわれは、われわれの待っていた舟の、昔なつかしい櫓の音をはッきり感じたのである。……同時に、間もなくその舟の着いたとき、そしてその桟橋を上って来たその舟からの客の、お内儀さん風の女の人一人だったのをみたとき、いかにその舟の、向河岸からの来方に手間がとれたかということがわたくしにはッきり分ったのである。……渡しというもの、そんなにも乗りてがなくなったのだろうか?……
 このあと、四五日して、わたくしは、鏑木清方さんに逢う機会をもった。……わたくしは詳細にその話をして、鏑木さんに、その銀杏返しの女性をわたくしがもし日本画家ならば描くがという意味のことをいった。
「しかし、描けば、夕方にはしません、日ざかりにします。……そして『日ざかり』という題をつけます」
 あきらかに、そのとき、焼野原の、土管だの、煉瓦屑だの、ごろたいしだのの散乱したけしきをわたくしは意識していたのである。……とはいってもしかし、そこに描きそえるであろう棒杭に、「土木局浅草出張所材料置場」とは、わたくしといえども書かないだろう。……うそにも「白髯の渡し」と書くだろう。……
 鏑木さんはわらっていた。

百花園


 夏、日ざかりに、しばしばわたくしは百花園ひゃっかえんを訪問する。そして、蓮の葉の一ぱいに、岸よりも高くひしめきつつもり上ったあの池のまえに立つ。
 このときほど、わたくしに、「もののあはれ」の感じられることはない。

三囲神社


 禁制、として、

蝉とんぼヲ捕ルコト
魚鳥ヲ捕ルコト
囲内かこいうちヘ入リ垣等ニ乗ルコト
囲内デ悪戯ヲスルコト

 と、一つ書にしたあと、

右ノ条ヲ犯スト警察ヘツレテ行カレ処罰サレマス

 こうした禁札が三囲神社みめぐりじんじゃの境内の池の中に立っている。……警察ヘツレテ行カレ処罰サレマス。……だれによってしかし、警察へ連れて行かれるのだろう?……
 その池の中に、一ところ、おもい出したように蘆の茂っていることが、わたくしに、田圃にとり巻かれていたむかしのけしきをおもい出させた。
 ふりみふらずみの雨の中。……そういっても人けのないそのあたり、遠く、冷やかに蝉がないていた……

サッポロビール


 まえにすずかけの乾いた並木をもったサッポロビールの巨大な灰色の建物。……その哀しくも退屈な近代的風景によって世界的存在の「隅田公園」はその展開をもつのである。……といってもほんとうにしない人があれば、吾妻橋をわたり、ただちに左折してそこに立てられた標石をまず見ることである。
隅田公園入口
 はっきりとその標石に書いてある。…………
(昭和十年)
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浅草田原町




「田原町一丁目、二丁目、三丁目。――三丁目の大通りに出ると電車が通っています。広小路の広い往来で、雷門あたりの、宿屋、牛屋、天麩羅屋、小料理屋がわずか一丁ばかりの間に、呉服屋、鰹節屋、鼈甲べっこう屋、小間物屋といったような土蔵くらづくりの、暖簾のれんをかけた、古い店舗みせになってならびます。その反対の側は、砂糖屋、漬物屋、糸屋、薬種屋といったような同じく古い店舗がいろいろ並んでいます。少し行くと棒屋があって、大きな八百屋があって、そのさきへ行くといつも表の格子を閉めた菓子屋があります。
 落語によく出る『やっこ』という鰻屋と、築地本願寺御用という札をかけた、吉見屋という仕出屋があります。町は違いますが、その並びに有名な本屋の浅倉屋があります。
 本願寺の大きな屋根が、大通りの突きあたりに遠くそそり立っています。雷門のあたりからみると、電車の柱のかげに、ちょうど中空に霞んでなつかしく見えますが、そばに行くと、その破風の白い色が、青く晴れた空にいい知れぬさびしさを添えています。
 十月、十一月。――冬になると、みちの両側に植えられた柳が日一日と枯れて行きます。で、だんだん空が、くらく、時雨れるような気合をもって来ます。
 横町がたくさんにあります。
 大通から、一足、横町に入ると、研屋とぎやだの、駄菓子屋だの、髷入屋だの、道具屋だの、そうでなければ、床屋だの、米屋だの、俥屋だの、西洋洗濯屋だの。――そういったような店ばかり並んでいます。
 二三軒、近所にかたまって大工の棟梁のうちがあります。
 ――その間に小さな質屋があります。紺の気の抜けた、ねぼけた色の半暖簾が、格子のまえにかかっています。
 どこの土蔵の壁も汚れています。しかしどの横町にもその汚れた壁が何よりもさきに目につきます。――曇った日はその壁のいろが暗くみえます。晴れた日にはその壁のいろがあかるくみえます。
 雪が一度ふると、土蔵の裾によせて掻いて置く雪が、いつまでも解けずに固まって残ります。
 空のよく晴れた、日の色の濃い日は、かえって横町はさびしい光景けしきをみせます。
 わたしは冬のことばかり書きます。
 一軒の質屋は立ち行かないので、片手間に小切屋こぎれやをはじめました。格子を半分はずしてそこに見世をこしらえ、軒さきに綺麗な刺繍をした半襟だの、お召や銘仙の前かけの材料だのを、いろいろ下げるようになりました。
 角には仕立屋があります。――窓にすだれをかけ、なかに五六人の弟子がいつもせっせと手をうごかしています。
 いまはなくなりましたが、以前その二三軒さきに小川学校という代用小学校がありました。――その通りには、両側に、ずっと古着屋ばかり並んでいます。汚い暖簾と、軒さきにつるした古着とで真っ暗な見世の中から、なま若い番頭や小僧が往来の人を絶えず呼びこんでいます。
 古着屋の番頭や小僧といえば、人を喰ったもの、口のわるいものと近所ではきめています。――『古着屋』というと堅いうちでは毛虫のように嫌います。
 横町には、また、細々こまごました路地がたくさんあります。見世物の木戸番、活動写真の技師、仕事師、夜見世の道具屋、袋物の職人、安桂庵けいあん。――そういったものが、いろいろとその路地の中に暮しています。
 横町に古くいた常磐津ときわづのお師匠しょさんで、貰ったむすめの悪かったばかりに、住み馴れたうちを人手にわたし、いまでは見るかげもないさまになって、どこかの路地に引っ込みました。――が、ときどきなお、近所の洗湯に、よぼよぼ行くすがたがみえます。
 ある路地のなかには真間ままという代用学校が残っています。
 公園の浪花踊という見世もの、阪東なにがしという女役者の座頭ざがしらのうちがありましたが、じき越して行ってしまいました。始終表の戸を閉めて簾をかけていました。あれでは随分暗いだろうという近所の評判でしたが、なかで、ときどき、立廻りの稽古なんかをしていたそうです。いまでは、そのあとに、女髪結おんなかみゆいが越して来ましたが、夏になると、二階に蚊帳を釣って、燈火あかりをつけて、毎晩のように花を引いています。冬ばもやっているのかも知れませんが、戸を閉めてしまうから分りません。一度手の入ったことがありましたが、相変らずやってるようです。――活動写真の弁士といったような男や、髪だけ芸者のように結った公園あたりの女が、始終出入でいりをします。
 風の加減で、どうかすると、公園の楽隊の音がときどき、通りを一つ越して、その辺りで途切れ途切れに聞えて来ます。
 銀行もなければ、会社もなければ、役所もなければ、病院もありません。お寺もその居廻りにはありません。去年、市立の大きな学校が二丁目の中ほどに出来たので、建具屋と肴屋の間に学校用品を売る見世が二三軒出来ました。学校の表の煉瓦塀と植込んだ桐の木が見えるようになってから、横町の気合は幾分違ってきましたが、でも、まだ、質屋の土蔵の壁がやっぱり目につきます。
 前に書くのを忘れましたが、三丁目の大通りの角につるやという大きな際物屋きわものやがあります。春、凧と羽子板がすむと、すぐお雛さまにかかり、それがすむと五月人形にかかります。夏の盆提燈や廻り燈籠がすむと、すぐ御会式おえしきの造花にかかります。と、また、霜月になって、凧と羽子板の仕度にかかります。そつのない商売です。――こうしてみると『一年』という月日が目に見えて早く立ちます。
 わたしは、溯って、古いことをいうつもりはありません。が、いまいった小川だの真間だのという代用学校、五六年まえまでは、かなりに繁昌していました。外にも、近所に、青雲というのと、野間というのとがありましたが、やっぱりそれぞれに繁昌していました。――しかし小川というと、なかでも一番古く、一番面倒がいいというので、どこよりも流行りました。
 とにかくその時分、公立の、正目しょうめのただしい学校といえば馬道まで行かなければならなかったのです。――しかし馬道というと、雷門のさきで、道程にしてざっと十丁ほどあります。そのあたりからでは一寸億劫です。――それに、その界隈の親たちにすると、両方のけじめが全く分らず、近所にあるものを、何も、遠くまで通わせるものはないという具合で、大抵どこのうちでも、子供をこの小川に通わせました。――だからその居廻りのうちの、いまの若い主人は、そろって皆小川学校の出身です。
 なかには、途中でそこをよして、高等科ぐらいから馬道の学校にうつるような向きもあとになっては出来ましたが、しかしそうすると、下の級に入れられて、一年損をしなければなりませんでした。それに、代用の気の置けないところが、通う当人より親たちの気に入っていたもので、そのわりに転校は流行りませんでした。
 そのかんで、わたしは、はじめから小川の厄介にならず馬道の学校に入りましたが、何かあるたびにありようは、代用のみるから自由らしいところを羨やましいと思いました。そのくせ市立と私立と、国音相通ずるところが気に入らなかったのですが、うちへ帰ると、友だちは、みんな、小川へ行っているものばかりです。――ときによると肩身のせまいことがありました。
 その小川学校、まえにもいったように、古着屋ばかり並んだ通りの真中にあって、筋向うには大きな魚屋がありました。半分立腐れになった二階家をそのまま学校にしたものです。通りに向って窓には目かくしがしてありました。二階が高等科で階下したが尋常科になっているのだと聞いて、どんな具合になっているのかと思いましたが、あるとき、幻燈会のあると誘われて行ったとき、はじめて中に入ってみて驚きました。黒板が背中合せにかかっていて、一面に汚い机が並んでいるきりでした。二階にあがると、階下と同じ机が、ただ四側に並んでいるだけでした。――これが順に、一年、二年、三年、四年になっているのだと、一しょにつれて行ってくれた友だちが教えてくれました。
 が、わたしには、どうしてこれで、それぞれの稽古が出来るだろうと、納得が出来ませんでした。
 正午近くに、いつも、向うの肴屋の河岸がかえって来て、立てた葭簾よしずのかげに大ぜいお客のあつまるとき、目かくしをした学校の二階からゆたかなオルガンの音が聞えて来ました。
 三時に学校が退けると、今度は、御新造ごしんぞがおくで、別に弟子をとって裁縫を教えました。校長さんはとくべつに稽古にくる生徒たちに、漢文だの算盤だのを教えました。――これを予科と呼んでいました。
 夜は、また、夜で、近所の古着屋の小僧だの大工の弟子だのが夜学に来ました。
 校長さんという人は、その時分、もう、六十近い、小柄な、垢ぬけのした、血色のいいおじいさんでした。腰が低く、世辞のいいので評判でした。校長さんにくらべると、御新造という人は若すぎるくらい若く、人によるとあれは校長さんの姪だなどという人がありました。しかし、いつも、大きな円髷に結っていました。校長さんと同じに、やっぱり、世辞のいいので評判でしたが、同時に、また、少しなれなれしいという批難もありました。――わたしの母でも、たまたま湯なんぞであうと、それほど懇意でもないのに、さきから叮嚀ていねいにあいさつして来るのでこまると、よくいっていました。
 高等科を教えていた、四十がらみの、頭の綺麗に禿げた先生がいました。御新造の身寄になる人とか聞きましたが、この人が、また、御新造に上越す愛想のいい人でした。その時分、始終、わたしのうちの店に電話をかけに来たので知っていましたが、朝など、わたしの学校の出がけにぶつかって靴でも穿いているところに来ると『いまお出かけですか、御勉強ですね』といったようなことをにこにこ笑いながらいいました。――そうしたことをいわれるのが、わたしに、どんなにが悪かったでしょう。
 当時、近所のくせに、やっぱり、小川学校へ行かず、馬道まで通ったのに、砂糖屋の芳ちゃんという子がありました。級は二年ほど違いましたが、毎朝、一しょに、誘い合って行きました。と、わたしが高等三年になったとき、もう一人、茶屋町の菓子屋の息子が急に小川から転校して来て、わたしの級に入りました。まんざら知らない顔でもなかったので、はじめに来たときふと口をきいたのが縁になり、ずるずるに友だちになり、一時は、朝、わざわざ廻りみちをして誘いに寄ったりしました。
 柄の小さい、口の軽い子で、始終戯談じょうだんばかりいっていました。調子がいいので、すぐ、だれにも馴れてしまいました。学科のほうは、三年を二度やるにしては出来なさすぎましたが、話をさせるとそれはうまいものでした。
 雪がふったり、雨がふったりして体操が出来ないと、うけもちの先生が教場へ来て、代る代るに、一人ずつ、黒板のまえに出ていろいろ話をすることになっていました。ろくちゃん――そういう名まえでした――は、転校して来てまだ間もないとき、何か話してみろといわれて、躊躇するところなく落語を一つやりました。先生も級のものも驚いて、それからは、そういうときにはいつも一番に引っ張り出されるようになりました。――これは自分のうちが色物の寄席のまえで、毎晩定連じょうれんの格で遊びに行っていたものですから、いろいろ八さんや熊さんの出て来る落語はなしにくわしいのでした。
 よく『天災』というやつをやりました。例の隠居さんが出て来て、熊さんに心学の講義をする話で、『いいえ、天災じゃない、せんさい(先妻)なんだよ』というのが下げなのですが、その時分、その『せんさいなんだ』という下げの呼吸がはっきりわたしたちにのみこめませんでした。しかし録ちゃんが口をとんがらかして、巻舌をつかう具合がすっかり皆んなの気に入って、わずかの間に、録ちゃんは、級でも有数の人気役者になりました。
 録ちゃんが四年になったとき、録ちゃんの弟が尋常一年に入って来ました。よく似た兄弟でしたが、この兄さん、弟を少しも構いませんでした。構わないばかりでなく、時によると、外のものと一しょになってげんざいの弟をいじめては泣かせました。
 もっとも、録ちゃんは、小さいものを調戯からかうのが好きで、小川学校にいた時分でも、やっぱり、二丁目の質屋の、栄ちゃんという音無しい子を調戯っては、始終、泣かせました。
 この栄ちゃんという子、一人っ子の上に、体があんまり丈夫でないので、それにうちで大切にしていました。――紫いろのメリンスの帯を叮嚀にしめて、前だれをかけて、みるから秘蔵っ子らしい恰好をしていました。
 が、そのうち、田原町切ってのものもちで、奉公人も大ぜいつかっていましたが、おそろしく、堅い、古風なうちで、栄ちゃんは、小川学校の課程をすませると、すぐ、見世に出てじみちな商売のほうをやらせられました。
 しかし、その、商売のほうといっても、栄ちゃんは、若旦那としての取扱いをうけたのではなく、兵隊検査までは、奉公人のなかに入って、奉公人と同じ修行をさせられるのでした。寝るから起きるまで奉公人と一しょ。――ということは、夜、おくの人たちがひけてから木綿蒲団にくるまって見世に寝て、朝は、おくの人たちより早く起きるのです。三度の食事も外の奉公人と一しょに台所で食べるのでした。
 拭掃除は勿論のこと、糊入一枚、水引一本の使でも、栄ちゃんに云いつけるという風でした。
 で、たまには、無理な小言もいわれるのでしょうが、でも、栄ちゃんは、素直にいまでも働いています。
 お父さんは仕方がないとしても、しかし、おっ母さんの方がよく、それで、黙っていると思います。――おっ母さんの身になったら、素直にそう働かれれば働かれるほど、人情にからみはしないだろうかと思いますが……
 でも、二十一の暁になると、栄ちゃんは、すぐに、また、以前のとおりの秘蔵っ子に返るのです。そうして兵隊がすむと、許嫁の娘さんと一しょになるのです。――その許嫁の娘さんというのは、やっぱり同じうちにいるのですが、しかしこのほうは、お嬢さまさまでおくに納まっています。月に一度や二度は芝居にでも行くらしく、よく、おっ母さんや女中たちと一しょに車で出かけるのをみかけます。
 たしか今年、栄ちゃんは二十になった筈です。――もう一年です。あともう一年で罪障が消滅します。
 見世の月日と奥の月日とが、別々に経って、やがてまた、一しょになるのです。――それにしても、その、許嫁の娘さんはどう思っているのだろうと思います。
 しかし角のつるやでは、そのうちに、もう、お雛さまをはじめて、じきにまた、五月人形をはじめましょう。
 盆提燈がすむと、すぐに今度はお会式の造花。――そういううちにも、断えず、月日はながれて行くのです……」


 いまをさる十一年まえ。――明治四十五年の一月に、わたしは、こうしたものを「三田文学」に書いた。
 明治四十五年の一月というと、わたしのまだ慶應義塾にいた時分。――「朝顔」という小説を、その半年前に、はじめて世の中へ出したあと、一つ二つの小説と戯曲を同じく「三田文学」と「スバル」に書いた――とはいわない、書かせてもらった時分で、在りようは、この文章、そのころの作家のだれでもが試みた「幼き日」の回想の人真似をしたと云えば足りる。


 が、「幼き日」の回想といっても、これによって、わたしは、ありがたちの、正直な、おもいでの物語を書こうとはしなかった。――むしろ、生れた土地を語るための、それに都合のいい空想をいろいろ組合せたといったほうがいい。――いまにしてその十一年まえの心もちに溯ることは出来ないが、おそらくは、この、二倍、三倍ぐらいの長さのものを、わたしは、「浅草田原町」という名目の下に書きつごうとしたに違いない。――同時に、わたしの疎懶そらんが、そのわたしの意図を裏切ったのに違いない。
 ありがたちの、正直な、おもいでの物語でないしるしには、この文章、わたしというものがはっきり出ていない。わたしというものを、あたまで、よそにしている。――いうならば、これを読んでも、肝心の、わたしというものが田原町のどこに住んでいたのかさえ分らない。


「横町がたくさんにあります」とわたしはそう書いた。――そのたくさんある横町の一つにわたしは住んでいた。――「……三丁目の大通りの角につるやという大きな際物屋があります」と書いた、その、大きな際物屋の横町にわたしの生れたうちはあった。
 改めていえば浅草広小路。――そのあたりで、だれも、そう呼んでいる、雷門と、本願寺の裏門との間の大通りの、北側に二つ、南側に四つある横町の一つ――南側の、その雷門のほうからいって三つ目の、とくになづけられていない横町にわたしの生れもすれば育ちもしたうちはあった。
 とくに名けられていないという謂は、そこを除いた外の横町は、すべて、南側の一つ目のものに松田の横町、二つ目のものに大風呂横町、四つ目のものに源水横町。――同じく北側のものにちんやの横町、二つ目のものに伝法院横町。――そうした呼び名をいちいちに持っていたのだった。


 その、とくに名けられていない横町を入ってすぐの右側。――三丁目はわたしのうちで尽きて、小さな溝一つを境界にわたしのうちの隣から二丁目になった。――わたしのうちの反対の側は、田原町でなく、東仲町という名で呼ばれた。
「……横町に入ると、研屋だの、駄菓子屋だの、髷入屋だの、道具屋だの、そうでなければ、床屋だの、米屋だの、俥屋だの、西洋洗濯屋だのといったような店」の並んでいることを書いたのは、いわず語らずに、わたしは、「つるやという大きな際物屋」の横町のことばかりを書いたかたちがある。――けだし、研屋も、床屋も、米屋も、道具屋も、それらは、皆わたしのうちの手近にあつまった、小さな、寂しい店々みせみせだった。
 もらった娘のわるかったばかりに零落した常磐津の師匠は、わたしが覚えて、あとで床屋になったところに、わたしの十二三の時分まで、格子のそとに御神燈をさげていた。――その二三げん置いたとなりの道具屋、じゃんこの、愛想っ気のない主人を持った古道具屋は、後に、わたしの十五六の時分に、幾多の変転のあったあとで、そのころ流行りかけた洋食屋になった。――その前後に、以前髷入屋のあったところに小さな印刷所が出来た。――そうしたことによって、横町の色合いろあいはだんだん変って行った。
 その間にあって、二丁目の、わたしのうちの並びながら、わたしのうちとは半丁ほど離れた大工のうち。――太いがっしりした感じのする格子をおもてに入れたうちの、毎年、七月になると、往来からみえるまどのなかに、必ず、いつも、大きな切子燈籠きりことうろうが下げられた。――その、しずかな夢のような灯影ほかげこそ、そのあたりのおもいでを人知れず象徴するものだった。


「ただ、わたしは、親に給金を仕送るために女中奉公に出たおたみという女を、その女の不幸な生涯の世の中に向けて、だんだん、展けて行く筋みちを描こうと企てたばかりだった。――が、毎日一回ずつ書いて行くうちに、わたしは仮りにその舞台にとったわたしの生れたうちの来しかたがだんだん可懐なつかしく思い返されて来た。わたしは思い出に浸りながら筆を遣った。――わたしのおたみを守る眼はともすれば、よしない雲霧のためにさまたげられた」と、嘗て「東京日々」に書いた「露芝」という小説を一冊にまとめたとき、そのあとに、わたしは、こうしたことをとくに書いた。
 が、独りこれは「露芝」にのみとどまらない。――その以前にあって、わたしは、「ふゆぞら」を書いたとき、「盆まえ」を書いたとき、「さざめ雪」を書いたとき、「暮れがた」を書いたとき、「宵の空」を書いたとき、「ひとりむし」を書いたとき、「雨空」を書いたとき、「四月尽」を書いたとき、おなじく思い出に――生れたうちの寂しい思い出に浸りながら筆を遣った。
 生れたうち。――田原町の、とくに名けられていない横町の生れたうちに対するわたしの愛着がこれらの作をわたしにえさせた。――「ふゆぞら」も、「盆まえ」も、「さざめ雪」も、「暮れがた」も、「宵の空」も、「ひとりむし」も、「雨空」も、「四月尽」も、そうして「露芝」も、偏えにそれは、大工のうちの切子燈籠の、しずかな、夢のような灯かげにうつし出されたわたしの、悲しい「詩」に外ならないとわたしはいいたい。
(明治四十五年/大正十三年)
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あやめ団子





 この間、常盤座で「夜明前」を演ったとき、小山内〔薫〕さんの代りに稽古を見に行き、久しぶりに、わたしは、あすこの楽屋のなかをみる機会を得た。
 わたしの「たびがらす」という小説を読んで下すった方はごぞんじだろう。――わたしは、十三四の時分、うちへ出入の下廻りの役者に連れられて、よくここの楽屋へ遊びに来たのである。
 その時分は、水野好美を大将に、小島文衛、本多小一郎、境若狭、岡本貞次郎、亀井鉄骨、西川秀之助、高松琴哉、そういった「新演劇」時代の……という意味は「新派」以前の傍流的古強者が大勢いた。外には、服部谷川だの、越後源次郎だのいう人気ものがいた。
 朝、九時に芝居をはじめた。――序まくのあく前に、越後源次郎が、粗い飛白の着物に袴を穿き、幕のそとに出て、愛嬌のあるあいさつをした。――どっちかといえば、体の小さい、顔の輪廓のまァるい、眉の下り気味な、始終にこにこしている役者だった。
 小島(後に児島)文衛は「夏小袖」のおそめを演って紅葉を驚嘆させた役者。――ふとじしの、ボッテリした、そのくせ、蓮葉な色気のある女形だった。後に、常盤座を出て、本郷座に入り、「風流線」のおつまだの「村雨松風」の髪結だのであてた。――河合武雄と二人、おのおの、その、違った味によって、長い間、対立していた。
 本多小一郎もまた、「夏小袖」の佐助を持役にしていた役者。――常盤座へ来るまえにはしばらく伊井一座にいた。敵役かたきやくにも好ければ、実体じったいなものにもよく、時としては三枚目にもよかった。その達者さ、重宝さにおいて、品は落ちるが、また、臭くもあったが、今の村田正雄のような役者であったように思われる。
 境若狭も達者な役者だった。立役にも向けば敵役にも向いた。そうかと思えば「夏小袖」で五郎右衛門をするような役者だった。だが、その達者さのうえに、本多とは離れて、また、落ちつきがなく、根蒂こんていがなかった。泥臭く、緞帳どんちょう臭かった。――それがまた公園に人気のある所以でもあった。
 岡本貞次郎は、うすあばたのある、三尺ものの巧い役者だった。――この役者、後に、奨励会というものが解散してから、しばらくして、そのころはやりかけた活動写真のなかに入り、実物応用というものをはじめた。わたしの記憶にもしあやまりがないならば、役者にして、活動小屋に関係を持った、それがそもそもの人間だった。
 亀井鉄骨は老役ふけやくを大専にした。相手を、始終、ねめつけるように据えた両方の眼が[#「眼が」は底本では「眠が」]、かれを、敵役にもした。――皺枯れた、浪花ぶし語りのような調子の持主だった。
 西川秀之助は河合型の女形だった。色っぽい、sensual な感じを、顔のうちに、体のうちに持っていた。だが、河合君のことにすると、河合君の持っているような聡明さがなく、その代りに、河合君よりも、もっと、頽廃した、ぐうたらな味を持っていた。み方によると、それが、寂しい味にもなった。
 高松琴哉は、やさがたの、鈴のような眼を持った女形だった。内輪な、控え目な、つねに敵役によって苦しめられる不仕合なお嬢さんや若い細君がその役所やくどこだった。――強いていえば、木下と村田式部とをきまぜ、それに花柳の味を加えたような役者だった。
 だが、小島も、本多も、境も、岡本も、西川も、高松も、そうして、越後も、皆、今は、故人になった。――生きているのは、わずかに、ただ、水野と亀井鉄骨との二人にすぎない。

 そのころ、常盤座の近所は、公園のなかでも、さびしい、色彩に乏しいところになっていた。小屋のみてくれからいっても、看板をあげ、鼠木戸を閉てた外には、(もう一つ、小屋の左っ手に、水野好美以下、十五六枚の庵看板いおりかんばんの並べられた外には)人の眼を惹くこれという飾りといってなかった。――小屋の右っ手(今の東京倶楽部のところ)には、喜の字屋という、たった一軒の、座つきの茶屋があった。色の褪めた花暖簾を軒に、申訳だけに見世をあけているという感じだった。
 小屋のまえにはパノラマがあった。門のなかに、庭が広く、植込があり、池があり、芝生があった。――建物は白く塗られてあったと覚えている。
 常盤座と、横町を一つ隔てたとなりに、電気館の小さな建物があった。まだ、活動写真にならない時分で、無線電信だの、エックス光線だの、避雷針の見本だの、その他、電気に関するいろいろの実験をみせる見世ものだった。――おもてに、顎なしの、平ったい顔をした木戸番がいて、それが尤もらしい口上をいい、しきりに客を呼びこんでいた。わたしたちは、よく、その真似をした。

 電気館の隣には大きな小屋があった。名前は忘れた。ずっと古くは、竹沢藤次の独楽の見世ものがそこにかかっていた。中ごろには、しばらく、梅坊主がそこを根城にしていたが、その後、岩でこが、代って、そこで興行をつづけた。
 わたしは、梅坊主は好きだったが、岩でこは嫌いだった。岩でこには梅坊主の洗練がなかった。

 話は違うが、そのころ、カナリ長くつづいていた「新声」という雑誌が潰れ、暫くして、隆文館から同じ名の雑誌が出た。体裁も、内容も、前の「新声」とは気もちの大分ちがうものだったが、忘れもしない、その、三月だか、四月だかに出た、今でいえば特別倍大号のようなものに、「梅坊主と岩でこ」(たしかそういう題だったと覚えている)という堂々たる論文が出ていた。匿名で、その説くところは、梅坊主、岩でこ、両者の関係から、貪婪たんらん飽くなき岩でこの、ひそかにその爪牙を磨き、梅坊主を陥れ、ついにこれを追って自分がそのあとに直るに到ったのを憎み、そうして、わが梅坊主のため、万斛ばんこくの泪をそそぐのにあった。
 わたしは、再読、三読した。どこの、誰が、こんな情理を尽した、歯切のいい、気のきいたものを書いたのだろうと、子供ごころに、わたしは、感嘆これを久しうした。――「吐舌一番、その舌の赤かりしを知るのみ」とあったそのなかの一句が、なぜか、わたしに、その後いつまでも忘れることが出来ずに残った。
 爾来、十幾年、縁あって岡村柿紅と識り、いろいろ無駄をいい合うようになってから、話がたまたまかっぽれのことに及ぶと、かれ、金丸を説き、国松を論じ、まくし立てて、わたしをして口をつぐむのやむなきに至らしめた。すなわち、わたしは酬ゆるにその「梅坊主と岩でこ」を以てした。――今更のように、わたしは、それを書いたぬしの、どこの、誰とも分らないことを残念に思った。
 と、かれ、柿紅、
「ああ、あれは俺が書いたんだよ」
 莞爾かんじとしていった。

 その小屋の真向いに「珍世界」があった。ほうぼうの国の、珍しいもの、不思議なもの、たとえば、みいらだの、蟻の塔だの、素性も分らないさかなの剥製だの、そういったようなものがガランとした室のなかに万遍なく並べられてあった。土俗的、伝説的なものが多かった。根っから面白くないものだった。ただ、入口に置かれてあった猿の人形。――赤い洋服を着、右に向き、左に向きながら、断えず太鼓を叩いていたあの猿の人形が、今でも、わたしの思い出のなかで寂しく太鼓を叩いている。

 珍世界のとなり、今の富士館のところに、加藤鬼月一座の改良剣舞がかかっていた。
 改良剣舞といっても、必ずしも、うしろ鉢巻の、袴の股立を高くとり、鼻のあたまにばかり濃く白粉をつけた男たちの、月琴によって、日清談判をばかり破裂させた訳ではない。それはほんの附合せにすぎず、じつは、短銃強盗清水定吉だの、服部中尉(だったか大尉)だったかの太沽タークー砲台占領だのの芝居をやるのだった。あるときは、あの川上の演った「武士的教育」をもじったようなものをさえ演ったこともあった。
 それは立廻りと七五の台詞せりふとで出来上っている初期の書生芝居だった。短銃と、合口あいくちと、捕縄と、肉襦袢と、白い腹巻とが、そこで演るすべての芝居の要素だった。
 学校で(わたしの学校は浅草学校だった)わたしの机のそばに公園の写真屋の息子がいた。これが加藤鬼月を大の贔屓ひいきだった。機会さえあればそこに入浸っていた。わたしは、かれによって、「花のさかりの向島、人も散っちゃあヒッソリと、鳥もねぐらの枕橋、ズドンと一発短銃の、音はたしかに辻強盗」という官員五郎蔵の台詞を教えられた。
 この写真屋の息子、姓は鴨下、名は中雄、晁湖と号して、今では画を描いている。

 剣舞の隣、いまの三友館のところは、開進館という勧工場だった。その前っ角、今の千代田館のところには、屋根の低い、小さな写真屋があった。その写真屋のまえに、七十がらみの、あたまに小さな髷をのせた爺さんが、始終、あやめ団子を焼いて売っていた。――わたしはその爺さんの有数の顧客だった。
 あやめ団子というもの、いまではどこの縁日へ行ってもみ当らなくなった。
(大正九年)
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相模屋の路次・浅倉屋の路次




     *

 広小路から公園に入るみちが二つある。
 一つは相模屋の路次。
 一つは浅倉屋の路次。

     *

 その相模屋の路次、十四五年まえまでは、さびしい、色の褪めたような路次だった。
 入ると、すぐ、左っ側に、おもてに粗い格子戸を入れた左官屋があった。その隣に喜久本というごく堅気な待合があった。反対の側には、和倉の名によって呼ばれる湯屋があり、隣に煙草屋を兼ねた貸本屋があった。
 そこで、一段、みちが低くなった。
 あとは、両側とも、屋根の低い長屋つづき、縫箔屋だの、仕立屋だの、床屋だの、道具屋だの、駄菓子屋だの、炭屋だの、米屋だの、あんまり口数をきかない、世帯じみた人たちばかりが、何のたのしみもなさそうに住んでいた。
 すこし離れて、出はずれの、角に、鯛煎餅という名代の煎餅屋があった。――そこを曲ると眼のまえに、柿いろや、水いろの、水野好美さんへ、小島文衛さんへ、境若狭君へ、そうした常盤座の役者たちへ来た幟が立っていた。
 それがどうだろう。
 左官屋のあとが鮨屋になった。貸本屋のあとも鮨屋になった。そうして待合のあとは小料理屋になった。
 以下、縫箔屋、仕立屋、道具屋、駄菓子屋、炭屋、米屋。――そのおのおのが鮨屋になり、汁粉屋になり、小料理屋になり、支那料理屋になった。――夜、暖簾のかげ、硝子戸のうしろに、あかるい、熟れたような燈火を忍ばせる店舗ばかりが並んだ。
 むかしながらに残っているのは、和倉と、出はずれに近い床屋とがあるばかりである。――嘗て、わたしが、田原町に住んでいた時分、散歩に出ては、いつもその床屋のまえを通った。そうして、その、見世の隅に、五十がらみの支那人の耳掃除をしているのをつねに見た。
 なぜか、わたしに、その支那人のことが忘れられなかった。四五年して、「雪」という戯曲を書いたとき、わたしはその茶の服を着たすがたを舞台のうえにみ出したいと思った。――すなわち、わたしは、陳なにがしという支那料理屋をそこへ書きこんだ。
 半月ばかりまえ、久しぶりでそこを通ったとき、わたしは、なおその支那人の耳掃除の仕事をつづけているのをゆくりなく発見した。
 わたしは涙ぐましさを感じた。
 鯛煎餅のあとに出来たのが日本館である。

     *

 その浅倉屋の路次、十四五年まえまでは、さびしい、補綴つぎはぎをしたような路次だった。
 道幅がせまく、しばらくは、両側に、浅倉屋の台所口と尾張屋という蕎麦屋の台所口とがつづき、その尽きたところに、右には同じく浅倉屋の土蔵、左には女髪結のうちがあった。――その女髪結のうちの前に灰汁桶あくおけの置かれてあったことを不思議に覚えている。
 土蔵の隣に、間口の広い、がさつな格子の嵌った平家があった。そこには出羽作という浅草でのばくちうちが住んでいた。――三下さんしたが、始終、格子を拭いたり、水口で洗いものをしたりしていた。
 道をへだてて井戸があり、その井戸のそばに、屋根を茅で葺いた庵室のようなものがあった。露の宿という言葉を思わせる草深さがあった。――横山町のある大きな小間物屋の隠居が余生をそこに送っていた。
 その隠居、小柄な、尼のような感じを持ったおじいさんだった。同時に癇癪もちの、我鳴ることの好きな、気難かしいじいさんだった。
 出羽作の隣は西川勝之輔という踊の師匠だった。おもての格子から覗くと、眼尻の下った、禿げ上った額の円右にさも似た勝之輔師匠が、色の黒い、角張った顔の、烏猫を思わせる細君に地を弾かせ、「女太夫」だの、「山がえり」だの、「おそめ」だのを十一二の子供たちにいつも夢中になって教えていた。
 その隣は、浅倉屋の親類の、吉田さんとどこかへ勤める人の控家だった。門のあり、塀のあるうちだった。その反対の側に長家つづきの側面があった。
 それがどうだろう。
 女髪結も、出羽作も、庵室も、吉田さんも、何もかも、或は鮨屋となり、或は小料理屋となり、或は西洋料理屋となった。――むかしながらに残るものは勝之輔師匠のうちだけ。――だが、それも、ある西洋料理屋の二階にわずかに残っているのである。
 吉田さんのうちは、このごろ浅倉屋の角にでて、薬舗をはじめた。

     *

 今年、常盤座にあの火事のあった十三年目になるそうだ。――あの大きな火事がなかったならば、このあたり、いま、まだ、これほどの変りようはしなかったであろう。
(大正九年)
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浅草の喰べもの





 料理屋に、草津、一直、松島、大増、岡田、新玉しんたま、宇治の里がある。

 鳥屋に、大金、竹松、須賀野、みまき、金田がある。

 鰻屋に、やっこ、前川、伊豆栄がある。

 天麩羅屋に、中清、天勇、天芳、大黒屋、天忠がある。

 牛屋に、米久、松喜、ちんや、常盤、今半、平野がある。

 鮨屋に、みさの、みやこ、すし清、金ずし、吉野ずしがある。

 蕎麦屋に、奥の万盛庵、池の端の万盛庵、万屋、山吹、藪がある。

 汁粉屋に、松邑、秋茂登、梅園がある。

 西洋料理屋に、よか楼、カフェ・パウリスタ、比良恵軒、雑居屋、共遊軒、太平洋がある。

 支那料理屋に来々軒がある。

 この外、一般貝のたぐいを食わせるうちに、かきめし、野田屋があり、てがるに一杯のませ、且、いうところのうまいものを食わせるうちに、三角、まるき、魚松がある。

 これらのうち、草津、一直、松島、大増、新玉、及び、竹松、須賀野、みまき等は、芸妓の顔をみるため、乃至、芸妓とともに莫迦騒ぎをするために存在しているうちである。宴会でもないかぎり、われわれには一向用のないところである。
 往年、五軒茶屋の名によって呼ばれたうち、草津、一直、松島の三軒は右の通り、万梅は四五年まえに商売をやめ、今では、わずかに、大金だけが、古い浅草のみやびと落ちつきとを見せている。
 座敷のきどり、客あつかい。――女中が結城より着ないゆかしさがすべてに行渡っている。つくね、ごまず、やきつけ、やまとあげ、夏ならば、ひやしどり、いつも定っている献立も、どこか、大まかな、徒らに巧緻を弄していないところがいい。――われわれ浅草に住む人間の、外土地の人の前に自信をもって持出すことの出来るのは、このうちと金田とだけである。
 金田は、同じ鳥屋ながら、料理は拵えず、鍋で食わせるばかりのうちである。先代の主人は黙阿弥と親交のあった人だったそうだが、そういう人の経営したところだけ、間どりもよし、掃除もつねに行届き、女中も十四五から十七八どまりの、始終襷をかけた、愛想のいい、小気のきいたものばかりを揃えてある。諸事、器用で、手綺麗なのが、われわれには心もちがいい。――使うしなものも、われわれのみたところでは、人形町の玉秀、大根河岸の初音、池の端の鳥栄とともに、きびきびしたいいものを使っている。
 ただ、残念なことに、ここのうち、功成り、名とげて、近いうちに商売をやめるといううわさがある。もしそのうわさが真実ならば、われわれは、あったら浅草の名物を一つ失うわけである。われわれはそのうわさの真実にならないことを祈っている。
 前川というと、われわれは子供の時分の印象で、今でも、落ちついた、おっとりした、古風な鰻屋だということが感じられる。だが、このごろでは、以前ほどの気魄はすでに持合わさないようである。時代は、浅草のうなぎやとして、ここよりも田原町のやっこのほうを多くみとめさせるようになった。――無駄をいうことを許してくれるならば、わたしは、名代な、あの、おひさという女中。――六十は、もう、何年かまえに越したであろうと思われる、このごろでは馴染の客の顔さえときどきみ忘れることがあるという、いつも正しく小さな髷に結い、襷がけで、大儀そうに、また、張合なさそうに働いているあの女中が、ところもたまたま駒形の前川といううちの運命を寂しく象徴しているといいたい。
 やっこは前川にくらべると、今でも、やや品下ったところがある。それだけ景気がいい。活気がある。表の見世は入れごみだけれど、裏にまわれば、玄関、座敷、その他、芸妓を入れることの出来るような設備がしてある。
 伊豆栄は、吾妻橋の際のもとの伊豆熊のあとである。今でも、ときに伊豆熊の名によって呼ばれる。それほど売込んだ伊豆熊という名である。が、これは、格別、いさくさのないごくあたりまえの、入れごみ鰻屋である。
 わたくしの子供の時分、田原町の、いま川崎銀行のある角に、鰻をさきながら焼いている小さな床見世があった。四十がらみの、相撲でもとりそうに肥った主人が、二人の、年ごろの娘たちと、十三四になる悪戯な男の子とを相手に商売をしていた。外に、みるから気の強そうな、坊主頭の、その子供たちにおじいさんと呼ばれている老人がいたが、そのうち、鰻屋をよして、広小路に、夜、天麩羅の屋台を出すようになった。種のいいものを使うのと、阿漕あこぎに高い銭をとるのとで、わずかなうちに仕出し、間もなく、今度は、伝法院横町の、待合のあとに入って店を出した。――それがいまの中清である。
 うまいからいいといえばそれまで、ここのうち、あまりにすべてが無作法すぎる。――座敷の汚さ、器具の悪さ、女中の無精ったらしさ。――いかな贔屓眼を以てしてもわれわれには折合えない。
 天勇は仲見世の裏にある古いうちである。天麩羅の外に小料理もする、気の張らない、億劫なところのない、広小路の天芳とともにあくまで浅草むき、田舎の人向に出来上っているうちである。広小路いまわり、公園いまわりにある、そういううちの、代表的のものである。
 大黒屋は二三年まえまで蕎麦屋だったうちである。蕎麦屋の時分から天麩羅を以て鳴っていたが、いつの間にか、店の構えをそのまま、蕎麦屋をよして、天麩羅屋にかわった。屡※(二の字点、1-2-22)わたしは、その前を通って、只今満員とした客どめの札の掲げられてあるのをみる。――蓋し、蕎麦屋へ入る気易さを以てその暖簾をくぐることが出来るからであろう。
 だが、おそらくはその真似であろう、このごろ、そうした恰好のうちが、活動写真のある近所に二三軒出来た。
 天忠は、公園から離れた、象潟町に存在する毛いろのかわったうちである。向島の其角堂――このごろ老鼠堂になった機一宗匠の好みを帯した、喜加久揚というものをうりものにしている。落語家、吉原の幇間、及び、その落語家や幇間と友達附合をすることを喜ぶ客たち、そうした手合の間に評判されるうちである。――浅草のある面を物語るものとみることが出来る。
 牛屋については、わたしは残念ながら何事も説く資格がない。――ただ、田圃の平野といううちの、朝がえりの客を相手にするうえからいって、朝、この土地の、どこの、何の食いものやよりも、早く、店をあける重宝さをだけいえばいい。
 みさのは、鮨を大専にする小料理屋である。芸妓さえ入るうちである。鮨屋の範疇へ入れるのは皮肉かも知れない。
 ほんとうの鮨屋としては、三四年まえ商売をやめた馬道のとある露地の中のみさごずしの贅沢さをしばらくいわないとしたら、すし清、金ずし、吉野ずしの三軒が、蓋し、公園いまわりに数え切れないほどある屋台上りの鮨屋の、握りを大きくすることを信条にしている鮨屋のなかの代表的なものであろう。――このうち、清ずしは、以前広小路にあって時めいた初音の職人の経営するところである。みやこずしは、それらのもののことにすると、いささかそこに横題よこだいもののかたちを持っている、嘗ては鯖の押鮨を以て聞えた店だそうである。
 奥の万盛庵は藪系統の蕎麦をくわせるうちである。だが、池の端の万盛庵は、蕎麦屋というよりも、むしろ、蕎麦を看板にした小料理屋である。山吹も、また、蕎麦というよりも、ここは饂飩を看板にした小料理屋である。
 松邑といっても今のものは三四年まえまであったものの謂ではない。以前の松邑は、公園裏の道路改正とともに商売をやめ、今のは、山谷の葉茶屋の主人が、松邑の名を惜むのあまり、半ば道楽にやっているのである。
 梅園よりも秋茂登のほうが花柳界をもち地元のものを多く客に持っている。ということは、秋茂登よりも梅園のほうが堅気の客が多いということになる。秋茂登の主人はわたしと同じ小学校出身である。
 よか楼は女の綺麗なのがいるので売出したうちである。雑居屋は一品料理屋から仕上げたうち、しかも一品料理屋であった時分の繁昌をいまはみるよしもない。
 共遊軒は公園裏にあって玉突を兼業しているうち。――草津、一直の近所なだけ、遊蕩的な色が濃い。
 浅倉屋の路地の太平洋に至っては、やや異色ある一品料理屋にすぎない。
 これを要するに、この土地は、並木の芳梅亭を失って以来、西洋料理屋らしい西洋料理屋をどこにも持っていない。
 由来、浅草には、われわれの、しずかに、団欒だんらんして、食事をたのしむことの出来る場所がない。われわれは不仕合である。
(大正九年)
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夏と町々


不動さま



 深川座という劇場のあったことを御存じですか?
 無論御存じの方もあれば御存じない方もあるだろうとおもいます。……いいえ、御存じない方のほうがことによると多いかも知れないとおもいます。何せ古いことで、そのうえいたって場所の辺鄙なところ、本所深川以外に住んだ方たちには全く用のない場所だったろうとおもいますから。――というのは、そういうわたくしにして矢っ張、たった一度しか……あとにもさきにもたった一度しか、足を入れた覚えがありませんので、……それも立見、ほんの一まく覗いた丈で、長い時間そのなかの空気を吸ったのではないので……
 さアどの位になりましょう、いまから?――たしかあれは中学の三年……じゃァない、四年……四年ですからいまをさるざっと二十一二年まえになります。年にして十八九……ちょうど俳句のおぼえはじめで、出来た三四人の仲間と一しょにヒマさえあれば「やかな」に憂身をやつしていた時分、ある日その仲間の一人が突然来て「運座へ行かないか、運座へ」とやや昂奮したさまにいったものです……
 自分たちだけの間ではみんなもういッぱしの作者のつもりで、何のかのとうるさいことこの上なかったものの、かなしいかな、誰もまだ世間の、そんな気のきいた場所へ出たことのあるものは一人もありません。そういう場所の存在することは知っていても、どうしたらそういうところへ行けるのか、それさえはッきり分らないわれわれでした。――とはいえ、勇気は、身うちにみちみちていました。――わけを聞いて、その仲間の一人の伯父さんの始終行く会で、どうせお前たちが行ったって抜けッこはないが、もし行くんなら連れて行ってやる。――そういうしだいと分ったとき異議なくわたくしは承知しました。で、その晩、同人一同、轡をならべて出陣したのが深川の不動さまの境内の金鍔や……何とかいう講茶屋の奥座敷で毎月開かれる或秋声会系の運座でした。
 こまったことにその晩、われわれ一同、はじめてその他流試合に大へんな成績をあげました。五十人近くあつまったその晩の人たちをものの美事に蹴散らして、ふんだんにおのおの景物の葉書をせしめました。その仲間の一人の伯父さんの驚きはいうまでもなく、一座挙って、それこそ床の間のまえに居流れた有名な先生たちまでこの若い闖入者の群の上に怪訝の眼をそそぎかけました。われわれの得意おもうべしです。――ということは、哀れにもそれが病みつきとなり、それからというもの、毎月欠かさず、どんな雨のふるときでも風の吹くときでも一同手を携えて出席しました。そうしてふんだんにいつも葉書を稼ぎました。さきの人たちにしたらどんなに苦々しく思ったでしょう。……だって、あなた、その運座へ来る人たちはそんな三十台から四十台の人たちばかり、その仲間の一人の伯父さんだの、いつもその床の間のまえに居流れる有名な先生たちだのにいたっては、みんな五十、六十という年配の人たちばかりだったんですから。……


 けど、こっちは子供です、そんな頓着はありません。頓着ないばかりでなく、むしろその大人たちの、下らない、他愛のない……一ト言でいって月並……月並すぎるほど月並なのに間もなくあきれました。「いい年をして」と時には義憤をさえ感じました。――それが作られる句のうえばかりでなく、席上での、そのあつまった色んな人たちのいったりしたりすることがそれほどすべてわれわれに陳套な無知な感じを与えました。ですから、はじめ、勝手のよくまだ分らなかった時分には、われわれでも知っているようなことがことさらな問題になったり、だれでも、そんな本、読んでいるに違いないとおもわれるような本のどんなめずらしいものででもあるように評価されたりした場合、屡※(二の字点、1-2-22)われわれ、腑に落ちない眼をひそかにみ合せたことでした。
 そのなかでいまだに一つ覚えていることがあります、「地芝居」という題の出たときですから秋時分のこと……九月か十月の会のときだったに違いありません。「地芝居や野風に消ゆる面明り」という句が大へんに抜けました。――勿論いい加減な句で、こういう句が抜けるんだから大ていお察しはねがえるとおもいますが、それよりも先生たちのなかの一人が文台のまえにいざそれを披講するとなったとき「野風に消ゆるおもあかり」……「つらあかり」といわないで「おもあかり」とこれを読んだものでした。
 はじめのうちは誰も音なしくだまって聞いていましたが、あんまりその句が抜けているんでとうとうたまらなくなったらしいその作者、「おもあかりじゃァありません、つらあかりで」と、遠くから大きな声で訂正しました。
「つらあかり?……」
 急にそういわれて、先生、それがくせの眉をすこしひそめるようにして「おもあかりじゃァいけませんか?」
「いけませんとも!」
 先生のその、にわかにそれを肯いそうにないさまをみると、作者に代って、矢っ張その句を抜いたとおぼしい選者の一人が言下にそうはッきりいいました。「どこの国へ行ったってそんなおもあかりなんてものはありません。」
 いかにも歯切れのいい言い方なのにみんな思わず声のほうをふり向きました。そこにいたのはGというその会の定連の、代言人時代からの古い弁護士、あから顔の、白い髭をはやした老人で、平生いたって色ッぽい意気な句の好きな、そのくせ口のわるい、皮肉な、始終酒の気をたやさないでいるという大江戸ッ子でした。
「では訂正いたします、『おもあかり』ではなく『つらあかり』――野風に消ゆるつらあかり……」
 先生は相手が悪いとみてすぐにそういうことを聞きました。――が、表面はどこまでも強情にひるまないかおをみせました。
 けど、驚きました、われわれ。――驚いたというよりむしろ不思議な気がしました。――なぜならその先生――Sというその先生です、そもそも新派の俳句というものをうちたてた大先輩で子規さえある時代には兄事したことのあるという有名な先生です。博識を以て天下に鳴っている先生です。その先生が面明りを知らない、中学生のわれわれでさえ知っている簡単な劇場用語を知らない。……いいえ、うそにも知っていればそんな強情を張るわけがありません……


 そのうちにだんだん俳壇というものの存在することも分り、そこにどういう分野があるということもそれからそれと分って来ました。……となると自然、その金鍔やの会の性質もはッきりして来たので、でなくっても愛想のつきているところ、生意気ざかりだからたまりません、第一景物なんぞ附くのが間違っている、さんざそれまで自分たちの稼いで来たのを忘れて、たちまちわれわれ態度をはッきりさせました。ふッつりそうしてみれんけなく縁は切ったものの、でもあれで、一年半は通いましたろうか?――勿論その間一月も欠かさず――深川座の立見をしたのもいえば其一年半のそのあいだのことに属するので。……
 それが六月だったか七月だったかはわすれましたが、かなりもう暑くなった時分で、日の暮れることの遅く、いつまでも日のカンカンあかるかった時分ということだけはたしかです。なぜなら六時という定刻の、どうかした工合で三十分も早く会場へ着いてしまい、幹事さえまだ来ていないのにきまりをわるくしていそいでまた外へ出、時間つぶしにあてもなく方々ほッつきあるいたので……でもなかなかつぶれません。同時にまたそうなるとよけい空のめげない真ッ光が気になります。――たまたまそのとき通りかかったのが深川座のまえ……そうだ。……ここへ入ればいい、すなわち出来ごころにふらふらとそのまま「立見」の札売場のまえに立ったので……
 そのときやっていた狂言を何だとお思いになります? 黙阿弥の「処女評判善悪鑑むすめひょうばんぜんあくかがみ」。すばしりお熊だの雲切お六だの木鼠お吉だのの出るあの「白浪五人女」です。――入るとちょうど「古寺」の、旅の女にすがたをかえたそれらの女賊が今五右衛門と名告る三枚目の山賊を取って押える幕のあいているところでした。意外に面白いので、つづけて後もう一幕、例の清元の「夕立」、「貸浴衣汗雷かしゆかたあせになるかみ」の真野屋徳兵衛実は神道徳次と御殿女中竹川実はすばしりお熊との茶屋の二階での馴れそめのくだりをみ、ついでに次ぎの真野屋のゆすりを約半分……とはッきりそういってしまっては「ほんの一まく覗いただけ」とまえにいったのがうそになりますが、とにかくそれだけみて時計の七時すぎたのに驚いていそいで外へ出ました。――さすがにもう暮色は感じられるものの矢っ張まだ明るい。……折から上げ汐の、たッぴつにもりあがった水の、つながれた大きな船の岸より高くたゆたに浮んでいる川のふちをあるいて、狭いその裏みちづたいに不動さまの境内……あのしずかな梅ばやしの中へ入りました。――黄昏の、月の出汐の、人っ子一人通らない、うそのようにしずまり返ったそのけしきをいまなお仄かに夢のようにおぼえています。――「深川」というといまでもそのけしきがなつかしく眼に浮びます……
 そのときの深川座に出ていた役者ですか?――おぼえていますとも、ええ。――桃吉だの、栄升だの、蝶昇だの。……桃吉は後に高麗三郎になり、栄升は後に莚十郎になり、蝶昇は後に吉兵衛になりました……高麗三郎も吉兵衛も死にましたが、莚十郎はまだ達者で、去年左団次が露西亜へ「カブキ」をもって行ったあの一行のなかにも入っていたから不思議です。……


 ……その深川座はいま活動写真の小屋になりました。震災後、新富町の新富座がそうなったように、柳原の柳盛座こと中央劇場がそうなったように。
松竹直営、辰巳映画劇場。
 半バラックの、簡素な、黄色い漆喰塗の建物の前面にそうした金文字のとりすました貌に輝いているのはいい、切符売場も、木戸口も、看板も、用捨なく地上げをした前っ側の往来の底に半ばトボンと落ちこんでいます。――そのシガをよく両っ側にならんだ植木屋の夜店の荷がかくしています。その荷がまたさつきばかり、白い花をもったさつきつつじばかり。……朝からふったり止んだりの、梅雨の取越しのようにはッきりしない空、暗い、じめじめした空気のなかにいかにそのもり上った白い花のいろの哀しくめだたしいことよ。――いえば、それはすぐそのそばに出来たばかりの富岡橋……石の、幅の広い、水いろにやさしく塗られた欄干をもった橋のたもとに高々とともるであろう灯。やがてもうともりそめるであろう静かな灯影ばかりを偏えにたのんでいるといった光景けしき。――一つには人通りの以前にかわらず少ないことが、ゆくりなくそうした空しさを感じさせたのかも知れません。時計をみると五時をまだ十分ほどすぎたばかり。……暗くなるにはまだ手間がかかります……
 深川座の講釈ですっかり道草をくってしまいましたが、その日その深川へ足をふみ入れたそもそもの目的は何年にもこころみ損って来た不動さまの縁日の光景けしきをみようというのにありました。なればこそ熹朔さんと銀座から乗った円タクを黒江町で下りました。そこからぶらぶら人出の中を不動さまの表門までたどりつこうというはじめの目算。……その目算を自分から外して、途中、門前仲町の交番の角を急に左へ切れたのは……そうだ、深川座というものがあったッけ、とッさにそうさもしい料簡を起したというものが前にいったあの裏道づたい。……折から上げ汐の、たッぴつにもり上った水の、つながれた大きな船の岸より高くたゆたに浮んでいたあの川ぞいのけしきが果していまどうなっているだろう、どう変ってしまったろう?……そう思ったのに外ならないので……
 勿論富岡橋なんぞというものの出来た位です。延いてその両岸の道も高くなれば、積まれたその石崖の手入の行きとどいたこともいうをまちません。これではもういくらしても岸より高く船のもり上りッこありません。ただその辰巳映画劇場のまえの往来なみにそこもまた矢っ張、人通りの以前にかわらず少ないことが……少ないというよりここでは全くそれのないことが、黄昏の、月の出汐の、二十余年まえのあのそういってもヒッソリした古いけしきをはッきりなお感じさせます。
「こんなとこに住んだら誰からも探しだされまい。」
 たまたまそこに、水に臨んで、二けんならんで立てられた貸家……二けんともまだふさがっていない中古の二階家をみ上げて、ふッとわたくし、そうしたことを思いました。
 が、そこを、一足その不動さまの境内に入ったとき……


 曰くコンクリートのベンチ。
 曰くコンクリートの藤棚。
 曰くコンクリートの土橋。
 曰くコンクリートの……
 一足、不動さまの境内へ入ったとき、われわれのまえにあったのはそれらの施設でした。秩序ただしい植込、整然と小砂利の敷ならされた歩道、そうしたものを外輪にもった当世ようの小公園。――昔日の、梅ばやしのあった時分の閑寂なふぜいは、ただその植込の一部の、浅い茂りを透してみえる川の水、その水のうえを行くおりおりの船のかげだけにしか残っていない……ということをもう一つはッきりさせたものに、間もなくそこに展けたひろの光景がありました。……すなわち例月二十八日の賑い……むかしながらの、うちみはむかしにちっともかわらない昼縁日のあらわなけしきがありました。
 まえに、うしろに、右に、左に、いくつにもわかれて出来た人の輪の、そのほうぼうの間を縫ってそこにもここにも荷を下ろしたおでんや、パンや、氷や……浪の花をうず高くもり上げたうで玉子や、旗を立てたアイスクリームや、赤い薄荷を硝子の壺に入れたお好み焼や。……ですが、天気のわるいせいか、どの荷のまえにも、屋台のさきにも、うらみッこなしに一人の客も立っていないので。――いえば、だから、いたってのしらじらとした感じ……
 第一の人の輪のなかをわれわれは覗きました。盲目が浪花ぶしをやっていました。ひしゃげた鳥打帽子にお約束の色の剥げた紋つきの羽織、四十恰好の小柄な男が三味線を抱えてしきりに牡蠣のような眼をむいていました。何をやっているのか分らなかったものの、津の国屋津の国屋とうるさくいっていたのに徴して「安政三組盃あんせいみつぐみさかずき」かも知れないとおもいました。――抱えた三味線の、どの糸だかの切れてだらりと下っているのも惨めな感じでした。
 第二の人の輪のなかを覗きました。白足袋、表附の下駄、絽の袴を穿き、縫紋の単羽織を着た四十七歳のきわめて薄い髭をもった紳士(なぜ四十七と分ったかといえば自分からはッきりそういいましたから)がすなわち夏外套を脱いで助手の大学生にわたしながらしきりに何か薬の効能を説いていました。いやしくも人間なら誰でもがもっている病気、そうして古来、どんな医者でも薬でも決して直らないとされている病気、それを即座に、みているまえですぐにでも直してみせることの出来る薬を発見した、そのためにはしかし学校を出たあと二十年の年月を無駄にした、二十万円の金をつかい果した、もしうたがわしくば牛込喜久井町所在のなにがし合資会社をたずねて来い、自分がその会社の代表社員ということはこれこの免許状がこの通り説明している。――そうしたことばかりいつまでも饒舌りつづけてついにその薬が何に効く薬かはッきりさせません。――しびれを切らしてそこを退きました。
 第三の人の輪のなかを覗きました。紺の腹掛、うでぬき、脚絆といった恰好の草鞋ばき。……そうした古風ないでたちの若い男が大きな声でしきりに何か饒舌っています。これは面白そうだと無理から前へ出ました。
 が、すぐ、いそいでまた外へ出ました。――蛇です、蛇つかいです……


 そのあと、第四の、第五の、第六のそれぞれの輪の中を覗いてあるきました。が、どれもすべて一眼では要領のえられないものばかり、五分と十分その饒舌るのを聴くのでなければ何を売るのか、何をしてみせるのか、かいくれ見当のつかないものばかりでした。と同時にかつての猫八のような、松井源水のような、ああした身についた芸……とにかく芸とよぶことの出来るもの、一流の、外にどこにも類をもとめることの出来ないことさらなもの……そうした技術……そうした、すぐれた、錬磨された技術をみせたり聴かせたりする寂しい漂泊者を、その広っ場の、どこにもわれわれ見出すことが出来ませんでした。――失望してわれわれ、最後の大きな輪……多分には、いずれは字でも書いて見せたんでしょう、うしろ鉢巻の、汚れくさったワイシャツ一つの男が細長い紙を地べたに拡げて、何か矢っ張、しきりにそう講釈をいっている群のなかを出抜けたとき、たまたまそこに、あたりのそうしたいたずらな人だかりに頓着せず、おでんや、パンや、アイスクリームや、そうした身近に散在するものの折々の異動にも心を止めず、薄い茣蓙のうえに一人つつましく足を組んで熱心に鋸の目を立てている老人のいるのをみつけました。勿論そのまえにはすでに出来上ったものとおぼしい鋸が、ほんのわずか、しるしばかりに並んでいます。――いかにもそれが「深川」らしい、不動さまの境内らしい、そうしてそこに梅雨の来るまえらしい、季節的な鬱屈をわれわれに感じさせました。
 永井荷風先生に「深川の唄」というお作があります。明治四十二年の二月の「趣味」……そのころあった「趣味」という雑誌に出たもので、四十二年といえば、先生まだ「牡丹の客」も「歓楽」も「すみだ川」も書いておいでになりません。西洋から帰ったばかりの主人公がある偶然の機会に昔馴染の深川をたずね、不動さまの境内に、おぼつかなく三味線を抱えて「秋の夜」をうたう盲目のものもらいをみ出して、傾く冬の日かげの中にうつし身のいい知れぬ哀しみを知るという筋の、「夕日が左手の梅林から流れて盲人の横顔を照す。しやがんだ哀れな影が如何にも薄く、後の石垣にうつる。石垣に築いた石の一片毎には、奉納者の名前が赤い字で彫りつけてある。芸者、芸人、鳶者、芝居の出方、ばくち打、皆近世に関係のない名ばかりである。」だの「自分はいつまでもいつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境、内陣の石垣の下に佇んで、ここにかうして歌沢の端唄を聴いていたいと思つた。永代橋を渡つて帰つて行くのが、堪へられぬほど辛く思はれた。いつそ明治が生んだ江戸詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまひたいやうな気がした。」だのといわれたあと「ああ然し、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ。ああ、河を隔て、堀割を越え、坂を上つて遠く行く大久保の森のかげ、自分の書斎の机には、ワグナーの画像の下に、ニイチエの詩ザラツストラの一巻が開かれたままに自分を待つてゐる……」と、先生、その作の最後を結んでおいでになります。


 明治四十二年の二月といえば、文壇にまだ、自然主義の、陰気な灰いろの空気の根強くみなぎっていた時分でした。たとえばその年の一月には、小栗〔風葉〕さんの「耽溺」だの、田山〔花袋〕さんの「おし灸」だの、徳田〔秋声〕さんの「四十女」だの、正宗〔白鳥〕さんの「地獄」だのといったものが出ています。島崎〔藤村〕先生の「一夜」だの「伯爵夫人」だの「苦しき人々」だのというものもその一月の発表にかかります。そしてその二月、永井先生のその「深川の唄」の「趣味」へ出たときには、外に「中央公論」に徳田さんの「リボン」と小栗さんの奥さんの「留守居」(この作は一月の、小栗さんの「耽溺」に対してかかれたもので、当時まだ、そうした二義的なモデル問題のおもしろがられているさかりでした。)と、真山青果さんの「十数頁」、「文章世界」に徳田さんの「病室」と上司さんの「人形」と水野仙子女史の「徒労」、「早稲田文学」に正宗さんの「二家族」、そうした作品が時を同じくして世間へ出たときでした。いちいちその内容についていわなくっても、作者とその作のもつ表題とをみただけにしてそれらの作のもっているもの、それらの作に描かれているもの、そのそれぞれを大ていに感じていただけるとおもいます。すくなくとも都会的な、あるいは都会人的な明るさ、自由さ、聡明さ、くすりにしたくもそうしたものは、それらのどの作品からも求めることが出来ませんでした。そうしたどろ沼のような中に忽然咲きいでた目もあやな一輪の花。……実際「深川の唄」をはじめて読んだときには眼のまえの急にあかるくなったのを感じました。いいえ、身辺に、自分たちの生活に、急に夜のあけたようなときめきが感じられました。電車の窓から見た築地河岸の午後、永代ばしのうえからみたむかしの早船のおもいで、洲崎の廓にみ出したかつての夏の夜の詩情。――その作のなかにえたそれら幾くだりの美しい文章。……それは、いいえ、ただにそれ自身美しい文章であったばかりでなく、いかにしてみるべきか、いかにして感ずべきか、いかにして描くべきか。――最も新しい文学というものがいまどこまで来ているかということをはッきりわたくしに教えてくれたので……「けれども江戸伝来の趣味性は九州の足軽風情が経営した俗悪蕪雑な『明治』と一致することが出来ず。家産を失ふと共に盲目になつた。そして、栄華の昔には洒落半分の理想であつた芸に身を助けられる哀れな境遇に落ちたのであらう。その昔、芝居茶屋の混雑、お浚ひの座敷の緋毛氈、祭礼の万燈花笠に酔つた其の眼は永久に光を失つたばかりに、浅間しい電車の電線薄ッぺらな西洋づくりを打仰ぐ不幸を知らない。よし又、知つたと云つても、こう云ふ江戸人は、吾等近代の人の如く熱烈な嫌悪憤怒を感じまい。我れながら解されぬ煩悶に苦しむやうな執着を持つてゐない。江戸人は早く諦めをつけてしまふ。すぐと自分で自分を冷笑する特徴をそなへて居るから。」
 前記盲目の男を描いたこうしたくだりにいたったとき、中学の五年でしかなかったわたくしの昂奮は全くその極に達しました。


 そのむかしばなしを、一伍一什、熹朔さんに話しました……
「とにかく芝居茶屋だの、浚いだの、祭礼だの、そういう字のならんでいるのをみただけでもうカッとなってしまったんですからね。」
 そのあとそういってわらいました。
 が、いまだからそうわらえるようなもの、実際それまでの文学は、そういってもそういう文字に縁がなさすぎました。そういう存在の美しさに眼をふさぎすぎました。そういう人生を下積にしすぎました。――決してそれは自然主義の文学ばかりでなく、そのまえの硯友社の文学にしてもなおその繊細さを欠いていました。東京の、東京人の生活、あく迄ただしい伝統をもったその生活の、その底にかよういみじくも哀しいかれらの呼吸を、われわれ決してそれまでのどの文学にも聴くことが出来なかったのでした……
 が、やがてその広っ場を出てお堂のまえに立ったとき、
「これァいけない。」
 ひそかにそうあたりをみ廻しました。
 お堂は出来ました。立派に再建出来ました。でもそのお堂のまわり、お堂を取巻くいろいろの建造物の、もとのすがたにすべてまだ立ちもどっていないことがいたましく……というよりも、もっと弱い感じに寂しくつつましく震災の名残を物語っています。……ということは、たとえば三十六童子を随処に立たせたあのこごしい岩根のかげもそこにみ出されなければ、積まれた石の一片毎に奉納者の名まえを彫りつけたあの玉垣もむなしくいま残骸をとどめているばかり。……ただその石だたみのうえの大香炉あって、折からまた音もなくふり出した雨の中、しずかになつかしく昔ながらにうち烟っているのがみられるばかりでした。――人に押されて、そのままわれわれ、出るともなく表門のほうへ出ました。
 両側にならんだ講茶屋、暖簾と納め手拭との影のめざましくつづいたその光景。……「深川の唄」にもはッきりその特徴の描かれた光景。……墨一いろの、いえば一言、「信心」のかげの濃く滲んだ光景。――で、おそらくあなたもそうお思いになったろうとおもいます、その講茶屋の一けん、むかし通った運座の家、忘れ難いあの「おもあかり」の宿をさすがに人情で覗きました。――その隣の店で粟餅を千切り、そのまえの店で団子を焼くように、その店では、四五人襷をかけた印半纏の男たちが、以前にかわらずいそがしそうに金鍔の餡をつつんでいました。――が、「内陣新吉原講」の鉄門のそと、夜長、夜寒、しぐれのふぜいに懸られてあった石橋は、その下をながれていた細い溝の水とともにいつかそのすがたを消していました。
 そのあと、潮見橋をわたり、船木橋をわたったわれわれは、まるで戦争のような騒ぎの区画整理のなかを抜けて「きん稲」のまえに立ちました。木場のけしきは変ってもこのしもたやのような小さな料理屋のけしきはかわりません。震災まえとおなじ間取の、二間しかない一間の、庭に向いたほうの座敷にすわって改めてその庭の上をみ直したとき、柳だの、銀杏だの、榧だの、さくらだの、桃だの、そうした若木ばかりの青々とした梢に、いつかまた止んだ雨のしッとりあかるい深川の……辰巳の空があくまでしずかにひろがっていました。――そこにはコンクリートのベンチも、コンクリートの藤棚も、コンクリートの土橋も、そうしたものの存在はすべて感じられませんでした。
「あしたは霽れますよ。」
 わたくしは熹朔さんにいいました。


香取先生



「……偖我が浅草小学校訓導香取真楯先生には明治三十年本校に教鞭を執られてより在職当に三十二年の其間温厳宜しきを得て児童を教育せられたる功績は本校関係者の熟知せる所に有之候。宜なるかな昨秋御大礼に際し文部大臣より功労顕著なる故を以て表彰せられたる事や、是先生の御栄誉は勿論本校としても全国を通じて僅かなる特別功労者中に加はるべき先生を出したるは非常の名誉と存じ候。仍つて有志相図り先生の為に左記の通り祝賀会を開き並びに記念品を贈呈致し度候間先生に縁故を有せらるゝ方は勿論本校関係者諸氏は右趣旨御賛成の上奮つて御参会被下度此段得貴意候。敬具。」
「浅草小学校香取先生表彰記念祝賀会」からこうした印刷のてがみをわたしはうけとった。香取先生というのはわたしのむかしの先生である。むかし小学校で教わった先生である。――小学校ではじめてわたしの英語を教わった先生である。
 勿論、その時分でも、英語は正課ではなかった。高等三年以上……だったと思う……の希望のものだけがそれをやり、やりたくないものはやらなくってもいい、そういう自由な規則だった。で、そのためには、正規の稽古の終ったあと一時間でも二時間でもなお残らなければいけなかった。だから、自然、それを希望するものは、級の中でもある程度の成績をかちえているもの……端的にいって「勉強家」……その時分の言い方でいって「学校の好きな」ものばかりに結句限られた。――なかでも、わたしの、優秀な成績をもった生徒、感心な勉強家、不思議に「学校の好きな」子供だったことはいうをまたない。……
 ところがその優秀な成績をもった生徒の、感心な勉強家の、不思議に「学校の好きな」子供の仮面が、あるとき、痛快に、もののみごとに引ッ剥がれた。その英語の時間にである、その時間に香取先生によってである。
「勉強せい!」
 一言……たったそう一言いわれてすくみ上った。
 というのも重々こっちがわるかったので、忘れもしない、神田リーダーの、あなたはわたくしよりせいが高い、かれはあなたよりせいが高い、かれは三人のうちで一番せいが高い。……そこんところを香取先生、噛んでくくめるように、一ことを幾度も、しかくあなたはわたくしよりせいが高い、かれはあなたよりせいが高い、かれは三人のうちで一番せいが高いとそればかりくり返すのをじれったく、もういい分った、いつまでおんなじことをいっているんだ、と甚だ不届きに、わきを向いて、となりのものとわたしは話をはじめた。――勿論なんの話、どんな話をそのときはじめたかはおぼえていないが、どのみち公園の、加藤剣舞の最近替ったしものについての話か、でなければ押川春浪の『海底軍艦』の話か、でなければすぐもうそこに眼のまえに迫った四万六千日の話か……なぜならそれが一学期の末の、すぐもうあかるい夏休みになるであろう時分だったから。……おそらくそんなこと位に違いない……
 と、そのとき、
「久保田!」
 不意にそう呼ばれた奴である。――はっとしたって間に合わない……


 が、優秀な成績をもった生徒は、感心な勉強家は、おくめんなくすぐ立上った。
「つぎを読みなさい。」
 香取先生は敢然といった。
「…………」
 勿論、わたしは、無言に立ちすくんだ。――読めといわれたってどこを読んでいいのか分らないのである。――わたしの持って立った本の、すくなくもいままでわたしのあけていた部分には、ことさらそんな読まなくッちゃァならない文章なんぞ存在しないのである。
 わたしはわたしのうえに教室中の眼を感じた。――わたしはカッカした……
「出来ません。」
 潔くわたしはいった。
「出来ない?」
 それは、だが、香取先生にとって意外な返事らしかった。
「……出来ません。」
 もう一度わたしは……だが、今度は、まえほど決していさぎよくなくいった。
「…………」
 急にあたりのしんとしたのをわたしは感じた。――と、そのとき――そのときである……
「勉強せい!」
 ……わたしはすくみ上った。
 というのが、これ、そこにいるのは始終一しょにいる仲間ばかりでないのである。その時間に限って女が一しょなのである。男女共学なのである。――入らざるよそ外の奴たちのまえにかかなくってもいい恥をかき、うしなわなくってもいい面目を失ったわたしに、そのままぼんやり腰をかけたわたしに、その教室(とはほんとうはいわなかった、その時分まだ教場といっていた)の、どこもすっかりせいせいとあけッぴろげた三方の窓、その窓々の白い金巾のカーテンをふき抜いて来る午後の風があくまで無心にやさしかった。
 わたしは眼をそらした。
 そのカーテンのかげに、七月のあかるい濃い空が、カッとした、きつくような感じにひろがっていた。
 不思議とそのけしきを、夢のように、いまだにわたしはおぼえている。
 が、それ以来、わたしにとって香取先生は怖い先生になった。それまででも怖くないことはなかったけれど、すくなくもそれ以来、はッきりと怖くなった。ごまかしのきかない先生、油断の出来ない先生、だらしのないことの大嫌いな先生として、わたしばかりでなく、外のものでもみんな気ぶッせいがった。――ということの一つは、そのときの、われわれ高等三年担任の先生が音無しすぎるほど音無しい先生だったからである。やさしすぎるほどやさしい先生だったからである。だから何をしても大丈夫という肚がみんなにあった。――そこへゆくりなくあらわれたのが香取先生……剛毅そのもの、果断そのもののような香取先生だった……
 実際この紺の背広につつんだ先生の短躯……先生はふとって小柄だった……にはみるから精悍の気がみなぎっていた。太い眉、けいけいと輝いた眼、ふさぶさと濃い毛を無雑作に分けた頭。――運動場で号令をかけるのを聞いても、誰よりも、先生、一番キビキビと大きな声だった。
 わたしの記憶にもしあやまりがなければ、ふだんは先生、尋常三年だか四年だかうけもちの先生だった。


 明治二十八年にわたしは浅草学校へ入学した。だからそのとき、その高等三年のとき、明治三十四年だった。……「在職当に三十二年」を逆にかぞえて、今年は通算明治六十二年だから、とにかくそのとき、その高等三年のとき、先生まだ、学校へ来て三四年にしかならないときだった。――先生の元気一杯だったのに無理はない……。
 その後、高等四年になったとき、わたしは先生のところの「夜学」へかようことになった。……といっても、それだけでは、そういっただけでは、いまの人には分らないかも知れない。そのころの小学校の先生は、その大ていが、学校以外、それぞれ自分のうちへ弟子をとって英語だの漢文だのの個人教授をしたものである。それをわれわれ「夜学」と呼んだ。――その「夜学」へ行くのに、だれも一旦うちへ帰って出直すのをあたりまえとしたが、ときによって学校の帰り、そのままそこへ弁当ばこをぶら下げたなり廻ってしまう場合もすくなくなかった。だからそれは事実において半ば「昼学」だった。……が、どこの夜学へ行く、どこの先生んとこの夜学へ行く、みんなわれわれ、すこしのうたがいもなくそういった。
 その時分、香取先生、今戸に住んでいた。「ほんに田舎も真柴たく橋場今戸の朝けむり」の今戸である。――待乳山の下、今戸橋をわたって行くこと約半町、左っ側が八幡さまで大きな石の華表とりいが立っている。その石の華表のすじむこうに、古い、格子づくりの、おんなしような恰好をした小さな平屋が二三げんならんでいた。そのとッつきの一けんが先生のうちだった。――その格子……わたしはその格子のたてつけのきわめてよくなかったことをおぼえている……をあけて入ると狭い土間の、すぐそのうえが煤ぼけ切った障子。――その障子をあけたすぐのところが天井の低い六畳の座敷になっていて、そこに細長い、張板をわたしたような机が三方に用意されてあった。午後から夜にかけて、すくないときで十四五人、多いときでその倍の人数が、のべたらに、いれかわり立ちかわりそのまえにすわった。――勿論われわれのような小学生ばかりでなく、むしろ半分は中学や実業学校へかよっている学生たち、まれに田町あるいは馬道あたりのあきんどやの前垂がけの若い番頭たちさえその中にまじっていた。
 その机のまえにすわった先生の恰好もはッきりわたしはおぼえている。学校でのきゅうくつな洋服をぬいだ先生は、ボタンで手首を止めるシャツにもめんのごつごつした縞の着物、おなじく白いもめんの兵児帯をきちんとうしろで書生のように結んでいた。そうしてそう和服形わふくなりになっても、ごまかしのきかない先生、油断の出来ない先生、だらしのないことの大嫌いな先生、という感じは決してわれわれのまえから消えなかった。学校でみるとすこしも違わない、剛毅そのもの、果断そのもののように、ずんずんとそれぞれの、あるいは日本外史を、あるいは方丈記を、あるいはナショナルリーダーを、明快に、敏捷に、そうして親切に片附けて行った。――ことにその数学……といったところでわたしの場合にあってはまだ算術だったが、……のどんな問題でもを苦もなく解き去ることにおいて、技、神の如きものがあった。


「……たまにしか俥の音も響かず、いたって人通りに乏しい狭い往来ながら、そのせいかみ上げる空の感じにどこかカラリと放たれたものがあって、そこに八幡さまの境内の大きな銀杏……一際目立つその梢が飽くまで高くそそり立っていた。――冬、時雨が来て、その黄に染った落葉が用捨なく道のうえに散りしくとそれがわずかな特徴の(という意味は、そうした格子づくりのうちばかりの、外に商人やといったら数えるほどしかない)今戸焼を売る店々が急にその存在をはっきりさせた。白い腰障子、灰いろの竈、うず高くつまれた土細工のとりどりにすぐその裏をながれる隅田川のしずかな水の光があかるくさむざむと匍上った。」
 かつてわたしは「続吉原附近」という文章のなかにこのあたりの思いでを書いてこういった。
「一言にして古風な人情――古風な人情をもった町だった。しかししずかな、哀しい、つつましい往来だった。」
 こうもわたしはいった。――実際その、古い、格子づくりの、二階をもたない平屋建の、くたくたに疲れた瓦屋根。……その瓦屋根の危くすべりかけている瓦の間に伸びた雑草。……そのはかなく素枯れるであろう草のいのちにさえそぞろなおもいをさそわれるのがそのあたりの光景けしきの身上だった。
 香取先生のところへかようまえ、わたしは、千束町の三木先生のところの「夜学」にずっとかよっていた。三木先生というのはまえに浅草学校にいた先生で、そのあと、本所の江東学校へ転任した先生だった。けど転任してもやっぱり浅草にいて、もとの学校の生徒たちを相手に「夜学」をつづけていた。が、そのうち、どうした事情か急にそれを止してしまった。……ちょうどこっちの高等四年になったときで、中学へ行く入学試験の準備もそろそろしなければならず、ちょうどいいからその機会に、さっそくその香取先生のところへわたしはあがったのである。
 だからわたしは、春から夏、夏から秋、秋から冬、そうしてまた冬から春、四季を通じて一年あまりそこへかよったのである。待乳山の裾をまわり、今戸橋をわたって、毎日その八幡さまの華表とりいをうち仰いだのである。――が、いまにしてふり返って、わたしはわたしのその当時の記憶の、秋から冬にかけての、暗い、しずんた、寂しい色にばかりみちているのに驚くのである。――木枯、しぐれ、雪。……今戸橋のうえからみた短日の水のいろのあじきなさも忘れることが出来なければ、机のうえにのせた手ランプの下、英習字に運ぶペンの音にまぎれた虫の声のおぼつかなさも忘れることが出来なければ、霜の冷めたく満ちた空、すっかりもう葉をふるい落しつくした銀杏の梢の、その空の下にそういってもしずかに眠っているのを帰り路の格子のそとにたまたまみ出した心細さもわたしには忘れることが出来ない……
 そのころ公園の常盤座に菊地武成という書生役者が出ていた。野暮な感じの二枚目で、色男の書生だの、主役の、なさけ深い探偵の役なんぞ巧かった。
「ねえ、香取先生は菊地に似ているじゃァないか。」
 あるとき仲間の一人がふいにこういった。
「うん、そうだ、似ている。――そういえば似ている。」
 わたしはすぐそれにこたえた。――前にいうのをわすれたが、先生はまた色も白かった


 ……そのあと、わたしは、首尾よく及第して錦糸堀の中学へ入り、入ると一しょに香取先生のところへかようことを止めた。なぜなら時間が許さなかったからである。――わたしと香取先生との交渉はそれで終った。
 が、終ったといえば終った、それだけだったといえばそれだけだったものの、間接の、そうした直接でない交渉はずッとなおあとまでつづいた。すなわちわたしが中学を出て大学へ入り大学を出て世の中に出、女房をもったり一人の子供の親とよばれるにいたったりしたあとまでつづいた。……ということは、わたしのあと、わたしのすぐの弟……といっても年はわたしと十幾つ違うきょうだいの一人が先生にまた教わった。そうして何年か後、そのまた下の弟が矢っ張また先生の厄介になった。……ことに下の弟の場合にあっては、かつてのわたしがそうだったように、中学へ入る試験の準備のためにことさらな心づかいをかれは先生に強いた。
 その機会に、わたしは、二十幾年ぶりで先生に逢った。むかしとちッとも変らない先生がわたしのまえにあった。ふさふさと濃い毛を無雑作に分けた鬘をわざとてらてらに禿させた老人の鬘にとりかえた以外には、そうして太い眉のいささかのしらがをまじえた以外には、むかしながらにふとって小柄な、むかしながらにけいけいと眼を輝かした、むかしながらにキビキビと精悍の気をみなぎらした先生がわたしの前にあった。――すくなからずわたしは驚いた。
 が、わたしがわたしの道すじをたどった二十幾年のそのあいだを、同じ学校の、同じ教室のなかに先生はくらしつづけたのである。かわることなく、飽くまでしずかに、月も花もよそにくらしていたのである。――おそらく先生にしたら、髪の毛のだんだん薄くなって来たことも眉にしらがのまじって来たことも、それほどはッきり……たとえばはじめてそれをみ出したときにあってもそれほどはっきり老年の寂しさのわいて来るのを感じられなかったにちがいない。……と、わたしはそのとき、うそもかくしもなくそう思った。
じょ戯談じょうだんだろう、とんだこった。」
 が、間もなくわたしは、むかし一しょに今戸橋をわたった仲間の一人によってあまりにそのいわれないのをわらわれた。わたしの思いえたことのあたらなすぎるほどあたらないのをむしろふびんがられた。
「なぜ?……どうして?……」
 決して負けずにわたしはいった。
「どうしてって、君。」
 むかしの仲間はそういったあとでくわしくそのわけを話してくれた。
 ……わたしは聞いたままをいうであろう。その二十幾年のあいだに先生、長い間の道づれだった奥さんをなくされた。そのあと二度目に迎えた奥さんにもすぐ先立たれた。その長いことの、かさねがさねの重病人をかかえての不幸な生活……そのあとに来た子供さんたちをかかえての不自由なやもめぐらし。――そういう月日が十年あまりに上った。――学校だけが、教室だけが決して先生の世界ではなかったのである。


 ……話が大へん理に落ちた。わたしはこんなことをくどくどいうつもりはなかったのである。前記「案内状」のおもてにしたがって出向いた「香取先生表彰記念祝賀会」について書こうとおもったのがそもそものわたしの目的だったのである。
時日 六月二日(第一日曜)正午開会
会場 浅草公会堂(区役所楼上)
会費 金二円(余興、立食、その他)
 以上の「一つがき」によって、わたしに、それのどういう会であるかはもちろん分ったとともに、そうした会の性質上、一人でもよけいの出席者を必要とするにちがいないことも分った。――一人でも多ければそれだけのよけいの気勢があがるからである。同時にそういう会である、おくれるべきではない、そう思ったわたしは、律義にわざと、定刻よりもやや早い時間に会場の階段をあがったのである。
「あ、いらっしゃい。」
 不意にそうわたしは声をかけられた。どこをみても知らない人たちばかりの中……その知らない人たちばかりの中からそういわれた……胸に発起人の徽章をつけた石井の幸次郎君がそのなかにまじっていたのである。
「やァ……」
 いそいでわたしのそういったとき、不意にまたわたしはうしろから呼ばれた。
「よう、これは……」
 ふり向いて、わたしは、象のような偉大な存在をすぐまたそこにみ出した。
「何だ、ちゃァちゃんじゃァないか?」
 むかしの「わたのがんやく」本舗の一人っ子、いまの少壮区会議員小柴市兵衛君と手を取ってすぐわたしは久濶きゅうかつをじょした。
 わたしは、まァ……それにしても、まァ、何年わたしはこの人たちの顔をみなかったろう?
 石井の幸次郎君も、小柴のちゃァちゃんも、ともにわたしのむかしの同級生である。おなじく矢っ張、香取先生に、あなたはわたくしよりせいが高い、かれはあなたよりせいが高い、かれは三人のうちで一番せいが高い、を教わった仲間である。――石井の幸次郎君は猿若町に、小柴のちゃァちゃんは馬道五丁目にそれぞれ古く住む正真正銘の浅草っ子。……いくら逢わなくっても、いくら遠々しくしていても、顔をみればすなわち昨日逢ったとおなじ親しさ心安さのすぐそこに感じられるのは、必ずしも子供の時分の附合だからばかりじゃァない、一つにその人たちが土地っ子だからである、いつになってもかわるところのない嬉しい土着人だからである……
 やがてわたしはちゃァちゃん……なぜかれをちゃァちゃんというかといえば、市兵衛は後に死んだかれのお父さんの名を継いだので、子供の時分はかれは喜三郎といった。なればこそいまだにちゃァちゃんである……につれられて屋上へ出た。なつかしい浅草のけしきを一目にみ渡すためにである。――平地は始終あるいているものの、しかくそれを高みからみ下すという機会はめったに与えられないのである。


 が、わたしは失望した。若葉につつまれた仁王門と五重の塔との屋根、くッきりとあかるく浮んだその部分のながめをだけ除いて、あとはすべてトタン屋根の波のざつぜんとした起伏。……その起伏の、理窟なくごみごみと、むせッぽく、黄色ッぽく濁った感じにみ渡すかぎりうちつづいているだけのことだった。――むかしのように、しッくりと、整然とくぎられた瓦屋根の列、その幾重畳いくかさなりの末にかすんでいた向島の、いまの季節だったら葉ざくらの梢のはるかな青いつらなり。……よしそれのみえないまでも、たとえばその方角へむいた教室の、かの金巾のカーテンをかけた窓からでも、そのあたりの空の、匂わしく水に近いことはだれにでもはッきり感じられたのである。――そうしたゆかしさ、しずけさ、美しさを、極力、出来るだけ否定しているのが、そこに、まのあたり展けているその新興のけしきだった。
「何といったって、君、露地ん中でもなんでもかまわずあんな調子ッ外れなものをおッ立てるんだからね。」
 わがちゃァちゃんは、フロックコートに身を固めたわが小柴市兵衛君は、すぐ眼のまえに突兀とっこつとそそり立った、不恰好な、半西洋の三階建を指さして喟然きぜんとしていった。
 間もなくまたわたしたちはもとの廊下にかえった。わずかなあいだにその受附のあたりは人をもってみたされた。――すでに余興のはじまった会場のほうから六下りの三味線がかるがると音をつたえて、階段に、主として子供づれの参会者のむれがぞくぞくと下からつづいた。
「ええ、まァ、五百五六十。――切符はもっと売れています。」
 石井の幸次郎君はいそがしそうにわたしにこたえた。
 一人はなれてわたしは柱のかげに立った。――なぜならそうすることによって、会場の、手品をやっている遠い舞台をそこから自由に望見することが出来たから……
「失礼ですが、あなた、わたくしを覚えておいでになりますか?」
 と、突然、浅い色の背広を着た三十四五とみえる人がそばへ来てわたしにいった。
「さァ……」
 改めてわたしはその人の毒のない眼をみた。「中川さんでしたかしら?」
「そうで、中川で……」
 かつてそれはわたしの育った町内に久しく住んでいたいまの「中清」の若主人だった。十四五時分の遊び友だちの一人だった。
「お宅の火の見で、凧を上げたことと、おまつりの日にお宅の樽神輿をかついだことだけはいまでもよくおぼえております。」
 わたしの訊いた親御さんたちの消息にこたえたあと中川君はいんぎんにそういった。
「わたくし、井原です。」
 突然また一人の若い人がわたしのまえに立った。――伝法院横町の金物屋の井原君だった、――この人の姉さんとわたしは同級だった。
「吉田も来ています、直ちゃんも。」そういって井原君は窓のそばにいた一人の青年をさしまねいた。「おい、直ちゃん……」
 だれか知ろう、その青年を、端正な眉目の、やや憂鬱な感じをもった近代的の好青年を往年の「浅倉屋」の直ちゃんと。――わたしの知っている直ちゃんは、クリクリとふとった、みるから健康そうな、浅黄の兵児帯に白い油やさんをかけたいたずらッ子だった。
 やがて会は発起人代表の勅使河原区会議員の開会の辞によってはじまった。――この人は公園の写真やさんである。


 つぎに浅草区長、つぎに浅草区会議長、つぎに浅草小学校長、つぎに浅草小学校出身者代表、つぎに奨学会々長、つぎに同窓会幹事長……そうした人たちの演説だの祝辞だのがあった。
 が、このなかで、すこしでも実感らしいものの感じられたのは出身者代表の安藤正純代議士の演説だけだった。あとはすべて、お座なりの、形式だけの、味もそッけもないものばかりだった。とりわけ最近まで吉原の大きな貸座敷の主人だったという区会議長の祝辞の、空虚な凡劣な文句の連続と、奨学会々長の神谷氏……神谷バーのかの有名な神谷伝兵衛氏の演説の、そういっても無感激な、無表情な、とぎれとぎれにしか聞えない小さな声とはいかんなくその情景を「喜劇」化した。勿論、それにはその演壇のうしろにずらりとならんで腰をかけた来賓たちの、行儀のいい、もッともらしい、しかつめらしい顔、顔、顔がその情景をたすけて一層の効果あらしめた。――此奴ァいけない、ひそかにそうわたしはつぶやいたのである。
 そのあと記念品贈呈の段になった。奨学会々長は再びテーブルのまえに立った。発起人代表はものものしくその記念品の内容をしるした書附を読みあげた。――あらしのような拍手のうちに、香取先生は、しずかに謙遜にそのテーブルのまえにすすんだ。
 ……ふたたび喝采は起った。
 が、わたしは、決してわたしはそれに同じなかった。決して一しょになって手をたたかなかった。――なぜなら、わたしは、先生をその「喜劇」の中の一人の役者にするに忍びなかったから。……いいえ、わたしは、それを先生がうけとらなければいいとさえおもった。
 記念品贈呈ということは「有難くいただけ」ということだろうか?「もらって貰う」ことじゃないのだろうか?――出来のよかった生徒の褒美をもらう立場を、この場合、先生のうえにみ出す必要はみじんもないはずである。……
 わたしは寂しくなった。先生の謝辞のすむのをまって、わたしは、ちゃァちゃんにも、中清君にも、直ちゃんにも、井原君にも、わかれをつげないで一人外へ出た。……日曜の午後の出さかった仲見世の人波のうえにあかるい六月の日が眩しく照りわたっていた。
 そのあと二十分、わたしは待乳山の裾をまわり、今戸橋をわたって八幡さまの華表の下に立っていた。――いまはすべてそのあたり「隅田公園」の敷地の、漫々とした水にのぞんだ一めんの広っ場には、すがすがしい雑木のむれが、濃い日のいろを浴びつつしずかに枝をまじえている。古風な人情をもった町のすがたはどこにもとめるよしもない。ただそれだけがむかしながらの、人通りのそういってもすくないことがきわめて容易にわたしを二十幾年まえのわたしに引きもどした。
「香取先生……三十二年勤続……」
 ……わたしはあくまであかるく晴れた青空を仰いだ。


伯龍におくる



 ゆうべは失敬。……何ともすまなかった。
「ひでえや、あんまり。――来るなら来るように。――不意にあんなことをするってことはねえや。」
 きっとあとで君はそういったろうと思う。――いいえ、いたずらとしたらよくない悪戯だ。くだらない悪戯だ。……
 けど、こっちにするとそんなつもりは毛頭なかった。君があすこに出ていることさえこっちは知らなかった。番組をみて此奴は? とおもった。けど、そんときはもう高座のあのまん前にすわってしまったあとだった。――いまさら間に合わない。――と同時に、このごろ、おそろしく眼がわるくなってね、なにをみるんでも聴くんでも近いところでないと身にしみない。……
 なぜ、じゃァ、どう思って昨夜わざわざ人形町くんだりまで出向いたのかといえば、その前の日、久しぶりで落語研究会を聴きに行ったのだ。円生の「山崎屋」、円蔵の「お血脈」、文楽の「品川心中」、文治の「一つ穴」、小さんの「万金丹」、これといって特に聴きたいものもなかったが、いつも切符をもらいッ放しにしている手まえ、たまには行かなくっちゃァ義理がわるいと勝手について出掛けた奴だ。――立花亭、本普請が出来てはじめてだ。……
 と、これがつまらなかった。――こんなこともまためずらしいだろうと思われる位の不作ぞろいだった。
 それをせめてものたのしみにしていた円生の「山崎屋」におくれて半分しか聴けなかったのは残念だったが、その半分だけ聴いたところによってもこの人らしい手堅さは感じられた。たとえばせがれが無事に屋敷から百両うけとって帰って来るところで、このごろの型だとそれをみておやじがおもわずうれし泪をこぼす。……うまくそこを外し切れるんならいいが、そう行かない場合には、此奴、これ、上げも下げもならないくすぐッたいものが出来上る。……さすがに円生、決してそんな小細工に溺れることなしに、さらりとそこを、もなく、何のこともなくさばき去ったのを有難いと思った……ものの、そのあと、つまらないことで事を毀したのにこまった。最後の茶でもいれろというくだりで、どういうつもりか、そういう代りに茶を一服立ててくれといったものだ。あきんどのうちでその註文は雲上すぎる。……それともう一つ、あたりまえの茶でなければ嫁と舅とのその場合のくつろぎも出ないじゃァないか。――そうだろう、君?……
 円蔵の「お血脈」はこの人なんぞのやる噺じゃァない。この噺をするには、この人、あんまり「色気」がありすぎる、「表情」がありすぎる、「野心」がありすぎる。この人なんぞのやる噺じゃァないということは、はッきりいって、若い人なんぞのやる噺じゃァない。それこそもう枯れ切ったとしよりが、みじんもあてぎなく、なかばお役のかたちに、どうでも勝手にしろといった風にやってこそ聴くほうはおもしろい。自分からおもしろがって、嵩にかかってはなしたんじゃァ聴くほうはつまらない。


 文楽は「品川心中」を高速度で片附けた。手ッとり早くばたばたとせんこ花火のようにいそがしく饒舌った。なぜ、この人、「間」というものをもたないだろう? もてない人とは思わない。「味」もあれば「つや」もある人だけに惜しい。
 文治は「一つ穴」で車輪にヒステリーの女の説明をした。そのためには、不思議な、頓驚な人間ばなれのした声まで出して御覧に入れた。が、この噺はもともとそんな手間暇をかける噺じゃァない。そんな手間暇をかけちゃァいけない噺だ。一人の本妻にばかりこだわって、旦那、妾、権助、外のそういう登場人物を「どうでもいい」にしちゃァいけない噺だ。旦那と妾、妾と本妻、本妻と旦那、そのそれぞれのうそで固めた対立に、権助のような、自由な、ありのままな、桁のややはずれた存在をからませてほしいままにそれを批評させたところにこの噺のいのちはある。だから、まず、そこをはッきり掴えてかからなくっちゃいけないんだ。それにはあきんどやのおかみさんを奥さんといったり、往来に道ぶしんの石をごろごろさせたり、あまつさえ、その上を貨物自動車を通らせたり。……いいえ、うそじゃァない、文治ともいわれる大看板がそういう時代錯誤のでたらめを平気でいっているんだ。いまのせかい、東京のどこにそんな男の飯炊なんぞいる? いるんならみせてくれと、相手が相手だけにこっちだって開き直りたくなる。――それにしてもいまの大ていの落語家、どうして噺とその噺の背景になっている「時代」との関係についてそうも無関心だろう? 自分で自分の稼業しょうばいものの箔をはがしているのがいまの其可哀想な君たちだ……
 そこへ行くと小さんにはわりにそんな心配がない。(わたしはこの人が大の贔屓だ。だからわりになんぞとそんな条件はつけたかァないんだが、この春、この人の『長屋の花見』を聴いて、おや? と思った。この人でもときにはこんな不でかしをやるかとやや暗然とした。それがあるから、いま、わりにとわざとそういうんだが)どんな新手のクスグリをもち出しても決してそれの見当をはずしていない。どこまでも腰がすわっている。だからいつの場合でもこの人だけは安心して聴かれる。おとといの「万金丹」だって、だから、これというソツはなかったんだが、どうしたわけか酷くはじめッから調子がたるんでいた。いつものこの人の芸の緊密さが感じられなかった。一つにはあんまり好きでない噺のせいもあってちッともわたしはおもしろいと思わなかった。
 が、これは、わたしばかりそう思ったんじゃァない、帰りに途中まで一しょだった石谷さんも森君もほぼ同意見だった。――だから、わたしの贅沢ばかりじゃァない……
 こういったら君はいうだろう。
「それで、昨夜、末広へ来たんですか?」
 その通り。――まさにその通り……。
 つまりは鬱憤をはらしに行ったんだ。一昨日のその鬱憤をはらしに行ったんだ、昨夜……。
 こういったら君はまたいうだろう。
「金語楼こそさいなんに……」


 といったって、何も、金語楼にうらみがあるんじゃァない。ことさら目くじら立てなくちゃァならないわけがあるんじゃァない。――ただ、かれ、ものを知らないからいやだ、臆面がないからいやだ、聞いたふうだからいやだ……
 もちろん金語楼ばかりじゃァない、三語楼、小三治、みんなそうだ。そうだから嫌いだ。――およそこの系統にぞくするものに、まんぞくな、筋のとおった、目鼻のあいた存在は一人だっていやァしない。――大ていあきれるに足る。……つまりそれを知っているわるい奴がわたしに智慧をつけた。
「末広へいらっしゃい、末広へ。――あすこへ行かなくっちゃァだめだ。」
 久しぶりで聴いた研究会のいかにつまらなかったかを嘆じた矢先でそういわれたのだ。
「誰が出ている?」
「金語楼。」
「何をやっている?」
「黒ん坊ジャズバンド。」
 ……が、おもえば不思議な話さ、誰が出ているときいて金語楼といえば「いろもの」にきまっている。だのにそれを特に何をやっている?……追出しの余興がいろものの席の、落語の席の最も大切なおめあてになろうなんぞ、「御覧なさい、いまに、三越なんてとこで祝儀不祝儀のことまで一切取仕切るようになりますから。」といしくも百貨店の前途を予言した先々代の馬楽でもおそらくここまではみ通しがつかなかったにちがいない。――その意味では、金語楼、たしかに画時代的なことをした……
 わたしでも、この男の、お盆をもってふらふら踊っていた小金馬時分を知っている。わたしの書いた「三遊亭金馬一行」という古い文章のなかには若かりし日の、あたまのいまだ禿げざりし日のかれのおもかげが残っている。その後でも兵隊から帰って来て、自分のしくじりばなしなんぞうりものにしはじめたのをときどき聴いた。――聴いて、わたしはほんとういうとすこし感心した、なぜならかれのその表情に新時代の「漫画」を感じさせるものがあったから。……新しい落語、いずれは出来なくッちゃァすまない新しい落語というもの、大きにこんなとこから出立して来るんじゃァないか……来るのかも知れないとさえわたしは思った。
 そのあと六七年、とんとこっちの寄席へ御無沙汰になっていた間にすッかりこの男うり出した。押しも押されもしない立派な真打になった。――出世したもんだといまさらのようにお盆をもって踊っていたかれをおもい出した。
 と、たまたまおととしの夏、水上瀧太郎君が奥さんと二人で日暮里へ遊びにみえた。夜になってぶらぶら一しょに上野まで出た。水上君の奥さんのまだ、いろものの寄席というものを知らないのを知ってちょうどいいから鈴本へ入った。――入ると、此奴が、「金語楼納涼珍芸会」というものだった。
 その晩以来、その「納涼珍芸会」以来、ことごとくわたしはこの男にあいそをつかした。……


 どんなことをその「納涼珍芸会」がやったかといえば、金語楼が、前座及び準前座を相手に「かっぽれ」の真似をしたり、「曲芸」の真似をしたり、「活動写真」の真似をしたりしたのだ。で、その間で、落語家の本然に返って一席だけ饒舌った。――が、その「かっぽれ」でも、「曲芸」でも、「活動写真」でも、ただそうした眼さきだけの趣向をして御覧に入れたというだけの話、ただもうそうした恰好をして深川を踊ったり、そうした拵えをして皿をまわしたり、そうした扮装をして弁士の声色をつかったりしただけのことだった。そこに、何ら皮肉があるんでもなく、穿ちがあるんでもなく、ことさらの味があるんでもなかった。智慧のないことこの上ないものだった。
「まるで素人のような落語家だね。」
 さすがに水上君だ、ピタリと一言、トヾメをさした。
 けど、それはまァ、もともとそんなものなんだからそれでもいい、その間で饒舌った本職の落語、それを聴いてわたしァあきれた。――あきれたというより、いいえ、腹が立った……
 なぜといって、君、その噺が「おせつ」の前半を焼直したような噺だ。お約束のおしゃべりの小僧が大旦那につかまって若旦那の秘密をべらべらしゃべる。それはいい。そのなかで小僧が自動車の通をならべてシボレーの何のという。円タク発生以前の辻ぐるまのうえにそれをいうんだからなまぎきも甚しい。で、そのあと柳橋の待合へ行くと、女中が出て来て、若旦那の顔をみてすぐ大きな声で主人を呼ぶ。何といってそれを呼んだと思う?
「ちょいと、かァさん……」
 どこの国に「おかみさん」をつかまえて「かァさん」という待合の女中がある?――もしあるとしても、わたしは、決してわたしは、わたしのその寡聞を恥じないであろう、だ……
 で、座敷へ通る、芸妓が来る。――その芸妓の柳橋ばなれのしていることはいうをまたない。――そのとき「かァさん」は若旦那のそばへ寄っていった。
「今日出たばかりの新妓しんこがあるんですけれど呼んで下さらない?」
 芸妓の、君、新妓しんこってものがありますか?――ええ、先生、伯龍先生?……
 ものを知らないってことは無教養ってことだ。臆面がないってことはその無教養を平気で暴露出来る無神経のことだ。聞いたふうってことはその無神経をまた平気で逆用出来る浅墓さのことだ。――待合のかみさん、女中、芸妓、その位なものの簡単な写生一つ出来ないで真打がすさまじい。……その晩、鈴本のおもてへ出ると一しょに声を出してわたしはわらった。
 それッきり聴かない。それ以来聴かない。……
「けど、何といったっていまは金語楼の天下ですよ。――三語楼だってこのごろは押されています。」
 そういううわさを聞くたんびに寄席の人気の立たないのはあたりまえだ。落語の席のうだつのあがらないのはもッともだと、いつもわたしはそう思った。


 で、昨夜。
 わたしの入って行ったとき、高座に、背広すがたの若い男が両人ならんでいた。――突ッ立って都々一をうたっていた。
 名けて「ユーモリスト」
 けど、君、「まんざい」なら「まんざい」らしい恰好をしたらいいじゃァないか、何も瓦斯会社のメートル調べのような、無尽会社の集金人のようなごそくさいな恰好をしなくってもいいじゃァないか、――洒落の、愛嬌の、人を喰ったのというものはそんなものじゃァない。――高座は、往来でも、電車の中でも、事務室でもないんだからね。――みてい給え、いまに、ああいう手合だったらきッといまにもっと暑くなったらワイシャツ一つで高座へ出るから……
 つぎにあがったのが三語楼……右円喬時分からの存在だ、わたしにとっては。――その時分中学生だったわたしにとって、わるく不消化な漢語ばかりつかうきざな存在だったが、それが嵩じてとうとうほんものになった。うりものの「がまのあぶら」わたしは決してそれをまずいとは思わなかったものの、しかく愚慢大人になり切ってからはそれにさえ圭角が出来て聴かれたものでなくなった。――それについておもい出すのはさきおととしの春だ、ある小さな宴会で、余興にかれのこれをやったのを聴いた。そのときまくらに、いうことに事を欠いて、「ボッカチオ先生のデカメロン、さすがに結構なもので……」いい間のふりにそッくり返ってそういうのを聴いたときには、ここまで来ちゃァとてももうこの男もすくえないと思った――なぜといって、そのとき、その聴き手の一番まえにすわっていたのがいまは亡き小山内先生だ。……そのまえで、こむかいにはっきりそういう人みしりをしないことをいったんだから大したもんだ。
 が、昨夜は、それ以来はじめて聴いたといっていいのだが、昨夜のかれは、いといんぎんな、いと謙遜なかれだった。決してそッくり返らない落語家だった。で、何といったと思う?
「芸人はドジほどいいようで……」
「俺はいい男だろうというような芸人は青臭くっていけません。」
 わたしはわたしの耳をうたがった。おや? と思ってわたしははッきりかれの顔をみ直した。――人の性はやっぱり善だと感じた。……
 へんな癇に障るようなことさえいわなければ聴けない落語家じゃァない。昨夜は「親子酒」をはなしたが、まくらの、江戸むきのあきんどやの台所の描写なんぞなかなかしっかりしていた。ただ一言ずついうことが多すぎる、それが矢っ張きざだ。たとえばくるみあしの膳の説明だの、箱膳の説明だの、……なぜ、もっと、なんどりとやさしく、ギスつかないでやれないだろう?……芸人、ギスギスすることが一番いけない……
 その一言ずついうことの多いことは本文の下げにも及んだ。「こんなぐるぐるまわる家は入らない」とだけいえばいいものを「こんなぐるぐるまわる家にはあぶなくっていられない」と入らざることをいった。――畢竟、註釈をつけなければ気のすまない、「暗示」のいみじさ美しさを知らない気の毒な芸人だ。


 つぎに出たのは浪花ぶしの物真似だ。わたしには浪花ぶしは分らない。だからうまいとも不味いともいえない。ただこの雲心坊という男も、眼のみえない芸人特有の、ばさけた、露出症的なところを多分にもった存在であるだけはたしかだ。垢抜けのしないこと、場違いの感じのはッきりしていることにおいてまえの「ユーモリスト」といい取組だ。――それにつけても「末広」のお客のわるくなったことよ……
 そのあと金語楼があがった。年をとったのに驚いた。おととしの夏久しぶりでみたときにもそう思わないではなかったが、近くで昨夜しみじみみて、すッかりじじむさく、もっともらしくなったに驚いた。あれじゃァ立派な四十男だ、――が、当年の小金馬をおもうと、まだそんなってことはないはずだ。……若い夫婦ぐらしのところへ幾人もの目見得の女中の来るはなしをした、新作だろう、わたしは始めて聴いた。最初に来るのがぐうたらなすれッからし、つぎに来るのが新しい女、そのつぎに来るのが改良剣舞とかけおちをして来た田舎もの、あとにまだ二人出て来るんだそうだがそれッきりしか話さなかったから分らない。が、それだけ聴いたところではいつかの「おせつ」の焼直しをやったときのような失敗はなかった。「新しい女」を除いては、そのぐうたらなすれっからしも、田舎ものも、かなりはッきり感じられた。勿論まじりッけなしの、まぜものなしの、消えた艶の冷めたく澄んだ味はなかったが、これだけこなせれば、いまなら真打の候補者にかぞえてもいいという位の程度の話し口は感じられた。
 が、「新しい女」でみごと矢っ張失敗した。結句いかんなくぶち壊した。当人のつもりじゃァ、いっぱしあれでモダンガールをうつしだしたつもりかも知れないが、わたしにいわせればあれじゃァ「青踏」時代の、青い酒赤い酒全盛時代の、いまはすでに古き「新しい女」にもなっていない。あれじゃァ何のことはない「日の出島」の雲岳女史だ。いまをさる三十余年前の「新しい女」だ。
 伯龍君、もし君が金語楼と遠慮のない附合をしているんだったら、わるいことはいわないからそういってくれ給え、すくなくもいまのモダンガールは、決してそんな横っ腹へ古風に両手をなんぞあげたり「いやしくも大日本帝国の婦人が……」となんぞ、決してそんな愛国の血にもえるようなことをうそにもいったりしたりしないということを。……それがそうしていかにモダンガールを侮辱する結果になるかということを。……ああそうだ、忘れた、もう一つ、パヴロワはパヴロワ、ポーロワなんて言い草はどこにもないっていうことを……
 おめあての黒ん坊ジャズバンドについては、タンバリンをもって「かっぽれ」を踊る金語楼に、いまにして小金馬時代の修行のむだでなかったことを、その有難さを、ひそかに感謝しているであろうかれを感じた。……というただそれだけ……
 君の「天保六花撰」についてはわざとわたしはふれない、なぜなら君は、今日わたしにとっての相棒だから。――わたしの呼出した大切な楽屋の色男だから……
 こういったら、君は、おそらく横を向いて吐き出すようにいうだろう。
「つまらねえ、そんな……」
 ……七之助のように、金五郎のように、そうしてまた直侍のように。


自由席より



 …………………
 …………………
 帝京座へ入った。
 ほうおうが一ぱいに羽翼をひろげた幕のまえに、
たばこは喫煙室にて願います。
 とした掲示と一しょに、
一回の終りしばらくお待ち願います。
 と書いた掲示が無心にぶらさがっている。
 まえのほうは一ぱいだ。われわれの立った自由席はがらがらだがまえの椅子場はぎッしりだ。
 早くしろい。
 早くあけろやい。
 たのんまッせ、もし。
 ……ばたばたと拍手。……おもい出したようにである。……暗いなかに麦藁帽子の波がうごく。
 八幡町の小林さァん……
 木戸まで急用である。
 松倉町の新井さァん……
 そうした無表情な声がそのなかをぬってながれる。
 ……麦藁帽子の波は白くうごく。
 大和屋三姉妹、と大きく書いた掲示が上手の壁にまたぶら下っている。
 父危篤の報に接し帰郷いたしました。休演中は御用捨願います。
 ……くわしくいうと、大和屋とだけ大きく、その下に三姉妹とやや小さく横に、父危篤の報に接し以下の文句は、その下に、縦に小さく三行に分けて書いてある。
 下手の同じ位置にも何か書いたものがさがっている。が、それはよめない。
 ……暑い。
 が、しずかだ。――しずんでいる。――もう一つざわつかない。
 天井に煽風機が夢中でまわっている。
 と、柝の音。
 やがてするすると幕はあがった。浅黄壁、葭戸、庭遠見、そうして真ん中の二重のうえに、お下げの、真っ赤な帯上げを胸高にもりあがらせた少女がすわっている。その右に黒紋付、坊主あたまの、眼鏡をかけた若い三味線弾きがすわっている。左に薄いろの着附、桃割れに結ったもう一人の少女が太鼓をまえにしてすわっている。
 岡田小宗。そう書いた名まえ札が出ている。――何とよむんだろう? 小そうとよむんだろうか?
 ……すぐ安来ぶしをうたいはじめた。
 どうして、どうして……
 あら、どッこいしょ……
 見物は、欣然と、手をうってそれに和した。――場内、急に、放たれたように、夜の明けたように色めき立った。
 ……麦藁帽子の波。
 が、悲しいことに、われわれにはうたわれるその唄の文句がかいくれわからない。――耳をつらぬくようにその声は聞こえた。でもその文句はあらしに消される雨の音ほども聞こえなかった。
 なぜだろう?
 幕はしまってすぐあいた。――いまのお下げの少女が太鼓にまわり、三味線弾きも年をとると一しょに唄い手もハイカラに結った中婆さんになった。
 ……山の手の奥さん……
 そういう声がかかった。


 勉強しろよ、ばばァ……
 剥げるぞ、おしろいが……
 いやじゃありませんか……
 そうした声々が、つづいて起った。そうして、そのあと、それらを圧倒するやさしい一声が舞台へなげられた。
 つまちゃんや……
 と、かの女、すぐそれにこたえた、嫣然えんぜんと……
 あいよ……
 田村妻子というのがその名である。
 が、田村でも、妻子でも、うたうその文句の分らないことにおいてはまえとちっともかわらなかった。都々一が入り、浪花ぶしが入って、一層その安来ぶしの内容の複雑になったことは分ったが、それ以上のことはかいくれ分らなかった。
 なぜだろう?
 ……………
 ……………
 観音劇場へ入った。
 帝京座ほどのことはないが、ここも矢っ張まえのほうは一ぱいだ。そうしてわれわれの立った自由席は散歩の出来るほど矢っ張がらがらだった。
 舞台は、野遠見の、両袖を松の立木でみ切った田舎のけしきで、そこにばかばかしく大きな(そういっても大きな)がらのべんけいの浴衣を着た背の低い女が赤ん坊を抱いて立っているそのまわりに、三四人の、ばくちうちらしい拵えの男があつまってしきりに何かがやがやいっている。と、上手から、糸立を着たじいさんが出て来た。何かいいながらかぶった笠をとるとその男たち、俄に親分々々といいつつなつかしそうにそのじいさんを取巻いた。――暗転………
 われわれは十銭出して筋書を買った。それによって其芝居が「沓掛小唄」という芝居で、その糸立を着たじいさんは沓掛の三蔵、その赤ん坊を抱いた女は追分の時次郎の女房のお秀ということが分った。――要はその沓掛の三蔵という親分が八州の役人を斬って長い草鞋をはいたあと、松井田の惣右衛門というかれの競争者がその縄張を荒そうとする。留守をあずかった子分の時次郎がそれをふんがいして堂々と挑戦する。そのためには可愛い女房のお秀をさえ犠牲にする、というのは、お秀は、生憎なことに当のそのかたきの惣右衛門のむすめだから。――火事泥をするようなものの娘は女房にはもてねえと、顔には出さねど心の裡は張裂くばかりのお秀を突返す、始終を黙って聴いていた惣右衛門、此時大きく点頭うなずいて、よし、じゃ出入の場所は沓掛明神の杜、時刻は初夜の鐘が合図だと言渡せば、今は身軽な独身ものになった時次郎は莞爾と笑って、お互に渡世人の道を歩みましょう、と各自子分が刀の柄に手をかけて睨む間を縫って悠然と帰って行く……とその筋書にそう書いてある。――清水の次郎長は「荒神山」、吉原の仁吉と阿濃徳のくだりによく似ている。――もッとも仁吉の女房のお菊は阿濃徳のむすめじゃァない、むすめじゃァなくって妹だ。だから違うといえば違う……
 田中ァ。――田中ァ……
 大した人気だ。筋書のうえにさらした眼を転じてわたしは舞台をみた。ちょうどその筋書の、各自子分共が刀の柄に手をかけて睨む間を縫って悠然と花道を帰って行く時次郎。――田中介二扮するところの追分の時次郎のうえをわたしはみまもった。


 が、わたしは、はじめてみるのだ、この役者を。――名まえはむかしから知っているけど、顔をみるのは、今日がいまはじめてだ。
 なぜむかしから名まえを知っているかということは、役者としてのその名まえを知っているのじゃァない。作家としての、新進作家としての其名まえをわたしは知っていたのだ。
 作家?――田中と新進作家?……
 知らない人は信じないかもしれない。が、いまをさるざっと二十年まえ、わたしのはじめての作が「三田文学」に載ったとき、かれのはじめての作もまた「早稲田文学」に出たのだ。そうしてかれは圧倒的な好評をえた。――それが「死の歓び」という若い朝鮮人の自殺をあつかった小説、きわめて美しい文章の、かなりの長さをもった小説だったことをいまなおわれわれにおぼえさせているほど、当時の文壇をその作は刺戟した。当時まだ自然主義の余燼のふすぼっていた早稲田から、そうした詩人型の作家が出たということだけでもわれわれの興味を惹くのに十分だった。……
 これを要するに、だから、わたしとかれとは時を同じうして世の中へ出たのだ。時を同じうして新進作家になったのだ。――なら、これ、むかしから名まえを知っているのに不思議はあるまい。――そのくせ、縁なくして、あれが田中だ、田中介二だ、と往来で一つすれ違ったことさえなかった。
 どうして、その後、ペンを捨ててかれが舞台に立つようになったのかわたしはその理由をつまびらかにしない。と同時に、新国劇というものの嫌いだったわたしは、そこに属したかれを、かれの舞台を自然みる機会をもたなかった。――で、今日いま、はじめてわたしはかれをみた。ざッと二十年目ではじめてみた。――そんな見物がいるとは知らないかれは、沢田好みのむしりをかけ、いやが上にも白く塗り、銀拵えの長脇差をこれみよがしにぶちこんだ追分の時次郎は、あくまで活溌な、あくまで散文的な足どりでさッさと揚幕へ入った。
 暗転で舞台はまたもとの沓掛明神の杜にもどった。いよいよおめあての剣劇である。忽ち出す修羅の巷、緑の大地も今は真紅と変じ、双方この一戦こそ自分の運を左右するものと奮戦すると筋書に書いてあるように、とッかえ引ッかえ竹槍や刀での幾組もの立廻りが行われた。が、死を決した時次郎の働き物凄く、彼の一刀向う所虚空をつかまぬものとてはなく、用心棒沢田要之進も仆され、恵比須の勘太、花車の多助も浴びせられ、其様宛然巨人曠野を行くの概があると、矢っ張そう筋書に書いてあるように、とど時次郎、むらがる敵をすべてうちはたし、結句ついに惣右衛門とわたり合ってこれをまた組みしくことになる。そうしてそのとき、アワヤかれの一刀の、その咽喉もとに下されんとしたとき、そのとき早く、このとき遅く、急に舞台は真っ暗になった。そうして忠実なスポットライトは、濃き紫にかれの半面を、苦悶の表情を、浪花ぶしの恩愛感をくッきりそこに浮上らせた。――大写しという奴である……
 そのあとの筋は、わたしは、まだみぬ旧友、むかしの「死の歓び」の作者の名誉のために書かないであろう。――なぜなら……
 ………………
 ………………
 江川大盛館へ入った。


 ……ドロ、ドロ、ドロと太鼓がなって現われたのは助六である。生締のスッポリ、紅で眼張を濃く入れ、紫の鉢巻を顔の横へぶら下げたゆかりの江戸桜の助六である。下手の浄瑠璃台にならんだ、白えりの音楽師たちはすぐうたいだした。蝙蝠が出て来た浜の夕すずみ、川風さっと福牡丹。……もちろん助六はすぐそれにのって踊り出した。
 われわれは烟に巻かれた。が、すぐ番組がそれを教えてくれた。
 新案煙草落し……
 客がバットをうったので、それでそういう魔性のものが現われたのである。……現われてすなわち蝙蝠を踊ったのである……
 助六が消えると上手横の床几にかけた二三人の客の一人は、やおら鉄砲をとり上げて今度はほまれをねらった。
 ドロ、ドロ、ドロとまた太鼓の音……
 四五人の水兵服を着た少女がすぐ駈けだして出て来た。そうしてすぐピアノの音につれて快活にくるくる踊りはじめた。
 なぜそれがほまれか?――ほまれ、ほまれ、国のほまれである。
 その少女群が消えると、客の一人はすぐ又鉄砲をとり上げた。そうして今度は胡蝶をねらった。
 太鼓の音とともにあらわれたのは獅子である。
 浄瑠璃台の音楽師たちはたちまち弾き出しうたい出した。
 常磐津「勢獅子」。――獅子の狂いにさしそう蝶の影である。……
 が、それの終ったとき、あとに残ったのは朝日一箱だけだった。討ち手は用捨なくそれをうった。――急にそのとき舞台は暗くなった……
 山おろしの太鼓の響きとともに再び舞台のあかるくなったとき、われわれは、いままで紅白だんだらの幕で華やかにつつまれていた目前のけしきの、こごしい岩組の山また山の書割をさえもった道具立、そうした陰暗なけしきに一変しているのをみ出したと共に、上手に出語りの肩衣をつけた女の太夫の、三味線弾きとならんで端然とすわっているのを発見した。
 壺坂霊験記谷底の段である。――目のあいた沢市、よろこぶおさと、輝く朝日……である。
 愉快なことは、このとき、下手の浄瑠璃台の音楽師たちの、たちまちそこに一むれの見物人と化し去ったことである。かの女たちは余念なくその芝居の進行をみふけった。そうして、自由に、きわめて自然に、かの女たち同士ささやき合ったり笑いかわしたりした……
 ………………
 ………………
 水族館演芸場へ入った。
 河内家玉春、玉子家利丸、――まんざいである。
 一人は黒紋付の、だらりとれいれいしく帯にからませた銀のくさり、一人は背広でだちの腕時計……
 須磨の仇浪、追分、江州音頭。
 けど、ここはまた何という閑散さだろう。あんまりすこしッか入っていないからわたしは勘定した。――四十三人……
 はこねのやまはてんかのけん、かんこくかんもものならず、せんじんのたに、ばんじょうのやま。……となりの木馬館ではジンタバンドがここをせんどと囃し立てている。
 窓の外の木の枝のかげはもう暗くなった。
 ………………
 ………………
(昭和四年)
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絵空事





 むかしの浅草には「十二階」という頓驚とんきょうなものが突ッ立っていた。
 赤煉瓦を積んだ、その、高い、無器用な塔のすがたは、どこからも容易に発見出来た。どこの家の火の見からも、どこの家の物干からも、どこの家の、どんなせせッこましい二階のまどからもたやすく発見出来た。同時にまた広い東京での、向島の土手からでも、上野の見晴しからでも、愛宕山の高い石段の上からでも、好きに、たやすくそれを発見することが出来た。
「ああ、あすこに。……あすこに十二階が……」
 で、その、向島の土手から、上野の見晴しから、愛宕山の高い石段の上からそれを発見したとき。……そのときのそうしたゆくりない歓び。……その歓びは、それはとりも直さず「浅草」を発見した歓びだった。……あらたかな観音さまをもつ「浅草」を感じえた歓びだった。……それほど、つねに、その塔は「浅草」にとっての重要な存在だった。
 が、それにしても古い名所絵の、東都浅草公園図の、いまをさかりと咲き溢れた花の雲の上にそそり立ったその無器用なすがた。……いまにして、わたしに、その安価な絵空事がなつかしいのである。……なぜなら、むかしの浅草。……わたしのおもいでの浅草。……すくなくも、わたしの、十二三の時分までの浅草は、わたしにとって、いつもそうした春の所有だったからである。日の光はゆたかに、風の息づきはやさしく、柳の芽は青く、いつもそこに春の世界ばかりが展開されていたからである。……ということは、糸の切れた風船の、ゆらゆら立昇るそのかげろうの行方を追うわたしの眼に、うらうらとその十二階の、中ぞら遠くうち霞んでいた哀しい記憶が、いまなおわたしの胸にはッきり残っているからである。
(昭和七年)
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一年





 浅草は、おととしの十二月の三十一日と、去年の二月二十五日との空襲で手足をもがれ、三月十日のそれで完全にとどめをさされた。……ということは、その十日の日に、観音さまも焼ければ、吉原も灰になったから……
 忘れもしない、去年、その日からちょうど一月たった四月の九日に、はじめてわたくしは、その焼けあとに立った。……仁王門もない、五重の塔もない、輪蔵もない、何もない……そして“本尊御安泰”としるした立札の、申訳ばかりにたったガランとした中を佇んだわたくしの胸にどんな思いがわいたか?……
 ――戯談じょうだんだろう。……そんな手にはのらないよ。……しらばッくれるのもいい加減にしてくれ……
 と、たとえば、そういって相手の肩を叩いたとせよ。
 ――こまったナ、そう種を知られちゃァ……
 と、相手は、狡猾こうかつなわらいをうかべつつ、仁王門、五重の塔、十八間四面の本堂。……そうしたものの何一つ欠けるところのない、いままで通りの、完全な、うつくしい浅草寺境内をわたくしのまえにもって来て、しかも、きわめて容易に、その廃墟と入れかえてくれるにちがいない、といった気がわたくしの胸を一ぱいにした。……それほど、わたくしに、焼亡したその現実のすがたが信じられなかったのだ。
 そのあと、わたくしは、嘗ての日の“富士横町”をあるいた。折から、しとしと雨のふる午前で……春雨というべくは、あまりにも陰気な降り方だった……わたくしは夢の中をたどるおもいだった……み渡すかぎりの蒼白い焼野原の中に……不思議に焼トタンの赤ッちゃけた感じがわたくしに来なかった……人の影らしい、何一つのうごめくかげさえ射さなかった。
 ――おや?……
 と、わたくしは、驚いてあたりをみまわした。……いつか、わたくしは、吉原のありし日の非常門の中に立っていたのだ。……こんなにも観音さまと吉原とのあいだは近かったのか?
 わたくしは、吉原神社の半ば焼け残った玉垣のまえに立った。……わたくしは、そこであえなくいのちをおとしたというある人のために、しずかに帽子をった……

 東京新聞文化部諸兄――
 みなさんのおいいつけによって、わたくしは、昨日きのう……昭和二十一年四月九日……たまたま、丁度、去年はじめて浅草を訪問した一年目のほぼおなじ時間に、同じところに、おなじおもいを抱いて佇みました。……ちゃんともう建てられた仮りのお堂……模型のような感じのお堂の朱ヶのいろのけばけばしさが、仲見世の慌しい人通りとともに、わたくしの目だけを強く射たことでした。
 わたくしは、そのあと、ぬれぼとけのまえに立ちました。淡島さまのまえに立ちました。三社さまのまえに立ちました。……ぬれぼとけはしばらく措き、淡島さまも、三社さまも、こんなに色の褪めた、古ぼけた感じのものだったかと思いました。……人でいえば、急に、めッきり、年をとったという感じでした。
 披官さまの鳥居のまえに出ました。どうしたのか、そのあたり、一ぱいのしどけない水たまりでした。

花の雨披官稲荷のちかくかな

 むかし、そんな句をよみすてたことのあったのをおもいだしました。
 間もなく、わたくしは、言問橋の上に立ちました。
 ――どうです、このごろのこの隅田川の水のきれいになったことは……
 と、土地にゆかりのある連れの一人はいいました。
 ――なるほど……
 と、わたくしは、たまたま退き汐どきの、底まで透いてみえる川の上をみ下しました。
 川をへだてた向島の桜は、雲一つなく晴れた空の下に、五分通りしかまだ咲いていませんでした。……鎌倉の桜は、すでにもう二三日まえ満開をすぎていますのに……

 東京新聞文化部諸兄――
 ――凝視にたえず……
 右の一言を以て、この浅草に関するわたくしの報告を終ります。
(昭和二十一年)
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浅草よ、しずかに眠れ



駒形のどぜうや


“第一図”を御覧下さい。
 駒形こまがたのどぜうやであります。
百助ひゃくすけ”がなくなり、“べにかん”のなくなったいまでもなお、この店だけは、もとのところにむかしのとおりに残っております。……といっても、当今のことであります。しばし木の葉の下をくぐって、何んとつかずの喫茶店ようのものになっております。そして、窓のまえに貼ってある二枚のビラの一枚には彩色さいしき入で、月と、ほととぎすと、駒形堂の屋根が描いてあって、“柳川やながわのお出前をいたします”としるしてあり、一枚には、あたりまとと、盆の上にのせたどんぶり鉢とが描いてあって、“うどん、そば、加工”としるしてあります。……その画の稚拙さが、何か、風のつめたい東京の一月のもののあわれをさそいます。ついでながらこの店、以前はまるごとのどぜう汁ばかりで、さいたどぜうはつかわなかったものです。割いてては間に合わない位むかしはいそがしかったからでしょうか?……
 尚、横町の中ほどにみえているコンクリートの建物は、浅草座あさくさざから国華座こっかざになり、国華座から蓬莱座ほうらいざになり、蓬莱座からさらに駒形劇場になった末、大正の中ごろ、病院に身うりした芝居小屋のあったあとであります。浅草座といえば、明治の中葉、川上音二郎の“書生芝居”揺籃の地だったのであります。今日の「新派劇」はじつにここから出立したのであって、演劇史的には記念すべき建物でしたが、いまは大平木材株式会社というものになっております。
 以前、この横町の、ちょうどこのどぜうやの裏にあった路地のなかに、二代目の梅坊主が住んでおったのをおぼえておりますが……

駒形堂


“第二図”は駒形堂……土地でいうところの、こまんどうの観音さまであります。
“浅草寺縁起えんぎニ曰ク往昔土師臣真中知檜前内茂成ト宮戸川ニ出漁シテ聖観世音ノ尊像ヲ網中ニ得驚喜措ク能ハズ草堂ニ安置シ礼拝供養くようシタリ。コノ地ハ実ニ其ノ遺跡ニシテ浅草寺草創ノ浄域ナリ。其後天慶五年平朝臣公雅浅草寺ノ堂塔ヲ造営シ新ニコノ地ニ一堂建立シテ馬頭観音ノ尊像ヲ安置シ以テ浄域棲息じょういきせいそくノ生類ヲ守護得脱セシメント祈願ス。是レ今ノ駒形堂ノ濫觴らんしょうナリ”
 としるした大きな碑が、しらかべのお堂の横にたっております。この碑は紀元二千六百年の祝典を記念して昭和十五年にできたものであります。きわめて乏しく草の枯れたなかにこの碑の……紀元二千六百年のゆめの焼け残っているということは、ことわりせめてあまりにも皮肉であります。
 しらかべのお堂のうらには、すぐそこ、手のとどくばかりのところに、寒晴かんばれの川水が濃い藍をとかしてながれております。
 何んというまばゆさ……

川の上


“第三図”は駒形橋の上に立ってみた隅田川のけしきであります。
 みえている橋は“うまやばし”であります。
 遠景の塔は、本所の、被服廠のあとにできた震災記念堂のそれであります。
 大正十二年ですから、あれ以来、すでに二十余年の月日がそのかんにながれました。
 それにしても川の上の寂しさ。……いたずらに水が光るばかりの、何という船の通らなさ加減でしょう。

仲見世


 昭和十九年の夏、戦争たけなわのとき……といっても東京空襲のはじまらないまえ、わたくしは東京新聞に「樹蔭」という小説を連載しました。そのときも挿画を久保さんに描いてもらいましたが、“第四図”は、その小説の二十六回目のためにできたもので、その回で、わたくしは、つぎのような叙述をしたのであります。

“「そうか、やッぱり……」
 とは、
「そうか、やッぱりここも……仲見世も戦争しているのか」
 である。……わかり切ったことが……あたりまえすぎるほどあたりまえのことが、いまさらのようにかれの胸にしみた……
 が、それにしても、みえも外聞もなく戸をしめて、歯のぬけたように休んでいるところどころの店。……しらじらとかわいた石だたみ。……しかもそのくだかれたゆめのはざまを、参詣者だけは、ぞろぞろ群をなしてあるいている。そして、その行くての空に、伝法院のいちょうのぬかずくごときしげりの影をしたがえた仁王門が……これだけは昔ながらのの褪せた建てものが、おりからの夕日に映えて、
軍用機献納……
 楼上高くかかげられたかりそめの額のその緊急な五文字とともに、遠く、くッきりとうかんでいる。”

 その仲見世が、いまや、“第五図”のような仲見世になってしまったのであります。正面にみえるのが、仁王門を失い、樹木のかげをうしなったむきだしの観音さまの、小さな、模型のような感じしかしない仮の本堂であります。
 この本堂のまえで……“二月四日、節分会せつぶんえ執行、当山”という掲示のでておるまえで、わたくしは、『昭和二十三年九星便』と、高島易断講究所本部編纂の『昭和二十三年運命暦』とを、いともきたなく老いた女の手から買いました。一たい幾らだろうかと、値段が知りたかったからであります。
 いくらだったとお思いになります?
 一冊十五円。
 二冊一組で三十円。

仁王門


“第六図”は、「樹蔭」二十七回目の挿画であります。この図柄ずがらは、とくにわたくしが久保さんに註文をだし、大提燈を中心にした仁王門の一部を描いてもらったのであります。というのは作者としてつぎのような叙述がしたかったからであります。

“……かれはいそいだ。そして、すぐ、仁王門の下に立った。
 抱えきれないほどの太い柱のあくまで古びたそのあけのいろなら、天井からさがった大提燈の、小舟町こぶなちょうだの、四日市だのという煤けた文字になおかつ残った墨の匂なら、あやに垂れかわしたそのひかえ綱の古びなら、かれは子供時分から、その下に立つのが好きだったのである。ことに夏の日ざかり、ガランとした、人の声の全くたえたその下に立つと、うそのように涼しい風がどこからともなく吹いて来た。どんな暑さでも途端にかれは忘れることができた。……と同時に、かれの目に、隅田川のひろびろとした流れがうかび、青いあしのしげった洲がうかび、白い帆をかけた舟のかげが寂しくうかんだ。”

 仁王門についてのおもいでには、この外に、夏の晩、抱えきれないほど太い、その柱のかげの闇にでる蛍うりがあります……

二天門


 浅草は、昭和十九年の十二月三十一日と、おなじく二十年の二月二十五日との空襲で手足をもがれ、三月十日のそれで完全にとどめをさされたのであります。観音さま界隈のぜんめつしたのは、じつに、その十日の日のことで、観音さまの十八間四面のお堂の焼けたのと一しょに、仁王門ばかりでなく、五重の塔も輪蔵も、荒沢不動も、久米の平内堂も、何もかもみんな灰になってしまいました。そしてわずかに、二天門と、三社さまと、披官稲荷と、そして淡島堂とだけが残りました。
“第七図”は、二天門と、馬道のほうからみたその附近の荒廃しきった光景とであります。
 去年のいまごろと、おととしのいまごろと、さきおととしのいまごろと、ちッともかわっていないのが……それほどいまだに救いの手のさしのべられていないのがこのあたりのごうであります。いま以て、みわたすかぎりの焼けはらといわざるをえないなかにポツンと立った、このとり残されたみなし児のような朱の門は、心からその業をかなしんでおるのであります。

三社さま


“第八図”の噴水塔のかなたに遠くみえるのは三社さま……浅草神社の側面であります。
 観音さまを失って、三社さまは、これを人でいえば、めッきり急に年をとった感じであります。……それほどこのやしろは色が褪め、わけもなく古ぼけました。
 それにしても、この噴水塔の水が噴かなくなって何年になるだろうと思いつつそのまえに立ったとき、かつてはまんまんと水をたたえた円盤の中の、おち散ったひぞり葉を蹴ちらしつつ、子供が一人、しきりに三輪車を走らせていたことであります。

淡島堂


 仲見世の、淡紅色に塗りつぶされた……といった感じの、一こま、一こまにくぎられた定店じょうみせ以外、伝法院のまえから本堂の階段……といったってほんの四五段のものにしかすぎませんが……の下まで、ぎッしりと、ひしめきならんだ葭簀っぱりどうぜんの、洋服だ、靴だ、蝙蝠傘だ、時計だ、カレンダーだ、キセルだ、足袋だ、帽子だ、鍋だ、釜だ、ペンキ絵の額だ……そうした、実用的な、およそ仲見世らしくないものばかりをならべた露店群が、一たび本堂の横へと切れるや、たちまちにしてそれらが嘗ての柳原のように、和洋貴賤の衣類を、あるいはヒダラのごとく積みあげ、あるいはアンコウのごとくぶら下げた店ばかりになるのであります。何んのことはない、近在の、日向臭い古着市であります。
 その中の人のながれをかいくぐって、わたくしは、その店々のうらにまわり、辛うじて淡島さまの石橋をわたりました。
 淡島さまが助かったということは、その境内にちらばった弁財天、えびす大黒天、日限ひぎりの地蔵、出世地蔵……そうした小さなほこらのいろいろも、ともども無事だったということであります。
 それにしても、この、みにくいひゞの手のように、カサカサに冬ざれていることは?……むかしながらにひかりのささない堂内には、天井から、むかしながらの千羽鶴のむれが瓔珞ようらくのように、幾すじともなく垂れさがっております。そして、そのかげに、“二月八日、針供養、主催東京和服裁縫組合”としるしたビラが白く浮んでおります。
 針供養……針納め……
 しかし、この境内の池に、以前あれほどおった亀のむれ。……一たい、あの可憐な小動物の群は、いつ、何処へ、どう消えてしまったものでしょうか?

隅田公園


“第十図”は隅田公園の一部であります。
 この隅田川のながれに沿った公園の枯芝の径に立って、わたくしは、つぎのような句を手帳に書きとめました。

公園とより墓原の寒ひでり

 いつかは、ここに、第二の震災記念堂がたつのではないでしょうか?
 わたくしは、そこで、じつにただ一人の通行人にも逢わなかったのであります。

今戸橋


“第十一図”を御覧下さい。
 待乳山まつちやま。……またの名を聖天山しょうでんやまの高みから、今戸橋、及び、川をへだてた向島をながめみわたした景色であります。

“待乳しずんで、
梢のりこむ山谷堀……”

 そうした古い唄の文句を思いうかべつつ、わたくしは、丸坊主の、草一本生えていないその高みに立ったのであります。……そのとき、そういっても晴れぬいた、文字どおり一片の雲もない空にいつのまにかぽッかり半輪の月が浮んでおったのであります。
“幾日位だろう?……十日位だろうか?……”
 と思った途端、ああそうだ、暦があったっけと、先刻さっき観音さまの前で買った『昭和二十三年九星便』を、早速、役に立てました。
 ……十一日でした。
 五分ほどして、わたくしは、聖天町しょうでんちょうのほうへ石段を下りました。そして、猿若町のほうへとあるきました。
 月は、しだいに、そのひかりを増して来ました。……とともに、町々は濃い靄の中にひたり、ふたたびまた観音さまの境内に足をふみ入れたときには、どこにももう安らかなやさしいともしびのかげが瞬いておりました。
 わたくしの胸に子供の時分のゆめが……この土地に育ったころのゆめが……五十年まえのゆめがよみがえりました。……そこにひらけたけしきは、震災も、戦争もなかった以前のわたくしの浅草でした……
 ――ふるさとよ……わが浅草よ、しずかに眠れ……
 わけもなく、わたくしは、こういいたくなりました。
久保守・画
(昭和二十三年)
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夜店ばなし



     *

 ……大風呂横町と源水横町との間の、不思議とその一つにだけ名のなかった横町の角に荷を下ろした飴屋のちゃんぎり。……そのちゃんぎりの一しきりの音の止んだとき、両側の、どこの屋根の上にも、看板のかげにも、勿論広い往来のどこの部分にも、そのときすでに日のいろは消えていた。そして両側の、茂り交した柳の木末に早くも、「夕暮」は下りた。……ということは、蝙蝠こうもりがとんで、水のように澄んだ空に、早くも星の瞬きが生れた。
 そのときである。すしやの屋台、天麩羅やの屋台、おでんやの屋台。……夜店へ出るそれぞれの屋台が誓願寺の地中から、一しきりそこにつづいた。……たとえば泊りへいそぐそれぞれの船のように……
 が、そのくせ、どこにもまだ燈火のかげはさしていない。
 ――あさァり……からァさり……
 で、どこからともなく聞えて来る、夕とどろきのなかのその美音……
 ――大丈夫だ、この塩梅あんばいなら……
 ――もつよ、まだ、この天気は……
 屋台のぬしは、それぞれの車を押しながら、おりおりそうしたことを言葉ずくなにいい合った。
 蝙蝠。……夕あかり。……星。……そして夜店……
 電車の行交いもいまのように激しくなかった。人通りも、また、いまのように目まぐるしくなかった。そのまま白くその一日はしずんだ。……というものが浅草の広小路。……二十年まえの、わたしの育ったころの浅草の広小路。……どこのうちでもまだ瓦斯をつけていたそのころのけしきの一部である。
 その懐しいおもいでの、そうした屋台のぬしのなかから、何間間口かの、大ぜいの奉公人をつかい、いまを時めく公園界隈でのすしやに経上ったものもあれば、いまなお屋台の、色の褪めたのれんの中に、一人さびしく、むかしながらの長い箸をもちつづけている天麩羅やもある。……わからないのは人の運の、星をやどした夕ぞらを仰ぐにつけ、浅草に蝙蝠がとばなくなってもう何年になるだろう?……いつもわたしはそう思うのである。

     *

 すしや、天麩羅や、おでんや、と、むかしのそこのすさまじいけしきをそのまま、いまでも浅草の夜店は食物やで埋っている。そしていまは、その鮨や、天麩羅や、おでんやの中に、支那蕎麦が入り、一品洋食が交り、やきとりが割込んでいる。……といったら、あるいは人は、やきとりはむかしからある、そういってわたしをわらうかも知れない。が、以前のそれは、たとえば源水横町の金物屋の角に、目じるしの行燈をつけ、提燈屋だの炭屋だのをその環境にもちつつ、ほそぼそと、じいさんばァさんで七輪の火をおこしていたていのしがない店の所産だった。いまのそれは、支那蕎麦、一品洋食とともに、すし、天麩羅、おでんの屋台の古風に、飽くまで強情に、色の褪めた紺のれんをうち廻すに対し、このほうは、哀しくも滑稽な時代相を語るかに、天竺てんじくもめんの白い、うす汚れたカーテンを後生大事にどの屋台もが下げている……そうした店からの所産である。やきとりやは、だから、あきらかに、形態的に進化した。
 が、そのけしきは、どっちにしても……色の褪めたのれんにしても、うす汚れたカーテンにしても、所詮は夜更のものである。更けてはじめて生きてくるけしきである。……ということはその味も、あるいは、すしにしても支那蕎麦にしても、あるいは天麩羅にしても一品洋食にしても、あるいはおでんにしてもやきとりにしても、所詮は夜更のものである。更けてはじめて生きてくる味である。……そこに夜店の……といっただけでいけなければ、夜あかしの、そうした喰物やのうきくさの果敢はかないいのちは潜んでいる。
 いまなら、さしずめ、傾いた月の、明易く曳いた横ぐもの、ふかぶかとこめた梅雨どきの蒼い靄の、そうしたいろいろの触目のあわれは、夜店の、夜あかしの、そうしたいろいろの喰物やの屋台の外にこれをみ出して、一層そこに強められ、あるいはふかめられるだろう。……そのいのちに触れるからである。うきくさのその果敢ないいのちにはッきり触れるからである。……ということは、わたしをしていまいわしめよ。夜店の、夜あかしの、そうした喰物やこそ、休息した東京の、疲れ果てた東京の、見得も外聞もふり捨てた東京の、うそもかくしもないそのすがたをそういっても寂しく語るものである。
 嘗て、わたしは、丸の内の、高い建物と建物との間のおでんやの屋台のまえで、ほととぎすをきいたという話をだれからか聞いた。……ほととぎすというものに、わたしの、この話をきいたときほど現実感を感じたことはない……

     *

 夜店ほどよく季節を知っているものはない。ことに、この、夏に於てそうである。……といったら、すぐに、古本、古道具、日用品のいろいろ、四季いつのときでもかわることのないそれらの店の、律義に、透きなく並んだあいだに交っての金魚屋の荷をあなたは感じるだろう。虫屋の市松しょうじをあなたは感じるだろう。燈籠屋の、暗く、あかるく、月をうつしてまわるそれぞれのよるべない影の戯れをあなたは感じるだろう。……と同時に、風のない、星のひかりに満ちた、たかだかとれた空をまたあなたは感じるだろう……
 が、このうち、最も早く、五月という声をきくと一しょに出そめるのが金魚屋である。そのあと一月、六月になって出はじめるのが虫屋である。そして、そのあともう一月、七月に入って、はじめてすがたをみせるのが燈籠屋である。……ということは、金魚屋の、いやが上にもあかあかと宵の灯影をうき立たせるその幾つもの荷は、涼しい水のかさは、すぐもうそこに祭礼の来かけている町々のときめきを語り、虫屋の、ことさらに深い宵暗を思わせてしずまり返ったとりなしは、梅雨あけの急に来たむし暑さの、このさきいかにつづくであろうかのことしの苦労を語り、そして燈籠屋の、前にいったその、暗く、あかるく、月をうつしてまわるそれぞれの影の戯れは、真菰まこもを、ませがきを、蓮の葉を、こればかりは昔から、一場所一晩ぎりの、ふた晩と出ない草市の果敢なさに、更けてはもう露の下りる秋めきをしずかにそこに語るのである。
 ――ええ、一ぱい五十……
 ……むかしはこういった。いまは、さて、何といっているだろう? 四つ角の、これもまた暗いところをえらんで出るアイスクリーム屋のうり声である。
 それにしても、夏の夜は、あまりに更けやすい……
(昭和六年)
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除夜





 ……十七、十八の、観音さまの年の市、それがすむと広小路の界隈、露地も、横町も、急に、いまさらのように、数え日の押しつまった感じの強くなって来るというものが、毎日、陰気な、鬱陶しい雪ぞらがつづくか、でなければカラリと、そういっても濃く真っ青に晴れぬいた空の下をからかぜが吹きまくるか、どッちにしても、乾いた、凍てたみちの上の往来いきかいの音が浮足立ってひびくのである。
 と、冬至とうじ柚子湯ゆずゆの柚子を描いた紙っ片である、坊主になり切った柳の枝である、一文獅子の太鼓の音である。……どこの通りにももう残りなく笹が立ち、そこ此処の、飾りを売るさしかけの小屋の中に、惜しげなく、あかあかとおこした炭火をかこんだ売り手たちのさし半纏はんてん、革羽織、もうろく頭巾ずきん。……うず高く積んだ牛蒡ごぼうじめのかげ、歯朶しだの、裏白の、それぞれのいろをふかめて、日毎に霜はいよいよ白い。
 そうなると、毎日どこの米屋でも、菓子屋でも、朝、夜のまだ明けないうちから、にぎやかな餅の音である。そしてその音にさそわれて、ともすればふり出す雪のすべである。……が、ほどなくしかし、それも止み、曇ったままながら、うすい日ざしの濡れかけた屋根々々に寂しく落ちて来るとき、庭には植木屋がうきよをよそに、一人、霜除けの松葉を敷いている。……勿論、まだ、梅のつぼみは固くつめたい。
 で、二十八日は納めの不動の、麦藁細工の住吉踊である、春をそよぐささ啼である。……そのまま二十九、三十、三十一。……大晦日である。……一年いよいよの最後の日である。
 好晴……
 ……おかしいほど、わたしは、天気のわるい大晦日の記憶をもたない。大晦日といえばいつも天気である。いかほど前の日くもっていても、いかほどあくる日ふったにしても、その一日だけはつねに青空の、風も和めば、飽くまであかるい日のいろの、末をうらうらと、いやはての生命いのちのしずけさを思わせて霞むのである。
 が、それよりも、日が暮れてである、夜に入っての光景である。
 すべての表通り、大通り。……しばらくそこから切れた裏通りの、小さい店々の暗いそれぞれの軒さきに下げられた玉子形たまごなりの大提燈。……定紋ものものしい大提燈。……あの黄色くぼやけた火のいろほど、年を守る、年を惜しむというこころのつつましさ素直さを、しみじみ感じさせるものはないだろう。
「大晦日の晩に、寝る奴ァ馬鹿だ……」
 ……もし、それ、そのとき、あなたが眼を空へ向けるならば、屋根をぬいて立並ぶ笹のつらなりを照らして、月の飽くまで白く、飽くまで蒼く、飽くまで冷やかにかかるのをあなたは御覧になるだろう。
(昭和五年)
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正月




     *

 元日の晩ほどさびしいものはない。……すくなくも、わたしの、中学を出る時分までの「東京」ではそうだった。……もの心つくとからだから、そうした感じを、いまなお、はッきりわたしはもっている。

大晦日のばんに
寝る奴ァばかだ……

 という本文通り、夜明しはしないまでも、どこでも明け方の四時五時まで、かんかん燈火あかりをつけて起きていたあくる晩である、表通りといわず、裏通りといわず、日の暮れると一しょに、どこの店もいそいで大戸を下ろした……くらいである。しもたやはなおのことの、町々は、一年のはじめの日をまず安息に入った。……ということは、いつも出る広小路の夜店さえ、その晩にかぎって出なかった。
 で、その、がらんとした、ひッそりした中を、門々の笹、しめかざりをならしていたずらに強く空っ風ばかりふきまわった。そして月が……霜に凝った月のひかりがまた、いたずらに白く、その笹の葉をすべって落ちた。

     *

 その空っ風の……笹、しめかざりを鳴らしてふきまわる、その空っ風のおもい出させるものに白襟の芸妓がある。
 ということは、その空っ風のなかを座敷から座敷へいそぐ人々の、その抜けるような美しい姿である。こうがいを挿した髪、下げた帯、左の手にとられた褄。……月のない、ゆきずりの、そのあたりの闇の濃けれは濃いほど、その美しさはいや増した。

     *

 それにしてもの衣裳を着た芸妓たちの、その白襟のかげにほのめく肌じゅばんの襟の真紅のいろこそ、雪にうもれた寒紅梅の、この世での哀しくうつくしいもののきわみである。

出のうちに逢ふやくそくも寒さかな

 黒髪に映ゆる櫛の照りの、笄の艶の。……わたしはこの句の作者にねたましさをさえ感じるのである。

     *

 松の内の雪は夕方からふりだしてなつかしい。そしてその夜一夜ふりあかしたあくる朝の、ふかぶかとなお曇りつづけた空の下に、重い雪のかさをのせてうなだれた門々の笹、しめ……
 そして、そのふり積んだ雪のこころは、まゆ玉の、垂れたそのものうい枝々にしずかにかようのである。
(昭和七年)
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水の匂





 ……なつかしき水の匂よ。

 ……わたくしは、子供の時分、浅草馬道の小学校へかよった。
 その小学校は隅田川の河岸に近かった。
 だから、わたくしは、毎日、隅田川の水の匂にそまった空を、教室のまどから眺め眺めした。
 ……その空……隅田川の水の匂にそまった空。

 ……五月、三社さまのおまつりのうわさがきこえはじめて、その水の匂は日に日に濃くなった。そして十六日の宵宮よみや、はやくも明日を待ち兼ねてのうき立つはやしの音をのせ、軒々の注連しめを、提燈を、その提燈の上にかざした牡丹の造花をふいてわたる夕かぜの、いかに生き生きと、あかるく、すがすがしかったことよ。……途端に、その界隈、くッきりと、影あざやかに「夏」の極印ごくいんがうたれたのである。

 その界隈……
 その小学校は、隅田川の河岸に近かったばかりでなく、浅草寺の境内とも、ものの半丁とはなれていなかった。
 すなわち、ある教室のまどからはその隅田川の水の匂にそまった空がみえ、ある教室のまどからはまた、浅草寺の、当のその観音さまの大きな屋根をはじめとして、仁王門の一部だの、五重の塔の半身だの、そして群立つ雲のごとく、ほしいままに、それらをつつんで悔ゆるさまなく茂った境内の大きな木々の梢だのが、往来一つをへだてたかなたに、手にとるようにみえたのである。
 しかもその、三社さまのおまつりの来たときのその木々の梢の――みよ、わきたつ若葉のそのいろの目眩めくばかりの美しさ!
 そこにも水の匂は立迷った。

 ……三社さまのおまつりにつづいて、すぐ、わたくしのまえにお富士さまが来た。
 お富士さまとは?

これよりしてお馬返しや羽織不二

 と、抱一の句にある江戸浅間祭の名残である。……赤い舌を出した麦藁のじゃをひさぐので知られている。
 町は象潟町、その浅間神社あればの俚俗富士横町のその往来、いまは広くなったが、嘗ては、幅、九尺ほどの、地道な、それだけに陰気な、それよりも一番にせせッこましい感じがさきへ立つ一本道の、その南側に、かんざしだの、鬼灯だの、太白飴だの、葡萄餅だの、竹かんろだの、あやめ団子だの……そうしたかない、こまこました、縁日々々した露店が透きなくならんだのである。そしてその間々に、星もやどれと、涼しく、なみなみと水をみたした金魚屋の幾つもの荷だの、それを避けて、わざと、暗くかがんだ虫屋の市松しょうじだのが。……そして、しのぶについた風鈴の、ときどきおもいだしたように連れ鳴るのをよそに、植木屋はまた植木屋だけ一たむろ、カンテラの火のなびくまにまに、薔薇、百合、常夏、露それぞれのふぜいの鉢を、人波の中に、ここぞとばかりならべ立てたのである……
 が、わたくしは、お富士さまといえば、いまでもかんなくず細工の、絵の具を塗り、中にひょうそくのあかりをともすあの燈籠をおもい出す。……そのあかりのいろの、赤あるいは青。……お富士さまのもつ夏の夜のかなしみは、じつに、そのかりそめの赤い色、青い色のあじきなさに尽きたといいたい……
 お富士さまがすむと、今度は、観音さまの四万六千日である。
 七月の十日……
 盆まえのこの暑さ……ことしの暑さの、序びらきをみよとばかりに晴れぬいた空……
 ふるるもののすべてを、染めあげなければやまない真っ青な空……
 水の匂のいよいよ濃くなりまさった空……
 その空の下に立つ鬼灯市の、せんなり鬼灯、丹波鬼灯の束を、かけ稲のようにかけつらねた店で境内はうずめられた。そして、暑さにげない人々は……というよりも、暑さがつのれば募るほど、逆に、よけい意地になり、いろいろかさにかかって来る人出は、仲見世に、仁王門に、本堂の階段にあふれた。……となると、たまたまうかんだ空の雲よりも、すでに参詣をすました人たちの、手にもち、髪に挿した雷除けのお札のほうが、より白く、より美しく輝いた。
 浅草馬道の小学校は、この日をもって一学期の試験を了った。
 ということは、その晴れぬいた真っ青な空の下に、暑中休暇が来たということの、だから四万六千日と聞くと、人こそ知らね、いまでもわたくしは子供の時分のそのよろこびをおもいうかべることが出来る……。
 が、暑中休暇が来たとて、わたくしは……わたくしばかりでなく、その界隈の子供たちは、だれも別段、山へ行くわけでもなければ、海へ行くわけでもなかった。かれらの生れ在所は揃ってみんな東京だった、従って、かれらにとっても、また、わたくしにとっても、一月あまり、ただ学校が休みというだけのものだった。でも、かれらの大ていは、日課として、向島の水練場へ泳ぎをならいにかよった。だから、まだ、いくらかでも凌ぎがついた。祖母の手に育てられた弱虫のわたくしにはそれさえ許されなかった。……わたくしの、いま以て、夏、どこへも行く気になれず、またどこへ行かなくっても格別不思議に思わないのは、子供の時分のこの習慣に、いまなおわたくしのみ捨てられていない証拠である。

 ……四万六千日のあとに来るものに、両国の花火があった。
 が、子供の時分、わたくしはそのために一度でも両国へ行ったことはなかった。川びらきの当日、わたくしは、あかるいうちから物干ものほしに上り、火の見にあがって、遠く両国の空にあがるその美しい光りをたのしむだけで不足をいわなかった。……これはしかし、東京に育った子供の大ていがそうではなかったろうか?

照りこみし空に花火のあがるかな
夕空にひかりみえ来し花火かな

 わたくしのむかしつくったこの二句には、幾分でも、以上の如き感懐のこめてあるはずである……

 そのころ、おなじくわたくしの作った、

あさがほをみにしののめの人通り
しのぶ買ふあさがほみての帰りがけ
あさがほをみていまかへる俥かな

 以上の三句には「入谷のむかしをおもふ」という前書がついている。……両国の花火についてしるした事のついでに、一言、いまはむかしの、入谷のあさがおにも触れたいと思ったからである。が、これについてはふかくはいうまい。いかな隅田川の水の匂でも入谷のあさがおにまでは及ばないから……

 ……なつかしき水の匂よ。……ことしももう、仁王門の柱のかげに蛍売りが出はじめたことだろう。
(昭和十六年)
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らッぱぶし





 明治時代の流行歌で、いまなお、なつかしく、そぞろ哀しくおもい出されるものが三つある。
 さのさぶしと、しののめぶしと、らッぱぶしと。
 このうち、さのさぶしと、しののめぶしとは、陰気で寂しいが、らッぱぶしは、陽気でにぎやかである。が、いまとなっては、陽気なだけ、にぎやかなだけ、さのさぶしよりも返らぬむかしへの思慕はふかい。
 このらッぱぶしのなかに、こうした文句のものがある。

たたみ叩いてこちの人、わたしゃ悋気りんきじゃないけれど、一人でさした傘ならば、片袖濡れようはずがない。

 さのさぶしの「花づくし、山茶花さゞんか、桜か、水仙か」及び、しののめぶしの「蒸汽ャ出て行く、煙は残る」程度、人口に膾炙かいしゃした文句だが、高野斑山博士の『俚謡集拾遺』によると、これには、あとにまた、おなじ系列の文句が二つ喰ッついている。すなわち、

片袖濡れても悋気するな、昨夜の連れは男づれ、聞けばお前の元なじみ、いわば悋気はこっちから。

いくらおかくしなされても、蛇の道へびだよ、すぐ知れる、お前の浮気を知らぬよな、そんなわたしと思うてか。

 というのだが、わたくしには、この連作から、明治中期の小説的構想が感じられてならない。ことに真ん中の唄の「聞けばお前の元なじみ」の一句の如き、藉りるに広津柳浪の筆を以てせよ、この一本のしぐれ傘からどんな悲劇の端をでも発せしめること自由だったろう。柳浪は市井の人情を描破することにかけての達人だった。
 が、らッぱぶしの作者は、決してこれを悲劇にしなかった。
「お前の浮気を知らぬよな、そんなわたしと思うてか」と、手強く女に反噬はんぜいさせ、一幅の喜劇図を描くことによって難なくこの事件を解決した。
 なお、うたい出しの「たたみ叩いてこちの人」が、『俚謡集拾遺』には、「羽織たたんでこちの人」となっている。ただし、これは、このほうが正しい。「羽織」といえばこそ片袖も生きて来る。心なき唄い手のうたいあやまったのであろう。そして、そのまま、無心にうたいつづけられたのであろう。……所詮は、陽気で、にぎやかな唄である。……
(昭和十四年)
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さのさぶし





“泉水に、泳いでいるのは、ありゃ金魚……”
 という“さのさぶし”の文句がある。
 わたくしの十四五の時分に行われたこの流行歌は、その前後に“しののめぶし”があり“らッぱぶし”があったけれど、おもいせつなるものを描きえた点に於て、外のどれよりもすぐれていた。すくなくもわたくしのその十四五の時分の“夢”と“哀しみ”とは、その歌の、たとえば捨小舟の波に弄ばれるようなふしまわしのなかに溶けこんだといっていい。
 そのころ小伝遊という若い落語家がいた。色の白い、華奢なからだつきの、わるくしなしなした感じの男だったが、この“さのさぶし”が好きで、噺のあとに於て、一つでも二つでもきッとこれをうたった。しかもそのうたいだすや、扇子で高座を叩き、からだを蒟蒻こんにゃくのようにくねらせ、目をつぶり、口を曲げ、金歯を剥きだし……おどろくべき表情が高座に溢れた。
“何というキザな奴だろう”
 と、大ていのお客は眉をひそめたが、不思議にわたくしには反感がもてなかった。むしろそのおどろくべき表情のうちに“さのさぶし”のもつ無知のはかなさをさえわたしは感じた。前記“泉水に……”という文句は、この男の三度に一度はかならずうたった文句である。
 この小伝遊、その後、金三となったり、三福となったり、円鏡となったり、円遊となったりしたが、五六年まえ高座を退き、いまでは柳橋でたいこもちをしている。あるとき逢って、わたくしは、その話をした。すでに六十を越したかれは……そして、そのうえ半ば失明したかれは、むかしながらのその色の白い顔に、寂しくただ微笑をうかべたばかりだった。望んだがうたってくれなかった。
 それにしても、

“泉水に、泳いでいるのは、ありゃ金魚……”

 そのあとの文句は何というのだったろう?……おもいだせそうでだせない……
(発表年未詳)
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町々…… 人々……


浅草広小路



 昭和二十八年の年末、ぼくは、つぎのような手紙をうけとった。

“突然、手紙をさし上げます。失礼、お許し下さい。私の名、さだめしお忘れのことと存じますが、昔、田原町においでの時分、先生と私とはよい遊び友だちでございました。そして、お宅で、始終芝居ごッこをいたしました。奥のお座敷で刀をふり上げて遊んだ一人です。そのときの遊び友だちは、砂糖屋の山屋の弥ッちゃんをはじめ、駄汁粉屋だしるこやの太田屋のなんとかいった子、なんとかいう菓子屋の何とかいった子等、みなさん、もう、故人におなりのことと思います。
 私も、本年、六十一歳になりました。先年、先生が還暦をお迎えになりましたことを人づてに承知いたし、お祝いを申上げたいと思いましたが、私ごときものが却って失礼と存じ、心の中で、かげながらお喜び申しておりました。
 先日、新聞にて、先生の大きなお写真を拝見いたし、そのお元気なおすがたに接し、うれしくて、うれしくてならず、おなつかしさのあまり、この手紙、さし上げますしだいです。どうぞ、ますますおん身大切に、演劇のためにおつくし下さいまし。折あらば、お目にかかれるときもあろうかと思っております。
 まずは、右、先生はじめ、御家族御一同さまの御健康をお祈り申上げます。
十二月吉日
鈴木友治こと
昔の友達、足袋屋の友ちゃんより”

 ぼくは、この手紙をみて、すぐにもこの旧友に逢いたくなった。この旧友の、いまだにまだ、むかしのまま……六十年まえのまま、震災もうけたであろう、戦災にも逢ったであろうのに、敢然、浅草広小路の一角に住んでいることがわかったからである。友ちゃんのこのたよりは……この声は、とりも直さず故郷からの……父祖の地からの呼び声のように、ぼくの胸にひびいたのである。
 すなわち、ぼくは……いいえ、およそ手紙を書くことのきらいなぼくにして、すぐに返事を書いたのである。

“お手紙、ありがたく拝見。三つ子のたましい百まで、ぼくはいまだに芝居ごッこをつづけています。
 およろこび下さい、ぼくは仕合せです。
 ぼくの田原町のうちはつぶれました。しかし、あれは、ぼくの芝居ごッこがつぶしたのではありません。いまなら、それで、立派につぶしてみせますが、あの時分には、まだ、それだけの勇気はありませんでした。
 是非、一度、お目にかかりたいと思います。ふるさとにまわる六部は気の弱り、で、ぼくは、このごろ、しばしば浅草恋しいおもいにかられます。そして、あなただけが、浅草というところのその後について、ぼくの聞きたい、知りたいと思っていることを、正確につたえて下さるのではないかと思います。”

 ……書きおわったとき、ぼくに、ぼくの育った時代の浅草広小路のけしきが……浅草寺の年の市の近づくそれがまえぶれの曇った空が……その空の下に垂れた柳の枯れた枝々が……“芝居ごッこ”の立廻りの、銀紙を貼った刀のにぶいひかりが、はッきり、感じられた。


 が、そう思っても、右からひだり、器用に事の運べないこのごろのぼくは、その後、この旧友に、何んら連絡することなしに、うかうか半年あまりをすごした。
 と、鎌倉に、カーニバルの騒ぎの了った八月の末、突然、また、つぎのような手紙がぼくの机の上に載った。

“前略
 先日、台東区史編纂座談会という会があり、私も出席いたしました。
 十四五人の出席者中、広小路からは、私と、それに先生も御存じのことと思いますが、東仲町の渋屋の息子さん、雷門まえのエビスじるこの御主人でしたが、昔の人はじつに少数でした。
 席上、私は、田原町の源水横町のことだの、蛇骨湯のことだの、いまは「すしや通り」という立派な道路になった相模屋さがみやの露地のことだの、これ又、いまは「公園通り」という広い往来になった浅倉屋の露地のことだの、その露地の中ほどに、ポツンと一けん、かやぶき屋根の家があり、そのまえに、土地の顔役、出羽作でわさく親分が住んでいたことだのを話しました。
 出羽作親分といえば、その息子が、新派の小島文衛の弟子になって、竹島文吾と名告り、後、河合武雄の門に入り、名古屋方面に行ったということを聞きましたが、その後どうなったか、御存じないでしょうか。
 しかし、広小路もかわりました。本願寺御用の吉見屋よしみやは、数年まえ、御主人が気がちがったりして、さしもの老舗もかさなる不幸には勝てないでつぶれ、ただ単に浅草ばかりでなく、東京での名物だった浅倉屋も、押しよせる時代の波に立ち向うことができず、ついに広小路からすがたを消しました。その外、長崎屋のこと、松屋のこと、くわしくおはなし申せば、何もかも新派の狂言の筋立にありそうなことばかり、秋になりましたら、夜長のつれづれに、一度ゆッくりお聞かせいたしたいと存じます。
 では、先生、くれぐれもおん身大切に、いつまでも広小路をお忘れなきよう。
昔の友達、足袋屋の友ちゃんより”

 ……昭和二年の七月、ぼくは、「東京日々」……いまの毎日新聞である……に「雷門以北」というものを連載した。これは、そのとき、「大東京繁昌記」という続きものを新聞のほうで企画し、数人の適当な執筆者をえらんで書かしたもので、そのなかでぼくには、“浅草”を割りあてて来たのである。
 勿論、ぼくは、自分の、生れ、そして育った土地を、改めてみ直す機会をえたことを、はなはだよろこんだ。すなわち、そのころ住んでいた日暮里の諏訪神社のまえから、ぼくは、毎日、浅草にかよい、おもいでに浸りつつ、ありし日の町々を……横町から横町、露地から露地を、ゆめみごこちに彷徨した。そして、そのえたところを一回ずつ、毎日、愉しく書いて行ったのだが、その中に、友ちゃんのこの手紙にある“浅倉屋の露地”の昔がたりも、つぎのような記述をもって出て来るのである。

“……わたしは、小学校は、馬道の浅草小学校にかよった。近所にいろいろ、小川学校だの、青雲学校だのといった代用学校があり、田原町、東仲町界隈のものは、みんなそれらの“私立”にかようのをあたりまえとしたが、わたしは長崎屋のちゃァちゃん(いまも広小路に「長崎屋」という呉服屋は残っている。が、いまのは、わたしの子供の時代のとは代を異にしている。もとのそのうちは、二十年ほどまえに瓦解した。その前後のゆくたてに、花ぐもりの空のような寂しさを感じて、いつかはそれを小説に書きたいとわたしはおもっている)という子と一しょに、公立でなければという双方の親たちの意見で、遠いのをかまわず、そこまでかよわせられた。――浅草学校は、浅草に、その時分まだ数えるほどしかなかった「市立」のうちの最も古いものだった。
 毎日、わたしは、祖母と一しょに「馬車みち」――その時分、まだ、東京市中、どこへ行っても電車の影はなかったのである。どこをみても「鉄道馬車」だったのである。だから、わたしたちは、「電車通り」という代りに「馬車みち」といった。東仲町の、今電気局のある所に馬車会社があったのである。――を越して「浅倉屋の露地」を入った。いまよりずっと道幅の狭かったそこは、しばらく両側に、浅倉屋の台所口と、かたの角の蕎麦屋の台所口とがつづいたあと、右には同じく浅倉屋の土蔵、左には、表に灰汁桶あくおけの置かれた女髪結のうちがあった。土蔵のつづきには、間口の広い、がさつな格子のはまった平屋があった。出羽作という、有名なばくちうちの住居だった。三下さんしたが、始終、おもてで格子を拭いたり、水口で洗いものをしたりしていた。――ときには、笠をもった旅にんの、寂しいすがたも、そのあたりにみられた。
 道をへだてて井戸があり、そばに屋根を茅で葺いた庵室といったかたちの小さなうちがあった。さし木のような柳がその門口に枝を垂れ、おどろに雑事がそのあたりを埋めていた。――と、いま、ここにそう書きながら、夏の、ぎらぎらと濃い、触ったらベットリと手につきそうな青い空の下、人あしの絶え、もの音のしずんだ日ざかりの、むなしく白じらと輝いた、でこぼこに石を並べた、その細いみちをわたしは眼にうかべた。駄菓子屋のぐッたりした日除、袋物屋の職人のうちの窓にだした、ぽつんとした稗蒔ひえまき、遠く伝法院の木々の蝉が、あらしのように、水の響きのように、しずかに地にしみた。――その庵室のようなうちには、日本橋のほうの、小間物問屋とかの隠居が、一人寂しく余生を送っていた。”

 昭和二年といえば、いまから二十七年まえ、ぼくのまだ三十九歳だったときである。……中年、三十九歳のときえた感懐を、老年、六十を越すに及んで、たまたま旧友のコトバにさそわれ、再びこれを容易に新たにしたということは。……子供の時分のおもいでというものは、なぜ、ああ、こうも根強いものか……
 出羽作親分に息子のあったことは、ぼくも知っている。しかも、きょうだい二人で、兄貴のほうは、オットリと、色が白く、骨細だったが、弟のほうは、みるから利かない気の、手のつけられない悪戯ッ子だった。後に竹島文吾になったのは、その兄貴のほうで、友ちゃんが河合武雄の弟子になったというのはあやまりで、小島文衛のことは知らないが、ぼくが知ってからのかれの師匠は喜多村緑郎だった。そのとき、すでに、中学生だったぼくのみた本郷座の舞台に於けるかれは、大きなリボンをひらひらさせたりする娘形むすめがただった。が、いつか、そのうちに、旅まわりにでもなったのだろう、東京からすがたを消した。そして、そのあと、約四十年、いつかもたまたま、楽屋で噂がでたが、師匠の喜多村も、きょうだい弟子の花柳章太郎も、その後のかれについて、何一つ知らなかった。
 それにしても浅倉屋である。友ちゃんもいっているように“ただ単に浅草ばかりでなく、東京での名物だった浅倉屋。”……東京の古本屋の総元締といってもいい貫禄をもっていた老舗。……その、大きな、手広い、くすぶった店つきをみただけで、その量感に、正しい伝統のひそんでいることのわかった浅倉屋。……ほんとに、友ちゃんのいうように、押しよせる時代の波に立ち向うことができなかったからだけで、広小路からすがたを消したのだろうか?……ぼくは疑う……
 長崎屋というのは、友ちゃんの家、すなわち“すみや”という屋号をもった店の隣にあった、これまた、大きな、紺のいろの褪せた暖簾の落ちつきにモノをいわせた呉服屋だった。前記、ぼくが一しょに浅草学校へかよったちゃァちゃんというのは、そこの長女で、後に、門跡もんぜきまえの仏具屋にかたづいた。……といっても、そのときはもう、ちゃァちゃんの両親のこの世を去ったあとで、ちゃァちゃんの兄さんの松之助という人の、病弱で、役に立たないという理由のもとに、店の実権は、整理のため、問屋側から派遣された他人の手に握られていた。従って、対世間には、すでに以前の長崎屋ではなかったから、町内のものにもくわしいことは分らなかった。
 吉見屋というのは、おなじ広小路でも、浅倉屋、長崎屋とは反対の側の、すなわち南側の田原町、しかも、ずッと、本願寺のほうに寄った位置にあった、精進料理専門の仕出屋だった。だから、ここのことについてはあとで書く。それよりも、“浅倉屋の露地”についてのぼくの記述には、まだすこしあとがあるのである。

“出羽作の隣は、西川勝之輔という踊りの師匠で、外からのぞくと、眼尻の下った、禿げ上った額の、先代円右に似たその師匠が、色の黒い、角張った顔の細君にを弾かせ、「女太夫」だの、「山帰り」だの、「おそめ」だのを、「そら、一ィ、二ゥ、三ィ……ぐるりとまわって……あんよを上げて……」と、小さい子供たちに、いつも熱心に稽古していた。――それに並んで、地面もちの、吉田さんといううちの、門をもった静かな塀が、そのあと、ずッと、露地の出外ではずれまでつづいていた。――子供ごころに、いまに自分も、こうした構えのうちに住みたいと、そこを通る毎に、つねにわたしは空想した。商人のうちに生れたわたしたちにとって、門のある住居ほど心をそそるものはなかった。”

 この踊りの師匠に、七八つの時分、わが家の妹もかよった。……吉田さんといううちは、浅倉屋の親類だということだったが、そういえば、浅倉屋もまた吉田。……浅倉屋こと吉田久兵衛さんだった……


 抄出したこの部分だけをみた分には、しかし、「雷門以北」というもの、一人追懐したり、詠歎したりする文字を、いたずらにつらねたものとしか思えないかも知れない。が、性根は決してそうでなく、昭和二年の七月に於ける浅草広小路、及び、その附近の町々の在り方について……果して、そのとき、どんなすがたを示していたか、どんな光景をそなえていたか?……ということは、同時に、年月が、どんな変化をその町々のうえに与えたか、ぼくは、あくまで詳細にこれを報告しようとしたのである。
 すなわち、ぼくは、それを書きだすにあたって、まず、つぎのような記述をした。

“田原町、北田原町、東仲町、北東仲町、馬道一丁目。――両側のその、水々しい、それぞれの店舗のまえに植わった柳は、銀杏の若木に変った。人道と車道境界の細い溝は埋められた。(秋になると、その溝に、黄ばんだ柳の葉のわびしく散りしいたものである)どこをみても、もう、紺の香の褪めた暖簾のかげはささない。書林浅倉屋の窓の下に大きな釜の天水桶もなくなれば、鼈甲べっこう小間物店松屋の軒さきの、櫛の画を描いた箱看板の目じるしもなくなった。源水横町の提燈やのまえに焼鳥の露店も見出せなければ、大風呂横町の、宿屋のかどの空にそそり立った梯子ばしごも見出せなくなった。――勿論、そこに、三十年はさておき、十年まえ、五年まえの面影をさし示す何ものもわたしは持たなくなった。「渋屋」は「ペイント塗工」に、「一ぜんめし」は「和洋食堂」に、「御膳しるこ」は「アイスクリーム、曹達水」に、おのおのその看板を塗りかえたいま。――そういっても、カフェエ、バア、喫茶店の油断なく立並んだことよ。”

 このうち、いまみて説明の足りなかったと思うのは、“人道と車道境界の細い溝”のことである。“溝”といっても、べつに水が流れていたわけではなく、幅にしても一尺足らずの、石のふちをもったものだった。“大風呂横町の宿屋の角”とあるその宿屋は“浅草館”という大きな諸国定宿で、後年、ぼくは、「さざめ雪」という小説を書いたとき、そして、また、「ゆく年」という戯曲を書いたとき、この店のもつ環境と、この店に属する人たちの生活とを、勝手にぼくの空想のなかに動かしたことを白状しよう。……“勿論、そこに、三十年はさておき、十年まえ、五年まえの面影をさえ……”といったのについては、その四年まえ、大正十二年の関東大震災がもたらしたむざんさを、それといわずに歎いているので、人こそ知らね、いま読むと、ぼくにはそれがよくわかるので……

偶々たまたまむかし、ひょうきんな洋傘屋こうもりがさやあって、赤い大きな目じるしのこうもり傘を、屋上高くかかげたことが、うち晴れた空の下に、遠く雷門からこれを望見することが出来たといっても、誰ももう、それを信じないであろう。それほど、いまの広小路は、ざったな「色彩」に埋もれている。強い、濃い、「光」と「影」との交錯に溺れている。……ということは、古く存在した料理店「松田」のあとに、カフェー・アメリカ(いま改めてオリエント)の出来たばかりの謂いではない。そうしてそこの給仕女たちの、赤、青、紫の幾組かにわかれている謂いでも、勿論ない。前記、書林浅倉屋の屋根のうえに、「日本児童文庫」の厖大な広告を見出したとき、これも古い酒店さかやさがみやの飾り窓に、映画女優の写真の引伸ひきのばしの貼られてあるのを見出したとき、そうして本願寺の、震災後まだ、かたちだけしかない裏門の、「聖典講座」「日曜講演」の掲示に立交たちまじる「子供洋服講習会」の立札を見出したとき、わたしの感懐に背いて、いよいよ「時代」の汐さきに乗ろうとする古い町々をはっきりわたしは感じた。――浅倉屋は、このごろ、その店舗の一部をいて、新刊書の小売をはじめたのである。さがみやもまた、いままでの店舗を二つに仕切って、「めりんすと銘仙」の見世を一方にはじめたのである。”

 ……ひょうきんなその洋傘屋というのは、吉見屋とおなじ田原町の、源水横町のかどにあった二ノ宮という大きな店だった。“赤い大きな目じるしのこうもり傘を屋上高くかかげた”ことにうそはなかったので、ただし、そのこうもり傘は一つだけでなく、いくつものものを、小、中、大、と、三蓋笠さんがいがさのような恰好に吊り下ろしてあったのである。
“松田”という料理屋は、銀座に、明治以前からあった、“松田の仇討”という二番目狂言で有名な“松田”と、おもうに、同系統の店だったろう。南側、雷門寄りの東仲町にあった角店の大きな構えは、その側面によこたわった狭い通りに、“松田の横町”という名称をつけさせた。その店のあとの、やがて、“アメリカ”というカフェーになったのは(それは、じつに、浅草に於けるカフェーらしいカフェーの草分だった)震災すこしまえのことだった。その後、“オリエント”と名前を替えたのは、排日問題のうるさくなった、そのとばッちりをうけたからだったが、一度、ぼくは、講談の悟道軒円玉と落語の入船亭扇橋とをここに誘ったことがあった。さすがに円玉は泰然自若だったが、扇橋のほうは、ついにその世界の空気になじめず、終始、キョト、キョト手のひらで額をこするばかりだった。あかるいシャンデリヤの下、若い、けばけばしい女たちの群の中に、ぼくは、明治の初年を身につけた、老いたる芸人の二つの型をゆくりなくみ出したわけだった。
 浅倉屋の“このごろ店舗の一部を割いて新刊書の小売をはじめた”ということは、このときすでに、この老舗に衰亡のかけがきざしていたのではあるまいか?
 かくて、しかし、わがふるさとの町々のそうした変貌についてしるしたあと、“が、忘れ難い。……でも、矢っ張、わたしにはその町々がなつかしい。”と、三十九歳のぼくはいった。そして、“何故なぜだろう?”と、ぼくは、自分で自分に問い、自分で自分に、つぎのようにこたえた。

“そこには、仕出屋の吉見屋あって、いまだに「本願寺御用」の看板をかけている。薬種屋の赫然堂かくぜんどうあって、いまなお、あたまの禿げた主人が家伝の薬をねっている。餅屋の太田屋あって、むかしながらのふとった内儀かみさんが、いつもタスキがけの、がせいな恰好をみせている。――宿屋のふじや、やなぎや、鳥屋しゃもやの鳥長、すしやの宝来、うなぎやの川松、瓦煎餅の亀井堂、軽焼屋のむさしや。――それらの店々は、わたしが小学校へ通っていた時分とおなじとりなしで、いまなおわたしをつつましく迎えてくれるのである。――それらの店々のまえをすぎるとき、いまもって、わたしは、かすりの筒っぽに紫めりんすの兵児帯で、おこそ頭巾をかぶった祖母としよりに手をひかれてあるいていた、そのころのわたしを、さびしくおもい起すのである。――それは、北風の身を切るような夕方で、暗くなりそめた中に、どこにも、もう、燈火あかりがちらちらしていたのである。――眼を上げると、そこに、本願寺の屋根の破風が、暮れ残ったあかるい空を、遠く、泪ぐましくくぎっていたのである……”

 そも広小路たる、本願寺のほうからみての右っ側、すなわち南側の表通りに属するのが、田原町(三丁目)と東仲町、左っ側のそれに属するのが、北田原町と北東仲町(後に北仲町)と、馬道一丁目。……以上の記述のうち、仕出屋の吉見屋と薬種屋の赫然堂とは、前記、こうもり傘屋の二ノ宮とともに田原町、餅屋の太田屋、鳥屋の鳥長、宿屋のふじや、やなぎや等は、前記宿屋の浅草館、料理屋の松田とともに東仲町、すしやの宝来、うなぎやの川松、瓦煎餅の亀井堂、軽焼のむさしや等は、前記、浅倉屋、すみや、松屋とともに、北東仲町、あるいは、北田原町に属した。そして、右っ側の町々は四つの横町(源水横町、これという名まえのついていない横町、大風呂横町、そして松田の横町)を、左っ側の町々は、二つの横町(伝法院横町、ちんやの横町)と、いくつもの露地(そのなかで、比較的大きく、広小路と公園とをつなぐ役目をしていたのが、前記“さがみやの露地”と“浅倉屋の露地”で、あとは行きどまり、あるいは、行きどまりどうぜんの、不揃いな長屋の縦横に立並んだ細い道だった)をもっていた。
 右っ側と、左っ側とでは、すなわち北側と南側とでは、左っ側のほうが、開放的で、にぎやかだった。一つには、これは、小さな店……とくに食いもの店がこまごまと並んで、公園に近い感じ、雷門に近い感じを、自らそこにうちだしていたからである。それにひきかえ、右っ側は、松田をはじめ、ふじや、柳屋、浅草館等、間口の広い、大きな構えのものが多いのと、薬屋だの、砂糖屋だの、金物屋だの、カタギの、実直な商売屋ばかりかたまっていたのとで、どこかしッとりと落ちついていた。とりわけ吉見屋のもよりは、その店の、つねにピッタリ入口の格子を閉めていた森閑さにうたれ、ともすれば人あしも絶えるおもいに、春昼、ちらちらと陽炎が立迷った。
 尚、いまあげた三げんの宿屋の外に、もう一けん、雷門寄りに、大金屋おおがねやといううちがあり、そこにお秋さんという娘さんがいた。何んと、この人が、最近、高杉早苗女史のおっ母さんとして、ぼくのまえにあらわれたのである……と、いまだから面白そうにこういえるので、ふり返って、「雷門以北」を書いた時分を思ったら、そうした女優は、この世にまだかげもかたちもなかったわけの、おもえばはかないはなしである。……いいえ、果ないといえば、東日出子という帝劇の女優のむかしあったことをおぼえているものが、いま、何人あるだろう?……かの女は、伝法院横町の、写真屋のむすめだったのである……


 この夏、日本演劇協会のあつまりが、浅草の、しかも雷門に近い、あるキャバレーにあった。丁度いいから、ぼくは、すこし早めに出かけ、昭和二十九年八月現在の“広小路”をあるいてみた。……ということは、同時に、それとなく、わが友ちゃんの家のまえを通ってみようと、ひそかにぼくは思ったのである。
 で、まず、ぼくは、右っ側の町々の、嘗ての日、吉見屋の、赫然堂の、馬車会社、後に電気局の、浅草館の、松田、後にカフェエ・オリエントのあったあとに、いちいち立留ってみた。吉見屋は“酒の店”(目下休業中)に、赫然堂は商売をやめてしもたやに、馬車会社、後に電気局は、東京都常設公売場に、浅草館は建築中の平和相互銀行に、松田、後にカフェエ・オリエントは富士銀行になっていた。……足袋屋の高岡屋はジャンパー専門店に、荒物屋の矢野は自転車販売店に変貌した中に、何んとかいう宮師の店のいよいよ繁昌しているらしいのが目についた。
 つぎに、左っ側の町々をあるいてみた。
“さがみやの露地”の“すしや通り”と、“浅倉屋の露地”の“映画街近道”と、いまやそれぞれいいかえられた以外、嘗てのいくつもの露地の、“アジア小路”だの、“平和横町”だのという名称をもつにいたったのに、まず、ぼくは驚いた。二つの横町の、“伝法院横町”が“区役所通り商店街”になったのは(「雷門以北」のころは“区役所横町”だった)うなずけるが、“ちんや横町”が“ちん横通り”となったのは、いまに、何んのことか分らなくなるだろうと思った。なぜなら、その角に“ちんや”という牛屋ぎゅうや(そのまえは天麩羅屋)あったればこその、“ちんや横町”だったのである。いまは、その角、蓄音機屋になって、“ちんや”はずッと雷門寄りになった。すれば、“ちん横”の“ちん”の、よって来る所以を、どこにもとめたらいいのか?
 ぼくは、北仲町と北田原町とが噛み合うあたりを、二三度、行きつもどりつした。たしかにここに違いない友ちゃんのうちが……足袋屋の“すみや”のあとがパチンコやになっていたからである。
 ぼくは表札をさがした。
 分らなかった。
“ハト”という、その店の名まえしかわからなかった。
 ――これは、いささか、面倒なことになったゾ。
 と、思った。
 浅倉屋のあとに立った。……大生相互銀行と吉田という薬局になっていた。
 それにしても、まァ、この通りに、銀行の殖えたことよ。
 いままでにいった幾つかの外に、三井銀行あり、三菱銀行あり、大和銀行あり、協和銀行あり……
 藪で目を突ッつかないのがめッけものだった。

“……「これという名をもたない横町」は「川崎銀行の横町」という堂々としたいいかたをいつからかもつようになった。わたしのその町を去ったあと、それまでの際物きわもの問屋、漬物屋、砂糖屋、その外一二けんを買潰して出来たのがその銀行である。いまでこそ昼夜銀行が出来、麹町銀行がまた近く出来ようとしているものの、いまをさる十二三年まえにあっては、そうした建物を広小路のうちのどこにも、もとめることが出来なかったのである。銀行といえば、手近に、並木通りの浅草銀行(後に豊国銀行)の古く存在するばかりだったのである。”

 と、「雷門以北」にしるした位のものの、ぼくの田原町を去ったのは大正三年の十月だったが、いまから四昔まえにあっては、実、以て、そうした嘘のようなていたらくだったのである。
 といっても、ぼくには、広小路の……というよりは浅草のこの経済的発展に、遽かにおどろくことができないのだが……
 いまの協和銀行のあるところにあったのが、川崎銀行である。


 明治四十年にでた、東京市編纂の『東京案内』は、以上の“広小路”の町々、及び、それに近接した、並木町、茶屋町について、つぎのように説明している。

“並木町――いにしへ、松、桜、榎等の列樹、路をはさんでありしを以て名くと云ふ。慶安頃まで、樹間に草舎くさやありて、草履草鞋わらぢなどひさぎしのみなりしが、後漸く人家稠密に及び、遂に今の街衢をなす。西方、西仲町つゞきの処を、里俗大仏横町と云ふ。又、町の東、材木町に通ずる小路を犬糞いぬのくそ横町と曰ひしと云ふ。”

“茶屋町――と、並木町の内也。寛永十九年、浅草観音堂焼失し、正保四年、再造の時、堂の南方を火除地となし、雷神門かみなりもん内に在りたる町家を並木町に入る。而も甚だ至狭なりしを以て、同寺境内仁王門前に於て、別に茶屋地を添へて給与す、即ち本町也。里俗雷神かみなり門前広小路と云ふ。”

“東仲町――初め峡田はけた領にして、中畑村なかはたむらと云ひ、後、市街となり、寛永廿年、始めて仲町なかちやう[#ルビの「なかちやう」は底本では「なかちゃう」]と称し、寛文五年、東西二丁に分る。共に浅草寺領に属せり。明治五年、上地となる。本町と北東仲町間の大通りを里俗広小路と云ひ、南方の中横町を杵屋横町、南方の上横町を常陸屋横町、満願寺長屋、広小路南角を恵比寿長屋、南方西仲町さかひを古着店と云ふ。”

“田原町一丁目――此地はと千束郷広沢新田の内にして浅草寺領の田畝に係り、居民農隙を以て紙漉かみすきを業とし、紙漉町と称せしが、後漸く人家稠密となるに及び、三箇所に分ち、と田畑なりし故を以て、今名を附すと言伝ふ。本町の東を里俗かまど横町、又、胴切どうぎり長屋と云ふ。其地を半折して、他に属せしことあるに由る也。”

“田原町二丁目――一丁目の北に在り。”

“田原町三丁目――二丁目の北に在り。里俗源水横町と呼ぶ処あり。”

“北田原町三丁目――明治五年、浅草田原町三丁目を分ち道より北を本町とし、北の字を加へ、以て田原町三丁目にわかつ。西辺に蛇骨じやこつ長屋と呼ぶ処あり。”

“北東仲町――旧峡田領に属し、浅草寺の寺地に係り、中畑村と云ふ。後漸く市肆を開き、寛永廿年、中町なかまちと称し、寛文元年、東西二町に分ち、明治二年、浅草寺裏門番屋敷を本町に合し、五年、町南の地を割く。而して町地広小路の北に在るより、北の字を冠し、同時に、西辺の浅草寺代官所住地を併せて一町とす。里俗東辺の横町を裏門と云ひ、南方東仲町に対する処を広小路と呼ぶ。”

“馬道町一丁目――馬道町は浅草公園の附属地也。と峡田領に属し、浅草寺地及寺領地に係る。其間頗る錯綜し、容易に弁じ難きを以て、旧幕時代は伊呂波いろは番号を附し、世、よんで、伊呂波長屋と云へり。其中、本町は、寺地及借地町屋中、南谷西側と称したる地にして、裏門番屋敷は、明治二年、東仲町と改め、四年、上地となり、五年、今の馬道町二丁目三丁目と共に、宮戸町みやとちやう[#ルビの「みやとちやう」は底本では「みやとちょう」]と改め、六年、復名して公園地に附属し、明治十年、公園地改正の時、初めて馬道一丁目と称す。”

 では、“馬道町は浅草公園の附属地也”とある“浅草公園”とは、一たい、いずこ、いかなる存在か?

“浅草公園――浅草公園は、区の中部中、稍東に偏したる所に在り。花川戸町馬道町を東にし、田島町芝崎町を西にし、茶屋町東仲町北東仲町新畑町を南にし、千束町馬道町を北にす。ほゞ四角形をなし、面積九万六千二坪あり。と浅草寺の境内なりしが、明治六年二月、収めて公園とし、分ちて七区とす。観世音堂の所在地、これを一区とし、仁王門前より仲見世の在る処を二区とし、伝法院の所在地を三区とす。四区は観世音堂西の樹木あり丘地ある処、五区は観音堂北の地、六区は園の西南部、七区は園の東南部にして、二区の一部たる仲見世の東西に在り。園の北部は里俗之を奥山と称し、旧時の子院ありたる処にして、観世音堂の北に当る処を北谷と曰ひ、東に当る処を東谷と曰ひ、南に当り、今仲見世となれる処を南谷と称す。”

 とあり、そして、馬道一丁目を含む雷門跡、及び、仲見世、すなわち浅草公園二区については、

“……雷門跡は広小路よりの入口に当り、東西六間半の門ありて、西に雷神、東に風神の像を置きしもの也。慶応元年の火災に焼失す。仲見世は、雷門跡より仁王門に至る七十余間の間にして、幅五間余を敷石にてうづめ、両側に煉瓦造りの商店百三十余あり、軒を並べ、店を開く。中にも金龍山浅草餅、紅梅焼、七味唐幸、雷おこし等、名物と称せらる。”

 としるしてある……


 なぜ、ぼくは、こんなセンサクをしなければいけないのか?
 以前は浅草寺あっての……“観音さま”あっての“浅草公園”だった。が、いまや“観音さま”から“浅草公園”は独立した。と同時に、“広小路”は、独立したその“浅草公園”と、緊密に結びついた。完全に“浅草公園”あっての“広小路”になった……ことについて、ぼくは、いささかぼくの思うところを書いて行きたいと思ったからである。
 が、そのまえに、ぼくは、三たび来た友ちゃんの手紙について書かねばならない。……ぼくが演劇協会のあつまりのあったとき、たまたま広小路をあるき、いまさらの如くその変ったことに驚いたといい送ったに対しての返事である。

“いよいよ御機嫌よく、何よりと存じます。
 浅草にも、この四五日、秋の匂が深く感じられて参りました。
 お言葉の通り、広小路に、あなたの御存じの店は、数えて、十けんと残っておりますまい。柳、銀杏、すずかけと、街路樹でも、時代とともにしだいにかわりました。
 三年、一変りです。
 今日も店に来た若い人たちと語り合いましたが、いまの人たちは、わたくしどものなつかしいと思う奥山の茶ばたけも、ひょうたん池に影をうつした十二階も、江川や青木の玉乗の楽隊の音も、都踊や浪花踊の木戸番の呼びこみも、珍世界のアゴなしも、文公や幾馬鹿なんて人物のいたことも知りません。
 来月は、もう、お酉さまです。(ことしは朔日が一の酉にあたります)お酉さまがすぎれば、すぐ、もう、観音さまの市です。
 御健康をお祈りいたします。
十月十二日
友治”

 ……そうか、広小路に植わっている木は、すずかけだったのか?……と気がついたとき、同時に、
 ――三年一変り、三年一変り……
 とわれ知らずつぶやく自分を、ぼくはみいだしたのである。


カツ・テキ・ハヤシ……



「浅草広小路」を書いたあとで、ぼくは、旧友、鈴木友治君と、内野良男君とに逢う機会をえた。
 鈴木君については「浅草広小路」のなかにしるした。内野君というのは、嘗て、「雷門以北」のなかに“……薬種屋の赫然堂あって、いまなお、あたまの禿げた主人が家伝の薬をねっている”と書いた、その赫然堂の二番目の息子さんで、いまでは店を止し、神田のほうの大きな製薬会社の宣伝部長をしている紳士である。お父さんにわるいところが似て、まだ四十代であろうのに、すッかり、もう、つるつるに禿げているのが、ぼくにとっては、今昔の感に堪えなかった。
 で、この二人の旧友に逢って、ぼくは、嘗ての“浅草広小路”が、いかにおおくの稲荷の祠をもっていたかということをおもいださせられた。そして、その稲荷のそれぞれについていた名まえの、あるいは“蟻の巣稲荷”であり、あるいは“御手洗稲荷”であり、あるいは“無事富稲荷”であり、あるいは“伏見稲荷”であったことを、はじめて知らされた。
 ――あなたのところと、蕎麦屋の尾張屋。……その時分には、まだ、尾張屋とはいわなかったと思うが……
 と、ぼくは、鈴木君にいった。
 ――ええ、あなたの御存じだった時分のその店は“京屋”という屋号でした。……そのまえは“大纏おおまとい[#「“大纏”」は底本では「“大纏」]。……“大纏”という角力すもうとりがやっていたわけです。……いまの“尾張屋”になったのはずッとあとのことです。
 と、鈴木君は、それにこたえたあと、
 ――で?……
 と、ぼくのいいかけた言葉のつづきを促した。
 ――あなたのところと、その蕎麦屋とのあいだの露地にもありましたね、小さなお宮が?……
 ――それが“蟻の巣稲荷”です。
 ――ふだんは寂しい、ねッから人めにつかない露地が、毎年、初午はつうまが来ると、その日だけ、急に生き生きと、その存在をはッきりさせたのをおぼえています。……それからみると、浅倉屋の露地に属した一廓にあったお宮、鼈甲屋の松屋の露地を公園のほうへ出抜けたところにあったお宮には、始終、何かしら供物があがっていて、一応、現役という感じでしたが……
 ――その浅倉屋の露地にあったのが“御手洗稲荷”で、いまでも、ずうッと並んだ食いものやばかりの、家と家とのあいだにはさまれて残っております。
 ここで、ぼくは、鈴木、内野、両君から、「浅草広小路」に“親米しんべい小路”という公園への抜け裏を逸したことを指摘された。
 ――“アジア小路”じゃァないんですか?
 と、ぼくはいった。
 ――いいえ、“アジア小路”というのは、以前、“やっこ鰻”のそばに、“松屋”という呉服屋、“宮金”という宮師がありました。……そのあとにできた抜け裏です。……“親米小路”はもとの、つまり、あなたのいま被仰った鼈甲屋の松屋の露地とお思いになればいいので、終戦後、あるやり手の男が、長崎屋、松屋、島田という洋傘屋こうもりがさや……これは、あなたは、御存じないと思いますが……のあとの約三百坪ほどの地所に、“親米マーケット”というものをつくり、そこに、すぐに公園のほうへぬけられる九尺幅の道をつけ、両側に、小料理屋だのカフェーだのを並ばせて、“親米小路”という名まえをつけたわけで……
 と、鈴木君は、懇篤に、その店一けんの権利金についてまで話してくれた。
 それにしても、“親米小路”とは、いしくもけたものだ。……けだし、新興浅草の神経を、率直に、直截に表明したものだろう。……これでは、二月、春とは名のみの、しらじらと雲の凍てた空にひびく初午の太鼓の音をこいしがるのは、こいしがるほうが無理である。……ということは、また、幾馬鹿だの、奥山の文公だのという哀しき風来坊、あるいは、精神障害者の、そのあたりの人込ひとごみのなかに立ちまじることを許されなくなったこともたしかである。……
 ――けど、おかしなもんですねえ。
 と、このとき、突然、内野君は口をひらいて、
 ――広小路の北側には、そんなにいろいろお稲荷さんがあるのに、南側のほうには、それらしいものさえない。……どういうわけでしょうねえ?……北と南で、それほど人の気がちがうとも思わないが……
 ――以前からそうでしたかしら?……仲町なかまち古着屋街ふるぎやまちのどッかに一つ位あったような気がするけれど……
 と、ぼくはいった。……仲町というのは、ただしくいえば西仲町で、そこは、両側に、古着屋ばかり並んでいる特殊な裏通りだった。古ぼけた、色の褪めた暖簾のれんと、軒さきにいっぱいつるした、男もの、女ものの古着とで真っ暗だった見世のなかから、なま若い番頭や小僧が、往来の人たちを絶えず呼びこんでいた。……古着屋の番頭だの、小僧だのといえば、つねに日蔭に住んで、いんけんな、人を喰ったもの、口のわるいものと近所ではきめていた。
 ――それは、個人の家の庭ぐらいにはまつッてあったかも知れません。が、北側のそれらのように、はッきり表面にでた存在をもったものはありませんでした。……すくなくも、ぼくのおぼえてからは……
 と、内野君は、なみなみならず強硬だった。ぼくは、はからずも、そこに、内野君の亡きお父さん与重郎さんのおもかげをみいだした。……与重郎さんは、町内切っての口ききで、且、正義派で、つねに、理路整然たるもの言いをする人だった。……内野君、お父さんのいいところも継承した。
 と、
 ――外にもありますよ、南側にだけあって北側にないもの……
 すぐに、それに対して、鈴木君はいった。
 ――何んです、それ?……
 と、内野君は、鈴木君のほうに顔を向けた。
 ――パチンコ屋……
 鈴木君は、ニコリともしないでいった。
 ――南側には、表通り、裏通り、あわせて十何げんというほどあります。が、北側には、いまのところ、一けんもありません。
 ――なるほど……
 と、内野君はうなずいた。
 ――どうしてでしょう?
 と、ぼくは訊いた。
 ――開業しても、立ち行きません。……商売になりませんのです。
 ――不思議ですねえ。
 と、ぼくは[#「ぼくは」は底本では「ほくは」]はずみで、うッかりいった。……が、考えれば、不思議なことはちッともないので、北側と南側とでは、はじめッから性格的にちがっていたのである。……たとえば、以前、北側の歩道には、毎晩、にぎやかに夜店がでた。が、南側の歩道にそうした露店のならぶのは、盆の十二日、草市の晩、一晩と、年末、押しつまってからの幾晩かに、ちん餅の用意のできなかった不幸な人たちのための、餅をうる店々が、櫛の歯の欠けたようなわびしさをもって並ぶだけだった。……草市の夜のつゆけさはしばらく措く、年末の、その店々のカンテラの火の、ふきすさぶ風の中、ままならぬ世のならいを瞬いて、いかに空しく暗かったことよ……


 明治四十四年、二十三のとき、ぼくは「朝顔」という小説をはじめて書いたが、そのなかで、つぎのような記述をしている。

“この二三日、日が暮れると必ず曇るくせがついた。暑いといっても九月の中旬なかば故、大通りをはずれたそのあたりは、宵にみえるあかりの数さえめっきり減ったが、今夜はしかし観音さまの命日なので、半分だけ戸を入れた暗い軒に、赤い堤燈をつけた家々がちらほらとみえ、それがまたしっとりと秋らしいおもいを感じさせた。薄白く曇った空からは露がふるとみえ、夜風がひいやりとしめっぽかった。光の弱い稲妻が真黒まっくろな本願寺の大きな屋根を折々あかるくした。
 徳松は田原町の電車通りを横切り、公園へ抜けられる狭いぬけうらを抜けた。暗いぬけうらには、鮨屋の暖簾があかりの色を遮っている隣に、ゆで小豆の行燈が打水に濡れた敷石を赤く染めていた。宵の口だけまだ、土地柄、人通りが賑やかで、流行唄はやりうたをうたったりして通る二三人位ずつの群が、夏のなごりを残していた。”

 徳松というのは、この小説の主人公で、作者はこの主人公を……この若い袋物職人を、浅草の堀田原ほったばらに住わせた。だから、“大通りを外れたそのあたり”というのは、この男は、堀田原の家をでて、寿町ことぶきちょうを経、三間町さんげんちょうを越して、田原町一丁目から二丁目に入ったにちがいない。そして、“……電車通りを横切り、公園へ抜けられる狭いぬけうらを抜けた”というのは、「浅草広小路」のなかにしるした“浅倉屋の露地”とともに、嘗ては、“広小路”と“公園”とをつなぐかなめの道だった“相模屋の露地”……いまの“すしや横町”に入ったことは確実で、今日、久しぶりにこの記述を読み返し、“へえ、そうだったのかナ、明治四十三四年には、あの露地、すでにもうそんなになっていたのかナ?”と思った。
 というのは、ぼくの記憶に残っているその露地は、入ると、すぐ、右ッ側に、古い大きな車井戸があり、左ッ側に、おもてに粗い格子戸を入れた左官の親方のうちがあったのである。その隣には“喜久本”という、ごくの堅気かたぎな、なまめいた感じのちッともない待合があった。その反対の側には、“和倉温泉”という名の湯屋があり、隣に、煙草屋を兼ねた貸本屋があった。そこの主人の、加藤清正のようなアゴひげを生やしていたことが、いま思うと、何かただならぬことだったような気がする。……子供ごころに、そのころは、べつに何んとも思わなかったが……
 その貸本屋の出はずれで、一段、道が低くなった。
 あとは、両側とも、屋根の低い、古ぼけた、カサカサに乾いた長屋つづきの、縫箔屋だの、仕立屋だの、床屋だの、道具屋だの、駄菓子屋だの、炭屋だの、米屋だの、あんまり口数をきかない、世帯じみた人たちばかりが、何んのたのしみもなさそうに住んでいた。
 そしてはなれて、左ッ側に、そうした家々とは関係なく、小さな溝を境にして、ポツンとまた、一けん、名まえは忘れたが、“喜久本”よりもずッと安手な感じの待合が、陰気な表情を示していた。そのまえをすこし行くと、そこは、もう“公園”で、角に、“鯛煎餅”という名代の煎餅屋があり、そこを曲ると、目のまえに、柿いろや、水いろの、水野好美さんへ、小島文衛さんへ、境若狭君へ、そうした常盤座の役者たちへの幟がにぎやかに……といいたいが、じつはぼそぼそと立っていた。
 それが、やがて、左官の親方のうちのあとが鮨屋になり、貸本屋のあとも鮨屋になり、そして、待合のあとは汁粉屋になっての、徳松のみた通りの光景になったしだいで、以下、縫箔屋、仕立屋、道具屋、駄菓子屋、炭屋、米屋、そのおのおのが鮨屋になり、汁粉屋になり、小料理屋になり、支那料理屋になったのである。……すなわち、夜、暖簾のかげ、硝子戸の内部は、あかるい、機嫌のいい燈火ともしびのかげを忍ばせる店ばかり並んだのである。
 で、最後まで正直に残ったのは、“和倉温泉”と出はずれに近い床屋とだけだった。……その床屋については、ぼくがまだ田原町にいた時分、散歩にでては、いつもその店のまえを通り、その店の隅に、耳掃除をする五十がらみの支那人のいるのに、かならず目を向けるのをつねとした。
 妙に、ぼくは、この支那人に親近感をもったのである。それから四五年して、“雪”という戯曲を書いたとき、ぼくは、焦げ茶いろのだぶだぶな服を着たその恰好を思いだし、舞台の上にそれをみいだしたい望みにかられた。……すなわち、ぼくは、陳なにがしという支那料理屋の主人を案出、登場人物の一人にした。
 それにしても、この露地、いつ、いかにして、かく変化するにいたったか?
 ――常盤座からでた火が広小路まで燃えぬけた……あの大火以来です。
 と、鈴木君は、簡単にぼくの疑問にこたえてくれた。
 明治四十……何年だったか、あれ?……吉原の大火の、ずッとまえだったことはたしかである。
 尚、“浅倉屋の露地”が竹島文吾という新派の役者を生んだように、“相模屋の露地”も、また、一人の女優を生んでいる。……前記“喜久本”のむすめで、後に、粂八の養女になった守住菊子である。
 かの女は、馬道の小学校で、ぼくより三四年、下だった。……竹島文吾の消息がわからないように、この女優についてのうわさも、残念ながら、たえて聞かない。……五六年まえまでは、大阪のどこかの劇団にいたようだったが……


 なぜ、ぼくは、“相模屋の露地”について、以上のようにくどくど語ったか?
 ――一たい、この界隈、鮨屋はべつとして、外には何が行われているんですか?
 という質問を、鈴木、内野、両君のまえにもちだす前置にしたかったからである。
 ――さァ?……
 と、両君は、顔をみ合せて、
 ――釜めし屋がおどろくほど殖えました。
 ――支那料理屋は?
 ――ちゃんとした支那料理屋はごくわずかで、いまあるのは支那蕎麦屋……ああ、それと餃子屋……
 ――天麩羅屋は?
 ――公園まで行けば。で、このへんにはありません。
 ――洋食屋は?
 ――みんな喫茶店になって、むかしのような洋食屋はなくなりました。
 と、鈴木君のいったとき、
 ――比良恵軒の蠣フライはうまかったなァ……
 突然、内野君は、悵然としていった。
 これよりさき、ぼくは、つぎのような文章を書いたことがある……

“ぼくの育ったころの浅草には……明治三十年代の浅草には、雷門に近い並木の通りに芳梅亭という店のあったきり、西洋料理店らしい西洋料理店は一けんもなかった。あるのはお粗末な一品洋食店ばかりだった。……ぼくの西洋料理に関する最初の知識は、だから、残念ながら、仲見世から公園にかけての、そうしたほうぼうの小さな店からつぎこまれたのである。すなわち、そうしたほうぼうの小さな店で、ブタの(トンの、とはいわなかった)カツだの、カキのフライだの、ビフテキ(Beef-steak のことをこうもいい、ただ単に、テキともいった)だの、シチューだの、オムレツだの、キャベツ巻だの、コロッケだの、ハヤシビーフ、あるいは、ハヤシライス(Hashed beef あるいは、Hashed-rice である)だの、ライスカレー(Curry and rice をさかさにいったのである)だのを、メニューをたよりに、とッかえひッかえ食ったのが、ぼくの、洋食というものの、味を知ったそもそもである。……しかし、ぜいたくな、生意気な中学生だったぼくの、やっこ(田原町の、ただしくは草加屋吉兵衛という古いうなぎやである)のイカダ、中清(区役所横町の、屋台から仕上げた大きなてんぷらやである)のハシラのカキアゲ以上にこれらのものを喜んだことは、嘗て、「雷門以北」という回想記のなかにも書いたが、白状すれば、ぼくはいまだに、仲見世の「天勇」の横町にあったある店の、馬鈴薯じゃがいもとにんじんを賽の目に切ったのをつけ合せたカツレツと、焦げめのつくほどコロコロに揚げたカキのフライを、六区の池のまえにあったある店のどんぶりに入れたシチューを、ちんや横町の、浪花ぶしの定席の下にあったある店の、いかにも煮込んだ、といった感じの、みるからコッテリしたハヤシライスを、ときどきおもいだすのである。そして、どうしてむかしは、あんなにまで、しんそこうまいものがあったのだろうと、ひそかにぼくは嘆くのである。
 遮莫――
 カツ、テキ、ハヤシ、キャベツ巻。……ところどころソースのしみによごれた白いテーブルかけへの郷愁よ……
 西洋菓子といえば、カステラと、ワッフルと、シュークリーム……それッきりしか、ぼくは、知らなかったのである。……コーヒーというものは、角砂糖を熱い湯に溶かせばできるものと、ぼくは、おもっていたのである。……そうしたぼくだからこそ、

大溝おほどぶの水撒く夏に入りにけり

 いまだに、むかしの浅草をわすれ兼ねての、こうした句もできるのかも知れない。”

 このなかにでて来る、仲見世の、「天勇」の横町にあったある店というのが、内野君のいったその“比良恵軒”なのである。そして、ぼくのよろこんだ、焦げめのつくほどコロコロに揚がったかきのフライを、内野君もまた、十幾年を経たあとの時代に於て、ぼくのように、あるいは、ぼく以上に、これをよろこんで賞味したのである。……浅草というところには、おのずから、そうした伝統がひそかな水尾みおをひいているのだ、という一つの語り草にすることが出来よう。
 ただし、そのフライ、ぼくのその時代には、カツレツとともに、八銭だか十銭だかだった。しかし、内野君の時代には、十五銭になっていたという。……ぼくの時代には、ビフテキだけが十五銭で、その店のメニュー中、最も高額なものだった。
 ついでながら、六区の池のまえにあったある店というのは“雑居屋”という店で、ちんや横町の浪花ぶしの定席の下にあった店というのは、勿論、名まえはあったのだろうが、だれも名まえはいわず、ただ“寄席の下の洋食屋”とだけでとおっていた。すなわち、“新恵比寿亭”という寄席の側面に……その建物の一部に、薄汚れた白いカナキンのカーテンを下げた、床見世同然の店だったのである。
 あるとき、たまたま、この店で、いつもハヤシライスでもあるまいと、ライスカレーを註文した。やがて運ばれて来た皿をみると、カレーのうえに、何んと、割ったまんまのタマゴがのっていたではないか……
 ぼくは、おもわず、あッと思ったが、後年、年、三十にして、はじめて大阪の土をふんだとき、北の新地……だったと思う……の大きな西洋料理屋で、それと同じ手口てぐちのライスカレーにめぐり逢った。このときは、あッと思う代りに、これが大阪だ、大阪とはこうしたところなのだ、と、ひそかにぼくは合点した……ことをおぼえている。


 ところで、さて、仲見世の“天勇”の横町……“比良恵軒”のあったその横町は、いま、果して、どうなっているか?……“比良恵軒”はどうしたか、である……


仲見世…… 新仲見世……



 ……これ、おぼえていますか?
 と、最近、ある人から、つぎのようなノートをみせられた。

“わたしは、いま、雷門の、明治製菓の売店の二階の窓際に置かれた、ある一つのテーブルの上に両肱をのせている。……ということは、その窓のガラス越しに、はるか彼方の、浅草広小路の一部の人通り……ばかりでなく、その人通りのあいだに幾筋もの水脈みおをひく、電車、バス、円タク、自転車、貨物自動車、等、等、等のいそがしい行交いをぼんやりみ下ろしている……”
 十二月はじめの、曇った、風のない、しらじらと乾き切った午後である。
“黄味まんじゅう”“チョコレートアンパン”“ブドーパン”“特製長崎カステラ”“三色ドーナツ”。――そこには、その行交いをよそに、株式会社山屋パン菓子部の屋根に、そうした文字を、五行に割ってしるした大きな看板がたかだかとあがっている。そして、その“黄味まんじゅう”としるした部分は緑に、“チョコレートアンパン”としるした部分はコバルトに、“ブドーパン”としるした部分は赤に、“特製長崎カステラ”としるした部分は黄に、“三色ドーナツ”としるした部分はピンクに、とりどりの、異ったいろに塗られている。……いかに、その彩りの、わたしの占めたテーブルのその位置から、目立しく、あたりを圧していることよ……
 わたしは目を転じ、電車通りを挟んでの、その反対の側をみた。山屋パン菓子部に対しての、その側での角の店舗は“雷おこし”である。そして、つぎが“甘栗太郎”であり、つぎが“ますずし”であり、つぎが“甲子”である。――つぎが「ちんやバー」であり、つぎが「オガワ喫茶店」であり、つぎが「ちんや」であり、つぎが……
 わたしの占めた位置から、みわたすことのできるのはそれだけである。あとは霞んでみえない。
 が、雷おこし、甘栗太郎、益ずし、甲子、ちんやバー、オガワ喫茶店、ちんや、すべて、これ、喰いものやである。軒を並べ、屋根を接し、気をそろえてそうである。そして、オガワの屋根の上には、ユニオンビールの、ちんやバーの屋根の上には、キリンビールの、甲子の屋根の上には、銀釜ぎんがまの、それぞれ大きな広告があがっているばかりでなく、甲子のまえには、「天どん、てんぷら」としたのと、及び、蛤を描いた下に、「なべ」とした、益ずしのまえには、「ちらし、五もく、親子丼」とした、雷おこしのまえには、「うなぎ丼、五十銭」とした、それぞれの立看板が立ててある。
 ――すべて喰い気である。――食慾のはんらんである……
 わたしは感心した。
 が、そうはいっても、それは、べつにいまにはじまった光景ではない。以前でもそうだったのである。いえば、「甲子」でも、「ちんや」でも、わたしのその附近に育った時分からあった店である。そして、いまの「ちんやバー」のあるところには「金子」という牛肉屋があり、「オガワ喫茶店」のところには、いまの名所焼の前身の人形焼やがあり、「雷おこし」のところには、「常盤」という、これまた牛肉屋があった。……とまでいったついでにいうならば、そのころ、いまのこの明治製菓のあるところにだって、「伊勢寅」という、色ガラスの障子を嵌めた、何だか、暗い、古ぼけた感じの料理屋があったのである……
 勿論、そのころ、前にもいったようにみちの両側には柳が植わっており、古本屋の浅倉屋のまえに大きな釜の天水桶が置かれているかと思えば、鼈甲べっこう小間物の松屋のまえには、櫛の絵のついた箱看板がでていたのである。そして、その大通りから感じられるものは、色の褪めた紺暖簾こんのれんの古びと、宵々毎に透きなく立ちならぶ、古道具だの日用品だのの露店にまじっての、すしやの屋台、天麩羅の屋台、それらの暖簾を洩れる燈火のかげのしめやかさ――といったらいいか、つつましさ、といったらいいか?――とだけだった。
 銀行といえば、並木通りの浅草銀行、西洋料理屋といえば、同じく並木通りの芳梅亭があったばかりの、そのあたりに住みついた人たちには、そうした「開けた」もの、進歩的なものの存在は必要でなかったのである。鉄道馬車のいよいよ電車に切りかえられると聞いたとき、いかにして疾走して来るそれを突ッ切るべきか、小学生だったわれわれは、学校の往復に、ただそればかりを研究した。それほど、われわれは、まだみぬ電車の速力を怖れたのだが、その無知さ加減を一層はッきりさせるもう一つの証拠を提示するならば、矢っ張、そのころ、そのあたりでの、大きな、繁昌する氷店の花屋で、はじめてアイスクリームを売出したとき、誰がそんな高いものを飲むものかと、氷あずきだの、氷白玉しらたまだの、氷いちごだのの匙を鳴らしながら、ことさらな反感をそれに対してもった。それほど、アイスクリームは、われわれにとって珍奇だったのである。
「お待たせいたしました。」
 と、このとき、註文したチーズトーストの皿がわたしのまえに運ばれた。わたしは、やや冷めたホットレモンのタンブラーを取上げて、今度は、「娯楽クーポン附大売出し」としたセルロイド細工のアーチの立った雷門のほうへ目を向けた。”[#「”」はママ]

 ……たしかにぼくの書いたものである。……とはいえるけれど、さて、いつ、どこに、何んのために書いたものか、かいくれ、おぼえがない。
 ――はて?……
 と、ぼくは、首をかしげた。
 と、
 ――“スイート”ですよ。
 その人は、すぐに手をさし伸べて、ぼくに掴まらせてくれた。
 ――それ、あったでしょう、そういう宣伝用の機関雑誌が。……明治製菓からでていた……
 ――ああ、“スイート”。……あの……
 それで、たちまち、謎はとけた。……戦争まえ、その会社の宣伝部長をしていた水中亭こと内田誠君。……いまは、大磯で、しずかに病いを養っているが、そのころは、どうしたら世の中を面白くすることができるか、ゆたかにすることができるかと、そればかりをメドにして行動していた Dandy だったから、十分、その凝り性を発揮して、そうした名まえの、紙質のいい、印刷の美しい、およそ宣伝用機関雑誌らしからざるパンフレットをこしらえて、諸方の、得意さきその他に配った。そのためにしかし、われわれ、かれの友人たちは、交互に、それに執筆する義務をもたせられた。……だから、このノートも、おそらく、ぼくの場合に於けるその義務を果した一つではあったろう……


 翌日、ぼくは、東京にでた。そして、新橋から浅草まで、すぐに地下鉄に乗った……のは、外でもない、雷門の、以前、明治製菓の売店のあったところ、果して、いま、どうなっているか、それをはッきりさせたかったからである。……そのノートに、おもいもよらずめぐり逢ってからの十数時間というもの、ぼくは、さァ気になって、気になってたまらなくなった……というものが、この「町々…… 人々……」を書くについて、なまじ去年から今年にかけて、幾度となくあるきまわったそのあたりだけに、自分の注意のはなはだ粗漫だったことが……なぜ、もッと、完全なメモをとって置かなかったかということが、わけもなくくやまれたのである……
 で、かくて、浅草で……雷門で地下鉄を下り、いそいで階段を上り、早速、郵便局のまえに立ったぼくの、はやりにはやった目のキャッチした建物……電車通りをへだてたむかかどの建物……嘗て、明治製菓の売店のあったあとにできたその白い建物は、果して……さァ、果して、何ものだったか?……
 大和銀行だった。
 ――何んの、大和銀行なら……
 ぼくはガッカリした。
 なぜか?

“それにしても、まァ、この通りに銀行の殖えたことよ。
 いままでにいった幾つかの外に、三井銀行あり、三菱銀行あり、大和銀行あり、協和銀行あり……”

 と、ちゃんと、ぼくは、「浅草広小路」の中に、その銀行の名をあげているのである。
 ――こりゃ、また、何んのこッたい……
 助六すけろくならいうところである。


 勿論、ぼくは、電車通りを突ッ切って、彼岸に達し、大和銀行のまえに立った。そして、あたりを、おもむろにみまわした。……といったら、読者諸兄姉は、かりにも雷門のあの雑沓の中で、“おもむろに”とは何事だ、と、あるいはおわらいになるかも知れないが、その、雑沓は、北側、仲見世よりのほうだけの話で、南側、茶屋町のほうは、人通りさえ、ほとんどなく、汐のひいたあとの干潟といってもない寂しさなのである。……だから、いくらでも、“おもむろに”振舞えるのである。……振舞ってさし支えなかったのである……
 で、すなわち、ぼくの目の得たところ……
 大和銀行の隣は山一證券だった。
 その隣は東京海上火災だった。
 つづいて、埼玉銀行、××信用金庫……だった。
 一方の側は、こッち側の大和銀行に対して、大正海上、及び、山屋食料品店の、その隣は、“すしや横町”の入口にすでに引ッ越した(というあいさつを店のまえに大きく貼りだした)葉茶屋の井筒屋だった。
 その隣にも、もぬけの穀の空家になった店が二三げん。……その一けんのまえには、板がこいができて、すでにつぎなる芸当の、改築工事にとりかかっていた。
 つづいて、そのあとに、同和火災海上だの、東京銀行だの……
 ぼくは、驚いた。
 ――これでいいのか?
 と、ぼくは、おもわず、呟いた。
 だって、そうではないか。……み渡すかぎり……すくなくも、ぼくの目のとどくかぎりで、そこに建っているものといったら、銀行と会社の、そうしたビル仕立の大きな建物ばかりではないか。……あたりまえの、個人の経営する商売屋といったら、東京海上火災と埼玉銀行のあいだに挟って、小さな旅館が一けん、身を縮め、辛うじて呼吸をしているだけではないか……
 井筒屋の引っ越したのも、それにつづいての二三げんの空家になったのも、おそらく……ではない、まちがいなく、またしても、そこに、大きな身上しんしょうの、銀行あるいは会社ができるにちがいない……
 それにしても“山屋”である。……いまや、雷門附近の歴史はこの店にだけ残ったと、ぼくはいおう。しかも、嘗ての、明治製菓の二階からみ下ろせた店つきのけばけばしさとは、うってかわったこのごろの落ちつきぶりは、何が、この店に、それを教えたか?
Wine Spirit & Sake
 General grocery
YAMAYA Co.Ltd.
 と白い上に、黒く、正しい字画で、三段に、ただそれだけを書いた看板のいさぎよさ、店の一部をごくわずか仕切ったタバコ売場のつつましさ。……以前からみて、間口のずッとつまったのも、かえって奥行を深くみせ、何か、すべてを、知的にひきしめている。……そうなると、屋上の“味の素”の広告でも、さして目触りにならないから不思議である。
 ああ、それにつけても、山屋とともに、それぞれの時代、この町を……この界隈を繁昌させ、あるいは高く評価させていた菓子屋の鯉屋だの、薬屋の遠山だの、呉服屋の伊勢新だの、西洋料理のよか楼だの、そして、前記、葉茶屋の井筒屋だのにゆかりのあった人たち……は、もう、この世にだれもいないかも知れないが、それだったら、その人たちの子孫でもいい、いま、どこに、どうしていることか?……
 そうした店々の外に、その町には、並木亭、大金亭だいきんていという、二けんの寄席があった。東京でも有数ないろもの席で、一方に“柳派”がかかるときには、一方には“三遊派”がかかり、一方に“三遊派”のかかるときには、一方には“柳派”がかかるといったしくみになっていた。……ぼくは、この二けんがあったおかげで、中学生の時分から、円喬、円右、三代目小さんの落語を、柴朝の新内を、式多津、歌子の、“東西、これより浮世ぶしをお聞きに入れます”の浮世ぶしを聴くことができたのである。……たけス、こめあらい、四丁目、そうした下座げざのはやしの音が、いかにぼくの少年の日の夢をはぐくんでくれたことか。……浅草に生れなかったら、ぼくは、文学を一生の道づれにはしなかったろう……
 しかし、何年、何十年かの後、銀行、会社の建物で、完全にこの町の埋めつくされたとき、その町の底からきこえて来る声は、遠山の、講釈もどきのお家騒動のはなしでもなければ、よか楼の、田圃の太夫こと沢村源之助だの、“スバル”派の詩人たちだのに百夜ももよがよいをさせた女たちのうわさでもなく、ずッとそれより近世になってからの、明治製菓の売店に起った殺人事件についてだろう……

“――殺されたのは、ある小学校の校長で、殺したのは、その小学校の卒業生だったそうです。……校友会か何んかの用で、その校長と明治製菓で逢い、話をしている間に、スキをみて、相手の紅茶のなかに青酸加里を入れて殺したんだそうです。……真っ昼間、しかも、外に、大ぜい、客のいるところでやったというんですから、大胆だいたんといえば大胆、ばかばかしいといえば、随分、ばかばかしい話だと思うんですが。……もッとも、その時分には、まだ、青酸加里カリというものが、一般に知られていなかったというんですが。……それにしてもねえ、随分。……目的ですか、殺した?……その校長が、学校の金をあずかって持ってるのを知って、その金をるためにやったというんですが。……その男、浅草の芸者に夢中になって、それで金が欲しかったらしいんです。……その芸者の名前を新聞でみて、この間、七十二で死んだうちの伯父なんぞ、まだ二十代だったそうですが、友だちと一しょに、わざわざ料理屋へ行って、その芸者を呼んだそうです。……ちッとも綺麗な女じゃァなかったそうで……”

 太平洋戦争まえの昔ばなしとして、こうしたことの話されるであろうとき、北側、仲見世よりのほうの、年とともにいよいよ激しくなるであろう雑沓をよそに、南側のこの界隈の舗道に落ちるもののかげは、いよいよ、ヒッソリと、森閑と、しずまり返るだろう。……町の干潟に、あるいは、かげろうが立ち、あるいは、落葉がはしるだろう。
 それならまた、それでいい。……それでいいから、とてものことに、“……いにしへ、松、桜、榎等の列樹、路をはさんでありしを以て名くと云ふ”とある並木町のむかしに、もう一度、返したらどうか?……浅草にだって、一とこ位、無表情なビルディング街の、そうした清浄な文化的風景があってもいいだろう……


 浅草に地下街ができたという……
 それを思いだして、ぼくは、南側から北側にふたたび移り、多分、そのあたりだろうとおもう見当に入口をさがした。
 果して、あった。……松屋のまえの、円筒状の広告塔の下についているポツンとした階段……それがそうだった。
 ネオンのひかりのみなぎった中に、洋服生地の店、毛糸の店、アルバムの店、靴の店、甘栗の店等が、お手々を膝に、といった恰好に、何か、とり澄まして並んでいた。……時間の加減か、たまたま、どこの店のまえにも、さらに客のかげのさしていなかったことが、ぼくに、閑古鳥が鳴くといわれた、むかしの流行らない勧工場をおもい出させた。
 ――おや?
 と、ぼくは、おもわず足をとめた。突然、目のまえに、しらじらした外光が落ちて来たからである。……あッけない地下街で、入ったかと思ったら、すぐもう出口だったのである。
 出てみて分ったが、あッけないのも道理で、じつに、それは、松屋の横の往来の道幅だけのものだったのである。そして、その出たところから、“新仲見世”と称する商店街がはじまるのだった。
 さて、その新仲見世だが。……いつ、だれが、こんな大それたものを思いついたのか、と、ぼくのような戦前派の浅草っ子は、ただもう驚く……というよりも呆れるといったほうがいい、……呆れるばかりである。なぜなら、その商店街は、そこを起点として発し、“仲見世”を横切り、“ちん横通り”を突ッ切り、“区役所通り商店街”をつらぬいて“たぬき横町”に入り、“新仲通り・銀店街”という名になって、そのまま“公園”につづいているのだが、“仲見世”を横切るということは、とりも直さず、“観音さま”を横目にかけることである。横目にかけて、ひたすらに、ただもう一途に、“公園”へといそぐのである。……怖るべき反逆である……
 それにしても、仲見世の、嘗ての横町のどれが、その“新仲見世”のために役に立ったのか?……と思ったら、じつに、それが、“天勇”の横町……といえば一言で分った、つまり“天勇”という天麩羅を主にした、浅草向き、お上りさん向きの、ちょくな、気の張らない料理屋をその角にもった横町だったのである。

“……雷門を入ってすぐの、かどにいま「音羽」という安料理屋のある横町、次の、以前「天勇」の横町といった、角にいま「金龍軒」という西洋料理のある横町、そのつぎの、以前「共栄館」の横町と呼ばれた、いま、その角に「梅園」のある横町、右へとんで、蕎麦屋の「万屋」の横町。――それらの往来すべてが、つい十四五年まえまで、おかしいほど「仲見世」の恩恵をうけていなかったのである。お前はお前、わたしはわたし、そういったかたちに、わかれわかれ、おたがいが何のかかわりも持たず、長い年月、それでずっとすごして来たのである。”

 と、ぼくは、「雷門以北」にも書いたが、以前の仲見世というものは、決して、その繁昌を、仲見世から外へふり撒かなかった。だから、一足、“横町”へ入ったとせよ、どの横町も、そこには、小さな、つつましい、控えめな店々、あるいは、家々ばかりが並んでいた。そして、その枝川えだがわは、かならずどこかで、その流れを喰いとめられた。……すなわち、その“天勇”の横町にしても、

“いまは、どこへ行ってもあんまりみかけない稼業しょうばいの刷毛屋があり、その隣に、ねぼけたような床屋があり、その一二けんさきの隣に長唄の師匠があって、癇高い三味線の音を、その灰いろの道のうえに響かせていたのを、昨日のことのようにしかわたしは思わない”

 といったていたらくの、

“後に、そのならびに出来た洋食屋の「比良恵軒」、九尺間口の、寄席の下の洋食屋同然に汚かったその店は、中学の制服を着立てのわたしに、「カツ」だの「テキ」だの「カレエ」だのと称するものの……”

 読者諸兄姉……
「カツ・テキ・ハヤシ……」のしまいを、ぼくは、“ところで、さて、仲見世の「天勇」の横町……比良恵軒のあったその横町は、いま、果して、どうなっているか?……「比良恵軒」は、どうしたか、である……”というセリフで結んだが、以上のようなしだいで、いま、果して、どうなっているかもへッたくれもない、みごと、“新仲見世”の奔流の中にまきこまれて、比良恵軒のあったあとなんぞ、洋品屋になったか、鞄屋になったか、アクセサリー屋になったか、てんで見当もつかない……
 それにしても、“新仲見世”というところ、何んと、目もあやに、洋品屋、鞄屋、アクセサリー屋のはんらんしていることよ……


 大正九年の七月、ぼくは、「中央公論」に、「浅草の喰べもの」という随筆を書いて、広小路界隈、仲見世界隈、公園界隈の、料理屋を七けん、鳥屋を五けん、鰻屋を三げん、天麩羅屋を五けん、牛屋ぎゅうやを六けん、鮨屋を五けん、蕎麦屋を五けん、汁粉屋を三げん、洋食屋を六けん、支那料理屋を一けん、めぼしいものを取上げて、いちいち、それに対するぼくの感想をつけ加えたが、いまみると、この五十けん弱の店のうち、たしかにいま残っていると思われるものは、十けんほどしかない。大正九年といまとでは、その間に、四十年近くの年月は挟まっているし、その上、震災はあったし、戦争はあったしだから、ムリもないとは思うが、その十けんほどほどいう中には、蕎麦屋の“藪”、汁粉屋の“秋茂登”“梅園”が入っているのである。……という意味は、それほど、多くの店がすがたを消したと、ぼくは嘆くのである。性立しょうだった店としては、だから、料理屋で、草津、一直、鰻屋で、前川、天麩羅屋で、中清、大黒屋、牛屋で、松喜、ちんや、今半、鮨屋で、みやこ、すし清、……それだけである。鳥屋の金田、鰻屋のやっこがあるが、代もかわれば、従って、内容もかわった。(尤も、金田のほうは、以前の主人が、最近公園裏で、“もと金田”というものをはじめた)宇治の里は、仲見世裏から区役所横町に移って、昔日のおもかげをとどめない。そして、洋食屋と支那料理屋にいたっては、ああ、何んと、一けんも残っていない……


 河竹繁俊さんの『黙阿弥襍記もくあみざっき』の附録に、黙阿弥の書いた報条ひきふだの文章が五十種ばかりあつめてある。その中に、“浅草寺中見世通り、ねじやか堂地内”の“天家寿てんやす”という小料理屋……だろうと推定される店の開店のあいさつが入っている。

どんぶり天麩羅
 雑魚場料理
 曙山家橘が呉服店の、其口上にころもをかけ、御ひゐき願ふ天家寿は、今唐桟の新見世ながら、御得意多く売込んで、かの古渡の老舗におとらず、幅広はゞびろならぬ手狭裏家へ、表をこして御来駕ある、御馴染様の御註文に、扨天ぷら斗りでは、異国仕入の毛類に等しく、酒好口さけのみくちに重ければ、一寸手軽てがるにあつさりと、洗魚あらひ碗盛わんもり塩焼ぐらい、地織結城の活魚ぢまはりもので、ざこば料理も初めよ、と御進めゆゑにとりあへず、てうど時候も初袷に、天ぷらの外二三種は、お好み次第に庖丁いれ、直に仕立したてて差上ぐれど、行丈ゆきたけ揃はぬ器の上、糸さへ笑ふ手際のふつゝか、只あざらけき本場の魚を、遣ふを曠衣の売出しに、仕立栄したてばえある御とりはやしを、主人と共/\願ふにこそ。
卯月吉日うり出し
河竹其水”

 寝じゃか堂の地内には、黙阿弥も、天保十四年から明治二十年まで住んでいた。安政二年の大地震にもそこで逢った。
 折角、こうした開店のあいさつを黙阿弥に書いてはもらったが、“天家寿てんやす”は、ソロバンがとれなかった……のかどうか、それは分らないが、結局、店を人にゆずった。黙阿弥は、もう一度、その新しい店のために披露のあいさつを書いた。

“寝じやか堂の裏長家、手狭な宅へ蒲焼と、世間並の行燈かけ、丼飯を専一に、価もひくき中二階、むさい所へお厭ひなく、おはこび茂く売高も、のぼる梯子のとん/\びやうし、鰻はもとよりどぜう鍋の、重/\かさね/″\のお誂へに、湯よりもあつき御ひゐきの、御客様のお進めうけ、懇意の中に天家寿が、元居た跡へ引移り、すこし手広にしやもかしは、時分柄の鳥なべも、きりこむ葱の五分すかぬ、食類家のお口に合ふやう、精々心を用ひ升れば、軒端に団扇の音絶えず、いぜんにましての御来駕を、主人の頼に河竹其水、御なじみ様へ願ふになん。
寝じやか堂地内 花又屋八五郎”

 この花又屋八五郎は成功者だったらしい。……ところが、寝じゃか堂地内に関して、もう一枚、こういうのがあるのである。

“いろは長家の縁語により、忠臣蔵に引札を、前にもよそへし事ありしが、てうど今度も守田座で、討入の日の一昼夜、幕あり幕なし十二幕、此短日に安売ゆゑ、世間の評も良金は、名に大星の余光なり。さればこゝにも天安てんやすが、家台見世から仕上たる、二階造の大道具、其小道具の器物迄、そつくり跡を引受けて、彼十二時の趣向に基き、下料やすいを名代看板に、再び見世をあけ六ツから、廓帰の御入来あらば、蜆玉子のつなぎの早幕、五ツに川岸から引返す、魚荷の徒党も四ツには揃ひ、御飯時の九ツには、座舗も御客の山と川、一寸おあひの合詞、打合ふ拳に八ツ七ツ、弁天山の時酒なぞ、御長座あるとも少しも厭はず、暮六ツからは芝居の御戻り、御遠方の御方もあれば、御誂は五ツ迄、お待たせ申さず出揃はせ、四ツから先の帳合も、元直限りに出精なし、翌日あすの仕込に九ツ八ツ、寝た間も忘れず七ツおき、義士の苦心にたくらべて、手軽を専一働き升るも、枯木に花さく土地を目当、御近辺なる御馴染様は、十二時の時に限らず、お腹の時計の宜敷折よろしきをり、御足を近く御来駕を、冀ふ主人に頼れし、己れも一ツいろは長家に、山鹿流は心得ねど、安いといふ名の響くやう、此家の太鼓を叩くになん。
河竹其水
鮮魚天麩羅 御一人前三百五十銅
雑魚場料理 日々河岸の相場にまかせ候
浅草寺中見世通り寝釈迦堂地内
尾張屋のぶ”

 このなかの“天安てんやす”が“天家寿てんやす”だと、話がすこしこんがらがって来る。……尚、この分にだけ、明治四年十月と、はッきり、年代が入っている。


 何んのためにしかし、ぼくは、こんな抜きがきをしたのか?
 他なし、あんまり“新仲見世”の景気がいいので、いささかほんとの“仲見世”の加勢がしたく、それにはまず、ずッとむかしに遡っての伝統的な仲見世の感じをうちだすにくはないと思ったからである。


瓦、七万二千枚



“ねじゃか堂の地内には、黙阿弥も、天保十四年から明治二十年まで住んでいた。安政二年の大地震にもそこで逢った。”と、さきに、「仲見世…… 新仲見世……」のなかにしるしたが、これについて、もッとくわしくいおうなら、黙阿弥は、水野越前守の天保の改革で、公認された江戸の三劇場、中村座、市村座、河原崎座の浅草猿若町に移転することを余儀なくされたにあたり、それに従って、天保十四年、二十八歳のとき、芝金杉から、浅草馬道、浅草寺仲見世通りねじゃか堂地内に引っ越した。そして、明治二十年、七十二歳のとき、本所南二葉町にうつるまで、狂言作者としての四十余年の年月としつきを、そこで送った。“地内の師匠”という通称をえた所以の、その間、安政の大地震に逢ったのは、四十二の厄年のときだった。

“……安政二年十月二日の夜、黙阿弥は近所の寄席の講釈を聞きに行つてゐた。元来謹厳寡黙で用心深かつたことは、著名な彼の性癖であるが、寄席へ行つても必ず出口に近い所、二階ならば降り口の近くにゐるのが習慣であつたといふ。だから、ユラ/\とするなり飛び出した。外へ出るや否やその寄席は一とたまりもなく潰れたといふ。少しく鎮まるのを待つて、程近い我が家へ辿り着いて見ると、元来野暮に手堅く出来てゐるだけに、家は辛うじて倒れないでゐたが、土蔵の壁までもすつかり震ひ落されて、四方八方に燃え上る火の手が見えたといふ。彼は僅かばかりの貯へを取り出して来て、扨て暗然として妻女に向つて言つた。
「どうやら少し目鼻がつきかけたと思つたが、かういふ災難に出逢つてしまつた。芝居も三座とも焼けてしまひ、此の有様ではいつ世の中が直るか分らない。厄負けがしたのであらう――」
 あたりの惨憺たる光景を見ては、まつたくさうした嘆声を発して、落胆せざるを得なかつたものらしい。それを聞いた妻女は、彼の傍へ寄つて励ました。
「旦那、そんなに沈まないで下さい。この災難は一列一たいのことです。弱い気を出さないで、此の地震から、ふるひ起きるやうになつて下さらなくちやいけません」
「うむ――さう言はれて見ると、成程さうだな」
 意気沮喪しかけた黙阿弥も、この妻女の健気な一言によつて気を取りなほし、ほんたうに奮起する気になつたのだといふ。”

 と、河竹繁俊さんは、そのころの黙阿弥の動向を、“『勧進帳』・『忍ぶの惣太』と黙阿弥”という書留かきとめの中で、右のように語っている。“どうやら少し目鼻がつきかけた”というのは、けだし、河原崎座の立作者、二代目の河竹新七として、市川小団次のために、“忍ぶの惣太”(都鳥廓白浪みやこどりながれのしらなみ)を、つづいて“五十三次天日坊”を書下して、成功し、漸くその存在を認められるにいたったことを述懐しての上だったろう。
 ところで、“ねじやか堂地内”のその寝釈迦堂である。……一たい、どこにあったのか?
『浅草寺志』(文化十年刊)によると、仁王門から雷門へ出る筋を、嘗て、南谷といい、その南谷の東側には、正智院、寿命院、長寿院、円乗院、正福院、智光院、西側には、梅園院、実相院、松寿院、金蔵院、観智院、日音院等の坊舎が並んでいた。寝釈迦堂は、このうちの、正智院の境内に属していたのだった。……といっても、この正智院の境内は、惣地坪、九百三十三坪七合余というのだから、随分と広かったらしく、釈迦堂の外に、護摩堂があり、地蔵堂があり、木食堂があり、稲荷のやしろがあって、あるいは四間の三間、あるいは二間半四方、あるいは三間の二間、といった工合の大きさを、それぞれのその建物がもっていた。しかも、当時の書類をみると、べつに、“境内、地借家、十六軒”が書上げてある。……黙阿弥(当時、まだ、河竹新七の、黙阿弥になったのは、ずっとあとの明治十四年、六十六のときだったのだが)の住居も、黙阿弥が店びらきの報条ひきふだを書いた“ねじやか堂の裏長家、手狭な宅へ蒲焼と、世間並の行燈かけた”小料理屋も、つまりは、その十六軒のなかに入っていたのだろうが、果してそれが、その境内が、どんな光景けしきをもっていたか、口惜しいが、ぼくには、それに似よりの舞台面をさえ目にうかべることができないのである。ぼくには、ただ、ぼくの少年の日の記憶の中の“仲見世”の裏通りに、いくつかの小さな寺の門が並んでいたのと、その寺の一つが閻魔堂だったことだけをおもいだすことができるのみである……
 と、たまたま、あるところでぼくのいったとき、
 ――その閻魔さまも正智院にあったので……
 と、おなじ席にいた網野宥俊さんにいわれた。……網野さんは、浅草寺の坊さんで、『浅草観音の話』その他の著書をもつ、浅草寺切っての、篤学、有識の士である。
 これよりさき、前記、南谷の、東側、正智院以下の諸坊舎、西側、梅園院以下の諸坊舎の、その間々をつないだ築土塀ついじべい。……その築土塀のまえにいろんな露店の出たのが、そもそも、“仲見世”というもののできるはじめ、と、簡にして、しかも、きわめて要をえた説明をしてくれたのも網野さんだった。


『浅草寺志』の編者は、巻頭にまず、つぎのようにしるしている。

“凡此志、本堂、寺内、山内、領内と次第す。寺内と称するは、南は仁王門、東は随身門、西は御供所、北は御成門を限とし、山内と称するは、南は雷神門、東は一の権現、北は竹門を限とし、領内と称するは、南は諏訪町、東は浅草川、西は田原町、北は田町を限とす。”

 東京市編纂の『東京案内』(明治四十年刊)は、浅草公園について、つぎのようにしるしている。

“……花川戸町馬道町を東にし、田島町芝崎町を西にし、茶屋町東仲町北東仲町新畑町を南にし、千束町馬道町を北にす。ほゞ四角形をなし、面積九万六千二坪あり。と浅草寺の境内なりしが、明治六年二月、収めて公園とし、分ちて七区とす。観世音堂の所在地、之を一区とし、仁王門前より仲見世の在る処を二区とし、伝法院の所在地を三区とす。四区は観世音堂西の、樹木あり、丘地ある処、五区は観音堂北の地、六区は園の西南部、七区は園の東南部にして、二区の一部たる仲見世の東西に在り。園の北部は、里俗之を奥山と称し、旧時の子院ありたる地にして、観世音堂の北に当る処を北谷と曰ひ、東に当る処を東谷と曰ひ、南に当り、今仲見世となる処を南谷と称す。”

 そして、このうち“二区”については、

“二区――此内に雷門跡あり、仲見世あり、弁天山あり、仲見世閻魔堂、江戸六番地蔵尊あり、久米平内兵衛のやしろあり、因果地蔵又塩舐しおなめ地蔵あり、料理店奥の常盤、岡田、宇治の里、だるまあり、汁粉屋には、金龍山浅草餅あり、梅園あり。雷門跡は広小路よりの入口に当り、東西六間半の門ありて、西に雷神、東に風神の像を置きしもの也。慶応元年の火災に焼失す。仲見世は、雷門跡より仁王門に至る七十余間の間にして、幅五間余を敷石にてうづめ、両側に煉瓦造りの商店百三十余あり、軒を並べ、店を開く。中にも金龍山浅草餅、紅梅焼、七味唐辛しちみたうがらし、雷おこし等、名物と称せらる。弁天山は仁王門を距る五十余間の一小丘にして、老女弁天及和合宇賀神を祀る。十余年前までは周囲に池ありしが、今はこれを填めたり。丘上に鐘楼あり、時の鐘を撞く。”

 と細叙しているが、この時分の仲見世には“奥の常盤”のまえに大きな榎が立並び、そのさし交した枝のかげが、石だたみの上に、いつもしッとりした影を落していたのである。“奥の常盤”になるまえは、その建物、浅草五けん茶屋の一つにかぞえられた“万梅”で、手堅い、つつましい、閑寂な感じの黒塀を、その榎の下にめぐらしていたのだが、“奥の常盤”になって、“湯滝ゆだき”を売りものにするまでに俗化し、従って、その表構えでも、その一部に、下駄穿きで自由に出入できる食堂を設備したりの、太だ解放的なものに改めた。
 しかし、その“奥の常盤”も、やがてその営業権を“大増だいます”にわたした。“大増”は、うけついで、昭和二十年三月、空襲で、浅草寺とともに焼けるまで、ながの年月、変転つねなき時代とよくたたかいつづけた。
 が、いまや亡し。……と、ぼくの、とくにこれをおしむのは、“大増”を惜むのではなく、仲見世に於けるその位置の、大きな榎の立ち並んだありし日のふぜいの、ついに永久に失われたのを哀しむのである。
 閻魔堂と地蔵堂とは、大正十二年の震災以後、仲見世からすがたを消したのだが、久米の平内だの、塩なめ地蔵だの、岡田だの、宇治の里だの、だるまだの、金龍山浅草餅だのは、戦争でなくなった。紅梅焼は売っているかも知れないが、紅梅焼屋はなくなった。……というのは、嘗ては……明治の末までは、店さきで、五六人の髪をシマダに結った若い女たちが、赤いタスキをかけ、鉄板てっぱんをのせた横長よこながの火鉢のまえに向き合って、その紅梅焼を焼いていたのである。そして、それが、仲見世の名物になっていたのである。……“紅梅焼やのねェさんで、タスキがけで焼いている”という、たとえばヤキモチやきの細君をでもからかう洒落さえできた位の、なかでも、お梅さんという従業員に、なみなみならず人気のあつまったことを、いまでも、ぼくはおぼえている。……勿論、美人だったからである……
 唐辛子屋とうがらしやは、雷門を入って、十間と行かない、左っ側にあった。いつも、七十恰好の、小さく、ちまちまとした恰好のおばァさんが、店番をしていた。……このおばァさん、大へんな慈善好きで、ちッとでもあわれな記事が新聞にでると、すぐにその新聞に托し、義捐金をだすので有名だった。……そのおばァさんは死んだにしても、あれほど売込んだ……という感じの、根のすわった、ゆるぎない店が、戦後、どうして止めてしまったのだろう?……この店と、もう一けん、数珠屋の店のなくなったことが、新仲見世にさそわれて、何かとけばけばしくなった仲見世を、一しお、湿いのないものにした。
 それにしても『東京案内』の、荒沢不動と、ぬれ仏と、汁粉屋の秋茂登とを逸したのはなぜだろう?……どれも仲見世の歴史を語るうえに欠くことのできないものの、さらに、それが、ぼくのまえに、どんないま表情を示しているか?
 ここで、一度、ぼくは、戦争中の仲見世をふり返ろう。


 戦争中、昭和十九年の六月から九月にかけて、ぼくは、東京新聞に「樹蔭」という小説を連載した。
 東京を喰いつめて、満洲へのがれ、奉天で日本料理屋をはじめて成功した五十吉という男が、十五年ぶりで東京に帰って来たのを大根おおねにした話で、作者は、一日、この男に、浅草をあるいてみせた。そして、作者は、五十吉にかわって、その感懐を、つぎのように記述した。

“「そうか、やッぱり……」
 とは、
「そうか、やッぱり、ここも……仲見世も戦争しているのか。」
 である。……わかり切ったことが……あたりまえすぎるほどあたりまえのことが、いまさらのように、五十吉の胸にしみた……
 が、それにしても、みえも外聞もなく戸をしめて、歯のぬけたように休んでいるところどころの店。……右をみても、左をみても、いやでも目につくそれらの店。……しらじらとかわいた石だたみ。……しかもそのくだかれたゆめのはざまを、参詣者だけは、ぞろぞろ群をなしてあるいている。……そして、その行くての空に、伝法院のいちょうのぬかずくごとき茂りの影をしたがえた仁王門が……これだけは昔ながらのの褪せたすがたが、おりからの夕日に映えて、
軍用機献納……
 楼上高くかかげた、かりそめの掲額のその緊急な五文字とともに、遠く、くッきりとうかんでいた……
「これでいいんだ、これで……」
 ……五十吉はホッとした。……簪やの店のかんざしの花のいろは衰えても、数珠やの店の数珠の玉は、……露冷やかなそのひかりはついに消えない。……何か、かれに、そんな気がした。
 かれはいそいだ。そして、すぐ仁王門の下に立った。
 抱えきれないほどの太い柱の、あくまで古びたその朱けのいろなら、天井からさがった大提燈の、小舟町だの、四日市だのという煤けた文字に、なおかつ残った墨の匂なら、あやに垂れ交したその控え綱の古びなら、かれは子供の時分から、その下に立つのが好きだったのである。ことに夏の日ざかり、ガランとした、人の声の全くたえたその下に立つと、うそのように涼しい風がどこからともなく吹いて来た。どんな暑さでも、途端にかれは、忘れることができた。……と同時に、かれの目に、隅田川のひろびろとした流れがうかび、青い蘆のしげった洲がうかび、白い帆をかけた舟のかげが寂しくうかんだ。……子供の時分、かれは、画かきになりたいと思ったのである……
 が、現実の仁王門は……「浅草観音号資金募集」の立看板以外、「児童相談」だの、「観音経を読む会」だの、「浅草寺結婚相談所」だの、それらの標示をところ嫌わず立てかけたいまの仁王門は、かれにそうした回想の余地を与えなかった。……ばかりでなく、白い布、黄色い布を手に手にもって立った、千人針の人たちをかこんだいくつもの群は、さらにかれを、ひさしくそこに立ちどまらせなかった。……あきらかに、かれは、無用なひとりの通行人だった。
 そのあと、かれは、御堂の階段を上った。大ぜいの参詣人にまじって、あの大きな賽銭箱のまえに立った。……と、赤、青、白、黄、紫、五色のとばりが内陣のまえに垂れ、そのとばりのまえに、
敵国降伏大秘法修行中
 と、書いてあった。
 いかに戦局が重大か……

 ……敵、海より迫る。……ニミッツ攻勢の下、昨年十一月、ギルバート諸島、マキン、タラワ両島を侵し、本年二月、ついにわが領土たる内南洋に入り、マーシャル諸島、ルオット、クェゼリンに来寇したる敵は、その後、機動部隊を繰出し、ときに基地航空力を駆使して、三月十七八両日には、トラック島を空襲、同二十三日には、サイパン島外、テニアン、グヮム等のマリアナ海域を攻撃、三月三十日より三日にわたっては、パラオ周辺に来寇し来ったが、こえて六月十一日には、太平洋艦隊の主力をすぐれる二十数隻の空母、十数隻の戦艦を集結して、サイパン島周辺に再現し、同十五日、ついに二度の撃退にもめげず、同島への上陸を敢行……と、いまもいま、夕刊でかれは読んだ……
敵国降伏大秘法修行中
 かれの目の、知らず知らず、その烈しい文字の上に喰い入っているのを、かれは感じた。
「一生けんめい。……一生けんめいなんだ、みんな……」
 と思うと、間断なき参詣人の足音さえ、広い御堂のなかに、ただならぬひびきを返した。
 その息苦しい空気……
 そのなかで、かれは、つつしんで味方の必勝を祈願した。……そのあとで、いのちがあり、生きてまた東京の土をふむことのできた身の仕合を、しみじみありがたく感謝した。
 ……わけもなく、かれは、泪のこぼれるような気がした。
 が、参詣をすませ、しばらくして、御堂の横へ立ちいでたかれは、
「十五年。……そんな月日がいつすぎたろう?」
 と、われとわが身をうたがわないわけに行かなかった。それほど、その石段の下にひらけた境内のけしきは……どこもかも銀杏のしげりの、その夢のようなむらがりにつゝまれた五重の塔でも、二天門でも、三社さまの鳥居でも、嘗て、毎日のようにかれのみつづけた時分と、すこしの変化もしていなかったのである。……そっくり、そのまんまだったのである……
 ………………
 ………………”

 東京の空にB29のはじめて飛んで来たのは、昭和十九年の十一月一日だった。だから、これを書いているときは、まだ作者も、この作のなかにでて来る人物のだれも、空襲がどんなに怖いものかということを知らなかったのである。でもしかし、サイパン東京間一二〇〇余浬、サイパン比島間一五〇〇浬で、基地航空兵力の、ともに手のとどく距離になったということが、だれの胸をでも暗くして、空襲必至のかけ声も、もう、いままでのような空念仏からねんぶつでなくなったときだった。……しかもそのときは、まだ、仁王門もあれば、五重の塔もあり、輪蔵もあったのである。……と、こういい来ったとき、仲見世にとって、仁王門を失ったことが、どんなに致命的であったかが、いまさらのように、はっきり、ぼくにわかった。……東に左輔金剛さほこんごう、西に右弼金剛うひつこんごうを安置した、あの山門さえ無事であったら、やみやみそう“新仲見世”に、信仰を無視したヨコバンは切らせなかったであろう……
 それにしても、焼け残った荒沢不動の、闇市上り……と、土地の人は、矢っ張、穿うがったことをいう……の、伝統をもたない店々の闖入ちんにゅうのかげに、虐げられたむくろをよこたえているそのすがたよ。……ぬれ仏は、遠く、道をへだてて、だまって、冷やかに、そのすがたをみ下ろしている……


 ところで、ぼくは、ここのところ、ひんぴんと浅草がよいをした。……観音さまの、御遷座記念奉告ぶこく法要にも行けば、“浅草まつり”の行事の一つの、公園の芸者の組おどりというものもみに行ったし、三社まつりのフィナーレ(と、もらった案内状に書いてあったのである)の、神輿の宮入みやいりもみに行ったのである。そして、あるいは、開帳された御厨子のけんらんさに目をみ張ったり、あるいは、公園の芸者たちの、新橋よりも、赤坂よりも、柳橋よりも、美人の粒の揃っているのに感心したり、あるいは、二の宮、三の宮、一の宮の順で、薄暮、おりからの雨の中を、提燈の火の群にまもられ、しばしば人の波の中に溺れかけつつ帰って来る神輿におもわず拍手を送ったりしたが、それよりも何よりも、ぼくは仲見世を入りかけて、途端に、目のまえに、新装成った浅草寺の大屋根の強い勾配の、晴れた五月の午後の空にみごとなソリをうっているのをみいだしたときの、そのよろこびである……
 ――救われた……
 と、ぼくは、おもわずホッと息をついた。
 数日して網野さんに逢ったとき、その屋根の威力について話したあと、
 ――一たい、あの屋根に、何枚、瓦がのっています?
 と、ぼくは訊いた。
 ――七万二千枚です。
 と、網野さんは、莞爾としていった。


 足袋屋の友ちゃんこと鈴木友治君から、ひさびさで手紙が来た。……いつものような長いものでなく、ただ二三行、簡単に、

 ――観音さまが出来上ったら、どこからともなく、むかしの鳩が帰って来たそうです。あなたも、そろそろ、帰っておいでになったらいかがです。

 と、書いてあった。
 さて、ぼくは、何んと返事をしたものかと思っている。
(昭和三十年)





底本:「浅草風土記」中公文庫、中央公論新社
   2017(平成29)年7月25日初版発行
底本の親本:「久保田万太郎全集 第十巻」中央公論社
   1975(昭和50)年10月
初出:雷門以北「東京日日新聞 夕刊」
   1927(昭和2)年6月30日〜7月16日
   吉原付近「中央公論」
   1929(昭和4)年2月
   続吉原付近「中央公論」
   1929(昭和4)年3月
   隅田川両岸「中央公論」
   1935(昭和10)年9月
   浅草田原町「三田文學」
   1912(明治45)年2月
   あやめ団子「花形」
   1920(大正9)年8月
   相模屋の路次・浅倉屋の路次「新演藝」
   1920(大正9)年8月
   浅草の喰べもの「中央公論 夏期特別號」
   1920(大正9)年7月
   夏と町々「時事新報 夕刊」
   1929(昭和4)年6月1日〜30日
   絵空事「新潮」
   1932(昭和7)年3月
   一年「東京新聞」
   1946(昭和21)年4月15日
   浅草よ、しずかに眠れ「苦樂」
   1948(昭和23)年2月
   夜店ばなし「婦人公論」
   1931(昭和6)年7月
   除夜「週刊朝日」
   1930(昭和5)年12月28日號
   正月「婦人公論」
   1932(昭和7)年1月
   水の匂「文藝春秋」
   1941(昭和16)年7月
   町々…… 人々……「別冊文藝春秋」
   1955(昭和30)年2月〜6月
※「カフェエ」と「カフェー」、「さア」と「さァ」、「掘割」と「堀割」、「繻絆と「襦袢」、「一言」と「一ト言」、「こっち」と「こッち」、「どっち」と「どッち」、「くっちゃ」と「くッちゃ」の混在は、底本通りです。
※「燈火」に対するルビの「あかり」と「ともしび」の混在は、底本通りです。
※〔 〕内注記は、編者部による加筆です。
※引用文の旧仮名は、底本通りです。
※「吉原附近」の初出時の表題は「吉原今昔(一)」です。
※「続吉原附近」の初出時の表題は「吉原今昔(二)」です。
※「相模屋の路次・浅倉屋の路次」の初出時の表題は「相模屋と淺倉屋の路次」です。
※「夜店ばなし」の初出時の表題は「夏・夜店……」です。
※誤植を疑った箇所を、「久保田万太郎全集 第十卷」中央公論社、1967(昭和42)年10月25日発行の表記にそって、あらためました。
入力:kompass
校正:栗田美恵子
2023年10月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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