私の家は両隣りとも陸軍大佐である。
東京市外の地価が
大佐と私は殆んど同時に工を起した。私は会社の方が忙しいから日曜毎に普請場を見廻ったが、大佐は毎日ついていた。予備になったばかりで閑だったのだろう。その為めか、隣りはズン/\進行するのに、私の方は腹の立つほど
「両隣りを歩兵と砲兵が守っていてくれゝば泥棒丈けは大丈夫だ」
と冗談を言った。
その後間もなく方々へ家が建ち始まった。私の家がその夏漸く出来上った頃には、貸地は悉皆契約済みになっていた。そうしてその年の暮には似たり寄ったりの小ぢんまりとした家がギッシリと丘の麓を取り巻いてしまった。僅か十数年前のことだけれど、昨今の文化家屋の如きものは一軒も見えなかった。短日月の中に人心が軽佻に流れ浮薄に赴くこと驚くべきである。
両隣りの外に近所との交際は全くなかった。毎日のように行き合って見知り越しになった
「何うでございましたの?」
と
「いや、一向要領を得ない。近所の人と知合になりに行ったようなものさ。軍人の多いのには驚いたよ」
と答えた。これに対して、
「玉置さんのお父さんも大佐ですよ」
「大河内さんところも海軍の中佐よ」
と次男と長女が口を揃えた。子供達は大人仲間よりも社交的だ。それに学校の方の関係があるので自然馴染んでいるのだった。
又五年たって地代は十五銭に上った。今度は
「こら/\、お前達は逃げて何うするんだ? 家を明けると放火されるぞ。何千人来てもこの辺で食い止めなければいけない」
と言って、ゾロ/\逃げて来る百姓共を制していた。私は軍人を心丈夫に考えたことを思い合せた。お蔭で私の家は市内へ避難するような慌て振りは示さずにすんだ。
確かその翌々晩と記憶しているが、在郷軍人団の発意で夜警を組織的にやる相談があった。私も崖下の空地まで顔を出した。町内の半分が将校の古手だと確実に承知したのはこの時である。腰の曲ったヨボ/\爺さんが海軍中佐の軍服を着ていたり、日頃百姓だと思っていた中老が軍刀を
「閣下、もうこれで皆揃いました」
と一将校が進み出て敬礼した時、閣下は一段高いところへ上って、並んでいた私達に夜警の必要を説き始めた。ナカナカの雄弁で、私は軍人も隅には置けないと思った。
引続いて夜警が毎晩の仕事になった。順番が三日目毎に廻って来た。夜の十二時が交代で、宵の口に廻っても
怪しいものも何にも来ないのに半夜見張番をしているのは退屈だったから、私達は世間話に時を移した。閣下もよく話した。息子さんを軍人にしなかったのが気になると見えて、
「何うも天分という奴は
と言った具合に愚痴をこぼすことが度々あった。
「その代りに娘は二人とも陸軍軍人へ嫁いでいます。二人とも孫が出来て、それが二人とも男だから有難いです」
と喜んでいた。男の孫は皆陸軍軍人に仕立てるように遺言する積りらしかった。尤も未だそんな年ではない。閣下は精々五十六七と見受けられた。
「我輩はこの頃怪しからんことを発見した。海軍の将校には途上や電車の中は背広服にして、本省へ出仕してから軍服に着替えるものがある。
と閣下は両大佐丈けに話す時には部下と思っているから、自然言葉が
「夜警も斯う閑散だと退屈する。煙草ばかり喫って些っと咽喉を痛めたようだ」
と或晩閣下が独り言のように呟いた。
「閣下は随分召し上りますな」
と私は黙っていると睡くなるから談論を歓迎した。
「小林さん、あなたは召し上りませんな」
「いや、以前は盛んにやったものですが心臓に悪いと言われて到頭止めてしまいました」
「それは
「はゝあ、
と水谷歩兵大佐は謙遜した。もう一人の砲兵大佐は何も言わないと思ったら、居睡りをしていた。尤もこの人は煙草を喫まない。
「我輩のは
と閣下は無条件で喫んでいるのではないという意味らしかった。
「閣下、感ずるところあって云々は甚だ潔くありませんな」
と水谷さんは自分独り意志薄弱と極められては満足出来なかった。
「感ずるところというよりは寧ろ発明するところあったのさ。当時連隊長が神経衰弱にかゝって長いことブラ/\していた。軍医の処方では何うも治らない。そこで東京の大学病院へ遙々診察を受けに行ったところが簡単なものさ。酒を止め煙草を止めその他宜しくないと思うことを一切止めていれば自然に恢復するということだった。その通りにして半年ばかり辛抱すると果して全快した。こゝだよ。水谷君」
「何処です?」
「我輩の感じたのはさ。発明するところあったのはこゝさ。連隊長殿は酒は飲まれる煙草は好まれる。その他宜しくないことは大抵して居られる。これが大佐殿だったから止めるものが沢山あって、全快されたようなものゝ、我輩のように品行方正の君子人だったら、空しく手を束ねて死を待つ
と閣下はナカ/\
「はゝあ、成程。すると矢張り理性の人として召し上って居られますな」
と水谷大佐はニヤ/\した。
「
「閣下、それなら一つ伺いますが、左の方は如何ですか? 閣下は随分おやりだという評判でありますぞ?」
「ハッハヽヽヽ。突撃を加えに来たね」
と閣下は快く笑って、
「酒は
「閣下は寧ろ三百
と私が茶化すと、
「厳しくお
「いゝや、私も同感であります」
と水谷君は真面目に答えた。
こんな具合で閣下と私達は夜警中に別懇な間柄になった。世間の秩序が回復して夜警の必要がなくなった頃、私は閣下の家へ能く碁を打ちに出掛けた。閣下も足繁く攻めて来た。それというのが、震災は私の勤めていた会社を焼き払ったばかりでなく真正に揺り潰してしまって、私も一時閑散な身体になっていたのだった。
或日のこと、私は昼から夕方まで対局して、
「小林さん、何もありませんが、今日は食事をしてお帰り下さい」
と言って引き止めた。
「いや、つい目と鼻の間ですから帰って又夜分出直しましょう」
と私は先方が負けた口惜しさで未だ打ちたいのだろうと
「いや、碁は何うでも宜いのですが、この頃は珍客が一向見えないんで、大分油が切れていますから」
と閣下は左の手先を鍵形にして、
「しかし私は常客で珍客じゃありませんから……」
「いや、実はもう珍客と極めてあるんです。今更お帰りになるようだと我輩は家内を瞞したことになる」
「それではお言葉に甘えますかな」
と私は
それから一週間ばかりすると閣下は又私を帰すまいとした。私は然う度々珍客になっては済まないから、振り切るように立ち上ったが、閣下は追って来て、
「小林さん、あなたは我輩を侮辱する積りですか?」
と囁いた。
「いゝえ」
「あなたに帰られると我輩は家内に顔が立たない。如何にも飲みたくて
「それじゃ御馳走になりましょう」
と私は降参した。腕を捉まえられているから仕方ない。
或時私は隣りの水谷さんにこのことを話して、
「理性の人も甚だ怪しいものですよ」
と言った。すると、水谷さんは、
「実は閣下には私も弱らせられました。この間夕刻一寸お寄りしたら、昨日は珍客を逸したから今日は君を遁さんぞと仰有って放しません。無理に帰ろうとすると、『こら、貴様、我輩の命令に背くか!』と睨みつけるじゃありませんか? 矢っ張り将官と佐官の積りでいます。夕方彼処へ行くもんじゃありません」
と幽霊屋敷のように恐れを為していた。
時折斯ういう我儘は出しても、閣下は真に親しみ易い人だ。私との交際はそのまゝ今日まで続いている。尤も私は昨今再び丸の内通いを始めて忙しくなったから、以前ほどの
「閣下、今日は珍客になりましょうか?」
と此方から便宜を計るようにした。
ところでこの閣下が先頃チブスに
「小林さん、看護婦といい、
と閣下はベッドに坐ったまゝ私に訴えた。
「いゝえ、見せてと仰有ったんじゃございませんのよ。おしるこを戴きたいと仰有って私達を困らせるのでございます」
と奥さんは事実の説明に努めた。
「おしるこですか? おしることは又妙な
「いゝえ、この間懐中じるこをお見舞いに戴いたのでございます。そのことを小耳にみまして、あの通り駄々をこねます。まるで子供のようですわ」
「閣下、チブスの後は食物が一番お大切ですぞ。もう
と私は諫めた。
「小林さんは珍客だが、この際は何うも仕方がない。お
「閣下、私はもう結構です」
「いや、我輩を助けてくれ給え。もうこの間から毎日註文しているんです。食べると言うなら、成程それは無法に相違ないが、我輩は理性の人として、皆の
と閣下は尚お理窟を言って、何処までも主張を貫こうと期した。
実際数日来の註文だったし殊に食べないと譲歩しているから、奥さんも
「お柳や、我輩は
と命じた。
「は」
と奥さまは含嗽薬を持って行った。
「いや、しるこでやる」
「何うでございましょうかね?」
「いけますまいよ。旦那さまは
と看護婦は応じなかった。
「それじゃ
と理性の人はナカ/\執着が強い。
「香丈けなら差支えありますまい。しかし女の力では奪われるといけませんから、私が持っていましょう」
と私は気の毒になって閣下の味方をした。閣下はおしるこの香を嗅いだが、
「矢っ張り甘い香がしますな。しかし唯嗅ぐだけなら酒にして貰いたい」
と囁いた。
もう大分恢復した筈と思って、私は今日又見舞いに寄った。閣下は眠っていたが、この間より余程肉がついて血色も比較的好くなっていた。
「お蔭さまで
と奥さんは早速訴え始めた。
「到頭おしるこで
と私は先頃のことを思い出した。
「いゝえ、おしるこぐらいもう戴いても宜しいのですが、それからそれといけないものねだりを致します。病院ですからお酒丈けは諦めているようです。けれど家へ帰れば危いものでございます」
「それじゃ一つ完全に治るまで何とか言いくるめて観念させるんですな」
「や、小林さんか?」
と丁度この時目を覚ました閣下は或は狸寝入りだったかも知れない。
「閣下、つい/\御無沙汰申上げました。大分御元気にお見受け致しますが、如何でございますか?」
「お蔭で身体の方は益よろしいが、口の中の
「蒟蒻ですって?」
と私は又この間のおしるこの含嗽のような奇想天外の御註文かと少々興味を催した。
「然うでございますのよ。口の中へ蒟蒻が入っていると申して、この二三日私を困らせて居ります」
と奥さんは心配そうに言った。
「そんなものが何か真正に入っているんでございますか?」
「いゝえ、よく見ましたけれど何にもございません」
「閣下、お口の中に何かあるような感じがなさいますか?」
「感じどころか、現に蒟蒻が一片入っていて何うも取れん。これさえ忘れられるともう全快も同じことだが……」
と閣下は溜息をついた。
「はゝあ」
と私は少し
「小林さん、一つ見て下さらんか?」
と閣下は何処までも真剣らしい。
「拝見しますかな?」
と私は相談的に奥さんを顧みた。
「御覧なすって、そんなものはないと得心させて下さいませ」
と奥さんが頼んだから、私はベッドの方へ椅子を摺り寄せた。尤も食いつかれでもするといけないと思ったから、手は出さなかった。閣下は大口を開いた。私は首を傾げて覗き込んだが、異物は一切認め得なかった。
「何もありませんのにな」
「あるよ、君」
「いゝえ、ありません」
「ある。これだ」
と囁いて、閣下は舌をペロ/\動かした。
「はゝあ!」
と私は敬服してしまった。
「何かございましたか?」
と奥さんは
「いゝえ、何にもございません」
と私は慌てゝ打ち消した。
閣下はチブスの肥立ちでも駈引を忘れない。実は酒が飲みたいのである。刺身が食べたいのである。カラスミが噛み締めたいのである。しかし理性の人としてはそれを口に出して言う
「小林君、察してくれ給え」
「閣下、もう
(大正十四年八月、面白倶楽部)