冠婚葬祭博士

佐々木邦




東半球と西半球


 入社してから一週間目ぐらいだったろう。少くとも同僚の顔がみんな一様に見えて、誰が誰だか分らない頃だった。僕は退出後駅へ向う途中、大通から横道へ折れ込んだ。或は近道かと探検の積りだった。しかしういうところは大抵遠い。矢っ張り急がば廻れだと思った時、ふと気がついた。直ぐ前を同僚の一人が若い女性と手を引くようにして歩いて行く。うところのアベックだ。
「早業だな。油断も隙もならない。今の今まで同じ部屋で仕事をしていたのに」
 と僕は感心した。兵は神速をとうとぶ。しかし御両人、悉皆すっかり安心して、話し/\歩くから、此方は困る。ツカ/\と追い越すのは当てつけるようですいかない。これは引き返す方が宜いと考えて、その身構えをしたが、折から曲り角へ差しかゝって、同僚が振り向いたから、顔と顔が合ってしまった。早これまでなりと度胸を据えて、僕は会釈をしながら通り過ぎようとした。
「もし/\、宮崎さん」
 と同僚が呼び止めた。名を覚えていてくれたのだ。
「はあ」
「御迷惑でしょうけれど、一寸ちょっと弁解させて戴きます」
「何ですか?」
「これは僕の妻です。今晩は何処かへ食事に行こうかという約束でした。しかし家へ帰ると出直すのが面倒ですから、妻にこゝまで来て貰ったのです」
「はゝあ」
「お察し下さい。お互に一刻も早く顔を見たいのですが、人目がありますから、会社の玄関まで来て貰う次第わけに行きません。それで有り得る中で一番近い而も一番安全な地帯で待っていて貰ったのです」
「成程」
「しかしじゃの道はへびです。忽ち看破かんぱされてしまって、っ引きならないところを取っ捉まりました」
「いや、僕は決してつけて来たんじゃありませんよ」
「ハッハヽヽ。冗談ですよ。しかし御内聞ごないぶんに願います。皆実に口うるさい連中ですからな」
「大丈夫です。それではお先に」
 と僕は急いで切り上げた。相手はもっと喋りたそうだったが、奥さんの顔に迷惑の色が読めたのである。つけて来たように思われては好い迷惑だ。此方は名前も知らないのだから、興味も関心もある筈がない。
「君、君」
 と翌日執務中に隣席の清水君がささやいた。この人には初めから世話になっている。
「何ですか?」
「昨日大谷君の帰りをつけて行ったんですってね?」
「つけて? あれは違います。そんなことありません」
「いや、この塩梅あんばいじゃ僕もつけられているだろうから警戒するようにって注意でした」
「誰がそんなことを言ったんですか?」
「大谷君です」
「はゝあ。大谷君ですか? あの人は」
「直ぐそこで尻尾を捉まえたんですってね?」
「偶然追いついたんです。しかし大谷君は内聞にしてくれと言っていましたよ」
「然う言えば却って吹聴すると思っているんです。チャンと心理を利用しています。流石さすがに才物です。口止めをして置いて、もう一方、細君が美人だから探究心の強い独身の同僚が後をつけて来て困ると言い触らすんです」
「それは迷惑千万ですな」
「君に奥さんを紹介したでしょう?」
「はあ」
「遊びに来いと言ったでしょう?」
「いや、それは申しません」
「兎に角、君はし僕のところよりも大谷君のところへ先においでになるようなら、主客顛倒しゅかくてんとうでしょう? 僕は初めから御懇意に願っている積りですから」
「それは無論然うです」
「僕も家内を紹介する資格があると思います。ついては一つ僕のところへ遊びに来て戴けないでしょうか?」
「伺います」
「会社の帰りが宜いでしょう。家内と打ち合せて、日をめますから何うぞ」
「御都合の時にお供致します」
 と僕は約束して、宣伝家必ずしも大谷君ばかりでないと思った。
 会社には食堂会議というものがある。本当の会議ではない。昼食後そのまゝ彼方此方あっちこっちで話し込むことだ。或日、僕の近所の連中は社長を問題にした。社長が食堂へ顔を出したのである。一流の大会社だから、社長と平社員の間は大臣と属官ぞっかんのようなもので、直接の交渉がない。僕は初めて遙かに社長の風貌を望み見て、感じた通りを口に出した。
「ナカ/\恰幅かっぷくの好い人ですな。二十貫ぐらいあるでしょう」
「二十二貫あるそうですよ。立派でしょう? う見たって、社長は矢っ張り社長です。おのずかうつわが備っています」
 と清水君が直ぐに答えた。食堂でも隣りに坐って指導してくれる。社長が大の自慢だ。今日あたりは社長を見せて上げると言っていたのだった。
「しかし締りのない顔ですな。毛がないからでしょう。白熊みたいです」
「白熊は毛がありますよ」
海豹あざらしの禿げたのって感じがあります」
「動物にたとえるのは失敬でしょう。それは老人ですもの。禿げているのは当り前です」
「はあ」
「もう七十を越していますよ。矍鑠かくしゃくというのは昔の支那人が家の社長の為めに拵えて置いた言葉かも知れません。頭はあの通りツル/\でも、精力は壮者をしのぎます。一名ホルモン居士こじというんですから、推して知るべしでしょう」
「ホルモンを飲んでいるんですか?」
「注射ですよ。あれは飲むものじゃありません。一週一回だそうです。注射した翌日は頭が濃くなるから分ります」
「濃くなるって、毛があるんですか? あれで」
「毛じゃないです。禿のが濃くなるんです。地図みたいになっているでしょう?」
「さあ。こゝからは見えません」
そばに寄って見ると、汚い頭です。光頭会では駝鳥だちょうの卵のようなのを理想にしているそうですが、社長のはシミが沢山あるんです。それが地図のように見えます。つまりホルモンが利くと、地球儀の地図が濃くなるんです」
「成程。分りました」
「僕は時々社長の側へ行って、お辞儀をして来ます。それ丈けでも感化を受けますよ」
「社長と話すことはありませんか?」
とても/\」
 この会話が暗示になったのか、一しきり社長の頭に話の花が咲いた。大きい頭だから、出来合いの帽子では間に合わない。社長はそれを誇りとしている。人間の値打は頭の大きさで定るものと思っているのらしい。社長の帽子を間違えてかぶって帰った社員は翌日呼び出されて、お褒めの言葉を頂戴したそうだ。
「僕は社長の頭を見ると、郷里くにの小学校長を思い出す。日本で何人という名校長だぜ。師の恩を忘れさせないのだから、あすこに光っているのは僕に取って頗る教訓的な頭だ」
 と大谷君が感想を洩らした。
「兎に角、偉大な頭だよ。内容から言っても、外形から言っても」
 と清水君が合槌を打った。この二人は兎角意見を持っていて、一番よく喋る。
「大きさも似ているが、矢張り禿げていて、斑があるんだ。それが地図に似ているものだから、東半球という綽名がついていた。小学生も馬鹿にならない。大東おおひがしという苗字みょうじだったから、そこを利かせたんだ。それから小使の爺さんが禿げていた。此奴も斑だらけだったから、校長の東に対して、西半球とつけた」
「君がつけたのかい?」
 と訊くものがあった。
「いや、僕の知らない昔からだ。僕は全校切っての模範児童だったから、東半球なんて言う奴等があると、片っ端から取っ捉まえて、教員室へ引っ張って行ったものだ」
「嘘をつけ」
「本当だよ。優等だとか全校代表だとかいって、その頃辞令を貰い過ぎたものだから、昨今は一向お沙汰がない」
「何だい? 変なところで不平を言っていらあ」
「人格の高い名校長だったよ。禿げているのが頭にきずさ」
洒落しゃれかい? それでも」
ぜっ返すなよ」
 と清水君が制した。
可笑おかしいことがあったんだよ。何かの式の始まる時だった。校長が教壇から小使に何か命じたが、小使さん、少し耳が遠い。校長が耳に口を寄せようとしたら、気を利かして下から丈伸びをしたものだから、その刹那、東半球と西半球がコツンコをしてしまった。皆笑ったぜ。女の先生が一人、こらえ切れなくて、転んでしまった」
「ハッハヽヽ」
 僕は無関心で聞いていたが、何だか覚えのあるような話だと思った。校長小使鉢合せの光景が忽ち頭の中に浮んだ。然う/\、尋常三年の時だった。と追々記憶が戻って来て、東半球の外に万国地図とも呼んでいたことを思い出した。小使は日本地図だった。これは面白い。大谷君は矢張りあの学校にいたのか知ら?
「もう一つ忘れられない印象がある。これも昨夜家で話したんだ」
 と大谷君が続けた。
「おや/\、食堂会議だと思っていたら、家庭会議の延長かい?」
「まあ聞いてくれ。或日、犬が講堂へ入って来て、教壇へノコ/\上って行ったんだ。校長が追っても逃げない。全校の注目が一匹の犬に集まった。白犬だったよ。さいは尋常一年だったのに、犬の色彩までチャンと覚えているんだ」
「これはいけない。いつの間にか始まった」
「いや、犬の話だ。その犬が忽ちグル/\廻り始めた。講堂の教壇だぜ。自分の尻尾をもうとして足掻あがくから、独楽こまのように廻る。校長が慌てゝ、こら/\/\と叱ったけれど、止まらない。皆笑ったぜ。然う/\、女の先生が怺え切れなくなって、※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)のめってしまった」
「よく転ぶ先生だね」
「前の先生とは別の先生だと思うんだけれど、妻は同じ先生だと言うんだ。犬が先だったか、東半球西半球が先だったか、これも覚えがない。妻もそこまでは明かでないが、転んだ先生は二度とも自分の級の受持だったから忘れないと主張するんだ。妻は当時一年生だった。僕は五つ上だから、六年生の勘定になる。無論その頃から嫁に貰おうの何のって心持はなかったが、家が近かったから、お互に知っていたんだ。僕が運動会で一等賞を取るところを見ていたと言うんだ。それならその時分から興味を持っていたのかと訊いたら、まさかと答えて笑っていた」
「…………」
「話していると種々いろいろ共通の思い出がある。家が近かったから、中学校へ通うようになっても、道でよく見かけたものだ。或時……」
「…………」
「おや/\、皆行ってしまった。ひどい奴等だ」
 と呟いて、大谷君は一人残っていた僕を凝っと見据えた。僕はむしろ皆の立つのを待っていたのだった。
「大谷さん、今のお話は○○市の◎◎小学校じゃありませんか?」
 と直ぐに訊いた。
うですよ。よく御存じですね?」
「僕もあすこにいたんです」
「はゝあ」
「犬の時も鉢合せの時も見ていました。万国地図と日本地図でしょう?」
「成程。これは驚きましたな」
「もう十五六年の昔になります」
大東おおひがし先生は元気ですよ。この間新婚旅行の途中一寸寄って、お目にかゝりました」
「はゝあ」
「未だ勤めています。あの頃と少しも変りません。六十を越したばかりだと言っていましたから、先生、頭の割にお若かったんですな」
「僕はもうあれっきりで悉皆すっかり御無沙汰しています」
「以来お帰りにならないんですか?」
「二年足らずいたばかりで、○○市の出身じゃありません。三年生と四年生を◎◎小学校でお世話になりました。父が役人をしていたものですから、彼方此方歩いたんです」
「あの頃三四年というと、僕よりも二三年下ですね」
「はあ。三年下です。入ると直ぐのことで、僕の方の先生が犬を撲って追っ払ったんですから、感銘が深くて、よく覚えています」
「すると僕は同窓の先輩ってことになりますな」
「はあ」
「遊びに来て下さい。昔話をしましょう」
「その中に伺わせて戴きます」
「僕よりも三年下だとすると、風間かざまってのを御存じありませんか?」
「知っています。級長でした」
「あれがさいの兄貴ですよ」
「はゝあ。仲の好い方でした。家が近かったから、遊びに行ったこともあります」
「○○では何処にお住いでしたか?」
稲荷町いなりちょうでした」
「それじゃ近い。僕のところも妻のところも新町しんまちです」
「火の見櫓のあるところでしょう?」
「えゝ。今でもあります。これは話せますな」
「風間君はその後元気ですか?」
「素晴らしいんですよ。僕達とは待遇が違います。工科をやって、飛行機を作る会社に入っています」
「会いたいですな」
「時々来ます。突如いきなり引き合せて、誰だと訊いてやりましょうか? 面白いですな、これは。妻も喜びますよ。家で同窓会が出来ます。然う/\、会社ではだんさんが同窓の先輩です」
「はゝあ」
「大東先生が未だ訓導の頃だったそうですから、大先輩です。団さんを御存じですか?」
「いや」
「成程。社長のお供をして大阪へ出張中でしたな」
 と大谷君は重役連中の方をすかして見て、
「います/\」
の人ですか?」
 僕は伸び上った。豪い人は一人々々清水君に教えて貰っている。
「毛利専務と話をしている人です。藤田さんの隣りです」
「はゝあ。あの人なら、銓衡せんこうの時にお目にかゝりました」
「銓衡委員長ですよ。毎年やっています」
「試験官にしては愛嬌のい人だと思いました。ニコ/\していて、決して意地の悪い質問をしません」
「親切なものです。僕は学生時代に保証人をして貰いました。そんな関係からこの会社を志願したんです。以来ズッとお世話になり続けて、仲人なこうどまでして貰っています」
「はゝあ」
いずれ御紹介申上げます。同窓の後輩として、家へ伺候する方がいでしょう。僕が御案内します」
「何うぞ宜しく」
「さあ。もうソロ/\時間です。しかし人間、矢っ張り口はきくものですな。社長の頭から東半球西半球の話になって、お互に大発見をしました」
「僕は商大も三年の後輩です」
「商大ってことをよく御存じですね?」
「清水君から聞きました。清水君は重役初め課長係長、若手花形の経歴を毎日教えてくれるんです」
「僕も花形の中に入っていたんですか?」
「はあ」
「これは恐れ入る」
 と大谷君、頭を掻いて、満足のようだった。

女性の欺瞞能力


「今度の日曜? それは、君、少し独断的じゃないですか?」
 と清水君がむずかしい顔をした。僕は大谷君との関係を発見した直後、経緯いきさつを報告して、次の日曜に大谷君のところへ遊びに行くことになったと言ったのである。
「さあ。何故でしょうか?」
し大谷君のところへ先においでになるようなら主客顛倒しゅかくてんとうでしょうと僕は念を押して置いた積りです。大谷君よりも誰よりも僕が一番初めから御懇意に願っているんですから」
「成程」
「日曜を取消して戴けませんか?」
「承知しました。あなたの方が先約ですから、大谷さんの方は断ります」
「然う分って戴ければ僕も主張しません。斯うしましょう。僕の方は明日ってことにめましょう。明日なら僕の方が一日早い次第わけです」
「はあ」
「理窟を言うようですけれど、矢張り大義名分たいぎめいぶんってことは明かにして置く必要がありますよ」
 翌日は土曜だった。清水君が一日せんを越す勘定になる。日を争ってまで招いてくれるのは嬉しかった。新米しんまいの僕は故参こさんの御機嫌を損じたくない。会社の帰りを清水君の新家庭へついて行った。奥さんが夕食の支度をして待っていた。款待かんたい至らざるところない。清水君としては円満ぶりを見せつける野心もあったろうけれど、無論後輩に対する親切心も動いていた。
「光子さん、これが宮崎君だよ。宮崎君、これが家内の光子です」
 と清水君は一々名を呼んで紹介した。
 夫婦と女中きりで、小ぢんまりした家だった。座敷にピアノが置いてあった。殆んど六畳間の三分の一をめている。食事中、清水君は種々いろいろと家庭の消息を伝えた。
「そのピアノですよ、身分不相応なのは」
「はゝあ、大きなものですね」
「これの兄が独逸ドイツから帰る時、ついでに買って来たんです。こゝへ持ち込むのに大変でした。そら、畳が少し凹んでいるでしょう。根太ねだが抜けたんです」
「成程」
 これは僕も聞いていた。奥さんはピアノとベッドを持って来た。この二つが場所を取って仕方がないと言うのだった。尚お奥さんの里はお父さんも兄さんも医学博士で、病院を経営している。これも清水君の得意とするところらしい。
「家内の里は病院をやっているんですよ」
「はあ」
「これはお話したと思いますが、僕も病気になればただで入院が出来るんです」
「ハッハヽヽ」
「しかし少しぐらい金を出しても、入院なんかしない方が得ですから、こんな特権は何にもなりません。君はもっと有効なところから貰う方が宜いですよ」
「何ういうところが一番得でしょうか?」
「映画館の持主は何うでしょう? 毎回徒で見られます」
「しかし映画ぐらい知れたものです」
「芝居の方は?」
「さあ。これも大したことはありません。入院なら一月でも二月でも一年でも続きます。殊に失業の時なぞは薬抜きで行っている法もありましょう」
「これは好い智恵をさずかった。光子さん、何うだね? ハッハヽヽ」
「丈夫なものは寄せつけませんわ。医は仁術じんじゅつですから」
 と光子夫人はしりぞけた。
「仁術で追っ払うのか? 矢っ張り医者の娘だ」
「私、それよりも、あなたのお郷里くにが温泉宿なら宜いと思いますわ」
徒逗留ただとうりゅうくからかい?」
「えゝ」
「箱根は高かったからな」
「私、あなたが予定よりも一日早く切り上げた次第わけ分っていましたわ」
「参った。ハッハヽヽ」
「オホヽヽヽ」
「しかし愉快だったな。ハッハヽヽ」
 新婚旅行の思い出らしかった。御馳走になるお礼に、僕は謹聴していた。二人は可なり長く話した後、僕が咳をしたものだから、漸く存在を認めてくれた。
「お茶にせたんです」
 と僕は弁解した。何あに、反省を促す為めに、わざいたのだけれど。
 間もなく、奥さんが女中に何か命じに立って行った。
「君、うですか?」
 と清水君が囁いた。
「もういです」
「いや、あれですよ」
「何ですか?」
「あの丸髷です」
「さあ」
「似合うでしょう?」
「厳しいですな。ハッハヽヽ」
 と僕は笑ってやった。
ういう意味じゃないです」
「それじゃ何ういう意味ですか?」
仮髪かつらですよ、あれは」
「はゝあ」
「而も借物です。実はもう仮髪屋が取りに来る時分ですから、急いで今晩御招待したんです」
「成程」
「大義名分でも何でもありません。ハッハヽヽ」
 そこへ奥さんが戻って来て、
「失礼致しました」
 と会釈えしゃくをして坐った。僕は丸髷を凝っと見てやった。それは清水君が僕を担ぐ為めに嘘をついたのかと思われるくらい精巧なものだった。しかし仮髪と知っていると、生え際あたりが何となく不自然だった。奥さんは無論御主人が秘密を洩らしたことを知らない。僕に御覧下さいと言わないばかりに、彼方を向いたり此方を向いたりした。
「クックヽヽヽ」
 と僕は吹き出してしまった。
「何うしたんですか?」
「クックヽヽ。又噎せました」
「いけませんね」
 と清水君は目で物を言った。仮髪の話は内証という意味だったろう。僕は笑いを咳にまぎらしたが、以来男性よりも女性の方が遙かに横着だという信念が固まってしまった。清水君は同僚をあざむくに忍びなかったから、中途で告白したのだった。然るに夫人は洒蛙々々しゃあしゃあとして良心がない。
「時に団さんへは何うしましょうか?」
 と僕は食後思い出して訊いた。来る時、団さんの家の前を通ったのである。団さんと同窓関係のことを話したら、清水君は連れて行ってやろうと申出た。実は大谷君と一緒に行く約束だとも言い兼ねて、未決定のまゝにして置いたのだった。
「お供しましょう。博士は若手が大好きです」
「博士ですか? 団さんは」
「仲人博士です。僕達も団さんに仲人をして貰いました」
「はゝあ。大谷さんも然うだと言っていましたよ」
「今年になってから菅野すがの君と僕、それから大谷君です。昨今辰野君というのがきまりかけています」
「盛んにおやりですな」
「何しろ一流会社中の一流で、秀才が雲とむらがっていますから、娘を持つ親は何うしてもこゝへ目をつけますよ。前途有望な婿を見つけてやりたいというのが人情でしょう?」
「はあ」
「団さんのところの床の間には始終写真が一尺から二尺、時によっては三尺ぐらい積み上げてあります」
「お嫁さんのですか?」
「無論。それが二柱の時もあれば三柱の時もあります」
「大変ですね」
「行って見ましょう」
「僕は入社早々で未だ意志がないんですけれど」
「何うせお世話になるんです。何しろ毎年銓衡委員長を勤めていますから、社員の身許は実に詳しく調べてあります。僕のことなんかも僕以上に知っていました」
「まさか」
「ハッハヽヽ。しかし社員だからって、必ずしも仲人をして貰えません。有望組を手帖につけて置いて、その中から選抜するんです。丁度好い相手を見つけてくれますよ」
「成程」
「僕のところが医学博士、大谷君のところが地方の素封家そほうか、菅野君のところが下町の商家、辰野君のところは会社の株主です。去年は子爵令嬢がありました」
「まるで福引ですな」
「仲人博士兼葬式博士です。結婚の方は縁ですから一々団さんをわずらわさなくても済みますが、葬式の方は会社に勤めている限り結局団さんのお世話になります。不幸があると葬儀委員長として会社から派遣されるんです」
ういう役があるんですか?」
「いや、習慣になっているんでしょう」
「課長じゃないんですね」
「役はついていませんが、会社を代表して余所よその宴会や葬式に顔を出します。忘年会の幹事もやれば、名刺交換会の事務も執ります。要するに冠婚葬祭博士かんこんそうさいはかせです。団さんが出て来ないと幕が開きません」
「調法な人ですな」
「皆世話になります。課長連中よりも古くて、社長の懐刀ふところがたなってことになっていますから、平社員でも一種特別な存在です」
 と清水君は団さんの立場を説明した。
 僕はすすめられるまゝに、その晩、清水君に連れられて団さんを訪れた。直ぐ手近だ。お嫁さんから借家まで団さん夫婦に世話をして貰ったのだった。紹介が終った後へ、
「不思議なことに、宮崎君は小学校があなたと同窓だそうです」
 と清水君は話の切っかけをつけてくれた。
「はゝあ。すると○○市の御出身ですか?」
「いや、父の任地の関係でほん少時しばらくいたばかりです」
「何処ですか? お郷里は」
「近頃東京へ籍を持って来ました。父は鹿児島ですが、僕は東京生れです」
「成程。お家からお通いですな」
「はあ」
「両親健在、商大出身。然うでしょう?」
 と団さんは銓衡委員長として覚えていてくれた。
「はあ」
「◎◎小学校というと、大谷君を知っているでしょう?」
「丁度昨日食堂で偶然にお互を発見しました。しかし僕は後輩です。大谷君の奥さんの兄さんと同級でした」
「風間君と?」
「はあ」
「惜しかったな。丁度今帰って行ったところですよ」
「先生、縁談じゃないですか?」
 と清水君が口を出した。
「いや、僕のところへ来るからって、必ずしも縁談じゃあるまい」
 と否定したが、団さんは覚えず床の間へ眼を移した。正直な人だ。お盆の上に写真が積み重ねてあった。しかし二尺の三尺の二柱の三柱のということはない。精々五寸、十五六枚だろうと目分量めぶんりょうに屈託していた折から、
「宮崎君も無論未だ独身でしょう?」
 と来た。
「はあ」
 僕は虚を突かれて、妙な声を出した。気合をかけられたようだった。
「お世話しましょうか?」
「さあ」
「風間君と同級なら未だお若いですな。二三年、或は四五年辛抱する方がいでしょう」
「はあ」
「急ぐと兎角無理になって、奥さんの里から女中丈け補助して貰ったりします。うなると悲惨なものです。家庭で頭が上りません」
「先生、ひどいですな」
 と清水君が自首した。
 初めての訪問だったから、早目に切り上げたが、僕は翌日大谷君に連れられて、再び団さんの家の客間に現れた。大谷君が是非案内すると言い出したのである。競争で引き廻してくれるのは有難いが、相手が仲人博士だ。二日続けて出頭して宜しくお願い申上げたのだから、団さんも奥さんも、よく/\嫁を貰いたい男と思ったに相違ない。

正直者の一生


 爾来じらい三年、清水君と大谷君は僕の親友だ。僕の為めに二人が結びついた形もある。僕は二人の関係から団さんの夫婦にも特別贔負ひいきになっている。まことに親切な人達だ。少時御無沙汰をすると、団さんが食堂で捉まえて、今晩話しに来いと指定する。
「お忙しいでしょう?」
「いや、構わん。今晩は家内も明けてあるんだ」
「それじゃお邪魔を致します」
 団さんは会社の冠婚葬祭を一手で引受けている。仲人は年に十件ぐらいだが、不幸の方は月に幾つも重なることがある。社員そのものは頑健に勤めていても、家族に事故が多い。団さんは形式丈けの葬儀委員長でない。息子と娘を失っているから、子供の不幸に同情が深い。
「お察し申上げますよ。是非もない世の中です」
 と言って、団さんが手を合せると、遺族は泣き出す。団さんも泣く。然ういう場合、それ以上の慰めはないのだ。
 僕は一時初めの中、団さんを軽視したことがあった。好い年をして課長にもなれず、彼方此方あっちこっちへ行って、ペコ/\している。然う思ったら、尊敬する気になれなかった。
「先輩があれじゃ心細い。人間、何処かもっとガッシリしたところが欲しい」
 と僕は感じたまゝを大谷君に話した。
「いや、団さんは悟り切っているから、あゝいう風に見えるんだ。今に分るよ」
「君は仲人をして貰ったから、贔負目があるんだ。本当のところは高等幇間ほうかんの部類さ」
「何うして/\。骨があるんだ」
 と大谷君は力強く主張した。
 僕は間もなく団さんを見直した。それは忘年会の席上だった。その折、吉例きちれいによって、専務の毛利さんと取締の八田さんが余興をやる。毛利さんは義太夫で、八田さんは謡曲だ。皆迷惑だけれど、相手が重役だから、長いものに巻かれて謹聴する。
「一つ諸賢しょけんのお耳をけがそうかな?」
 と毛利さんが頃合をはからって周囲あたりを見廻した。無礼講だというので、僕は毛利さんの隣りに坐っていた。
「君、義太夫を語るなら祝儀しゅうぎを出し給え」
 と団さんが言った。重役でも君僕で行くには一寸驚いた。
「祝儀? 貰ってもいね。玄人くろうとを呼べば、三十円包むところだ。特別をもって、二十円に負けてやる」
「取る気かい? 君が」
「当り前さ」
「心臓が鞣革なめしがわで出来ているんだね。しかし僕が幹事を勤めているからには、もう只じゃ義太夫も謡曲もうならせない」
「おい、唸るとは何だ?」
 と八田さんが鎌首をもたげた。この人はもう低い声で歌っていたのだった。
「何でもいから、慰藉料いしゃりょうを五十円出し給え。君達の隠し芸には若手連中から苦情が出ているんだ」
「ふうむ?」
「二人で百円だ。それ丈け会費に入れゝば、若手の負担が軽くなる」
「しかし高いぞ、一人で五十円は」
「未熟の芸をこれ丈けの大人数に聴かせるんだから、安いものさ。只じゃ決して唸らせない。禁止税だよ」
 と団さんは豪い権幕だった。皆手をって喝采した。毛利さんと八田さんは仕方なしに五十円宛祝儀を出して唸った。これが慣例になって、以来忘年会毎に五十円宛寄附する。のみならず、団さんが辛辣しんらつな批評をするものだから、余り長くやらない。重役連中が苦手にがてにしているところを見ると、団さんは確かに骨がある。
 さて、団さんの家へ出入する若手は早くて二三ヵ月、晩くても半ヵ年たつと必ずお嫁さんを貰う。元来縁談の為めに訪れるのである。然るに僕は三ヵ年伺候したけれど、無事息災ぶじそくさいだった。
「何うしたんだい? 君」
 と大谷君が不思議がった。
うもしないよ。僕は君達とは動機が違う。単に先輩として敬意を表するんだから」
「しかし勧めるだろう? 斯ういうのがあるから貰っちゃ何うだって」
「いや、一向」
「それじゃ見放しているんだ」
「然うかも知れない」
「しかし可怪おかしいね。会社の方の成績が悪いのなら兎に角」
 清水君は直接団さんに訊いて見たのらしい。或日、むずかしい顔をして、僕に食ってかゝった。
「宮崎君、君は僕の家内を誹毀ひきしたね?」
「ヒキ?」
「うむ。団さんのところへ行って、女性の持つ欺瞞性ぎまんせいの実例として僕の家内を引用いんようしたろう?」
「さあ、何の話だい? 藪から棒で分らないが、兎に角、安心してくれ。僕は君の奥さんは大嫌いだから」
「それだよ。失敬な」
「何だい? 一体」
「初めて僕のところへ君を招待した時、僕の家内は丸髷の仮髪かつらかぶっていた。君はあの一事を女性の信じ難い実地例証として、団さんの奥さんに話したというじゃないか?」
「うむ、話した。世間話として」
ういう世間話だ?」
「女は何うでも構わない来客を仮髪でだます。し気に入らないお婿さんなら、何んな手段を用いて欺くかも知れない。それだから見合は厭だ、と斯う言ったのさ」
「侮辱だ。家内は憤っているぞ」
「宜しく言ってくれ給え」
「お腹が大きいから我慢しているが、もなければ、君の家へ乗り込んで、お母さんに談判すると言っている」
「何て?」
「そこまでは聞かなかったが、女性を侮辱するような息子を生んだからだろう」
 或日、団さんが※(二の字点、1-2-22)わざわざ僕の席へ来て、晩餐招待の口上を述べた。大谷君も清水君も手近にいたけれど、僕一人が案内を受けたのだった。
「宮崎君、イヨ/\始まるんだ」
 と言って、清水君が期待した。この男は昨今意地になって、是が非でも僕に結婚させようと努めている。僕も口先では強いことを言っているが、実はもうソロ/\何とかして貰いたい。その初め団さんは世話をしてやると言ったのである。
 団さんのところへは今までも度々招かれたが、いつも大谷君か清水君が一緒だった。然るにその晩は僕一人だったから、或は話が始まるのかと思った。
「宮崎さん、長々お世話になりましたが、主人はもうやめるんでございますよ」
 と奥さんがお給仕をしながら、淋しそうに言った。
「はゝあ?」
「やめるんだよ。君」
 と団さんがうなずいた。
「しかし未だ宜いんでしょう」
「いや、惜しまれている中にやめるのが花です。冠婚葬祭博士、あんまかんばしい地位じゃありません」
「…………」
「皆、僕のことを先生と呼びます。陰で博士と呼んでいるものもあります」
「…………」
「宮崎君、先生と呼ばないのは君丈けです。若手の中で君一人は僕の心持を分っていてくれるんでしょう」
「…………」
「まあ/\、食事を済ませてからユル/\と話しましょう」
 会社には停年制がある。団さんはもう一年と少しらしい。しかし課長になれば又五年寿命が延びる。僕は団さんを首にしたくないと思った。みんなで世話になっている団さんだ。課長連中よりも遙かに声望がある。皆で相談したら何とかならないものだろうか? 平社員には相違ないが、唯の平社員とは違う。
「今のお話です。伺いますが、本当におやめになるんですか?」
 と僕は食後直ぐに問題に触れた。
「もう確定です。辞表を出しました」
「しかし会社では受けつけますまい」
「いや、社長に話してあります。社長丈けは僕の心持が分っています。『団君、君には申訳がないな』と言ってくれました。この一言で僕はうかばれます」
「何ういう意味でしょうか?」
「お鈴。あれを持って来て御覧」
「何でございますか?」
「社長の詫証文だ」
 奥さんが紙入を持って来た。団さんはその中から小切手を出して、僕に手渡した。金額は八万八千円、横線おうせん入りで、社長の自署じしょになっていた。
「大変なものですな」
「社長が一個人として、『これは詫証文だ』と言って、僕にくれたのです。これで僕は満足します。金そのものゝ為めじゃありません。この小切手は僕が無能で冠婚葬祭博士を勤めたのでないという証明書になります」
「…………」
「人の一生は妙なものですよ。今更繰り言になりますが、好いが悪くて、悪いが好いという廻り合せもあります。当り前なら、僕はもううに重役になっているんです。八田君も湯浅君も一緒に会社に入ったんですから」
「はゝあ」
「三人の中で帝大出の僕が一番社長の気に入りました。八田君も湯浅君も私立大学です。社長は当時専務でした。抜擢ばってきされて秘書になったのが普通なら出世の糸口でしょうが、僕の場合はその好いが悪いのです。考えて見ると、勉強をし過ぎました。社長のお供をして旅行に出ても、事を欠かさないようにと思って、洋服を着たまゝ寝たものです。社長がベルを鳴らせば、直ぐ起きて行って、そのまゝ用が足せます」
「成程」
「気に入る筈です。団々と仰有って、僕でなければ、夜も明けず、日も暮れません。その中に社長の母堂が亡くなりました。僕が葬式の世話を焼きました。これが秩序整然、一糸乱れずという具合に行ったものですから、葬式は団に限るということになりました。ほかの重役も家庭に不幸があると僕に頼みました。自然、神仏耶しんぶつやの儀式に暁通ぎょうつうしてしまって、人が訊きに来るんです」
「成程」
「社長は子福者こぶくしゃです。七人あって、男が四人女が三人です。先ず令息の結婚式を僕が引受けました。何しろお客さんが千人近くも来るんですから大変です。これが又秩序整然一糸乱れずに行きましたから、評判を博して、御長女のを仰せつかりました。今度はくれる方です。重役連中も令息令嬢の結婚式を僕に頼みます。くれる方も貰う方も皆僕が手がけましたから、結納ゆいのううだの式日しきじつなんの日が宜いのと故実こじつに通じてしまって、この方も人が訊きに来ます。妙なものですよ。自分でも興味が出て来て研究しますから、好い加減な易者えきしゃよりも造詣ぞうけいが深い積りです。博士になる筈ですよ」
「ハッハヽヽ」
「世話好きなんですな、元来が。仲人もその頃からチョク/\始めていました。それから親しい同僚が亡くなった時、葬式に采配さいはいを振ったのが切っかけになって、社員の家庭に不幸があると、僕が相談を受けます。訊きに来るから仕方がありません。話すよりも行って直接やってやる方が早いという次第わけで、以来僕は葬儀委員長です」
「全く妙な廻り合せですな」
「その間に八田君と湯浅君は課長になりました。これは会社の仕事ばかりしていたんですから昇進するのが当り前です。此方は葬式と婚礼の取扱いが巧者こうしゃになるばかりで、些っとも能がありません」
「そんなこともないでしょうけれど」
「これでも帝大出の秀才です。同級から大臣が出ています。社長はその辺を考えてくれたと見えます。五年ばかり前から僕に詫びを言い始めました。『まあ/\、勘弁して置け。斯ういう大きい会社になると、矢張り冠婚葬祭博士が必要だ。誰かやらなければならない。貧乏※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)を引いたと思って諦めるんだ』と時々仰有いました」
 団さんは冠婚葬祭博士のよって来る所以ゆえんから今までに二百二十何組の仲人をしたことを長々と話した後、
「ところで宮崎君、今度は君の番だが、僕はもう構いません。自分で然るべき縁談を探したら宜いでしょう」
 とねた。
「一つおついでに願いたいと思っているんですけれど」
「いや、僕は何ういうものか、君のことになると神経を病むんです。特別に出世をする人と初めから見ていますから、冠婚葬祭博士の息をかけたくないんです。僕という人間は運が好くありません。子供も男の子と女の子を何方どっちも年頃になってから失いました」
「…………」
「宮崎さん、主人が会社を引いてしまえば、あなたはもうお出下さらないでしょうね?」
 と奥さんが言った。
「飛んでもない。これからは努めて伺います」
「本当でございますか?」
「はあ。お嫁さんを心掛けて置いて戴きましょう。御主人が二三年待てと仰有ったから、待っていたんです」
「いや、駄目ですよ。僕もこれで己惚うぬぼれがあったんです。だ何うにかなるだろうと思っていたら、何うにもならないことが分ったんですから、もう前途有望の人達の仲人をする資格がありません」
 と団さんはいつになく湿しめやかだった。三十年近くも勤めていた会社だ。やめるとなると、自発的でも矢張り気が滅入めいるのだろう。
 僕は何と言ってこの夫婦を慰めて好いか分らなかった。団さんばかりでなく、奥さんがひどく元気がなかった。僕が辞し去る時、玄関で涙をこぼした。団さんの耳に何かささやいて、
「馬鹿め!」
 と叱られた。
「又伺います」
 僕は力をつける積りで言った。
 団さんは間もなく会社から引いた。盛大な送別会が催された。幹事には大谷君と清水君と僕が有志に加わった。それから数日後だった。大谷君と清水君が打ち合せて置いて、夜分僕の家へ羽織袴でやって来た。改まって何だろうと思ったら、団さん夫婦が僕を養子に懇望こんもうしているということだった。
「変だね。団さんは冠婚葬祭博士の息をかけたくないから、仲人もしないと言っていたのに」
「そこが人間の矛盾だよ」
 と正使の大谷君が説明した。
「養子は御免だ」
「団さんは君が然う言うに定っていると断言した。しかし奥さんが諦めない」
可怪おかしいぞ、これは。この間父が『お前は養子に行く気があるか?』と訊いた。手が廻っているのかも知れない」
「何とも分らないな、団さんのことで念入ねんいりだから」
「一体何処が気に入ったんだろう」
「第一は君の本質、第二は君が亡くなった息子さんに生写いきうつしだからだそうだ」
「ふうむ?」
「可哀そうな夫婦だよ。考えてやれ」
「養子といっても、先方むこうに家つきの我儘娘がいるんじゃない。君が望む通りの美人を貰ってやると団さんが言っている。考えてやってくれ」
 と副使の清水君が言った。二人は調子を合せて頻りに勧めた。僕は宮崎新八、八男ではないが八番目だ。養子に行く自由は持っているから、兎に角考えて見ることにした。
(昭和十二年八月、講談倶楽部)





底本:「佐々木邦全集 補巻5 王将連盟 短篇」講談社
   1975(昭和50)年12月20日第1刷
初出:「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社
   1937(昭和12)年8月
※「徒」と「只」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:芝裕久
2021年1月27日作成
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