初恋のやり直し
山之口貘
小学校の六年生になってからのこと、ぼくは机の前に座っていても、それは父や兄などの手前で、勉強しているふりをしているにすぎなかった。ある少女のことに気をとられていたからなのである。少女はしばしば、ぼくの家の近所に遊びに来た。そこには沼があって、その沼の水のなかに、少女は着物のスソをまくしあげてはいった。水すましやげんごろうが、彼女のスネのまわりを泳ぎまわり、彼女は腰をこごめて浮草などを、手にすくったりして遊んだ。
その少女が、いつも、ぼくの頭のなかにこびりついていて、机を前にしては勉強しているふりをしているうちに、中学の入学試験には落第してしまった。
そこで、一年を高等科ですごしたのであるが、中学の一年生になってまもなくのこと校長の修身の時間にいねむりをしてしまったのである。前夜は、家に事情があって一睡もしないで一里の道を歩いて登校したからなのだ。ぼくはびっくりして眼を覚したがそれは校長が、水さしの水をぼくの鼻にぶっかけたからなのであった。
その日から、出欠簿のぼくの氏名の上に、朱色で△の印をくっつけられて、「注意人物」の扱いを受けるようになったが、事情もきかずに、こんな仕打ちをした校長の教育は、そのまま、ぼくにとっては、学校に対する反感の教育になってしまったのである。
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当時の中学には、「罰札」というのがあって小さな木の札に墨書してあったが、普通語(ヤマトグチ)を励行させるために、沖縄語(ウチナーグチ)を罰したのである。生徒は、つとめて、ヤマトグチを使ったが、持って生れたウチナーグチが、ふと、口をついて出ると罰札である。
しかし、注意人物のぼくなどは、意識的にウチナーグチを使ったりして、左右のポケットに罰札を集め、それを便所のなかへ棄てたりした。
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ぼくはそのころから、詩をつくることを覚え、絵を描くことに興味を持った。詩は、土地の新聞に時々発表するようになって、またしても女性のことを考えるようになり、ゴゼイという名の女学生と、ひそかに恋愛を働いたのである。三年生になって、ゴゼイにもらった手紙の一束を、兄に発見されて、ぼくの恋愛が明るみに引きずり出されてしまった。父は怒って「学校などやめろ」と、横目でぼくをにらんだ。このときほど、きまりのわるいおもいをしたことはなかったが、ぼくは色々な手を尽して、結局、ゴゼイとの婚約を成立させることができたのである。
そこで、ほっとしたわけでもなかったろうがぼくは、大病をわずらい、もう一度、三年生を繰り返してから四年生になった。
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学芸会の時、気の合った友達と計画的なことをして、一人は、有産階級の存在を攻撃する熱弁をふるって「弁士中止」をくらい、他の一人は、白髪の校長を骨董品にたとえて攻撃し、これもまた「弁士中止」をくらった。ぼくはそのときの野次の係りになって、講堂のうしろから、かれらの熱弁に声援をおくり拍手をおくった。
そのときのことが縁で、かれら二人は学校を追い出されてしまったが、ぼくは自分で、学校を棄ててしまった。すると、まもなく予想どおりのことが起きた。それは、ゴゼイからの手紙で、婚約の解消を申し出て来たのであった。
これで、青春をすっかり失って、気はさっぱりしすぎたが、ぼくの放浪生活は、それからなのであった。しかし、詩は、あらゆるものからぼくのことをかばい、ぼくを鞭撻して、またまた、青春をぼくに取り戻してくれて、恋愛までさせてくれたのである。その女性の名はオミトと言って、女学校の四年生なのであったが、小学校のころ、ぼくのことを悩ませていたところのあの少女なのであった。
ぼくは、詩のおかげで、初恋のやりなおしをしたわけである。
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