ぼくの最初の詩集『思弁の苑』を出版したのは、昭和十三年の八月である。当時は、神保町の巌松堂のなかに、むらさき出版部というのがあって、「むらさき」という雑誌を出していた。ぼくも頼まれるまま、時々その雑誌に詩を発表していたところ、編集長の小笹氏のすすめで、むらさき出版部から出すことになったのである。ぼくは、機会さえあればいつでも出版出来るようにと、詩稿の整理をしてあったので、それに、佐藤春夫氏の序詩と、金子光晴氏の文を添えて、早速、小笹氏に渡したのである。佐藤春夫氏の序詩はその五年程前にもらってあったし、金子光晴氏のは三年前にもらってあったものなのであるから、かねて詩集を出したかったに違いないが機会をつくることが困難だったわけなのである。
ところが何ヵ月経っても、詩集は出る様子もなく、話にも出ないので、もう駄目だときめ込んでしまい、詩稿を返してもらった。すると、その後の小笹氏の態度が変になってしまったのである。しかし、まもなく「どういうわけで詩稿を持って帰ったか」ときかれて、ぼくの早合点がそうさせたことがわかり、ぼくはあわててまた小笹氏に詩稿を渡したのである。
装幀のことについてはいろいろと迷ってしまった。誰かに頼んでも、万一、本になって自分の気にいらないものになっては、見るたんびにいやなおもいをしなくてはならないわけだと、最悪のことばかりが気になったのである。そこで、自分で責任を負うことにして、たとえ失敗しても自業自得ですませたく、人のせいにはしなくともすむように自分の考えで装幀したのである。表紙の色は、朱のつもりなのであったが、赤になってしまった。自業自得である。唐獅子の絵は兄に描いてもらった。朱は、ぼくの郷愁の色である。那覇の朱い屋根屋根には、漆喰の唐獅子が住んでいたからなので、云わば郷愁で装幀をしたわけなのである。兄は無名の画家で、小学校の教師をしていた。『思弁の苑』が出たとき、まっさきによろこんでくれたのはその兄で、かれは父や母に対しても、ぼくのことをかばったり鞭撻したりしていたからなのである。それに、序詩、序文の佐藤春夫、金子光晴の両氏に並べて、表紙絵を山口重慶として兄の名を記しておいたので、有名人と名を並べられたことに兄は非常に名誉を感じていた。
昭和十五年の十二月に、山雅房から『山之口貘詩集』を出したが、『思弁の苑』に新作の詩を十二篇加えたのがそれである。
敗戦後まもなく、八雲書店から『山之口貘詩集』を再版することになったとき、手許にその本がなく、古本屋から古本屋を探し回っても見つからないので、「八雲書店から出る詩集で返すから」と、友人のところから借りて来た詩集をつぶして原稿にしたのである。しかし、装幀のことについては例によってまた困った。出来たものを見ない限りは合点がいかないのである。従って、合点がいかないまま誰かに頼むということも、ぼくにとって困難なことなので、装幀のことは後回しに考えることにしたのである。
山雅房から出した詩集には、ぼくの意志でないのが、そのていさいのなかに混っているのだが、八雲書店からの再版に際してそれをあらためることにした。第一、目次のところにある作品番号が、いかにももったいをつけたみたいである。それから、夏の着物の柄みたいな扉の感じも気に入らないし、自分の肖像写真も、気のすすまぬままいれてしまったものである。それらのことは、当時の山雅房と関係深かった平田内蔵吉氏の考えに任かせたもので、ぼくとしては賛成し兼た事柄だったからなのである。
さて、しかし、『山之口貘詩集』は、校了になったまま、書店がつぶれて陽の目を見ることが出来ず、ゲラ刷りだけがぼくの手許にもどって来たが、そのときまで装幀のことはまだきまっていなかったのである。
(「図書新聞」一九五六年六月三〇日)