秀才養子鑑

佐々木邦




失業の裏に夫人あり


 小室君こむろくんは養父の紹介だから、何とかなるだろうと思って出掛けた。養父は中風ちゅうぶで、もう廃人だけれど、月二百円以上の恩給をんでいる。セッセと働いて百円足らずにしかならなかった小室君よりもグッとえらい。逓信省ていしんしょうの局長まで行って、その後民間会社の重役を勤めた人だ。長い間には多くの後輩の面倒を見ている。ちなみに、小室君は当年三十歳、而立じりつというところだが、却って職を失って、新たにスタートを切り直す努力をしているのだった。
「お父さんには逓信省時代にお世話になりました」
 会ってくれた重役の宗像むなかたさんは御繁忙中を迷惑がりもせずに、如何にも懐しそうに言った。養父は退っ引きならないところへ差向けたのらしい。そこは銅の会社だった。常務取締ともなれば、下級社員の一人や二人何うにでも融通がつくから、叶うことなら、先輩の恩顧に一遍コッキリ酬いたいものと宗像さんは考えていた。
「この頃は如何いかがですか?」
「寝たり起きたりで、好くも悪くもなりません。あのまゝで固まるのでしょう」
「外出はなさらないんですか?」
「近所廻りは杖をついて歩きます。もう二度やっているんですから、油断がなりません」
「元気な人でしたが、病気には勝てないと見えますな」
「はあ。それに年も年です」
「お幾つになりましたか?」
「六十八ということですが、戸籍の方が二つ間違っているそうですから、本当は七十です」
「そんなになりますかな、もう。ふうむ」
悉皆すっかり弱っています」
「ところで、あなたの用件ですが、前の会社は何うしてお引きになりましたか?」
「別にこれという失策しくじりはなかったんですけれど……」
 と小室君は覚えず頭を掻いて、行き詰まった。任意の辞職でない。首になったのだから、具合が悪い。
「五年も勤めていたのに惜しいことです。同僚と衝突でもしたんですか?」
「いや/\」
「単に一身上の都合によりと書いてあるが、その辺をハッキリうけたまわって置かないと、相談が出来ません」
 と宗像さんは眼鏡を外して、履歴書に見入っていた。
「実は欠勤が多かったものですから」
「病気でもなすったんですか?」
「いや、自分はこの通り頑健ですが、父が二度目の脳溢血をやった時、一月ばかりついていました。続いて妻の病気の為め一月余り……」
「奥さんは何ういう御病気でしたか?」
「婦人にあり勝ちのヒステリーです」
「成程」
そばについていないと承知しないような状態でしたから、つい会社の方がおろそかになりました。三月ぶりで出勤しましたら、君は会社の仕事よりも奥さん奉仕が大切だいじなんだろうと課長が皮肉を言いました」
「成程」
道理もっともです。これは少し気をつけて貰わなければならないと思って、家へ帰って、妻に話すと、妻は忽ち発作ほっさを起しました。私が婉曲えんきょくに離縁話を持ち出したと言うんです。父も頭がボヤ/\していますから妻の曲解きょっかいをそのまゝ信用して、家庭が大切か? 会社が大切か? さあ、何うだ? そんな会社はやめてしまえと申しました。父は言い出すと後へ引きません」
「少し短兵急たんぺいきゅうなところがありますね。それでいて、後から後悔する」
「そうですよ、父子おやこでワイ/\言うから、私も溜まりません。差当り二人の心持を静める為め、辞表を書いて見せました。一時の緩和策です。無論提出の意志はありません。翌日、辞表を机の上に置いたまゝ出勤したら、父が後から速達で会社へ送ってしまったんです」
「小室さんのやりそうなことだ。ハッハヽヽ」
「辞表を出して平気で勤めている人間はない筈です。この通り会社へ来ているんですからと言って、私は自分の意志でないことを説明したんですけれど、課長は理解してくれません。そういう家庭の事情なら本当の仕事は出来ないからという次第わけで、到頭引かなければならないことになりました」
「そういう家庭の事情だと、この会社でも矢っ張り困りますよ」
「いや、父も今度は考えています。強情ごうじょうな人ですから、悪かったとは言いませんが、これからはお互にしっかりやろうと言っていました」
「奥さんの御病気は何うですか?」
悉皆すっかり納まっています。あの病気は納まれば何でもないんですから」
「しかし君が毎日家にいるから納まっているんじゃないですか? 出勤すると又始まるかも知れませんよ」
「今度は大丈夫です。自分の至らない為めに主人を失業させたと言っていますから」
「お子さんはないんですか?」
「はあ。子供があると好いですけれど、ないものですから、兎角詰まらない心配をします」
「はてな」
 と重役の宗像むなかたさんは考え込んだ後、
「私は忙しいから、これで失敬して、人事課長を出しましょう」
 と言って、立ち上った。
「何分宜しくお願い申上げます」
「一種の人物試験だと思って、会って下さい。訊かれたことは事実ありのまゝに答えるが宜いです」
「はあ」
「唯一つ今のお話の、前の会社の方は、君が盲腸炎をやって長くわずらったことにして置き給え。病気は明かに一身上の都合だから」
「御注意有難うございます。それでは盲腸炎で長く患って、結局やめたことに致します」
「うむ。半年ぐらい」
「はあ」
「家庭の事情では困る。盲腸は切ってしまえば、綺麗さっぱりで、後に残らない。私も及ぶ限り御便宜を計る積りだが、こういうことは人事課長の領分だから、その積りで銓衡せんこうを受け給え」
「はあ」
「それじゃ失敬する。お父さんに宜しく」
「有難うございます」
 と小室君は膝まで手を下げて、お辞儀をした。
 大分待たせて、人事課長が現れた。中途求職のものにあっては前の会社をやめた理由が何より重大問題になる。喧嘩をして首になったなぞと言えば、もう脈はない。小室君は盲腸炎を患って半年欠勤を続けた為め、規定に従って休職になったと申立てた。
「半年とは長かったですな。私も盲腸が悪くて、再発又再発、到頭切りましたが、初めからで、かれこれ三月かゝりました」
「私は五六ヵ月苦しみました」
「お切りになったんですか?」
「はあ。最後に切りました。手術を恐れて逃げ廻っていた為め、馬鹿を見ました。初めから切ってしまえば何のこともなかったんです」
「お見かけしたところ、もう悉皆すっかりお宜しいようですな」
「はあ、元来は頑健の方です」
「一つ申上げて置きますが、この会社は軍隊式ですよ。命令が下ると猶予がありません。山へでも川へでも飛んで行きます」
「使ってさえ戴けば、水火の中も辞さない積りです」
「自分の意志は利きません。山というのは鉱山と精煉所です。川というのは川崎の工場です。誰が何処へ行って何年勤めるか、その辺は全然会社の都合で、人事課長の私にも分りません。中には一生涯山へ入ったまゝ、東京へ戻れないでしまう人もあります」
「何処へでも喜んで参ります。決して贅沢は申しません」
「それから唯の商事会社と違って、工場の方の現業と併行ですから、忙しいこと日本一です。時には夜業があります。日曜に臨時召集されることもあるんですから、欠勤が一番困ります」
「はあ」
「学校を出たばかりのものは厳重な体格検査をして採用しています。結局、話が健康問題に戻りますが、御自信がありますか?」
「充分ございます」
「暑中休暇が一週間あります。しかしこれは殆んど取る人がありません。欠勤で差引いています。それですから大抵無欠勤です。皆実によく勉強します」
「私も及ばずながら努力します」
「話は大体それぐらいのところでしょう。何れ宗像さん初め幹部の方と相談して御返事申上げます」

牝鷄の晨


「あなた、何う? お見込は」
 と小室夫人こむろふじん雪子ゆきこさんが待っていて訊いた。家ではない。会社の近くの堀端だった。主人の就職運動に奥さんがついて歩く。貞女ていじょは結構だけれど、少し世話を焼き過ぎる。
「人事課長も大分好意を持ってくれた」
「私、これぐらい手間を取るようなら、好い方だろうと思っていましたの」
「会社の中のことを種々いろいろと話してくれたから、採用してくれる積りかも知れない」
「有望ね、それじゃ」
宗像むなかたさん初め幹部の人と相談して返事をくれるそうだ」
「いつ?」
「二三日かゝるだろう。しかし俸給のことは些っとも言わなかった。採用するなら、その問題に触れそうなものだと思うんだけれど」
「前の会社丈け下さるんでしょう?」
「根本問題だからね。幾らでもいと此方から切り出しているなら兎に角」
「そう仰有いませんでしたの? 差当り困るんじゃありませんからって、私、申上げたじゃございませんか?」
「切り出す余地がなかったんだ。この会社は特別に忙しいとか、山へ行くと帰れないとか、取りつきにくいような話ばかりしている。して見ると、これは矢っ張り後から体好ていよく断られるのかな?」
「あら! 駄目?」
「好いようにも思われる。悪いようにも思われる。頭がボヤ/\してしまった」
「お株が始まったわ。試験を受けた後みたいね」
「一種の試験だもの」
「宗像さんにもお目にかゝったんでしょうね?」
「うむ。大将も好意を示してくれた」
「それじゃ好いんでしょう?」
「人事課長次第だと言うんだ。人事課長は又宗像さんと幹部次第だと言うんだ。両方で責任を転嫁てんかし合って断る算段と見える」
「あなたは気が弱いのね、相変らず」
「こういうことは容易に見込が立たない。当てにしていると屹度はずれる」
「宗像さんは私のこと何とか仰有って?」
「いや、一向」
「覚えていらっしゃる筈よ」
うち、来たことがあるのかい?」
「えゝ。母の亡くなった時、来て下すったに相違ありません。私、屹度お目にかゝっている筈よ」
 雪子夫人は自信が強い。一度家へ来た人なら、皆自分を覚えていてくれると思っている。
「長いことだから、もう忘れたんだろう。お前のことを話したけれど、何とも言わなかったよ」
「何て申上げたの? 私のことを」
「丈夫だって。奥さんは何うですかと訊いたから」
「それ、御覧なさい。覚えているから訊いたんですわ」
「うむ」
 と小室君は簡単を期した。ヒステリーの関係で話が出たのだから、こゝで再び繰り返すべきでない。
「私がこゝで待っていること仰有おっしゃいましたの?」
「そんなことは言うものか」
「仰有る方が有効ゆうこうだったかも知れませんわ。それぐらい熱心に運動していることが分れば、本気になって考えて下さるでしょう」
「いや、矢っ張り当り前の方が安心だよ」
「すると私、当り前じゃありませんの?」
「そういう意味じゃない」
「変な人ね、あなたは」
 と雪子夫人はもうプリ/\した。これだから、小室君もやりにくい。
 すべて主人たるものはその性格の何処かに神秘の要素を残して置かなければいけない。
「宅の主人は不思議な人ですよ」
 と妻女が吹聴ふいちょうするようなら、そこの家は主人の統制が利く。酒を飲んでダラシのない人だけれど、奇妙なことに商売用と聞くとシャキッとなるとか、っとも俸給のあがらない人だけれど、何ういうものか、友達に畏敬されているとかと思い込ませて置く必要がある。一から十まで性格を読まれてしまうと、見括みくびられる。この点小室君は出発を誤っている。将来雪子さんの婿養子になる為め、商大の予科時代から小室家へ引き取られて、性格を曝露ばくろし過ぎたのである。女というものは種が分るともういけない。たとえば夜半よなかに台所の方でコト/\音がする。テッキリ泥棒だと思って、ワナ/\震え出す。怖くて溜まらないから、
「あなた。あなた」
 と主人を起す。
「何だ?」
「泥棒が入っていますよ」
 この時、御主人、騒いではいけない。これを切っかけに、別に能のない人だけれど、不思議なことに、泥棒が入った時には頼みになると思い込ませるがい。主人が起きて行って、見極めて来る。物音の正体は鼠だった。今まで息を殺していた奥さんは種が分るともう増長する。
「シッ! 畜生! 溝鼠どぶねずみ!」
 とあられもない。それだから女に寸法を知らせるということは考えものだ。小室君はその辺の駈引が甚だ拙かった。商大の予科で落第して、養父に叱られて一晩泣き明かしたことがある。そういう折からは図々しく構えて、学問は出来ない人だけれど非常時になると妙に胆力が据って来ると思い込ませる絶好のチャンスなのに、正直過ぎた。
「雪子さん、僕はもうこれで家を追い出されます」
 と言ってシク/\泣き出したのである。
「そんなことありませんわ」
「いや、危いです」
「私がついているから、安心なさいよ。あなたは御自分で思っているほど悪い頭の持主じゃありませんわ。つい調子をおろして怠けるからいけないのよ」
 と丁度女学校を卒業した雪子さんが力をつけてくれた。その頃から寸法を知られているのだから、小室君は押しが利かない。一度失策しくじってからは試験恐怖症に取りつかれた。本科時代には試験中目の色が変っていた。親しい友達が毎日やって来て一緒に勉強してくれた。流石さすがに取り繕うことを考えて、
「皆出来ないものだから、僕のところへ習いに来るんだ」
 と言ったけれど、
「あなたが教えて戴くんですわ。それですから、お母さんと私が鰻丼を取って御接待するのよ」
 と雪子さんは知っていた。これは養子に限ったことでない。いやしくも主人たるものは妻女に何か性根を見せて置かないと甞められてしまう。
「銀座へ出てお昼を喰べようか?」
 と小室君が相談をかけた。話は就職運動の帰途かえりみちに続く。初夏の晴れ渡った日の正午近くだった。
「えゝ。御迷惑でなければ」
「変なことを言うものじゃないよ」
「オホヽヽヽ」
「成功するかも知れない。何うも印象が好いようだ。自分ながら溌剌として答えている」
「大丈夫よ、屹度」
「しかし山へやられるか、川へやられるか、分らないんだって。あゝいうことを話すところを見ると、採ってくれる気だろう」
「危いわ」
 と、それは山でも川でもなく、電車道だった。雪子さんは小室君に手を引かれるようにして横切った。
「山って何処?」
 小室君は会社の説明をした。本店に勤めるよりも、鉱山や工場に勤めるものが多い。銅を山から掘って、精煉するのが第一段で、里へ持って来て製作するのが第二段、それから品物を売るのが第三段になっている。
「何を拵えますの?」
「例えば、その電車の銅線さ。川崎の工場で拵えるんだが、材料は○○の山で掘って精煉して持って来る」
「山へでも何処へでも参りますわ。あなたと御一緒なら」
「しかしお父さんは何うする?」
「東京に待っていて戴きますわ。お父さんはあの家、んなことがあっても、お動きになりませんよ」
「丈夫なら兎に角、あの容態じゃ心配だ」
「矢っ張り東京の方が宜いわね。本店詰めってことにして戴けません?」
「そんな自由は利かないって、絶対に申渡されている。矢っ張り有望だよ。人事課長は力瘤を入れて申渡したから、採用する気だろう。屹度」
「この辺? 本店は」
「こゝだよ。この五階全部を使っている」
 と小室君は丁度建物の前へ差しかゝって、打ち仰いだ。
「立派ね」
 と雪子さんは入口を覗くようにした。折から中年の紳士が出て来た。と見ると、小室君はひどく慌てゝ、ガクッと一つお辞儀をした。
「やあ」
「唯今は失礼申上げました」
「…………」
 紳士は頷いた丈けで、二人が歩いて来た方角へ急いで行った。小室君は見返る勇気もない。
宗像むなかたさん?」
「いや、人事課長だ」
「まあ!」
「悪いところを見られてしまった」
「…………」
まったな、これは」
「…………」
彼方あっちを廻ると宜かった」
「あなた」
「何だい?」
「私と一緒に歩くのがそんなにおいやでございますの?」
「そういう意味じゃない」
「それじゃ何ういう意味?」
 と言って雪子夫人は肩をり寄せた。
「おい/\、会社の前だ。あすこの停留場で人事課長が見ている」
「…………」
「日の昼間で殊にこの辺は実務以外に何も色彩のないところだ。夫婦鼻を揃えて歩いているのはい図じゃない」
「…………」
「分ったかい?」
「はあ。他の方なら兎に角、私は悪い図でございましょうから」
「そういう意味じゃない」
「それじゃ何ういう意味?」
「又!」
「分らない人ね、あなたこそ」
「早く行こう」
「あらまあ! 大変な汗ね」
「宜いよ/\。自分で拭く」
 と言って、小室君はヨロ/\した。

印象の変態径路


 偶発事故の為め案じたにも拘らず、小室君は◎◎鉱業に拾い上げられて丸ノ内の本店に勤めることになった。今度は黽勉びんべん努力を心に誓った。以前だって決して自分から怠けたのでない。雪子夫人のヒステリーがこうじて、已むを得ず、日一日と欠勤が続いたのだった。
「雪子さん」
「はあ」
「今度はもうお互に気をつけましょうね。僕も出入りの時間を正確に守りますから」
「私、何を気をつけますの? あなたさえ当り前の時間に帰って来て下されば、問題はないじゃございませんか?」
「それですから」
「それだから何あに?」
「出入りの時間を正確に守りましょう」
 と小室君は直ぐに逆捩さかねじを食わされるから、深く立ち入って註文をつけることが出来ない。
「あなたって人は私の心持っとも分って下さらないんですからね」
「何故?」
「私の好意ってもの些っとも認めて下さらないんですもの」
「認めているよ」
「いゝえ。今度のことは何う? 私、随分尽している積りよ。私の為めに前の会社を失策しくじったようにあなたが毎日仰有るから、私、今度は私の力で立派に就職させて上げたいと思って、お父さんにお願いしたり、自分でついて行って上げたりしましたのよ」
「それは分っている」
「あなたは御心配なすったけれど、会社の前で人事課長さんに会ったのはかえって好かったんですわ。課長さんが私のことを仰有ったんでもお分りになりましょう?」
「あれは冗談だよ。もう奥さんに苦労をさせちゃいかんって」
「冗談にしてもですわ。課長さんの頭の中に私というものがあったから仰有ったんでしょう? して見れば私がついて行って上げたことが確かに足しになっていますわ」
「それは多少そうかも知れない」
「家で威張っても外へ出ると、あなたはカラキシ気が弱いんですからね。予科で苦い経験を嘗めていますから、本科卒業の時、御自分で成績発表を見に行けなくて、私が行って上げたじゃありませんか?」
「そんなこと今更うでも宜いよ」
「宜くありませんわ。それですから、私、ついて行って上げたのよ、子供の入学試験のように」
「兎に角、今度は僕も本気だ」
「無論私も気をつけますわ」
 と雪子さんは結局応じてくれた。主張は主張として、冷静の時は結構な御内助だ。器量も好い。小室君はひどい目に合わされても辛抱が出来る所以ゆえんだ。雪子さんは小室君より二つ年下だ。女学校時代は兄として愛し、昨今は良人として愛しているが、愛するの余りにく。
 小室君は半年間無欠勤を続けた。申分なかったが、年の暮に養父が又倒れた。三度目の脳溢血だった。人事不省三日にして亡くなった。その為め一週間休んだが、忌引きびきが入っているから、欠勤は三日に過ぎない。前の会社で失策しくじっているから、休むということがひどく気になった。
「お父さんの部屋のところを通ると、今でも未だいらっしゃるように思うんですけれど」
 と小室君は始終頭を押えられていた丈けに、一種の淋しさを感じた。
「私、もうあなた一人よ」
 と雪子夫人もしょげ返っていた。こうなると幾ら我儘でもいじらしい。母はもううにない。これで両親を送ってしまって、子供がないから荷が軽い。その上に財産が残っている。小室君が又職を失っても、生活の安定は欠かない次第わけだ。
 正月が来たけれど、喪中もちゅうだった。三日をヒッソリ暮して、四日の御用始めに出勤した小室君は俄に腹痛を催して、輾転反側てんてんはんそくした。医者に来て貰ったら、盲腸炎らしいとのことで、直ぐに病院へ担ぎ込まれた。
「あゝ、痛い。あゝゝ[#「あゝゝ」はママ]苦しい」
 とあえぎながらも、
「しかし手術は家内に相談してからにして下さい」
 と本格的養子の立場を忘れなかった。雪子さんが駈けつけて励ました。試験とか手術とかと先の分らないことは嫌いな性分だけれど、今更仕方がない。小室君は手術を受けて、病院生活を続けた。幸いにして経過良好だった。同僚がよく見舞いに来てくれた。御用始めの日に会社で発病したから周知の事実になっていた。
「小室君、何うだね?」
 と或日人事課長が現れた。
「お蔭さまでもう間もなく傷が癒着ゆちゃくします。後二三日、晩くても四五日で退院出来る積りです」
「盲腸炎だという話だが、本当かね?」
「はあ、切ったんです」
「すると君は二つあったのか?」
「…………」
「左にある人があるということは聞いたが、二つある人があるのかな? 矢っ張り」
「何とも申訳ございません」
「いや、病気は仕方がない。ゆっくり養生し給え」
「恐れ入りました」
 と小室君は困り果てゝ、頭を掻くばかりだった。
 雪子夫人が始終附き添っていて、見舞客に挨拶をした。若い同僚は大抵来たから、小室夫婦は会社内へ知れ渡った。悪いことでない限り、人間は自己の印象を強くして置く方が勝ちらしい。それでこそ個人も商店も広告に高い金を払う。
「小室って男、ナカ/\面白い奴だな。喪中の正月で退屈の余り、栄螺さざえの壺焼を五つ食って盲腸炎を起したんだって」
「あの細君もやり手らしい。食辛抱くいしんぼうだからこんなことになりましたって、小室君をおろす」
「美人だね」
「うむ。そこへ持って来て小室君は橘組たちばなぐみだから、益※(二の字点、1-2-22)頭が上らない」
「養子かい? 彼奴」
「うむ。この間親父が死んだろう? 立派な家だったじゃないか? 養父の威光で入って来たのらしい」
「養子即ち秀才か? そういえば蒲柳ほりゅうの質で、一寸秀才タイプだね」
錚々そうそうたるものさ」
 というような次第わけだった。好評は無形の資産だ。長の年月には入院費ぐらいあがなって余りある。
 再度の盲腸炎もさることながら、就職半年と少しで長く欠勤すると思うと、小室君は甚だ心苦しかった。そこで頻りに全快を急いだが、そうは行くものでない。イラ/\しながら、三週間病院にいた。暑中休暇で差引いて貰っても、養父発病の折を加えると、二週間以上足が出る。根が小心翼々しょうしんよくよくの小室君だ。その分を内容的にと考えて、毎日の勤務に念を入れた。天晴れの心掛が幹部に通じたのか、上半期のボーナスを当り前に貰った上に、俸給があがった。同時にもう一枚辞令を頂戴した。○○鉱業所勤務を命ずというのだった。山へ行かなければならない。しかし抜擢だった。人事課長は盲腸が二つあるとは変な奴だと気がついて以来、警戒的に注目していたら、恪勤精励かっきんせいれい、成績が頗る好かったのである。

橘会の勇者


 山の勤務は里心を起さないように、待遇が好くしてある。社宅が貰える。東京なら家賃を払うのだから、これ丈けでも大分違う。社員の倶楽部、奥さん連中の社交部、この二つも山特有のもので、本店には設備がない。購買こうばい組合があって、日用品が東京よりも二割方安く手に入る。好いことずくめだ。○○町は◎◎鉱業の為めに寒村が発展して町政を布き、現在人は二万に近い。ソロ/\市になる支度をしている。中学校と女学校がある。社員は子供の教育にも心配なく、山の中で勤務が出来る。
 小室君は鉱業所へ転任すると間もなく、社長女婿の知遇を得た。井上という青年で、社長の末娘を貰って所長秘書を勤めている。商大が小室君よりも三年の先輩になる。初め小室君初め五名の為め倶楽部で歓迎会が催された。その折、自己紹介があって、小室君は社長秘書と[#「社長秘書と」はママ]同窓のことが分った。それから数日たって、机を並べている由良ゆらという男から井上君の噂を聞いた。
「商大出の秀才と号して、社長の末娘を貰っているから、鼻息が荒いです。橘会の御大将です」
「何の会ですか? 橘会って」
「養子又は女婿の会です。こゝは妙ですよ。世間では養子とか女婿とかいうと肩身の狭いものですけれど、山の中では養子女婿が幅を利かします」
「はゝあ」
「井上君の説によると、秀才だから、選ばれて女婿養子になる。女婿養子は世の光なり地のかがみなりというんです」
「成程」
みんな歴々れきれきの令嬢を拝領しているから、会社では大威張りです。俸給も早くあがります。我儘が利く次第わけですけれど、家へ帰ると、頭が上りません。雪子さん雪子さんです」
「はあ?」
 と小室君は驚いた。自分のことを言われたと思ったのである。
「井上君の奥さんは雪子というんです。陰で話す時も、家の雪子さんが何うしてこうしてと言うんですから、身に沁みているんでしょう。女婿なんて可哀そうなものですよ」
「成程」
「会社で威張っていても、家へ帰ると猫のようです。理窟から言うと、秀才が多い次第ですけれど、井上君は違います。商大の秀才が聞いて呆れる。奴さん、予科あたりで一遍やっているんですよ」
「はゝあ」
「一緒に入って一年早く卒業した人が現にこゝにいるんですから、法螺ほらを吹いたって始まりません」
「成程」
 と小室君は額に手を当てゝ見たら、汗をかいていた。
「妙に女婿や養子の多いところですよ。あすこに鬼瓦おにがわらのような怪物がいるでしょう」
「何処ですか?」
「柱のところです。そら、額に鉛筆を当てゝ考えているでしょう? 頭デッカチです」
「あゝ、分りました」
「あれは香坂重役こうさかじゅうやくの養子です。秀才ですよ、これは。僕と一緒に帝大を出ました」
を争ったんでしょう?」
「まあ、そんなところです。それから占部君うらべくんも秀才です。これは大株主の女婿です。矢っ張りそでぐみの名をはずかしめません。会長自身は好い加減なものですが、他の連中が秀才論の証明をしています」
「袖の香組ってのは何ですか?」
「橘会のことです。袖の香組だの橘会だのと妙に風流がっているのが癪じゃありませんか?」
「さあ」
「僕達はその向うを張るのでもありませんが、矢っ張り会をやっています。実力組というんです」
「成程」
「入りませんか? 在野ざいやの秀才を網羅もうらする会です。僕が推薦します」
「有難いですけれど、実は僕も……」
「何ですか?」
「養子の組です」
「それは/\、失敬しました」
「いや、一向」
「袖の香組ですか? これだからいけない。何うも僕は頓狂だ」
 と由良君は自分で自分の頭をポカ/\叩きながら、頻りに首を振っていた。
 或日、所長秘書の井上君が小室君の机の側を通りかゝって、思いついたように、
「小室君、何うですか? 山の住み心地は」
 と訊いて、立ち止まった。
「やあ。これは/\、井上さん」
 小室君は社長女婿と聞いているから敬意の一方だった。
「何うですか? その後」
「一生懸命やっています。何分宜しく」
「東京に較べると空気が好いでしょう?」
「はあ、全然違うようです」
「健康的には健康的ですけれど、刺戟が足りません。退屈するでしょう?」
「さあ、だ一向」
「些っと遊びにいらっしゃい」
「有難うございます」
「何なら今晩何うですか? 君とは同窓ですから、共通の話題があると思います」
「お差支なければ、お邪魔させて戴きましょう」
「それではお待ち致します」
「何時に上りましょうか?」
「七時頃が宜いでしょう。ゆっくり話す積りで、奥さんに断って来て下さい」
 と言って、井上君はニヤ/\笑った。
 小室君は夕食をしたためてから出掛けた。
「何んな奥さんか見て来て下さいな。私と同じ名前なんて、お懐しいわ」
 と雪子夫人も社交心が動いていた。同時に自信がある。東京にいても自分ぐらい綺麗な人はすくないのだから、この山の中では天下無敵だろうと思っている。
 井上君の社宅は大きかった。役がついていると違う。客間の椅子テーブルも社長の本邸から取寄せたらしく、本式のものばかりだった。
「時に小室君、僕は昨日商大の名簿を見て、君の旧姓を発見しましたよ。括弧かっこの中に書いてありました」
 と井上君は小室君を安楽椅子に寛ろがせると直ぐにやり出した。
「旧姓玉木です」
「養子ですね? 君は」
「はあ」
「僕は御承知の通り女婿ですから、養子も同じようなものです。女房のお蔭で出世するように、兎角誤解される部類ですから、何分宜しく願います」
「僕こそ何うぞ宜しく」
「実は僕達は世間のもうひらく為めに会をやっているんです。橘会、又の名袖の香組といって、養子又は女婿が会員です」
「はゝあ」
 と小室君は初耳らしく傾聴した。
「養子女婿だから出世するのか? 元来秀才で出世する資格があるから養子女婿に物色されるのか? これは考えるまでもないことでしょう。養子女婿は選ばれた人種です。選民チョズン・ピープルです。優秀だから懇望こんもうされるんです」
「成程。一理ありますな」
「何だ? 君。一理だなんて」
「結構です。共鳴します」
「一方女房の方には財力があります。養子女婿の縁組は優秀な頭と有効な資力を結合コンバインするんですから、取りも直さず、人類を向上させる優生運動ゆうせいうんどうの一種です」
「本当です」
「この意味から僕は女婿たることを絶大の名誉と考えて、橘会の会長をやっています。五月さつきまつ花たちばなの香をかげば、昔の人の袖の香ぞする。これが橘会袖の香組の名称のよって来る所以ゆえんです」
「何ういう意味ですか? その歌は」
「颯爽たる秀才の面影を伝えたものでしょう。但し才子多病、死んでしまったんですね。昔の人の袖の香ぞするとありますから」
「死んじゃ困りますね」
「しかし死ぬほどの秀才でもないでしょう、お互は」
「成程。安心しました」
「ハッハヽヽ」
「それじゃ僕も悲観することはありません」
「何を悲観するんですか?」
「養子だから時々恥かしいと思うこともあるんです」
「馬鹿な。とらわれていちゃ駄目ですよ。養子女婿は今言う通り、優秀だから懇望されたんですから、むしろ誇りとして大きな顔をしているのが本当です」
 と井上君がふんり返って見せた時、夫人が現れた。
「家内です。雪子さんと申します。これは今度東京からお出になった小室君です」
「何分宜しくお願い申上げます」
「私達こそ何うぞ。さあ、お掛け下さい。さあ、何うぞ」
 と雪子夫人も席についた。
「あゝ、雪子さん、小室君は橘会の勇者ですよ」
「まあ、そう?」
「その関係で御案内したんです。あなたも奥さんを御招待なすったら如何いかがですか?」
「早速御交際をお願い申上げましょう」
「実は妻から奥さんへ宜しくとございました。不思議なことに、雪子と申して、奥さんのお名前を汚しております」
 と小室君が社交手腕をふるった。
「まあ! 矢っ張り雪子さん? お懐しゅう存じますわ」
「雪子さん、これから使いを出して御案内なすったら如何ですか? 雪子さんと雪子さんのお顔合せも面白いでしょう」
「そうね」
「僕、命じます」
 と井上君が立って行って斡旋あっせんした。

会長のいたずら


 小室君は山へ来て芽を吹いた。社長女婿の見出みいだしにあずかったのが一つ、同時に養子は誇るべきものだと大悟一番したのがもう一つだった。元来頭は悪くない。それは連れ添う雪子夫人がつとに認めている。事実、多少秀才の誉があったから、小室家の婿養子に望まれたのである。学校の落第必ずしも材幹ざいかんを否定しない。或一定の条件の下に教科書を読みノートをそらんじて点を取るのは碁将棋のゲームと異るところがない。人間そのものゝ修業には一向関係のないことだ。太閤秀吉や徳川家康が大学を出ているか? というようなことが井上君その他の橘会々員との接触によって分ったのである。そこで小室君、前の会社でオズ/\していた時と違って、公生活に調子がついて来た。運勢が盛んになると、欠勤するような故障も自ら跡を絶つ。雪子さんも山の中だから夫君の気が散るまいと思って、安心している。随って家庭円満だから、仕事に身が入って、成績が素晴らしく好い。
「小室君は凄いな」
 という次第わけで、一年たゝない中に、袖の香組の飛将軍ひしょうぐんと仰がれるようになった。
「君、君、井上君、橘会も好いが、お見受けしたところ、皆女房に頭の上らない連中ばかりだね。御大おんたいの君にしても、副将の香坂君こうさかくんにしても」
 と小室君はもう誰とでも君僕の間柄だった。些っとも遠慮がない。
「大きな声を出すなよ」
「何故?」
「養子女婿秀才論は何処までも真理だけれど、僕達は差当り明かに養家なり家内の里なりから恩沢を蒙っているし、女房共もそれをチャンと知っているから、そこにお互の悩みがあるのさ」
「お互ってことは困るよ。僕は養子だ。恩沢を蒙っているのは商大の予科時代からだから、袖の香組随一といっても宜いけれど、君達と違って、押えるところはこれでガッチリと押えている」
「何とか言っている」
「本当だよ。雪、こら、おい、何をグズ/\している? とやる。雪子さん、あゝしたら如何いかがでしょうの組とはいささか選をことにする積りだよ」
「そう威張るばかりが能でもあるまい」
「しかし天物を暴殄ぼうてんして、戦々兢々せんせんきょうきょうしているのも生き甲斐のない話だろう?」
「何ういう意味だい? それは」
「馬だよ。馬は毎回馬槽うまおけ一杯当てがわれて、後は文句を言わない。袖の香組は実力組に較べると、背景があるから裕福な次第わけだ。俸給ぐらい湯水のように使っても宜い立場にいるんだが、実際は何うだい? 堅いのが揃っているのか、意気地がないのか、皆女房からお当てがいを食わされて満足している」
「しかし必要があれば幾らでも貰える」
「その貰えるって言葉が哀れ果敢はかない身分を証明している。男一匹、情けないじゃないか? 僕達は天から与えられた材幹によって養家の財産を守ってやるんだ。その報酬として幾ら使っても構わない」
「呆れた料簡方りょうけんかたの養子だな」
「ハッハヽヽ」
「君にしてこの逆心ぎゃくしんありか? これは驚いた」
「おったてまつってばかりいるのは遣り切れないからね」
「僕だって時には謀叛心むほんしんが起る。君あたりのところは申分ないけれど、大抵は天二物を与えずで、物色ぶっしょくの余地がないからな。プレーンサイダーぐらいの味しかしない女房を頂戴して、国宝の様に大切にしなければならないんだから、こゝ丈けの話だけれど、矢っ張り辛いよ」
「本音を吹きやがったな」
「ハッハヽヽ」
「君達は智恵が足りないよ。一体会ってものは会員相互の便宜を計るものだ。折角の橘会も養子女婿が鼻を並べて唇までの長さを較べ合うばかりじゃ何にもならない。宜しくもっと有効に利用すべきだろう」
「成程」
「申合せさえすれば、何んな行動でも取れるんだ。例えば小遣にしても、年中足らず勝ちで悩んでいるものがあるに相違ない」
「君は何うだい?」
「楽じゃないよ。二三回裏三丁目へせば、吹っ飛んでしまう」
「伸すのかい? 君は」
「無論さ。カフェーぐらい何のそのだ」
えらいんだね」
 と井上会長は感心した。
 橘会は養子女婿が秀才論を振りかざしてお互に励し合うことを目的とするから、一種の修養会だ。それはそれで結構だが、養子女婿は気が詰まるから、時折息抜きの方へも利用すべきだというのが小室君の卓見たっけんだった。
「おい。へまむし入道にゅうどう
「何だい?」
 と副会長の香坂君が振り返った。頭デッカチで怪物のような風貌をしているから、小室君がそう綽名あだなをつけたのだった。
「東京は何うだったい?」
「これってこともなかった」
「銀ブラをやって来たかい?」
「うむ。立つ晩に歩いて別れて来た」
「頭を押えるものがなくて、当分楽が出来るだろう」
「馬鹿を言うな」
「子供の出来るのは羨ましいな。僕のところは絶望だ」
 と小室君、昨今淋しさを感じている。同僚は皆多産だ。袖の香組の連中は奥さんが妊娠して月が重なると、東京の養家しくは里へ預けて来る。
「君が悪いんだろう?」
「いや、そんな覚えはないんだ」
「奥さんは丈夫のようじゃないか?」
「あれで、君、ヒステリーがあるんだよ」
「ふうむ」
「この頃は納まっているけれど」
「女は誰でもあるよ」
「君のところもかい?」
「うむ」
くのかい? 矢っ張り」
「変に不安を感じるのらしい」
「だって、君なんか誰も相手にしまい」
「この野郎!」
「ハッハヽヽ」
「これでも学生時代には相思そうしの人があったんだよ」
「へゝえ」
「それを知っているものだから、家内が時々御機嫌を悪くする」
一寸ちょっと話せるんだね、君も。それじゃ遠慮をすることもないや」
「それで遠慮をしているのかい?」
「おや/\? やるんだね。ハッハヽヽ」
 或晩、橘会の連中十数名が会社の倶楽部に集まって、小室君を中心に座談会を開いた。折角の橘会をもっと有効に利用しようという小室君の意見が一同を動かしたのだった。実は皆修養丈けでは物足りない。何か色がついても敢えて苦情のない面々だ。
井上 それでは一つ香坂君あたりから始めて戴きましょうか?
香坂 僕達の家庭ではカフェーが御法度ごはっとです。しかし交際上よんどころない場合があります。その折、女房の目をかすめて、男子の体面を保つ法如何いかん? という問題です。
井上 奥さんがお留守だと早速これだから困る。(哄笑)こういう方面は小室君の専門でしょう。小室君、何うぞ。
小室 カフェーは東京の本場で女房の目を掠める為めに苦心惨憺しましたから、一日の長ある積りです。しかし此方では簡単ですよ。この倶楽部があるから、夜分の外出が利きます。「おい。今晩は倶楽部に会があるよ」と言って出て来れば何でもない。
横山 成程。簡単だな。
小室 期末には夜業にかこつけてもよろしい。
横山 夜業はないぜ。
小室 あることにして置かなければいけない。僕は着任早々、「こゝは時々夜業があるんだってさ。大変なところへ来てしまった」と言って置いた。それが今役に立つ。
横山 しかし他の連中が早く帰って来るから分ってしまう。
小室 自分の係り丈け夜業があって貧乏※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)だから、やめて東京へ帰ろうかと不平を言うんだ。すると、辛抱して下さいと頼むよ。頼みとあれば仕方がない。此方は辛抱してカフェーへ行く。
一同 ハッハヽヽ。(拍手喝采)
井上 しかし軍用金は何うする? 火薬は?
小室 方法は幾らもある。友人救済法、病気療養法、ボーナス隠匿法、俸給改造法、貯金帳紛失法……
井上 みんなの参考の為め、順次説明してやり給え。
小室 友人が失業する。これは近所の友人じゃいけない。大阪へ行っている同窓ぐらいにして、其奴が有りつくまで月々二十円宛補助するんだ。
岸井 仮設の友人を拵えるのだろうが、お礼の手紙か何か来なければ駄目だろう?
小室 本当の友人と特約するのさ。先方も二十円程誤魔化せる仕事だから、大抵の奴なら申込に応じる。
井上 これは宜い。ハッハヽヽ。
岸井 先方むこうが何うして誤魔化せるんだい? 君が送りもしないのに。
小室 にぶいぞ。先方は先方で僕が失業したからと言って、月々二十円送るふうをする。それに対して、僕から月々お礼状が行くんだ。
岸井 成程。悪い奴だ。
大島 巧いことを聞いた。これはこの仲間グループ丈けでも申合せれば実行が出来る。
岸井 一つやろうか?
小室 やり給え。専売権を両方から三割宛徴集するぞ。
一同 ハッハヽヽ。(拍手喝采)
井上 次は病気療養法。小室君、何うするんだい? これは。
 座談会は倶楽部の一室で催されていたが、カーテンの陰に小さなマイクロホンがかくしてあって、その線が婦人社交部の一室に通じていた。橘会の連中の奥さん達も時折会合する。その晩は懇親会を兼ねて、バザーの相談会をやっていたのである。山の社交はこの人達が大きな動力だ。
「今晩は余興として主人方の座談会の放送がございますよ」
 と井上夫人が発表したから、一同期待していたのだった。それが今や極めて明瞭に聞え始めた。放送局でやるように人別の説明はないが、主人の声は奥さんに分る筈だ。忽ち小室夫人が血相を変えて立ち上った。
「私……」
「まあ/\、奥さま」
「あら/\/\、あんなこと申しています」
「奥さま、奥さま」
「主人の奴、何うするか覚えて……」
「まあ/\/\/\、奥さま」
 と奥さん達が抱き止めている中に、雪子夫人は卒倒そっとうしてしまった。
 翌日から小室君の欠勤が続いた。
(昭和十四年四月、現代)





底本:「佐々木邦全集 補巻5 王将連盟 短篇」講談社
   1975(昭和50)年12月20日第1刷
初出:「現代」大日本雄辯會講談社
   1939(昭和14)年4月
※「甞」と「嘗」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:芝裕久
2021年4月27日作成
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