負けない男

佐々木邦




堀尾の小旦那


 就職難といっても、その頃は世の中が今日ほど行き詰まっていなかった。だ/\、大学即ち帝大の時代で、一手販売だったから、贅沢ぜいたくさえ言わなければ、新学士は何処かにはけ口があった。その証拠に、堀尾君ほりおくんの同期生は半数以上身の振り方がきまっていた。それが卒業と共にポツ/\赴任する。○高以来六年間毎日顔を合せて来た連中も今やチリ/″\バラ/\になる。送別会が頻繁ひんぱんにあった。
「おい。又明日の晩あるよ」
 と同じく卒業したばかりの間瀬君ませくんが堀尾君を訪れた。
「誰だい?」
伊丹いたみさ」
彼奴あいつは満鉄だったね?」
うさ。一番遠いんだから、特別に都合して出てやってくれ給え」
「出るには出るが、何うだね? 二三人宛束にしてやる法はなかろうか?」
「それも考えている」
「大変だろう?」
「何あに」
「いや、実際御苦労だよ」
 と堀尾君はねぎらった。世話好きの間瀬君は○高会の幹事をしている。
「何うせ閑だもの」
「郵便じゃ間に合わないのかい?」
「遠いところは横着を極めて郵便でやるが、本郷区は廻って歩く。みんなの情勢偵察かた/″\さ」
「追々片付くね」
「うむ。好くしたものさ。山下が台湾銀行へ行くよ」
「ふうむ」
「太田も北海道の炭鉱鉄道へ定るらしい。皆遠いよ、成績の好くない奴は」
「成績よりも情実だぜ」
「それも確かにあるね。立川たちかわなんかが三菱へ入っているんだもの」
「君は送別の辞ばかりやっていて、未だ何処へも定らないのかい?」
「僕は運動を思い切った」
「何うして?」
「僕の成績じゃ無理だよ」
「そんなに謙遜することはない。当って砕けろだ」
「実は三回当って見たが、美事撃退さ」
「僕も一回失策しくじった。あんまざまの好いものじゃない」
「君のは銓衡委員と議論をしたからさ。僕のはヘイ/\言っていて、サン/″\められた上に、おっ投り出されたんだから、思い出しても腹が立つ」
「僕はもう諦めた。お願い申して縛られたくない」
「食える奴は贅沢なことを言うよ。奥田君もうだろう?」
「さあ。郷里へ帰るとも言っている」
「君と奥田君と尾崎君だな、連中で所謂いわゆるぎんさじを銜えて生れて来たのは」
「僕は駄目だよ。次男坊じなんぼうだ」
「藪医者の四男坊よりは好かろう」
「何うだかね」
「いや、斯うやって落ちついちゃいられないぞ」
 と間瀬君は差当りの用件を思い出した。
「まあ宜いじゃないか?」
「これから飛脚だ。彼方此方あっちこっち廻らなければならない」
「奥田君へは僕から知らせよう」
「実はそれを頼もうと思って、真先に寄ったんだ。何うせ今晩行くだろう? ヘッヘ」
「ヘッヘとは何だい?」
「笑ったのさ」
「何が可笑おかしい?」
 と訊いたものゝ、堀尾君は覚えず相好そうごうが弛んだ。
「非公式に一寸祝意を表したのさ」
「何の?」
「未だ白ばっくれるのかい? 君は奥田君の妹を貰うんだろう?」
「さあ」
「何うだい? 図星だろう?」
「君の想像に委せる」
「何とか言って、否定しても駄目だよ」
「別に否定はしない」
「案外往生際おうじょうぎわが好かったね」
「仕方がないさ」
「ところで、君」
「何だい?」
「実は僕も最近きまったんだよ」
 と間瀬君は相手の縁談に事寄せて、自分のを発表したかったのだ。
「それはお芽出度う」
「しかし養子の口だから、大きな声じゃ言えない」
「養子だって構わないさ」
「必ずしも食えるのが目的で行くんじゃないからね」
「分っているよ。しかし金持かい?」
「軍人の未亡人だから大したことはない」
「未亡人のところへ行くのかい?」
 と堀尾君はいささか驚いた。成績の悪いのにはそんな前例がないこともない。
「いや、その未亡人の独り娘だ。未亡人はもう五十を越している」
「それなら宜い」
「おれが未亡人のところへ行くと思ったのかい?」
「ハッハヽヽ」
「見損ったね」
「いや、然ういう家庭なら君が大切だいじにして貰えるという意味さ」
「実は僕だって多少考えたよ。大学まで卒業して養子に行くなんて腑甲斐ない話だと思ったけれど、ヘッヘ」
「又始まった」
「しかし安心し給え。今度は自己嘲笑だ」
「一々説明がつくんだね」
「実は仲人から写真を突きつけられて、コロリと参ってしまったんだよ」
「成程」
「会って見ると益※(二の字点、1-2-22)好いんだ」
「ハッハヽヽ」
「絶世の美人だもの。そうして君、矢っ張り女子大だよ」
 と間瀬君は高度の近眼で元来細い目を極度に細くした。
「ふうむ」
「おい。おれもこれ丈け白状したんだから、君も白状しろ」
「何を?」
「奥田君の妹よ。もう定ったんだろう」
「定った」
 と堀尾君はもうかくす必要もなかった。
「お芽出度う」
「有難う」
「あれも絶世の美人だ」
「絶世の美人が鉢合せをしちゃ大変だが、君は知っているのかい?」
「奥田君と二人で歩いているところを見たことがある。君はこの頃しきりに行くようだから、怪しいと睨んでいたんだ」
「その目でかい?」
「馬鹿にするなよ」
「君の方は女子大をもう卒業したのかい?」
「いや、来年だ」
「それじゃ同級だろう?」
「何科だい? 奥田君のところは」
「家政科さ」
「僕の方も家政科だよ。同級生か? これは驚いた」
「何て人だい?」
 と堀尾君は益※(二の字点、1-2-22)興味を覚えた。絶世かうか、奥田君のところへ行って妹に訊けば分るし、尚お好い話題になる。
清水しみずあぐり」
「あぐり?」
「うむ、変な名前だろう?」
「さあ」
「気に入らないのはこれ丈けさ。仲人にそれを言ったら、説明したよ。上の子が二人とも死んだので、あぐりとつけたんだそうだ」
「育つおまじないかい?」
「うむ、能くある名前だそうだよ」
「何ういう意味だろう」
「それまでは聞かなかった」
「まさか英語のアグリー(ugly 醜悪しゅうあく)じゃあるまいね?」
ちこわしを言うなよ。絶世の美人だ」
「ハッハヽヽ」
「条件があったんだよ」
ういう?」
「第一に学士ってことだ。但し獣医学士はいけないってんだ」
「成程」
「何と言っても法学士だよ」
「それから?」
「次に地方へ出ない人ってんだ。地所と家作が多少あって、それで充分食って行けるからってのさ」
「東京の人かい?」
「無論さ」
作州さくしゅう津山在つやまざいの出身でも勤まるのかい?」
「人物本位だ。会社の銓衡せんこうのように成績を問題にしない」
「成程」
「何なら遊んでいてもいってんだ」
「申分ないね」
「これなら僕だって自信があるよ。適任だと思ったから、早速首を縦に振ったのさ」
「道理で落ちついていると思った」
「うまくやったろう。もう運動の必要がなくなった」
「しかしこれから先毎日遊んでいるんじゃ退屈するぜ」
「少し冥利が悪いと思って、差当り毎晩送別の辞をやっている」
「罪ほろぼしかい?」
「まあ、その辺さ」
「いつ行くんだい?」
「秋だ。乗込んだら大いにやるよ」
「何をやる?」
「家賃と地代を上げる」
「横着な男だな」
「ところで何うだい?」
「何が?」
「君のロマンスさ」
「そんなものはないよ」
「いや、友人の妹を貰うからには何かある。殊にそれが女子大と来ている。僕も白状したんだから、君も有態ありていに白状し給え」
 と間瀬君が要求した。未だミルク・ホールというのが流行はやっていた時代だった。カッフェもなく、活動女優も認められず、恋愛が今日ほど大衆化されていなかった。ロマンスといえば帝大生と女子大生の間に限られた。
「至って平凡だよ。奥田君に直接申込んだんだ」
「その前に何かあったろう? 突如いきなりってことはない」
「さあ」
「君は去年の夏、奥田君の郷里へ遊びに行ったじゃないか? その時、僕のところへも寄れと言ったのに、切り詰めた日取だからって断ったぜ。しかし後から訊いて見ると、ひどいよ。奥田君のところに三週間もいた」
「おや/\」
「その三週間の中に何かあったろう?」
「多少はあったさ」
「それを話し給え」
「二週間いる中に道子さんが綺麗に見え始めたのさ」
「道子さんてのかい?」
「うむ」
「それから?」
「それ丈けさ」
「しかし三週間いたぜ。後の一週間の説明がついていない」
「二週間で帰る積りだったが、怪我をしたんだ」
「怪我? 何処を?」
「足をくじいたのさ。立つことに定めてあった朝、道子さんの大切にしていた九官鳥が逃げ出した。ロマンスといえば先ずあれだろうね」
「本式じゃないか? その九官鳥を捉えて来れば、君の誠意を認めるってんだろう?」
「いや、条件はない。しかし捉えて下さいと金切声を立てゝいる。羽を切ってあるから大丈夫だが、猫に取られる心配がある。二階だったよ。つい鼻先のひさしに止まっている。御安い御用だ。僕は縁側の欄干てすりまたぎ越して、ジリ/\近寄った。奴さん、首を傾げた丈けで逃げようともしない。難なく取っ捉えて、ハッハヽヽ」
「何うした?」
「僕は既に胸中ひそかに決するところがあったんだ」
「何を?」
「怪我をする決心さ。その日立つんで、支度をしていたが、何うも別れが惜しい。前の晩奥田君が引き止めたのに、キッパリ断った後だから、今更延す口実がないんだ。窮余きゅうよの一策、即ち足を踏みすべらして、あッと言いさま、庭へ飛び下りた」
「成程」
「美事右の足首を挫いて、全治一週間乃至十日間という大怪我さ」
「親不孝な奴だなあ」
「しかし見識上仕方がない」
「怪我をするのが見識かい?」
「然うさ。怪我をすれば不可抗力ふかこうりょくで出発が延ばせる」
「斯ういうのに見込まれちゃかなわない。当然の権利として道子さんに介抱して貰ったんだろう?」
「うむ。捉えてくれと言った責任がある。大切だいじにしてくれたよ」
「その中に情意投合したんだね」
「さあ。お互に憎からず思うようになったのさ」
「僕はもう失敬する」
「まあいじゃないか?」
 と堀尾君は引き止めた。
「真面目腐って、手放しはひどいよ」
「実際だもの」
「その通りだからね」
「君が所望しょもうしたからさ。ロマンスといえば、これぐらいのものさ。僕のことだから、何うせ荒い」
「奥田君は君の策に気がつかなかったのかい?」
「いや、奴、ナカ/\烱眼けいがんだ。その時は気の毒がっていたが、此方へ来てから申込んだら、否と言えば又この二階から飛び下りるかい? と言やがった」
「ハッハヽヽ。小っぴどくやられたね」
「ギャフンと参ったよ」
「それじゃ見識も何もないじゃないか?」
「ない」
「いつ結婚するんだい?」
「卒業を待っているんだ」
「在学中だって構わないじゃないか? 僕はこの秋だけれど、敢えて辞さない」
「奥田君はそれほど頭が働かない。至って暢気のんきに構えている」
「君の方から切り出し給え」
「見識がある」
「おや! 今ないと言ったじゃないか?」
「取り返すのさ。精々」
「斯うやって東京で待っているのかい?」
「うむ。郷里くにへ帰れば会えない」
「毎晩会いに行くのかい?」
「一晩置きぐらいのものだ。叔父さんの家にいるんだから何か用件がないと具合が悪い」
「矢っ張り見識だね?」
「うむ」
「しかし奥田君のところへ遊びに行く分には構わない筈だ」
うさ。君は今日は恩人だよ」
「何故?」
「朝から用件を考えていたところへ伊丹の送別会を持って来た」
「何でも利用するんだね」
「確かに人間がさもしくなる」
「君にしてこのことありとは驚いたよ」
 と間瀬君は感心して、間もなく辞し去った。
 以上の会話によって察しられる通り、この二人は最近帝大の法科を卒業した。未だ職業にはありつかないが、縁談の方は早くもきまっている。間瀬君は養子に納まって家賃で食って行こうという人だから、これでもう大体けりがついた。見切りが好い。長い準備時代を終って十日とたゝない中に一生涯の運命を片付けてしまった。問題はもう一人の堀尾君だ。この男が種々いろいろのことを仕出来しでかす。私達はこの青年について、もっと詳しく知って置く必要がある。
「それじゃ又何か用件を持って来いよ」
 と言って、間瀬君を送る為めに立ち上ったところを見ると、堀尾君は身長五尺七寸の大男だ。貧弱な下宿屋の鴨居かもいに頭がつかえる。風采ふうさい生地きじの学生時代にロマンスがあったという丈けに眉目秀麗びもくしゅうれいで通る。間瀬君ほど強度ではないが、矢張り近眼鏡をかけている。その奥底から覗いている眼が鋭い。目的の為めに足の一本ぐらい折り兼ねない負けじ魂が光る。
「堀尾さん、郵便でございます。書留と唯の」
 と女中がニコ/\して取次いだ。堀尾君は単に、
「御苦労」
 と言って受取って、先ず書留から開封した。

「御書面拝読、其後両親初め一同無事消光罷在候間しょうこうまかりありそうろうあいだ御安心被下度くだされたく候。御申越の金子百五十円同封為替にてお送り申上候。就職の方差当り思わしき向き無之由これなきよし、別に急ぐことも無之と存候。学士となれば満更下役も勤まるまじく、相応の口有之これあるまで気長くお待ちのようにお勧め申上候。其許そこもと卒業の上は分家致すこと兼々両親の宿念しゅくねんに候間、早速取計らい申上度、ついてはその中一度御帰郷可然しかるべく、実は両親も心待ち致居る様子に御座候。野口村長、其許の卒業席次を官報にて確め、当県出身者中随一の由、大喜びにて知らせにお出下いでくだされ、其許帰郷の上は祝賀会を催し度旨申出相成候。久保村は学士一名、加茂村は皆無、然るに当村は岡村先生と其許にて二名に御座候。小生快諾賛成の旨答え申置候間、何卒御承知願上候。先日子供にお送り下され候珍菓ミルク・キャラメルをその折野口村長におすすめ申上候処、紙ぐるみ頬張りて、大笑い致し申候。矢張り年は争われず、少々時世におくれ居るように御座候。先は右まで。早々頓首
玉男
正晴殿
 追伸、小作金助儀昨日急病にて死去、今日葬送、小生名代としてこれから参り候。

 これは兄からだった。堀尾君の家は東海道筋○○町在馬橋村の大地主だ。馬橋の堀尾さんといえば、近郷に知られている。但し町までひとの土地を踏まずに行けるという程の大家たいけでない。街道筋の金持は兎角粒が小さい。それでも国会議員に四度や五度は出られそうな身代しんだいである。堀尾君は東京では一介の学生でも、郷里へ帰ると豪いものだ。親父が大旦那で、長兄が若旦那だから、堀尾の小旦那として、村中の百姓が頭を下げる。出て歩くと応接にいとまがない。
 もう一通は恩師安藤先生からだった。この人には中学時代の校長、○高時代の教授として一方ひとかたならぬお世話になっている。通り一片の恩師でない。大学三年間、教授連中から一向感銘を受けなかった堀尾君もこの先生丈けは豪いと思っている。

 先般貴書拝誦はいしょう、無事御卒業奉賀候がしたてまつりそうろう。御成績も当○高出身者中随一にて満足に存上候。さて平凡な比喩ひゆながら、これからが社会の大学に御座候。貴君はこゝに於ても上乗の成績を御期待のことゝ存候。この際貴君の御性格を最も能く知る一人として、小生は一言御忠告申上度候。尚○高御卒業の折承わり候に、貴君御両親より受け継ぐ資産十万円有之由これあるよし甚だ突飛な申分のように候が、その十万円をいさぎよく拝辞し、裸一貫として社会の大学に御入学お勧め申上候。貴書中既に就職面会にて銓衡委員と衝突したるやの箇条有之かじょうこれあり、小生、有之哉これあるかなと案をち申候。元来人間は社会に尽す為め業務に従うに無之これなく、全く自家生計の為めに御座候。生計大切に、営々として業務に従えば否応なく社会に尽すことと相成候。社会に尽さぬものが出世する筈無之、又聖人君子は除外例として、生計の苦労なきものが社会に尽す筈無之候。貴君今十万円をおしめば前途なし。十万円を捨つれば有らゆる可能性あり……」

「おや。論文になった」
 と堀尾君は尚お読み続けて、
「驚いた。兄貴は財産を渡すから帰れと言う。先生はそれを貰うと駄目だと言う。両方の手紙が一緒に着いたのも不思議だ」
 と呟いた。それから少時しばらくして、晩飯を運んで来た女中が、
「堀尾さん!」
 と呼んだ。
「あゝ、吃驚びっくりした」
「何を考えてらしって?」
「いや、つい居睡りをしていたんだ」
 と堀尾君は初めてお膳に気がついた。
「嘘」
「何うして?」
「麹町のことを考えてらしったのよ」
 と女中は知っていた。
 夕食後、堀尾君は奥田君を訪れた。本郷から九段上、卒業試験が済んで以来、隔日に通う。押した電鈴ベルに応じて、
うぞ」
 と道子さんが出迎えてくれた。
「兄さんは?」
 と堀尾君はいつも玄関で訊く。見識上、奥田君に会いに来たことにしてある。
「お留守よ」
「おや/\」
「お帰りになって?」
 と道子さんは少し赤らんで立ち塞がるようにした。
「…………」
「オホヽ」
「何ですか?」
「いるのよ、本当は」
「ひどいですね。嘘なんかついて」
「でも憎らしいんですもの」
「待っていて下すって?」
 と堀尾君も頭が好い。
「今日は叔父さんも叔母さんもいませんのよ」
うですか」
「それで……」
「何です?」
「思いついて、一寸ちょっとかついで上げたのよ」
「人が悪いですな」
「オホヽヽヽ」
 と道子さんは会心のようだったが、
「兄さん、堀尾さんよ」
 と急に声を高めた。次の間で女中の気色けはいが聞えたのだった。
「あなたもおいでなさい」
 と堀尾君は頓着なく寄り添って囁き続けた。
「後から」
「時間が惜しいです。早くいらっしゃい」
「えゝ」
 と道子さんは言葉すくなに答える。
「女中を寄越しちゃいけませんよ」
 と堀尾君が言い足した時、後ろの襖が開いて、
「あら、いらっしゃいまし」
 とその女中が現れた。
「やあ!」
 と慌てゝ頷くが早く、堀尾君は二階へ駈け上った。
うだい?」
 と奥田君が迎えた。
「相変らずさ」
「卒業ってこんなものかね。何だか気抜けがしたようだ」
「僕も毎日退屈している」
「今日も能く寝た。あゝあ」
「矢っ張り学校があって忙しい方がいようだね」
「いや、そんなことはない」
「ハッハ。一寸真剣味を見せた」
「学校はもう御免だ。この間勘定して見たら、十八年やっている」
「兎に角、一段落さ」
「重荷を下した所為せいか、手持ち無沙汰でいけない」
「しかし例年ならいよ/\暑中休暇ってところだからね。先ずこんなものだろうよ」
「然うさ。これで魚釣つりでも出来ると宜いんだけれど」
「道子さんが休暇になれば、直ぐじゃないか?」
「それまで毎日この通り空々寂々くうくうじゃくじゃくさ」
「君は帰りっきりに帰るのかい?」
 と堀尾君はこれが苦になる。暑中休暇中は諦めているが、奥田君が帰京しないと、秋から道子さんに会うことが出来ない。
「さあ」
「財産の番人かい?」
「番をするほどないんだから、半端で困っている」
「それじゃ帰って来るかい?」
「さあ」
「相変らず煮え切らないんだね」
「何かするとすれば、郷里じゃ駄目だ。銀行の頭取が月給八十円だもの」
「僕の方はまだひどい。新聞の主筆が六十円ぐらいだそうだ」
「郷里にいついたんじゃ一生を葬るようなものだよ」
「僕は郷里は最初から問題にしていない」
「君は自由が利くから宜いけれど、僕は親父の意向がある」
「矢っ張り有るからさ」
「いや、有るんだか無いんだか分らないんだ。昔から見ると大分へっていると聞いているから、恐ろしくて訊いて見たこともない」
「何とか言って、要するに番人志望じゃないか?」
「そんなことはないけれども」
 と奥田君はいつも親父の意向に帰着する。それでいて、その意向を早く確めようとは決してしない。道子さんがお茶を入れて上って来た。堀尾君の顔を見て目で笑ったのは、早かったでしょう、女中を寄越さなかったでしょうという意味だった。奥田君はあずかり知らない。泰然として煙草をくわえている。堀尾君は、
う/\。明日の晩、伊丹君の送別会がある。君に知らせてくれと言うんで、やって来た」
 と表向きの用件を切り出した。
「何処だい?」
「満鉄さ」
「それは聞いているが、会場さ」
「しまった」
「何うしたい?」
「会場を聞かなかった」
暢気のんきだね」
「言わないんだもの」
「例によって間瀬かい? 幹事は」
「うむ」
何方どっちも何方だ」
「矢っ張りこの間のところだろう」
「オホヽ」
 と道子さんは一々聞き洩らさない証拠に、お茶を薦めながら笑った。
「君はこの頃少しうかしているぜ」
 と奥田君も多少認めている。
「間瀬がボンヤリしているのさ。言わないんだもの」
「しかし訊けばい」
「ついうっかりしていた」
「見給え」
「参ったね、これは」
「宜いよ。夕方君のところへ寄るから。それまでに誰か来るだろう」
「間瀬に訊いて置くよ」
「それなら間違ない」
「或は思い出して、又ノコ/\やって来るかも知れないよ」
「世話好きな男さ。自分の運動は其方除そっちのけで、ひとの送別会ばかりやっている」
「いや、きまっているんだよ」
「何処へ?」
「養子の口だ。道子さん、あなたの方に清水あぐりって人がいましょう?」
 と堀尾君は道子さんに話しかける機会を得た。
「居りますわ」
「絶世の美人ですか?」
「さあ。絶世ってほどでもありませんが、綺麗な方よ。清水さんが何うかなさいましたの?」
「今の間瀬って男がお婿さんに行くんです」
「まあ!」
「金持ですってね?」
「能くは存じませんが、お父さんが軍医、あら、主計よ。主計総監でナカ/\えらかったんですって。もうお亡くなりになったそうですけれど」
「軍人だと言いましたが、それですよ。絶世の美人という触込みです。写真でコロリと参って、会って見たら益※(二の字点、1-2-22)いってんです」
「まあ! オホヽヽヽ」
「間瀬の奴、養子とは考えたね」
 と奥田君が感心した。
「兄さん、間瀬さんてんな方?」
 と道子さんが訊いた。
「さあ。可もなく不可もない男だね」
「ひどい近眼です。君、この間写した○高会の写真があるだろう?」
 と堀尾君は道子さんの為めに計らった。
「清水さんの写真もございますよ。絶世の美人を御覧に入れましょう」
 と道子さんも申出て、話が間瀬君と清水さんで持ち切った。堀尾君は十万円の問題を提出する積りだったが、待て少時しばしと気がついた。これを用件に又明後日の晩罷り出る。

十万円の問題


 玄関の呼鈴に応じて、例の通り道子さんが現れた。
「兄さんは?」
 と堀尾君は同時に目で物を言った。
「お風呂に入っていますの」
「…………」
うぞ」
 と道子さんはイソ/\して二階へ案内した。
 二人は婚約が成立しているけれど、未だ兎角周囲に遠慮がある。堀尾君は以前からの関係上、奥田君を訪ねて来る。目的はうに道子さんの方へ変っているのだけれど、そこは察して貰うより外仕方がない。しかし奥田君もその叔父さん叔母さんという人も存外気がかない。約束が定ってお芽出度いとは信じているが、特別に頭を働かせることがない。思い合っている二人が水入らずで話せるのは奥田君の入浴中丈けだ。それに打っつかったことが春から数回あったきりで、他に一切機会がない。
「道子さん」
「はあ」
「二百三高地が好く出来ました」
 と堀尾君は久しぶりで周囲あたりはばからずにからかって見た。
「あら! オホヽ」
「本当に」
「厭よ。そんなに御覧になっちゃ」
「壮観です」
「高過ぎて?」
 と道子さんは庇髪ひさしがみにソッと手を当てた。未だ高いのが流行はやっている頃だった。
「いゝえ」
う?」
「時に道子さん」
「何あに?」
「僕、イヨ/\帰ります」
「あらまあ!」
「仕方ないです」
「いつ?」
明後日あさって
「急ね」
「えゝ」
 と堀尾君は道子さんの顔に浮んだ真剣の表情を頼もしく思った。
「秋までもうおいでにならないんでございましょう?」
「えゝ。就職口でもきまれば兎に角」
「…………」
「当分お別れです」
「急に御予定をおえなすったのね?」
「郷里からうるさく言って来るものですから」
「詰まらないわ、私」
 と道子さんは独り言のように呟いて俯向いてしまった。
「しかし道子さん」
「…………」
「道子さん」
「はあ」
「あなたも、もう間もなくお帰りでしょう?」
「それは然うですけれど」
「十五日頃ですか?」
「えゝ」
「それまで待っていれば、途中まで御一緒に帰れるんですけれど」
 と堀尾君は考え込んで、
「しかしもう郷里へ返事を出してしまいましたから」
 と如何にも残念そうだった。
「宜いわ、私、もう」
「駅へ出ます」
「急行は停りませんよ」
「いや、停る駅で出迎えて、その次の停る駅までお供をします」
屹度きっと?」
「えゝ」
「それぐらいのことして下すってもいわ。お約束を破ったんですから」
「何の約束ですか?」
「私、兄さんと三人御一緒なら宜いわねって、幾度も申上げたじゃございませんか」
「えゝ」
「大抵そんなことになりましょうって、あなたも仰有おっしゃいましたわ」
「成程」
ずるいわ、今更」
 と道子さんもナカ/\やる。
「申訳ありません」
「堀尾さん」
「何ですか?」
ともへいらっしゃいよ」
「さあ」
「兄さんも是非引っ張るって言ってらっしゃいますわ」
「条件があります」
んな?」
「お帰りの途中、僕のところへ寄って下さい」
 と堀尾君はかねての空想を持ち出した。
「厭よ」
「何故?」
「何故でも、オホヽ」
「僕、兄さんを説きつけます」
「私、何うしても厭」
「兄さんを説きつければ否応なしですよ」
「圧迫しても駄目よ。私、一人で帰ってしまいますわ」
「強硬ですね」
「極りが悪いじゃございませんか?」
 と道子さんは到底応じそうもなかった。
「それなら僕も鞆へ参りませんよ。同じことです」
「あなたはっとも構いませんわ」
「何故ですか?」
「兄さんのお友達ですもの」
「成程。うでしたね」
「まあ!」
「しかしそれっきり?」
「えゝ」
「おや/\」
 と堀尾君は大袈裟に頭を掻いた。
「オホヽヽヽ」
「ハッハヽヽヽ」
「いらっしゃいよ、本当に」
「上るかも知れません」
「お約束ね?」
「就職口が定れば駄目ですよ」
「えゝ。それなら仕方ありませんけれど、定らないでお閑のようならお約束ね?」
 と道子さんは強要きょうようした。
「上ります」
「屹度?」
「えゝ。しかし兄さんの式はいつですか? お邪魔になると悪いです」
「秋よ」
「確定ですか? もう」
「えゝ」
「僕には少しも話しません」
「矢っ張りきまりが悪いんですわ」
「一つ素っぱ抜いてやりましょうか?」
「いけませんよ。私、一切口止めされているんですから」
んな人です?」
 と堀尾君は最近奥田君の縁談を聞き込んで興味を催している。
「ナカ/\綺麗な方よ。写真が来ていますわ」
「拝見出来ませんか?」
うね」
 と道子さんは立って、本箱の引出から持って来た。
「成程」
「私よりも二つ下よ」
「目の下に黒子ほくろがありますね」
「それは涙黒子といって、薄命の相ですって。私が然う申上げたら、兄さんは叔母さんに頼んで、易者に見て貰いましたのよ」
「この写真をですか?」
「えゝ。兄さんのも」
「はゝあ」
「相性を見て戴くのには両方ある方がいんですって」
「奥田君も案外迷信家ですな」
「学問をやった割に理性が発達していませんのよ。もっとも叔母さんがお勧めになったんですけれど」
「易者は何と言いました?」
「差支ないんですって。兄さんは悉皆すっかり気に入っているものですから、『見ろ。黒子なんか彼是かれこれ言うのは迷信だ。何うもお前はお饒舌しゃべりでいけない』って、お小言を仰有おっしゃいました」
自家撞着じかどうちゃくじゃありませんか?」
「それで私、オホヽヽヽって先ず笑って上げましたの」
「成程」
「それから、『易者なんかに見て貰う人に迷信よばわりをする資格がありましょうか?』って言って上げましたの」
「大出来、大出来」
「オホヽヽヽ」
「近来の傑作ですよ。頭が好いです」
 と堀尾君は益※(二の字点、1-2-22)感心して、
「兄さんギャフンと参ったでしょう?」
 と御機嫌取りに努めた。
「いゝえ。負け惜みが強いのよ」
「はゝあ」
「然ういう口の達者な奴ですって」
御道理ごもっともです」
「まあ! ひどいわ」
「ハッハヽヽヽ」
「あら!」
 と道子さんは階段の足音を聞きつけて、堀尾君の手から取るより早く、写真を引出へ仕舞い込んだ。
「やあ」
 と奥田君が上って来た。
「失敬」
 と堀尾君は澄ましていた。
「兄さん、堀尾さんはお帰りになるんですって」
「何だい? 来たばかりで」
「いゝえ、お郷里くにへよ」
「いつ?」
明後日あさってですって」
 と道子さんは特別に活躍する必要を感じた。兄さんを裏切って気が咎めている。
「堀尾君、イヨ/\めたのかい?」
「うむ。仕方がない」
 と堀尾君は頷いた。
「就職の方は何うする?」
「諦めた」
「永久にかい?」
「君とは違うよ」
「僕だって好いところがあれば出る」
「何あに、君は番人だ。郷里へ帰れば、もう出て来なかろう」
「来るとも。番をするほどなんて有りゃしない。しかし郷里か東京かってんだから、探す範囲が狭い」
「僕は東京丈けだ。成行に委せる。足掻あがいても駄目と見越がついたから、当分鮎でも釣って頭を休めようと思う」
「それも宜かろう。しかし明後日とは余り颯急さっきゅうじゃないか?」
「家からやかましく言って来るものだから、いっそのことゝ思って、今日定めたのさ。悉皆すっかり引き払って行く」
「これは驚いた」
「何故?」
「秋に出て来た時、何うする」
「その時は又その時のことさ。それまでには何うにかなるだろうさ」
「就職の方がかい」
「うむ」
「君は成績が好いんだから、我儘さえ言わなければ屹度あるよ」
「さあ」
「あることは確かだけれど、果して勤まるか何うかが疑問だ」
「何故?」
「ハッハヽヽヽ」
「我儘だからかい?」
「まあ、その辺だろうね」
 と奥田君は又笑った。
「兄さんの方が余っ程我儘よ」
 と道子さんが加勢に出た。
「賛成々々」
 と堀尾君は大喜びだった。
「兎に角、急に淋しくなるね」
「僕もさ」
「仕方がない。用のないのにグズ/\しているのは退屈なものだよ。僕も早く帰りたいんだが、此奴の方がナカ/\休暇にならない」
「十五日頃だってね?」
「うむ?」
「寄らないか?」
「駄目だよ。今度は大急ぎだ」
「しかし一日や二日は何うにでも都合がつくだろう?」
「いや、親ってものは何処のも同じだ。っとも聞き分けがない」
「何とか言って、他にも急ぐ理由わけがあるんだろう?」
「兄さん、大変な汗よ」
 と道子さんは奥田君に注意すると共に堀尾君を睨んだ。
「拭いても拭いても出る」
「額から流れていますわ」
「この二三日メッキリ暑くなったよ」
 と堀尾君は団扇うちわで煽いでやった。
「いや、もうソロ/\出るところを、努めて長く入っていたものだからさ」
「え?」
「ハッハヽヽヽ」
 と奥田君は湯上りの赤ら顔をタオルで拭きながら、一寸急所を突いた積りだった。好人物ながら、昨今は堀尾君が自分よりも妹の為めに訪ねて来ることを知っている。しかしそれを不快に思うのではない。もとより自分も進んで纒めてやった縁談だ。
 間もなく堀尾君は、
「それじゃ何うしても寄って貰えないんだね。仕方がない」
 と諦めて、
「しかしこの際だから、特別をもって堪忍してやる」
 といささむくいた。
「何だい? この際ってのは」
「これってこともないけれど、頻りに急ぐからさ」
「実際今度は一刻を争うんだ」
「この際ね」
の際だい?」
「実際」
「うまく誤魔化したね」
「ハッハヽ」
「君の方から出掛けて来ちゃ何うだい? 去年の続きだ」
 と奥田君は当然のことゝして誘い始めた。
「さあ」
「いらっしゃいよ、堀尾さん」
 と道子さんはもうお約束なのに、兄さんの手前、体裁をつくろった。
「僕達は書き入れにしているんだぜ」
「或は又御厄介になるかも知れない」
「ゆっくり遊ぼうよ。今度は怪我をする必要もあるまい」
 と奥田君が又やった。
「参った」
 と堀尾君はこれを出されると一言もない。
「もう逃がしませんわ」
 と道子さんは言ったが、誤解のおそれがあるので、
「九官鳥を」
 と附け足した。
「何なら一緒でも宜い。僕達の帰る時、途中で待ち合せて」
「いや、僕だって帰ればう直ぐには出られない」
「それじゃ後からやって来給え。僕の方は君も知っている通り、いつでも宜いんだ」
「本当にいらっしゃいよ。ねえ、堀尾さん」
 と兄妹、口を揃えて勧めた。堀尾君は素より異存なかった。道子さんには寄ってくれゝば行くと言ったが、寄ってくれなければ尚お行く必要があるのだから、早速快諾して、
「ところで奥田君」
「何だい?」
「実は今夜はお暇乞いながら、相談があって上ったんだよ」
 と切り出した。
「ふうむ」
「無論一身上の問題だ。卒業を一段落に、この際解決してしまおうかと思って、この間から考えている」
ういうことだか承わろう」
「君が反対なら、僕は今の立場として是非と主張も出来ないが、賛成してくれるようなら、直ぐに決行する」
「道子や、お前は下へ行っていなさい」
 と奥田君は稍※(二の字点、1-2-22)慌てた。
「いや、奥田君。道子さんにも直接関係のある問題だよ」
「それだからさ」
「それだから、僕は道子さんの意見も伺いたい」
「此奴は万事僕の言いなりだよ」
「いや、君が賛成してくれても、道子さんに内心御異存があるようだと、僕は後々あとあとまで困る」
「僕は賛成しないから大丈夫だ」
「何だい? もう分っているのかい」
「うむ。※(二の字点、1-2-22)ほぼ見当がついた。道子や、お茶を入れておいで
「はあ」
 と道子さんが立って行った後、
「君、君」
 と奥田君は声を潜めて、首を差し伸べた。
「何だい?」
「卒業まで待ってくれなくちゃ困るよ」
「何を?」
「式さ」
「ハッハヽヽ」
「違ったかい?」
「道理で話がトンチンカンだと思ったよ」
「それじゃ何だい?」
「僕は今度帰ると、分家ってことになって、財産が貰えるんだ」
「ふうむ」
「以前の交際なら兎に角、斯ういう一身上のことは打ち明けて話すのが当り前だろう」
「無論さ」
「どっこい。うは言わせない」
「何だい?」
「広島からお嫁さんを貰うことを何故黙っているんだい?」
「これは驚いた」
「ハッハヽヽ」
いずれ確定してから話すよ」
「確定はもうしている」
「それじゃ後から詳しく話すことにして、君の方を先に承わろう」
「まあ待ってくれ給え。道子さんにも直接関係のあることだから」
 と堀尾君はいつもと違って、見識けんしき超越ちょうえつしていた。明日は一日支度で忙しい。夜分は同郷の先輩岡村さんを訪れる。して見ると、今晩で当分お別れになる。但し明後日あさっては日曜だ。見送りということを念頭に置いて、めたのである。
 道子さんがお茶を持って上って来た時、奥田君は、
「お前もこゝにいなさい」
 と命じた。
「お邪魔じゃございませんの?」
「差支ない。堀尾君がこれから芽を吹く」
「はあ?」
「景気の好い話をするそうだから、聞いていなさい」
「それでは承わらせて戴きますわ。まあ、お茶をお一つ」
 と道子さんは如才じょさいなく、そのまま坐り込んだ。
「斯う改まると困る」
 と堀尾君はお茶を飲み乾して、
「もう一杯」
 と手間を取る。
「君は金のことを一切言わない男だったが、ヨク/\だね」
 と奥田君は待ちもどかしがった。
「欲しそうに見えるのかい?」
うじゃない。一体金のある奴は金のことを言わないものだ。うだい?」
「僕は無頓着で、有るなしに超越しているから、今まで一向話さなかったが、卒業と共に財産を分けて貰うことになっている」
「矢っ張り有る証拠だ。あの屋台骨じゃ次男坊でも叩きっ放しってことはないと思っていた」
「しかし金じゃない。僕の家は百姓だから田地だ。それも余り上等のところじゃない。君はこの正月寄って一緒に猟に行った時、小作人に頼んで、池の家鴨あひるを打たせて貰ったことがあったね?」
かもだよ、あれは」
「それは何方どちらでも構わない。場所さえ覚えていればい。僕はあの池の周囲一帯を貰うことになっている。四百俵かっきりだ。一俵十円と見て四千円、十二円五十銭の五千円、十五円の六千円……」
 と堀尾君は計算を暗誦あんしょうしているように述べて、米の相場次第だが、金利の見積りから、先ず十万近くの財産が貰える勘定だと言った。
「成程。それじゃ落ちついている筈だよ」
 と奥田君は期待以上だったので、道子さんの為めに安心した。
「いや、これからが相談だ」
「兄さんは一体幾ら貰う?」
「千五六百のところを僕に四百寄越すんだから、千二百カツカツになる」
「四分の一だね、君の分け前は。次男坊は精々五分の一だぜ。兄貴によっては六分の一、七分の一、悪くすると十分の一にも刻む」
「大体そんな相場そうばかね」
「四分の一ならってめいすべしさ。それに大学を卒業させて貰っている。苦情を言うのは少し慾だろうぜ」
「苦情じゃないんだ」
「何だい? それじゃ」
「僕は悉皆すっかり辞退しようと思っている」
うして?」
種々いろいろと考えて見たが、矢っ張り貰わない方が宜いようだ」
「くれっぷりでも悪いのかい?」
「いや、関係は至って円満だが、辞退する方が身の為めだと思う」
「何故?」
「多少あると当てにしていけない。現に就職の時機を逸したのも、貰いさえすればと思って落ちついていたからさ。何うも奮発心がなくていけない」
「成程」
「これから社会へ出て自力で成功するとしても、彼奴あいつは多少持っていたから巧く行ったと言われる」
「成程」
「考えものだよ。成功の足しになるようならだしも結構だけれど、かえって邪魔になりそうだ。僕のような我儘ものは食うに困らない限り本気にならない。君が先刻勤まるまいと云ったが、実際うだ。よしてもその日に差支えないと思えば、直ぐに喧嘩をする。つまり恒産こうさんがある為めに、一生席が暖まらないというようなことになる」
「成程」
「身を捨てゝこそ浮ぶ瀬もあれ。僕は裸一貫で社会へ出たいと思う」
「成程」
「斯ういう考えから、財産を貰うことはやめにしようと思うんだが、何うだろうね? 君」
「冗談言っちゃいけないよ」
「え?」
「一体、君は誰にそんな智恵をつけられたんだい?」
 と奥田君は頭からおろした。
「厳しいんだね」
「僕は全然反対だよ」
「ふうむ」
「勤まらないと言ったのは恒産があるからじゃない。君はあってもなくても勤まらない」
「何故だろう?」
「然ういう性格だから仕方がない」
「全然落第だね」
「差当りはむずかしい。年を取れば世の中ってものが分って来るだろうが、今のところは直情径行ちょくじょうけいこうに過ぎると思う。現にこの相談が君の性格を物語っている」
「君は老成人ろうせいじんだよ」
「それがいけない」
「いや、冷かしたんじゃない。本当だ」
「本当に然う思うなら、僕の言うことを聴き給え」
「何うするんだい?」
「子を見ること親にかず。君のファザーは君の性格を知っているから食える丈け分けてくれるのさ。君はあって勤まらないと思うなら、あっても、ない積りでかゝればい」
「成程」
「君のことだから、十万円がいつまでも十万円じゃいない。ダン/\へって、その中に理想通りになるんだから、急ぐことはっともない」
「恐れ入った」
「それまでには随分揉まれるだろうから、圭角けいかくが取れて勤まるようになる。修業の積まない中に辞退したんじゃ実際路頭に迷うかも知れないぜ」
「散々だね」
「以上、日頃含んでいるところを丁度好い機会に申上げる」
「もう分ったよ」
 と堀尾君は甘受して、
「道子さん、あなたは何うお考えですか?」
 と向き直った。
「存じませんわ、私」
「兄さん御同様、僕を信用なさいませんか?」
「オホヽ」
うですか?」
「私、何方でも宜いんですけれど、お父さんお母さんが折角下さると仰有るものを御辞退なさるにも及びませんでしょう?」
「成程」
「角が立ちはしませんこと?」
 と道子さんは婉曲えんきょくに反対した。俸給丈けでは心細いと思っている。それも今の話では取れるか取れないか分らない。
「兄さんも不賛成、道子さんも不賛成と」
「当り前さ」
 と奥田君がけなしつけた。
「仕方がない。多数決だ。貰って置こうか」
うし給え」
「安藤先生の忠告で一寸発心ほっしんしたものゝ、実は僕も欲しいんだ」
「安藤さんかい? 成程」
「うむ」
「先生の言いそうなことだ」
「しかしうせ君達が止めてくれると思って安心していた」
「それなら賛成してやるとかった」
「いや、明日の晩、岡村先生のところへ行って相談すれば屹度止めてくれる」
「岡村さんて人も君が私淑ししゅくしているくらいだから、安藤先生の亜流ありゅうじゃないかい?」
「何あに、岡村先生が賛成しても、郷里へ帰れば兄貴が止めてくれるにきまっている」
「止めてくれる人を探して歩くんだね」
「死にたくない奴の自殺みたいなものさ」
「まあ! オホヽヽヽ」
 と道子さんが先ず笑い出した。
 直情径行の堀尾君も愛人の前には策をろうする。十万円貰うと真向から発表しては宣伝みて品が好くないから、斯ういう手順を履んだのらしい。ナカ/\機嫌取りが巧い。
「冗談は兎に角、僕は大に感じたよ」
「何を?」
「安藤先生の忠告さ」
「何ういう?」
「多少恒産こうさんがあると、僕のような我儘ものは何処へ行っても勤まらないというんだ。或はうかと思っていたところへ、君からウンと痛めつけられた。これは有るなしに拘らず勤まらないというんだから、少々極言きょくげんのようだが参考にはなる」
「それで何うする?」
「貰うよ」
「就職の方は?」
「郷里へ帰って少時しばらく遊んでから本気で探す。あり次第本気で勤める」
「結構だ」
「財産は貰っても当にしなければ、ないのも同じことだ。安藤先生の精神も生きるし、君達の忠告にも副うことになる」
 と堀尾君はよんどころなく十万円貰う形にした。

贅沢な就職難


「民友新聞」の個人消息欄に、
△法学士堀尾正晴氏 昨日馬橋村へ帰省きせい
 と出ていた。劈頭へきとう第一だったから、直ぐ目についた。堀尾君は、
覿面てきめんだな」
 と思って、くすぐったいような心持がした。しかし次に学生の帰省が六七名麗々しく並んでいたので、
「相変らずだな」
 と微笑んだ。田舎いなかの新聞は目の細い網だ。時には中学生まですくい上げる。
△陸軍大尉篠崎一造氏 病気にて途中下車、駅前小花屋に投宿加養中。
△加茂村助役須藤儀右衛門氏 令息の結婚にて昨日東上。
△三井物産会社員岩崎悌四郎氏 関西出張帰東の途次昨夜馬橋村へ帰省。
「おや/\、悌四郎君が来ているのか?」
 と堀尾君は覚えず呟いた。
「早いね」
 とそこへ、兄さんの玉男さんが現れた。
「お早う」
 と堀尾君は新聞を手から放した。
草臥くたびれたろう? おそくまで話して」
「いや、一向」
彼方あっちへおいで。ソロ/\御飯の支度が出来る」
 と玉男さんは迎いに来たのだった。
「久しぶりで帰って来ると、田舎も悪くない」
 と正晴君は立って庭を眺めた。堀尾家は村一番のお大尽だいじんだ。好い庭を持っている。
「悪くて何うするだ?」
 とその惣領の玉男さんは徹頭徹尾田舎に満足している。
「松が一本枯れかゝっているね?」
れ?」
「あれさ」
「成程」
「始終見ていると気がつかないんだね」
「ついうっかりしていた」
銀杏いちょうも大きくなった」
 と正晴君は縁側から見上げた。赤ん坊の時、猿に抱かれて天辺てっぺんまで登った木だ。当人の正晴君は知らないが、十ばかり年上の玉男さんはその折の大騒ぎを能く覚えている。
 食事中、お父さんの茂作さんは、
「お祖父さんが生きていたら、さぞ喜ぶだろうにな」
 と思い出した。
昨夜ゆうべは久しぶりで夢に見ましたよ」
 と正晴君は隠居に寝たのだった。
「早速お墓詣りをしておいで。俺も一緒に行こう」
「私も参ります」
 とお母さんもイソ/\していた。彦平老人は正晴君が必ず大学を卒業するようにと神信心をしていたのである。絶筆になった手紙も東京の岡村さんへ正晴君の修業について頼んだものだった。
「お祖父さんは幾つでしょうね? し生きていたら」
「八十六か七でしょうよ」
「七だよ。去年死んだ藤右衛門が八十五で村中の年嵩としかさだったが、あれより一つ上だったから」
 とお父さんが説明した。
「それじゃとてもむずかしいです」
う思って諦めるさ」
「お父さんはお幾つになりましたか?」
 と正晴君は親父の年がいつもアヤフヤだ。
「五十九だ」
「いつもそれくらいですね」
「そんなことがあるものか。天竺屋てんじくやじゃあるまいし、矢っ張り年に一つずつしか取りはしない」
「岩崎さんが何うかしたんですか?」
「この間、或寄合あるよりあいで一緒になったら、わしは六十二だから見渡したところ一番年頭としがしらだと言って、上座につわっている。馬鹿だよ、彼奴は」
「しかしお父さんより多いんでしょう?」
「いや、一緒に徴兵検査ちょうへいけんさを受けたんだから、同じか、精々一つ上だ。三つなんて違う理由わけはない」
「それじゃ上座へ坐った言訳でしょう?」
「そんな殊勝しおらしい人間じゃない。慾の皮が突っ張っているから、取るものなら、年でも余計に取ろうって料簡りょうけんだろう」
「まさか。ハッハヽヽ」
 と玉男さんは笑ったが、天竺屋とは相変らずりが合わないようだった。
「天竺屋といえば、悌四郎君が帰っているようですね」
 と正晴君は先刻さっきからそれを考えていた。
うかい?」
「新聞に出ていましたよ」
「時々出張があって寄るようだ。家へもいつか寄ってくれた」
「然うですってね」
「親に似ない心掛の善い子だよ」
「はあ」
「天竺屋は悌四郎さんが大の自慢だ。三井物産だから、資本金が五千万円だなんて、自分が持ってでもいるようなことを言っている」
「悌四郎君は堅いですから、受けが好いようです」
「賞与から出張の儲けを合せると村長どころじゃないそうだよ」
「それはうでしょう」
「お前も一つ早く何処かへ入って貰いたいものだね」
 とお父さんは一寸問題に触れた。
「はあ」
「お父さん、此奴は困りものですよ」
 と玉男さんが素っぱ抜いた。
「何故?」
「五十円や六十円で自由を束縛されたくないと言うんです」
「然ういう意味じゃないですけれど」
 と正晴君は頭を掻いた。
「会社は何といっても民間だ。五千万円あったって、何の驚くことじゃない」
 とお父さんは天竺屋の言分が癪に障っている。
「…………」
「役人の方が威張れるよ」
「…………」
「何うせ縛られるなら、会社よりもお上の手で縛られる方が宜い」
「泥棒みたいですね」
「兎に角、縛られなけりゃ駄目だよ。今時、余饒よじょうを言っていると、食いっぱぐれになる」
「それは分っています」
「矢っ張り役人がいだろう。その積りで試験まで受けているんだもの」
「さあ」
「厭かい?」
「地方へ廻されますよ」
 と正晴君、相応頭が好いのに、昨今は道子さんで目がくらんでいる。
「県庁だろう?」
「はあ、属官ぞっかんです」
「属官で結構さ。初めだもの」
「悪くすると村長に廻されます」
「村長結構」
「…………」
「野口さんなんかと違って、修業だからね。直ぐに郡長になれる」
「いや、事務官です」
「事務官結構。それから知事だろう?」
「いや、内務部長を長いことやらなければなりません」
「内務部長になれば大したものだよ。会社の重役なんか足許にも寄りつけない」
 とお父さんは官尊民卑だ。地方の有志や素封家そほうかには斯ういうのが多いから、官吏も田舎へ行くと息がつける。
「悌四郎さんは村長さんよりも上なの?」
 とお母さんが訊いた。
「上ってこともありませんが、収入が多いという意味でしょう」
「でも、月給が余計取れるようなら、位が上じゃありませんか?」
「位ってものは官吏だけで、会社員にはないんです」
「それじゃ格式?」
「さあ」
 と正晴君も困る。
「悌四郎さんは高等商業ですよ。お前は大学を出て、下になるなんて、別に成績が悪くもないのに、変じゃないの?」
「下になるとは限りません」
「でも、村長だってじゃありませんか?」
「村長とも限りません」
「天竺屋はこの頃増長していて本当にひどいんですよ」
「これ/\、そんなことはうでも宜い」
 とお父さんが制した。
「正晴や」
「はあ」
「お前は悌四郎さんと違って、大学を一番で卒業したんだからね」
「はあ」
「役人になっても会社へ入っても、天竺屋を見返してやらなければ、先祖代々へ相済みませんよ」
 とお母さんは恐ろしく非論理的だ。家つき娘だから、代々村一番だった堀尾家の旗色が少しでも悪いと、狂人きちがいのようになる。正晴君は決してさからわない。
「大丈夫です。何かやります。お父さんもお母さんも御安心下さい」
 と誓うように答えた。無論何かやろうと思っている。しかし何をやるのだか、未だ方針がきまっていない。
 食後、尚お話し込んでいるところへ、
「小旦那さん、岩崎さんの小旦那さんがお見えになりました」
 と女中が取次いだ。
「それは/\、一寸会いに行こうかと思っていたところだった」
 と正晴君は直ぐに立って行った。
「やあ」
「やあ。君が帰っているとは思わなかったんだよ」
「僕もさ。今朝新聞を見て、これから行こうかと思っていたところさ」
「僕は今見て直ぐやって来たんだ」
「さあ。上り給え」
「それじゃ一寸お邪魔する。昼からの汽車で立たなければならないんだから」
 と悌四郎君は隠居へ上り込んだ。
 家同志は村内の両雄として勢力争いをしていても、息子同志は極く仲が好い。小学校中学校を通しての級友だったし、東京へ出てからも始終往来ゆききをしていた。尚お悌四郎君は正晴君に全く頭の上らないことが一つある。現在の細君を貰う時、正晴君に一方ひとかたならぬ手数をかけている。
「あの頃は……」
 と言われると、直ぐに、
「参った/\」
 と兜を脱がなければならない関係になっている。
とどこおりなく卒業したよ」
 と正晴君は流石さすがにニコ/\した。
「お芽出度う。一番だったってじゃないか」
「いや、県人中で一番だったのさ」
「全体では?」
 と悌四郎君は相変らず席次を問題にする。中学時代にしのぎを削った間柄だ。
「七番さ」
「それなら優秀だ。去年十番で出た奴が来ているが、素晴らしいものだ」
「卒業席次で人間の相場がきまるんだから厭になる」
「仕方がないさ。他にメートルがないんだもの」
う言えば然うだけれど」
「何処へ定ったんだい?」
「いや、待っていても口がかゝって来ないから、思い切って、悉皆すっかり引き払って来たんだよ」
「冗談言っている」
「本当だよ。一遍人物試験で失策しくじって、二度目を躊躇している中に時機を逸してしまった」
「ふうむ。何処だい?」
「○○紡績さ」
「一流会社じゃないか? 惜しいことをしたね」
「然うとも思わないよ」
「何故?」
「考えて見れば、僕は元来紡績の紡の字にも興味がないんだもの」
「それは誰だって然うさ。入って見なくて分るものか? 皆法科の学問をやったんだもの」
「法科の学問をやった連中が死物狂いになって紡績へ入りたがる料簡りょうけんが分らない」
「しかし君だって自分で志望したんだろう?」
「然うさ」
「何ういう料簡で志望した?」
「その料簡が自分ながら今もって分らない。唯フラ/\ッとそんな心持になったんだね」
「いけない/\。又人生問題が始まった」
「ハッハヽヽ」
「何うするんだい? 理窟は兎も角、実行の方は」
「もっと法科の人間らしい仕事をしようと思っている」
「弁護士かい?」
「いや、未だこれって考えがないんだ」
 と正晴君は迷っている。単に手をこまぬいていて時機を逸したのだが、それを一向に惜しかったとも思っていない。元来一理窟ねないと気の済まない男だ。一生涯に関係する就職の問題だから、無論手間がかゝる。
「時に堀尾君、今回はお芽出度う」
 と悌四郎君は虚を突いたように祝意を表した。
「何が?」
「定ったってじゃないか? もう一つの方が」
「さあ」
 とニッコリ。
「ハッハヽヽ」
かくしても駄目だよ」
「岡村先生から聞いたのかい?」
「うむ。笑っていたぜ」
「何て?」
「僕の時冷かしたけれど、あれに※(「走」の「土」に代えて「彡」、第3水準1-92-51)しんにゅうをかけたようだって」
「まさか」
「本当だよ」
「岡村先生がそんな詳しいことを知っている筈はない」
「奥さんだよ」
「奥さんにだって結着を報告した丈けで、詳しいことは話しゃしない」
「見給え」
「何だい?」
「言わず語らずの中に、詳しいこと詳しいことって告白している」
「おや/\」
 と正晴君は美事められた。
「ハッハヽヽヽ」
「君もナカ/\人が悪くなったね」
「揉まれるからさ。たった二年だけれど、それ丈け早く社会に出ているから、もう然う/\負けちゃいないよ」
「ソロ/\追いつくかい?」
「うむ。悪智恵が」
「やるね。実際」
「ハッハヽヽ」
「実は卒業とその方の報告ながら一遍上ろうと思っていてつい失敬しちゃった」
「僕こそ御無沙汰して済まない。この頃は無暗むやみと忙しいものだからね」
「出張だってね?」
「うむ。今日帰って間もなく又出掛けるんだよ」
「東奔西走か?」
「文字通りさ。遣り切れない」
「奥さんは御丈夫だろうね?」
「有難う。実は寝ている」
「何うしたんだい?」
「生れたのさ」
「ふうむ。いつ?」
「先月」
「それはお芽出度う。っとも知らなかった」
わざと知らせなかったんだもの」
「何故?」
「お互っこだって気があった」
「実に悪くなったよ、君は」
「ハッハヽヽ」
「岡村さんへも知らせなかったろう? 僕は一昨日おとといの晩寄って来たけれど、そんな話はっとも出なかった」
「先生のところへは知らせたよ。仲人だもの」
「尤も僕はもう一軒寄るところがあって急いだからね」
「ヘッヘ」
「おい」
「ヘッヘヽヽヽ」
「手がつけられない」
ともへはいつ行く?」
 と悌四郎君は辛辣しんらつを極めた。
「三井物産てところは悪い奴等の寄合らしいね」
「何故?」
「君がこんなになったかと思うとさ」
 と正晴君も感心した。
「しかし面白いよ、会社は」
「君は境遇に順応出来る性質たちだから徳だ」
「順応するもしないもない。世の中は理窟よりも実行だよ」
「何の実行だい?」
「生活の実行さ」
「それなら誰でもやっている。人間は皆生きているんだもの」
「いや、活動生活の実行さ。活動さえしていれば人生問題なんか自然に解けてしまう」
「又一説だよ」
「珍しく賛成したね」
「賛成じゃないよ。認めた丈けさ。これから反駁はんばくを加える」
「僕のは信念だ」
「逃げたね」
「ハッハヽヽ」
 と悌四郎君は議論を好まない。余他あとは世間話に打ち興じて辞し去った。
 殆ど入り違いに、野口村長がやって来た。
「正晴さん、いや、今回は何うもお芽出度うございました」
 と誠意おもてに溢れていた。
「お蔭さまで漸く」
「一番で出て戴いたので、わしまでも鼻が高いです」
「いや、県下の一番じゃ自慢になりません」
「何あに、結構ですよ。慾を言えばりがありません。ところでお勤め口は官途ですか? 民間ですか?」
きまらないのです」
 と正晴君はこの教育村長を最も恐れている。期待が大きくて手がつけられない。
「官途がいです」
「考えているんですけれど、地方へ廻されますから」
「本県へ御来任願えませんか?」
「さあ」
「あれは幾分御本人の希望が通るものじゃありませんか?」
「いや、絶対命令でしょう」
「本県てのはっと慾ですな」
「…………」
「何処でも出世の早いところなら、御辛抱なさることです」
「はあ」
「是非一つ願います」
「はあ」
「本県からは大臣は無論、次官もだ出ていません。責任が重いですぞ」
「然う御期待下さると困ります」
「いや、試験が通っているんですから、知事ぐらいまでは凝っとしていても鰻登りで行きましょう」
とても/\」
「御謙遜ですな」
「本当ですよ。現に口がないんです」
いずれ又ゆっくりお願いに上ります。関校長も連れて参りましょう。先生、教え子の中から初めて学士が出たと言って大喜びをしています」
「実はお礼ながら、お宅と関先生のところへ伺おうと思っていたところです」
「恐れ入ります。何れ又」
「まあ、宜いじゃありませんか? 親父も今出て参りましょう」
「いや、新聞を見て、役場の方をすっぽかして来たのですから、又改めて」
 と野口さんは大急ぎだった。
 馬橋村の知識階級は野口村長と関校長が頭株あたまかぶだ。それさえ大学を出れば必ず知事になれると思っているのだから、他に話相手がない。
 正晴君は二三日で退屈を感じ始めた。
 それから一週間ばかりして、奥田兄妹の帰省を二つ東の駅で迎えて四つ西の駅まで送った。無論兄貴よりも妹が目的だ。
「道子さん、こゝで迎えて殆ど隣県まで送るんですから、宮様待遇ですよ」
 と冗談を言った。道子さんは無論満足だった。丁度昼時だったので、三人連れ立って食堂へ行った。
「時に君、貰うものは貰ったかね?」
 と奥田君は笑いながら訊いた。
「うむ、目下手続中だ」
「安心した」
「しかし有っても無い積りでやる」
「それに限る。口の方は何うだい?」
「あのまゝさ」
「頼んではあるんだろうね」
「さあ。卒業前の話だから、西本先生、もう忘れているかも知れないよ」
「呑気だね」
「あの人は呑気だ」
「君さ」
「僕か? しかし僕は迷っているんだ」
「何うして?」
「今こゝに硝子製造会社の口があるとする。元来硝子というものに興味を持ったことのない僕が、行き当りばったり、死物狂いになって採用されようと努力すべきものだろうか?」
「又始めたね」
「しかし……」
 と言って、正晴君は道子さんの気色けしきを窺った。道子さんは睨んでいた。
「いつ来る? ともへは」
 と奥田君が訊いた。汽車が動くので落ちつかない。話は飛び飛びだ。
「君の方の都合次第さ」
「僕の方はいつでもい」
「それじゃ成るべく早く行く」
「立つ前に知らせてくれ給えよ」
「うむ」
 と正晴君は頷いて道子さんを見た。今度は笑っていた。
 食堂車から席へ戻る途中、
「堀尾さん」
 と道子さんが後ろから呼んだ。
「はあ」
「早く来て頂戴よ」
「はあ」
ぐでも宜いわ」
「しかしお帰り早々は取り込んでいるでしょう」
「取り込んでいる方が宜いわ」
「何故ですか?」
「兄さんが忙しくて」
「火事泥ですか」
「オホヽ」
「承知しました」
「それから口の方のことね」
「はあ?」
「就職の方よ」
「はあ」
「…………」
「就職の方が何ですか?」
 と正晴君は立ち止まったが、殿後しんがりの奥田君がもう追いついていた。
 又退屈の日が続いた。直ぐ行くと約束したものゝ、後を追って来たように思われては困る。奥田君丈けなら兎も角、両親や弟妹へも手前がある。しかし行きたい。懐しい。或朝「民友」の個人消息欄に、
△女子大学生 長谷川文子氏 昨日大谷村へ帰省。
 とあるのを見て、
「行こう。明日立つ」
 と即座に決心した。女子大学生という活字が、これ丈け利いたのである。人間迷っていると一寸の刺戟で自殺さえする。斯ういう精神状態では就職問題が宙ぶらりんでいるのも無理でない。
 ともに着くと去年に弥勝いやまさる歓迎だった。道子さんのお婿さんということが知れ渡っていて東京ほどの遠慮がなかった。着いた晩、奥田君のお父さんが稍※(二の字点、1-2-22)改まって祖先の話をした。十三代続いた旧家だという。
「先々代が半分近くへらしました。それから先代がそれを又四半分ほどへらしました。俺が又極く下手へたで、段々いけなくなりますから、早くこれに譲って引っ込みます。何うぞこれの力になってやって下さい。道子のことも宜しくお願い申上げます」
 とあった。
「私こそ何うぞ宜しく」
 と正晴君は膝に手をついてお辞儀をした。老人も老夫人も頼もしそうに打目戍うちまもった。五尺七寸、眉目秀麗びもくしゅうれい、申分ないお婿さんだ。
 家長が斯う打ち解けた態度を取ってくれるので、正晴君は家の人同様にくつろいだ。道子さんの予想通り、奥田君は帰郷早々で兎角忙しい。相思の二人は全く水入らずに語り合う機会があった。一週間が時の間に過ぎた。八日目の午後、海を見晴らす二階の縁側で籐椅子にもたれていた時、
「堀尾さん」
 と道子さんが見返った。
「何ですか?」
 と正晴君は待っていた。
「東京へお帰りになったら、矢っ張り麹町へ来て下さる?」
「上りますよ」
「しかし兄さんがいる時ほど度々おいでになれませんわね」
「それは仕方がないです」
「詰まらないわ」
「しかし御無沙汰にならない程度で伺いますよ」
「月に一遍?」
「まあその辺でしょうね」
「詰まらないわ」
 と道子さんは再び鼻を鳴らした。
「仕方がないです」
「あるわ」
「はあ?」
「仕方があるわ」
「何ういう意味ですか?」
「お分りにならない?」
「さあ」
「早く口をお探しになれば宜いじゃありませんか?」
「それは帰ったら直ぐに探します」
「下宿? 今度も」
「いゝえ、一軒持ちたいと思っています」
「その方が宜いわ」
「これも帰って直ぐに探します」
の方面?」
「便利の好いところを考えているんです」
「私、御相談を受ける資格がなくて?」
うでしたね。ハッハヽ」
「横暴よ」
「ハッハヽヽ」
「オホヽヽヽ」
「道子さん、何の方面にしましょうか?」
「学校へ通い好いところ」
「はゝあ」
 と正晴君は道子さんの顔を見詰めた。道子さんはらして海を眺めた。
「…………」
「兄さんはイヨ/\番人ですね」
「えゝ」
「落ちついていたから、うもうだろうと思っていました」
「以前からきまっていましたのよ」
「東京へ帰っても淋しくなります」
「邪魔でしたけれど、矢っ張り」
「ひどいですな」
「オホヽ」
「しかし伺いますよ」
「月に一遍?」
「えゝ」
「詰まらないわ。私」
「辛抱して戴きます」
「厭よ。私」
「しかし仕方がないじゃありませんか?」
「あるわ」
「さあ」
「宜いわよ。もう、お分りにならなければ」
 と道子さんはれったそうに言って、又海を眺めていた。
「堀尾君、電報だよ」
 とそこへ奥田君が上って来た。
「ふうむ。有難う」
 と正晴君は慌て気味で披見ひけんしたが、
「うまいぞ! 道子さん」
 と叫んだ。
「何だい?」
 と存在を忘れられた奥田君が乗り出した。
「西本さんからだ」
 と正晴君が気がついた。
「どれ」
 と奥田君は奪うようにして一読した。道子さんも覗き込む。
「ヨキクチアリ、メンダン、スグキタレ、ニシモト」

狭い世間


 就職の問題は一刻を争う。堀尾君は、
「ゴデンポウリヨコウサキニテハイケン。アリガタシ。アスアサチヤク。スグウカガイマス。ナニブンヨロシク。ホリオ」
 と西本先生へ返電を打った。有りつきたい一心だから、敬意も料金も倹約をしない。
「堀尾さん」
 と道子さんが寄り添った。
「何ですか?」
 と堀尾君は周囲あたりを見廻した。
「お話が定るようなら、もうおいでになれませんわね」
「定らなくても、もうお仕舞いですよ」
「お出になったばかりなのに、惜しいわ」
「仕方ありません」
「定りましょうか?」
「定めたいと思っています。もう贅沢は言いません」
「定りますわね」
「さあ」
「定れば直ぐでございましょう?」
「何がですか?」
「直ぐお勤めになるんでございましょう?」
「えゝ」
「下宿? 又」
「いゝえ、もう学生じゃないんですから、一軒持ちたいと思っています」
「その方が宜いわ」
「直ぐに探します」
「何の方面?」
「便利の好いところをと思って、考えているんです」
「あら、先刻さっきと同じお話になってしまいましたわ」
「ハッハヽヽ」
「オホヽヽヽ」
「道子さん」
「何あに?」
「九月は十日頃ですか?」
「えゝ」
「待っていますよ」
「えゝ」
「本当に」
「えゝ」
 と道子さんは頷いた。堀尾君は言外の意味を伝えたのである。無論道子さんにはそれが通じた。大学教育を受けているから、何方どっちも頭が好い。
 堀尾君は午後の急行に乗り込んだ。道子さんは堀尾君の駅を急行が停らないと言って侮ったが、鞆も急行まで十ばかり駅がある。その間を奥田君と道子さんが送った。
「巧くやり給えよ。吉報きっぽうを待っている」
 と奥田君が言った。
「贅沢を仰有らずに、オホヽ」
 と道子さんが念を押した。
 堀尾君は元来なら帰途○○駅で途中下車をして、恩師安藤先生を訪れる積りだったが、今は急ぐ旅で心にまかせない。○○市は三年間の高等学校時代を過した土地で、謂わば第二の故郷だ。程なくそれに停車した時、懐しさの余り、窓から首を伸して足らず、プラット・フォームへ下りて見た。支線が二つ分岐するところだから、乗降客が多い。しかし見知り越しのものは一人もいなかった。せめてもと気がついて、弁当を買った。もう発車間際だったから、急いで乗り込むと、狭い入口のところで鉢合せをしたものがあった。
「これは失礼」
「危い。目が見えないのか?」
「失礼しました。やあ、君」
「何だい? 堀尾君か?」
「ハッハヽヽ」
 と堀尾君が笑った時、汽車が動き出した。
「思いがけない。何処へ?」
 とそれは○高以来一緒の間瀬君だった。
「東京へ行くんだ」
「僕も帰るんだ。丁度好い」
「こゝから乗ったんだね?」
「うむ」
「何処だい? 席は」
「そこだ。三つ目だ」
「何だい? おれのところを取ってしまったのかい?」
 と堀尾君は驚いた。しかし隣りの人に譲って貰って、二人並んで坐ることが出来た。
「奇遇だな。君の席を取った上に鉢合せをしたんだから」
「目の見えない証拠だよ」
「ハッハヽヽ」
「人のことを目が見えないかなんて、アベコベじゃないか?」
「一言もない」
 と間瀬君は気がついたように眼鏡に手をかけて、片下りになっていたのを直した。高度の近眼だ。分厚の玉越しに目がゆがんで見える。
「郷里へ帰っていたのかい?」
「うむ。お婿さん支度で忙しい」
「九月というと後一月だね」
「いや、繰り上げたんだよ。もう直ぐだ」
「ふうむ。それはお芽出度う」
 と堀尾君は祝した。間瀬君は卒業早々東京の或裕福な家庭から養子に懇望されて、もう話が定っている。その相手が矢張り女子大学生で、而も道子さんの同級生だ。
「有難う。しかし僕のは貰うんでなくて貰われるんだから威張れない」
「そんな遠慮がるものか」
「案内状を出すから、来てくれ給え」
「いつだい?」
「来月の五日だ。晩の披露式丈けで宜い」
「それまで東京にいるようだったら、無論出席する」
「養子となると争われないもので、此方の方は人数からしてすくない。郷里から親父と兄貴の夫婦が一組来てくれるばかりさ」
「同級生を狩り出したら何うだい?」
「招待したいような顔触は皆何処かへ行ってしまったよ。斯うと知ったら、あんなに骨を折って送別の辞をやるんじゃなかった」
「ハッハヽヽ。つとめたりと言うべしだったよ」
「東京にいるのは誰と誰だろうな?」
「尾崎がいる」
彼奴あいつは書き入れだ。それに田口と君塚」
 と間瀬君は指折数えて、
「君は一体何の用で今頃東京へ行くんだい?」
 と訊いた。
「就職の奔走さ。西本さんから電報が来た」
「それはい。もう贅沢を言わないで有りつき給え」
「今度は逃すまいと思って、急遽駈けつけるところさ」
「奥田君のところへ行っていたんだろう?」
「うむ」
「就職よりもその方が熱心だね」
「君のは片一方丈けが絶対じゃないか?」
 と堀尾君はやり返した。
「就職にも兼ねているからね」
「纒まりが早くて宜いよ」
「その代り少し肩身が狭い」
「何あに。君の心掛け一つさ。大いにやれば宜いじゃないか」
「無論、乗り込んでしまえば、彼方は女ばかりだから、直ぐにめてしまう」
「いや、何か仕事をするんだよ」
「差当り家賃を上げる」
家作かさくが沢山あるのかい?」
「可なりあるらしい。それで食っているんだからね」
「家作は家作として、君は君で何かやれば宜いじゃないか?」
「実は弁護士を登録して置こうと思っているんだが、何うだろう?」
「結構だね」
種々いろいろ考えたけれど、僕にはそれぐらいしか能がない」
「しかし弁護士だって容易じゃないぜ。駈け出しじゃナカ/\依頼人がないそうだよ」
「いや、依頼人なんかあっちゃ困る。看板丈け出して置けば宜いんだ」
「何故?」
「家主が弁護士となると、借家人に押しが利いて、家賃の滞納がなかろうと思う」
「成程」
「妙案だろう? 折角の法学士だもの、生かして使わなけりゃね」
 と間瀬君はそれほどでもないのに、何処までも養子で食って行く志望をてらった。
「法学士も相場が下ったよ」
「もう十年早く生れて来るとかったんだけれど」
「するとお互は三十五だぜ。矢っ張り詰まらないよ」
「然うだね、僕はあぐりさんのところへ行けなくなる」
「ヘッヘ」
 と堀尾君も道子さんの面影を思い浮べた。
「今の笑い方は変だったよ」
「ハッハヽヽ」
「訂正したね」
「兎に角、僕は君の式へ出られるようだと宜いんだ」
「出てくれよ」
「口が定るようなら無論出る」
「定らなければ?」
「直ぐ帰るから駄目だ」
「それじゃ案内状は何処へ出すんだい?」
もとの下宿へ寄越してくれ給え。兎に角、あすこへ落ちつくんだから」
「よし」
「定れば家を持つ」
「直ぐ結婚するのかい?」
「いや、僕丈けさ」
「卒業まで待つ必要はないぜ。僕のところのように結婚してから通わせればい」
「それも考えているんだけれど」
「奥田君が反対って次第わけでもなかろう?」
「兄貴だからね。兄貴が片付かないと持ち出しにくいんだ」
「奥田君は一体何うなるんだい?」
「君と同じさ」
「養子かい?」
「いや、番人さ」
「番人なら早かろう?」
「この秋貰うことになっている」
「それから君達の番か?」
「然ういう黙契もっけいになっている」
「その何とかい?」
「うん」
「君もナカ/\やるんだね」
「何あに」
「いや、着々とやっているよ。去年は屋根から飛び下りたり。ハッハヽ」
「大きな声を出すなよ」
「ハッハヽヽ。大いにやっていらあ」
 と好人物の間瀬君はややもすると周囲あたりを忘却する。
 二人は神戸あたりまで話し続けた。それから寝た。堀尾君は時折目を覚ましたが、その都度間瀬君が眠っているので、
「能く寝る男だ」
 と思いながら、自分も努めて眠った。間瀬君も目が覚めると、堀尾君を見返るが、いつも眠っているので、
「能く寝る奴だ」
 と負けない気になって又目を閉じた。それで夜が明けた時、
「君は能く寝たね」
「君こそ正体なかったよ」
 と双方確信していた。
 堀尾君は東京駅から本郷の下宿へ駈けつけて荷物を置くと直ぐに西本教授を訪れた。先生も矢張り○高出だ。その縁故から時折伺って、教室以外の親みがある。堀尾君は電報のお礼を述べると共に、
「旅行中でおくれましたが、如何でございましょうか?」
 と緊張した。
「そんなに急ぐこともなかったんだよ」
「はあ」
「保留してあるから大丈夫だ。しかし直ぐ行って見給え」
「何処ですか?」
「○○紡績さ」
「はゝあ」
「一流会社だよ」
「はあ」
「実は妻の親父があすこに勤めているものだから、この間会った時、君に頼まれていたことを思い出して話したら、一人ぐらいは何うにでもなるから見込のある男なら寄越してくれと言うんだ」
「先生」
 と堀尾君はモジ/\した。
「何だい?」
「○○紡績は一遍失策しくじっているんです」
「学校から行ったのかい?」
「はあ。卒業間際でした。あすこでりて、もうそれから運動を諦めたんです」
「何うしていけなかったんだろう? 君よりも下のものが大勢入っているのに」
「人物試験が思わしくなかったんです」
「ふうむ。妙だね」
「今考えて見ると、僕が悪かったんです。少し反抗的なことを言ったものですから、銓衡委員の感情を害したんでしょう」
「それは拙かったね。議論でもしたのかい?」
「議論てほどのことでもありませんが……」
「参考の為め話して見給え」
 と教授が要求したので、堀尾君は頭を掻きながら、
「文官試験に通っていながら、何故会社を志望するかとお訊きになりましたから、会社の方が適当と思うからと答えたんです。すると何故適当かと突っ込んで来ました。単に然う思う丈けですと答えましたら、金が欲しいんだろうとけなしつけました」
「少し乱暴だね」
「僕も然う思って黙っていましたら、『何うだね?』と如何にも馬鹿にした調子で追究しました。その時癪に障って、『あなたは何うですか?』と反問したのが悪かったようです」
「成程」
ついでだと思って、適不適の問題もあなたの場合と大同小異でしょうとやったんです」
「それじゃ直ぐ追っ払われたろう?」
「はあ。その人は委員長らしかったです。他の委員が私に訊き始めたら、もう宜いよってプリ/\していました」
「そんなこわしをやっちゃ駄目だよ」
「それですから、折角でございますが、○○紡績は鬼門です」
 と堀尾君はもう諦めていた。
「構わないよ。もう忘れているだろう」
「いや、何か書き留めていました」
「兎に角、行って見給え。その男に会うんじゃない。僕の妻の親父に会うんだから」
「しかし……」
「具合が悪いかい?」
「はあ、とても見込がありません」
「案外気が小さいんだね」
「先生」
「何だい?」
「失礼ながら先生の奥さんのお父さんは痘痕あばたのあるお方じゃありませんか?」
「そんなものはないよ」
「それじゃ兎に角伺って見ます」
「君の苦手は痘痕のある男かい?」
「はあ。余っ程時代錯誤アナクロニズムの顔をしています」
うらみ骨髄こつずいに徹しているね」
彼方むこうが徹しているんです」
「それに会っちゃ無論駄目だよ」
「百年目です」
「間違のないように添書てんしょを書いてやろう」
「何うぞ願います」
「一寸失敬する」
 と西本教授は書斎へ立って、間もなくしたためて来た。
「有難うございます」
「専務だから自由が利く。君の方から喧嘩をしかけない限り採ってくれるだろうと思う」
「はゝあ」
「君、湯に入って行く方が宜いよ。顔が真黒だ」
「はあ。これは汽車の煤煙です」
「昼夜兼行で駈けつけたんだから、成功しなけりゃいけない。何を訊かれても、一々下から出るようにね」
「はあ」
「それじゃ早い方が宜い」
「はあ。これから散髪をして風呂に入って、昼から伺います」
 と堀尾君は何うやら有望になって来た。
「旅行中だから洋服は持っていまいね?」
「はあ」
「それでも結構だ。君は大きいから押し出しが好い」
種々いろいろと有難うございました」
「巧くやって来給え」
 と先生は玄関まで送ってくれた。
 その午後、堀尾君はかたちを改めて、日本橋の○○紡績株式会社へ出頭した。専務取締への添書には霊験れいげんあらたかなものがあって、直ぐに応接室へ通された。しかし待つこと三十分、雇って貰うのだから仕方がない。
「やあ、お待たせ致しました」
 と年嵩としかさの立派な紳士が現れた。
「西本先生の御紹介で伺いました。何分宜しくお願い申上げます」
 と堀尾君は懲りているから慇懃いんぎんを極めた。
「さあ、何うぞおかけ下さい」
「はあ」
「これから出かけるところですから、ほんの五分ばかりお話を承わりましょう」
 と専務は胸間から時計を出して見入った。
「飛んだお邪魔を申上げます」
 と堀尾君は又お辞儀をした。
「御用件は西本から承わっていますが、当社は官庁なぞと違って頗る劇務げきむですよ」
「はあ」
「それも最初の中は小僧にでも出来るような仕事をお願いするのですから、最高教育を受けた方には、正直の話、甚だお気の毒です」
「いや、何も修業でございますから、一生懸命になってやります」
「お身体は極くお丈夫のようですな?」
「はあ。頑健です」
「勤まる御自信がありますか?」
「はあ。及ばずながら、人一倍の努力をする決心です」
「それでは係のものを出しますから、御相談下さい」
「はあ」
「私はこれで失礼」
 と専務は一つ頷いて、もう出て行ってしまった。大会社の重役が求職者を相手にしてはいられない。女婿じょせいから紹介があったから、特別で五分間面会してくれたのである。
 堀尾君は係のものを待ち始めた時、予感があった。例の銓衡委員長が出て来るのではなかろうかと思った。係なればこそあの折銓衡の任に当ったのだ。あの男に相違ないと結論した刹那、戸が開いて現れたのは果してその痘痕面あばたづらだった。
「あなたが堀尾さんですか?」
 と委員長は案外丁寧だった。
「はあ。何分宜しくお願い申上げます」
「お掛け下さい」
「失礼致します」
「早速ですが、専務のお指図に従って、ほんの形式的に考査を致します」
「はあ」
「有りのまま御腹蔵のないところをお答え下さい」
 と委員長は手帖と鉛筆を手にして、堀尾君をジロ/\見据えた。
「はあ。実は……」
「履歴書はお持ち合せありませんか?」
「実は……」
「はあ?」
「この春一度御銓衡ごせんこうを受けたものでございます」
 と堀尾君は運を天に委せるように頭を下げた。
「はゝあ。何処か見覚えのあるように思いましたが、成程」
一寸ちょっとお待ち下さい」
 と委員長は急いで出て行って、書類を一束持って来た。それを頻りにはぐった後、
「卒業成績は素晴らしいじゃありませんか?」
「いや、一向」
「人物考査の方で落ちていますね」
「多分うでしょう」
 と堀尾君は苦しい。
態度たいど傲慢ごうまんというわけになっています」
「…………」
「お見受けしたところ一向そんな風もありませんが、確かに私の書いた字です」
「…………」
「速記の方に何か残っていましょう」
 と委員長は又はぐって見て、
「はゝあ」
 と驚いた。
「その折は飛んだ御無礼を申上げました」
「あの堀尾さんでしたか?」
「はあ。申訳ありません」
 と堀尾君も大切だいじの瀬戸際だ。
「いや、構わんです。ハッハヽヽ」
「今更御採用願えた義理じゃありませんが、先生が折角御推薦下さいましたので」
うおとなしくしていらっしゃる中に決定致しましょう。明日からおいで下さい」
「はあ」
「昔馴染ですから、もうこの上銓衡に及びません」
「有難うございました」
「ところで俸給ですが、あの時入った連中と同じことに月五十五円と御承知下さい」
「はあ」
「賞与が半期に一月半」
「はあ」
「仕事の方は明日又申上げましょう。九時初めの五時退出ってことになっています」
「甚だ勝手ですが、私は唯今旅行中ですから、何なら一寸ちょっと郷里へ帰って出直して来たいんですけれど」
「それじゃ然うして下さい。二三日のところは何方どっちでもいです」
 と委員長はナカ/\分った人だった。
 堀尾君は直ぐその足で西本教授のところへ又駈けつけて、一部始終を報告した。
「○○ボウセキニキマツタ。イロイロアリガタシ。アトフミ」
 とともへ打電したこと無論である。それから郷里へ帰って翌日引き返した。その翌日出社、辞令を受けて、漸く月五十五円の会社員になった。差当り毎日伝票を書かさせる。成程、これなら小僧にでも出来る仕事だと思ったが、未だ退屈しない。同期卒業で安川という男が入っていた。これもさかんに伝票を書く。
「帝大出は算用数字が本当に書けるようになるまで半年かゝるそうだよ」
 と至って神妙だった。
 間瀬君の結婚披露式へ出られるようなら結構だと思っていたところ、それが実現された。しかし新郎新婦は後から来て先に立ってしまったから、会って祝意を述べる機会がなかった。
「新郎新婦万歳!」
 という声に和したばかりだった。その後一度新家庭へ敬意を表そうと思っても、昼間伝票を書き間違えまいと努力するから夜分草臥くたびれてしまって出掛ける気にならない。日曜は日曜でそれからそれともっと緊急を要する私用に追われる。就職後の第一日曜には恩師岡村先生を訪れた。
「先生、○○紡績へ入りました」
 と報告したら、岡村さんは悌四郎君の先例にかんがみて、ぐに、
「式はいつですか?」
 と気を利かしてくれた。
「十月頃でしょう」
「着々として結構ですな」
「ついては家を一軒借りたいんですが、御近所に明いていませんか?」
「さあ、心掛けて置きましょう」
「直ぐでもいんです」
「しかし十月というとだ一寸間があるじゃありませんか?」
「僕一人で移って、婆さんでも雇います。下宿はもう飽き/\しました」
 と堀尾君は急いでいた。就職の報告を奥田君に致す序をもって、初めて道子さんへ一通認めた。以来、道子さんも書くようになった。毎日文通で忙しい。家は未だ見つかりませんかと頻りにそれを言ってくる。
 次の日曜には悌四郎君を訪れた。
「岩崎君、到頭有りついたよ」
 と言いながら上り込んだ。
「何処だい?」
「○○紡績さ」
せんのところじゃないか?」
「うむ」
「矢っ張り縁があったんだね。幾らだい?」
「五十五円さ」
「ふうむ。僕はこの間上って五十円だ。矢っ張り帝大は金がかゝっているからね」
 と悌四郎君はもう金利論を始めた。
「しかし未だ貰わない」
「然う直ぐくれるものか。ナスは?」
「え?」
「ボーナスだよ」
「ナスってのかい?」
「気の利いた人間はみんなう言う。ナスは幾らだい?」
「一月半さ」
「僕の方は二月だよ」
「すると結局同じことになる」
「待ち給え」
「おい。勘定はよせよ」
 と堀尾君が制した時、細君が赤ん坊を抱いて挨拶に出た。
「何うだい? 見てやってくれ給え」
 と悌四郎君は得意だった。
「君は何でも僕より一足先だね。就職も結婚も第二世も」
 と堀尾君はむずかしいことを言いながら赤ん坊の顔を覗いた。
「君も口がきまったんだから、もう間があるまい?」
「ソロ/\家を探しているんだよ。この辺にないかね?」
「さあ。ないこともなかろう」
「一つ心掛けて置いてくれ給え」
いとも。しかし幾らぐらい出す積りだい?」
「金に糸目いとめはつけない。世帯を持てば何うせ五十五円じゃ足りないんだ」
「いや、然ういう料簡りょうけんじゃ駄目だよ。会社員てものは兎に角収入インカム以内でやって行かないと上の信用がつかない」
「五十五円でやって行けるだろうか?」
「行けるとも」
「この家は幾らだい?」
「十五円だったが、最近二円上げると言って来たから、頑張っているところだ」
「しかし新しい上に庭が広いんだから、十七円の値打はあるだろう?」
「あるから入っているのさ」
「ひどい奴だな」
「お嫁さんはいつ来るんだい?」
だ分らない。お互同志では十月と見当をつけているんだけれど」
「定っているんだから、早い方が宜いよ。一日でも使い徳だ」
 と悌四郎君は何処までも実利主義だ。
 日曜毎に一つ宛訪問を果して、月末の日曜は間瀬君の新家庭だった。お婿さん、堂々たる邸宅に納まっていた。刺を通じると、書院めいた広い客間へ案内されたが、可なり待たされた。
「やあ、待たせたろう?」
 と間瀬君はわざとやったのだった。
「文句は後のことにして、お芽出度う」
「有難う。君も定ったね。僕は披露式の時、君の姿を見かけて安心した」
「分ったのかい?」
「うむ」
「君は下ばかり向いていたから、気がつかないと思った」
「知っていたんだよ」
「何うだい? 新家庭は」
「操縦自在だよ。最初が大切だいじだと思って、大いに権力を振っている」
「それは結構だ」
 と堀尾君は祝した。
さいを紹介しよう」
 と間瀬君はあぐりさんを呼び出した。絶世の美人と聞いていたが、然うでもなかった。しかし高度の近視眼にはこれぐらいでも結構綺麗に見えるのだろうと堀尾君は結論した。美醜は主観の問題である。あぐりさんは道子さんの同級生だから、初対面にも拘らず、可なり話して引き退った。
「同級生同志が同級生を貰うなんてことは滅多になかろうね?」
 と堀尾君は感じたまゝを述べた。
「奇遇さ」
「この間の汽車の中か?」
「君とは縁が深いんだ。ところで何うする?」
「何を?」
「道子さんを早く貰ってしまえよ」
「その計画で着々進行中だが、君、君の家作に明いているのはないかい?」
「ないけれどある」
「え?」
「ないけれどあるよ」
 と間瀬君はその都度頷いた。
ういう意味だい?」
「今は明いていないが、店立たなだてを食わせれば直ぐ明く」
「成程」
「牛込に一軒家賃の値上げに応じないのがあるから、彼奴を追っ払っても宜い。好い家だよ。行って見ようか?」
「しかし現に入っているんだろう?」
「外から見る分には構わない」
「さあ」
 と堀尾君は渋ったが、家が欲しいので結局応じた。
 間瀬君のところは小石川だった。ブラ/\歩いて牛込の佐土原町さどはらちょうへ差しかゝった時、
「この少し先の横町だよ」
 と間瀬君が言った。
「この少し先の横町なら僕の友人の家の近所だぜ」
 と堀尾君は考えた。それは悌四郎君のことだった。
「それなら尚お都合が好いじゃないか?」
「大きい家かい?」
「丁度手頃だ」
「家賃は?」
「今まで十五円だったのを十七円に上げようってんで問題が起っている」
「君、何て人が住んでいるんだ?」
「岩崎とかいった」
「これはいけない」
「何うした?」
「それだよ、僕の友人は」
「おや/\」
「あの男を追っ払っちゃ困るよ」
「よし/\。君の友人なら家賃はあのまゝにして置いて、隣りの奴をもう二円上げよう」
「ひどい家主やぬしだね」
「兎に角、その横町に十軒あるんだから、見て置き給え。れでも気に入ったのを安く提供する」
 と間瀬君は横暴な家主だった。

上役


 或晩、堀尾君が例によって道子さんへ通信をしたためているところへ、間瀬君が訪ねて来た。
「やあ」
「やっている/\」
「この間は失敬」
「僕こそ」
「さあ」
 と堀尾君は喜んでしょうじた。
「暑いなあ、相変らず」
此年ことしは三十年ぶりの暑さだってじゃないか」
「そんなことが新聞に書いてあったね」
「毎年何十年ぶりさ」
り切れないなあ、失敬するぜ」
 と間瀬君は羽織を脱いだ。
「袴も取り給え」
「追々にやる」
「君は殊に暑がりだから、羽織袴じゃ苦しかろう」
「夏は郷里くにへ帰って裸体はだかで暮すんだから、此年は実に骨だ。風流は寒いというけれど、養子は暑い」
「ハッハヽヽ」
「同情してくれ」
「いや、会社員も楽じゃないよ」
「暑いかい?」
「暑い寒いの問題じゃない」
「忙しいのか?」
「うむ。これってこともないが、時間に縛られるからね」
「僕も縛られているようなものだ」
「何うして?」
「妻は理解してくれるけれど、お母さんて人がナカ/\やかましい」
んな具合に?」
「この間の朝、僕が近所の店へ歯磨楊枝を買いに行ったら、早速妻に注意があったそうだ。これから気をつけて下さいって」
「いけないのかい?」
「一家の主人が書生と同じ見識でいちゃ困るというんだ。お父さんは歯磨楊枝なんか買いに行かなかったってんだ」
「成程」
「しかしお父さんは主計総監しゅけいそうかんだったからね」
「理想が高いんだろう」
「うむ。昨日も一つ失策しくじった」
「何うして?」
「玄関へ人が来たようだったから、取次に出たんだよ」
「ふうむ」
「それがいけないんだって。お父さんは自分で取次に出ることなんかなかったってんだ」
「成程」
「僕を主計総監同様に心得ている。窮屈で仕方がない」
「しかし威張っていろというんだから、圧迫されるよりもいぜ」
う思って、精々横柄おうへいに構えているんだ。堀尾」
「何だい」
「氷あずきでも取り寄せろ」
おおいに威張ったね」
「一寸模範を示したんだ」
「ハッハヽヽ」
 と堀尾君は笑って女中を呼んだ。
「実は氷あずきでも失策しくじっている」
「よく失策るんだね」
「氷あずきを発起ほっきしたら、矢っ張りいけなかった。氷は冷すもので喰べるものじゃないってんだ」
「成程」
さいがアイスクリームを拵えてくれたよ。うまかった」
「何を言っているんだい」
「ハッハヽヽ。袴も失敬する。笑うと暑い」
 と間瀬君は立ち上った。
「退屈だろう? 毎日」
「うむ。ところで用を忘れていた」
「何だい?」
「家が一軒明くんだよ。君、来るかい?」
「早速だね。まさか岩崎君のところじゃあるまい?」
「違う。あの裏合せだ」
「追い出したのかい?」
「いや、自由意志で何処かへ越すんだ」
「いつ明く?」
「今月中というから晦日みそかだろう。今日差配さはいが知らせて来たんだ」
「丁度好い。何んな家だったろう? 岩崎君の裏というと」
「全く同じだよ。家賃も十五円だ。君のことだから敷金は取らない」
「よし。借りよう」
 と堀尾君は渡りに舟だった。
「それじゃ月が改まってからいつでも都合の時に越して来給え」
「何うせ来月だ」
「一人で何うする?」
「婆さんを郷里へ頼んでやってある」
「手廻しが好いね。奥田君の方へももう持ち出してあるんだろう?」
「家を持ち次第さ。雇人丈けじゃ兎角不便で困るからってんだ」
「お嫁さんが来るんだから、綺麗にして置く方が宜いな。畳更えをしてやろう」
「頼むよ。しかしそんなことまで君が世話を焼くのかい?」
「いや、差配さはいが一人専門についている」
「ナカ/\大がかりだね。一体何軒あるんだい」
「あすこに十軒、他に二十三軒だから、三十三軒さ」
「ふうむ」
「それに地所丈け貸しているところもある。心掛けの好い親父だったと見えて、仲人口以上に裕福な家庭だ」
「それじゃ安心して遊んでいられるね」
「うむ」
「弁護士はやらないのかい?」
「思い止まった。家作に二人もいるんだから、今更看板を出してもおどかしにならない」
「おや/\」
「肌を脱ぐぜ」
 と間瀬君は又断った。
「いっそのこと裸体はだかになり給え」
「これで結構だ。家じゃとてもこんな芸当は出来ない」
「可哀そうになあ」
「実に行儀の好い家庭だよ。女ばかりだからだろうね」
「男だって君のようなのは特別だろうぜ」
「極端と極端だから辛い」
「追々教育するさ」
「いや、先方むこうで教育する積りらしい。多勢に無勢でかなわない」
「それじゃ諦めるさ。唯遊んでいられるんだから、行儀の修業ぐらいする方が宜いんだ」
「然う思って観念している」
「会社より余っ程楽だろう?」
「うむ。上役が一人きりだからね」
「あぐりさんかい?」
「いや、おっかさんだ」
「両方だろう?」
「両方にしても二人きりだよ。君のように見渡す限り上役なんてことはない」
「参ったね。ハッハヽヽ」
「上役で思い出したが、君、もう一つ相談があった」
「何だい?」
「犬を一疋貰ってくれないか?」
「さあ」
「五疋生れたんだ。君は嫌いかい?」
「好きだよ」
「今度は下宿と違って、一軒構えるんだから用心の為めに一疋飼う方が宜いぜ」
「ナカ/\勧誘が巧いね」
「方々から申込があるんだけれど、魚屋や薪屋にはやりたくないってんだ」
「上役がかい?」
「うむ」
何方どっちの上役だい?」
「両方さ」
「告白したね」
 と堀尾君は満足した。
「何うだい? 貰ってくれるかい? 今のうちならり取りだ」
「よし、一番好いのを貰おう」
「有難い」
「牝じゃ駄目だよ」
「うむ。何なら見に来て定め給え。何とかの雑種だといったよ。実によく近所の魚をくわえて来る」
「えゝ?」
「ハッハヽヽ。夫婦二人暮しなら、魚を買う必要はないかも知れない」
「大変な奴だね。ハッハヽヽ」
「それは冗談だけれど、ナカ/\悧巧な犬だよ」
「その中に見に行く」
「明日の晩来ないか?」
「会社の帰りに廻ろうか?」
め/\!」
「何だい?」
「妻が誰か招待したいと言うんだ」
「誰かとは?」
「さあ、一寸ちょっと魂胆があるんだ」
「利用されるんじゃ詰まらない」
「実はね、僕は四角張っているのが苦しいって妻に話したんだよ。妻は理解があるから、『あなたのお友達で一番乱暴な人を連れておいでなさいよ。然うすればお母さんだってダン/\分るわ』と策を授けてくれた」
「ふうむ。僕が一番乱暴かい」
「然うじゃないけれど、差当り他に心当りがない」
「有難い仕合せだね。ハッハヽヽ」
「君は成るべく行儀を悪くしてくれ給え」
「お安い御用だ。それなら別に努力しなくても勤まる」
「この頃の青年はみんなこんなものだという概念をお母さんの頭に植えつける役さ」
「よし/\」
「何時頃来る?」
「五時に引けるから、六時近くになる」
「それじゃ待っている。ついでに言って置くが、僕のところへ来たら、もう間瀬ませと呼んじゃ困るよ」
「成程、うだったね。清水君しみずくん
「実は未だ自分のような気がしないけれど、成るべくう頼む」
「妙なものだろうね? 清水君」
「急にやるね」
「稽古だ」
「時に一石二鳥を殺すというが、今晩は三鳥を仕止めた」
「何ういう意味だい?」
「家と犬と招待さ。三つ任務を果している」
「上役が褒めてくれるだろう?」
「うむ」
 と間瀬君は否定しなかった。悉皆すっかり寛ろいで、晩くまで話した後、
「これも一策だよ。友人を訪れゝば晩くなるものだという概念を妻の頭に植えつける。あゝ、好い息抜きをした」
 と言って帰って行った。
 堀尾君は○○紡績へ勤めてから一月になる。間瀬君が冷かした通り、見渡す限り上役ばかりだ。同輩が六七名いるけれど、春入ったのだから、数月の長がある。その中、安川君丈けは帝大の同級生だった。皆庶務課に机を並べて、見習という格だ。
「大勢取ったようだったが、これっきりかね?」
 と堀尾君は安川君に訊いて見た。
「二十五人いたんだけれど、みんなもう工場や支店へ廻ったんだよ」
「君達は?」
「残ったのさ」
「有望なのかい?」
「それが分らないんだよ。好いから本社に残されるという説もあれば、悪いからもう少時しばらく試すという説もある」
「兎に角、宜しく頼むよ。僕は新米の又新米だから」
「お互に力になろう。大学出は君と僕丈けで、余他あとは皆高商と私立だからね」
 と安川君も同級生を得て喜んだ。堀尾君は初めて出仕した朝、例の銓衡委員長から二時間にわたって勤務上の注意を申渡されたので、
「あの痘痕面あばたづらは一体何者だい?」
 と確めて置く必要を認めた。
「人事課長だよ」
「ふうむ」
鳧三平けりさんぺいって利者きけものだ」
「え?」
「鳧三平。なかりけりの鳧さ」
「変な苗字だね」
「類がない。この会社では鳧が鳧をつけるというくらいで、社長の懐ろ刀だよ。あの人に睨まれたら首がない」
「何だか厭な奴だな」
「やかまし屋だぜ。人事課長は新兵係だから溜まらない」
「新兵係というと?」
「お互の指導訓練を引受けているのさ。僕達は一月ばかり鳧さんから講習を受けたよ」
「何の?」
「執務上の心得さ。経験家だから無論悪いことは言わないが、あの人の註文通りにやったら命が続かなかろうって評判だ」
「僕も一昨日二時間ばかりお説法を食ったよ」
「後から入ったから、それぐらいで済んだのさ。余っ程徳をしている」
「いや、尚お追々小言を言うから、その積りでと予約をしてくれた」
「僕達だって皆未だにやられるんだよ」
「人事課からこゝまで目が届くのかね?」
「僕達は人事課から庶務課へ委託生ってことになっている。こゝの課長から成績の報告が行くんだ。決して油断はならないぜ」
 と安川君は数ヵ月の経験から尚おつぶさに要領を話してくれた。二人は大学にいた頃は通り一遍の交際だったが、実社会へ出て机を並べると事が早い。間もなく懇親を深めた。
 或日、堀尾君は、
「安川君、この会社には伝票を書かせる外に僕達の仕事はないのかね?」
 と※(二の字点、1-2-22)やや退屈を感じ始めて話しかけた。
「さあ」
「骨を折ってノートを取った民法や商法は全然らないようだ」
「それはこれから二十年三十年先のことだろう。三十年たっても重役にならない限りは要るまいぜ」
「君は諦めが好いね」
「君こそ不平が早過ぎるよ」
「何とかもうっと使い道がありそうなものだと思うけれど、仕方がないのかなあ」
「差当りは伝票専門さ。僕達は簿記が分らないんだから、直ぐに帳簿にはかゝれない。これがそれまでの訓練になるんだよ」
「何になるものか」
「君、伝票だって馬鹿にしたものじゃないぜ。一年ぐらいやらないと、字が乗らないって話だ」
「色紙や短冊じゃあるまいし、乗るも乗らないもあるものか」
「君、君」
 と安川君は声を潜めて、
「極端なことを言うと睨まれるばかりだよ」
 と注意した。
「堀尾さん」
 と隣りの机から河西君が囁いた。これは高商出の秀才だった。
「何ですか?」
「僕は御同感ですよ」
「聞えましたか?」
「はあ。しかし大丈夫です。僕は胸がスッとしました」
「何故ですか?」
「日頃思っているところをあなたに道破どうはして戴いたんです。学校で相応頭を悩ましたものは経済政策でも銀行論でも何の足しにもなりません。こゝに来て役に立つのは予科の時習った簿記丈けです」
「僕はまだひどい。小学校で習った算術丈けです。それも加減乗除かげんじょうじょけです」
「ハッハヽヽ」
「これじゃ人間が馬鹿になりますね」
「二三年馬鹿になれというのがけりさんの御教訓ですよ」
「はヽあ[#「はヽあ」はママ]うですか?」
「仕方ありませんよ」
「楽には楽ですな。馬鹿になるにはっとも努力が要りませんから」
 と堀尾君は共鳴者があったので、いささか意を強うした。
 不平を言うものは本当に仕事をしていない。今まで失策しくじった社員は大抵それである。あにいましめざるべけんやというのが鳧さんの訓諭の一節で、堀尾君は正にそれに当っていた。数日後、
「堀尾さんというお方」
 と人事課の給仕が呼びに来た。
「僕だよ」
 と堀尾君は元気好く立って行って、鳧三平さんの面前へ出頭した。
「かけ給え」
 と鳧さんが椅子へしょうじた。
「何か御用でございますか?」
 と腰を下した堀尾君は既に予感があった。
ほかのことでもないが、君の将来の為めに一寸御注意申上げて置きたいと思って」
「はあ」
「昨日給仕に君の紙屑籠を掃除させたら、伝票の書き潰しが十五枚出て来た」
「はゝあ」
「この通り、これは皆君の筆蹟だろう?」
 と、鳧さんは机の引出から出して、十五枚念入りに並べて見せた。
「僕のに相違ありません」
「伝票は二寸か三寸の紙片かみきれだから、無論重大問題じゃないが、精神の上から考えて見て、斯ういうことは面白くない」
「はあ」
「君は一日に何枚ぐらい書くね」
「百枚ぐらいでしょう」
「百枚の中を十五枚書き潰すと、ロウズが一割五分出る勘定じゃないか?」
「ロウズって何ですか?」
くずさ。君は知らないのかい?」
「英語ですか? 独逸語ドイツごですか?」
「堀尾君、君はそれがいけない」
「はあ」
「百枚のところを十五枚なら、ロウズが一割五分の勘定だろう?」
「はあ。数学に真理のある限り」
 と堀尾君はおのれを制することを忘れた。書き潰しの悪いことは分っているけれど、十五枚丁寧にズラリと並べられたのが癪に障ったのである。
「堀尾君」
「はあ」
「君は僕を茶化すのか?」
 と鳧さんも急き込んだ。
「いや、決して」
「それなら態度を改め給え」
「御注意に従って、以来気をつけます」
「僕は君達の為めを思って苦言を呈するんだから、悪く取っちゃ困る」
「分りました」
「宜しい」
「失礼致しました。それでは」
「まあ、待ち給え」
「はあ」
「君は入ったばかりで会社の事情をく知らないんだから、ついでにもう少し話そう」
「承わります」
「目下日本は欧洲戦争中の火事泥的景気に見放されて、何も彼もガラ落ちだ。実に危い。会社が毎日のように倒れる。こゝはビクともしないが、世帯が大きい丈けに、油断は大敵だ。それで極力緊縮政策を執ることになって、節約を励行している」
「はあ」
「然うかといって、君、俸給をへらす次第わけには行かないだろう?」
「はあ」
「お互に能率を下げないで、経常費を出来る丈け節約しようという申合せになったのさ」
「成程。御道理ごもっともです」
 と堀尾君も斯う打ち解けた調子で話しかけられると、やわらがざるを得ない。底意は悪くない人だと思った。
たとえば会社から諸君に支給する昼の弁当だね。従来三十銭だったのをこの春から二十五銭に下げた。本社支店工場を通じて約千名の社員だから、僅か五銭でも馬鹿にならない。一日五十円の月千五百円。年に一万八千円。何うだね? 君」
「大変なものですな」
「好況時代に識らず識らず膨脹しているんだから、緊縮の余地は充分ある。万事この遣口やりくちで行って、十五万節約して見給え。十五万円は仮りに七分五厘として何万円の利子に当る?」
「さあ」
「大学出は算盤が出来ない」
「…………」
「数学に真理のある限り、二百万円の資本を運転したことになるんだよ。分ったかね?」
 と鳧さんは先刻さっきの仇討ちだった。この辺、甚だ大人気おとなげない。
「はあ」
 と頷いたものゝ、堀尾君は忌々いまいましかった。五十五円の月給取だ。万以上の金になると、う右から左へは暗算が利かない。
「大きなものじゃないか? お互の心掛け一つで二百万円の商売をしたのも同じことになるんだ」
「御道理です」
「君、この際だからね。伝票を一割五分も無駄にしたんじゃ大変だ。社員全体が君と同じ心掛けでやって見給え。アベコベに四百万円の資本を遊ばせることになる」
「それは数学が違いましょう」
「いや、大体の理屈さ」
「大体の理屈でも理不尽です」
「伝票は知れたものだと言うのかね?」
「然うです。無論以来気をつけますけれど」
「一事が万事だから心掛けが大切だいじだという話さ。然う躍起にならなくても宜かろう」
「失礼申上げました」
「伝票の方はもう宜しい。君は分っているんだから」
「はあ」
「しかし堀尾君、会社の便箋も同様だぜ」
 と鳧さんは引出から皺になったのを二枚出して渡した。堀尾君はそれを披見ひけんして、真赤になった。道子さんへ宛てた手紙の書き損じだった。
「…………」
「堀尾君、もう宜しい」
「…………」
「心配は要らない」
「失礼します」
 と堀尾君は庶務課へ戻って来た。
「君、何うした?」
 と安川君があやしんだ。
「あゝ」
「やられたね?」
「実に失敬な奴だ」
 と堀尾君は歯ぎしりをしたが、非は自分にある。しかし狡猾こうかつで便箋を利用したのでない。愛人へ書く為めには一枚の紙が十円しても惜しくないと思っている。その辺を説明してやりたかったが、今更仕方がなかった。
 間瀬君改め清水君のところへ招待されたのは丁度その日の夕刻だった。
「待ったぜ」
 と清水君が玄関へ出迎えた。
「晩かったかい?」
「然うでもない。出ると叱られるけれど、今日は特別さ」
「うむ」
 と堀尾君は客間へ通った。
「昨夜は失敬した」
「僕こそ」
「湯に入らないか? 僕は先刻さっき済んだ」
「面倒だ」
無精ぶしょうを極めないで流し給え。清々せいせいするぜ」
「よそう」
「何うしたんだい? 顔色が悪いぞ」
「おれは会社をよそうと思う」
「え?」
「五十五円で縛られるのは考えものだ」
「又始まったね」
「実に癪に障る」
「喧嘩をしたな?」
「いや、喧嘩にならないんだから残念だ」
「相手は誰だい?」
「上役だ」
 と堀尾君が答えた時、
「まあ/\、ようこそお越し下さいました」
 とあぐりさんが挨拶に現れた。堀尾君もお客に来た以上然う屈託くったくばかりしていられない。勧められるまゝ風呂に入って、浴衣に着替えた。食卓についてから、
う/\。犬を見るんだったね」
 と間瀬君改め清水君が思い出した。
「犬なんかもううでも宜い」
「おい。それじゃ約束が違うじゃないか?」
「貰うよ/\」
 と堀尾君は気がついたように、あぐりさんの方を見て一礼した。
「可愛いんでございますよ」
「もう目が明いているんですか?」
「はあ。ソロ/\一月たちますから、大きくなっています」
「親は近所のお魚を取って来るというお話ですが、本当でございますか?」
「まあ。オホヽヽヽ」
 とあぐりさんはお給仕をしながらお取り持ちに勧める。先頃は然うも思わなかったが、ナカ/\綺麗で、明るい感じのする人だ。
「君、胡坐あぐらをかき給え」
 と清水君が勧める。
「それじゃ失敬する」
「暑かないかい?」
「いや、結構だ。ハッハヽヽ」
 と堀尾君は寛いだ。
「奥田さんはいつ頃いらっしゃいますの?」
 とあぐりさんが道子さんのことを訊いた。
「来月の十日頃です」
「キリ/\でございますわね」
「二日三日早くなるかも知れません」
「失礼ながら、お宅の方へは?」
「はあ?」
「白ばっくれるなよ。一日も早くって、目下両方で画策中じゃないか?」
 と清水君が素っぱ抜いた。
「まさか。オホヽヽ」
「本当だよ。家を持つのもその支度さ。道子さんがともから毎日訓令を発している」
「あなた」
「ハッハヽヽ」
「参ったな」
 と堀尾君は頭を掻きながらも悪くなかった。
 食事中道子さんの話で持ち切って、
「君達のは自由恋愛で仲人があるまいから、僕達が引き受けようか?」
 と清水君が調子づいた。
「頼んでも宜い」
「でも、結婚したばかりで仲人なんて、いものでしょうか?」
 とあぐりさんも差支ないものなら、やる積りだった。
「別に法律上の規定はない」
「そんなこと分っていますわ」
「実際適任だぜ。両方とも同級生だから」
「本当に頼むよ、間瀬君。いや、清水君。奥さん、これは失礼」
 と堀尾君がまごついて、
「ハッハヽヽ」
「オホヽヽ」
 と大笑いになった。
 食後、あぐりさんが引き退ってから、
「君、会社の方をやめるってのは本気かい?」
 と清水君が声をひそめた。堀尾君は一部始終を話して、
「僕が悪かったに相違ないが、先方むこうはそれを好い機会に宿怨しゅくえんを晴らす積りだから卑劣極まる」
 と憤慨した。
「それで君は何うしようというんだ?」
「明日行って辞表を叩きつける」
「愚だよ」
「何故?」
「それじゃ君が負けることになる」
「無論やるさ」
「まさか腕力じゃあるまいね?」
「その時の都合次第だ」
「矢っ張り昨夜言った通り、僕の友達じゃ君が一番乱暴だよ。辞表を出してからだと、もう縁の切れた人間だから、警察へ突き出されるかも知れないぜ」
「安心し給え。そんなヘマはやらない。これでも喧嘩は中学時代から名人の域に達している」
「勝ったところで見す/\首がなくなるんだから詰まらない話じゃないか? 僕は知らなければ仕方がないが、聞いた以上は何処までも不賛成を唱える」
 と清水君は一生懸命だった。
「○○紡績ばかりが会社でもなかろう」
「しかしこの不景気にナカ/\口はないぜ」
「打算はもう棚へ上げているんだ」
「無論然うだろうが、道子さんは上京して、君が失業していたら、喜ぶか知ら?」
「皮肉を言うなよ。失望するにきまっていらあ」
「君は十月頃貰う積りで毎日通信しているんだろう?」
「うむ」
「相談してから定め給え。事後承諾は無理だろうぜ」
「さあ」
「上役って奴は何処へ行ってもいるんだからね」
「見渡す限りか?」
「うむ。癪に障る度に喧嘩をして首になっていたんじゃはてしがないぜ」
「今回丈けはやりたい」
「仕方のない奴だなあ」
「鳧の畜生!」
 と堀尾君は何うしても堪忍出来ない。

よく/\の因縁


 上役に叱られた場合、下役は恐縮するに限る。
「何うも済みませんでした」
 と云えば済むのである。これが一番手数がかゝらない安全策だから、有らゆる下役が毎日実行している。仮りに対等の議論で行くと考えて見る。勝ったところで元々だ。大骨折って漸く自分の地位を守ったに過ぎない。負ければ体面上自裁じさいの必要に迫られる。次に又憤慨の余り辞表を叩きつけるとして見る。これは一寸溜飲が下る。
「痛快だ」
 と第三者が褒めてくれる。しかし元来首を添えてやるのだから、決して悧巧な人のすることでない。非常に綺麗に負けたことになる。勤め向きは何うしても上役に分が好いような仕掛になっているから仕方がない。清水君はこの理を説いた。
「それじゃ長いものに巻かれろと言うんだね?」
 と堀尾君は未だ不服だった。
「要するに然うさ。の道、勝てっこないんだから」
「情けないなあ」
「世話をして貰ったばかりで問題を起したんじゃ西本先生にも済むまいぜ」
「それが一番困るんだ」
「兎に角、辞表丈けは思いとまり給え」
「さあ」
「君が書かなくても、先方むこうで取計らってくれるよ」
何方どっちにしても首がないのかい?」
「当り前さ」
「君は妙に鳧贔屓けりびいきだね?」
「何と言われても、上役に食ってかゝることには賛成出来ない。愚挙だよ」
 と清水君は極力反対を続けた。
 堀尾君は一晩寝て起きたら、大分平静に戻った。憤激は脳細胞の疲労にもよる。よく眠ると自然落ちつく。そこへ朝食中に道子さんから手紙が着いたのも好い緩和剤になった。昨日は来なくて失望していたところだったから、殊に嬉しかった。
「親類へ行っていて一日御無沙汰致しました。申訳ありません。お手紙二日分唯今拝読致しました。云々うんぬん
 と道子さんも二日分だから長い。一日分でも時折切手が二枚張ってある。堀尾君は不足税を取られたことがある。
「云々。私、一昨日の晩、清水さんや江口さんのお話を母に申上げましたのよ。母は昔流儀ですから、早い方なら苦情はございません。『お前は詰まりそんなことにはしませんか? 堀尾さんはもうお家を探していらっしゃるんですから』と仰有いました。『でも変ね、奥さんと学生の兼任なんて』と私、申しましたの。『変なこともないでしょう。その江口さんて方のところと違って、堀尾さんはもう卒業して勤めていらっしゃるんですから』『変よ』と私も駈引がございますわ。御意向を確める積りでわざと主張しましたの。母は今度は私が兄と一緒でありませんから、兎角心細がっているのでございます。『先方むこうで早くと仰有れば、早い方がいのよ。もう勤めていらっしゃるんですから』と仰有いました。丁度そこへ兄が入って参って、少時しばらくあなたのお話になりました。兄も秋から私を手放すのを苦にしています。『いっそ直ぐに堀尾のところへ行くか?』と冗談を仰有いました。『存じませんわ』と私、申しました。『堀尾はもう勤めているんだからね。事によるとき立てゝ来るかも知れないよ』と兄にも御就職が利いています。○○紡績の威力よ。けれども私、『卒業するまでは厭よ。変ですわ。奥さんと学生の兼任なんて』と又申しましたの。『無理にとは言わないけれど、一戸構えるそうだし、現に勤めているんだからね』と兄は考えていました。云々」
 堀尾君は読み終って、時計を見た。
「おや/\」
 と言ったのは、もう会社へ出掛ける刻限になっていたのだった。箸を取る時には出勤するかうか疑問だったが、もう決心がついていた。急いでお茶を飲んで洋服に着替えた。至って簡単明瞭だった。友人の説諭よりも愛人の意向に従う。尤も帰着するところは一つで、何方どっちも勤めていなければいけないと言っている。
 会社では安川君が待っていて、
「晩かったね」
 と迎えた。
「もう少しで遅刻さ。危いところだった」
「遅刻の心配をするようなら安心だ」
「何故?」
「或は辞表懐中で悠々としているのかと思ったからさ」
「不料簡はやめた。ハッハヽヽ」
 と堀尾君は昨日の権幕は更になく、早速伝票を書き始めた。もう書き潰しはしない。しても紙屑籠には入れない。
 親切ものゝ清水君はその晩下宿へ訪ねて来て、
「おい、何うしたい?」
 と訊いた。
「君の忠告に従ったよ」
「それはかった。安心した」
※(二の字点、1-2-22)わざわざ有難う」
「昨夜あれから妻に話したんだよ。心配し出してね、訊いて来いと言うんだ」
「上役の命令か? 忠告する丈けあって、実践躬行じっせんきゅうこうを怠らない」
 と堀尾君はひやかした。
「実務上の関心もある。喧嘩をされると、家の方がお流れになるからね」
「大丈夫だ。日曜に越す」
「犬も貰ってくれるかい?」
「うむ」
「有難い。しかし暑いなあ、この部屋は」
「羽織を脱ぎ給え」
「いや、今晩は急ぐ。この間は晩かった」
「苦情が出たかい?」
「うむ。出れば晩いものだという習慣をつけようと思ったらアベコベさ。晩い癖がつくといけませんから、今晩は早く帰って下さいと来た」
「おや/\」
「お父さんは仰有った時間におくれたことがございませんでしたって。主計総監並みだから辛いよ」
 とこぼして、清水君は間もなく辞し去った。
 堀尾君は次の日曜に清水君の家作かさくへ引移った。期せずして悌四郎君と背中合せになったのは郷里以来深い縁だった。
「裏が明いたから直ぐに知らせようと思ったが、後口あとくちきまっていると聞いて落胆がっかりしていたら、君だったのかい?」
 と悌四郎君は驚いた。尤もその日ではない。あらかじめ知らせに行った時のことだった。
「明日婆やが着く。僕の下宿へ来ても仕方がないから、君のところを指して来る」
「宜いとも。二晩でも三晩でも泊めてやる」
「独り極めで申訳ないが、急いだものだから」
「一向遠慮は要らないよ。おシメでも洗わせて置く」
うしてくれ給え。君も知っている金太のお母さんだ」
「ふうむ。あれが来るのかい?」
「うむ。事によると金太が送って来るかも知れない?[#「知れない?」はママ]
「惜しいことをした。然うと知ったら家へ手紙をやって、醤油の二樽もことづけさせるのだったに」
「相変らず抜け目がないね」
「君は次男坊だけれど、僕は四男坊だもの。倍方ばいかたこすく立ち廻らないと追いつかない」
「冗談は兎に角、宜しく頼むよ」
 と堀尾君は悌四郎君の好意にすがった。引っ越しの日には家主いえぬしの清水君も差配をつれて出張に及んだ。
「君、主計総監は引っ越しの手伝いをしたのかい」
 とからかったら、
「君のところは特別だ。道子さんとの関係上、妻から許可が出た」
 と清水君は矢張り上役の意向を帯びていた。
 家から通い始めてから間もなくのこと、堀尾君は或朝停留場へ向う途中、けりさんらしい後姿を認めた。追いついて見たら、果して然うだったから、
「お早うございます」
 と挨拶をした。
「やあ、君はこの方面だったかね」
 と鳧さんも案外のようだった。
「いや、つい二三前に越して来たばかりです」
「何処だい?」
「砂土原町です」
「ふうむ。僕は払方町はらいかたまちだよ」
「お近いんですか?」
「直ぐそこさ。社長の隣りだよ」
「はゝあ。社長さんもこの辺ですか?」
 と堀尾君はすべて初耳だった。越して来たばかりで、近所を一向知らない。
「夜分でも話しに来給え」
「有難うございます」
「何うだね? 仕事の方は」
「相変らずヘマばかりやっています」
「習うより慣れろさ。ワケはない。会社の仕事は学問と違う」
「はあ」
「大いにやるんだね。若い中は何も修業だ」
 と鳧さんは何処までも上役らしかった。
 その中に道子さんの着く日が来た。堀尾君は会社の帰りを東京駅へ廻った。道子さんは叔父も叔母も迎えに出ないように計らってくれた。
「待ちましたよ」
 と堀尾君が言った。
「私も。オホヽ」
 と道子さんはこぼれるばかりの笑顔だった。しかし雑沓の中で長話は出来ない。自動車が未だ貴重品の時代だったから人力車を頼んだ。現代ほどに愛人達が恵まれていない。各自めいめい荷物と合乗りで九段上の叔父さんの家へ向った。堀尾君も御無沙汰のお詫びながら上り込んだが、奥田君がいないから、早目に引き揚げた。
 二人の間に日曜を指折り数える週間が続いた。その中にともでは奥田君が結婚した。
うでしょう? もうソロ/\予定の行動を取りましょうか?」
 と堀尾君が言った。
「存じませんわ」
「本当?」
「オホヽ」
「何うせ待ち序ですから、来年の三月までこのまゝ待ってもいですよ」
「けれども私、もう結婚しているように思われていますのよ」
「はゝあ」
「この間の郊外散歩の時、見られてしまいましたの」
「同級生にですか?」
「はあ、而も三人よ。揃いも揃ってお饒舌しゃべりの方ばかりに」
「兄さんだって言えば宜いです」
「言ったんですけれど、オホゝ[#「オホゝ」はママ]
「何ですか?」
「駄目よ」
「何故?」
「私、責められて真赤になってしまったものですから」
「ハッハヽヽ」
退きさせませんわ。お化粧で分るんですって」
「はゝあ」
「兄さんと散歩をするお化粧じゃないんですって」
「成程」
「よく研究していますわ」
 と道子さんはその日も女子大生にあられもない厚塗りだった。頭の好い二人の劃策に失敗はない。堀尾君は清水君を介して、奥田君を動かした。清水君夫婦が仲人で式は年末ということに定った。
 或日曜の朝のこと、堀尾君は散髪に行って来て、
「未だかね?」
 と婆やに訊いた。道子さんのことだ。
「お手間が取れますよ」
「何故?」
「私なぞじゃあれ丈けお綺麗になるには六十年かゝります」
ういう意味だい?」
「年を取り戻して生れかわらなければなりません」
「生れ更れば赤ん坊だよ」
うでございました。それから奥さんのお年までというと都合八十二年かゝります」
「面白いことを言う婆やだな」
「奥さんは本当にお綺麗でございますよ」
「未だ奥さんじゃない」
「あら、来ましたよ」
「ふむ?」
「六兵衛ですよ。畜生!」
 と婆やは険しい顔になった。犬が吠え始めた。清水君から貰ったのだ。堀尾君は道子さんに命名を求めて、アレキサンダーと呼んでいる。アレキサンダーは実によく吠える。新聞配達と御用聞きの小僧が嫌いだ。広告屋のチンドンに多大の反感を持っている。肥車こえぐるまの牛とは最近漸く仲よしになった。
「悧巧な犬ね。私が来ると御門まで迎えに出ますのよ」
 と名づけ親の道子さんは可愛がっている。ところでその界隈へ毎朝何処かの書生がブル・ドッグをいて来る。それを見ると、アレキサンダーは狂気きちがいのようになる。怖いのだ。しかし書生は腹が立つと見えて、その都度ブルをしかける。それを婆やが時折堀尾君に訴える。
 初めは、
「旦那さまは水車場の六兵衛を御存知でございますか?」
 と訊いた。村の話だ。
「知っている。四角な顔をした男だ」
「他人の空似と申しますが、あの六兵衛にそっくりそのままの犬がいますよ」
「犬?」
「へえ」
「犬なら他人じゃあるまい」
「人間じゃございませんが、六兵衛にそっくりそのまゝ生写いきうつしですから、尚おのこと他人の空似でございましょう。下顎が上顎よりも出っ張っていて、身体まで真っ四角でございます」
「それはブル・ドッグって奴だ。成程、六兵衛に似ているかも知れない」
 と堀尾君は英国産の猛犬と水車場の親爺を頭の中で想い合せて見た。
「名前まで同じじゃございませんか?」
「違うよ。ブル・ドッグだ」
「六兵衛でございましょう?」
「ブル・ドッグ」
「六兵衛。似ていますよ」
 とこの婆やは片仮名の西洋名前が不得手ふえてだ。アレキサンダーも言えない。アレさんと呼んでいる。
「それじゃ六兵衛にして置くさ」
「その六兵衛でございますよ。村の六兵衛は力自慢で大酒を飲む丈けですが、こゝの六兵衛は困りものでございます」
「何うして?」
「家のアレさんをみに来ます」
「何処の犬だね?」
「存じませんが、何れこの近所のでございましょう。毎朝十時というと、好い若いものが紐で引いて通ります。近所界隈の犬をいじめて歩くのが商売ですからかないません」
「ふうむ」
「今日も門へ入って来て、アレさんを庭へ追い込みました」
「図々しい奴だね」
「私も腹が立ちましたから、そんなことをしちゃ困ると言ってやりましたが、この犬が吠えるから悪いとぬかします。犬は吠えるのが商売だと言い返してやったら、『縛って置け。咬み殺されても知らないぞ』と権幕をして帰って行きました」
「怪しからん。今度来たらおれが叱ってやる」
 と堀尾君は言い聞かせる積りだった。それから日曜の朝、早速その機会があった。アレキサンダーがけたたましく吠え始めたから、玄関へ出て見ると、何処かの書生が猛犬を曳いて門の中へ入って来ている。アレキサンダーは身体を捻って一生懸命に吠えている。
「何をする?」
「…………」
「入って来ちゃいけない!」
「その犬が吠えるからですよ」
 と書生が言った。ブルは吠えないが、書生を引き摺るようにして闘志を示している。
「吠えるからって、人の家の門内へ入って来る奴があるか?」
「…………」
「出て行け!」
 と堀尾君はアレキサンダーを押えながら叱りつけた。書生は帰って行ったが、矢張り毎日犬を曳いて通る。アレキサンダーがそれを待っていて吠えるから果しがない。婆やは毎日のように訴える。ところで問題の日曜の朝のことだ。堀尾君は急いで玄関へ出た。書生は二人だった。小柄なのがブルを曳いて、この間の奴がステッキを持っていた。
「おい/\」
「何ですか?」
「この間言ったのに、君は分らないのか?」
「いつでも吠えるんですもの」
「犬は吠えるのが商売だ」
此方こっちも商売です」
「何が商売だ?」
「僕は主人の犬を散歩させているんです。それを此奴が吠えるから悪いんです」
 と書生が言った時、アレキサンダーは庭の生垣から又一しきり喧しく吠え立てた。
「畜生!」
「咬み殺されるな」
 ともう一人の書生がブルの紐を弛めた。
「こら!」
「…………」
「出て行け。からかうから吠えるんだ」
 と堀尾君は下駄を突っかけて玄関を出た。その権幕に恐れを為して、小さい方の書生はブルを門から引き出した。
「この犬を縛って置いて下さい」
 と大きい方の書生が踏み止まった。
「此方の勝手だ」
「それじゃ咬み殺されても知りませんよ」
「文句を言わずに早く出て行け」
「…………」
「おい!」
「何をするんです?」
「出ろと言ったら出ろ」
 と堀尾君は門から突き出した。書生はよろめいて、口惜しまぎれに、
「馬鹿野郎!」
 と罵った。
「何だ?」
「安月給!」
「待て!」
 と堀尾君は追って行って腕を捉えた。
「何をする?」
「分るように言って聞かせるから来い」
「宜いです。もう宜いですよ」
 と書生が振り払おうとした時、ブルが進み寄った。咬まれては溜まらない。堀尾君は相手を引っ張り込むが早く、門を締めてかんぬきを下してしまった。
「此方へ来給え」
「厭です」
「こゝじゃ話が出来ない」
 と堀尾君は庭へ引き入れた。コン/\説諭をして帰す積りだったから、
「君は一体何処の書生さんだね?」
 と努めて穏かに訊いた。
「そんなことは何うでも宜いです。あなたの支配は受けません」
「君」
「何ですか?」
「此方が紳士的態度に出ているんだから、少しは反省したら宜いでしょう」
「人を突き飛ばすのが紳士的態度ですか?」
 と書生は理窟を言い出した。
「人の家へ喧嘩を売りに来る以上はうされても仕方あるまい」
「僕はあなたに喧嘩を売りに来たんじゃないです」
「それは分っている。犬を売りに来たのさ。君相応の相手だ」
「…………」
「君は自分のしたことを馬鹿々々しいと思わないか?」
「あなたのお世話にはなりませんよ」
「分らない男だね。誰が君の世話なんかするものか」
「…………」
「君の主人に掛け合うから、名前を言い給え」
「…………」
「困るならこのまゝにしてやるから、将来を慎み給え」
「…………」
何方どっちにする? 返辞をし給え」
「いつまでも面倒ですから、主人の名前を言いましょう」
「言い給え」
「僕の主人は片岡虎之助です。あなたが勤めている○○紡績の社長ですよ」
「ふうむ」
 と堀尾君は詰まった。案外だったのである。
「勝手に掛け合って下さい。僕はもう失敬します」
 と書生は切り札を出した積りだった。
「待て」
「もう用はない筈です。主人の名を言えと言うから言ったじゃありませんか?」
「それについて話がある。君は本当に片岡さんの家の書生だろうね?」
「嘘はつきません」
「後から故障を言っても駄目だよ」
「片岡家の書生に相違ありません」
「よろしい」
 と言いさま、堀尾君は横っ面を撲りつけた。
「何をする?」
 と書生はステッキを振り上げたが、猫額びょうがくの庭だ。堀尾君は活動の余地を与えないように、その一隅へ押して行ってからの仕事だった。
「知らない家の書生なら大目に見てやるんだが、社長の権威を笠に着る以上は堪忍出来ない」
 と二つ三つ続けさまにくらわせた。
「人を撲るなんて紳士がありますか?」
「坐れ!」
「…………」
「おい!」
「はあ」
 と書生は度胆を抜かれて、もう反抗しない。
「これで勘弁してやるから、将来を慎め」
「…………」
「おい!」
「はあ」
「片岡虎之助に伝言ことづけがある。片岡は大馬鹿だと言ってくれ」
「…………」
「貴様も少し考えて見ろ。一体貴様は幾つだ?」
「…………」
「年を言え。おい!」
 と堀尾君の「おい!」にはその都度胸倉の小突きが伴う。
「二十三です」
「犬のお供をして歩く年と思うか?」
「…………」
「車でも曳く方が余っ程世間の為めになる」
「…………」
「貴様も馬鹿だけれど、貴様にこんな仕事をさせる主人が大馬鹿だ。もっと意味のある仕事を心掛けろ。片岡にももっと人間を生かして使えと言ってくれ」
「…………」
「もう宜い。帰れ」
「帰ります」
 と書生はスゴ/\立ち上った。
「言分があるなら出直して来い」
「…………」
「しかし気の毒だったな」
「…………」
「片岡の書生だなんて威張らなければ、何のこともなかったんだ」
 と堀尾君は門まで送った。
 間もなく道子さんが着いた。二言三言話す中に、
「あなたうかなさいましたの?」
 と気がついた。
泰然自若たいぜんじじゃくの積りですが、変ですか?」
「お顔の色がお悪いわ」
「ハッハヽヽ」
「何うなさいましたの?」
「実は今喧嘩をしたところです」
「まあ!」
大人気おとなげないことをしました」
「誰と?」
「アレキサンダーのことで、この間お話した書生とです」
 と堀尾君は面目ないようだった。
「私は見ていて一つきぶん溜飲を下げましたよ」
 と婆やは反対に大得意で、
「まあ、お聞き下さいまし。実は昨日の朝、『旦那さまのいる時来て見ろ。打っくじかれるぞ』と言ってやったところでございます。奴等、今朝は二人がかりで……」
 と逐一物語った。
「ところで、道子さん」
「何あに? 喧嘩なんかなすっちゃ厭よ、私」
「あなたに叱られると思って悲観していたんです」
「済んだことはもう仕方ありませんけれど」
「実は未だ続きがありそうです」
「まあ!」
「僕の方の社長の書生です。ついでをもって、社長は大馬鹿だと伝言を頼んで置きました」
「打ちこわしね、あなたは」
騎虎きこの勢、仕方がなかったんです」
 と堀尾君は冷静に考えて見て、大馬鹿丈けは取消したかった。
「会社の方が駄目になりはしませんの?」
とてもむずかしいです」
「困るわ」
「それでなくても既に一遍けりという人事課長とやっているんです」
「喧嘩?」
「えゝ」
「よくなさるのね」
「喧嘩ってほどのことでもないんですけれど、此奴が社長の屋敷内に住んでいるんですから、今日のことを聞きつけると、屹度何か言い出します」
「私、今朝もっと早く来れば宜かったわね」
「然うですよ。あなたがおそくて、イラ/\していたものですから」
「それじゃ私の責任?」
「多少あります」
「あらまあ」
 と道子さんも飛んだところへ来合せたものだった。
「旦那さま、お客さまでございます」
 とそこへ婆やが名刺を取次いだ。
「鳧三平。来たな。畜生! 二階へ通せ」
「あなた」
 と道子さんは袖を控えた。
「大丈夫だ」
 と堀尾君は言った。これは円満にやるという意味でなく、負けないという意味らしかった。

喧嘩に勝って


 鳧三平さんは堀尾君の家の二階で少時しばらく待たされた。最初はキチンと構えていたが、洋服で窮屈だから、座を崩した。次いで、
「何をしているんだろう?」
 と呟いた。人事課長ぐらいになると、下役に待たせられることは絶対にない。
「奴、恐れ入って、出すくみをしているんだな」
 と思いながら、軽蔑の眼をもって周囲あたりの安造作を見廻している中に、床の間の掛物に注意を惹かされた。蝦蟇仙人がませんにんの大幅だった。
「柄にないものを掛けているな」
 と向き直って、落款らっかんを検めたが、ハッキリ読めない。社長の腰巾着として始終書画骨董しょがこっとうのお太鼓を叩いている関係上、自然多少の興味がある。頻りに首を傾げていた。折から急勾配の階段を上って来る音が聞えたが、細工のある男だから、知らん顔をして絵に見入っている風を粧った。
「やあ」
 と堀尾君が声をかけた時、
「これはこれは」
 と初めて存在を認めたように半ば振り返った。
「はゝあ、御令兄に御対面中でございましたな」
「うむ?」
「そこにいらっしゃる」
 と堀尾君は蝦蟇仙人を指さした。
「ひどいことを言う男だな」
 と鳧さんは苦笑いをする外なかった。
「いや、失礼申上げました」
「いや」
「御近所へ引っ越して参りまして、未だお伺いも致しません」
「いや、僕こそ。忙しいので、まあ/\、それはお互さ」
「今日はようこそ」
「御来客があるんじゃないかね?」
「いや」
「それじゃ少時しばらくお邪魔をさせて戴く」
「何うぞ御ゆっくり」
「一遍伺いたいと思っていたところだったから」
「丁度よく用件が起りまして」
「堀尾君」
「何ですか?」
「僕は文句を言いに来たんじゃないよ」
「はあ」
「しかし君も少し考えてくれなくちゃ困る」
「はあ」
 と堀尾君は腕を組んだ。そこへ婆やが上って来て、恐る/\お茶を薦めた。
「お嬢さま」
 と婆やは階下へ戻ると直ぐに道子さんのところへ行って囁いた。
「何んな具合でしたの?」
「旦那さまは叱られていらっしゃるようでございました」
「困るわね」
「斯う腕組みをして黙っていらっしゃいました」
んな人?」
痘痕あばたのある怖い人でございます」
「本当に厄介なことが起ったものね」
 と道子さんは気が気でない。
 二階では主客ソロ/\本題に入る。若い堀尾君は喧嘩で引けを取ったことのない達人である。鳧さんは又○○紡績の人事課を背負って立つ老武者ふるつわもの、首を切るのが半商売の人だ。何方も役者が好い。
「一体何ういう経緯いきさつだね?」
「恐らくあの書生からお聞き取りになった通りでしょう」
「犬の問題だね。ソモ/\の初まりは」
「はあ」
っと大人気なかったね」
「冷静に考えて見れば然うです」
「君は本当に撲ったのかい?」
「はい。やりました」
「それは乱暴だ」
「鳧さん」
「何だね?」
「あなたは一個人としておいでになったんですか? それとも会社の課長としてお出になったんですか?」
「無論一個人としてさ」
「宜しい。それなら対等の資格でお相手をする」
「君」
「何ですか?」
「僕は喧嘩に来たんじゃない」
 と鳧さんは断った。書生同様に扱われては大変だと思ったのだろう。
「それは無論分っています」
「友人として忠告に来たんだ」
「御親切有難いです」
「君は社長の家の書生を撲るなんて、あんまり無法じゃないか?」
「一個人としてお出になったのなら、一個人らしくお話を願います」
「何ういう意味だね?」
「一個人なら社長も社員もありません」
「しかし片岡さんは社長だよ」
「いや、単に片岡さんです。片岡君です、片岡です」
 と堀尾君は逐次ちくじ訂正した。
「宜しい。片岡さんにしても片岡にしても、余所よその書生を撲るというのは無法じゃないか?」
「それは私の分別にあることです」
「僕は君の分別が間違っていると思う」
「御批判はあなたのお勝手です」
「堀尾君、それは少し言葉が過ぎはしないかい?」
「何故ですか?」
「僕は君の友人として忠告に来たんだ。胸襟を開いて、聴いてくれるのが当り前だろう?」
「御忠告なら無論喜んで承わります」
「僕は君の性格が分っている」
「…………」
「書生を撲ったについても深くは咎めない。血気に委せてやったことゝ思っている」
「…………」
たった一言済まなかったと言って貰えば、それで満足するんだ」
「誰に言うんですか?」
「僕にさ」
「その僕ってのは一個人としてのあなたですか?」
「無論一個人としての僕さ」
「冗談仰有っちゃいけません」
「何だい?」
「忠告にお出になったのなら、以来慎み給えと言うのが精々でしょう。あやまれと言うのは筋が違っています。あなたこそ少しお言葉が過ぎやしませんか?」
「文字通り僕にあやまれと言うんじゃない。僕が好意上片岡家へ取次ぐという意味だ」
「それじゃあなたは仲裁人ですか?」
「仲裁人だ」
「こゝは芝居の舞台じゃありません」
「何だって?」
「早替りをしたって誰も手を叩きませんよ」
「君は僕を愚弄するのか?」
 と鳧さんは激昂した。
「…………」
「君」
「そんなことはないですよ」
「兎に角、君は誠意に欠けている。人を撲って善いことをしたと思っているようだ」
「いや、済まないことをしたと思って後悔しています」
「それなら問題はないじゃないか?」
「はあ」
「以来慎み給え」
「慎みます。御忠告に従って、もう乱暴は働きません」
「もう一つ序だ。唯一言済まなかったと言い給え」
「言いません」
「それじゃ片岡家から苦情を持ち込まれたら何うする?」
「突っ弾ねます」
「え?」
「片岡家と私の問題じゃありません。あの書生と私の問題です」
「それじゃあの書生が苦情を持ち込んだら何うする?」
「その時はその時です」
「何うするんだ?」
「平身低頭してあやまるかも知れません」
「始末にいけない男だな」
「兎に角、あの書生をもう一遍寄越して見て戴けませんでしょうか?」
「何うしようと言うんだい?」
「私の忠告が充分徹底しなかったようですから」
「追加をやられちゃ溜まらないよ」
「いや、もう大丈夫です」
 と堀尾君は澄ましたものだった。
「書生の方は当人に多少の落度があったんだから仕方がないとしても、君は社長、いや、片岡さんのことを大馬鹿だと言ったそうだね?」
「言いました」
「それは是非取消して貰わなければ困る」
「…………」
「個人としては片岡さんだけれど、公人としては君の会社の社長だよ」
うです」
「人を馬鹿呼ばわりするからには、自分を悧巧と思っているに相違ない。そのお悧巧な君にして大馬鹿が社長を勤めている会社のぞくむとはこれ如何に? と訊きたくなるよ」
「個人としては大馬鹿でも……」
「控え給え」
 とけりさんは声を励ました。丁度その折、心配の余り一段々々と階段を上った道子さんの顔が鼻のあたりまで現れた。堀尾君は気がつかなかったが、床の間を背負っていた鳧さんは前向きだったからチラリと認めた。
「…………」
「仮りに一個人として見ても、片岡さんは君の先輩だ。君が生れない前に大学を出ている。尚お君の先生の奥さんのお父さんだ」
「…………」
「有らゆる意味に於ての先輩を大馬鹿というのは礼を欠いている」
「…………」
「よく考えて見給え」
「私は会社をやめます」
う早合点をしちゃ困る。僕は何も君に引けの何のと言っているんじゃない」
「しかし……」
「何だね?」
「大馬鹿と罵る上からは、その覚悟をしています」
「君は未だ青い」
「…………」
「出処進退というものは然う軽々かろがろしくめるものじゃない」
「しかしやめます」
「君は会社が気に入らんのか?」
「いゝえ」
「それじゃ何故やめる?」
「責任を負うんです」
「それじゃ犬が喧嘩をした為めにやめることになる。君こそ公私混合じゃないか?」
「…………」
「何うせ行きがかりで言ったことだから、取消せば宜いんだ」
「取消しません」
「何故取消さない?」
「片岡さんを大馬鹿だと信じています」
「何故片岡さんが大馬鹿だ? 君」
「それはあの書生に言い聞かせた通りです」
「僕はそれまでは聞いて来なかった」
有為ゆういの青年に犬のお守をさせるような人間なら、大馬鹿に相違ないと思っているんです」
「あれは社長の犬じゃない」
「それじゃ誰のですか?」
「令息のだ」
「はゝあ。それなら令息が大馬鹿です」
「社長の方は取消すかね?」
「人違いなら仕方ないです。取消しますが、令息は大馬鹿野郎です。私は所信を曲げません」
 と堀尾君は如何にも口惜しそうだった。
「令息は幾ら馬鹿でも会社に関係ない」
「しかしそんな馬鹿な令息を黙って見ている親も決して悧巧じゃありません」
「君。取消した上はいさぎよくし給え」
「はあ」
「もう宜しい。今日のことは僕が含んで置く」
ういう意味ですか?」
「僕の方寸ほうすんに納めて、全然なかったことにして置いてやる」
「私からはお願い致しません。あなたの御随意に願います」
「君は誤解しちゃいけないよ。僕が忠告に来たからといって、君の地位に関係するんでも何でもない」
「はあ」
「初めから言っている通り、一個人と一個人の話さ」
「はあ」
「但し一個人対一個人の友情的忠告として、僕は君が将来もっと言行を慎むように勧めて置く」
「有難うございます。精々御趣旨に副いましょう」
「善意をもって言ったことだから、至らないところがあっても気にかけないでくれ給え」
「何う致しまして。私こそついらちを外して御無礼申上げました」
「それじゃもう失敬する」
「まあ宜しいでしょう?」
「いや、この上はお邪魔だろう。綺麗なお客さんが見えているようだから」
「…………」
「気が強い筈だ」
「恐れ入りました」
「ハッハヽヽ」
「ハッハヽヽ」
っと夜分でもやって来給え」
 と鳧さんは案外機嫌好く帰って行った。玄関まで見送った堀尾君も鄭重を極めた。美事勝ったような気もしたが、結局負けたような気もした。何方どっちにしても詰まらないことをしたという感じが先立って、甚だ不愉快な心持だった。
「あなた、大丈夫?」
 と道子さんが寄り添った。
「さあ」
 と堀尾君は突っ立ったまゝ、だ考えていた。
「あなたがお悪いのよ」
「何故?」
「些っとも下役らしい態度をお取りにならないんですもの」
「一個人と一個人の対等関係です」
「然うは参りませんわ。全く一個人と一個人なら交渉はない筈じゃありませんか? あゝして御親切に仰有って下さるのは同じ会社に勤めているからでございましょう?」
「それは無論それだから交渉があるんですけれど」
「同じ会社に勤めている上役と下役の一個人と一個人じゃございませんか?」
 と道子さんは円満な落着を目的としているから解釈が広い。
「成程。事実は然うかも知れません」
先方むこうの仰有ることを立てゝ上げても、決して恥にはなりませんわ」
「それじゃあやまるんですか?」
「いゝえ」
「何うするんです?」
「相済みませんでしたと仰有れば宜しいじゃありませんか?」
「それじゃあやまることになります」
「いゝえ、社交よ。その方が簡単に片付きますわ」
「簡単に片付いても、あやまることなんか嫌いです」
「あやまるんじゃございませんよ。私達、例えばお友達の足を踏みましょう? 『あら、済みませんでしたわね』と直ぐ申しますわ」
「それは本当に済まないからでしょう」
「いゝえ。済まないなんてっとも思っていませんの。けれども、『あなたがそこへ出していらっしゃるからよ』なんて説明するよりも早く片付きますわ」
「成程。しかし女ってそんなに嘘をつくものですかね」
「嘘じゃございませんわ。簡便法よ」
「僕にもその簡便法を応用しているんですね?」
「オホヽヽヽ」
「ひどい」
「時々よ。オホヽヽヽ」
「ハッハヽヽヽ」
 と堀尾君は相手が道子さんなら理窟にこだわらない。
「男って意地を張るものね」
「仕方がないです」
「私、あの方が『お控えなさい』ってお憤りになった時、何うなることかと存じましたわ」
「あなたは聞いていらしったんですか?」
「はあ。あすこまで承わりました。けれども私、見つけられてしまいましたの」
「鳧に?」
「えゝ」
「いけませんね」
「済みません」
「早速やりましたね」
「あら、本当よ」
「ハッハヽヽ」
「心配で仕様がなかったものですから」
「鳧の奴、道理で変なことを言いましたよ」
「何て?」
「綺麗なお客さんが見えているようだからって」
「まあ!」
「気の強い筈ですって」
「私、何うしましょう?」
 と道子さんは益※(二の字点、1-2-22)責任を感じた。
いですよ。披露式に招待してやりますから、後で分ります」
「そんなことを仰有っていて、あなた本当に大丈夫?」
「鳧も案外話の分った男ですよ。上機嫌で帰って行きました」
「それなら宜いんですけれど、私、ひょっとして……」
「明日あたり首になるかも知れないと思うんですか?」
「えゝ」
「僕も初めはその覚悟でしたが、譲歩してやったんです」
「何を?」
「社長は大馬鹿ということを取消しました」
「本当?」
「えゝ。口惜しかったけれど、仕方ありません。あなたの為めも考えたんですよ」
 と堀尾君は恩に着せた。
 尚お話しているところへ、
「旦那さま、先刻の書生さんが二人で見えました」
 と婆やが慌てゝ取次いだ。
「又来たのか?」
「あなた」
「大丈夫だよ」
 と堀尾君は立って玄関へ行った。
「先刻は……」
「何か文句があるのか?」
「いゝえ、飛んだ御無礼を申上げて相済みません。鳧さんに叱られて、あやまりに上りました」
 と年長のが謹んで口上を言って、もう一人のは頭を下げて恐縮していた。
「ふうむ」
「以来お宅の御門前を通らないことに致しますから」
「それには及ばないが、気をつけてくれれば宜いんだよ」
「心得ました」
「考えて見れば、僕も少し乱暴だったな」
 と堀尾君も斯う神妙に出られると面目なかった。
「何う致しまして」
「まあ/\、こらえてくれ給え」
「全く僕達が悪かったんです。今日ばかりじゃございません」
「さあ、上って話し給え」
「いゝえ、これで失礼申上げます。何うぞ今後とも宜しく」
 と二人は幾つもお辞儀をして罷り退った。
 これで問題が解決したと思った堀尾君は鳧さんを甘く見過ぎた。世の中はそんな簡単なものでない。翌日出勤して初めてそれが分ったのだから、堀尾君は鳧さんの言った通り未だ青かった。鳧さんに課長室へ呼び込まれて因果を含められたのでない。いつもの通り庶務課へ入って行ったら、自分の机と椅子がなくなっていたのである。
「おや!」
 と思ったが、もう晩い。頭を棍棒でガンとやられたような心持がした。
「堀尾君、君はもう工場の方へ廻ったのかい?」
 と隣席の安川君が何も知らずに訊いた。しかし他の同僚も控えているので説明が出来ない。堀尾君は憤慨が込み上げて、額に玉の汗がにじんだ。
「やられたんだよ」
 と安川君に丈け耳語みみうちして、ソコ/\に部屋を出た。人事課へと志して二三歩よろめいたが、昨日の高言を思い出して踏み止まった。会社の意志は辞令より明瞭に現れている。今更説明を求めるのも気の利かない話だ。騒げば恥の上塗りになる。引き返して、そのまゝ門へ出てしまった。停留場近くまで来て又立ち止まったが、又思い直した。何う考えても喧嘩にならない。それ丈けに忌々いまいましい。
 家へ帰っても仕方がない。昨日の今日だ。婆やにも面目ない。
「清水君のところへ行って相談しよう」
 と堀尾君は思いついたが、次いで相談したところでうもならないとも思った。しかし丁度そこへ電車が来て、決心させてくれた。失業者は、夫れ/\会社へ出勤する連中の間に割込んで、親友の家へ急いだ。
「清水君、美事やられたよ」
 と堀尾君が玄関で言った時、清水君は訊き直す必要を認めなかった。刻限が刻限だし、血相が明白に口をきいていた。
「さあ、上り給え」
「失敬する」
 と直ぐに通った堀尾君は、
「やられた。到頭やられた」
 と繰り返す丈けで、挨拶を全く忘れていた。
突如いきなりかい?」
「うむ」
「何うして?」
「追々話す。実に老獪ろうかいな野郎だ」
けりかい? いつかの話の」
 と清水君も見当がついた。
「うむ。うまくだまされた」
「今申渡されたんだね?」
「申渡しも何もないんだ」
「それじゃ何だか分るまい?」
「いや、僕の机と椅子がないんだ。実に手際が好い」
「ふうむ」
「好い恥をかゝされたよ」
「そんなかたがあるものかね?」
「あるものと見える。椅子を失うということがあるが、全くその通りだと思ったよ」
「最近何か思い当りがあるのかい?」
「無論あるさ。而も昨日だ。油断をしたよ。相手を見括みくびり過ぎたんだ。まあ、聴いてくれ給え」
 と堀尾君は語り出すと共に落ちついて、犬の喧嘩については、
「君から貰った犬だから、君も責任があるぞ」
 なぞと冗談をまじえる余裕が出た。社長の書生をめて溜飲を下げたことから鳧さんが談判に来たことに移って、
「その時は無論やめる覚悟さ。思う存分やったんだよ」
 と詳細を極めた。それから後刻書生が揃ってあやまりに来たことに及んで、
「これが先方むこうの手だった。悉皆すっかり乗せられてしまった。安心してノコ/\出掛けて行ったのが不覚だった」
 と又しょげ返った。
「これは充分値打があるぜ」
「何の?」
「首になる値打さ。社長を大馬鹿と言って置いて後が勤まると思うのは虫が好過よすぎる」
 と清水君は第三者として冷静な判定を下した。
「それは取消したんだよ」
「取消してもさ。僕が社長だったら、矢っ張り首にする」
「僕なら呼び出して打ん撲ってやる」
「それぐらい分っていながら、ヘマをやったものだね」
「今言った通りさ。無論辞表を叩きつける決心だったが、鳧の奴、方寸に納めてノウ・カウントにすると保証するじゃないか? ついうっかり乗ってしまったんだよ」
先方むこうは海千山千で、此方こっちは……」
「何だい?」
「強いばかりさ。ハッハヽヽ」
「智恵が足りないってんだろう?」
「まあ、その辺さ」
「何と言われても仕方がない。あんな奴に負けるんじゃないんだけれどなあ。立廻りになると下役は何うしても損だ。こわものを持っているものだから、何うしても手加減をする」
「実際うだよ。僕のところにしても」
「斯うと分っていたら、昨日打ん撲ってしまうんだったに」
「今更仕方がないよ」
「首になったって平気だけれど、なり方がひど過ぎた。あゝあゝ、譲歩するんじゃなかったになあ」
「そんな奴と知れていたら、僕だってこの前の時に玉砕を勧めているんだけれど」
「今日出勤さえしなければ、完全に勝っていたんだ。計略の裏をかいて笑ってやれたんだ」
 と堀尾君は種々いろいろと場合を考えて見た。しかし後から出る智恵は何の役にも立たない。
「それよりも又口を探すことだぜ」
「もう厭になった」
「しかし暮に式を挙げるのに浮浪人ふろうにんじゃ困るだろう?」
「然うだね」
「道子さんはさぞ吃驚びっくりすることだろう?」
「それを頭痛に病んでいる」
「矢っ張り初めから穏かに出る方が宜かったんだなあ」
 と清水君は大きい意味の簡便法を信仰していた。尤もそれでなければ養子なぞには入れまい。
 堀尾君は家へ帰って手紙を認めた。一通は西本先生への詫状、もう一通は道子さんへの報告だった。西本先生とはこれで縁が切れてしまう。後輩は恩を受けた為めに却って先輩と気まずい関係になる場合がある。先輩は好い面の皮だけれど、浮世の定め、是非もない。これは丁度その適例てきれいだった。堀尾君は今更拝趨はいすう面皮めんぴ無之候これなくそろと書いて恐惶頓首きょうこうとんしゅまことに申訳ない次第だった。道子さんへは有りのまゝを詳しく認めて、善後策を講じますから明日でも明後日でも学校のお帰りに一寸ちょっとお立ち寄り下さいと頼んだ。
 身体が空いて見ると楽だった。朝時間を切って起きる必要がない。八九十と約三月勤めた。暑中休暇の長さぐらいで、もう一段落だ。
うもいけない」
 と思った。
「こんなことになるなら……」
 と翌日一日、やればやり得た術数が頭にこびりついていた。忘れていたが、俸給日だった。晩に安川君が金五十五円と積立金二月分五円五十銭と辞令を持って来てくれた。
「よく/\の因縁だよ。初めからいけなかったところへ無理に入ったんだから」
 と堀尾君は今更春の詮衡せんこうを思い出して、斯うなるのを当然のようにも考えた。
 その翌朝、道子さんから返事を期待したが、郵便は一通も来ない。学校の帰りに寄るのだろうと解して昼過を当てにしていたら、今度は手紙が着いた。成り行きで仕方ありませんと諦めてくれている。学校の帰りということは叔父叔母への手前、具合が悪いようですから、今晩お越し下さいませとあった。
「よし」
 と安心して、一緒に来た葉書を見たら、○高の安藤教授からだった。恩師も愛人と同列だと二の次になる。

 拝啓、其の後御無沙汰申上候。今回公用にて出張、九段上松葉館に宿泊中に候。久しぶりにてお目にかゝり度、二十五日晩を都合致置候間、同日夕刻会社御退出後直ちに御枉駕被下度ごおうがくだされたく待申上候
十月二十二日
安藤生
 この葉書二日間懐中、後れたらそれまでのこと。御諒察を請う。

「相変らずだな、先生は」
 と堀尾君は微笑んだ。
「しかし何うしよう?」
 と考えたが、又とない機会だ。普通に言う恩師でない。中学校で五年、高等学校で三年お世話になった恩師である。
「安藤さんの方を早く切り上げて廻れば宜い。誂え向きに何方どっちも九段上だ」
 と直ぐに定めた。しかしもう一つ、
「しかし……」
 という考慮があった。安藤先生は、
恒産こうさんあるものは恒心こうしんあり。あにいましめざる可けんや」
 と教えてくれた先生である。君の性格で十万あったらとても勤まるものじゃないと言っている。折が折だった。

失業の夕


 堀尾君は夕刻、九段上の松葉館へ出頭した。師弟四年ぶりの対面だった。安藤先生は久濶きゅうかつじょして卒業を祝した後、
うだね? 会社の方は」
 と直ぐに訊いた。
「いけません」
 と堀尾君は頭を掻いた、先生生徒の高等学校時代そのままに。
「面白くないかね?」
「もうやめたんです」
「馬鹿に早いんだね」
 と安藤さんは驚いて、
「いつ?」
「一昨日です」
「ふうむ。衝突かい?」
「はあ。しかしそれが正々堂々の陣じゃないんです」
「それじゃ。やめさせられたんだね? やめたというよりは」
「はあ。暗殺されたようなものです」
 と堀尾君は早速物語りにかゝった。先生は傾聴した後、
「それは当り前だよ。馬鹿だなあ。同輩なら兎に角、社長と人事課長じゃないか? ノメ/\出て行く奴があるものかい?」
 と真剣になった。
「つい油断をしました」
「相手に取って不足はない。しかしそれ丈け痛快にやった以上、覚悟をしないって法はないよ」
「したんですけれど、つい……」
悉皆すっかりこわしてしまったね。課長を玄関へ送り出したところまでは徹頭徹尾君の方が勝っていたのに」
「はあ」
「未練が出たんだね」
「つい宜かろうと思ったんです。先方むこうの策に引っかゝったんですよ」
 と堀尾君は又頭を掻いた。
「惜しいことをしたね」
「考えて見ると忌々いまいましいです。このくらいなら、あの時根本的にやってしまうんでした」
「今更仕方がない」
「はあ」
「未だ/\若い。喧嘩一つ器用に出来ないんだもの」
 と安藤先生は名人をもって自ら任じている人だ。
「青いって言いましたよ、奴が」
先方むこうじゃ乗り込んだ時、もう方針が定めてあったんだよ」
悉皆すっかり愚弄ぐろうされてしまいました」
 と堀尾君は腕組みをして考え込んだ。何とかして欝憤を晴らしたいと思っているのだが、もう縁が切れているから仕方がない。
 師弟は食事をしながら話し続けた。
「時に堀尾君」
 と安藤先生は何か思いついたようにニヤ/\笑った。
「はあ」
例件れいけんうしたい?」
「はあ?」
「四百俵だったか五百俵だったか忘れてしまったが」
「貰いました。先生の御忠告にも拘らず」
「道理で返事を寄越さないと思っていたよ」
「お手紙は差し上げました」
「しかし問題には触れなかったじゃないか?」
「具合が悪かったんです」
「尤も我輩だって君に貰うなと命じる権威はない。謂わば余計な老婆心さ」
「貰っても貰わない気でいれば差支ないでしょう?」
「うむ」
「兄貴との関係もありますから、う簡単には断り切れません」
「無論然うだろうさ。元来我輩の忠告が突飛だからね」
「いや、僕も可なり考えたんですが、奥田君の忠告もあったんです」
「何て?」
「貰って置かなければ路頭に迷う人間ですって。喧嘩をして首になるたんびに食い込んで、悉皆すっかりなくしてしまった頃、漸く人生が分るんですって」
「成程。それも一種の見方だね」
「両方の忠告が正に的中したんです」
「何も修業さ」
「折が折ですから、先刻先生からお葉書を戴いた時、世の中はナカ/\皮肉なものだと思いましたよ」
「早速だったね」
「こんなことなら、あの時打ち※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)のめしてやるんでした」
「それよりも善後策だ。恒産があるからって勤まらないとは限らない。心掛一つさ」
「はあ」
「元来我輩のは極端な忠告だから、そのまゝ用いて貰えるとは思っていない。要するに、恒産があっても、ない積りでやるのさ。趣意はそこにある」
「はあ」
「首になっても困らないって料簡があったんじゃとても駄目だよ」
「はあ」
「ところで口の心当りがあるかい?」
「ありません」
「早速探さなければなるまい?」
「もう厭になりました」
「それじゃ何うする?」
「当分遊んでいます」
 と堀尾君は外に思案がない。
「見給え。矢っ張りいけない」
「何故ですか?」
「首になっても困らないという料簡が現れている」
「しかし詰まらないんですよ。会社は」
「何うして?」
「伝票をつけて算盤の稽古をする丈けです。僕は何の為めに毎日こんなことをしているのだろうかと思いました」
「それじゃ仕方がない」
「もっと何か意味のある仕事をしたいと思っています」
「一体何ういう動機で紡績会社へ入ったんだね?」
「自分にも分りません。他に何もなかったからでしょう」
「呑気だね」
「しかしみんなうですよ。硝子なんてものを生れてから考えたことのない奴が硝子会社へ入って、硝子の為めに生れて来たような顔をしています」
「それは食う為めさ」
「食う為めにしても、何か他に自己を欺かないで出来る仕事がありそうなものだと思います」
「自己を欺くって次第わけでもなかろう。授かった仕事を天職と心得て、後生ごしょう大切だいじに勤めているのさ」
「然う簡単に諦めのつく人は仕合せです」
「君は矢っ張り恒産にわざわいされている」
「そんなことはない積りです」
「いや、特別誂えの人生を望んでいる」
「決して然ういう意味じゃないです。唯自己を欺くことが出来ないんです」
「分らんね」
「例えば食う為めに紡績会社へ入ったくせに、紡績会社の為めに生れて来たような顔をしていることが出来ません」
「成程」
「同僚が皆自己を欺いていると思うと、見ていて不愉快です」
「君の考えによると、自己を欺かない仕事が世の中にたった一つあるよ」
「何でしょう」
「やる気があるなら教えてやる」
「やります」
「乞食だ」
「はゝあ」
「乞食は食う為めと公言して食を乞うから、決して自己を欺かない」
「…………」
「堀尾君」
「はあ」
「人生は理論じゃないよ」
「はあ」
「真剣な生活奮闘だ。我輩は中学校高等学校を通じて口のすっぱくなるほど説いた積りだが、君は分らんのか?」
「…………」
「猫の額ほどの恒産に囚われて一生の方針を誤まるものは大馬鹿だ」
 と安藤先生は忌憚きたんない。
「はあ」
 と堀尾君は箸を置いた。これが鳧三平なら飛びかゝるところだろうが、中学校高等学校を通じての恩師には敵わない。
「食べながら聴き給え」
「もう済みました」
「それじゃ我輩ももうお仕舞いにする」
「先生、この頃は御酒ごしゅは召上りませんか?」
「やめた」
「御出張中丈けですか?」
「変な仇の討ち方をするぜ。ハッハヽヽ」
「然ういう意味じゃないですけれど」
「お説の通りついこの間からだから未だ威張れない。明日の晩あたりは危いんだ」
 と安藤さんは然う不機嫌でもない。
「先生」
「何だい?」
「僕は恒産に囚われていません」
「いや、囚われている」
「…………」
「就職以来、君は俸給丈けで生活して来たかい?」
「さあ」
し囚われていないと思うようなら、自己を欺いている」
「就職後当分は誰にしても補助を仰ぐんですから程度の問題でしょう」
「程度問題を持ち出すようじゃ駄目だよ」
「しかし……」
「我輩と議論をする気か?」
「いや、決して」
「君は何んな意味に於ても自分を特別誂えの人間と思っちゃいけない」
「はあ」
「当り前の人間の積りでやり給え」
「はあ」
「天分だの天職だのってことは初めから分るものじゃないんだから、有りついた仕事を一生懸命でやる外に仕方がない。天分が向いていれば何うにかなる」
「向いていなかったら、何うでしょうか?」
「食って行く丈けさ」
「成程」
「しかし一生懸命でやっている中に大抵向いて来るよ。硝子会社に十年もいて見給え。頭の中が硝子ばかりになって、学問も何も忘れてしまう」
「ハッハヽヽ」
「人間は商売上片輪にならなければいけない」
「はあ」
「君は郷里くにの中学校にいた竹内先生を知っているだろう?」
「はあ。あの先生には一年の時国文を習いました」
「竹内君が今何をしていると思う?」
「存じません」
「大阪で会社の専務取締をやっている」
「はゝあ」
「国語の教師として有望な人だったが、厭応いやおうなしに実業界へ入ったんだ。細君の親父さんが死んで、長男が未だ子供だから、後見人が必要ってことになった。仕事は蝙蝠傘こうもりがさの骨を拵える会社だ。竹内君は我輩のところへ相談に来て、何うしたものだろうと意見を求めた。我輩は一も二もない。『行き給え』と言った。竹内君は失望して、『私は矢張り教師として不適任でしょうか?』と訊いた。しかし適任不適任の問題じゃない。国語の教師の掛替はあるけれど、後見人の掛替はない。細君の里に同情がないなら兎に角、ある以上は犠牲の問題だ。その辺の道理を説明したら、納得して大阪へ行った。以来何年だろう? もう十年ぐらいになるよ」
うでしょうな」
「竹内君はあゝいう熱心家だから、やり始めると何でも一生懸命だ。経営宜しきを得て、親父さんの代よりも発展した。先年竹内君の長男が○高へ入ったので詳しい消息が分ったが、同業会社では大阪一だそうだ。尤も蝙蝠傘の骨を拵える会社なんてものは沢山たんともあるまいけれど」
「妙なものですな」
「何でも宜いんだ。理窟は抜きにして、有りついた仕事を一生懸命にやるのさ」
「はあ」
「初めから計画したって仕方がない。ナポレオンだってナポレオンになろうと思ってナポレオンになったんじゃない」
「はあ、そのお話は学校で度々承わりました」
 と堀尾君はこの上の長談義を恐れた。道子さんが待っている。
「天分なんてものは結果から見ての話だ。初めから分るものじゃない」
「はあ」
「何かあると思っていると間違う。ナポレオンのように伍長になって社会の軍隊へ入り給え」
「伍長にもなれません」
「ハッハヽヽ」
「何ですか?」
「伍長になると言ったら叱ってやろうと思った」
「危いですな」
「ハッハヽヽ」
「新兵になって新規蒔き直しにやります」
「それがい。註文をつけないで一生懸命にやっている中に何うにかなるんだ」
「御趣旨に副うように努めます」
「久しぶりに会って、小言を言ってしまったね」
「いや、結構です。しかし先生、大分長くお邪魔を致しました」
「未だ早いよ」
「しかし……」
「我輩、今晩は全く閑だ」
「それではもう少時しばらく
「ゆっくり話して行き給え。っとも構わないんだ」
 と安藤先生は察しがない。
「先生、議論ではありませんが、適不適ってことも考える必要がありましょう?」
「それは大いにある」
「僕は元来会社勤めには向かないかとも思います」
「向かないね」
「矢張り然ういう御判定ですか?」
「少くとも平社員には向かない」
「はゝあ」
「重役なら勤まるよ」
「何ういう意味でしょう?」
「重役の勤まらない人間はない。しかし平社員は大抵の人間に勤まり兼ねる」
「分りました。向く向かないを考えるようじゃいけません」
 と堀尾君は先を越して警戒した。
「いや、初めから向いた方へ行ければ一番結構だよ」
「しかし何に向いているのか分らないんです」
「君は何にでも向く」
「そんなことはありません」
「小言の言いっ放しじゃ気の毒だから、一つ相談に乗ろう。希望を述べて見給え」
「これって註文はないんです。今度は料簡を入れ替えて何でもやります」
「学校の教師は何うだね?」
とても駄目でしょう、法科ですから」
「いや、高等学校で法律を教えるんだ。この方なら、今直ぐってことはむずかしいが、我輩、責任を負って心掛ける」
「何うも先生って柄じゃありません」
「進まないかい?」
「はあ。その任でないと思います」
「うまく蹴ったね。矢っ張り会社か?」
「他に使い道がないんです」
「会社が宜いなら、官吏だって同じことだろう?」
「地方へ出たくないんです」
「註文が多いな」
「東京に丈けは石に齧りついても踏み留りたいんです」
「それじゃ矢っ張り会社だね?」
「はあ」
「東京で会社の口と。範囲が狭いな」
「それでナカ/\ないんです」
「銀行でも次第わけだね?」
「結構です」
「よし。明日の晩、然うだね、十時過、十一時近くに又来給え」
「はあ」
「心当りへ直接談判をして置く」
「それでは恐れ入ります。紹介状を戴いて、僕、自分で参りましょう」
「そんなことじゃき目がない。会って話すよ」
「しかしお忙しいところですから」
「いや、丁度好いことに、明日の晩同期の連中と久しぶりで会食する。その中に会社や銀行で可なり好いところを勤めているのが三四名あるから、れかに売りつける」
 と安藤先生は右から左へ運ぶように言った。
 堀尾君は間もなく辞して、道子さんを訪れた。先生から愛人へ。脱兎の勢だった。
「寄り道をしていておそくなりました」
 と弁解しながら二階へ上った。
「私、何うなすったのかと思っていましたわ」
 と道子さんは急に元気が出たようだった。
「僕も気が気じゃなかったんです」
「何処へお寄りになりましたの?」
「ついそこの松葉館て宿屋です。○高の安藤さんが来ているんです」
「問題の先生ね?」
「はあ。早速叱られて来ました」
 と堀尾君はソロ/\失業の方へ話を向けなければならない。
 そこへ道子さんの叔母さんが現れて、二言三言挨拶した後、
「主人は生憎謡曲うたいの会へ出掛けました。堀尾さんのお見えになる時はいつも留守ですわね。まあ/\、何うぞ御ゆっくり」
 と直ぐに下りて行った。
「オホヽヽヽ」
「何ですか?」
「叔母さんもこの頃は気を利かして下さるのよ」
「ハッハヽヽヽ」
「気が利かん……てこの間九官鳥が申しましたの」
「はゝあ」
「私、そんな暗示を与えた覚えはないんですけれど」
「何とも分りませんよ」
「まあ! オホヽヽヽ」
 と道子さんは相変らず九官鳥を飼っている。
「ところで道子さん」
「何あに?」
「今回は何とも面目ありません」
「私も責任がありますわ」
「いや、僕の考えが足らなかったんです」
「いゝえ、私の伺い方が晩かったからですわ」
「そんなことはありません」
「でもう仰有ったじゃございませんか?」
「あれは冗談ですよ」
「それから後の方は私が階下したにいたものですから、わざとあんなに虚勢をお張りになったんですわ」
「いや、あれが僕の本心です」
「それじゃこれから先も危いんでございますわね」
「それですから、今回はと唯今断りました」
 と堀尾君は冗談にまぎらして御機嫌を取り結ぼうとする。
「厭よ、こんな心配、私、もう」
「以来慎みます。先生にもサン/″\叱られて来ました」
「何と仰有って?」
「第一に恒産がお気に召しません」
「はあ?」
「財産です。貰ったのがお気に障っているようでした」
「むずかしい先生ね」
「次に今回のことがいけません」
「それは当り前でございましょう」
「法にかなっていないと言うんです」
「適っていませんわ」
「喧嘩の法にですよ。先生はその道の達人です」
「その道っての道?」
「喧嘩をする度に栄転して、高等学校の教頭になった人ですから、もう一つやれば今度は校長です」
「まさか」
「本当ですよ。然ういう人ですから、喧嘩をしたのを叱ったんじゃありません。負けたので少し首尾が悪かったんです。鳧を玄関へ送り出した時までは徹頭徹尾此方が勝っていたのにと力瘤を入れてくれました」
「大変な先生ですわね」
「そこが好いんです。僕を何処かに世話してくれるそうです」
「本当?」
「明日の晩十時過に又伺う約束です。心当りが三つも四つもあるそうですから、或は直ぐ定るかも知れません」
「矢っ張り有難いものね」
「ところで叔父さん叔母さんに今度のことを申上げましたか?」
「いゝえ」
「兄さんへは?」
「未だよ」
「しかし黙っていていでしょうか?」
「さあ」
「公明正大のことですからかくして置く必要もありませんな」
「でも具合が悪いじゃありませんか?」
「兎に角、明日の結果を待ちましょう」
「定れば宜うございますわね」
 と道子さんは望を嘱し始めた。
「お母さんはもうソロ/\御上京じゃありませんか?」
「私、それを考えていましたの。支度の見繕いにおいでになるんですからね」
「はあ」
「あなたがこんなことになってしまったんじゃあ、私、本当に具合が悪いのよ」
「申訳ありません」
「今更苦情を申上げるんじゃございませんけれど」
「お流れになると困りますね」
「勤め向きの都合で急ぐってことにしてあるのに、根柢がグラつき出したんですもの」
「矢っ張り喧嘩はするものじゃない。これに懲りて気をつけます」
「兄さんの仰有ったことが実現されたんですわ」
「何と言いましたか?」
「頭は好いんですって、あなたは」
「それから」
「よしましょう」
「話して下さい」
「今更仕方ありませんわ」
「後日の参考になります」
「頭は好いんですって」
「それは分っています」
「その分……オホヽ」
「何ですか?」
「オホヽヽヽ」
「言って御覧なさいよ」
 と堀尾君は道子さんの手首を握った。道子さんは尚お笑う丈けで、振り放す努力を忘れている。これだから叔母さんも気を利かさなければならない。
己惚うぬぼれが強いから、万事独断的ドグマチックですって」
「成程。奴の言いそうなことだ」
「今は猫を被っているけれども……」
「はゝあ」
「遠い将来にはお前に一言の相談もなしで辞表ぐらい平気で出す男だから、この点を警戒するようにって」
「恐れ入りました」
「近い将来でしたわね」
「堪忍して下さい。これから気をつけます。実はその点も先生に叱られて来たんです」
「私のことお話しになって?」
「いや、辛抱の足りないことです。恩師の教訓身に沁みて、これから一生懸命にやります」
「口があれば宜うございますわね」
「ありますよ」
「そんなに確信していらっしゃると大抵外れるものよ」
「先生は滅多に断言しない人ですからね」
「断言なすったんですか?」
「殆ど断言でした。同窓の重役連中に会って直接頼んで下さるんです」
「それなら有望ね」
「明日の晩が待ち遠しいです」
「直ぐに知らせて戴けませんこと?」
「十時過、十一時近くってんですからね」
「晩いわね」
「寄っちゃ具合が悪いでしょう?」
「さあ」
「郵便にしましょう」
「もっと早い法があるわ」
「電報?」
「寄って戴きますわ。矢張り」
「しかし十一時過ぎますよ」
「構いませんわ」
「今晩の明晩じゃ続き過ぎます」
「続き過ぎても構いませんわ。好い法があるのよ」
「何うするんです?」
「あら」
 と道子さんは手を引いた。女中が紅茶を持って上って来た。
 二人は完全な沈黙を守って、その去ることの一瞬刻も早きを祈った。なまじ取繕って当らず触らずの話を始めると、先方むこうも当らず触らずの積りで長居をする。
「好い法があるのよ」
「何うするんです?」
 と会話は切れたところから又始まった。
「あなた何か忘れ物をしていらっしゃれば宜いわ」
「成程」
「紙入が宜いわ」
「承知しました」
「私、後から発見しますから」
「忘れない中に差上げて置きましょう」
 と堀尾君は早速内隠しから出して渡した。
「確かにお預かり致しました」
「一寸待って下さい。一枚出して置きます」
「まあ! オホヽヽヽ」
「ハッハヽヽ。これぐらい正気な忘れ物はありませんね」
「お声が高いわ」
「それで?」
「私、後から発見して、『あら、紙入を忘れてお帰りになりましたわ』って、叔母さんに渡します。渡す方が印象が深いわ」
「一寸待って下さい」
「これ?」
「はあ」
「又お出しになる?」
「いや、お金じゃないんです。叔母さんに見られると具合の悪いものが入っているんです」
「いやよ、私、そんな秘密があるんじゃ」
 と道子さんは紙入を渡さない。
「秘密じゃないんですけれど」
「何? それなら」
「さあ」
「私、拝見しますよ」
「困ります」
「分りました。小形の名刺でございましょう」
「そんなものじゃありません」
「何?」
「兎に角、大切だいじなものです」
 と堀尾君は手を伸した。
「厭よ、私」
「叔母さんが御覧になると困るんです」
「私丈け宜いでしょう?」
「いけません」
「そんなにお大切のものならお返し申上げますよ」
 と道子さんは本気になった。
「それじゃ御覧に入れます」
「もう宜うございますよ」
「このまゝお渡し致します」
「いゝえ、拝見したくありません」
「いや、変な疑惑が残っちゃ困ります」
 と堀尾君は道子さんに紙入を押しつけた。道子さんはねたものゝ、好奇心が動いている。直ぐに開けて見て、
「お紙幣さつばかりじゃございませんか?」
其方側そっちがわです」
「これ?」
 と道子さんは手札大のものを取出して、
「まあ!」
 と拍子抜けがした。それはその夏堀尾君がともで撮った道子さんの写真だった。
「ハッハヽヽヽ」
「おかつぎになったのね」
「いや、女は直ぐに増長するそうですから」
 と堀尾君は懸念を有りのまゝに述べた。

捨てる神、拾う神


 夜の十一時過、堀尾君は安藤先生の面前を辞去すると直ぐに、道子さんのところへ急いだ。唯さえ足の速い上に吉報だった。黒い椎の葉の透間すきまから二階の灯が見えた時は殆どすべり込みの要領だった。
「御免」
 と案内を求めると、道子さんが出て来て、
おそかったのね」
 とニッコリ囁いて、次に、
「まあ! 何うぞ。叔母さん、堀尾さんがお見えになりました」
 と公明正大を期した。
「大変晩く伺いました。昨夜忘れ物をしたものですから」
「ございましたよ」
「ありましたか?」
「オホヽ」
「もう晩いですから、戴いて帰ります」
「まあ、一寸宜しいじゃございませんか?」
「御迷惑でしょう。もう十一時過ですから」
 と堀尾君は十一時過が元来の約束だった。
「いらっしゃいまし。まあ、何うぞ」
 と叔母さんも斯う大声で話されては出て来ない次第わけに行かない。
「昨晩は失礼申上げました」
「何う致しまして。さあ」
「忘れ物をしたものですから」
「道子さんが後から気がついて、御心配申上げて居りました。さあ、何うぞ」
「いや、もう十一時過ぎていますから」
「電車は十二時までございますわ。屹度お見えになると申して、道子さんも夕方からお待ちしていたのでございますから」
「それでは一寸ちょっと
 と堀尾君は二階へ上った。
「お芝居。オホヽヽヽ」
 と道子さんが笑った。
「上手でしょう?」
「さあ。何うぞ」
「急ぎますから」
 と堀尾君は座布団に坐ると共に時計を出して見た。
「宜いのよ、御ゆっくりで」
「しかし本当にもう晩いんですから」
「何うでございましたの?」
「好い塩梅あんばいでした」
「まあ、嬉しい」
「新聞社ですよ」
「あら! 会社じゃございませんの?」
「会社銀行は駄目でした。重役連中が四人とも、そんな喧嘩っ早い奴は御免蒙ると言ったそうです」
「この間のことをお話しになったんでございますね?」
「えゝ。安藤先生は中学校高等学校を通じて僕を手がけていますから、いささ衣鉢いはつを伝えた積りだと言って推薦したそうですが、それが却って悪かったようです」
「贔負の引き倒しね」
「矢っ張り僕の先生ですよ。直ぐに憤ってしまって、貴様達、金のことばかり考えている奴等に教育が分るかって、食ってかゝったんです」
「まあ!」
「そんな物の頼み方があるかって、先方むこうも酔っているんです。そんな奴等に頼むものかって、先生は決して負けている人じゃありません」
「それじゃ纒りっこありませんわ。あら、あなた」
「何ですか?」
「おつむりに何かついていますよ」
 と道子さんが寄り進んだ。髪の毛にかゝっていたものをつまみ取って、
蜘蛛くもの巣よ」
 と指先で揉んだ。
「近道をしようと思って、木の下を潜り抜けたからでしょう。兎に角、吉報ですから、急いだんです。先生は大分酔っていました。その実業家連中との議論を長々と話すんでしょう? 頼む人と喧嘩をしたんじゃとても駄目です。僕、もう諦めていたんですが、捨てる神あれば拾う神ありでした。矢張り先生の同窓で○○新聞の編輯長をしている人が先生の味方について、然ういう男なら我輩が使いこなして見せるから是非寄越せと言い出したんです」
「それは宜うございましたわね。あなたは新聞の方が向くかも知れませんわ」
「僕もう思うんです。明日行って見ることになっています。先生から紹介の名刺を戴いて参りました」
 と堀尾君が内隠しを探った時、女中が上って来た。
「もう晩いから、これ丈けで宜いのよ。御苦労さま」
 と道子さんは時間が惜しい。茶器を盆ぐるみ引き寄せて、直ぐに退去を命じた。
「編輯長ですから、取る気になれば、一人ぐらい何うにでも都合がつくんでしょう」
「○○新聞なら一流よ」
「はあ、社として申分ありません」
「私、新聞記者の方が唯の会社員よりも宜いと思いますわ」
「社会の木鐸ぼくたくです」
「適任よ。お手紙がお上手ですから」
「ハッハヽヽ」
「オホヽ。本当ですよ。兄なんかとても成っていませんわ」
「書くことはこれで中学時代から好きでしたから」
「屹度成功しますわ」
「さあ。会社で伝票を書くよりも面白いでしょうから、励みがあります」
「しかし取って戴けるでしょうか?」
「少し心配です。行きがかり上、屹度採用するって、先生は確信しているんですけれど」
「何が仕合せになるか知れませんわね」
「先生の親友だそうです。先生と肝胆相照らすんですから、余っ程の遣り手に相違ありません。僕は使って貰えれば、今度は先生の下で働く心掛でやります」
「喧嘩にならなくて宜うございますわ」
「今度は本気です。しかし酒癖の好くない人だそうですよ」
「まあ!」
「酒を飲むと気が大きくなって無暗に物を引き受ける男ですから、明日行っても、ケロリと忘れているかも知れないんですって」
「あら、心細いのね」
「ハッハヽヽ、それは先生の冗談でした」
 と笑いながらも、堀尾君は多少の疑虞ぎぐがあった。
「本当に定ってくれゝば宜うございますけれど」
 と道子さんも落ちつかない。
「明日の昼までに分ります」
「晩に来て下さる?」
「さあ」
「私、今日は学校へ行っても御勉強が手につきませんでしたの」
「御心配をかけて済みません」
「御報告においでになる責任がございますよ」
「参りましょう。しかしこれじゃ本当に毎晩ですね」
「然うね」
「紙入を取りに来たんだから、もう忘れて行く次第わけには参りません」
「オホヽ。叔母さんにあの写真、御覧に入れましたのよ」
「何と仰有っていました?」
「道子さんは仕合せねって」
「恐れ入りました」
「叔母さんもそんな時代があったんですって」
「はゝあ。あれで?」
「あら! あの顔立ですもの。若い時は綺麗だったに相違ありませんわ」
「間接に自家広告をなさいましたね」
「ひどいわ」
「失敬しました。ハッハヽヽ」
「お口がお悪くなりましたのね」
「ハッハヽヽ」
「私、忘れない中にお忘れ物を差し上げて置きますわ」
「お催促をなさらなくても、もう帰りますよ」
「又!」
「ハッハヽヽ」
 と堀尾君は他愛ない。
「矢っ張り夕方散歩ながらおいでになって戴きましょうか?」
「はあ、来ることは少しも苦労じゃないんですけれど」
「毎晩ですから?」
「はあ」
「御見識にかゝわって?」
「これはいけない。ハッハヽヽ」
「オホヽヽヽ」
突如いきなり逆襲でしたね?」
「冗談は兎に角、私、明日上りましょうか?」
「学校のお帰りに?」
「はあ」
「然うして下さればこの上なしです。何時頃ですか?」
「二時半頃になりましょう」
「お待ちしています。きまったら、明後日の晩、又改めて御報告ながら上りましょう」
「叔父さんや叔母さんにはその時悉皆すっかりお話申上げれば宜うございますわ」
 と道子さんも心得たものだった。婚約の間柄でも周囲の思惑というものがある。同じ材料を幾通りにも利用するように心掛けなければいけない。
 翌朝、堀尾君は丸ノ内の○○新聞社へ出頭した。
「木下さんにお目にかゝりたいんですが」
 と言って、刺を通じようとしたら、
だお見えになりませんよ」
 ということだった。早過ぎたと思って、少時しばらくその辺をブラ/\歩き廻った後、又訊いて見たら、受附は、
「未だお見えになりません」
 と全く同じことを無表情で繰り返した。
「それでは一寸用足しをしてから又参りましょう」
 と堀尾君は銀座へ向った。会う丈けは直ぐに会える積りでいたが、当が外れて、求職者の儚さを感じた。しかし本人が未だ来ていないのでは仕方がないと思って自ら慰めた。
 一時間の後、三度目訪れても、
何方どなたですか? 木下さん? 未だお見えになりません」
 と受附の青年は初めて訊かれたような返答だった。
「何時頃お見えになるんですか?」
「大抵お昼過ぎです」
「それならっくにう言ってくれゝば宜いじゃありませんか?」
「…………」
先刻さっきから三度も来ている」
 と堀尾君が極めつけた時、受附は返辞の代りに小窓を手荒く閉じた。堀尾君はその態度が癪に障ったから、直ぐに引き開けて、堅く捉えたまゝ、
「君」
 と追究した。
「何ですか?」
「君は受附だろう?」
「はあ」
「受附なら受附らしく用の足りるように計らい給え」
「…………」
「木下さんは何時に来る?」
「今頃お見えにならないと、大抵お昼過です」
「それなら何故早く然う言わない?」
「…………」
「此方は先刻から三度も無駄足を運んでいるんだ」
「それは私の知ったことじゃありません」
「ないことがあるものか? 昼からなら何故昼からと言わない?」
「それは御無理ですよ。昼前からお見えになることもあるんですから」
「兎に角、君は不都合だ」
「何が不都合です?」
「受附として受附の責任を果さないのは不都合じゃないか?」
「こゝで大きな声をお出しになっちゃ困ります」
 と受附は又小窓の戸を引こうとしたが、堀尾君は放さない。こだわる積りもなかったけれど、言い負かされたような気がして、忌々いまいましかった。
「何です? 君は」
 と受附の後ろに事務を執っていた男が立って来た。
「木下さんに会いに来たものです」
「未だお見えにならないと言っているのが分らんですか?」
「それは分っていますが、此奴の態度が気に入りません」
「何故?」
「失敬です」
「僕は先刻から聞いていたが、失敬なことはっともない」
「此奴の言い方が悪い為めに僕は三度も無駄足を運んでいます」
「それは受附の責任じゃありません」
「責任です。昼からなら昼からと言ってくれゝば宜い」
「君は木下さんが出勤しているか何うかと訊いたんでしょう?」
「然うです」
「何時に出勤するかとは訊かなかったんでしょう?」
「それは訊かなかったです」
 と堀尾君は受け太刀になって、
「訊かなかったですれど……」
 と後が直ぐに出なかった。
「社務多忙ですよ。訊かないことは申上げられません」
 と相手は突っ込んだ。
「しかし受附として、それぐらいの親切気があって欲しいものです」
「大勢見えるんですから、一々御機嫌を取っていられませんよ」
「御機嫌を取れとは言わない!」
 と堀尾君は声を励ました。
「…………」
「此奴の態度が礼を欠いている」
「此奴とは何です? 君の態度こそ礼を欠いていませんか?」
 と事務員は直ぐに揚げ足を取った。そこへ別の来訪者が現れたものだから、堀尾君は退かなければならなかった。
「もう宜い、面倒だ」
 と投げつけるように言って、トットッと出て来たが、悉皆すっかり遣り込められたような心持がして、不愉快の極みだった。あんな奴等を相手にしてと後悔の念も手伝っていた。
うもおれはいけない」
 と覚えず呟いた。
 時計を見たら、十一時過ぎていた。今頃来なければお昼過だと受附が言ったが、成程と思い当るところがあった。今にも来るように考えていて、その都度未だお見えになりませんと言ったのかも知れない。然うだとすると、一概に極めつけたのは少し分別が足りなかったと思った。
「あゝ、そんなことは何うでも宜い」
 と堀尾君は頭の中のこだわりを一掃することに努めた。家へ帰って又出直す心組だったが、お昼過というともう間もない。但し十二時過もお昼過、一時も二時もお昼過だ。
「チェッ! 要領を得ない奴だ」
 と矢張り癪に障る受附だった。二時なんてことになると、二時半に訪れて来る道子さんに失望を与えなければならない。
「帰ろう。婆やに断って置く」
 と決心したのを、
「昼からといえば食事をして来るのだから、一時頃だろう。一時に会って三十分話して直ぐに帰れば二時半に充分間に会う」
 と考えを翻した。
「しかし危い。一時過二時頃まで待たされるかも知れない」
 と又思い直して、停留場へ急いだ。
 一時過に四度目○○新聞社へ出頭した堀尾君は、
「おい。君」
 と初めから喧嘩腰だった。
「唯今お見えになりました」
 と今度は受附も覚えていた。
「お目にかゝりたいんですから、これを取次いで下さい」
 と堀尾君は安藤先生の名刺に自分のを添えて渡した。先刻の事務員は社務多忙と見えて、知らん顔をしていた。其奴を睨んでいる間に受附が出て来て、
「何うぞ此方へ」
 と応接間へ案内した。
 待つ間もなく、容貌ようぼう魁偉かいいの中老紳士が入って来て、
「木下です」
 と言った。
「初めてお目にかゝります。安藤先生から御無理をお願い申上げたものでございます」
 と堀尾君は鄭重な挨拶をした。
「さあ、掛け給え」
「はあ。失礼致します」
「履歴書をお持ちですか?」
 と木下さんは直ぐ用件に取りかゝった。
「はあ」
 と堀尾君は内隠しから出して渡した。木下さんはそれを一覧しながら話す。
「学校の成績は極く好いようですな」
「何う致しまして」
「文官試験も通っているし」
「…………」
「何故官吏にならないんですか?」
「余り興味がないものですから。それに中央で働きたいなぞと贅沢を言っている間に、つい時機を逸してしまいました」
「惜しいことでしたな」
「…………」
「○○紡績は何うしておやめになったんですか?」
「さあ」
「入ってから八九十と三月でしたな」
「はあ」
「然う/\。安藤君が何とか言っていた」
 と木下さんは思い出した。
「やめたというよりも、やめさせられたんです」
「腕力かね?」
「はあ?」
「腕力でやったんですか?」
「いや、上役のものに対して少し言葉が過ぎたからいけなかったのだと思います」
「成程」
「先生に叱られて、もう後悔しています」
「安藤君かね?」
「はあ」
「安藤君は叱る資格がない。何処へ行っても喧嘩ばかりしている」
「しかし先生はいつもお勝ちになります」
「不思議と首にはならんね」
「はあ」
「いつか寄ったら、町の新聞を相手にして盛んにやっているところだった。今度は危いと言って覚悟をしていたが、間もなく高等学校へ栄転した」
「あれは僕の郷里の中学校でした」
「生徒が県会議員を撲ったとか言って痛快がっていたよ。あの辺は少し事を好む傾向がある」
「弁護士です。其奴を撲った生徒の罪をお引受けになったんです」
 と堀尾君は弁解したが、自分がその生徒だったことには触れなかった。
「ところで君は新聞事業が御志望ですか?」
 と木下さんは用談へ戻った。
「はあ」
「会社から新聞社というと大分方面が違いますが、何か動機がありますか?」
「別にありません」
「無論新聞というものに興味はおありでしょうな?」
「多少あります」
「多少?」
「いや」
 堀尾君は慌てゝ、
「実は何ういう次第わけか新聞社というものは今まで考えたことがなかったんです」
「それは興味がないからでしょう」
「さあ。むずかしい仕事と思っていましたから、問題外にしていたんです。しかし安藤先生が君だって勤まらないことはないと仰有って下すったものですから、急に興味が出て参りました」
「成程」
 と木下さんは履歴書を手にしたまゝ、首を傾げて考え込んでいる。頭の天辺てっぺんから足の爪先まで新聞の興味に満ちた人だから、多少が気に入らないようだった。堀尾君は拙いことを言ってしまったと思って、
し使って戴ければ、今度は天職と信じて、一生懸命にやる決心です」
 と付け加えた。
「君は大分変っているね」
「はあ?」
「人間が正直なんだろう?」
「嘘は滅多につきません」
「その通り正直だ。ハッハヽヽ」
 と木下さんは理解してくれたらしく、
「こゝへ来る青年は皆新聞記者を天職と信じているから使って貰いたいと言う。君は使って貰えれば天職と信じるんですね?」
 と念を押した。
「はあ」
「少し行き当りばったりのようじゃないですかね」
「しかし人間は誰でもうでしょう?」
「成程」
「ナポレオンにしても初めからナポレオンになろうと思って、ナポレオンになったんじゃないと思います」
「成程」
「殊に僕のような凡人は有りついた仕事を天職と信じて、それに没頭するより外仕方ありません」
 と堀尾君は安藤先生の教訓を利用した。
「面白い」
「それで興味がないんじゃありません。ないと言えば、何にでもないんです。あると言えば、何にでもあるんです」
白紙ブランク・ペーパーだね。宜しい。ところで新聞社には編輯と営業の両方面がある。君は何方を御志望ですか?」
「何方でも宜いです」
「営業の方は会社の事務と先ず大同小異です」
「はゝあ」
「何うですか? 事務はお好きですか?」
「さあ、好き嫌いを申上げる場合でありません。何方どちらでも結構です」
「しかし営業の方は私の一存で定められません」
「編輯の方なら願ったり叶ったりに存じます」
「編輯も一種の事務ですよ」
「はあ」
「記者、必ずしも書かない。自分で書くよりも人の書いたものを纒めて行く方が多いんですから、矢張り事務員に成り切らないと勤まりません」
「使ってさえ戴ければ、必ず御指導に従って一生懸命にやります」
「アレンジして行く仕事が主ですから、同輩との接触が緊密です。これはいつも部内のものに言って聞かせることですが、社が一個の有機体で、お互は皆細胞ですから、共力一致、不即不離、これを理想としてやって戴きたい」
「はあ」
「君は安藤君の衣鉢いはつをついで喧嘩っ早いそうですが、この点はんなものでしょうかな?」
「…………」
「編輯長として私が直接君を採用する形になるから、君は自然皆の注目を惹きましょう」
「はあ」
「人一倍勉強してくれないと困る」
「はあ。及ぶ限り努力致します」
「それから同僚との折合ですが、編輯部には荒いのが揃っています」
「はゝあ」
「それと喧嘩をして負けちゃ困る」
「…………」
「大丈夫かね?」
「さあ」
「ハッハヽヽ」
 と木下さんは冗談か本気か分らない。
「もう喧嘩は致しません」
「いや。しても構わない。しかし負けちゃいけない」
「…………」
「仲よく折り合って行ければ、それに越したことはありません」
「精々心掛けます」
「しかし会社や銀行と違って荒いのが揃っているんだから、喧嘩で折合って行く心掛も必要ですよ」
「はゝあ」
「安藤君のお弟子に無条件で折合えとは言いません」
「恐れ入りました」
「しかし成るべくやらないことです」
「はあ」
「やるなら負けないことです」
「はあ」
 と堀尾君はこの点、注意を受けるまでもない。
「条件について何か御希望がありますか?」
「一向ございません」
此方委こちらまかせで宜いですか?」
「結構です」
「それじゃ明日又お出下さい」
「はあ」
「悉皆定めて置きますから、出勤の積りで十時からお出下さい。私がいなくても受附で分るようにして置きましょう」
「有難うございました」
「それでは」
 と木下さんも満足のようだった。
 堀尾君は悉皆好い心持になって社から出た。家へ帰りつくと、玄関に道子さんの靴を認めて、
「お帰り!」
 と大声で調子づいた。
「まあ!」
 と道子さんが出迎えて、
「お帰りなさいまし」
 と赤らんだ。
「新家庭のようですね」
「まあ!」
「ハッハヽヽ」
「何うでございましたの?」
「定りました」
「嬉しい」
「喧嘩御免です」
「はあ」
「ハッハヽヽ」
 と堀尾君は上機嫌だった。
「喧嘩何?」
「いや、明日から出勤です」
「結構でございましたわね」
「編輯の方です」
「新聞なら無論編輯の方でございましょう」
「いや、営業ってのもあるんです」
「俸給はお幾ら?」
 と道子さんは勘定高く早速問題にした。
先方むこう委せにして来ました」
「その方が宜うございますわ。余計戴けるかも知れませんから」
「慾張っているんですね」
「オホヽヽ」
「僕は唯でも宜いんです」
「唯じゃ張合がありませんわ」
「婆や、婆や、お前も喜んでおくれ」
 と堀尾君は得意だった。
「はい」
「漸くありついたんだから喜んでおくれ」
「はい/\」
「これは張合がないぞ」
「大学者ですもの。当り前じゃございませんか? ねえ、お嬢さん」
 と婆やは一向驚かない。大学を出たもの即ち大学者で、諸事思い通りに行くものと信じている。

先輩後輩


 晩に、裏隣りの悌四郎君が訪れた。堀尾君と違って、勤め大切だいじ律義者りちぎもの、上役を神さまのように敬う男だから、堀尾君の失業を当然のことゝして、その折、
「何と言っても君が悪い。世の中はそんな単純なものじゃない。駄目だよ、君は。中学時代と同じだもの」
 と大いに忠告するところがあった。
「何うだね? 三井物産へ推薦してくれないか?」
 と堀尾君は冗談に言った。
とても/\」
「何故?」
「君と机を並べた日には僕の首まで危くなるよ」
ういう計算だろう?」
「考えて見給え」
「何を?」
「小学校の時も中学校の時も僕は君の巻き添えで、ひどい目に会い通しだぜ。いや、学校に入らない前からだった」
 と悌四郎君はその実例として、正晴君から痲疹はしかを貰って死にかけたこと、村長さんの養魚池を荒して操行点が乙になったこと、峠の喧嘩で側杖を食って頭が瘤だらけになったことを持ち出した。
「君は覚えが好いな」
「損をしたことは忘れない」
「徳をしたことは何うだい?」
「え?」
「ハッハヽヽ」
「参った/\」
「三井物産へ世話をするかい?」
「困ったね」
「ハッハヽヽ」
 と堀尾君は得意だった。悌四郎君は高商卒業間際に現在の細君を見初めて煩悶の極に達した時、正晴君に一方ひとかたならぬ手数をかけている。正晴君と旧師岡村さんのお蔭で今日の円満な家庭がある。
「斯ういう時に何とか骨を折らなければ、義理が悪いんだけれど」
「冗談だよ、君」
「実際の話、僕のような下っ端から持ち出しても問題にならないんだ」
「分っているよ」
「僕、岡村先生のところへ行って相談して来ようか?」
「宜いよ。心配をかけるばかりだ」
「しかし何処にも心当りはないんだろう?」
「ないけれど、その中には何うにかなるさ。世間は広いよ。○○紡績ばかりが会社じゃない」
「君は僕と違って生活に困らないんだから、もっとしょうに合うところをゆっくり捜すんだね」
「うむ」
「尤も伝票をつけるのが嫌いだなんて贅沢を言っていたんじゃ会社は駄目だよ」
「伝票を卒業すると帳簿だそうだけれど、帳簿なんてものは見るのも嫌いだ」
「それじゃ仕方がないね」
「算盤も嫌いだ。あんな無味乾燥なものはない」
「一層のこと方面を更えて先生になっちゃ何うだい? 先生なら帳簿も伝票もつけずに済む」
 と悌四郎君は至って平凡な献策しか出来なかった。
 ○○新聞社の方が定りかけた晩、その悌四郎君の訪問に接した堀尾君は、
「丁度好かった。これから一寸お邪魔をしようと思っていたところだ」
 と歓んで迎えた。
「何うだい? 形勢は」
「有望だよ。○○新聞社へきまりそうだ」
「ふうむ、それは宜かったね」
 と悌四郎君は二階へ通って、
「新聞社とは気がつかなかった。これは性に合っているぜ」
 と如何にも感心したように言った。
「何故?」
「あゝいうところは人の悪いのが揃っているんだからね」
「僕もその口かい?」
「ハッハヽヽ」
「ひどいぞ。こん畜生!」
 と堀尾君は調子づいていた。
「確実かい? もう」
「大抵大丈夫だ。明日から出勤の積りで来いと言ったもの」
主筆しゅひつに会ったのかい?」
「いや、編輯長だ」
「大学の推薦かい?」
「いや、安藤先生から頼んで貰ったんだよ」
「安藤先生って、あの安藤さんかい?」
「うむ。実は昨日の晩も一昨日の晩も会ったんだよ」
 と堀尾君は先生に叱られたことから推薦して貰ったことを、詳しく物語った。
「九段上なら近いじゃないか? 僕にも知らせてくれゝば宜かったに」
「その間がなかったんだ。一昨日の晩会った時は、直ぐ目と鼻の間だから、序に報告に廻ったろう? 帰ったら十一時さ。昨日の晩は先生、会があって晩くなるから十時過に来いと言うんだ。十一時過まで話して又報告に廻ったろう? 帰って来たら十二時過ぎていたぜ。今日立ったろうけれど、時間を教えてくれないから仕方がないじゃないか?」
「昨日の夕方知らせてくれゝば間に合ったよ」
「しかし今も言う通り十時まで会があったんだ」
「十時に一緒に行けば会えるじゃないか?」
「それは然うだけれど、君と一緒じゃ手間を取って彼方あっちへ廻れなくなる」
「宜いよ。君は何うせ道子さん本位で、友情なんかないんだ」
「失敬した。慌てゝいたものだからね」
「僕のことを先生に話したかい?」
「いゝや」
「その通りだもの。隣りに住んでいる僕を忘れているんだ」
「自分の屈託丈けでひとのことを考える余裕がないんだよ。失業して見ないと斯ういう心理状態は分らない」
「これから又報告に行くんだろう?」
「いや、もう済んだよ。後廻しにするものかね」
「おや/\」
「ハッハヽヽ」
 と堀尾君は何処までも図太く構えていた。
「斯ういうのにかゝっちゃかなわない」
「お互っこさ。君だって随分自己本位だったぜ」
「参った/\」
「当てられたものさ」
「昔のことは言いっこなし」
「今のことを話すから、ゆっくり聴いて行き給え」
「仕方がないね」
 と悌四郎君は度胸を据えた。二年前の仇討ちで昨今は頻りに聴かされる。
 翌朝、堀尾君は十時きっかりに○○新聞社へ出頭した。
「堀尾です」
 と申入れると、受附は昨日充分印象を受けている上に、申渡されていたと見えて、
「木下さんはだお見えになりませんが、亀田さんがいらっしゃいますから」
 と直ぐに出て来て、応接室へ案内してくれた。待つ間もなく、
「社会部の亀田です」
 と言って、矢張り中老の紳士が現れた。
「堀尾でございます」
「さあ、何うぞ」
「失礼致します」
 と堀尾君は椅子にかけた。初対面の挨拶をする積りだったが、その余地がない。
「社会部の方で働いて戴きます」
 と亀田さんは甚だ気忙きぜわしい人だった。
「何うぞ宜しくお願い申上げます」
「この社は万事簡便主義で、辞令ってものがありません」
「はあ」
「俸給は帝大出の初任月四十円と定めてあります。会社や銀行よりも安いですが、宜いですかな?」
「結構でございます」
 と堀尾君は早速有りついて安心したが、月給が一躍十五円下った。
「その代り成績次第で毎月上る可能性があります」
「はあ」
「俸給袋を開けて見て、いつもより余計に入っていたら、それ丈け上ったのです。辞令ってものがありません」
「はあ」
「年に二度も三度も上る人があります。尤もナカ/\上らない人もあります。三年四年と上らない人は大抵常識で判断して自分の方から見切りをつけます」
「はゝあ」
「万事簡便主義です。人間と人間の交渉ですから、然ういう場合も以心伝心いしんでんしんで行きます。お役所と違って、辞令ってものが一切ありません」
 と亀田さんは辞令のないのを大発明のように吹聴ふいちょうして、
「宜いですかな?」
 と念を押した。
「分りました」
「条件はそれ丈けです。差支ありませんか?」
「結構でございます」
「それで、仕事の方ですが、社会部は百貨店のようなものです。世上の有らゆる出来事を扱いますから、有らゆることを浅いながらも広く知っている必要があります」
「はあ」
「あなたは毎朝新聞を見る時、の面へ先ず目を通しますか?」
「社会面です」
「然うでしょう。一般読者は社会面から先に見ますから、新聞は社会面のく惹かないで直ぐ売行に影響します。一口に三面記事と言いますが、その三面記事が決して馬鹿になりません」
「はあ」
「三面記事しか読まない人が多いんですからな」
「僕なぞもその組です」
「それで社会面では極力センセーションを惹き起すことに努めます。たとえば強盗の記事を扱うにしても、単に忠実な報道丈けではき目がありません。この分では今晩家へ入るかも知れないと思い込ませるほどに書き立てます」
「成程」
「英国流ではいけません。何処までもアメリカ式に行きます」
「英国式とアメリカ式は違いますか?」
 と堀尾君は記者を発心ほっしんして未だ漸く三日目だから、何も知らない。
「違いますとも。英国の新聞記事はお上品一方です。例えば人殺しがあっても、『何々町の悲しき出来事』といったような見出しです。内容も妙に遠慮して修辞しゅうじを慎みますから、最後まで読まないと何ういう事件だか分りません。そこへ行くとアメリカの新聞は手っ取り早い。『何々町の三人殺し』と大見出しをつけます。次に『犯人いまばくにつかず』『一名危篤一名重傷一名無事』と段々活字を小さくします。皆見出しですよ。内容に至っては無論もっとセンセーショナルですが、見出し丈け読んでも大体が分るような仕掛けになっています。忙しい世の中ですからね。単に『悲しき出来事』じゃ要領を得ません。読者が食いつきません。しかし頭から『三人殺し』と来ると景気が好いです」
「はあ」
「読んで見る気になりますよ」
「はあ」
「そのくせ一人も殺されちゃいないんです」
「ハッハヽヽ」
「電車の釣革に下っている人間に読ませる新聞です。何とかして注意を惹きつけなければいけません」
「はあ」
「例えばここに万引をした女があるとします。それが唯の婦人では面白くありません、そこで某陸軍少将の姪とします」
「しかし苦情が参りましょう」
「いや。某ですよ。陸軍少将連中は誰の姪だろうかと思う丈けで、尻の持って来ようがありません」
「成程」
「うまく考えたものです。尤もこれは某社のやることで、あすこの万引は大抵某陸軍少将か某大学教授の姪になっています。本社は記事の正確を期しますから、そんな馬鹿な真似はしませんが、精神丈けは学んで置いても宜しい」
「はゝあ」
「嘘を書くのではないですが、一種の新聞用語があります。例えば紙屑屋が紙屑をっていて、十円紙幣さつ十枚を見つけ出したとします。その際、単に十円紙幣十枚と書いたんじゃ記事が映えません。何うしますか?」
「さあ」
「手の切れるような十円紙幣十枚とします。紙屑の中に紛れ込んでいたんですから、皺くちゃになっていたに相違ありませんが、読者はそこまで穿鑿せんさくしません」
「成程」
「新聞に書く紙幣は皆手の切れるような紙幣です。紳士が貧民長屋を訪れて皺だらけの十円紙幣を一枚恵んで行ったと書くよりも、手の切れるような百円紙幣を一枚恵んで行ったと書く方が、同じことなら、グッと賑かになります」
 と亀田さんは職業意識が強いから、社会面の都合次第で十円も百円も全く同じ扱いにする。
御道理ごもっともです」
「身投げをした女があるとします。これは必ず美人と書きます。奥さん風の醜婦しゅうふとしたんじゃ誰も読んでくれません。水死美人ともう用語が定めてあります。死んだ人への供養にもなりますよ」
「はあ」
「それで読者が喜んで食いつくんですから、この上はありません。記事一つ毎にセンセーションを惹き起す心掛が肝要です」
「はあ」
「暑さ寒さにしても、毎年、三十年来の暑さ、六十年来の寒さです」
「この夏は開闢かいびゃく以来の暑さでございました」
 と堀尾君は覚えていた。
「ハッハヽヽ、他の社に負けたくないと思って苦心惨澹です」
「私も及ばずながら一生懸命にやります」
「これ丈け骨を折っても、新聞記事の生命は当日一日丈けですから、考えて見ると張り合いがありません。一体何の為めに毎日斯う逆立ちをして騒いでいるのかと思うことがありますよ」
「しかし今日の仕事の結果が明日覿面てきめんに現れるんですから、考えようによっては却って励みがつきましょう」
「それもありますな。今日の失策しくじりが明日の朝物を言いますから、自然引きずられて行きます。誰だって負けるのは厭ですよ。私は毎朝各新聞の社会面と本社のを見較べます。此方が勝っている時はい心持ですよ」
「御道理です」
「大抵勝っているんです。しかし時折ひどく見劣りのすることがあります」
「はゝあ」
「これが自分の編輯した新聞かと思うと、もう落胆がっかりしてしまって、一日碌々口がきけません。実は今日は少しいけないんです」
「はゝあ」
「一向気焔が上りません」
 と断ったものゝ、亀田さんの新聞記者一般心得は一時間近くに亙った。
「はあ。はあ」
 と堀尾君は熱心に傾聴を続けた。
うです? 註文が多いでしょう?」
「いや、一々御道理でございます」
「ところであなたの部署ですが、差当り仕事に慣れるまで私の側で働いて下さい」
「宜しくお引き廻しを願います」
「専門の方へ廻るまでは一修業ひとしゅぎょうです。詰まらない雑用を頼みますから、期待を大きく持っちゃいけません」
「はあ。何なら校正からやらして戴きます」
「校正は係が別です。一口に校正と言っても、ナカ/\馬鹿になりませんよ。これも一人前ひとりまえにやれるまで一修業です」
「はゝあ」
「差当りは常備です」
「常備と申しますと?」
「種々と中途半端の事件が起って来ますから、それをやるんです。常備で一通り鍛え上げてから専門へ廻ります」
「専門と申しますと?」
「諸官省とか市役所へ詰めていて、夫れ/\専門の記事を取るんです。警察種なぞになると専門の刑事に劣らない技倆を要しますから、学校を出たばかりのものにはとても勤まりません」
「成程」
「専門と常備の外に遊撃ってのがあります。これは臨機応変に何処へでも飛んで行きますから、一番老巧の連中が引受けています」
「常備は外へ出ませんか?」
「出ますとも。それに専門の方の手伝いをします」
「成程」
「あなたは腸胃は丈夫ですか?」
「はあ?」
「腸胃です。消化器です」
「極く丈夫です」
「宜しい」
「しかし……」
「何ですか?」
「腸胃と新聞事業は何か関係があるんでございますか?」
「いや。腸胃が丈夫なら身体も丈夫です。新聞記者は激務ですから、身体が弱いと勤まりません」
「幸いと頑健です」
「それでは早速取りかゝって戴きましょうか?」
「はあ」
「もう皆出勤していましょうから、御紹介申上げます」
「万事宜しくお願い申上げます」
「木下君以外に御存知の方がおありですか?」
「ございません」
「附き合って見ると皆好い人達ばかりですよ。それじゃ参りましょう」
 と亀田さんが先ず立った。
 編輯局は大きな部屋で、幾つかに区切りがしてあった。それに机が並んで、各部が割拠かっきょしている。社会部は経済部の隣りだった。堀尾君は二十名ばかりの同僚に引き合せて貰った。
「諸君、今度入った堀尾君です。宜しく」
 と唯それ丈けだった。
「何うぞ宜しく」
 と堀尾君は鄭重にお辞儀をしたが、諸君は一斉に頷いたばかりで歯牙しがにかけない。直ぐもとの姿勢に戻って、れ/\仕事や雑談を続けた。
「君の席はこゝです」
 と亀田さんが指定してくれた。
「有難うございます」
「掛け給え」
「はあ」
 と堀尾君は席についた。
「三輪君、三輪君」
 と亀田さんは話し込んでいた隣りの男の肩を突いた。
「はあ」
「堀尾君を宜しく頼む」
「承知しました」
 と三輪君は合点首をして、堀尾君の顔をジロ/\見た。
「亀田君、一寸々々」
 とその時隣りの区劃から呼ぶものがあった。亀田さんはその人と二人で出て行ってしまった。
「堀尾さん、僕は何うもあなたを見たような気がしますよ」
 と三輪君は興味を催したようだった。
「僕も今然う思ったところですが……」
「帝大じゃないですか? 学校は」
「然うです。英法です」
「それじゃ違いない。僕は去年の英法です」
「僕は此年ことしです」
「何かの講義の時、一緒だったんですよ。何うも見た顔だと思いました」
「後輩ですから、何うぞ宜しく」
「奇遇ですな。教室で机を並べたものが又こゝで机を並べるんですから」
「五年もいたんだから顔が広いんだよ」
 と後ろから冷かしたものがあった。
「この野郎!」
「ハッハヽヽ」
「堀尾さん、此奴も帝大ですよ。僕と一緒です。見覚えがありますか?」
 と三輪君が指さした。
「さあ」
もっとも此奴はズベで休んでばかりいました」
「棚下しはよせやい」
「芳野って乱暴ものです。成績は悪かったですけれど、柔道は選手でした」
「ひどい紹介をしやがるなあ。芳野です」
 と芳野君も居畳いたたまれずに寄って来た。
「堀尾正晴と申します。何うぞ宜しく」
「僕こそ」
「あなた方は去年御卒業後直ぐにいらしったんですか?」
うです」
「それじゃもう悉皆すっかり要領を得ていらっしゃいましょう?」
「いや、うして/\」
「僕は何にも分らないんですから」
 と堀尾君は二人の指導を仰ぐ積りだった。
「僕達だって駄目です。何にも分りません」
「そんなことはありませんよ。有らゆる意味に於て先輩ですもの」
「いゝや」
「もう先輩になったのかなあ! 驚いたね」
 と三輪君も自分に感心しているところを見ると、余り頼みになる先輩でもないようだった。
 入社してから約半月、堀尾君はだこれという失策しくじりがない。尤もこれという仕事もなかった。中央気象台へ晩秋の天候について某博士の談話を取りに行ったのが一回、京橋あたりで水道の鉄管が破れて往来が水になった時駈けて行ったのが一回、余他あとは皆宴会で、これが七八回もあった。一日置き以上だった。
「月給が安い丈けに楽な商売だ」
 とも思った。
「部長が腸胃は丈夫ですかと訊きましたが、これだったんですね。宴会のことだったんですよ」
 と三輪君に話した。その三輪君も芳野君も他の連中も常備のものは毎晩のように誰か彼か宴会へ出る。社会部へは種々いろいろの団体から宣伝的集会の招待状が部長宛で舞い込む。思想善導神仏耶同盟発会式なぞという小むずかしいのは失敬しても構わないが、会社や商店からのは広告部との関係があるから捨て置けない。相手によっては然るべく提燈記事を書いてやる必要がある。しかし部長がそんなことにかゝり合っていては仕事が出来ない。招待状は日に幾口も来る。その為めの常備軍かも知れない。即ち部長は常備のものに、
「おい。君は閑のようだから、これで一片食ひとかたぎ稼いで来給え」
 と招待状を渡す。
「行って参ります」
 と唯の種取りよりは当てがあって宜しい。化粧品の売弘うりひろめなぞに当ると、御馳走の外にお土産がつく。堀尾君はそれを道子さんのところへ持ち込んで、
「新聞記者って矢っ張り役得のあるものね」
 と褒められた。
「何処かのダイヤモンド屋で招待してくれると宜いんですがね」
「まあ! 慾張っていらっしゃること」
「ハッハヽヽ、又貰ったら寄ります」
 と例によって有らゆる出来事を訪問の切っかけに利用する。
 或日、堀尾君は、
「三輪さん、宴会は僕が一番多いようですね」
 と話しかけた。
「然うですね。一日置きですか?」
「いや、それ以上です。他のことに使えないから、宴会へ廻すんじゃないでしょうか?」
「学校出は世間慣れるのが一修業です。僕は入社当時は十日宴会が続きましたよ」
「はゝあ」
「部長が言っていましたが、ひとしく宴会へ出ても本社のなにがしという印象を充分先方へ与えて来るものもあれば、他の社の奴等に押されて存在を認められないでしまうのもあるそうですから、成るべく頑張らなければいけませんよ」
「成程」
「宴会にも種類があります」
「あるようですな」
「部長は長年の経験ですから、招待状を読んだ丈けで、それに何んなお土産がつくか分るんです。現ナマのつく奴があるそうです」
「はゝあ」
「そんなのは此方へ廻って来ません」
「何処へ廻るんですか?」
「よく働く奴に廻します」
「成程」
「宴会も一つの仕事ですから一生懸命でやることですよ。その中に何か事件が起ると忙しくなります」
 と三輪君は先輩丈けあって、宴会以外の記事を書いていた。
 宴会係りの堀尾君は退屈で仕方がない。
「三輪さん」
 と又呼んだ。
「君」
 と三輪君は遮るように言った。
「何ですか?」
「その何ですかもやめ給え。この間から注意しようと思っていたが、君が丁寧にすると、僕も自然釣り込まれていけない」
「それじゃ何うしましょうか?」
「何だで沢山だよ。三輪さんはやめて、三輪君と呼び給え」
「それじゃ三輪君」
「何だい?」
「ハッハヽヽ」
「堀尾君」
「何でい?」
「その調子、その調子。お互に地金を現わさないと、いつまでも窮屈で困る」
「しかし先輩は先輩です」
「何あに、たった一年だ」
「それじゃ僕も遠慮なしにやります」
 と堀尾君は異存もなかった。
「大先輩がやっちょる、やっちょる」
 と芳野君が冷かした。
「何うだい? 僕の忠告は」
「結構だね」
「三人で大いにやろうじゃないか?」
もとより。社の為めだ」
「いや、一晩飲んで胸襟を開くんだよ」
 と大先輩は別に画策するところがあった。
「それも宜かろう」
 と芳野君は穏かに賛成した。
「堀尾君、何うだね?」
「いつでもお供します」
「話せるよ、これは」
 と三輪君は喜んだ。
「堀尾君の隅に置けないことが今初めて分ったのかい?」
 と芳野君が言った。
うさ。この通り謹厳で宴会さえ迷惑がっている」
「それは表向きさ」
「え?」
「僕はもう拝見している」
「何を?」
「堀尾君」
「何ですか?」
「何でいと来給えよ」
「ハッハヽヽ」
 と堀尾君は少し思い当る節があった。
「君は独身だって言ったけれど、嘘をついたね」
「独身ですよ」
「しかしこの間の晩、奥さんらしい女性と二人で銀座を歩いていたぜ」
「参ったなあ、これは」
「もうあるんだろう?」
「いや、これからです」
「真直に申立て給え」
「目下婚約中で、年末に式を挙げます」
「此方で参ってしまう。ハッハヽヽ」
 と芳野君は打ち興じた。
「これは後輩じゃない」
「立派な先輩だよ。ハッハヽヽ」
「しかしこれからってのは有難いな。いながらにして花嫁花婿の記事が取れる。堀尾君、お嫁さんは何処出身の才媛さいえんだい?」
 と三輪君はその係だった。

大きなヨタ記事


 堀尾君は○○新聞社へ入ってから二月ふたつき、無事平穏に勤めている。尤も苦手のけりさんがいた○○紡績でも三月続いたのだから、未だ首になるには早い。
「今度は何うだい?」
 と裏隣りの悌四郎君が訊く。
「馬鹿にするな」
「折合だよ」
「至極好い。会社とは空気が違う。仕事がしょうに合っているから大丈夫だ」
「相変らず帰りが晩いようだね?」
「宴会係だもの」
「社を代表して出るのかい?」
「うむ」
 と堀尾君は詳しい事情を話さない。
「それにしちゃ月給が少いね」
 と悌四郎君は冷かしたのでも何でもない。三井物産あたりで社を代表して毎晩宴会へ出るのは重役級だ。
「僕もこの頃少し疑問になって来たんだ。他の連中はボーナスがつく」
「君のはつかないのかい?」
「つかないとも言わなかったが、つくとも言わなかった。今更訊いて見る次第わけにも行かない」
「訊いて見れば宜いじゃないか?」
「具合が悪いよ。金のことだからね」
「金のことだから尚お明白あきらかにして置く必要があるだろう。一体幾らになるんだか分らないなんて月給取はないよ」
「四十円さ」
「それが変だよ。帝大を出て四十円の叩きっ放しなんて相場はない。僕の方なら五十五円でナスが半期に三月つく」
「まあ宜いさ。何うせ足りないんだ」
 と堀尾君は諦めが好い。
「君は家からウンと分けて貰ったものだから、そんな呑気なことを言っているけれど、世の中は然うしたものじゃないぜ。月給即ち人格だ」
「極端だね」
「いや。事実だもの。僕の会社なんかでも、月給の多い人ほど好い顔付をしている。あれは人格が顔に現れるんだ」
「そんな理窟があるものか。君はとらわれているからう見えるんだ」
「君こそ囚われているぞ」
「何故?」
「金のことだから黙っているなんてのは昔の思想だ」
 と悌四郎君はこの点、親譲りで子供の時から進歩している。金利を計算して見た結果、帝大よりも高商へ志望した男だ。しかし当世には大いに通用する。堀尾君とは竹馬の友だから、常に有効な忠告を与えてくれる。
 高等学校時代からの同窓で現在の家主、間瀬君改め清水君も先頃堀尾君が訪れたら、
「久しく見えなかったね。何うだい? 社の方は」
 と早速安否を尋ねた。
「つい御無沙汰しちゃった」
「大丈夫だろうね?」
No news is good newsノー ニューズ イズ グッド ニューズ って奴さ。沙汰がなかったら無事と思っていてくれ給え」
「結構々々。実は僕よりもさいが案じているんだ」
「僕だってう/\首にはならないよ」
「なっても構わないんだが、君達の仲人役を仰せつかっているからね」
「成程」
「張合がないな」
「いや、忘れていたんじゃないよ」
「忘れていられて溜まるものか。妻はこの間から支度をしているんだ」
「仲人も支度がるのかね」
「要るさ。資本もとがかゝるんだから、兎に角式の済むまでは浪人にならないでくれ給え」
「今度は皆好い連中ばかりだから大丈夫だ。○○紡績の方は特別に廻り合せが悪かったんだ」
「それは妻も然う言っていたよ」
「僕だって考えている。然う/\腰が据らないと先輩に愛想を尽かされてしまう」
 と堀尾君も自衛上今度は何処までも地道に勤める決心だった。
「西本先生の方はあのまゝかい?」
「いや。この間行ってあやまって来たよ」
「それは宜かった。又何ういうことで世話にならないとも限らないからね」
「うむ。しかしもう駄目だ。君のような乱暴な人間はないと言っていたもの。何うせ首尾は悪いんだ」
「妻も君を余っ程荒い人間だと思っているよ」
「信用がないんだね」
「いや。理解はしているんだ。妻も気が勝っている方だからね」
「あゝ、よく出る」
「何だって?」
「よく出るってことさ」
「何が?」
さいがさ。先刻から細君の吹聴ばかりだぜ」
「ハッハヽヽ」
「しっかりしないと一生下敷だよ」
「もうその傾向が多少あるんだ。支度というのが皆僕のものだからね。先ずこの通り」
 と清水君はグルリと後ろ向きになって羽織の紋を見せた。
「何だい?」
「紋が変ったろう?」
「さあ」
「張合がないね」
「だって僕は君の紋なんか見たことがないもの」
「それも然うだろうね。僕は紋付なんか嫌いで着たことがなかったんだから」
「こゝじゃ着せられるのかい?」
「うむ。お父さんは始終御紋付でしたとあって、矢っ張り主計総監の閣下並みさ」
「急に男っ振りが上ったと思ったら、その所為せいか?」
 と堀尾君は小手をかざして相手を打目戍うちまもった。
「吹聴じゃないよ」
「分っているよ。郵便屋が来ても自分で取りに出られないんだろう?」
「うむ。あれは学生時代に書留を待っていた癖があるものだからいまだによく失策しくじる」
「行儀も好くなったようだね。僕は洋服だから失敬して崩しているけれど」
「この通り有らゆる点で窮命しているんだ。今の話の支度ってのもこの紋付の一件さ」
「それで出てくれるのかい?」
「いや。これは普段着だ。必ずしも君達の仲人をする為めばかりじゃないが、縁起の好いことだから、この際悉皆すっかり新調するんだ」
「成程」
「苗字の変った頃は未だ無我夢中だったが、昨今稍※(二の字点、1-2-22)冷静に戻って考えて見ると、少し情けない。先祖伝来の定紋が通用しないんだからね。『皆駄目よ。拵え直さなくちゃ』と遠慮会釈がないんだ」
「しかし今更仕方あるまい」
「うむ。覚悟はしている。しかし時々腑甲斐ないと思うのさ」
「不平を起しちゃいけないよ」
「不平ってほどのこともない。唯、妻の機嫌ばかり取っていると、お母さんの方がお留守になる。このお母さんが今でも閣下夫人の格式を持っているんだから、僕もナカ/\骨が折れる」
「上役と喧嘩をしちゃ駄目だよ。世の中は何処へ行っても然う/\自分の思い通りになるものじゃない」
「忠告の竹箆しっぺい返しかい?」
「ハッハヽヽ」
「しかし道子さんにこんなことを話しちゃ困るよ」
「何故?」
「道子さんから妻へ洩れて見給え。問題が起る」
 と清水君は首を縮めた。清水夫人と道子さんは現に女子大学の同級生だ。お婿さん同志もお嫁さん同志も同窓で、片一方が片一方の仲人役を勤めることになっている。
 堀尾君は毎日曜に道子さんを訪れる。外に何かにかこつけて臨時が必ず一回入る。道子さんも無論待っている。或晩、矢張りその臨時で社の帰りに寄った時、堀尾君は、
「道子さん、感心なものでしょう」
 と自慢した。
「何が?」
「あなたの御忠告に従って、入社以来喧嘩口論てものを一切致しません」
「当り前ですわ。そんなこと」
「おや/\」
「未だ一月と少しじゃありませんか?」
「それにしても上成績でしょう」
「さあ」
「褒めて戴く価値は充分あります」
「油断なさるから駄目よ」
「いや。大丈夫です。編輯長は荒いのが揃っていると言いましたが、あれはおどかしでした。皆好い人達ばかりです。上の連中だって、会社のように威張っていません。それに仕事が面白いです。今度は続きますから、御安心下さい」
「心配なんかしませんわ」
 と道子さんは甚だ冷淡だった。
「変ですね、少し」
「はあ?」
「憤っていらっしゃるんですか」
「いゝえ」
「頭痛でもなさるんですか?」
「いゝえ」
「それじゃ矢っ張り憤っていらっしゃるんでしょう?」
「覚えがおあり?」
「ありませんよ。何も憤られる覚えなんか」
「私、昨日は一日、朝から晩までお待ちしていましたのよ」
「実際失敬しました。しかしそれは今お断りを申上げたじゃありませんか?」
「私、朝待って、お昼から待って、又晩に待ったんですから、腹が立って、もうおいでになっても、ツン/\していて上げようと決心しましたの」
「道理で様子が変だと思いました」
「意思を発表しましたの、聊か」
「しかし実際仕方がなかったんです。社務多忙で日曜の番に当ったものですから」
「それならお帰りに寄って下すっても宜しいじゃございませんか?」
「然う思っていたところへ又宴会があって、その方へ廻されたものですから、九時過ぎてしまったんです」
「それからでも宜かったわ。十時にお出になったことだって十一時にお出になったことだってあったじゃございませんか?」
「しかしそれじゃ僕が損をします」
「何故?」
「急いで来ても十時になりますよ。十時からでも一回のカウントに入るんですからね」
 と堀尾君は度々来たいのだが、度々と思われたくない。
「あなたは叔父さん叔母さんにそんなに御遠慮がございますの?」
「あります」
「いつまでも他人行儀ね?」
「他人行儀ってこともないんですけれど」
「それじゃ何あに?」
「見識を下げたくないんです」
「豪いのね」
「何うも形勢が悪いな」
「利己主義よ、あなたは。自分ばかり善い子になりたいんですわ」
「自分ばかりって次第わけでもないんですけれど、男子の体面ってものがあります」
「そんな豪い人が何故わざと紙入を忘れて行ったりなさいますの?」
「あれはあなたの入れ智恵でした」
「まあ!」
「ハッハヽヽ」
「それじゃともで二階から飛び下りたのも?」
「もう降参します」
「私、もっと率直な人が好きよ。一日待たせて置いて、カウントが何だのって打算的なことをなさる人は嫌いよ」
 と道子さんは昨日の仇討の積りだった。
「そんなにいじめると、僕はもう帰りますよ」
「何うぞ御随意に」
「御機嫌の好い時に又出直しましょう」
「その方が宜いかも知れませんわ」
「それでは」
「本当にお帰りになりますの?」
「はあ」
「それじゃお止めしませんわ」
「しかし来たばかりで直ぐ帰ると、階下したで変に思うかも知れませんね」
「いいえ。お出にならないのが御見識なら、直ぐお帰りになるのも御見識の足しになりますわ」
「それでは道子さん」
「お帰りになれるものならお帰り遊ばせ」
「あゝ/\。悉皆すっかり足元を見られてしまった」
 と堀尾君は立ちかけたのを坐り直した。
「オホヽヽヽ」
「ハッハヽヽ」
「もう堪忍して上げますわ」
「以来気をつけます」
「私、早く申上げたいことがあって、お待ちしていましたのよ」
「何ですか?」
「明日母が着きますの」
「はゝあ!」
「何? それは」
洒落しゃれです」
「厭な人ね。人が一生懸命になって申上げているのに」
「失敬しました」
「明日の朝の八時よ。私、朝の中の授業を休んで迎えに行きますの」
「僕も参ります」
「何うぞ」
「午前中は閑ですから、丁度好いです」
「寄って下さる?」
「はあ」
「道順ですからって、私、叔母さんに申上げて置きますわ」
「はあ」
「御見識がございますからね」
「ハッハヽヽ」
「私、叔母さんに来られちゃ困ると思って、『宜いのよ、私一人で』って大いに主張しましたの」
「それじゃ叔母さんはお出にならないんですか?」
「はあ」
めた」
「まあ! オホヽヽヽ」
 と道子さんはもう悉皆すっかり御機嫌が直っていた。道子さんのお母さんの上京は二人の式の日の近づいたことを意味する。
「到頭漕ぎつけましたね」
「もう評判よ」
「あぐりさんが喋ったんでしょう?」
「はあ。それでなくても自然に分りますわ」
「何故でしょう?」
「濃いんですって」
「何が?」
「お化粧よ。御縁談の定った人は自然に濃くなるんですって。妙なものね。それですから、先生にも直ぐ分るんですって」
「濃いですな、あなたも」
「厭よ」
「ハッハヽヽ」
 と堀尾君も他愛ない。
「何だか希望に満ち/\ているような心持がしますわね」
「はあ。僕も益※(二の字点、1-2-22)責任重大です」
「兄からからかって来ましたのよ」
「何て?」
「よく考えて見ると一月でも早い方が徳ですって」
「何故でしょうか?」
「渡してしまえば縁が切れるから、もう一切構わないんですって」
「成程」
「今度がねだり仕舞いだから、思い切ってお母さんにねだるようにですって」
「相変らずやっているんですな」
「私、ねだることはねだりますけれど、これで縁切りなんて法はないでしょう? 卒業までの学資は矢っ張り家から出して戴きますわ」
「それはもう僕の負担ですよ」
「いゝえ」
「いけませんよ。来年から此方持こっちもちです」
「それは理窟が違いますわ。卒業しなければ未製品ですもの」
「しかし無理を言って、未製品のまゝで来て戴くのですから、僕の方の責任です」
「でも私、丁度四十円戴いていますのよ」
「構いません」
 と堀尾君は数字に超越している。月給四十円の男とは見えない。
「私、早速母に相談しますわ」
「そんなこと黙っていて下さい」
「でもあなたにお気の毒ですわ」
「何あに、後たった一学期です。卒業すれば後は永久に給金なしの女中です」
「まあ!」
「ハッハヽヽ」
「ひどいわ」
「冗談ですよ」
「いゝえ。本気が一寸冗談に出たんですわ。あなたは屹度横暴よ」
「今の中丈け御機嫌を取っているんですか?」
「えゝ」
「然うかも知れません。兎に角、学校のことはお母さんにも誰にも相談なんかしちゃいけません。これは僕の命令です」
圧制あっせいね」
「その代りウンとねだるんです」
「それも然うね」
「一番金目のかゝるものは何ですか?」
「ダイヤの指輪よ」
「それをおねだりなさい。奥田君、大いに苦みますよ」
「差当り要るものが宜いわ。たった一学期ですから、ダイヤは可哀そうよ。丸帯を一本余計買って戴けば充分浮きますわ」
 と道子さんは何方にも損をかけないで自分に徳のつく算盤を考えた。
「お父さんもその中に御上京でしょう?」
「はあ。母が一度帰ってから御一緒でしょう。母と入り代りに兄夫婦が出て参りますわ」
「いつ頃ですか?」
「未だ分りませんが、ついでですから、兄は姉に東京見物をさせるんですって」
「それじゃ早目に出て来るかも知れませんね」
「えゝ。未だ新婚旅行の積りよ」
「これは僕の方もうっかりしちゃいられません」
「呑気ね、あなたは」
「万事清水君に委せてあるんですけれど、早速今度の日曜に郷里へ行って来ます」
 と堀尾君は急き立てられるような心持になった。
 社の方は相変らず折合が好い。三輪君と芳野君が相談相手になってくれる。他の連中とも馴染んで来た。
「堀尾君、追々月末が近づくね」
 と三輪君が遠慮なく冷かす。
「うむ」
 と堀尾君は多くを語らない。但し手の空いている時は道子さんに頭の細胞を独占されている。或日、三輪君が、
「堀尾君、思い出し笑いって奴は罪が深いそうだぜ」
 と問題にした。
「何も笑っちゃいないよ」
「性がないんだね」
「仕方がない。こゝ当分だ」
「こゝ当分が待ち遠いってんだろう?」
「何とでも言い給え」
そねめ/\か? ハッハヽヽ」
「可哀そうに、又やられているんだね」
 と芳野君が後ろから向き直った。
「仕方がないんだよ」
 と堀尾君は訴えた。
「この男の口にかゝっちゃかなわない。相手にならない方が宜いよ。しかし実際のところ内心指折り数えているんだろう?」
「そんなこともないさ」
「後五日だね?」
「いや。未だ一週間ある」
「俸給日だぜ」
「ふうむ?」
「ハッハヽヽ」
「巧くやられた」
「その通り頭の中が結婚式で一杯になっているんだからね」
 と芳野君も三輪君に劣らず達者だ。いつも二人で挾み撃ちを食わせる。
「時に堀尾君、僕達は無論案内状が貰えるんだろうね?」
 と三輪君が訊いた。
「何の案内状だい?」
 と堀尾君も今度は警戒してかゝった。
「結婚披露式の案内状さ」
「誰の?」
「君のさ。大いに念を入れるね」
「僕のなら、是非来て貰いたいんだ」
「行くよ」
「斯ういう時には何うするものだろう? 社会部丈けへは一列一隊に案内状を出すものだろうか?」
「この春、西田君の時はうだったよ」
「幹部へは?」
「さあ。そこまでは知らない」
「部長と編輯長丈けだろう。念の為め西田君に訊いて見ると宜い」
 と芳野君は大切だいじを取った。口先ではからかいながらも、満腔まんこうの好意を持っている。
「西田君。西田君」
 と三輪君が呼んだ。
「何だい?」
一寸ちょっと
「よし/\」
 と西田君は立って来た。
「又一人お芽出度くなる奴があるんだ」
「ふうむ」
「誰だか分るかい?」
「さあ。分らないが、一体何を仕出来しでかしたんだい?」
「これから仕出来すんだよ」
「はてね」
「話し方が悪いから益※(二の字点、1-2-22)迷宮めいきゅうに入る。堀尾君が結婚するんだよ」
 と芳野君がはたから手っ取り早く片付けた。
「それはお芽出度う」
「それだからお芽出度くなると言ったのさ」
「僕は首かと思った」
一寸ちょっと引っかゝったね」
「当り前の口をきくのが嫌いな男だから困るよ」
「ハッハヽヽ」
 と三輪君は詰まらないことを嬉しがる。
「西田さん、あなたの時には幹部への案内は皆に出しましたか?」
 と堀尾君が訊いた。
「いや。部長と編輯長丈けでした」
「有難う。それじゃ僕も然うしましょう」
「いつですか?」
「二十七日です」
「はゝあ。もう間がありませんな。お忙しいでしょう」
「はあ。何だ彼だと雑用に追われています」
「西田君、堀尾君は正にこの春の君だよ。心こゝにあらずだから、今に屹度君に負けないヨタ記事の秀逸を出すぜ」
 と三輪君がやり出した。
「お手軟かに頼むよ」
「何といったっけな? 君のは」
「まあいさ」
「全治二週間生命危篤さ」
 と芳野君は覚えていた。
「然う/\」
「未だ何かあったね。斯うっと。無意識不明か? 無意識不明を欠くだ」
「ハッハヽヽ」
「近来の傑作だって、亀田さんが腹を抱えて笑ったぜ」
「忙しいからもう失敬するよ」
 と西田君は逃げて行った。
 新聞記者にはペンのスリップというものがある。時間と競争でやる仕事だから、推敲すいこういとまがない。時折飛んでもないヨタを書いてしまう。無意識不明を欠くなぞと念を入れるのも決して頭が悪いのではない。つい筆先が辷って間違うのである。社会部長の亀田さんは家の夕刊を余所よそのと見較べて遜色があるとよく寝られないくらいの熱心家だから、このヨタをやかましく言う。秀逸と認めると切り抜いて帳面へ貼る。これをヨタ帳と称して、※(二の字点、1-2-22)しばしば掲載の栄を得たものは昇級に影響する。
「堀尾君、日比谷公園で熊が猿を食ったそうだから、直ぐ行って見て来てくれ給え」
 と亀田さんが命じたのは、それから数日後の夕刻だった。堀尾君は公園へ急いだ。しかしもう事件が終った後だったから、係の人を探して聞き取る外仕方がなかった。
「猿の子の死骸は何処にありますか?」
「骨も残さず喰べてしまったんです」
「ひどい奴ですな」
「いつも仲よく遊んでいますから、つい安心し過ぎました」
「猿の子ってのは大きいんですか?」
「いや。この春生れたばかりです。普段は熊が背中へ乗せたりして可愛がっていましたが、何かの拍子に蛮性ばんせいを現したものと見えます。可哀そうなことをしましたよ」
「親は何うしましたか?」
「頻りに泣きました。悉皆すっかりしょげています。あれですよ」
 と係は詳しく説明してくれた。
 堀尾君は急いで引き返した。覚え書き通りを復命すると、亀田さんは、
「それは面白い。しかし惜しいな。夕刊にはもう間に合わない」
「二時過ぎだったそうですから、何処の夕刊にも出っこありません」
「仕方がない。朝刊だ」
「はあ」
「これは珍種ちんだねだから、余所よそのに負けちゃいけない」
「はあ」
 と堀尾君は責任を感じて机へ戻った。記事らしい記事を仰せつかったのは初めてだったから、大いに念を入れた。
 翌朝十時に出勤すると、亀田さんはもう来ていて、
「堀尾君」
 と先方むこうから声をかけた。
「お早うございます」
「ハッハヽヽ」
「…………」
「今三輪君とも話して大笑いをしていたところだ」
「何ですか?」
「今朝の熊と猿は上出来だったよ」
「少し長過ぎはしませんでしたろうか?」
「読んだかね?」
「はあ」
 と堀尾君は無論目を通して誤植のなかったことまで確めていた。
「気がつかなかったかね?」
「何かございましたか?」
「見給え」
 と亀田さんは記事を指さして、
「あわやと騒ぎ立てる間に骨も残さず云々とある」
「はあ」
「一番仕舞いへ来てうだい? 親猿は子猿の死骸にすがりつき、よゝとばかり声をおしまず泣きたる様、畜類ながら子を思う親の心に変りなしとて云々うんぬん
「はゝあ」
「ハッハヽヽ」
「これは気がつきませんでした」
 と堀尾君は頭を掻いた。
「実に可笑味おかしみがある。僕は今朝これを読んで鼻から飯を吹き出した。正に噴飯ふんぱんだよ」
「恐れ入ります」
「いや。この記事は今朝の紙面全体を生かしている」
「何う致しまして」
「文章も好い。何処のにも勝っている」
「内容に矛盾があるんですから」
「矛盾は矛盾だけれど、これぐらい徹底していればきずにならない」
「そんなことはございません」
「堀尾君」
「…………」
明後日あさってだってね? 結婚式は」
「はあ」
「ハッハヽヽ」
 と亀田さんはいつにない上機嫌だった。
「言わないこっちゃないぜ。っとしっかりし給え」
 と三輪君が堀尾君の背中を叩いた。
「何だい?」
 とそこへ入って来た両三名が立ち止まった。
「ヨタの秀逸しゅういつ
「ふうむ」
「西田君。君の以上だ」
 と三輪君は西田君を見つけた。
「君達は皆駄目だ。自分の拵えた新聞をロク/\読んで来ないんだから、喜びを分つことが出来ない」
 と亀田さんは却って他の連中に苦情を言った。堀尾君のヨタはジャーナリズムの上から余程たちの好いヨタだったと見える。

結婚式まで


 ヨタ記事の話に少時しばらく花が咲いた後、机につくと間もなく、
「堀尾君、ソロ/\何うだい?」
 と三輪君が隣りの机から向き直った。
「イヨ/\明後日だよ」
 と堀尾君は結婚式の外何も頭にない。
「これだもの。ハッハヽヽ」
「何だい?」
「商売の方を忘れていちゃ困るよ」
「この通り机に坐っている。事件が起れば直ぐに出動するんだ」
「分りの悪い男だなあ」
 と三輪君が持て余したように言った時、
「おい。行って来よう」
 と後ろから芳野君が誘った。
「行こう。堀尾君」
 と三輪君も立った。
「何処へ行くんだい?」
「会計へさ。今日を幾日だと思っているんだい?」
「成程」
「月給取がお互の商売だろう」
「分ったよ」
 と堀尾君は一本参った。
「二十五日を忘れているところを見ると、堀尾君はお互と違うね」
 と芳野君も黙っている男でない。
「ヨタ記事で油を取られたからさ」
「何あに、あるからさ」
「あるものか?」
「頭にある」
「又からんで来たよ」
「二十五日よりも二十七日の方が頭にあるからさ」
「それなら無論ある。今朝のヨタ記事も要するにその結果さ」
「斯う正直に来られても困る」
「ハッハヽヽ」
 と堀尾君は二人について会計係へ出頭した。
 十二月はボーナスの出る月だから、皆期待があって、仕事を始めない中から会計係へ押し寄せる。もう大勢来ていた。しかし堀尾君は当てがない。取り定めの時、亀田さんは月四十円と言ったきり、ボーナスの問題に触れなかった。
「駄目だったね」
「悲観々々」
 と三輪君と芳野君は帰りに廊下でもう内容の傾向を語り始めた。いつの間に開けて見たのだろうかと、堀尾君はその早業に驚いた。
「何うだったい?」
 と三輪君は尚お堀尾君の分まで問題にした。
だ見ない」
「ゼントルマンは違う」
 と芳野君もゼントルマンと見えて、金の話はもうそのまゝに打ち切った。
 編輯室へ戻ってから間もなく、
「三輪君」
 と堀尾君の方から申入れた。
「何だい?」
「僕の隣りの人には驚いたよ」
「おれかい?」
「いや、君じゃない。今会計で判を捺す時見たんだが、僕の隣りの堀って人さ。あの帳面はイロハ順だろう?」
「うむ」
「堀って人は来年の二月のところまでもう判を捺している」
「ハッハヽヽヽ」
「何うしたんだろう?」
前借まえがりだよ」
「ふうむ。そんなことが出来るのかい?」
「やかましいんだけれど、皆やるんだ。僕達のところを見たかい?」
「見ない」
「大仕合せだ。ハッハヽヽ」
「冗談言っている」
「いや、斯う見えても、僕も芳野君も前借をしているんだ。今貰って来たのはボーナス丈けさ。正月の分を今貰うのに後から行って一談判しなければならない」
「おい/\」
 と芳野君が後ろから呼んだ。
「何だい?」
「余計なことを喋るなよ」
「ハッハヽヽヽ」
くだらない!」
「後進に意見をしているんだ」
「何の?」
「前借をしないようにって」
「自分がしていて、意見もないもんだ」
「まあ/\、待て/\。後車こうしゃの戒めだ」
 と三輪君は制して、
「堀尾君、前借は決してしないことだよ」
 と声をひそめた。
「大丈夫だ」
「僕達は入ってから二度上っている。ところがこの夏二人で相談して前借をやったんだ。以来いけない。毎月待ち呆けだ。今度こそ大丈夫だろうと思っていたが、矢っ張りいけないんだ」
「ふうむ」
「一度前借をすると毎月順繰りに前借をしなければならない。人格上面白くない。君は何んなに苦しくても、前借をしちゃいけない。これは苦労人の意見だ」
「有難う」
 と堀尾君は前借をする身分でないけれど、上る方には興味がある。年中持ち出しで生活するのでは道子さんの信用がなくなる。結婚を目の前に控えて多少考えていたところだから、
「前借はしなくても何うにか斯うにかやって行けそうだけれど、時々上ることがあるのかい?」
 と訊いて見た。
「あるとも」
「半期半期かい?」
「いや、実に気紛きまぐれだ。僕達は二月続けて上ったから、占めたものだと思っていたら、もう些っとも上らない」
「二度も上っていれば好い方だろう?」
「悪い方でもなかろうと思うけれど、一切秘密だから他の相場が分らない。兎に角覿面てきめんだ。勉強すると上る。君は屹度上っているよ」
「駄目だよ。未だ入ったばかりだもの」
「そんなことにはお構いなしだ。実に妙なところだよ。兎に角、前借りをすると上らないことが分ったから、僕達も今月から改悛かいしゅんして、差当り郷里の親父へ御用金を仰せつける。芳野君は今月の俸給をボーナスぐるみ掏摸すりに取られたと言ってやる」
 と三輪君が素っぱ抜いたものだから、
「おい/\、い加減にしろ」
 と芳野君が立って来た。
 サラリー・マンは要するに月給が重大な屈託だ。三人の間に矢張り月給の話が続いた。
「僕は亀田さんから直ぐに上るように言われたものだから悉皆すっかり本気にしてしまって、第一回の月給を貰って開けて見る時、手が震えたよ」
 と三輪君が思い出を語り始めた。
「汚い奴だよ、此奴は。便所へ入って開けたんだ」
「ハッハヽヽ」
「第二回も便所だったかい?」
「うむ。皆の見ているところで封を切るのはキマリが悪かったからさ。あの時分に較べると図々しくなったものだよ」
「僕は忘れもしない。あの窓のところへ行って開けて見た」
 と芳野君が指さした。
「外の景色を見る風をしてだろう?」
「うむ」
「前借の発起人もその頃は初心うぶなものだったのさ」
「その後悪い奴と附き合いを始めたものだからね」
何方どっちが?」
「ハッハヽヽヽ」
「前借は君が発起ほっきしたんだぜ」
 と三輪君は余程前借を苦に病んでいる。
 何もしない中にお昼になって、食堂へ行くと、給仕が弁当代を取り立てゝいた。皆俸給袋から出して渡すので、堀尾君もそれを機会に封を切った。十円上っていたのに驚いた。尚お先月のは見習給としてあったが、今月のは社員俸給と改まっていた。これが辞令の代りだ。結婚式を明後日に控えている折から、見習が社員に進んで俸給が十円上ったのは好い幸先さいさきだった。
「君、見習給にはボーナスがつかないのかい?」
 と堀尾君は三輪君に囁いた。
「つかない」
「社員俸給にはつくんだね?」
「つく」
 と三輪君はカレーライスを頬張っていて、多くを語らなかった。
 その夕刻六時頃、堀尾君はもう帰ろうとしていた時、
「君、君、堀尾君」
 と亀田部長に呼びつけられた。
「はあ」
「火事がある」
「何処ですか?」
「芝の神明町だ。盛んに燃えている。直ぐ行って来てくれ給え」
「はあ」
 と堀尾君はもう外套を着ていたから、そのまゝ出動した。遊軍は火事だの水道の故障だの野犬狩だのと半端な事件ばかり仰せつかる。
 火事は初めて手がける。大抵の事件は初めてだ。堀尾君は肩書つきの名刺の威力に驚いた。火事場の近くを警戒していて、
「通ることならん」
 と呶鳴りつけた巡査も、新聞記者と分ったら、
「お役目御苦労」
 と敬意を表してくれた。全焼十戸、もう季節に入っていたから珍しくもなかったが、書きようによっては十行乃至二十行は塞げる。堀尾君は社へ戻って、記事に念を入れた。ヨタを書いた後だから、幾度も推敲すいこうした。
 九時頃、社から家へ帰る途中、乗り換えた電車の中で、褞袍どてらに三尺帯の若いものが三名、多少酒気を帯びているのか、傍若無人の高調子で談笑していた。堀尾君はその直ぐ側に席を占めた。立っている人もあったから、そこ丈け敬遠の意味で明いていたのかも知れない。
彼奴あいつのどてっ腹をえぐった奴は、大きな声じゃ言えないけれど、おれはよく知っている」
「おれも知っている」
「菊、手前だろう?」
「馬鹿を言うな。おれならあんなヘマはやらねえ」
「それなら誰だ?」
「春公よ」
「春の野郎だろうってことは噂に聞かねえでもねえが、手前達が後押しだろう?」
「さあ。その辺は警視庁へ行って訊いて見ねえ」
 というような物凄い会話だったから、皆恐れていた。
 次の停留場から商家の娘さんらしいのが乗った。それが丁度自分の前に立ったので、堀尾君は席を譲ってやった。
「ヘッヘ。別嬪べっぴんだと思やがって」
 と褞袍の一人が言った。
「ハッハヽヽヽ」
 と他の二人が笑った。堀尾君は黙って釣革に下っていた。
「この電車は馬鹿に揺れる。あゝ危え」
 と娘の隣りの奴が娘に寄りかゝる。
「ひどく揺れるよ。ハッハヽヽヽ」
 と益※(二の字点、1-2-22)上機嫌だった。
「ひどく揺れるよ」
 と他の二人が真似をして押す。それを幸いに、傍の男は、
「馬鹿に揺れる。危え。あれえ!」
 と言って、又娘に寄りかゝる。この不体裁に乗客は皆眉をひそめた。車掌は見ないふりをしていた。娘はもう辛抱出来なくなって立った。
 すると褞袍の男は、
「そんなに嫌いなさんな」
 と袂を引っ張った。
「好い加減にし給え」
 と堀尾君は先刻から見兼ねていたところだったから、鋭く極めつけた。
「何だって?」
「馬鹿な奴だ!」
「馬鹿とは何だ?」
「馬鹿だから馬鹿と言うんだ」
「野郎、覚えていろ!」
 と相手は睨んで、そのまゝ黙った。折から神保町の停留場だった。
「ヘエン!」
「ヘエン!」
 と他の二人は咳払いをし続けた。
 爼橋まないたばしの停留場に近づいた時、堀尾君に叱られた男が決然として立ち上って、堀尾君に、
「やい。若造、下りろ!」
 と申入れた。
「…………」
「用があるから下りろ!」
 と次いで手首を掴んだ。
「僕は君達の相手になっちゃいられない」
「それじゃ詫を言え」
 と引っ張った。
「お静かに願いますよ」
 と車掌が心配した。
「よし。皆の迷惑になっちゃ済まない。兎に角下りよう」
 と堀尾君は承知して、手を振り払いさま、出口へ急いだ。
「野郎、逃げるな」
 と相手は二人の仲間諸共後を追った。
「喧嘩だ/\」
 と五六名の弥次馬がドヤ/\下りた。
 褞袍どてら連中は恐らく堀尾君を取っ占めて酒にする積りだったろう。しかし堀尾君は峠の喧嘩の中学生時代から決して飲ませない方針だった。
「やい、若造。おれ達を何だと思う?」
 と相手は堀尾君を甘く見て、先ず論判に取りかゝった。それに対する堀尾君の返答は一番手近にいた奴の鼻を思いさま撲ることだった。鼻血がほとばしった。その始末に気を取られる間に二人を片付けようという予定の行動に外ならない。三人に一人だから尋常の勝負では危いと思ったのである。果して残る二人が飛びかゝった。
「待て!」
 と、この時、間に割り込んだものがあった。それは今迄同じ車に乗っていた大学生だった。
「邪魔だ。退け!」
 と褞袍の一人は押すより早く足を掬われて※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)のめった。
「僕が此奴を引受けます」
 と大学生は助太刀だった。一人と一人なら、堀尾君は仕事が楽だった。撲り合いを一しきり続けた後、組んでから早かった。散々打ち※(「足へん+倍のつくり」、第3水準1-92-37)した。幸いに其奴が張本人だった。大学生も遺憾なく助太刀の任務を果した。万事、ほんの四五分で片付いたが、巡査が駈けつけた。五人は交番へ引っ張られて足らず、本署まで行って、大分手間を取った。
 堀尾君と大学生が先ず帰宅を許された。二人、停留場へ向う途中、
「何れその中に改めてお礼に上ります」
 と堀尾君は名刺を出した。
「決してそんな御心配には及びませんよ。期せずして先輩のお手伝いをして光栄に思っています」
 と大学生は取調べの時、堀尾君の経歴を聞いていたので、懐しがった。
「余程おやりですな、あなたは」
「いや、一向」
「無論有段でしょう?」
「はあ、二段です。あなたは?」
「三段まで取りましたが、もう久しくやりません」
「それじゃお手伝いにも及ばなかったです」
「何うして/\。三人ですもの。危いところでした」
「いや。電車から下りて三人と向き合った時、僕はもうこれは出来る人だと思ったんです」
「駄目ですよ。高等学校時代にやったきりですから」
「高等学校は何処ですか?」
「○高です。あなたは?」
 と堀尾君は或は相手も○高かと期待したが、
「僕は一高です」
 とあった。
「道理で荒いです」
「ハッハヽヽ」
「お怪我はなかったでしょうな?」
っとも。あなたはお目がれましたよ」
「眼鏡をやられました」
「眼鏡をかけていると、何うも狙われます。僕は電車から下りる時、外したんです」
 と大学生も堀尾君に劣らぬ名人らしかった。
 堀尾君は喧嘩の騒ぎで忘れていたが、その晩兄さんの玉男君が着く筈だった。両親は明日になる。式を明後日の午後三時に挙げて、晩は披露、次の朝一同帰郷して、更に村へ披露という予定になっていた。
「これはまった」
 と思いながら家の敷居をまたぐと、果して兄さんの下駄があった。婆やが出迎えて、
「小旦那さま。中旦那さまがお見えになりました」
 と言った。今までは旦那さまだったが、小旦那さまになっていた。兄貴が中旦那、親父が大旦那だ。
「よし/\」
 と堀尾君は頷いた。
「まあ! 小旦那さま」
 と婆やは目に気がついた。
「正晴、来たよ」
 と玉男君は茶の間の火鉢のところに坐っていた。
「兄さん、よくおいで下さいました」
 と堀尾君は鄭重にお辞儀をした。兄といっても間に姉が三人あるから年が大分違う。
「晩かったね」
「火事があって、その方へ廻されたものですから」
「おや/\、何うしたんだい? その顔は」
 と玉男君は驚いた。
「ハッハヽヽヽ」
「又喧嘩かい?」
「やったんです、久しぶりで」
「仕様のない奴だなあ」
れていますか?」
「ひどく腫れて黒ずんでいる」
れ」
 と堀尾君は立って行って鏡を見た。右の目が半眼になるくらい腫れていた。序をもって和服に着替えながら、
「悲観するなあ、この顔じゃあ」
 と呟いた。
「新聞社でやったのかい?」
 と玉男君はそれが又心配だった。
「大丈夫です。ハッハヽヽヽ」
「同僚じゃないのか?」
「はあ」
「誰だい?」
「峠の雲助みたいなものです。久しぶりで痛快にやりましたよ。ハッハヽヽヽ」
「明後日祝言だってのに笑いごとじゃないよ」
いささか困りました」
「矢っ張り三つ子の魂って奴で、いつまでたっても直らない」
「仕方がなかったんです」
 と堀尾君は喧嘩の経緯を話した。
「これからはっと気をつけるんだね」
「はあ」
「そんな遊び人を相手にすると、何んな因縁をつけられるかも知れないよ」
「はあ」
「そんな顔をして祝言の席に坐ったんじゃ皆が笑うぞ」
「しかし顔で結婚するんじゃありません」
「へらず口をきかないで、冷したら何うだ?」
「はあ」
「何とか法はなかろうか? 医者に見て貰ったら何うだろう?」
 と玉男君は弟の顔を持て余した。
 堀尾君は頻りに冷した上、濡れ手拭を載せて寝たが、翌朝も依然腫れていた。そのまゝの顔で出勤すると、三輪君が早速、
「何うしたんだい?」
 と目を見張った。
「馬鹿な目に会ったよ?」
「喧嘩をしたね?」
「うむ」
「何者だい? 相手は」
巷間こうかん無頼ぶらいの徒さ」
 と堀尾君は好ましくない物語を余儀なくされた。
 昼頃、亀田さんが出勤して、
「堀尾君」
 と呼んだ。
「はあ」
「昨夜の火事は好く出来たよ」
「はあ」
「何うしたんだい? その目は」
「喧嘩をしました」
「火事場でか?」
「いや、帰り途でした」
 と堀尾君は又顔の説明をしなければならなかった。
「ふうむ。これが昨夜分っていたら使えたのになあ」
 と亀田さんは残念がったが、それは冗談で、
「もう帰り給え。何とかして明日までにその腫れを引かせないといけない。見合の写真と違っているなんてお嫁さんが苦情を言い出すと大変だ。仕事の方はもうい」
 と大いに同情してくれた。
 堀尾君は明日の支度もある。お言葉に甘えて直ぐ引き取った。家へ帰って幾度鏡を見たか知れない。その中に両親と野口村長が着いた。
「正晴さん、こらえ切れないで到頭やって来ましたよ」
 と野口さんは何処までも正晴君贔負だ。正晴君が○○紡績へ入った時は失望したが、新聞社へ移ってからは矢張り将来大臣になれるものと信じている。
 日比谷の大神宮で式を挙げて築地の精養軒で披露をする。これがその頃本格のようになっていたから、堀尾君はその通りを実行した。式場で顔を合せた時、花嫁は頻りに花婿を睨んだ。
「一寸喧嘩をしたのさ」
 と堀尾君が目で囁いた。
「仕方のない人ね」
 と道子さんも目でたしなめた。これくらい意思が疏通しているのに、今更鹿爪らしく御両人の名前を読み上げる神官はお人好しの限りだった。写真屋が出張していたので、
「写真は何うする?」
 と仲人の清水君が心配した。
「やめろ/\。本当に堀尾は仕方のない奴だ」
 と奥田君がしりぞけた。道子さんの側からは奥田君夫婦と両親が遙々上京していた。
 披露式は新聞社の連中と双方の親戚友人で可なりの大人数だった。堀尾君は道子さんと二人正座しょうざに坐って、
「左の目を打たれた方が宜かった」
 と思った。道子さん側の目が腫れているのだった。
「変な顔ね」
 と道子さんが目で囁く。
「堪忍して下さい」
 と堀尾君が囁き返す。
 デザート・コースに入って、仲人の清水君が立ち上った。
今夕こんせきの花婿花嫁を御紹介させて戴きます。花婿堀尾正晴君は○○県の素封家堀尾茂作氏の次男、東京○○新聞社員、帝大法科出身の秀才であります。由来、披露式上の花婿は必ず秀才でありますが、堀尾君はそんな意味の秀才でありません。実際の秀才であります。私は同君とは高等学校から大学へかけて六年間同級生でしたから、ここに拳大こぶしだいの判をして保証することが叶います」
「私は子供の時から保証しています」
 と野口村長が叫んだ。一同は野口さんの方へ視線を集めて、その白髪を認めた時、
「ハッハヽヽヽ」
 と笑いの中に敬意を表した。
「次に花嫁道子さんはともの旧家奥田三郎兵衛氏の長女、目下女子大学在学中の才媛さいえんであります。披露式上の才媛は、いや、花嫁は、必ず才媛でありますが、道子さんは実際の才媛であります。私のさいは現に道子さんと同級生ですから、これも拳大の判を捺して保証することが叶います」
「ハッハヽヽヽ」
「秀才と才媛、まことに適当な御縁組であります。ところで私は花婿の同窓同級生、私の妻は花嫁の同窓同級生、私達がこのお二人の仲人として最も適任なことは皆さんが拳大の判を捺して御保証下さることゝ存じます」
「ハッハヽヽヽ」
「花婿も申分なしの花婿、花嫁も申分なしの花嫁、仲人も又申分なしの仲人でありますから、新家庭の前途は唯光明あるばかりです。皆さん、何うぞ安心してお祝い下さるようにお願い申上げます」
 と清水君はナカ/\上手にやってのけて、拍手大喝采だった。
 次に東京○○新聞社の編輯長木下さんが立ち上った。
「私は今夕このお芽出度い席上で同僚を代表致します。おこがましいことでありますが、同時に光栄至極に存じます。私と堀尾君の交渉は始まってからだ間がありません。しかし堀尾君の恩師から詳しく性格を拝聴して、真に男らしい男と敬意を表しています。『君、君は堀尾を使いこなせるようならえらい』とその友人即ち堀尾君の恩師が申したのであります。尚おその折、堀尾君の長所と短所を参考の為め詳しく話して戴きました。今晩、その長所と短所が堀尾君の顔面にアリ/\と現れています」
「ハッハヽヽヽ」
 と一同初めて公然と笑う許可を得た形だった。
「御覧の通り堀尾君の右のお目がれ上っています。これは花嫁さんへ御注意までに申上げて置きますが、普段決してこんなむずかしいお顔をしているのではありません。臨時です。数日中に元の好男子に戻ることを私は拳大の判を捺して保証申上げます」
「ハッハヽヽヽ」
「堀尾君は一昨晩、社の仕事を終ってお家へ帰る途中、無頼漢三人を相手に取って武勇伝を演じたのであります。これが堀尾君の短所であります。困ったものだと私は存じましたが、同僚から経緯を伺って見て、同時に長所を発揮していることが分りました。事の起りは電車の中で無頼漢が婦人にたわむれかゝったのであります。堀尾君は言葉穏かに注意したのです。ところが相手は浮浪無頼の徒ですから、好い幸いに喧嘩を売りかけました。堀尾君としては事情致し方ありません。即ち下車して、遺憾なく三人を叩き伏せたのであります。右のお目がその折の奮闘を物語っています。これによってこれを見るに、曲ったことが嫌いという立派な性格ともう一つ後のことを考えないという無謀な性格が現れています。結婚式を控えていて命の遣り取りに近い行動を演ずるものは滅多にありません。しかし婦人に対する侮辱がそれほどまで癪に障ったのであります。欧洲中世紀の武士道を理解する私は堀尾君の行為を決して咎めません。見知らぬ婦人に対してこの通りなら、大切だいじの奥さんには何の通りでありましょうか? 想像するに難くありません。諸君、新家庭の前途を祝して乾盃致しましょう」
 と木下編輯長は盃を挙げた。





底本:「佐々木邦全集2 次男坊 負けない男 凡人伝 短篇」講談社
   1974(昭和49)年11月20日第1刷
初出:「講談倶楽部」大日本雄辯會講談社
   1930(昭和5)年1月〜12月
※「附け」と「付け」、「理窟」と「理屈」、「劇務」と「激務」、「贔屓」と「贔負」、「詮衡」と「銓衡」、「ことと」と「ことゝ」、「そのまま」と「そのまゝ」、「有りのまま」と「有りのまゝ」、「くれれば」と「くれゝば」、「いいえ」と「いゝえ」、「ここに」と「こゝに」の混在は、底本通りです。
※「何方」に対するルビの「どちら」と「どっち」と「どなた」の混在は、底本通りです。
入力:橋本泰平
校正:芝裕久
2020年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード