オルゴール

三好達治




 人形のをぢさん守屋三郎さんは、支那文学の奥野信太郎さんと漫画家の横山隆一さんとの丁度中間位の恰幅であつて、容貌はどこやらそのお二人に似てゐる。笑顔のいい気軽なところも、頭の禿ぐあひもまた似てゐる。お酒はいけないさうだから、その点は別として、先のお二人と共通する一種の童心ないしは仙骨みたいなものが守屋さんに於てもその風貌にあふれてゐるのが、工房に案内されてまづ私に納得された。
 工房は私ども二人の訪問者と主人と三人の膝を容れるのがやつとといふ空間をあました面積で、たいへん小造りにできてゐた。素人の手造りらしい感じのものであつた。一寸私どもは魔法の小箱に閉ぢこめられたやうな感じであつた。主人の仕事机らしいものはその奥まつたあたりにあつて、机上には「幸福のきのこ」といふ可愛いい松茸ができかかつてゐた。松茸は赤黄緑紫灰色とりどりに鮮明な絵具をぬられてくつきりと水玉の斑点を意匠に散らした寸にもたらないもので、それが兵隊のやうに並んでゐた。
「かういふものを息抜きにやつてゐるんですよ……」
 といはれるのは、別の根気な仕事はさうさう毎日続くものではないから、といふ意味であつた。
 さつそくオルゴールを見せていただく。オルゴールはどれもみな本格的な屋根と窓と煙突と或は鐘楼などをもつた構造のいい建物の中にしまひこまれてゐて、その入口のドアを開くと内部の楽器が鳴り出す仕組みになつてゐる。建物の構造はどれもみな釣合ひがよくしつかりとしてゐて、どこやら建築模型のやうなあんばい式な点もあつて一見オモチヤ臭くはない。それが両手の上に載るほどの大きさであるからオモチヤには相違ないが、守屋さんはそれらの建物に就てはまづ建築家としての建前から良心的で且つ審美的でなければなりませんね、といふ意見であつた。建物にはそれぞれ歴とした原型があつて、原型は写真や見取図や建築図面によつて精しく確かめられた上で、いくらか手心を加へて糞レアリズムに堕ちない用意が肝要です、といはれたのは至極尤もに聞えた。
「腑に落ちない点は専門の建築家に見てもらつてゐるんですよ……」
 といつて笑はれたのは、我れながらいくらか可笑しかつたのであらう。丹念な話である。その方の写真帖参考書も机上に積まれてゐた。とりわけ傑作の一つと見えた「セキスピヤーの家」といふのは、いづれそのうち早稲田の演劇博物館にでも寄贈をしようと考へてゐるんですが、一年余りまだかうして手離しかねてゐるんですといふ。その屋根にはうつすら塵がたまつてゐた。そのじぶんになると塗料の色彩も落ちついて、わるくけばけばしい光沢がうせて、なるほど渋く落ちつきがいい。ビニールを溶かしこんだといふ窓硝子は、むろんその一枚々々の数も配置も正確に原型に従つてゐるのが、とりわけ手際よく素人眼を驚かせるに充分である。その「セキスピヤーの家」からはやつと爪先にかかるほどのドアを開くと、「真夏の夜の夢」の一部分がこれは相当の音量をもつて静かに聞えてくる仕組みであつた。ドイツのどこやらの片田舎の小さな鐘楼をもつた鄙びた教会堂からは、お弥撒の歌か何かが聞えてくるといふ風な組合せである。私が帰りにお譲りをうけて帰つた、これはぐんと近代的なイギリス風の建物、ハリウッドの女優さんの「ジュン・アリスンの家」といふのは、曲名は何といふのかハンガリーのものだといふ民謡風の素朴なワルツ曲との組合せであつた。意匠はすべてさういふ要領でさすがに気が利いてゐるのは、「玩具は工芸のリリーク(抒情詩)だ」といふ守屋さんの持説の片鱗そのものとまづいつたところであらう。
 守屋さんは以上のやうな建築技師――木工で、お話を聞いてみると、内部の発音装置のゼンマイ仕掛けは、山梨県の某某工場で近年どうやらものになりかかつた作品ださうである。もともと軍需工場の精密作業に従つてゐた技師たちの、これも一つの平和産業への転向組の小さな進路の産物であつた。追々本物のスイス製品にも劣らぬものができるでせう、と聞くのは私にも嬉しかつた。
 お話を聞いてゐると、守屋さんは世間の噂からうつかり想像したやうな奇人でも変人でも決してなくて、それかといつてやはりまたずゐぶん変つたところのある、世間の普通人でも決してない、一種素直な隠遁者、――世界の一隅で生れながらの夢をはぐくんでゐる孤独な、なつかしい「をぢさん」といつた風の気軽な人物であつた。「をぢさん」といつても齢はまだ四十八だから、おつむの禿げたところで見そこなはなければ、なるほどまだ老人ではない。
 お勝手向き次第で、一週間か、まあ十日に一度くらゐは出来ただけの品物を荷物として、山を下つて東京に出ますといふ。東京に出て日本橋の丸善に品物を届けてお金をうけとつて、帰りに銀座をぶらついて、コーヒー店のハシゴをして、友達に会つてしやべつてくるのが、私のリクリエーションです。その間はこんな山の中のこの日本一いや世界一小さな工場にすつこんでゐます。といふのはなるほどこの人らしく童話めいてまた隠遁者めいてゐるが、さて世間普通に多くの人々のするところともだいたい似通つてゐるのが面白い。
「オモチヤ造りになつた私」と題する守屋さんの簡単な自叙伝、その冒頭にいふ、
「北鎌倉で下車して鎌倉五山の一つ浄智寺の境内を通り越して、そこからが険しい山路のハイキングコース、その頂上北鎌倉と鎌倉との分水嶺に建つてゐる小さい一軒屋、これが私の現在の住居である。妻とドーベルマン種の犬が二匹、それだけが私の家族。雨が降ると二日でも三日でも下山することができないほどのところ――」といふのは、その通りであるが少し誇張に聞えるやうである。そこの峠からメガホーンでも口にあてて大声を発すれば、私の友人のポール・ヴァレリー研究家の佐藤正彰先生の宅まではたやすく達してセイバン先生の返辞があるであらう、人里まではそれほどの距離である。
 それにしても山中は山中に相違のないその静かな環境はピノチオをぢさんにはまことにお誂へ向きの隠れ家かと拝見された。
 守屋さんは嘗てヒットラー・ユーゲントの一員であつた。純血ゲルマン民族を厳しい条件として結成されたあのユーゲント中のたつた一人の例外の外国人であつたといふのは珍らしい。子供の頃からの童話好き人形好き、それから後に上智大学に入つてドイツ語を勉強したのもとりわけドイツの人形が興味をひいたからだつたといふのは因縁が深い。
 先の自叙伝にはまたいふ、
「中学の三年の頃だつたと思ふ、若い図画の先生がある時英国の美術雑誌スタヂオを見せてくれた。私が偶然にもその一頁に見出したのがドイツのケーテ・クルーゼ夫人の縫ぐるみ人形の写真であつた。曾て感じたことのない昂奮が私の人形に対する憧がれを以前にもましてかり立てるのをどうすることもできなくなつた。玩具の国ドイツ、人形の国ドイツ、私は玩具人形を研究したい若い日の夢を追つて、やがてドイツ語を勉強したいために上智大学に入つた。ドイツ語が少しづつ読めるやうになるにつれて、それからは手に入るだけの玩具人形の文献を丸善に頼んで取寄せてもらつては夢中に読み耽つた――」といふから、丸善との因縁も既にその頃からのもので、守屋さんの生涯は幸福にも少年のその夢をただ一途に歩みつづけてきた人の珍らしい一例で、珍らしいといふばかりでなくそこには何か人を驚かせるに足るものがなくはない。
「それからは玩具人形、殊に縫ぐるみ人形の系統的蒐集に熱中した。学校を出て丸の内のあるドイツ商館に就職してから十余年、その間に絶えず人形蒐集のためには残りなく財布の底をはたいて惜まなかつた」と自伝はいふ。
 先にふれたケーテ・クルーゼ夫人の縫ぐるみ人形は「トロイメルヘン」と題するもの、女史の傑作の一つであつたさうだが後に守屋さんと女史との間に書信の往復が始まると、守屋さんから往年の思出を聞かされた女史は、惜しげもなくこれを守屋さんのためにはるばると送つて寄こされた。
 堅苦しい荷造りをするのは人形のために可哀さうだといふので、戦時中の危険を冒して、たまたま日本までの船便のあるのに托して、人形は船長室に安らかに眠りつづけたまま届けられた。守屋さんはその日を待ちかねて、横浜まで出むいてうるさい税関にも何とか申し開きをした上で、船長手づからこれを受取つて抱いて帰つたといふ。
 その便船のグナイゼナウ号は帰途英仏海峡でつひに撃沈されてしまつたから、いはば私のためには命がけでこの人形を届けてくれたことになりました、といつて守屋さんは、睡り籠に臥かされた「トロイメルヘン」を、別室の奥さんに命じて私たちの前に持出させて示された。
 人形は毛糸のちやんちやんこに似たものを着せられてぐつすりと眠りこんでゐる。顔を少し横むきに顎をふかく引つけて眠つてゐる具合は、世界中の赤ん坊がさうして眠る恰好、なるほどお人形の原形といつていいものに見えた。大きさも二尺あまり、相当のもので実感があつた。淡紅の円い頬と長い睫毛と小さな口、手法は素直なレアリズムで、私どもが普通に人形といふものに於て採用してゐる象徴的手法の影はここには見えなかつたが、その素朴なレアリズムにも淡々とした素直な深い蔭翳がなくはなかつた。同じくクルーゼ夫人の作、別のもう一つの可愛い少年の立像の方にもそれがあつた。名匠の名にそむかぬものが、素人眼にもすぐとうかがはれるのはさすがであつた。
 守屋さんは千数百個の蒐集からあとの分はすつかり置き去りにして、ただこのクルーゼだけを抱へてあの五月二十五日の夜間の空襲の火の海をさまよつたといふ。命からがら人形を抱いて逃げ迷つたのは守屋さんらしいが、クルーゼ夫人の方は戦後に杳として消息が知れない。手紙を出しても返事は来ないさうである。先日帰国をするドイツ人がゐて、帰国の上はラジオ放送の「尋ね人」できつと尋ね出してあげよう、西ドイツにゐるならきつと分るだらうといつてくれるのを、今は頼みの綱にしてゐるやうなことです、と守屋さんは話を結んだ。
 そんな話をききながら、「トロイメルヘン」の頭からすつぽりと毛布をきせかける守屋さんの手つきを、私は一種象徴的な気持でもつて眺めてゐた。
 戦争はさまざまな悪戯をするものである。その自伝に「あるドイツ商館」といつたのは、レンズのストットガルト・ツァイスのことださうで、守屋さんはそこの宣伝意匠や何かを手伝つてゐるうち、ドイツ語の達者なのと持前の特殊な趣味と技術とを見込まれて、ドイツ大使館から引つこ抜かれたやうな形になつた。
「私はドイツ大使館文化部に招かれ、ヒットラー・ユーゲントの工作の先生といふ格式で、その頃二百人ばかりも日本にゐたドイツの少年少女たちに、人形木製玩具製作の指導をすることとなつた。それらのドイツ少年少女の手によつて作られたたくさんの製品は、本国の冬期救済事業、いはゆるWHW(ウィンター・ヒルフス・ウェルク)に一役を買つてどんどん寄贈されていつた。そのお返しに、ユーゲント園長フォン・シーラッハ氏からは私のもとへ、次から次と、新しい教材、グライダーの製作法、木製玩具の参考書等がふんだんに送り届けられた。ドイツ敗戦の日まで、私は文字通り人形と玩具の生活に存分に恵まれたのも、想へば楽しい夢の日であつた」
 と自伝にいふのも、これはもう童話的とばかりはいひきれない奇しきめぐり合せであつた。守屋さんが、ユーゲントの一員に例外的に加へられたのも、その頃の出来事であつたに違ひない。戦後はCICにも多分いぢめられたであらう。
 元来がドイツびいき、といふよりはしんからのドイツ好きであつたこの人には、さういふ異例の出来事もただ水の低きに就くやうに自然にトントン拍子に運ばれたことかと思はれる。
 戦後に焼け出されの守屋さんは、蒐集品も参考書類もすつかり灰儘に帰した東京をあとにして、リュック一つを降ろした円覚寺に暫らく寄寓してゐられた。ただ今の「分水嶺」のてつぺんの一つ家は、実はこの人の知人の宏壮な邸宅の、その門構へを入つたところ一二歩のところに建てられた、いはば玄関番の別棟屋敷である。世界一小さな工作場は、その別棟屋敷に更に建て増しをした附属物である。
 社の印南君の案内でお訪ねした私たち二人は、うつかりお見それをしてその門前を通り越して、更に険しい分水嶺を登りつづけたやうな次第であつた。
「暫くして嚢中の尽きたじぶんになつて、幸ひここへ入らないかといつてくれるもんで、こんなぐあひにまあどうやら落ちつきました。」
 といふ守屋さんは、しかし落魄者めいた影の微塵もない明るい笑顔で、洋画家のやうに絵具でずゐぶんよごれた仕事着のズボンの膝をきちんと行儀にしてゐられる。
 奥野さんや横山さんとの交遊談が暫くつづいたのは、私も両先生とは相識だつたためである。漫画の横山さんには座敷の中で汽車を走らせる無邪気な趣味があつて、その沿線の景物として手頃な建築物をレール沿ひに点々と置いてみたい、何か作つてみてくれないかといふ先さまの注文ださうである。世に同好の士のあるのは何より楽しさうな守屋さんの話しぶりであつた。
 丸善に出陳される製品も次から次と売れ足が早くて、到底こつちは追つつかない、それかといつてこの工場を拡張して助手などを使ふのは趣味ではなささうな口吻であつた。
 オルゴールは月に五六個の製産高であるから、年産せいぜい六七十個、百には満たない。
「いくらこればかり催促をされても、さうさう根気に機械的に仕事のできるものではありません。同じ品物は五六個もつくると、もうすつかり気乗りがしなくなりますね。いいところは三個目位のところが要領をのみこんで一番うまくできるやうです。」
 といふその辺のところは私にもたやすく同感ができた。
 そこでこの仕事部屋のそこここには「幸福のきのこ」と同じく例の息抜きの、手軽な刳りぬき人形や、ハイカラな意匠の状差しなどが、壁いつぱいにぶら下つてゐる。
 すべてベニヤ板にドイツ風な彩色を施したものである。その状差しの一つに、これもドイツ風の字体で SETSUKO と入つてゐるのはさる高貴な未亡人の注文品かと察しられた。愛犬のドーベルマンもシュワルツ・ヴァルトあたりの丸木小屋を摸したといはれる仕事部屋も、その他すべて守屋さんの身辺のものには、どこまでもドイツ趣味がくまなくしみ亘つてゐるやうに眺められた。
 人形はむろんドイツが世界に冠絶した王国で、アメリカも、イギリスも、フランスも問題になりませんと鼻息が荒い。鼻息の荒いのもついでにドイツ趣味であるかも知れない。日本のものは、ときくと、日本のものは集めてみたこともありませんといふ簡単なお返辞であつた。
「フランス人形のやうな、あんな壊れ易いものは面白くありません。置いておいて眺める人形はつまりませんね。人形は手にとつて楽しめるものでなくては……」
 といふのが原理なのであらう。私にはそこのところは充分にはのみこめなかつた。
 ディズニーの色彩漫画のやうなことを、守屋さんは、机の上の玩具と人形の世界でやつてみたいといふ。
 自伝の末尾に彼はかういふのである。
「今日の日も私は少年の日の夢を忘れない。私は毎日玩具を造る。グリムの童話が、アンデルセンの夢が、そして、スヰフトのガリヴァー旅行記中にある小人の国リリプートが私には信じられるのである。せめてこの夢を、現実に表現してみたいのが、私の残る生涯のたつた一つの仕事となつた。
 私の作る小さいリリプートの家、その小さなドーアを開けると、静かにオルゴールが鳴り初める。きのこの上の小人が、ヘンゼルの笛にあはせて楽しく踊り狂ふ。ヘンゼルとグレーテルとそしてシンデレラとが、机の上にそれを眺め入る。二匹の犬がオルゴールの音に尾を振り初める。そして私はこの静かな山上の工房の夜ふけに、私だけの世界を享楽するのだ。」
 守屋さんの身の廻りにはむろん木切れや小道具があれこれ散らかつてゐる。その仕事机の上には先ほど生え出たばかりの「幸福のきのこ」がラッカを塗られた可愛い頭を揃へてぬくぬくと立ち並んでゐる。さうしてその手前の、主人の座席の位置には小さな、まことに小さな万力が一個、ただそれ一つだけのものとして、机の鏡板に強い意思を見せてしつかりと噛みついてゐる。
 そいつは確かにしつかりと勇ましく獅噛みついてゐる。
 守屋さんは孤独な夢想者で、ささやかな工人にすぎないけれども、終生の夢を守りつづけ、育てつづける点で、彼自身また神さまの仕事机にしつかりと噛みついた、勇敢な、ささやかな、一個の万力であるかも知れない。
 夕暮れ近い頃、逞ましいドーベルマンに咆えたてられながら、私たちは分水嶺の上でお見送りをうけた。
 工人の夢に幸あれ。





底本:「日本の名随筆39 藝」作品社
   1986(昭和61)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「三好達治全集 第一〇巻」筑摩書房
   1964(昭和39)年12月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2015年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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