詩を書き出してから、すでに四十年に近いのであるが、さてしかし、詩とはなにかと来られると四十年の年月もぐらつくみたいで先ず、当惑をもって答えるしかないのである。ではなんのために詩を書くのかと来られてはこれもまた直立不動の姿勢にでもなって、ただ口をもぐもぐしているよりほかはないみたいなのである。
詩人のくせに、はなはだみっともないようであるが、実は詩人だからこそそうなのであって、詩とはなにかと問われても、ちょっと一口では答えられないものがあるからであり、なんのために詩を書くのかと問われても、それらの答えは、灰皿やマッチみたいに、すぐに出せるものではないからなのである。つまりは、詩とはなにかといわれても、詩の定義はむずかしくて、四十年の詩作をもってしても答えることが困難なのである。
たとえばある詩人によると、詩は叫びであるというのである。そうかとおもうとある詩人は、詩は怒りであるというのである。また詩は美であるというのもある。あるいは、散文であっても小説であっても、あの特定の審美的情緒を感じさせるものがあれば、それを詩といってもよいという風なのもある。また、詩は批評であるとするものもある。
またある詩人は、精神のある状態の記録であると説明する。そしてまたある詩人は、詩は経験であるというのである。またある詩人にとって、詩は美や真実をもとめる人間感情の純粋な表現であるという。ある詩人は、詩は青春であるともいうのである。数えあげると、おそらく詩人の数ほどいろいろあるに違いないのである。
そんなわけで、詩とはなにかと問われても、誰もが詩とはこれだと答えられるような定義というものがあるのではないからなのである。ということは、それほど詩の定義づけはむずかしいということなのであって、詩人の間ではむかしから、詩とはなにかが問題にされつづけて来たのであるが、その答えは前に述べたいろいろの例のように、各人各様に試みられているに過ぎないのである。
そこで、話はぼくのばあいなのである。四十年近くも詩を書いて来たとはいうものの、正直なところ、詩とはなにかと問われると、問われるたんびに戸惑いしないではいられないのである。しかし、それでも詩を書いて、詩人のつもりで生きて来たのだとおもうと、そこに詩を投げ出して逃げ出したくもなるのであるが、なにしろ何十年も歩いて来た道なのである。引返すことはすでに不可能なことであり、いまとなっては飛び込む横丁もない始末なのである。
そういうぼくにとって、出来ることはただ一つ、詩を読んでもらいたいと、答えの代りにおすすめするより外にはないのである。
いかにも、ずるいみたいであるが、やむを得ないわけで、詩とはそういう風にして自分の手でさわり、自分の眼で見てわかるものなのであって、問いに対する答えを待っていたのでは、何年経っても実感としてはわからないのではなかろうか。
ぼくが詩を書くようになったのは、詩とはなにかということ、それがわかっての上で書いたのではなかった。わかっていたにしてもそれは、小説よりもうんと短いもの、そして、一行一行が行わけにして書かれたもの、それが詩であるぐらいの程度なのであったが、その程度のことも、当時の生田春月の詩から得たところの実感なのであった。詩を象にたとえて見るならば、詩人は群盲なのかも知れない。
それでも手にふれてはじめて知ったそれが、行わけの短い形であったということはいわば詩のしっぽか足の皮であったかもしれないが、それを手がかりにぼくは詩の世界に足をふみこんだのである。つまりは、詩とはなにかもしらないうちに、書きたくなって書くようになったのが詩なのであった。
いわば、書かずにはいられなくなって書き出したのがぼくの詩で、かゆいところを掻き出したのが病みつきになったみたいなものなのである。それはぼくに、美感というよりは快感をあたえたのである。よくはまだぼく自身にもわからないのであるが、ぼくはいまでも、あるいはこの快感のために、詩作をしているのかも知れないのである。ぼくは常々、詩を求めるこころは、バランスを求めるこころであるとおもっているが、そのこころは、かゆければ掻きたくなり、いたければさすりたくなるこころのようなものだからである。
こうして、詩人としてのぼくはいかにも自然発生的で、詩とはなにかも知らなければ、なんのために詩を書くのかも知らない詩人なのではあるが、それでは詩を書く資格がないじゃないかといわれたりする、資格で詩を書く詩人もあるようである。
さて、詩人としてのぼくの仕合わせは、たとえ詩を書く資格がないにしても、詩を書かずにはいられないというそのことなのである。ということは、バランスを求めるこころが、ぼくにそうさせるのではなかろうかとおもうのである。ぼくの経験によると、人間は生きていると、あっちもこっちもかゆいのである。生活を見てもそうなのであって、かゆかったり痛かったり、痛がゆかったりで、なんとかしなくてはならないことばかりである。
ぼくはかつて次のような「座蒲団」という詩を書いたことがある。
土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽といふ
楽の上にはなんにもないのであらうか
どうぞおしきなさいとすゝめられて
楽に坐つたさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに
住み馴れぬ世界がさびしいよ
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽といふ
楽の上にはなんにもないのであらうか
どうぞおしきなさいとすゝめられて
楽に坐つたさびしさよ
土の世界をはるかにみおろしてゐるやうに
住み馴れぬ世界がさびしいよ
この詩は題の示すように、座蒲団を取り扱った詩であるが、作者がいかに座蒲団とは縁の遠い生活をしていたかがうかがわれるのではないかとおもう。上京してから何年というほど屋外に住んでいた浮浪者のぼくが、就職の件で先輩の家を訪ねて、久し振りに座蒲団の上に坐ったのであったが、自分ながらあの頃の生活のかゆさがおもい出されるのである。
またぼくはある時間を、汲取屋になって生きた。むろん好んでのことではなかったが、自殺の見込みのないぼくにとっては、なんでもするより外にはなかったのである。人類は鼻など持っているために、こんな臭い仕事とおもわないのではなかったのであるが、鼻をなだめすかして汲み取るより外には術もなかったのである。まもなく出来た詩が「鼻のある結論」というのである。
ある日
悶々としてゐる鼻の姿を見た
鼻はその両翼をおしひろげてはおしたゝんだりして 往復してゐる呼吸を苦しんでゐた
呼吸は熱をおび
はなかべを傷めて往復した
鼻はつひにいきり立ち
身振り口振りもはげしくなつて くんくんと風邪を打ち鳴らした
僕は詩を休み
なんどもなんども洟をかみ
鼻の様子をうかゞひ暮らしてゐるうちに 夜が明けた
あゝ
呼吸するための鼻であるとは言へ
風邪ひくたんびにぐるりの文明を掻き乱し
そこに神の気配を蹴立てゝ
鼻は血みどろに
顔のまんなかにがんばつてゐた
またある日
僕は文明をかなしんだ
詩人がどんなに詩人でも 未だに食はねば生きられないほどの
それは非文化的な文明だつた
だから僕なんかでも 詩人であるばかりではなくて汲取屋をも兼ねてゐた
僕は来る日も糞を浴び
去 く日も糞を浴びてゐた
詩は糞の日々をながめ 立ちのぼる陽炎のやうに汗ばんだ
あゝ
かゝる不潔な生活にも 僕と称する人間がばたついて生きてゐるやうに
ソヴィエット・ロシヤにも
ナチス・ドイツにも
また戦車や神風号やアンドレ・ジイドに至るまで
文明のどこにも人間はばたついてゐて
くさいと言ふには既に遅かつた
鼻はもつともらしい物腰をして
生理の伝統をかむり
再び顔のまんなかに立ち上つてゐた。
悶々としてゐる鼻の姿を見た
鼻はその両翼をおしひろげてはおしたゝんだりして 往復してゐる呼吸を苦しんでゐた
呼吸は熱をおび
はなかべを傷めて往復した
鼻はつひにいきり立ち
身振り口振りもはげしくなつて くんくんと風邪を打ち鳴らした
僕は詩を休み
なんどもなんども洟をかみ
鼻の様子をうかゞひ暮らしてゐるうちに 夜が明けた
あゝ
呼吸するための鼻であるとは言へ
風邪ひくたんびにぐるりの文明を掻き乱し
そこに神の気配を蹴立てゝ
鼻は血みどろに
顔のまんなかにがんばつてゐた
またある日
僕は文明をかなしんだ
詩人がどんなに詩人でも 未だに食はねば生きられないほどの
それは非文化的な文明だつた
だから僕なんかでも 詩人であるばかりではなくて汲取屋をも兼ねてゐた
僕は来る日も糞を浴び
詩は糞の日々をながめ 立ちのぼる陽炎のやうに汗ばんだ
あゝ
かゝる不潔な生活にも 僕と称する人間がばたついて生きてゐるやうに
ソヴィエット・ロシヤにも
ナチス・ドイツにも
また戦車や神風号やアンドレ・ジイドに至るまで
文明のどこにも人間はばたついてゐて
くさいと言ふには既に遅かつた
鼻はもつともらしい物腰をして
生理の伝統をかむり
再び顔のまんなかに立ち上つてゐた。
この詩を読んで、読者は即座に鼻をつまんでそっぽを向いてしまうのかも知れないが、作者のぼくとしてはそれを無理に、この詩から美を感じてもらいたいと読者に対して頼むわけにはいかないのである。なぜならば、それはまったく詩そのものの罪なのであって、ぼくのとるべき責任ではないからなのである。
汲取屋のぼくはただかゆいところを探しあてて、そこに鼻の問題のあることを見つけ、文明の問題や人間の問題などのあることを見つけたりして、自分なりの感想や批判をもって書いたまでのことで、言葉をかえていうならば、かゆいところを掻かないではいられなかったのである。しかし「鼻のある結論」にしても「座蒲団」にしても、詩とはなにかの問いに対して充分に納得のいく答えであるかどうか、いささか気のひけることではあるが、多少なりとも読者の共感をそそるものがあるとか、味わいをそそるようなところがあるとすれば、どうにか詩らしいものになっているのではないかとおもうのである。
はなはだ漠然としているが、以上述べたことで、ぼくの考えている詩は、抜き差しならないほど、生活と結びついているようである。
むかしから、詩についての講座とか、詩の作り方というような本は沢山あるようであるが、そういう本や講座によって、詩がわかったとか、詩が作れるようになった詩人があるかどうか、寡聞にしてそういう詩人があるということをかつてぼくは耳にしたことがないのである。
そんなことから推察して、詩とはなにかとの問いは、むしろ問う人自身に向けられなくてはならないのではなかろうかとぼくはおもうのである。この講座の初回に挙げた例のように、詩とは叫びであるとか、詩とは怒りであるとか等々の答えにしても、結局は教えられたり押しつけられたりしてそのようにおもったのではなくて、詩人自身が探り当てたり発見した結果に違いないのである。
それならば、なんのために詩を書くかという問いにしても、これまた詩とはなにかとの問いとおなじく、矢張りその人自身に向けてはじめて、意味のある問いとなるのではなかろうか。ぼくはそこに「詩」と「人間」とが、似通っているものであることを感じないではいられないのである。おそらく人間とはなにかと、なんのために生きるかというようなことを、考えた経験のある人ならばそれを感じることが出来るに違いないのである。
つまりは「詩」といい、「人間」といい、それらは求められることによってその存在を主張し、存在することによってそれらは、繰り返し追究されなければならない性質のものだからと、ぼくはそうおもうのである。そこで、ぼくは、書くということ、それは、生きるということの同義語のようなものではないかとおもうわけである。前回で、バランスを求めるために詩を書くのであるとぼくは述べたがぼくなりの考え方として、それほど間違ってはいないような気がするのである。
わかったみたいなわからないみたいなことばかりをしゃべってしまったが、ふり返ってみると、浮浪の生活といい汲取屋の生活といい、その他ぼくの経験して来た生活は、ふざけたりおもしろがったりしてそういうことをしたのではなかった。ある意味で、それらはぼくにとって血の出るほどのいびつな生活で、たびたび、死んだ方がましなおもいなどもしないのではなかったが、いわば、詩がぼくにそうさせたようなものであり、詩という奴はまったくひどい奴で詩人をそういうめにあわせながら、生きろ生きろと耳うちをしてくる奴なのだ。
この講座を引き受けるに当って、学識その他の設備のないことを残念だとおもったのであるが、それは他に適当な詩人があるはずで、ぼくは読者に、片眼をつむってのぞいていただければと、あり合わせの節穴みたいなものでがまんしてもらったわけである。
おわりに、なんのために詩を書くかとの問いを中心に、くるくる回っている詩人諸家の言葉を、御参考までに引用してみると、金子光晴は「腹の立つときでないと詩を書かない」というのである。含蓄のある言葉であるとおもう。かれの生き方、考え方、詩に対するこころ構えなど、かれの姿をほうふつさせるものではなかろうか。
北川冬彦は「なぜ詩を書くか、私にとっては、現実の与えるショックが私に詩を書かせるのだ、というより外はない」といい、高橋新吉は「自然の排泄に任すのである」といい、村野四郎は「私は詩の世界にただ魅力を感じるから詩を書きます」というのであり、深尾須磨子は「私が存在するゆえに私は詩を書く」といい、田中冬二は「私はつくりたいから、つくるまでであると答えたい」とのことであり、数え立てれば色々の答がなんのために詩を書くかの問いに対して、出没するのであるが、それらの答えで注目すべきことは、誰もが生から詩を切り離しては、答えられないものであるということなのである。
次の詩は自作であるが、ビキニの灰と箸との結びつけなどから、詩人としてのぼくの作業の一端を紹介することが出来るのではなかろうか。
鮪に鰯
鮪の刺身を食いたくなったと
人間みたいなことを女房が言った
言われてみるとついぼくも人間めいて
鮪の刺身を夢みかけるのだが
死んでもよければ勝手に食えと
ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ
女房はぷいと横にむいてしまったのだが
亭主も女房も互に鮪なのであって
地球の上はみんな鮪なのだ
鮪は原爆を憎み
水爆にはまた脅やかされて
腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
ある日ぼくは食膳をのぞいて
ビキニの灰をかぶっていると言った
女房は箸を逆さに持ちかえると
焦げた鰯のその頭をこづいて
火鉢の灰だとつぶやいたのだ
人間みたいなことを女房が言った
言われてみるとついぼくも人間めいて
鮪の刺身を夢みかけるのだが
死んでもよければ勝手に食えと
ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ
女房はぷいと横にむいてしまったのだが
亭主も女房も互に鮪なのであって
地球の上はみんな鮪なのだ
鮪は原爆を憎み
水爆にはまた脅やかされて
腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
ある日ぼくは食膳をのぞいて
ビキニの灰をかぶっていると言った
女房は箸を逆さに持ちかえると
焦げた鰯のその頭をこづいて
火鉢の灰だとつぶやいたのだ
(「全繊新聞」一九五八年九月七日〜二一日)