雪解けにすべった丁玲女史

平野零児




 最近ソ連の「雪解け」もいろんな曲折があった。新たな粛清が、シェピーロフ書記も[#「シェピーロフ書記も」は底本では「シェピーフロ書記も」]モロトフやマレンコフらと共に 追放に[#「共に 追放に」はママ]なった。インテリゲンチャの間に、不健全な傾向をひろげた責任者であると指摘された。ソ連の整風も、第二十回党大会以来から更に新段階に入ったものと見られる。
 新中国も、昨年の「百花斉放」「百家争鳴」の段階から、更に一転した。ソ連にしても中共にしても、それは単に文化面だけではない。共産主義国家には、文学や哲学は、国家や政治には超越しているという風な考えは許されない。
 経済が基礎で、政治や文化は、その基礎の上に建てられた上層建築であるという、マルクス主義の理論を守っているから、一つの文学運動も大きな政治問題であり、一つの思想的傾向が、政治や文化と切り離されたものであることは絶対にない。
 だから今回の中国の整風運動の新段階も、広く、二百余名が厳しい批判の対象となり、その中には羅森工業相[#「羅森工業相」はママ]、章伯鈞交通相[#「章伯鈞交通相」は底本では「章伯釣交通相」]、章※[#「冖/田/(「卅」にさらに縦棒を一本付け加える)」、60-8]品食糧相[#「章※[#「冖/田/(「卅」にさらに縦棒を一本付け加える)」、60-8]品食糧相」はママ]、光明日報編集長儲安平など、人民政府に枢要な地位を占めた人々の多数がヤリ玉に挙っている。そして同時に文壇方面には、丁玲女史が挙げられたという。丁玲女史は中国作家協会副主席であり、同理事の陳企霞と共に、有名な詩人艾青もそのグループとされた。
 作家協会内中央党グループが開いた、拡大会議は「丁、陳氏は、党内で反党的攻守同盟を結び、今回の整風運動が始まると一九四五年の胡風事件のさい行われた『文芸報』のブルジョア的方向に対する点検と、一九五五年作家協会が、両氏に対して下した結論を覆えそうと企て、却って作家協会の粛清闘争は誤りであると攻撃し、機関誌『文芸報』に対抗する別の同人雑誌の計画を秘密のうちに行い、協会副主席の馮雪峰氏もこれに加わっていた」と指摘した。
 私はこれらの問題に対しては全くのカキのぞきで、正確な事実もつかんでいないし、用意もない。けれどもただ一ついえることは、このようなことは常にあり得ることで、別に驚くほどのことはないということである。
「そんなことでは、共産国家の文士なんて者は、おっかなビックリで、安心して創作なんかできないや」という人があるかも知れない。永い間、私はこの国の戦犯として、管理所のヘイのなかにいて、あの三反、五反の反革命の粛清、胡風問題などの厳しい整風運動は、私達自身のいわゆる学習の課題でもあった。その体験の中で、いえることは反動的思想を持っていたら、創作活動は愚か、思想改造なんか全くおっかなビックリで、常にビクついていなければならないことは事実であった。
 それこそ、一つの恐怖政治ではないかということになる。私は確かにそうだと答える。何も不思議ではない、何故かなれば、中国は共産主義を[#「共産主義を」は底本では「共産主議を」]奉じる国家であるからである。一つの真理、一つの信念、イデオロギーの下に、革命という大事業を行い、共産主義国家をめざして、新民主主義国家から、社会主義国家へと歩み出している国である。
 確かに全体主義ともいえるであろう。少数が異をたて、グループを作り、小集団活動を行うことは、反革命者としてのラク印が押される。軍国主義、ファッショの重圧の下に、悲惨な敗戦と、戦禍を喫した日本人としては、あの当時の、全体主義的暴虐時代を顧み、今にリツ然としたものを感じる人々には、中国の全体主義も同じだと思う人があるかも知れない。そう思う人々は「それ見たか」とこおどりする。その人々は、ファッショもイヤだが、共産党もイヤだという人々だからである。
 これは昨年あたり、石川達三君が、ソ連旅行から帰って論議の種をまいた「自由」の論争の繰り返しにもなる。私は今さらここでそのような繰返しをやろうとは思わない。現在の日本は、ただ多くの人が、米占領下同様の状態のなかに、自由主義国家群のなかにいて、少しずつ民族的な主権をとり返そうとして、何処かに歴史の巻き返しをやろうと考えているらしいようでもある。そのような考え方は、その人の人生観、世界観が、真に階級的な問題の底に触れない限り、その立場と観点は、絶対に了解できない。だから私などがここでそんなことに触れてみたってムダなことである。是非をいうのでなく、ただ私はこうした問題はどんな風にこの国で運ばれたかを紹介するにとどめる。
 私はかつて共産党国家は何故腐敗しないかという設問の回答に対して、それは批判と自己批評があるからであるということを聞いたことがある。私達自身の管理所生活の中でも、この批判と自己批評は常に行われた。日常茶飯の生活に対しても、週末には必ず生活検討会というのが開かれて、一週間の自分の生活態度や思想の動きを検査し、また仲間の人々のことも批評し合うことが行事となっていた。これは私達戦犯だけに行われたことでなく、私達を領導する管理者、工作員、検察官、警戒の保衛員(軍隊組織の公安局員)達も、みんな一様に、それぞれの単位が同様に行われることになっていた。その他これは、外でも一定の「学習」という時間を、仕事の間に割くところでは、生活検討会が持たれるのであった。
 胡風問題が取り上げられると、一せいに人民日報その他の新聞で詳細にこれが報道される。するとそれは、全国至るところで、各界各層の学習単位で、この問題は討論されるのである。例外はないのである。けれども正直なこと私達にはこの生活検討会は、何としてもいやなことで、辛いことだった。週末がくるとこれだけは先にいったように、それはウンザリした。しかしこれは戦犯なるが故にやらされるのでなく、この国の生きて行く者は、ことごとく行わねばならぬことであった。これが行われなかったら、この国はいつ逆戻りするか分らぬからであった。
 丁玲女史は、人も知るが如く、現在の中国では今日まで、最もすぐれた中国の文学者として遇されてきた。けれども一度、今度のように、その属する単位、中国作家協会で批判されたとなれば、その批判を受け入れ、自己批判をしなければならない。現に、章伯鈞[#「章伯鈞」は底本では「章伯釣」]、羅隆基、章乃器などの大臣級をはじめ、約十名の人々は各自の政治上における、問題を自己批判したと伝えられている。これに至るまでには、約一カ月半、理論闘争が行われたという。そして、七月十五日に、北京懐仁堂で閉会式を行った二十日間にわたる、中国人民代表大会第四次会議の席上、周恩来総理の報告演説中に、党の指導に反対した、団結を破壊する間違った言論の事実を指摘したことによって始まり、会議の最終日に前記の人々が書面でその誤り、右翼偏向を認めたのであった。
 丁玲女史が、どんなにこれを認め、如何に自己批判をしたかは、私には知る材料はないが、前記の政治家と同様のケースとなって、批判を受けたことは間違いがないであろう。
 要は丁玲女史に限らず、前記の有数政治家たちはひとしく昨年の百花斉放、百家争鳴の機運に乗じて、かつての胡風問題を引きもどそうとして、党の官僚主義、セクト主義、主観主義を攻撃したのは好いが、それは遂に党の指導性やプロレタリア独裁を否定する、反社会主義的傾向に走ったからである。簡単にいえば、雪解けに調子に乗り過ぎて内在していたブルジョア観点が露出したためである。
 大体において、こんどの右翼偏向者と指摘された人物は民主党派に属する人物であるようである。民主党派はかつての革命に、民族資産階級に属する人人として参加した。厳密な階級分析からいうと資産階級の階層である。丁玲女史が民主党派に属しているかは、明らかでないが、丁玲女史も、出身成※(「にんべん+扮のつくり」、第3水準1-14-9)(過去の階級)からいえば、大地主の娘である。清末の一九〇七年湖南省臨※(「さんずい+豊」、第3水準1-87-20)県生れで、父には早く死別れたが、桃源女子師範に入り、長沙の女子中学に転じさらに北京大学へ入るつもりで、付属の補習学校に籍を置くうちに、一文学青年と恋におちて同居したのが、十七歳の時であった。そして一九二七年に、短編小説『夢珂』が処女作として認められ『莎菲女子日記』で、新時代女性の心理的分裂を描いたのが、熱狂的な歓迎を受けて一躍有名作家となった。
 革命の変動期には北京で「小ブルジョア的幻想にとらわれていたため、革命の戦列から隔り、孤独と憤まんとあがきと苦痛におちいっていた」と自ら「ある真実な人の一生」中に述懐している通りで一九三一年恋する夫胡也頻が、国民政府に捕えられ銃殺されたことから、国民党を敵とし夫の復しゅうが、革命への参加となり、一九三四年ごろから、延安の馬列学院で文学の講師となり、インテリ仲間と前線に出て宣伝教育工作などにも従事し抗日戦線に活躍した。このころ有名な、毛沢東の、「延安文芸座談」(革命文学の指針)以来自己改造をして『太陽は桑幹に輝く』の大作となった。そして一九五一年にスターリン賞をもらった。その後は余り作品はなく、評論、旅行記を書き作家協会の指導的な仕事に専念していた。問題の胡風とは余程親しいと見え、彼女の著書には、胡風編となっているものがあることから察せられる。
 以上の簡単な彼女の歴史からも彼女自身いっている如く、小ブル思想の根は深い。胡風の犯した道を彼女も「雪解け」にすべったのであろうと見られなくもない。小ブル、インテリの多くがたどる文学の道は、共産社会の坂道になるとけわしい。民族ブルと、小ブル、インテリはこの社会では、うっかりすると、すべり落ちる。
 戦犯の帰還者である私自身、「元の木アミ」になりそうなのと思い合わせられるものがある。その昔、インテリの悲哀という風な言葉が流行ったのを丁玲女史は再び今は感じていないだろうか。





底本:「平野零児随想集 らいちゃん」平野零児遺稿刊行会
   1962(昭和37)年11月1日発行
※底本のテキストは、手書きの遺稿によります。
※誤植を疑った「中国は共産主議を」を、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
入力:坂本真一
校正:持田和踏
2023年9月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「冖/田/(「卅」にさらに縦棒を一本付け加える)」    60-8、60-8


●図書カード