僕と東金君は同じ村に生れた。僕の家は村一番の豪農だった。先祖代々
当時頭を
僕の家には忠八という
「
これが忠八のおはこだったが、六つや七つの子供には意味が徹底しない。見返すと言うからには、その頃からもう多少此方が引け目になっていたのだろう。
「東金は悪いの?」
「成り上りです」
「成り上りって?」
「生意気です。村一番って顔をしています」
「東金の店は立派だね」
「それだから一夫さんが今に見返してやるんです」
「今でも見返すよ。あんな立派な店だから、前を通ると、何うしても見返す」
その頃、僕は未だ東金君と交渉がなかった。同じ
「一夫さん、一番にならなければなりませんぞ」
「なるとも」
「東金の金さんに負けないように」
「大丈夫だ」
「東金は矢っ張り慾張っています」
「何故?」
「苗字が東金で名が金一です。子供の名前で
「忠八は東金が本当に嫌いだね」
「斯うなっちゃ負けられません。爺やは毎日八幡さまへお詣りをします」
と忠八は一生懸命だった。八幡さまへ日参を始めた。忠八は確かに彼一流の方法で僕の教育を心掛けてくれた。他のものゝように、僕を決して坊っちゃんと呼ばない。坊っちゃん育ちになると困るという考えだった。
東金君の方も成績が心配だったと見えて、八幡さまへ願をかけた。八幡さまは僕の家の近くだ。僕の家は八幡前の
「仲よくして下さい」
という依頼だった。身体は僕の方が大きい。喧嘩なら勝つ。
僕の母は
「奥さん、奥さんは緒方家と東金家が何ういう関係になっていると思っていらっしゃるんですか?」
「何ういう関係って?」
「奥さんは隣り村からお嫁にお
「昔は昔、今は今。そんなことは何うでも宜いでしょう」
「いゝえ、もっての外です」
「行っちゃいけませんの?」
「この忠八が不承知でございます。家来が殿様のところへ来ても、殿様が家来のところへお礼返しに行くという法はありません。この辺の理窟は旦那さんに伺って戴きましょう。
「何うするの?」
「お暇を戴いて、
いつにない権幕に母も驚いた。忠八は僕が言うことを聞かないと、西国巡礼に行くと言って脅す。僕は本気にしておとなしくする。忠八はそれを母に応用したのだ。丁度そこへ父が帰って来たから相談したら、行くには及ばないということだった。のみならず、父は不機嫌な面持をして、母を睨みつけた。
「何ういう料簡だね? お前は」
「別にこれってこともございませんけれど」
「東金はこの頃増長している。会へ行って一緒になると平気で俺の
「旦那さん」
と忠八が拳を固めて乗り出した。
「何だ?」
「俺、行って一つ打っ
「馬鹿を言うな」
「癪に障りますよ。村一番だと吐かしているんですから」
「その積りらしいから
「でもこの分じゃ
「何うして?」
「旦那は出す方の競争ばかりなさる。八幡さまの改築だと言えば、それ、百円。ポンプを買うと言えば、それ、百円。東金は五十円です。何でも半分で逃げて置いて、取る方の競争じゃ決して負けません」
「まあ/\、見ていろ。今に
忠八の日参にも拘らず、僕の初めての成績は十番だったと覚えている。上の方は皆小作の子供が占領してしまった。東金君は十二番だった。これには忠八、大喜びをした。それから僕と東金君は上になったり下になったりしたが、いつも十番以下だから、何方が勝っても問題にならない。水車場の息子が一番で通したのみならず、全校切っての成績だったものだから、注意がその方へ向いてしまった。此方は何うでも宜いと思ったのが油断で、席次がドン/\下る。
「
と言って、東金君が泣きそうになった。
「待ち給え。君がやると罪が重くなるから、僕がやってやる」
「何をやるんだ?」
「まあ/\、見てい給え」
僕は友情を示す責任を感じたのである。しかし何うして宜いか分らない。頻りに首を傾げていたら、校庭の外の大根畑が目についた。僕は大根を一本抜いて来て、校長室の窓から投げ込んだ。今考えて見ると馬鹿な話だけれど、他に分別が浮ばなかったのである。遊び時間だから皆が見ていた。先生に捉まって、今度は僕の母が呼び出された。申訳ないと言って、校長先生にあやまっているところへ、
「恩返し」
という声が聞えて、大根が飛び込んで来た。東金君が恩を返したのだった。僕達は成績の競争どころでなく、この通り、いたずらの相棒として小学校時代を過したのだから、決して仲の悪いことはない。
僕達は中学校へ通い始めた。毎朝誘い合って、一里ばかり西の町へ自転車で出掛ける。村の腕白者も
「成績の方も
と僕が言ったら、東金君は、
「いや、村の名誉は関君に委せて置く。関君がやってくれるよ」
と答えた。関君は水車場の息子だ。余り頭が好いから上の学校へ送りたいと言って、校長先生が奔走した。最初東金君のお父さんを訪れて、関君の成績を話した後、町の商業学校へ通う学資を補助してやってくれまいかと頼み込んだ。校長先生が教育に従事して以来、見たことのない模範児童だというのだった。東金君のお父さんは無論断った。出す方の競争はしない主義だった。校長先生は次に僕の父に相談した。父は怒ったそうだ。
「何故
「別に意味はありません。あなたは今までに随分出していらっしゃるから、今度は東金さんに出して貰いたいと思いました」
「成程」
「私は長らく校長を勤めていますが、斯ういうお願いは一度もしたことがありません。しかし今度は惜しいです。私も関の為めに幾分負担したいと思っています」
「それには及びませんよ。俺が引受けましょう」
「御迷惑をおかけして、恐縮千万ですが、何分宜しく」
「何あに、後進の為めです。もうありませんか? あなたが上の学校へ進めたいとお思いになるような秀才は」
「ございません。関一人です」
「幾らでも出しますよ」
と父は出す方の競争では決して負けない。
僕が中学校の三年生になった頃、忠僕の忠八が死んだ。長く
「一夫さん、長々お世話になりました。忠八はイヨ/\
と言った。今度は巡礼でない。死ぬという意味だった。
「そんな気の弱いことじゃ駄目だよ。しっかりするんだ」
「いや、もういけません」
いけないことは分っていた。僕は涙を
「一夫さん、勉強して
「うむ」
「モスリンの社長さんのような人になって下さい。然うすれば
「うむ」
「東金を見返してやって下さい。
「忠八、遺言なんてことはないんだ。もっと元気を出すんだ」
「いや、もう駄目です」
僕は忠八の遺言が身に沁みて、東金を見返す決心を固めた。その頃、村一番の競争が益

「
「いや、緒方だろうよ。
「しかし東金は倉を建て増した」
「緒方は東京を控えている。交際が好い。格式が違う」
「格式より実力だ。東金はガッチリしているから、詰まりは勝ちを
「それは現金は東金の方があるらしい。田地は昔古来の緒方だ」
「その昔古来が抵当に入ってモスリンの株に代っているって話だからな」
要するに、緒方は格式、東金は実力というのが定評のようだった。僕も思い当るところがあった。僕のところと東金君の家は確かに行き方が違う。
僕と東金君は相変らず仲が好かった。家同志の競争を知っていても、問題に触れない努力をした。しかし三年生になってから、僕が勉強して一躍四五番上ったら、東金君は気がついたと見えて、早速抗議を申入れた。
「出し抜いたね、君は」
「いや、そんな
「黙っていれば下る。僕は六番下ってしまった」
「何方にしたって中軸だ。五十歩百歩ってところだから問題にならない」
「…………」
「この次は僕が下って君が上る番だろうから、恨みっこなしさ」
「僕は今まで君の友情を疑ったことがないんだけれど」
「それじゃ僕が友情に
「兎に角、約束を破っているんだから」
「何ういう約束を?」
「一年の時、君は勉強しようと言い出した。しかし僕は反対したろう?」
「うむ」
「村の名誉は関君に委せようと言ったら君は関君を褒めたじゃないか? それで僕は
「関君を褒めたって、勉強しない約束にはならない。関君なら無論村の名誉になるような成績を取ってくれるだろうと言った丈けだから」
「それじゃ君は勉強したんだね? 今度は」
「少しはやったよ」
「見給え。嘘をついている。今、黙っていたら、偶然に上ったと言ったばかりじゃないか?」
「…………」
「これからは
「何うしたんだい?」
「君に負けたからさ」
「今までだって、僕の方が始終二三番上だったじゃないか?」
「併し今度は開きが違う。君が上って僕が下ったから、十三番違ってしまった」
「それは、君、無理だよ。僕の責任にされちゃ困る。僕は怠ける約束なんかした覚えはないんだから」
「怠ける約束じゃない。勉強をしない約束だ」
「そんな約束をした覚えもない。勉強するのは生徒の本分だ」
「それぐらいのことは僕だって分っている」
「分っているなら、そんな変なことを言わなくても
「君は僕の心持が分らないんだ」
「何ういう心持だい?」
「…………」
東金君は答えなかった。黙って帰って行ってしまった。成績発表直後、

「君、
「僕もあれから考えた。成程、堅い約束はしなかった。しかし僕はその積りでいたんだから同じことだよ。君は矢っ張り勉強しない方が宜い。僕も今まで通りに怠けるから」
「何故?」
「僕は成績よりも友情が大切だと思う。君とは小学校から一遍も喧嘩をしたことがない。僕は君を兄貴と思っているんだ」
「兄貴なら僕が上になっても宜いだろう」
「二三番の違いなら構わない。しかし十番から違うと、親父の機嫌が悪くて困る」
「君も少しやれば宜いじゃないか? 直ぐに追いつくよ」
「いや、僕は君を負かしたくない」
「何故? 兄貴だからかい?」
「うむ。君の方が早生れだ」
「そんな遠慮はよしてくれ給え。僕は君のお
「君は東京へ行く気か?」
「うむ」
「又約束を破ったな、この野郎」
「野郎とは何だ?」
「
「君は
「…………」
「君は何でも
「それは君の勝手だけれど、僕は君と競争したくないんだ。しかし君が行けば僕も行くことになるんだから」
「行けば
「君は僕の心持が分らないんだね?」
「何んな心持だい? 君は
「それじゃ思い切って話そう。しかし君の家で言えないことは僕の家でも言えない。外へ行こう」
「喧嘩か? 君は」
「それだから君は僕の心が分らないと言うんだ」
東金君は泣きそうな顔をして立ち上った。僕は東金君について裏へ出た。東金君は青田の中の
「君、何処へ行くんだい?」
「もう少し先まで」
「この辺で宜いじゃないか? 誰も人がいないから」
「こゝは僕のところの田だよ」
家では言えないという意味の延長らしかった。東金君は間もなく立ち止まって、
「君、こゝは君の家の田だろう?」
「うむ」
「駄目だ。もっと先へ行こう」
と言って、又歩き出した。
二人は
「緒方君、この松は二本昔から仲よく生えているんだよ」
「うむ」
「あゝ、夕焼が綺麗だ。この塩梅じゃ明日も好い天気だろう」
「うむ」
「今は照り続ける方が
「君、そんなことよりも話を聞かせてくれ給え」
「僕は言いたくないんだけれども仕方がない。憤らないでくれ給えよ」
「構わないよ。言って貰わなければ、君の心持がいつまでも分らない」
「それじゃ言おう。宜いかい?」
「宜いとも」
「君の家と僕の家は村一番の競争をしている。これは君も知っているだろう?」
「うむ」
「僕は何方が一番でも構わないと思っている。そんな行きがかりは詰まらないことだと思っているんだけれど、君の考えは何うだね?」
「僕も
「親父同志は兎に角、子供同志も競争ってことになると、お互の友情がなくなる。僕の親父は君のお父さんのことを今に東京の人に
「…………」
「気の毒なら教えてやれば宜いのに、黙って見ているんだ。しかし君のところでも屹度僕の親父のことを悪く言っているだろう?」
「競争だから無論よくは言わないさ」
「何と言っている?」
「さあ」
「僕も一つ言ったから、君も一つ言ってくれ給え」
「東金さんは道連れが悪いから心配だと言っているよ」
「ふうむ。誰だい? その道連れは」
「
「
「ハッハヽヽ」
「君、そこを一つ考えてくれ給え。親同志は何うでも僕達は親友だ。詰まらない競争なんかしたくない。君は何うか知らないが、僕は小学校時代から考えているんだ」
「僕も考えているよ」
「君と僕が気をつければ、親同志も分って来る。
「僕のところでも然うだ。君のお父さんのことを兎に角人物だと言っている」
「お互に認めているんだ」
「家同志のことは僕達が心配したって仕方がないよ。それよりも学校の方だ。僕は競争はしないけれど勉強をする」
「しかし君が勉強すれば、僕も勉強するから競争になる」
「それは違う。僕は上の学校へ行く都合だ。入学試験があるんだから」
「僕も上の学校へ行く」
「両方で勉強すれば宜いじゃないか? 村一番なんてことは眼中にない。お互に立派な人間になるのが目的だ」
「理窟はそれに相違ないけれども」
「もう君の家が村一番だよ。実力は東金ってことに
「しかし僕のところは格式がない。君のところは親類が
「今に東京に皆取られてしまうんだよ」
「あれは冗談だ。ハッハヽヽ」
「君、もう日が暮れる」
「待ち給え、もう一つあるんだよ」
「何だい?」
「僕は君に妹があれば
「何故?」
「貰うよ。それが一番早い。お互に親類になれば村一番も何もない」
「しかしないから仕方がない」
「僕のところには二人ある」
「何だい? ハッハヽヽ」
「僕は本当に考えているんだぜ」
「よせよ。詰まらない」
僕達は尚お
当時東金家は商売が繁昌して、益

「
と
「東金も格式が出来た。娘さんの嫁入り先のお母さんは華族さんから来ているそうだ。して見れば華族さんと親類になった
という評判だった。僕は少し心配になった。既に実力がある上に格式がついては
「君、早稲田は到底慶応の敵じゃないよ」
と真向から来た。無論早慶戦のことだった。早稲田が大敗したシーズンの直後だったから、僕は一言もなかった。此奴、野球に
「第一、スタンドの色彩が違うだろう。僕の方は百花爛漫だ」
「さあ」
「華族社会は皆慶応のファンだそうだ。○○子爵令嗣が言っていた」
「僕の方は大衆の支持がある。芝生を見給え。一杯だ」
「数より質の問題さ。僕の方のスタンドには
「同級生かい? 令嗣は」
「いや、東京の義兄の親類さ」
「然う/\、今度は姉さんがお芽出度う」
と僕は祝意を述べた。
「有難う。君のところからお祝いを戴いた」
「僕は一昨日帰って来て、初めて聞いたんだ。華族さんへ行ったんだってね」
「違うよ。僕達と同じ平民だ」
「しかし然ういう評判だぜ」
「お母さんが○○子爵夫人の妹さんの
「成程」
「令嗣も義兄も慶応出身さ。先輩だから都合がよい」
「姉さんは綺麗だから、東京へ行っても大威張りだろう」
「うむ。
「
「先ずその辺だろう。しかし提燈と釣鐘だ。
「ふうむ」
「僕は驚いたよ」
と東金君は義兄の家庭の贅沢振りを話し始めた。
しかし僕達の交際はそれから三四年間一向変化がなかった。東金君は兎に角、僕は後の方の一両年多少努力する傾向があった。というのは東金君の直ぐ下の妹の
その折から、東金では又郁子さんを東京へ片付けるという噂が伝わって来た。僕としては大恐慌だった。丁度冬休みで
「君、郁子さんの縁談が評判になっているようだが、本当かね?」
「
「ふうむ?」
「矢っ張り東京だ。姉が世話をしてくれた。義兄の従兄で今度は帝大出身の秀才だ」
「皆東京へやってしまうんだね」
「うむ。女の子を草深い田舎へ置くのは可哀そうだ」
「…………」
「僕は親父と相談して方針を定めた。妹は皆東京へやる。その代り嫁は必ず東京から貰う」
「随分勝手だね。草深い田舎へ来る人が可哀そうじゃないか?」
「僕は村にいたくない。東京だよ。君、生活は」
「思想が変ってしまったんだな」
「何故?」
「君は僕に妹があれば貰うと言っていたじゃないか?」
「成程ね。しかし君はないから仕方ないと言ったよ」
「言った。しかし未だその先があったぜ」
「詰まらないことを覚えているんだね。ハッハヽヽ」
と今度は東金君が一笑に附してしまった。僕としてもその折問題にしなかったのだから、今更苦情を持ち込める義理でない。そのまゝ行き詰まったところへ、郁子さんがお茶を運んで来た。
「郁子さん、お芽出度う」
「まあ!」
「東京ですってね?」
「えゝ。オホヽヽヽ」
と郁子さんは袂で顔を
もうこの辺で東金家の意向が分る筈だ。僕は余程お人好しだと見える。それから二年たって僕達の卒業が近づいた頃、東金君の一番末の妹の鶴子さんが女学校の五年生になっていた。郁子さんに
「兄さんは慶応でも、私は早稲田よ。早稲田ファンよ、野球でも何でも」
と頼もしいことを言う。或日、東金君を訪れたら、不在だったが、間もなく帰るから上って待つようにと鶴子さんが気を
「やあ。一夫さんですか?」
と驚いた風をして、
「鶴子や、お前は
と命じた。それからむずかしい顔をして席について、
「一夫さん、あなたは大学教育を受けていらっしゃるんですから、礼儀作法は一通り御存じでしょう?」
「はあ」
「金一の留守中に上り込んで鶴子とお話しになっちゃ困りますよ」
「…………」
「気をつけて下さい。
「はあ。御懇意に願っているもんですから、つい金一君を待つ積りで上らせて戴きました。申訳ありません」
と僕はあやまって、
僕達は間もなく卒業した。僕は決心の臍を固めた。村一番の競争は今や
「何だ? 一緒か? 驚いたな」
「よく/\の
「君もこゝへ来るようじゃ然う大した成績じゃないんだね」
「うむ。二流で一番好いところって註文をつけて置いたら、少し無理かも知れないが、まあ/\やって見ろと言うのさ」
と東金君も全然同じ作戦だった。
同じ会社へ入って競争するのは気の詰まる話だと思ったが、今更後へは引けない。先方が通って此方が落ちれば、もう負けたも同じことだ。直ぐに
東金君は例の義兄の家から通勤し始めた。僕は万事鍛練という意味でアパート生活だった。独立独歩の決心は結構に相違なかったが、後見がないものだから、忽ち出し抜かれた。東金君は義兄の方の手蔓を
「親父が然う言っていたよ」
と会社の
「親父が然う言っていたよ」
とお株を出した時、
「お母は何と言っている?」
と原口君が聞いたのだそうだ。それも食堂で満座の中だったから、以来社長令息は原口君を睨んでいる。原口君自らは一向平気だ。喧嘩が元来好きだと言っていた。僕が東金君との
「それは面白い。一
と申出てくれたが、決して出世の足しになる人でない。却って一緒に首になる心配がある。
一年間は何事もなかった。東金君は社長令息のお取巻きになって、ゴルフや
「緒方君、君、一遍社長令息のところへ伺候しないか?」
「さあ」
「令息は君に
「何とか言っているのかい?」
「うむ。頭の
「成程。原口君と交際するのが気に入らないんだね」
「先ずその辺だろう。注意して置く。少し控える方が宜いかも知れない」
「有難う。僕も注意して置く。この会社では頭の巨い奴よりも頭の悪い奴の機嫌を取る方が徳だから、精々やり給え」
頭の巨い原口君は同時に頭が好い。僕より三四年の先輩で矢張り早稲田出身だ。僕を無暗に贔負してくれる。
「早稲田と慶応で村一番の競争とは面白いね。必ず勝ち給え」
「その決心です」
「こゝも早慶戦だ。七光りは慶応出身だから」
「しかし途中でやめたんだそうです」
「出身さ。何遍も落第して追い出されたんだから、これこそ本当の出身だろう」
「ハッハヽヽヽ」
「早稲田は
「僕もその心得です」
「しかし君は少しぼんやりしている。元来
「さあ」
「敵の作戦計画が
「何かやっているんですか?」
「盛んに課長の家へ出入りしている。何の為めか分るかね?」
「出世の為めです」
「無論然うだが、出世をさせてくれとは頼めない。その前に段取がある」
「何でしょう? それは」
「課長に然るべき背景のある嫁を探して貰う。重役の娘を貰えば一番手っ取り早いけれど、東金君は未だ一向認められていないから、それは出来ない相談だ。恐らく株主の娘だろう」
「成程」
「案外早く運ぶだろうと見ている」
実際、原口君の予言通りだった。東金君はその夏結婚した。新婦は株主の娘だった。僕達は披露会に出席して、新家庭の幸福の為めに乾盃した。その折、東金君の両親姉妹が
「鶴子さん」
「何あに?」
「久しぶりですね」
「はあ。悉皆お変りになってしまって、私、お見違いするくらいでした」
「情けないですな」
「いゝえ、学生服と違いますから」
「有難う。失礼します。又お父さんに叱られるといけません」
この光景を見ていた原口君は後から鶴子さんのことを訊いた。僕は心境ありのまゝを話した。
「それじゃ君は貰いたいんだろう?」
「しかし事情が事情だから諦める外はない」
「貰い給え。僕はあの令嬢と君の気合を見ていて、これは肝胆相照らしていると思った」
「僕も嫌われてはいない積りだけれど」
「そんな消極的なことじゃ仕方がない。早稲田は堅棒だ」
「
「縁を逆転させるんだ。僕が一
原口君は何でも自ら進んで引受けてくれる。天下のこと何でも自分の思い通りになるように言うけれど、実は然うは行かない。しかし僕は原口君に励まされると元気が出る。それ丈けで満足だった。気が弱いから、斯ういう応援団のような相談役が必要だ。それに僕と違って目端が利く。何処へ
又半年たった。僕の形勢は差当り好くない。東金君は重役の
「君、東金君のところは早い。もう出来たらしい」
と原口君が言った。
「子供かい?」
「うむ。奥さんはツワリという奴で機嫌が悪い。随分無理を言うけれど、仲人が課長だから、東金君は頭が上らない」
「それは覚悟の前だろう。出世の
或日、東金君は鼻に膏薬を張って出勤して、皆の注目を

「君、君は忘れても上役の仲人で嫁を貰うんじゃない。まさか縁談は始まっちゃいまいな」
「うむ。大丈夫だ。しかし何うしたんだい?」
「僕は後悔している。

と東金君は膏薬張りの鼻を指さした。
「夫婦喧嘩をしたのかい?」
「うむ。思い切って説諭したら、口答えをするんだ。東京の女は口が達者だ。僕は遣り込められて、口惜し
「乱暴だね」
「あなた、腕力をお出しになりましたね。課長さんを呼んで来ますから、と言って出て行ってしまった。課長のみならず、親父までつれて来た。妻は僕には喋らせない。一人で
「何と言ったんだね?」
「これは自分で咬みましたって」
「馬鹿だな。ハッハヽヽ」
「少し慌てたんだ。しかしそんなものだよ。何しろ課長が仲人だから家庭の不取締りが会社の地位に響く」
「君は矢っ張り僕の妹を貰うと宜かったんだよ」
「…………」
「ハッハヽヽ」
と僕は聊か思い知らせてやった。
「君、実はその問題について、原口君から話があった」
「ふうむ」
「僕も考えている。しかし君が知っている通りの親父だからね」
「
「原口君から詳しく聞いたよ。実は鶴子は方々から縁談があるけれど、何処へも行かないと言っている。僕は責任を感じる。これは、君、関係が中学時代へ戻るよ」
「何ういう意味だい?」
「実は僕はあの時、本気だったから、鶴子に君のところへお嫁に行けと言ったんだ。未だ尋常三四年だったが、一夫さんのところなら行くわと答えた。無論まゝごとみたいな話だけれど、何うもそれが鶴子の頭に残っているのらしい」
「ふうむ」
「何となく君が
「…………」
「兎に角、僕は愚痴を
「認めるとも」
「実はその後何かの切っかけで変心して、村一番になろうと思ったが、親父の計画通りにやっても、子供が不幸になるばかりだ。義兄は案外の道楽者で、姉は苦労が絶えない。義弟の方は申分ないけれど、
「因果だね、お互は。鶴子さんが来てくれる気で僕が貰う気でも、親同志の納得ってことは
「僕に一つ考えがある」
「何だい?」
「君もこのまゝ嫁を貰わないで待っている。鶴子もこのまゝ何処へも行かないで待っている」
「成程」
「両方で持て余すよ。僕の親父が我を折れば、君のところでも考えてくれるだろう」
「しかし鶴子さんは大丈夫かい?」
「無論僕が確かめる」
「それは好い方法だ」
「もう一つあるんだ。君が行って鶴子を
「そんな乱暴なことは出来ない」
「これは頭の
「ふうむ」
「村一番の競争なんてことは愚の骨頂だよ。その為め子供が犠牲になる」
「君は本心だろうね?」
「未だ疑うのかい?」
「いや、念を押したんだ。それじゃ僕も断然思い切る」
「有難い。鶴子を救ってやってくれ」
「僕が救って貰うんだよ」
「親の心子知らずだと思うだろうけれど、子の心親知らずってこともあるね。僕達は子供の頃からこの問題では随分尽している」
(昭和十一年九月、冨士)