村一番早慶戦

佐々木邦




 東金君とうがねくんと僕は何の因果だろう? 小学校から一緒で竹馬ちくばともだ。現在も友情を誓っている。喧嘩一つしたことのない仲だけれど、昨今はお互に好かれと祈らない。始終競争意識にとらわれている。僕は込み上げて来ると、東金の奴、失敗すればいと思う。それほどでなくても、先方むこうが此方よりも成功することは面白くない。これは否定出来ない事実だ。先方も矢張り同じような心持でいる。東金君は僕ほど敏感な良心の持主でないから平気かも知れないが、僕は甚だつらい。時折顧みて、自分の心境にじ入ることがある。まことに愚劣な経緯いきさつだけれど、乗りかけた舟で今更仕方がない。

坊っちゃん同志


 僕と東金君は同じ村に生れた。僕の家は村一番の豪農だった。先祖代々ういうことに相場がきまっていたところへ、東金君の家が村一番を主張し始めたのである。これは何方どっちが余計に田地を持っているか、何方の税金が多いか較べて見れば直ぐ分ることだから、至って簡単な問題だ。自慢ではないが、僕のところでは祖父の代に千びょう振舞ぶるまいというのをやった。年貢米ねんぐまいが千俵入るようになったお祝いだ。村中を招待するのに五日かゝったと言い伝えられている。その折、東金君のお祖父さんは毎日顔を出して、ヨイ/\/\シヤン/\/\と[#「シヤン/\/\と」はママ]手を締める音頭を取ったものだそうだ。して見ると、東金君のところは僕の家の子分だったのである。その頃十六ミリがなかったのは東金家に取って仕合せだ。あったら写真に取って置いて文句を言わせない。しかし僕のところはその後父の代に生糸工場きいとこうばをやって失敗した。それから県会議員の候補に担ぎ上げられて、これも巧く行かなかった。そんな関係で年貢が余程減ったのらしい。僕が生れる前後のことだった。ちなみに僕は両親がかなり年を取ってからの一粒種である。
 当時頭をもたげて来たのが東金家だった。東金君のお父さんは一代で身上しんしょうを拵えるくらいの人だから、ナカ/\の遣手やりてで、兎角の風評があった。村で高いのは三友寺の屋根と八幡さまの松と東金さんの年貢だというたとえが残っている。年貢を決して負けない。世間では東金君のところを成り上りのように言うけれど、僕は然う認めない。これは東金君の為めに弁解して置く。東金君の家は既にお祖父さんの代に五本の指に数えられていたし、その先代が漢学者として名を残している。僕のところほどのことはないにしても、わば旧家の端くれだ。東金君のお父さんが町の大金持の娘を嫁に貰ったのでも分る。好男子だから見初みそめられたのだという。その大金持の後押しで酒の醸造を始めたのが成功の切っかけだった。
 僕の家には忠八という名詮自性みょうせんじしょうの忠僕がいた。もううに死んだが、僕は忠犬八公を連想する。八公の銅像を見た時、顔も似ていると思って、感慨無量だった。僕はこの忠八から家庭の教育を受けたようなものである。物心ものごころを覚えてからは忠八が始終附き添っていた。
一夫かずおさん、東金に負けちゃなりませんぞ。今にあんたが東金を見返してやるんです」
 これが忠八のおはこだったが、六つや七つの子供には意味が徹底しない。見返すと言うからには、その頃からもう多少此方が引け目になっていたのだろう。
「東金は悪いの?」
「成り上りです」
「成り上りって?」
「生意気です。村一番って顔をしています」
「東金の店は立派だね」
「それだから一夫さんが今に見返してやるんです」
「今でも見返すよ。あんな立派な店だから、前を通ると、何うしても見返す」
 その頃、僕は未だ東金君と交渉がなかった。同じあざだけれど、東金君は上で、僕の方は下だ。うちが離れているから遊ばない。しかし小学校へ入ったら、僕と東金君が一緒の机に並んだ。他の子供達よりも東金君は遙かにい子だった。東金君も僕のことを然う思ったのだろう。僕達は直ぐに仲よしになった。
「一夫さん、一番にならなければなりませんぞ」
「なるとも」
「東金の金さんに負けないように」
「大丈夫だ」
「東金は矢っ張り慾張っています」
「何故?」
「苗字が東金で名が金一です。子供の名前で料簡方りょうけんかたが分る。何うも癪に障る」
「忠八は東金が本当に嫌いだね」
「斯うなっちゃ負けられません。爺やは毎日八幡さまへお詣りをします」
 と忠八は一生懸命だった。八幡さまへ日参を始めた。忠八は確かに彼一流の方法で僕の教育を心掛けてくれた。他のものゝように、僕を決して坊っちゃんと呼ばない。坊っちゃん育ちになると困るという考えだった。
 東金君の方も成績が心配だったと見えて、八幡さまへ願をかけた。八幡さまは僕の家の近くだ。僕の家は八幡前の緒方おがたさんとして代々知られている。或日、東金君とお母さんがお詣りに来た序に、僕のところへ寄った。
「仲よくして下さい」
 という依頼だった。身体は僕の方が大きい。喧嘩なら勝つ。
 僕の母は先方むこうから来たから此方もお礼返しに僕をつれて顔出しをすると言った。しかし忠八が聞きつけて反対した。
「奥さん、奥さんは緒方家と東金家が何ういう関係になっていると思っていらっしゃるんですか?」
「何ういう関係って?」
「奥さんは隣り村からお嫁においでになったんですから、御存じないんでしょうが、東金は代々緒方の家来ですよ」
「昔は昔、今は今。そんなことは何うでも宜いでしょう」
「いゝえ、もっての外です」
「行っちゃいけませんの?」
「この忠八が不承知でございます。家来が殿様のところへ来ても、殿様が家来のところへお礼返しに行くという法はありません。この辺の理窟は旦那さんに伺って戴きましょう。し旦那さんがおいでろと仰有るようなら、わしも覚悟をめます」
「何うするの?」
「お暇を戴いて、西国巡礼さいごくじゅんれいに出掛けます」
 いつにない権幕に母も驚いた。忠八は僕が言うことを聞かないと、西国巡礼に行くと言って脅す。僕は本気にしておとなしくする。忠八はそれを母に応用したのだ。丁度そこへ父が帰って来たから相談したら、行くには及ばないということだった。のみならず、父は不機嫌な面持をして、母を睨みつけた。
「何ういう料簡だね? お前は」
「別にこれってこともございませんけれど」
「東金はこの頃増長している。会へ行って一緒になると平気で俺の上座かみざに坐る。親父が家の千俵振舞いに来て音頭を取ったことを忘れているようだ」
「旦那さん」
 と忠八が拳を固めて乗り出した。
「何だ?」
「俺、行って一つ打っくらわせましょうか?」
「馬鹿を言うな」
「癪に障りますよ。村一番だと吐かしているんですから」
「その積りらしいから可笑おかしいんだ」
「でもこの分じゃかないませんよ、追々は」
「何うして?」
「旦那は出す方の競争ばかりなさる。八幡さまの改築だと言えば、それ、百円。ポンプを買うと言えば、それ、百円。東金は五十円です。何でも半分で逃げて置いて、取る方の競争じゃ決して負けません」
「まあ/\、見ていろ。今にめてくれる」
 忠八の日参にも拘らず、僕の初めての成績は十番だったと覚えている。上の方は皆小作の子供が占領してしまった。東金君は十二番だった。これには忠八、大喜びをした。それから僕と東金君は上になったり下になったりしたが、いつも十番以下だから、何方が勝っても問題にならない。水車場の息子が一番で通したのみならず、全校切っての成績だったものだから、注意がその方へ向いてしまった。此方は何うでも宜いと思ったのが油断で、席次がドン/\下る。ついに緒方と東金は何方が余計いけないだろうかということになった。二人で組んで暴れたのである。地主の子供は幅が利く。成績の悪いのが皆僕達の子分についてくれた。三年か四年の頃、僕は何か仕出来しでかして、毎日留め置きを食った。東金君は同情して、家へ帰らない。夕方まで必ず教室の窓下に立って待っていた。先生の目を盗んで、キャラメルを差入れてくれることもあった。東金君も時々失策しくじった。然ういう折からは僕も心配で帰れない。義理堅く差入れを心掛けた。或日、東金君のお母さんが学校へ呼びつけられた。あらかじめ分っていたから、遊び時間に校長室を覗いて見たら、果して来ていた。お母さんは校長先生の前に頭を下げて、何か言い聞かされているようだった。
うしよう? お母さんが叱られている」
 と言って、東金君が泣きそうになった。
「待ち給え。君がやると罪が重くなるから、僕がやってやる」
「何をやるんだ?」
「まあ/\、見てい給え」
 僕は友情を示す責任を感じたのである。しかし何うして宜いか分らない。頻りに首を傾げていたら、校庭の外の大根畑が目についた。僕は大根を一本抜いて来て、校長室の窓から投げ込んだ。今考えて見ると馬鹿な話だけれど、他に分別が浮ばなかったのである。遊び時間だから皆が見ていた。先生に捉まって、今度は僕の母が呼び出された。申訳ないと言って、校長先生にあやまっているところへ、
「恩返し」
 という声が聞えて、大根が飛び込んで来た。東金君が恩を返したのだった。僕達は成績の競争どころでなく、この通り、いたずらの相棒として小学校時代を過したのだから、決して仲の悪いことはない。

格式と実力


 僕達は中学校へ通い始めた。毎朝誘い合って、一里ばかり西の町へ自転車で出掛ける。村の腕白者も余所よそへ行くと意気地がない。僕達は町の生徒にいじめられたらお互に扶け合おうと約束した。
「成績の方もあんまり悪いと村の恥になるから、些っと一生懸命になろうぜ」
 と僕が言ったら、東金君は、
「いや、村の名誉は関君に委せて置く。関君がやってくれるよ」
 と答えた。関君は水車場の息子だ。余り頭が好いから上の学校へ送りたいと言って、校長先生が奔走した。最初東金君のお父さんを訪れて、関君の成績を話した後、町の商業学校へ通う学資を補助してやってくれまいかと頼み込んだ。校長先生が教育に従事して以来、見たことのない模範児童だというのだった。東金君のお父さんは無論断った。出す方の競争はしない主義だった。校長先生は次に僕の父に相談した。父は怒ったそうだ。
「何故わしのところへ先に言って来ない」
「別に意味はありません。あなたは今までに随分出していらっしゃるから、今度は東金さんに出して貰いたいと思いました」
「成程」
「私は長らく校長を勤めていますが、斯ういうお願いは一度もしたことがありません。しかし今度は惜しいです。私も関の為めに幾分負担したいと思っています」
「それには及びませんよ。俺が引受けましょう」
「御迷惑をおかけして、恐縮千万ですが、何分宜しく」
「何あに、後進の為めです。もうありませんか? あなたが上の学校へ進めたいとお思いになるような秀才は」
「ございません。関一人です」
「幾らでも出しますよ」
 と父は出す方の競争では決して負けない。
 僕が中学校の三年生になった頃、忠僕の忠八が死んだ。長くわずらっていた。納戸なんどを病室にして、母が始終看病してやった。亡くなる前の晩、忠八は僕に会いたいと言い出した。僕が枕許に坐ったら、
「一夫さん、長々お世話になりました。忠八はイヨ/\西国さいごくへ参ります」
 と言った。今度は巡礼でない。死ぬという意味だった。
「そんな気の弱いことじゃ駄目だよ。しっかりするんだ」
「いや、もういけません」
 いけないことは分っていた。僕は涙をこぼした。
「一夫さん、勉強してえらい人になって下さい」
「うむ」
「モスリンの社長さんのような人になって下さい。然うすれば東金とうがねを見返せます」
「うむ」
「東金を見返してやって下さい。わしの遺言はこれ丈けです」
「忠八、遺言なんてことはないんだ。もっと元気を出すんだ」
「いや、もう駄目です」
 僕は忠八の遺言が身に沁みて、東金を見返す決心を固めた。その頃、村一番の競争が益※(二の字点、1-2-22)激しくなっていた。父も母も真剣だった。今まで押され気味の父が東京の有力者と共同で村にモスリンの会社を起した。取締役になって、度々上京する。家へ出入りの人も多い。僕が覚えてから初めての活気を呈した。村の娘達が工場で働く。これが村のうるおいになるから、父は評判が好かった。もう一方東金家も作り酒屋として着々発展した。東金君のお父さんは父と違って、ナリもフリも構わない。真黒になって働く。僕は遊びに行っていて、これじゃとてかなわないと思ったことがある。村の連中は身上しんしょうの大小で人間の値打をめる。最も興味のある話題は人の家の財産だ。従って村一番を争っている緒方と東金が始終噂に上る。
何方どっちだろうな? 矢っ張り東金だろう。何しろ豪い勢だ」
「いや、緒方だろうよ。古川ふるかわに水絶えず、だ/\何処かに底力がある。今度だってモスリンの取締に納まった」
「しかし東金は倉を建て増した」
「緒方は東京を控えている。交際が好い。格式が違う」
「格式より実力だ。東金はガッチリしているから、詰まりは勝ちをめる」
「それは現金は東金の方があるらしい。田地は昔古来の緒方だ」
「その昔古来が抵当に入ってモスリンの株に代っているって話だからな」
 要するに、緒方は格式、東金は実力というのが定評のようだった。僕も思い当るところがあった。僕のところと東金君の家は確かに行き方が違う。此方こっちは万事派手だ。体裁を重んじるから無理がある。先方むこうは一切しゃらっ構わない。主人が職人と同じ服装をして倉へ出入りする。東京へ行って金を使う父とはプラスとマイナスだ。僕は少し心配になって、母に訊いて見たが、大丈夫だということだった。母も旧家から来ているから、昔古来の格式で全村に君臨する気らしかった。
 僕と東金君は相変らず仲が好かった。家同志の競争を知っていても、問題に触れない努力をした。しかし三年生になってから、僕が勉強して一躍四五番上ったら、東金君は気がついたと見えて、早速抗議を申入れた。
「出し抜いたね、君は」
「いや、そんな次第わけじゃない。黙っていたら、偶然上ったんだよ」
「黙っていれば下る。僕は六番下ってしまった」
「何方にしたって中軸だ。五十歩百歩ってところだから問題にならない」
「…………」
「この次は僕が下って君が上る番だろうから、恨みっこなしさ」
「僕は今まで君の友情を疑ったことがないんだけれど」
「それじゃ僕が友情にそむいたと言うのかい?」
「兎に角、約束を破っているんだから」
「何ういう約束を?」
「一年の時、君は勉強しようと言い出した。しかし僕は反対したろう?」
「うむ」
「村の名誉は関君に委せようと言ったら君は関君を褒めたじゃないか? それで僕は悉皆すっかり安心していたんだ」
「関君を褒めたって、勉強しない約束にはならない。関君なら無論村の名誉になるような成績を取ってくれるだろうと言った丈けだから」
「それじゃ君は勉強したんだね? 今度は」
「少しはやったよ」
「見給え。嘘をついている。今、黙っていたら、偶然に上ったと言ったばかりじゃないか?」
「…………」
「これからはっと気をつけてくれ給え。僕は君のお陰で親父にウンと叱られた」
「何うしたんだい?」
「君に負けたからさ」
「今までだって、僕の方が始終二三番上だったじゃないか?」
「併し今度は開きが違う。君が上って僕が下ったから、十三番違ってしまった」
「それは、君、無理だよ。僕の責任にされちゃ困る。僕は怠ける約束なんかした覚えはないんだから」
「怠ける約束じゃない。勉強をしない約束だ」
「そんな約束をした覚えもない。勉強するのは生徒の本分だ」
「それぐらいのことは僕だって分っている」
「分っているなら、そんな変なことを言わなくてもいじゃないか?」
「君は僕の心持が分らないんだ」
「何ういう心持だい?」
「…………」
 東金君は答えなかった。黙って帰って行ってしまった。成績発表直後、※(二の字点、1-2-22)わざわざ僕のところへ談判に来たのだった。僕としても東金君と言い合って物別れになったのはこれが初めてだったから、何となく気が咎めた。しかし勉強をしないという約束はした覚えがない。十番上ろうが二十番上ろうが此方の自由だ。これから先、学期末毎に苦情を言われては溜まらないから、その辺の理解をつけて置く必要があると思って、僕はその夕刻東金君を訪れた。
「君、先刻さっきの話だ。僕が勉強しない約束をしたというのは何うしても君の誤解だよ」
「僕もあれから考えた。成程、堅い約束はしなかった。しかし僕はその積りでいたんだから同じことだよ。君は矢っ張り勉強しない方が宜い。僕も今まで通りに怠けるから」
「何故?」
「僕は成績よりも友情が大切だと思う。君とは小学校から一遍も喧嘩をしたことがない。僕は君を兄貴と思っているんだ」
「兄貴なら僕が上になっても宜いだろう」
「二三番の違いなら構わない。しかし十番から違うと、親父の機嫌が悪くて困る」
「君も少しやれば宜いじゃないか? 直ぐに追いつくよ」
「いや、僕は君を負かしたくない」
「何故? 兄貴だからかい?」
「うむ。君の方が早生れだ」
「そんな遠慮はよしてくれ給え。僕は君のお相伴しょうばんに怠けちゃいられない。もう三年生だ。ソロ/\上の学校へ行く支度をするんだから」
「君は東京へ行く気か?」
「うむ」
「又約束を破ったな、この野郎」
「野郎とは何だ?」
あんまりひどいんだもの」
「君はうかしているんだね。僕は行かないという約束をした覚えはないよ。行くか何うか分らないと言っていたんだから」
「…………」
「君は何でもひとめで、約束だと思っている。僕が上の学校へ行っちゃ悪いのかい?」
「それは君の勝手だけれど、僕は君と競争したくないんだ。しかし君が行けば僕も行くことになるんだから」
「行けばいじゃないか?」
「君は僕の心持が分らないんだね?」
「何んな心持だい? 君は先刻さっきそれを言わないで帰ってしまったんだ」
「それじゃ思い切って話そう。しかし君の家で言えないことは僕の家でも言えない。外へ行こう」
「喧嘩か? 君は」
「それだから君は僕の心が分らないと言うんだ」
 東金君は泣きそうな顔をして立ち上った。僕は東金君について裏へ出た。東金君は青田の中の畦道あぜみちをズン/\急ぐ。僕は後から呼びかけた。
「君、何処へ行くんだい?」
「もう少し先まで」
「この辺で宜いじゃないか? 誰も人がいないから」
「こゝは僕のところの田だよ」
 家では言えないという意味の延長らしかった。東金君は間もなく立ち止まって、
「君、こゝは君の家の田だろう?」
「うむ」
「駄目だ。もっと先へ行こう」
 と言って、又歩き出した。
 二人は稲荷いなりさんのほこらについた。祠は小さいが、八幡さまのに次ぐくらいの大松が二本生えている。僕達はその下に立った。もう日の暮れ近くだった。東金君はういう積りか、松の幹を頻りに撫ぜていて、一向切り出さない。
「緒方君、この松は二本昔から仲よく生えているんだよ」
「うむ」
「あゝ、夕焼が綺麗だ。この塩梅じゃ明日も好い天気だろう」
「うむ」
「今は照り続ける方がさくの為めに好いんだ」
「君、そんなことよりも話を聞かせてくれ給え」
「僕は言いたくないんだけれども仕方がない。憤らないでくれ給えよ」
「構わないよ。言って貰わなければ、君の心持がいつまでも分らない」
「それじゃ言おう。宜いかい?」
「宜いとも」
「君の家と僕の家は村一番の競争をしている。これは君も知っているだろう?」
「うむ」
「僕は何方が一番でも構わないと思っている。そんな行きがかりは詰まらないことだと思っているんだけれど、君の考えは何うだね?」
「僕もうだよ」
「親父同志は兎に角、子供同志も競争ってことになると、お互の友情がなくなる。僕の親父は君のお父さんのことを今に東京の人にだまされて財産を皆取られてしまうから気の毒なものだと言っている」
「…………」
「気の毒なら教えてやれば宜いのに、黙って見ているんだ。しかし君のところでも屹度僕の親父のことを悪く言っているだろう?」
「競争だから無論よくは言わないさ」
「何と言っている?」
「さあ」
「僕も一つ言ったから、君も一つ言ってくれ給え」
「東金さんは道連れが悪いから心配だと言っているよ」
「ふうむ。誰だい? その道連れは」
よくいちという盲人めくらだそうだ。此奴に引っ張られて行くから、詰まりは泥沼へ落ちるって」
何方どっちも何方だな」
「ハッハヽヽ」
「君、そこを一つ考えてくれ給え。親同志は何うでも僕達は親友だ。詰まらない競争なんかしたくない。君は何うか知らないが、僕は小学校時代から考えているんだ」
「僕も考えているよ」
「君と僕が気をつければ、親同志も分って来る。はたのものがおベンチャラを言うから悪いんだ。僕は小作や出入りのものゝ競争じゃないかと思う。その証拠に、親父は君のところを褒めることがある」
「僕のところでも然うだ。君のお父さんのことを兎に角人物だと言っている」
「お互に認めているんだ」
「家同志のことは僕達が心配したって仕方がないよ。それよりも学校の方だ。僕は競争はしないけれど勉強をする」
「しかし君が勉強すれば、僕も勉強するから競争になる」
「それは違う。僕は上の学校へ行く都合だ。入学試験があるんだから」
「僕も上の学校へ行く」
「両方で勉強すれば宜いじゃないか? 村一番なんてことは眼中にない。お互に立派な人間になるのが目的だ」
「理窟はそれに相違ないけれども」
「もう君の家が村一番だよ。実力は東金ってことにきまっているんだから」
「しかし僕のところは格式がない。君のところは親類がい。その上に東京を控えているんだから」
「今に東京に皆取られてしまうんだよ」
「あれは冗談だ。ハッハヽヽ」
「君、もう日が暮れる」
「待ち給え、もう一つあるんだよ」
「何だい?」
「僕は君に妹があればいと思う」
「何故?」
「貰うよ。それが一番早い。お互に親類になれば村一番も何もない」
「しかしないから仕方がない」
「僕のところには二人ある」
「何だい? ハッハヽヽ」
「僕は本当に考えているんだぜ」
「よせよ。詰まらない」
 僕達は尚お少時しばらく話して別れた。結局、要領を得なかった。東金君は勉強はしない約束をしたと又主張するかも知れないが、僕としては意思を充分発表した積りだった。競争はしない。しかし勉強はする。幸いにして僕達は再び問題に触れることがなかった。四年五年とも仲よく過した。というのは僕が決心をひるがえして余り馬力をかけなかったからだろう。又甲乙ない成績に戻ったのである。五年で僕は早稲田大学、東金君は慶応大学の入学試験を受けたが、二人とも恨みっこなしに不合格だった。凡庸ぼんようなところ、小学校時代から伯仲の間にある。卒業してかられ/″\目的の大学に入学が叶った。

大学時代と青春の目覚め


 当時東金家は商売が繁昌して、益※(二の字点、1-2-22)好景気だった。僕のところもモスリン会社が順調で、父は幅が利いた。モスリン重役緒方氏上京と動静が町の新聞に出る。何方だろうと村の連中は相変らず人の身上しんしょうを話題にする。
流石さすがに火花を散らす緒方と東金だ。若いのゝ学校も早慶に別れた」
 とはやし立てた。何処までも競争をさせたいのだ。しかし僕達はお互に理解があるから平気だった。東京では滅多に顔を合せないが、休暇に帰ると、行ったり来たりする。問題と早慶戦丈けに触れないで、話し込むことが多かった。その中に、東金君の姉さんが東京の資産家の令息に嫁いだ。お父さんが好男子だから、娘達は皆綺麗だ。東金君は女の中の独り息子だった。姉が一人に妹が二人ある。
「東金も格式が出来た。娘さんの嫁入り先のお母さんは華族さんから来ているそうだ。して見れば華族さんと親類になった次第わけだから素晴らしいものだ」
 という評判だった。僕は少し心配になった。既に実力がある上に格式がついてはかなわない。此方の負けになると思ったが、ういうことは愚劣な競争だと考え直した。しかし東金君はその頃から急に鼻息が荒くなった。
「君、早稲田は到底慶応の敵じゃないよ」
 と真向から来た。無論早慶戦のことだった。早稲田が大敗したシーズンの直後だったから、僕は一言もなかった。此奴、野球にかこつけて、もう一つの問題をふうしているのかと気を廻した。
「第一、スタンドの色彩が違うだろう。僕の方は百花爛漫だ」
「さあ」
「華族社会は皆慶応のファンだそうだ。○○子爵令嗣が言っていた」
「僕の方は大衆の支持がある。芝生を見給え。一杯だ」
「数より質の問題さ。僕の方のスタンドには華胄界かちゅうかいの令嬢が殆んど総動員をしたように集まる。僕は知らなかったが、この間○○子爵令嗣から聞いて、成程、色彩に富んでいる筈だと思った」
「同級生かい? 令嗣は」
「いや、東京の義兄の親類さ」
「然う/\、今度は姉さんがお芽出度う」
 と僕は祝意を述べた。
「有難う。君のところからお祝いを戴いた」
「僕は一昨日帰って来て、初めて聞いたんだ。華族さんへ行ったんだってね」
「違うよ。僕達と同じ平民だ」
「しかし然ういう評判だぜ」
「お母さんが○○子爵夫人の妹さんの配偶つれあいの姪だから、親類としては遠いけれど、義弟と同じ会社に勤めているから、極く懇意だ。式にも来てくれた」
「成程」
「令嗣も義兄も慶応出身さ。先輩だから都合がよい」
「姉さんは綺麗だから、東京へ行っても大威張りだろう」
「うむ。懇望こんもうされたんだからね。縁って奴は不思議なものだよ。義兄は去年東浜ひがしはまへ海水浴に来ていたんだ。姉も町の親類へ行っていたものだから、浜で顔が合ったらしい」
見初みそめたって次第わけだね」
「先ずその辺だろう。しかし提燈と釣鐘だ。先方むこうは百万からある」
「ふうむ」
「僕は驚いたよ」
 と東金君は義兄の家庭の贅沢振りを話し始めた。
 しかし僕達の交際はそれから三四年間一向変化がなかった。東金君は兎に角、僕は後の方の一両年多少努力する傾向があった。というのは東金君の直ぐ下の妹の郁子いくこさんが成人して、僕の心をきつけていたのである。僕は稲荷さんの松の木の下で東金君から謎をかけられた折、一笑に附したけれど、それは中学三年生時代のことだった。そんな問題は考える余地がない。単に東金君がこれほどまでに友情を重んじてくれるのかと思って、競争の決心を翻した。しかし今や僕も青春、郁子さんも女学校を卒業して、村一番と謡われていた。この村一番には異存がない。僕はその中に松の木の下の謎を此方から持ち出して解決したいと思っていた。東金君が言った通り、両家が親類になれば、一番も二番もない。自分の都合も好し、親同志の為めにもなる。唯心配なのは此方の両親の意向だ。余程巧く持ちかけないと首を横に振る。村一番の競争は東金家が格式を東京に求めて以来、一層尖鋭化していた。
 その折から、東金では又郁子さんを東京へ片付けるという噂が伝わって来た。僕としては大恐慌だった。丁度冬休みで帰省中きせいちゅうだったから、僕は早速東金君を訪れて、直接に当ってみた。
「君、郁子さんの縁談が評判になっているようだが、本当かね?」
きまったよ、もう」
「ふうむ?」
「矢っ張り東京だ。姉が世話をしてくれた。義兄の従兄で今度は帝大出身の秀才だ」
「皆東京へやってしまうんだね」
「うむ。女の子を草深い田舎へ置くのは可哀そうだ」
「…………」
「僕は親父と相談して方針を定めた。妹は皆東京へやる。その代り嫁は必ず東京から貰う」
「随分勝手だね。草深い田舎へ来る人が可哀そうじゃないか?」
「僕は村にいたくない。東京だよ。君、生活は」
「思想が変ってしまったんだな」
「何故?」
「君は僕に妹があれば貰うと言っていたじゃないか?」
「成程ね。しかし君はないから仕方ないと言ったよ」
「言った。しかし未だその先があったぜ」
「詰まらないことを覚えているんだね。ハッハヽヽ」
 と今度は東金君が一笑に附してしまった。僕としてもその折問題にしなかったのだから、今更苦情を持ち込める義理でない。そのまゝ行き詰まったところへ、郁子さんがお茶を運んで来た。
「郁子さん、お芽出度う」
「まあ!」
「東京ですってね?」
「えゝ。オホヽヽヽ」
 と郁子さんは袂で顔をおおって逃げて行ってしまった。至って天真爛漫だ。僕は多少感銘を与えていた積りだったが、それは主観に過ぎなかったのである。
 もうこの辺で東金家の意向が分る筈だ。僕は余程お人好しだと見える。それから二年たって僕達の卒業が近づいた頃、東金君の一番末の妹の鶴子さんが女学校の五年生になっていた。郁子さんにまさるとも劣らない器量だったから又評判だった。今度は僕も積極的に努力した。鶴子さんも明らかに傾向を示してくれた。前の主観的感銘とは違う。僕が遊びに行くと必ず出て来る。
「兄さんは慶応でも、私は早稲田よ。早稲田ファンよ、野球でも何でも」
 と頼もしいことを言う。或日、東金君を訪れたら、不在だったが、間もなく帰るから上って待つようにと鶴子さんが気をかしてくれた。僕は東金君の部屋へ通って、鶴子さんを相手に少時しばらく話し込んだ。障子が開いたから、東金君が帰ったのだと思ったら、お父さんだった。
「やあ。一夫さんですか?」
 と驚いた風をして、
「鶴子や、お前は彼方あっちへ」
 と命じた。それからむずかしい顔をして席について、
「一夫さん、あなたは大学教育を受けていらっしゃるんですから、礼儀作法は一通り御存じでしょう?」
「はあ」
「金一の留守中に上り込んで鶴子とお話しになっちゃ困りますよ」
「…………」
「気をつけて下さい。世間体せけんていがあります」
「はあ。御懇意に願っているもんですから、つい金一君を待つ積りで上らせて戴きました。申訳ありません」
 と僕はあやまって、う/\の体で逃げて来た。以来、東金家へはもう寄りつかない。但し東金君はその晩訪ねて来て、お父さんの無礼を詫びたのみならず、友情を誓った。親父は何うでも自分の誠意を買ってくれ給えというのだった。

会社勤めと解決の曙光


 僕達は間もなく卒業した。僕は決心の臍を固めた。村一番の競争は今や頂点クライマックスに達している。全く互角だ。緒方家は実力を増し、東金家は格式を得て、均衡きんこうたもっている。息子の出世で何方かへかしぐのである。僕は重い責任を感じた。先ず第一に東金君よりも好い会社へ入らなければならない。ついてはモスリンなぞは問題でない。父もその意向だった。将来モスリンの後を継ぐにしても、それまでは中央で叩き上げる方が宜いと言った。しかし在学中悉皆すっかり調子を下していたものだから、一流会社の採用試験を受けるような成績でなかった。今更東金君を恨んでも仕方がない。百方運動して、二流の最上へ推薦して貰った。第一着手として会社の格式で東金君の鼻を明かす積りだったが、試験の日に出頭したら、東金君と顔を合せたのは実に意外だった。
「何だ? 一緒か? 驚いたな」
「よく/\の因果いんがだよ、これは」
「君もこゝへ来るようじゃ然う大した成績じゃないんだね」
「うむ。二流で一番好いところって註文をつけて置いたら、少し無理かも知れないが、まあ/\やって見ろと言うのさ」
 と東金君も全然同じ作戦だった。
 同じ会社へ入って競争するのは気の詰まる話だと思ったが、今更後へは引けない。先方が通って此方が落ちれば、もう負けたも同じことだ。直ぐに郷里くにへ響く。この採用試験で一気に運命が定る。何方も一生懸命だったと見えて、二人とも合格採用ということになった。実は両方落ちて右左へ別れたかったのだが、敵と味方だから、それまで話し合いをつけることが出来なかったのである。
 東金君は例の義兄の家から通勤し始めた。僕は万事鍛練という意味でアパート生活だった。独立独歩の決心は結構に相違なかったが、後見がないものだから、忽ち出し抜かれた。東金君は義兄の方の手蔓を辿たどって、逸早く社長令息と交際を結んだ。或は合格の方も義兄の背景が働いていたのだろう。社長令息は未だ平社員だけれど、若い連中におったてまつられている。親の光は七光り、その親が社長だから、特別扱いになっている。御本人も二言目には、
「親父が然う言っていたよ」
 と会社の枢機すうきらしいことに触れる。そのくせ仕事は些っとも分らない。僕は何も事情を知らなかったものだから、社長令息が苦手にがてにしている硬骨漢原口君と別懇になってしまった。気がついたときはもうおそかった。原口君が信用がないとすれば、原口君に引き廻される僕も信用がない次第わけだ。社長令息が何かの問題について、
「親父が然う言っていたよ」
 とお株を出した時、
「お母は何と言っている?」
 と原口君が聞いたのだそうだ。それも食堂で満座の中だったから、以来社長令息は原口君を睨んでいる。原口君自らは一向平気だ。喧嘩が元来好きだと言っていた。僕が東金君との経緯いきさつを打ち明けたら、
「それは面白い。一の力を貸そう」
 と申出てくれたが、決して出世の足しになる人でない。却って一緒に首になる心配がある。
 一年間は何事もなかった。東金君は社長令息のお取巻きになって、ゴルフや麻雀マージャンの勉強をした。附き合いが張るから丁度俸給ぐらい取寄せると言ってこぼしていた。お互は決して疎隔しない。知らないものからは親友に見える。しかし時折心の中が外に現れるのか、話が皮肉になる。
「緒方君、君、一遍社長令息のところへ伺候しないか?」
「さあ」
「令息は君に興味インタレストを持っているよ」
「何とか言っているのかい?」
「うむ。頭のでかい奴の御機嫌を取っている奴は何処の馬の骨だって」
「成程。原口君と交際するのが気に入らないんだね」
「先ずその辺だろう。注意して置く。少し控える方が宜いかも知れない」
「有難う。僕も注意して置く。この会社では頭の巨い奴よりも頭の悪い奴の機嫌を取る方が徳だから、精々やり給え」
 頭の巨い原口君は同時に頭が好い。僕より三四年の先輩で矢張り早稲田出身だ。僕を無暗に贔負してくれる。
「早稲田と慶応で村一番の競争とは面白いね。必ず勝ち給え」
「その決心です」
「こゝも早慶戦だ。七光りは慶応出身だから」
「しかし途中でやめたんだそうです」
「出身さ。何遍も落第して追い出されたんだから、これこそ本当の出身だろう」
「ハッハヽヽヽ」
「早稲田は堅棒けんぼうだよ。相手が社長令息だろうが何だろうが、実力で行く」
「僕もその心得です」
「しかし君は少しぼんやりしている。元来ういう性格かい?」
「さあ」
「敵の作戦計画がっとも分らない。もう少し目端めはしかせる必要があるだろう」
「何かやっているんですか?」
「盛んに課長の家へ出入りしている。何の為めか分るかね?」
「出世の為めです」
「無論然うだが、出世をさせてくれとは頼めない。その前に段取がある」
「何でしょう? それは」
「課長に然るべき背景のある嫁を探して貰う。重役の娘を貰えば一番手っ取り早いけれど、東金君は未だ一向認められていないから、それは出来ない相談だ。恐らく株主の娘だろう」
「成程」
「案外早く運ぶだろうと見ている」
 実際、原口君の予言通りだった。東金君はその夏結婚した。新婦は株主の娘だった。僕達は披露会に出席して、新家庭の幸福の為めに乾盃した。その折、東金君の両親姉妹が悉皆すっかり揃っていた。会が終ってから、僕は皆に挨拶した。鶴子さんには特別だった。
「鶴子さん」
「何あに?」
「久しぶりですね」
「はあ。悉皆お変りになってしまって、私、お見違いするくらいでした」
「情けないですな」
「いゝえ、学生服と違いますから」
「有難う。失礼します。又お父さんに叱られるといけません」
 この光景を見ていた原口君は後から鶴子さんのことを訊いた。僕は心境ありのまゝを話した。
「それじゃ君は貰いたいんだろう?」
「しかし事情が事情だから諦める外はない」
「貰い給え。僕はあの令嬢と君の気合を見ていて、これは肝胆相照らしていると思った」
「僕も嫌われてはいない積りだけれど」
「そんな消極的なことじゃ仕方がない。早稲田は堅棒だ」
ほかのことと違って、こればかりは縁だからね。お互同志は兎に角、はたが承知しない」
「縁を逆転させるんだ。僕が一の力を貸そう」
 原口君は何でも自ら進んで引受けてくれる。天下のこと何でも自分の思い通りになるように言うけれど、実は然うは行かない。しかし僕は原口君に励まされると元気が出る。それ丈けで満足だった。気が弱いから、斯ういう応援団のような相談役が必要だ。それに僕と違って目端が利く。何処へ触鬚しょくすを差し込むのか、東金君の動静を一々手に取るように探って来る。
 又半年たった。僕の形勢は差当り好くない。東金君は重役の媒酌ばいしゃくで大株主の令嬢を貰ったという評判が郷里くにの連中に強い印象を与えたのである。課長が重役になって、中株主が大株主になっている。僕も背景の利くのを貰って見返してやるのが本当だけれど、鶴子さんのことを考えているのだから、この点はお話にならない。お前もしっかりするようにと母が言って寄越した。東金君を学べという意味だろう。
「君、東金君のところは早い。もう出来たらしい」
 と原口君が言った。
「子供かい?」
「うむ。奥さんはツワリという奴で機嫌が悪い。随分無理を言うけれど、仲人が課長だから、東金君は頭が上らない」
「それは覚悟の前だろう。出世のつるだ。我儘を言っても、大切だいじにしなければなるまい」
 或日、東金君は鼻に膏薬を張って出勤して、皆の注目をいた。交通事故に引っかゝって、大難が小難で済んだという説明だった。しかし二三日たってから、夜分晩く僕のアパートへ訪ねて来て実情を打ち明けた。友情を誓って油断をさせる為めか、時々如何にもわだかまりないように話し込む。しかし※(二の字点、1-2-22)わざわざやって来たのは初めてだった。
「君、君は忘れても上役の仲人で嫁を貰うんじゃない。まさか縁談は始まっちゃいまいな」
「うむ。大丈夫だ。しかし何うしたんだい?」
「僕は後悔している。さいが言うことを聞かなくても、課長の手前、グイッと押え切れない。益※(二の字点、1-2-22)増長して、この間はこれだよ」
 と東金君は膏薬張りの鼻を指さした。
「夫婦喧嘩をしたのかい?」
「うむ。思い切って説諭したら、口答えをするんだ。東京の女は口が達者だ。僕は遣り込められて、口惜しまぎれについ肩を押したんだ。すると組みついて来て、鼻にみついた」
「乱暴だね」
「あなた、腕力をお出しになりましたね。課長さんを呼んで来ますから、と言って出て行ってしまった。課長のみならず、親父までつれて来た。妻は僕には喋らせない。一人で滔々とうとうと述べ立てる。僕は悉皆悪者になってしまった。親父が『金一さん、その鼻は一体何うしたんですか?』と訊いたけれど、まさかあなたの娘に咬まれましたとも言えない。然う言わせまいと思って課長が睨んでいる」
「何と言ったんだね?」
「これは自分で咬みましたって」
「馬鹿だな。ハッハヽヽ」
「少し慌てたんだ。しかしそんなものだよ。何しろ課長が仲人だから家庭の不取締りが会社の地位に響く」
「君は矢っ張り僕の妹を貰うと宜かったんだよ」
「…………」
「ハッハヽヽ」
 と僕は聊か思い知らせてやった。
「君、実はその問題について、原口君から話があった」
「ふうむ」
「僕も考えている。しかし君が知っている通りの親父だからね」
とてもむずかしいと思うけれど、僕一人としては今でも充分意思があるよ」
「原口君から詳しく聞いたよ。実は鶴子は方々から縁談があるけれど、何処へも行かないと言っている。僕は責任を感じる。これは、君、関係が中学時代へ戻るよ」
「何ういう意味だい?」
「実は僕はあの時、本気だったから、鶴子に君のところへお嫁に行けと言ったんだ。未だ尋常三四年だったが、一夫さんのところなら行くわと答えた。無論まゝごとみたいな話だけれど、何うもそれが鶴子の頭に残っているのらしい」
「ふうむ」
「何となく君がいんだ。しあの時から今まで然う思い込んでいるのだとすれば、僕は重大な責任を感じる」
「…………」
「兎に角、僕は愚痴をこぼしながら、昨今の心持を理解して貰いたいと思って来たんだ。誠意を認めてくれるだろうね?」
「認めるとも」
「実はその後何かの切っかけで変心して、村一番になろうと思ったが、親父の計画通りにやっても、子供が不幸になるばかりだ。義兄は案外の道楽者で、姉は苦労が絶えない。義弟の方は申分ないけれど、しゅうとめがむずかしいものだから、郁子は泣いてばかりいる。僕だって鼻を咬まれるような騒ぎだから、これから先が思いやられる」
「因果だね、お互は。鶴子さんが来てくれる気で僕が貰う気でも、親同志の納得ってことはとても想像がつかない」
「僕に一つ考えがある」
「何だい?」
「君もこのまゝ嫁を貰わないで待っている。鶴子もこのまゝ何処へも行かないで待っている」
「成程」
「両方で持て余すよ。僕の親父が我を折れば、君のところでも考えてくれるだろう」
「しかし鶴子さんは大丈夫かい?」
「無論僕が確かめる」
「それは好い方法だ」
「もう一つあるんだ。君が行って鶴子をさらって来る」
「そんな乱暴なことは出来ない」
「これは頭のでかい人の考案だ」
「ふうむ」
「村一番の競争なんてことは愚の骨頂だよ。その為め子供が犠牲になる」
「君は本心だろうね?」
「未だ疑うのかい?」
「いや、念を押したんだ。それじゃ僕も断然思い切る」
「有難い。鶴子を救ってやってくれ」
「僕が救って貰うんだよ」
「親の心子知らずだと思うだろうけれど、子の心親知らずってこともあるね。僕達は子供の頃からこの問題では随分尽している」
(昭和十一年九月、冨士)





底本:「佐々木邦全集 補巻5 王将連盟 短篇」講談社
   1975(昭和50)年12月20日第1刷
初出:「冨士」大日本雄辯會講談社
   1936(昭和11)年9月
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:芝裕久
2021年7月27日作成
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