私の青年時代

山之口貘




 人間は、生れてしばらくの間を赤ん坊と言われ、そのうちに幼年、少年、青年、壮年、老年という順を経て、墓場に永住することになるわけである。このなかで人間にとって一番の人気ある年代は青年時代のようで、青春と呼ばれているのがその時代なのである。幼年や少年にとっては、憧れの的であり、壮年や老年にとっては、またとかえるすべのない思い出なつかしい時代として、どの世代の人間からも、愛され拍手を浴びているのが青春時代なのではなかろうか。その意味では、青春をどのようにして生きて来たか、あるいは生きているか、または生きたいかということが、おそらくだれもの関心事であることに違いないのである。
 さて、世間並には、ぼくにも青春というのがあるにはあった。あるにはあったと言うことは、よき青春であったかどうか、またよき青春とはどんなものかについては自信をもって語ることが出来そうもないからなのである。
 ぼくの生地は、沖縄である。沖縄と言えばなにも威張って言うのではないが、太平洋戦争とか言われているところの甚だみっともない戦争のために、かつて世界の史上になかったと言われるほどの犠牲を払った島として、一躍世界にその名を知られ、現在は米国の極東基地として、異民族の支配下にある一部の日本なのである。つまり沖縄県なのだ。ぼくはその沖縄県の那覇市の生れで、那覇市は戦前の県庁所在地、現在は米国民政府と琉球政府と、日本政府の出先役所である那覇日本政府南方連絡事務所との所在地なのである。ぼくは明治三十六年の九月にその町に生れた那覇人で、沖縄流の発音でナフヮンチュである。つまり、ナフヮが那覇で、チュは人のことである。ついでに、本名は山口重三郎であって、幼名をサンルーと呼ばれていたが、つまり三郎のことなのである。
 県下では那覇の東北へ一里の首里に第一中学校があった。いわゆる名門校である。ぼくの学んだ小学校は、甲辰尋常小学校で、六年生になると一中への受験準備をしなくてはならなかった。ぼくは優等生だったので、担任の先生も家族も一中への入学をきめ込んでいたらしいのだが、その期待を見事に裏切って落第し、家の中を憂欝なものにしてしまった。受験準備のつもりで、毎日机に向っているのであったが、頭のなかには一つ年下の少女の顔があるばかりで、勉強のはいる余地がなく、受験準備をしているふりで通した結果なのであった。
 とは言っても、落第はぼくにとってもショックで、頭のなかの少女もたちまち掻き消されてしまって、次のときは受験準備も順調に進み、高等科一年をすませて一中への進学を遂げたのであった。すると、すぐにぼくは注意人物としてチェックされたのである。先生方の閻魔帳に記されたぼくの氏名には、赤い△印がついたのである。と言うのは、ぼくと同姓の山口校長の修身の時間に修身の教科書を衝立にして居眠りしてしまったからなのであった。居眠りをしたことについては、それだけの事情があってのことで、前夜、兄の結婚式のために夜ふかしをして、一睡もとらずに登校したからなのであったが、校長がその理由を不問のまま、眼にふれた現象だけをチェックして注意人物に仕立てたことは、ぼくの反感を唆るものがあったのである。このことを兄に話すと、小学校の図画の専科教師である兄がじっとしてはいられない風に、「校長に会って事情をよく話す」と言い出したのであった。短気者の兄だけにどうなることかとぼくはおもわずにはいられなかったが、ついそのままになったのであった。
 いまでこそ沖縄の結婚式は東京並の形式になったらしいが、当時は古風で仰々しいもので、ぼくは兄の結婚をはじめ、姉とその次の姉の場合との三度も「提灯持」の役を経験したのであるが、祝宴は夜更までも続いて、宴のほとぼりは夜明けになっても醒めず少年のぼくなどさえ一睡も出来ないほどの騒ぎなのであった。かくて、ぼくは注意人物第一号の中学生になってしまって、以来この意識は影となってぼくにまつわりついたのである。
 二年生になったとき、新入生に喜屋武キャンというのがいた。ぼくは自分からすすんで、この喜屋武とつき合って出来るだけ親しくした。かれにはグジーという名の姉があったからなので、本心はグジーに近づく手なのであったが、いかにも未来の弟を得たような気分になって、ついにその家にも出入りするようになり夢見ごこちにしばしば眼の前にグジーの顔を見ることが出来たのである。
 しばしばはやがて、雨の日も風の日もどころではなくなって、台風の日も、びしょぬれになってまで毎日毎日喜屋武を訪ねて、長時間をかれの家で過ごした。しかし、グジーと話をする機会はまずなかった。意識的にその機会をつくらないからでもあった。グジーと話をする機会をつくっては、喜屋武は勿論のこと、その家の人達に、ぼくの本心がばれそうなのでそれを警戒したのである。なにしろ、遊ぶにも勉強するにも、男は男同士、女は女同士の習慣に従っていた時代なのでなおさらのことなのであった。しかし、男女が共にあそびたいことはいつの時代の男女も同じなのであって、未だ男女別の時代であった大正の中期では、密会の機会をつくらないことには男女が共にあそぶことは気のひけることなのであった。世間の眼にふれない場所を探し求めて、そこでひそかに語り、あそぶのである。ぼくもそうすることを自分自身にのぞんだのであった。
 ぼくは毎日も喜屋武家に通いながら、手紙さえグジーに手渡したことはなく、書くたんびに郵送した。その手紙が、どのような文章で、どんな書体であったかはいまは記憶に残っていないのであるが、とにかく喜屋武家に通いながら、一方では文通によってグジーとの交際を続けて、将来ぼくとの結婚についての彼女の同意を掴むことが出来たのであった。やがて、通い詰めていた喜屋武家を時々サボルことになった。そんなときは世間の眼を避けてひそかにグジーと会っていたのである。そして、三年生になったころは喜屋武家を訪れる日が全くなくなってしまった。時に相変らずひそかに、公園裏の木立の蔭で、将来についてのとりとめのない話をふたりっきりでするのが唯一の楽しみなのであった。
 さて、しかし、ふたりのことをどんな風にして周囲のもの達に納得してもらったらいいかを考えないではいられなかった。ぼくの父は、銀行員であって給仕からたたきあげられた人で、家族にとっては怖い存在で、実は恋愛していますなんて相談を持ちかけるには、余りにも古風な人で、想像しただけでも、中学生のくせに恋愛しているとは何事だ馬鹿者奴と、きっとぶんなぐられてしまうより外にはどうにもならない予感がするのであった。いっそのこと、きまりわるいけれども兄にこの恋愛のことを訴えて、兄から父を説得してもらう手を考えてみないでもなかったが、兄でも父の頑固さには歯が立つまいとおもうより外にはなかったのである。あれこれ考えた揚句の果てに、おもいついたことがユタなのであった。
 ユタというのは、カミンチェとも言われているが、カミは神のことで、神がかりのした女のことを言うのである。家になにかの異変があったりすると、沖縄ではこのユタを家に招いてなにかと願を立てた。熱を出して床につくと、何かの祟りではないかとユタに頼んで占ってもらい、うまくいかないことがあるとまたユタで、願を立ててもらう。ユタはそれを、何代目の先祖の祟りであるとか、どこかでびっくりしたことがある筈でそのとき魂を落したからであるとかと言っては、そのための願を立てるわけなのであるが、ぼくの家でもしばしばユタのお世話になるのであった。
 ある日の夕方、ぼくはユタのことを予想して、あることのついでに魔にでも憑かれたふりをして家中を騒がせたのである。こころのなかでは、一刻も早くユタが来るのを願いながら、正気で魔に憑かれたしぐさをすることは、ぼくの場合は生きた芝居なのでなかなか容易なことではなく、誰かに見抜かれはしまいかとはらはらしながらのことなのであった。ぼくはからだをがたがたふるわせたり、うつろな眼をして自分でもなにかわからぬことを口走ったりしながら、取り巻いて神妙な顔をしているみんなの様子をうかがっていたのであるが、ユタが来ると、腹をきめて、彼女の名だけを、口走った。そのときユタはぼくの口真似をして、「グジー」と呟いたのである。この一言で、ぼくはまんまとユタを釣りあげ、頑固な父を釣り、兄を釣り母を釣り姉を釣った結果となったわけで、このような形でグジーとの恋愛をみんなに認めさせ、やっと婚約を結ぶことが出来たのであったが、とんだところでユタの恩恵をこうむったのであった。
 こうして、恋愛に夢中になっているうちに、おろそかになっていたのが学業で、ぼくはもう一度三年生を繰り返したのであった。そのころは、絵を描いたり、すでに詩もつくるようになっていたが、友達四、五人で「ほのほ」という詩の雑誌を寒天版で印刷して出したりした。ぼくたちは生田春月や室生犀星や藤村の詩なども読んだが、仲間はみんなホイットマンの詩に傾倒した雰囲気をもっていた。そして寄ればすぐに、無産階級とか有産階級とか、搾取とかの用語を口にし、大杉栄の名が出たりしたのである。
 四年生になってからの雄弁大会に「ほのほ」の仲間であるOとNとが演壇に立ったが、Oは熱弁をふるって社会主義を唱え出して弁士中止、そのために学校を追われ、Nは骨董品に校長をたとえてその人身を攻撃し出したので演壇から引摺り下ろされNも放校処分となった。そして、ぼくは新聞「琉球新報」紙上に、「石炭」と題する詩に、「一中の坂口先生に与える」と副題して発表した。博物の先生が講義の時に、「石炭にも階級がある。まして人間の社会に階級のあることは当然としなくてはならない筈だ」という意味のことを言ったので、それに対しふんがいして書いたものなのであった。その詩の書き出しは、
「褐炭 泥炭 無煙炭 それは階級ではない」というのであったが、そのあとはもう忘れてしまった。サムロ生として匿名で発表したがすぐに校長室から呼び出されたのはぼくなのであった。新聞を眼の前に突きつけられて、誰だかこころ当りはないかと言われたが、全然ありませんで通したのであった。しかし、父がそれを知っていたことは意外で、「落第生のくせに先生を馬鹿にしやがって」と、頭をぶんなぐられて、足で蹴飛ばされたのであった。
 そんなこんなで、学校には愛想が尽きてサボル日が続いていた。まもなく兄夫婦が大阪へ出て行って、相ついで父母が石垣島へ渡り、弟や妹もそっちへ行ってしまい、ぼくだけが那覇の家に残ったのであった。そこへグジーからの破談状が舞い込んで来たのだ。理由として、ぼくの落第したり不良化したりのことが挙げられていたのであるが、ユタなど利用したほど念のいったことをする割に、諦らめるとなるとさっぱりしたもので、その点はなにかにつけ現在のぼくと変りはなかったのである。
 ぼくが上京をおもい立ったのは、それからまもなくのことであった。そして、大正十一年の秋に上京した。東京駅はたしか丸の内側の乗車口、降車口だけで、タクシーを見かけた覚えはなく、人力車が殆どなのであった。柳行李といっしょに人力車に乗り、早稲田の諏訪町にあった同郷の友人の下宿に落ち着いたが、この下宿を振り出しにぼくの放浪生活ははじまったのであった。半月ほどして本郷新花町の下宿に移り、それから本郷台町の下宿、駒込片町の荒物屋の二階、駒込中里の先輩の家と不義理を重ねて転々としているうちに大正十二年九月一日の大地震なのであった。
 ぼくはそのころ戸塚にあった日本美術学校に籍をおいていて、時に本郷絵画研究所へ出かけたりして絵の勉強をしかけていたが、約束した筈の父からの送金が、上京以来ただの一度もなく、大震災を機に出直すつもりで罹災者として汽車、船を無賃で沖縄へ帰ったのである。
 帰るとすぐに父の事業が失敗していることを知った。那覇の家も人手に渡っていて、父は毎日海に向ってぽかんと口をあいているのであった。父の失敗のとばっちりを食った母方の叔父が代償にぼくのことを寄越せと来たのには驚かないではいられなかった。まもなくぼくは人質にならないうちにと石垣島を逃げ出して那覇に出たがそこではすでに住むところもないばかりか、友人知人のところを転々とするより外にはなく、とどのつまり海岸や公園に寝泊りするようになったのであった。
 そして、十三年の夏、家出する友人があって旅費を負担するからと頼まれ、かれと連れ立って再度上京したのであった。そして第一夜を目白台の道路にあった土管のなかにもぐって過したが、翌日、麹町富士見町の下宿にかれを案内して、いやがるかれをかれの兄さんのもとに届けたのである。ぼくは暫らくの間、また友人知人の間を転々していたが、やがて、銀座二丁目の書籍問屋東海堂書店の発送部に住み込みで働らくことになった。そこにいる間に年代は大正から昭和に変った。
 その後、職は暖房屋に変り、鍼灸屋に変り、隅田川のダルマ船に乗ったり、汲取屋になったりしたのであったが、昭和十四年現在の職業安定所の前身であった東京府職業紹介所に就職するまでの十年間は殆ど住所不定の生活をしていたのであって、右に挙げた職はその間にぽつんぽつんとありついたものなのであった。暖房屋のときには、慣性の法則みたいなのが人間の心理のなかにもあることを感じて「無題」という詩をつくり、ダルマ船のときには、陸を食いつめて水上に移り、まるで船頭さんを食っているみたいな自分の姿を見たりして「転居」という詩を書いたり、汲取屋になっては、くさいと言うにはすでに遅かったという詩「鼻のある結論」を書いたりして、「改造」とか「中央公論」などに発表したのであった。
 まだ昭和の初めごろのことなのであったが、暖房屋をやめてから鍼灸屋になるまでの間も例によってぼくには住所がなかった。しかし、芝の宇田川町界隈のある喫茶店を中心にして、その日その日を過し、その夜その夜の風の吹き廻しで行き当りばったりの所で睡眠をとったのである。その場所は日比谷公園のベンチの上であったり、知人友人の所であったり、あるいは夜明けまで街を歩いてから、勤めへ出て行く友人と入れ替りにかれの部屋で一睡させてもらったりしていた。宇田川町の喫茶店は、暖房屋のころから懇意にしていたので、そこに泊り込むわけにはいかなかったが、朝の十時にはもうその店の一隅のボックスにぼくは腰かけていて、夜の十一時十二時まで、殆ど毎日ねばりつづけて暮した。食事は一日に一回、食う日もあればまるで食えない日もあった。当時その近所にあった改造社のある知人は、ぼくが訪ねて行くと、かれの間借りしている家にぼくを案内して、「貘さん、いっぱい炊いてあるから食い溜めしておきなさい」と釜ごとぼくの前に置いたこともあったが、空腹には馴れている筈のぼくでも、馴れていることで空腹を克服することは不可能なのであった。
 ぼくは朝の十時頃になるとどこからともなく其の喫茶店に来て、入口に近い窓際のボックスで原稿紙を前にしていることが常で、十銭の珈琲一杯でかんばんまでねばり、表へ出ても帰る家のないぼくは足の向くままに歩きながら行先を考えるのであった。こんな状態を繰り返していたある日のこと、暫らくの間その顔を見せなかった常連の一人が、日焼した顔で店にはいって来たのである。彼は出張で沖縄まで行って来たのだと大きな声で店の女主人とその娘を相手に言った。丁度そのときはぼくも店の人達と話をしていたところなのであったが、沖縄出身のぼくにとっては、「沖縄」というのがいささか刺激的に聞えたのである。おそらく明治生れの沖縄人一般にそれは共通する筈の刺激なのであった。徳田球一はかれの思想の動機を問われると、「俺は被圧迫民族だから」と答えたとか人づてにぼくは聞いたことがあったが、そのことは沖縄の歴史がすでに証明していて、言わばこの被圧迫民族としての劣等感を刺激されたのであった。
 ぼくはかつて(大正十二年)、関西のある工場の見習工募集の門前広告に「但し朝鮮人と琉球人はお断り」とあるのを発見した。その工場にとってそれだけの理由はあるのであったろうが、それにしても気持ちのいいものではなかった。またある人は、かれの文章のなかで、ぼくの詩を讃えるの余り、「かれが琉球人であるからではない」と付加えていたが、その言葉の裏には明らかに琉球人を特種的な眼で見ていることを感じないわけにはいかなかった。それでぼくにとっては、出張から帰って来たその男が、どのような眼で沖縄を見ているかに関心を寄せないではいられなかったが、酋長の家に招待されて、大きな丼で泡盛を飲んだんだだの、土人がどうのこうのという調子なのである。沖縄人のぼくでさえ見も知らぬ遠いどこかの国の話かとおもうようなイメージを唆られるのであった。それが旅行者のたのしみであろうとはおもいながらも、一抹の哀感に襲われてしまうのは決して沖縄人であるからというそのせいばかりではないのである。この男の話を聞いて喫茶店の娘は瞠目しているばかりなのであるが、その眼の前にいるぼくを、沖縄人だと知ったら、どうなることだろうとぼくはおもわずにはいられなかった。ぼくはかねがね、るんぺん生活をなんとか卒業して、この娘に結婚を申し込むつもりの間柄になっていたからなのでもあったのだ。ぼくに「会話」と題する詩があるが、この店のボックスのなかで懸命に書いたものなのである。

会話

お国は? と女が言つた
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしてゐるあの僕の国か!
ずつとむかふ

ずつとむかふとは? と女が言つた
それはずつとむかふ、日本列島の南端の一寸手前なんだが、頭上に豚をのせる女がゐるとか素足で歩くとかいふやうな、憂欝な方角を習慣してゐるあの僕の国か!
南方

南方とは? と女が言つた
南方は南方、濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帯、竜舌蘭と梯梧と阿旦とパパイヤなどの植物達が、白い季節を被つて寄り添ふてゐるんだが、あれは日本人ではないとか日本語は通じるかなどゝ談し合ひながら、世間の既成概念達が寄留するあの僕の国か!
亜熱帯

アネツタイ! と女は言つた
亜熱帯なんだが、僕の女よ、眼の前に見える亜熱帯が見えないのか! この僕のやうに、日本語の通じる日本人が、即ち亜熱帯に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが、酋長だの土人だの唐手だの泡盛だの、同義語でも眺めるかのやうに、世間の偏見達が眺めるあの僕の国か!
赤道直下のあの近所

(「社会人」一九六三年四月号)





底本:「山之口貘詩文集」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「山之口貘全集 第三巻」思潮社
   1976(昭和51)年5月1日
初出:「社会人」
   1963(昭和38)年4月号
入力:kompass
校正:門田裕志
2014年1月18日作成
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