丹波篠山

平野零児




「あなた、お国は?」
 と聞かれる度に、私はちょっと自分で苦笑し乍ら、ためらうような調子で答える。
「丹波篠山ですよ」と、
 別に丹波篠山で生れたからとて、少しも卑下する理由はない、それなのに、ついこんな調子になるのは何故だろう。
 丹波篠山は、成程山間の都会だ。しかし日本のような山獄が、全土の脊骨となって貫いているような地形の国では、山間の都市や村落は無数にある。篠山だけが山間の部落ではない。然もわが篠山は、近畿と山陰地方とに跨がる、丹波、丹後、但馬の三丹地方中での、盆地に拓けた都市、旧城下町で、京都が王城であった頃の、王城に近い都市でさえあった。
 それなのに、丹波篠山だというと、ニヤリと笑う人もある。そのニヤリには、さげすむとまではいかぬが、稍からかい気味なものを含んでいる。日本の代表的な山家と思い込んでいる人が多いからである。戦前の第四師団の七十聯隊があった頃は、その管下の近畿地方の青年は、ここで軍隊教育を受けたから、篠山は知っている。それ以外は、ここを郷土とする者以外には、余りその土地さえ踏んだ人は尠ない。それなのに、丹波篠山の名は大袈裟にいえば天下にとどろいている。
 それほど有名になったのには、いろんな原因がある。別にスポンサーがあったわけでもないのに、篠山は先づデカンショ節で古くから広く知れ渡った。しかも、その文句のうちで一番最初に唄われるのが、
丹波篠山、山家の猿が、花のお江戸で芝居する、ヨウイ、ヨウイ、デッカンショ
 である。これがそもそも大きく作用している。「山家の猿」という丹波生れを思わせるこの文句の仕業である。東京では、この外に、「甲州の山猿」ともあざわらう。田舎者、山男の代名詞である。その代表が、丹波と甲州とされてきた。
 日本中猿の分布を詳しくは知らぬが、男鹿半島の金華山や、瀬戸内海には猿島などの名の通り、猿の群棲する地方が多いのに比べると、篠山の町では猿は王地山公園に数匹しかいない(実はその公園にも、果しているか否かは記憶が正確でない)それくらいなのに、篠山が天下の田舎の代表にされたのは、まさしくデカンショのせいである。
昔、丹波の大江山、鬼共多く住い居て、都に出ては人を喰い…………
という歌の作用も大きい。この唱歌は、私達は小学校で歌った。確か教科書にも、大江山酒テン童子の物語りとして載っていたものに附ずいした唱歌である。
 実際は丹波の大江山と、篠山とはだい分離れているが世間一般は、この鬼のすんだ山奥と、山家の猿の篠山と混同している。
「君、丹波てそんなに猿がいるんかい」
 真顔になって聞く人がいる。そんな時には私は、「うん、猿よりも庭に鬼の子が何匹も飼ってあるよ」と答えることにしている。
 畏友尾崎士郎、井伏鱒二君なんかは、自分の郷土に対して特に愛着を強く持つ文人である。作品にも屡々扱われている。無論これはこの二作家に限ってはいない、誰しも夫々の郷土に愛着を抱かぬ人はないだろう。
 私は確かに丹波の生れだ。正確にいうと、兵庫県多紀郡大山村と城北村である。篠山の城下町から、明治維新の廃藩後に俸録を離れてこの村落に散居した父の六男坊主に生れたのだが、実は生後百ヶ日の赤ん坊で、同藩の親戚の子供のない家に養子に送られ、阪神御影で育った。
 爾来、それで郷里に帰省したのは、小学校の頃、夏休みに一回、実父の葬式に一回、徴兵検査に一回、ずっと後に展墓に一回、合計四回しかない。だから実際は他の人のような郷土感は稀薄である。そして戸籍上は、謄本などを取るのに面倒だから、戦前まで住んだ東京都麻布富士見町に転籍した。従って、
「本籍は?」と訊かれたら「東京です」と江戸ッ児のような顔ができる。それに代々大抵青山家の藩主について江戸詰をやっていたので、東京青山に祖先の何人かを埋めた、菩提寺もある。強いて「丹波篠山です」なんかいわないでも済むのだが、篠山と聞いて、ニヤリとする人に、近頃は却って面白味を感じて、わざと篠山生れを進んで発表することにしている。
 最近、その篠山の文化を探っている、篤学の青年に朽木史郎君というのがいて、「篠山の文学」という小冊子を著した。
 それに依ると、意外にも、いろんな文人が、この篠山を文中に扱っているのに驚いた。島崎藤村を始め井伏鱒二、北尾鐐之助、雅川滉(成瀬正勝)、竹中郁、河盛好蔵、伊藤慶之助、富田砕花、吉川英治、河合寛次郎、バーナードリーチ等々の文化人が杖を引いている。これ等のいつも案内役をしているのが朽木君である。これを知って、私はともかくも自分の郷里に対し余りにも、今まで無関心でいたことに気がついた。
 私達在京の篠山出身者で、「篠山ペン会」というようなものを少人数で年二回位集りを持っている。顔ぶれは、下中弥三郎翁、中野好夫、深尾須磨子、松山幸逸、岡田政一の諸君と私であるが、みんな余り郷土を語らない。下中翁は世界連邦を説き、中野君は砂川事件を、深尾女子はフランスと詩を、松山君はラジオ界と政界の消息を、私は中国の話しをといった具合である。
 郷土愛につきもののお国自慢は、黒大豆の「大納言」、丹波栗、丹波布、立杭焼がある。それに猪がある。偶々、その猪肉が、今は同じ横浜に住む「ハマッ子会」の会員である歌人尾山篤二郎氏の詠草にあることを知った。
名にし負うたにはささやまささやまに得てしいのししきょうくいにけり
 先日黒豆は少々、士郎兄の奥さんに割愛した。年末には猪を取り寄せ、この風報同人の諸老に供したいと思っている。
 硯友社時代の丸岡九華が篠山の人であることは今度初めて朽木君の冊子から知った。





底本:「平野零児随想集 らいちゃん」平野零児遺稿刊行会
   1962(昭和37)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本のテキストは、手書きの遺稿によります。
入力:坂本真一
校正:持田和踏
2022年7月27日作成
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