ロマンスと縁談

佐々木邦




大海に釣らん


 会社に勤めること三年余、僕も少し世の中が分って来たような心持がする。公私、いろ/\と教えられるところがあった。
 こうに於ては、上のものに認められなければ駄目だと悟った。出世の階段を自分の足で一段々々上って行くのだと思うと違う。自分の足もあるけれど、上のものが認めて引っ張り上げてくれるのである。それだから空々寂々くうくうじゃくじゃくでは一生下積みを免れない。誠心誠意に努力するものが認められる。
 に於ても誠実が物を言う。僕は同僚との折合おりあいが好い。喧嘩をしてかえって別懇べっこんになったのもある。一杯飲んで胸襟きょうきんを開くと皆ういやつだ。渡る世間に鬼はないという諺はえらい。
 こゝで名乗って置くが、僕は姓は橘高きったか、名は庄三しょうぞうである。新年会の折、専務の名倉氏なぐらしが僕の姓名を利用して洒落しゃれを言った。僕はクジ引きで社長と専務の間に坐ってしまって、犬が屋根へ上ったような形だった。隠し芸の順番が廻って来た。社長が謡曲を唸った。僕は芸がない。あったところで、右に社長左に専務では仲間同志の時と違う。仕方なしに、もし/\亀よ、亀さんよを歌って笑われた。次に専務が立って、
「君、一寸ちょっと立ってくれ給え」
 と僕に言うのだった。僕は立った。すると専務が、
「橘高、庄さん、待ってた、ホイ」
 とやったのである。社長初め老輩が拍手喝采した。社長は秀逸だと言った。しかし若い連中は意味が分らなかったから黙っていた。社長が立って、
「情けないな。この頃の若いものは洒落が通じない。困ったものだ。僕が説明する。いゝかな。『来たか、庄さん、待ってた、ホイ』という人口じんこう膾炙かいしゃした文句があるんだ。名倉君はそれをもじったんだ。『橘高、庄さん、待ってた、ホイ』さ。うまいよ。当意即妙とういそくみょうじゃないか?」
 と推賞した。そこで皆改めて大いに笑った。
 以来、僕の姓名が会社中に知れ渡った。仲間同志でも、待ってたホイをやる奴がある。これによってこれを見るに、橘高庄三は社長重役の間に認められている。あにつとめざるべけんやだ。
 さて、同僚の女房について一言する積りだったが、同僚といっても、徳川時代の洒落の分るような頭の禿げたのは計算の外に置く。老輩は遠慮があるから、自然敬遠する。本当の同僚、即ち君僕の間柄が二十名近くいる。半数が世帯持で半数が独身だ。僕が特別に感じているのは、この世帯持連中が押しなべて平凡な女房に満足していることである。そう多くは会っていないが、時折偶然の機会で紹介されて、幻滅の感に打たれる。奴の材幹を持ってして、これは何うしたことだろうと沈吟ちんぎんさせられる。時に例外がある。このボンクラがと思っているのが素晴らしい細君に恵まれている。好妻拙夫こうさいせっぷという諺がうなずける。しかしこれは原則を証明する例外に過ぎない。若い同僚は押しなべて拙い女房につれそっている。
 探りを入れて見ると、みな仲人結婚なこうどけっこんだ。これあるかなと思った。持ち込まれると、そう/\贅沢を言えない。大概のところで堪能たんのうしてしまうから、拙いのを貰う。運の好い奴が麗人を引き当てる。
 此方はこれからだ。大いに自重じちょうする。仲人の持って来るクジは引かない。一々断っている。自分で探して、ロマンスで結婚する。一度しかない青春だ。釣堀の鯉や鮒は釣らない。大海の鯛を釣る。
 僕はこういう方針で就職以来心掛けているけれど、まだ手答えがない。その反対に時々軽い失策しくじりをする。初めタイピストの三輪さんにきつけられて、かなり懇意になった。皆も認めている麗人で、社長専属だ。来たか庄さん以来、僕に興味を持ったらしい。
「橘高さんなら堂々としていて、何処へ出しても立派なものよ」
 と言ってくれた。僕は映画会社が三輪さんを引っこぬきに来ないのが不思議だと言って、お世辞を使った。自信のある女性にはこの手で乗じる。効果百パーセントだ。会社の帰りを誘って、銀ブラをしたこともある。昼食後屋上で※(二の字点、1-2-22)しばしば話した。会社はビルディングの六階全部を借りている。
 雲の峯が立ちはだかっている夏の真盛りだった。屋上の展望は広い。
「三輪さん、自然は大きいけれど、人間は小さいですね」
 と僕は詩人めいた感想を洩らした。
「本当ね。何て雲でしょう! 凄いわ」
「雲の峯日本の夢も崩れけり」
「俳句?」
「えゝ」
「俳句をなさるの?」
「えゝ少しやります」
「あなたは文学青年ね、こう見えても」
「何う見えるんですか?」
「会社員ってことよ」
「僕は文学よりも哲学です。哲学者が生活の都合で会社員を勤めているんでしょう」
 同僚の有象無象うぞうむぞうとはいささせんことにするというところを印象づける積りだった。続いて人生問題から生活問題へ移った。話の切っかけが丁度好かったから、
「時に三輪さんも何うせ良妻賢母でしょうね?」
 と訊いて見た。
「えゝ」
 と三輪さんは無条件で答えた。
「簡単ですね。何か理想があるんだと思っていたら」
「そんな面倒なものないわ。もうきまっているのよ」
「はゝあ」
「オホヽヽヽ」
「本当ですか?」
「えゝ。従兄いとこよ。KOの医科を出て、助手を勤めながら論文を書いていますの。それが通り次第に」
「式を挙げるんですか?」
「えゝ」
「それはお芽出度いです」
「とてもい人よ。御紹介申上げましょうか?」
「いや、結構です。これはかなわない。ハッハヽヽ」
 と僕は笑ってごまかした。これが第一回の見込違いだった。第二回も第三回もある。宮下君は失恋だと言うけれど、そんな根柢こんていの深いものでない。単に不注意ケヤーレス。ミステークだ。失恋でない証拠に手傷少々も負わない。
 数ある若い同僚の中で、僕は宮下君と一番親しくしている。僕より二年おくれて入って来て、大学も二年後輩だ。君は先輩だから面倒を見てやってくれ給えと課長から頼まれた。僕は机を並べて、いささか指導してやった。初めは「橘高さん、あなたは」と言って敬意を表したが、僕は「橘高君、君は」と言うようにならなければいけないと注文をつけた。今日ではその限度を越して、「橘高、お前は」なぞと言い兼ねない。それ丈け肝胆相照らしたのである。
「君、そう失恋ばかりしていないで、仲人を頼む方が早いぜ」
 と宮下君がからかった。
「馬鹿を言うな。一世一代だ。ロマンスで行く。大海の鯛を釣る」
 と言って、僕は意気軒昂たるものがあった。如何に同僚の多くが拙い女房につれそっているかを話して聞かせた。
「実は僕も時々縁談があるんだけれど」
「けれども何だ?」
「満を持して放たずさ。まだ早い」
「早いとも。慌てることはないよ」
「しかし僕は兎に角、両親が急ぐんだ。僕のところは至って世間並で、早く孫の顔を見たい組だから」
「ロマンス辞退か?」
「うむ。それが少し残念だけれども」
「又けれどもか? おい。もう話が進んでいるんだろう?」
「いや、まだだ。始まれば必ず報告して、君の勘弁を仮りる」
 宮下君は僕のようなアパート住いと違って、東京に家がある。お父さんは官吏の古手だ。恩給がある上に、何処かに勤めている。しかし切りつめた生計だから、嫁を貰っても披露会なんかやれないと宮下君はそれを度々言うのだった。昨今のことだから、皆内輪にやっている。
「新婚旅行もやらない」
 と言う。
「おかしいぞ。君はこの頃そんな話ばかりしている」
 果して僕の推察の通りだった。或日、宮下君は、
「君、報告がある。屋上々々」
 と誘った。同僚は何かというと屋上を利用する。議論をした後、さあ、屋上へ来いと言った奴がある。
「何だい?」
「話が始まったんだよ」
「ふうむ。イヨ/\来たな」
「隣りの佐藤という人が持って来たんだ。断るばかりが能じゃないから、一つ考えて見ろとファザーマザーも言うんだ。佐藤氏は長く英語の先生をした人で、今は進駐軍の通訳を勤めている。ずっと以前に虎の巻を出して、それが当って家を建てたんだ。年来隣り同志だから、僕のところとは別懇の間柄だ」
 宮下君は仲人の履歴から説き起した。
「見合をするのか?」
「うむ。写真が気に入ったから、兎に角会って見ようと思う。見せようか?」
「何だ? 持っているのか?」
「肌身離さずって訳でもないが、君に鑑定して貰おうと思って持って来た」
 宮下君はチョッキの下から大きな台紙の写真を手繰たぐり出して突きつけた。僕は仔細にあらためて、
「ナカ/\好いじゃないか?」
「好いかい?」
「これなら好いよ。美人だ」
「美人とまでは行かなくても、相当トレラブルのところだと思う」
「相当以上だよ。学校は何処を出たんだい?」
「旧制の女学校と洋裁学校さ」
「年は?」
「二十二だ」
「丁度好いじゃないか?」
「申分ないと思うんだ。佐藤氏の昔の同僚の娘だよ。ファザーは恩給を取って、神田あたりの受験学校に勤めている。僕のところと似たり寄ったりだ。佐藤氏の娘さんの同級生だから、身許や性格は佐藤氏が絶対保証をしている」
 と言って、宮下君は徹底的に進んでいた。
 何のことはない。鑑定でなくて推薦を求めているのだった。何うだ? 参ったろうと言わないばかりだったから、心委こころまかせにする外仕方がなかった。それに釣堀の魚としては上乗のものと認められたから、僕は満腔まんこうの賛意を表して置いた。
 宮下君は早速見合をした。その報告で僕は又屋上へ引っ張られた。
「佐藤氏のところで会ったんだよ。写真よりも遙かに好いんだ。丈が高くてブロンド型だ。それだから洋装がよく似合う。君、君は suit to a Tスート・ツー・ア・テー ってフレーズを知っているだろう?」
 宮下君は英語が得意で、兎角英語を振り廻す癖がある。
「知らないよ」
suitスート は合う又は似合うで、テーT型定木テーがたじょうぎだ。T型定木を当てたようにキチンと合うって意味だ」
「成程」
「趣味もすべて一致している」
「話したのかい?」
「うむ。一時間ばかり水入らずに話した。ピアノがけるらしい。しかしそんなものを買ってくれなんて言われると大変だから、音楽は敬遠して文学を語った。小説は嫌いで哲学がかった論文が好きだと言うんだ。凄いよ。英語は相当出来るらしい。鑵詰のレッテルぐらい読めますよと言って笑っていたが、お父さんが矢っ張り英語の先生だから、うっかりすると、此方こっちより上かも知れない。話の中に英語を入れるんだ。それが一々適切だから感心してしまった」
「結局気に入ったんだね」
 と僕はもう好い加減にして貰いたくなった。雨がポツ/\降っていたのである。
「即決さ。先方も支度の都合があるだろうから、婚約期間を三月として、秋に式を挙げることに定めた」
「猛烈にはかどったんだね。見合ってのは一遍にそんなことまで定めてしまうものかね?」
「いや、そのまゝ別れて、決定は後日仲人から通告するのが本式だけれど、そんなことをしていると取り逃がす心配がある。現に僕の従兄はその手を食っている。先方の令嬢は見合をした翌日又別口の見合をして、その方が気に入ったものだから、スパリと断って来たそうだ」
「ふうむ」
「今の世の中は若い女性まで思想が険悪になっている。パーマネントをかけて美容術を施した序に、二つも三つも見合をして、その中から選抜するのがあるらしい」
「ハッハヽヽ。此奴は好い」
寸善尺魔すんぜんしゃくまだから善は急げということになる」
「しかしそんなのに選抜して貰っちゃ大変だよ。断りを食う方が仕合せだろう」
「それはそうだね。して見ると、少し慌てゝ見識を欠いたかも知れない」
「見識よりも誠意の問題だ。直ぐ気に入って直ぐ定めたんだから、先方も満足したろう」
「うむ。大いに感激していた」
「芽出度し/\だよ」
「前途が明るくなった。おい、何うしたんだ? 君は肩が濡れている」
「君だって濡れているよ。雨が降っているんだ」
「失敬した。下りよう」
 と宮下君も気がついた。
 早い結着だと僕は思った。土曜日に別れて月曜日に会ったら、もう一生の伴侶がきまっている。電光石火だ。昨日まで丈夫で、今日死ぬ人もある。しかしこれは無常迅速むじょうじんそくの不可抗力だ。結婚は問題が違う。自由選択がく。男性にしても女性にしても、初対面で堪能してしまっては、ロマンスも何もない。
「宮下君、君は結局するに仲人に餌をつけて貰って釣堀の魚を釣ったんだね」
 と僕はつい偽らざる感想を洩らした。
「うむ。その通りだ」
「正直なところを言うと、僕は少し期待が外れたよ」
「何故?」
「君は青春の特権のロマンスを頭から辞退したことになる」
「それが少し残念だけれど、僕も考えたんだよ。結婚も人生の実務ビジネスだ。矢っ張りガッチリと実務的ビジネスライクに行く方が安心だと思ったんだ」
「怪我はないね、石橋を叩いて渡れば」
「おい。異議があるのか?」
 と宮下君は語調をとがらせた。
「いや、異議はないけれど」
「けれど何だい?」
「僕は矢っ張り大海の魚を心掛ける」
「仲人は一切受けつけないか?」
「うむ。その代り急がない」
「僕も急いだんじゃないけれど、両親がやかましく言っている矢先に相当トレラブルな相手が現れたからこの機を逸したくないと思ったんだ。あれなら確かに十人並以上だよ。頭は無論好い。家庭と家庭が出ず入らずの貧乏ってことも釣合つりあいが取れる。縁談は英語でマッチだろう。要するにマッチだ。マッチ即ち釣合だ」
「おい。もう結構だよ」
 と僕は遮った。雨が強くなって来たのだった。

後から生れるロマンス


 宮下君は婚約者と交際を始めた。平日は会社があるから、日曜が書き入れだ。現金のようだけれど、もう君のお附き合いはしていられないと断った。僕は諒とした。宮下君の方から行ったり、郁子いくこさんの方から来たり、新宿で待ち合せて映画館へ入ったりするらしい。遠く郊外へすこともある。それを僕に詳しく報告する。一々然るべき相槌を打って傾聴する僕はかなり人が好い。
「君、僕は大発見をしたよ」
 と或日、宮下君が仕事半ばに注意を呼んだ。机が並んでいるから遁れられない。
「何だい?」
「ロマンスは婚約後にも発生するという事実さ。僕達は実に情緒纒綿じょうしょてんめんだよ。日曜を待ち切れない。月水金は僕が帰りに寄ることにしている。誂え向きに郁子さんのところは中野、僕は荻窪だろう。晩くなっても驚かない。昨夜は郁子さんが駅まで送ってくれた。手を引き合って歩きながら、夏の月夜ってものはロマンチックですわねと郁子さんが言うんだ。お互に愛人のようですねと僕が言った。あら、愛人でなくて何? って訳さ。佐藤氏なんか何処かへふっ飛んでしまったよ」
「結構だね」
 僕は応答に困ると、結構だねで間に合せる。宮下君は愛人との会話を文字通りに引用して主張を証明した後、
「君、それだから、いつまでもモヤ/\していちゃ損だよ。大海の魚を諦めて、釣堀の魚を釣る方が早いよ」
 と忠告的態度に出た。
「自分の池へ水を引くのかい?」
「ロマンスは婚約後にも立派に起る。僕達は情緒纒綿たるものがあるんだ」
「同じことを幾度言うんだい? 寝呆けちゃいけない」
大切だいじのところだから繰り返したんだ。僕は実は君と同感で、仲人という形式を愚なものと思っていたんだ。しかし実際を踏んで考えて見ると、これは矢っ張り必要が生んだ母だと思うんだ」
「それも変だよ」
 と僕は又挙げ足を取ってやった。
「間違った。必要という母が生んだ大発明だと訂正する。考えて見給え。そう/\皆がロマンスで行けるか? 忙しいんだ。仕事があるんだ。ロマンスの相手を探してばかりはいられない」
「心掛けている中に行き当るんだよ」
「ナカ/\行き当らないんだ。同僚の面々を見ても分っている。十中九まで仲人結婚だろう。それが自然の数だ。君、たとえで行こう。仮りにこゝに鰻を食べたい人があっても、仕事が忙しいから、川へ鰻を釣りに行っていられない。そこで必要が鰻屋ってものを発明したんだ。これは君も認めるだろう?」
「認める」
「鰻も天然鰻は釣り切れない。鰻屋が釣るんじゃないけれど、釣る人間がそう/\は釣り切れない。そこで必要が養鰻ようまんを発明してくれたんだ。種々いろいろと改良を施した結果、今日の養鰻は天然鰻に劣らない。仲人結婚もそうさ。昔とは違う。僕達はもう仲人をおっぽり出してしまったぜ。ロマンス結婚以上のロマンスが展開しているんだ」
「変なところから議論を持って来たんだね」
「釣堀で満足することだよ。大海へ出るなんて言っても、容易なことじゃない。漁師だって釣れない日がある。それを片手間でやろうってのは無謀だよ。先ず釣堀へ行くのさ。註文通りの魚が釣れる。釣って置けば、ロマンスが必ず生れて来る。天の配剤は実にうまく出来ている」
 と宮下君は啓蒙の積りで、大いに説くところがあった。
「おい。橘高君、養鰻だの釣堀だのって、一体君達は何の話をしているんだ?」
 と背中合せの同僚が割り込んだ。
「ハッハヽヽ」
「何だい? 釣魚つりなら僕も好きだ」
「いや、宮下君は婚約が定って、無暗に気が荒くなっているんだよ」
 と言って、僕は応援を求めた。一人で引受けていてはやり切れない。
 宮下君は婚約期間の交際を充分に楽しんで、九月に式を挙げた。やらないと言っていた新婚旅行をやって、一週間休んだ。但しこれは年に一週間貰える休暇を利用したのだから、持ち出しにならなかった。披露はやらない。事後報告で簡単に済ませた。
 しかし親しい同僚は黙っていられなかった。有志十数名が醵金きょきんして、ナイフやフォークのセットを求めた。責任を感じさせない熱意で、軽少を期したのである。それを祝意と共に新家庭へ取次ぐ役を僕が仰せつかった。
 宮下君のところへは二三回行ったことがある。打ち合せて置いて、日曜の朝早く荻窪へ向った。宮下君は貧乏を吹聴ふいちょうするけれど、相当の家に住んでいる。仲人の佐藤氏が頭の中にあったから、僕は先ず隣りの家の前に歩を止めた。虎の巻で建てた家だという興味も手伝った。流石さすがに立派だと思った。標札が古びていてハッキリ読めない。門へ進み寄ってよく見たら、
「やあ!」
 と驚いた。佐藤量順さとうりょうじゅんとある。郷里くにの中学校で英語を習った先生と同姓同名だ。長く英語の教師をした人だと聞いていたから、あの量順先生に相違ないと結論した。その瞬間、門が開いて妙齢の佳人かじんが現れた。標札を見上げていたので、来訪者と思ったのか、しとやかに会釈えしゃくをするのだった。二重に慌てた僕は、
「失礼しました」
 と言って、逃げるように急いで宮下君の門をくゞった。もう来そうなものだと思って、宮下君は戸に手をかけたところだったそうだ。僕は宮下君に突き当った。
 新婦に紹介されて、使命を果す早々、僕は心のトップにあることに触れざるを得なかった。
「君、僕は驚いたよ」
 しかし両親が挨拶に出て来た。面識がある。二人が引き退った後、又、
「時に宮下君、僕は驚いたよ」
「何うしたんだい? ひどく慌てゝ入って来たと思ったが」
 と言って、宮下君は僕の顔を凝っと見た。
「僕はお隣りの先生を知っているんだ。僕が郷里の中学校で英語を習った先生だよ」
「ふうむ?」
「標札を見て吃驚びっくりした。佐藤量順と言ってくれゝば直ぐ分るのに、佐藤氏佐藤氏と言うものだから、まさかあの先生だとは思わなかった」
「驚いたね、これは。恩師か?」
「恩師も恩師も大変な恩師だ」
「それじゃ丁度好い。寄って行き給え。今日は日曜だから家にいるだろう」
「さあ。又出直す方が宜いかも知れない」
 と僕は躊躇ちゅうちょ逡巡しゅんじゅんする訳があるのだった。
「何故?」
「一寸顔が合せにくいんだ。僕は先生に絶対に頭が上らないんだから」
「何うせ恩師だ。頭は上らない」
「又今度にしよう。今日は用意がない」
「郁子さん、世の中も狭いものだね。隣りの佐藤さんが橘高君の先生だとは驚いた。悪いことは出来ない。成程、それで橘高君も尻込みをしているんだろう」
 と宮下君は新婦に感想を洩らす一方、僕にからかった。
「そんな失礼なことを仰有って」
 と新婦がたしなめた。
「橘高君は何でも人の責任にする人で、僕が量順さんと言わなかったのが悪かったんだって」
「悪いなんて仰有りはしませんわ」
「奥さん、今門のところで先生の令嬢らしい人を見かけましたが、先生のところはお子さんが多いんですか?」
 と僕は訊いて見た。
「お嬢さんの下に御長男と御次男、その下に又お嬢さんがいらっしゃいます」
子福者こぶくしゃの方ですな」
「はあ。一番上のお嬢さんはとてもお綺麗でいらっしゃいますよ」
「その人でしょう、屹度。お父さんに似ていません。僕が習っていた頃、先生は獅噛火鉢しがみひばちのような顔をしていました」
「オホヽヽヽ」
「坊さんですよ、先生は」
「そうでございましょうか?」
「量順なんて名はお坊さんに限ります。僕達は量順坊と呼んでいました」
「お嬢さんが私にお父さんの綽名あだなを教えて下さいましたわ。何処かの中学校では閻魔えんま塩辛しおからとついていたそうでございます」
「成程。閻魔が塩辛を嘗めた顔だね。穿うがっている」
 と宮下君が共鳴した。
「僕の学校では首くゝりとついていたんだよ」
「首くゝり? 何ういうわれ因縁だね?」
「学校の裏の公園の松の木に首くゝりがあったんだ。その顔が先生によく似ていたというので、首くゝりで通っていたのさ。その首くゝりで僕が失策しくじったんだ」
「何うせ何かあるんだと思った。逐一旧悪を白状し給え」
「話そうか? 何うせ知れることだから」
「話さなければ、僕が訊いて見る」
「話すよ。或日、英語の時間に僕が当ったんだ。三年生の時だった。読んで行く中に、as quickly asアズ・クイックリー・アズ というところが出て来たから、僕は一つやってやれと思いついて、アズ・首くゝり・アズと読んだんだよ。するとクラス全体が笑い出した。『橘高君、もう一遍読んでくれ給え』と先生が言った。僕も全級の喝采を博した後だから、騎虎の勢いさ。アズ・首くゝり・アズといとも明瞭にやったんだ。皆又ワーッと笑った」
「先生、憤ったろう?」
「憤ったよ。『教室を何と思っている? 出給え』と来た。僕は今更恐縮して頭を下げていたが、『出給え』と又命じるから、スゴ/\教室を出た。こうなると同級生はもうヒッソリしてしまって見殺しだ。お調子ものは馬鹿を見る」
「後から厳罰を食ったろう」
「いや、お構いなしさ。先生は一寸ちょっと行き方が違うんだ。却って僕を認めてくれて、他の生徒がつかえると、『橘高君、何うだ?』と指名するんだ。少しも意に介していない。それでくみやすしと見たのが悪かったんだ」
「何だ? まだあるのか? 面白い/\」
「面白がられちゃ困るけれど、話し序だ。四年の学年試験の時、先生の時間にカンニングをやって取っつかまってしまったんだよ。ハッハヽヽ」
「ハッハヽヽ。ひどい奴だな」
「カンニング・ペーパーを取られてしまったから、もう万事休すと覚悟をきめた。カンニングは放校ときまっている。しかし先生は、『慌てることはないよ。後から山へ来なさい』と囁くように言って、そのまゝ試験を受けさせてくれた」
「君はカンニングが常習だったのかい?」
「常習じゃないが、チョク/\やっていた」
 とは僕も苦しい。しかし学校生活を顧みて絶対にやらなかったと断言出来る人はすくなかろうと思う。あれは制度の罪だ。試験がカンニングをさせる。
「不良組だったな」
「決して善良じゃなかった。学校の裏を出るともう山だ。公園になっているが、昔のお城の山だ。僕は先生について、その山へ行ったんだ。『橘高君、僕は君の前途を葬りたくない。僕が責任を負う。自分の監督クラスの生徒が不正をするようじゃもう教師は勤まらない』と言って、先生は証拠物件のカンニング・ペーパーを返してくれた。それから諄々じゅんじゅんと説諭をして、『分ったかね? 改心してくれるだろうね。ね、君、ね』と言って、僕の肩に手をかけた。僕は泣き出してしまった」
「ふうむ。そうして先生は辞職したのかい?」
「新学年が始まったら、もういなかった。しかし辞職じゃない。何処かへ転任したんだ。学校に何かあったらしい。他の先生も二三人変った。転任に定っていたから大目に見てくれたのかも知れないと思うんだけれど、僕はいまだに身に沁みている」
「成程。それじゃ合せる顔がないな」
「お調子ものゝ僕が改心して、兎に角当り前にやっているのは先生のお蔭さ。あの時おっぽり出されて見給え。今頃は何うなっているか分らない。その先生が隣りにいるのに、君は量順さんってことを一遍も言ってくれなかったんだ」
「それは苗字丈けで間に合うからさ。誰だって一々名までは言わないよ」
「敢えて咎めるんじゃないけれど」
「咎められる筋もないよ」
「そんな水掛論は何うでも宜いが、何うしようかな? 寄る方が宜いだろうね?」
「宜いとも。ドラ息子ほど親は可愛いものだそうだから、閻魔の塩辛が喜んでくれるだろう」
 と宮下君がかせた。
 僕は宮下君に案内されて、佐藤先生を訪れた。洋間へ通されて待っている間、胸が動悸どうきを打った。そう気の弱い人間ではないけれど、十年前の中学生に戻っていたのだった。
「やあ/\」
 と言って、量順先生が入って来た。宮下君は立ち上った僕を遮って、
「佐藤さん、昔のお弟子さんをつれて上りました。お分りですか?」
 といたずらっぽく紹介した。
「さあ。誰だろう?」
「A市の中学校でお世話になった橘高です」
 と言って、僕は頭を下げた。
「北川君? かい?」
「いや、橘高庄三でございます」
「あゝ、来たか庄さんか? これは/\」
 と先生は幾度も頷いた。待ってたホイとまでは言わなかったが、専務と同じ洒落を言ったのである。社長の説明の通り、来たか庄さんは余程人口じんこう膾炙かいしゃしているものらしい。
「ヤンチャン坊で特別に御迷惑をおかけしていますから」
「何の/\。その後は何うだね? 東京にいるんですか?」
「はあ。東大を出て、宮下君と同じ会社に勤めています」
「それは/\。よく訪ねて来てくれた。すっかり立派になってしまって、これでは道で会っても分らない」
「先生は一向お変りになりません」
「いや、寄る年波で大分白くなったろう」
 奥さんがお茶を薦めに出て来た。先生はA市での教え子として僕を引き合せた。奥さんも数年いた旧任地だから、思い出が懐かしいと見えて、そのまゝ坐り込んだ。先生はその後の経歴を掻いつまんで話して、
「時折昔の生徒に会うよ。この間は銀座で、先生々々と後ろから呼ぶ紳士があった。お見外みそれしたが、初任地の甲府で教えた生徒だった。出世して一流会社の重役になっていた。昔の生徒に会うのは、嬉しいものだよ。殊に立派になっていてくれると嬉しい」
「橘高君も遠い将来に於て課長ぐらいは請合です」
 と宮下君が冗談を言った。
「しかし宮下君も無駄口を叩く割合に、大切だいじのことは妙に口の短い人だね。橘高君と一緒の会社に勤めているなら、もっと早く知らせてくれゝば宜いのに」
「それは御無理でしょう。僕は今日初めて先生との関係を知ったんです。橘高君も今日偶然先生のお宅の門札を見て、初めて恩師ってことが分ったんですから」
「成程」
「何うも僕はが悪いです。橘高君も僕が今まで佐藤氏とばかり言って、量順さんと言わなかったのが悪いと言って責めるんです」
「ハッハヽヽ。それは少し無理だ」
 と佐藤氏は自分のことを棚に上げた。

行き方の違う恩師


 次の日曜に僕は改めて又恩師を訪問した。感謝の寸志を表したのである。僕の方から昔話を持ち出したら、先生は悉皆すっかり覚えていた。今度は令嬢も出て来て斡旋あっせんしてくれた。先生天性閻魔の塩辛だけれど、奥さんは目鼻立ちのとゝのった人だ。令嬢君子きみこさんはお母さんに似たのだろう。宮下君の所謂いわゆるトレラブルどころでない。甚だ敏感のようだが、僕は心動いた。
 偶然は偶然を生む。恩師の娘さんだ。或は奇縁があるのかも知れないと考えた。それにしても、こんな綺麗な人が隣りにいるのに、宮下君は何故申込まなかったのだろうかという疑問が起った。既に縁談が定っているのだろうと解釈して見たが、それなら宮下君が話の序にそう言っている筈だ。矢張りまだだろうと思い直して、帰りに又寄って訊いて見た。
 まだ定っていないようだと宮下君が答えた。
「とても見識の高い人で御註文がむずかしいんですから」
 と郁子夫人が言った。
「何ういう御註文ですか?」
「学問をやる人なら博士、会社員なら重役、官吏なら局長ぐらいのところを狙っていらっしゃるんでしょう」
「冗談じゃありません。そんなのは皆頭が禿げていますよ」
「直接伺ったんじゃありませんけれど、兎に角高望みですわ」
「おい。お門違いをしちゃいけないよ。隣りは釣堀だ。君は大海の魚を釣る方針じゃなかったかい?」
 と宮下君が思い知らせた。
 僕は時折宮下君の家庭を訪れるようになった。一番親しい同僚だから不思議はない。しかしその都度佐藤先生の御機嫌を伺う方が主な目的だった。その目的の奥に又目的があるけれど、満を持して放たない。僕も大学は相当の成績だった。会社の方も卒業前にきまったので、彼方此方あっちこっちであぶれた連中とは違う。現在は押しも押されもしない。そういうことをそれとなく先生に通じてある。
 宮下君は自分が満足している為めか、僕の心持を一向察してくれなかった。話が佐藤家に及んでも、至って当りさわりのないことを言う。郁子夫人も君子さんはとても註文のむずかしい人ですからで片付けてしまう。取りつく島がない。
 その中に僕は急ぐ必要を感じた。時間の解決を待っているよりも、当って砕けろだと思った。ついては矢張り宮下君にすがる外に仕方がない。そこで或日の帰りに宮下君を銀座の某料亭へ誘って、
「君、僕は君の軍門に降る」
 と切り出した。
「何だい?」
「釣堀組に改宗するから、一の力を貸してくれ給え」
「佐藤令嬢かい?」
「うむ」
「駄目だろう、あれは」
「何故?」
「佐藤氏は中学時代の君をよく知っている。カンニングをした生徒に娘はくれないだろう」
 と宮下君は平気で言った。ひどい奴だと思った。これが親友かと疑われるような態度だった。
「しかし僕は先生の訓戒に従って改心しているんだ。先生は宗教家だよ。懺悔ざんげによって罪障ざいしょうが消滅するということを知っている」
「そう理論通りには行くまい。若し先生にその意があるなら、もうソロ/\話がある筈だ。橘高きったかさんと君子さんなら丁度好い釣合だと郁子も言っているんだから」
「僕は先生の印象が悪いのかね? 君の見たところでは」
「可もなく不可もないんだろう。全然問題にしていないようだから」
「君のお父さんに頼んで話して貰ったら何うだろう?」
「さあ」
「見込薄かい?」
「さあね」
「何うだい? ハッキリしろ」
 と僕は癪に障った。こんな縁談の頼み方もあるまい。
「実は君、僕は困るんだ」
「何が困る?」
「君が絶対秘密を守ってくれるなら話す」
「守るよ。何だい?」
「実は僕は君子さんに申込んで肘鉄を食っているんだ」
「ふうむ? いつ?」
「この正月さ。君のロマンス主義にかぶれていた頃だった。正々堂々と手紙を渡したら、翌日、僕の帰るのを門のところで待っていて、『宮下さん、これは見ないでお返し致しますが、私、誰にも申しません。堪忍して上げますから、以来お慎み下さい』と来た。ざまはない」
「ハッハヽヽ。簡単にやられたんだね。そうか? 君が黙っている筈はないとも思って見たんだが、そうか? 矢っ張り」
「君、これは郁子に話しちゃ困るよ。大変なことになる」
「大丈夫だ」
「絶対秘密だ。君子さんが誰にも言わなかったことは、佐藤氏が僕の人格を保証して仲人をしてくれたのでも分る。僕も今君に話した丈けだから、郁子にも誰にも絶対秘密にして置いてくれ給え」
 と宮下君は尚も念を入れた。
「決してしゃべらない。それはそうとして僕は見込がないのか?」
「実はそういう訳だから、君が君子さんを貰うと僕が困るんだ。甚だ具合が悪い」
「それは話の筋が違うよ。僕が秘密を守っていれば、差支えないじゃないか?」
「しかし僕は君と附き合いにくゝなる。何しろ肘鉄を食っているんだから、君子さんは苦手にがてだ。その苦手が君の奥さんになったんじゃ困る。その辺をよく良心的に考えて、僕は君と君子さんの間に話が始まらないように警戒しているんだ」
「ひどいよ、それは」
 と僕は呆れたが、だましすかして、兎に角機会を見て話を持ち出すように悃願こんがんした。
 それから一月ばかりたった。僕は敢えて催促しなかったが或日宮下君が佐藤氏の伝言ことづけを持って来た。僕に相談したいことがあるから都合の時に来てくれろというのだった。
「君はもう話してくれたのか?」
「いや、僕は矢っ張り困るから言わなかったが、郁子は何も知らないから話したのらしい」
「その手答えかな、それじゃ」
 と僕は望みをしょくして、会社の帰りを宮下君に伴った。
「御足労をかけて済まないね」
 と先生はねぎらってくれた。
「いや、一向。宮下君のところへも御無沙汰していましたから、丁度宜かったです」
「実は君子の縁談が始まったんだ。相手が偶然君のよく知っている男らしい。君は東大の経済学部を何年に出たんだね?」
「…………」
 僕は汗をかいてしまった。話を聞くと、君子さんの縁談の相手は、僕と同じ年に卒業している。三条高吉という秀才だそうだけれど、此方は覚えがない。何しろ二百名からの同期生だ。
「しかし一緒に出ているんだから、友人を通じて日常の性行を調査する便宜があるだろう?」
「はあ」
「大丈夫の人間だと言って持ち込んで来たんだけれど、仲人口にはうっかり乗れない。何分頼むよ」
 僕は引受けたけれど、もう宮下君のところへ寄る元気もなく、トボ/\と駅への道を辿った。何だ? 日頃出入りしている教え子の僕を差置いて、性行調査を要するような馬の骨を取り上げるとは、恩師ももう耄碌もうろくしている。そんなのなら諦める。よし。僕は矢っ張り釣堀の、いや、大海の魚を釣ると再び決心を固めた。
 翌朝会社で顔が合うと直ぐに、
「君は寄らなかったね。待っていたのに」
 と宮下君が咎めるように言った。
「後から話すよ。悉皆参ってしまったんだ」
「昨夜あれから佐藤氏が来たんだよ」
「ふうむ」
「君が寄っていると思って来たんだ。『芝居をやったが、薬がき過ぎたようだ』と言って話し出した。君、三条高吉を何者だと思う?」
「同期だけれど皆目覚えがないから、世間に幾らも転がっている鈍才さ」
「鈍だぞ、君こそ。三条高吉を逆さまに読んで見給え。三条は少し苦しいけれど」
「…………」
「僕達に宜しく頼むと言うんだ」
「何あんだ? 僕か?」
「佐藤氏は味をやる」
「そうか? 恩師は矢っ張り行き方が違う」
 と感心して、僕は初めて曙光を認めた。
(昭和二十六年六月、講談倶楽部)





底本:「佐々木邦全集 補巻5 王将連盟 短篇」講談社
   1975(昭和50)年12月20日第1刷
初出:「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社
   1951(昭和26)年6月
※「注文」と「註文」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:芝裕久
2021年7月27日作成
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