百まで踊る下中翁

平野零児




 下中翁が忽然と逝かれたのは何とも傷心の限りである。亡くなられる恰度一月前、麹町の「山の茶屋」で、翁の御馳走になったばかりである。中野好夫、深尾須磨子、松山幸逸、岡田政一、大西雅雄さん達、下中翁を囲む同郷の極く小部分のグループの、いはば[#「いはば」はママ]恒例のような会だった。その前はクラブ関東で、立抗村の名誉村長になられた時の、披露ともいうべき会だった。その時は「これからは陶工弥三郎となって余生を送る」といわれていた。
 私はその時羨ましく思った。私には東洋的な、年をとったら、静かに読書したり、絵や字をかいたりして、陶淵明的な隠とん生活をして、呑気に暮したいという気持が強いからである。しかし私にはそんな余裕がない。いくら年をとっても、死ぬまで売文で生きて行くより手がないからである。
 しかしその時窃かに私は思った。「このお爺いさん、果して陶工弥三郎で納まれるかな」と思った。
 果して亡くなるその夜の二時間前まで、クラブ関東で、「世界平和」の会を主催して、その席で諸名士を前に、平和促進の言葉を述べられた。そしてケネデイ米新大統領に出された、世界平和に対する要望書に対する、大統領の賛意を表した返信を恰も、その日に受取られたということである。全く、雀百まで踊り忘れぬ翁だった。果して陶工弥三郎なんぞで納まれる人ではなかったのだ。
 同郷の先輩として、私は一体いつ頃から、翁に接近したのかハッキリ記憶がないが、多分、円本の大衆文学全集を出された頃から、故直木三十五、三上於菟吉、翁の死まもなく、これまた故人となった村松梢風などを通じて知り、郷友としては岡田政一、松山幸逸君等を通じて近しくして頂いたと思う。
 時々前記の小グループが、集って会食するようになったのは、世は非常時の、何となく険わしい時代で、二、二六事件の前頃(昭和十一年)九段下の円六という料理屋で、おかみか、女中が義太夫を弾き語りしたりする、少壮軍人達がよく行く家だった。それが最初の会であったと思う。その後諸所で集まったが、いつも会費ということになっていても、結局翁の御馳走になってしまった。
 その頃のこと、何処かで集って、例によっていろんな雑談が始まった時、翁は当時の時局に対する意見を、屡々故近衛文麿に与え、「ゆうべも、電話でいってやった」といわれた。下中翁はその昔は、社会大衆党にも関係があったようだし、今日の日教組の母体ともいうべき啓明会の創立者であったり、日本最初のメーデーの発起者であったり、政治活動もされた新興分子であったが、それは職業的政治家としての野心からでなく、主として教育家としての立場からであったと思う。近衛公とは、そんなことから親交があったらしく、その後は軍部主脳や革新的青年将校とも接近されていた。
 非常時となって、一種の革新的ムードが起ると、その中心圏に入って、「活動された」ので近衛に電話でアドバイスするなどは、ちっともハッタリではなかったのだが、その頃の私は、「爺いさん、一国の宰相を動かす気で居る」などと心でひやかしたりした。大戦になってから、私は南方に従軍したり、帰還すると直ぐ、中国に去り、敗戦後六年を同地の戦犯で拘置され、十数年の変換期は、ケイガイに接しなかったが、帰還すると早速私のために歓迎会を例のグループで開いて下すった。
 聞けば三年で追放解除になり、平凡社社長に返咲き、主として平和運動に挺身されているのを知った。
 翁の「世界連邦」の構想は、詳しく伺ったことはなかったが、着々実践されて行く、熱心さと誠実さと組織力には敬服していた。
 然し私は、一度も自分の一身上のことや、社会的活動では具体的には御世話になったこともなく、家庭的なおつき合いもしなかった。けれども私はこのような同郷の先輩と、いつでも近づけることを誇りとしていた。
 私が帰国して間もない頃、翁は、真剣に蒋介石を引退させ、日本で余生を送らせるよう、宗美齢を動かせることを考へ[#「考へ」はママ]、某富豪の箱根の別荘まで用意ができていると語られたことがある。それを共同通信が知って、世界に通信を流したことがあった。
 私はこんなことを着想すると直に、ともかく或る程度まで実行に移された翁は偉いと思った。決して夢想家ではなかった。
 丹波篠山の猿が、世界対手に芝居のできた人は翁をおいて外にあるまい。堀内さんのような外交官とか故井上翁を始め、あるにはあるが、一寸質がちがう。
 私が帰国してからの五年間だけでも、八十の老体で、印度や南方諸国、ソ連へと数回往復しても、私達が銀座を散歩する位の気軽さであったのも驚異である。亡くなった時の役職表を見ると二十を数える。その中顧問と委員が三つ、あとみな会長か理事長である。
 しかもお金になるような仕事は、元来の出版関係だけである。あとはみんな持ち出しばかりだったらしい。
「爺さん、教育や平和に関することとなると、無雑作に寄附金を出すので、平凡社では頭が痛いらしい」と誰かが噂さした。
 こんなおおらかな人物は、篠山はおろか日本の歴史上の人物にも珍らしいといっても過言でなかろう。
 殊に、世界連邦の大構想には、私は心から尊敬している。事業としては「世界大百科全集」の完成、そして往年の日本の魁け、これは如何に日本の文化を促進しまたするものであるかはいうまでもない。
 今日の大衆作家が今日の盛時を迎へたのも[#「迎へたのも」はママ]、全く翁のお蔭である。
 私はこんな偉大な郷土の先輩に、一寸でも親しくし得たことを幸福に思うと同時に、老来今に何等なすところのない人間である私自身を情なく思う。
 天寿は翁のような人にはもっと恵んでよかったのに――





底本:「平野零児随想集 らいちゃん」平野零児遺稿刊行会
   1962(昭和37)年11月1日発行
※底本のテキストは、手書きの遺稿によります。
入力:坂本真一
校正:持田和踏
2024年8月9日作成
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