中山七里 二幕五場

長谷川伸




〔序幕〕 第一場 深川材木堀
     第二場 政吉の家
     第三場 元の材木堀
〔大詰〕 第一場 飛騨高山の街
     第二場 中山七里(引返)


川並政吉    女房お松  酒屋の作蔵
おさん     川並金造  同百松
流浪者徳之助  同三次郎  同高太郎
同おなか    同藤助   同老番頭
亀久橋の文太  木挽治平  猟師
餌差屋の小僧・恐怖した通行人・空家探しの夫婦・酒屋の小僧・深川の人々・高山の人々・そのほか。
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〔序幕〕




第一場 深川材木堀


深川木場の材木堀。秋の日が西に傾きかけた頃。
堀の中には角材が浮いている。堀際には立木があり、一方には木挽こびき仕事座しごとざ、一方には水揚みずあげした角材がある。

木挽の治平が角材を枠にかけ、き目に時々せんを打ち込んでは、膝を立て腰をあげさげして、鋸をズイズイと入れている。
川並かわなみの三次郎(五十歳近い)が、角材の下に転木ころぎ――二本か三本――を入れ、そのゆがみを正しながら「ようッこのウ」と音頭をとっている。三次郎の使用した鳶口の付いた竹棹――それは川並専用の道具――は、立木にもたせ掛けてある。
川並の藤助、金造その他は鳶口棹を角材に打ち込み、三次郎の取る音頭の、ようッこのウを受けて「よう」と曳いている。

三次郎 ようッこのウ!
藤助等 よう。
三次郎 (手を挙げ)待った待った、ここでいいとしよう。さあテコをかってくれ、コロを抜いてしまうから。
金造  おい来た、そらよ。(鳶口棹を木製のテコに持ちかえ、角材の下に入れ)ううむ。
藤助  待て待て俺が一丁加わるから。(テコを入れ)それ来た、よいやさの、ううむ。
金造等 ううむ。
三次郎 もうちッともうちッと。よし来た。(コロを一本抜き取り)ご苦労ご苦労。さあもう一丁。(次のコロを抜きにかかる)

名ある旗亭の女中おさん(二十二、三歳)通りがかりの振りをして川並の仕事を見ている。
木挽治平、のっそり挽き目に栓を打込みかけ、おさんに心づいて見ている。
おさん、川並たちの中に求める男が見えないので、あちこちと見廻す。
治平はニヤニヤしながら仕事にかかる。
おさんは思わず前に出て、抜き取られて放り出してある一本のコロに躓く。

おさん あれ。(よろめいて地に坐る)
藤助  (おさんに背中を向けてテコを入れている)だれでえ。女のくせに仕事場の邪魔に来たのは、もし不浄な体だったら、俺達が災難にあうかも知れねえんだぞ。
三次郎 (笑いながら)黙れよ藤の字、顔をよく見てから啖呵たんかを切れ。
金造  本当だあ。ほかの人じゃあるめえしなあ、おさんさん。
おさん (とっくに起ちあがり着物の塵を払い)ご免なさい、そそっかしいもんだから、飛んだお邪魔をしてしまって済みませんねえ。
藤助  なんだ政ちゃんのジタバか。こいつはいけねえ。そんなら剣身けんのみを食わせるんじゃなかった。おさんさん、ご免よ。悪気があって云ったんじゃねえから。
三次郎 そうそうその通り。ただそそっかしくって云ったんだ。
金造  おさんさん何か用かえ。政ちゃんはあっちで仕事をしてる、呼んでやろうか。
おさん いいえ、別に用はないんですけど――。
三次郎 (金造に)気の利かねえ黙ってろい。きょう初めて仕事先へ来たおさんちゃんじゃあるめえし。
おさん え。
三次郎 おさんちゃん怒っちゃ厭だよ。冷かしや調戯からかいずらに俺あいうのじゃねえ。心安立こころやすだてにペラつく口なんだ。何をおめえ、女房にもう直きなる女が、亭主ときまった男に首ったけなのは、この上なしいことなんだ。俺の処なぞは、朝出て晩方帰るまでは、嬶の奴め、亭主を胴忘どうわすれしてやがる。
治平  どこの家でも嬶は同じだわい。
金造  ほう。木挽さんも。嬶に惚れて貰えずにいるのか。
藤助  そこへ行くと金の字、俺やお前は一人身で、気が楽だ。
おさん まあ、みんなであたしを。口が悪いねえ。(行きかける)
三次郎 ちょっちょっ、待ったおさんちゃん、そう急ぐにも当るめえ。もう政ちゃんも上ってくる頃だ、一服して行きなよ。
おさん え、でも、また参ります。皆さん左様さようなら。
藤助  剣身を食わした入れ合せに、伝言ことづてを承わって置こうか。
おさん え(不安になりて)何の伝言を。
金造  知れたこと、晩のおかずに何を持って行くかということさ。
おさん (安心して快闊に戻り)まあ。ホホホホ。左様なら。(去る)
金造  (おさんを見送る)
藤助  おうおう金の字。いくらよだれをたらしてもいけねえよ。お前と政ちゃんとでは、代物の出来が大分違うぜ。
金造  そうじゃねえよ[#「そうじゃねえよ」は底本では「そうじやねえよ」]藤的とうてき。この頃のおさんさん、ちっと変じゃねえかい。俺あそれで思わず見送っていたんだ。
三次郎 また詰らねえことをいい出しやがる。よせよせ。
藤助  (金造に)そりゃ何のことだ。
三次郎 聞くなというのに、仕様がねえ。(コロやテコを集める)
金造  この頃、おさんさんが眼に立ってやつれて来たってことよう。
藤助  そういえば、俺も気がついていたんだが。何故だろうなあ。
三次郎 おおかた、体の調子でも悪いのだろう。いくらいい女だって他人のもの、そう気にするのはお節介というもんだ。
金造  それがさ、今の様子では浮々うきうきと、嬉しそうにしているが、あれで一人になると鬱陶うっとうしい顔をして、どこを見詰めているのか、じっと眼を据えて、涙ぐんでいるんだとよ。俺もきのうの夕方、そういう処を見てしまったんだ。
三次郎 手前も見たのか――そうか。
金造  (三次郎に)叔父御おじごもそれを知ってたのか。
三次郎 ううむ。とっくに気が付いていた。だが、だれだって所帯を持つとなれば、嬉しい中にも苦労はある。おさんちゃんだってたまには屈託な顔もするだろうし、溜息だってつくだろうよ。それを一々噂の種にする奴があるもんか。
金造  それなら俺あ気にしねえんだが、どうも只ではねえらしい。気になってならねえから、さっき政ちゃんに聞いてみたんだ。
三次郎 馬鹿、馬鹿だなあこいつは。ずけずけと当人に、そんなことを聞く奴があるもんか。
金造  まともに聞きやしねえよ。処がだよ、政ちゃんのいうのには、俺あ自慢じゃあねえが、自分の女に溜息をつかせるような真似はしていねえというんだ。
藤助  じゃあ何も知らねえてんだな。
三次郎 よせったらよ。さあ一服しょうよう一服しょう。

鳶口棹を角材にのせ、テコやコロを尻にして三人共雑談に耽る。
治平、鋸屑が眼に入り、いろいろすれど取れず困っている。

川並の政吉(二十七、八歳)堀の中の仕事を済ませ、鳶口棹を担ぎヒョイヒョイと調子をとって堀に浮かぶ角材を渡ってくる。

治平  これはいけねえ。(自分で息を眼へ吹きあげる)ふツ、ふツ。こりゃ[#「こりゃ」は底本では「こりや」]いけねえ。ふツ、ふツ、こりゃ駄目だね。
政吉  (陸へ飛びあがり)治平さん、何でえその恰好は、ああ眼えおがくずでもはいったか。
治平  政さんだね。何ね、眼の奴が鋸屑の中へ飛び込みやがって大苦しみさ。ふツ、ふツ。
政吉  何だ、眼の方で鋸ツ屑へ飛び込んだのか。頓狂だな、お前の眼は。
治平  え。はあ、云い違えたか、ハハハハ、笑わせやがる。
政吉  そりゃ俺の方でいうことだ。(鳶口棹を立てかけ)どれ取ってやるからこっち向きな。汚ねえ眼をしているなあ、朝、顔を洗わねえのか。
治平  政さんは男もよしキップもいいが、口だけはよくねえわい。
政吉  もうちょいと、上瞼うわめを引っ繰り返しな。
治平  おいしょ、こうか。
政吉  さあ取れた。おや、そっちの眼もか。ご念が入ってやがるなあ。

岡ツ引き亀久橋の文太郎(三十七、八歳)煙草休み三人の川並の後に来て、順に顔をみる。
金造  おやっ、これは親分さんで。(不安を抱く)
文太郎 金公か。この間みてえなことを、二度としちゃならねえぞ。
金造  ええ、もうあんな馬鹿な喧嘩は致しません。
三次郎 (藤助と顔を見合せ、黙っている)
文太郎 政吉ってのはだれだ。おめえか。
藤助  政ちゃんならここにゃ居ません。
文太郎 はてな、おさんの奴きょうは休み番か。家で二人、へばり付いているのだな。
藤助  いいえ。一番堀で、奥州物に乗ってますよ。
文太郎 そうか堀の中か。おうお前達の内で、政がおさんのことを何かいったのを聞かなかったか。
三次郎 え、薩張さっぱ[#ルビの「さっぱ」は底本では「さっば」]りそんな話は聞きません。
文太郎 そうか。政が角物に乗ってる堀とはどこだ。おう金公、あの川並はだれだ。
金造  (仕方なしに)ありゃ政ちゃんでさあ。
文太郎 あいつがそうか。金公当人に俺のことをいうな。
金造  へい。(不安をまた深くする)
文太郎 (三次郎等に)お前達もしゃべるな。(十手をちらりと見せ)ご用筋なんだからのう。
三次郎 へっ、ご用筋。
文太郎 仰々しい声を立てやがらあ、黙ってろという傍から何て声をしやがる。なんて、これは表向きさ、煙草のみは意地が汚ねえ、一服つけて行こう。
金造  (仕事着を脱ぎ角材にのせ)親分、お掛けなさいまし。
文太郎 うむ。(三次郎等に)どうだ、この頃いいのが出来るか。
三次郎、藤助は曖昧な返事を頭だけでしてシラけている。
治平  やあ有難う、お蔭で大助りだ。
政吉  そんなに礼をいいなさんな、働きッとは持ちつ持たれつだあ。
治平  そう云われると、もっと礼がいいたくなるわい。(仕事座に就き鋸の目を立てる支度をする)
政吉  お前なかなかお世辞者だなあ。(三人の方へ近づく)
文太郎 (政吉に近づき立ち塞がって顔を見る)
政吉  (文太郎の顔を凝視して、三次郎等の方に近づこうとする)
文太郎 (摺れ違って政吉の手首を掴む)
政吉  (かっとなり、振り払う)何をするんだ。
文太郎 (冷酷な薄笑いを浮べ)お前だな、政吉ってのは。
政吉  え、政吉はあっしだが。
文太郎 俺あ、こういう者だ。(十手をちらりと見せる)今のは冗談よ。
政吉  人を、面白くもねえ。何のことでえ。
文太郎 そうポンつくな。俺はけちな、奴でも、真向に戴いてる御用の二字は金箔捺きんぱくおしで光ってるんだぜ。それはそうと政、もし何か思案に余ることでも出来たらやって来い。俺のことあお前の仲好しの金公がよく知ってる。親類になった気で、屹と、為をはかってやるからなあ。
政吉  へえ、そうでございますか。まずそんな用はありそうもねえ。左様なら。
文太郎 それだったら天下泰平、世話なしでいいなあ。(去る)
政吉  厭な野郎だなあ。御用風ごようかぜを吹かせやがって、あくの強え縛り屋だ。ペッ。ペッ。あいつは何処の馬の骨だ。
金造  この間二軒茶屋の前で、つくだの者と喧嘩して、相手に疵をつけた時、俺を庇ってくれたのはあの人だよ。
政吉  亀久橋の文太郎ってあの男か。お前に聞いた時あ、たいした立役たちやくだったが今のザマじゃあんまりそうでも無えや。好かねえ野郎だ。
藤助  政ちゃんお前今の人に、何か怨みを買ってるんじゃねえか。
政吉  心当りは皆目かいもくねえが、そんな気ぶりが見えたのか。
藤助  云っちゃならねえといったんだが。
三次郎 よさねえか。くだらねえことを。
政吉  そう聞くと気にかかる、話の善悪は構わねえ、聞かせてくれ。
藤助  じゃ云うが。
三次郎 藤の字、手前、口が軽すぎるぜ。
藤助  じゃあ云うめえ。
政吉  そうか。面と向って俺にいえねえ話なんだな。
三次郎 政ちゃん気を悪くしちゃいけねえや。くだらねえ話だから俺あとめたんだ。
政吉  あらかた俺にもわかっている。藤の字、おさんのことだろう。
金造  え。(不安をひどく感じる)
藤助  そうだよ。お前知ってたのか。
政吉  うむ知ってるんだ。その話はみんなが知ってるのか。世間にぱっと広がって、知らねえのは俺だけなのか。
藤助  な、何をいうんだ。そりゃ話が少し違うらしい。
政吉  違うもんか。おさんのことは人一倍俺が知っていなきゃ嘘だ。
三次郎 政ちゃんお前勘違いしてるぜ。こうなりゃ云うが、今の人が聞いたのは、お前達三人の内で、政が女のことを何とか云っていなかったかと、ただそれっ切りの話だ。
金造  (熱心に、政吉を宥めたくて)そうだとも。
藤助  それにこの叔父御が受け答えをして、何も聞いちゃ居りませんと云っただけだ。
政吉  それならそれでいいとしとこう。
小僧  (木挽を呼びにくる)きのう挽いたつがが寸法違いだというぜ、治平さんちょいと来なよ。
治平  そんな訳はない、墨打すみうち通りにやらかしたんだ。(口小言をいいつつ小僧と去る)
金造  政ちゃんお前、顔の色が悪いな、けさだって悪かったようだが、風邪でもひいたのか。
政吉  風邪か。うむ、そんなことだろう。
三次郎 (話題を打ち切るために)さあ、二番堀へ行こうぜ。
三次郎、藤助、金造、道具を分担して持つ。
政吉  (沈思している)
三次郎 政ちゃん、お前も二番堀へ行くんだろう。
政吉  俺あ行かねえ。
金造  (はっとする)
藤助  何故よ。
政吉  ハネ出し物が二本残ってるんだ。そいつの始末を付けなくちゃならねえ。
三次郎 そうだっけな。じゃあ俺達は先へ行こう。(藤助と共に去る)
金造  政ちゃん、お前、本当にどうもしていねえのか。
政吉  どうもしちゃ居ねえ。
金造  隠しちゃいけねえや。お前とは餓鬼の時から一緒だよ。お前の顔つきが一番よくわかるのは俺なんだぜ。
政吉  え。
金造  お前のその眼つきは、八幡様の祭の大喧嘩以来、この三、四年にゃなかった眼つきだ――お前はだれかを怒ってそんな怖い眼の色をしてるんだ。
政吉  金公、お前にゃ隠せそうもねえ、俺あなあ――よそう。云うめえ。
金造  お前、もしや――なあ、もしや、おさんさんのことじゃねえのか。
政吉  矢っ張り知ってやがる――この野郎だって知ってやがるんだ。
金造  そう取っちゃいけねえよ。俺は何にも知りゃしねえが、おさんさんのことをもしや変に疑いでもしてるんなら大間違いだと俺あいうぜ。
政吉  何にも知らねえという傍から、おさんを疑っちゃいけねえとは、どうして云えるんだ――手前、俺よりもこの一件をよく知ってやがるな。
金造  な、何をいうんだな。
政吉  (金造の胸倉をとり)さあ話して聞かせろ、泥を吐け、相手はだれだ、云って聞かせろ。
金造  な、何をするんだな、おい政ちゃん、何をするんだな。
政吉  (突っ放し)手前にゃいえめえ。俺には相手はだれだかわからねえが、確に俺より上の奴だ。それだから手前もいえねえんだろう。五分と五分の奴が相手だったら、手前はきっと俺に教えてくれる筈だ。
金造  そうじゃねえ、全く俺は知らねえんだ。
政吉  何をぬかしゃがる。手前が俺にいえねえのは、相手の野郎が恐いからだ。ううむ、あん畜生だな。亀久橋の文太郎って野郎だな。
金造  まさか、あんな奴に。おさんさんはそんな人じゃねえよ。
政吉  それじゃだれだ――手前にゃいえねえだろう。聞くめえ云うなよ。俺が勝手に聞き出して、この埒は付けてやる。
金造  いけねえ、そ、その眼つきが俺にあ怖い。なあ政ちゃん、短気はよしてくれ。第一、有りもしねえ疑いをかけられておさんさんが可哀そうだ。
政吉  何をしようと俺の勝手だ。おさんは俺の物だ。だれだろうとかれだろうと俺のものをふんだくれば。くそっ、承知するもんか。
金造  だれも、どうもしてやしねえじゃねえか。
政吉  じゃあ何故、御用聞きのキザな野郎が、変に厭がらせの脅しをかけに来やがったんだ。
金造  ありゃお前、話が別ッ個だ。
政吉  五月蠅うるせえっ。あっちへ行け。行かねえか。
金造  行くよ。だが。
政吉  俺あ一人ぽっちだ、親も兄弟もねえんだ。親類もねえんだ。こういう時あ悲しいなあ、泣いて話を聞いてくれる人が俺にゃ一人もねえんだ。
金造  そりゃそうだが。俺あ政ちゃんの弟同然なんだぜ。俺が一生懸命になってるのが、お前わかっちゃくんねえのか。
政吉  済まねえ金公。俺あ一人ぽっちと云ったっけ、悪かったな。安心してくれ、いくら俺でも、そう無闇むやみな真似をするもんか。
金造  本当にそうか。え、政ちゃん、本当か。
政吉  本当だとも。さあ、油を売ってたようで外聞がいぶんが悪い。俺もハネ出し物を三番のいかだへ寄せに行こう。手前も早く二番堀の仕事に行け。
金造  じゃあ、今夜、俺と二人でゆっくり、話をするって約束をしてくんな。
政吉  うむ、いいとも。
金造  屹とだな。さっきだっておさんさんは、いつもの通りお前の顔を見に来たんだ。それだのに疑っちゃ可哀そうだ。
政吉  あいつ来たのか――俺に口一つ聞かねえで帰ったんだな。
金造  そりゃ、みんなが居たから、気まりを悪がって帰ったんだ。
政吉  どうでもいいや。
金造  じゃあ帰りにゃ一緒に行こう。
政吉  うむ。(仕事にかかる気で鳶口棹をとる)
金造  (心配しつつ去る)
政吉  (仕事にかかる気になれず、考え沈んでいる。水揚げの掛け声が聞える)ええい。どうでもいいやい。
おさん (木挽の枠の方にそっと来ている。声をかける勇気がなく、躊躇している)
政吉  おさんじゃねえか。
おさん あ、政さん。(政吉の傍へは来たが眼に射すくめられ地に膝をつく)
政吉  (鳶口棹を地に突き立て、おさんを睨み下して)俺のところへ来い――厭とはいわさねえぞ。
おさん (覚悟すべき時がいよいよ来たのを知っている)ええ、行きます。(ガクリ俛首うなだれる)
政吉  さあ、行け。(引き起し)行かねえか。(突き飛ばす)
おさん あれ。(よろよろとなる)
政吉  (憎悪に燃えて、今にも殺すかと見える)

第二場 政吉の家


内側から入口の方に向って見た、政吉が男一人の借家、午後、次第に日が暮れる。
神棚に白紙が貼ってあるのは、最後の肉親者が死んで一年以内を暗示するもの。
家の中は政吉の潔癖を語っている。壁に政吉の着換えが吊しかけてある。
土間にはよき、釘箱、金槌、背板その他がある。
一方は庭という程でもないが竹垣で仕切り、秋草と少しの木が植えてある。
一方は空家、大分、すさんでいる。入口の雨戸が開いていて、その前に人家はない。
物売りの声が聞える。

空家の中に夫婦者が来ている。亭主は女房に相談をかける、女房は「この家ではご免だ」という手真似をして、入口の戸を閉めずに共に出て行く。
表通りを車力が通る。「ほうてえ、ほい。ほい。ほうてえ、ほい」と聞える。
空家の前を悲しげなおさんと、沈痛な政吉とが通る。
おさん (政吉の家の戸が開いて、突き飛ばされて入る)
政吉  (入口を閉め、おさんを睨み、上へあがらせ、土間の片隅を探し、そま屋のつかう古いよきが手に触れるので、土間へ抛り出し、釘箱と金槌を持って、入口の戸を釘づけにする)
おさん (政吉のすることに恐怖し、釘の音を聞いて苛責を受ける気がして、畳にひれ伏し咽び入る)
政吉  (金槌を抛ち、畳の上にくる)おさん。俺がそんなに怖えのか。ええ、泣くねえ、泣きてえのは手前より俺の方だ。俺あ身寄りも何にもねえ一人ぽっち、それを知ってるなあ。――だから俺にとってたった一人の女は、俺が生きてる命の綱だ。手前、その、俺の命の綱だってことを忘れやがったなあ。そりゃあ余りひでえ。俺が厭になったら、何故、邪慳に扱ってくれねえのだ。すげなくされりゃ無え縁だと諦めも付いたろうに、お前は上辺うわべ以前もとの通り、俺に心中立しんじゅうだてをしてる振りをした。現にきょうも俺を胡麻化すつもりだろう、のめのめとやって来やがった。
おさん そ、そりゃ余りだ余りだ。
政吉  狐め、だましゃがるない。
おさん お前は何と思っていても、あたしの方の心に変りはない。お前の怖いその眼で睨まれて、身顫いしてる今だってお前を嫌いだの厭だのと、決して思っていやあしない。
政吉  そ、その口前くちまえだ。俺を地獄へ突きおとすのか。くそっ、もうだましには乗らねえぞ。
おさん ああ、あたしゃ一層殺されたい。死んだ方がいいのだろう。
政吉  殺せだと。よし殺してやる。(土間のよきを携げ来たる)
おさん (怯えて壁に倚る)殺されよう。殺しておくれ。その代り――その代りに。
政吉  何だと。
おさん あたしがお前を想っているこの心だけはわかっておくれ、さもなければ、あたしゃ死にたくない、殺されたとて死に切れやしない。(泣き倒れる)
政吉  (よきを抛ち)それ程の料簡を持ちながら何で、俺を踏みつけにした。この阿魔あまあ今になっても、俺を騙す気だな。
おさん いいえそうじゃないそうじゃない。ね、お前さん、あたしの体は、いかにもお前さん一人の物じゃもうないんだ。
政吉  それ見やがれッ。畜生め。(よきを取る)
おさん 待っとくれ。(政吉の腕に縋り)待っとくれ――だって仕様がなかったんだ。あたしゃ受身の弱い女なんだ。企みのわなにのせられた上に、金の威光で厭がいえない、家のおかみさん始め朋輩だって、みんな向うに味方をして、岡ッ引の文太郎までが、脅したり厭がらせたり、いろいろにするんだもの――それじゃあどうにもこうにも、あたしの力じゃあかなやしない。
政吉  そ、そんな云い訳を聞くものか。てごめにされたとは古い奴だぞ。
おさん そんなら政さん、お前さんがあたしだったらどうおしだ。
政吉  命がけで守らあ。いつでもいうことだが、一人ぽっちの俺を、寝ざめにも忘れねえとお前のいう言葉が嘘でなけりゃ命がけで身を守らあ。何故その場で相手の野郎を殺さねえ、そうして身を守ってくれたのなら、俺あどんなに泣いて喜んだか知れやしねえ。
おさん そう考えるのは男の邪慳だ。女じゃそうは考えつかず、出来もしやしないんだ。
政吉  そんなら何故、死なねえんだ。他人ひとの垢を浴びた体で、のめのめと俺に近づいた、その料簡が俺あ憎い。憎いよりは悲しくなる。
おさん 死のうとはその時から考えついていたんだけれど。
政吉  じゃあ何故、死なねえんだ。
おさん だって――お前さんにあたしあ、――未練があって死ねないんだ。(泣き伏す)
政吉  (よきを擲ち、おさんを見詰める)

金造  (空家の前を過ぎ――政吉の家の戸を開けんとする、到底開かずと見て――空家へはいり、隣へ入る口はなきかと、うろうろする)
政吉  俺あいい過ぎた、自分のことばかり考えていて、お前の身にはちっともならずにいた。悪かった。
おさん 憎しみが少しはとれておくれかえ。
政吉  うむ。女は弱いので損だなあ。
おさん あたしゃこれで、もう、死んでもいい。
金造  (漸く隔ての壁の貼紙に心づき引剥す、下は木舞竹こまいだけあらわな壁穴。木舞竹を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしり)俺だ俺だ。俺を入れてくれ。
政吉  (土間にある背板で、壁穴を覆う)相手は一体だれだ。まさか、俺の落度おちどを見つけたがって、方々聞いて歩いてる亀久橋の文太郎じゃあるめえな。
おさん いいえ――ね、そりゃ聞かないでくれないか、聞いたら却って気もちが悪いからねえ。
政吉  何故いえねえんだ。手前が隠す処をみると、(再び奮激して)畜生っ。(よきを取る)
おさん ええ。どうなろうと構うものか。お前さん、金ずく腕ずくで、あたしを、あたしを、こんな破目に落した男の名をいうよ。
政吉  だれだ。どいつだ。
おさん お前が毎日働いてる先の餌差屋えさしやの旦那だよ。
金造  (壁が毀れぬので、近所へ得物を借りに飛び出す)
政吉  あいつが、餌差屋の旦、旦那が、本、本当だな、間違いねえな。
おさん お前が世話になってるから、それを思っていわなかったんだよ。
政吉  (殺意を生じて)ようし。
おさん あれ、お前さん、ど、どこへ行くの。
政吉  (おさんを突き退け)金せえ出しゃ、世の中のことは、どうともなる気でいやがらあ。べら棒め、汗水たらして働いて取る金だ、お情で戴くのじゃねえ。旦那がフン、聞いて呆れらあ。待ってやがれっ。(おさんが止めるのを突き退け、突き倒し、庭の竹垣を叩き破って飛び出す)
おさん (泣き倒れ、やがて帯の間から覚悟の剃刀を出し、壁にかけた政吉の着換えを取って抱きしめ、自害する)
金造  (鉈を持って空家へ飛び込み、隔ての壁を破って政吉の家へ飛び込み)政ちゃん政ちゃん――おさんさん、おさんさん。政ちゃん。
空家の入口に一、二人、近所の者が駈け付けて顔を出し、のぞき込む。

日はとッぷり暮れている。

第三場 元の材木堀


月が照っているその夜の材木堀。木挽が挽いていた角材が二つになって、その一方は地上に、一方は枠にのせられ、明日の仕事となっている。
砂村の方でする囃子の練習が、切れ切れに聞える。

二、三人の通行の男が、恐怖して逃げて通る。
政吉  (よきを携げ、金の入った財布の紐を腕にかけ、引き摺るようにして蹣跚まんさんとして来たる、殺人をやった後である)
金造  (後より跟いて来たる)政ちゃん。(口がきけなくなる)
政吉  (モガモガと口を開き、辛うじて)金公か。
金造  お、お前、やったな。
政吉  やった。うむ、やった。餌差屋の奴め、財布を出して、これで勘弁しろ、多寡が女中じゃねえかと云やがった。勘弁するもんか。畜生、ふてえ奴だ。(歩き出す)
金造  ど、どこへ行くのだお前。
政吉  家へ行くんだ。おさんが待ってらあ。
金造  駄目だあ、おさんさん、剃刀で咽喉を切って、お前の衣物を抱き締めて、死んでいるぜ。
政吉  (暫く答えず)そうか。死んだか。(よきを力なく落し)ううむ、死んだのか。
金造  お前、逃げなくちゃいけねえだろう。
政吉  俺あな――俺あな、また一人ぽっちになった。(歩む)
金造  (見送る)目も当てられねえ。死んだおさんさんも可哀そうだ。生きてる政ちゃんお前は、尚、可哀そうだなあ。(角材の上に泣き伏す)
政吉  死んだのか。そうか――おさんが死んだとよ。(よろめいて去る)


〔大詰〕




第一場 飛騨高山の街


飛騨高山の宮川みやがわに臨む街の一部。九月下旬の闇の夜。
宮川の岸に並ぶ家々に灯が点ぜられ、遠く見える城山の麓と中腹とにも、灯が点々と見える。宮川の流れに灯が倒影している。
胡弓の咽ぶ如き音色、四ツ竹の悲しげな響きが、初め遠く聞え、唄が近くなれば音色も近くなる。
男の声 (遠く)鳥も通わぬ、嶽山たけやまなれど住めば都の、懐かしさ。
女の声 (近く、哀切な声)飛騨の高山、高いといえど低いお江戸が、見えはせぬ。

飛騨高山の宮川畔の一部――前に同じ場所――秋晴れ麗かな日。
宮川に沿う岸の家々は京都風に近き建築にて、板の屋根に丸石を置く。
処々に樹木がある。
遠く見える城山しろやまには少し紅葉が混っている。
手前の河岸には、酒造家の白壁土蔵が何戸前か並び、小さな社が台石の上に祀られ、前には低き木柵、柵の中に松の木を一本植えてある。その外れに酒造家の入口。
樽をつくる音が長閑に聞えてくる。

酒つくり宮の花の若い衆作蔵、百松、高太郎、小僧、樽つくりの職人、町の人、在の人など立ちつ踞りつ、若い衆の棒押しを見物している。
小僧が一人飛んで来て、顔に両手の指をかけ、醜面をつくり、老番頭が来たと合図する。
急に働く者、立去る者などがある。
老番頭、帳面をひらき見ながら来たる。人々を一瞥して去る。一同、軽くほっと息をして、後を見送る。
百松  叱言こごとをいわれなかったね。あれで柄になく声がいいのだから人は見掛けによらないものだね。
高太郎 だれだってあのおやじが、高山一のいい声だなんて、本当にしやしないよ。
作蔵  今年ことしも十六日からの盆踊りで、あの人ぐらいいい声のはいなかった。宮の次郎でも、平湯ひらゆの又さんだとて、岩瀬いわせの角三郎だって、較べ者にはならなかったね。
職人  (盆唄をうたう)八賀はちが上野うえので、高山みれば、浅黄暖簾が、そよそよと。
一同、手を拍き、口囃子を入れる者がある。
百松  うまいうまい。やかまの節そっくりだ。おい余吉よきちさん、来年の秋にはその声で、桜山さくらやま八幡様の境内をワッといわせるがいいよ。
老番頭 (引返し来たり)だれだ今のは。(一同尻込む)叱るのじゃない。いい声だったな。それに感心なことによくわしの節を覚えてとっている。余吉お前か。そうか。その声を知ってたら今年の盆踊りに音頭をとらせたものを。それはそれとして、唄もたまにはいいが、仕事を忘れちゃいけないのう。(去る)
作蔵、百松、長太郎の他は去る。
高太郎 聒し屋のおやじと来ると、一年中で笑うのは三度か四度だ。よくよく笑うのが嫌いなおやじだね。
作蔵  ところが。きのう宵の口に、筏橋いかだばしそばでにっこり笑ったよ。
百松  どうして。
作蔵  ほら、女の方が胡弓をすって、男の方が四ツ竹とかいうのを鳴らして歩いてる若い夫婦者が、この頃ここへ来てるだろう。
高太郎 うむ、あれか。あの二人がこの高山へ入ってくる時、宮峠みやとうげで水を飲むとて女の方が笠をとったそうだ、茂平がそれを見たんだそうだ。高山にもあんないい女は無かろうといっていたよ。
作蔵  そうかも知れない、顔は見ないがいい姿をしてるからね。
百松  さすがの大番頭さんも、女がいいので相好そうごうを崩したというのかね。
作蔵  なあに唄だよ。あの女の悲しい節だよ、聞いてるとつい涙っぽくなるあの唄に、おやじ感に入ってにっこりしたのさ。あの唄は恰度この高山の秋だね。ここの秋は短い、もう直ぐに冬がくる。
高太郎 秋といえば今年は栗の出来がいいそうだ。
作蔵  大番頭さんの聞いた唄の文句は、何とかいった、そうそう。さらばというに森の蔭、かすかに見えるは菅の笠さ。
高太郎 哀れっぽい文句だね。
作蔵  どうせ江戸からでも流れて来た人達だろう。
百松  江戸か。江戸といえばここから七十八里、しかも難渋な嶮岨な[#「嶮岨な」は底本では「瞼岨な」]路だ。そんな遠いところから山坂やまさかを越して来た人達かねえ。
高太郎 いずれは色恋の末だろう、よくある奴さあ。
百松、高太郎は樽を担いで去る。
作蔵も樽を担ごうとする。

亀久橋の文太郎(三十八、九歳)女房お松と通りかかる。
文太郎 (作蔵に)若い衆。ここは行き止まりじゃなかったな。
作蔵  土蔵について廻れば筏橋へ出ますよ。やあ、だれかと思ったら文太郎さんか。
文太郎 何だお前か、すっかり大きくなったな。俺あきのうこっちへ来たんだ。去年、親の石碑もでかいのを建立したしするので、来ようとは思いながら御用が多くてつい延々のびのびさ。今度やっとこさと法事に出掛けてきて、東山ひがしやま大雄寺だいゆうじ下の勘兵衛のうちに当分いるから遊びに来な、江戸の繁昌を話して聞かせてやらあ。
作蔵  その内におとっさんがいいと云ったら遊びに行こう。
文太郎 ふうむ。まだ独りで出歩であるきは出来ねえのか。(お松と顔を見合せ、冷笑して)田舎者はだから厭だ。
作蔵  田舎者でもいいさ。江戸ではどうか知らないが、高山ではよく云わない人のところだから、親に黙って遊びには行かれないよ。
文太郎 ふん。儘にしろい。(お松に)おう、馬鹿面を見てても始らねえ、行こう。
お松  田舎の人って割に口が悪い上に、ものを知らないのだねえ。あたしが鼻っ先に立っているのに、挨拶一つしないでさ、しかもジロジロ見ているくせにさ。呆れたねえ。
文太郎 まあいいやな。相手は朴念人ぼくねんじんだ。
作蔵  その人は内儀おかみさんか。この前来た時のと違ってるから、内儀さんではないと思った。
文太郎 何をいやがる。
お松  いけ好かない野郎だねえ。(文太郎と共に去る)
老番頭 (外出しかけて見ていて)今のは文左の倅の文太の奴だろうな。
作蔵  ええ文太の奴ですよ。
老番頭 厭な奴が帰ってきたものだ。あいつは子供の時から根性がよくなくてな、喧嘩口論でもしたが最後、いつまでも根に持っている奴だ、小狡こすからくって裏表があるから、わしは昔からあの男が大嫌いだった。
作蔵  直き江戸へ行ってしまうでしょう、早く行ってくれた方がいい。
老番頭 あんな奴が江戸で十手をお預り申してるというが、飛んだことだ、高山だったら屹と牢へ入れられてる奴だ。(去る)
作蔵  (酒樽を再び担ぎかける)

零落して的もなく流浪する徳之助(二十四、五歳)とおなか(二十一、二歳)が来たる。徳之助は四ツ竹、おなかは胡弓をすりて、門付をして糊口している。
作蔵、酒樽を担ぎ、二人を顧みて去る。
おなか (疲れと飢のために目眩めまいを起す)
徳之助 どうしたい、また気分が悪くなったと見えるね。ここで少し休むがいいよ。
おなか え。この頃は毎日、あなたに介抱させるばかりですもの、済みませんねえ。
徳之助 また、そんなことをいう。見ず知らずの旅、他国を流れ歩いてれば、味方はお前とあたしとたった二人きりだよ。介抱するのもされるのも、お互い様のことじゃないか。
おなか そう優しくされると、あたし、有難いやら、悲しいやら、意気地いくじもなく泣けて泣けて仕様がありません。
徳之助 水でも貰って来てあげようか。
おなか え。でも、ようござんすの。
徳之助 欲しいのだろ。知らない人の家へ貰い水に行くのを厭がったのはずっと前のことさ、旅を重ねてこの頃では、随分図々しくなった徳之助だよ。貰ってきてあげるから、ここで待っておいでよ。
おなか ええ。済みませんけど、それではどうぞ。
徳之助 何の、雑作ぞうさもないことさ。(酒造家の方へ行きかけ)我ながら旅ずれがしてきたかと思いながら、らくに育った者の意気地なしで、大きな構えの家へは行き難い。こっちの方の小さい家で貰って来てあげる。
おなか あなた。あなた。
徳之助 え。何だえ。
おなか かわらへ下りて、川の水を飲みましょう。
徳之助 そんなことをしないでも、貰って来てあげるから待っていておくれ。いいかい。(去る)

政吉(二十八、九歳)飛騨風俗、江戸を出て逃げ歩き、交通不便の飛騨の久々野くぐのに隠れ、三里余りの高山へ、きょう用足しに来ている。
政吉  (自殺したおさんに生き写しの姿の流浪の女を見つけ、前に一度跟けて歩いたが見失い、ここまで来て再び見つける。おなかの傍を通り過ぎたが、おなかは俯むいていて顔が見えぬ。立ちどまり凝視する)
おなか (目眩が鎮まったので、川を見る)
政吉  (おなかの顔を見て、我を忘れ)おっ、おさんだ。おさん、俺だ。(はっとして逡巡する)
おなか え。(気味悪く思い、助けを空しく求め、後退りする)
政吉  あ、もし。だしぬけだったので、さぞ肝を潰したでしょう、勘忍してくださいよ。
おなか え。いいえ。いいのでございます。
政吉  ほっ、お前さん、江戸ですね。
おなか ええ。そういうあなたも、この辺の人とは違ったお言葉。
政吉  ええ。あっしは江戸の深――なに江戸で永らく奉公していました。
おなか (答えず、眼は怖れと警戒とで油断がない)
政吉  (恋々れんれんとして話をしたがる)つかぬことを伺いますが、お前さん、こっちには、何か縁故があっておいでなすったか。ここは江戸とは不通ふつう同然の山の中だが。
おなか いいえ別に。
政吉  こういっては失礼だが、いくら零落おちぶれてても、門付にまで成らずとも。いやこれは飛んだ出過ぎた云い方。怒らないでください、あやまります。
おなか あたし、連れの者がございます、向うで待っている筈ですから。
政吉  さっき川西かわにしの方で見かけてから、ずっと跟いて来たのですから、一人旅とは思っちゃいません、さだめし深い訳ある人と、その姿になっても厭わねえ旅でしょう。こういったからとて岡焼や、厭味を並べる気じゃねえんだ、馬鹿をいうようだがお前さんと、あっしの死んだ女房同然の女とが、似ている段か、そのままなんだ。あんまりよく似ているので、こうして話をしていると男のくせに愚痴っぽい、江戸のあの頃が思い出されてなりません。
おなか (徳之助の来たるをしきりに待ち)どうしたのだろう。まだ来ない。あなたご免ください。
政吉  (立ち塞がるともなく立塞がり)見ず知らずの変な奴だとお思いでしょうが、あっしの方ではお前さんを、死んだおさんだと思うのだ。そんなに青くなったり、顫えたりしねえでください。あっしはお前さんをいじめる気持じゃねえ、出来たらお助け申してえくらいに思っている。少しの間顔を見せてやってください。迷いに曇ったあたしの心を、お恥しいがお前さんの顔がどのくらい慰めてくれるか知れません。昼日中の往来端でいけ図々しい野郎だとお思いだろうが。
おなか (こらえ切れず)あれ、わたしは、あちらへ。
政吉  邪魔をして済みません、もう直ぐお別れいたします。本当に直きお別れ申します――と云って、立って動かねえあっしだ、よくよく厭な奴とお思いでしょうが、思われても仕方がねえのだ。もう参ります。そんなに睨まねえでください。今別れたら、あっしはこの飛騨の山と山とのあいだに一生いる体。お前さんは何処の空の下へ行く人か――どうも済みませんでした。お別れ申します。(行きかける)
おなか あ、もし。
政吉  へ?
おなか そんなにわたしが、おさんさんとやらに似ているのでしょうか。
政吉  気のせいか、声までが――それも迷いなんでしょう。
おなか この高山ではあたし達、稼ぎが細くていけません故、どこかの国へ行くつもりです。そうすれば二度とまた、お目にかかりはいたしますまいから、追い立てなどは致しません。もう、わたし、厭な顔もいたしますまい。
政吉  (眼をしばたたく)
おなか わたし達二人も、添われぬ縁の悲しさに、一度は死ぬ気になりましたが、生きていてこそと心が変り、お恥しいこの有様で、知らぬ他国をうろつきます。あなたは想う人に死に別れ、わたし達は二人揃っているとはいえ、雨も風も邪慳に当り、泣き合う日もございます。
政吉  云って悪いか知れねえが、いもつらいも二人なら、泣きの涙のその中にも楽しみみていなものもあろう、それを力にわずらわねえよう、気をつけてお行きなさい。永くいたら迷いが却って深くなる。(財布から銭を出し)ほんの少しでお恥かしいが、草鞋二足はこれで買えます。さ、取っておくんなさい。
おなか 有難う存じます。(胡弓をとり直す)
政吉  もし、唄なら聞くまい、ひょっとして、この上、悲しくなっては怺えられねえ。
おなか でも、おあしを戴きましたから、面白くもない唄ですけれど。
政吉  縁があってまた逢ったら、お二人揃っている時に聞かせてお貰い申します。
おなか (頭を下げて銭を仕舞う)
政吉  (未練を深く持ち、立ち去りかねている)
徳之助 (狼狽して駈け来たり)ああおなか。さあ逃げるのだ。(後を振り返り)悪い奴に出会ってしまった。そら、あ、あの亀久橋の文太郎の奴。
政吉  (ぎょッとし、危険を感ずる)
徳之助 どういう訳だか、あいつ、この土地に来ているんだよ。あいつの国はここだったと見える。
おなか えっ、あの悪者が。まあ。
徳之助 貰った水も抛り出し、急いで駈けて帰ってきた。さあ行こう、あいつに見付かったら、お前の身の破滅だからねえ。
おなか (徳之助の腕に縋り)逃げるといっても、わたしはこんなに意気地がないし。どう、どうしましょう。
政吉  (早速の隠れ場所と、小さき宮の後に潜む)
徳之助 こんかぎり逃げるより他はありゃしない。さ、一足でも先へ逃げのびよう。
文太郎 (追いかけ来たり)さあ見つけた。逃げられるものかい。(徳之助を突き倒し、おなかの手首を掴む)それどうだ。この辺の田舎目明しとは訳が違うぞ。
おなか (身を悶え)とうとう、こいつの手にかかった。もう――もう駄――駄目になりました。(泣き伏す)
徳之助 文太さん、お前だって少しは情けをご存じだろう。おなか、気を落すには当らないよ。文太さん、弱い女に手荒い真似はしないでください。
文太郎 手荒にしてもいい筋があるのだ。しかし、ここからは、越中にしろ、美濃にしろ、また木曾へ抜けるにしても、街道といえばお定まり、逃げたところで袋の中同然だ。情けをかけて手は放してやる。やい徳之助、手前、空っ呆けりゃいいものを、慌て返って逃げ出すから、まるで寝た児を起すようなもの、お蔭様で火付け兇状のおなかを見つけ、飛んだみやげの拾い物をした。おなか、手前は江戸へ送ってやるから、この世の地獄に、永逗留ながとうりゅうをするがいい、そんなざまで銭貰いをするよりは気が利いているぞ。
徳之助 どうでもおなかを連れて行くのか。文太、お前はあたしの家が繁昌の頃は、随分世話になった男、それが今では打って変り、わたしにつながるおなかを、執念深く眼の敵にするとは、義理も人情も、知らない男だ。
文太郎 俺は御用を勤めてるのだ。御用先じゃ文太郎の根性骨は鉄石だ、僅な義理人情に負けて勤まる御役と思ってやがるか。(おなかに)ここの御陣屋は川向うだ。情けで縄は赦してやる、さっさと歩け。
おなか こいつの企みに乗せられたと、わかっていながら濡れ衣がせないのは、わたしの不運だと諦めましょう。あなたあなた、わたしは江戸へやられます。ご無事でいてくださいまし。
徳之助 お前ばかりをやるものか、あたしも一緒に付いて行こう。
文太郎 手前には用がねえ。
徳之助 たとえ一町二町離れていても、あたしは屹とお前に付いて江戸へ行くよ。
文太郎 付いて来たくば勝手に来い。泊り泊りのお慰みに、唄を聞いてやってもいい。(おなかに)いつまでめそめそしていやがるんでえ。
徳之助 待っておくれ文太さん。おなかが火付けしたなどとは、お前の見込み違いなのだ。
文太郎 文句があるなら江戸へ来い。お白洲しらすの砂利の上で、云えるものなら申しあげろい。何をいやがるんでえ、火付をしてずらかった芸者を連れて高飛びすれば、手前も同罪を免かれねえ処を、元は少し世話になった潰れた大家たいけの道楽息子だから、人情をかけて見逃がそうと、骨を折っているのがわからねえで、好き放題をほざきやがると、一緒に江戸へ差立者さしたてものにしてやるぞ。
徳之助 あ、そうしておくれ、そうされれば本望だ。
おなか あなた。あなたは温和おとなしくして、こいつにさからわずにいてください。こいつはあたしに厭なことをいって、断わられたのを根に持って、恰度、火事になったのを幸い、あたしを火付けに落して、敵討をする気と知れていながら、いくら手向っても上役うわやくの旦那方にうけのいいのがこっちの因果。弱い者いじめをされて、こいつに厭々押し潰されるより仕様がありません。
文太郎 俺の讒訴ざんそはそれで仕舞いか。では出掛けるぞ、さあ歩け。愚図つくと手荒くするぞ。
徳之助 おなか、あたしが悪かった。家の中のごたごたから勘当されて自棄でいたから、焼け出されて逃げて来たお前と、二人一緒にいたさに後さきなしの無考むかんがえで、江戸を離れたのが悪かったのだ。その罪はわたしにある。おなかはただ、あたしに付いて来ただけなのだ。
文太郎 五月蠅えなあ。さあ歩け。(おなかを突き飛ばす)
徳之助 (おなかを庇い)何をするんだ、怪我でもしたらどうするのだ。
文太郎 何をするものか、突き飛ばしたんだ。足がのろいと容赦なく、大道中だいどうなかを引摺って行くぞ。
おなか (決心して)いつの世でも、弱い者は負かされるのが通り相場、あなた、あたしは死んだ者と、思い切ってくださいまし、ね、ね。
徳之助 いいえ、わたしは諦め切れない。
文太郎 ええ埒のあかねえ奴等だ。(おなかを引摺るように引き立てる)
徳之助 (妨げんとする)
政吉  (この以前より、幾度か決心して逡巡し、遂に飛び出して、文太郎の眉間をつ)
文太郎 あっ。痛え。(倒れる)
政吉  (おどおどする徳之助とおなかに)逃げるんだ。さあ、びっくりしていねえで早く逃げろ。さもねえと俺のしたことが無駄になる。筏橋の方へ早く行け、それからの道案内は俺がする。
徳之助 (おなかを連れて必死に逃げて行く)
政吉  (倒れている文太郎に注目し、殿しんがりの積りで、そろそろ引揚げかかる)
文太郎 野郎っ、やりやがったな。(起ちあがる)
政吉  (文太郎の襟に手をかける)
文太郎 やっ政か、政吉だなっ。
政吉  ジタバタするねえ。(絞殺しかける)

作蔵、高太郎、百松、その他、何事かと飛び出して見る。
政吉は文太郎を絞殺するに隙なく逃げ去る。
作蔵等、文太郎の周囲に集まる。
「水を持って来てやれ、水だ水だ」という者がある。
作蔵  (独り離れて)俺あ厭だ、文太郎の奴では、水もやるのは惜しい。
文太郎 (よろめいて起ち)野郎ッ逃げたな――逃がすものか。(政吉等の去れるとは、反対の方へよろめいて歩く)
一同、あっ気にとられて見ている。
作蔵のみは冷嘲している。

第二場 中山七里(引返)


南飛騨の勝景、中山七里の一部。前の日よりも一両日余り過ぎ、満山の紅葉、今を盛りと色づいている頃。
益田川の清流に臨みし細き街道、川沿に奇巌怪石がある。
ところどころ松の木、紅蔦のからまれるものもある。
亀久橋の文太郎、旅装軽快にいでたち、急いで来たる。高山の御用聞きに助勢を乞い、同行したが、途中ではぐれてしまい、今は一人でいる。猟師が獲物を腰にさげて通る。

文太郎 おうおう聞きてえことがあるから、待て。
猟師  旅の衆か、何だね。
文太郎 此方の方へ男二人と女一人とが来やしなかったか。女は胡弓を持っているんだが――お前、胡弓って物を知っているか。
猟師  そんな物は知らねえさ。
文太郎 知らねえか、ならそれでいい。今いった男二人に女が一人、通らなかったか。
猟師  おら、見なかったよ。
文太郎 そうか。じゃあ俺の方が先手せんてに廻ったか、そうだとすると占めたもんだ。
猟師  その人達は何だね、お前の連れか。
文太郎 よしてくれ。お尋ね者を友達にゃ持たねえ。
猟師  えっ、お尋ね者だとね。
文太郎 そうよ、お尋ね者よ。男は江戸で人を殺した奴、女は、これも江戸で火付けをした恐ろしい奴等なんだ。俺あ、それこれだ。(十手をちらと見せる)どうだ。わかったか。
猟師  おお、お前さんは目明しか。
文太郎 そうよ。江戸じゃ名の売れた岡ッ引よう。おうおう、もし途中で、今いったような奴に会ったら黙って行け、迂闊に口をきくと飛んだことになるぞ。それから、高山の御用聞きの連中にはぐれたんだが、逢ったら俺のことを話してくれ。忘れると後でたたるぞ。
猟師  はい、はい、わかりました。(行きかける)
文太郎 こいつは一本道だったな。
猟師  (振りむいて)はい、美濃の加納かのうへ行くならこの道だ、下原しもばら金山かなやま太田おおたと出て行くさ。
文太郎 木曾へ抜けるにゃ何処から入るんだ。
猟師  この先の佐和さわからも行けるよ。
文太郎 そこまでは此の道一と筋だな。
猟師  そうだよ。
文太郎 よし、もう行ってもいい。どれ、もう一とのしして網を張るか。(去る)
猟師  (文太郎を見送りて去る)

政吉、久々野の我が家で着換えたので、江戸を出た時の旅支度になっている、脇差を腰にしている。徳之助とおなかと、扶け合いつつ政吉の後からついて来たる。
政吉は二人の仲を妬ましく思い、ともすると殺意が出たり中止したり、又、殺意を生じ自省する。

政吉  ここまではいい按排あんばいに逃げ終せたが、まだ安心は出来やしねえ。(徳之助を斬りにかかり、反省する)高山からここまではかれこれ十四里もあるだろうから、多分大丈夫、とは思うが油断はならねえ。もう少し踏ん張って見よう。
徳之助 政吉さん、済みませんが、これが大変疲れたらしいから、少し休んで行ってはいけますまいか。
政吉  ああいいとも。それじゃ一服して行くかね。(徳之助を殺しかける、又も反省する)ここなら、たとえ文太郎の奴が追っかけて来ても、此方が先に目付けるから安心だ。逃げるにかまけて、左程にも思わなかったが、さすがここいらは名の響いた中山七里、いい景色だなあ。
徳之助 おなか、見てごらん、いい眺めじゃないか。
おなか え。――見る限り、紅葉で一杯、まあ美しい。
徳之助 (おなかと共に四方を見て歩く)
政吉  (徳之助を殺そうとして思いとどまり、煙草を吸いつつ、文太郎の追跡を恐れ、監視を怠らず。時におなかに凝視を向ける)
おなか (政吉の素振りに心づけど、それは云わず、別れてしまいたいと徳之助に囁く)
徳之助 (おなかに囁き、漸く決心して政吉に)政吉さん、この度はいろいろとお助けを蒙りまして有難う存じます。
おなか お礼の言葉もございません。
政吉  なあに、文太の奴はあっしにも、ちっと憎む筋のある野郎でさあ、お前さん方のためばかりか、あっしの腹癒はらいせにもなったのだから、そう礼をいうには及ばねえ。
徳之助 就きましては。
政吉  え。
徳之助 (おどおどと)段々とお世話になったご恩は決して忘れませんが、三人一緒では人目に立ちます、ここでわたし達は、別れて行かせて戴きたいと存じますが。
政吉  (不快になり答えず、焦燥、狐疑が出てくる)

文太郎、間道より引返し、三人の背後の方を通り、岩の陰に潜み、高山の御用聞きの到着を待ちながら、逮捕の機会を狙う。
おなか 我儘のようで済みませんが、別々になっていたら、人目にそれ程つきもしまいと思いまして。
政吉  何故本当のことがいえねえんだ。――人目につくの何のと、そりゃお為ごかしの胡麻化しだあ。別ッ個になりてえのは、そんなことからじゃねえだろう、他に訳があるんだろう。俺あちゃんと知ってらあい。
徳之助 いえ、別に訳は何もございません。人目についてはお互いの不為ゆえ。
政吉  何をいやがる、白痴こけにするねえ。政吉は江戸を逃げて高山在の、久々野くぐのという処に、僅な知辺しるべをたよって行き、山国の者に半分なったが、根性は元の江戸の男だ。お前達あ何故、本当のことがいえねえんだ。
おなか いえ、本当を申して居ります。わたし達故、あなたに難儀がかかっては済みません。
政吉  それが嘘、お座なりじゃねえというのか。難儀がかかりゃ諸共もろともに、三人一緒にとは何故いってくれねえ。俺あ江戸で仔細あって大罪犯した男だが、久々野に居ついてくすぶってれば、一生何事なしで過せたろうに、頼まれもしねえのに高山で、文太郎の奴を半殺しにした、それは何故なぜか知ってるか。
徳之助 (当惑して答えず)
政吉  俺だって万更白痴たわけ狂人きちがいじゃなし、隠れていればいいものを飛んで出て文太郎をやっ付けたのは、微塵、俺が助かりてえためじゃねえ。恩に着せる気はねえが、おなかさんお前のためだ。
おなか はい――わ、わかって居ります。
政吉  徳さん、お前、おなかさんから聞いて知っているだろう。
徳之助 えい。おさんさんという方に、これが生き写しだということでしたら。
政吉  それ見やがれ知ってやがる。俺に別れてえ訳というのも、そのことからじゃねえか、この嘘つきめ。俺あ、おなかさんが文太の奴に引っ立てられるあの有様をじっと見ちゃあいられなかった。去年自害して死んだおさんが、金の威光で押えつけられ、強い力の奴等に押し潰され、泣いてやつれたあの顔つき、気の故か姿までが、同じように俺には見えた。我を忘れて飛び出したのは、おなかさんを助けてえの気持ではねえ、俺のおさんがいじめられるのを、知らぬ顔で見ちゃあいられなかったんだ。
徳之助 お心のうちはよくわかります。ではございますが。
政吉  黙ってろい、手前に俺の気持がわかるもんか。おなかさんならわかってくれるだろう。手前、俺が食っついて歩くのが気に入らねえのだろう。それだから別ッ個になろうというんだ、俺あ厭だ。何のために助けてやったんだ。一生隠れていられるねぐらを棄て、難渋な峠を幾つも越してきたのは、お前達と一緒に歩いていてえばっかりだ、それだのに、別れてくれとはすげねえ云い草だ。俺がもしおなかさんに、手出しでもしたら何とでも云え、手を出すどころか根限こんかぎり、出来るだけの親切をしているのに、別れ別れになれとは、そりゃひど過ぎる。
徳之助 (諦めて)悪うございました。別れてくれとは義理も恩も忘れたいい方、今のことは水に流して。
おなか いいえ、それではあたしが。
徳之助 だって、政さんには大恩をうけているのじゃないか。
おなか 恩を忘れはしませんけれど、三人一緒の旅ではねえ。
政吉  おなかさん、お前、俺が憎いな。
おなか いいえ、憎いなぞとは勿体ない。
政吉  (いらいらして)じゃ何故。
おなか 眼が――あなたのその眼が、このあたりへ来てからは、怖くて怖くて。
政吉  (抑えても出る妬みの眼を、見つけられて、答え得ず)
徳之助 これ、何をいうのだよ。
政吉  叱るな。今のことを水に流し、一緒に旅をした処で、気拙くなってはもうお仕舞い――徳さん、別れようか。
徳之助 えっ。別れてくださいますか。
政吉  うむ、別れるとも、(四方に眼を配り、人なきを確め)徳さん、お前とだけ別れるんだっ。(抜刀する)
徳之助 えっ。
おなか あれっ。何をするんです。(政吉に縋る)
政吉  (二人に絡まれて)人間って奴あ、身の置きどころ一つで、いくらでも悪くなり下れらあ。俺もさっきまでは、こんな考えはなかったんだが。ここにいる三人とも、因果を背負って生れて来たんだ。俺も因果、おなかさんもな。お前も因果だ。(徳之助を刺し殺さんとする)
文太郎 (三人の争いを知り呼び子を吹いて、渦中に飛び込み、十手で政吉の腕を叩く)
政吉  あっ痛っ。(脇差を落す)
文太郎 御手当だ神妙にしろ。(押え付けて縄を口で解きかける)
政吉  文太か。やって来やがったな。(文太郎と格闘する)
徳之助 (おなかと逃げんとする。逃げる気になれず、政吉を案ずる)
政吉  (文太郎の咽喉を扼し)おなかさんおなかさん、俺あこの野郎を殺しちまう。待っててくれ、屹と待っててくれ。
文太郎 (政吉の腕を解き、攻勢となり)野郎っ、洒落臭え。
政吉  (文太郎と格闘しつつ、岩の蔭に入る)
徳之助 (おなかの手を曳き逃げかける)
おなか (政吉の安否を案じ、立ち去る気にならず)
徳之助 (おなかを庇い恐怖と闘いつつ岩の蔭に少しずつ入っていく)――政さん――政さん。
岩の蔭、(半廻し)風景が変って見える。政吉と文太郎と闘争している。両人とも髪を乱し衣物を綻ばせている。
文太郎 (政吉を捻じ伏せかけ)野郎、さあどうだ。
政吉  ちえっ、とうとう、この野郎にふん捉まるのか。(捻じ伏せられる)
文太郎 こんなことあ俺の方が、手前なんぞよりは場数を踏んでる、さあ神妙にしやあがれ。
政吉  さあ縛れ、縛りゃあがれ。
文太郎 (捕縄を出して口で解きかける)じたばたするな。人殺しの大悪人に似合ねえぞ。
徳之助 (声)政さん――政さん。
政吉  あっ、徳さんの声だ。(半ば刎返はねかえし)いけねえいけねえ、ここへ来ちゃあいけねえ。
文太郎 何をっ。(政吉を再び捻じ伏せる)
政吉  (徳之助等の方に)俺に構うな。おなかさんを連れて逃げちまえ、逃げるんだぜ、逃げろよ。
文太郎 (捕縄の縺れにじりじりして)阿魔をずらかせようとて、そうはさせねえ。
徳之助 ――政さん(岩の角から出る)政さん。おやっ。
おなか あれ政さんが。
文太郎 阿魔、逃げると為にならねえぞ。
政吉  (文太郎に必死に、反抗を試み)な、何故、お前達あ逃げねえんだ。馬鹿馬鹿。
文太郎 (政吉を押えつけ)これ、往生際が汚ねえぞ。
徳之助 この有様を見て、逃げて行く不人情な徳之助ではございません。(政吉を救わんと焦慮する)
文太郎 この野郎をふん縛ったら、その次はおなか手前の番だ。逃げたところで無駄だ、高山の御用聞きが網を張ってるんだ。
おなか えっ。
徳之助 (決心して、先に政吉が叩き落された脇差を取りに引返して行く)
政吉  何をいやがる高山の御用聞きは、とうの昔に横に切れて、木曾の中津川なかつがわして飛んで行った。おなかさんお前も見て知ってるじゃあねえか。
文太郎 (失敗ったと思いながら)いい加減なことをいやがらあ。
政吉  この目で見届けたんだ、嘘なら嘘にしておけ。
おなか 政さん、あたしが縛られます。文太さん、あたしを縛って政さんは見逃してあげて。
文太郎 さあ(捕縄が)解けた。頼まねえでも手前も縛ってやらあ。(政吉に縄をかける)
おなか あれ、待って。文太さん待って。(妨げる)
文太郎 邪魔しやがるな。
政吉  おなかさん、お前そんなにムキになる処まで、死んだおさんの気象きしょうの通りだ。ええい、文太、間誤つかねえで早く縛れ。
文太郎 阿魔どきゃあがれ、手前の番はこの後だ。(掻き退ける)
政吉  しっかり縛れ。
文太郎 洒落臭え。(政吉の片手に縄をかける)
徳之助 (脇差を携げ引返し、機会を狙っている)
おなか 縛られるのはあたしだ、文太さんあたしを何故縛らない。(妨げる)
文太郎 ええ、邪魔な阿魔だ。(おなかに突き退けられ踏みとどまる、縄がピンと張る)
徳之助 (躍り出してピンと張った縄を切る)
政吉  (はずみで倒れ伏す)
文太郎 (よろめいて、縄の端を握ったまま、川の中に落つ)
岩の蔭からとりがぱっと立つ、暫くして元の処へ下りる。
おなか あれっ。
徳之助 文太の奴め、ゆうべの雨で水かさました益田川ましたがわの流れに落ちた。いい気味だ。助かりゃあしないだろう。(水面を睨んでいる)
おなか (政吉を抱き起す)政さん政さん。政さん。文太はもう居なくなりました。まあ、この血は。
政吉  (岩の角にて頭を打ち傷ついている)あ、痛え。いい、い、痛え。
おなか あなた、政さんが怪我をなすって。
徳之助 え。おお、血だらけだ。飛んだことになった。
政吉  ああ痛え――いいよ、何、打棄うっちゃっといてくれ、それよりあ二人共、さあ早く逃げて行きな。
徳之助 いいえ、こうなっては、ご一緒でなくては、西へも東へも参りますまい。
政吉  そいつあいけねえ。
おなか わたし故にこんなことになったのです。どうしてこの儘行かれましょう。
政吉  俺あ卑怯な奴に成下ってるんだ。おさんに似たおなかさんに良く思われてえばっかりに、自分の身を忘れて飛び出した、それもこれも心からの男気おとこぎなんかじゃありゃしねえ。
徳之助 いえ、いくら卑下ひげしても、政さんは男気で、わたし達を助けてくれたんです。
政吉  違わあ、大違いだ。現に今し方、俺あ徳さんを叩っ殺して、おなかさんを俺のものにしようとしたじゃねえか。
おなか (また新しき憂慮を抱き、政吉を恐ろしく思う)
徳之助 (手拭で疵口を結ぼうとする)
政吉  (それを手で斥け)俺あお前にゃ、物騒な人間だぜ。恥しいが俺あ、おなかさんに段々と思いがつのって仕様がねえ。一緒に逃げて見ろ、その途中で、いつ何時、徳さんの寝首を掻く気になるか知れねえや。
徳之助 たとえそうでも、この有様では、一緒に逃げて、何処かに隠れ、疵養生をして貰わなくては、義理が立ちません。
おなか あなた。(ひそかに徳之助の袂を曳く)
政吉  俺の気持は走馬燈まわりどうろうみてえに、善だか悪だか訳がわからず、ぐるりぐるり変ってばかりいやあがる。なあ徳さん、お前のことより俺のことだ。俺が鬼になっておなかさんを我がものにしたら嬉しいさ。だがの、その裏にゃあ、また一人、おさんと同じ女をこの世にこしらえ、泣いて死なせるがおちだろう。俺あ気が違いそうなんだから、正気でいるうちに、二人共、早く、逃げて行ってくれ。

とりが再びぱっと立ち飛び去る。
水面に文太郎が浮きつ沈みつする。
おなか あれっ。
政吉  (はっとして脇差を手にする)文太の奴め、まだ生きてやがったか。(二人に逃げよと刀を振る)
徳之助 政さん、それではお別れ申します。
おなか 左様なら。ご恩を忘れはいたしませんけれど。
徳之助 また逢える日が参りますよう、神信心だけは怠りません。
政吉  なあに、俺あ、首がなかろう。おさらばだ。(徳之助、おなか、名残りを惜しみつつ去る)
文太郎 (浮び出て、岩に手をかける)
政吉  (ただ一と打ちと身構える)
文太郎 うわっ。(岩の手を外し、沈みかけて、やや遠き岩に手をかける)
政吉  (焦って討とうと構える)
文太郎 (手をすべらせて沈む)
政吉  ああっ。手を放すな文太。(刀を抛つ)今度沈んだら命がなかろう。しっかりつかまってろ。(切れた捕縄を投げて)さあ、そいつにつかまれ――あがって来い。
文太郎 (縄を掴み)俺を、俺を助けるのか。
政吉  俺あ深川で、餌差屋を叩っ殺したんだ。だから縛られよう。
文太郎 えっ。(助け上げられる、疲労している)
政吉  文太、俺あグラグラと気が変ってならねえ。――お処刑しおきになりゃ、きまりがつくだろうよ。
文太郎 俺はたった今、水の中で、苦しみながら死にかかった時、頭の中へ稲光いなびかりみてえにキラキラと、いろんなことが思い出されたんだ。俺の気持は、がらりと変った。(ぐったりとなる)
政吉  弱ってるんだなあ。大分、水を飲んだんだろう。やあ、聞える、おう聞える、(岩の角に行き、そっと窺く)二人ともにもう見えねえ、森のなかへはいったと見える。そうだ、見るじゃあねえ。いくら見たとて――ありゃあ赤の他人の空似そらになんだあ。(引かえし来たり)文太、手前の元気が出てくるまで、俺あここで待っていて縛られてやるぜ――おう、また聞えてきた。胡弓のも、唄も聞える、ありゃ確に、おさんの声だ。――はははは、なあンだ、松の枝を吹く風の声だったか。(文太郎の恢復を、静かに待つ)
暮色迫り、鴉が鳴く。山寺の鐘がかすかに聞えてくる。
昭和四年八月作
昭和十年八月補





底本:「長谷川伸傑作選 瞼の母」国書刊行会
   2008(平成20)年5月15日初版第1刷発行
底本の親本:「長谷川伸全集 第十五巻」朝日新聞社
   1971(昭和46)年5月15日発行
初出:「舞台戯曲」
   1929(昭和4)年10月号
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2020年2月21日作成
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