色盲検査表の話

石原忍




 私の色盲検査表がどうしてできたものであるか、いかなる経路で汎く世界に用いられるようになったかということについて簡単に申し上げましょう。
 今からおよそ三十年前、私が大学院に在学いたしました時に、私は一人の全色盲の患者を検査して、その成績を眼科学会雑誌に発表したことがありました。これはわが国における全色盲の最初の報告であったのですが、これ以来私は色盲に興味を持つようになり、いろいろと色盲の事を調べてみました。そのときある日私は友人と一緒にスチルリング氏の仮性同色表を手本にして日本文字の色盲検査表を作る練習をしていました。ところがその時の友人が偶然色盲でして、その人が何げなく、おそらく面白半分であったのでしょうが、ひとつ色盲者には読めるが健康者には読めないような表を作ってみようかといって、描いて見せてくれたことがありました。それによって私は一つの暗示を得まして、なる程そういう表もできるわけだ、そうすれば健康者と色盲者と異った字を読む表もできるわけだし、また工夫をすれば健康者にはたやすく読めるが、色盲者や色弱者には容易に読めないような表もできるわけだと思い機会があったら実行してみようと思ったのであります。それは色盲及び色弱の大部分が赤緑色盲及び赤緑色弱であり、それらの人の共通の性質として、赤色と緑色との区別は多少とも不完全であるに拘らず、青色と黄色とを区別することは健康者と変りがない。即ち赤緑の色の差異に比較して、青黄の色の差異が非常に明瞭に感じるという性質を有していることを知りましたから、その性質を色盲検査表に応用して従来のものよりも進歩した感度のよい表を作ってみようという考えであったのであります。
 しかしこの考えを実行に移すには少からざる労力と費用とを要しますので、しばらくの間そのままになっていました。
 その後五、六年を経過して大正四年となりました。その頃私は陸軍軍医学校に勤務いたしておったのですが、幸いにも陸軍省から徴兵検査用の色盲検査表を作ることを命ぜられたのであります。そこで私は予て考えていたことを実行してみようと思い、ある日曜日にスチルリング氏の表を参考として健康者と色盲者と異った字を読むような表を作りました。その頃また幸いにして軍医学校の眼科に色盲の軍医がいましたから、翌日その表をその軍医に見てもらって試験しましたところ、大概私の予想通りの結果を得ましたので、大いに自信を得て愉快でした。それから毎日その色盲の軍医の補助によって色盲者に間違い易いような幾組かの色彩を紙に塗っておきまして、次の日曜日にその色を使って更に第二第三の表を描きましてその色盲の軍医に見てもらい、かようにして研究をつづけて行ったのであります。そうして数カ月の後に漸く一通りの原稿ができ上ったのですが、さてそれを印刷するのにどういう大きさにすればよいか、どんな色合いにすればよいかがわかりませんでしたから、差し当り原稿と同じ大きさで同じ色合いのものを印刷して、徴兵検査の時に試験をしてもらいましてその報告を参考にして現在の大きさのものに縮小し、色合いも加減して色盲検査表の初版ができたのであります。
 そこでこれを使ってみますと、意外に成績がよかったので、これを一つ外国にも送って批評をしてもらおうと思いまして、外国向の原稿を作り、その出版方をまず丸善書店に交渉しました。ところが丸善ではこれまで諸種の外国向の出版をしたが、悉く失敗に終ったという理由で断られましたので、やむを得ず邦文の色盲検査表を出版しておりました半田屋書店に頼みまして、印刷部数の一割を無償で著者に提供するという条件で六百部印刷をしてその六十部をもらい受け、更に三十部自弁して合せて九十部を世界各国の著名の大学や眼科医へ寄贈したのであります。それが大正七年のことでした。
 その後しばらくの間は何の反響もなかったのですが、そのうちにまず北欧スカンジナビア諸国においてその真価が認められ、ぽつぽつ註文が来るようになり、大正十二年には北欧諸国の船員及び鉄道員の色神検査法を定める会議で、マイスリング氏の原案として燈火による検査法と石原検査法(場合によりスチルリング氏検査表)を使用すべきことが提議されました。またその翌年北米合衆国のジョンス・ホプキンス大学のクラークという女のドクトルが「色盲の石原検査法」という標題で論文を発表して、私の表とエドリッジ・グリーン氏表とスチルリング氏表とを比較研究した結果、私の表が最も卓越していることを述べ、石原表の第五表一枚が他の二つの検査表のすべてを合せたものよりも一層良好であると書いて、最後に『本表は一時米国へも来たが、昨今は全く品切になってその代りに甚だ良くないスチルリング氏表が売られている。この論文は石原表における興味と、その功績の尊重とを鼓吹せんがために書かれたもので、かくの如き優秀なる検査表が一般に用いられるに至るのは当然で、かつわが米国内でも容易に手に入れることができるようにされなければならぬ』と、結んでありました。この論文に刺戟されて出版所を変更する必要を認め、半田屋書店に交渉して欧文の分だけを金原書店に出版してもらうことにしました。
 越えて昭和二年フィールリング氏がドイツの鉄道医雑誌に私の検査表を推称した論文を掲げ、その翌年スイスのバーゼル大学のプランタ氏がグレーフェ氏眼科宝函に長文の論文を発表して、各種色盲検査表の比較試験の結果『石原検査表は他のすべての検査表を超越した検査法である。何となればそれによってすべての先天色神異常者を網羅し得る如く見えるからである。なお石原表による検査は極めて短時間を要するのみであるから、団体の検査には最も適した方法と考えられる。他の検査表の正確度はシャーフ氏表・スチルリング氏表・コーン氏表・ナーゲル氏表の順序に下降する』と、記載しました。
 昭和四年に和蘭のアムステルダムで第十三回国際眼科学会が開かれまして、そこで航空機操縦者・貨物自動車運転手・鉄道従業員及び海員の視機能検査標準の規定の統一に関する協議が行われました際、専門委員のエンゲルギング氏は調査の結果を報告して、色神の国際的検査法としてスチルリング氏仮性同色表・石原色盲検査表及びナーゲル氏アノマロスコープを採用すべきことを提議しました。その報告の中に石原表は既にスウェーデン・ノールウェー及びニュージーランドで鉄道の検査規定中に採用されているし、また日本でもその本国であるから多分採用されているであろうと書かれてありますが、当時わが国の鉄道では格別私の表を使うという規定はなかったようであります。
 越えて昭和八年スペインのマドリッドに開催されました第十四回国際眼科学会において『色神は数種の方法で検査し、かつ必ず二種の仮性同色表による検査を含むこと、出来得ればスチルリング氏表及び石原氏表を用いること』と決議され、これを世界各国の各種雑誌機関を通じて公表することとなりましたため、石原表は漸次世界に識られ、各国の眼科教科書にも掲載されるようになったのであります。そしてその後ロシア・フランス等においても研究の結果私の表で色弱も確実に発見されるという報告が発表され、今日ではアメリカ・ロシア・印度などでこれが飜刻出版され、色盲検査表の中で石原表が最も優秀であるということは汎く世界に認められるようになったのであります。
 次に私は私の色盲検査表の特徴について少しく申し述べたいと存じます。従来のスチルリング氏仮性同色表は色盲者の間違いそうないろいろの色の丸が無数に印刷してあって、その中に健康者にだけ見えるような色で文字が現わしてあります。ところが軽い色弱者に読めないような文字であれば、健康者にも読みにくくなるという欠点がありまして、色弱者と健康者とを判然と区別することはこの方法ではなかなか困難であります。そこで私は健康者には明瞭に読めて、しかも色弱の軽い者には読めないような表を作りたいと思って、赤と緑の色の外に青と黄との色を使ったのであります。
 青と黄とは赤緑色盲や赤緑色弱の人には最も鮮明に見える色ですから、そういう色を入れておきますと、色神異常者には赤と緑との色の差がかなりあってもわからなくなるのであります。例えば白い壁に雨漏りがして、しみがつきますと目立って見えますが、同じ程度のしみでも濃い色で模様の描いてある壁ならば、さほど目立たないと同じ理由で、表の中に青とか、黄とかいう強い色を入れておきますと、それが邪魔になって赤と緑との差が相当にあっても色神異常者には気がつかないのであります。しかし健康者には赤と緑とは見易い色ですから容易に読むことができます。
 これと同じようにして赤緑の色と青黄の色との関係が逆になりますと、反対に色神異常者には容易に読めるが、健康者にはあまり気づかない。即ち容易に読めない表ができます。
 また一つの表に赤と緑と青と黄との四色を使いますと、健康者には赤と緑とが目立って見えますが、色神異常者には反対に青と黄とが目立って見えるということによって、一表で健康者と色神異常者と異った文字を読む表ができます。つまり健康者と色神異常者との色覚の差異を研究して迷彩を適当に応用したことになるのであります。
 石原式欧文色盲検査表は大正六年に初版ができてから、昭和七年の第六版にいたるまでは表の数が十六表でしたが、改版毎にその色彩や色の配置が改良されて、漸次その性能が高まりましたし、殊に昭和十一年にできた第七版からは表の数が増加して三十二表となり、更にこの次にできる第十版からはこれを三十八表にする予定であります。
 色盲の種類や程度を制定するための表も加えてはありますが、これはまだ不完全で将来更に改良されなければならないものと考えております。





底本:「現代日本記録全集9 科学と技術」筑摩書房
   1970(昭和45)年2月28日初版第1刷発行
底本の親本:「学窓余談」日新書院
   1941(昭和16)年
入力:sogo
校正:仙酔ゑびす
2014年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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