一本刀土俵入 二幕五場

長谷川伸




〔序幕〕 第一場 取手の宿・安孫子屋の前
     第二場 利根の渡し
〔大詰〕 第一場 布施の川べり
     第二場 お蔦の家
     第三場 軒の山桜


駒形茂兵衛   老船頭    筋市
お蔦      清大工    河岸山鬼一郎
船印彫辰三郎  お君     酌婦お松
船戸の弥八   いわしの北  同 お吉
波一里儀十   籠彦     博労久太郎
堀下げ根吉   おぶの甚太
伊兵衛・女房おみな・料理人・帳付け・通りがかりの人々・近所の人々・赤金の升・盆持ちの良・渡しの船夫・渡しの客・子守子(一・二)・八公・買物の男女・そのほか。
[#改ページ]


〔序幕〕




第一場 取手の宿・安孫子屋の前


常陸の国取手は水戸街道の宿場で利根を越えると下総の国。渡しはそこの近くにある。
取手の宿場街の裏通りにある茶屋旅籠ちゃやはたご安孫子屋あびこや店頭みせさきは、今が閑散ひま潮時外しおどきはずれである。それは秋の日の午後のこと。

(安孫子屋は棟の低い二階建で、前と横とがT字型に往来になっている。角店のこの家はッつきが広い土間、その他は外から余り見えない。階下と二階の戸袋は化粧塗りの、漆喰細工しっくいざいくで、階下は家号を浮きあがらせた黒地に白、二階は色漆喰の細工物で波に日の出)
(安孫子屋の角柱の処に菊の鉢が一つ置いてある。外側の窓の脇に榎の老木があり竹垣を四方に結ってある。その中で秋草が少し咲いている)
(二階は三尺障子が閉まっている)
店の前に料理人、帳付け、酌婦お吉、お松、その他が立って、道路の向うでしている喧嘩の方を見ている。そっちの方から喧嘩する男の声が聞えているが、だれの眼にもまだ見えていない、二階では近在からきている放蕩者が、酌婦を相手に遊んでいると見え、三味線の爪弾きの音が聞える。

料理人 (爪先立ちをして喧嘩の方を見る)
お吉  (料理人に)見える。
料理人 うンにゃ見えねえ。
お松  (少し酔っている)こんな時はのッぽがとくだと思ったらそうでもないんだね。
料理人 何をいやがる。おッ、人が出てきた。
お松  まさか鬼は出てきッこないさ。
帳付け お松どんおまえまた酔ってるな。酔うもいいがお前のは質がよくないからなあ。やあ、人がみんな押し出されたように横町から出てきたぞ。
子守子 (息せき走ってくる)
料理人 あれッ雪崩なだれを打って人が――あ、駈ける、みんな駈けてこっちへ来る。
お吉  (子守子を捉まえそうにして)だれが喧嘩してるんだい。
子守子 船戸ふなどこうなんだよ。
お松  えッ、弥八の奴また喧嘩か、仕様のない男だねえ、あれと来ちゃあ。
帳付け お松どんそんなことを当人の前でいうじゃないぜ、頭を半分ブッかれるか知れないからなあ。
お松  いくらあたしだって、真逆まさかあの無法者の前じゃ、迂闊に口をきやしませんよ。お蔦さんのいい草じゃないが、体をやくざに持扱もちあつかってしまっても、まだこれで命は惜しいや。
料理人 (熱心に見続けている)あッ有難え、喧嘩はとうとうこっちへ流れてきそうだ。やあ、追っかけてるのは弥あ公だが、逃げてくるのはどこかの若夫婦らしい。
お吉  あれッ、だれだか、仲人ちゅうにんにはいった――。
お松  どれどれ。
帳付け (お松に)おいおい、滅多なことはいっちゃいけないよ。家が迷惑するから。
お松  (耳にもかけず)ありゃ二、三日前に中食をしてった日光街道の木崎きざきの博労だよ。
帳付け 叱ッ叱ッ、黙った黙った。
お松  (口を掌で叩き)あわわわ。

土地の男女が逃げるようにやってきて、二つの群れとなり、二つの道の端に佇んで喧嘩を見ている。婚礼して間もないらしい若い夫婦伊兵衛、おみなが、手を執り合って逃げてくる、後から船戸の弥八(二十八、九歳)船夫にて乱暴者が追いかけきたる。
弥八  (伊兵衛を捉える)何をしやがる。(振り払う伊兵衛を又捉えて引戻す)
おみな (夫の大事と引返し、おろおろと伊兵衛を気遣う)

博労木崎の久太郎(四十二、三歳)仲裁しょうとて弥八に追いつく。
久太郎 哥兄あにいや、まあさ、勘弁してやってくれ。当人だって詫びをいってるんだ。なあ、もういい加減に勘弁してやってくれ。俺からも頼むからよ。な、もういいだろう。根も葉もあることではねえ、足を踏んだ踏まねえの喧嘩じゃねえか。
弥八  厭だい。
久太郎 何ッ。(むッとしたが、気を取り直し)そういったものじゃねえ。
弥八  黙ってろい。借せッ。(久太郎が持っていた馬の沓を奪って、伊兵衛を打つ)
おみな あれッ。(伊兵衛をかばわんとして、弥八に打たれる)
伊兵衛 (憤然として弥八の腕を押え)温和おとなしくしていればいい気になり、畜生に穿かせる物でよくもぶったな。
おみな (おろおろと伊兵衛に取り縋り、何かいおうとすれど声が出ぬ)
弥八  馬の沓でヒッぱたいてやった、それがどうした。
久太郎 どうもしねえ、こうしてやらあ。(馬の沓を手繰たくり弥八を打つ)
弥八  あ痛え。やい止せ、痛えやい。(久太郎から馬の沓を奪わんとする)
久太郎 (いっかな放さず)この野郎。いい加減にのさばれ
弥八  寄越よこさねえと蹴殺すぞ。
伊兵衛 (弥八の脚をとって引く)
弥八  あわわ。(引ッ繰り返る、直ぐ起きあがるを、久太郎が馬の沓で打って倒す、又起きるを伊兵衛が蹴り倒す)
久太郎 ちッとは懲りたか、この大馬鹿野郎。
伊兵衛 顔をよく見憶えたから、川向うへ来てみるがいい、ただでは帰しはしないから。
弥八  (瓦破と起き)待ってろッ。(安孫子屋へ飛び込む)
料理人 あれッ。(家の中へ向って)庖丁を片付けろ、庖丁を、(駈け込む奥の方で声がする)庖丁を。(帳付けその他も駈け込む)
久太郎、伊兵衛夫婦は別々の道へ走って去る。見ていた男女も傍杖そばづえを恐れて去る。お松とお吉だけが、家の前に小さくなっている。家の中でドタバタ音がする。皿の壊れる音、棚から物の落ちる音などがする。
弥八  (声)退きやがれ。あ奴等突ッ殺しちゃうんだ。退けえッ、退けッ。
料理人 (声)何を乱暴するんだ、いけねえったら、放せ、あッあぶねえッ。
二階の障子が開いて、酌婦お蔦(二十三、四歳)ほろりと酔った顔を出す。
お蔦  (口にくわえた楊子を吐き棄て、店の奥を覗き加減に見る、が見えないので、居どころを替える)
弥八  (刺身庖丁を持ち、肌脱ぎとなり、往来へ飛び出す)
料理人その他が店の入口まで追って出る、それから先へはだれも進み出ぬ。お吉とお松とは店へ駈け込む。
お蔦  (柱にもたれ、髪を櫛で掻きながら下を見ている)
弥八  さあど奴もこ奴も命をフンだくってやるから出てこい。さあ。(ギロギロ見廻し)畜生、みんな隠れやがったな。

駒形茂兵衛(二十三、四歳位)汚ない単衣物一枚、素足に草鞋を穿く、力士志願で親方をとり、漸く付け出しにはなったが、前途がないと親方に見限られ、旅興行先で追い払われて通りかかる。
茂兵衛 (何とも知らず来り、弥八に行き合う)
弥八  (庖丁を擬して睨む)
茂兵衛 な、なにをするんだ、わしが知るものか。
弥八  野郎ッ。(逃げ廻る茂兵衛を追い廻す)
茂兵衛 (空腹のために、よろめき勝ちで、再々危うくなる)わしは何も知らぬ、な、なにをするんだこの人は。(逃げ廻る)
料理人その他はハラハラするのみで、挺身して弥八を押える者がない。
お蔦  (じッと見ていて、疳癪を起し、盃洗をとって水を弥八に浴びせる)
弥八  ぷッ。(顔を片手でツルリと撫ぜる)
お蔦  水をかぶって少しは気が落ちついたかい弥あ公。
弥八  何だあ。(二階だと心づき仰ぎ見て)手前お蔦の阿魔だな。
料理人 (素早く弥八の手から庖丁を取ろうとして仕損じる)
弥八  何をしやがる。(庖丁を振り廻す)
料理人 うわッ。(店へ逃げ込む)
茂兵衛 (喘んでいる息を安めている、弥八の行動に眼をつけ、時々はッとする。二階のお蔦にも眼を向ける)
弥八  やいお蔦、よくも俺に水をヒッかけやがったな。下へこい、叩ッ斬ってやるから。
お蔦  何をいってるんだい。
弥八  降りてこねえな。ようしッ、俺の方から押掛おしかけて行ってやる。
お蔦  来られるなら来るがいい、ここにいるお客さまを、だれだと思っているんだ、流れの三太郎親分だよ。
弥八  えッ、俺ンとこの親分がきてるのか、こいつはいけねえ、本当かおい。
お蔦  嘘だと思ったらあがっといで、親分に叱られるのもたまにゃ面白いだろう。
弥八  (庖丁を抛り出し)べら棒め、面白く叱られる奴があるもんかい。(茂兵衛に)やい、手前よくも俺を大勢と一緒になって殴りゃがったな。
料理人 (庖丁を拾いとり、傍にいる男に板場へ持たせてやる)
茂兵衛 わしは今ここを通りかかったばかりで、何があったか、ちッとも知らないのだ。
弥八  胡麻化すない。俺は殴られている時に、ちゃンと眼を開いてたんだから、どんな奴とどんな奴が殴ったか知ってるんだ。手前も確かに俺を殴った。
茂兵衛 そんな難題を吹ッかけては困る。
料理人 その人のいう通りだ。弥あさん、お前を殴ったのは、さっきの博労と若え男とだけだ。
弥八  手前の知ったことか。(茂兵衛に)手前、職は何だ。(どこの三下かの意)
茂兵衛 角力取すもうとりになっている。
弥八  てきか。
茂兵衛 そうだ取り的だ。横綱でも大関でも、一度はみんな取り的だった。
弥八  ふんどし担ぎめ、豪儀ごうぎそうな口をくない。さあ野郎、俺と一緒に利根川沿とねがわべりへこい、二、三番揉んだ揚句、川の中へ飛び込ませてやる。
茂兵衛 水ならもう充分だ。
弥八  手前泳ぎを知らねえのか、いぬきも出来ねえのか。
茂兵衛 なあにそうでない、わしはきのうから水ばかり飲んで。(はッと心づいて)水中みずあたりが怖いからだ。
お蔦  (頬杖をついて見下している)取り的さん、そんな人に交際つきあってないで、さッさと行っておしまい、とどの詰りは、二つ三つ殴られた揚句に、いくらか銭をとられちまうよ。
弥八  (お蔦を睨む)
茂兵衛  なあに、銭なんか一文もない。
お蔦   へええ。一文なしで何処まで行くの。
茂兵衛 一先ず江戸へさ。
お蔦  ここから千住までだって八里あるよ。第一、そこの川を渡るったって、十六文銭がいるんだ、それを一文なしでどうするんだい。
茂兵衛 どうにかなるだろう。
弥八  一文なしと聞いちゃ、可哀そうで殴れもしねえ。
お蔦  可哀そうだって、あたしあ又、一文なしと聞いて、落胆がっかりしたというかと思った。
弥八  厭なことばかりいう阿魔だ。
お蔦  前世ぜんせでは敵同士だったかも知れないね。
弥八  家の親分が惚れてなきゃ。とッくの昔に腕の一本ぐらいヘシ折ってある阿魔だ――何だってこんな阿魔ちょの、どこが好いんだ。
お蔦  そういって親分に聞いてごらん、何て返事するか。
弥八  知らねえ勝手に喋舌しゃべれ。(行きがけの駄賃に茂兵衛に向い)野郎。(蹴倒す)ヘッ、大飯食いの癖に弱え奴だ。
茂兵衛 (よろよろと倒れて)待て。(起きあがり)よいしょッ。(弥八の胸下に頭搗ずつきをくれる)
弥八  あッ。(引ッ繰り返り、慌てて起きかけ、へたへたとなる)
茂兵衛 (力なくよろめき、辛くも踏止まったが、へたへたと坐る)
弥八  この取り的め。ああ痛え。(びっこをひく如く、搗かれたところを押え)てッて。てッて。(折り曲って去る)
お蔦  (弥八が倒れるのを見て喝采し、茂兵衛が意気地なく坐るのを見てあきれる)
お松  (お吉に)この人、病人らしいけど、さすが取り的でも力士は力士だねえ。
料理人 (門口に出て弥八の後姿を眺め)ヘッ、弥あ公の無法者も頭搗きを一本カマされて、こたえたと見えて、海老みたいに体を曲げて歩いてやがる。いい気味だなあ。
お松  (お吉に)だけどさあ。(茂兵衛を指さし)あれじゃ色気がなさ過ぎるね。いくらあたしでも、これを客に取れといわれたって願いさげだ。からだらしが無さ過ぎるもの。
お吉  そりゃそうだよ、あたしだってさ。まだ弥あ公の方がいくらか増しだ。
お蔦  そうかねえ。
お吉  (前へ出て二階を見あげ)お蔦ちゃんてばさっきから、いつもの伝でポンポン弥あ公に当ってたけど、いいのかえ。
お蔦  どうなったって構やしないさ。
お松  (お吉に)およしおよし、あの人のおかぶなんだ。何をいったって徒労むださ。やけくそな女なんだからねえ。
茂兵衛 (漸く立ちあがり)もし、水を一杯飲ましてくれますまいか。
料理人 水ならその先に井戸がある。遠慮なく沢山たくさん飲んで行きな。(他の者に)今の草双紙の読み続きを聞こうぜ。八、読んでくんな。
八公  ええ。(料理人と共に内へ去る)
お吉  あたいも聞こう。(お松の手をとり)お出でよお前さんも。
お松  暇ッ潰しに聞くかねえ。(お吉と共に内へ去る)
茂兵衛 (井戸の方へ行き、飲みおわって戻り)ごッそあンで。(去りかける)
お蔦  ちょいとちょいと。
茂兵衛 (振り返ってお蔦を、ちょっと見ただけで歩く)
お蔦  取り的さん、お前さんを呼んでるんだ。
茂兵衛 わしか。何だね。
お蔦  お前さんどこが悪いんだ。
茂兵衛 おなかさ。
お蔦  食い過ぎたんだね。
茂兵衛 根ッから食わないからいけないんさ。
お蔦  あ、そうそう、一文なしだといったっけねえ。
茂兵衛 乞食の真似すれば、人が銭をくれるといって教えてくれた者があるんだ。
お蔦  する気かえ。
茂兵衛 するもんか。わしは立派な関取になるんだからなあ。
お蔦  親方がそういったのかい。見込みがあるとか何とか。
茂兵衛 親方は、見込みがないといった。
お蔦  へええ。それでも立派なお角力さんになれるのかねえ。
茂兵衛 なれるさ、わしは一所懸命だもの。成れなかったらわし、どうしていいか判らなくなるなあ。
お蔦  国はどこさ。
茂兵衛 上州だ。勢多郡の駒形こまがたという処だ。前橋から二里ばかりの処さ。
お蔦  成りそくなったら田舎へ帰って、鋤鍬すきくわを握るさ、うちはお百姓なんだろう。
茂兵衛 家か――家は灰になった。
お蔦  焼けちゃったのかい。それで今、家がないの。
茂兵衛 無い。
お蔦  親兄弟が田舎にいるんじゃないのか。
茂兵衛 わしは一人ッ子。おやじは何処どこかへ行ったまんま、二十年も便たよりがない。どこかでどうにか成ったんだろう。
お蔦  お母さんだけいるんだね。
茂兵衛 ああ居るよ。駒形の上広瀬川かみひろせがわが見える処に。
お蔦  なあんだ、家があるんじゃないか。
茂兵衛 なあに、そこはね、お墓さ。
お蔦  (急にホロリとなる)
茂兵衛 ねえさんはここのおかみさんですか。
お蔦  酌とり女さ。白粉おしろいで面の皮が焼けてる阿婆摺あばずれさ。
茂兵衛 阿婆摺れだって、そんなことはない、わしはそう思わない。(頭をさげて行きかける)
お蔦  お待ちよ取り的さん。お前、れっきとした親類はないのかえ。
茂兵衛 無いこともないが、わしに構ってくれる者はない。
お蔦  みんな気を揃えて薄情でいやがるんだねえ。取り的さん、お前、本当に、精出せいだして立派な関取におなり、辛いことがあったら、その薄情な親類どもの顔を思い出して、一所懸命おやり、出世したら故郷へにしきを飾って、薄情揃いの奴等に、土下座どげざさせておやり、きっといい気味だよ。
茂兵衛 いやあ、わしは親類の者に見て貰いたいとて、立派な関取にはならないんだ。
お蔦  おや。ああ、見せて喜ばす可愛いひとがあるんだねえ。ホホホ、安くないねえ。
茂兵衛 わしは、故郷くにのお母さんのお墓の前で横綱の土俵入りをして見せたいんだ、そうしたら、もう、わしは良いんだ。
お蔦  取り的さん、お前さんもお母さんが恋しいのだねえ。夢をよく見るだろうねえ。
茂兵衛 当り前だ。姐さんのお母さんも死んでしまったのか。
お蔦  あたしのお袋は生きてるのさ。
茂兵衛 そんならわしより少し増しだ。
お蔦  なあに――生きていたとて、どうで満足には暮しちゃいないに極まってらあ。
茂兵衛 どうしてるか知らないのか。
お蔦  遠いんだよ、国が。だもの、判りゃしない。
茂兵衛 どこだ。
お蔦  信濃の善光寺様よりもッと先さ、越中富山から南へ六里、山の中さ。
茂兵衛 信州から先なら、わしはまだ知らない。
お蔦  (思い出して泣けてくる顔を隠すとて、後向きになり、声を低めて唄い出す、故郷の名物、八尾やつおの小原節)おらちゃ友達や、さたね(菜種)の花よ、ハア、どこいしょのしょ。
茂兵衛 (お蔦を見あげ、黙って行きかける)
お蔦  (唄いつづける)盛り過ぎればオワラちらばらと。取り的さんちょいと。
茂兵衛 まだわしは八里余り歩かなくてはならないのだ、行くよ。
お蔦  利根川の渡し船は十六文だよ。(帯の間から巾着きんちゃくを出して投げてやる)
茂兵衛 え。
お蔦  食べる物をあげたいけど、ここの家はしみれで話にならない。あたしの身上ありッたけやるから、どこかで何か食べてお行き。
茂兵衛 貰って行ってもいいのか。あとで姐さんお前が困りゃしないか。
お蔦  あたしあ、年がら年中困りつづけだから、有っても無くっても同じことさ。遠慮しないで持ってお行き。
茂兵衛 半分貰います。
お蔦  吝ッ垂れな、今に横綱になる取り的さんじゃないか。
茂兵衛 だってな、わしも一文なしで困ってきたんだ、姐さんだって一文なしでは。
お蔦  やけの深酒ふかざけは毒と知りながら、ぐいぐいあおって暮すあたしに、一文なしも糸瓜へちまもあるもんか。お前さん大ぐらいだろうから、それじゃ足りない、これもあげるから持ってお行き。(櫛と簪を髪からとる)
茂兵衛 いいよ、いいよ、そんなに貰わないでもいいよ。
お蔦  持って行くんだよ。(扱帯しごきに櫛簪を結びつける)
茂兵衛 へえ。
お蔦  (扱帯をたらし)さあ受取んな。何を愚図愚図してるのさ。おや厭だ、泣いてるの。
茂兵衛 わしこんな女の人にはじめて逢った。
お蔦  横綱の卵は泣きベソだねえ。早くお取り、人が見るとおかしいよ。
茂兵衛 へえ。(櫛簪を手にとる)
お蔦  (扱帯を引きあげ)もし、だれかにとがめられたら、あたしに貰ったとおいい、出る処へ出てあかりを立ててあげるから。
茂兵衛 姐さんは、名を何というんでしょう。
お蔦  まだいわなかったね。取手とって宿しゅくの安孫子屋にいるだるまで名はお蔦、越中八尾やつおの生れで二十四になる女だとはっきりいっておやり。
茂兵衛 へえ。(口の中で記憶するために繰返していっている)
お蔦  その代り、取り的さん、屹とだよ、立派なお角力さんになっておくれね。いいかい。そうしたら、あたし、どんな都合をしたって一度は、お前さんの土俵入りを見に行くよ。
茂兵衛 あい――あい――屹となります。横綱に屹となって、きょうの恩返しに、片屋入かたやいりを見て貰います。
お蔦  どこへ飛んで行くか知れない体だけれど、楽しみにして角力が興行うちにきたら番付に気をつけてみるよ。あ、取り的さんの名は、まだ聞かなかったっけねえ。
茂兵衛 わしの親方の名は立科たてしな磯右衛門と申します。
お蔦  旅先から銭もあてがわずに追い返すような親方の名なんかどうだっていい。
茂兵衛 銭は六百くれました。これで何処へでも行けといって。けど、みんな食ってしまった。
お蔦  あらッ、江戸へ追い返されるのかと思ったら、お払い箱。じゃ、困るねえ。
茂兵衛 いえ、江戸へ行けば、親方のおかみさんにすがって、もう一度弟子にして貰います。おかみさんは、わしを可哀そうだといっていてくれますから。
お蔦  何だか少し心細いねえ。
茂兵衛 いやあ大丈夫です、わしは、石に咬りついても横綱に出世しなけりゃ。
お蔦  その料簡りょうけんでみッちりおやり。名は何ていうのだい。
茂兵衛 わしは、駒形と名を付けて貰っています。駒形というのは故郷くにの名だ。名は茂兵衛といいます。
お蔦  駒形茂兵衛だね。
茂兵衛 あい。ねえさん、わし出世して三段目になっても、二段目になっても、幕へはいろうが、三役になろうが、横綱を張るまでは、いかなことがあっても駒形茂兵衛で押通します。
お蔦  それだとあたし直ぐわかっていいねえ。じゃあ、お行き、左様さようなら。
茂兵衛 はい。(嬉し喜んで頭をさげ)左様なら姐さん。(行きかける)
お蔦  (見送り)出世を待ってるよ。
茂兵衛 はいッ。(振返り振返り去る)
お蔦  (頬杖つき鼻唄をやっていたが、気がつき)あれ、まだこっち向いてお辞儀してる。そんなに嬉しかったのかねえ。(扱帯を振って)駒形あ――。

船戸の弥八が、仲間の無法者、赤金あかがね升公ますこう、いわしの北公、盆持ぼんもちの良公よしこうを引きつれ、祭礼の日の如く騒いで駈けきたる、四人とも鍬の柄その他を持っている。
升公  どこだ。どこだ。どこだ。
北公  わあッ、わあッ、わわッ。
良公  わッしょ、わッしょ。
弥八  (長脇差を帯し、先頭に立っている)
お蔦  (冷然と見ている)
弥八  やあ、もう行っちゃったな。渡し場だ渡し場だ。(駈け出しかける)
お蔦  ちょいとちょいと、弥あさん、又あばれるのかい、親分に叱られるよ。
弥八  お蔦の阿魔か。この嘘つきめ、親分はうちにいたぞ。
お蔦  そうだろう。さっき帰るといって出て行ったもの。
弥八  嘘をつけこの阿魔。渡し場へ行って、ふんどしかつぎを叩ッ挫け。(駈けだしかける)
お蔦  ヘン何だい、あたしがこわくって、手出しがならないんだろう、ホホホ。
弥八  そうぬかせば、畜生、みんな、阿魔から先へ叩ッ挫け。
北公  だってお前、あの女には家のがお前。(鼻の下へ指を二本やり)じゃねえか。
良公  おこられちゃ詰らねえから止せ。
弥八  渡し場へゆけ。それ行け、それ。
お蔦  (鼻唄に小原節をうたいながら、手をのばして酒徳利と盃洗をとり、盃洗に冷え燗の酒をつぐ。窓に腰かけ酒を呷る)

第二場 利根の渡し


利根川渡し場。秋草がところどころに咲いている。川には葦がところどころ茂っている。渡し船が岸を出て、もう艪に代っていて、船首の方は葦に隠れ見えなくなっている。

船夫が艪を押している。客が数人乗っている。どこかで「おうい――おうい」と呼ぶ声がする。
船夫  (陸の一方を向いて、手を振る)駄目だ駄目だあ。ちょッくら待っててくれ、行って帰ってくるからよう。
渡し船が去ってしまう。
駒形茂兵衛、途中で食い物にありつき、前よりはすこやかになっている。
茂兵衛 おうい――おうい船頭さん――おうい。(駈けてくる)はあッ、行ってしまった。(陸揚げをした庭石らしいのに腰かけ、川を見ながら、懐中から食べ物を出す)川を渡って安孫子まで一里ぐらいだと、飯屋の人がそういった、安孫子から小金こがねまで三里、そうは歩けない。いやあ、歩かなくちゃいけないんだ、歩こう歩こう。小金から松戸まつどへ二里だっていった。松戸から葛西かさい、千住まで四里。そうすると、あす中に親方の処まで行けるぞ。(食べ始める)

子守子が――前のとは違う――負うた子を風車であやしながらきたる。
子守子 (子守唄をうたって、茂兵衛の傍を通る)
茂兵衛 (水が欲しくなり、川端に行き、水をんで飲む)
弥八が升、北、良を引連れ、そッと忍び寄ってくる。
子守子 (びッくりして、一方に避け、怖々見ている)
弥八  (升公等を制し、先頭になって、そッと茂兵衛の背後に寄る)えッ。(打ち据えんとする)
茂兵衛 (偶然、立つ)
北公  (棒を棄て)野郎ッ。(諸手で、押そうとかかる)
茂兵衛 (引ッ外し、北公を背後から送り出す)
北公  (川の中へ翻筋斗もんどり打って落つ)
弥八  さっきから手前を探していたんだ、どこを間誤間誤まごまごしてやがった。
茂兵衛 銭を貰ったから、飯屋さんに寄っていたんだ。
升公  道理で、船頭に聞いても見かけなかったという筈だ。
良公  引揚げちゃあなくって丁度よかったな、弥あちゃん。
弥八  手前をここで叩ッ挫くからそう思え。
茂兵衛 それよりも川へ落ちた人、いいかなあ。あの人泳げるのか。
良公  (茂兵衛に)こ奴ちッと変ってやがらあ。
弥八  人をめてやがる。野郎ッ。(打ってかかる)
茂兵衛 何をする。(腹に耐えが出来ているので負けてはいないが、良と升とに左右から組まれ、負けそうになる)
弥八  (得物で茂兵衛を打たんと振りかぶる)
子守子 (怖々今まで見ていたが思わず)人殺しいッ。
弥八  えッ。(慌てて振り向く)
茂兵衛 (良公、升公が「人殺しい」の叫びにぎょッとする隙に乗じて振り払い、落ちていた得物を拾って、二人を叩き倒し、弥八に向う)
弥八  (得物を投じ、長脇差へ手をかける)抵抗てむかいすると、くびを、叩き落すぞ。
茂兵衛 お前が何もしなければ、わしだって何もしない。
弥八  そうは行かねえ。
茂兵衛 やるぞ。
弥八  (じりじり下がる)
茂兵衛 お前。さっきの姐さんをどうもしなかったか。
弥八  お蔦の阿魔か。あんなすべた。(又さがる)
茂兵衛 すべたじゃあない。
弥八  すべただ、大すべただ、ててなしッ子を生みやがって。茶屋女の癖にだらしのねえ。
茂兵衛 そんな人と違う。
弥八  違うもんか。そこらにいる子守ッ子に聞いてみろ。背中の赤ン坊は今年の春、あの阿魔が生んだめそッこだ。
茂兵衛 嘘をつけ、あの人が父なし子なんか生むものか、そんなことをいうと、こん畜生め。(弥八に打ってかかる)
弥八  (争ってみたが敵わず、殴られて逃げる)憶えてろッ。(去る)
良公、升公はそれを見て、弥八より一足先に逃げ去る。
茂兵衛 憶えてろというのはお前達のことだ。腹がくちくなればだれだって強くなるんだ、よく憶えとけ。
子守子 お角力さん、強かったねえ。
茂兵衛 え。ああ子守さんか、お前、見ていたのか。
子守子 ああ、始めから見ていたの。
茂兵衛 怖かったろう。わしが悪いのではなかったんだ。そう思っておくれ。
子守子 それは判ってるよ。船戸の弥あ公火事より怖い。馬鹿で無法で臍曲へそまがり。そういってあたい達うたってるのだもの。
茂兵衛 川へ一人落ちたっけが。
子守子 ありゃいわしの北さ。もうどっかへおよいで逃げちゃってらあ。
茂兵衛 泳ぎを知ってれば、安心だ、なあ子守さんその子、どこの子だ。
子守子 うちの里ッ子。
茂兵衛 本当に、安孫子屋のお蔦さんの生んだ子か。
子守子 そうさ。(赤ン坊が泣き出したので、茂兵衛から離れて、あやしつつ歩いて行く)
茂兵衛 (子守子に)なあ、その子、ててなしッ――。(いいかけてやめる)
子守子 (子守唄をうたって行きかける)
いわしの北公、葦を分けて、そッと這いあがる。
茂兵衛 (云いやめてそらす眼に北公が見つかる)
北公  (泡をくって、かえるの如く、川へ飛び込む)
茂兵衛 おい。(といったが間に合わぬ)
子守子 (水音に驚き唄をやめて振り返り、何事もないと思いうたいつづける)
茂兵衛 (石に腰かけ、食い残りを頬張り始める)
行々子よしきりが遠くで、近くで、かたみ代りに鳴いている。


〔大詰〕




第一場 布施の川べり


十年程経った後の春のころのこと。下総の国安孫子から南東一里ばかりの利根川に沿った布施ふせは、その対岸が常陸の国戸頭とがしらである、その渡しを七里の渡しと称えている。
(布施は松戸方面から水海道へ往来にあたる。布施は布佐などと同様に中相馬なかそうまと呼ばれている土地)

布施弁天堂のある弁天山から少し離れて利根川が流れている。対岸は約半里の遠さ。

砂地へ曳きあげた、かなり大きな船を――船尾だけしか見えない――老船頭とその子の若者とが※(「火+膠のつくり」、第4水準2-79-93)でている。
船の中で船大工がマキハダを打つ音がする。
老船頭 (船底に茅火をあてながら唄う)はあ、利根はよいとこ、上中下かみなかしもの、どこを見たとて、花が咲く。(若者に)この船も新造下しんぞうおろししてから八年かなあ、来年あたりウワ廻りかけずばなんめえのう。
若い男 なあにまだ来年ということはねえ、再来年さらいねんだとていいさ。なあ大工さん、そうだろうが。(船の中へ向って話しかける、が、答えはなくて、マキハダかます打つ音のみする)
老船頭 船大工はマキハダかます音で耳が利かねえんだよう。
若い男 (唄う)はあ、いなさ吹こうが、ならいが吹こが、けさの寒さに、帰さりょか。

駒形の茂兵衛(三十三、四歳)角力をやめてグレてはいった博徒仲間、約十年に鍛錬した体と共に、心もぐッとしまり、見違えるような男になっている。今は諸国をめぐる旅人風俗。道を誤ってここにきたる。
茂兵衛 (老船頭に)お仕事中を相済みません。取手とってへ参るのには、ここの渡しからでござんすか。それとも川下かわしもの渡しへ行った方がようござんしょうか。
老船頭 ここからでもいいには良いが、取手のどこへ行くのか、先によっては下の渡しがいいか知れねえがのう。
茂兵衛 十年ばかり前に行ったことがあるのでねえ。お船頭さん、取手に安孫子屋という茶屋旅籠みてえなことをしてる家が今でもござんしょうか。
若い男 安孫子屋けえ。俺はよく知ってるが、そんな家、取手にゃねえやあ。
老船頭 いやあ有るある有る。じゃねえ元あったんだ。
茂兵衛 へえ――じゃ今はもうござんせんか。
老船頭 え。八、九年前だったか、ばくち打ちの奴が、いやあこれはご免なせえよ。ツイ口が、すべった。
茂兵衛 構やいたしません。
老船頭 そうかね。安孫子屋は元繁昌していたが、流れの三太郎という親分が仕切しきって買取ってから流行はやらねえつづきで、半年か一年かで止めてしまった。だからこの男なぞ色気づいた頃にゃもう無え、知らねえ筈だよう。
茂兵衛 へえ左様さようにござんすか。どうもご親切によく教えてくださいました、有難う存じます。
老船頭 (茂兵衛の慇懃さに、すこぶる好意を持つ)はい、いえ、何。もしまだ聞くことがあるなら、知ってる限り、喋舌るよう、その代り俺あ、※(「火+膠のつくり」、第4水準2-79-93)でながら返事いうがねえ。
茂兵衛 お言葉に甘えて少々伺います。その安孫子屋に就いて内輪のことまでよく知っている人がおりましょうか、ご存じじゃござんせんか。
老船頭 船戸の弥八という人なら知ってるか知れねえ、流れの三太郎親分が流行病はやりやまいでコロリと死んだその跡をとった人だからねえ。
茂兵衛 船戸の弥八か。弥あ公とか弥あさんとか、以前いった男ではござんせんか。
老船頭 知ってるのかね弥八を、八さんをね。
茂兵衛 いえ存じちゃおりません、名前だけ聞いたような気がいたします。変なことを伺うようですが、弥八の評判はようござんすか。
老船頭 さあ。(云い渋っている)
茂兵衛 判りました。あいつ、評判は良かねえんだ。
老船頭 (慌てて)そんなこともねえよう。
茂兵衛 なあに、ようござんす。もう一つ伺いてえのだが――ねえお船頭さん。失礼申しあげて腹を立てさせるか知れませんが、安孫子屋にいた女を一人でも二人でも、ご存じゃござんすまいか。
老船頭 (迷惑そうに)な、なにをくんだ、年寄りに。
茂兵衛 こ奴あ悪かった。ご免ください。
老船頭 やや、そういわれると却って痛いだ。昔のことなら俺だって、一度や二度はあすこで遊んだこともあるに。
茂兵衛 お蔦さんという女を、もしや知っちゃいませんでしょうか。
老船頭 お蔦ね、はてなあ、聞いたようだが、どの女のことだったかなあ。(船の中に向って声をかける)おいせい大工、ちょっとこいよ。
老いたる船大工清吉が、船尾の上に半身を出す。
清大工 何だあ。用かあ。
老船頭 お前、取手の安孫子屋の阿魔にったことがあったのう。
清大工 (破顔して)何をいうだえ。(顔を引込める[#「引込める」は底本では「引込ある」]
老船頭 おうい清大工よう。冗談じょうだんコにきくではねえぞ。ここにいなさる人が知りたがってるんだ。この人はだれか尋ねてるらしいだ。
清大工 (再び半身を見せて)ほうか。だれのことだね。
茂兵衛 お仕事中お手をとめさせて相済みません。もしや、十年ばかり前に、安孫子屋にいた女で、お蔦さんという人をご存じではございませんでしょうか。
清大工 お蔦というのかね。憶えていねえなあ。永くいた女なら大抵たいてい知ってるだがなあ。
茂兵衛 その時は二十三、四、色の白い、い女でしたが――ご存じござんせんか。
清大工 (老船頭に)お前知ってねえのか。
老船頭 知ってればお前を呼ばりはしねえ。
清大工 随分お前も凝って行ってたによう。
老船頭 利根川船頭は一つ女に凝らねえさ。それが定法じょうほうさ。
清大工 そうでねえ。お前の凝ってたのは、ええと、お松といったけかなあ。
老船頭 そりゃお前のだ。
清大工 そうそう。俺の女がお松だ、えらい酒くらいだったけなあ。
老船頭 あの頃はまだ俺もお前も、まだまだピンピンしてたっけのう。
若い男 (※(「火+膠のつくり」、第4水準2-79-93)でている)
清大工 (感慨にうたれ、ぼうっとしている)
茂兵衛 おさまたげして相済みません。取手へ参って、判らぬまでも捜して見ましょう。
老船頭 はいはい。そんならしもの渡しがいくらか近かろう。
清大工 どれ仕事しべいか。(船内にはいる。やがて、マキハダを打つ音がする)
茂兵衛 ご免ください。(笠をかむって行きかける)

この辺の博徒親分なみ一里儀十の子分、おぶの甚太、籠彦、堀下ほりさ根吉ねきちの三人が飛んでくる。
籠彦  (物もいわず茂兵衛の笠を引ッ剥ぐ)
甚太  (茂兵衛の前に立ち塞がる)
根吉  (茂兵衛の背後から組みつく)
茂兵衛 (彦の肩を掴んで砂地に叩きつけ根吉の首筋へ手をかけ、前へ廻して蹴放し、打ってかかる甚太の小手をとって投げつける)何をしやがる。(笠の台座をとって棄てる)
根吉  いけねえいけねえ、人違いだ。
甚太  どうも、これは誠に済みません。
籠彦  (二人に罪を塗りつけるように)だからいわねえことじゃねえ、違ってやしねえか、大丈夫かと俺が念を押したんだ。
根吉  何をいやがる、手前てめえが、あれだあれだといったんじゃねえか。
甚太  そうだとも、彦ッぺがいけねえんだ。
籠彦  ちえッ俺ばかり悪者わるものにするなよ。
茂兵衛 やい。もッとこっちへ寄れ。
甚太  へ。
茂兵衛 船頭衆、大工さんがお仕事をなすっている。邪魔になるからもっとこっちへ寄れ。
籠彦  へえ。
老船頭と若い男とは船の傍で、清大工は船の上に半身を見せ、共に成行きを見ている。
茂兵衛 手前達はブ職か。
籠彦  へえ。自分よりはっします。お控えください。
茂兵衛 俺あ無作法ぶさほうだ。仁義は受けねえ。
籠彦  え。
茂兵衛 一家いっかはどこだ。
籠彦  かよう土足裾取どそくすそとりましてご挨拶失礼さんでござんすがご免なさんせ、向いましてうえさんとこんど初めてのお目通りでござんす、自分は総州葛飾のこおり柴崎は波一里儀十若い者、籠屋彦左衛門と発し、ご賢察の通りしがない者でござんす。
茂兵衛 よし判った。お前は。
甚太  (仕方なく)おぶの甚太郎といいます。
根吉  (茂兵衛が眼で訊いているので)俺あ堀下げ根吉だ。
茂兵衛 波一里儀十さんの吩咐いいつけでやったことか、それとも一存か。
根吉  (彦が、「親分がコレコレいうから」といいそうなので、かぶせて)俺達一存だ。
茂兵衛 その仔細は。
根吉  だから詫びをいっている。
茂兵衛 詫びで済ます気でやったのか。
籠彦  そ、そりゃがかりだあ。
茂兵衛 次第によっては勘弁する。次第によっちゃあ、勘弁ならねえ。というのはあらためていうまでもねえ、ブ職同士のことだからなあ。ええ、そうでござんしょう、そうだろうが。
籠彦  へえ。
茂兵衛 どういう筋で間違えた、聞こうぜ。おうお前いえ。(一番しっかりしていそうな根吉を指ざす)
根吉  この土地に荒れ寺が一軒あるんで、そこがちょくちょくシキになる。きょうも昼間から場がひらけたところ、見たことのねえ風来坊がきて、初めは何の不思議もなかったが、だんだんやりとりがかさなると、そ奴の素振りが怪しくなった、で。
茂兵衛 その男と人違いか、何だその男は、場荒しか。
根吉  イカサマ師だったんだ、気がついた時より奴が逃げた方が一足先。そこで手分けして追手に出て、どうも飛んだ失礼をいたしちゃいました。
茂兵衛 そのイカサマ師が俺に似てるのか。
根吉  そういう訳じゃねえんだが。
茂兵衛 おう、お前に聞くぜ。(甚太を指ざし)イカサマ師は俺みたいに旅人姿か。
甚太  角帯をね、角帯をちゃンと締めて。
茂兵衛 年ごろも人相も違うのか。
甚太  そうなんです。
茂兵衛 似たところなしの違うだらけで、イキナリ笠を引ッ剥いで組んでかかる、打ってかかるじゃあ、気の早い者ならスパリとやるぜ。恩には着せねえが俺だから、今のぐらいのところでまったんだ。馬鹿あ、以来、気をつけろい。(川下へ行ってしまう)
籠彦  何て野郎だ、厭な奴だったなあ。
甚太  ひでえ目にあっちゃった。だれだい、イカサマ野郎が早替りで、あんな姿に化けたんだと、悧巧そうにいやがったのは。
籠彦  (頭を掻く)
根吉  (茂兵衛を見送っている)てえした男らしい。おお、度肚どぎもを抜かれて名前を聞いとくのを忘れちゃった。さぞあの人は俺達を嗤ってるだろう。

草角力の三役まで取った波一里儀十が、子分の筋市と溢れ浪士河岸山かしやま鬼一郎と来る。
根吉  こりゃ親分さん。先生も。(辞儀をする)
儀十  イカサマ野郎はこの頃取手へきてる奴だったとよ。これから行って厳しく仕置きをするんだ。三人とも来い。
籠彦  へえ、お供します。
筋市  (根吉等に誇り気に)理詰めで俺達がビシビシ攻めつけて見せるから見ててくれ。
河岸山 (刀を叩いて)この方となると最後のところは、是非とも拙者の受持じゃ。ハハハ。
甚太  親分。(今のあったことをいいかける)
根吉  (甚太の袂をぐいと曳いて黙っていろと眼顔でいう)
儀十  彦。かみの渡しへ先へ行って、船が出そうだったら待たせとけ。
籠彦  へえい。(飛んで行く)
儀十  さあ行こう。きょうは屹と面白えぜ。
上の渡しを指して儀十等は去る。話し声が少しの間、聞えてくる。イカサマ師といわれた船印彫師だしぼりし辰三郎(三十五、六歳)堅気に見える粋な服装かたちで、眼を配りつつきたる。
辰三郎 (髪の中よりさいを出し捨てる)
清大工 (その以前に船の内にはいってマキハダを打っている)
老船頭 (若い男と共に、今また※(「火+膠のつくり」、第4水準2-79-93)でかけた手をやめて、辰三郎に注目する。「この人が、儀十等に探されているのではないか」と思い)もし、もし。
辰三郎 えッ。(びッくりして、川下へ逃げ去る)
老船頭 あ――そッと教えてやろうと思ったのに。
若い男 だけれど、イカサマ賭博ばくちをしたというから、どうもこれ仕方がねえさ。
清大工 (船の上へ顔を出す)又何かあったのか。
老船頭 なあに、人が一人、駈けて行っただけだに。
清大工 あれだね。どんどん駈けて行かあ。
老船頭は※(「火+膠のつくり」、第4水準2-79-93)でを続ける。
船頭唄が風に送られて遠く近く、聞えてくる。

第二場 お蔦の家


取手の宿場から少し離れ、利根川をやや遠く望む高地にある一軒家の内。
(その家は古く建てられたもので、軒も傾き、壁も破れている。窓のある土間の上に、川魚の串刺くしざしが吊るしてある。畳敷の方には仏壇代りの箱に男名前の位牌が置いてある。片隅に飴売りに出る着物、笠などと道具がある。ここの家は母子二人ぎりで、母が飴売りに出て生活くらしているのだと直ぐわかる)

お蔦(三十三、四歳)子の愛にひかされて、独り身で、細々と生計を立てている。
お蔦  (飴の景物につける小さな幟と吹流しを作っている)
お君(十歳か十一歳)折ってきた山桜の枝を位牌に供えている。
街の方で子供の声がする。
子供  (声)夕焼け、小焼け、あしたも天気になあれ。夕焼け、小焼け、あしたも天気になあれ。(遠くなる)
お蔦  お君ちゃん。お前いい子だ、燈火あかりつけておくれな。(吹流しを作り続ける)
お君  ああ。
お蔦  気をつけてね、油をこぼさないように。
お君  ああ。(燧石ひうちいしを摺る、誤って指を打つ)あ痛ッ。
お蔦  (喫驚びっくりして起つ)どうしたの。指を打ったんじゃないかい。どれお見せ。まあ血が出て来た。痛いだろうね、我慢おし、ね。薬つけてあげるから、自分できつくおさえといで。(昔の名残りの葛籠つづらの底から、成田山の疵薬を出す。薬は辛うじて残っている)少しシミるけれど、もうこれで大丈夫、今、ゆわえといてあげるよ。(小布れを探して結えてやる)さあ、もういい。あしたの朝、もうなおっているだろうよ。(燧石を摺り、行燈に灯を点ずる)

入口を手荒く開けて、いわしの北公、前より約十年老けている。土間へはいる。入口の外に波一里儀十等が立っている。
北公  (見廻して)ちえッ、薄ッ汚ねえなあ。
お蔦  どなた。おや。
北公  ちょいちょい見掛けるから、万更、忘れっ放しにもなっていめえ、北造だよ。(外の儀十等に)どうかおはいりなすってください。おいお蔦。きょうは船戸の弥八親分の名代に、客人のご案内をしてきたんだ。粗相があっちゃならねえぞ。
お蔦  (ぐッと疳に障ってきたが、我慢して黙っている、お君が怖がっているので手招ぎして抱き寄せる)
儀十  (筋市、根吉をつれて土間へはいる)
河岸山、彦、甚太は外にあり、開放あけっぱなしの入口の外を往ったり来たりしている。
北公  むこの親分、どうかご遠慮なくおあらためください。
儀十  じゃそうしょう。(お蔦に)俺あ川向うの中相馬なかそうまにいる波一里の儀十だ。
お蔦  どういうことでございましょう。
儀十  こんなこと、俺がじかにいわずともだ。市、いて見ろ。
筋市  おッ。(ずッと進み出て)――お蔦、何だそんな面しやがって、お前の亭主に用があってきたんだ。亭主を出しな。
お蔦  亭主ですって、ホホホ。あたしに亭主があるもんですか。冗談じょうだんでしょう。
筋市  おッと、そうは抜けさせねえ。ありゃ何だ、あすこの位牌は。
お蔦  ありゃあたしの亭主の俗名が書いてあるんです。
筋市  その俗名の男を出すんだ。
お蔦  お位牌になった人が出せますか。って用があるのならようござんす、お君ちゃん、おとっさんのお位牌もっといで。
お君  (母の顔を見て心配そうに)いいの。
お蔦  ああ。この人達は、お父さんのお位牌にお話があるんだとさ。
お君  (位牌をとりに行きかける)
筋市  位牌が口でもきやしめえし、そんな物はいらねえ。
お蔦  (お君に)いらないてからお君ちゃん、いいよ。
儀十  ええ手間がかかる。市、その阿魔と餓鬼を押えつけろ、他の者は家探やさがししろ。
外から彦、甚太が駈け込む、河岸山は入口の外に立って内を見ている。
お蔦  (押えんとする市の手を振り払い、掴みかかりそうにする北公に、吹流しにする色紙入りのざるを投げつけ、お君を庇って隅の壁に倚る)何をするんだ、女子供たった二人の家へ、大の男が大勢きて、腕ずく沙汰を何だってするんだ。あたしにそんなことをされる弱い尻はないんだ。
儀十  お前になくても亭主にある。構うこたあねえ、船戸のが承知してるんだ、押え付けろ。家探ししろ。
お蔦  (市に押えつけられる)何をするんだ。ばくち打ちの癖に堅気に向って、そんなことをして済むと思うのか。
北公  (お君の襟を押えつけている)
儀十  (甚太、彦、根吉を指揮して、家探しをさせる)
河岸山 (土間にはいっている)
お君  お母さん、お母さん。
北公  ピイピイいうな。(お君の口を手で蓋する)
お蔦  (北に)な、なにするんだ、人の大事な子にそんなことをして、息が苦しいじゃないか。放してやっておくれ、頼むから放してやっておくれ。後生ごしょうだからそんなことをしないでおくんなさい。
筋市  蒼蠅うるさい、黙れ。
お蔦  何だって大事な子にそんなことを。(猛然と起ちかかる)
筋市  ええいッ。(手荒く引据える)
儀十  (自分も一緒になって家探しする。が、何者もいない)
河岸山 (儀十に)どうだな親分。居らぬらしいではないか。
儀十  どこかへ隠れやがったか。みんな、家探しは止めろ。同じ処を二度三度検めたところで仕方がねえ、市、手を放せ。
筋市  さあ放してやらあ。(お蔦から離れる)
北公  俺も手を放してやらあ。(お君をお蔦の方へ突ッ放す)
お蔦  (お君をひしと抱きめ、儀十等に敵意の眼を向ける)
儀十  根吉、手前の方がいい。阿魔に泥を吐かせろ。
根吉  へえ。(お蔦に)ツイ手荒くなって済まなかった、これには訳があるんだ。お前の亭主というのは辰三郎、あの位牌に書いてあるからそうなんだろう。その辰三郎は死んでやしねえ、生きているんだ。
お蔦  ――えッ、そ、そりゃ本当なんですか。
根吉  本当とも、現に俺までがこの眼で見たんだ。
お蔦  どうして辰三郎だと、友達でもないお前さんに判ったんです。
根吉  俺あもとより辰三郎なんて人知りやしねえが、元はこの土地にいた升さんという人が、見知っていて、あの男なら関宿の浜棟梁の処にいた船印彫師だしぼりしの辰三郎といって、十年余り前に行方知れずになった男といったので判ったんだ。
お蔦  まあ――あの、生きていてくれたのか。お君ちゃんお父さん生きてるんだって。
お君  どこへ行ってるんだろう。早くおうちへくればいいのに。
河岸山 ははあ、こりゃなかなかうまく胡麻化すて。
儀十  そうだね。ヘン。(お蔦母子を侮蔑する)
根吉  辰三郎という男とお前さんとは、そこにいる子までしたふけえ仲だと判ってみれば、利根川を挟んで三堀布施ほりふせ、安孫子で姿を見かけたからは、どこへ行くものか女房子供のところと、こう見込みをつけるのが定式だろう。
お蔦  そう伺えばよく判ります。嘘も隠しもありません、あたし達母子は辰三郎の姿すらまだ見ないのでございます。
根吉  親分、この人のいってることは、嘘じゃねえと思いますが。
儀十  じゃ、まだ寄りつかねえのか。
河岸山 どこかで余温ほとぼりさましてから来る心算つもりか知れぬな。
籠彦  屹とそうだ。
筋市  (彦に)黙ってろい。
北公  じゃあこうなすっては如何いかがで、一先ず手前親分の処までお引揚げになっては。
儀十  帰りには是非寄ると約束だ、では、お振舞いにあずかろうか。
北公  直ぐに手前親分の方から、ここのうちへは張り番を出しますから、皆さん。どうぞ。
儀十  市と彦とはここへ残れ。
北公  それでは恐れ入ります、皆さんどうかご一緒に、目と鼻の間ですから、張り番があがるのは直ぐでさあ。
儀十  じゃお言葉に随いましょう。さ、行こう。
入口から外へ北公、続いて儀十等が出て行く。最後は根吉。
根吉  おかみさん、もし辰三郎が帰ってきたら、こう成れば仕方がねえから、覚悟してしまえというがいい。
お蔦  もし。あの、家の人は何をしたんでしょう。
根吉  生馬の眼を抜くような、ブ職の間では許されねえ悪いことをね。
お蔦  と申しますと。
根吉  堅気に化けたイカサマ師なんだ。(外へ出て戸を閉める)
お蔦  まあ。(喫驚する)
お君  お母さん、もう済んだの。何、今の人のいったこと。
お蔦  何、何んでもないさ、子供には判らないことなのさ。(散乱した色紙をざるに入れる)それよか、もう直き、お父さんが屹と帰ってくるよ。
お君  お父さんてどんな人。
お蔦  お君ちゃんは、どんなお父さんだか知らない筈だ、お前が生れた時はもういなかったんだもの。
お君  あたい少しお父さんを憶えてる。
お蔦  どうして。
お君  だって、あたいがもっと小さい時、お菓子をくれていった人、あれが屹とお父さんだわ。
お蔦  そんなことがあったかねえ。事によるとそうかも知れない。(土間の窓が外からそっと開く)あれ。(取り縋るお君を抱く)
窓から辰三郎が顔を出す。今まで近くに潜んでいたのである。
辰三郎 あたしだ。
お蔦  どなた、どなた。(起って行き、じッと見る)まあ。
辰三郎 奴等が帰って行ったのは知っているが、だれも残ってやしないだろうな。
お蔦  ええ、だれも。お君ちゃん、お父さんだよ。
お君  (土間へ駈け出し、入口を開ける)お父さん。
お蔦  そんな声するんじゃない。
辰三郎 (窓を閉めて入口へ廻る)
お君  お父さん、あたいのお父さん。わあ。
辰三郎 (お君を抱き緊め)お父さん、逢いたかったんだ。(咽び泣く)
お蔦  (入口を閉め、父子を畳敷へ行かせ、戸に心張棒をかう)早く、そっちへ行って、早くさ。(畳敷に行く)
辰三郎 お蔦、永い間の苦労、済まない。
お蔦  お前さん、よく無事でいておくれだ。あたし達にはそれが何よりだよ。
辰三郎 何から何まで済まないことだらけだ。勘弁してくれ。
お蔦  何をいうのさ。
辰三郎 薄情な男をよく忘れないで、こうやっていてくれた。親の死水しにみずもとらなかった不孝の罰が今身にこたえる。これからは女房子のそばを、死ぬまで必ず離れはしない。
お蔦  そうしとくれ。ねえ、この子を見てやっておくれ。
お君  (二人の間に割込み、手習双紙の字を得意になって見せ)お父さん、あたいこの字も知ってるよ。
辰三郎 うンうン。(お蔦に)永い間の不人情が今更、我が身ながら愛想がつきる。
お蔦  決して不人情じゃないよ、茶屋旅籠の女だもの、じつがあるかないか、疑うのも無理じゃない。
辰三郎 それをいってくれるな、つらい。でもなあ、志州鳥羽の港にいる時、こっちにいた頃知っていた良公よしこうって奴があったろう、あ奴が何か間違いをして、逃げ歩いて鳥羽の港へきたんだ。良公からお前のことを聞いた時、女なんて到る処で招かずともなびいてくるものと、永い間己惚うぬぼれていた夢が一ぺんにさめてしまった。それから、こっちへ帰ろうと、船印だしを彫るはもとより、手当り次第に精を出し、一時は少し銭を貯めたが、わずらったので駄目になり、又稼いでいるうちに考えれば居ても起っても耐らないので、土産らしい物を持ちもしないで帰りは帰ってきたのだが。
お蔦  ああそれで判った。
辰三郎 今の奴等が喋舌しゃべったろうから隠しはしない。いくら何でも不人情をした上に、裸一貫では、敷居一つが越し難いので、もとは慰みに憶えたイカサマばくちを。(胴巻に入れた金を出し)見てくれ。剃刀の刃渡りだとは思いながら、金が欲しさに手を振って、こんなに勝って取りは取ったが、直ぐにたたりが廻ってきている。こ、これじゃあ、何にもなりゃしない。
お蔦  そんなに悔むには及ばない、夫婦親子三人で今から直ぐに、ここの土地を後にしょう。もしやお前さんが帰るか帰るかと、死んだのだろうと思いながら居ついたこの土地、もう未練なんかありゃしない。
辰三郎 そうだ。どこへ行っても日は照ってる。逃げよう。
お君  (喫驚して)逃げるの。
お蔦  そうじゃないそうじゃない。お母さんの国へ帰って行こう、ね。
お君  ああ、あの唄のところだね。
お蔦  お君ちゃん、お母さんよりあの唄はうまいねえ。(辰三郎に)お前さん、そりゃ何。
辰三郎 (手習双紙の表紙の余白に、儀十宛の書残しをしている)これか。これはイカサマで取った金を返す、それに付けてやる手紙なんだ。どうで又、奴等はここへ来るだろうから、目に付くに極っている。(金を置く)
お蔦  汚ない金なら欲しくはない。
辰三郎 金は欲しい咽喉から手が出る程。だが、もし捕まれば腕一本ヘシ折られるか、五本の指をヘシ折られるか、軽いところで中指かけて二本は不具かたわにされるだろう。不具になっては又お前達に苦労をかける、それが怖いので欲しくてならないこの金だが、ここへ残して置く心算つもりだ。金が戻れば、あ奴等は追いかけてなぞこなかろう。
お蔦  そうだと有難いが、あ奴等ではどうだかねえ。
辰三郎 お君はおいらが背負おぶって行く。
お蔦  じゃあたしは、何もないけれど、せめて子供の物だけは。まあこの子はお父さんにもう背負おぶさるの。お待ち、まだだよ。(持って行く荷をつくる)
辰三郎 何、いいやな。(お君を負いかける)
お君  (辰三郎に)お母さんの国って、知ってる。(頬に触り、肩を撫ぜなどしている)
辰三郎 (曖昧ながら)ああ知ってるよ。(お君の片手を握っている)
お君  じゃ唄も知ってるね。
辰三郎 ああ、知ってるとも。(両手を両手で握る)
お君  (得意になってうたう)おらちゃ友達あ、菜種の花よ。ハア、どッこいしょのしょ。
お蔦  (お君の唄を制そうとする)
辰三郎 (お君の手を撫ぜつつ聞いている)
お君  (唄う)盛り過ぎれば、オワラ、ちらばらと。

土間の窓が開いて、茂兵衛が顔を出し、内をのぞいている。
お蔦  (偶然気がついて)あら。
辰三郎 え。
急に窓が閉められる。
お君  (唄う)ハア、どッこいしょのしょ。これお母さんに教わったの。
辰三郎 (お蔦に)何だ。
お蔦  気のせいかしら、今そこの窓から、だれだか覘いたようだったけれど。
辰三郎 えッ。(お君をお蔦の方にやり、土間へ向う)
入口の戸が外から叩かれる。
お蔦  あッ、来たッ。(纏めた荷をなげうち、お君を引寄せ、背に負いかける)
辰三郎 (得物を求める)
茂兵衛 (外から声)ご免ください、相済みません。ちょっと申しあげます。お聞きくださいまし。
辰三郎 (度胸を据えて入口に行き、心張棒に手をかける)
茂兵衛 (声)こちらはお蔦さんと仰有います方のおうちじゃございませんか、わたくしは川向うの人と交際つきあいを持たねえ者でござんす。
辰三郎 (低声に)お蔦。お前を呼んでいる。
お蔦  あたしを、そんな人はない筈だ。
辰三郎 (聞き澄まし、お蔦に向いて)茂兵衛という人だというが。(お蔦が知らないと首を振る、で、思い切って戸を開ける)
茂兵衛 (土間にはいり)相済みません、戸締りは元通り、なすって置くがようござんす。
辰三郎 お前さんはどなた。
茂兵衛 お眼にかかったことはござんせんが、おかみさんのお世話になった者でござんす。
辰三郎 え。
茂兵衛 (喫驚しながら怪しんでいるお蔦に向い、あががまちに両手を突き重ね、頭をさげて小腰をかがめ、楽旅らくたび仁義の型で)お久し振りでござんした。その節はお助けを頂き有難うござんした。
お蔦  そういうお前さんは、どなた、なんでございましょう。
茂兵衛 お見忘れはごもっともでござんす。茂兵衛でござんす。
お蔦  (独り言を)思い出せないねえ。
茂兵衛 お約束を無にいたし、こんな者にてまして、お目通りはいたさねえ筈でござんしたが、十年振りでこっちの方へ、流れてきたので思い出して、他所よそながらお尋ねしてえと、きょう小半日うろついて、それでも判らずにおりましたが、飲み屋の女が唄う鼻唄から気がついて、聞いてみたら女飴屋の口真似だとか、それを手蔓てづるに方々聞き、ここへ来てみると子供の声で、昔聞いた節の唄、お蔦さん茂兵衛はモノに成り損ねましたが、ご恩返しの真似事がいたしてえ。お納めを願います。(手早く金包を置いて)ご縁次第、又お目にかかります。ご免なさんせ。(帰りかける)
お蔦  あ、待ってください。
辰三郎 (お蔦に)知らない人なのか。
お蔦  ああ、憶えがないんだ。
茂兵衛 思い出されねえのは却って仕合せでござんす、あいつかとわかっては面目ねえ。立退くなら早いがいい。事によったら一里ばかりは。ご免なさんせ。(戸を開けて出て行く)
お蔦  だれだろう。
辰三郎 お君の唄を聞いたといったが、国の知った人ではないのか。
お蔦  いいえ、違う。判らないもの仕様がない。地獄で仏とはこのことかしら。頂いたこのお金があるから、旅へ出ても苦労はない。
辰三郎 手間どってしまった。逃げる工夫はいくらもある。さあ、ここを出てしまおう。
お蔦  あい。
再び入口の戸が開いて、引返してきた茂兵衛がはいってくる。
茂兵衛 (驚く夫婦を制して)出ちゃいけねえ。悪いことになってきました。
辰三郎 お蔦、とうとう逃げ遅れた。逢って直ぐだが、お別れだ、お君を頼む。
お君  (辰三郎に縋り)どこへ行くの。厭だ、一緒に行こう、お母さんもよう。
お蔦  お前さん、不具かたわにされても、あたしはそばを離れやしないよ。
茂兵衛 大丈夫、そんなことを奴等にさせるもんじゃござんせん。やッ、うちの近くまでやってきたな。お蔦さん、子供をキッチリ抱いて、ご亭主の傍にぴッたり付いて。(外の様子に耳を向け)ここの家から外へ出るな。
辰三郎 えッ。
お蔦  (じッと茂兵衛を見ている。見憶えがあるような気がしてきている)
茂兵衛 あらましかたがついたら、その時あ親子三人、こころざす方へ飛んで行くのだ。(外から戸をたたく。心張棒をとって振ってみる)
お蔦  あッ、思い出した。
茂兵衛 そうでござんすか。面目ねえ。(戸を開く、彦が顔を出すのを突き出し外へ出て戸を閉める)
お蔦  (辰三郎に、茂兵衛のことを語る)
辰三郎 (驚きの余り、小さくなっているお君を背負いつつ、お蔦の囁きを聞く)
外に喧騒が激しく起る。

第三場 軒の山桜


お蔦の家の前、桜の木の老い木と若木と二本植わってあり、花が咲いている。
利根川が家の横にやや遠く見える。

茂兵衛が入口の前に棒を提げ立っている。
市、甚太、彦が茂兵衛に肉薄し、根吉は少し離れている。
河岸山は儀十の傍に付いている。その一方にいわしの北公が二、三人つれて、立会人格で見ている。
茂兵衛 (黙って睨んでいる)
市甚彦 (三人は口々に「邪魔だ退け」「退けったら退け」「退かねえか野郎」と騒々しく俄鳴がなり立てている)
儀十  静まれ。(茂兵衛に)どこの何者か知らねえが、邪魔するな、退け。この家のイカサマ師の仲間だというなら、次手にねむらせてやってもいいぞ。
河岸山 (儀十に)脛を一本、ちょッとやりますかな。
茂兵衛 手前か儀十とは。中相馬の人達に聞いてみろ、評判が悪いぞ。手前よく堅気を脅かすとなあ、悪い癖だ。そんな奴には痛い目させるが一番薬だ。
籠彦  何だと、ナマいうな。(猪口才ちょこざいに出る)
茂兵衛 まだ懲りねえか。そらよッ。(彦を叩きのめし、市、甚を叩き伏せ。河岸山が抜き討ちにかかるを打ちのめす。北公等が、一斉に組んでかかるので、棒をすて、取って投げて目をまわさすのが角力のワザ)
儀十  (角力のワザならこちらの得手で、ニヤリとして、肌脱ぎとなり)野郎、一騎打ちだ。棒をとるな、棄てろ。
茂兵衛 よし。(棒を棄てる)
根吉  (今までじッと見ている。敢然として儀十に先んじ茂兵衛にかかる)
茂兵衛 (押え付けて顔をみる)お前はこの中では少しマシだ。退いてろ。
根吉  俺達には理も非もねえ。たった一つ意地ばかりだ。(飛びかかる)
茂兵衛 (押え込んで)そんならお前ちッとの間、静かになれ。(当身あてみを食わせ、倒れるを少し介錯して、地に寝かす)
儀十  野郎ッ。こいッ。
茂兵衛 何をいやがる。(儀十を突き立て突き立て、小手をとってブン廻し、手許に引付け家の中へ向って)あらまし形はついたようでござんす。(儀十の急所を圧す)
儀十  (気絶する)
お君を負うた辰三郎、少し、荷を持ったお蔦が出来るだけの旅装で出てくる。
茂兵衛 飛ぶには今が潮時でござんす。お立ちなさるがようござんす。
辰三郎 お蔦から話を聞きました。わずかなことをいたしましたのに。
茂兵衛 いらねえ辞儀だ。早いが一だ。
お蔦  (人の倒れ伏すを見て)あッ。
茂兵衛 なあに死切しにきりじゃござんせん。やがて、この世へ息が戻る奴ばかり。
辰三郎 それでは茂兵衛さん。ご丈夫で。
お蔦  お名残りが惜しいけれど。
茂兵衛 お行きなさんせ早いところで。仲よく丈夫でおくらしなさんせ。(辰三郎夫婦が見返りながら去って行くのを見送り)ああお蔦さん、棒ッ切れを振り廻してする茂兵衛の、これが、十年前に、櫛、簪、巾着ぐるみ、意見を貰ったあねさんに、せめて、見て貰う駒形の、しがねえ姿の、横綱の土俵入りでござんす。(入口から家の中へはいる)
茂兵衛が桜の下に佇む。
茂兵衛 (気絶している者共を見張っている)
昭和六年五月作





底本:「長谷川伸傑作選 瞼の母」国書刊行会
   2008(平成20)年5月15日初版第1刷発行
底本の親本:「長谷川伸全集 第十六巻」朝日新聞社
   1972(昭和47)年6月15日発行
初出:「中央公論」
   1931(昭和6)年6月号
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:雪森
2018年2月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード