駱駝の瘤にまたがつて

三好達治




間人斷章




秋風に



われはうたふ
越路のはての艸の戸に
またこの秋の蟲のこゑ
波の音
落日
かくてわれ
秋風に
ただ一つ
わが身の影を
うながすよ


馬おひむし



馬おひむしは馬をおふ
うたのあはれや
ものの


さるすべり



さるすべり
くさのいほりの戸に咲きて
ふたつなき日のはるかなる
ながたまづさも灰となる


時雨 四章



花木槿

人におもても見すまじき
けふの心のかたくなを
しかはあれどもよしとする
ゆふべはしろき花木槿はなはちす

村雨

こゑありて見れば村雨
またありておつる日のかげ
秋は巷もひそかにて
ただとほしつくつく法師

しぐれの雨も

しぐれの雨もくれなゐに
軒ばの花のちる日かな
せんすべしらにとる筆の
墨にも花のおつ日かな

ひとり能なき

ひとり能なき越びとの
世をうれふとも何かせん
いちに二合のものをかふ
しぐれの客とうらぶれて


爐邊 四章



くれなゐの

くれなゐの花はみな散り
よき友はみなはるかなり
神無月しぐれふる月
こぞの座にわれはまた坐す

いとはやく

いとはやくひと世はすぎぬ
天命を知るはこれのみ
くさびらを林にとると
腰たゆき時雨びとはや

わがうたを

わがうたをののしる人を
ものいふがままにまかせつ
にごりざけ窓にくむさへ
ともはなきけふの日ぐらし


わがうたをののしる人を
いかにわがうべなふべしや
いなまむもことはしげかり
耳ふたげきかざるまねす


殘紅 四章



殘紅

憂しといとひしすゑの世の
ちまたもけふはこひしけれ
日すがら海のこゑすなる
軒端にのこる花はまれ

くつわ蟲

黍の穗たかく月いでて
秋は越路のくつわむし
くつわ蟲とてましぐらに
海になくこそあはれなれ

鉦たたき

すずしき鉦をとをばかり
たたきてやみぬ鉦たたき
よべの歎きをまたせよと
あとはこゑなき夜のくだち

燈下

ふみをおほひてあればつと
こなたにわたる鳥のこゑ
つねなきものはおしなべて
夜をひとこゑのゆくへかな


急霰 四章



霰うつ

霰うつにもねむるや
山兎山鳩野雉のきじ
このあんの主じはひとり
やぶれたる夢をむすばず

沖ゆ來て

沖ゆ來て松に聲あり
けたたまし軒を走りて
つかのまやはらら聲たゆ
たま霰ゆくへをしらず

わが庭の

わが庭の石うつ霰
松こえて海にはせいる
日に三たび港に舟の
はててのち夜には七たび

霰ふる

霰ふる庭に剪らせて
わななくをさしはさみたる
菊一枝 花二輪
みなし子のごとく相寄る


村酒雜詠



日もくれぬ

日も暮れぬが盞を
みたせただ餘はそらごとぞ
己がうたをみづからうたへ
月やがて松にかからん

盞は

盞はちひさけれども
ただたのむ夕べの友ぞ
おほかたはひとをたばかる
世にありてせんすべしらに

爐に臥して

爐に臥して憂ひをいだく
肱枕さむきをのべて
ありなしとしたむ盞
鳥よりもくしきこゑしぬ

月山の

月山の端をいでたれば
われもまたいほりをいでぬ
人の子のおろかを笑へ
かなたにも友はすまぬを

いささかの

いささかの酒にまぎれて
あてどなく渡る橋かな
あかあかと灯はともれども
人けなき河尻の驛

帽をうつ

帽をうつ霰の音や
望の月やがてかげなし
潮ざゐはかのはるかにて
ただ明し波止の燈臺

死後の名は

死後の名はとにもあるべし
一盞の酒にもしかず
わが師かくのらしたまひぬ
われは師の言にしたがふ


桐花 四章



門を出て

門を出て數歩の石に
青薄ひともと生ひぬ
こぞありしひともと薄
常なきは人の世にこそ

春たけて

春たけて去りし海どり
雪ふらばまた歸りこん
濱松に波のうねうね
虚しきか日は高しらす

蜑女の焚く

蜑女あまの焚く煙ひとすぢ
彼方にもここにもたちて
隣り家に桐の花咲く
この日ごろわが庭は茄子なす

丘のべに

丘のべに桐の花咲け
未だ爐もふたがでありぬ
パイプ古り主じも古りぬ
世にさかる心にあらね


山みな白し



山みな白し
歳寒うして萬物新しき朝にあり
長江遠く霽れ
扁舟のよぎるを見ず
われ越に客となり
心ながく怡まず
夫なき母
父なき兒
家郷なき寄寓者
衣手薄き者村里に充てり
急霰聲ありてよぎり過ぎ
天日また明らかなれども
憂愁もかくはしばしば徂徠するかな
胸懷人につぐべからず
わづかに春花の圖をかかげて
屋後に啼鳥を聽く


春といふ



春といふ
春といふ
誰がいふ
月出でて
日も昏れぬ
月出でて
雲はだら
されど今宵は春の夜の すずしの幕の
幔幕がしつとりたれて
けりけりと
けりけりと水のほとりに鳴くかはづ
ああ遠蛙
初蛙
旅人よ
故郷ふるさと
旅人よ
故郷へ
かへるべもなき野のうへに
月出でて
ものの香や
けりけりと
またけりけりと
ああ初蛙
遠蛙
春といふ
春といふ
誰がいふ
けりけりと
けりけりと水のほとりに鳴く蛙


彌生盡



彌生盡やよひじん 古志こしは雪ふれ
雪はふれ
梢に雪はつもれども
さすがに花はかくろはで
ちやうのあなたをとびすがふ
赤き螢か
かぐはしき君が窓べの紅梅花

千里のほかの旅人と
身をなしていく年か
とどろの海をけふも聞く
さなり旅人
ここすぎて
ただこれ花をあはれよと垣間見しのみ
かぐはしき君が窓べの紅梅花


冬のもてこし



冬のもてこし
春だから
この若艸に
坐りませう

海のもてこし
砂だから
砂にはをどる
松林

無限の時が
來ててる
岬のかげの
入江です

風のもてこし
帆が二つ
帆綱ゆるめて
はたと落つ

それらのものの
一つです
さらばわれらの
語らひも


間人斷章



パイプ

宇宙は誰のパイプだらう
去年の春は灰となり
今年の春に火がともる
宇宙は誰のパイプだらう

日暮れの海

何ごとの極みにあるか
こは日暮れの海
波ことごとく砂に絶え

某日

墨をする小さき池に
空青く花紅し
土用の海はもだせども
朝の聲まづ起る
昨夜茶鼎を其角と命ず
角私語
蝉急

松葉艸

松葉艸とてしろき花
花に對する人ににて
何を憂ひとするならむ
みなひと方にしなひたる

くさの實の

くさの實のかろきわた毛の
ふく風に高く飛びゆく
庭に出てとんに坐りて
われもまた遠きを思ふ

ひと日むなしく

ひと日むなしくすぐしたる
まことはこころいかれるよ
越路のはての山なみの
さみしく空にいかるごと

故をもて

故をもて旅に老い
故をもて家もなし
故をもて歌はあり
歌ふりて悔もなし

祕所

そはわがうたの祕所ひそなれば
いかに
たふとからでやは
ながうらぎりも

花のたね

たまのうてなをきづくとも
けふのうれひをなにとせん
はかなけれどもくれなゐの
はなをたのみてまくたねや


秋風裡




晝の夢



住みなれし山にすまひし
ゆきなれし小みちをゆきき
ききなれしたにのせせらぎ
あぢあまきみづのみなもと
くさをわけ
きりぎしをとび
うなじふせつまとのむ
わきてこの
八月のひるのすがしさ
ふともわが思ふなりけり
山ふかき林にすまふ
けだもののかかるあはれを
角たかく脚はかぼそき
めのかたはまなこやさしき
じろの鹿の
木がくれのかかるあけくれ
けだものの身にはあらねど
げにいまは世にも人にも
かびくさきしよにもえうなし
白雲はくうんのたちわくところ
ただ思ふ
よきつまとわれらもすまん
たき木こり
たににみづくみ
花のたね庭にまかばや
白日のおろかが夢と
これを知れゆかしからずや
晝の夢夏の夢ひとりゐの夢


海にむかひて



海にむかひて白百合の
爲朝百合ためともゆりが咲きました

花の薫りと潮の香と
昔の人の消息と

けふ吹く風のときのまに
いづれあとなきものばかり

つねあるものをたのむより
けふのうれひはあれにけむ

されど青きはいよいよに
まさりて青き空と海

世にあるもののうつろふを
うべなひあへぬ心かな


はまひるがほ



ああこの花は日の晝に
はまひるがほは濱風に

いろもほのかにもろげなる
みな酒づきをかたむけて

わかれの酒をくさの葉に
紫紺の海の砂の上に

そそぎしたみてすず風の
たつをもまたでしをれける

そは夏の日の旅をゆき
ゆくへもしらぬ日の夢か

あとなしごととをしまじな
ゆかしきものはみなはかな


落日



野にいでて艸の花つみ
ほのぐらき壁にかかげぬ

しとどなる露と花粉と
ふと袖にかかるをよみす

しづごころしづかにたもて
人の上をいまはおもふな

ほほじろのうたひて去りし
松が枝に赤き落日


蜑女のほそ路



風ふけば風にとわたり
雨ふれば雨にゆあみす
鶫どり庭に來る秋

うれひなき昔はわれも
杖かろく越えし山路を
ふと思ふ鳥のふりかな

世にたゆき肱をひぢつき
艸の戸にくむにごり酒
友もなくおく盃や

きのふけふ海は高なみ
鱶のむれ水門みなとをすぐと
つたへいふ蜑女あまのほそ路


雨の鳩



松に來て啼く朝の鳩
――雨の鳩 秋の鳩

久しぶりなる旅に來て
海のほとりで夢を見た

賣られていつた人の子と
月と 駱駝と 黒ん坊と

夢ならばかくてさめよう
夢ならばなにをなげかう

それは私の魂か
夜の沙漠を歸らない……

だからああして鳩が啼く
青い海から飛んで來て

松に來て啼く朝の鳩
――秋の鳩 雨の鳩


わが手いま



わが手いま
乙女子の
肩にあり

かまどを出でしパンの香の
新らしきあしたの上に
わが手はしばしおかれたり

いま君のふかき呼吸は
あたたかき衣の肩をうごかして
君の見る彼方の海はしづかなり

乙女子よ
何ごとを君は思ふや
われはそを問はんと欲りす友ならず

わが皺だみし手をしばし
しばしなほときの間を
かぐはしきあしたの上にあらしめよ

老いたる者は心ながし
その心はちすの絲のすゑつひに煙となりて消ゆるごと
説きて語らんすべもなし

乙女子よ海にむかひて
かすかなる歌もうたはでいま君の
もだしたるこそめでたきに――


夏の日なれば



夏の日なれば一心に
蝉は鳴くなり海の
いろもかぐろき波の上に松がたるる
ここにして
世間淨嚴品の一
經の華嚴をわれは讀む
まれ人な來そ
よき人もおとづれするな
人の子のおろかなる子を世の外に
しばしは放て
み佛のみのりの經はあなたふと
屋根も柱も黄金なる御堂の庭はまばゆくて
やがてほどなくねぶたしえ


秋風裡



露くさのつゆもまだひず
粟の穗のたり穗は二つ
おもたげにしだるるかげを
つとばかり走りいでしが
もろ羽掻き肩をすくめて
身をまろくたたずむ鶉
何ものか遠く見つめて
見すゑたる瞳をこらす
空とほし
ものの音はなし
朝日かげいよいよ高し
從五位下土佐の何がし
色ふりし遊印一顆
繪は絹にくんじてすがし
われはこれ旅人なれば
路千里ゆくへも知らず
ゆくりなき主じがすすむ
座につきぬ
おしなべて
世は
秋風の裡


陶のそめ繪



いのちなき
ものもあはれや
いにしへの
すゑのそめ繪は
陶のそめ繪は
おもしろや
一朶の雲はなかぞらに
とわたる雁は雲のまに
かくいふひとは老が身を
なににたぐへてなげくらん
皿のそこなる山川を
旗ひるがへる城門を
驢馬にまたがる旅人を
またその從者ずさ
肩の荷を
見つつものもふ
見つつものもふ


長江に舟を泛べて



長江に舟を泛べて
君しるやわがゆく方を
葭原よしはらによしはらすずめ
鴎とぶ河口の空
艪の音はいそぐともなし
味噌藏へ味噌を乞ひにぞ


水鷄



くひななく雨夜
また月夜
とわたるこゑのゆかしさに
かたむけし
わが耳
もとな


海鳴り



わが庭園は薯畑
夏の夜露がしつとりと
星がとぶまた星がとぶ
庵の主じが窓に出て
籐の臥椅子にねる頃は
秋のこゑして蟲がなく
ひき蛙めが片われの
月を見るとてまかりでて
とんのあたりでこれもなく
よいやれさあよいやのさ
あれはいさああれはのさ
濱にたてたる高張りの
二つばかりの火のかげに
けふもをどりの輪がたつて
ほうやれほうほいやれほ
こゑあるもののみながみな
かなしいうたをうたふ夜だ
さればかなたの海鳴りの
かすかなるさへとりわきて
身にも骨にもとほる夜だ
たのしい夏は夢ばかり
――ほんにもう秋かい


一炊夢



これをわが世とそらにきく
蝉とほくして客はなし
風はすずろに花は飛ぶ
庭にむかひてなにはなく
ゐねむり椅子にゐねむれば
はかなき夢のけながくもむすぶべしやは
夢さめて七里結界
けさまでの夏はあとなし
秋風や
あはれ秋風
眉まどかなる隣り家の
浮氣娘はとにもあれ
世はおしなべてうつろひぬ
さらばおのれはなほしばし
ゐねむり椅子に眼をとぢてねむるふりしつ
むかし盧生がたかきびを
たかせしひまのまどろみも
いにしへならずあはれよと
――ねむるふりしつ


喪服の蝶



ただ一つ喪服の蝶が
松の林をかけぬけて
ひらりと海へ出ていつた
風の傾斜にさからつて
つまづきながら よろけながら
我らが酒に醉ふやうに
まつ赤な雲に醉つ拂つて
おほかたきつとさうだらう
ずんずん沖へ出ていつた
出ていつた 遠く 遠く
また高く 喪服の袖が
見えずなる
いづれは消える夢だから
夏のをはりは秋だから
まつ赤な雲は色あせて
さみしい海の上だつた
かくて彼女はかへるまい
岬の鼻をうしろ手に
何を目あてといふのだらう
ずんずん沖へ出ていつた
出ていつた
遠く遠く
また高く

おほかたきつとさうだらう
(我らもそれに學びたい)
この風景の外へまで
喪服をすてにいつたのだ


藍にけむれる



藍にけむれる峰々を
ひとあしとびにわたりくる
魔界の王のさきぶれや
銀の砂子を朝あけに
さらばかけすもかささぎも
をしもあいさもちりぢりに
こころおびゆるかも鹿の
うなじをあげてきくはなに
山毛欅ぶなのおほ樹もみぶるひす

秋ぢや
秋ぢや
鶫のむれも
ひとわたり
人の子どもは
山を降れ
小屋の扉を
かたくさせ
木馬きうまきしらせ
仔馬もつれて
あとはただ吹雪木枯し
風のいくさ場
また空の青さ深さ
晝光る星のかそけさ


ひととせふれば



ひととせふれば年はあけ
また新年となりました

村でくらせば村の酒
爐邊の客とくみませう

もとより山はまつしろで
鴎が窓をかすめます

越路の空にすみなれて
冬は鼎をともとして

芋がゆあまし世はにがし
めがねの湯氣をふきませう

惜しむにたらぬ身の春は
乏しきかずの盃に

さうして君が歌ふなら
その鄙歌にまかせませう


散文詩 四篇



沈默

 おだまり!
 とフランシス・ジャムは、ある夜ふけ、唇に指をおいて、自分に命じた。ああこの日頃、またしても人々は、私のうたを否定する。彼らはそれを切りさいなむ。それらの勝手な組合せで、彼らは私を否定する。ああその批評で、彼らはつひに何人の耳を掩はうとするのか。
 しかし、おだまり!
 とフランシス・ジャムは自分に命じた。
 けれども私には、私の耳には、今宵もあそこに、ミューズの竪琴の聲が聞える
 ……。
 そこで私もフランシス・ジャムに學んで、ある夜ふけ、ひそかにかう自分に命じた。
 おだまり!
 この日頃、またしても人々は、私のうたを否定する。彼らはそれを切りさいなむ。それらの勝手な組合せで、彼らは私を否定する。ああその批評で……、とそこまできて、私はそこで、私をさへぎる一つの壁にむきあつた。
 しかしおだまり!
 と私はやはり、それでもフランシス・ジャムに學んで、自分に命じた。
 けれどもおだまり! 私には、私の耳には、今宵もあの、ミューズの竪琴の聲は、聞えないから……。
 …………………
 おだまり! おだまり! ながく辛抱して……。

出發

 まんとの袖をひるがへし、夕陽の赤い驛前をいそぐ時、海のやうに襲つてくる一つの感情は甘くして、またその潮水のやうに苦がい。人はみな己れの影をおふてゆく、このひからびた砂礫の上に、彼方に遠く疲れた雄鷄の鳴く日暮れ時、私の見るのは一つの印象、谿間をへだてた谺のやうに、うすれゆく印象の呼びかへしだ。
 出發、――永い間私はこの出發を用意してゐた。私は今日この住みふるした私の町を出てゆきます。今その切迫した時間に驅けつける旅人、ぼろタクシーの間を縫つて、彼方に汽笛の叫びをきく時。
 空しくすぎた歳月を越え、やくざな一切の記憶を越えて、ああまたあのなつかしい一人の人格は、まぼろしのやうに私の前をゆきすぎる。けれどもあなたはどこに往つてしまはれたか。あなたの住ひをどこにたづねていいのでせう。忘却は、虚無は、かくして無限に平板な明け暮れは、空しく四方から海のやうに襲つてくる時に。
 出發、出發、私の列車はもうあすこのプラットフォームに入りました。かしこにけたたましくベルは鳴り、かしこに機關の重壓は軋り出ようとする。
 出發。
 この人ごみの間にあつて、私はひとり希望もなく、膝においた鞄の上にうなだれて、彼方にさみしいシグナルのかげを旅立つでせう。これらの群衆と一つ列車にのりくみながら、けれども私は彼らと異る方角へ、一人の孤獨な旅人として。
 出發……、出發……。
 いまはとらへどころもない、あなたのなつかしい人格が、――かの一つ星が、高く萬物の上に輝きでる時に、遠く遠く、あなたのかへらぬ弟子として。

係蹄

 あの砂山のかげから、青い海と、鴎の群れを見た時に、人々から遠くはなれて、私がはじめてそこまで出かけていつた時に。
 その時私の心は、最初の病氣に苦しんでゐた。海は青く、太陽は高かつた。遠く故郷を出て、私がそこではじめて見たものは何であつたか。ああその風景は、今日もなほ私の眺望にかかつてゐる。
 進歩とは何であらう。人生は水車のやうなものだ。永い輪※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)は、一つのところで※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐる。
 噫あの砂山のかげできいたさざめき、笑ひごゑ、沈默、またそのやさしい歌ごゑに影をかざして遠く砂丘を越えていつたパラソール。
 かうして人生は暮れてゆく。今日またおとろへた私の視力に、くもつた眼鏡の遠景に浮んで見える、その風景は夏の日のまつ晝ま、ツルゲニェーフや獨歩を讀んだ日のあの砂山、青い海と、鴎の群れ、ふつくらとしたちぎれ雲のかず、――さうして思出の遠い祕密の方角へ消えていつた歌ごゑ。
 すべてはあの日に何を意味してゐたのだらう。その意味は解きがたく、今日もまた私の心に浮んでくる。まことに人生には進歩がない。それは水車のやうなものだ。ものうい輪※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)は、一つところで※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐる、※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)つてゐる。
 私は今日、水車小舍のそばを通つた、ふとその路傍に佇んで耳を傾けた。さうして私は、なほこの係蹄の中で、もどかしく一つの未知の眞理を夢みながら歸つてきた。


 ああこはかつた!
 少女は私の膝にとびこんできて、兩手でおほつた顏を私の膝にうづめながら、
 ああこはかつた!
 とくりかへした。つめたいからだをこはばらせて、みなし子のやうな、痩せた肩で息をしてゐる。私は父親のやうな氣持になつて、兩手を彼女の背なかにおいた。
 ああこはかつたの、ほんとにこはかつたわ、いきなり狼に出會つたのよ、山で。
 山には狼がゐたのかい。
 金いろの眼の、まつ青な毛並の、脚なんか宙にういて、火のやうな口からまつ赤な舌が燃えたつて、尻尾は…… 尻尾は風のやうだつたわ、ああこはかつた、いきなり叢からとび出してきたの、あの狼。
 ああ、ああ。
 と私はすなほな聽き手になつてうなづいた。
 私はひとりで山へいつたの、お友達なんかないものね、ひとりでどんどん山の奧へ入つていつたわ。散歩にいつたの、歌をうたつて。
 ひとりで、歌をうたつて、そんな山奧へ……
 ええ、いつでもさうよ、そしたら、そしたらね、金いろの眼の、まつ青な毛並の……
 狼が……
 いきなり叢から、私、氣がつくと、もう眼の前に、鼻の先に、きてゐたわ。
 焔の中に、燃えたつて、ね、青い毛なみに火がついて、樂浪の、壁畫の中からぬけてきて、ね、あの繪のやうに、脚はもう、宙に浮いて、肩から大きな翼がはえて……、まつ赤な舌がまきあがつて……
 私はさうひとりで先をつづけながら、少女の顏をのぞきこんだ。少女はもう、私の膝から顏をあげて、いつの間にか、私の肩にもたれてゐた。
 ああこはかつた。ほんとにこはかつたの、私、後をも見ずにとんで歸つたわ、いちもくさん、いちもくさん、膝がもつれて、息がきれても、ほんとに後をも見ずにとんで來たわ、ああこはかつた、こはかつたわ……
 こはかつたね、あの狼……
 つて、おぢさん、あの狼、おぢさんも、ごぞんじ、山で、おあひになつて……
 いいや、おぢさんは、山ではあはない。
 私はなぜかうなだれてさう答へた。少女は全身で、その時、私の肩にもたれかかつてきた、いつも私の娘がするやうに。――どうやらこれは夢のやうだと、心の隅で、私はいくらか悟りはじめた。けれども私はかう答へた。
 おぢさんは、おぢさんはね、山でぢや、ないんだ、でもおぢさんは、その狼なら、見たことがある、東京の、街の、まんなかで、銀座通りの、電車路で。
 夢はそこでさめた。少女の言葉は、まだ私の耳にのこつてゐた。
 …………


水光微茫




駱駝の瘤にまたがつて



えたいのしれない駱駝の背中にゆさぶられて
おれは地球のむかふからやつてきた旅人だ
病氣あがりの三日月が砂丘の上に落ちかかる
そんな天幕てんとの間からおれはふらふらやつてきた仲間の一人だ
何といふ目あてもなしに
ふらふらそこらをうろついてきた育ちのわるい身なし兒だ
ててなし兒だ
合鍵つくりをふり出しに
拔取りかたり掻拂ひ樽ころがしまでやつてきた
おれの素姓はいつてみれば
幕あひなしのいつぽん道 影繪芝居のやうだつた
もとよりおれはそれだからこんな年まで行先なしの宿なしで
國籍不明の札つきだ
けれどもおれの思想なら
時には朝の雄鷄だ 時に正午の日まはりだ
また笛の音だ 噴水だ
おれの思想はにぎやかな祭のやうに華やかで派手で陽氣で無鐵砲で
斷つておく 哲學はかいもく無學だ
その代り驅引もある 曲もある 種も仕掛けも
覆面も 麻藥も やすりも 匕首あひくちも 七つ道具はそろつてゐる
しんばり棒はない方で
いづれカルタの城だから 築くに早く崩れるに早い
月夜の晩の繩梯子
朝は手錠といふわけだ
いづこも樂な棲みかぢやない
東西南北 世界は一つさ
ああいやだ いやになつた
それがまたざまを見ろ 何を望みで吹くことか
からつ風の寒ぞらに無邪氣ならつぱを吹きながらおれはどこまでゆくのだらう
駱駝の瘤にまたがつて 貧しい毛布にくるまつて
かうしてはるばるやつてきた遠い地方の國々で
いつたいおれは何を見てきたことだらう
ああそのじぶんおれは元氣な働き手で
いつもどこかの場末から顏を洗つて驅けつけて乘合馬車にとび乘つた
工場街ぢや幅ききで ハンマーだつて輕かつた
こざつぱりした菜つ葉服 眉間の疵も刺青もいつぱし伊達で通つたものだ
財布は骰ころ酒場のマノン……
いきな小唄でかよつたが
ぞつこんおれは首つたけ惚れこむたちの性分だから
魔法使ひが灰にする水晶の煙のやうな 薔薇ばらのやうなキッスもしたさ
それでも世間は寒かつた
何しろそこらの四辻は不景氣風の吹きつさらし
石炭がらのごろごろする酸つぱいいんきな界隈だつた
あらうことか拔目のない 奴らは奴らではしつこい根曲り竹の臍曲り
そんな下界の天上で
星のとぶ 束の間は
無理もない若かつた
あとの祭はとにもあれ
間拔けな驢馬が夢を見た
ああいやだ いやにもなるさ
――それからずつと稼業は落ち目だ
煙突くぐり棟渡り 空巣狙ひも籠拔けも牛泥棒も腕がなまつた
氣象がくじけた
かうなると不覺な話だ
思ふに無學のせゐだらう
今ぢやもうここらの國の大臣ほどの能もない
いつさいがつさいこんな始末だ
――さて諸君 まだ早い この人物を憐れむな
諸君の前でまたしてもかうして捕繩はうたれたが
幕は下りてもあとはある 毎度のへまだ騷ぐまい
喜劇は七幕 七轉び 七面鳥にも主體性――けふ日のはやりでかう申す
おれにしたつてなんのまだ 料簡もある 覺えもある
とつくの昔その昔 すてた殘りの誇りもある
今晩星のふるじぶん
諸君にだけはいつておかう
やくざな毛布にくるまつて
この人物はまたしても
世間の奴らがあてにするしかめつつらの掟づら 鐵の格子の間から
牢屋の窓からふらふらと
あばよさばよさよならよ
駱駝の瘤にまたがつて拔け出すくらゐの智慧はある
――さて新らしい朝がきて 第七幕の幕があく
さらばまたどこかで會はう……




遠い國の船つきでおれは五年も暮してきた
おれはいつも獨りぽつちでさびしい窓にぼんやりもたれて暮してゐたのだ
ああそのながい間ぢゆうおれは何を見てゐただらう
鴉 鴉 鴉 あのいんきな鬱陶しい仲間たち
今日も思ひ出すのは奴らのことばかりだ
あのがつがつとした奴らが明け暮れ邊鄙な空にまかれて
漁船のうかんだ海の上まであいつらが空をひつかきまはした
朝燒けにも夕燒けにも
せつかく繪具をぬりたてた
そこいらぢゆうの風景をめちやめちやにして
あいつらは火事場泥棒のやうにさわぎまはつた
何といふがさつな淺ましい奴らだらう
朝つぱらのしののめから
奴らはせつせと遠くの方まで出かけていつた
さうしてそこらの砂濱で何だかごたごた腐つたさかなの頭なんかを
頬ばつたりひろひこんだり
あくびをしたり喧嘩をしたりさ
それから小首をかしげたり
さうして都會の小僧どもが日暮れの自轉車をふむやうに
奴らはせかせか羽ばたきをして
後から後から後から 海を渡つてもどつてきたものだ
けれどもどうだらう
これから後五百萬年も きつと奴らは滅びることはないだらう
そんな苦しい考へから
おれはいつもひとりで結局ふさぎこんでしまつたものだ
おまけに今日は東京銀座の四つ辻で
外でもないおれはまたあいつらのことを思ひだしてゐるのだ
何といふわびしい追想だらう
笑つてやれ!
ここではお洒落なハンド・バッグが何だかあいつらのまねをして
この日の暮れのうすぼんやりした海の上をせかせか羽ばたくからだらう


薄野



薄の枯れたうらさみしい野みちだ
むかふの方に堤防があつて 盜びとのやうにいやな奴が
そのくせおれのなつかしい河が流れてゐる
(それはもうさういふ羽目の辻占だ……)
さうしてそいつはいつもかもしのび音に堤防の下の方を流れてゐる
そこにはつまらぬ舟が浮んでつまらぬ漁師が日がな一日
河底の泥をすくつてゐる
ありもしない獲もののかげをさがしもとめて
鴎もそこらにちらばつてゐる
そのまたむかふの書割にはうすぼんやりと靄がかかつて
こはれかかつた煙突が三本半ほどならんでゐる
何といふ腑拔けながらんどうの風景だらう
どこに音樂のこゑがきこえるでもなし
河蒸汽一つ見えはしない
こんな地方にまぎれこんできたおれの運命はいつたい何を考へることができるだらう
ああいつさいが快活に眼ざめはしない
空想はしりからしりから消えてゆく階段のやうだし
そこいらをうろついてゐるのは駱駝のやうな雲ばかりだ
そいつもしりから消えてゆく
消えてゆく
ほんたうに今日は陰氣ないやな日の暮れだ
かうしてこいつはどこかへおれの運命をつれてゆくつもりでゐるのにちがひない
盜びとのやうに忍びあしで
かうしてこの河が遠く遠く
枯れ枯れにす枯れてしまつた薄野を曲りくねつてゐるかぎり
こんな風景のとりこでゐるかぎり
おれはもう手摺のない暗い底ぬけの階段を
しかたなく降りてゆくばかりだ


二重の眺望



ああこの夏のまつ晝まのあまりに明るい炎天の遠い方角
えたいの知れない遠くの方から聞えてくるもの音と靜けさと
さみしく流れる煙のやうな一つのこゑをきいてゐるのは私の影
そこらあたりの燃えたつやうな岱赭の丘を眺めてゐるのは 私とさうして私の影
ああこの二重にさみしい眺望
けれども何だかふしぎに心のうきたつやうなこれは都會の路ばただ
朝からそいつをかついできた私の肩に太陽は重たくまた輕い
どこにも私の見知りごしの建物はなく私のけふの棲家もない
過去と未來のこんがらがつたこれはたしかにもう一つの東京
でこでことした岱赭の丘の塊りだ
そいつが海に浮んで そいつが空に浮んでゐる そいつを蟋蟀きりぎりすが支へてゐる
ものの遠音をとりまぜた 靜かな靜かなまつ晝まだ




だからあの夢のやうなまつ白な建築 遠く空に浮んだ無數の窓のうへに
その尖塔のてつぺんにひるがへる旗を見よ
高く高く細くまつすぐにささげられた旗竿のさき
ああそこにも一つの海を見る
海のやうにひるがへる旗を見る
ああその氣流の流れるところに 波は無數に立ちあがり
ゆるやかにあとからあとから 無限に沖の方からおし寄せてくる
そこらあたりの山脈から 空の奧からけふもまたおし寄せてくる
天空高くおし上げた彼らの夢を追つてくる無數の生きもの
あはれにすなほな鵞鳥の群 山羊や仔山羊や緬羊や仔牛をつれた乳牛や
何を目あてにいそぐのか彼らの肩は波うつて押しあひへしあひ
天上のそんなところで(――あるものは叫びながら)あとからあとから彼らの希望を死んでゆく ああその陰氣な仕切りのうち 無數の豚が死んでゆく屠殺場
そんな風にも見えないかい
今日の綺麗に晴れあがつた空のあすこに つめたく凍つて動かないうろこ雲と
夢のやうにそそりたつまつ白な建築の尖塔のてつぺんに
高く高くあんなに小さく見えるまで高くかかげられてゆるやかに流れる旗と
ああいつもさういふ一つの歴史の旗が人間の住む都會の空にひるがへつてゐる


晩夏



ダーリアの垣根ではダーリアを見た
まつ赤に燃えるダーリアの花
また日まはりの垣根では日まはりを見た
重たく眩ゆくきな臭い 中華民國の勳章だ
熱くやきつく砂の上で あそこでおれはいつまでも
遠くむかふの三里濱の方を眺めてゐた
あとからあとからあとから
沖のうねりがうねつてきて高くうちあげる三里濱
のつぺらぼうの砂濱にひよろひよろ松がけむつてゐる
ひよろひよろ松の梢を越えて
遠くずつとむかふの方に霞んで見えるつまらぬ山々
そんなさみしい岬の風景
また沖の島――
沖の沖の ぼんやり視界を消えてゆく影繪のやうな沖の島かげ
おれはまた女の子らがするやうに綺麗な石や貝殼を拾ひあつめて眺めてゐた
(をかしければ嗤ひたまへ)
おれの醜い手の上に美しいものを眺めてゐた
天には鴉がばらまかれ
そろそろ西がもえだしてまつ赤にそれがもえたつたから
そこらの砂にひきあげた小舟のへりに腰をかけて
おれはまたつくねんとしていつまでも
神の宮居が燒け落ちて――火消しもポンプもちりぢりにどこかへ歸つてしまふまで
(ローマも燒けた 長安も またベルリンも 東京も)
空の奧を眺めてゐた
沖のうねりにひるがへる
舟のともにもきらきらと貧しげなの見えるまで

  一羽とぶ鳥は
  友おふ鳥ぞ
  荒磯ありそ

  一羽とぶ鳥は
  頸長し鳥
  臀重し鳥

  一羽とぶ鳥は
  日暮れてとぶぞ
  荒磯

荒磯になびく煙のやうな海藻のうねりと
水を出てくる蜑女あまの群れ
網のもつれる網干し場
おれはそこらをうろついてつまらぬ蟲の走るのも
横つ倒れに轉んでゐる老朽船の船底も
一つ一つ見てまはつた
おひおひあたりは薄暗く
疲れて飢ゑた感情からそこらのものを見てまはつた
かくして夏はすぎてゆく
そんな季節の後ろ姿をけれどもおれは見送つてゐたわけではない
ああさうではなかつた
岩のつき出た斷崖きりぎしのとつさきの小徑にたつて
うちかへす波の轟くこゑのうへで すでにすでにおれの喪つたもののいつさいを
遠い彼方の方角におれは知つてゐたのだから――


遠くの方は海の空



遠くの方は海の空
そこらのつまらぬ水たまりで小僧が鮒など釣つてゐる
さみしい退屈な奴らだよ
いつもこんなところの木かげにかくれて油を賣つてゐるのだよ
崩れかかつた堤防がぼんやりあたりを霞ませて
そこいらいちめんすくすくと蘆の角がのぞいてゐる
くされた都會の場末から一里も遠い埋立地だ
なるほど奴らがふらふらとこんな陽氣に浮かされて
考へもなくやつてきて水のほとりにしやがんでゐる
垢まみれの帽子のかげにも
時にまたついと沈む浮標うきのやうなたよりなげな感情はなやんでゐるのだ
時はこれ一九四九年 ゆく春のまつ晝ま
空しい風がたはむれて弓なりに吹きたわめては飜へすかすかな釣絲
正午だからぼおうとどこかで汽笛も鳴る
遠くの方は海の空


なつかしい斜面



なつかしい斜面だ
おれはこんな枯草の斜面にひとりで坐つてゐるのが好きだ
電車の音を遠くききながら
さみしいいぢけた冬の雲でも眺めてゐよう
ああ遠くおれの運んできたいつさいのもの思ひ
疲れたやくざなおれの希望なら そこらの枯草にはふり出してしまへ
かうして疲れた貧しい男が疲れた貧しい心をいたはつてゐるのは
何といふあてどのないおだやかな幸福だらう
けれどもおれの病氣の心は それでもまだ知らない世界を考へてゐる
無限に遠く 夢のやうに遠くどこかへひろがつてゆかうとする
意志を感ずる
意志を感ずる
ああその意志を不幸なながえから解き放してやれ そいつは愚かな驢馬なんだよ
病氣の愚かな驢馬なんだから向ふの方の松の木にでも繋いでやれ
彼をしてしづかに彼の夢を見しめよ……
さうしてそこらの黄いろく枯れた枯草でも彼の食らふにまかしておけ
遠い斜面の底の方は腐れた都會の水溜りで何だかそこらは薄暗い幾何學圖形の堀割が
晝間もぐつすり寢こんでゐる
そいつの向ふを遠まはりして
電車の音はあとからあとから忙がしい都會の人口を運んでゐるが
まつ晝間だつて何だつてぐつすり寢こんでゐる奴がゐるものだ

おれにしたつてさうかもしれぬ さうだらう
そんなことならおれにしたつてもうとつくの昔に悟つてゐることだ
このぼろ船はいつになつたつて港につかぬ
港は遠く見失はれて 波は高く 海は廣い
機關はやぶれて燃料はつきてしまつたのだ
かまはず積荷をはふり投げて
こいつはかうしてここまでどうやらやつて來たのだ
燒け野つ原の都會の空をいぢけた雲が飛んでゐる
愚かな驢馬は向ふの方で
それでもあいつの性分だから 耳だけひくひくやつてゐる
すてておけ 仕方もないことだ


けれども情緒は



けれども情緒は春のやうだ
一人の老人がかう呟いた
燒け野つ原のみぎりの上で
孤獨な膝をだいてゐる一つの運命がさう呟いた
妻もなく家庭もなく隣人もなく
名譽も希望も職業も 歸るべき故郷もなく
貧しい襤褸らんるにつつまれて 語られ終つたわびしい一つの物語り
谿間をへだてた向ふから呼びかへしてくる谺のやうな 老人がさう呟いた
かひがひしい妻 やさしい家族 暮しなれた習慣と隣人と
そのささやかな幸福のすべてがかつてそこにあつた
燒け野つ原のみぎりの上で
薄暮の雨に消えてゆく直線圖形の堀割のむかふの方
みづがね色の遠景に畸型に歪んでおびえてゐる戰災ビルの肩を越えて
病氣の貧しい子供らが歌ひはじめる唱歌のこゑ――
それはまばらにさむざむと またたのしげに 瞬きはじめた都會の
ああその薔薇いろのひとみとほく輝きはじめた眼くばせが
しかしいま私に何のかかはりがあらう
そのまたずつとむかふの空に重たく暗く沈んでゆく山脈に
けふの私の一日が遮ぎり斷たれ つひには虚無にしまひこまれて消えてゆく黄昏時に
いつまでもいつまでも
空しく風にゆれてゐる柳のかげをたち去らぬこのおだやかな このつかれた この孤獨な情緒は 情緒はまるで春のやうだ……
一人の老人が額をふせてさう呟いた
けれども情緒は 情緒はまるで春のやうだ
しのしのとのび放題に生ひ繁つた草つ原
――その枯れ枯れにうら枯れはてたそこらあたりに
おもたく澱んだ堀割の水がくされてゐる
そこいらいちめん崩れかかつた煉瓦塀の間から 雀の群れが飛びたつた
氣まぐれな思出のやうに 一つ一つ弱い翼を羽ばたいて
巷の小鳥も飛び去つてゆく夕暮れだ
霧のやうに降つてくるしめつぽい冬の雨の中で
けれども情緒は 情緒はいまこの男に
朧ろにかすんだ遠い日の櫻日和を思はせた
遠い沙漠の砂の上でひもじく飢ゑて死んでゆく蝗のやうな感情に
とぼしい光の落ちかかるうすぼんやりした内景から聽き手もなく老人はひとり呟いた
けれども情緒は 情緒はまるで春のやうだ


ここは東京



私はあなたに教へてあげたい
ここは東京 燒け野つ原のお濠端です
こんなに霧のかかつた夜ですが 女のひとよ
ここは北京ではありません また巴里でもありません
あなたはどちらへゆかれるのでせう
あなたは路にまよはれたのです
私はあなたに教へてあげたい
あなたはそんなにもの思はしげに外套の襟に顎をうづめて
うすらつめたいこんな夜霧にぬれながら
どちらへお歸りのおつもりでせう
まあ一度額をあげてごらんなさい
その鈴懸の並木のぐあひをごらんなさい
枯木のままの骸骨どもをごらんになつてはどうでせう
幾年ぶりで昔の主人にめぐり會つた飼犬のやうな直感で
またその家畜のやうなもどかしさで
私はあなたにあなたの見うしなはれた遠いお住ひを教へてあげたい
あなたはいちづな性分です
あなたは路をいそがれます
霧の中に消えてゆくあなたの跫音をききながら
私はかうして街燈のかげにひそんでゐるつまらぬ祕密探偵ですが
考へてもごらんなさい
追剥どもの待伏せするこんな夜路をあなたはごぞんじのはずはない
はやく夢からおさめなさい 女のひとよ
その外套のかくしの中で あなたの手はかたくかたく
つめたく握りしめられてゐる
實はたぶんそれがあなたの夢なんですよ
ふしぎに淋しく遠ざかつてゆくあなたのうしろ姿にむかつて
私は警笛でも吹いてあげたい
ああそらあなたはまたそんな街角を一つ曲つてどちらへゆかれるおつもりでせう
こんなに霧のふかい夜ふけですが 女のひとよ ここは東京
燒け野つ原のお濠端です
あなたは路にまよはれたのです
女のひとよ


いただきに煙をあげて



いただきに煙をあげて――
いただきに煙をあげて走つてくる大きな波
ああこの沖の方から惡夢のやうに額をおしつけてくる獸ものたち
起ち上り起ち上り 起ち上り
まつ暗な重たい空の重壓から無限におしよせてくる意志 厖大な獸ものの頭蓋
さうしてその碎け飛ぶ幻影まぼろし
束の間の丘陵とまたその谿間と
遠く遠くはてしない闇黒の四方に飜り揉みあふこゑ
いただきに煙をあげて 煙をあげて走つてくる大きな波
起ち上り起ち上り 起ち上る
まつしろなその穗がしら――
ながい時間のあひだ私の見つめてゐた幻影まぼろし
ああこの一つの展望から さやうなら 今はもう私のたち去る時だ
私の精神の上に 苦しく懷しい季節はかくして通りすぎた ――然り私はもうこの岩礁の上からたち去るだらう
ふたたびここに歸る時なく
飛沫にぬれた外套の中に凍りながら
彼方に促されてたち去るだらう
心ももと 自由ではない
――駒鳥も冬はうたはぬ
かくして彼方に遠のいてゆく遠雷のやうな海鳴りの上に
私はふたたび人の名を呼ばないでせう


行人よ靴いだせ



行人よ靴いだせ
行人よ靴いだせ
脂ぬり刷毛はかん
ひぢはらひ釘うたん
鋲うたん
革うたん
靴いだせ行人よ
行人よ靴いだせ
故郷の柳水にうなだれ
塵たかくジープは走れ
堀割にゆく舟を見ず
街衢みな平蕪
ボイラー赤く錆び
蛇管だくわんは草に渇きたり
ここにして※(「筑」の「凡」に代えて「おおざと」、第3水準1-89-61)つゑつきつな
巷路暮春の風
いかなれば聽くを須ゐん
天ひろく
眼はむなし
つばくらら肱をめぐりて
地にしける甍をかすむ
路はただ水に隨ひ
直としてすゑは青めり
わが昔中學に通ひし路なり
ゆくところ麥の穗はうれ
大根の花こぼれ散り
月見草あるは晝咲く
ああこれ狹斜の地歌舞の跡
綺語臙脂沈麝の薫り
婀娜たりや夢も亦…… 智慧の環の
見ればつとほぐれて走るくちなはのうせてのち――
日は蝕と
日は蝕と人よぶ聲す
襤褸らんるの子ものかげに天をあふげり
されどまた路傍の石にかしましく
行人よ靴いだせ
行人よ靴いだせ
脂ぬり刷毛はかん
絲かがり針ぬはん
鋲うたん
革うたん
靴いだせ行人よ
行人よ靴いだせ
あはれまたここも闇市
あてどなき喪家の犬か
えうもなきすゑの世をわれはゆきゆけ
ありとなし思出も亦
ジープただ北し南す
ふるさとの暮春の巷
………………………
行人よ靴いだせ
行人よ靴いだせ


霜の聲



冬の寒い夜ふけにあつて
人はみなともし火を消して睡つてゐる
起伏の多い丘や谷間
環状道路がガードをくぐる向ふの方
毀れかかつた街燈や變に歪んだ病院の窓
あるひは夜霧の中に瞬く航空燈臺
――そちらの方角もやつぱりまつ暗な港の方では
それでも何か機關の音が軋つてゐる
ああこの都會の到るところにキャベツ畠が凍りつき
煉瓦塀ばかりの屋敷跡に土藏の屋根が傾いて
そこらの堀割に毀れた橋がかかつてゐる
ねえお巡りさん この道をずんずんまつ直ぐ參りますと 私はどこへ行くでせう
さうさね あすこに低く光つて見えるのは ……あれは君 火星だよ
とんでもない どうして私がそんなに遠くへ行けませう
私は生れてこの方この地球の住人でこの燒跡の市民です
さうして僕は 泥棒どもを見張つてゐる君らの公僕
ありがたうお巡りさん 私どもはあすこの星へは參れません なつかしい隣人よ 月が出た
握手をしよう さやうなら
時はいま二十世紀のただ中を
のぼりつめた峠の空に半輪の月がかかつて
時刻はづれの鷄が鳴く 遠い向ふの地平線
すべての悔恨はこんぐらがつて後ろの方にうすれてゆく そこらあたりの道の上に
――だが冬だから春はま近だ
さくさくと踏めば碎ける霜の聲さへ……


さやうなら日本東京



ぼつぼつ櫻もふくらんだ
旅立たうわれらの仲間
名にしおふ都どり
追風だ 北をさせ
さやうなら吾妻橋
言問 白髯
さやうなら日本東京
さやうなら闇市
さやうなら鳩の街
新宿上野のお孃さん
一萬人の靴磨き
さやうなら日本東京
さやうならカストリ屋臺
さやうなら平澤畫伯
さやうならさやうなら
二十の扉 のど自慢
さやうならJOAK
八木節と森の石松
さやうなら日本東京
さやうならエノケン
さやうならバンツマ
さやうなら元氣でゐたまへ
丸の内お濠の松
さやうなら象徴さん
さやうならその御夫人
數寄屋橋畔アルバイト
南京豆と寶くじ
インフルエンザとストライキ
さやうなら日本東京
ポンポン蒸汽の煙の輪
なつかしい隅田川
さやうなら日本東京


ちつぽけな象がやつて來た



颱風が來て水が出た
日本東京に秋が來て
ちつぽけな象がやつて來た
誕生二年六ヶ月
百貫でぶだが赤んぼだ

象は可愛い動物だ
赤ん坊ならなほさらだ
貨車の臥藁ねわらにねそべつて
さつやバナナをたべながら
晝寢をしながらやつて來た

ちつぽけな象がやつて來た
牙のないのは牝だから
即ちエレファス・マキシムス
もちろんそれや象だから
鼻で握手もするだらう

バンコックから神戸まで
八重の潮路のつれづれに
無邪氣な鼻をゆりながら
なにを夢みて來ただらう
ちつぽけな象がやつて來た

ちつぽけな象がやつて來た
いただきものといふからは
輕いつづらもよけれども
それかあらぬか身にしみる
日本東京秋の風
ちつぽけな象がやつて來た

* アジア象とて、この種のものには牝に牙がない。去る年泰國商賈某氏上野動物園に贈り來るもの即ちこれなり。因にいふ、そのバンコックを發するや日日新聞紙上に報道あり、その都門に入るや銀座街頭に行進して滿都の歡呼を浴ぶ。今の同園の「花子さん」即ちこれなり。


王孫不歸

王孫遊兮不歸 春草緑兮萋萋――楚辭

かげろふもゆる砂の上に
草履がぬいであつたとさ

海は日ごとに青けれど
家出息子の影もなし

國は亡びて山河の存する如く
父母はおはして待てど

住の江の 住の江の
太郎冠者こそ本意ほいなけれ

鴎は愁ひ
鳶は啼き

若菜は萌ゆれ春ごとに
うら若草は野に萌ゆれ

王孫は
つひに歸らず

山に入り木をる翁
家に居て機織るおうな

こともなく明けて暮る
古への住の江の

浦囘うらわ
想へ

後の人
耳をかせ

丁東ていとう 丁東
東東

きりはたり きりはたり
きりはたり はたり ちやう


加佐里だより



KOREAの緑の切手(白い翼と小さな地球
なるほど航空便だから……
消印は83・3・2)
朝鮮慶尚南道晋陽郡
井村面加佐里のさとの姜淑香
そんな振出人から包みがとどいた

音書に曰く
私は岐阜市の生れです
十八まではそちらで育つた
母の國は日本
父の國はこちらです
だから戰爭がすむとこちらに歸つた
こちらもひどく暮しにくい
朝夕かなしく詩を書いた
この帳面を見て下さい

その詩の一つ――
  むされるやうな砂煙り
  晝のやけつく路の上
  うつむいて 年とつた 旅人の 影一つ
  包みを背負つて重たげに
  遠く來た足重たげに
  過ぎゆきぬ

その詩の二つ――
  もの貰ひの
  爪のびてよごれた指さき
  襤褸つづれの袖をかいさぐり
  おづおづとその手をののく
  七つばかりの女の子
  睫毛黒く
  瞳ぬれ
  小さき頭 下げまた下げて
  村をゆく足音あはれ
  秋の風

やつぱりさうか さうだらう
君の田舍も……
この帳面はぼつぼつ讀まう
ありがたう姜淑香
君の田舍の臭ひがするよこの帳面は
野蒜の強い臭ひがするね 姜淑香!


秋だから



秋だから 彼方の窓に鎧扉が下り
秋だから 並木もやがて裸になる
秋だから 秋だから
噴水の聲が高くなり
秋だから 葡萄は熟れ 梨は熟れたが
何かしらおれは愚かなもの忘れ……
鋪石に 街角に 辻の廣場に
斑々はんはんと何かまぶしい白金光
秋だから雲はいそいで都の空を飛んでゆく
飛んでゆくのは雲ばかりか
落葉ばかりか
落葉まじりによろけて墜ちる蝶の羽 沈默しじま
何かしらこの靜かな世界に
耳をゆるがす野兎か ――いや
秋だから 秋だから
何かしらおれの愚かなもの忘れ……


驢馬



耳たてよ
驢馬

嘶け
驢馬

尾をふれ
驢馬

驅けだせ
驢馬

草をくへ
驢馬

影をみろよ
驢馬


驢馬よ!


すずしく青き



すずしく青き蘆の間に鳥の卵はかへりたり
はや小さなる嘴に八月の光をついばむ
われこの高き堤にたちて彼方に水を渡らんとす
なべて空しき江上によしなきまみを放つかな
ただ※(「水/(水+水)」、第3水準1-86-86)々とゆく水はゆるやかにして煤煙は飛びてあとなし
そは一つらの曳船の船脚重く工場の裏を過ぎゆく
のびらかにひろがる水脈みをのひろがりてやがて消えゆく
そはかくも憂愁の深くこゑなきと思出のあとなきとを悟れとや
八月にして脆げなる殼を碎きて鳥のひひなはかへりたり
そは彼ら沖べの水脈をかきわけてはやかづきもやまず波に光るを


水光微茫



堤遠く
水光ほのかなり
城ありてこれに臨めり
歳晩れて日の落つはやく
扁舟人を渡すもの一たび
艪のこゑしめやかに稜廓にしたがひ去りぬ
水ゆらぎ蘆動き
水禽出づ
松老いて傾きたる
天低うしてその影黒くさしいでぬ
かくありて雲沈み
萬象あまねく墨を溶いて
沈默して語らざるのみ
我れは薄暮の客たまたまここによぎるもの
問ふなかれ何の心と
かの一兩羽うちて天にあがる……
叱叱しつしつ しばらく人語を假らざれとなり


かなたの梢に――



かなたの梢に憩ふものあり
日は南 木は枯れて 空青し
またこの冬のかばかりもさまかへし
田のおもてものもなく人を見ず
山低き野のすゑに憩ふもの
こころみになが指に數ふべし
稚な兒よときの間のつれづれの汽車の窓
よごれたる玻璃の陽ざしに
さらばわれらがを指にもかがなべてみん
人の世の途すがら次々に遠くわが失ひしものの數
かの緇衣しえのひと群れの言もなき
團欒のその數の
やすらふと似たらずや
雪ふらん 明日はこの野に雪はふらんとも
けふ空青し
よきかな 眼路めぢのはて
何の木か しらじらと枝高し
その枝に黒きものみな翼ををさめ
參差として 彼らの數をつくしたり
この空や 明日はかぐろに雪はふらんとも――


すずしき甕



天澄み 地涸き
ものみな磊塊
一つ一つに嘆息す
土壘くづたひらぎ
石みな天を仰げり
寂たるかな
三旬雨ふらず
されば羊も跪づき
ともしき夢を反芻す
風塵しばらく小止をや
畑つものなほ廣葉圓葉まろばのさゆらぐを見る
かかる時桔槹きつかうかしこに動き
再び動きてきしり止みぬ
いとけなき起居たちゐのさまや
貧しき乙女の半裸なるしばしはのほとりにくぐもりゐしが
――まことに彼女は時劫に祷るさまなりしが
歩どりはやくひたひたとしたたる甕を運び去るなり
我は見る
かの乙女子のかくて彼方に
片なびく柳がくれにひたひたとすずしき甕をその胸に
重たげにはたは輕げに人の世の無限の時を運びて去るを





底本:「三好達治全集第三卷」筑摩書房
   1965(昭和40)年12月10日発行
底本の親本:「定本三好達治全詩集」筑摩書房
   1962(昭和37)年3月30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「間人斷章」は底本では「[#「燗のつくり」、U+9592]人斷章」となっています。
入力:榎木
校正:尚乃
2020年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「燗のつくり」    U+9592


●図書カード