ダルマ船日記

山之口貘




×月×日 金


 眼を覚ましてみると、側に寝ていた筈の六さんの姿は見えなかった。
 居候のくせに、なぜこうも寝坊するのであろうか。
 桝のような船室から首を出して、甲板を見廻わすと、既に、七輪の薬罐が湯気を吹きあげていた。

 この船の名は、水神丸。積載量百トン。型は、通称ダルマと言っている。年齢は、三十五歳。生れは深川。
 まるで、老人みたいな風貌だ。無数の皺の合間合間には、鉄錆びが汚みついている。艫には船室があって、三畳敷位。そこに船頭さんと僕とが一緒に暮らしている。その他、押入が一間と、それに向い合って神棚があり、押入の下には、古道具屋のように炊事道具など一杯詰まっている。それから、片方の壁には蝶ネクタイと背広の上下を掛けてある。それは僕のではなく六さんの外着である。六さんとは、即ち、このダルマ水神丸の船頭さんなのである。

 どこにいても、僕にとって一番の不便は、先ず、放尿の場合である。折角、出かかっている小便でも、身辺に人の跫音がきこえると、直ぐに中途で引っ込んでしまう。だから街を歩いている時など、僕は他人のようにあっさりとは立ち小便の出来ない質である。これだけは、動物みたいな僕にも似合わず殊勝なことだと思えば思えるのである。とは言え、そのことの不便は、乗船以来一日も欠かさず僕を苦しめているのだ。堪え切れなくなると、陸に這い上り、人の気配を避けた横丁を物色して僕は用を足さねばならないのだ。
 なおさら、困まるのは糞の始末である。その始末方法に就ては、六さんが彼の実地を以て、或る夜、説明付で僕に教えるのだった。こんな風にするんだと言いながら、彼はまくりあげて船端にしゃがんで見せた。そうして、片方の手をさしのべて鉤のように舷の内枠にかけ、片方の手は股の間に入れるのだった。その手はなんだと訊くと、船に小便をひっかけてはいかぬから、こうしてあれを川面の方へ押し向けて置くのだと言うのであった。僕は、教えられた通りのポーズをして、暫らくはしゃがんでいたのである。
 ところがここはまるっきり、便所の中とは世界が違っていた。僕には、総ての物が眼の球のある物のように思われ、しゃがんでいる真下の水の音までが気になり出して、一向落ち着くことが出来なかった。僕は幾度も幾度も、水の音だから構うもんかというように自分に言いきかせては思い力み、努めて平気な面を装うて下腹に力をいれたりするんだが、そのうちに曳船のポンポンの音がきこえて来て、ついに目的を果すことが出来なかった。どうしても駄目なんだ。と、六さんに僕は訴えたが、六さんに言わせると、人間じゃないというのだった。
 事実、この世界の生活者達は、老若男女、夜であろうがひるまだろうが、僕みたいな者が物珍らしく見ていようが、生理のためには、悠々と船端にしゃがんでいる彼等である。いつになったら僕も便秘をしなくなるだろう。

 水神丸の仕事としては、鉄屑の運搬である。このダルマは、本所緑町一丁目の、製鉄原料問屋鈴木徳五郎商店の専属船だ。いま、商店の川っ縁で、七、八人の人夫達が、二十五、六貫ずつにまとめられた鉄屑を担いでは、水神丸に積み込んでいる。
 午過ぎ、積荷が終ると、僕らは、甲板の掃除をしたりシイトを覆うたりして、出帆の準備を整えた。雨にでもならなければ、今夜七時か八時頃、船を一つ目の口まで出して置き、夜中の二時頃には、鶴見へ出帆の予定だが、この空模様では多分雨だと自信ありげに六さんが言う。
 一つ目の口とは、竪川一の橋のことで、そこから鶴見までは、所謂、曳船で行くとのことだ。
 水神丸の船腹は深く沈み、僅かに七、八寸位しか浮いていない。このまま動き出しては、たちまち水浸りになりそうな表情をして、船は平べったく腹這いになっている。
 一体、どれ位の鉄屑を積んだのであろうかときいてみた。百トン以上は積めるんだが、おじさんが乗っているから遠慮して、九十三トンにしちゃった。と、六さんが言うのだった。おじさんとは僕のこと。
 だが、鶴見へ行くと二寸位は船が浮き出すという。水と湖との相違なのだ。
 夜。雨になったので、六さんはえらいと言ってやった。すると、彼は得意気に、それはおじさん第六感だよと言うのだった。

×月×月 土


 雨は上り、陽の光が白く降っていた。
 それだのに、船を出すのは夜の八時頃だという。いまは満潮だからであろうか。
 この間、亀戸の東京鋼材会社の帰りのことだった。亀島橋という貧弱な橋だったが、その橋にさしかかると、水神丸の図体が大きく反動した。橋をくぐるのではなくて橋にめりこんでしまったのだ。僕は、舵棒に足を払われて倒れ、六さんは、胸壁で押していた棹を川の中へ放っぽり出して、前のめりに舷にとりすがっていた。ふたりが起きあがった時は、水神丸は牛のように船首を橋に突っ込んでいて、船尾を横に振ったなり動こうともしなかった。
 ふたりは、舳先の両側に駈け寄って、前こごみにまるめた背中を橋にあてがい、もがくようにしながら、船と橋とを突っ放そうとするんだが、全力をしぼり出してもそれはなお無力をかんじるばかりのことに過ぎなかった。おまけに、潮の流れが満潮で、そのままぐずついているうちには、しまいに船首で橋を持ち上げてしまうという。これをまた、その筋に見つかってはうるさいことにもなるというわけで、いよいよふたりは狼狽てるのだった。
 が、ようやくのこと、僕らは梃子の段取りをした。やがて、張り切ったゴムをうんと押しているようなかんじが、梃子を伝わって力一杯の全身にかんじられた。たっぷりとした川面の弾力が船首を跳ね返すと、橋の梁から舳先を引っ外ずすのだった。
 あの時の船は空っぽで、従って船腹は高く浮いていた。僕らはとうとう潮の干く時まで橋際に停船していなければならなかった。
 しかし、今度の船は荷物を満載していて、こんなにも平べったくなっているではないか。たとえどぶ川の橋が大川の橋とは違ってどんなに低くても、これなら、満潮とは言え以前のような失敗なんかあるまいと僕は思ったが、今度は今度でまた別に理があるのであった。
 それは、夜の八時頃が、丁度、満潮のとまりだから、その頃を見計らって徐ろに干潮の流れを利用すれば、楽でもあり、船もヒアがる心配がないのであるという。
 空っぽのダルマは、その頭が橋につかえない程度に満潮を避け、満腹のダルマはその腹を気にして、川底に摺りむかない程度に干潮を避け、それぞれのダルマが一様に、魚みたいな眼をして潮の加減を伺っているようだ。

 夕方。六さんと、三つ目通りの元徳稲荷の縁日を振らついた。
 お茶の半斤と、糠味噌漬にする胡瓜と菜っ葉とを買い、こころもち船乗り気分に酔いながら帰船。直ぐに六さんは、蝶ネクタイを解き、折り目のあざやかな紳士めいたズボンを脱ぎ棄て、「鈴徳商店」と染めぬかれた印半纏に身をくるんだ。僕は、よれよれのルパシュカ姿。
 六さんが棹。僕は舵。三十分の後、一つ目の口に繋船。

×日×日 日


 荒々しく吹き込んで来た風にたたき起されて、跳ね起きる途端に頭の上に物が落っこちた。痛む頭を片手でおさえ、狼狽てて甲板に這い上ると、舵棒に腰を下ろして六さんが揺れていた。
 船は、既に、隅田河口を脱け出し、東京湾を走っている。いくら起こしても起きなかったというので、六さんは不機嫌だった。時に午前の四時頃である。
 陸の背中は白みがかり、湾を抱いている怪物のようだ。湾内としては相当に荒れているらしく、唇からしきりに煙草の煙をひきちぎる風だ。波は波除けにあたり飛沫を高く浴びせかけている。
 大森沖である。三十馬力の小蒸汽に曳かれているダルマが三隻、後退りするように寄り添うて来た。それは、こちらの小蒸汽に曳かせるためだった。
 やがて、大森沖を過ぎ、羽田沖である。直ぐ右手の沖合いには、灯台がひとつ立っていてまばたきした。左手の方には、別の曳船が七隻。そのむこうには十隻。こちらのは都合四隻。まるで点線のように、三行のダルマが同じ方向へいそいそと急いでいる。
 丁度ここの辺り、大正十一年の十月頃だかに、暴風に逢った七隻のダルマ一行が、小蒸汽もろとも海底にもぐってしまったという。それは横浜から東京への曳船だったとのこと。実際、こうして見たところ、こんな風に荷物の積み具合いからして、そもそもと言いたいかんじなのである。載せる物は鉄屑に限らず、無理でも居候でも何でも載っけさせて置いて、もぐるまでは押し黙っていそうな、ダルマの表情はまったく特別なのだ。
 僕は、六さんに替わって舵棒を握った。小蒸汽の速力に全身の力をひったぐられて、流石に舵は重い。
 普通、曳船の小蒸汽は、三十馬力ときいていたのであるが、いま水神丸一党を引っ張っている小蒸汽は、八十馬力。両側の曳船を抜いて先頭を走っている。
 灯台を右へ曲り、羽田沖を過ぎ、多摩川の下流六郷川の沖を過ぎた頃、真正面には、鶴見の工場地帯が待ち受けている。

 製鉄会社日本鋼管の岸壁に着いたのは五時頃で、一つ目の口からは約三時間。
 二、三十隻ずつ、一塊りになった一群のダルマは、二百隻以上もあろうか。東岸壁から西岸壁を埋めていて水の上に街をなしている。みんな鉄屑を満載して、湖と摺れ摺れに平たく家鴨のような姿勢を保ちながら、荷揚げの順番を待ちあぐんでいる。
 この一帯の風景は、すべてが勿論、鉄錆びの色調だ。物の形はすべてが荒々しく、すべては堅い。生活という感をぎっしり詰めてあるように、質の堅さがどこからでも見張っている。ほんの僅かばかりの緑が、西岸壁の彼方の埋立地に淡く汚みついている。
 ダルマというその名や形からして、これは鈍重なかんじを免れない船ではあるが、舵という神経質な物を備えているのが憎らしく、僕は疲れ果てて、ぐっすりと夕方まで寝てしまった。
 夕食後。またしても六さんは蝶ネクタイを結んだ。お茶をのみにではなく、珈琲をのみに横浜へ行こうというのである。
 僕らは上陸した。船のり風には、おかに上ったというところだ。鉄屑の山々の裾を曲りくねり、鋼管の守衛詰所に立ち寄って、口髯の黒い守衛に通門票をもらった。その際、あっちを見ているふりをして、僕らの風采ばかりを気に止めているような守衛もあったが、別段何事も言わなかった。

×月×日 月


 朝から雨。
 天井の出入口まで、すっぽりとシイトを覆い、石油ランプの古ぼけた光のなかに、僕らは土竜のように一日中船室に閉じこもっていた。
 ひるめしの時、六さんに、僕は炊事上の注意など受けた。水の使い方があんまり荒すぎるとの言い分だった。
 亀戸や竪川での場合は、溝水だから使えないが、ここのは潮水できれいだから、米も食器もお新香も、潮水で洗えと言う。いよいよダルマ生活の伝統に触れて来たのかと思うと、僕の食欲さえがいささか鈍る様子であった。事実、潮水を汲もうとすれば、下ろしたバケツのぐるりを、くるりと一廻わりなどして見せるかのように、なまなましい排泄物や塵芥やらが漂うていることも稀れなことではない。いくら潮水でもそれはきたないんだからと、一応の反駁を僕は試みたのである。しかし六さんが言うのには、土の上ではあるまいしそんな物は流れてしまうんだからあとはきれいだと逆襲し、更に彼は、潮水でといだお米がおいしいんだと言い張った。

 日記を書いていると、書いているものを六さんがのぞいた。朗読してきかせると、六さんという自分の名をきく度に彼は微笑するのだった。ついでに僕は、ダルマの生活道具や生計などに就てきいて見た。
 滞船中、船から陸へ架けてあるあの細長い板の橋をアイビと言っている。アイビの優秀な物は、日本杉だそうだが、それは値が高くて多くは米松を使っているという。ロープのことをモヤイと言い、モヤイを結えつけるための出臍のような突起が甲板にあって、それをボーズと称している。ハリカイというのはつっかえ棒のような物で、潮が干いても船をヒアがらせない用心として、予め適当な水深の位置に船を支えて置くのに使用する物である。船室の床板を剥がすと水が溜まっている。それがアカ。この船は年をとっているせいであろう。皮膚が弱っていると見え、若いダルマよりアカの溜まり具合がはげしく、一日に一回は必ず甲板の排水ポンプで汲み出さねばならないのだ。勿論船室は湿めっぽい。荷揚げすることを水揚げすると言い、船を数えるには、一パイ、二ハイ、……とやっている。
 水神丸の航海数は、一ヵ月二航海半位。一航海の収入が約八十円。一ヵ月二百円内外の収入である。小蒸汽に支払う曳船賃は一航海十五、六円。税金は半期分三円五十銭。差引百五、六十円を一ヵ月に稼ぐのである。その外に滞船料というのがある。それはしかし、輸入鉄屑を積載しているダルマに限り、水揚げの順番を待っている間を一日二円七、八十銭の割でもらえるという。水神丸が、正にその舶来鉄屑を満載しているので六さんはにこにこしているのである。
 船室の床板を一枚めくり、箒の柄をさしてアカの溜まり具合を見た。この雨で九寸程も溜まっているのでポンプを押さねばなるまい。

×月×日 火


 照りつけている陽を幸いに、乗船以来の大掃除をした。夜具や茣蓙など取り出して、甲板の上、鉄屑の上に展げて干した。草のトランクは、湿気を吸い込んでたるんでいる。鼻も邪魔になるほどすべての物が黴びていて、黴のなかで暮らしているようなものである。
 昨日は、一日中船室に閉じこもっていたせいか、今日は朝から甲板である。そうして、六さんとの話は昨日のつづきだ。
 日本鋼管の向う岸の建物が昭和鋼管。前には独立している会社であったが、いまは日本鋼管と合併しているとのことである。その斜向うに見える黒い所が、三井の貯炭場。こちらに見えるのが鉄道省の発電所。その対岸は東電。
 東電の方にあの変なのがあるだろう。と六さんは言って彼方を指ざしながら、自動的に今度はクレンの説明に移るのだった。
 いまこちら側で、鉄屑を揚げているこれもクレンだ。これもあれも型は異っているがどちらもクレン。東電のが、オールヤード・クレン。こちらのはマグネット・クレン。直ぐ手前の小型の奴はモーター・クレン。三井の貯炭場にあるクレンは、あれは単に、ヤード・クレン。と言うのだった。
 クレン一台の水揚げ能力は、一日平均七十トン位だと言う。日本鋼管の岸壁では、いま四台のクレンを運転しているところだが、一日三百トン位の鉄屑をダルマから引き揚げているわけだ。
 このクレンと称する人夫がわりの利器に食い荒らされてしまったように、ここでは殆ど人夫らしい人夫の姿を見受けない。東岸壁の方で、僅かに八、九人の人夫達が、生き残った蟻のように、黒々とかたまった石炭の笊を運んでいる。
 六さんの知合いだという二、三の労働服の男達が、水神丸にやって来ては、毎日午睡をしたり、お茶をのんだり、伝言などをとりかわしたりして、いつの間にかまたいなくなったりする。彼等はクレンの運転士だ。それにしても彼等の様子を以て、休憩時間を過すためのそれであると思うには、お茶や午睡の時間が長過ぎた。聞けば、しかし道理であった。彼等の就業時間は、三時間交替だと言うのだった。クレン運転士の一ヵ月の報酬は百円内外と。
 日本鋼管には、三千四、五百人の職工が働いているという。僕は、三度相手を変えて、その職工数を訊ねて見た。三度の答えが一様に三千四、五百人と言うのであった。がまた三人が三人共一様に、そのうちの半数が、在郷軍人だと付け加えていうのだった。その点、僕には一種の疑問符のように彼等の心理が変な風に見えるのだった。けれどもそれは結局、僕の長髪やルパシュカに対する反撥の反映であったらしく、案の定、みんなが、一度は必ず六さんに僕のことをきくそうだ。あの男は赤ではないか。と。

×月×日 日


 次第に、六さんは主人らしく振舞って来た。東京へ用達しに行くんだとの名目だが、行先が時々喫茶店であったりすることは、例によって黙認。
 ところが、蝶ネクタイを結び、出掛ける段になると、彼は定まって留守中の仕事を僕に言いつける習慣の味を覚えたらしい。キャベツの葉っぱを糠味噌に漬けて置くこと。室内の整頓をして置くこと。ランプのホヤを拭いて置くこと。船底のアカを汲み出して置くこと。どの仕事も詩人を恐わがらなくなったような顔付の仕事諸君である。
 それならばと言うので、詩人も今日は陸を踏んで見たくなったのである。川崎駅まで六さんを送り、僕は、砂町の佐藤惣之助氏を訪ねた。近況を告げると、氏もまた、なにゆえダルマに乗ったのであるかを訊くのであった。つまりは、陸に住めなくなったんですよ。と答えると、あ、そうかそうかというのであった。
 話はお灸の話となって、所望されるまま惣之助氏に肩のコリの灸を、夫人には胃腸の良くなる灸を。

 川崎駅で六さんを待つ時刻には、未だ早すぎた。その間を川崎の町に振らつき、泡盛屋を見つけて泡盛をあおる。じわじわと廻わる酔いをたのしみながら、夜の九時、川崎駅に六さんを待つ。
 帰途。大島町のうす暗い通りで、小柄な男に逢った。六さんの知り合いである。彼は、この界隈に出没するインチキ女やカフェーの女のことで、のろけを言いいっしょに歩いていた。町の外れに来て、急に小男は、着ているその半纏の裾をひったぐるようにして頭からひっかぶるのだった。六さんは、小男の肩をつっついて、気でも狂ったのかと、言ってからかった。すると小男は、俺はな、あそこの酒屋に借りがあるんだと言いざま、僕と六さんとの間に割り込み、しばらくは肩をすぼめ、森閑としていた。酒屋は、橋の手前の陰気な店だった。橋を渡ると同時に小男は酒屋を振り返りもういいもういいと呟いていた。
 実に、木製のかんじの、痩せて血の気のない小さな容貌だった。よだれらしいじめじめしたものさえ光っていて、よく見れば見るほどに小さく消えてゆくもののように小汚ない小男だった。六さんの言うところに依れば、彼奴も船頭なんだがその腕前ときたら危なっかしくて見ちゃおれないと言う。現在なお、船のこと一切は、オヤジに世話をやかせている程で、女房も温なしい女房を持っていながら、オヤジさんも共に船に置きっ放しで、彼奴はああして街中飲み歩いている馬鹿野郎だと言うのだった。
 通門票を示し、鋼管の門内へ這入ると、夜業している職工達があった。彼等は熔鉱炉の火にほてった真赤な半身を、夜の暗さに塗りたくるように働いていた。その近くを右へ曲ると、熔鉱炉のほとぼりで酔いが再び燃えさかるのだった。
 潮風に吹かれながら、ダルマからダルマへ渡り、一パイ、二ハイ、三バイ、四ハイ、五ハイと数えて、僕らの水神丸だ。船に着くと、六さんは岸壁を振り返って舌打ちした。
 なるほど、制服の守衛が、直立の姿勢で岸壁の方からこちらの様子を見ているのだった。が、僕らは、なるべく素振りを大胆に大げさに、シイトを高くまくりあげたり、船室の蓋を開けては、わざわざ甲板に板の音をたてたりして見せた。それは勿論、蝶ネクタイもルパシュカも、赤や青や黄色の世界の者ではなく、ダルマの者だから安心しろとの意味合いを含めたつもりであった。
 もはや、お隣りの宮下丸は寝てしまったのか話声もきこえない。やがて、六さんが鼾をかき出した。魚達も寝たのであろう。起きているものは、僕と水の音。
 明日の晩には、六郷河岸に花火があがるという。

(「中央公論」一九三七年一二月号)





底本:「山之口貘詩文集」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年5月10日第1刷発行
底本の親本:「山之口貘全集 第二巻」思潮社
   1975(昭和50)年12月1日
初出:「中央公論」中央公論社
   1937(昭和12)年12月号
入力:kompass
校正:門田裕志
2014年1月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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