女婿

佐々木邦





 清之介君の結婚式は二ヵ月かゝったというので未だに一つ話になっている。新夫婦は式後愛情まことこまやかに、一ヵ月と二十何日というもの絶対に引き籠っていた。余り念が入った所為せいか、清之介君はその揚句初めて出勤する時、ネクタイの結び方を忘れてしまった。こんな筈はなかったのにと、白シャツ一枚でしきりに我と我が喉のくびり方を研究している中に悪寒さむけを覚えて、用心の為め又三四日休んだ。元来結婚式と新婚旅行の為め五日の予定で休暇を取ってから、丁度二月目で無事な顔を同僚に見せたのである。今は子供が三人も出来て、もう旧聞に属するけれど、これがその当座会社内の大評判だった。
 その頃世界風邪、一めい西班牙スパニッシュインフルエンザというのが日本中に流行した。これは日本が欧洲大戦に参加して一等国になった実証でも何でもなく、実に迷惑千万な到来物だった。悪性の流行性感冒で、かかると直ぐに肺炎を発する。東京丈けでも毎日何百という市民がこの疫癘えきれいさらわれて行く。学校も一時閉鎖となる有様。誰が死んだ彼れが死んだと、自分の一家はつつがなくても、少くとも、知人友人を失わないものはなかったろう。この騒ぎの名残が今日でも東京の電車に跡をとどめている。――咳嗽せき噴嚔くしゃみをする時は布片きれ又は紙などにて鼻口を覆うこと――とある。くしゃみはその方針を一々電車の掲示に指定して置くほど人生の大問題だろうか? 鼻腔に故障のない限りは、頼まれても然う無暗に出る筈のものでない。然るに当時は嚔から世界風邪が感染したのである。西班牙スペイン人の男性か女性か知らないが、第一回に嚔をしたものゝ上に百千ももちの呪いあれ! 嚔はその処置を市当局で斯くの如く制定するほどの重大事件になった。この要旨を布衍ふえんして、命を惜しい人は皆烏天狗のようなマスクをつけて歩いた。恐水病きょうすいびょうの流行った頃口籠くつこめられて難渋したことのある畜犬共は、
「はて、到頭人間もやられたわい」
 と目を見開いて快哉を叫んだと承る。この流感が猖獗しょうけつを極めている最中に清之介君は結婚式を挙げたのである。
 嫁の座に直った時、支配人の令嬢妙子さんは、姫御前のあられもない、極めて大きな嚔を一つして、唯さえ心恥かしい花の顔容かんばせを赤らめた。しかしその席に列していた父親は、
「はゝあ、娘は何処かで褒められている。今朝の新聞にも娘の結婚のことが出ていた。虎の門出身の才媛として写真まで載せてあったから、今頃は彼方此方で器量を褒めているのだろう」
 と解釈した。
 間もなく盃の取り交しに移った時、花嫁は二つ続けて嚔をした。矢張りその場に控えていた母親は小首を傾げて、
「これはしたり。娘は誰に憎まれているのだろう? 憎むものゝないように※(二の字点、1-2-22)わざわざ姑のないところを選んだのだが、不思議なこともあればあるものだ」
 と考え込んだ。
 盃ごとが終った時、妙子さんは三つ嚔をして、両手で顔を覆った。父親の思えらく、
吉兆きっちょう、吉兆! 婿は娘に惚れている」
 しかしお土産物の披露が済んで花婿が先ず席を立った時、花嫁は四つ続けて嚔をした。母親は娘の側ににじり寄って、
「妙子や、お前風邪をひいたんじゃないの?」
 と不安そうに尋ねた。
「私、先刻から頭が痛くて仕方がありませんの」
 と妙子さんは涙をホロ/\零した。仲人は花嫁のお土産の披露の中に西班牙インフルエンザを言い落したのである。
「熱は然うないようですがね」
 と母親は娘の額に手を当てゝいる。
「困ったなあ。精養軒の方へもう皆集まっている時分だのに、妙子や、お前我慢出来ないかい?」
 と父親はそれほどまでに思っていない。
「矢っ張りありますよ、少し、熱が。ひょっとすると……」
 と母親が言っている中に、既に諺にある嚔の数をしつくした妙子さんは咳をし始めて、
「私、背中から水を浴びせられるように悪寒さむけがして、とても起きちゃいられませんわ」
 とガタ/\震え出した。
「流感か知ら」
 と父親は初めて思い当った。
「休まして戴きましょう。何にも心配することはありませんよ。もう此処がお前の家ですからね。寝ていようが起きていようがお前の勝手です」
 と母親は娘に智恵をつけて、
「児島さん、もし、児島さん、一寸」
 と仲人をさしまねいた。
「実は娘が流感らしいんでね」
 と父親が用件を伝えた。今回は仲人でも平常は会社の下僚だから、児島さんは、
「はゝあ、それは/\」
 と恐縮して、
如何いかが計らいましょうか?」
「直ぐ寝かしてやってくれ給え。それから医者だ。急いでね」
 と父親は悉皆支配人になってしまった。
 妙子さんは早速別間で床についた。斯ういう場合の用心にと羽二重の夜のものまで持って来ていたが、花婿の方でも、チャンと用意してあった。これによっても当時世界風邪がれくらい流行っていたか察しられる。それは然うとして親戚の面々は急に手持ち無沙汰になって、立ったり坐ったりしている。
「皆さんは兎に角……ホテルじゃない、精養軒の方へお引き取り下さい。御覧の通りの次第ですから、婿だけ披露式に出すことと致します」
 と父親が言う。
「あなた、芽出度い披露式早々から片一方欠けるなんかは縁起じゃございませんよ」
 と母親は流感に罹れば死ぬものと思い込んでいるから、兎角気にする。
「でも芽出度い結婚式に発病しているじゃないか? 丈夫なもの丈け行くより外仕方がないよ」
「それですから、延しては戴けますまいか知ら?」
「今更延せないよ。もう会社のものが皆集まっている。清之介君丈けに出て貰うさ」
「それじゃ片一方が欠けると申しているんですよ」
「清之介君が出なけりゃ両方欠けるぜ。両方欠ければ一家全滅じゃないか?」
「そんなことを仰有るものじゃございませんよ」
「それじゃ何うすれば宜いんだ?」
 と父親はムシャクシャしている。
「清之介さんには家に残って戴いて、児島さん御夫婦と私達が一寸顔出しをすれば宜しいじゃございませんか? ねえ、児島さん?」
「左様々々」
 と児島さんは相槌を打つ。
「しかし当人達が一向顔を見せなければ披露にならない。それじゃ写真でも並べるかな、告別式のように」
 と父親はもう焼け無茶だ。
「まあ/\、御病気のことですから、お客さま方も御承知下さるでしょう」
 と北海道から来た清之介君の兄が口を出して、
「それに清之介は披露といっても同僚ばかりで皆見知り越しでしょうから、家に残るとして、仲人のお方と二方で宜しいじゃございますまいか? 私もお供致します」
 と自分の存在を主張した。重役の令嬢と平社員の結婚だから、何うしても婿側の肩身が狭い。先方の親戚は豪そうなのが十何人か控えているのに、此方は北海道の運送屋さんが唯一の兄で、これが中風の父親と親類全体を一手に代表している。尤も九州の叔母の配偶つれあいに陸軍大佐がある。清之介君は心細さの余りこの人に列席して貰おうと思って、再三懇願したけれど、遠隔の地とあって到頭来てくれなかった。
「会社のものばかりなら何うでも構いませんが、わきからも大勢見えるのです。しかしさい御幣ごへいを担ぎますから、仰せに従いましょうかな」
「そこのところは私から宜しくお客さま方へ申し上げます」
 と仲人も口を添えた。
「然う願いましょう。それじゃ清之介君、頼みますよ」
 と父親は時刻が追々移るので、ついに納得した。
「は、承知致しました。もう間もなく医者も参りますから、は」
 と清之介君は舅即ち支配人と思っているから、甚だ腰が低い。
「成る可く早く切り上げて参りますから、何うぞね」
 と母親も頼む。
「は、かしこまりました。は」
 と一同が自動車に乗り込むのを見送って、清之介君は花嫁の休んでいる部屋へ引き返し、羽織袴のまゝでその枕頭ちんとうに侍した。式は済んでもまだ言葉一つ交さないのだから女房とは思えない。如何に勇を鼓しても支配人の令嬢という頭がある。
「妙子、何うだね、容態は?」
 とくらわせればかったのに、清之介君は極めて自然に、
「妙子さん、御気分は如何でございますか?」
 とやってしまった。天下をかかあに渡すか渡さないかは最初の第一歩にある。
「頭が痛くて……」
 と花嫁はもう余所行よそゆきは止めている。ここで覚るところあっても晩くはなかったのに清之介君は、
「もう医者が見える筈でございますが、斯うしている間に一つお熱を計らせて戴きましょう」
 と矢張り羽織袴を脱がず、下へも置かない扱いを続けた。
「計って頂戴。大分あるようですよ」
「お待ち下さい。唯今検温器を探して参ります」
「序にお白湯さゆを一杯頂戴、婆やに然う仰有ってね」
 と妙子さんは何も当日から支配人の娘を鼻にかけたのでなく、単に良人りょうじんとして遇したのである。然るに清之介君は女房を支配人の令嬢として遇していたから、
「は、承知致しました」
 と応じた。女中もいるし、里から婆やも手伝いに来ているのだから、それに命じて煙草でも喫っていれば宜いのに、自らお湯を汲んで来て、
「お熱うございますよ。検温器はこゝに置きます」
い/\早々御面倒をかけますわね」
 と妙子さんは病苦の中にも態※(二の字点、1-2-22)粗雑ぞんざいな言葉を吟味して女房振りを見せているのに、
「いゝえ、何う致しまして」
 と清之介君は何処までも女房を令嬢扱いにしている。後日悉皆細君の下敷になってしまったのも全く道理のないことでない。
 妙子さんはもう嚔は止まったが、頻りに咳をした。時計を見つめていた清之介君が、
「もう宜しゅうございましょう」
 と言っても聞えないくらいだった。よんどころなく、
「失礼でございますが、一寸……」
 と断って、妙子さんの腋の下から検温器を引き出さなければならなかった。
「大変でございますよ。三十九度七分!」
「流感でしょうね?」
 とかすかに呟いて、妙子さんは目を閉じた。長い睫毛に涙が露と宿っていた。
「さあ、何うでございましょうか知ら? お胸がお痛みでございましょうか?」
 と訊いても返辞がなかった。唯息使いだけが小刻みに荒く聞える。
「妙子さん、あなたお苦しゅうございましょうね?」
「…………」
「もう医者が参りましょう」
 細君は良人の奴隷ではない。御機嫌次第では良人の言葉に応答しなくても宜い。殊に自分が何か屈託があって良人が小煩こうるさい時には然う一々返辞をするものでない。若しそれがお気に召さなくて、
「おい、返辞をしろ! お前は耳がないのか?」
 と極めつけられたら、
「あなたは随分勝手なお方ね。私の欲しいものを二つ返辞で買って下すったことがございますの?」
 と遣り返す資格がある。妙子さんはもう細君だから、この作法の実行を心掛けていたのである。然るに分りの悪い清之介君は、
「妙子さん、あなたお白湯は召し上りませんの?」
 と飽くまであなたさまに崇め奉っている。
 折から俥が玄関に止まって、婆やと女中が医者を案内して来た。待ち侘びていた清之介君は慇懃に迎えて、座蒲団を薦め、早速発病の次第を説明し始めた。先生は、
「はゝあ。はゝあ」
 と頷きながら聴いている。
「はゝあ、成程、結婚式で……それはお芽出度うございました」
 と軽くお辞儀をして花嫁の方へ振り向き、
「……はゝあ、そのまゝお休みに……披露式へはお出にならずに……はゝあ、成程、瀬戸際まで漕ぎつけて、それは少々お気の毒でございましたな」
 と又清之介君を顧みて破顔一笑した。
 診察の結果は申すまでもなく流行の世界風邪と決定した。こゝ両三日が最も大切で肺炎に変じないとも限らないとあった。医者は手当の方法を詳しく言い含め、尚お看護婦の周旋を引き受けて立ち去った。後には清之介君、もう羽織袴どころではなかった。女中を氷屋へ走らせる。追っかけて婆やに氷嚢を買いにやる。その間に自ら瓦斯にかゝって湯湯婆ゆたんぽのお湯を沸す。嫁を貰うとばかり思い込んでいて、看病の支度はしてある筈がないから、実際慌てたのである。
「あなた、私癒りましょうかね?」
 と妙子さんは心細そうに尋ねた。
「大丈夫でございますよ。未だ肺炎と定まった次第わけではありませんから、御心配なすっちゃいけません」
 と清之介君は力をつけた。
「母は未だでしょうか?」
「もうソロ/\お帰りでございましょう」
「真正に御迷惑をかけて申訳ありませんわね」
「いや、何う致しまして」
 清之介君の迷惑はただに花嫁の介抱丈けに止まらなかった。妙子さんが三日目に医者の懸念通り肺炎と変症した頃から、清之介君も咳をし始めて、晩に一寝入りすると熱が出た。そうして翌日は流感、その翌々日は肺炎と事がはかどった。双方勝り劣りのない重態で、一時は会社でも何方が早く片付くだろうかと噂をしていた。しかし里方総出の看護が効を奏して、妙子さんの熱が先ず分離し、それから三日目に清之介君のが分離した。何うしても細君本位の家庭と見えて、良人は後になる。
 談話はなしをしても差支えない程度まで元気づいた時、未だ毎日采配を振りに来る母親が二人の病室の仕切りになっていた襖を外してくれた。
「妙子さん、もう御安心でございますね」
 と清之介君が先ず御機嫌を伺った。
「宜うございましたわね。あなたも」
 と妙子さんは同慶の意を伝えた。
「私、もうお目にかゝれないと思いましたのよ」
「私も。でも最早もう大丈夫でしょうね?」
「大丈夫でございますとも」
「飛んだお土産を持って来て真正にお気の毒でしたわね」
「いや、何う致しまして」
 と清之介君は死ぬほどの目に会わされても一向意に介していない。
 肥立ちに入っても用心の為め双方に看護婦が附き添っていたから、清之介君は細君と打ち解ける機会がなかった。随って矢張り女房と思えない。依然として支配人の令嬢「妙子さん」の「あなた」だった。尚お具合の悪いことには東京に身寄りのない清之介君は、この大患の間何彼につけて細君のお里に負うところが甚だ多かったのである。見す見す妙子さんのお土産を背負ったことは分っていても、
「お蔭さまで命拾いを致しました」
 と支配人夫婦にお礼を言わなければならなかった。好い面の皮だけれど、両親に於ても然う確信しているから仕方がない。妙子さんのがうつったとは決して仰有らない。唯清之介さんが流感に罹った、と全く別口に扱っている。母親は殊に身贔屓みびいきが強く、
「娘は確かに音楽会から背負しょって参ったのでございますよ。一人で沢山なところへ婿まで罹りましてね。而もこの方が余程念入りでございました。あれは潜伏期の長いほど性質たちが悪いと申します。娘のと違って直ぐ呼吸困難に陥りますから、一週間というもの私が附きゝりでございました。まあ、酸素吸入で命を買ったようなものでございます。でも式が済んでからで宜うございましたよ。他人では迚もあれ丈け立ち入った看病は出来ませんからね」
 と言っている。肚の中では清之介君のが妙子さんに伝ったと思っているのかも知れない。兎に角里は嫁の親であると同時に婿の命の親になってしまった。新婚早々これ丈けの恩顧を蒙ったのだから、唯さえ下り勝ちの頭が全く上らなくなったのも無理はない。
 清之介君は一ツ橋出身である。お天道てんとさまは今勤めている会社ばかりに照らない。人並の腕のあるものは何処へ行っても食える。支配人の令嬢を貰わなくても、立身出世の道はいくらもある。清之介君の縁談を耳にした時、同勤の親友辻村君はこの理を推して、
「支配人の女婿ということは一生祟るぜ。いくら出世をしてもあれはあれだからと言われる。僕は君の個性の為めに惜しむのさ」
 と注意をんだ。しかし清之介君は既に一応首を縦に振った後だったから、
「何あに、個性は全うするさ。養子に行くんじゃあるまいし、高が女一匹だもの、何うにでも操縦するよ」
 と自分の立場を弁護する外なかった。
 それはさて置き、若い血汐のみなぎっている有難さ、新夫婦はズン/\回復した。看護婦もお暇が出て、初めて水入らずの新家庭になった。但し里方干渉の習慣は流感のどさくさ紛れに堅く根を張ってしまって、母親が一日置きに見舞いに来る。尤も妙子さんは末の娘だから呉れたような貰ったようなところという最初からの註文で、東京に親戚のない清之介君に白羽の矢が立ったのである。それはお婿さんも仲人の打ち明け話で承知だったが、単に希望に過ぎないと解釈していた。
 ところが或日のこと、
「あなた、今日は少し御相談があってお母さんがお見えになったんですよ」
 と妙子さんが紹介した。
「実は宅の家作が一軒急に明いたのでございます。清之介さんも御存知じゃなくて? 宅から停留場へ出る道で、赤いポストの側の門構えでございます」
 と母親は直ぐに喋り出した。
「こゝよりも余っ程大きくて日当りが好いんですよ。肺炎の後は一体なら転地する方が安心ですけれど、然うも参りませんから、ねえ、あなた、越しましょうよ」
 と妙子さんも口を添えた。
「はゝあ、私達が引越すんでございますか?」
 と清之介君は初めて意味が分った。
「まあ、他人ひとごとのように仰有って。オホヽヽヽ。お母さん、私達お家賃は払いませんよ」
「いゝえ、敷金まで入れて貰いますよ。オホヽヽヽ」
 と母子が面白そうに笑って、もう転宅がきまってしまったのである。

甘栗


 清之介君が支配人の令嬢妙子さんを貰ったのである。会社の同僚の語を借りて言えば、拝領したのである。拝領にせよ、頂戴にせよ、兎に角清之介君が貰ったので、支配人が令嬢の妙子さんの配偶に清之介君を貰ったのではない。
 この辺の関係を最初から内外へ表白する為めに、結婚式は清之介君の手狭な借家で挙げられた。実をいうと、妙子さんのお里では列席する親類が多いから何処か他のところへ持って行きたかったのだが、清之介君はそれを一つの条件にしていたのである。此方へ貰うのだ。先方へ貰われるとは間違いにも思われたくなかった。而も世上の口には戸は立てられない。清之介君が二月振りで、未だ多少病後の衰弱の残っている顔を見せ始めた当座、会社の同僚は、
種馬たねうまにはなりたいものさ。僕等は結婚式でも三日が精々だが、支配人の養子となると扱いが違う。二ヵ月はけだし世界中の記録レコードだろうね」
「何あに、はたで思うほど楽でもなかろうぜ。ネクタイの結び方を忘れるほどまで御機嫌を伺うんじゃあね」
 と蔭口を利いた。形式の如何に拘らず、清之介君の方が貰われて行ったものと思い込んでいる。
 それから披露式の件についても、お客さまは殆んど皆会社と里方関係ばかりだから支配人に一任させて貰いたいと、仲人の児島さんを通して予め申出があったけれど、清之介君は応じなかった。何処までも対等にして置かなければ後日頭が上らないと考えたのである。随って費用は折半せっぱんということになった。しかしこれ丈けの苦心も察しの好過ぎる同僚にかゝっては敵わない。その折仲人が新郎新婦不参の次第を然るべく吹聴ふいちょうに及んだ時、連中は妙な披露式もあればあるものだと思ったが、大して失望も感じなかった。
「何あに、社員日頃の精励に対する慰労の意味も兼ねているのさ」
「一挙両得か。うまくやっている。公私混合も御馳走なら異存はないぜ」
 というようなことを囁き合った。始末に負えない奴等だ。皆慰労会の積りでいた。何うしても支配人の影が濃い。お婿さんは兎角二の次になる。世間並以上の披露をして真に儲からない話である。
 こんな損な役廻りも、花嫁の風気かざけが肺炎に変じなかったら、何うにか挽回出来たろうに、悪い時は悪いもので、清之介君はその肺炎まで拝領してしまった。そうして二人二ヵ月間の病臥中にかさんだ尠なからぬ費用に至っては、もう何とも仕様がなかった。結婚式の支度は長いこと心掛けていたが、病気の方は思いがけないことで手が廻り兼ねたから、今度は無条件で妙子さんのお里の恩顧を蒙った。後日どころか式を挙げたばかりで最早頭が上らなくなってしまったような気がして、
「清之介さんのは全く酸素吸入で命を買ったようなもので、一時はとても此方のものじゃなかろうと存じましたよ」
 という里の母親の毎度乍らの吹聴が意味深長に聞えて困った。何となく肩身が狭い。そこへ移転の問題が起って、これという相談もなく、
「あなた、越しましょうよ」
 と殆んど高圧的にくらわされた。転地の代りだというから何とも故障の申立てようがなかった。次の日曜に妙子さんのお里から書生や女中達が手伝いに押しかけて来た。母親は無論何彼と采配を振った。そうして自分現在の俸給では余程考慮を要するくらいの家作へ納まって、
「あなた、新しくて好いでしょう? もっと広いのもあるんですけれど、里へはこゝが一番近いから無理に立ち退かせたのよ。お家賃の出ないのが何よりですわ」
 と妙子さんに言われた時、清之介君はイヨ/\女婿らしい心持になった。しかしもうこの上里方のお世話になりたくないと思っていた矢先だったから、
「妙子さん、家賃は矢張り定めて戴いてお払い致しましょう。それでないと私が困ります」
 と主張したが、妙子さんは、
「いゝえ、構いませんのよ。私、何うせ一軒戴くんですもの。生憎一番好い家が一番遠いんで、ここじゃ大変損ですけれど、まあ辛抱致しましょうね。その代り電話を引いて戴く約束ですから」
 とあって一向受けつけなかった。
 新夫婦は睦じく暮した。清之介君は支配人の鑑識めがね通り忠実な良人だった。妙子さんも、富裕ゆたかな家庭に育った末娘にあり勝ちの我儘を除いては、申分ない妻女だった。それに何方も珍らしい一方だから、未だ行き違いの起る隙間がない。
「あなた、今日は甘栗を買って、五時半きっかりにお帰り下さいましな」
 と命じられゝば、清之介君は雨が降っても銀座へ廻って、電車で人を突き退けても時間の正確を期した。女婿でなくても、少しのろい男ならこれぐらいのことはする。しかし甘栗が四日続いた時妙子さんは、
「私、もう飽きたわ」
 と言って顧みなかった。
「私も今日は何うしようかと余っ程考えましたが、また御機嫌が悪いといけないと思って……」
「あら、私、そんなに我儘でしょうか?」
「いゝえ、然ういう次第わけじゃありませんが、或は待っていらっしゃるかと思いまして……」
 と清之介君はいささか藪蛇の形になって、食後早速、
「妙子さん、今晩もヴァイオリンを聴かせて戴けますか?」
 と余り感心しない西洋音楽の拝聴で御機嫌を取り結ばなければならなかった。妙子さんはお嬢さま育ちだからナカナカ気むずかしい。しかしそれは長い月日には自分の指導によって矯正出来ると清之介君は高を括っていた。
「妙子さん」
「何あに?」
「…………」
「何あに? ニヤ/\笑ってばかりいて」
「丸髷よりは……無論丸髷も結構ですが、些っとあの聖徳太子は如何ですか?」
「ホヽ、聖徳太子は好かったわね。あなた!」
「何ですか?」
「私もお願いがあるのよ。私、明日お昼から日本橋の叔母さんのところへ上りますから、会社のお帰りに迎いに寄って下さらない? あすこからブラ/\銀座へ出て、何処かで晩御飯を戴きましょうよ」
「それも宜いでしょう」
「少し早目に来て下さいよ。何なら三時頃にね」
「えゝ、何とか都合をつけましょう」
 と清之介君は快く応じた。女婿でなくても細君の為めには時折早引ぐらいはする。殊に文明国の紳士は皆女房の言いなり次第になる。それは兎に角翌日会社の帰りに叔母さんの家へ伺候すると、妙子さんが耳隠しどころか洋装をして待っていてくれたのには、清之介君、悉皆嬉しくなって、家つきの娘必ずしも話せないことはないと思った。
 こんな具合で新婚の数月が楽しく過ぎて行った。清之介君は時折妙子さんの自我的なのにクサ/\することがあっても、良人としては充分立てゝ貰っているから、先ず以て不満は感じなかった。妙子さんに於ては万事に自分の意思が通るので、これも苦情のある筈がなかった。
 或日曜の夕暮、清之介君は遊びに来ていた辻村君を玄関まで見送ってから、
「妙子さん、あなたは気分でもお悪いんですか?」
 と言いながら茶の間へ入った。
「いゝえ」
 と妙子さんは手にしていた夕刊を置いた。
「それなら一寸出て下さると宜かったのにね」
「でも、私、辻村さんは嫌いですもの」
「嫌いなら好きになって下さい。あの男は学校時代からの親友ですからね」
 と清之介君は長火鉢のところへ坐った。
先方むこうで反感を持っていれば此方でも好意は持てません」
 と言って妙子さんはプイッと立ってしまった。
 清之介君が妙子さんの我儘に愕然として目を見開いたのはこれで二回になる。第一回は以前から清之介君の家にいた女中が気に入らないと言って、里の気に入ったのと取り換えたことであった。その折一言なかるべからずと思ったが、元来女中の更迭は主婦の権限に属することと考え直して黙っていた。しかし今度のは何うもう行き兼ねる。嫌いだからといって主人の客に応対しないという法はない。それでは妙子さんの好かない友人や同僚とは行く/\交際が出来なくなってしまう。細君の我儘が外まで知れ渡るのはまことに辛い。家の中丈けならいくらでも我慢するが、と女婿は斯ういうことには本能的に神経過敏だ。これはこれを機会きっかけに矯正の第一着手を試みるのが良人としての責務だと感じると、清之介君は胸がドキ/\して来た。しかし黙ってはいられない。癖になる。小言をいうのではない。喧嘩をするのでもない。誠意をもって理を諭して反省を促すのだから、と尚お考え/\夕食を終った後、決然として切り出した。尤も他の良人とは行き方が違う。改まるほど物丁寧になる。
「妙子さん」
「何ですか?」
「あなたは先刻……」
 で最早行き詰まったのでもないが、声が震えているのに気がついて、中休みをしたのである。
「先刻?」
 と妙子さんは聞き返して、
「あら、あなた何うかなさいましたの? お顔色が悪いわよ」
 と怪しんだ。まさかこの男がこれから説諭を始める料簡だとは思わない。
「いゝえ、顔色は悪くありません。あなたは先刻辻村君がお嫌いだと仰有いましたね?」
 と清之介君は漸く本題に入った。ナカ/\手間が取れる。
「もういじゃありませんか。そんなこと」
「いゝえ、親友のことですから気になるんです」
「大層御贔屓ね、あんな人が?」
 と妙子さんは良人の意のあるところが読めると同時にきっとなった。
「この前辻村君が見えた時、あなたは快活で面白い人だと仰有ったのに、何かお気に障るようなことでもあったのですか?」
「そんなにお責めになるなら申上げましょう。私は私達の結婚に反対した人は嫌いなんですよ。反対して置いて、いけ図々しく様子を見に来たり入れ智恵をしに来たりする人は大嫌いなんですよ」
「妙子さん、あなたは誤解していらっしゃる。辻村君は……」
 と清之介君が言いした時、女中が後片附けの都合で又顔を出した。それを好いことにして妙子さんは、
「お富や、彼方あっちへ行っておくれ。私は今旦那さまに叱られているところだからね」
 と当てつけた。暗に宣戦の布告をしたのである。我儘娘は母親と毎度遣り合った経験上、兵を動かすことしんに入っている。駈け出しの清之介君は到底敵でない。
「叱るのじゃありません。理由わけを聞かせて戴くのです」
「理由は今申上げましたよ。あなたは覚えがございませんの?」
「何の覚えですか?」
「辻村さんに縁談を反対されたり入れ智恵をされたりした覚えよ」
「ありませんな、そんな覚えは」
「嘘を仰有い。今日も何です? 案外だよ、君のは杞憂だったよと仰有ったでしょう? あなたは、私をそんな悪人と思っていらしったんですか?」
「さあ、それは……」
 と清之介君は全く受け太刀になってしまった。芝居なら、さあ/\さあ/\と掛け合いになって行き詰るところだ。
「御覧なさい。ろくすっぽ御返辞も出来ないじゃありませんか? 理由を聞きたいなんて能く仰有れますのね?」
「それはあなたの誤解です。私はあなたのお気に入るか何うかとそれを案じたんです。辻村君もそれを案じてくれたんです。それが案外杞憂だったと話していたんです」
「へゝえ。それじゃ気に入った積りでいらっしゃるの? あなたは。私、嘘をつく人は気に入りませんよ」
「嘘じゃありませんよ」
「いゝえ。嘘です、嘘ですよ。嘘ばかりついて……私が何にも知らないと思って踏みつけにして……口惜しい! 口惜しいゝ!」
 と妙子さんは全然優勢な立場にも拘らず、急に泣き出した。
「まあ、お嬢さま」
 とお富は立ち聞きを止めて襖の蔭から姿を現した。
 清之介君は尠からず狼狽した。こんな大事おおごとになるようなら、矢張りっと虫を殺していれば宜かったと今更後悔しても取返しがつかない。
「妙子さん、お気に障ったら堪忍して下さい。ねえ、妙子さん」
 と寄り添って背中をさすった。
あんまりです。余りですわ」
 と妙子さんは肩で浪を打って擦らせている。自分こそ余りである。
「私が言い過ぎたんです」
 と清之介君は何も言い過ぎた覚えはないが、兎に角早く泣き止んで貰いたかった。涙の前には理窟も膝を折る。婦人の泣くや、水力をもって男子を動かすとある。妙子さんは今新家庭第一回の戦端に完全な勝利を得て置く必要上、その水力を利用したのである。
「何も彼も辛抱する積りでいたのに、あなたの方から仰有るから、ついこんなことになったんですわ」
 と妙子さんは充分目的を達した後、顔を上げた。
「もう申しません。御機嫌を直して下さい」
「私は証拠を握っているんですから、もう嘘はつかないで頂戴、ねえ、あなた」
「嘘は申しません」
「それが嘘じゃございませんか? 辻村が反対したほどの女でもないと書いてあるのに」
「書いてありますって? 何に書いてありました?」
「あなたの日記帳にちゃんと書いてありましたわ」
「日記を御覧になったんですか?」
「お悪うございましたか?」
「日記は困りますよ」
「でも夫婦の間に秘密はないとあなたは仰有ったでしょう。私、馬鹿正直にその積りでいましたし、それにこの頃は出歩きませんから退屈して、つい一寸拝見させて戴きました」
「秘密はないにしても、日記は困りますよ。困りますよ、日記は」
 と清之介君は同じことばかり繰り返している。咎めれば又騒ぎになるに定っているから、他には何とも言いようがなかったのである。
「種々と秘密がございますからね。会社の御用で晩いと思っていれば、カッフェへ寄って、女給のお仲さんとふざけていなさるし」
「それはあなた、交際で時稀ときたまは仕方ないんです。然う/\逃げて帰れば皆に冷かされますもの」
「ですから、私もそれを彼れ是れ申しませんよ。けれども、考えて見ると情なくなりますわ。あなたは私だと一緒に出歩いているところを会社の方に見られるのもお厭なんですからね」
「そんなことがあるもんですか。あの時は早引をしましたから、会社のものに会っちゃ具合が悪かったんです」
「でもあの時困ったことを幾度も/\仰有って恩に着せなさるじゃありませんか。お仲さんには然うじゃなかろうと思いますと、私だって好い心持は致しませんわ」
 と妙子さんは一寸した材料を極めて有効に使いこなす。清之介君はそれを嫉妬と解して光栄に存じ、妙子さんの手を取りながら、
「妙子さん、何うかそんなことは仰有らないで下さい。有りもしないことをお富が真正にしますよ。女給のことなんか書いた覚えはないんですがね」
 ともう日記を読まれたのを当然の成り行きと見做みなすようになった。人が好いから自由自在に操縦される。
「いゝえ、二度も三度も書いてありました。男性の親友は辻村さんで女性の親友はお仲さんね?」
「女給の話はもう止して下さい。ね、あやまります。カッフェへ行けば誰でも冗談ぐらい言うんですから」
「私、冗談なんか言って戴きたくないんです。あんな下等なものに」
 と妙子さんは清之介君の手を払い退けた。
「はあ、もう決して申しません。それから辻村君のことですがね」
「辻村さんのことなら私聞くのも厭ですよ」
「まあ/\然う仰有らずに。辻村君はあなたに反対したんじゃないんです。唯支配人の令嬢というような地位の高い婦人よりは……」
「女給のお仲さんをお貰いなさいって忠告なすったんでしょう」
 と妙子さんは受けつけない。清之介君は尚お二言三言弁解して黙ってしまった。
 一時間ばかり後にお富が、これも会社の同僚で極く近しい木下君を取次いだ。
「久しぶりで大将のところへ御機嫌伺いに行ったのさ。行き帰り素通りも失敬と思って一寸……」
 と来客は直ぐに座敷へ通った。
「よく寄ってくれたね。未だ早いからゆっくり話し給え」
 と清之介君は喜んだものゝ、先刻のような経緯いきさつの後、妙子さんが出てくれるか何うかを疑問にした。そこで木下君が、
「何うだい? 相変らず家庭円満かね?」
 と冗談を言った時、
「有難う。然し妻は少し加減が悪いと言っていたから今夜は失礼するかも知れない」
 と念の為めにほのめかして置いた。話題に至っても先刻で懲りているから、一身上のことは避けるようにした。
 しかし清之介君は要らない心配をしていたのである。妙子さんは程なく手ずから紅茶を薦めに現れたばかりか、愛想好く話し込んだ末、トランプを発起した。三四回目からは、
「只じゃ詰まりませんから何か賭けましょうよ。来月の歌舞伎を賭けましょう」
 とあった。勝負がはずみ、結局発頭人の妙子さんがおごることになった。木下君は大満足だった。支配人の家へ御機嫌伺いに上るほどの会社員はその女婿じょせいの家庭で特に優待されることを遺憾と思わない。清之介君も辻村君の場合に引きかえて嬉しかったから、お客さんを送り出した時、
「妙子さん、有難うございました」
 とお礼を言った。
「まあ、他人行儀になさるのね。先刻の意趣返し?」
 と妙子さんは美しい目に媚をこめて睨む真似をした。泣いた後でお化粧を直した上にトランプの勝負に上気していたから、殊にあでやかに見えた。清之介君は恍惚となって、意見をしようとして反対あべこべに取っちめられたことも何も彼も忘れてしまった。

電話


 清之介君は第一回の細君矯正の試みに全然失敗してから、長い間緘黙かんもくを続けた。うっかり切り出しても、先方がそれ以上の材料を用意していれば、歯が立たないのみならず、返り討ちになってしまうことが分った。後から聞いたところによると、妙子さんはその前の日に清之介君の机辺きへんを片付ける時、書棚からみだしていた当用日記に注意を惹かされた。ひとの日記を読むものでないことは何人でも承知している。妙子さんも直ぐには読まなかった。夫婦の間に秘密はないと一応理窟をつけてから開けて見た。すると少々腑に落ちないことが目に留まったから、今度は探究的になって、本箱の奥から去年の分まで捜し出した。目的は縁談の頃のページにあった。その節辻村君の執った態度と見識張った勧告を明らかにした時、妙子さんは好かない人だと思った。それから良人がこんな男を無二の親友として常に行動を共にするのも気に入らなかった。カッフェのお仲さんに至っては真の副産物に過ぎない。しかし決して好い心持はしないから、折を見て言ってやろうと思っていたところへ、辻村君がやって来たばかりか、清之介君が、矯正の第一着手を試みたのである。事あれかしと待ち構えていたところに鈍刀の鞘を払ったのだから、御良人、甚だが悪かった。
 けれども清之介君は直ぐ後から木下君をあんなに大切にして貰ったので、多少慰められた。続いて妙子さんの示した媚を呈するような風情に悉皆嬉しくなって、今夜のことは自分のひがみから起ったようにも考えられた。女婿でなくとも、これぐらいの我儘な細君を貰い当てることはあり得る。現に同僚の間にも年中女房の下敷になっているのが両三名ある。自分は女婿だと思うのが宜しくない。細君には両親があるに定ったものだから、良人たる以上は皆誰かの女婿だ。広い意味からいうと世に女婿ならざる良人はない。※(二の字点、1-2-22)たまたま自分は勤めている会社の支配人の女婿なのである。何も割引をして考える必要はない。それに女婿だから会社に勤めているのではない。こゝまでは宜いが、その会社に勤めていたから支配人の女婿になったと思うと、少し変になって来る。
 その翌日妙子さんは無論お里へ行った。用がなくても三日と間を置いたことはないのだから、これぐらいの異変があれば当然出掛ける。尤も元々頻繁に往復するのが目的で、こんな近間ちかまへ越して来たのである。顔を合せると直ぐ、
「お母さん、私、昨夜清之介と喧嘩しちゃったの」
 という触れ込みに、
「まあ、何うしたのさ?」
 と母親は目を見張った。
「大喧嘩をしちゃったの。お母さん、家へ辻村って人が来たことがありますか、矢っ張り会社の?」
 と妙子さんは母親に対してもこの通りの我儘で、自分の訊きたいことから先に訊く。
「辻村さん? お名前だけは伺っていますが、そう/\、清之介さんのところへ幾度も見舞いに来てくれた人でしょう?」
「そうですよ。何うせ家へなんか寄りつく人じゃないんです。その人が清之介の親友で、清之介に私を貰わないようにって勧めたんですよ。憎らしいじゃありませんか?」
「そんなことよりもお前、何うして清之介さんと喧嘩なんかしたのさ? 話して御覧なさい」
「その人のことで言い合ったのよ。私、悉皆すっかり知っていたから、昨日辻村さんが来た時わざと出ないでいてやったんです。すると後から清之介が苦情らしく申しますから、私斯ういう時だと思って、ひどい目に会わしてやったの」
「まあ、お前がひどい目に会わせたの?」
 と母親は稍※(二の字点、1-2-22)安心したものゝ、
「お前は我儘だから、私、心配ですよ。清之介さんは未だ怒っているんでしょう?」
「いゝえ、お休みする頃には自分が悪かったって悉皆すっかりあやまったから、堪忍してやったのよ。私、前から辻村さんが少し癪に障っていましたからね」
 と妙子さんは日記を読んだこと丈け省いて経緯いきさつの詳論に立ち入った。母親は娘の我儘を認めていても、当人の口から聞けば自然我が子の方に道理があるように思い込む。殊に清之介君のところまで時々来ていながら、唯の一度も此方の御機嫌を伺わないような社員には同情がない。結局、
「辻村さんは辻村さんとして、お前達は何方も我儘なんです。喧嘩は両方が悪いんです」
 とは、清之介君、真に有難い仕合せである。
 又数月過ぎて秋半ばになった頃、緘黙を守っていた清之介君の胸中に言いたいことが大分積って来た。就中なかんずく気に入らないのは妙子さんのこのお里通いだった。それも清之介君が夕刻時間きっかりに帰って来ても、妙子さんがいないことさえあった。そういう時は、
「奥さまはお里へ行っていらっしゃいます」
 と女中のお富までがお里風を吹かすようなのも癪で、
「能く里に用があるんですね」
 ぐらいに忿懣を洩らして、淋しく夕食の膳に向わなければならなかった。
 或晩清之介君は帰宅が少し晩かった。お富が独り出迎えたので、
「奥さんは?」
 と訊くと、
「今しがたまで待っていらっしゃいましたが、余りお晩うございますから、何処かへお廻りだろうと仰有ってお里へ参りました」
 との返答。これは嘘に定っている。昼間から行っているに相違ない。
「晩いって、三十分晩いばかりです。電車の都合では三十分ぐらいは後れますよ」
 と清之介君はプリ/\した。
「何ならお迎えに上りましょうか?」
 とお富が言った。この何ならが、清之介君、又癪で、
「迎えに行って来て貰いましょう」
 とつい言ってしまった。お富は直ぐに台所へ廻った。
 清之介君は一寸後悔を感じた。しかし追っかけて取消す次第わけにも行き兼ねた。騎虎の勢い致し方ない。少し胸騒ぎをさせながら着替を終って膳に向ったが、呼びにやって置いて独りで食べては趣意が立たない。却って突っ込まれるおそれがあると気がついたから、夕刊を熟読していると、妙子さんはお富と一緒に帰って来て、
「何うも済みませんでした。そんなに晩くもないのに自分都合で早合点してしまって」
 と機嫌よくお給仕をしてくれた。清之介君は安心した。この分では矢張り少し威張る方が宜いとさえ思った。
 食事が終った時、妙子さんは、
「あなた、今夜の長唄はラジオよ」
 と言った。
「長唄がラジオですか?」
「あら、間違ったわ。今夜のラジオは長唄でございますよ」
「それなら分ります。何うも変だと思いました。長唄がラジオという法はない」
 と清之介君は一ぱし遣り込めた積りだった。実務家の諧謔味かいぎゃくみは大抵これぐらいのところである。
「覚えていらっしゃいよ」
「この間は清元がラジオでしたね?」
「宜うございますわ。それなら今夜は長唄がラジオよ。長唄がラジオですから、私、聞きたいんだわ。参りましょうよ」
 と妙子さんは清之介君を誘ってもう一遍お里へ行きたかったのだ。
「さあ」
 と清之介君は煮え切らない返辞をした。音曲には実のところ没趣味である。里へは成るべく行きたくない。それに一日働いて草臥くたびれていた。
「お厭?」
「さあ、何うしましょうか」
「お厭ならしましょう」
「私、留守番をしますから、あなた、お富をつれていらっしゃい」
「いゝえ、舎しますわ、今夜に限ったこともありませんから」
 と妙子さんは思い止まった。清之介君は書斎へ引き取った。案外穏かに治まったので、矢張り時折は拒絶する方が宜いのかも知れないと考えた。
 一時間ばかりすると、妙子さんはツカ/\と書斎へ入って来て、
「あなた、この間申上げましたように、電話を引いて戴きましょうよ」
 と言いながら清之介君に寄り添うように坐った。唐突だしぬけのようだが、これはもう長い問題である。折角里で架設してくれるという電話が、清之介君の固い辞退の為め、まだそのまゝになっているので、妙子さんが始終ヤキモキするのだった。
「ねえ、あなた」
「電話ですか? 電話は要らないじゃありませんか」
 と何気なく答えながらも、清之介君は先刻の返報とさとって、一寸ちょっとした出来心の我儘を後悔した。栄華の夢は長くない。
「あなたは要らなくても私は要りますよ。私、今日は電話の必要をツク/″\感じたんですから、何うか引いて下さい。引かせて下さい、ねえ、あなた」
 と妙子さんはもう気色ばんでいる。
「妙子さん、電話だけは堪忍して下さい。この上そんなにして戴いては、私、困りますから」
「いつまでも他人行儀ね、あなたは!」
「他人行儀という次第ではありませんが、私の立場を察して下さい。電話が御入用なら里のを借りれば宜いじゃありませんか? 何うせ毎日いらっしゃるんですから」
 と清之介君はことけて頼んだ。
「私、毎日は参りませんよ」
 と里へ行っていて呼び戻されたのを根に持っている妙子さんは覚えず声を筒抜けさせて、
「他人行儀ですとも。あなたのように水臭い人はありませんわ。私が里へ行くのがお気に召さないなら、何故直接じかに仰有って下さらないんです?」
「申上げる必要もないじゃありませんか? 元々何とも思っていませんもの」
「何とも思っていない人が児島さんに頼んで母に言わせますの? あなたは行き詰まるとすぐに嘘を吐くのね? 男らしくもない」
 と妙子さんは益※(二の字点、1-2-22)雄弁になった。
「まあ/\妙子さん、気を静めてお聴き下さい」
 とまでは口へ出しても、清之介君は斯う局面が開展して来ると、後が続かないから切り込まれるばかりだ。
「御自分だって会社の帰りに勝手なところへお寄りになるじゃありませんか? 私がそれを彼れこれ申しましたか? 御自分のことは棚へ上げて、何です? 私は今夜あなたのお蔭でお母さんに叱られて来たんですよ。主人の帰る刻限を知らないで遊んでいるものがありますかって。ねえ、あなた、電話さえあればこんなことはありませんよ」
 と妙子さんが言った。
「あなたが電話をお嫌いなさる理由は私、分っていますよ。あなたは電話があると、他へ廻る時に一々断らなければならないし、行った先が知れゝば、私の方からかけて煩いと思って、それでお厭なんでしょう。ねえ、あなた、けれども私はあなたが何処へいらっしゃろうとお邪魔は致しませんよ。あなたなんかに焼き餅を焼くもんですか!」
 とも言った。尚おその他、種々言って見たけれど、一向手答えがないので、
「電話のある家から電話のない家へ来たんですから、どんなに不便だか知れませんわ。それを私、何も言わないで、凝っと辛抱しているんですよ。たまにお帰宅かえりの時分を外したからって、何も女中を寄越して恥をかゝせるには当りませんわ。今夜は家人数うちにんずばかりでなく目黒のあによめが来ていましたよ。あなたは私があの人大嫌いなことを御存知でしょう? その前で私は母に叱られたんですからね。これでも矢っ張り電話は要らないと仰有るんですか? ね、あなた。あなたってば!」
 と詰問に及んだ。表向きは何処までも電話で行く。
「妙子さん、電話の必要は私も認めています。しかしもう少時しばらく待って下さい」
少時しばらくっていつまで待つんですか?」
「私の力で引けるまで待って下さい。里のお父さんにも私の心持は申上げてあるんです。あなたも聞き分けて下さい。ね、妙子さん、それが夫婦の情愛です」
 と清之介君は再び頼み入った。
「強情ね。痩我慢やせがまんね。いつまでも、あなたは」
「…………」
「痩我慢ですわ。散々里の世話になって置きながら」
 と、はしたない妙子さんは到頭行くところまで行ってしまった。
 清之介君は両手で耳を掩うようにして机の上に突っ伏した。もう何と言われても黙っていた。
「ねえ、あなた」
 と独り喋りあぐんだ妙子さんが袂を引いた時、おもむろに身を起して、
「あなたがそれまでに仰有るなら、私も考えて見ます」
 と言った。
「考えて下さい。そうして早く引いて戴きましょう」
「電話のことではないのです」
「それなら何を考えなさるの?」
 と妙子さんは覚えず声を震わせた。我儘を通しながらもまさか万一と時折思っていたことに直面したのである。清之介君は頭を抱えて再び以前もとの姿勢に戻っていた。妙子さんは身をくねって覗き込み、机の上にポタ/\と涙が落ちるのを見た時、
「あなた、もしあなた」
 と慌て始めた。
「お気に障ったら堪忍して下さい。ねえ、あなた。ねえ、あなた」
 と次いで泣き出した。今回は清之介君の水力が妙子さんを動かしたのである。
 翌朝出勤の折には、妙子さんはイソ/\見送って、
「何うぞお早く」
 と極めて貞淑な妻女になっていた。
「お傘は如何でございましょう? 少し曇っていますわ」
 と何か言わなければならないように持ちかけられても、清之介君は昨夜からの沈黙を破らずに出て行ってしまった。妙子さんは今日はお里へ行く代りにお富をやってお母さんを呼び寄せた。無論一部始終を打ち明けたのだが、前回とは全く行き方が違っていた。
「今考えてみれば皆私が悪かったのです」
 と決して自分の主張をしなかった。
 清之介君は昼まで黙りこくって事務を執っていたが、食事の時、
「笠井君、君は左の方は利きますか?」
 と、可なり懇意になっている新参の同僚に話しかけた。
「さあ、誘惑ですか? それとも人物調査ですか?」
 と笠井君はナカ/\剽軽ひょうきんな男だ。
「まあ誘惑ですね」
「それなら相応飲める口です」
「人物調査なら?」
「一滴も戴きません」
「ハッハヽヽ、正直ですな。それじゃ僕は誘惑したいんですが、応じてくれますか?」
「お供しましょう」
 とあって、会社が引けてから二人で飲みに行くことに相談がまとまった。
 それで妙子さんが晩のお料理とお化粧に念を入れて只管ひたすら良人の帰宅を待っていた頃清之介君は笠井君を相手に銀座のバーでウィスキーに親しんでいた。
「時に笠井君、君は真正に未だ独身なのですか?」
「さあ。それは原さん、媒妁ですか? それとも品行調査ですか?」
 と笠井君は必ず質問の趣意から訊いてかゝる。
「例によって用意周到ですな。それぐらいにやらないと出世しません。ハッハヽヽヽ」
 と清之介君はアルコールの力で上機嫌になって、
「何方でもないんです。まあ好奇心ですな」
「それなら御想像に任せましょう」
「想像は困るな。しかし意味深長だな。まあ/\独身ものと認めて置け。そうして媒妁なら何と召さるゝ?」
「独身です。好いのがあれば貰いますよ」
「品行調査なら?」
「妻が一人あります。尤も目下は親が病気で里へ帰っています」
 と笠井君が答えた。
「笠井君、君は以前は教育界にいたそうだが、何うしてあんな下らない会社へ入って来たんだい? それを承りたいね。何かいわくがありそうだ。さあ、好男子、逐一白状に及べ」
 と清之介君は飲むにつれてくだになった。
「兎になったんですよ。それで今度は新規蒔き直しで大いに警戒しているんです」
「兎とは?」
「まあめんの字に近いという洒落です」
「首だね、成程。首になった次第を物語れ、さあ、好男子!」
 笠井君は、拠ろなく或女との関係から赴任後一月半で諭旨ゆしになった顛末をユル/\話し始めた。
「……初め校長が、あなたは独身ですか、と訊いた時何とか濁して置けば宜かったのに、正直に、独身です、と言ってしまったんです。すると一月たゝない中にその那美子なみこが後を追って来たじゃありませんか?」
「ヘヽヽ、お安くないんだな」
「直ぐ追い帰そうと思いましたが、北海道くんだりまで慕って来たものを然うもなりません。一晩泊めて因果を含める積りのところ、ついそのまゝ同棲してしまったんです」
「成程、お察し申す。飛んだ因果を含めやがったな」
 と清之介君は要所々々で相槌を入れる。
「尤も正直の話、関係は前からあったんです。これが他の社会だと何うにか誤魔化せますが、教育界は窮屈ですよ。いやしくも教諭が情婦と同棲していれば屹度首になります。君としては種々事情もありましょうが、当商業学校は智育ばかりでなく徳育を施すところだから、と此方が校長に因果を含められてしまったんですよ」
 と笠井君は自ら額を叩いて見せた。
「成程、退っ引きならない。そうしてその何は何うしました? 那美子夫人は」
「改めて私から因果を含めましたが、これは未だに辞表どころか、進退伺いも出しません。斯ういっちゃ何ですけれど、私以外に良人おっとはないと思い詰めているんです。考えて見ると不憫になりますよ」
「貰ってやれば宜いじゃないか? 君も惚れているんだろう?」
 と清之介君は酔眼朦朧すいがんもうろうとして唇を嘗めずった。
「それは私も未練のないことはありませんが、両親が反対だし、いくら思い詰めてくれても女給じゃ将来困りますからね。切れたような切れないような妙な関係になっているんですよ。この故に媒妁でのお尋ねなら、私は独身です。品行調査なら、もう世帯持ちですが、妻は目下里へ帰してあります」
 と笠井君は自家の立場を明かにした。北海道では余程懲りていると見えた。
「その那美子さんを貰ってやるんだね。結局、自分で仕出かした責任は矢っ張り自分で負わなけりゃならないよ」
 と言って、清之介君は昨夜のように両手で頭を抱えた。
 少時しばらくすると笠井君は清之介君が眠ってしまったのに気がついた。時計を出して見ると、もう十時過ぎていたから、
「原さん、原さん」
 と呼んだ。それでも正体がなかったから、肩に手をかけてゆすぶった。
「電話は要りません」
 と清之介君は寝呆け声を出した。
「電話じゃないです。もうソロ/\出掛けましょう」
「私の立場を察して下さい」
「腰が立たないのか知ら? 随分飲んだから」
 と笠井君は呟いた。
 清之介君は笠井君に送られて十二時頃に家へ帰った。妙子さんは無論介抱に如才なかった。翌朝出勤した時、清之介君は辻村君その他十数名と共に支配人室から重役室へ呼び出された。それは定期の昇給だった。しかし一躍課の主席に栄進したには尠からず驚いた。尤も辻村君は課長に出世した。先の課長は大阪の支店長に栄転し、順当ならその後を襲う筈の為近さんという老人が勇退して、次席の辻村君が課長に抜擢され、三席の清之介君が主席へ飛び上ったのである。主席は課長級とあって会社から電話を引いて貰える。清之介君は一昨日おとといの晩のことがあったので、それとこれと何か関係があるように気を廻したが、一月前から幹部の間に定っていたことゝ承知して寛いだ。但し昇給に洩れた連中は、
「為近さんを課長にしたんじゃ辻村君が主席になって、原君のところへ電話が廻らない。原君を主席にするには上の一人を何うかしなければならない。為近さんこそ好い面の皮さ。兎に角支配人の女婿にはなりたいものだよ」
 と評し合った。
(大正十四年九月〜十一月、主婦之友)





底本:「佐々木邦全集 補巻5 王将連盟 短篇」講談社
   1975(昭和50)年12月20日第1刷
初出:「主婦之友」
   1925(大正14)年9月〜11月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:POKEPEEK2011
2015年7月31日作成
2020年5月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード