吉川さんの声と眼

平野零児




「母が生きるに疲れはてて、燃え絶える最後まで、母からはただの一言でも、愛の伴わない言は聞かされたことはない」
 吉川さんの著『四半自叙伝、忘れ残りの記』の中にこんな一章がある。
 数多くの弟妹、古い友達に対して限りない愛情を持ち続けている吉川さんの心情には、このような母の血が一パイに溢れているといってもよかろう。
 どんな場合にも微笑を失わない、そして柔和な眼が吉川さんの表情である。眼は心の窓という位だから、僕は接する度に、いつもこの眼から吉川さんの心をのぞくことができる。
 最近のこと、浜本浩がポックリ死んでしまった。葬儀が終った七十五日目位の日に、永井龍男、海音寺潮五郎、中野実、川口松太郎、岩田専太郎、辰野久紫、寺崎浩、三角寛、宮本三郎、小島健三、香西昇、桔梗利一など[#「桔梗利一など」は底本では「拮梗利一など」]旧『燈火会』のメンバーが二十数年振りで、吉川さんの赤坂の新邸に浜本を偲び、吉川さんの新邸を祝うために集った。
 今はみな老来益々文壇に画壇に声明を走せている老友の集りだった。老残の身でその片隅に加わったのは僕一人だったが、そこには数十年の交情がそんなひけ目などを感じさせなかった。僕は吉川さんの隣りに座った。
「元気ですか」僕は平凡な挨拶をした。
「それより一体君はどうなんだい」
 吉川さんはおおむ返しにいった。それは皮肉でも何でもない。中国の抑留から放されて十数年目に帰国してから三年、僕の身上を常に気遣ってくれられる吉川さんの、僕へのいたわりの言葉なのであった。
 多くの友が、中国敗戦を迎え[#「中国敗戦を迎え」はママ]、一時消息を絶った僕のため、いろいろと心を通わせてくれたが、中でも吉川さんは、日本に置き去りにした老妻のことまで何かと面倒を見てくれられた。盛んな僕の歓迎と激励の会を開いてくれた多くの友の発起にも卒先して加わっただけでなく、その後引続いて、有力雑誌の編集長と共に、極めて僕の親しい友を一堂に集めて、一夕の宴を開いてくれられた。
「君、もっとないのかい。いくらでも呼ぼうじゃないか」とわざわざ電話をかけ、更に奥さんを通じて、
「あのほかに、誰々さん等お加えになるといいと申しています」と吉川さんの方から、名差しの人名を追加されたりもした。
 永く故国を離れたブランクをこうしたことで何とかして埋めてやろうという、厚い心遺りで[#「心遺りで」はママ]あった。
 仕事の邪魔をしてはいけないと、訪問はなるべく避けたが、横浜で僕が計画した『ハマッ子会』の発会式などには、万難を排して奥さん同道で出席したり、その他吉川さんの参加が、僕のために有効だと思うことは、いつも進んで顔を出して貰った。
 昭和八年、渋川玄耳翁等が主宰した趣味雑誌『書斎』を立川雷平から[#「立川雷平から」は底本では「立川電平から」]引継ぎ、僕が発行することになった時、毎月多額の編集費を援助して貰ったのも吉川さんだった。
 僕は吉川さんのためには何一つ役に立ったことはない。むしろ恥ずべき取巻きだった。
「徹夜の仕事と飲み歩き――は当時の大衆作家の一日だった。応接室につめかける雑誌記者に締切りを控えての居催促を裏口からすっぽかして遊里にかくれたり……」
 当時を吉川さん自身が『忘れ残りの記』にかいているような場合、僕はいつもその飲み歩き――のお伴だった。
 僕が吉川さんと、深く知ったのは昭和四年頃で、毎日新聞に『鳴門秘帖』を書いた後であった。僕は会社の学芸記者だったが、作家と学芸記者というような、仕事の上での交渉は何もなかった。ところがその夏、
「吉川英治氏失踪す」という新聞のゴシップがでた。
「徹夜仕事、飲み歩きなど不摂生つづく。家事また顧みず内事複雑、この頃恐妻家の名を博す。一夜、万年筆を袂に、ふらふらと女中の下駄をはいたまま、家庭を出奔、以後遠隔の温泉にとどまる。四谷の一妓、おなじく出奔して訪ね来、ずるずるべったりに一緒に居る。上山田警察の刑事がきて、つぶさなる取調べを受く」
 当時のことを自ら全集に附した年譜に書いている通りのことがあった。依頼した原稿がとれぬので、新聞雑誌記者は血眼になって心当りを探したが、どこの待合、料理屋にも手がかりがなく弱っていた。
 僕にはフトしたことから、その行方が判ったので、新聞記者の特種スクープの野心と、半面にはその心境を慰めたい気持とから、僕は軽井沢のバンガローの貸別荘に潜んでいたのを探し出した。
 今は何を聞き、何を語ったか忘れたが、吉川さんの、仕事の悩みなどをあのしんみりした口調で聞いているうちに、僕には職業的な気持は消え去った。
 感激家で、いつもその話振りが情熱的で、詠嘆的な吉川さんではあるが、その時のしんみりした話には僕はすっかり魅せられてしまった。そして人生や芸術について話が及んできたころには、もうさっぱりと憂愁の霧を払ったように生き生きとして、新らし[#「新らし」はママ]生活力と創作欲が蘇ってきたように見えた。
 軈て高原の野に早い秋色を見ながら、二人は山荘を出て、軽便鉄道駅への道を歩いた。
「君、安心してくれ給え、僕も直ぐ帰るよ」
 軽便鉄道に乗った僕は、その元気な声に安心して吉川さんと別れた。
 大正末期に有島武郎氏が婦人記者と情死をしたことなどから、僕は万一を心配していたことが杞憂に過ぎなかったことを知って安心した。人懐つこい人ではあるが、内には剛毅な、逞ましい生活力を蔵している吉川さんは芸術的にも決して、自棄に陥って自らを失うような人でないこと、前半生に、可なりの苦難を経乍らも少しもそんな傷痕を残していないでいる吉川さんを感じとることができたからであった。
 果して吉川さんは数日後に山を降りて、東京に帰ってきた。上落合の邸を売って、芝公園に借家すると吉川さんの旺盛な創作活動は復活した。
 僕はこの時の吉川さんの接触が、一番印象に深い。
「君、いいんだよ、いいんだよ。人生は簡単じゃないよ。帰ってまだ三年じゃないか」
 まだ戸迷いしている僕を、顔を合わす度に心から慰めの言葉の裏に無言の激励をしてくれる吉川さんの声と眼に、僕には親身以上のものを感じている。
 燈火会のメンバーで与瀬に遊んだことがある。途中薩多峠を越える時、吉川さんが突然叫んだ。
「君、君、こんなだよ。空気が好いんだね」
 三角寛君が、吉川さんの押えているズボンの前を触って見た。
「ほれ、こんなだ」
「ほ、ほう」三角君がニッコリ笑った。
「成程」一行もそれで、吉川さんの健康と精力を充分に祝福した。
「今後、この峠を、タツタ峠と命名する」
 誰かが叫んだ。燈火会が集ると、今にこれが話題になる。先夜、浜本浩の建碑の帰りに「はせ川」で追悼会をやった時、吉川夫婦が駈けつけて列したが、床の間に、一本の銚子を飾って吉川さんはいった。
「浜本にも、飲まそうよ」





底本:「平野零児随想集 らいちゃん」平野零児遺稿刊行会
   1962(昭和37)年11月1日発行
※底本のテキストは、手書きの遺稿によります。
入力:坂本真一
校正:持田和踏
2022年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード