無情な今年の二月

村松梢風氏と下中弥三郎氏をいたむ

平野零児




 二月という月は、私にとって生れ月で、元来ならばまず目出たい月というのだが、今年の二月は相次いで、私の最も親しい人々が数人もあの世へ行ったので、厄月になってしまった。
 そのうちでも、村松梢風氏と下中弥三郎翁の死は、わけても傷心なことであった。
 梢風さんとは四十年近い交遊であった。知り合ったのは、私がまだ東京に遊学していた大正初年のころで、故馬場孤蝶先生の市ヶ谷田町の書斎であった。
 馬場先生は当時文壇随一の座談の妙手といわれ、語学に堪能で、西欧の文学を広く漁り、該博な知識を持ち、慶応大学で大陸文学を講じていたが、学生以外にも多くの文人が、その書斎に集まった。夏目漱石の書斎に集まった木曜会とならび称されていた。
 すでに名をなしている文学者の中にまじって、私は先生の書斎のすみで、先輩達が先生を中心に語り合うのを聞いているだけだったが、梢風さんもその中で、先生に劣らぬ座談に長じて、ことに清水次郎長の話は、講談を聞くよりもおもしろかった。
 梢風さんと最も親しくなったのは、梢風さんが、死に別れた愛人を見送った後、間もなく京都で結ばれた現在の愛人と、愛の巣を求めていた昭和六年ごろ、私が住んでいた日暮里の同潤会の鶯谷アパートに誘い入れ、近所つき合いをしたことから深まった。その後梢風さんが青山高樹町に移ると、私もその近くの麻布笄町の家に住み、毎日のように往来した。早くから中国に興味を持ち、ほとんど中国大陸に足跡をくまなくしていた梢風さんは、私も済南事変に山東へ従軍記者となって、大陸に魅了され、満州事変が起きると、中国へ渡ってそれを見て来たい念願を起こすと、直ぐに中央公論社に連れて行き、故嶋中社長を説いて、中央公論特派員の名義を与えさせ、満州へ従軍の便宜をはかってくれた。
 太平洋戦争が苛烈になり私は南方従軍から帰り、内地の不自由さがいやになり、北支へ疎開しようと決意した時は、それをよろこんだが、
「もう、これでお互いに生きてあえぬかも知れませんね」といって、そのころは酒の飲めない梢風さんは、酒好きの私のためにいろいろと手をまわして、諸所からとぼした配給の酒を一合あてかき集めて、私のために送別の宴を設けてくれたりした。米のB29が、秋空に飛行雲を残して帝都の空を偵察して去ったころであった。
 以来十四年間、私は山西省の奥に敗戦を迎え、やがて中共のために戦犯として六年間収容所に拘禁された。
「やはり、梢風さんとも、もうあえないか」とあきらめていたら、昭和三十一年の春、梢風さんは、平和擁護委員会の代表として招かれ、ソ連へ行き、ヨーロッパをまわり、印度を経て、帰途新中国へも立ち寄るとの報を、新聞記事で知った。
 相手は平和の使節だし、私は戦犯の捕われの身だから、たとえ梢風さんが中国へ来たとしても、しょせんは会えなかろうと、一応はあきらめてはいたが、深い友情というものは、不可能を可能とすることもあるかも知れないと、ひそかに思っても見たりしていたら、果然それがかなえられ現実となった。
 その年の春の日曜日の朝、太原の戦犯管理所長室へ呼び出された私の前に、梢風さんが立っていた。
 すばらしく仕立てのよい、ダブルの洋服に、カメラを肩にかけて、少しグレーがかってはいたが、十数年前よりはむしろ若々しい美しいほう(蓬)髪の梢風さんだった。
 北京へ着くと、何よりも先に中共の要人に、私の動静を聞き、一行から離れて単独で、私を太原までたずねてくれたのであった。梢風さんは革命前から人民委員の郭沫若と親しかったので、彼に事情を訴えたら、特に飛行機を用意し、戦犯の私への面会を許可するよう、指令を出してくれたのだということであった。
「近ごろは、私も酒を飲めるようになってね、今朝も飛行機で宿に着くと、コニャックを飲み一寸御きげんなんですよ」といった。
 別れる時に配給のとぼしい酒を、私にだけ、自らしゃくをして飲ませてくれた親切を、私は思い出して目頭があつくなった。
「みんな心配しているが、案外元気じゃないの、よかったね。奥さんも元気でいますよ」
 そういって梢風さんは、戦後の内地のことを矢継ぎ早に語ってくれた。
「私もね、えらく書いたものが評判が良くてね、鎌倉に立派な家も持ちましたよ。君が帰ったら力にもなりますよ」
 となぐさめてもくれた。そして文芸春秋社から出した『名勝負物語』の著書を手渡してくれた。それには菊池寛氏のことなどが書かれてあった。
「なかなか、目も澄んで血色もよく平野君は筋金入りになり、しっかりしていますよ」と梢風さんは帰国すると、私の友人達に伝えたという。
 つい先日が、初七日だった。密葬の日は鎌倉にかけつけると、棺に埋まった無鬚だった梢風さんの口ヒゲが、白く伸びた顔があった。私はそれに黙とうをささげた。死んで初めてこの人の老いを知ったのであった。
 内輪の少数の友が、日比谷山水楼に招かれて、皆がこもごも追悼談をした。
梢風さんは戦前すでに、幾度か傑作を書いたが、いわゆる流行作家として持てはやされなかったが、戦後、読売新聞に三千回近い『名勝負物語』を連載し、新聞連載の記録を破り、あの『女経』はたちまちベストセラーになった。
 日劇ミュージック・ホールの踊り子や、キャバレーの若い女たちと好んで遊び、すっかり老を忘れて、永井荷風なきあとの、その方面のゴシップをにぎわしていた。
 初七日の会で、日劇の丸尾長顕君は「私のところの踊り子から、村松さんほど持てた人はなかった。舟橋聖一氏は楽屋はにが手だと、長居はしなかったし、谷崎潤一郎先生は、踊子に好かれたけれど、それでも半時間とは落付けなかったが、村松先生は一時間でも二時間でも、踊子に取巻かれていて、仕方がないから私は、楽屋を出てパチンコをやって時間をつぶした位です」と語った。
 ちょっと知ったばかりのキャバレーの女の子に、銀座で十万円位もする毛皮を買ってやった、などとその店に行き合わせた女人から聞かされたこともある。
 一般の人は、梢風さんの『女経』を読んで「あれはみんな体験なんでしょうね。多少のフィクションはあるとしても」という。私はそれを否定する必要はないが、梢風さんの漁色は、晩年では極めて観念的なものだったと思っている。それは『女経』の最後第十二話のかきだしになっている「人が老いるのではない、恋愛が老いるのだ」というフレーズをがん味する時、好んで、ナイトクラブや、ヌードショーの楽屋に入りびたったのは、漁色というよりはむしろ、あのような、キャッチフレーズを得るために、通った悲そうなものがあったのではなかったかと思われる。
『女経』の十二話にわたる物語の大半は、幾度か、私が梢風さんの口から、例の話上手な調子で聞かされたものである。事実の裏付けは確かにあったが、必ずしもそれだからといって梢風さんが女から女へと渡り歩いたドンファンだったとは思われない。
 結局梢風さんは、上手なストーリーテラーであったが、ひたぶるな恋愛に身を焦がすような人ではなかったと思うのである。
『女経』とゴシップで、梢風さんは大変なデイレッタントのように晩年は世間から見られたが、梢風さんの真骨頂はすぐれた伝記小説家であったと見るのが、私は正しいのではないかと思う。だから『本朝画人伝』などは梢風さんの尊い労作として、これは永遠に評価されて残るのではなかろうかと思う。それとも一つは、小島政二郎氏が、追憶にも挙げて推奨した『秋山定輔』も、次に数えることができる。傑作の一つ『綾衣絵巻』は『本朝画人伝』の副産物である。
『女経』などはいくらベストセラーになったからといって、梢風さんの死と、ゴシップの消失と共に忘れられるものであろう。





底本:「平野零児随想集 らいちゃん」平野零児遺稿刊行会
   1962(昭和37)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本のテキストは、手書きの遺稿によります。
入力:坂本真一
校正:持田和踏
2023年8月14日作成
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