兎と亀
ロオド・ダンセイニ
菊池寛訳
兎と亀と、どっちが早いかということは、長い間、動物仲間のうちで問題になっていました。
あるものは、もちろん兎の方が早いさと言います。兎はあんなに長い耳を持っている。あの耳で風を切って走ったら、ずいぶん早く走れるに違いないと。
しかしまた、あるものは言うのです。いいや、亀の方が早いさ。なぜって、亀の甲良はおそろしくしっかりしているじゃアないか。あの甲良のようにしっかりと、どこまでも走って行くことが出来るよと。
そう言って、議論しているばかりで、この問題はいつまでたっても、けりがつきそうもありませんでした。
そして、とうとう動物たちの間には、その議論から一戦争はじまりそうなさわぎになったので、いよいよふたりは決勝戦をすることになりました。兎と亀とは、五百ヤードの競走を行って、どっちが早いかを、みんなの動物たちに見せるということになりました。
「そんな馬鹿々々しいことはいやですよ。」
と、兎は言いました。が、彼の味方たちは一生懸命兎を説きふせて、ともかくも競走に出ることを承知させました。
「この競走は大丈夫、私の勝ですよ。私は兎みたいにしりごみなどはしませんよ。」
と、亀は言いました。
亀の味方は、どんなにそれを喝采したことでしょう。
競走の日は、まもなくやって来ました。敵も味方も、いよいよ勝敗の決する時が近づいたので、口々に大声でどなり立てました。
「私は大丈夫勝ってみせますよ。」
と、亀はまた言いました。
が、兎は何にも言いませんでした。彼はうんざりして、ふきげんだったのです。そのために、兎の味方の幾人かは彼を見すてて、亀の方につきました。そして、亀の大威張りな言葉を、大声で喝采しました。
が、兎の味方は、まだだいぶたくさんありました。
「おれたちは、兎がまけるようなことは、どうしたってないと思う。あんなに長い耳を持っているんだから、勝つに違いないよ。」
彼等[#「彼等」は底本では「彼」]は、口々にそう言っていました。
「しっかり走ってくれ。」
と、亀の味方は言いました。
そして「しっかり走れ」という言葉を、定り文句のように、皆は口々にくりかえしました。
「しっかりした甲良を持って、しっかり生きている――それは国のためにもなることだ。しっかり走れ。」
彼等は叫びました。こんな言葉は、動物たちが心から亀を喝采するのでなければ、どうして言うことが出来ましょう。
いよいよ、二人は出発しました。敵も、味方も、一時にしんとなりました。
兎は一息に、百ヤードばかり走りぬきました。そして、自分のまわりを見廻してみると、そこには、亀の姿も形も見えないではありませんか。
「何て馬鹿々々しいことだい。亀と競走をするなんて。」
兎はそう言って、そこへ坐り込んで、競走をやめてしまいました。
「しっかり走れ、しっかり走れ。」
と、誰やらが叫んでいるのが聞えます。
「やめてしまえ。やめてしまえ。」
と、ほかの声が言っています。「やめてしまえ」も、どうやら定り文句になってしまいました。
が、しばらくしますと、亀は兎の傍へ近づいてまいりました。
「やって来たな。この亀の野郎。」
と、兎は言いました。そして、彼は起き上って、せい一杯の早さで走り出しました。亀がどんなにせいを出しても追いつけないような早さで。
「耳の長い方がやっぱり勝つだろう。耳の長い方がやっぱり勝つだろう。おれたちの言ったことは、いよいよ文句なしに正しいということになるぞ。」
と、兎の味方は言いました。そして、あるものは、亀の味方の方をふり返って言いました。
「どうしたい。お前の方の大将は。」
「しっかり走れ。しっかり走れ。」
と、亀方は言いました。
兎は、三百ヤードばかり走りつづけて、もう少しで決勝点というところへつきました。が、その時彼は、後の方に姿さえ見えない亀と、一生懸命競走している自分は、何と馬鹿げてみえることだろうと、考えました。そう思うと、もう競走するのが、すっかりいやになって、またそこへ坐りこんでしまいました。
「しっかり走れ。しっかり走れ。」
「いや、やめさせてしまえ。」
と、大勢は叫んでいます。
「どんな用があったって、もういやなことだ。」
兎はそう言って、今度はゆっくり腰をすえてしまいました。ある人は、彼は眠ってしまったのだと申します。
それから、一二時間ばかり、亀は死にものぐるいで走りつづけたのです。そしてついに競走は亀が勝ってしまいました。
「しっかり走ること、しっかりした甲良を持っていること――それが、亀の何よりのたからだよ。」
と、味方のものは言いました。
そして、それから彼等は亀のところに行って、「競走に勝った時の気持をお洩らし下さい」と言いました。亀は自分ではうまい返答が出来ないので、海亀のところへ聞きに行きました。
すると、海亀は、
「やっぱり、お前の足が早いから、名誉の勝利を得たのさ。」
と言いました。
そこで、彼は帰って来て、友だちにその言葉をくりかえしました。動物たちは、「なるほどそうかなア」と思って聞きました。
そこで、今日まで「足が早いから名誉の勝利を得たのだ」という言葉を、亀や、かたつむり類は、そのままに信用しています。
が、実際はもとより兎の方が亀より早かったのです。ただ、この競走を実際に見た動物たちが、その後まもなく起った大きな森の火事で、すっかり死んでしまったため、本当のことが伝わらなかったのです。
森の火事は、大風のある晩に突然起りました。兎だの、亀だの、その他五六匹の動物は、その時ちょうど森のはずれの小高い禿山の上にいたので、すぐ火事を見つけることが出来ました。彼等は、大いそぎで、この火事を森の中の動物に知らせに行くには誰が一番いいだろうかと、相談しました。その結果、ついにこの間の競走で勝った亀が、その役目を引うけることになったのです。
もちろん、亀が「しっかり走って」行くうちに、森の中の動物たちは、残らず火事にやかれてしまったのであります。(イギリス)
底本:「小學生全集第十八卷 外國文藝童話集(下)」興文社、文藝春秋社
1929(昭和4)年4月20日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「此の→この 大分→だいぶ 沢山→たくさん 丁度→ちょうど 何故→なぜ (て)参→まい 間もなく→まもなく (て)見→み 勿論→もちろん」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
※表題は底本では、「兎と亀」となっています。
入力:大久保ゆう
校正:The Creative CAT
2021年6月28日作成
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