十年を一昔とみれば、昔の昔の昔から、ぼくは酒を飲んで来たわけである。飲んで来た酒は主に泡盛で、生れが泡盛の産地の沖縄だからである。十三歳の時、十三祝いの日に酒を飲んで、千鳥足になったことを覚えているが、そのときに酒の味を覚えたのかも知れない。
上京したのは、大正十一年の秋なのであったが、徴兵検査前のことで、中学時代の友達は、すでに一流の酒飲みになっているのであった。そのころの東京では、カフェーの女給さん達も、枯すすきの歌や、さすらいの歌をうたっていた。ぼくは年内に、三度下宿を変えたが、三度目の下宿は、矢張り中学時代の友人のSの部屋に寄食したのであった。Sは郷里の中学を中退して、東京のある中学へ通っていたが、酒は一流で、時々ぼくを誘って、近所のカフェーで飲んだ。下宿は、本郷台町にあって、下宿屋街の路地を曲り曲って、丁度大学の赤門と向かい合ったあたりの横丁にそのカフェーがあった。ある夜、Sとふたりでそのカフェーで飲んで、エプロン掛けの女給さん達といっしょに、枯すすきの歌をうたったりしていると、傍のテーブルで一人で飲んでいた青年が、こちらに話しかけ、枯すすきの仲間に割り込んで来ていっしょにうたった。ひとしきりうたって、それぞれがまた盃を傾けていると、その青年から、郷里はどちらかときかれたのである。
「琉球」とぼくが答えると、
「リュウキュウ!」とその青年が云った。
「あなたは?」と青年にきくと、かれは、にっこり笑ったが、
「ぼくホーモーサー。」と答えてまたにっこり笑った。すると、傍できいていたひとりの女給さんが、ホーモーサーってなんのことかときいたり、琉球ってどこなのかときいたりするので、面倒くさくなって来て、ぼくは大声張りあげて、また枯すすきをうたい出すと、みんなもまたうたい出したのである。いまでこそ、琉球と云えば、知らない人の方がどうかしているみたいだが、当時は、東京の至るところに、琉球を知らない人が多過ぎて、なにかにつけ不便を感じないではいられなかったのである。それだけに、そのカフェーでの一件は、昔の昔の昔のことではあるが、日本酒を飲み初めたときの第一印象として忘れ難いのである。Sは健在で、戦後は沖縄で生命保険会社の課長におさまっていることを、最近ぼくの手許に届いた現地の新聞で知った。
ぼくは、上京した翌年の九月一日の関東大震災が機会になって、一応、沖縄へ帰ることが出来た。ところが、途端に父の事業が失敗して家を失ったり、恋愛に失敗したりで、云わば放浪生活の基礎が出来たのである。そのころの友人達はみんな酒につよかった。詩人の国吉灰雨、上里春生、伊波文雄、桃原思石、歌人の石川正秋、仲浜星想その他で、ぼくらは「琉球歌人連盟」を組織し、歌会を催してはよく飲んだ。その雰囲気は、先ず酒の点で牧水の歌に直結し、若さの点で、啄木の歌に直結していて、酔っぱらっては牧水や啄木を朗詠しながら夜の街を歩いた。なかでも、石川正秋の朗詠はみんなを感心させるものであったが、かれの作にも酒の歌が多く、「酔いしれる父に孕みて産みし子のその酒好きを憂い給うや」などと、母に捧げる歌もあった。酔っぱらってうたうと、おなかが空いてくるらしく、正秋はよくそば屋にはいった。そばを食べるときっと、帯をほどいてそれを金の代りにしてそば屋において、前をはだけたまま家に帰るのも、かれの癖の一つみたいであった。かれが酔って帰ると、おふくろさんや妹さんが、必ず水を枕もとに置いた。水は、二升入りほどの手桶になみなみと入れてある。翌日眼を醒ましたときに、かれはその水を呑んでは吐き出し、呑んでは吐き出すのであるが、かれ自身の解説によると、「胃袋を洗っている。」とのことであった。
酒の席から中座する癖のあるのは、詩人の灰雨であった。かれと飲んだことのある人なら、誰もが知っていたのである。かれは年齢的にも、詩人としても、ぼくの先輩で、ぼくは殆ど毎日かれを訪ねて、色々と迷惑ばかりかけていた。そういうかれが、ある日の朝、珍らしく、はじめてぼくを訪ねて来た。しかしかれは、折角訪ねて来たのに、上れと云っても上らず、垣根のところに立ったままで、いま警察から出て来たところだと云った。事件は、ぼくらと飲んだ夜のことで、灰雨は例によってみんなに気づかれないように中座はしたものの気分がわるくなってきたので、一休みさせてもらうつもりで途中のしるこ屋に立ち寄ったが、店には誰もいないのでそのまま片隅のテーブルにうつ伏せになってしまったとのことだった。そこへまもなく、サーベルの音と靴の音がしたので、ふと灰雨は顔をあげてみたのだが、かれは立ち上って、いきなりその警官の横面をなぐりつけてしまって、とうとう警察へ引っ張られたとのことだった。
ぼくはその日、灰雨から頼まれた伝言を持って、かれの家に届けた。
「灰雨は四、五日国頭へ旅行すると云ってましたから、今日か明日は帰って来る筈です。」
そこで、灰雨の行方がわかったわけで、かれのおふくろさんは安心した様子であったが、灰雨は、留置場での汚れを洗い落してから、国頭旅行からの帰りみたいな顔をして家に帰ったらしいのである。
神はマリアを淫 した如く
すべての
処女をも淫している
青年は
神から
処女をも奪還しなくてはならない
すべての
処女をも淫している
青年は
神から
処女をも奪還しなくてはならない
この詩は、灰雨の作で「不良少年の歌」と題する詩の一節なのであるが、こうして現在でも記憶しているほど、ぼくはかれの詩を愛読していたのである。
ぼくの再度の上京は、大正十三年なのであった。泡盛を飲み飽きたわけでもなかったが、それっきり、沖縄へ帰る機会もなく東京で暮すようになってしまった。それ以来は、ぼくには、特に酒友というような、一貫した酒友がないことを、この原稿を書いているうちにはっきりわかって来て困ってしまった。それもその筈で、飲むたんびにむこう持ちの会計なのでは、むこうさんでそう簡単には、酒友としての資格をぼくに与えてくれる筈が、まずないからなのである。それはしかし、ぼくとして、一応礼儀を正してのつもりでそうおもっているのであるが、ぼくだけの主観によれば、飲む相手はみんな酒友とおもっているので、特に誰と名を挙げるのが困難なのである。云わば、それほど酒友があって、酒友がないのだ。
昭和のはじめごろ、中野駅前の屋台のチャンソバ屋で、伊福部隆輝と知ったが、かれは評論家として、詩誌(「抒情詩」など)、新聞、などにすでに物を書いていた。是非、家に遊びに来いと云うわけで、それからしばしばかれと飲んだ。文筆家での最初の酒友であるが、酒癖の方はどうであったかとんと記憶にない。その頃のかれが可愛がっていた少年に、矢張り詩を書いているMという美少年があった。Mも酒が好きでよくいっしょに飲んだが、半年ばかり姿を見せなかったので、ある日、Mの家を訪ねてみたところ、母親が玄関に出て来て、今までと違った眼つきでぼくのことを睨んだのである。
「いませんか。」ときくと、
「いませんよ。」と、突っけんどんに云って睨んだまま動かなかった。どういうわけなのかわからなかったのであるが、幾日か経ってMに逢ってみると、母親がぼくに対してとても腹を立てているというのであった。
「実はね。おふくろの着物をみんな質に入れちゃって、それがばれちゃったんですよ。」
「それで。」
「それで、つい、ばくさんが困っているんでばくさんにやったと云っちゃったんです。」
とMは云うのであった。しかも、半年も逢わなかった間の出来事で、ぼくには一滴も飲まさなかったわけで、ぼくでもおもわぬところでは、人助けに役立つこともあったのかとおもわないではいられなかったのである。
芝のあたりから銀座方面をうろつくようになってから、日影町通りのある珈琲店に入りびたった。ここには毎日、あるいは一日おき位に、大林清が姿をあらわした。昭和の四年ごろである。かれは、蒲田の小林に住んでいたが、銀座へ出かけたりすると、家にはおふくろさんと妹さんだけなので、心ぼそいからぼくにいてもらえないかと相談を持ちかけられた。これは一挙両得の策で、住所不定だったぼくにとっては一定の住所を持つことになり、大林家にとっては用心のために都合がよいと云うのである。そこで、ほっとした気持でかれの家に身を寄せた。食卓の上には時々洋酒が出た。丁度そのころ、婦人倶楽部で懸賞の小説を募集していたが、かれは腹這いになってちょこちょこと三〇枚ばかりの原稿を一晩で書き上げて、当選したのである。賞金の百円札が届いたとき、ぼくは誘われて蒲田駅近くで珈琲のごちそうにあずかって、その日は酒友になりそこなったが、かれの家の洋酒のせいか、酒の印象は淡いながらも矢張りぼくにとっては酒友だったに違いない。
本所両国に住むようになってからは、毎晩泡盛を飲んだ。この頃、郷里の大先輩の山城正忠が訪ねて来た。与謝野鉄幹、晶子の「明星」の歌人である。「明星」のある号に、石川啄木の戯書があったと記憶するが、そのなかに、金田一京助、土岐善麿氏等といっしょに山城正忠の名もあった。沖縄では、ぼくが訪ねるたびに、正忠は必ずコップに一杯泡盛をついでくれた。ぼくは国技館前の泡盛屋にかれを案内した。酔いがまわってくると、かれはあらたまって、「佐藤春夫に会いたいんだがね。」と云ってから、「実はそのことを与謝野晶子さんに話したところ、『さあ佐藤春夫さんはもう大家だし、簡単に会ってくださるかどうか。』とおどかされて来たんだがね。」と云った。山城正忠としては、佐藤春夫の慶応の学生時代に知っていたので、学生気分で簡単に会ってみるつもりだったところを、与謝野晶子におどかされて、まごついている様子で、佐藤春夫に会える機会をつくってもらいたいとぼくに頼み込んで来たのである。正忠は佐藤邸を訪ねると、ぽつりぽつり懐旧談をとりかわしたが、やがて懐からとり出したのはサイン帳であった。済んでからそのサイン帳を拝見してみると、別の頁から、真紅な唇があらわれたのである。銀座のあるキャバレーの女性の唇だと正忠は云ったが、飲むと若返るかれの癖が、ほうふつとして、サイン帳の唇からもうかがわれたのである。
草野心平は、詩壇、文壇のつきあいの多い詩人で、かれとどこかで飲んで表へ出ると、きっとぼくに、「君はどうする。」ときいた。つまり、ぼくには帰る家がないことを知っていたからなのである。それでも「ぼくは帰る。」と云って別れることもあったが、時には、心平の方で察してくれて、自分はこれからどこそこへ行くのだが一緒に行かないかと云って、次のかれの行先へぼくのことを誘うこともたびたびであった。ところがそれは、帰る家のないぼくへのおもいやりからばかりではなかったようで、ぼくが両国に住むようになったり、あるいは結婚して牛込のアパートに住むようになったりしても、その誘いをやめず、次の行先へ誘うばかりでなく、しまいには、かれの家まで誘われることもあった。かれのなかには、見かけによらないさびしがり屋が住んでいるのではないかとおもうが、このごろはどうだろうか。
花田清輝とは、むかしむかし、二、三度飲んだっきりだが、いまは飲めるようになったとかきいている。かれと共通する友人で、まだ一度も小説を発表したことのない小説家楢島兼次も酒友で、かれとは酒だけでなく、時には川向うへ泊りに行ったりした。ある日、ぼくに女をおごってくれるというので、渋谷のある待合へ案内された。楢島は江戸ッ子であるが、なにかにつけ内外に対する心づかいの細かい男で、その妹さんなど、将来の夫としては「うちの兄みたいな人を。」と云っているくらいなのであった。さて、その晩、三人の女がお酌に出た。「ばくさんどっちにする。」と楢島が云った。ぼくは遠慮して、楢島のを先に定めてもらいたかったのだが、どうしてもかれが承知しないので、こころのなかでひそかに願っていた女のひとを御馳走になったのである。ところが、翌朝になって、ぼくはがっかりしてしまった。あるべきところに一本もなかったからなのである。朝茶を呑みながらの話に、
「それがね、一本もないんだ。」と云うと、
「そうかい!」と楢島も眼をまるくした。
昭和二十四、五年あたりから、ぼくはあまり飲み屋を転々としなくなった。もともとハシゴはやらないで腰を落ち着ける方なのであるが、にもかかわらず飲み屋を変えたのは、住所の転々に従ったからなのである。
泡盛屋も戦前のそれとは違って、営業者のサービス精神が非常に進歩して来たが、泡盛屋で飲みながら、豚の耳、豚のしっぽを食べながら、琉球娘の琉球舞踊を鑑賞することが出来るようになった。それをはじめたのが、ぼくの行きつけの泡盛屋で、美術畑の人達、あるいはその方面に関係のある仕事の人達が毎日押し寄せて来る。ここには、沖縄時代からの友人で、国画会の南風原朝光、映画オヤケアカハチの原作者伊波南哲、檀一雄、大江賢次、新田潤、金達寿、山之内一郎、佐藤英雄、寺田政明、牧嗣人、水島治男などが始終飲みにくる。いつぞや、榊山潤が、ある雑誌社の編集者である女性と見えたことがある。三五度の泡盛を三、四杯飲んでも、顔色ひとつびくともしない女性で、帰るときの後姿、足つきなど、どこにも飲んでの帰りみたいなところがないのには、居合わせたみんながびっくりした。
ある日、この飲み屋に、珍らしい人がぼくを訪ねて来た。隅田川のダルマ船の船頭さんである。ぼくは一時、かれの世話になって、一緒にダルマ船に乗っていたが、かれとは、両国、鶴見あたりを飲んで歩いた。一度かれが、泡盛の飲み試しをするというので、業平橋の泡盛屋で、当時のコップ(ラッパ型)でぼくが十杯、かれが十二杯飲んだ。もっと飲むというので、そろそろ危いとおもい、表へ連れ出して自動車に乗せたところ、走り出してまもなくのこと、ドアを開けて飛び出したりして、運転手とぼくを梃摺らせた。船頭さんに限らないが、いままでの経験で、深飲みする酒友の看護役が、いつもぼくなのは、いつも会計をむこう持ちにして飲んでいる罰だとおもったりして、多少人生のさびしさを味わうことがある。
ある夜、六、七人程の定連で、例の泡盛屋で、終電が逃げ出すころまで飲んだ。みんなはUさんに誘われて、かれの家へ行ったが、飲み疲れていたので、酒を中止し、一膳でも御飯にしようということになった。食卓のまんなかには、大きなどんぶりに一杯、魚の煮たのがあった。翌朝、眼が覚めてみると、膳のぐるりに、みんなは雑魚寝していたが、みんなが起きたところへUが来て、ひざまずいて云うのには「みなさんに昨夜はまことに失礼なことをして申しわけない。」と云って頭を掻いた。「実は昨夜のどんぶりのは、間違えて犬の餌でした。なんとも申しわけない。」とまた頭を掻いたのである。みんな顔を見合わせたが、難を逃れたのは、珍らしいことに、ぼくなのであった。