沓掛時次郎 三幕十場

長谷川伸




〔序幕〕  第一場 博徒六ツ田の三蔵の家
      第二場 三蔵の家の前
      第三場 元の三蔵の家
      第四場 再び家の外
      第五場 三たび三蔵の家
〔二幕目〕 中仙道熊谷宿裏通り
〔大詰〕  第一場 同じ宿の安泊り
      第二場 宿外れの喧嘩場
      第三場 元の安泊り
      第四場 宿外れの路傍


沓掛くつかけの時次郎  磯目いそめの鎌吉
六ツ田の三蔵  酔える博労
女房おきぬ   亭主安兵衛
倅 太郎吉   女房おろく
大野木おおのぎの百助  八丁徳
苫屋とまやの半太郎
乱入する博徒たち(三蔵方へ)・通行の人々(熊谷宿の)・八丁徳の子分たち・聖権の子分たち・その他。
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〔序幕〕




第一場 博徒六ツ田の三蔵の家


三蔵はもう三、四年もすれば親分から跡目に直らせて貰える筈だった男だ。しかし頼む力の親分は召捕りになり、どうで遠島は免かれまいと立つ噂に、身内は残らず散って、残るは三蔵ただ一人きりである。それでも三蔵は、親分に義理を立て、子分は皆無、身一つで、中ノ川一家を名乗っている。当然の結果、反対派の親分側から、圧迫が加えられ、今夜がその最後であった。

秋の夜、行燈の灯の下で三蔵と女房おきぬとが、他人の注意をひくまいと物音に気を配りつつ、荷づくりを急いでやっている。片脇に一子太郎吉が寝ている。
三蔵  (荷づくりの手が誤って瀬戸物を引ッかけ落す。壊れて音がする)
おきぬ あッ。(荷づくりの手をやめ、怯える)
太郎吉 (目をさまし)おっかあちゃん。
おきぬ あいよ。(傍へ寄り)どうしたい。おっかちゃん、ここに居るよ。(添い寝をする振りをして)坊やはいい子だ、ねんねしなあ。
三蔵  (入口の土間に下りそっと外をのぞく)――だれも居ねえ。
おきぬ 坊やはいい子だ。ねんねしなあ。
三蔵  坊主は寝たか。(元の処へきて荷づくりにかかる)
おきぬ ああ寝ちゃった。ご覧、子供は罪がないねえ。
三蔵  (太郎吉の寝顔をのぞき)うむ。笑ってやがらあ。
おきぬ 夢を見てるのだろう。(荷づくりにかかり)考えると厭になっちまう。
三蔵  今更どうも仕方がねえさ。
おきぬ 女房子をつれての旅にんか。お前さん。(涙声になり)あたし達の行く先々は、嶮岨けんそ[#「嶮岨な」は底本では「瞼岨な」]路だねえ。
三蔵  そうだとも、一ト足踏み出しゃ、渡る世間はみんな嶮岨な[#「嶮岨な」は底本では「瞼岨な」]路で出来てるよ。なあおきぬ、これから先は苦労ばかりだ、覚悟をちゃんとして置いてくれよ。
おきぬ わかってるよ。大丈夫さ、他国でどんな憂き目をみても、なあに親子三人揃ってりゃ、苦労はしのげるだろうさ。だけどねえ、癪だねえ。
三蔵  ッ、裏の方で足音がした。(手許に引きつけてある長脇差を提げ、そっと裏口をのぞきに行く)
おきぬ どう。――え? (太郎吉をかばって聞く)
三蔵  だれもいねえ。お月様が昼間のように川の水を照らしていらあ。
おきぬ まあよかった。(荷づくりにかかる)
三蔵  (おきぬの拵えた風呂敷包を見て)駄目だよ。おきぬ。そんなデカい風呂敷包をこしらえちゃいけねえや。
おきぬ だって、太郎吉の物ばかりだよ。あたしの物なんか二、三枚しかはいってやしないよ。
三蔵  斬り込みをかけられる矢先なんだぜ。可哀そうだが坊主の物も着換一枚ぐらいにしてくれ。――いくら持って出た処で、土地を離れねえうちにあいつ等に出会ったら、命の亡くなる親子三人だ。諦めて大抵の物は捨てて行けよ。
おきぬ あたしなんか着のみ着の儘でもいいよ。だけど太郎吉だけは、――不自由な目に合せてやりたくないからねえ。
三蔵  そりゃもっともなことだが、なあおきぬ。親分がお召捕りになってから落目の上に落目となった中ノ川一家、今じゃ身内てのは俺がたった一人なのだ。親分が娑婆の風に吹かれている頃は、中ノ川の身内で五本の指に折られた俺だった。その頃の身内は二百七十人からあったっけ、それが今じゃ形なしだ。
おきぬ 当世は人間がずるッ辛いからねえ。どいつもこいつも羽振りのいい奴の襟許へつくのだよ。
三蔵  その中で俺だけは、親分の恩を忘れず、たった一人取り残されても、この土地に獅咬しがみついていた。――その効もなく、今夜は逃げ出さざならねえ。
おきぬ お前さん。奴等もう来る頃じゃないかね。
三蔵  たった一人の俺の寝首を掻くのに、きのうから評定をしてやがったあいつ等だ。早目に押かけることはねえ、四ツが合図だというからまだ大丈夫だ。
おきぬ 二百七十人もいた身内の中で、最後まで踏ン張ったのが、お前さん一人とは、中ノ川一家の末路はひどかったねえ。
三蔵  なあに、この儘でいるものか。一時は長え草鞋わらじをはいても、いつかはこの土地へ取って返し、縄張りを切り拓いて俺の天下をつくってみせらあ。さあ、行こう。
おきぬ (小さな荷物を持って)あい。
三蔵  泣いてるのか。(脇を向いて涙をのみ)人間は七転び八起きだよ。
おきぬ ご覧よ。子供は仏さまだねえ。何も知らずにすやすや寝ているよ。
三蔵  うむ、よく寝てやがる。住み慣れた土地を後に、行衛の定まらねえ旅に出る親たちとも知らず、あどけねえ顔をして寝ているなあ。泣くない、――泣くなというのが土台無理だが、泣いてくれるなよおきぬ。さ行こう。こいつはお前持ちねえ。坊主は俺が背負うとしよう。
おきぬ (包をうけとり)少し行ったらあたしがおぶうよ。
三蔵  待てよ。そうだ。坊主はお前、骨が折れるだろうがおぶってくれ。一人ぼっちの俺を生かしておけねえ気の狭い奴等だ。もしも出会ったら最後、息の根を止めるだけじゃなくって、お前や坊主まで、後腐あとくされを怖がってバラすにきまっている。
おきぬ 可愛いこの子を殺されてたまるものか。そんなことをしやがったら咽喉笛のどぶえへくらいついてやる。
三蔵  そうとも。その時あ、俺あ死物狂いであいつ等を叩き斬るから、その間にお前は逃げてくれ。
おきぬ ああいいよ。
三蔵  そのために坊主はお前におぶって貰うのだ。俺の持ってるだけの金はみんなお前に渡しておくぜ。(財布を出す)
おきぬ それはお前さん持っていておくれ。なあにどんなことがあっても、親子三人一緒に生き死にをしようよ。
三蔵  (聞き耳を立て)いけねえ。(戸外に罵る人声がする)おきぬ、覚悟をしろよ。(包を捨て脇差に手をかける)
おきぬ (寝ている太郎吉を庇い)お前さん、どうせ遣るんだ、しっかりおやりよ。
三蔵  うむ。(入口の土間へそっと下りる)

第二場 三蔵の家の前


一軒家の三蔵の家から少し離れて路に沿うて鎮守の森がある。その前に博徒磯目の鎌吉、苫屋の半太郎、大野木の百助が襷鉢巻で長脇差を抜いて立っている。すこし離れて旅人の博徒沓掛時次郎、いでたちは同じ様だが懐手をしてぶらぶらしている。三人は一方に固まり、ひそひそと相談を始める。時次郎はそれを尻目にかけ、せせら笑いをしている。
大野木 じゃあ俺からいおう。(時次郎に向う。そのあとに磯目と苫屋がついている)沓掛の。
時次郎 なんでござんす。
大野木 外で張番をするのが、厭なら、遠慮なく引揚げて行きねえ。
磯目  贅沢をいうのも大抵にしろい。
苫屋  こっちは生え抜きの身内だい。
大野木 待ちねえ待ちねえ。俺に任せときあいいじゃねえか。(二人をなだめ)沓掛の。
時次郎 おい。
大野木 俺達がもともといい出して、今夜のことは持ちあがったのだ。お前はただ横合から、一緒に行きていといい出したのを親分がウンといっただけのものだ。つまりお前は見に来たのだ。六ツ田の三蔵の首を挙げるのは俺達三人のすることで、お前の役じゃねえや。
時次郎 だから、どうなのでござんす。
苫屋  邪魔しねえで見ていろッてのだ。わかったかい。
磯目  構わねえで少しも早く仕事にかかろうぜ。素人共は変に三蔵をひいきにしやがるから、ことによるとあの野郎の耳に今夜のことが入っているかも知れねえ。ズラかられちゃ玉なしだ。
大野木 沓掛の、もう一遍いうぜ。首を挙げるのは俺達三人の役だ、お前の役じゃねえんだよ。わかったな。
時次郎 わからねえ。
苫屋  なんだと。
大野木 ここで喧嘩しちゃいけねえ。
時次郎 三蔵ッて人はきついのでござんすか。
磯目  何がつよいものかい。多寡の知れた奴だ。
時次郎 成程、それじゃ俺の腕はいらねえ筈でござんす。
苫屋  ちえッ、三蔵の腕ッ節が強いからこうして三人撰り抜きで来ているのだい。手前なんかが行けば直ぐバッサリだ。
大野木 ちゃんと断っておくぜ。外で見張りをしているのだぜ。見張りで役不足ならさっさと帰ってくれ。いいかおい。(二人に)さ、踏ン込もう。
磯目  合ッ点だ。(三蔵の家の戸を叩く)
苫屋  (鼻をつまみ作り声をして)今晩は、ちょいとお開けなすって。名主さんから不時触れが出ましたので。――今晩は。(身構える)
大野木 (雨戸の開くのを待ち構えて、今にも躍り入ろうと身構える)
時次郎 (ふてぶてしく、森の前に腰を据え、三人のすることをせせら笑って見ている)
磯目  今晩は、――今晩は。
苫屋  畜生め。開けねえな。勝手にしやがれ。(磯目と共に激しく叩く)

第三場 元の三蔵の家


道具と包とで太郎吉を囲み、その前におきぬが旅支度をして、匕首を持ち護っている。三蔵は鉢巻、襷がけ、草鞋ばきで抜刀し、入口から闖入ちんにゅうする者に備えている。雨戸を叩く音が激烈になる。
三蔵  おきぬ。ちっとでも隙があったら裏から逃げてくれ。いいか。太郎吉を大事にしてくれ、頼むぞ。お前ただの体じゃねえ、大切にしなよ。
おきぬ ああいいよ。合点だよ。だけど、大丈夫かねえ。
三蔵  人斬り庖丁を互に持っているのだ。生きる死ぬるは時の運だ。
磯目  (雨戸を叩き破り)三蔵、首をとりに来た。(土間へ踏み込む)
三蔵  洒落臭え。(斬りつける)
磯目  とッとッと。(危うくかわして雨戸の外へ退く)
苫屋  よいしょッこら。(残りの雨戸を蹴外す)
大野木 三蔵、俺は大野木の百助だ。
苫屋  苫屋の半太郎だ。
磯目  おいらは磯目の鎌吉だ。
大野木 名乗りをあげておいてから斬るぞ。
三蔵  中ノ川一家の六ツ田の三蔵が、どのくらい働くか見やがれ。(三人を相手に家中を駆けめぐって闘う)
太郎吉 (おきぬにすがり付き)ちゃんやあ、ちゃんやあ。
おきぬ お前さん、踏張っておくれ。――そんな畜生ども何だい。叩っ切っておやり。
太郎吉 ちゃんやあ、ちゃんやあ。
三蔵  さあ来い、けだもの共。(太郎吉の声に刺戟され、意気烈しく、三人を切り捲くる。三人は雨戸の外へ退く)
おきぬ (道具類を転がして搬び、手早く入口を封鎖する)お前さん、小気味よくあいつ等を追っ払ったねえ。
三蔵  うむ。(大息をつきつつ)太郎吉の声を聞いたので、何だか体中が、むずむずと、力が一杯張り切った。おきぬ、水をくれ。
おきぬ あいよ。(丼に薬罐の湯を入れて出す)ぬるいけど、加減しておくれ。せるからね。
三蔵  ヘン。やくざ渡世の人間だよ。息つぎの呑み方ぐらい知ってらあ。
おきぬ ちがいない。ほ、ほほ。
太郎吉 (おきぬの後について廻わり)ちゃん、お前強いなあ。
三蔵  何をいってやがる。は、はは。おきぬ、この間にズラかろうぜ。(抜刀を携げて立つ)
おきぬ あい。(太郎吉に小さき包を背負わす)

第四場 再び家の外


大野木の百、磯目の鎌、苫屋の半の三人は、森の前へ来て三蔵に負わされたかすり疵に血止めの布を巻いている。
旅人沓掛時次郎は三蔵の家に近くたたずみ、懐中手ふところでをしたまま冷笑している。
大野木 あの野郎、死物狂いになりやがって、馬鹿強いにゃ驚いたなあ。
苫屋  俺達だから、かすり疵ぐらいですんだ。(時次郎の方をあごでしゃくり)変な奴が一緒だったら、今頃は、堅くのびた奴が一人出来たろう。
磯目  (苫屋に)お前、血が滲み出てら。
苫屋  構うものか。
時次郎 そういわねえで、布を巻き直したがようござんしょう。
苫屋  何だと。
時次郎 張番はあっしがしてるんでござんす。滅多に三蔵とやらも切って出ては来ねえでござんしょう。出てくれば一ト討でござんすからね。
磯目  (脇を向き)ちえッ。厭な野郎だなあ。
大野木 そうか。そんなに強がるなら、おう沓掛の、一遍なかへ入ってみるか。
時次郎 哥児あにい達に苦情がなければ、あっしはどこへでも飛び込ンますでござんす。
苫屋  (大野木に)何をいうのでい。
大野木 まあいいってことさ。(時次郎を嗤って)なあ、三蔵も強いが沓掛の時次郎どんもきつい人だ、一遍咬み合して見ようぜ。なあ沓掛の、おぬしの望む処だろうからのう。
磯目  こいつあいい。三蔵の野郎とんだいい血祭りを授かりやがらあ。
時次郎 何でござんすかい。哥児方は引揚げでござんすか。それとも――。
苫屋  何をいやがる。ケチをつけるない。
磯目  俺達は一ト息入れて三蔵をブチ斬るのだ。フン相手は一人だ。急ぐことはねえ。
時次郎 そういう中に、裏から逃げたら、どういうことになるんでござんしょう。
大野木 違いねえ。(起ちあがり、急いで布を巻く)
苫屋  なんの、裏からだって表からだって、出る勇気が三蔵にあるものか。
磯目  かん袋へ入れた猫だ。心配するねえ。
時次郎 どれ掛合ってみようか。(家の中へ)もし、六ツ田の三蔵さん。おいでなさいますかえ。
三蔵  (入口の道具の処に姿を半ば見せ)六ツ田の三蔵はまだおります。何でござんす。
時次郎 あっしは旅にんでござんす。一宿一飯の恩があるので、怨みもつらみもねえお前さんに敵対する、信州沓掛の時次郎という下らねえ者でござんす。
三蔵  左様さようでござんすか。手前もしがない者でござんす。ご叮嚀なお言葉で、お心のうちは大抵みとりまするでござんす。
時次郎 お見あげ申しますでござんす。勝負は一騎討ち。(三人の方をあごで示し)他人まぜなしで、潔よくいたしとうござんす。
三蔵  お言葉、有難う存じます。
時次郎 三蔵さん。場所は。
三蔵  足場のいい外でやろう。
三人  何。(起ちかかる)
時次郎 何でえ、何でえ、ナメた真似をするねえ。手出しをすると、敵も味方もねえ、叩ッ斬るぞ。
三人  何だと。
時次郎 恩も怨みもねえ人と命のとりっこするのは交際つきあいの義理があるからだ。三日前に草鞋を脱いだ時、俺のすることはきめられてやがったか。は、ははは。(おのれを嗤う)
三蔵  信州の人。(外へ出て)ご所望の一騎打ち、相手になりますぜ。
時次郎 合ッ点だ。(激しく闘う)
おきぬ (太郎吉と共に、入口の破れからのぞき、三蔵の危うき都度怯えている)
三蔵  あッ。(一刀浴せられて倒れる)
太郎吉 ちゃんやあ! (泣いておきぬに縋る)
おきぬ あッ。(我を忘れて飛び出そうとする)
時次郎 (三蔵が起とうとするのを見て、静かに待っている)
三人  (茫然、勝負を見ていたが、おきぬの声、太郎吉の声にはッとなり、顔見合せて首肯うなずき合い、討とりに向う)
おきぬ 畜生、何をしやがる。(塵取り、すききぬたなどを投げつけ、太郎吉を抱いて逃げ込む)
三人  それッ。(追って家へ入る)
時次郎 な、何をしやがる。やい、やい何をしやがる。(三人を追って家へ入る)
三蔵  (よろめきつつ起ち、家へ向う)

第五場 三たび三蔵の家


太郎吉を庇いつつおきぬは、三人の白刃を抜け潜っている。
時次郎 (割って入る)やいやい女子供に何をしやがる。そんな法ッつてのがあるかい。
磯目  手前の知ったことじゃねえ。退けッ。
苫屋  退けッたら、退け。
大野木 沓掛の、邪魔しちゃいけねえや。
時次郎 だれが何といったって退くものか。女房子供を斬ってどうするんでえ。ばくち打ちは渡世柄付いて廻る命の取りやり、こいつは渡世に足を踏込んだ時からの約束事だ。が、女房子供は別ッこだ。いけねえ、いけねえ。斬らせるもんけえ。
苫屋  邪魔すると敵と見すぞ。
磯目  そうだとも、敵と見做して斬るぞ。
時次郎 冗談だろう、斬られてたまるか。
三蔵  (よろめきつつ入口の破れより入り来たる)
大野木 沓掛の、お前の相手が乗り込んできたぞ。(時次郎が振向く隙に)それッ。
苫屋  (おきぬに向う)
磯目  (太郎吉を追い廻す)
太郎吉 いやだあ。いやだあ。(逃げ廻り)おっかちゃん。おっかちゃん。
おきぬ (必死と有り合う物を投げつけ)何をしやがるんだ。人情なし。鬼、畜生。
三蔵  (力きてあがかまちに手をかけて伏す)
時次郎 野郎共。(猛然と三人に立ち向う。瞬くうちに三人とも切り立てられ、土間へ逃げる)
三蔵  (急に奮い起ち、磯目の鎌を斬り倒し、ぐったりうずくまる。大野木の百、苫屋の半は戸外へ逃げる)
時次郎 (入口に立ち)おかみさん。怪我はござんせんか。
おきぬ ええ。(太郎吉を抱きめる)
時次郎 子供も怪我はござんせんでしたかい。
太郎吉 わッ。(泣く)
おきぬ ええ。(太郎吉を更に抱き緊める)
時次郎 それはようござんした。(三蔵を見て)いけねえ。とても、手は届くめえ。おかみさん、お困りでござんしょう。お察し申します。――だが、この渡世を知って夫婦になったんでござんしょうからむだなお追従ついしょうは抜きにしておきます。ご免なすっておくんなさいまし。(入口から出て行く)
おきぬ (三蔵の傍へ駆け寄り抱き起す)お前さん。傷は浅いよ。しっかりしておくれ。
太郎吉 ちゃん、ちゃんやあ。あああ。(泣く)
おきぬ 死んじゃ困るよ。お前さんが死んだ後であたしたち母子はどうするのさ。え、しっかりしておくれ、よ、よ。
三蔵  おきぬ、水、――水だ。――別れの水盃だ。
おきぬ (泣く泣く水をとりに起つ)
太郎吉 ちゃん。死んじゃ厭だ。厭だあ。あああン。ああン。(泣く)
三蔵  (呻きながら太郎吉の頭に手をやる)
おきぬ 水だよ。水を持ってきたよ。(柄杓を差出す)あたしもやくざ渡世の男を亭主に持った女だ。未練に泣きはしないけど。――これから先、どうしたらいいのだろう。
三蔵  おきぬ。太郎吉を頼む。身重のお前だ。――不憫ふびんだなあ。(柄杓の水を飲もうとする)
おきぬ 待っとくれ。水を飲むとそれっきりだというから。太郎坊や、おとっちゃんの顔をよく見て覚えとくのだよ。お、大きくなっても忘れないようにね。
太郎吉 ちゃん。おいらの顔もよく覚えといてくんなよ。
三蔵  うン。死にたかねえが、仕様がねえさ。(柄杓の水を再び飲もうとする)
おきぬ だ、だれだ。(太郎吉を庇い、夫を庇って起つ)
三蔵  また来やがったか。(もがく)
時次郎 (入口からはいってくる)あっしでござんす。信州の旅にん時次郎でござんす。一旦出て行くことは出て行ったが、子供の泣き声が耳について、うしろ髪をひかれるようで、とうとう引返してきたんでござんす。
太郎吉 おっかあ。この小父さん、いい人かい。悪い人かい。
おきぬ (返事に窮している)
時次郎 小父さんは悪い人さ。だがね、もう悪かねえよ。
太郎吉 だって小父さんは、ちゃんを切ったあろ。
時次郎 勘忍してくれ。
太郎吉 だけど。おっかちゃんやおいらを助けてくれた。
時次郎 坊や、そう思ってくれるかい。有難う。
三蔵  信州の人。
時次郎 おう。いうことがあるんなら遠慮なくいっておくんなさい。引受けやすでござんす。
三蔵  た、た、頼む。(おきぬ太郎吉を指さし、柄杓を取落して倒れ伏す。母子は抱きついて泣く)
時次郎 (悚然しょうぜんとして佇む)おや、人声がするぞ。(外をのぞく)ちょッ、来やがった。おかみさん。三蔵さんの髪の毛を切った、持って行くのだ。逃げ出すんだ。(喊声かんせいがかすかにする)奴等大勢、束になってやってきやがった。
おきぬ あ、ときの声をあげている。
時次郎 早くしておくんなさい。(外をのぞき)大分近くなりやがった。髪の毛を切ったら内懐中へしっかり仕舞うのだ。死ぬ時はその髪の毛を抱いてお死によ。
おきぬ はい。太郎吉おいで。
時次郎 裏から逃げられますかい。
太郎吉 うン。おいらが道を知ってらあ。
時次郎 そうか。じゃ教えておくれ。(外をのぞき)いよいよ近くなりやがった。おかみさん。ほらあのおびただしい足音だ。あいつ等みんなにかかられちゃ、十のうち十、命はねえ。助かったら拾い物だ。坊や、泣くなよ、小父さんがついてらあ。
太郎吉 うン。泣きやしねえよ。
外の声 わあッ。わあッ。(多人数の足音が次第に近くなる)
時次郎 (燈火を消し、裏口の戸を開く、月が照っている。外をうかがう)
おきぬ (太郎吉と共に三蔵に合掌し、裏口へ出て行く)
時次郎 (三蔵に片手拝みをして出て行き。戸を閉める)
外の声 わあッ。(直ぐ近くなる、入口より数人、抜刀して躍り込む。喊声はまだ続いている)


〔二幕目〕




中仙道熊谷宿裏通り


まだ宵の料理はたご屋の二階で騒いでいる声、唄、鳴り物など混って聞える。諸所にある立木が、枯れたように見える厳冬だ。寒そうにして行き交う男女がある。酔って飯盛と手をつなぎ忍び歩く泊り客もある。太郎吉が一人、ぽつねんと佇んでいる。絃入りの小諸追分が近くで聞える。酔ッ払いが通りかかる。
酔漢  おう小僧。何してる。
太郎吉 (顔をみて答えず、脇を向く)
酔漢  おや、この餓鬼はおしかい。
太郎吉 唖じゃねえやい。
酔漢  はあ成程、声が出やがらあ、何してる。
太郎吉 ぼんやりしてらあ。
酔漢  ははは。晩飯時分を取り外して遊び呆けやがって、おん出されたな。
太郎吉 違わい。
酔漢  家はどこだ。
太郎吉 家か。(しくしく泣く)
酔漢  泣くなよ。連れてってやる、詫びごとをしてやる。どこだ。
太郎吉 家は、方々にあらあ。
酔漢  大きなことをいうない。何様じゃあるまいし、方々に家がある奴があるかい。本当の家はどこだ。
太郎吉 下総しもうさだ。
酔漢  何だ下総だ。ひどく遠方だな。本当に下総から来たのか。
太郎吉 うン。松虫や鈴虫が鳴いてる時分に下総を出たんだ。
酔漢  で、今は。――今はどこだ、本当の家ッてのは。
太郎吉 本当の家なんかねえや。
酔漢  無え。家がねえ。ふうン、宿なしか。おとっちゃんおっかちゃんはねえのか。
太郎吉 おっかちゃんはいるよ。
酔漢  おとっちゃんは。
太郎吉 殺さ――死んじゃった。
酔漢  そのおっかちゃんが、見えねえじゃねえか。
太郎吉 いらい。そこによ。(指さす)
酔漢  えッ。あれがお前のおっかちゃんか。あの三味線ひいてるのが、ふうン。何でえ、おとっちゃんもいるじゃねえか。
太郎吉 おとっちゃんじゃねえやい。小父さんだい。
酔漢  何をいってやがる。男と女と一緒になってりゃ、おとっちゃんとおっかちゃんだ。
太郎吉 違わあ、おっかちゃんがそういったい。夫婦にならねえんだから小父さんだ、おとっちゃんじゃねえんだって。
酔漢  ちえ、小まっちゃくれていやがらあ。(なお調戯からかいたげにしたが追分のハヤシを唄い終り、出てくる時次郎、おきぬを見て、這う這う行ってしまう)
おきぬ (酔漢のうしろから)何をいってやがるのだい。子供に詰らないことを根掘り葉掘りする奴があるかい。
時次郎 そう怒らねえがいいよおきぬさん。相手は酔ッ払いだ。
おきぬ でも、あんまり人を馬鹿にしてるから。
時次郎 わかったわかった。そんなに怒って体に触わるといけねえ。おきぬさんお前の体は今が大事な時なんだ。ひどく怒ったり驚いたりは大毒だとなあ。
おきぬ 済みません。つい、むかついて。これからは気をつけます。
時次郎 坊や、寒いだろう。
太郎吉 寒かねえよ。小父さん、寒いだろう。
時次郎 俺か。唄をうたっているうちは寒いのを忘れらあ。おきぬさんもう帰ろうか。
おきぬ でも、今のが口あけ、もちっと稼いでからにしましょう。
時次郎 俺は構わねえが、おきぬさんは体が体だ、寒いからなあ、大事にしなくちゃいけねえからね。なあに贅沢をいわなきゃ、今夜はこれでしのげるさ。
おきぬ (黙って泣いている。太郎吉がりかかる)
時次郎 どうしたい。気もちが悪くなったのかね。
おきぬ 済まない。済みませんねえ。
時次郎 何だなあ。何も往来でそんなことをいい出すには当らねえ。済むも済まねえもないさ。
おきぬ あたし達母子おやことお前さんとは、縁もゆかりもない赤の他人だのに、こうして親切にして貰っているのを思うと、つい泣けて、しようがないのですよ。
時次郎 おきぬさんのお株が始まったね。他人も親類もあるもんか。坊や、おっかちゃんに、泣くんじゃねえっていいな。
太郎吉 おっかちゃん。小父さんが心配するから泣くんじゃないよ。
おきぬ あいよ。あいよ。もう泣きやしないよ。それじゃ済みませんけど、もう一ト口稼いでくださいな。太郎吉に綿のはいった物が買ってやりたいと思いますから。
時次郎 ああいいとも。それじゃ今夜は辛くても、もう少し辛抱しなさるがいい。――太郎坊の物もだが、おきぬさんも薄着だねえ。
おきぬ あたしよりお前さんこそ薄着だ。まだあわせ単衣ひとえだけでしょう。
時次郎 何をいうのだ。沓掛の時次郎は日本中飛び歩いた男だ。寒中真ッ裸でもくらせる奴さ。さ、行こう。(行きかけて立ちどまる)
おきぬ (振返って)どうかしたんですか。
時次郎 え。おきぬさん、産月うみづきはいつだね。
おきぬ 三月――か、四月頃です。
時次郎 花の咲く頃だなあ。それまでにちっとは貯えをしてえものだ。
おきぬ (しょんぼりと佇む)
時次郎 は、はは。どうにかなるさ。(太郎吉の頭を撫で)桜の花が咲く頃に、お前に弟か妹が出来るんだぜ。死んだちゃんの子だからお前に似て可愛いだろうよ。
太郎吉 おらあ知ってるよ。
時次郎 知ってるのか。隙さねえ子だぞ。
太郎吉 赤ン坊が小父さんの子だといいんだけど。そうすりゃ小父さんなんていわねえや。おとっちゃんといえらあ。
おきぬ (急所を突かれて狼狽し)まあ、この子は。悪いことばかりいって。
時次郎 (笑い紛らせ)おきぬさん、冗談は抜きにして、稼ごう。弾いて貰おうか、俺の故郷の追分節。小諸こもろ出てみよ浅間――。
おきぬ え。(涙ながら三味線をひく、三人とも寒げに去る)


〔大詰〕




第一場 同じ宿の安泊り


奥に位置する汚ない座敷。狭き廊下を隔てて、安どまりの主人の部屋がある。空地に似た疎雑な、庭よりそれ等を見たるてい。庭にある一株の桜は花がすこし綻びかけている。一方の座敷におきぬが、蒲団の上に坐って、やがて生れる子のために自分の半纏はんてんをほどき、産衣うぶぎ代りに縫っている。安どまりの女房おろくが、安産のお守を柱に貼りつけている。
おろく こうやっておけば安産は請合いだ。その積りでいい子供を産むのだよ。なにお前、初産ではなし、二度目だからきっとお産は軽いだろう。
おきぬ 有難うございます。いろいろお世話になるばかりで。――済みません。屋根代も大分借りになっていて――。
おろく そんなことを産婦が気にすることがあるものか。屋根代の心配は女房の役じゃない、亭主の役だという処だが、生憎と時さんは亭主じゃなかったっけね。
おきぬ おかみさん。時さんとわたしが夫婦なら何ですけど、去年の秋下総を出てから今まで、旅から旅を一緒に歩いてはきましたが、どうという仲ではなし、それだのにああやって、わたし達母子のために身を落して、面倒をみてくれるのですもの。考えると――一層わたし達が死んでしまった方が、時さんには肩抜けだと思うことも度々ですが、可愛い太郎吉が不憫だし、死んだ亭主のたねやみから暗へやるのも情けないし、済まない済まないと思いながら、時さんにばかり苦労をかけています。
おろく 今時には珍しい男さ。おきぬさん気が弱くっちゃいけないよ。女房でもなし情婦いろでもない女を、子供ぐるみにあんなにムキになって世話する時さんの親切に対してだって、弱い気を出しちゃすまないよ。――そりゃ赤ン坊の物だね。
おきぬ ええ。わたしの物を解いて拵えました。愚痴をいっちゃ済まないけど、こんな物が赤ちゃんの産衣なんです。
おろく こりゃ冬中お前が着ていた半纏だったね。
おきぬ 桜の花が咲きかけました。もう半纏でもありませんからねえ。(涙を隠して縫いつづける)
太郎吉 (廊下の奥より駆けてきて座敷へ飛び込み、障子を押える)
おきぬ 太郎吉どうしたんだい。
おろく 喧嘩でもして逃げてきたのか。
太郎吉 おっかちゃん、悪い奴がきたよ。
おろく えッ。ど、泥棒がはいったのかい。
太郎吉 下総の家へ、刀を抜いて来た奴ね、あいつ等が二人とも来やがったよ。(障子の破れからのぞき)ちえッ、まだ立ってやがるよ。
おろく 何だ。まッ昼間だというのに、刀を抜いて暴れ込んできやがったのかい。どこのどいつが喧嘩の尻を持ち込んだのだろう。
太郎吉 おばあちゃん行って追払っておくれよう。
おろく おい来た。安どまりのかかあだよ。おきぬさん心配おしでない。喧嘩や刃物にゃ慣れっこだ。
おきぬ おかみさん。わたし達のことは構いませんが、時さんのことだけは黙っていてあげてください。
おろく あアいいとも、客のことを一々喋らせられてたまるものか。安心しておいで。(廊下へ出る)
おきぬ こっちへおいで。何、大丈夫だよ。(怯えながら太郎吉を呼び寄せ、庇って坐る)
おろく (廊下の奥をのぞき)そこに立ってるのは人間か棒杭ぼうくいか。薄ッ気味のよくねえ人達だ。
苫屋  (ずかずかと出て来て)婆さん、今子供がここに入ったな。
おろく 知らないね。お前さん方は何だね泊めてくれというのかい、お客様かい。
大野木 (廊下の奥から出て)ヘン、助けておくれよ婆さん。俺達はまだこんな処へ泊る程コケてはいねえ。
おろく 客じゃねえのか。客でもねえ者がずかずか入ってきて、何だい。出て行きな。
苫屋  婆、愚図愚図いうない。俺をだれだと思ってやがる。聖天親分の処へ、助ットに来た下総の住人苫屋の半太郎だ。
おろく 大きなことをいうない。聖天親分の処へ来たといやあ、この間中からもつれてる喧嘩に、腕貸しにきたばくち打ちだろう。
大野木 婆さん。なりを見ても知れそうなものだ。
おろく ばくち打ちを自慢そうに何をいやがるのだい。家で知ってる人なぞは、元はれっきとしたばくち打ちだったらしいが、おくびにもそんな処は出さねえぞ。おやおや、この人達は土足であがりやがって。まあ呆れ返った。他人様の家へ土足で踏込む奴があるかい。聖天親分の処に来ている半太郎といったな。(大野木に)お前の名は何というのだい。
大野木 向う息の荒い婆さんだ。
おろく 名前はねえのか。
苫屋  帰るからいいじゃねえか。
大野木 これでなくちゃ安どまりの女房は勤まるめえ。(笑って出て行く)
おろく 大きなお世話だ。手前チの世話にゃならねえ。潮花まいてやるぞ。(後から追うようにして行く)
太郎吉 (障子をあけてのぞき)おっかちゃん。行っちゃったよ。
おきぬ ああ、よかった。
太郎吉 小父さんが居るといいのになあ。あいつ等、斬られッちまわあ。
おきぬ 居なくって丁度よかった。居たらどんなことになったかわかりやしない。
時次郎 (途方にくれつつ裏から入ってくる。急に気を取り直し、廊下へあがり障子をあける)
太郎吉 小父さん。
時次郎 あいよ。おきぬさん、まだ大丈夫らしいね。
おきぬ ええ、まだ四、五日は。
時次郎 シケたことをいうようだが、五、六日あとになってくれれば有難い。その中には何とか都合がつく。おや、そりゃ産衣かね。
おきぬ ええ。ほんの型ばかり。みっともないなぞいってはいられませんからね。
時次郎 (溜息をつく)
太郎吉 小父さん、もう少し早くくればいいのに。
時次郎 そうかい。小父さんは、ちっと用があって、うろついていたんだ。
太郎吉 下総の家へ刀を抜いて来やがった奴が今来たよ。
時次郎 え。(おきぬに)だれが来たんでござんす。
おきぬ わたしは見ませんでしたけれど、苫屋の半太郎に大野木の百助の声らしゅうございました。
時次郎 えッ、あいつ等が――。
安兵衛 (安どまりの主人。外から帰ってきて、廊下へ出てくる)時さんはここかな。
時次郎 ええ、ここにいます。
安兵衛 今お前の部屋をのぞいた所さ。儲け口があるのだがどうだね。ちっと荒っぽ過ぎる仕事だがね。
時次郎 銭にさえなれば骨惜みはしませんよ。仕事というのは何でござんす。
安兵衛 うむ。その仕事か。(おきぬに気がねして)どうだい時さん、おいらの御殿へこねえか。渋茶でも飲ませよう。それから話そう。
時次郎 へい。今直ぐ伺いますですが、日当は。さもしいようだが、何分このていたらくなので、三文だって余計欲しうござんすからね。
安兵衛 これだ。(指を一本出す)昼夜十二ときブッコ抜きだよ。
時次郎 有難え。一分にありつけるか。
安兵衛 違う違う一分じゃねえ。
時次郎 (やや落胆して)一朱かね。
安兵衛 違う違う一朱じゃねえ。一両だ。魂消たまげたか。
時次郎 うン、一両とは、魂消た。
おきぬ 昼夜ブッコ抜きにしても一両とは。どんな仕事なんでしょう、少し心配だねえ。
安兵衛 そりゃね、心配は心配な仕事さ。でなくて一両なんて出す訳がねえ。
おきぬ どんな仕事でしょうか。聞かせてくださいませんか。
安兵衛 (いい兼ねる)
時次郎 は、はは。仕事はあっしがするのだ。産婦さんは黙って養生してるもんですぜ。なあおきぬさん。元の渡世へ戻りさえすれば、うぬに銭金ぜにがねびた一文なくても、食う寝るには困らねえ。だが、三蔵どんのあの態を見るにつけ、やくざ渡世がふるふる厭になったというお前の料簡は、俺にも可成りピーンときたから、生れ故郷の追分をお前のいとで流しの稼ぎだ。それも今では出来なくなって見れば、やくざの道じゃ一ッぱしのつもりでも、素ッ堅気の道にかけては取り柄のねえあっしだ。子供相手のおもちゃ売り、かすかな儲けで三人の口を、ぬらしたり干したり、から意気地のねえ今だ。一両の日当と聞いては飛び立つばかりだ。仕事は何だか知らねえが、あっしも男一匹さ。やって見るから安心しなさるがいい。太郎坊、小父さんが一両儲けたら、うめい物を食わせるぞ。生れる赤ちゃんにも、木綿ながら新しいのを産衣に買おう。
おきぬ す、済みません。(泣く)
時次郎 ああ、泣いちゃいけねえ。泣かせるとていったのじゃねえ。あっしは勢いをつける積りでいったのだ。
安兵衛 (黙って障子を閉め、自分の部屋へ行く)
時次郎 一両ありゃ、お七夜に、鯛という訳にも行くめえが、おかしらつきで祝えるよ。じゃおきぬさん、あっしは一両の口をきめてくる。
おきぬ どうぞ何分お願いいたします。太郎吉、お前、小父さんにお辞儀をするんだよ。
太郎吉 小父さん、頼むよ。
時次郎 いいってことよ。(廊下へ出る)
おろく (廊下の奥から出て来て)時さん。おとっさんが儲け口があるといってたが聞いたかい。
時次郎 え。これから伺ってよく聞かして貰う処です。
おろく そうかい。時さん。やくざの足を洗うだけあってお前はなかなか感心だよ。それにつけても、さッきの奴等は人間だか棒杭だか訳がわからない、一層棒杭の方が口をきかないだけに、ずっとしだ。
時次郎 なんかでまた腹を立ててますね。(おろくのあとに付き安兵衛の部屋へ入る)只今の一両の口を是非ともお世話なすってくださいまし。何しろ赤ン坊が生れる矢先でござんすから。へい。
安兵衛 (渋面をつくり、煙草をくゆらせていたが)それがな時さん、駄目なんだ。
時次郎 駄目。駄目じゃ困る。ね、どうして駄目なんでござんす。先方から断ってきたんでござんすか。
おろく (茶を入れながら)おや、変な風向きになったね。
安兵衛 断りになぞくるものか。向うじゃアテにしてる位のものだ。
時次郎 じゃいいでござんしょう。あっしは行きていのだ、一両の金が咽喉から手が出る程欲しいのだ。
安兵衛 だが、いけないよ。駄目だ。
時次郎 何んで、いけねえ、駄目でござんすえ。
安兵衛 やくざ渡世がふるふるお前は厭になった人だろう。だから駄目さ。
時次郎 ええ。
安兵衛 一両の口というのは、お前にもう一遍、やくざになれという話なのだったよ。
時次郎 元のばくち打ちになれ一両やろう、というのでござんすか。
安兵衛 昼夜かけて十二刻限り、ばくち打ちになれば日当が一両、とこういう話なのだ。
時次郎 わかったようで、わからねえなあ。
安兵衛 実は、お前の性根をおいらは買ってるのだから、いくらでも稼がせたいと思っているとな。それこの土地には八丁畷はっちょうなわての徳さんという親分がある。一ト口に八丁徳さんという。もう一人互角の勢いの親分は聖天しょうでんの権太郎さん、これを一ト口に聖権さんという。おいらも若い時馬鹿してやくざの飯をちっと食った。そんなことで今も八丁徳さんと懇意なのだが。(声を落して力を入れ)今度、八丁徳さんと聖権さんと喧嘩でいりになった。もともとばくち打ちの喧嘩だ。意地だ、男の面が立たねえといった処で、理窟に振り代えてみると、なあに大したことはねえものさ。だが意地張りずくだから、坂を馳け出した車と同じことで、止めるに止まらねえというものさ。いやこいつは時さんにいう講釈じゃなかったっけ。
時次郎 じゃあ、八丁徳さんに腕を貸せ、日当は一両、という話だったんでござんすか。
安兵衛 八丁徳さんは後手ごてに廻り、人数を集めたんだが散っていて碌に集まらねえ。そのことからおいらが思いつき、一人いい人をすけに出すから、おいらに小遣いを一両くれろ、然し一昼夜限りでその人は返してくれといったんだ。時さんまさかお前が一両で雇われたんじゃ、顔が潰れるからと思ってなあ。
時次郎 行こう。あっしを遣っておくんなさい。
おろく 一両はまことにいいけれど、ばくち打ちの喧嘩に助ッ人に行くのはねえ。
安兵衛 そこだ。おいらもツイふらふらと一両儲けさせたい一心で、思いついて八丁徳さんにいってしまったが、今になりゃ後悔だ。何しろドス竹槍でする喧嘩だ。命がけだからなあ。
おろく おとっさん。下手へたして時さんが死にでもしてご覧。おきぬさんも生きてはいまいよ。
安兵衛 年効としがいもなく考えが到らなかった。時さんこの話は水に流しておくれ。
時次郎 そうはいかねえ、あっしは行こう。一両、結構だ。死んだら死んだで何とかしてくれるだろう。
安兵衛 止めにしたらどうだなあ。
時次郎 なあに行く、あっしは行く。命を庇うより一両が欲しい。(安兵衛に)今のあっしの料簡がわかってくれますか。
安兵衛 わかるとも、時さん。お前、男だ。
おろく ほんとだ。
時次郎 (安兵衛に頭をさげ)じゃああッしのいうことを聞いておくんなさい。えッ何もいうな、聞いてくれ、合点してくれ。頼む、頼みだ。お頼み申す。(何事か囁く。夫婦はそれに応じて答える。おろくは手を振って拒む、やがて承知する)
時次郎 じゃ、どうかお願いいたします。
おろく この年になって始めて追分の三味線を弾くのかねえ。
安兵衛 (コソコソと)糸道のあいてない婆さんが弾くてことは、年代記物だな。
おろく 仕方がない。刻限一杯は、姪の処へでも行って油を売って胡麻化ごまかそう。
安兵衛 とんだ藪入やぶいりだ。
時次郎 それで、聞き憎いことでござんすがその、一件は、金はどうなるので。
安兵衛 金はまだ貰ってやしない。こうしよう。お前さんを連れて行って親分に引き合せ、おいらが一両貰って先へ帰り、おきぬさんに渡すとしよう。
時次郎 そうしてくだされば大助かりでござんす、何分お願い申します。ちょいとおきぬさんに断って、直きに出かけますから。(安兵衛の部屋を出ておきぬの部屋へ)おきぬさん、芸は身を助けるだねえ。俺の追分を在方ざいかたから一ト晩買いにきたって話だったよ。吾ながら驚いたよ。だが有難い、棄てられた気でいた世間には、拾ってくれる人もあったんだ。
太郎吉 小父さん、どこかへ行くのかい、おいらも一緒に行こうか。
時次郎 きょうはいけねえ。今度の時に連れて行くぜ。
おきぬ 時さん、追分を唄わせて一両くれるのですか。
時次郎 大枚たいまい一両をくれるとよ。こんないい口は外にはねえ。
おきぬ そうかねえ。(見棄てられる気がして、沈黙)
時次郎 じゃ行ってきまさ。坊やおっかちゃんのいうこと聞いて、温和おとなしくしているんだぜ。
太郎吉 おいら、行きていなあ。
おきぬ 成ろうことならあたしも行きたい。
時次郎 えッ。(喧嘩の助ッ人と知られたかと驚く)
おきぬ 女は浅はかだ。いつ何時でも邪推がついて廻る、ご免なさい。堪忍してください。あたし達ゆえにあなたという人の自由が利かなくなったと、そればかり気にしているものだから、在方へ呼ばれて稼ぎに行く矢先にも、これっきりでどこかへ行ってしまやしないかと――。(泣く)
時次郎 そいつは怨みだおきぬさん、俺が何でお前達母子を見棄てるものか。時次郎は故郷の沓掛を飛び出し、親兄弟に不人情をしている男だが、これでも何処かに情合だけは残っている人間なんだ。帰ってくるとも、帰ってくるとも、きっと、俺は帰ってくる。
安兵衛 (出かける支度をしている)
おろく (高座着と見せかける包をつくり安兵衛に指図され廊下へ出る)おきぬさん。お前の穴埋めに、あたしが三味線ひきに雇われちゃったよ。お前さんの三味線があるといいのだが、質にはいっていたっけね。それじゃ姪の処のを借りて行くとしよう。
安兵衛 時さん、出かけよう。一件の刻限はお定まりだ。日が暮れてから明方までだろう。
時次郎 直ぐ、あとから出かけますでござんす。
安兵衛 おきぬさん、日当の金一両は確においらが受取って持ってくるよ。(おろくと共に出て行く)
おきぬ (時次郎の手を握り)済みませんけど、後生だから、本当に帰ってきてください。お願い申します。
太郎吉 小父さん、おいら寝ずに待ってらあ。
時次郎 (太郎吉に)あすの昼までに屹と、帰ってくる。
おきぬ (出て行く時次郎を障子の処まできて見送る)屹と、帰ってきておくんなさい。(廊下へ顔を出して)ね、後生ですお願いです。
太郎吉 小父さん帰ってくるかなあ。
おきぬ ああ。お前もそんな気がするのかい。(抱き緊めて泣く。やがて苦しみ出す)
太郎吉 あッ大変だ。おっかちゃん、おっかちゃん。(廊下へ走り出して)小父さん、小父さん来ておくれ。
時次郎 (引返し来たり)どうした。おっかちゃんどうかしたか。(おきぬを見て)こいつはいけねえ。(介抱する)
安兵衛 (おろくと共に引返す)どうした。おきぬさんしっかりしなよ。
おろく (笑って)騒いじゃいけない。逆上させるといけないよ。(安兵衛、時次郎に囁き介抱にかかる)
時次郎 あ、そうか。(虫気づいたと知る)
安兵衛 (廊下の奥に足音を聞きつけ)だれだ。
博徒  (足拵え厳重に、廊下を爪先歩きして)火急の場合、失礼お許しを願います。八丁徳が申します。お話の助ッ人の方に、至急おいで願いたい――かようでござんす。
安兵衛 直ぐ参ります。
博徒  ご免なんして。(去る)
時次郎 出掛けましょう。(引返しておろくに)頼みますぜ。
おろく 男が居たって邪魔だ。行った行った。(おきぬを蒲団に坐らせ、枕を力にさせる)太郎坊、隣へ行って、おいらがいったってな、あすこの小母さん引ッ張ってきな。
太郎吉 あいよ。(駆け去る)
安兵衛 さあ行こう。こうなりゃ何より金が入り用だ。
時次郎 違えねえ。おきぬさん。安心して待ってなよ。あすの昼は、赤ン坊の子守は俺がしてやるぜ。(外に騒ぎが起る)おや。
安兵衛 日の暮れるのが待ち切れず、もう始めたな。おッ、方々の家で大戸を卸す音がする。
時次郎 (安兵衛の手を掴み)間に合わねえと大番狂わせだ。
安兵衛 表通りはもう行かれまい。裏通りがいい。こっちだ。こっちだ。
時次郎 合ッ点だ。(桜の木の下を抜けて、安兵衛と共に走り出す)

第二場 宿外れの喧嘩場


苫屋の半、大野木の百、その他聖権方の博徒数人が武装して休息している。
博徒一 一体全体、勝負はどうついたのだろうな。
博徒二 そりゃ俺達の方が勝ったのよ。
博徒三 はっきり左様そうわかったのか。
博徒二 わかりゃしねえが、そうきめとくのよ。
博徒一 だが、妙な野郎が出てきたんで、勝負のつく処を二度まであいつ等の方が盛返しやがった。八丁徳の方も飛んだきつい奴がいるなあ。
博徒三 あんな畜生にあっちゃあ敵わねえ。俺は危ぶなく首がふッ飛ぶ処だった。
博徒二 一体あいつは何処の奴だろう。
大野木 みんなが目をつけてるあの野郎はね、信州沓掛の時次郎ッて奴さ。
苫屋  あの野郎に出合いていものだ。下総で一度。――ここで一度。――今度こそは奴が斬られるか俺が斬られるかだ。
大野木 磯目の鎌吉はあの野郎のために命を落したんだからなあ。今度こそやっちまおうぜ。
苫屋  皆さん見ていておくんなさい。運があって野郎にあえば必死の勝負をして見せまさあ。
博徒一 (竹槍をつきつけ)だれだ? 名をいえ。
安兵衛 (忍んで通り抜けんとして見付けらる)おいらだ。宿の安どまりの亭主安兵衛だ。
博徒三 宵でもあることかもう夜明け近いぞ、胡散うさん臭い爺め。――八丁方の斥候いぬだろう。
安兵衛 冗談いっては困っちまう。おいらは宵の口から宿へ帰ろうとしているんだが、どっちへ行っても聖権さんのお身内が固めていて通らせねえので、あっちへ行きこっちへ行き、泥ぼっけになって草臥くたびれてるんだ。もう夜明けか。(天を仰ぎ)成程、空が白ンできた。
博徒二 喧嘩がすむまで待ってろい。
安兵衛 勘弁してくれ。そんな呑気な真似はしてられない。おいらは構わねえが大事な届物をことづかっているんだ。そんなことをいわないで通らせておくれ。
博徒三 いけねえ。
安兵衛 ひどいなあ。吹けば飛ぶような親仁の一人ぐらい通したっていいだろう。
苫屋  何だ、通したっていいだろうと。乙に指図がましくいやがるな。二言といってみろ、首が飛ぶぞ。
安兵衛 悪かったら詫びをいうよ。だから通しておくれ。
博徒一 いけねえ。
安兵衛 いけねえかい。困った。時さんに面目ないなあ。
大野木 何、時さんとは沓掛の時次郎か。
苫屋  時の野郎を知ってるのか。通してやるから野郎をここへ連れてこい。
時次郎 (皆の背後よりぬっと出る。八丁徳に貰った長脇差、鉢巻、襷、草鞋がけ)沓掛の時次郎が親仁さんに連れられてさあ来たぞ。親仁さん通んなさい。
安兵衛 あいよ。
大野木 どっこい、通さねえ。
時次郎 約束が違うぞ[#「違うぞ」は底本では「違うそ」]、通せい。
苫屋  厭だい。やい時。忘れたか俺だ。六ツ田の三蔵の家以来だな。
時次郎 苫屋の半太郎に、大野木の百助か。
苫屋  勝負しろい。(刀を抜く)
時次郎 勝負がしたけりゃ一人で勝手にしていろ。こっちゃ急ぎだ。(一人の博徒を捉えて苫屋に叩きつける)
大野木 野郎。(斬ってかかる)
時次郎 (皆を相手に抜刀をせず争闘し、苫屋の外は悉く泥田へ投込み蹴込む)この野郎(苫屋を押えつけ)親仁さん。もう大丈夫だ、急いで行っておくんなさい。だが、さッきの一両、失くしやしねえでござんしょうね。
安兵衛 あるよ、確だ。貧乏人の俺が預かったのだ。ちゃんと腹へ巻きつけてる。じゃ行くよ。
時次郎 頼みます。(安兵衛の去るを見送る。苫屋、ね返して斬ってかかる)じたばたするない。本当なら叩っ斬るんだが、今の俺は斬らねえよ。その代りこれだッ。(泥田の中へ投込む、泥田から這いあがろうとする大野木その他、苫屋のために再び落込む)
博徒  (四、五人、駆け来る)身内の衆はいねえか。身方は総崩れだ、引きあげろ、逃げろ。(駆け去る)
時次郎 (物蔭に一時隠れる。出てきた時は、苫屋、大野木等の逃げた後)おお夜が明けた。(空が赤くなる。わッわッとときの声が聞える)おう、八丁徳さんの方で凱歌かちどきをあげてるな。こうなりゃ俺の日当だけのことは終ったんだ。ああ気になり出した。行こう行こう、大急ぎで行こう。(驀然まっしぐらに宿の方へ走る)

第三場 元の安泊り


桜の花は咲き切ってもう散りかけている。おきぬの居た部屋はガランとして、僅かに香華を供えた名残りを見せている。沓掛時次郎が太郎吉を連れて出立した後である。
安兵衛 (茫然として縁側に腰かけ)婆さんや。もう大分行ったろうなあ。
おろく ああ、宿を、遠くはなれちゃったろうよ。(涙を拭く)
博徒  ご免ください。お声をかけましたが、一向ご返事がないので、失礼をわきまえず押して通りました。真平まっぴら[#ルビの「まっぴら」は底本では「まっびら」]ご免くださいまし。
安兵衛 はい、はい。こりゃ八丁徳さんの処のお身内の衆。
博徒  八丁徳がお目にかかりに参っております。
安兵衛 そうでしたか。それはどうも。まあ汚ねえがこっちへ。
博徒  へい、左様、申します。(引返す)
八丁徳 安兵衛さんご夫婦ご免なさいよ。(子分を三人連れて入ってくる)
安兵衛 まあ、こっちへ、どうぞ。
八丁徳 はい。失礼いたします。(座につき)この頃中はいろいろ有難うございました。お前さんが向けてくれた助ッ人は沓掛時次郎さんという商売人だと、あとで聞いて成程そうかと膝を叩きましたよ。あの人ひとりで切って廻し、十人に一人の小勢で、出入りはどうやらこっちが勝目さ。きょうはそのお礼をいい旁々かたがた時次郎さんに折入って相談があって参りました。
おろく 時さんにですか。
安兵衛 後手だ。遅かった。もう時さんはここにゃ居ませんよ。左様さようさ、もう宿外れから五、六丁も行ったろう。
八丁徳 草鞋を穿いちゃったか。惜しいことを。――のう安兵衛さん、立つなら立つで、一度俺に知らせてくれそうなものだった、恨むぜ。
安兵衛 ごもっともです。きのうがおきぬさんの初七日で、きょうはまだ一日居るようなことをゆうべいってたが、急に出立するようになったのは、親分もちっと悪かった。
八丁徳 わしに悪いことがありましたか。
安兵衛 きのうの法事に、親分は、ばくち打ちとしての交際つきあいで、おきぬさんの法事に人を寄こしたでござんしょう。時さんはね、親分の前でいっちゃ悪いが、ばくち打ちに愛想をつかしている人なんですよ。
八丁徳 うむ成程。(自ら恥ず)
安兵衛 可哀そうなおきぬさんも、ばくち打ちはふるふる厭だといっていたっけなあ。おきぬさんは亭主でも情夫いろでもねえ時さんの世話になって、生んだ赤ン坊と共に死んじまった。親分、おきぬという人はね、夜明けまでは、自分の気一つでもがきにもがいて生きていた。なあ婆さん。
おろく (何もいえず泣いている)
安兵衛 だけど、時さんが喧嘩の場所から矢のように飛んで帰ってきた時は、冷たくなっていたっけ。
おろく 息を引き取る時まで、時さんに逢いたい、時さんは帰ってきてくれるかしらと、いい続けていましたよ。
八丁徳 (憮然として)わし達の渡世は、泣きを見たり見せたりだ。(やがて子分に何か命ずる。子分は桜の木にのぼる)
安兵衛 時さんもそんな風なことをいってましたよ。太郎吉ッておきぬさんの子を、ばくち打ちに育てたくねえってね。
おろく 遠州にあの子の祖父さんがいるってから、そこへ連れて行くのでしょう。
安兵衛 そうして時さんはお百姓になるのだろう。ばくち打ちの親分になって贅沢するよりも、すきくわもって五穀をつくるのが人間の本筋だって、ゆうべもつくづくいってました。
子分  (桜の上で)親分、宿外れは手にとるようです。
八丁徳 時さんの姿は見えねえか。
子分  見えます。あれがそうでござんしょう。
八丁徳 見えるか。(安兵衛に)桜を荒して済まねえが許してください。遠くなった時さんのうしろ姿に、せめて頭の一ツもさげたいのでね。ご免なさいよ。(桜の木にかかる)

第四場 宿外れの路傍


骨箱を樹の伐株の上に置き丸腰の時次郎、宿を眺め追憶に耽る。太郎吉は石を拾いて積み合掌す。
太郎吉 ウン字を唱うる功力くりきには、罪障深き我々が、造りし地獄も破られて、忽ち浄土となりぬべし……(和讃を唱える)
時次郎 お前、そんなこと、だれに教わったんだ。え、え。
太郎吉 宿のおじいさんとお婆さんにだよ。こうすると死んだおっかちゃんが、おいらの声を聞いて安心するんだとさ。ああ、おいら、おっかちゃんに逢いてえや。
時次郎 もっともだ。俺も逢いてえ、逢って一ト言、日頃思ってたことが打明けてえが――未来永劫、もうおきぬさんにや[#「おきぬさんにや」はママ]逢えねえのだ。
太郎吉 (忍び寄る人の姿に)小父さん、あッ、危ぶねえッ。
大野木 野郎ッ。(斬り付けて引ッ外される)三度目の正直だぞ。
苫屋  今度こそ間違なく首にするんだ。(斬り込む)
時次郎 またか、五月蠅うるさい奴め。(敵の刀を奪い闘う)
太郎吉 ああ、斬っちゃ厭だ。ああ、死んじゃ厭だあ。(泣き叫ぶ)
時次郎 (躓き重なる敵二人を、一度に刺し殺そうとする)
太郎吉 (時次郎の腕に食い下る)小父さん、厭だ、厭だあ。
時次郎 放せッ。(太郎吉の頭を終に撫ぜる)斬った処でどうなるものか。心配するな坊や。それよ。(刀を投げ返す)
太郎吉 (骨箱を抱え)小父さん、行こうよ。
時次郎 お、行こうね。坊や、深い馴染の宿はあすこだ。
太郎吉 おじいさんお婆さん、左様なら。
時次郎 仕合せで長生きをしておくんなさい。(二人に)手前達、命はたった一ツ、大事につかえ。な、な。(歩く)
苫屋は坐った儘、ぽかンと空を見あげる。大野木は太郎吉が造りし小石の墓に路傍の草花をとって手向ける。
昭和三年六月作





底本:「長谷川伸傑作選 瞼の母」国書刊行会
   2008(平成20)年5月15日初版第1刷発行
底本の親本:「長谷川伸全集 第十五巻」朝日新聞社
   1971(昭和46)年5月15日発行
初出:「騒人」
   1928(昭和3)年7月号
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2019年5月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード