秋風

飯田蛇笏




 子供の頃「坊やん」と謂はれて居た小悧好な男があつた。彼の家はさして生計が豊かといふわけではなかつたが、さうかといつて苦しいといふわけではなく、田畑も少しは人にも貸して尚自分の家でも充分な耕作をして居たやうなところから、女ばかり引きつゞいて生れた後にひよつこり男の子として彼が生れた家庭は、ひた愛でに愛でつくして、なにがしといふりつぱな名前があるにも拘らず「坊や、坊や」と呼び呼びした。隣家のものが先づ「坊やん」と呼び出した。何時の間にか村中誰彼となく「坊やん、坊やん」と呼ぶやうになつてしまつた。
 坊やんは頭が少しくおでこで、ひきしまつた口元から、頬のあたりがほんのりと薄くれなゐの色をおび、すゞしげな眼をもつた容子が如何様紅顔の美少年であつた。どんな他愛ない事柄でも必ず面白さうに話すおぢいさんの肩車に乗つて、時には大きな蟇を赤裸にしたのをぶら下げたり鰻を棒の先きにくゝりつけて田圃路を帰つて来ることなどもあつた。坊やんはこのおぢいさんのみならず家族のすべてに可愛がられ山間の僻村は僻村だけに珍といふ珍、甘いといふ甘いものを喰はせられた。鰻の如きは焼き方から蒸しの具合に好味があらうけれども蟇の如きに至つては、焼いて醤油をたらすや即ち彼のぜいたくな大谷光瑞伯をして舌鼓を打たしむる底の妙味を有するといへば坊やんさぞ満足して舌鼓を打ちつゝ大きくなつたことであらうと思ふ。
 坊やんが青年期に入らんとするとき、坊やんの父は病を得て死んだ。養蚕に熱心なあまり、夜半の天候を気づかひつゝ毎夜々々庭前に筵を敷いて、わざと熟睡の境に入ることが出来ないやうに木枕をして寝て居た。空が僅かにかき曇つて雨がぽつりと仰向いた顔へ落ちたかと見ると忽ち坊やんの父は跳ね起きて桑の用意にかゝつた。そんな事からからだを弱くして死んでしまつたと近隣のものが言ひ伝へた。
 坊やんは蟇や鰻でそだてられたお蔭にめき/\大きく丈夫な体格になつていつて、多くの青年の間へ交つても天晴かゞやかしい風※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)を見せるやうになつた。
 又、おぢいさんがころりと死んだ。其のおぢいさんが鳩や雉子を打つ為めに、打つて坊やんに与ふる為めに、あやまつて自分の掌を打ち貫いた為めに、瓢軽な童謡にのこされたおぢいさんは他愛もなく病死してしまつたのである。と又翌くる年の夏、大出水の為めに谷川ばたの畑へ水防に出て居た坊やんの母が、どんぶり濁流へ落ちるとそのまゝ川下へ流れて行つて溺死してしまつた。山間僻村の最低地域をたゞ一筋流れて居る谷川ばたに其処に一つ此処に一つ僅かにくつ付いて居る畑の水防などに出るものは、坊やんの母とその時一緒に行つて居た坊やんの家の傭人との外には絶えてなかつた。坊やんの母といはるゝ人も平常はさほど慾深な――少しの荒畑の畔がかけるのを惜むものゝやうに思はれても居なかつたのであるが――。
 昔、坊やんの家の菩提寺の所有であつた古墓地を、坊やんのおぢいさんが手に入れてだん/\それを開墾し今は上等な桑畑になつて居る。髑髏の大きな眼窩や梭のやうな肋骨の間へ根を張つた桑は附近の桑畑より余分に青々と茂つて居た。そんな無縁仏に罪をつくつて居るが為めに凶事がつゞくのだといふやうに口さがない山賤が茶を飲みあふにつけ煙草を吸ひあふにつけ話しあつた。
 それから二三年過ぎると「坊やん」が一度神がくしにあつた。村人がさがしに行くと坊やんは青ざめた顔をして渓流を隔てた向ふの山の中腹に立ちつくして居た。軈て坊やんは妻をめとる幸運に向つて、その花妻がまた村人のほめものであつた。美しいかほかたちをそなへた上に人並すぐれた働きもので、坊やんと坊やんのおばあさんと坊やんの妹たち二三人の家庭の中に女王のやうに振舞つた。坊やんは身も世もなく妻を可愛がつた。
 二三年可も不可もなく坊やんの家庭が平穏につゞけられていつた。其の中に坊やんが時々病気が起つて卒倒するといふやうな噂がたつた。事実病気の為めに苦しめられた坊やんはさんざん田舎医師へ通ひつめた末、人のすゝめるまゝに灸を[#「灸を」は底本では「炙を」]すえてみたり滝にうたれてみたり、神詣でをしたりした。其の間に、美しいかほかたちの大きな体格をもつた妻のところへ、坊やんの甥が時々遊びに来た。甥とは言ひながら坊やんの長姉である人の子は坊やんと年齢の差が僅かに二ツ三ツであつた。村人の風評に上るやうになつてから間もなく坊やんの妻は、坊やんの甥に手を引かれて隣国の信濃へしばらく身をかくした。坊やんはそれからといふもの次第に精神が錯乱していつて、鉈をもつてわけもなく家族を逐ひ廻してみたり、日傭取りの男女をつかまへて擲ぐりつけたりした。気狂ひとして村人から取扱はれてから三四年の月日が過ぎた。坊やんの妻であつた女と、坊やんの甥である男も今は人の噂を踏みにぢつて、大ぴらに村へ帰つてから空家を借りて睦まじく生活をつゞけて居た。坊やんは火をつける事を好んで、毎日家族の油断をねらひすましては燧火をすつて藁屋敷の廂などへつけ/\したが、いつも家族の誰かに発見せられては消されてしまつた。
 丁度、立秋の気がみなぎつて来た或る日の正午頃、山村の中所に吊られた鐘が慌しく鳴らされた。
 私も庭前へ出て見た。
 坊やんの家のあたりから天へ高く沖する煙が見えた。矢庭に馳せていつて見ると、坊やんの大きな藁家は天井一杯火になつて、東の窓口から濛々と黒煙が焔を交へて吐き出されて居た。桑摘みに出かけた家族の留守をねらつて坊やんは麦藁の束に火をかけ、その火の束を振りかざして屋内どこと定めず天井へまでかけ上つて焔を移して歩いた。而うして見る見る焼けつくさんとする我が家を仰いで、倒れんばかり身を傾けつゝ満面よろこびの色を呈して踊り歩いた。身内の男がかけつけて来て力まかせに坊やんの頭といはず背といはず叩きつけて居る下に坊やんは酔どれのやうに身をぐた/\させて手をたゝきながらつきせず踊つた。
 海嘯つなみのやうに人の波が押し寄せる中に家は火の海になつて燃え落ちた。





底本:「日本の名随筆37 風」作品社
   1985(昭和60)年11月25日第1刷発行
   1997(平成9)年2月20日第13刷発行
底本の親本:「山盧随筆」宝文館
   1958(昭和33)年11月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2012年11月26日作成
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