野宿

山之口貘




 あとになって、きいたことなのであるが、ずっと前にそこに住んでいたうちの娘さんが、毒をのんで便所のなかで死んでいたという噂のある家なのである。近所のおかみさんの話によると、この家に引っ越してくる人は、みんな、四五日も居たか居ないかのうちに、すぐにまたどこかへ引っ越して行くんだそうで、
「お宅が一番ながいんですよ」と云った。云われてみれば、この家にぼくらが来てから、もう半年も過ぎようとしていたのである。そして、住み心地も、おかみさんの話と、まったく辻褄があっているのであった。そんなわけの家なので、居候のくせにと自分でおもいながらも、ぼくはひとりで留守番をすることが出来ず、波里さんが出掛ける時には、いつもいっしょについて出掛けて、いっしょに帰ってくるのである。それでも、用足しによっては、ぼくがいっしょでは都合のわるい時もあって、そういう時には波里さんの帰りの時間をきいておいて、その間をぼくはあてもなく街をさまよい、駒込の橋の上で波里さんの帰りを待ち合わせて、いっしょに帰ってくることにしたのである。
 ぼくは、一日も早く郷里へ帰りたかった。父からの仕送りを前提にして、上京はしてみたものの、上京早々から父との約束はあてが外れてしまって、早稲田の戸塚から本郷の湯島新花町、そして、台町から駒込の片町、それからこの中里の家に来て、その日その日をぼくはお化けの気配におびえながら、友人の須南君が貸して呉れる筈の旅費を待ちあぐんでいたのである。
 そこへ、関東の大地震なのであった。波里さんはすっかり絶望してしまって、もう東京にいても仕方がないから郷里へ帰るんだと云い出したのである。汽車が駄目でしょうと云うと、波里さんは一応、従兄の家に引揚げていて、汽車の復旧次第郷里へ帰るのだと云ってぼくの顔を探るみたいに、
「君はどうする?」と来たのである。
 こう云われてみれば、これまでのように、波里さんのあとにくっついて行くわけにもいかず、とにかく、ぼくは、九段まで行ってみることにしますと答えた。九段には、同郷の某侯爵邸があって、そこには、友人の胡城君というのが書生をしていたからである。ぼくは、三脚椅子を肩に、ズックの鞄をぶら提げて、駒込中里のお化けの家を出たのである。街は、大変な騒ぎなのであった。江の島が海底に沈んでしまったとか、鎌倉が津浪にさらわれてしまったとか、社会主義者は片っ端から警察に引っ張られたとか、または荒川方面から朝鮮人の大群が東京をめざして攻めて来つつあるとか、井戸という井戸には、毒が投じられているので、井戸水を呑んではいけないとかと、そのようなことが次から次へと、途々、ぼくの耳に這入って来た。人々は、みんな右往左往の状態で、棒片のようなものを手にしていたり、日本刀など片手にしているものもあったりして、またたく間に、巷は殺気立っていたのである。
 白山上にさしかかると、
「君々」と、うしろの方から声をかけられた。振り返ると、巡査なのである。生れてはじめて巡査に呼び止められたのであるが、場合が場合なだけに、ぼくはおどおどした。
「社会主義者ではないんですがね」
 ぼくは、とっさにそう云って、自分のよごれ切った霜降りの身装や、摺り切れている片ちんばの下駄や、何日も洗ったことのないぼうぼうとした長髪や、何日も放ったらかしになって髯のなかに埋まっているこの自分の、キリストを悪人に仕立てたみたいな風貌などを意識させられてしまったのである。
「どこから来たんだね」
「駒込からです」
「どこまで行くんだね」
「友人を訪ねて九段まで行くんです」
 巡査は、それだけのことを、ぼくにきいたのであるが、それだけのことでは割り切れないものがぼくの人相には漂っていたものか、こちらが素直に答えているにもかかわらず、警察まで同行しろということになってしまったのである。
「ちょいと主義者みたいだからね」
 巡査は、取り調べの結果、主義者でないことがわかったらしく、テーブルの上に展げて見せたぼくの詩稿をまとめて返しながらそのように云った。そして、
「詩人もこのごろ頭の毛を伸ばすのか?」
 と巡査は云って、いかにも主義者ばかりが頭の毛を長くしているかのような眼つきをしながら、
「主義者と間違えられては損だよ」と忠告めいた口振りまでしたのである。警察を出ると、巡査の云ったその忠告の言葉が、妙に、ぼくは気になって来た。そこで、ぼくは、また警察へ引っ返したのである。
「なんだい?」
 先程の巡査がそう云った。
「すみませんが一寸お願いがあるんです」
「なんだい?」
「途中、どうも心配ですから一筆証明していただけないでしょうか」
「証明?」
「そうです。つまり私が主義者でないということの」
「そんな証明は出したことがないね」
 巡査は、当惑しているらしかったが、ぼくも弱ったのである。
「詩人だという証明でもいいんですが」
「そんなのも出したことがないね」
「でも、いま調べてもらったばっかしですから、御面倒でもお願いしたいんですが」
「そんなの要らんよ君」
 しかし、ぼくは懸命なのであった。いま、調べられたばかりなのであるから、その巡査の云い分が、しらばっくれているもののように感じられたので、腹の底では、腹立ちまぎれに、しつこく、なんとかお願いしますと繰り返した。すると、巡査は、むっとした顔になったが、むっとしたまま、あらためて、ぼくの住所と、生年月日をきいた。
「これでいいだろう!」
 巡査は、ペンをおいて、名刺よりは一まわり大きいかに見えるその日本紙の切れっ端をぼくに寄越したのである。それには、「右ノ者社会主義者ニアラザルコトヲ証明ス」とあって、駒込警察署の角印まであざやかなのであった。
 九段上の侯爵邸に辿りつくまで、結局、この証明書を必要とすることが襲いかかって来たことはなかった。侯爵邸の裏口から這入って、友人の胡城君を訪ねると、袴をはいた彼が出て来た。彼は、ぼくに、髯ぐらいは剃れよと云いながら、ぼくの頼みを受入れて呉れたので、当分、侯爵邸にぼくは泊めてもらうことになったのである。
 人々は被服廠をはじめ、市内の方々を見て歩いたりしているらしかったが、ぼくはそういうことには一向に興味もなく、何日振りかで、九段の坂上のところまで出て見た。神田一帯が焼野原になってしまって、あちらこちらには、焦げた金庫が残り、その上には、銃劒の兵士の立っている姿が見受けられた。
 まもなく、東海道線の復旧で、ぼくも、罹災民の一人として、沿線の、おにぎりや林檎や味噌汁などの恩恵をこうむりながら、無賃乗車、無賃乗船で、郷里へ辿りついたのであるが、おもえば、上京以来、帰郷までの一年間を、よくも無銭の状態で過ごして来たものだ。
 ところが、郷里の那覇に帰ってみると、ぼくの帰りを、悲劇が待っていたのである。母は泣きながら、その後の家の様子を、こまごまと話しながら、実はこの家も人手に渡さなくてはならなくなっているのだと云った。むろんそれは父の失敗なのであった。父は、三十年近くも、第百四十七銀行に勤めていたのであるが、その退職金を持って八重山に渡り、質屋を開業しながら祖父の面倒を見てやりたいとかねがね口にしていた。ところが、銀行を退職すると、それをききつけて、どうせ八重山へ行くのならついでのことではないかと、こんどは、産業銀行からその八重山支店長にと頼まれたので、父はそれを断わり切れず、承諾してしまったのである。それは、ぼくの上京前のことなので、ぼくも知っていたのであるが、さて、母の話によると、父は、支店長の椅子に腰をおろした途端に、慾を出してしまったのだと云った。というのは、毎日、銀行に札束を運んでくる業者は、どれもこれも殆どが、鰹節製造業者なので、父は質屋のことなどは忘れてしまって、ついに、一隻の漁船を買って鰹節製造に手を出したというのである。しかし、事業は興してみたものの、不漁つづきのために、家まで手放さなくてはならなくなったと母は云った。
 やがて、ぼくらは、知人の家の離れを借りた。六畳ひとまに、母とぼくと弟と妹の四人の雑居は、そのまま、家の没落の実感となったのである。母は、なんどもなんども、物かげで涙を拭き拭きした。冬の休みが来て、中学二年の弟と、女学校一年の妹と、そして、ぼくと母とが、八重山へ行った。午後の四時頃、那覇の港を出ると、翌日の朝が宮古島で、その翌日の昼過ぎ頃は八重山なのである。八重山には港がなかった。船は沖に碇泊して、浜の方から石油発動機船が乗客を迎えにくるのである。浜へおりて、まっすぐの道を行くと、一丁程の左側には郵便局があって、その一寸先の突き当りには石垣に囲まれた島司の社宅がある。その右手の角が産業銀行の支店なのである。銀行とは一つ屋根で、裏手の半分が支店長の社宅にあてられていた。
 ある日、素足の、ずんぐりした男が来て、なにごとか父と話していたが、父の差し出した半紙に印を押すと、拾円紙幣の束を受取ってその男は帰った。あれが、船頭さんだよと母はぼくにいった。そして、船頭さんに限らず、船の人達はあのようにして貸してやらなければ、むくれて他の業者へ鞍替えしてしまうのだと母は云った。
「そんなに貸す金があるんですか」ときくと、母はまた涙ぐんでしまって、そのたびに父が、銀行の金を持ち出しているのだと云うのである。父は、銀行のその日の仕事が済むと、黙々として、双眼鏡を片手に浜辺へ出た。そして、暮れるまで、浜辺の白砂の上に立ちつくして、水平線の彼方に双眼鏡を向けつづけているのである。しかし、父の船は、毎日手ぶらで帰って来た。あるときのこと、珍らしく父に誘われて、ぼくはその鰹節製造工場を見に行った。半途程先の海辺の砂地の上に、藁葺の工場が、陽に照りつけられて立っていた。父の船は父の名を名づけて重珍丸なのである。いま、漁から帰ったばかりのところで、二、三十本の鰹が重珍丸から運ばれた。まもなく船頭さんのおかみさんが、大きな皿に刺身を盛って持って来た。刺身は新鮮と云っただけでは云いたりないほど新鮮すぎていて、ところどころに、まだひくひくと動いているのが見受けられて、すぐには箸を持つ気になれなかった。
 ぼくが、重珍丸の漁を見たのは、後にも先にもその時だけなのである。父は、相変らず毎日、双眼鏡を片手に海辺に立ちつくしたのであるが、重珍丸は手ぶらで帰って来た。父は、余程まいって来たらしく、ついに、半紙を二枚、ぼくの鼻先に差し出して、弟と妹の退校願を書けと命じたのである。それとは知らずに、弟と妹は、トランクのなかなど整理したりして、那覇への帰り仕度をしていたのであるが、事情がわかると、かれらはふたりともその場に泣きくずれてしまったのである。そのうちに、親類のある者から、三男の三郎を寄越せといって、父と母とが迫まられているところをぼくは見たのだ。三男の三郎というのは、つまりぼくのことなのであって、ぼくのことを寄越せと云っているその親類の者は、父にとっての債鬼なのである。ぼくのことを父の借金の身替りにして取って、東京へでも留学をさせて未来の大芸術家にでもするというのなら、ぼくにもわからないことはなかろうが、山奥の炭焼小屋で、ぼくのことを使いたいからとの申し入れなのである。彼は、横目でぼくを見ながら、
「親のためだとおもえばなんでも出来ないことはないさ」と云ったりした。そのような話がなんども持ちあがって来た頃、父は、たまらなくなって来たのであろう。親類間の借金、知人友人の借金、そして、銀行の金庫からの使い込みなどに対しては、刑によらなければ処理のつかないような口振りを示しながら、だからおまえも絵かきになろうが詩人になろうが、これから先はそのつもりで自分でやれとぼくに云ったのである。ぼくは、父のことが気の毒になって、いっそのこと父を助けるつもりで炭焼男になろうかとおもわないこともなかったのであるが、炭焼男になったところで、たかが、ぼくのことを孝行者みたいに仕立てるだけのことなのではないかと、ぼくは、なまいきにもそう思ったのである。事実、父の失敗は、ぼくが炭焼男になったぐらいのことで救われそうなものなのではなかった。というのも、父の借金は、なにもその親類のものだけに止まっているのではないからなのである。
 そこで、ぼくはひそかに、再度の上京を企立くわだてたのであるが、こんどこそはどんな目に会っても、逆戻りしてはなるまいと決心して、どうやら那覇までは出て来ることが出来たのである。しかし、那覇の家は、すでに人手に渡してしまったのであるし、那覇にある親類という親類のことごとくが、父の債鬼でないものはなかったし、いきなり、るんぺん生活へと、ぼくはその第一歩を踏みいれるより外はなかったのである。ぼくは、友人知人を訪ね廻わった。そのうちに、世間から敬遠されるようになって来て、しまいには、波の上海岸の芝生で夜を明かしたり、港のまんなかの奥の山公園に寝泊りをするようになったり、いつのまにやら、松葉などかじったりして空腹をまぎらわしたりするようなことが出来るようになったのである。そんな時、中学時代の親しい友人であった亀重君というのが現われて、殊勝な相談をぼくに持ちかけて来た。東京まで連れてってもらえないかというのである。亀重君は、那覇の街外れの質屋の次男坊なのであった。彼も、矢張り、詩や絵などをやってる男なのであるが、ふたりとも、厭世的な気分の上で共鳴し合ったりしているうちに、彼は、家出を試みたくなったらしく、ぼくが、東京まで案内して呉れるならば、旅費を負担したいとぼくに申し出たのである。しかし、亀重君の金策は彼の思う通りにはいかなかったが、それでも、ふたりは船に乗って鹿児島までは出ることが出来たのである。ぼくらは、港近くに、旅館を見つけて、桜島を眺めながら、金の来る日を待ち佗びた。それは、亀重君の家に打電して、金を請求してあったからなのである。翌朝のこと、ふたりの膳に、一個ずつの卵が添えられていた。亀重君はその卵を、茶碗の縁にコツコツやったまではよかったが、なかみを茶碗にあけようとしてはずみに、ぐっしゃりと卵を潰してしまったのである。そして、卵は、かれの両手と膳の上を汚してしまった。その時、亀重君が、耳まで紅く染めたことを、ぼくは見逃がすことが出来ず、なんだか、頼りなく気の毒なおもいをさせられたのである。まもなく、六拾円也の電報為替が届いた。亀重君の家では、大騒ぎをしているに違いないとおもいながら、ぼくらは、早速、汽車に乗った。
 東京駅に降りたのは夜なのであった。ぼくは、かねて、亀重君の兄さんが物理学校在学中であることや、富士見町に下宿しているということを亀重君にきいて知っていた。そこで、彼のことをその兄さんの下宿へ届けたいとおもって、そうするようにとすすめるのだが、家出をして来たのであるからと云って、亀重君はかぶりを強く振ったのである。ぼくは困ったのだ。
「ではどうするつもり?」
「どこでもいいからいっしょに連れてってくれまいか」
 亀重君は、なさけないことを云って、ぼくを手古摺らしはじめたのである。とは云っても、断るわけにもいかず、ぼくも腹をきめて、まず、ふたりの手荷物を構内の一時預所に預けた。バスケット一個ずつなのである。ぼくは、牛込見附までの切符を買った。亀重君のうえに、万一のことがあってはと心配なので、一応、彼のことを富士見町へ案内し、彼の兄さんの下宿の所在を見せておきたかったからなのである。兄さんの下宿はすぐに発見することが出来た。ぼくは、そこで、もういちど、寄るようにすすめてみたのだが、亀重君は頑としてかぶりを振った。仕方なしに、ぼくは彼を連れてあてもなく、神楽坂の夜店をぶらつき出した。ふたりが、歩き疲れて、汽車の疲れと折り重なりながら、土手のようなところに来た頃は、人影ひとつも見えなくなっていた。
「もしもし」という声が、うえの方から落ちてくるようにきこえた。見上げると、主義者と間違えられたかつての、ぼくの思い出をそこに髣髴とさせて、巡査が手招きをしているのである。ぼくは、とっさにその場を繕って、こころにもないことを云った。
「一寸おうかがいしますが、このあたりに旅館はないでしょうか」
 すると、巡査はきめつけて、
「なにとぼけてるんだ」と云うのである。
「旅館のことをきいているんですが」と云うと、
「こんなところに旅館なんてあるもんか」
「この辺のこと知らないんでお尋ねしているんですが」
「まあいいからふたりともこちらへ来いよ」
 ふたりは土手をのぼった。ぼくは、巡査にきかれるままにそれらしく、住所は、富士見町の亀重君の兄さんのところを答え、ふたりは散歩のつもりなのであったが、途々、芸術論に熱中しているうちに、時間の経つのも知らず、気がついた時には、すでに電車もなくなっていたので、富士見町まで歩いて帰るのも大変だし旅館を探していたところだと説明した。そして、ふたりとも絵かきだと答えると、
「なんだ絵かきか」と巡査は云ってうなずいたかとおもうと「この辺には絵かきがずいぶんいるよ、すぐそこにも安井曽太郎がいるんだ」と云って、すっかり心安くなってしまったのである。そして、「とにかくまあ早く帰って寝てくれよ、その道をどこまでも行くと江戸川へ出るから」と教えてくれた。通りすがりに見ると、ぼくらは目白駅のところを歩いているのであった。
 ふたりは、重たい足を引き摺って、しばらく歩いていたのであるが、道の二股にさしかかって、そうだここで夜を明かそうとおもった。二股の右手の道路に、幾本かの土管が転がっていたからなのである。ぼくらは、土管と土管との間に、横になっている土管を宿にすることにした。寝坊しても、往来の人から姿を見られないためなのである。ふたりは、両端に別れて、それぞれの頭を先に土管のなかへもぐり込んだのである。そして、ふたりは向き合って、立てた両膝を両手で抱きしめて、おなじポーズで坐ってみた。まもなく、また、おなじように、ふたりはそれぞれの両足を、土管の口の方へ投げ出して、頭と頭を向き合わせたまま、疲れといっしょにそこにへたばったのである。九月なかばの夜は、南方の郷里ではまだまだ、久葉の扇がさかんにはためいているのであろうが、土管のなかの東京は、すでに涼しすぎるくらいなのだ。しかし、疲れ切ったのであろう。亀重君はすぐに鼾をかき出したのである。卵の割り方ひとつも知らないようなこの坊ちゃんのことを、しかも、彼にとっては初めての東京を、土管のなかに泊めてしまったことを、ぼくは、こころから気の毒におもいながら、自分の上衣を脱いで、そっと、その胸の上にかけて、かんべんしてもらうことにした。そして、明日こそは、亀重君がなんと頑張ろうと、なんとかだましだましして、富士見町の兄さんの下宿まで是非彼のことを送り届けねばなるまいと、ぼくは、寝ながらそのように決心した。
 翌朝、土管の両端から、ふたりがのそのそと出ると、牛乳屋さんが振り向き振り向き通り過ぎて行った。ごろごろ転がっている土管の外れに気がつくと、そこには門が立っていた。こんなところに、目白の女子大学はあったのかと、ぼくはそうおもいながら、
「あれが、目白の女子大学なんだ」と云って、亀重君に指差して見せたのである。

(「群像」一九五〇年九月号)





底本:「山之口貘詩文集」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「山之口貘全集 第二巻」思潮社
   1975(昭和50)年12月1日
初出:「群像」講談社
   1950(昭和25)年9月号
入力:kompass
校正:門田裕志
2014年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード