勝ち運負け運

佐々木邦




幼少の思い出


 隣り同士の僕と菊太郎君は妙な因縁いんねんだ。凡そ仲の好い友達といっても、僕達二人のようなのは類があるまい。三十余年間、始終一緒だった。学校も一緒、商売も一緒、何方か病気をしない限り、毎日顔を合せて来ている。同業のものは僕達のことを御両人と呼ぶ。僕も菊太郎君もそれに異存は毛頭もうとうない。
うらやましいね、御両人は」
「若旦那同志のお神酒徳利みきどっくりだ。そのまゝじっとして並んでいさえすれば、今に時節が廻って来る」
「男は好いし、金はあるし、御両人は兜町かぶとちょう切っての果報者だよ」
 こういう評判も有難い。しかし、
「御両人は何方どっちだろうな? 結局」
 と言われると、僕達は胸の鼓動が高まる。お互に負けまいという気がある。御両人はそれを常に意識していながら、隠し合っている。特別に親しい同志が何かにつけて張り合うのはまことに厄介なものだ。
 手近い例を挙げれば、一緒に銀ブラをして、カフェーへ入るとする。女給達が二人を取巻く。兜町の若旦那は会社員や新聞記者とは違ったにおいがするのらしい。僕は特別に女が好きという次第わけではないが、一番綺麗なのに目を留めて、其奴がどれくらい菊太郎君に好意を持っているかを考えて見る。当り前なら構わない。しかし目に余るようなら、翌晩単騎遠征を試みて、更に一層の好意を此方に示させる。御苦労な話だけれど、そうして置かないと気が済まない。ただし初めての家なら、当然僕の方が余計注意をくから、翌晩の単騎遠征は大抵菊太郎君の役割になる。
 僕達は競争する運命を持って生れて来たのらしい。二人は共通点があると同時に、背景が似ていたから、子供の頃から好い対照になった。僕は長男で、姉が三人ある。菊太郎君も長男だ。その後妹が二人生れた。何方も男の子としては女の中の一粒種だった。それから偶然のことに、二人は同じ日に生れている。十一月三日、天長節だった。菊太郎君の菊は菊花節の菊をかしたものである。
 僕達は守に背負われている頃から仲が好かった。顔を合せると、お互にニコ/\したそうである。何方の坊っちゃんが好い器量かという議論がもりもりの間に起ったらしい。似たものが二つ並べば、出来の善し悪しが問題になる。僕の守は無論僕の方に力瘤を入れて、
「奥さま、お隣りの坊っちゃんに負けるのは業腹ごうはらですから、おべゝも背負い半纒も縮緬ずくめにして戴きます」
 と要求した。
「お由や」
「へい」
「お前は馬鹿だね」
 と母親は相手にしなかったらしい。自信がある。
「何故でございますか?」
「負ける心配があるの?」
「無論ございませんけれど」
「それじゃ宜いじゃありませんか?」
「でも」
「何故?」
「お隣りの坊っちゃんは福徳長者の相ですって。大したものですって」
「まあ!」
「見れば見るほど好くなりますって、易者えきしゃが申していました」
「易者が来たの」
「通りがかりのお爺さんです。このお子さんは有り余って施しをする人相ですって」
「家の坊やは何う?」
「さあ」
「見て貰わなかったの?」
「へえ。なんだかきたならしい爺さんでしたから」
「乞食でしょう、そんなのは屹度」
「でもお隣りの奥さまからお礼を戴いて帰りました」
「乞食だから貰って行ったんでしょう。そんなものゝ言うことが当てになるものですか?」
「兎に角、縮緬にして戴かなければ、私、御奉公が勤まり兼ねます」
 とお由は地位をしての申入れだった。この女は忠義者で、僕が小学校へ上る頃まで勤め続けた。
 店には番頭が数名いた。恐らく皆若い元気者だったろう。或日、僕を神輿担みこしかつぎにして、ワッショ/\と喚きながら、隣りへ押し寄せた。示威運動の積りだった。馬鹿なことをしたものである。しかし父親は、
「まあ、宜いさ。若いものゝすることだ」
 と言って、大目に見ていた。隣りでは更にその上を越した。ワッショ/\の声が高まったと思ったら、菊太郎君が矢張り店員達に担がれて現れた。菊太郎君のお父さんが向う鉢巻をして、音頭おんどを取っていた。
 親同志も競争意識に支配されていたのである。こんな話を聞かされると、僕は人並に育ったのが大きな儲けものだったと思う。家中総がかりでおだて上げるのだから、余程素質が好くないと、立派な馬鹿旦那になってしまう。菊太郎君もその辺を斟酌しんしゃくして考えたのか何うか知らないが、
「これぐらいなら親孝行だよ、僕達は」
 と言っている。万事僕と同じの積りでいるところが可愛い。昨今では二人の間に一見殆んど甲乙は認められないけれど、幼少の頃は僕の方が遙かに智恵が早かったらしい。何でも先だった。市岡家ではそれを苦に病んで、両親が菊太郎君にチョチ/\アワヽを教えようとした。しかし菊太郎君は頭が未だその程度まで発育していなかったから、その晩大熱を発して、引きつけてしまった。医者が駈けつけて、これは無理に智恵をつけた結果ですと診断した。幸い手当が届いて落ちついた。医者は年来僕のところのかゝりつけだったから、思いついて、帰りに家へ寄ってくれた。菊太郎君といえば、直ぐに僕を聯想する。近所界隈がそういう心理状態になっていた。
「坊っちゃんはお変りありませんかな?」
「はあ。お蔭さまで元気でございます」
「お元気でも無理に智恵をおつけになっちゃいけませんよ。お隣りではチョチ/\アワヽで大失策おおしくじりを致しました。御主人と奥さんがお二人がかりでチョチ/\アワヽ、チョチ/\アワヽ」
 と医者が手真似をしたとき、母親の膝に抱かれていた僕は忽ち、
「チョチ/\、アワヽ。チョチ/\、アワヽ」
 をやり出した。直ぐに覚えてしまったのである。その折国分こくぶさんが吃驚びっくりした顔付は未だに忘れられないと言って、母親が一つ話にしている。この国分さんはもううに亡くなってしまったが、
「日出男さんは豪物えらぶつになりますよ。お楽しみです」
 と僕の将来を始終保証してくれたそうである。今の国分さんは第二世だ。僕のところでも菊太郎君のところでも子供が時々世話になる。医者も患者も代が更っていると思うと、僕達も年を取ったものだ。
 医者で思い出したが、僕は三つの時、百日咳にちぜきわずらった。それが直ぐ上の姉に移って、二人とも長いこと苦しんだそうである。元来もとを言えば、僕が菊太郎君のを貰ったのだ。菊太郎君も重かったそうだが、これは自分で仕出来しでかしたのだから仕方がない。それから四つの時に痲疹はしかをやった。これも菊太郎君のが移ったのである。菊太郎君は軽かったが、僕は余病が出て、母親が神信心をしたくらいだった。次に水痘というのをやった。これは何方どっちも大したことがなかった。皆後から聞いた話で、自分には覚えがないけれど、その都度菊太郎君から頂戴している。菊太郎君は病気を移す名人だった。有り余って施しをする人相というのが妙なところで当っていた。
 さて、朝から取りかゝって、これ丈け書き進んだとき、妻が上って来た。僕の書斎は二階だ。株屋の息子に書斎は変だと思うかも知れないが、僕だってこれで○○大学を卒業している。同級生には教授や経済記者もあるから、人のふんどしで相撲を取るのでもないが、分相応の学者の積りだ。
「御精が出ますね、何を書いてらっしゃいますの? お手紙?」
 と妻が覗き込んだ。妻は幽香子ゆかこという。名詮自性みょうせんじしょう、蘭の花を聯想させるような美人だ。これを貰うについては、菊太郎君が一方ならず骨を折ってくれた。親友の有難味がないでもない。普段は競争していても、死生しにいきの問題になれば違う。尤もそれには経緯いきさつがあった。尚お僕は菊太郎君が久子さんという難物を貰う時、犬馬の労を取ってやっている。
「こんな長い手紙を書く奴はないよ」
「なあに? それじゃ」
「小説さ?」
「あら! 原稿紙ね、生意気に」
「おい/\」
 と僕は怖い顔をして見せた。
「オホヽヽヽ」
「お前はどうも僕を馬鹿にする癖があっていけない」
「馬鹿になんか致しませんけれど、小説なんて」
「なんだい?」
がらにありませんわ」
「書けないと思うのかい?」
「えゝ」
「そう見括みくびったものじゃない」
「恋愛小説?」
「いや、人生小説だ」
「そんな小説がありますの?」
「小説はすべて人生を描く。それだから恋愛問題も当然取扱う。お前のことも書いてやる」
「厭よ」
「何故?」
「もうそんな年じゃありませんわ」
「そんなに老込おいこまなくても宜かろう。ところでなにか用かい?」
「いゝえ、余り下りていらっしゃいませんから、どうなすったのかと思って」
創作そうさくに没頭していたんだ」
「結構でございますわ。唯ノラクラしていらっしゃるよりも」
「ノラクラは厳しいな」
「お茶でも入れて参りましょうか」
「うむ。それからね、お隣りへ使をやって、菊太郎君がいるかどうか訊いておくれ。電話でもい」
「お在宅うちでしたら?」
「呼びつけてやろう、今日は。直ぐに出頭しろって」
「大威張りね。雨降りの日曜ですから、丁度好うございますわ」
 と妻はイソ/\して下りて行った。
 間もなく菊太郎君がやって来た。
「何だい? 急用ってのは」
「顔が見たくなったんだよ」
「有難い仕合せだ。しかしよく降るね、この雨は」
「うむ」
「何うだい? 家にいても気が詰まる」
「さあ」
「呼びつけられてノコ/\やって来るからには、僕だって条件がある」
「凄いね。どんな料簡りょうけんだい?」
「条件だよ。交換条件がある」
 と菊太郎君が誘いかけたとき、妻が上って来て、挨拶をした。
「丁度間に合った」
 と僕が言った。
「何あに?」
「菊太郎君が誘いかけたところだった。僕を連れ出そうと思って」
「あら! 久子さんに申上げますよ」
 と妻が睨んだ。幽香子さんは目千両だと菊太郎君も認めている。
「ハッハヽヽ」
「この頃は聯絡が取ってありますのよ、久子さんと」
「道理で警戒が厳重です」
「思い当りまして?」
「はあ」
 と菊太郎君は頭を掻いていた。不良というほどでもないが、決して善良ではない。
「私がこゝでこの帯留に手を当てますと、すぐ久子さんに通じる仕掛けになっていますの」
「まさか」
「本当よ」
「僕は日出男君と違います。そんな子供だましには乗りません」
「それじゃ試めして御覧に入れましょうか?」
 と妻は帯留の金具を指さした。
「いや、それには及びませんけれど」
「矢っ張り怖いんでございましょう。オホヽヽヽ」
「日出男君とは違いますよ。乗りかけていたのに、奥さんが見えたら、態度一変です」
「おい。好い加減なことを言うなよ」
「ハッハヽヽ」
「僕はこれから当分蟄居ちっきょするかも知れないぜ」
「謹慎か? 何の口がれたんだい?」
たちが悪いな」
「ハッハヽヽ」
っと考えたことがあるんだよ」
「感づいたのかい?」
「思いついたんだよ」
 と僕は机の上に目をくれた。小説のことを吹聴ふいちょうしたくて呼び寄せたのだった。
「ふうむ。机の上だね。何だろう?」
「今朝から書いている」
「何を?」
「小説さ」
「えゝ?」
 と菊太郎君も僕を馬鹿にしている。
「柄にありませんわね」
 と妻がお愛想のように言った。
「驚き入りました」
「一生懸命よ」
「御主人は一体何でもやり兼ねない人です。しかし小説とは思いがけませんでした」
 と菊太郎君は這い寄って、机の上の原稿に手をかけた。
「いけないよ」
「何故?」
「未だ下書だ。読んでも分らない」
 と僕は取り上げてしまった。菊太郎君のことばかり書いてあるから、目の前で読まれては困る。
「恋愛小説だな、君のことだから」
 と菊太郎君は幸いに誤解してくれた。
「うむ。恋愛場面ラブ・シーンのない小説はあじのついていないアイスクリームだ」
「うまいことを言うね。君が考えたのかい?」
「無論さ」
「その分なら書けるかも知れない。考えて見ると、君は僕と違って、作文が得意だった」
「駈け出しの文士ぐらいには書ける積りだ」
「幽香子さんを貰う時のことを書き給え。あれはあのまゝで恋愛小説になる」
「まあ、オホヽヽヽ」
 と妻は寧ろ満足のようだった。
「君と久子さんのことも書くよ」
「書く値打が充分ございますわね。オホヽヽヽ」
「あれは針小棒大に伝わっているんです」
「いや、僕は初めから関係しているから、そうは言わせない。君のこそ、そのまゝ小説だ」
 と僕は急所を握っている。
「お手軟かに頼むよ」
「無論然るべく潤色じゅんしょくするさ」
「余り貰いたがったように書き立てられると、奴、増長する」
「まあ。奴なんて」
 と妻が咎めたら、
「陰では日出男君だってこの調子ですよ」
 と来た。菊太郎君、何うも宜しくない。小説で痛めつけてやる値打が充分ある。
「君が主人公になるかも知れないよ」
「困るよ」
「汝を呼び出すは余の儀でない。材料に使う為めさ」
「本当かい? 君」
「迷惑はかけない。安心し給え」
「書いたところで何処でも出してくれないから、大した心配はない」
「自費出版ってことがある」
「いけない/\」
 と菊太郎君は手を振った。
「要するに、君と僕の自叙伝小説になりそうだ」
「僕の自叙伝を君が書くって法はないよ」
「しかし僕のことを書けば、どうしても君のことが出て来る。切っても切れない関係だからね」
「御両人か?」
「然うさ。君と僕の見た人生を扱う。子供の時から書く積りだが、疑問が起った。一体君は幾つぐらいから覚えがある?」
「到頭自叙伝を書かれることになってしまったのかい?」
「何もお附き合いだ。君は幾つぐらいからのことを覚えている?」
「さあ」
「僕は君に種々いろいろの病気を移された頃のことは些っとも覚えがないんだ」
「変なことを言うなよ」
「自叙伝小説だから、覚えているところから書き出す」
「僕は学校へ上ってからだね」
「そんなことじゃ駄目だよ。偉人の伝記を見ると、三つ四つの頃のことを覚えているぜ」
「然うさな。学校へ上らない頃のことゝいうと……成程、多少覚えているよ」
「努力して見給え。さかのぼって思い出せるほど、偉人の資格があるんだ。目を瞑って、よく考えて見給え」
「よし/\、君と豊子が僕の家の縁側で綾取あやとりをしていた時……」
「君、君」
「うむ?」
「茶碗が危い」
「大丈夫だ」
「目を開いている方が宜い」
「君と豊子が……」
「君自身のことの方が宜いんだよ」
「僕自身のことだけれど、君と豊子が僕の家の縁側で……」
「君」
「オホヽヽヽ」
 と妻が笑い出したので、菊太郎君は目を半眼に見開いた。僕の注意が漸く分ったのらしい。
「何だい? 幽香子」
 と僕は薄氷はくひょうの気味だった。
「私、お話のお邪魔になるといけませんから、下へ参りますわ」
「一向構わないよ」
「でも」
「宜いじゃないか?」
「いゝえ」
「お前がいる方がはずむんだよ」
「それじゃ伺わせていただきましょう。丁度奥さまもお見えになったようですから」
「妻が来るんですか?」
 と菊太郎君はもう気が散ってしまった。
「はあ。この通り。オホヽヽヽ」
 と幽香子は帯留の金具を押えて見せて、急いで下りて行った。
「冗談じゃない」
「君」
 と僕は声をひそめた。
「分ったよ」
「気をつけてくれ。豊子さんの話が出ると、妻は機嫌を悪くする」
「ついウッカリしていて失敬した。ところで妻は本当に来るのかい?」
「然うらしいね」
「僕の方は幼少のことよりも最近のことが危い」
「仇討をしてやる」
「冗談じゃないぜ。それでなくても、妻は君に訊きたがる」
「何を?」
「金子さんに訊いて見ますが、何うですかと来る」
「来たぜ/\」
「余計なことは言わないでくれ」
 と菊太郎君は口をぬぐって見せた。そう大したことの出来る男でもないのに、己惚うぬぼれがある。
 妻が久子夫人を案内して来た。
「自叙伝小説の御相談というお知らせが帯留の無線装置に響きましたから、手のものを差置いて参上致しました」
 と久子夫人も曲者だ。
「大変なことになってしまったよ。記憶力の試験テストを受けている」
 と菊太郎君が言った。
 僕は久子夫人に軽く会釈した丈けだった。異性の綺麗なのに慇懃いんぎんを尽すと、兎角後がいけない。
「幼少時代を考えて見給え」
「うむ」
「遠く遡って思い出せるほど、偉人の資格がある。これが一種のメートルだ。偉人は頭が好いから忘れない」
「一体偉人は幾つぐらいから覚えているんだろう?」
「さあ」
 と僕はこゝで久子夫人の手前、博識をてらう気になって、
「誰だったか、一寸度忘れをしてしまったが、三つ四つの時に女王陛下の御前へ出て、玉手ぎょくしゅを触れていただいた記憶があるといっている。これは確か瘰癧るいれきの直るおマジナイだった。女王陛下というのだから、英国だったろう。容易に拝謁が叶うところを見ると、貴族だったに相違ない」
 と長々しくやり出した。
「この先生、甚だ覚束ない。これじゃ何処の話だか分らない」
「三つ四つの頃、途上乳母車の中からビスマルクを見かけて喜びの声を立てたら、ビスマルクも馬上から挙手の礼を返して笑って行ったと自伝に書いている人がある。これは独逸人だ」
「名前は?」
「忘れた。音楽家だったか、画家だったか、兎に角、有名な芸術家だった。後年出世をしてから、ビスマルクに会って……」
「後年出世をしたから、有名な芸術家になったのだろう?」
 と菊太郎君は久子夫人に頭の働きを見せる積りか、突如いきなり揚げ足を取った。
「然うさ。後年ビスマルクに会って、途上交驩こうかんの昔話に及んだら、ビスマルクは些っとも覚えがないと答えたそうだ。それでその芸術家は自分の方が鉄血宰相てっけつさいしょうよりも頭が好いと言っている」
「それは少し無理だろう」
「三つの時教会へ行ったことを覚えている偉人がある」
「名前はまた度忘れだろう」
 久子夫人は見るに見兼ねたのか、権力を示す為めか、
「あなた、そう一々変なことを仰有るものじゃありませんよ。失礼じゃございませんか?」
 と注意した。
「牧師さんがお母さんに『こんな小さいお子さんを何故こういう人込みの中へつれてお出になるんですか?』と咎めるように訊いたら、お母さんは『この子は家にいると泣きますが、あなたのお説教が分ると見えて、少しもむずからずに拝聴しています』と答えた。この問答までチャンと覚えているんだから豪い。しかし誰だったか、名を逸してしまった」
「今度は逸したのか? 別の言葉を使って誤魔化しても、矢っ張り忘れているんだから、君は偉人の資格がないよ」
常盤御前ときわごぜんの乳房を含んでいる頃に雪の中で助けてくれた弥平兵衛宗清という武士の顔を覚えていたのは牛若丸後に、源義経だ」
「常盤御前なら牛若さ。小学生でも知っていらあ」
「その昔、母常盤のふところに抱かれ、伏見の里にて雪にこごえしを、汝が情をもって親子四人が助かりし嬉しさ。その時に我れ三歳なれども、面影は目先に残り、見覚えある眉間の黒子ほくろ、隠しても隠されまじ」
「おや/\」
「ても恐ろしい眼力じゃよなあ。老子は生れながらにさとく、荘子そうしは三つにして人相を知ると聞きしが、かく弥平兵衛宗清と見られた上は……」
「成程。それは明治座でやっている。この間見て来た」
「今漸く分ったのかい?」
 と僕が勝ち誇った時、妻は流石さすがに、
「オホヽヽヽ」
 と笑って、僕の味方をしてくれた。
「お宅の御主人は声色こわいろがお上手でいらっしゃいますわね」
「いゝえ。横好きの方でございます」
「何う致しまして。堂に入っていらっしゃいます」
「お褒めになると、好い気になって困ります」
「矢っ張り小説をお書きになるくらいですから、御器用ね。拍子木さえ買ってお上げになれば、立派な街頭芸術家として御飯がいただけますわ」
 と久子夫人はひどいことを言う。
「閑話休題に願いまして、斯ういう具合に、偉人は和漢洋ともに幼少の頃のことを忘れません。普通の人間とは違っています。栴檀せんだんは二葉よりかんばしい。菊太郎君、さあ、どうだね?」
 と僕はつづけた。
「異議なし」
「議論じゃない。何か覚えているかどうかと言うんだ」
「僕はビスマルクだ。偉人だけれど、度忘れをする癖がある」
「グイッと来たね」
「単刀直入さ。参ったろう?」
「成人してからのことは忘れても構わないんだ」
「まして必要のない幼少時代のことだ」
 と菊太郎君は異性が側にいると、兎角見栄みえを張って、僕に突っかゝって来る。
「何方も何方ね」
「迚も偉人なんて柄じゃございませんわ。お宅さまの方は存じませんけれど」
「似たり寄ったりですわ、宅だって」
「それでこんな気が合うんでございましょうかね」
「仕合せのことに、この人、少し足りないなんて思ったことは一遍もありませんけれど」
「それが目っけものでございますよ」
 と女房同志は忌憚きたんなく見積りを交換している。
「君、あるよ、一つ。君のことだけれど、僕が覚えているんだから、僕の資格になる」
 と菊太郎君が言った。
「何だい?」
「幼少も、君、純幼少に属する。僕は君がお母さんの乳を飲んでいる光景を思い出す。明かに覚えているよ」
「成程」
「偉人だな、僕も。乳を飲んでいる頃といえば、三つだからね」
「お気の毒だが、それは資格にならない」
「何故?」
「僕は君と違って末っ子だから、六つぐらいまで乳を飲んでいた」
「ふうむ。成程、然う言えば、そんな話を聞いたことがある」
「君は恐らく僕が六つの時のことを覚えているんだ。君は僕と同い年だから、それは六つの時の記憶だよ」
「おや/\」
「失望することも何もない。何うせお互は偉人なんてものじゃないんだから」
「諦めていたけれど、一寸慾が出たんだよ」
「それは人情だ。儲かりそうな会社の目論見書もくろみしょを突きつけられると、誰だって引っかゝる」
「もう面倒だ。三つ四つの記憶はないと定める。偉人は諦める」
「実は僕もこの間から考えていたが、極く古いところで五つか六つの記憶だ。それが当り前らしい」
「安心した。お互は偉人じゃない」
「値打はその辺が一番よく知っているんだから」
 と僕は淑女達を見返った。
「それは然うさ。妻にかゝっちゃとても主張は出来ない」
「本当の偉人だって、その夫人の目から見れば、偉人という折紙はつかないかも知れない。何うでしょうね? 市岡さんの奥さん」
「まあ。オホヽヽヽ」
「菊太郎君は偉人でしょうか?」
「凡人よ」
「同じ凡人にも程度がありますが、普通ですか?」
「迚も凡人よ。ダラシがないってありません。オホヽヽヽ」
「有難うございました。有りのまゝを伺って置きますと、小説を書く上に好い参考になります」
「金子さんの奥さん」
 と菊太郎君が呼んだ。
「はあ」
「金子君は凡人ですか?」
「偉人よ」
「これは驚いた」
「但し凡人中のよ」
「それじゃ少し豪いんですね?」
「いゝえ。同じ凡人にも程度がありましょう。特別あつらえらしいのよ」
 と妻も久子夫人と同じ見積りだった。
「有難うございました。有りのまゝを伺って置きますと、お附き合いをして行く上に都合が好いです」
「散々だね、お互に」
「うむ。君が妙なことを言い出したものだから、折紙をつけられてしまった」
「矢っ張りそれ丈けのことをしているんだから、抗議も申込めない」
「本当だ」
「何をか言わん」
「好い薬になったよ」
 と僕達は黙ってしまった。しかしこれは撃退の一手だ。うるさくて仕方がない。二人の非凡な女性は間もなく下りて行ってしまった。
「これからだよ」と菊太郎君が言った。
「うむ」
「先刻の話はどうしてくれる?」
「何だい?」
「交換条件さ」
「応じよう。凡人の特別誂えだなんて言われたんじゃ謹慎していても張り合いがない」
出来でかした」
おだてるなよ。悪友だな、君は」
「大したところへは引っ張らない。飲む丈けだ。それから一つ折り入って君に相談がある」
「何かもうかる口かい?」
「それなら大威張りだけれど、手張てばりの方が悉皆すっかり曲ってしまった」
「昨日逃げなかったのかい?」
「逃げる積りだったけれど、もう一日辛抱して見る気になった。何あに、相場の方で言うことを聞いて来らあって肚だったけれど、矢っ張り思い切りが悪かったんだ」
「いけないぜ。明日は尚お高い」
「皆高いと言やがる」
「何だって売りに代ったんだい?」
「直観だよ。いつもの通り」
「その直観が曲っていたんじゃ仕方がない。明日は是が非でも仕舞うんだよ。危い/\」
「仕舞うについての相談だ。いつかの一件以来手張りは親父から封じられている」
「一体幾つ売っているんだい?」
「二百だ」
「大きいね」
「千円と少しだ。その都合がつかないと、ボロが出る。親父やお袋に叱られる丈けなら宜いけれど、今も君が見ていた通りの女房だ。恥を言うようだけれど、僕は君同様余り頭の上る方でない」
「おい/\」
「君は同病相憐れむという気はないか?」
「僕になんとかしてくれと言うのか?」
「頭が好い」
「褒められても、僕だって君と同じことで金の自由は些っとも利かない」
「判を一つしてくれ給え。初めてのお願いだ」
「成程。よし」
 と僕は簡単に頷いた。競争相手が恩を着に来たのである。小説を書くにしても、此方が負けるところばかりでは面白くない。

伯仲の間


 僕も菊太郎君も要するに偉人ではないらしい。連れ添う女房子供が申合せたように保証しているのだから、その方の資格は諦めた。しかし唯の凡人として僕と菊太郎君は何方が豪いだろう? 僕の頭は当然そこへ行った。同時に僕は自分を客観的に見る余裕があるから、矢張りこんなことを考えるところが凡人の証拠だろうと気がついた。うせ凡人を免れない。世の中はドン栗の丈較せいくらべだ。何方のドン栗の丈が高いか? 詰まり凡人としての二人の生活を有りのまゝに描けばよいのである。
 再び万年筆を執って、沈吟ちんぎんしているところへ、妻が上って来た。
「あなた」
「何だい?」
「もうお食事よ」
「よし/\。凡人として……」
「偉人なんてことは諦めて戴きますよ」
「うむ」
「スーパーって言葉があるでしょう?」
「ある。超特級だ」
「それよ。スーパー凡人ってのよ。あなた方は」
「ひどいことを言やがる」
しめし合せて、晩に何処へお出掛けになりますの?」
「お前立聞をしていたのかい?」
「いゝえ。只今お隣りの奥さんから、この帯留へ通信が響いて参りました。警戒して下さいって」
「そんな子供瞞しのようなことを言っても駄目だ。菊太郎君なら兎に角」
ていたりがたし、けいたり難しでしょう」
「僕は僕の方が上だと思っている」
「上じゃ溜まりませんわ」
「スーパーとしてじゃない。唯の凡人としてさ」
「唯のにしても上をお越しになっちゃ困りますわ」
「然ういう意味じゃない。唯の人間として、僕の方が豪いと言うんだ」
「豪い人同志ですから、肝胆かんたん相照らすんでございましょう?」
「馬鹿にするなよ」
「今晩は何処へいらっしゃいますの?」
「菊太郎君に一任してある。少し相談があるものだから」
「何の御相談?」
「打ち合せさ」
「何のお打ち合せ?」
「商売上のことは女子大学には話しても分らない」
「…………」
「お前は家庭上のことをやっていればい。商売上の責任は僕が引受けているんだから」
「…………」
 一寸こんなものだ。いざとなれば女房に文句を言わせない。圧迫してしまう。菊太郎君はこれが利かない。却って久子さんにやり込められる。折から、
「お父さん」
 と長男の英一が階段から顔を出した。
「なんだい?」
「御飯」
「よし/\」
「返辞ばかりじゃ駄目ですよ」
「よし/\」
「お母さんに叱られてるの?」
「変なことを言うものじゃない、危いよ。梯子段はしごだんが」
「大丈夫だよ。お父さんのように酔っ払わないから」
「口の達者な奴だな」
 と僕は立ち上った。
「あなた」
「何だい」
「お気をつけ下さいよ。英一は何でも見ているんですから」
 と妻が好い切っかけにして思い知らせた。
「よし/\」
「商売上のお打ち合せなら何処へおいでになるのも御自由でしょうが、梯子段から逆さまにお落ちになると、おつむれますよ」
「然う度々は落ちないよ」
「余りお過しにならないようにして戴きます」
「よし/\」
「お父さん、返辞ばかりじゃ駄目ですよ」
 と英一が又やった。女房と忰の挾撃だ。こうなると、僕も甚だ値打がないようだけれど、この英一が※(二の字点、1-2-22)たまたま僕の天稟を証明してくれる。まだ六つだけれど、実に鋭い。目から鼻へ抜ける。僕の子供の時によく似ていると両親が言っている。それを僕が大いに主張したら、妻は、
「心細いお話ね、子供に似ているのが御自慢なんて」
 とけなしつけた。よく/\僕を見括みくびっている。そこで今度の小説は女房に対して雪辱戦という心持も手伝っている。家の主人には斯ういう芸があったのかと驚かしてやりたい。内容を読んで見ると、為人ひととなりも自然分って来るという仕組である。
 船頭松右衛門実は樋口の次郎兼光、斯ういうのが昔の芝居によく出て来る。渡海屋銀平実はたいら知盛とももり落人おちゅうどながら、以前が以前だから、実名を名乗りたくて、寧ろウズ/\している。僕も丁度それだ。金万かねまんの若旦那実は敏腕家だけれど、差当り親父が頑張っているから、驥足きそくのばすことが出来ない。猫のようになって、爪をかくしている。時々手張りにチョッカイを出して、少し儲けたと思うと、直ぐその後から大きく取られてしまう。甚だダラシがない。店員達にまで侮られる。菊太郎君も同じような廻り合せになっている。僕の競争相手だから、決して足りない人間ではない。市※いちかね[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、317-下-10]の若旦那が世を忍ぶ仮の名で、市岡菊太郎としては可なりの腕前を持っている。本当に名乗りを上げるのはこれから先だ。現に千円と少しの端金はしたがねに困って、僕に借用証文の請判うけはんを頼んでいる。時折見込の曲るのは株屋の意地で仕方がない。
 晩に某所で会合して、所謂いわゆる打ち合せをした折、
「金子君、真剣になって聴いてくれ給え。僕達はこれで相応やって行ける積りだけれど、どうしたものだろうね?」
 と菊太郎君がツク/″\嘆息した。
「やって行けるとも」
「唯親父の目が光っている。それだから思い切って活躍が出来ない丈けだ」
「然うとも。一体君のところも僕のところも光りものだよ。同業の中でも際立きわだって光っているんだから、僕達はやりにくい」
「頭まで光っていらあ」
「太陽が照っていれば、月の光は何うしたって影が薄い」
「お互の代になって見給え。実力を発揮するよ」
「ドカッとやるさ」
「僕は君が羨ましい。金万は大盤石だいばんじゃくだ」
「何故?」
「君ぐらい直観の利く人はない」
「いや、君こそ好い直観の持主だ。市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、318-上-5]は大盤石だよ」
 と僕も菊太郎君をよく理解している。
「それでいて変だね」
「何が?」
「親父も信用しなければ、女房も信用してくれない」
「今朝の一条かい?」
「うむ。主人を前に置いて、迚も凡人だの、ダラシがないのとおろす女房があるだろうか?」
「僕のところもお互っこだ。あれからスーパー凡人という折紙をつけられたよ」
「君はそれで満足しているのか?」
「満足ってこともないが、仕方がない。境遇が然うさせるんだから」
「面白くない境遇だよ」
「うむ」
「増長しているんだ。君、どうだ?」
「何が?」
「目の寄るところへ玉だ。一つ謀叛むほんをしてやろうじゃないか?」
「いけない/\」
「大したことじゃないんだ。らしめのため、今夜はこゝで飲み明かす」
「困るよ、そんな予定で出て来たんじゃない。門限が定っている」
「君は巻かれているぜ」
「へん。何方だかな? 兎に角、僕としてはこの上凡人振りを発揮したくないんだ」
「ボンクラじゃないんだよ。実力はあるんだけれど、親父に封じられている。今度のだって、当り前ならうに逃げているんだが、それにはこれが利かないからね、これが」
 と菊太郎君は指で輪をこしらえて見せた。
「親父の所為せいかい?」
「詰まり然うさ。君にまで迷惑を掛ける」
「何あに、構わない」
「お蔭さまだ」
「お礼は言いっこなし」
「実力を見せたいな」
「時節を待って、我こそはと名乗りを上げるのさ。その時は世間が認めてくれる」
「それまでは日蔭の身か? 情けない」
「権四郎、が高い。と来らあ」
「うむ」
「天地に轟き鳴る雷の如く、御姿は見ずとも定めて音にも聞きつらん……」
「よせよ、ねえさん達が吃驚びっくりする」
「ハッハヽヽ」
「早く天地に轟かしたいんだけれど」
「僕が小説を書く気になったのも一つはその積鬱を晴らす為めだよ。実力のあることを小説の中で主張する」
「一つ僕を褒めて書いてくれ」
「宜いとも。お互が当り前の若旦那じゃないということを如実に見せてやる。僕は妻に対してえんそそぐって気もあるんだ」
「何かれたのかい?」
「君とは違う。雪辱戦だ」
「余り威張れないよ。女房に対して雪辱戦なんてのは、下敷になっている証明じゃないか?」
「まあ/\、見てい給え」
 と僕は得意だった。
「考えて見ると、君と僕は不思議な因縁だね」
「僕も始終然う思っている」
「万事似たり寄ったりで、この通り仲が好いんだけれど、はたが承知しない」
「何を?」
「君と僕と何方だろうってんだ」
「うむ」
「何方が長かろうかって、第一、鼻の下が問題になっている」
「それは君の方だ」
「君の方さ」
「そんなことはどうでも宜いが、何方だろうと言われると、実は僕も胸がドキンとする」
「僕も然うだよ。これは親の教育が悪かったと思うんだ」
「又親の責任かい?」
「だって、君、子供の時から、日出男さんに負けないように負けないようにと言い聞かされて来ている。君だって然うだろう?」
「うむ。菊太郎さんに負けないようにってね。それだから実は今でもその気がある」
「僕もあるんだよ。斯うして一緒に飲んでいても、此奴に負けたくないって肚がある」
「正直だね」
「君だって告白している」
「匿さない。しかし悪意はないよ、爪のあかほども」
「僕もない。勝とうって気もないんだ。ただ負けなければ宜い」
「成程ね。僕も勝とうって気はない。親の教育が徹底しているんだね、これは。ただ負けなければ宜いと思っている」
「しかし矢っ張り一種の競争だ」
「その競争を小説に書くんだよ。今までのところを」
「ふうむ。それで二人の自叙伝だと言ったんだね」
「然うさ。異存ばしあるまいな?」
「君の方が勝つところばかり書いちゃ困るよ」
「そこは怨みっこのないようにする」
「恋愛問題も書くのかい?」
「無論さ。味のないアイスクリームは拵えない」
「馬鹿なことを書き立てられると、僕は妻に胸倉むなぐらを取られる」
「ハッハヽヽ。本音を吹いたね」
「然るべく加減してくれよ」
「現実暴露さ。どうせ折紙がついているんだから、凡人としての二人の生活をそのまゝ書く分には別に苦情も出まい」
「兎に角、僕の自叙伝が入るなら、僕は条件をつける。発表前に検閲させて貰う」
「見せる丈けは見せてやる」
「これは僕も一つ書くかな。負けちゃいられない」
「久子さんに手伝って貰い給え」
「馬鹿にするなよ」
 と菊太郎君はもう競争意識を動かしていた。しかし小説は逆立さかだちをしても書けまい。文筆の才は絶無だ。中学時代には宿題の作文を僕が書いてやった。それが大分点数の補いになっている。その代り僕は数学の宿題を手伝って貰った。これで助かっていることは言うまでもない。この唇歯輔車しんしほしゃの関係が未だに続いている。二人で有志懇親会の発起人を承わると、僕が回章を書いて、菊太郎君が会計方を勤める。
 さて、二人の自叙伝に移る。切っても切れない因縁だから、僕自身のことを書けば、必ず菊太郎君のことが出て来る。
「お前はお隣りの菊太郎さんと同じ日に生れたんですよ。十一月三日の天長節よ。この上なしの日です」
 と母親が度々たびたび言って聞かしてくれたことを思いだす。誕生日は皆祝って貰えるから忘れないが、母親は激励の積りらしかった。好い日に生れたから、運勢が好いとも言った。
「朝らしいですね、僕の生れたのは」
 と或時僕は目を輝かした。得意だったのである。
「えゝ。朝も早いのよ。朝日の出る頃よ」
「僕、覚えています」
 と今にして思えば、つとに偉人の資格を主張したのである。三つ四つどころでない。生れ落ちた時の記憶だから大きい。
「まさか」
「本当に覚えがあるんです」
「日出ちゃんは生意気ね」
 と直ぐ上の錦子姉きんこねえさんが睨んだ。
「何だい?」
「覚えが好いと言って褒められるものだから、何でも覚えているような顔をするのよ。でも、そんな嘘を言ったって通りませんわ」
「本当に覚えているんだよ」
「覚えてなんかいませんわ」
「喧嘩をしちゃ駄目よ」
 と母親が制した。錦子姉さんは僕と競争の積りだった。これは※(二の字点、1-2-22)たまたまもって、僕の頭が年以上だったという事実の証明になる。
「証拠を見せようか?」
「見せて御覧なさい」
「この間、遠足の時、夜明けに起きたら、東の空があかかったから感心した」
「当り前よ、そんなこと」
「雲が五色の色をしていて、普段と違うものだから、何だか初めてこの世の中へ生れて来たような心持がした」
「生意気なことを言うのね」
「それで僕は矢っ張り朝生れたんだと思ったんだ。然う思うのは覚えているからだろう? 覚えがなければ、思い出せない。何うだい? 参ったろう?」
「参りませんよ」
一寸ちょっとこんなものだ」
「どんなもの? 知らなければ教えて上げるわ。嘘は泥棒の初まりよ」
「錦子もお黙り。日出男や、お前も姉さんを馬鹿にしちゃいけませんよ」
 と母親は二人を押し静めて、
「日出男や、それは、お前、お前の名前が日出男だからよ。日出男から思い出したのよ」
 と注意してくれた。
「あゝ、然うだ」
「日の出る時に生れたから日出男ですって、始終話しているじゃありませんか?」
「それで思い出したんです。何だ? 詰まらない」
 と僕は自分の名前を忘れていたのである。度忘れってことはその頃からの癖だったらしい。
「お悧巧な人は違ったものね。オホヽヽヽ」
 と錦子姉さんは嬉しがった。それは僕が尋常一年か二年で、姉さんが尋常三年か四年の頃だった。
 天長節に生れたということを僕も菊太郎君も等しく大きな特権のように考えていた。友達仲間で話が誕生日に及ぶと、二人は鼻が高かった。或時、天狗同志の鼻が打っつかって、喧嘩になったことがある。
「僕達は今に豪くなるんだよ」
 と菊太郎君が言った。
「うむ。当り前の日に生れたものとは違うんだ」
「運勢が好いんだからね」
天上てんじょうにちそこにち
「何だい? それは」
「お父さんが言っていたんだ。天長節だから、天上だろう」
「うむ」
「天一天上、雨知らず」
「君は色んなことを知っているんだね」
「その天上一日の朝生れたんだから、この上なしだ」
 と僕は子供心にも文献を主張の根拠としていた。父親は今でも然うだが、独り言のようにことわざつぶやく癖があった。僕はそれを小耳に挾んで覚えていたのだった。博覧強記の点はその頃から菊太郎君をあっしていたのらしい。
「ふうむ。僕は夕方だよ」
 と菊太郎君は唇をゆがめた。
「夕方だって矢っ張り天上一日の中だから、大した違いはないだろう」
「少し違うと言うのかい?」
「うむ。ほんの少しだ」
「何れぐらい?」
「朝と夕方丈け違う。日の出と日の入りだ」
「それじゃ君の方が運勢が好いのかい?」
「そうさ。朝の勢い丈け」
 僕は主張よりも説明の積りだったが、驚いた。菊太郎君は忽ち血相を変えて、
「何言ってやがるんでい? この末生うらな瓢箪びょうたんめ!」
 と挑戦的態度に出た。
「何瓢箪だって?」
「末生りだよ。知らなければ教えてやる。君は末っ子だから、末生り瓢箪だ。お母さんの乳をいつまでもしゃぶっていたじゃないか?」
「そんなことは余計なお世話だよ」
「僕は長男だから、初生はつなりだ。末生りよりも運勢が好いから、君のようにヒョロ/\していない」
「これはこの間インフルエンザをやったからだ」
「僕だってやっている」
「君が移したんだ」
「そんなことがあるものか? 末生りだから弱いんだ」
「何だ? この野郎! 黙っていれば、好い気になって」
 と僕は我を忘れて組みついた。菊太郎君はもとより覚悟の上だから油断がない。突然いきなり僕の鼻に食いついた。僕は悲鳴を揚げた。鼻も急所らしい。咬まれていると動きが取れない。店員が駈けつけて引き分けてくれなかったら、僕は鼻を食い取られてしまったかも知れない。歯跡が残って、血が出ていた。
 これが覚えている中の大喧嘩だった。母親が大変に憤った。
「今まで病気という病気を移した上に余りですよ。もう黙っちゃいられません」
 と言って、お隣りへ談じに行く身支度をしたところへ、菊太郎君のお母さんが菊太郎君を引っ張って、あやまりに来た。子供同志のことですからと母親は直ぐやわらいだのみならず、
「お隣りの奥さんは矢っ張り道理わけの分った人ですよ」
 と後から褒めていた。しかし僕は堪忍出来なかった。翌朝、菊太郎君が遊ぶ積りでやって来た時、
「僕はこれからお医者さんへ行って注射をして貰うんだよ」
 と言って断ってやった。
「何の注射だい?」
「狂犬病の注射だよ」
「ふうむ」
 と菊太郎君は目を白黒させた。
 しかし仲よしだし、夏休みのことだったから、そう長く絶交していられなかった。間もなく又遊びはじめた。菊太郎君は気がとがめたと見えて、頻りに僕の御機嫌を取った。それにも拘らず、負けることが嫌いだから、妙な理窟を持ち出して、元来の主張を通した。
「日出ちゃん、君と僕は同じ日に生れたけれど、考えて見ると、僕の方が矢っ張り兄貴だよ」
「僕の方が兄貴さ。朝生れたんだもの。君は夕方だ」
「それでも構わないんだ」
「そんな無理なことを言うと、又喧嘩になるよ」
 と僕は警戒した。この間のつづきをやる気で何か考えて来たのだと思った。
「無理じゃないんだ。年が上でも弟になることがあるんだから仕方がない」
「そんなことはないよ」
「あるとも」
「これは面白い。何処にあるか聞かして貰おう」
「君の兄さんのところへお嫁さんが来れば、君より年が下でも君の姉さんになる」
「僕は兄さんなんかないよ」
「あるとしてさ、君の兄さんのお嫁さんなら、君より年が下でも君の姉さんだろう?」
「それは然うさ。それがどうしたんだい?」
「君は年が上でも、兄さんのお嫁さんの弟になる」
「分っているよ。当り前だ」
「それだから僕は君が今に僕の弟になると思って安心しているんだ」
「何故? 何うして僕が君の弟になるんだい?」
「ハッハヽヽ」
 と菊太郎君は手をって笑った。
「何が可笑しい?」」[#「」」」はママ]
「弟になりたがったこともあるんだ」
「ないよ、そんなことは」
「君はまゝごとをした時、何と言ったか、もう忘れたのかい?」
「まゝごとなんかしないよ。もう小学生だ」
「学校へ上らない時分のことさ。君は豊子のお婿さんになりたいと言って、いつでも僕に頼んだじゃないか? いけないと言ったら、泣いたこともある」
まらないことを言うなよ」
「取引所で損をして来た時、そんなお婿さんはもう家に置かないって僕が言ったら、兄さん、もうしませんから堪忍して下さいって、手をついてあやまった」
「あれはまゝごとだよ。詰まらないことを覚えているんだね。皆に笑われるよ」
「内証だ。誰にも言わない」
「それが何うしたんだい?」
「豊子は僕の妹だから、豊子のお婿さんなら、君は僕の弟だ」
「それは本当にお婿さんになれば然うさ」
「なりたいんだろう?」
「馬鹿だな、君は。不良みたいなことを言っている」
 と僕は誤魔化した。何となく理窟責めになって、かなわないような気がしたのだった。
「よし。それじゃ君は豊子は嫌いかい?」
 と菊太郎君は退っ引きさせない。
「嫌いじゃないさ。君の妹だもの」
「それなら好きかい?」
「好きでも嫌いでもない」
「でも豊子は君が好きだと言っている。僕はこの間のことがあるから、君とはもう遊ばない積りだった。しかし豊子は君が好きだから、僕が君と喧嘩をしちゃ困ると言うんだ」
「僕だって無理に喧嘩なんかしたくないよ」
「豊子は僕が君の鼻に食いついたと言ったら心配したぜ。鼻が取れたと思ったんだろう」
「ハッハヽヽ」
「君は僕がいなくても、豊子と遊んでいるんだってね?」
「あれは君を待っている時だ。君の妹なら、口をきいても宜いだろう?」
「よし。それじゃ君は豊子が好きだね?」
「好きでも嫌いでもないと言っている」
「しかし少しはどうだい? 好きの方か嫌いの方か?」
「少しなら好きの方だよ」
「見給え」
「ハッハヽヽ」
「それじゃ少し好きだと言ったって言って置くよ」
「いけない。豊子さんはおこる。大変好きだと言ってあるんだから」
「見給え」
「ハッハヽヽ」
「弟だ。矢っ張り」
「仕方がない」
 と僕は降参した。
「君は義経だよ。宜いだろう? 弟でも義経なら」
「うむ」
「義経は悧巧だ。頭が好い。君に似ている」
「すると君は頼朝かい?」
「義経の兄貴なら頼朝さ」
「悪智恵があるね。義経だなんて言って人を喜ばせて置いて、自分が頼朝になってしまうんだもの」
「ハッハヽヽ」
 と菊太郎君は得意だった。余っ程考えて来たのらしい。
「頼朝丈けあって頭が大きいや。帽子が間違うと直ぐ分る」
「大頭将軍だよ」
「損だな、僕は。弟になったり、家来になったり」
いやかい」
「仕方がないと言っている」
「兄弟仲よくして成功するんだ」
「矢っ張り損だな。運勢も頭デッカチの方が好いんだもの」
「それは兄貴だからね」
「詰まらないな。これじゃこの間鼻を食いつかれたのが只になってしまう」
「まあ宜いさ。運勢なんてものはその時になって見なければ分らない」
「本当のことを言うと、僕は少し悪いのかも知れないと思っている」
「何故?」
「自分で病気をしたことがなくて、皆君に背負しょわされる」
「そんなことを言えば、いつでも先にする方はなお運勢が悪いことになる」
「白状したね。堪忍してやる」
「ハッハヽヽ」
「運勢はお互っこだよ。同じ日に生れたんだから」
「それで宜いんだよ」
「好いんだか悪いんだか、その時になって見なければ分らない」
「その時って?」
「大人になってからさ」
「一体君は何をやる積りだい?」
きまっていらあ。蛙の子は蛙だよ。一寸こんなものさ。ハッ」
 と掛け声をして、僕は手を挙げて見せた。取引所の真似だ。
「有難い!」
「何うして?」
「僕も蛙の子だ」
 と菊太郎君は手を挙げて、指を動かして見せた。店員から習ったのだ。商業区に生れた僕達は山の手のお坊っちゃん育ちとは違う。もう実務が頭の中にあった。尤もこれは住んでいる兜町以外を全く知らなかったからだろう。
「株屋が一番豪い。その次は商人、山の手は烏だ」
 という風に店員達からも聞かされていた。それだから、後日その山の手の烏が来て豊子さんをさらって行くなぞとは夢にも思いがけなかった。
「お互に成金になろうよ」
「当り屋兄弟だ。僕は君のところに妹があると好いと思うんだけれど」
「何故!」
「貰う」
「ハッハヽヽ」
「錦子さんを貰おうか?」
「年が上だよ」
「馬鹿にされてしまうね」
「あれは生意気で仕方がない」
「豊子は君にやる。僕はどうしても君を弟にして置かないと喧嘩になる」
「弟でも宜いよ」
 と僕は豊子さんが貰いたかった。
 豊子さんは僕より二つ年下だった。今会って見ると、然う大した美人でもないが、矢張り可なりに踏める。尤も妻に言わせると、形なしだ。
「あなた、あんな下品な人、何処が好かったの? あなた、ねえ、あなた。しっかりして下さいよ」
 と感情問題がからまるから、冷静な批判でない。
「好いところなんかないさ」
「悪いところだらけでしょう?」
「うむ」
 と僕はさからわないようにする外仕方がない。しかし僕が失恋したくらいだから、相応好いところがある。豊子さん自身としては相応どころでない。絶対の積りだ。子供の時から器量自慢だった。
「日出男さん、あなた、私が器量が好いものだから、私と遊びたいんでしょう?」
 と平気で言った。
「ヘン」
「違って?」
「そんなことはどうでも宜い」
「宜かないわ。私、訳が聞きたいの」
「それは豊子さんと遊ぶと面白いから」
「何故面白いの? 面白い訳が聞きたいわ」
「困ったな」
「私が器量が好いからでしょう?」
「ソの字」
「私、字なんか知らないわ、まだ」
「ソの字とウの字とデの字とスの字」
 と僕は地面に書いて見せた、婉曲を期した積りだった。
「何あに?」
「読むぜ。ソ――ウ――デ――ス。そうです。ハッハヽヽ」
「それ御覧なさい」
「ハッハヽヽ」
みんなそう言っているわ」
「誰? 皆って」
「お姉さん達」
 と豊子さんは僕の姉達のことだった。隣り同志だから、始終遊びに来る。姉達が又妹のように可愛がった。
「豊子さんは家の子になってくれない?」
 と一番上の貞子姉さんは特別気に入っていた。
「厭」
「何故?」
「私、余所よその御飯嫌いですもの」
「困ったわね」
「信子さんと錦子さんがいるから沢山じゃないの?」
「もう一人妹が欲しいわ」
「その訳、私、知っていてよ」
「何あに?」
「私、器量が好いからでしょう?」
「然うね」
「器量が好いものだから、日出男さんも私と遊びたいんですって」
 と豊子さんは自分が言っているのだった。子供の時から宣伝ということを知っていた。矢っ張り魔物だ、女は。

小学生時代


 菊太郎君が頼朝で僕が義経という約束は中学校の三年まで続いた。僕はこの区切りをよく覚えている理由がある。その後も仲の好いことに変りはないが、それまでは競争を押えられていた。僕は豊子さんの一件があるから、威張れない。無論時折喧嘩をした。しかしいつも僕の方から折り合いをつける傾向があった。
「それじゃ豊子はもう君にやらないよ。宜いかい?」
 と言われると、考え直す外仕方がなかった。豊子さんも普段ふだんは僕が好きでいながら、喧嘩となると、菊太郎君の贔屓ひいきをして、
「日出男さん、私、兄さんと仲の悪い人は嫌いよ」
 と後から談判に来るのが常だった。
「でも菊太郎君が無理です」
「無理でも、兄さんなら仕方がないでしょう」
「…………」
「私、訳を聞きたいわ」
「訳は菊太郎君が悪いんです。僕を馬鹿にして……」
「その訳じゃないのよ。あなたが兄さんと喧嘩をすると、私、心配するじゃありませんか? それでも構わないって訳があるんですか?」
「さあ」
「私を貰いたくない訳があるんでしょう?」
「そんな訳はありません」
「それじゃ兄さんと仲直りをして下さい」
「でもあんまりです」
「じゃ矢っ張り訳があるんだわ」
「訳はないんです」
 と僕は結局菊太郎君のところへ行って、和解を申入れなければならない。菊太郎君は豊子さんに然う言い含めて寄越すのらしかった。
「菊太郎君」
「何だい?」
「僕が悪かった」
「いや、僕が悪かったんだよ。遊ぼう」
 と直ぐに仲が直ってしまう。
 学校の成績は何方も優良という方でなかった。自然にまかせて作意ということをしなかったから、いつも中軸のところだった。学問なんてものは眼中になかったのである。今でも然うだ。ひそかに一見識と思っている。それだから、菊太郎君に負けないようにと言われていても、学校の成績で競争する気は起らなかった。そんなことは知らなかったと言う方が当っている。菊太郎君も同様だった。学期の終りに通信簿を貰っても、期待がないから、失望も満足もしなかった。
「やあ、鵞鳥がちょうが五羽並んでいる。ギャ/\/\/\/\」
「僕は万燈が三つ、鵞鳥が六羽。ギャ/\/\/\/\/\」
 と、鵞鳥は乙で万燈が甲だ。字の形が夫れ/″\似ている。
 僕達が尋常三年になった時、豊子さんが入学した。
「私、学校へ上れば屹度きっと一番よ」
 と豊子さんは自信があった。器量のことだろうと思っていたら、成績のことだった。それから初めて学校の出来不出来が問題になった。これをもって見ても、菊太郎君の凡人振りが分る。三年も学校へ通いながら、妹が入ってから漸く自分の成績ってことを本気になって考え始めたのである。
「日出男君、僕は驚いちゃったよ」
 と菊太郎君が言った。
「何だい?」
「豊子は全甲だよ。万燈がとおばかり並んでいる。鵞鳥なんか一羽もいない」
「豪いんだね」
「あれは頭が好い。君は大丈夫かい?」
「何が?」
「器量が好い上に頭が好いんだから、お嫁に貰っても、ナカ/\言うことを聴かない。君はひどい目に会わされるかも知れないぜ」
「会わされても構わない」
 と僕は覚悟していた。考えて見ると、その頃から少し薄ノロの気味があったらしい。
「豊子は君の通信簿を見たいと言っている」
「厭だよ」
「万燈は幾つだい?」
「三つだ。後は皆鵞鳥だ」
「僕も甲が三つだけれど、鵞鳥の外に丙が二つある」
「それじゃ僕の方が好いんだね」
「うむ。そこで物は相談だ」
「何だい?」
「僕が頼朝で君は義経だ。これを忘れるとまた喧嘩になるぜ」
「分っているよ」
「義経が頼朝の上になるって法はない」
「何が上だい?」
「席順さ」
「席順は君の方が上だよ。君は五番で、僕は二十三番だ」
 と僕は菊太郎君に花を持たせる積りだった。教室の席順はせいの順になっていた。
「教室や体操の時間の順じゃない。成績順だ。君は僕よりも上になっている」
「それは然うかも知れない。甲が同じで、丙がないからね」
「些っと気をつけてくれ給え」
「どうするんだい?」
「弟が兄貴よりも好い点を取るって法はないよ」
「それは無理だ」
「何故?」
「先生がくれるから仕方がない」
「貰わないようにすれば宜い」
「無理なことを言うんだね。君は」
「何とか言って、君は内証でお復習さらいをするんだろう?」
「そんなことはないよ。この通りいつでも君と遊んでいるじゃないか?」
「夜が怪しい。夜姉さん達に教わるんだろう」
「夜は早く寝てしまう。姉さん達に訊いて見ろ」
「憤らなくても宜いよ。疑うんじゃない」
「僕はお復習なんか大嫌いだ」
「それだのに変だな。頭だって、僕の方が大きいんだけれど、点が違うんだもの」
 と菊太郎君は如何にも不思議そうに首をかしげた。頭の大きさと好さを一緒に考えている。この傾向が今でも確かにある。
「点の為めに喧嘩になるなんてことじゃ詰まらないよ」
「それだからさ」
「僕が好いこともあれば、君が好いこともあるんだから」
「斯うしよう。君は通信簿を豊子に見せちゃいけない」
「無論見せない。鵞鳥が並んでいるんだから、信用がなくなる」
「僕が好いように話して置く」
「そうしてくれ給え」
「僕よりも少し悪いと言って置く」
「同じだと言ってくれ給えよ」
「兄貴と弟が同じじゃ面白くない。一寸ちょっと加減をして置く」
「詰まらないなあ」
 と僕は不服だったけれど、豊子さんをくれないと言われては困るから、納得なっとくして置いた。
 初生はつなりと末生うらなりの差異が現れて来たのか、菊太郎君は僕よりも発育が好かった。頭の大きいくらいのものは体躯からだも釣合を保つ為めに自ら比例を求めるのらしい。丈が高い上に骨太ほねぶとだった。学校の席順で大体分っているのに、菊太郎君は自慢だものだから、
「君、丈較せいくらべをしよう」
 と度々申出た。僕も負けたくないから、丈伸びをして誤魔化した。その程度だった。大した違いはない。しかし相撲を取ると、僕の方が勝った。手を知っている。体力では敵わないと思うから、工夫をして頭で取る。
「僕の方が大きいんだから、負ける筈はないんだがな」
 と菊太郎君はいつも量と質の差別がつかない。
「もう一番。本気になってかゝって来給え」
 と僕は豊子さんに強いところを見せたかった。一度二人取組んだまゝ、菊太郎君の家の床の間へ倒れて、青磁せいじ香炉こうろの脚を折ったことがある。これは宝物だそうだ。僕のお父さんが、大変気の毒がって、あやまりに行った。しかし何方にしても、その後震災の時に焼ける運命を持っていた。
 菊太郎君は見栄坊みえぼうだった。自分だけ光りたい。そのくせ肚の中では僕を恐れている。今でもそうだが、子供の頃はそれが至って露骨だった。
「日出男君、君は勉強しちゃいけないよ」
 とその後も度々念を押した。
「うむ。男子の一言、金鉄だ」
「嘘をつけば成績に現れて来るから直ぐ分るぜ」
「君は僕を疑うのか?」
 と勉強しないことを意気込んで主張する僕も僕だった。
「いや、信用している」
「試験の前の晩、姉さんに叱られて、少しやったばかりだ」
「今度の成績も手加減して話して置く」
「宜しく頼む」
「矢っ張り君の方が好いんだから、変だと思ったよ」
「何が変だ?」
「やっているんだもの」
「姉さんに叱られゝば仕方がない」
「それだからさ。悪いとは言わない。しかし本当に試験の前の晩だけだろうね?」
「普段やるものか?」
「よし。僕はし君が普段本を読んでいるところを見つけたら、シンバリ棒でどやしつけてやる」
 と菊太郎君は真剣な顔をした。僕の成績が怖いんだ。しかし蔭へ廻って勉強をしようなんて気はない。正直だ。僕のお復習を封じて、安心して怠けている。
 その中に僕は不便を感じて来た。菊太郎君が丈の高さを誇っても、此方は誇り返すものがない。成績では勝っているけれど、それを言えば、豊子さんが貰えなくなる。随って始終下から出なければならなかった。頼朝義経とはよく考えた。義経はウッカリしていると勘当されるおそれがある。
「お父さん、僕は丈の高さじゃ菊太郎君に敵いません。先方はドン/\大きくなります」
 と僕は或日父親に訴えた。
「人間は鰻と違う。大きいのが高いって次第わけのものじゃない」
「しかし大きい方が立派です」
「何あに、独活うどの大木ってことがある」
「はゝあ。身体ばかり大きくて成績が好くないんですね」
「そうさ。大男総身に智恵が廻り兼ね」
「あゝ、それは知っていました。同じ智恵なら、小男の方がよく廻る勘定です」
山椒さんしょうは小粒でも辛い」
 と父親は一々諺で答えてくれた。父親も元来大きい方でない。こういう諺は皆小さい人が拵えて、小さい人が宣伝するのらしい。
 僕は早速これを応用した。菊太郎君は一々思い当ったと見えて、もう自慢をしなくなった。
「君は山椒かも知れないよ。僕は独活かも知れない」
 と言った。案外正直なところがあるから可愛い。もう一つ僕が菊太郎君に感心しているのは何処までも僕の味方になってくれることだった。小学生は時折喧嘩をする。先生に見つかると叱られるけれど、腕力を出す必要が往々ある。僕は或日同級生を泣かしてしまった。相応理窟があったから宜い積りでいたら、翌日帰りがけに、その子の兄貴の六年生が門のところで待っていて、
「金子君、一寸そこまで来てくれ」
 と言った。此方は四年生だ。小学時代は二年違うと、体格がグッと違うから、とても勝味がない。
「何か用があるんですか?」
「当り前だ。話がある」
「話ならこゝでして下さい。僕はもう家へ帰るんですから、道草を食うと叱られます」
「文句を言わずに、ついて来い」
「厭です」
 と首を振って、僕は周囲を見廻した。菊太郎君が一緒の筈だったと思って探したのだった。しかし皆一斉に門から流れ出したところだから、容易に見つからない。手近にいた二三名の同級生が立ち止った丈けだった。
 六年生は僕の手を引っ張って歩き出した。人通りのすくない方へ志す。
「来い」
「厭だ」
「言うことを聴かないと痛いぞ」
「痛い! 何をするんです?」
 と※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいても、僕は手をねじられているから、そのまゝついて行く外仕方がなかった。
「貴様はよくもおれの弟をいじめたな」
「苛めたんじゃありません。山本君が先に手を出したんです」
「嘘をつけ」
「本当です」
「この野郎!」
「何うするんですか?」
「斯うするのさ」
 と六年生は手を放すと同時に僕の頭を撲った。
「乱暴ですね」
「当り前だ」
「よし」
 と僕は決心した。逃げ切れないと思ったから、窮鼠の勢いを出して向って行った。六年生は案外なような顔をしたが、軽くあしらって置いて、突然いきなり組みついて来た。相撲となると、僕も多少自信がある。投げて置いて逃げ出すことを考えた。揉み合いが始まった。矢っ張り先方の方が強い。投げ出すどころか、捩じ倒されて、二つ撲られた。しかし直ぐ起き直って、又取っ組んだ。又捩じ倒されそうになったが、わずかに持ちこたえた。次に隙を見つけて、グイッと押してやった。相手は尻餅をついて、僕が上になった。
「金子君、やれ!」
 と菊太郎君がいつの間にか駈けつけて、手伝ったのだった。もう一人同級生が僕の強敵を押えていた。僕は頭を三つ撲り返して、
「これでお互だ」
 と断った。六年生が起き上った時、僕は又かゝって来るかと思って、警戒していた。しかしもう諦めたのらしかった。此方は三人だ。而も皆身構えをしていた。六年生は帽子を拾って、そのまゝ帰りそうにした。
「待ち給え」
 と同級生が呼んだ。それは鮫島君といって、副級長だった。
「何だい?」
「先生のところへ来てくれ給え」
「…………」
「学校の帰りを待っていて喧嘩をしかけるようなら、君は不良だ。来給え」
「行くよ」
 と言って、六年生は神妙につれ立ったと思ったら、いきなり僕を突き飛ばした。
「何をする?」
 と鮫島君が捉えようとしたけれど、もう晩かった。一目散に逃げて行ってしまった。
 子供の時はこんなことが大事件だ。仕返しをされるかと思って心配したが、もう待ち伏せを食うようなことはなかった。彼奴は強いという評判が立つと、上級生も手を出さない。これは全く菊太郎君のお蔭だった。鮫島君も無論あずかって力ある。菊太郎君は鮫島君から様子を聞いて、加勢に駈けつけてくれたのだった。ちなみに、この鮫島君は弁護士を開業している。お父さんも弁護士だった。近くに住んでいるから時折顔を合せる。
「何か事件があったら持って来給え。只でやってやる」
「有難いが、君のところへ頼むようなことはない方が宜いんだよ」
「それは然うだけれど、君達のことだから、今に何か仕出来しでかすだろうと思ってさ」
 と昔馴染なじみだから、此方の性格をよく知っている。余談にわたるが、六年生の山本君にはその後妙なところでお目にかかった。僕では差合いがあるから、菊太郎君にして置く。小説だから人物は誰でも構わない。菊太郎君は先年一寸当って儲けた。景気が好いとじっとしていられない男だ。日光へお礼詣りに行くと称して、芸者を三人つれて箱根へおっ走った。その折、宿屋の帳場に坐っていた若旦那が僕の喧嘩相手の山本君だった。お互に名乗り合った。山本君は商大を卒業して、その宿屋へ婿養子に入ったのだ。菊太郎君は成金振りを見せるために、茶代をウンと弾んだ。しかし敵もさるものだ。お土産を山ほど積んで、
「どうぞ奥さんへ宜しく」
 とかした。残念なことに皆箱根名物と銘が打ってある。菊太郎君は日光へ行ったのだから、一品も家へ持って帰ることが出来なかった。
 小学時代の思い出は面白いけれど、考えて見ると、僕は方針を誤ったような気がする。学問は素より好きな道でない。そこへ持って来て、勉強すれば喧嘩だと言うのだから、菊太郎君を無二の良友と思い込んでしまった。無論菊太郎君だって悪いことはない。しかし此方と全く型が同一で、意気投合し過ぎた。同じ色彩が濃くなるばかりだった。矢張り友達は多少毛色のかわったのも変化のために必要だ。そうでないと、長短相補ってお互に啓発し合う切っかけがない。若し鮫島君あたりと附き合っていたら、僕だってこれで相応の学者になっていたろうと思う。学問なんてものに重きを置くのでないが、多少あっても邪魔にはならない。妻の長兄は法学博士だ。その次が大学の助教授で、これも早晩博士になる。妻は自分の身内と僕を違った人種のように考えている。此方だって○○大学を出ているんだけれど、それは一向認めてくれない。甚だ癪だ。兜町の人間は金さえもうければ宜いんだと言って聞かせたら、
「あなたはいつお儲けになりましたの? 御自分が御損をなさるばかりでなく、兄にまで損をさせたじゃありませんか?」
 と妻は食ってかゝった。法学博士は堅人かたじんだが、経済科の助教授は山気がある。僕が銀行に預けて置くよりも早いと言ってすすめたら、新東を買って、本当に早いところをやってしまった。
「兄さんでも分っている」
「何でございますか?」
「金儲けのむずかしいことがさ。株で損をするところを見ると、兄さんの経済学は死学問だろう」
「あなたは御損をさせた上に悪口を仰有るんですか?」
「いや、兜町の荒浪を乗り切るのが本当の学問だ」
「そんなことがあるものですか?」
「ある。有らゆる社会科学の原則と実際が分っていれば、株で損をする筈はないんだ」
「それじゃあなたも学問がないんですわね」
「うむ。生きた学問が足りないんだ」
「株と学問は違いましょう」
「違わない。兜町こそ生きた学問だ。僕は時々損をするけれど、この信念は動かない。有らゆる社会科学の原則と実際が渦を巻いているところ、それが我が株式取引所だ」
「私が知らないと思って、お誤魔化しになっても駄目ですよ」
「何?」
「そんな怖いお顔をなさらなくても宜いでしょう」
「それで厭なら離縁だぞ」
 と僕は信念のためには妻も恐れない。兜町を軽んじられて黙っていては商売冥利に尽きる。妻も僕の真剣味に驚いたようだった。僕が苟くも離縁なんてことを口にするのはヨク/\だ。学位でもあると、それまでにしなくても意見が通るのだけれど、今更仕方がない。その意味で残念に思う。僕だって生来の学問嫌いか何うか分らない。学者になる素質があったかも知れないが、菊太郎君のお蔭で学問の方は一生食わず嫌いになってしまったのである。
 さて、菊太郎君と二人で仲よく怠けつづけて六年生になった頃、僕は急に慌て出した。矢張りその学問の問題だ。
「日出男さん、私、あなたが少し嫌いになったわ」
 と豊子さんが言った。
「何故?」
「私、自分が優等生だから、成績の悪い人は尊敬する気になりません。あなたは随分出来ないんですってね」
「そんなことはありませんよ」
「でも、一年の時から乙ばかりで、甲を一度も取ったことがありませんって」
「誰がそんなことを言うんですか?」
 と僕は菊太郎君を睨んだ。一緒に遊んでいた時だった。
「その見当よ」
「菊太郎君」
「何だい?」
 と応じた菊太郎君は目で拝んでいた。実は五年から六年へかけて、僕は菊太郎君をグッと圧していた。勉強をしなくても、天分が物を言い始めたのらしい。
「ひどいじゃないか? 僕は甲が随分あるのに」
「加減したんだよ、一寸」
「一年の時から乙ばかりだなんて、加減にも程がある。僕はいつでも君よりか好いんだ」
 と僕は我を忘れて詰めよっていた。
「それは嘘だろう? いつでも好いなんてのは」
「本当だよ」
「兄弟だもの、似たり寄ったりさ」
「違う」
「君」
 と菊太郎君は僕の手を取った。
「何だい?」
「男子の一言」
「しかし君こそ嘘をついている」
「それじゃ君はもう義経じゃないのか?」
「さあ」
「何うだ?」
「宜いわよ、もう。喧嘩になるなら」
 と豊子さんが仲裁してくれた。
 しかし僕は悪い印象を与えているように思ったから、後日、菊太郎君に内証で、豊子さんに五年の時の通信簿を見せた。信用を挽回ばんかいする積りだったけれど、豊子さんはナカ/\もって理想が高い。
「甲がたった五つね」
「今度は七つか八つあるんですけれど」
 と僕は主張するように言った。
「全甲でなければ、通信簿なんか人に見せるものじゃありませんわ」
「はあ」
「全甲にも種類があるんですって」
「はゝあ」
「全甲中の全甲は私と男子組の森本って子ですって。私と何方でしょうかって、先生同志で議論をなすったんですって」
「無論あなたの方でしょう」
「私、負けない積りですけれど、然ういう成績の好い人が好きよ」
「僕だって勉強すれば全甲になれます」
「なれるもんですか?」
 と豊子さんは全然僕を見括みくびっている。
「お復習さらいをすれば宜いんです」
「折角何うぞ」
「なって見せます」
「今度の学芸会に私とその森本さんが四年生を代表してお話をするのよ。毎日残って、先生に教えていたゞいていますわ」
「豪いですね、女のくせに」
「女のくせにって、なあに?」
「失敬しました」
「日出男さん、あなたは私を女だと思って馬鹿にしていらっしゃるのね」
「そんなことはないです」
「お辞儀もロク/\なさいませんわ」
「それは仲が好いからです」
「私、男の生徒に仲好しなんかありませんよ。兄さんの友達ですから、口をきいて上げるだけよ」
「はあ」
「森本さんなんか優等生ですから、お行儀が好いわ。あなたなんかと違ってよ。私に会うと丁寧にお辞儀をなさいますわ」
「行儀が好くても強かないでしょう?」
「そんなこと存じませんわ」
「屹度青い顔をしている子だ」
「然うね。少し青いわ。勉強家だからでしょう」
「あの青瓢箪なら、僕、知っている」
 と僕は口惜しくなった。知らないのだけれど、青いだろうと思ったら、偶然当ったのだった。
「負けおしみは駄目よ」
「未だ負けやしませんよ」
「あら、あなたは喧嘩をなさる積り?」
「生意気を言えば堪忍しません」
「あなたに何も言いはしませんわ。あなたの知らない子ですもの」
「何処の子ですか」
「私も知りませんわ。男生ですもの」
「知りもしないのにお辞儀をするなんて、不良でしょう、屹度」
「優等生同志だから分っているのよ」
 と豊子さんは何処までも成績を振廻す。
 学校へ行って四年の生徒に訊いて見たら、森本君は岡崎町の薬種屋の息子だった。考えて見ると、僕こそ不良だ。運動場でわざと突き当って置いて、
「気をつけろ」
 と言ってやった。善良な森本君は好い迷惑だったに相違ない。此方は面白半分だ。六年生だから無理が通る。一週間ばかりいじめつゞけたら、先生に捉まってしまった。
「君は何年ですか?」
 と森本君の方の先生だった。
「六年の東組です」
「小さいものを苛めちゃいけません」
「苛めたんじゃありません。つい突き当ったんです」
「ついじゃありません。私は見ていました。つい突き当ったにしても、君の方で憤るのは間違っています」
「はあ」
「今日ばかりじゃないようです。一寸君の方の先生のところまで来て下さい」
「先生、もう致しません。気をつけます」
 と僕は身に覚えがあるから弱かった。
「先生」
 とそこへ森本君が寄って来た。
「君はこの人を知っているんですか?」
「知りません」
「いつでも突き当るんですか?」
「いゝえ、違います。僕がウッカリしていて先に足を踏んだものだから、お憤りになったんです」
「ふうむ」
「金子さん、堪忍して下さい」
「いや、僕が悪かったです」
 と僕はあやまった。先生も堪忍してくれた。苛めたのに弁解してくれるなんて、感心な奴だと思った。もう手出しをする次第わけには行かないのみならず、森本君は顔を合せると、お辞儀をするようになった。しかしそんなことで丸められては堪まらないから、
「おい。男は男らしくしろ。市岡の豊子さんと口をきくと、これだぞ」
 とこぶしに息を吹きかけて見せた。
 下町の連中は商売が定まっているから、余り動かない。土着のものが多い。小学校の同窓会には昔のまゝの顔触れが揃う。懐しいものだ。僕は三四年前に学校の会でこの森本君と隣り同志に坐り合せた。種々と話している中に、
「金子さん、あなたは子供の時お人が悪かったですね。僕は随分苛められました」
 と森本君は思いついたように言い出した。
「そんなことはないでしょう。君の方が上級生だもの」
「いや、僕は二級下です。あなたのお隣りの市岡さんの妹さんと同級でした。組は無論違いましたけれど」
「そうだったかね」
 と思い違いをよそおったが、そんな頭の悪い僕ではない。
「豊子さんといゝましたね、あの人は」
「さあ」
「豊子さんと口をきくと、これだって次第わけでした」
 と森本君は拳を固めて見せた。二十年も前の敵討ちの積りだ。たちが悪い。
「そんな詰まらないことをいつまでも覚えていると、本当にこれだよ」
「ハッハヽヽ」
「ハッハヽヽ」
 と僕は笑って誤魔化した。森本君は矢張り薬種屋をやっている。近いから時々往来で行き会うけれど、打ち寛いで話すのは初めてだった。商売の方も成績が好いらしい。僕は然う大した暴れものでもなかった積りだが、同窓会へ行くと、屡※(二の字点、1-2-22)こういう意味の昔馴染に油を取られる。
 成績のことで豊子さんにあなどられたのは僕の生涯の中の一転機だった。僕は今更ながら発憤した。こんなことでは駄目だと思った。しかし勉強をしない約束がしてあるから、全甲を取る努力をする前に、一応菊太郎君の理解を得なければならなかった。親友の間柄だから、これがナカ/\むずかしい。ウッカリ持ちかけると、豊子さんをくれないと言い出すにきまっている。
「菊太郎君、僕達は来年中学校へ入るんだから、もう子供じゃないだろう」
 と僕は遠廻しに当って見た。
「中学生だって子供だよ」
「しかし小学生とは違う。勉強しなければいけない」
「それは違うけれど、来年の話じゃないか? 来年のことを言うと鬼が笑うよ」
「僕は中学生になったら、魂を入れ替える。こんなことじゃ仕方がない」
「君は変なことを言うんだね」
「どうして?」
「僕が成績のことを加減して話したものだから不平だな」
「うむ。実はそれだよ」
「僕と同じならいゝじゃないか? 同じだという約束だった」
「しかし君の方がいゝように吹聴している」
「少しは仕方がないさ。頼朝と義経だ」
「頼朝と義経だからさ。英雄だよ。何方どっちも一遍ぐらい全甲になって置かなければ、幅が利かない」
「それじゃこれから一緒に勉強しようと言うのかい?」
「然うさ」
「ふうむ」
「何を感心しているんだい?」
「君は僕のことまで考えてくれるのかい? 実は僕はね、君がもう内証で勉強しているのかと思ったんだ」
「約束がある。男子の一言だ。出し抜くものか?」
「僕は嘘をついたんだから、出し抜かれても仕方がない。それだのに君は約束を守ってくれる」
「君とは違う」
「考えて見ると、僕は悪者だ。日出男君。堪忍してくれ給え」
 と菊太郎君は僕の手を握って、涙を流した。僕も悲しくなって、これでは矢っ張り勉強なんか出来ないと思った。
「もう宜いよ。泣くな」
「うん」
「お互に本気になろう」
「それは厭だ」
「え? 一緒に全甲になろう」
「もう直ぐ卒業だよ」
「卒業までにさ。一遍でも好い。男が立つ」
「しかし言うはやすしだ。行うはかたしだ。修身で習っている」
「勉強かい?」
「いや、全甲さ。勉強したって取れないよ」
「そんなことはない」
「駄目だよ。今までが今までだ。先生はこの子はこれぐらいって相場を定めているんだから、今更勉強したって、点はくれない。見切りが大切だと店員が言っている」
「それは株の話だ」
「出直すに限る」
「どうするんだい?」
「中学校へ入ってから本気になる。君もその方が徳だよ」
「成程」
 と僕は菊太郎君の涙に感激して、決心がにぶっていた。事実、いきなり全甲はむずかしい。ローマは一日では築き上げられない。中学校から新規蒔き直し、小学時代はそのまゝということに妥協してしまった。凡人は浅ましい。折角の転機が来ても、それを然るべく善用することが出来ない。

全甲の通信簿


 他の所為せいにするのではないが、小学時代の成績が振わなかったのは全く菊太郎君のお蔭だ。僕は決して頭の悪い方ではないが、些っとも努力をしなかったのである。あったら可能性も発揮しなければ、持って生れて来ないと同じことだ。これではいけない。と、当時子供心にも気がついたところを買って貰いたい。そこで僕は中学校は菊太郎君と別のところにしようと決心した。一緒に勉強しようというのが当り前だのに、お互に申合せて怠けようという友達では為めにならない。中学校へ入れば出直すと言っているけれど、僕の方が上になれば屹度また文句をつけるに定っている。小学校を卒業して一段落つくのは丁度好い幸いだ。実力は僕の方が上だから、菊太郎君がついて来られない学校へ入ってやる。それには府立に限る。然う考えているところへ、先生が志望学校を訊いてくれたから、僕は府立へ行きたいと答えた。
「はてな」
 と先生は首を傾げた。
「駄目でしょうか?」
「今までの成績じゃ府立は少しむずかしいかも知れませんよ」
「実力でやります」
「学校の成績が実力です」
「違います。先方へ行って試験を受けるんでしょう?」
「その試験がむずかしい」
「試験なら実力です。僕は今まで成績の方は市岡君と約束があったからうそん気でした。しかし実力の方は一番勝負ですから本気です」
「何だか分らないことを言い出しましたね」
「実力で府立を受けます。宜いでしょう? 先生」
「結構です。受けて御覧なさい。しかしもう二つ三つ余所を志望して置く方が宜いですよ」
「何故ですか?」
「府立へ入れなかった場合、一年後れます」
「用心ですね。大丈夫です」
 と僕は主張したけれど、先生がすすめてくれたので、別に私立の宜いのを二つ選んで願書を出して置いた。菊太郎君は私立を四つ志望した。実力のない奴は自信がない。四つやって置けば何処かへ引っかゝるというのらしい。
 入学試験はむずかしい学校から先に始まる。僕は府立を受けて、直ぐにねられてしまった。歯が立たない。尤も僕ばかりじゃなかった。大勢受けたけれど、副級長の鮫島君が入っただけで、他は全滅だった。次に僕は私立を受けた。これもいけなかった。成程、学校の成績は少し実力だと思い始めた。もう一つしかない。これがはずれると、一年後れる。先生の言ったことがだん/\本当になって来るような気がして、心細くなった。もう二つ三つ用心して置くとよかったのだが、今更仕方がない。最後の一発になってしまった。菊太郎君は偶然その学校が第一志望だった。二人一緒に受けに行った。もう贅沢は言っていられない。菊太郎君と又同級になっても仕方がないと思っていたら、二人とも合格した。
「有難い」
 と僕は一息ついた。
「入学試験なんて、お茶漬だよ」
「いや。ナカ/\そうじゃないんだけれど、まあ/\、宜かった」
「又一緒だね」
「うん」
「喧嘩の時、加勢してやる、今度は僕も少し出直す」
「いつかの約束通り勉強しようよ」
「少しやる」
「大いにやらなければ駄目だよ。初めが大切だぜ」
「然う思っていたけれど、今度で実力が分った。成績は兎に角、実力は僕の方が君よりも上だ」
「何故?」
「僕は一遍で入ってしまった。君は三度目の正直で、漸くだったもの」
「受けた数から言えばそうだけれど」
「もう少しで三振だ。危かった」
「うむ」
「僕は一遍で本塁打をかっ飛ばしたんだからね」
 と菊太郎君は威張った。妙なところで功名をされてしまった。数量が分るだけで、質を考えない。今でもこの調子だ。僕が千円儲けた時、自分も千円儲ければ、同じことだと思っている。さやの違いのあるのは気がつかない。精々二三円のところをすくって得意がっているから、仕事が小さい。僕は十円以下は問題にしない。相場師は要するに鞘師さやしだ。
 それは兎に角、中学校へ入って、豊子さんが大いに敬意を表してくれた。
「豪いわね。もう中学生ですもの」
 と言って、僕の制服の金ボタンをいじりながら溜息をついた。
「ヘン」
「三度目でも威張れるわ」
「知っているんですか?」
「兄さんから聞いたのよ」
「しかし府立はむずかしいんですよ」
「分っていますわ」
「今度はもう頼朝義経じゃないんですから、本気になって勉強して、優等になって御覧に入れます」
「何うぞ」
「宜いですか?」
「えゝ」
「本当に大丈夫ですか?」
「何が?」
「ハッハヽヽ」
「私、分らないわ」
「兄さんを負かしても」
「宜いわよ」
「それからもう一つの方です」
 と僕は念を押して置く必要を認めた。勉強をして損をしては詰まらない。
「何あに?」
「お嫁に来て下さいますか?」
「馬鹿ね、あなたは」
「何故ですか?」
「そんなこと言う人、不良よ」
「でも約束だったじゃありませんか?」
「あれは子供の時よ」
「今でも子供でしょう?」
「子供はそんなお話するものじゃないのよ。私、この間、お母さんに叱られたわ」
「何て?」
「そんなことは女学校を卒業してからですって」
「無論僕もその積りです」
「それなら、それで宜いのよ」
「来てくれる?」
「分らない人ね。犬だって芸をすることを知っているでしょう?」
「犬?」
「えゝ。悧巧な犬はお預けってことを知っているわ」
「詰まらないなあ」
「それまでお預けよ、そんなお話。それよりももっと大切のことがありますわ」
「何ですか?」
「全甲の通信簿くわえて来るのよ」
「おや/\」
「駄目?」
「犬だな、これじゃ、まるで」
「見込が立ちません?」
「銜えて来ます」
「私、兄さんは怠けものだから諦めていますの。けれども、あなたは本気になれば、屹度銜えて来るわ」
 と豊子さんは大いに奨励してくれた。
 しかし折角芽を吹こうとしていた僕の学才は再び菊太郎君に妨げられた。菊太郎君は勉強が嫌いだ。自分が怠ける丈けなら宜いけれど、遊び相手が欲しいものだから、僕を誘惑する。僕は全甲の通信簿を銜えて来る決心だったから、学校が始まると直ぐに、勉強の時間表を作った。昼間は復習、夜は予習、遊ぶ時間は晩御飯後の三十分だった。何でも悉皆すっかりで六時間ぐらい勉強しなければならない。これぐらいやれば大丈夫だと思っていた。しかし実行はしなかった。菊太郎君がケチをつけたのである。毎日、自習時間中に遊びに来る。尤も夕食後の三十分以外は悉皆自習時間だから、不便にも不便だった。もう菊太郎君が来るだろうと思っているものだから、勉強が手につかない。
「日出ちゃん、僕は分ったよ」
 と或日菊太郎君は時間表を睨みながら言った。
「何が?」
「これはお呪禁まじないだろう?」
「いや、勉強の時間表だよ」
「それだからさ。僕を遊びに来させないお呪禁だ、失敬」
「帰るのかい?」
「うむ」
「まあ宜いじゃないか?」
「いや、こんなものが貼ってあると、小便無用のようで落ちつかない」
「それじゃ剥がしても宜い」
 と僕も実は時間表に睨まれているようで、面白くなかった。
「君が本当に勉強する必要があるなら、僕は決して邪魔をしないよ」
「分っているよ。もうがしたから宜いだろう?」
「うむ。それじゃ遊んで行く」
「僕は時間表をこしらえただけで、未だ些っともやっていないんだよ」
「それで宜いんだ。僕だって考えている」
「何を?」
「勉強して出来るのは当り前だ。優等生なんてものは皆然うだ。薬を飲んで丈夫になるのも同じことだからね」
「しかし丈夫の方が宜いぜ」
「無論そうだけれど、たゞで丈夫なのが、本当の丈夫ってものだろう?」
 と菊太郎君は又怠ける算段だった。
「君は勉強しないのかい?」
「うむ。丈夫なものはきゅうを据えない」
「しかし小学校とは違うぜ。勉強しなければ落第だって、先生が言っていた」
「何あに。あれは脅かしだよ」
「君は出直す約束だったじゃないか?」
「無論出直す」
「何う出直すんだい?」
「考えたんだよ。兵隊だ」
「兵隊?」
「うむ。兵隊は薬を飲まない。それでも丈夫だ。やる時にはウンとやる」
「勉強をかい?」
「いや、薬を飲まないけれど、やる時にはウンとやる。兵隊の精神で行かなければ駄目だよ」
「勉強が嫌いなものだから、何とか理窟をつけ始めたぜ」
 と僕は相手にならなかったが、この兵隊のたとえを忘れなかった。自習をしようと思っても、兵隊は薬を飲まないと思い出す。それでもやる時はウンとやるんだ。何うも兵隊の精神が本当らしい。兵隊は養生をしない。唯で丈夫だ。勉強しなくても、試験の時ウンとやって及第さえすれば差支ない。
 そこで僕達は再び天真爛漫の作意なしに戻った。学校で習うだけで、後は全く自然にまかせた。それでも一学期の成績が案外好かった。無論、全甲は取れなかったが、二人とも十何番かだった。
「どうだい? お茶漬だろう?」
 と菊太郎君が威張った。
「うむ」
「勉強したって同じことだよ」
「しなくても同じことだ」
「これで宜いんだ」
「矢っ張り学校なんてものはお茶漬だな」
 と僕は加減が分った。しかしこれが好くなかった。二年三年と学級が上るにつれて、席次がさがるばかりだった。三年から四年へ上る時はビリから勘定する方が早くなった。
「君、これはいけない。少し薬を飲もう」
「僕は何処までも兵隊だ」
 と菊太郎君は主義がかたかった。尤も怠ける方の主義だから守り易い。僕が菊太郎君に感心しているのは向上心が些っともないことだ。僕は酒を飲む。菊太郎君も飲む。僕は時折禁酒を思い立つけれど、菊太郎君にはそれが絶対にない。
「君は何うかしているんだな。神経衰弱じゃないかい? 考えなくても宜い事を考えて煩悶する」
 と言って、不思議がっている。向上心のない人間は結局徳らしい。足掻あがいたところで、然う違うものじゃない。四年修了の折、○○大学の予科を受けて、二人ともねられた。この時は僕は一寸発心したけれど、菊太郎君に引き摺られてしまった。
「兵隊で押し通そうよ」
「しかし成績がダン/\悪くなるばかりだぜ」
「何あに、落第さえしなければ宜いんだ」
「現に入学試験で落第している」
「あれは勘定に入らない。場慣らしのために受けたんだもの」
「来年の用心に少し薬を飲んで置く必要があるよ」
「今からじゃ早過ぎる。その間際にやってこそ試験勉強だ。僕だって兵隊だから、やる時が来れば、ウンとやるよ」
「それじゃ今から約束して置くぜ」
 と僕は念を押すだけに止めた。必ずしも相手の説に服するのではないが、菊太郎君はいつも楽な手段を取る方針だから、そこに誘惑がある。
 五年の成績が案外に好かった。これがまた油断の種になった。僕達は一躍して中軸を突破した。
「矢っ張り兵隊で宜いんだな」
 と思ったが、それは思わざるも甚だしいものだった。自分達の力で上ったのではない。出来る奴は大抵上の学校へ入ってしまって、似たり寄ったりの連中ばかり残っていたのである。然うとは気がつかないで、相変らず天真爛漫の作意なしを続けたものだから、卒業後○○大学の試験を受けても又弾ねられた。二人とも一年遊ばなければならなかった。僕は中学校へ入る時も二度失敗しくじっている。受験苦というものをつぶさに嘗めた。それが皆自分の実力の致すところでなくて、ひとえに菊太郎君のお蔭だと思うと、今更恨めしくなる。友達には向上心のあるものを持たないと損だ。
 僕は三度目の正直で漸く○○大学へ入った。菊太郎君も同様だった。矢張り兵隊主義で薬を飲まなかったから、実は自信がなかった。成績発表の朝、
「おい。どうする?」
「さあ」
 と二人は二の足を踏んだ。にがい経験を二度している。考えるだけでも胸がドキ/\する。掲示を見上げて自分の名が出ていないと、心臓が止まるような心持になる。
「入っていれば宜いんだけれど」
「帰りが辛い」
 と評定をしているところへ、豊子さんが現れて、
「兄さん、私、見て来て上げましょうか?」
 と申出た。豊子さんはもう女学校の五年だった。相変らず成績が好い。
「頼もうか?」
「お安い御用よ」
「豊子さんが見に行って下されば、屹度入っています」
「何故?」
「成績が好いんですから、あやかります」
 と僕はお世辞を使った。中学校以来ズッと御機嫌を取りつゞけている。
 豊子さんは直ぐに見に行ってくれた。僕は菊太郎君の家へ上り込んで待っていた。家へは菊太郎君を誘って出掛けることにして来たのだった。
「心配ね。でも自分で見に行けないなんて、二人とも意気地いくじがありませんのね」
 と菊太郎君のお母さんがからかった。肩身の狭いことおびただしい。宜かったら、電話がかゝって来る筈だった。しかし二時間たっても音沙汰がなかったから、テッキリ又落第と思い込んだところへ、豊子さんがニコ/\して帰って来て、
「よかったのよ、お二人とも」
 と吉報を伝えてくれた。
「何故電話をかけないんだ? 馬鹿だな」
 と菊太郎君は安心すると同時に、待っていた間の心配が身にみていた。
「公衆電話、一杯よ。列を作っているんですもの」
「ふうむ」
「皆姉さんか妹さんよ。男って意気地のないものね」
 と豊子さんは僕達を馬鹿にした。
「有難うございました。失敬します」
 と僕は家へ駈けて行って報告した。
 斯うなると勇気が出る。矢っ張り実力があったのだと思った。自信というものは後からつくから便利が悪い。商売にしても然うだ。初めから自信があれば必ず儲かるのだけれど、儲かってしまってから出るのだから、応用が利かない。僕達は早速大手を振って、○○大学へ出頭した。成程、合格していた。翌日も見に行ったように覚えている。確かその帰りだったろう。僕はこれを切っかけに少し本気になる積りだったから、菊太郎君の反省を促すために話しかけた。
「君、僕はもう懲りたよ」
「何に?」
「入学試験で好い苦労をしたから、この辺が魂の入れ替え時だろうと思っている」
「しかし入学試験はもうないんだよ。予科から本科へはただで行けるんだから」
 と菊太郎君はこの通り僕と違う。僕には発奮の機会になることも、菊太郎君には一段調子を下す動機になる。
「もっと成績を好くする必要があると言うのさ」
「それは好いに越したことはないけれど、これぐらいなら当り前だろう」
「さあ。余り威張れないよ」
「何も威張るのが人生の目的じゃあるまい」
「それは然うだけれども」
「君は時々何か感じるんだね」
「うむ、今度は大いに感じたんだよ。大の男が自分で自分の成績を見に行けないなんて、醜態しゅうたいじゃないか? 豊子さんにもきまりが悪かった」
「実は僕も少し考えた。これじゃ彼奴、兄貴の言うことを聴かない筈だと思ったよ」
「それなら丁度好い。斯ういう時だよ。中学から大学へ替わるのを切っかけに勉強を始めようじゃないか?」
「しかし予科は中学も同じことだぜ」
「それじゃ又怠けるのかい?」
「兵隊は怠けない。今までと同じことさ」
「また兵隊か?」
「うむ」
「それじゃ考えても何にもならないね」
「本科になってからウンとやる。これでもやる時が来れば、ウンとやるんだから、長い目で見ていてくれ給え」
「それじゃ僕は間に合わない」
「何が?」
「何がって、君は忘れているのかい?」
「さあ」
「豊子さんがお嫁に行ってしまうよ」
 と僕は思い切って胸中を発表した。
「君は今でも矢っ張り豊子を貰ってくれる気かい?」
「うむ」
「子供の時の冗談じゃなかったのかい?」
「本気だよ、僕は」
「ふうむ」
「感心していちゃ困る」
「いや、君がその積りでいてくれるなら、僕も心掛ける。しかし彼奴は我儘だぜ」
「我儘が気に入っているんだ」
「頭は好い。君だって悪い方じゃないけれど」
「有難う」
「器量はあれで好いのかい? どうだい? 僕は見慣れているものだから分らない」
「気に入っているんだ」
「自分じゃ美人の積りでいるけれど」
「美人だよ」
気象きしょうっ張りだから、君は余っ程しっかりしなければ駄目だろう」
「何うせひどい目に会わされる」
「今から覚悟をしているのかい?」
「うむ。仕方がないさ。気に入った人を貰うんだから税金だと思っている。ヘッヘヽヽ」
「気をつけろ!」
 と突然いきなり極めつけた奴があった。同時に僕はヨロ/\した。通行人に突き当ったのだった。
「失敬しました」
 と僕は一も二もなくあやまった。
「ダラシがないんだね」
「ハッハヽヽ」
「そんなことじゃ豊子に鼻綱はなづなを取られるぜ」
「取って貰うさ」
「仕方がないんだね」
「ハッハヽヽ」
「おい。また人に突き当るよ」
「大丈夫だ」
「子供の時のまゝごとが実現するんだね」
「うむ」
「僕だって知らないところへはりたくないんだから、君が貰ってくれゝば丁度好い」
「改めて頼んで置くよ」
「宜いとも」
「君も知っている通り、僕の家じゃ僕さえ気に入れば構わないんだから、その点は安心してくれ給え」
「僕だって惣領だよ。僕の言うことは大抵通るんだから、大舟に乗った気でい給え」
 と菊太郎君は引受けてくれた。
「しかし豊子さんの心持はどうだろう?」
「さあ」
「僕が気に入っていなければ、幾ら君が力瘤を入れても、それまでの話だ。僕が信用があるんだろうか?」
「ないね」
「おや/\」
「兄貴さえ尊敬していないんだから」
「僕はなんでも君と同じだから心細いんだ」
「成程。それで成績を好くしたいって言うんだね?」
「うむ。人格は自信があるけれど、学校の成績をほじくられると困るんだ。実は中学校へ入った時、言われたことがある」
「何て?」
「全甲の通信簿をくわえて来いって」
「ふうむ」
「それだから、こゝで一つ奮発しないと、資格がつかない。一遍でも宜いから、十番から上になって置きたいんだ」
「しかし成績の悪いことは徹底的に分っているんだからね」
「君はまた変な宣伝をしているんじゃないか?」
「宣伝ってこともないけれど、自衛上多少は仕方がない。僕の方がいつでも上のように言って置かないとお母さんが心配する」
「厭だなあ」
「失敬した。弁解して置く。好いことには、君は僕よりも怠けものだと言ってある」
「好いことでもないよ」
「いや。怠けていて些っとも勉強しなくとも、落第しないんだから、頭の好いことが分っている。成績よりも実力だ。僕は宣伝を仕直す。勉強はよせ」
「何故?」
「なまじっか勉強の旗揚げをして好い成績が取れないと藪蛇になる。君も僕も本気にならないところが値打だ。侍なら刀を抜かない。抜かないから、正宗か鈍刀なまくらか分らない」
「しかし十番ぐらいにはなれる積りだ」
「一番になれないとも限らない。然ういう含蓄を見せて置けば宜いんだ。僕が巧く弁解するよ。大舟に乗った気でい給え」
「万事宜しく頼む」
 と、僕は斯うなると、菊太郎君に反対することが出来ない。
 それで予科は矢張り兵隊で通した。成績は初めの中素晴らしく好かった。二人とも十何番かで、中学校以来の当りだった。いつでも初めが好いものだから油断をする。それから試験毎にジリ/\と下って、中軸でガッチリ止まった。つまり二人は勉強しなくても丁度人並ということになる。勉強したられぐらい上まで行くか知れない。菊太郎君の主張する通り、こゝが値打だ。豊子さんもその辺を理解してくれたのか、僕に可なり好意を示していた。これなら有望だと思って、家から申込んで貰おうと決心しかけたことが幾度もあったけれど、有望ならロマンスで行こうと考え直した。それに未だ予科だ。急ぐこともない。豊子さんは女学校在学中こそ控え目だったが、卒業してからはガラリと変った。自ら進んで交際に努力する傾向があった。何方どっちかというと、自信家にあり勝ちの浮気者コケットだった。僕一人がお相手の間は申分がなかったが、間もなく異分子が入って来た。達三君という親戚の商大生が時々姿を見せて、僕に不安を与えた。
「君、あれは何ういう親類だい?」
 と僕は菊太郎君に訊いて見た。
「お母さんの里の関係だ。取引所のことを卒業論文に書く積りで見学に来るんだよ」
「何とか言って、豊子さんを見学に来るんじゃないかい?」
「然うかも知れない」
「何処だい? 家は」
四谷よつやだ」
「山の手の烏か?」
「うむ」
「大丈夫だろうね?」
「あんなものはズドンと一発鳴らせば逃げてしまう」
 と菊太郎君は問題にしていなかった。
 僕はそれでも安心出来なかったから、豊子さんに念を押して置く必要を感じた。
「豊子さん、あなた、烏、好き?」
「烏?」
「山の手の烏」
「まあ」
「今日は飛んで来ません?」
「さあ」
「待っていらっしゃるの?」
「厭な人ね、あなたは」
「お邪魔なら帰りますよ」
「帰って頂戴」
「はあ」
 と僕は立ち上った。
「好いものを差し上げますわ、お土産に」
「何ですか?」
「お手をお出し下さい」
「はあ」
「斯うよ。そんなこと仰有ると」
「痛い/\/\」
「烏のお灸よ。オホヽヽヽ」
 と豊子さんは僕の手の甲をつねってくれたのだった。僕はこれを好意の一徴候と解した。達三君はその後もう来なくなった。秀才という触れ込みだったけれど、豊子さんの気に入るには少し寸が伸びていた。キリッとしたところがない。薬で持っている男らしかった。菊太郎君がズドンと一発やってくれたのである。
 次に現れたのは河原という帝大生だった。何のことやあると思ったが、矢張り秀才らしかった。顔容かおかたちも達三君よりも締まっていた。
「今度の烏は何ういう親類だい?」
「あれは親類じゃない。親父の友達の息子だよ」
「何しに来るんだい?」
「矢っ張り取引所のことを卒業論文に書くんだそうだ」
流行はやるんだね」
「最近十年のカーヴを調査して、相場高低の原則を編み出すというんだから鼻息が荒い。少し生意気だよ」
「別のカーヴを調査しているんじゃなかろうか?」
「そんな傾向が見えたら、ズドンと一発やってやる」
「頼むぜ」
 僕は或日この烏に三越で出会った。考えて見ると、僕をつけて来たのかも知れない。
「金子君、好いところでお目にかゝりましたな」
「はあ」
「お話申上げたいことがあるんです」
 と河原君は僕を食堂へ誘い込んだ。こんなのに御馳走して貰うと後が恐ろしいと思ったが、紅茶だけだったから、引き廻しに委せた。
「何か御用ですか?」
「妙なことを伺いますが、君は市岡の豊子さんと何かお約束があるんですか?」
「さあ。ありません」
「それじゃ僕が豊子さんに結婚を申込みます。御異存はありますまいね?」
「さあ」
 と僕は行き詰まった。突如いきなりだから返答に困る。
「お約束がなければ御異存のある筈はありません」
「はあ」
「君は未だ予科でしょう?」
「はあ。今度本科になるんですけれど」
「僕はもう卒業です。論文の方が忙しいですから、これで失敬します」
 と言って、河原君は行ってしまった。紅茶一杯で豊子さんを横領する料簡りょうけんだった。
 僕は直ぐに帰って、菊太郎君を訪れた。豊子さんが居合せたから、
「君、豊子さん」
 と両方を呼びかけた。聊か興奮している。
「何だい?」
「今三越で烏に会った。君はズドンと一発やってくれたのかい?」
「やったよ。しかしかない。何しろカーヴから原則が編み出せると思うくらいの独り好がりだ」
「飛んでもない奴だよ」
「何うしたんだい?」
 と菊太郎君が訊いてくれたのを幸い、僕は一部始終を話した。
「私、あんな人、問題にしていませんわ」
 と豊子さんは矢張り目が高い。
「有難いです」
「帝大々々って、帝大でなければ学校でないようなことを仰有おっしゃるのよ。兄さんだってあなただって○○ですから、私、少し癪に障っていますの」
「然う来なければいけません」
「けれども、日出男さん、丁度好い幸いですから、私、あなたにもお断りして置きますわ」
「へえ?」
「あなたは私を貰えるものと思っていらしっちゃ困りますよ」
「…………」
「私、兄さんに勧められているんですけれど、あなたのような誠意のない人、嫌いですわ」
「僕、誠意は充分持っている積りです」
「それじゃお約束をお忘れになりましたの?」
「何のお約束ですか?」
「全甲の通信簿よ」
「…………」
くわえてお出になって?」
「…………」
「それまでお預けと申上げて、私、待っていましたのよ。毎年々々、本気で」
「…………」
「豊子、それはお前が間違っている」
 と菊太郎君は助太刀に出てくれた。
「何うして? 兄さん」
「おれ達は主義があるんだ。勉強をして出来るのは薬を飲んで丈夫になるのも同じことだから、実力とは言えない」
「それはこの間承わりました。私、日出男さんに訳を訊いているのよ。日出男さん」
「はあ」
「あなたは兄さんがそう仰有るから、御勉強をなさいませんの?」
「はあ」
「それじゃ私よりも兄さんがお好きなんですから、兄さんをお貰いになったら宜いでしょう。私、私の言うことを聞いて下さらない人は嫌いよ」
「…………」
「あなたがあなたなら、私も私よ」
 と豊子さんはおこってしまった。菊太郎君が変な理窟をつけて誤魔化そうとしたのが悪かった。頭が好いんだから、何も彼も分っている。

山の手の烏


 正直の話、僕は己惚うぬぼれに支配されて、現実を見誤ることが往々ある。対女性の問題にそれが多い。自信があるものだから、つい油断をする。何うもよくない癖だと思っている。例えば菊太郎君と二人でカフェーへ入って坐り込む早々、綺麗な女給が僕に意味深長な目くばせを始める。知らん顔をしていれば宜いのに、魚心水心の原則が頭の中で働くから、然るべく応答すると、相手は案外にも僕の後の客だったりする。一寸具合の悪いものだ。菊太郎君が見咎めない限り、一々報告はしないが、然うした場合が度々ある。ついこの間も歌舞伎座へ行って失策しくじった。何処かの若い奥さんが時々振り返って僕の顔を見る。僕に興味を持っているらしい。菊太郎君でなくて妻と一緒だったから、うっかり答礼は出来ない。しかし気になるので、弁解のために、
幽香子ゆかこや、どうしたんだろうね? あの奥さんは僕の顔ばかり見ている」
 とあらかじめ自首して置いた。主人が好男子だと細君は心配が絶えない。
「後ろよ」
「何?」
「あなたの二つ三つ後ろよ」
「後ろが何うした?」
蒲田かまたの男優が二人来ているのよ」
 と妻はついでをもって見返った。
「ふうむ」
「あなたなんかとは何処か違いますわ」
「成程」
「己惚れちゃ駄目よ。あなたをジロ/\見る女なんかないんですから」
「分ったよ」
 と僕は自分の誤解に気がついた。妻がズケ/\言ったのは、丁度好い機会に僕をたしなめてくれたのだった。その必要があればこそだ。自信が強いと、何うしても釣り込まれる。始終気が立っている。自分の外には問題になるものがないと思っているから、つい勘違いをする。事情止むを得ない。
 当時、僕は豊子さんについても、こういう調子で認識を誤っていたのである。先ずもって大丈夫の積りでいたら、突然お断りを食ったから慌てた。学校の成績が悪いから問題にしないと言う。男子としては可なり不見識な話だ。足許から鳥が立ったような心理状態になったが、今更何とも方法がない。予科三年間を安心して組織的に怠け通して来たから、大勢はもうきまっている。少しぐらい勉強したところで焼け石に水だ。
「菊太郎君、何うしてくれる?」
 と僕は凄味すごみでも何でもなく、極く穏かに相談を持ち込んだ。十何年も前のことだけれど、芝公園が頭に浮ぶ。然うだ。学校の帰りを芝公園までブラ/\歩いたのだった。菊太郎君が電車に乗ろうと言っても、僕は応じなかった。怏々おうおうとして、学業が手につかない。二三日、悲観のドン底にいるのだった。頭が好いから、よく覚えている。
「さあ」
「君の責任だよ」
「済まない」
「僕は勉強する決心だったが、君が兵隊で行こうと言い出したものだから、つい怠けて、こんなことになってしまったんだ」
「本当に済まないと思っている」
「思っている丈けで宜いのかい?」
「いや、豊子の料簡が分ったから、本科になってから本気でやろう。斯うなれば、僕もお相伴しょうばんだ。決して君に恥をかゝせない」
 と菊太郎君は方針を示して励ましてくれた。流石に頼もしいと思った。責任を感じている。一緒に勉強して好い成績を取って、豊子さんに納得させてくれというのだった。
「大丈夫かい?」
「何が?」
「僕に恥をかゝせないってことさ」
「その積りだ」
「積りは心細いな。決心と言って貰おう」
「決心だ。僕も本気になるよ。兵隊ってものはイヨ/\となればやるんだ。大舟に乗った気でい給え」
「大舟もよして貰おう。三年前も君は然う言ったよ」
「ふうむ」
「忘れているんだから、当てにならない大舟だ」
 と僕はもとより機嫌が悪い。菊太郎君の入智恵に従った為め、豊子さんに逃げられかけている。自分の発心のまゝで来ていれば、今更こんな煩悶はんもんはしない。
「まあ/\、堪忍してくれ。イヨ/\となれば、僕だってやるんだ」
「兵隊も厭だよ、僕はもう」
「やる時にやる兵隊さ」
「いや、兵隊にもりている。イヨ/\も何もない。初めからやれば宜いんだ」
「僕だって一生に一遍ぐらい本気になるよ。兄貴といえば成績の悪いものだと思っていやがるから癪に障る」
 と菊太郎君、必ずしも無神経でない。豊子さんも律子りつこさんも揃って成績が好い。妹達に負けるのは辛いに相違ない。僕は負けても姉さん達だ。長幼の序で説明が出来るし、それにもう皆お嫁に行ってしまって、学校のことは時効じこうにかゝっている。
「一奮発頼むよ」
「宜いとも。しかし本科になってからだぜ」
「うむ」
「今は中途半端だから」
「仕方がない。予科は完全に怠けてしまえ」
「宜かろう」
「何だ? 洒落しゃれか?」
「ハッハヽヽ」
「本科だから本気だ」
 と僕も必要のない限り、無理な勉強はしたくない。多少性分しょうぶんが手伝っていると言え、相手が相手だった。
 考えて見ると、豊子さんは終始一貫、僕を激励している。つとに小学時代から僕の成績を問題にした。僕も豊子さんへの面晴めんばれに、小学校中学校大学予科と区切り区切りに発奮したけれど、その都度つど菊太郎君に抑えられてしまった。しかし今度は大学の本科だ。卒業成績に関係するから、豊子さんに言われなくても、多少やる積りだった。菊太郎君と違って、向上心は充分ある。全甲の通信簿というのは子供の時のたとえに過ぎない。此方はもう大学生だ。大した鈍物でないという証拠を見せれば満足してくれる。花婿は○○大学出身の秀才、花嫁は府立第○女学校卒業の才媛さいえん、その程度で宜いのだ。僕という人間は元来お気に召している。それだから成績を問題にする。力瘤を入れてくれるのに、此方が本気にならないものだから、憤ってしまったのだ。こゝ一年誠意を示せば、御機嫌が直る。註文のつく間は確かに未だ脈がある。山の手の烏が来れば、菊太郎君がこの上ともズドンをやってくれる約束だ。斯う考えて見ると、無暗に悲観したものでもない。
 しかし僕の学才は矢張りつぼみのまゝでしぼむ運命を持っていた。人の所為せいにするのではないが、本科に進んでから未だ学校が始まらない中に、菊太郎君はもう決心が生返って、
「日出男君」
「何だい?」
「君と僕は普通の学生と違う。僕は始終然う思っているんだけれど、何んなものだろう?」
 と因縁をつけるのだった。
「別に違うこともないだろう」
「あるんだよ。普通の学生は就職が目的だ。卒業すれば雇われる。しかし僕達は自分の家で商売をする」
「それだからさ」
「何が?」
「成績を好くして置く必要がある」
 と僕は機先を制してやった。
「何うして?」
「僕達は店員を使うんだ。主人が店員よりも成績が悪いと押しがかない」
「おや/\」
「就職難がないから成績なんか何うでも宜いって考えかい?」
「うむ。それを主張しようと思っていたら、君にアベコベにやられてしまった」
「今度こそは本気になって勉強するんだぜ」
「言うにや及ぶ」
「僕は決心が堅い。後十日たつと生れかわる」
「後十日の命か? 心細いな」
「何だか君は変だね。もうグラつき出したよ」
「いや、一寸君の気を引いて見たんだ」
「それなら宜いけれども」
 と僕は鉄石心の積りだった。
 この辺の消息は無論豊子さんに通じていた。菊太郎君が逐一話して置いてくれた筈だけれど、僕は念を使って、律子さんに言伝ことづけを頼んだ。直接申入れるのが何となく怖かったのである。先頃で懲りている。愛人を恐れるようでは無論形勢がよくない。
「律子さん、僕、この通り兄さんと勉強の相談をしているんですから、今までのこと、堪忍して下さいって、何うぞ姉さんに」
 と自分ながら見識の低い話だと思った。
「駄目よ」
「何故ですか?」
「オホヽヽヽ」
「律子! 律子!」
 と菊太郎君が制した。
 この言伝に対しては、豊子さんから直接に返事があった。矢張り菊太郎君の部屋だった。考えて見ると、僕はもう短兵急になって、毎日のように遊びに行っていた。この辺は妻に読ませたくないのだけど、小説は現実暴露だから仕方がない。
「日出男さん」
「はあ」
「あなた、律子に仰有ったこと、何故お手紙にお書きになりませんの?」
「さあ」
 と僕は考え込んで、
「手紙に書いては悪いと思ったんです。お親しい間柄でものりを越えたくありません」
 と謹厳の程度を示した。
「好いお心掛けね」
「これでも紳士の積りです」
「序にもう一歩進んで戴きますわ」
「斯うですか?」
「あら、足で進むんじゃないのよ」
 と豊子さんは笑った。
「ハッハヽヽ」
「お手紙に書いて悪いようなことはお口で仰有っても悪いのよ」
「…………」
「お隣り同志でも則を越えたくありませんわ」
「はあ」
「律子は女学生よ、まだ」
「はあ」
「お気をつけ下さい」
「はあ」
「それから、私、あなたに勉強して下さいってお願い申上げた覚えはありませんよ」
「…………」
「あれはもうあれで済んでいますわ」
「何う済んでいるんですか?」
「私、あなたがあなたなら、私も私って、ハッキリお断り申上げた積りよ」
「はゝあ」
 と答えて、僕はヨロ/\した。床の間がグル/\廻った。気がつくと、豊子さんはもういなかった。
「おい、何うした?」
 と菊太郎君が肩を捉えてくれた。本当に眩暈めまいがしたのだった。
「あゝ/\」
「しっかりし給えよ」
「うむ。しかし何うしてくれる?」
「まあ/\」
「まあ/\何だい?」
「大舟に乗った気でい給え」
「まだ床の間が動いている。迚も当てにならない大舟だ」
 と僕はし意志の弱い人間なら再起覚束おぼつかないような精神的打撃を受けた。
 学校が始まったけれど、こういう形勢では勉強して宜いのか悪いのか、一寸見当がつかない。本気にさえなっていれば間違はあるまいが、頼まれていないと思うと、励みがなくなってしまった。孝行をしたい時分に親はなし。事情は少し違っているけれど、よく穿うがっていると思った。丁度然ういう不決断な心境に陥っているところへ、菊太郎君がまた変な理窟を持ち出した。
「どうだい? 君」
「矢っ張りよく寝られない。少し神経衰弱かも知れない」
「まあ/\、余りヤキモキ思わないことだよ」
「思ったって仕方がない。覚悟している」
「未だそれほどのこともないんだけれど」
「脈があるなら勉強するよ、先学期からの約束だから」
「ソロ/\始めても宜いけれど、人間は相見互だよ」
「待ってくれってのかい? 少時しばらく
「いや。人間は相見互、有無交易するから社会が成立する。おや、ほこりがついているね」
 と菊太郎君は僕の肩を叩いてくれた。学校へ出掛ける時だった。
「何ういう意味だい?」
「この間も言った通り、僕達は普通の学生と少し違うんだ」
「就職問題がないからかい?」
「うむ。人間は相見互、同級生のことを考えてやる必要があるよ。殊に本科になると成績が直接一身上に関係するから可哀そうだ」
「それはお互っこだろう?」
「いや、君と僕は特別に恵まれた境遇にいるんだから、無理算段をして同級生に迷惑をかけるには及ばない」
「成程。分ったよ」
 と僕は菊太郎君の意のあるところが直ぐに読めた。勉強の約束を取消したいのだ。
「此方が上へ行けば、下へ行った奴等は就職に困る。競争の必要があれば兎に角、妨害だからね、事実上」
「さあ。計算カウントに入らないんだから、別に妨害にはなるまい」
「しかし席順ってものがある。此方が上になれば、就職の必要のあるものがそれだけ下になる。指定席を持っているものが普通席をふさぐ勘定さ」
「僕はもう何も言わない。面倒だ。豊子さんさえ貰えれば宜いんだから、学校のことは君の考え通りにしよう」
「大同小異だよ、学校の成績なんてものは、単に数名の教授の個人的意見に過ぎないんだから、重きを置くに足らない」
「うむ」
「本科になったのを丁度好い区切りに、軽蔑してしまおうじゃないか?」
「しかし……」
「君は几帳面だから、矢っ張り予定通りにやらなければ気が済まないのかい?」
「いや、軽蔑してしまいたいんだけれど、成績が悪い為めに、子供の時から思っている人に嫌われることがあるんだから、然う簡単には諦め切れない」
「その点は及ばずながら僕が引受ける」
「大丈夫かい」
「及ばずながらと言っている」
「それじゃ駄目かい?」
「保証はしない。しかし全力を尽す。もう成績なんかの問題じゃないんだから、心配しないで僕と一緒に怠け給え」
 と菊太郎君は到底勉学の友でない。しかし律儀者だ。学校が始まったから、その辺をハッキリ定めて置きたいらしい。
「一体何うなっているんだい? 僕はもう昨今気が気じゃないんだ」
「実は君……」
「何だい?」
「往来でフラ/\しちゃ困るぜ」
「いけないのかい?」
「いや、そんなことはない。しかし縁談が始まっているんだ」
「ふうむ」
「山の手の烏だよ」
「河原君かい?」
「いや、別の烏だ。僕は反対しているんだけれど」
「豊子さんが行きたがるのかい?」
「行きたがるって程のこともないが、もう二十一だから、そう/\待たせて置けないってお母さんが言うんだ」
「豊子さん自身は?」
「成るべくならお父さんお母さんの考えにまかせる方が親孝行でしょうって」
「駄目だ、それじゃ」
 と僕は立ち止って天を仰いだ拍子に、ノートを手から落した。菊太郎君はそれを拾って、埃を叩きながら、
「君」
「…………」
「大丈夫かい?」
「僕は男だ。嫌われているなら、いさぎよく諦める」
「未だ諦めるってこともないんだけれど、今度の烏は有力だよ。帝大を出て大蔵省に勤めている。卒業前に文官試験を取ったというんだから、余程の秀才らしい」
「此方は成績じゃ今更かなわない」
「成績よりも何よりも年廻りが問題になっている。豊子は君と二つ違いだからね。君の卒業を待っていると、二十四になってしまう。家じゃその辺を考えているんだよ」
「卒業しなければ結婚出来ないってこともないんだけれど」
「それじゃ君は今直ぐにでも貰ってくれるかい?」
「さあ」
「実は僕もそれを言ったんだけれど、突っ込まれて返辞に困った。単に君が貰ってくれるだろうという想像で有力な縁談を断る次第わけには行かない」
「家から申込んだらどうだろう?」
「然うしてくれゝば話が早いと思うけれども……」
「けれどもなんだい?」
「矢っ張り考えものだよ。それが切っかけになって、烏の方へ直ぐにきまってしまうかも知れない」
「ふうむ」
「烏は資格があるんだ」
「僕はないのかい?」
「君だってあるけれど、先方は何分秀才だ。在学中に文官試験を取っている」
「それが豊子さんの気に入ったのかい?」
「さあ」
「ハッキリ言ってくれ」
「豊子はあの通り頭が好いから、成績で人を定める。成績の点から言えば、僕は君の親友だけれど、正直の話、公明正大に考えて、君よりも烏だと思っている」
 と菊太郎君は見積りを発表した。
「…………」
「君だって無論秀才だよ。しかし先方は始終薬を飲んでいるだけに強味がある」
「薬を飲まないことにしたのは誰だい?」
「僕だよ」
「何うしてくれる? 今更」
「無論責任を感じているんだけれど、君も知っている通り我儘な妹だ。兎に角、君が若しこの為めに自殺するようなら僕は殉死じゅんしする」
「え?」
「それだけの決心はしているんだ。たゞ怠けようと言ったんじゃない」
「ふうむ」
「しかし斯ういう結果になろうとは思わなかったんだ」
「何ういう結果だい? もういけないのかい?」
「察してくれ給え」
「然うか? それじゃ僕は失敬する」
「何うするんだい?」
「家へ帰って考える。これじゃ学校へ行ったって仕方がない」
「大丈夫かい?」
「君が帰って来る時分には、十文字にっさばいているだろう」
 と僕は腹を撫ぜて見せた。無論死ぬ気はない。飛んでもないことだ。豊子さんが貰えなければ、それ以上のを貰って見返してやる積りだから、殊更命が大切だけれど、菊太郎君の心配を利用して驚かしてやったのである。
 山の手の烏の方はもう大分話が進んでいた。その日だったか、その翌日だったか忘れたが、
「日出男や、お隣りの豊子さんはもうお嫁入り先が定ったそうですよ」
 と母親が言った。
「はゝあ。何処ですか?」
「中野ですって」
「すると山の手どころじゃないんですね」
「少し念入りですけれど、その代りに地主さんでお金持ですって」
「官吏じゃないんですか?」
「大蔵省へ内職に勤めているんですって」
「誰からお聴きになりましたか?」
「お母さんからよ。お隣りでは初めてですから、種々いろいろと御相談を受けていますの」
「はゝあ」
 と僕は驚いた。燈台下とうだいもとくらしというのか、知らないのは自分ばかりらしい。
「地主さんも大地主ですって。この辺のとはけたが違うと仲人の方が仰有っていました」
「結構でした」
「豊子さんは余っ程のところでないと納まりませんわ。御器量自慢で派手好きですから」
「はあ」
「それに我儘よ。年寄のある家じゃ勤まりませんわ」
「年寄がないんですか? その山の手の烏は」
「初めからしゅうとしゅうとめのないところって御希望ですから」
「はゝあ」
「この節はレッテル専門ね」
「お母さんは豪いことを知っているんですな」
「レッテルさえ好ければ、どんな註文でも通るのよ。年寄がなくてお金持で秀才で風采が好くて親切でと随分得手勝手ですわ」
「成程」
「こゝだけのお話ですけれど、あんな人を貰う家は災難ですよ」
 とお母さんは子の心親知らずだった。僕は完全に諦めた。
 山の手の烏は毎日曜に豊子さんのところへ遊びに来た。僕は時折往来で出会った。豊子さんと二人で活動でも見に行くのだろう。手を引かないばかりにしている。僕は格別恩顧を被った覚えもないから、お辞儀をする責任を感じない。豊子さんは僕を睨んで行く。挨拶はうるさいという意味らしい。それだけなら宜いけれど、或は烏に向って、
「今あすこで行き会った方は私に失恋して悲観しているのよ」
 なぞと種明しをしないものでもない。しかし家で会うと、昔通りに話してくれた。不見識だが、僕は差当りそれを慰めとした。少し気の毒に思っていると見えて、
「日出男さん、あなただって御勉強なされば宜いのよ。屹度立派な人になれますわ」
 とお世辞を使った。
「ふん」
「何あに?」
「鼻であしらっているんです」
「まあ!」
「もう斯うなれば恐れるところはないんです」
 とそれが僕の心境ありのまゝだった。嫁に来て貰いたければこそ、今まではお説法も喜んで聴いていたが、もう御機嫌を取る必要がないから、万事対等だ。
「怖いわ、急にお強くなったから」
「毎日鰻の頭を食っているんです」
「でも、少し御勉強なさる方が宜いでしょう?」
「いや、兵隊です。これでやる時はウンとやるんですから」
「やるとも。ウンと儲けるんだ」
 と菊太郎君が調子を合せた。どういう料簡だか、僕が豊子さんと話す時は必ず側に控えている。烏に頼まれたのかも知れない。
「日出男さん、あなた、律子を貰ってくれません?」
 と或時豊子さんが言った。
「僕は駄目です」
「何故?」
「お嫁さんを貰うほどの成績じゃありませんから」
「厭味ね」
「ハッハヽヽ」
「都合ってものがあるのよ。世の中は」
「それはありましょう、自分勝手の都合が」
「思い合っていたって必ずしも一緒になれませんわ。それだから小説ってものがあるんでしょう?」
「さあ」
「都合はつまり神さまよ」
「はゝあ。お説教ですか?」
「日出男さんは屹度好いお嫁さんをお貰いになりますわ」
「もう懲りました。下町からは貰いません」
「山の手?」
「はあ」
「お世話申上げましょうか?」
「今度は条件をつけます」
「どんな条件?」
「その折何れ改めて申上げましょう。ハッハヽヽ」
 と僕達は遠慮がない。
 菊太郎君に至っては、僕が死ねば追腹おいばらを切る積りだっただけに、中学校以来の責任を感じて、その当座僕の御機嫌を取った。朝、学校へ行く時、
「君、君。待ち給え」
 と必ず背中を叩いてくれる。
「有難う」
「君の部屋の壁だよ。いつもついている。あれは直すといいね」
「うむ」
「左官屋が悪いんだ。僕の家のを世話しようか?」
「それにも及ばない。左官屋よりも年月の責任だ。もう古いんだもの」
「君のところと僕のところと何方どっちが古いんだろう」
「それは僕のところだろう」
「いや、僕のところの方がボロ/\だよ」
「何方も改築の必要があるね」
「そう言いながら、毎年延しているんだから」
「火事でもなけりゃ駄目だよ」
「一思いに焼ければね」
「結局、彼方此方をチビ/\直して、このまゝ永久だろう」
 と僕は神ならぬ身の数年後大震災が待ち伏せしていることに気がつかなかった。その際は大変だった。僕のところは錦子姉さんの嫁入り先へ逃げた。菊太郎君のところは中野が早速役に立った。しかしそれは追々の話だ。
 豊子さんがお嫁に行ってしまってから間もないことだった。或晩、菊太郎君がやって来て、
「日出男君、僕はどうしても君に堪忍して貰わなければ気が済まない」
 と手をついた。
「何だい?」
「豊子の一件はどうしても僕の責任だ」
「それは違う」
「いや、僕はこれでも煩悶しているんだ」
「僕も初めは君を恨んだけれど、考えて見ると、僕は豊子さんを貰う資格がない。斯うなって見ると、斯うなるのが自然の成行なりゆきのように思われる」
「それじゃ堪忍してくれるかい?」
「堪忍も何もない」
「有難い。実は僕も随分努力したんだが、人間の意志ってものははたから動かせない。豊子には豊子の都合があったんだから」
「もうよそうよ、そんな話は」
「うむ。しかし僕は将来君に賠償ばいしょうする」
「何の為めに?」
「つまり一旦引受けて失望させたから、今度は名誉回復だ。市岡菊太郎は矢っ張り当てになる人間だと思って貰いたい。ついては貰いたい女があったら僕に話し給え。僕は犬馬の労を取って橋渡しをする」
「その節は頼むよ」
「本当に遠慮しないでね。相手が伯爵の令嬢だろうが、百万長者の独り娘だろうが、全力を尽すから、大舟に乗った気でいてくれ」
「大舟はりた」
 と僕はもう人を当てにしない。心の問題は心と心の取組だ。側から動かせるものでない。
 本科三年間の学生生活は平穏無事に進んだ。学業は可もなく不可もなかった。全然兵隊で行った。菊太郎君との交際は昔ながらに親しい。何でも相談した。毎日往ったり来たりだった。無為平凡のうちに卒業が近づいた頃、菊太郎君が一波瀾を起して単調を破った。それが僕の一身にも可なりの影響を及ぼしている。菊太郎君は一向異状も見せなかったが、或晩、
「日出男君、僕は君に頼みがある」
 と言って、僕の前へ平伏した。
「何だい? そんな他人行儀の間柄かい?」
「実は具合が悪いんだ」
「何処が?」
「身体じゃない。察しが悪いね。いやしくも男が両手をついて頼むからには恋愛問題だよ」
「ふうむ?」
「僕は矢田さんの久子さんを貰わなければ生きていられない」
「え?」
「矢田さんの久子さんだ。君も知っているだろう?」
「知らない」
「虎の門でよく会う人だ。そら、この間婦人雑誌の口絵に出ていた」
「ふうむ」
「○○保険の重役の令嬢で今年虎の門を卒業する麗人だ」
「交際があるのかい?」
「ないんだ」
「藪から棒かい?」
「うむ。思っているのは半年ばかり前からだけれど、一切手がかりがない。君の力で何とかしてくれ。この通りを合せて頼む」
「はてな。然ういうことは僕から君に頼む約束だったようだが……」
「それだから具合が悪いと言っている。ついアベコベになってしまったんだ」
「よし。引受けた」
「是非頼むよ」
「大舟に乗った気でいろ」
「冗談じゃない」
「本気だよ。どういう関係でそんな人が貰いたくなったのか、逐一話して見給え」
 と僕は膝を進めた。

犬馬の労


「おい。お茶を一杯入れておくれ」
 と僕は妻に命じた。子供達は寝静まった。妻は編物をしている。
「はあ」
「感心なものだろう? おれも」
「御精が出ますわね」
「昼間は昼間で働いて、夜は何処へも行かずに小説を書く。商売の方だって、この頃は好いんだぜ」
「結構ですわ」
「頭が両方へ利くんだ。株屋が小説を書くなんて、一寸類があるまい? 今に世間をワッと言わせてやる」
「でもね」
「何だい?」
「相手にしてくれないでしょう?」
「何故?」
「何故って、商人あきんどの書いた小説なんか」
「矢っ張り馬鹿にしているんだね」
「博士とか教授とかいうのなら兎に角、まるで方面が違うんですもの」
 と妻は矢張り兄貴達が頭にある。長兄は博士、次兄は助教授だ。
「今に見ていろ」
「お道楽としては結構ですけれど」
「金を使わないからかい?」
「はあ。それに始終家にいて下さるから、その意味で奨励して上げますわ」
「情けないものだ。主人の値打が分らない」
「分り過ぎて困りますのよ」
「そんなにまずい積りでもないんだが、お前はロク/\読んでくれないから困る」
「オホヽヽヽ」
「これから市岡君のロマンスに取りかゝる。面白くなるんだよ」
「イヨ/\佳境に入りますのね」
「お前、読んだのかい?」
「いゝえ」
張合はりあいがないよ」
「只じゃ損ですわ」
「おれも見識がある。物を買ってやってまで読んじゃ貰わない」
「オホヽヽヽ」
「お茶を入れておいで
「はあ」
「返辞ばかりしてナカ/\立たない、それだから、おれは編物は嫌いだと言うんだ」
「でも都合ってものがあるのよ、世の中は」
「え?」
「都合ってものがあるのよ、世の中は。お分りになって?」
「分らない」
「思い合っていたって必ずしも一緒になれませんわ」
「はてな」
 と僕は首をかしげた。なんだか覚えのある文句だと思ったのである。
「逃げられた上にお説法をされて、お嫁さんを貰うほどの成績じゃありませんからなんて、あなたは随分不見識な人ね」
「痛い!」
しょうをつけて上げるのよ」
「痛い/\!」
「この手でお書きになったんですから」
 と妻は僕の右の手の甲をつねり上げた。
「読んだのかい?」
「いゝえ」
「それじゃどうして分る?」
「検閲して上げたのよ」
「兎に角、目を通してくれたんだね?」
「気になりますわ、私だって」
「ナカ/\巧いだろう?」
「案外お書けになりますわね。主人公のノロマさ加減が迫真力の強い描写で運んでありますから、読んで行く中になんだか心許ない淋しい気持になりますわ」
「先ずもって好評だな」
 と僕は満足だった。
けなしているのよ。こんな風じゃ行末が案じられますって」
「今のところでは然ういう心持になるのが当り前だ。その積りで書いているんだからね。しかし読んで見て余り感じの悪いところはカットしても宜い。そんなところがあるかい?」
「ありますとも」
「何の辺だい?」
「全部よ」
「おや/\」
「見っともないじゃありませんか? 豊子さん/\って、あんな下品な人に恋いこがれて」
「恋い焦れもしないが、小説だから誇張してあるんだよ。恋愛場面ラブ・シーンのないアイスクリームは……イヤ、味のついていないアイスクリームは恋愛場面のない小説だってことがある」
「好いおつむりね。豊子さんに愛想を尽かされるだけのことがありますわ」
「違った/\。恋愛場面のない小説は味のついていないアイスクリームさ。それだから多少潤色しないと読んで貰えない」
「兎に角、私、そんな失恋の後へ来たと思われたんじゃ立つ瀬がありませんよ」
「失恋じゃない。世の中の都合だ。あすこの会話はその辺の消息を説明している。豊子さんを貰えなければ、それ以上のを貰って見返してやると書いてある。それが即ちお前だ。これからお前が出て来るんだよ。寧ろお前が主眼になるんだから、これから先の発展を楽しみにして待っていておくれ」
「厭でございますよ」
「何故?」
「世間はあなたを金万かねまんの若旦那として相応悧巧りこうな方と思っていて下さるんですから、今更※(二の字点、1-2-22)わざわざ自首をなさるにも及びますまい」
「厳しいんだね」
「私だって迷惑しますわ。兄達も私が幸福な結婚をしたと思っているんですから」
「それじゃお前は何か不足があるのかい?」
「このまゝならございませんわ。昔のことは昔のことで堪忍して上げているんですから」
「矢っ張り嫉妬だね、豊子さんに対する」
「あんな下品な人、私が問題にすると思っていらっしゃいますの?」
 と妻はいつも下品の一語で豊子さんを片付ける。実際、妻とはくらべものにならないのだけれど、矢張り超越していられない。
「それだから宜いじゃないか?」
「いゝえ、いけません。あなたが問題にしたことが分ってしまうじゃありませんか?」
「問題にはしていない」
「でも、麗々しく書き立てゝあるじゃございませんか? 好い恥曝はじさらしですわ」
「そこが小説だ」
「小説にしても、若し発表なさるなら、私、覚悟がございますよ」
「何うするんだい?」
「慰藉料をいたゞきますわ」
「ふうむ」
「この原稿、あなた、売れるお積り?」
「無論さ」
「尤もそれぐらいの御自信がなければ、斯う毎晩は根気がつゞきませんわね」
「発表して貰える以上は只ってことはない積りだ」
「私、自費出版をなさるのだと思っていましたが、雑誌へ出していたゞけるのなら、又考えが違いますわ」
「自費出版は最後の手段さ。有らゆる雑誌へ当って見る」
「それじゃ私、原稿料もいたゞきますよ」
「慾張っているんだね」
「この小説の主人公に連れ添っているということが世間へ知れ渡れば、立派な名誉毀損めいよきそんですもの。当り前なら離婚を申出るんですけれど、今更仕方ありませんから、慰藉料と原稿料で堪忍して上げますわ」
「お前も流石さすがに商人の女房だ。勘定を忘れないところが豪い」
「慰藉料が五千円よ」
「そんなに吹っかけちゃ困る」
「いゝえ。それぐらいの値打は充分ありますわ。私ってものが好い馬鹿になるんですから」
「まあ/\、追っての相談にしよう。これから先は寧ろお前の宣伝だ。お前を理想の良妻賢母として書く。今までのところだって、こゝを御覧」
 と僕は原稿をはぐって、
「何うだい? 『妻は幽香子ゆかこという。名詮自性みょうせんじしょう、蘭の花を聯想させるような美人だ』と書いてある。これは僕の心持のありのまゝだよ。それから、こゝだ。『妻が睨んだ。幽香子さんは目千両だと菊太郎君も認めている』どうだい? 豊子さんの方は『今会って見ると、そう大した美人でもないが……』と来ている。全然ダンチって形だ」
 と懐柔に努めた。五千円なんてことではお話にならない。
「その後がいけませんわ。『然う大した美人でもないが、矢張り可なりにめる』とあります」
「それは然う書かないと読む方で張合がない。別に金のかゝることでもないから、大抵なら美人にして、読者を喜ばせる。そこが作者の手腕というものだ。夜ならお月さまを出す。別に金がかゝるんじゃない。ほん刷毛序はけついでにやるんだから、人によっては、夜の景色となると毎晩でも満月を出す」
「それじゃ私、好く書いていたゞいても、一向有難くありませんわ」
「お前の方は本当さ」
「自由自在のものですわね」
「そんな皮肉なことを言いなさんな。誠心誠意で書くから、割引の相談に応じておくれ」
「豊子さんの御縁談が始まったと聞いて、主人公が御本を取り落すところがありますが、あの辺も誠心誠意?」
「あれは劇的効果を強めるだけで、決して事実じゃない」
「床の間がグル/\廻ったってとこもありますわね」
「うむ」
「本当にヨロ/\なすって?」
 と妻は尚お油を取る気だった。僕は一々下から出ることを忘れなかった。結局、弱きものは女だ。歎願が利く。僕は慰藉料五百円但し原稿料より支弁ということに値切った。斯うして置けば、自給自足が利く上に、原稿が売れなかった場合は堪忍して貰える。五百部限定出版なぞということになると、どうせ自暴やけだから豪華版で行く。口銭こうせんを稼ぐくらいでは追っつかない。無論それまでにはドカッと一儲けする気だけれど、慰藉料を製本料へ注ぎ込んで貰わなければなるまい。これは断って置かなかったけれど、こゝに書いて置けば、さいが後から読んでくれる。
 僕の小説はもう可なりセンセーションを捲き起しているのらしい。未だ発表しないから、無論一般的ではないが、妻を初めとして書かれる人物が深い関心を持っている。
「君、お手軟かに願うぜ」
 と今朝も菊太郎君が言った。取引所へ出掛ける時だった。
「いや、侃々諤々かんかんがくがく、筆は決して曲げない」
「兎に角、僕の家庭に風波を起すようなことは書かないでくれ給え」
「無論悪意はないんだから安心してくれ給え。しかし自分で蒔いて自分で刈る分には仕方がないよ」
「それは何の件だい?」
「向うずねきずだらけだから、直ぐに笹原ささはらが走るんだ。悪いことは出来ないよ」
「一体、何の程度までっぱぬくんだか、見当がつかない。打ち合せのために一遍読ませてくれないか?」
「大したことはないんだよ」
「いや、請判うけはんを頼んだことなんか書き立てられると信用に関係する」
「どうして知っているんだい?」
「妻から聞いたよ」
「奥さんが読んだのかい?」
「うむ。妻は毎日のように行って、奥さんに読ませて貰っている」
「有難いな、婦人の愛読者があるとは」
 と僕は嬉しかった。詰まらないものなら、毎日読みに来る筈はない。
「あの証文はもう済んでいるじゃないか?」
「うむ」
「半月たゝない中に自力で儲けて綺麗に返しているんだから、その辺を書いてくれゝば宜いのに、損をしたところばかり書くのは何か意味があるんだろう?」
「何があるものか? あれは一例として挙げた丈けさ」
「なんの一例だい?」
「仲が好くてたすけ合うという一例さ」
「僕だって君の証文に判を捺したことが幾度もある。恩に着せるんじゃないけれど、相身互ってものだろう?」
「そこを書いたんだよ」
「しかし僕が初めて君に頼んだように書いてあるらしい」
「ハッハヽヽ」
「どうも筆の立つ奴はたちが悪い。自分ばかり善い子になる」
 と菊太郎君も兎に角僕の文才を認めている。
「まあ/\、そんなことは何うでも宜い」
「宜くないよ」
「以来気をつける」
「頼むよ、本当に」
「うむ。ところで奥さんの印象は何んな風だったい? 面白いと言っていたかい?」
 と僕はその辺が突き止めたかった。読者の反響だ。雑誌社へ掛け合う時の参考になる。
「さあ」
「愛読してくれるようなら興味があるんだろう?」
「それはあるさ」
「大衆物は女の批評が一番当る」
「批評的に読むんじゃない。君と僕の自叙伝だと思っているから、奥さんと二人で研究しているのらしい」
「研究的に読んで貰えれば尚お結構さ。読後感はどんな風だい?」
「読後感で僕に突っかゝって来るんだよ。元来僕の旧悪を探すために読むんだから」
「おや/\」
「文章そのものゝ為めに読んで貰えると思うと大間違いだよ」
「グイッと来たね」
とどめを刺して置く」
 と言って、菊太郎君はもう語らなかった。味をやった積りだろう。
 さて、閑話休題それはさておき、小説の本筋に戻る。
 考えて見ると、僕は実に人が好く出来ている。半年ばかりというもの、学校の帰りを全然菊太郎君の都合のためにお附き合いしていたのだった。真直ぐに家へ帰ったことが殆んどない。少し雨の降る日でも、菊太郎君のお供をして、健康に貢献こうけんする散歩だと思っていた。精神修養の一端とさえ考えていた。その初め菊太郎君が、
「君、この頃君は運動不足じゃないかい? 顔色が悪いぜ」
 と注意してくれたのだった。
「そんなこともないだろう」
「いや、何となく冴えないよ」
「君だって余り好い血色でもないぜ」
「僕は少し胃が悪いんだ」
「それじゃ君こそ運動の必要がある」
「しかし一人じゃ退屈する。何うだい? これから些っと帰りに散歩しようじゃないか?」
「宜かろう。何処へ行く」
「然うさな。虎の門で下りて日比谷公園をぶらつこう」
「異議なし」
「秋は馬さえ肥るんだからね。直ぐに帰って勉強するのは惜しいよ」
「兵隊が何とか言っている。しかし確かに散歩の好季節だ」
 と僕は少しも疑わなかったが、菊太郎君には魂胆があったのだ。
 虎の門から日比谷公園が一月ばかり続いたように覚えている。それから菊太郎君が又発起ほっきした。
「君、僕はこれでもこの頃は精神修養を心掛けているんだよ」
「ふうむ」
「何だい? 鼻であしらうのか?」
「いや、そんなこともないけれど、君にしては珍らしいからさ」
「乃木大将の伝を読んでいるんだ」
「ふうむ」
「又かい?」
「益※(二の字点、1-2-22)柄にない」
「乃木さんは矢っ張り偉い。神社に祀られる丈けのことがある」
「何か得るところがあったのかい?」
「僕だって向上心はあるよ。一体、君は失敬だ」
「何故?」
「僕といえば感激も何もない俗物だと思っている。学校の勉強ばかりが人生じゃないぜ」
「それは分っている。怠けものだけれど、君だって無論好いところはあるさ。認めてやるよ」
「ところで何うだい?」
「何が?」
「乃木神社へ廻ろう。あすこから虎の門まで歩くと丁度好い散歩になる」
「宜かろう」
「友達が発心した時は附き合ってくれるものだよ。君の為めにだって屹度なる。僕は約束して置く。将来君が発心した場合、僕は犬馬の労をる」
「無条件で附き合うよ」
 僕達は学校の帰りを乃木坂まで電車に乗って、それから虎の門まで歩くのが習慣になった。成程、丁度好い散策だった。これが三月も四月もつゞいた。冬になって雪の降る日にも欠かさなかった。菊太郎君は必ずしも乃木神社に参拝するのではない。
「乃木さんのような豪い人の住んでいたところから、虎の門まで毎日の規則として歩けば精神修養になる。僕達は意志が弱いから、偉人と結びつかないと、何をやっても長続きがしない」
 というのだった。僕は一寸感心した。元来奮発心のない菊太郎君としては大出来だと思って、奨励の態度を執った。引っ張られるというよりも寧ろ自ら進んで附き合った。
 ところが今し打ち明け話を聞いて呆れ返った。菊太郎君は虎の門で女学生を見初みそめたのだった。注意を学問に払わないで妙な方面へ向ける。心得が違っているから仕方がない。この兵隊さんとしては照尺を良家の令嬢につけたのが寧ろ目っけものだ。その頃、虎の門に女学校があった。そこの生徒ということが分ったから、菊太郎君は僕を毎日虎の門から日比谷公園へ引き廻したのだった。
「日比谷公園はほんの附け足しさ。しかし唯虎の門と言ったんじゃ幾ら君でも感づいてしまう」
「幾らとは何だい?」
「済まない話だが、幾ら人の好い君でもって意味さ。もう斯うなれば何も彼も打ちまけて、只管ひたすら御同情に縋る」
「僕はこれで自分の間抜けさ加減が分ったよ。有難う」
「この通りあやまっている」
「それから何うしたんだい?」
 と僕は忌々いまいましくて少し語調が荒かった。
「或日、律子の取っている婦人雑誌を見たら、名家令嬢鑑めいかれいじょうかがみというところに、その女学生の写真が出ていたんだよ。それで○○保険の矢田さんの令嬢ってことが分った」
「雑誌の口絵に出るくらいなら相応シャンだろうね?」
「シャンとも」
「大きな声を出すなよ。馬鹿だな」
「ハッハヽヽ」
「何も可笑しかない。それから何うしたんだい?」
「矢田さんの家は乃木坂の下さ。調べるまでもなく、写真の説明に書いてあった」
「成程」
「当時僕は丁度乃木大将の伝を読んでいたんだ」
「嘘をつけ」
「本当だよ。持って来て見せても宜い。精神修養がこの問題に結びついている」
「矢田さんの家が乃木坂下と分ったものだから、散歩区域をあの方面へ持って行ったんだろう」
「然う認定されても仕方がないけれど、丁度乃木さんの伝記を読んでいたところへ乃木坂だったから、一種霊妙の感に打たれた。全く偶然の一致だよ。尤もその次の瞬間に、乃木神社へ参拝すればついでに探険が出来ると思ったことは匿さない」
「見給え」
「しかし虎の門の時とは違う。乃木坂を発起した時は実際乃木さんが頭の中にあった。僕だって然う/\嘘は考え出せない。精神修養って心持が確かに動いていたんだ」
「変な精神修養だけれど、まあ/\、堪忍してやる」
「それは僕だって聖人君子じゃないから、純粋な精神修養とはいえない。乃木坂から虎の門まで歩けば、大将の足跡あしあとを踏むことになるから、剛健質実の気風が養えると同時に、先方も学校から帰って来る時間だから、道で行き合うと思ったのさ」
 と菊太郎君は到底只で向上を心掛ける人でない。
「一挙両得の精神修養だね」
「君も賛成したくらいだもの。僕に熱誠があったればこそだ」
「精神修養の方はもう宜いが、道で行き合うってのは何ういう考えだい? 電車ってものがあるんだぜ。大抵の女学生はそれにお乗り遊ばすんだから」
「その辺に抜け目があるものか? 天気の好い限り徒歩にて御通学と写真の説明に書いてあったんだ」
「成程。これじゃ雑誌に出されるのも考えものだね。不良に手引を与えるようなものだ」
「不良と一緒にされちゃ困る。僕は真面目だよ。会ったところで心の中で拝むばかりだ」
「神さま扱いかい?」
「少くとも天の使だろう」
「そうして註文通りたび/\行き会ったのかい?」
「いや、一週間に一遍か二遍だ。どうも時間が合わない」
「僕は些っとも気がつかなかったよ」
「君は聖人君子だもの」
「馬鹿にするな」
「いや、念を押して置くんだ。会って見て、これはシャンだから僕が貰うなんて言い出すと困る」
「聞けば聞くほど、僕は人が好く出来ているんだね。自分ながら感心してしまった」
「好く出来序に頼むよ。乗りかけた舟だ。何分宜しく」
「一だくは重んじるけれど、僕は将来の為めに、こゝで一つめをつけて置きたいんだ」
「極め?」
「うむ。清算だ」
 と僕は鷹揚に頷いて、
「今日まで約半年の間、僕は徹頭徹尾に欺かれていた」
 と思い知らせてやった。懇意づくでも、斯う附け込ませると癖になる。
「欺いたって次第じゃないんだけれども」
「君は人を欺く上に自ら欺くのか?」
「仕方がなかったんだよ。正直に言えば、君は附き合ってくれまい?」
「当り前さ。それだからだまして引き廻したんだ」
「しかし嘘を言って単独行動を執るよりも宜いだろう? そこを買ってくれ給え。無論僕が悪いんだから、あやまるけれど、同じ瞞すにしても友情的だ」
 と菊太郎君は弁解に努めた。僕は成程と思ったが、同時にこれだからいけないと気がついた。直ぐに感心して堪忍する気になる。矢張り言うべきことは、この際厳しく言ってしょうをつけて置く方がいい。
「実は僕は豊子さんの問題の時にも極めをつけて置きたかったんだ。君は何う考えているか知らないが、僕は君のお蔭で豊子さんに嫌われたんだぜ。自分の決心通りに勉強していれば、山の手の烏になんか見更みかえられはしなかったんだ」
「あれは君の[#「君の」はママ]責任だよ。済まないと思っているから、将来君の為めに犬馬の労を執ると堅く約束して置いた。しかしそれがアベコベになってしまって、君に犬馬の労を執って貰うんだから、僕だって苦しいよ」
「考えて見ると、僕は正直過ぎるから何うしても損をする。この間なんか雪の降る日にお供をして風邪を引いた」
「あの時は君が発起したんじゃないか? 僕は天気の好い日だけだと言っていたんだ」
「剛健質実の気風を養うんだと言うから、雪中行軍なんかは殊に乃木式で好いと思ったのさ。瞞され方が徹底しているから腹が立つんだ」
「正直だよ、本当に。この頃の学生には珍らしい方だ」
「褒めるな」
「失敬々々」
「馬鹿にするな」
「困ったな、これは」
「風邪も流感で熱があったぜ。子供の時病気を移してだ足りないのかい? 嘘をついて風邪を引かせる」
「責任を感じて、将来犬馬の労を執る決心を固めたよ」
「しかし犬馬の労は僕が執るんじゃないか?」
「番が狂ったんだよ。僕だって執る時が来れば屹度執る。責任を持って腹さえ切る気でいる」
「僕は損ばかりだ。変な廻り合せだよ」
「君、僕が極めをつける」
「何うするんだい?」
「あやまり証文を書く」
「ふうむ」
「考えて見ると、君には随分迷惑をかけている。今度ばかりじゃない」
「幼年時代、少年時代、青年時代と三口に分れているぜ」
「その上に斯ういう問題で犬馬の労を執って貰うんだから、僕は将来君に頭の上らないようにして置くのが礼儀だと思うんだ。一さつしたためよう」
「それにも及ばない。反古紙ほごがみよりも精神だ」
「その精神さ。今こそこの通り恐縮しているけれど、世話になってしまえば又恩を忘れるかも知れない。人間ってものは勝手なものだぜ」
「おい。頭を上げろよ」
「上らないんだよ、本当のところ。僕は自分ながらツク/″\持て余す」
「これは驚いた」
「何うして宜いんだか分らない。結局、僕は何処か少し人間が足りないのかも知れないね」
「本音だよ」
 と僕は満足した。これだけ思い当らせれば溜飲が下る。赤裸々の菊太郎君だった。
「不料簡を起さないように後日のため一札入れて置く」
「心持が通じていれば宜いんだよ」
「いや、今は通じていても、又忘れる日が来る。その時の用心さ。斯ういうことは思い立った刹那が好い。こゝで書こう。君、硯箱と紙だ」
 と菊太郎君は手を鳴らした。自分の家と間違えている。
 作文の拙い男もお嫁さんを貰いたい一心は恐ろしい。筆を執るより早く、スラ/\と書き始めた。暢達ちょうたつ、流るゝが如きものがあった。僕はこんなに緊張した菊太郎君を見たことがなかった。
覚え
拙者せっしゃ事幼少の頃より御貴殿様に一方ならぬ御迷惑相掛け、千万申訳無之これなくお詫び申上候。又此度は御奔走によりて縁談お纏め被下くだされ、御恩儀の程生々世々しょうじょうよよ忘却不仕ぼうきゃくつかまつらず、報謝の一端として後日御縁談の折犬馬の労を執り申上可もうしあぐべく候。事情斯くの如くに御座候間小生は御貴殿様に頭の上らぬ代物しろものに御座候。万一にも御恩を忘れ候節は此証文を取引所前にて御公表も不苦くるしからず依而よってさつ如件くだんのごとし
市岡菊太郎
年 月 日
金子日出男殿
「君、これはもう縁談が纏まったことになっているぜ」
「是非纏めて貰うんだから、それで宜いんだ。この度は御奔走によりと責任を負わせてある」
「厭な詫証文わびじょうもんだね」
「頼むぜ」
「全力を尽すけれど、成否は保証出来ない。何しろ先様は重役の娘で此方は成績が好くないんだから骨が折れる。纏まる積りでいちゃ困るよ」
「そんな誠意のないことで何うする? 僕はこの通り詫証文を書いている」
「それとこれは別だろう」
「兎に角、犬馬の労を執ってくれ」
「無論執るけれども」
「一諾を重んじてくれ」
「無論重んじるけれども」
「けれども何だい?」
「藪から棒で全く見込が立たないんだ」
「こゝはこれからの相談だよ。僕は君が豊子に嫌われた時、責任を感じて、若し君が自殺するようなら直ぐに後を追う決心だった。君もこの縁談については、それと同じ精神を持ってくれ給え」
「それは御免だ」
「いや、精神だけで宜い。僕がついている。決して腹は切らせない」
「切らせられてまるものか?」
「君に頼んだものゝ、無理は初めから分っている。この縁談が君一人の手で纏まる筈はない。僕が君のを引受けるにしても、僕一人じゃ始末にえない。これは親類の総動員で行く」
「君の親類かい?」
「いや、お互の親類さ。ところが僕の家には余り好いのがないんだ。君のところにはあるだろう? 大臣とまで行かなくても、次官か局長か何か」
「ないよ、そんなのは」
「以前次官か局長をしていたのでも宜い」
「役人はないよ、皆下町だから」
「重役でも宜い。先方が重役だから、可なりえらいのをつれて行かないと相手にして貰えない」
「はてな」
「あるかい? 懇意な人でも宜いんだ」
「二三人心当りがある。しかし重役でなくても宜いんだろう?」
「豪ければなんでも宜いんだ」
「関取はどうだい?」
「成程。いたいた。しかし相撲じゃ具合が悪い」
「顔役がいる」
「凄くていけない。喧嘩の仲裁なら兎に角」
「待ち給え」
 と僕は腕を組んで考え込んだ。菊太郎君が期待するほどあって、相応好い親類がある。

菊太郎君の直観


 もう卒業試験が近づいていた。この一挙で成績がきまる。卒業の時につくレッテルは就職問題に関係する。就職問題は一生の運命を左右する。社会へ出てしまえば後は運だと言うけれど、成績が悪いとその社会へナカ/\出られない。それだから皆一生懸命だ。就職の必要のない僕にしても雰囲気の刺戟を受けて、なんだかっとしていられないような心持がする。
 この間に処して、菊太郎君は一向奮発心を見せない。僕は恋愛問題を打ち明けられてから気がついた。普段よりも悪い。教室へは惰性で出るけれど、ノートを取らない。頬杖をついて僕のペン先の動くのをポカーンとして眺めている。魂が脱け出して乃木坂辺をうろついているから、勉強が手につかない。就職の必要がないにしても、こんな風ではレッテルをつけて貰えないかも知れない。僕は縁談を引受けたものゝ、大いに考えた。たゞ貰いたい/\だけでは成功覚束ない。菊太郎君に貰う資格がなければ、いくら僕が犬馬の労を執っても駄目だ。
 二時間打っ通しの講義が早目に終って昼休みが来た時、菊太郎君は急に活気を呈して、
「おい。何うだい?」
 と誘った。
「行こう。腹がった」
「その問題じゃない」
「何だい?」
「分っているじゃないか? 帰りに剛健質実の気風を養おう」
「いけないよ」
 と僕は無愛想にしりぞけた[#「郤けた」はママ]
 お昼はいつも学校の近くの喫茶店でしたためる。そこへ行って席についた時、僕は一応注意して置く積りだった。教室の怠け振りが目に余ったのである。
「君、剛健質実の気風を養わなければ困るよ。この際殊に」
 と菊太郎君は僕の心持が分らない。しかし先方から問題に触れて来たのは言い聞かせるのに丁度好い都合だった。
「冗談じゃないぜ」
「何故?」
っと慎み給え」
「しかし君は犬馬の労を引受けてくれたじゃないか?」
「如何にも引受けた。それだからもう乃木坂へはお供をしない」
「デレンマだね、これは些っと」
「その通り君は頭の中が混線している」
「何うして?」
「パラドックスってものだ」
「大同小異だろう。何故そんなパラドックスのつのに乗るんだい? 意地が悪い」
「パラドックスは角なんかないよ。あれはデレンマの角だ」
「揚げ足を取るなよ」
「君はその通り万事上の空だ。少し落ちついて考えて見給え。僕は君に成功させたければこそ、慎重の態度を執るんだ。もう乃木坂は御免蒙る」
「それじゃ一人で行くから宜い」
「毎日のように近所界隈をうろつき廻って、目に留まったら何うする? 不良と見られたら何うする?」
「不良じゃないから安心だ」
「君が安心していても、先方はそう認めるよ。女学生の帰りを狙って散歩するのは決して善良のやることじゃない」
「急に威張り出しやがったな」
「当り前さ。言うことを聞かないようなら、もう構わない」
 と僕は強硬に出た。
「聞く/\」
「差当りは何よりも勉強が大切だよ。好いお嫁さんを貰いたいなら、好い成績を取って置くんだ」
「それは勉強次第で貰えるものなら、僕だって勉強するけれど」
「兎に角、卒業しなければ、お話にならない。落第したら何うする?」
「まさか」
「いや、それが油断だよ。誰だって初めから落第する積りで落第するものはない。天網恢々てんもうかいかいってことがある。土俵際で年貢を納める運命かも知れないよ」
「縁起の悪いことを言うなよ」
「本当だよ。この際ドッペって見給え、『御成績はんな具合ですか?』『今年卒業するところを落第しました』先方のお父さんが気の早い人なら憤ってしまうぜ」
「瘠せても枯れても、落第しないだけの自信はあるよ」
「張合がないね」
「何故?」
「落第しないのが当り前だろう? 君は十何年も学校へ通って、やっとそれ丈けの自信がついたのかい?」
いやに突っかゝって来るんだね」
「もう少し何とか色をつけて貰いたい。先方は才媛だぜ。縁談ってものには釣合がある」
「君は僕を馬鹿にするのか?」
 と菊太郎君はようやく刺戟を感じ始めた。
「それどころか、僕は君を秀才として推薦したいんだよ。君が伯爵の令嗣とか百万長者の総領とかというのなら、少し間が伸びていても構わないが、株屋の息子さんとしては何か身についた取柄がないと問題にして貰えない」
「しかし秀才は諦めている」
「正直な男だな。仲人口の秀才で宜いんだ。中から少し上ぐらいの成績を取ってくれ。一生に一遍ぐらい本気になって勉強しても罰は当るまい」
「間に合うか知ら? 今からで」
「後半月あるよ」
「斯うと分っていたら、兵隊はやるんじゃなかった」
「見給え。我が身をつねって人の痛さを知れだ」
 と僕は豊子さんのことを思い出した。
「中以上の成績で卒業すれば、見込があるだろうか?」
「あるとも。中以上ですと言うのと中以下ですと言うのは大変な違いだよ。言う人だって言い好いよ」
「よし。やる」
「僕もやる。一緒にやろう」
「一体君と僕は何方が好いんだろう?」
「似たり寄ったりさ。君が捉えていて勉強させないんだもの」
「怠けて来たには怠けて来たけれど、中軸でガッチリ止まっているんだから、やれば案外伸すかも知れないよ」
「いや、中軸は予科の時だよ。本科になってからは中軸と尻尾の間だろう」
「そんなに悪いか知ら?」
「好い筈があるものか? 楽観していちゃ駄目だ」
「一生懸命でやる。ラスト・ヘビーだ」
「一心不乱、試験が済むまでは乃木坂を忘れ給え」
「宜いとも」
 と菊太郎君は納得したが、間もなく、
「君、今日丈けは例外にしてくれ。最後の散歩だ」
 と未練を出した。
「さあ」
「今日は木曜だから書き入れだ」
「会えるのかい?」
「うむ。統計上、木曜は五十五パーセントになっている」
「研究しているんだね」
「君も引受けてくれた以上は見て置く責任がある。抽象的だと気乗りがしない」
「巧く言っている」
「今日丈けだ。明日から魂を入れ替える」
「よし。附き合おう」
 と僕は承知した。
 散歩には寒い日だった。しかしもっと寒い雪の降る日にお供をしたことがある。自慢じゃない。お人好しと見込まれ序に何処までも利用されてやる。同じ年の同じ月同じ日に生れて、小学中学大学とも同級の隣り同志だから深い因縁だ。僕は午後の課業が終ると直ぐに、菊太郎君と一緒に乃木坂へ廻った。
「君、僕は乃木将軍の伝を五冊から読破しているぜ」
 と菊太郎君も流石さすがに気が咎めたようだった。
「よせよ」
「何だい?」
「もう他人行儀には及ばない。君と僕は同じ日に生れて隣り同志に育ったんだ。学校だって悉皆すっかり同じだもの。君が乃木大将の伝を読む人間かどうか、チャンと分っている」
「早合点をしちゃ困る。読まない方に分っているんだろう?」
「うむ」
「失敬な」
「ハッハヽヽ」
「僕は五冊から読破している。嘘だと思うなら見せてやる。何月何日読破ということまで一々書いてあるんだ」
「兎に角、将来は時々乃木さんへお詣りすることになるかも知れないね。僕はそう切望して置く」
「僕もそんな想像を描いている。里へ遊びに来た時、一寸乃木さんへお詣りして来るなんてことにね」
「そのとき何んな人が祀ってあるんだろうと思って、乃木さんの伝を買ってもおそくはない」
「君は失敬だよ、本当に」
「ハッハヽヽ」
「自分が読んだことがないものだから、人も然うだと思っているんだ」
「ハッハヽヽ」
「よし。念晴らしに今日家へ帰ってから見せてやる」
「それにも及ばない。度々主張するんだから本当だろう」
 と僕は認めてやった。しかし菊太郎君は僕に本を見せなかった。見せたかも知れないが、今はもう何年も前のことだから、忘れてしまった。兎に角、菊太郎君は乃木将軍の伝をしきりに言訳に使って、もう一方精神修養を心掛けていることを主張した。それが事実だったかどうかは未だに疑問として僕の頭の中に残っている。
 坂を下りると間もなく久子さんの家だった。左側か右側か、それは言わない。
「主人のことは御存分で結構ですけれど、私と里の方は何分お手軟かに」
 と久子さんから妻を通して依頼があった。
「こゝだよ、君」
 と菊太郎君が門前に立ち止った。
「ふうむ。重役というから、もっと堂々たる構えだと思った」
「これぐらいで仕合せだ。堂々としていたら、手に負えない」
「うむ。余り豪くない方がいい。これでも三百坪ぐらいあるだろう」
「もっと広いよ。後ろが庭になっている。彼方から廻って見ようか?」
「よせ/\。泥棒の下見だと思われちゃ大変だ」
「犬が飼ってあるよ。テリヤーだ。いつか久子さんがつれて歩いていた。僕はあのテリヤーになりたいと思った」
「馬鹿だな」
「ハッハヽヽ」
「もう行こう」
「待ち給え。門から玄関までの間にガレージらしいものが見えまい? 重役でも自動車は持っていないらしい」
「それもよし/\だ。行こう。立っていると変に思われる」
 と僕は菊太郎君を促した。
「これからだ。ゆっくり歩こう」
「来たぜ、彼方から」
「あれは違う」
「目がはやいね」
「これから虎の門まで一生懸命さ」
「僕もヨク/\だな。今まで全く知らないでお供をしていたんだから」
「極楽へ行けるよ」
「覚えてい給え」
「しかし僕としては手頃だろう? あの構えなら、提灯に釣鐘ってこともあるまい」
「うむ」
「君も引受けがいがある」
「恩に着せるなよ」
「ハッハヽヽ」
「重役と言うから、大きな屋敷だろうと思って恐れを為していたが、あれなら安心だ。対等の資格で乗り込める」
「僕だって全然不可能なことは頼まない。これでも相応考えているんだからね。何分宜しく」
「何とか言って責任を負わせるぜ」
「僕は一度とても豪いのを見初みそめかけたことがあるよ。身分が違い過ぎると諦めが早い」
「前科があるのかい?」
「うむ。帝展へ行った時だ。君も一緒だったよ。迚も綺麗な令嬢が来ていた。天の使と言おうか、なんと言おうか……」
「心の中で拝んだろう?」
「無論さ。絵よりも実物だ。ついて歩いたよ」
「不良だな。矢っ張り」
「別に料簡はないんだ。電気に打たれたようになってしまう。僕は女性の魅力チャームを感じる力が特別に強いのかも知れない」
「天性甘く出来上っているんだろう」
「その傾向が多少あるらしい」
 と菊太郎君は自認したが、確かにそうだ。昨今でも時折その傾向を極端に示す。
「それから何うした?」
「君は覚えていないかな? その令嬢の油絵が出ていたんだよ。『M侯爵令嬢』非売品としてあった。無論絵が非売品だろうけれど、侯爵令嬢じゃ歯が立たない。直ぐに諦めた」
「当り前だよ」
「ハッハヽヽ」
「重役令嬢で大仕合せさ」
 と僕は矢田家の構えがそうガッチリしていないのに力を得た。
 話し/\歩いて、道が右へ折れた時、
「君、来た/\」
 と菊太郎君が慌てゝ囁いた。
「二人来るぜ。何方だい?」
「右の方だ」
「此方から右か、彼方から右か?」
「丈の高い方だ」
「分った。流石に……」
「黙って/\。謹厳々々」
「よし」
 と僕は謹厳を守って、彼方から来る女学生にそれとなく注目した。成程、一人は綺麗な人だった。二人とも僕達の存在を全然認めない。頻りに話しながら行き過ぎた。僕は序に菊太郎君の顔を見たら、目が一寸ばかり飛び出していた。
「何うだい?」
 と菊太郎君は得意だった。
「申分なし」
「宜しく頼む。その代り勉強する。もう一心不乱だ」
「すべてきに終るものは好し」
「何だい?」
「これが好い結着になって君が向上するようならば、僕は敢えて君を咎めない。しかし実際のところは感心していないんだよ」
「美人と認めないのかい?」
「そううわっ調子だから困る」
「ふうむ」
「事そのものに感心していないんだ。しかし今更仕方がない。恩に着せるんじゃないけれど、げて引受けてやる。その代り将来を慎むんだぜ。すべて好きに終るものは好し」
 と僕はお説法の積りだった。
 翌日から試験勉強が始まった。菊太郎君は約束を守った。かつてないような努力が毎日つゞいた。矢っ張りやればやれる男だと思った。僕は差当り動機がないから、寧ろ菊太郎君に引き摺られるくらいだった。試験が始まってからはロク/\寝なかったらしい。
「こんなことは初めてだよ。家のものが驚いている」
「感心だ。よく続く」
「昨夜は四時までやった」
「僕は迚もかなわない。僕よりも怠ける代りに、いざとなれば僕よりも余計やる」
「しかし決して学問の為めじゃないよ」
「そんなことは言わない方が宜い」
「いや、これほどやっても些っとも面白味がないんだから、僕の直観は間違っていない」
「何ういう直観だい?」
「学問なんか詰まらないものだと子供の時から思っていたが、実際その通りだ」
「それにしても能く続く」
「目的があるからさ」
 と菊太郎君は正直だ。嫌いな学問が好きになったと誤解されては困るのらしい。
 一週間続きの試験が終った。僕達は連日連夜こんなに努力したことは小中大学を通じて最初の最後だった。菊太郎君は何うか知らないが、僕一人としては一種のあわい哀愁を感じた。長い/\学生生活の終焉だ。僕達と一緒に答案を出した一人の学生が、
「先生、これでイヨ/\ねんが明けました」
 と言った。
「名残り惜しいかね」
 と先生は答案を揃えながら答えた。
「はあ」
「それじゃもう一年来られるようにして上げようか?」
「飛んでもない」
「ハッハヽヽ」
「溜まらん/\」
 と僕達は逃げて来た。
 重荷を下した。試験の済んだ日ほど心持の好いものはない。殊に卒業試験でもう永久に無罪放免だ。その上に可なりやった自信がある。
「さあ。天下晴れて遊べるぞ」
 と僕は菊太郎君を慰労する積りだった。
「うむ」
「何処かへ廻ろうか?」
「直ぐ帰ろう」
「元気がないね。何なら乃木坂でも宜いよ」
「さあ」
「行こう」
「矢っ張り帰って寝る方が宜い。頭痛がして仕方がないんだ」
 と菊太郎君は顔色が悪かった。
「頭を使い過ぎたんだろう」
「然うだよ。随分無理をしたから、神経衰弱になったんだ」
「まさか。然う急に来るものじゃない」
「いや、僕はこんなに勉強すると神経衰弱になると思った。直観があったんだ」
「当分よく寝ることだよ。きに癒る」
「大したこともあるまいけれど、用心しよう」
「乃木坂を発起しても動かないところを見ると余っ程痛いんだね」
「今朝からだよ。実は漸くのことで頑張ったんだ」
「それじゃ早い方が宜い」
 と僕の方から促して、直ぐに帰って来た。
 翌朝、誘い出す積りで行って見たら、菊太郎君は寝ていた。風邪らしいと言う。熱があった。僕は毎日見舞いに行ったが、毎日同じようだった。一週間ばかりたって成績の通知が来た時、二人は鼻が高かった。僕が六十五番で菊太郎君が五十八番だった。単に席次としては自慢出来ないが、二百人余りの中から、優に中軸を突破している。菊太郎君も僕も地頭ぢあたま[#ルビの「ぢあたま」はママ]は決して悪いのでない。一寸薬を飲めばこの通りだ。もっと早く気がついて試験毎に飲んでいたら、首席を争ったかも知れない。
「驚いたな、これは」
 と菊太郎君もこれほどとは思わなかったらしい。
「君に花を持たせようと思って、大分加減したんだぜ」
「実際僕が君より上ってことはない」
「冗談だよ」
「いや、全く君のお蔭だ」
「何あに」
「これで資格が出来たけれど、矢っ張り人生は人生だ。情けない」
「どうして?」
「秀才は病気にもろい。大抵若死をする」
「それほどの成績でもあるまい」
 と僕は可笑しくなった。
「兎に角、斯ういう時に魔が差すものだ」
「ハッハヽヽ。大きく出た」
「冗談じゃないよ。僕はこの病気で死ぬのかも知れないと思っている」
「風邪ぐらいで死ぬ奴があるものか?」
「いや、唯の風邪じゃないらしい。余り長びくからって、国分こくぶさんが首を傾げていた。チブスかも知れないんだ」
「ふうむ」
「二三日中に分るだろう。チブスと定ったら入院する。大抵助からない」
「心細いことを言うなよ」
「僕は寝ていて考えたんだ。成績が普通なら、これは唯の風邪、し図抜けて好いようなら、これはチブスだろう。然ういう直観が霊感のように頭の中へ湧いて来た」
 と菊太郎君はその頃から直観を主張する癖があった。今でも直観で売ったり買ったりして損ばかりしている。
「チブスだって癒るよ」
「成績が好かったから気になるんだ。斯ういう時には得て魔が差すものだよ」
「魔が差すほどの成績じゃないと言っている」
「兎に角、例の件は待ってくれ」
「乃木坂の方かい?」
「うむ。まだ誰にも話すまいね」
「話さない」
「万一のことがあると先方へ不吉けちがつく。口をきいたことがないけれど、心の底から愛している人だ。僕の不幸の暗影をかりそめにも投げかけたくない」
「おい。君は少し何うかしているんじゃないか?」
 と僕は本当に心細くなった。
 以来余り当ったことのない直観だけれど、菊太郎君は予言通りチブスと定って、卒業式の日に東京病院へ入院した。僕は菊太郎君の免状を貰って来て、お母さんに手渡したことを覚えている。然う/\その時もう入院したということをお母さんから聞いたのである。さあ、僕は心配した。子供の頃、菊太郎君の病気を必ず後から頂戴している。麻疹はしかジフテリア水痘と一々枚挙にいとまがない。中学校に入ってから何方も丈夫になって悉皆すっかり忘れていたけれど、又チブスを拝領しては堪らない。僕はそう気がつくと直ぐに国分さんへ駈けつけた。老先生がまだ存命の頃だった。
「成程ね、菊太郎さんの病気は君がいつも貰っていた」
「それだから危いんです」
「宜しい。予防をして置きましょう」
 と言って、国分さんは注射をしてくれた。
 菊太郎君はナカ/\手重かった。病症が病症だから、僕は家へ見舞いに行くだけにしていたが、或日、菊太郎君のお母さんが病院の帰りに寄って、
「日出男さん、菊坊があなたのことを頻りに口走りますから、一寸お顔を見せてやっていたゞけませんでしょうか?」
 と気の毒そうに言った。大学を卒業しても菊坊だ。もって甘さが分る。心痛のほども察しられた。
「伺って宜いなら伺います。実は御遠慮申上げていたんです」
 と僕は事実その通りだった。予防注射が利いているから、もう怖くない。
「あなたにお目にかゝれば力がつきましょう」
「僕に出来ることなら何でもします。何うですか? 御容態は」
「今が峠だと申します。何方へ転ぶか分りません」
「矢っ張り熱が高いんでしょうね?」
「はあ」
「困りましたな」
譫言うわごとを申します。『日出ちゃん、先へ行くよ。先へ行くよ』って、今日はそれを幾度も申しました」
「はゝあ」
「もう死ぬことが分っていて、暇乞の積りかと思うと、不憫ふびんで/\……」
 とお母さんは涙をこぼした。僕もついシク/\やってしまったが、
「そんなことはありません。始終一緒に学校へ行ったんですから、その夢を見るんでしょう」
 ともっと現実的に解釈した。
「日出ちゃん、僕、先へ飛ぶよって」
「はゝあ」
「飛んじゃいけませんよって、私、大きな声を出して、看護婦さんに笑われました。飛べば死ぬんでございましょう」
「子供の時の夢を見ているんですよ」
「然うかとも思うんですけれど、気になって/\仕方ありません」
御道理ごもっともです。他に何か仰有いませんか?」
「学校のことばかり申します」
「試験で頭を使っていますからね」
「勉強が過ぎたんですわ。私、いつにないことだと思って感心していましたら、早速この始末です。あの子はあなたと違って根が丈夫じゃありませんから、矢っ張り勉強が性に合いません」
 とお母さんは多少僕の所為せいにしているのかも知れない。苦しい時は神さまを頼むと共に、責任者を周囲に物色する。豊子さんが見舞いに来て、
「兄さんは屹度日出男さんと一緒に何か悪いものを喰べたのよ」
 と言ったそうだ。
 菊太郎君は高熱にも拘らず、僕が行った時は折り合っていた。じっと僕の顔を見て、頷いたようだった。
「直きに癒るよ。しっかりし給え」
 と僕は力をつけた。話をしてはいけないと断られている。
「宜いでしょう? 日出男さんに来ていたゞいたから」
 とお母さんが言った。菊太郎君は満足らしい顔をしたが、間もなく目をつぶって、ウト/\し始めた。豊子さんも見舞いに来ていて、
「日出男さん、一寸」
 と僕を廊下へ誘い出した。
「飛んだことですね、本当に」
「私、あなたにお願いがございますの」
「何ですか?」
「成田山へ往って来ていただけません? 御祈祷をお願いに」
「お安い御用です。行って参りましょう」
「なんとかして助けてやって下さい。兄さんに万一のことがあれば、家はやみよ」
 と豊子さんは泣きそうになっていた。
 僕は早速成田詣りを果した。大きな御祈祷札を貰って来て、病室へ持ち込んだ。菊太郎君は高熱のため脳症を起して、二三日容態が悪かった。頻りに譫言を言う。それも学校の講義だ。財政学や銀行論の要点を口走る。試験を受けたばかりだから、能く覚えている。時折雄弁滔々、水の流るゝが如きものがあった。
「御演説をなさる時は屹度失禁しっきんしていらっしゃいます」
 と看護婦が言った。
「何ですか? 失禁ってのは」
「おシッコでございます」
「はゝあ」
「ベッドを大洪水にして、滔々と弁じていらっしゃいます」
「誰でもそんな風ですか? 熱が高いと」
「いゝえ」
「少し熱が下ると宜いんですけれど」
 と僕は溜息をつくばかりだった。
「矢っ張り学者は違ったものでございますわね」
「学校のことが頭にあるんです」
「秀才でいらっしゃいましょう?」
「はあ。迚も出来が好いんです」
「普通の患者さんとは御人格が違いますから、譫言も立派なことばかり仰有います。私、斯ういうお方は初めて御看護申上げます」
「他に何か言いませんか?」
「一から十まで学問のことでございます」
「矢っ張り頭が好いんです」
「斯ういう秀才は国家のためにも癒して差上げなければなりません」
 と看護婦は感激していた。
 菊太郎君は脳症が治まってから順調の経過を辿った。二週間ばかりで熱が下り始めた。元来丈夫な身体だから、肥立ひだちかけると早かった。但し物を食いたがって困った。或日のこと、
「君、相談がある。内証だ。秘密を要する」
 と持ちかけた。僕はもうソロ/\乃木坂の件だろうと思ったら、何か食物を匿して持って来てくれというのだった。
「飛んでもない」
「何あに、大丈夫だ」
「今が一番大切の時だよ。ようやく拾った命を粗末にしちゃいけない」
 と僕は言い聞かせてやった。
「何だい? お為めごかしにするな」
「先生に訊いて見よう。宜いと言ったら、何でも買って来てやる」
「毎日手ぶらで見舞いに来て文句をつける奴は嫌いだ」
「それじゃもう来ないよ」
「来るな」
「帰るよ」
「帰れ」
 と菊太郎君は喰べたい一心で機嫌が悪かった。
「市岡さん、あなたは呆れた人ね」
 と看護婦の秋山さんはもう懇意づくになっていた。
「冗談ですよ」
「いゝえ、脅かして置いて何かに有りつくお積りですわ」
「ハッハヽヽ」
「もう少時しばらくの御辛抱よ。学問のお話をなすってお気をまぎらすのが一番宜うございましょう」
「学問なんか大嫌いです」
「まあ。御謙遜ね。譫言にまで学校の講義をなすったじゃありませんか?」
「そんなことを皆が言っていますが、本当ですか?」
「秀才は違ったものですって、先生方も感心していらっしゃいますわ」
「僕は些っとも知らない」
「講義をして小便をしていたんだ。だらしがない。威張るな」
 と僕はたしなめてやった。
 菊太郎君は退院して何でも食べられるようになってから初めて乃木坂の問題に触れた。それまではその余裕がなかったのらしい。して見ると恋愛なんてものは全く贅沢の沙汰らしい。
「僕は肥立ちになってから考えたんだ。迚も助かるまいと思ったのが癒ったんだから、天いまだ我を棄てず、して見れば例の方も成功するだろうという直観だ」
 と菊太郎君は又直観を振り廻した。
「君は直観を考え出すのかい?」
「直観が考え出させるのさ」
「然うだろうね。同じ嘘でもその方が理窟に合っている」
「嘘なんかつかないよ。直観で成功に定っているんだから、万一にも纏まらないようなら世話人が悪いって意味さ」
「君、人に物を頼んで置いて、そんな勝手なことを言うものじゃないよ」
「責任を負わせるんだ」
「負わないよ、僕は」
「それじゃ今更卑怯にも後へ引くのかい?」
「引きはしないけれど、間違えば責任になるんじゃ迷惑する。僕だって物好きでやるんじゃない」
「しかし好い直観のある方が君だってやり宜いだろう。直観で奨励してやるんだ」
「死ぬようなことを言っていて癒ったじゃないか? 君の直観が当るものか? 演説をやりながら失禁していたんだから、大きなことは言えないぞ」
 と僕は極めつけてやった。丈夫になると、お互にもう直ぐ我儘が出る。

損と得の開き


 卒業証書を貰って来た日の晩だった。心祝いとあって、お赤飯に尾頭おかしらつきで、店員達が居並んだ。
「日出男もお蔭で何うにか斯うにか……」
 と父親が控え目に披露をした後、
「実は思いの外の成績でしたから、喜んでいたゞきたいと存じまして」
 と母親が宣伝した。この挨拶で僕のところの家風が分る。親父は評点がからい。母親は無暗に甘い。チャンポンだから、変な息子が出来上ってしまった。菊太郎君のところも同じ傾向を免れない。僕と菊太郎君が似通っているのもその為めだろう。
「お芽出度うございます。若旦那、御苦労さま」
 と丸尾さんが代表して、一同頭を下げた。爾来十数年、人間の運命は分らないものだ。この丸尾さんが当てた。昨今は立派な店を構えて、僕のところよりも盛大にやっている。
「大学を出れば大学者ですから、もうこの上はありませんな」
「私達小学者とは違います」
「もう学問だけでも一本立ちになれるんですから、豪いものです」
 と他の番頭達もそれ/″\お祝いを述べた。お世辞もあったろうけれど、誤解もあった。大学卒業生が未だ今日ほど行き詰まらない頃だった。
「若旦那、大学の免状ってものを一遍拝ませていたゞけませんか?」
 と下村君が所望したので、僕は母親が神棚へ上げて置いたのを取りに行った。その折、お燈明を覆えしたものだから、免状に油がしたたみた。
「しまった」
「何うしたの?」
 と母親が立って来た。
「お燈明をひっくりかえしてしまって……」
「まあ/\」
「拭いて置いて下さい」
 と僕は畳の始末を母親に頼んだ。免状が番頭達の手に渡った。
「折角のものが油だらけになって、惜しいことをしましたな」
「いや、それは長年油を売ったしるしです。矢っ張り争われないものですよ」
 と父親が笑った。学校のことで小言を言ったことはなかったが、僕の不勉強をよく知っていたのである。
「これはこれから油が乗るという吉兆きっちょうでございましょう」
 と下村君が気を利かした。兜町の連中は兎角縁起を担ぐ。物事を好い方へじつけないと安心が出来ない。
「時に若旦那は何処か会社へでもお勤めになりますか?」
 と丸尾さんが訊いた。出世をするくらいの人だから、目が利いている。斯ういうのに店を引っかき廻されては困ると思ったのだろう。果して僕は丸尾さんに並み一通りならぬ迷惑をかけつゞけた。
「いや、店で働きます。何分宜しく」
「私達こそ」
「これからが本当の修業です」
 と僕は素よりその積りだった。
 番頭達が引き退ってから、
「日出男や、長々御苦労だったな、本当に」
 と父親がねぎらってくれた。
「どう致しまして」
「これで兎に角、教育の方は仕上った。何処へ出ても、引けは取るまい」
「いや、未だほんの目鼻がついたばかりです」
 と僕は警戒した。油の件がピンと利いている。
「これがお父さんの若い時分の頃だと豪いものだけれどもね。学校さえ出れば、直ぐに銀行の支店長ぐらいになれたんだが、現今は然うは行かない」
 と親父、果してこの機会をお説法に利用する気だった。
「就職難ですから、平社員でもナカ/\むずかしいんです」
「何うするね? 身の振り方は」
「別にこれって考えはありません」
「しかし遊んじゃいられまい」
「日出男や、お前の思う通りを言って御覧」
 と母親がはたから言葉を添えた。
「はあ」
「会社へ勤めるなり、店で働くなり、お前の自由で宜いとお父さんは仰有っていなさるんですから」
「矢っ張り家の商売をやるか?」
 と父親が先ず持ち出したのは元来その方を希望しているのだった。僕としても兼ね/″\そう理解して貰ってある。
「はあ。家で働かせて戴きます」
「会社へ勤めて月給取になるのも悪くはないよ」
「いや、僕はお父さんの後を継ぎます」
「その方が宜いでしょう。余所よそへ行って苦労するよりも、家にいれば若旦那で勤まるんですから」
 と母親がまた口を出した。
「それがいけないんだよ」
 と父親は忽ちむずかしい顔をした。
「何故でございますか?」
「家で働くにしても、店員並みにやって貰わなければ困る」
「それは表向きは然うでしょうけれど」
「表向きも裏向きもない。お前は黙っていなさい」
「…………」
「日出男や、お前がわしの後を継ぎたいと自発的に言ってくれるのは俺も嬉しいが、家の商売はこれでナカ/\楽じゃないよ。お客さまの御用を足して口銭こうせんを稼ぐのだから、会社へ時間で勤めて月給を貰うのとは行き方が大分違う」
「はあ」
「水鳥は唯見ると何でもなく浮いているようだけれど、足に小休みがないという。丁度それだと思う。お客さまから大きな責任を引受けているんだから、些っとも油断がならない。気骨の折れることおびただしい」
「その辺も分っている積りです」
「お前がやってくれゝばこの上なしだ」
「やらせて戴きます。余所へ勤めるよりも、その方が手っ取り早いです。もう地盤が出来ているんですから」
「それは然うさ」
「一つ僕が当てゝ御覧に入れます」
「それがいけない」
「しかし当てなければ、ドカッと儲からないでしょう?」
 と僕は本気だった。
「飛んでもないことだよ。家で働くからには断って置くが、手張てばりは一切無用だ。口銭だけを稼いで貰う」
「はあ」
「一口に株屋というと無暗に儲かって派手な商売のようだけれど、実はこれぐらい地味な稼業はない。又地味にやって行かなければ、立ち行かないように出来ている」
「はあ」
「ところが口銭を稼ぐだけじゃ手間仕事だと思うから、ついドカッとやって、ドカッと損をする。兜町に三代目なしという諺は実際だ。親が口銭で叩き上げた身代を息子がドカッとやってくしてしまう。俺は家の商売をやって貰うのは嬉しいけれど、それが心配でならない」
「大丈夫です」
「その大丈夫が当てにならない」
「地味にやります」
「それはドカッと儲ける人もある。しかしその裏に丁度それだけ損をしている人があるんだから、表ばかり見て羨ましがっちゃいけない。お前なんか手を出せば、どうせ損の方へ廻るんだ。手張りは一切やりなさんなよ」
「承知しました」
「それじゃ明日から丸尾について、場へ出て見なさい」
「はあ」
「当分は見習だ。月給は要るまい?」
「さあ」
「ハッハヽヽ」
 と親父、それは冗談だった。
 僕は月給五十円で店の見習から叩き上げることになった。今から考えて見ると、この商売は何よりも性にかなっていた。抜け駈けだったが、直ぐに初陣ういじんの功名をした。手張りをやるなと言われても、やらないでいられるものでない。僕は三四日場へ行っている中に、もう食指が動いて来た。一人のお客さんが二千円ばかり儲けたのである。
「丸尾さん、僕もこの人と同じにやって置けば、二千円儲かったんですね」
「然うです」
「簡単なものですね」
「儲けるのも簡単、損をするのも簡単です」
「僕も一つやって見ましょうか?」
「やって御覧なさい」
「本当ですか?」
「えゝ」
「責任を負ってくれますか?」
「そんな度胸のないことじゃ駄目ですよ」
「しかし見つかると親父に叱られます」
「それならお控えになることです」
「おや/\」
 僕は丸尾さんの胸中を察し兼ねた。諫止かんしするようでもあり、奨励するようでもある。しかし若旦那として使用人の掣肘せいちゅうを受ける必要はないと思った。もう決心をして機会を待っていた。この相場はかいだという直観が動いたのである。直観といえば、丁度菊太郎君が悪い最中だった。チブスをやって苦労をかけるよりも、手張りをやって損をかける方が親不孝の罪が軽かろうと考えた。斯う一々理窟をつけて行動する程度だったから、無論大きなことは出来なかった。お客さまから新東三百買という註文を受けた時、三百五十にして置いた。
「丸尾さん、この五十だけ僕です」
「おやりになったんですか?」
「はあ。度胸を据えました。運試しです」
「矢っ張り買でしょうな、こゝ当分は」
「僕も然ういう直観です」
「早速ながら、証拠金を戴いて置きましょう」
「お客さまのと一緒に立て替えて置いて下さい」
「お父さんが御承知ですか?」
「いや」
「それじゃ困ります」
「そこを何うか」
「これが危いです」
 と丸尾さんは首を叩いて見せた。
「何うしましょうか?」
「お父さんに一言申上げて来て下さい」
「駄目です」
「お母さんでも宜いです。私は使用人ですから、一存では計らえません」
「それじゃ一寸行って来ます」
 しかし僕は単に家へ帰る風をしただけだった。丸尾さんもそれぐらいのことは分っていた。名目さえ立てば宜いのだった。直ぐに融通をつけてくれた。三四日たって、そのお客さまが仕舞った時、僕も仕舞ったら、手取り百五十円ばかり儲かった。さあ天狗になってしまった。
「丸尾さん、どうですか?」
「恐れ入りました。運試しとしてはこの上ありません」
「百やって置けば三百円でした」
「千やって置けば三千円。一寸ちょっとしのげます」
「一万やって置けば三万円。十年ぐらい凌げます」
 手初めが成功だったから、直ぐに病みついて又やった。今度は百だった。しかし然ういつも柳の下に泥鰌どじょうはいない。その日の中に下り始めたから、慌てゝ手放した。前に儲けただけを悉皆すっかり吐き出してしまった。
「若旦那、何うですか?」
「危いところでした」
「しかし見切りのお早いには感心しました。明日まで頑張っていて御覧なさい。百五十円じゃ済みません」
「矢っ張り、うっかりはやれませんね」
「お分りになりましたか?」
「いや、思いがけない悪材料が出たからです。直観は当っていたんですけれど、運がなかったんです」
「これが儲けっきりに儲かるものなら、こゝにいる人は皆金持になってしまいますよ」
「理窟は無論それに違いないんですけれど」
「違いないけれど、自分丈けは何うにかなりそうに思うのが弱味です。尤もそれがあるから各自斯うしていられるんでしょう」
 取って取られたのだからトン/\だ。僕は一向悲観しなかったが、直ぐに又手を出す勇気がなかった。これは形勢を見極めてからやれば必ず思い通りに行くと考えた。相場は毎日下り気味だった。慎重な観察をつゞけた後、百売って、
「丸尾さん、何んなものでしょう?」
 と今度は大丈夫の積りだった。その口の下から相場は反対に上り始めた。しかし見どころがあるから五六日辛抱したのみならず、難平なんぴんと出てもう百売り足したら、又々上った。
「若旦那、何うですか?」
「困ったよ」
「今お仕舞いになると、両方で五百円ばかりの御損ですよ」
「何うしたものだろう?」
「二百円で五百円なら、二千で五千円、二万で五万円。御損をなさる時も、桁数けたかずを考えて御覧になる必要がありましょう」
「お説法は後のことにして貰って、君なら何うするね?」
「見切ります」
「仕方がないかね?」
 菊太郎君が退院したのは丁度その頃だった。日毎に元気づいて、夜分僕を呼びつける。
「何うだい? 景気は」
 と病み上りは丈夫で活動しているものが羨ましいのらしい。
「悉皆いけない」
「やっているのかい? 今」
「うむ。場にいると何うしても手を出す」
「僕も早く手を出して見たい」
「しかし見込が外れると実に厭なものだぜ。取って取られたから、今度は勝負の積りで、少し大きくやったら見事引っかゝってしまった」
「売ったんだね?」
「うむ。二百だよ。売と出たら直ぐに上り始めやがった」
「僕に相談すれば宜かったんだよ。僕は何うも上るような直観があった」
「それじゃこれから先は何うだい?」
「まだ上るね、ジリ/\と。今度の相場は底力がある」
「豪いね、君は矢っ張り」
「斯う目をつぶっていると、一々直観の明鏡にうつって来る」
「店の人の話を聞いたんだろう?」
「ハッハヽヽ」
「冗談じゃないぜ」
「幾らの損だい?」
「五百円を少し越すかも知れない」
「僕も病院で丁度それぐらい使っている。君は苦しい思いをしなかっただけ徳だ」
「然うとでも思って諦める外仕方がない。しかし厭なものだぜ。損をするのは。胸に鉛か何かつかえているような心持がする」
 と、これが僕の実感だった。それから今日まで月に一度ぐらい宛大きな鉛が痞えるのだから始末が悪い。尤も損の裏は儲けだ。両方へ廻るから大したことはない。
「ところで例の件は何うしてくれる?」
「乃木坂かい?」
「当り前さ」
「威張ったものだ」
「口先で受合ってばかりいても駄目だよ。早く行動を執らなければ、機会を逸してしまう」
「その中に何とか方便を考える」
「これから考えるのかい?」
「然うさ。知っている間柄なら話が早いけれど、今のところ些っとも切っかけがない。つるから蔓を辿って行くんだから、手間が取れる」
「手間の取れるのは仕方がないけれど、早く行動を開始しなければ、待っているにも当てがない。着手丈けは直ぐにして貰いたいものだ」
「その辺も僕に一任してくれ給え。決して悪いようには計らわない」
「厭に落ちついているよ。人のことだと思って」
「話が始まったって、その容態じゃ見合なんか出来ないぜ」
「容態? 僕はもう病人じゃないよ。もう悉皆癒ったんだ」
「いや、地獄から抹香まっこうの相場を訊きに来たような顔をしている。それで見合をしたんじゃ問題はないよ」
「そんなかい? 未だ少し瘠せているには瘠せているけれど」
「目の下や鼻の両脇が凹んでいる。生きた人間よりも骸骨って印象の方が強い」
「厭だな」
「もう少時しばらく待ち給え。僕も一儲けしないと元気が出ない。自信がついた時行動を開始すると、トン/\拍子に事が運ぶ」
「それじゃ一生待っても駄目だろう」
「生意気を言うな」
「早く儲けてくれよ」
「うむ」
「早く太りたいものだ」
 と菊太郎君は頻りに顔をこすっていた。
 手も足も出なくなって、新東二百を仕舞ったら、六百円近くの損だった。月給一年分に当る。当然父親に知れて、ひどく叱られた。僕のようなものが儲かるようなら、世間に損をする人間はないということだった。斯うなって見ると、然うも思える。丸尾さん初め番頭一同は、
「日出男の為めに融通をつけることは一切なりませんよ。見習に手張りをさせて何うするんですか? 俺は監督を頼んで置いた積りだった。これからはもっと本気になって指導して下さい」
 と改めて申渡された。
 僕は差当り懲りた。しかし見切ってしまった後は気持が清々した。清算という言葉が当っていると思った。
「若旦那、何うですか?」
 と丸尾さんがニヤ/\笑った。
「飛んだ御迷惑をかけました」
「いや、そんなことは構いませんが、これで大体がお分りになったでしょう?」
「えゝ。もう懲りました」
「それは嘘です」
「もうやりません」
「それも嘘です」
「本当ですよ」
「それなら結構ですが、兎に角、今度の御損を生かしてお使い下さい」
「何ういう意味ですか?」
「第一は只今の御決心通り、一切手をお出しにならないことです。しかし周囲が周囲ですから、それは無理です。屹度また謀叛心が起ります。そこで第二です。第二、損は儲けよりも必ず大きいということです」
「大きいから用心しろと仰有るんですか?」
「その辺でしょう」
「必ず大きいって理窟はないでしょう」
「しかし事実が然うなっています」
「僕の場合は偶※(二の字点、1-2-22)然う廻り合せたんですけれど」
「私達も今までのところ皆然うです」
「しかしこゝで成金になる人もあるじゃありませんか?」
「その成金ですよ、私達が小さく儲けて大きく損をする差額を悉皆さらって行ってしまうのは。つまり私達は上ったの下ったのと言って、交叉点の信号のように赤くなったり青くなったりしながら、大勢がかりで成金のために寄進きしんについているんです」
「此方だって、その成金の方へ廻れないことはありませんよ」
「それがナカ/\むずかしいんです」
「なあに」
「運次第でしょう」
「運と直観です。見ていて御覧なさい。今に寄進につかせてやります」
「成程。懲りていらっしゃいますな」
「いや、議論としてですよ」
 と僕は誤魔化した。
 丸尾さんはその後成金の方へ廻って僕にも可なり寄進につかせたくらいだから、元来頭の好い人だった。僕は肝胆相照らして、他の若い番頭達よりも丸尾さんに信頼した。年が少し多いだけに時々意見めいたことを言い出す。しかし分らない人ではない。父親に内証でチョク/\融通をつけてくれた。
「手張りを封じたんじゃ人間を殺すようなものです。口銭々々って、堅いことを仰有っていても、お父さんだって実は手張りからお仕上げになったんです」
 と自分も好きだから話が分っている。尤も帳簿が合わなくなると僕が権太をやる。権太というのは母親に泣きついて出して貰うことだ。
「丸尾さん、僕は一つあなたの智恵を借りたいことがあるんですが、相談に乗ってくれますか」
 と僕は或日改まって切り出した。一寸手隙になって、食堂へお茶を飲みに行った時だった。
「いけませんね、幾つやっていらっしゃるんですか?」
「いや、商売の方じゃないんですから御安心下さい」
「これは又情けない若主人ですな」
「何故ですか?」
「店の信用に関係しますよ。商売の方じゃないから安心しろなんてのは」
「寄進についてばかりいるから仕方ありません」
「何ですか? 一体」
「恋愛問題です」
「ヘヽエ。これはおいでなすった」
「ハッハヽヽ」
「手張りをやったり、恋愛をやったり、ナカ/\お忙しいんですね」
「僕じゃないんです」
「おや/\」
 と丸尾さんは失望したようだった。
「親友が悩んでいるんです」
「市岡さんですか?」
「はあ。御相談申上げるんですから、匿しても置かれません。市※いちかね[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、386-上-11]の菊太郎君が重役の令嬢を見初めてしまったんです」
「成程。それで私に一つ意見をしてくれと斯う仰有るんですな?」
「ハッハヽヽ」
「何ですか?」
「あなたは矢っ張り自信家です」
「廻りくどけなし方はよして下さい。仰有るんですなと訊いた丈けで、それから先は未だ白紙ですよ」
「纏める方の御相談ですよ」
「乗りましょう」
「矢っ張り分る」
おだてちゃいけません」
「いや、お言葉に甘えるんです。実は安請合に引受けたんですけれど、何処から始めて宜いのか、見当がつきません」
 と僕は乃木坂の一部始終を物語った。
「成程。これは一寸むずかしいですな」
「切っかけのつけようがないんです」
「お待ちなさいよ」
 と丸尾さんは腕組をして考え込んだ。
「誰か知っている人があると宜いんですけれど」
「それですよ。これは屹度あるに相違ない」
「あるには定っていましょう」
「いや、この手近にです。会社の重役なら金を銀行に寝かして置きませんから、株を買いますよ。買うとすれば、同業のものが誰か出入しているに相違ありません」
「成程」
「二三日待って下さい。何処のお得意か突き止めます。株屋ってものは御主人に直接喰い入っていますから、場合によっては、その人に橋渡しが頼めます」
「何分宜しく」
 と僕は好い相談相手を見つけた。その後、菊太郎君に報告して、名前を出したことを断ったら、
「宜いとも。久子さんを貰えさえすれば、兜町中へ発表しても宜いんだ。斯うなれば恥も外聞もない」
 と菊太郎君は大威張りだった。その後温泉へ往って来て、悉皆肥立ひだっていた。もうソロ/\商売を始めることになっていた。
「若旦那、世の中は狭いものですな。高野君が矢田さんへ出入していました」
 と日曜を置いての翌日、丸尾さんがもう突き止めた。高野君は米喜こめきという店の番頭さんだ。丸尾さんとは同郷で、二人申合せておっ走って来た間柄だった。後の話になるが、丸尾さんが成功して店を出してからは、高野君が入って支配人を勤めている。僕も見知り越しだから、お昼に食堂で話しかけたら、用件がもう徹底していると見えて、
「私ですよ、矢田さんへ始終伺って、御贔屓ごひいきに願っているのは」
 と先方から切り出して、ニコ/\した。
「どんな人ですか? 矢田さんってのは」
「さあ。これってこともありませんが、一寸取っつきの悪い人ですよ」
「はゝあ」
「しかし私は年来ですから、可愛がって貰っています」
「一つお願いがあるんです」
市※いちかね[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、387-上-13]さんの御縁談ですってね」
「はあ。話が込み入っていますから、こゝじゃむずかしいです。今夜如何ですか? 御ゆっくり」
「実は今晩矢田さんへ伺うことになっていますから、なんならお勧めして見ましょうか?」
 と高野君は気が早い。しかしボロ株と一緒に勧められては大変だ。
「未だ/\慎重です」
「その方がいゝでしょう。兎に角、今晩は追敷おいじきをいたゞきに伺うんですからはずせません」
「短期をやっているんですか?」
「はあ。チョク/\」
「話せるんですね」
 と僕は有望に思った。短期をやるくらいなら、株屋の息子だからといって嫌うまい。
「内証ですよ」
 と高野さんは人柄が好い。初めから追敷だと口走っている。
「はあ」
「このところ曲りつづけで、お気の毒です」
かいですね?」
「えゝ。今月に入ってから三千円ばかり引っかゝっています。今晩あたりは御機嫌が悪いでしょう。『第一、手前のしゃつらが気に入らない』なんて来るんですから、曲った時は難儀をします」
「我儘な人ですね」
「その代り好い時には又馬鹿に好いんです。『御褒美だよ』なんて言って、ポンと投げ出してくれます。奥さんがまた気前の好い人です。これは売の方へ廻っていますから、今晩は鼻息が荒いでしょう」
「何ですか? 夫婦ともやっているんですか?」
「はあ」
「これは驚いた」
「妙にお二人の見込が違うんです。御主人が売ですと、奥さんは大抵買です。御主人は実業界の人ですから、大勢が分っている積りでしょう。ところが奥さんは御主人を然う豪いと思っていませんから、この男の反対をやれば屹度儲かると思うんでしょう」
「成程」
「御主人から見れば奥さんはズブの素人です。『なんだ? 此奴が』って気がありますから『お前が売なら、おれは買だ』ってことになります。考えて見ると、安全な方法ですよ。片一方が損をしても、もう一方が儲けるんですから、長年やっていらっしゃるけれど、トン/\でしょう、殆んど」
「売買両方じゃやらないのも同じことじゃありませんか?」
「そう思うんですけれど、何方もお好きですから、好いお楽みになるんでしょう」
「面白い家庭ですね」
「迚も朗かですよ」
「お嬢さんの下に息子さんが二三人あるようですね」
「三人です」
「差当りのところ、お嬢さんに縁談があるかどうか、それを一つ確めて来て下さいませんか?」
「承知しました。それとなく当って見ましょう」
「明日の晩は如何ですか? 御都合は」
「さあ」
「御遠慮には及びませんよ」
「丸尾君も見えるんですか」
「はあ。市岡君も引っ張り出します」
「それじゃお言葉に甘えましょう」
「大勢がかりで一つあなたの智恵を絞りたいんですから、何うかそのお積りで」
「有り合せで宜しければ、幾らでも御用立て致します」
 と高野さんは応じてくれた。
 翌日から菊太郎君が見習を始めた。僕は早速高野君に紹介してやった。
「何分宜しく。お目にかゝらない中から飛んだ御厄介をかけました」
 と菊太郎君、如才ない。
「金子さんにも申上げましたが、御縁談は未だこれってのがないそうです」
「有難いです」
「何れ今晩又」
 と場が開いたばかりだから、高野君は忙しそうだった。
「日出男君、僕は買だよ」
 と菊太郎君は直ぐに向き直った。
「もうやるのかい?」
「第一日に百買って、一生の運勢を試す。病院にいる時から然う考えていたんだ」
「しかし買いってことはないだろう? 今日あたり」
「いや、直観だ」
「危いぜ」
「ケチをつけるなよ。初陣ういじんだ」
「初陣だから特別念を入れる必要がある。見給え。三十銭下った」
 と僕が諫めている口の下から、菊太郎君は百買ってしまった。経験のない奴は度胸が好い。
「君のところは手張りをしても宜いのかい?」
「無論いけない」
「証拠金はどうする?」
「買ってしまえば店で払わずにはいられまい」
「乱暴だね」
「初陣だ。親父だって大目に見てくれるだろう。近所に損をしたお手本さえあるんだから」
「僕は損はしないよ、初陣には兎に角」
「おや/\、また二十銭下った」
「言わないことじゃない。もう五十円損をしている」
「引けまでにはねっ返すだろう。今日はうまの日だぜ。尻っねだ」
「僕はこの頃は五十銭引かれたら、直ぐ逃げることにしている」
「意気地がないんだね」
「何分内証でやっていることだから」
「手張りをしちゃいけないと言うのも要するに結果論さ。儲ければ、親父だって、サッと斯う日の丸の扇を開く。天晴あっぱれ/\!」
 と菊太郎君は当るべからざる勢いだった。脳症が未だ多少残っているのかも知れない。

縁談の駈引


 その晩、僕達四人は「かのう」という家で顔を合せた。僕も菊太郎君も待合は初めてだった。実は在学中から二人の間に約束があった。それは卒業したら、お祝いに待合へ行って、思い存分騒いで見ようということだった。何方から言い出したのか忘れてしまったが、余り好い心掛けでない。尤も菊太郎君が病気になったものだから、実行の運びに至らなかった。今回はその埋め合せもあった。「叶」という家を撰んだのも僕が縁起を祝ったのである。縁談だ。叶ってくれなければ困る。それから菊太郎君と僕は兎に角若旦那だ。丸尾さんは僕の店の使用人で高野君はその友人だ。遠慮があるといけない。僕はその点も考えて、斡旋あっせんに努めた。何か一緒にやると、頭の好い方がどうしても余計に気を使う。
「君、こゝは『叶』って家だね。縁談の打ち合せに『叶』とは幸先さいさきが好い」
 と菊太郎君は今更大発見の積りだ。斯ういうのは長生ながいきが出来る。
 話の模様によると、高野君は矢田家に大分信用がある。主人のみならず、奥さんの御用を足しているのだから、兎に角、高野君に橋渡しを頼むことになった。高野君が瀬踏せぶみをして、直ぐ後から然るべき仲人が乗り込む。それには誰を煩わそうかという評定に移って、僕の親父が最適任者と定った。
「若旦那、宜しゅうございましょうね?」
 と丸尾さんは議長格だ。
「合点々々」
「御自分のことゝ違いますから、御信用があります」
「変なことは言いっこなし」
「ハッハヽヽ」
「ところで市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、389-下-20]さん、お宅の御両親の方はどうなっているんですか?」
 と高野君が訊いた。菊太郎君の落ちつかない様子で疑問を起したのらしい。
「流石に米喜こめきの高野君です」
「はあ?」
「お目が利いています」
「洒落ですか?」
「いや、実は未だちっとも耳に入れてないんです」
 と市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、390-上-2]の菊太郎君は頭を掻いた。
「何うもそうだろうと思いました」
「言い出しにくいんです」
「御両親の御同意が根本でしょう。これは未だ橋渡しなんてことじゃありません」
「斯ういう好い候補者があるからっと、一つあなたからお勧め願いたいんですが」
「さあ」
「先方が先方ですから、異存は申しますまい」
「丸尾君、これは何うしたものだろう?」
 と高野君は持て余した。
「これは若旦那、差詰さしづめあなたがお気を利かして差上げるんですな」
 と丸尾さんは高野君に答えずに、僕の方へ向き直った。
「僕が市岡君のお父さんを説くんですか?」
「へい。初めから御存じのことですから、あなたが一番御適任です」
「日出男君は適任過ぎて困るんです。僕としては少し見識を立てたいんですから」
 と菊太郎君は註文をつけた。
「それは何ういう意味だい?」
「君は何も彼も知っているから、洗いざらいに喋るに定っている」
「しかし事情を話さなければ分るまい?」
「話さなくても分る法があるんだ。僕は見初めたなんてことは親父の耳へ入れたくない。良い縁談があるからと勧めて置いて貰って、僕としては否応なしに首を縦に振る形にしたいんだ」
「贅沢を言うな。見識の問題はもう疾うに通り越している」
 と僕が極めつけたものだから、丸尾さんと高野さんが笑い出した。
「そんな勝手な註文をつけるなら、僕はもう構わないよ」
「それじゃ君でも宜い」
「張合のない頼み方をするんだね」
「君が一番有効なことを分っているんだけれど、一寸慾が出たんだ。お手軟かにやってくれ給え」
「納得して貰うためにはかなり立ち入って話さなければ駄目だよ。ソモ/\の初めから、僕を瞞して引っ張り廻したところまで」
「仕方がない。宜しく頼む」
 と菊太郎君はすべてお他力のくせに贅沢を言う。
「それじゃ引受けた。明日の晩、お父さんにお目にかゝって話そう」
「こゝ二三日は一寸具合が悪いんだよ」
「何故?」
「手張りの方がある。明日あたり露顕して、首尾が悪くなるに定っている」
「成程」
 と僕も自分に覚えがある。
「市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、390-下-24]さんは今日から場へお出になったばかりじゃありませんか?」
 と丸尾さんが驚いた。
「はあ」
「もうおやりになったんですか?」
「つい。ハッハヽヽ」
「何方も何方ですな、これは。買いですね?」
「はあ」
「幾ら引かれているんですか?」
「二円口です。百の二百円。厭な心持のものですな」
「明日の頃はまだ下りましょう」
おどかしちゃいけません」
「この陽気に買いってことはないでしょう」
「見ずてんですよ。第一日に百買って一生の運勢を試めそうってことを病院にいる時から考えていたんです。これを損で仕舞うようなら駄目、辛抱して何とか仕上げるようなら前途有望、即ち天下分け目の関ヶ原です」
「面白いですな」
「実は僕も買っているんです」
 と高野君が溜息をついた。
「道理で元気がないと思った。幾つ引っかゝっているんだい?」
「五十さ」
「一寸百両か? 銭遣いが荒いね」
 と丸尾さんは他のことだからからかい半分だった。それから商売の話が始まった。卒業祝いもやったけれど、引かれている人が二人あるから、余りはずまなかった。
 菊太郎君は辛抱がよかった。一生の運試めしと思うから、なんとかしてトン/\ぐらいに仕上げたい。はたで見ていると、岡目八目でよく分る。見す/\いけないものを頑張っている。曲るという言葉があるが、本当に頭が曲ってしまうのだ。しかし一週間後に精も根も尽きて投げ出した。
「どうだい? 初陣の功名は」
 と僕は冷かしてやった。
「大きかったよ」
「幾らやられたんだい?」
「四百円足らずだ。一時はもっと行くところだったけれど、直観が動いたから、辛抱がつゞいたんだよ。しかしもう懲りた」
「家の首尾は?」
「迚も悪いんだ」
「乗り込もうか?」
「当分いけない」
 と菊太郎君は元気がなかった。
 僕が菊太郎君のお父さんの面前に現れたのはそれから半月ばかり後だった。
「実は菊太郎君のことにつきまして、折り入ってお願いに上りました」
 と改まったら、市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、391-下-18]さんは腕組をして小首を傾げた。
「又やったんですか?」
「いや、その方じゃございません」
「それじゃ何をやったんですか?」
 と与太息子よたむすこを持った親父は気の毒なものだ。どうせ何か仕出来すと常住覚悟をしているのらしい。
「実は御縁談です」
「はゝあ」
「実は菊太郎君には貰いたい人があるんですけれど、事情が事情ですから、御自分では申上げられないんです」
 と僕はこのところ、一寸利かした積りだった。心配させて置いて後から安心させる方針だ。
「事情が事情と申しますと?」
「実は僕から申上げ難いんです」
「どうぞ御遠慮なく」
「早いお話が、菊太郎君の方から見初めてしまったんです」
「何んな婦人ですか?」
 と市※いちかね[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、392-上-8]さんは果してき込んだ。当然カフェーあたりへ見当をつけたのだろう。
「これが女給とか芸者とかいうものなら、僕だって御相談には乗りません。しかし菊太郎君はナカ/\純な人です」
「悪いことはしまいと思いますけれど、相手は何者ですか?」
「○○生命の重役の令嬢です」
「はゝあ」
「去年の秋からです。始終一緒の僕さえ一杯食ったんですから、お家の方が御存知ないのも無理はありません」
 と僕は物語りに移った。菊太郎君の見識を保護してやる必要は少しも認めない。市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、392-上-19]さんは中途で奥さんを呼んで、僕に初めから話し直させた。僕としては菊太郎君のお母さんには豊子さんの件で見識を失っているから、その腹癒せが手伝った。しかしそれだけに有効だったろう。
「まあ/\、呆れたものでございますわね」
 とお母さんは聴き終って驚いた。
「実際思い詰めているんです。不真面目な人なら兎に角、純情家ですから」
「然う自分一人の料簡で定めてしまっても仕方ありませんわ」
「しかしこの頃の青年は皆然うでしょう」
「然うでございますの?」
「思想が解放されていますから、写真で見合をして配偶者を定めるというような古いことは好みません。自分で候補者を物色して、正々堂々と申込みます」
「あなたもその組?」
「はあ」
「それは思召し通りに事が運べば結構でございますけれど、先様からお断りを受けた場合は何うなさいますの?」
「その時は種々と方法があります。お薬を戴くとか、大島へ行くとか」
「厭でございますよ、日出男さん」
「ハッハヽヽ」
 と僕は冗談にかこつけて脅かしてやった。
 しかし市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、392-下-16]さんはナカ/\そんな手に乗らない。僕の親父同様地道一方で、空想という要素が些っともない人だ。
「その高野さんって方が先方へ出入りをしていて心安いから、私達さえ承知なら、橋渡しをして下さると仰有るんですね?」
「はあ」
「年来の御懇意ですか? 高野さんとは」
「いや、つい近頃店の丸尾が紹介してくれました。丸尾とは同郷で親友です」
「丁度好い人がありましたね」
 と市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、392-下-26]さんは取調べの態度になった。
「実は菊太郎君が早く行動を取ってくれと頻りに仰有るんですけれど、手蔓を探さなければ仕方がありませんから、僕は困り切って、丸尾に相談したんです。すると丸尾は重役なら実株じつかぶを買うだろうから、同業の中に出入のものがあるに相違ないと定めて、問い合せました。親友ですから、先ず高野君に相談したんでしょう。世の中は狭いものです。高野君が出入りでした」
「成程」
「それも実株じゃありません。短期を盛んにやっていますから、高野君としては書き入れのお得意先です」
「はてね」
「御主人ばかりでなく、奥さんも御道楽です」
「短期がですか?」
「はあ」
「はてね」
「御主人と競争です。御主人が買いなら、奥さんは売りという次第わけで、しのぎを削っているそうです」
「夫婦揃って株をやるような家庭は何んなものでしょうかね?」
「さあ」
「私としては余り感心しませんよ」
「しかしお互は株で飯を食っているんじゃありませんか?」
「それは然うですけれど」
「市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、393-上-24]さん、失礼ながら、只今のお言葉は株屋の足をお洗いになってから仰有ることだろうと存じます」
 と僕は強気に出てやった。
「降参しました」
「ハッハヽヽ」
「しかし同じ株屋をしていても、お宅や私達のところは他の商売人よりも手堅いんですから、矢っ張り念を入れます」
 と市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、393-下-4]さんは奥さん諸共尚お矢田家の事を種々と訊いた後、
「飛んだ御厄介をおかけして、何とも申訳ございません。右から左へは定められない話ですから、何れ又日を改めて御相談に上りましょう」
「一つ高野君を呼んでお尋ね下さいませんか?」
「それも是非お願いしたいと思っています。私達の貰う嫁じゃありませんから、菊太郎さえ気に入れば申分ない筈です。何れ相談の上、改めてお願い申上げることになりましょうから、何分宜しく」
「お役に立てば結構です」
 と僕は何うやら使命を果した。
「私、思い当りましたわ。あなたのお出になる少し前に菊太郎は大急ぎで出て行きましたが、巧くはずしたんでございますね」
 とお母さんが笑った。
「打ち合せがしてあるんです」
かないませんわね」
「僕の家で待っています」
「まあ! それじゃお父さんもお母さんも御存知?」
「薄々感づいています。知らぬは御両親ばかりでしょう」
「まあ/\」
「カフェーへでも行って遊んでいれば宜いのに、気が小さいんですね。神妙に僕の部屋で待っていますから、何か仕出来したのを僕がお詫びに上ったような恰好です」
「馬鹿な子ね、本当に」
「お父さんが無暗に怖いんでしょう」
「主人は厳し過ぎますから、斯ういう時に間違いが起りますわ。あなた、お叱りになっちゃ駄目ですよ」
「叱るものかね」
 と市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、394-上-7]さんは充分理解しているようだった。
「それでは何分宜しく」
 と僕はもう逃げ腰になった。
「恐れ入りますが、菊太郎に直ぐ帰るように仰有って戴きます」
 とお母さんは甘い。
 間もなく高野君がポツ/\と活動し始めた。先ず市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、394-上-13]さんへ再三招かれて、矢田家について知っているところを答えた。市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、394-上-15]さんは流石に堅い人だと感心して、その都度僕と丸尾さんに話の内容を報告した。それからイヨ/\橋渡しをすることになったが、市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、394-上-17]さん同様念を入れる人だから、いつも切出し兼ねて帰って来た。尤も商売で行った序に、それとなく気を引いて見て、調子が好かったら話込むようにという註文だった。
「御主人と奥さんと両方御機嫌の時にしようと思っても、何方か必ず悪い。それというのが、御主人が買いなら、奥さんは売りだろう。奥さんが買いなら、御主人は売りだろう」
 と高野君が説明した。
「いつも同じことを言っている」
 と丸尾さんがけなしつけた。
「昨夜は御主人が特別悪いんだ。売りだろう。そこへ持って来て相場が高い。『おれは高いのは嫌いだ。高野なんて人間は名前からして気に入らん』と言うんだ。名前からして気に入らない人間が縁談を切り出しても事をこわすばかりだろう」
「奥さんに話せば宜いじゃないか?」
「然うは行かない。いつも同席だ」
「兎に角、市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、394-下-8]さんがお待ち兼ねだ」
「市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、394-下-9]の若旦那、少し手間を取っても、危気のない方がようございましょう?」
「結構ですとも。信頼していますから、何分宜しく」
 と菊太郎君も急き立てる次第わけに行かない。
 高野君は念を入れた丈けのことがあった。或朝、場で顔を合せると直ぐに、
「金子さん、好い塩梅ですよ」
 と言いながら寄って来た。
「それは/\」
「昨夜は久子さんの誕生日でした。偶然行き合せて、御馳走になりました。その折、お年の話から、もうソロ/\お婿さま探しでございましょうと僕が気を引いて見たんです。『これは一つ高野さんにお頼みして置くことですね。お顔がお広いから、屹度お心当りがおありでしょう?』と奥さんが仰有いました」
「成程」
「ありますともと僕が意気込んだから、『でも株屋さんは困りますよ』と来ました」
「はゝあ」
「株屋でも私のような才取さいとりは問題になりませんが、大きな店の若旦那なら如何ですかとやりました。『株屋は駄目だよ。いつ没落するかも知れない』と御主人は頭ごなしです」
「形勢が好くないんですね」
「僕も斯うまで株屋を軽蔑されては男が立ちません。何とも言わずにポケットへ手を入れて、ピストルを出しました」
「嘘をつき給え」
「ハッハヽヽ」
「何うしたんですか?」
「実は出鼻を挫かれて落胆がっかりしてしまったんです。しかしこれでお仕舞いにしたんじゃ折角持ち出して封じられたようなものですから、後刻応接室へ戻って御主人夫婦と差し向いになる早々、遮二無二に切り出しました。一生懸命になると、僕もこれでナカ/\雄弁家です。市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、395-上-16]さんの財産格式、家庭円満、菊太郎君が唯の若旦那と違って大学卒業の秀才のこと、豊子さんが大蔵省の高等官に片付いていること、それからそれと滔々とうとうと申述べて、下さる下さらないは兎に角、橋渡しを頼まれて来た私の男を立てゝ下さいと悃願しました」
「成程」
「御主人夫婦は好い印象を受けたようです。種々と菊太郎君のことをお訊きになりましたから、始終あの近辺をうろついたことまで話しました」
「その方が同情をきます」
「大笑いをなすった後、それほどの御執心ごしゅうしんなら、兎に角考えて見ましょうと仰有いました」
「有難いです。お手柄ですよ」
「いや、万事これからです」
「早く菊太郎君に知らせてやりたいんですが、今朝は晩いですな」
「昨夜帰りによって逐一お話し申上げました」
「然うですか? 大喜びをしたでしょう?」
「はあ。仲人もするものだと思いました。手を合せないばかりです。今朝はもう安心して落ちついているんでしょう」
「成程。普段は吉報を聞こうと思って早く来るんですよ。現金な男です」
「僕は兎に角有望だと思っています。何れその中にあなたのお父さんの御出動ってことになりましょう」
「もう早手廻しに頼んであります。有難うございました。本当にお蔭さまです」
 と僕は高野君の労を多とした。
 もう七月に入って暑い盛りだった。しかし菊太郎君も僕も学生時代と違って、避暑どころでない。周囲が周囲だから、一生懸命だ。菊太郎君は差当り特別実直に立ち働く必要がある。
「何うだい? 僕は今日一寸の間に四十両すくったよ」
 と言って、僕が素敏すばしこいところを見せても、一向興奮を感じない。
「僕は今大切のところだ」
「至って神妙だと思って感心している。息抜きに何処かへつれて行こうか?」
「厭だよ。僕の身体にはスパイがついているかも知れない」
「まさか」
「高野君が言ったもの。貰ってしまうまでは余所よそ行きの心持でいなければ危いって」
 と菊太郎君は高野さんの脅かしをに受けている。それが僕の入れ智恵だとは気がつかない。僕は斯ういう時だと思って、種々と芸当をさせてやる。暗示の利くこと実に妙だ。矢田さんは朝五時に起きて散歩をすると高野君を通して言わせたら、翌朝から五時に起きて彼方此方歩き廻っているらしい。
「朝早いと家が皆締まっているから方々の看板ばかり目につくよ」
 と感想を洩らしていた。スパイがついていると思うから、善行を見せる努力をする、まるで小学生だ。スパイが朝五時から来るものか?
 しかし八月に入ってからは流石に焦り始めた。
「何うしたんだろうね? 君。もう何とか音沙汰がありそうなものだけれど」
「調査中だというじゃないか?」
「しかし余り手間が取れる。もう一月たっている」
「些っと長いね」
「握り潰しにするんじゃあるまいか?」
「高野君も緩慢だな、尤も本式の仲人の資格じゃないから、催促が出来ないんだろうけれど」
「御主人が買いなら、奥さんが売りで、奥さんが買いなら、御主人が売りさ」
「両方好い時がないから困りますと来る」
「言うことがいつも定っているから癪に障る」
「スパイがついているってのは嘘だろうね?」
「いや、調査中なら、ついていると見なければならない。しかし僕だって然う/\は続かないよ。もうソロ/\油が切れる」
 と菊太郎君も、この辺が本音だろう。
「実は僕も感心しているんだ」
「万事お預けだからね。苦しいよ」
「一つどうだい? 好いところを発見したから、つれて行ってやろうか?」
「御免だ」
「この間から訊こうと思っていたが、君はこの頃毎朝早いのかい?」
「うむ。五時に起きて散歩する」
「それじゃその誤解だな」
「何が?」
「市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、396-下-17]の若旦那は夜泊りをして毎朝早く帰って来るって評判だ」
「冗談じゃないぜ」
「家の女中が言っていたよ。散歩の帰りを見かけたんだろう」
「迷惑千万だ」
「スパイがそんな早合点をして注進したのかも知れないよ」
 と僕はからかってやった。
「当り前なら、もう疾うに此方の写真を要求する筈だ。先方からは寄越さないにしても」
「成程。此方の馬面うまづらは御存知ないんだね」
「何だって?」
「ハッハヽヽ」
「僕はあれから何枚も写して持っているんだ」
「一つ高野君に持って行って貰ったら何うだね?」
「それも考えている」
「斯ういう代物しろものだからって、カタログを見せて置く必要があるよ」
「しかし先方から来ない中に持って行くのは不見識だとも思うんだ。此方が貰うんだからね」
「少しは理性が残っているのかい?」
「君は言うことが一々変だね。失敬だぞ」
 と菊太郎君はプリ/\した。
 高野君は尚おしばらく持て余した。菊太郎君から催促されても、先方へ催促することが出来ない。こゝでお父さんが踏ん張れば発展の余地があるけれど、相変らず念入りだ。余り懇望すると後々のためにならない。嫁の候補者は幾らもあるという意見らしかった。功利主義に根柢を置いている。随って急がない。高野君の話によると、矢田さんの方もどうやら然うらしい。
「実はあゝいう綺麗なお嬢さんですから、縁談が他にもあるんですよ。相応の仲人が入っているんですから、その方を先に当って見て、具合が悪いようなら、此方へ廻って来るんでしょう」
 と僕にだけ形勢不利という疑懼を洩らした。
「それは困りますね。此方が先口の積りで待っているんですから」
「僕もその積りでいたんですけれど」
「有望だと仰有ったじゃありませんか?」
「申訳ありません。しかしその後有力な候補者が現れたものと見えます」
「それじゃ黙っていれば危いんでしょう?」
「はあ。御主人と奥さんの見込が始終違っていますから……」
「それは分っていますよ」
「此方から切り出す機会がすくない上に、先方でも成るべく問題を避けるような傾向があるんです」
「もっと早く仰有って下されば、僕が直接乗り込んで結着をつけたんですけれど」
「しかし今でも晩くはないでしょう」
「僕、一つやりましょうか? 駄目になるのを黙って待っているよりも口をきいて見る方が友情でしょう?」
「無論然う願えれば結構です。僕は資格がありませんから、遠慮が先立って、つい/\引っ込み思案になるんです」
「紹介して下さい。早速行って見ます」
「実は今晩追敷おいじきをいたゞきに上りますから、何ならお供致しましょうか?」
「丁度好い都合です。しかしいつも追敷々々ですね」
「奥さんの方です」
「すると御機嫌が悪いんでしょう?」
「その代り御主人の方はホク/\です。高野って奴は名前からして感じが好いと来ますよ」
「それじゃ御主人に会いましょう」
 と僕も斯うなれば本気だ。
 菊太郎君には内証だった。見殺しにするよりも、努力をしたという意識があればしのぎ好い。誠意でやることだから、後から話せば理解して貰える。そこでその晩、僕は高野君について乃木坂の矢田家へ乗り込んだ。高野君が予め電話で打ち合せたら、差支えないということだった。
「この方は金万の若旦那で、先般申上げました市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、398-上-7]の若旦那の親友でございます。先般お願い申上げましたお話について伺いましたから、何分宜しく」
 と高野君が用件まで明瞭に紹介した。
 事務取引が先だった。高野君の予言の通り、矢田さんは満悦らしかった。
「今夜は些っと御褒美を出さなければなるまいかな?」
 と言った。これに反して奥さんは、
「何うもこれはお年貢になりそうね。主人の直観も案外馬鹿になりませんわ」
 と忌々いまいましそうだった。昨今の相場では追敷が年貢になるに定っている。
「僕の店も堅実一方ですから、何うぞお引き立てをお願い申上げます」
 と僕は何となく具合が悪かったから冗談を試みた。
「いけませんよ。人の縄張りへ来て宣伝なんかなすっちゃ」
 と高野君が本気になって慌てたので、大笑いになった。
 それから僕は直ぐに切り出した。
「突然で失礼ですけれど、僕、市岡君とは特別関係ですから、御推薦の為めに上りました」
「恐れ入ります。実は高野君からお話を承わったまゝ延び/\になっているものですから」
 と矢田さんが受けた。
「僕は市岡君とは同じ年の同じ月の同じ日に生れて、小学校中学校大学ともズッと同級で、現在も隣り同志の同業でございます」
「はゝあ。成程これは特別の御関係ですな」
「市岡君のことは何でも知っている積りでございますから」
 奥さんは妙な人間が現われたと思ったのか、僕の顔をじっと見ていた。実際、僕としては出る幕でなかったかも知れない。力瘤を入れ過ぎて、少し常識を欠いたような心持がした。
「実は、その、金子さん」
 と矢田さんは名刺をすかして見て言うのだから心細い。
「はあ」
「先口が二つあって、その方からヤイ/\言われたものですから、市岡さんの方はまだ白紙のまゝですよ」
「はゝあ」
「何れ書き込みの時、御相談申上げることになりましょうから、その節は何分宜しくお願い申上げます」
「承知致しました。まことに差出がましくて申訳ございません」
「いや、一向。親友のことをお案じになるのは御道理です。決して御遠慮には及びません。私もお近づきになって仕合せです。御商売のお話でもどうぞ御ゆっくり」
 折から果物を薦めた人は先にお茶を持って来た女中でなかった。妙に見知り越しの感じがすると思った刹那、視線が行き会った。
「あら!」
 と先方が口走って、会釈をした。僕も答礼して、つい後姿を見送った。
「御存知でいらっしゃいますの?」
 と奥さんが訊いた。初めて僕に言葉をかけてくれたのだった。ナカ/\お見識が高い。
「あの方、東京病院の看護婦さんでございましょう?」
「はあ。あなたは御入院でもなすったんでございますか?」
「僕じゃありません。今のお話の市岡君です。この春チブスをやって、四五十日入っていました」
「まあ/\」
「実に親切な看護婦さんでした。それですから、名前まで覚えています。秋山さんでございましょう?」
「はあ」
「お家に御病人でもおありでございますか?」
「いゝえ」
「もう看護婦は廃業したんですよ」
 と矢田さんが横から口を出した。
「はゝあ」
「矢っ張り家庭の人になりたいんで、先頃から家で行儀見習です。家内の身寄になっていますから」
「思いがけない人にお目にかゝりました」
 と僕は何となく不安を感じた。菊太郎君が高熱中度々失禁したことなんか喋られると、如何にもダラシのない人間のように思い込まれる。尚お回復期に入ってから物を食いたがって僕に喧嘩を吹っかけたこともある。二人の間の余り高尚でない雑談も秋山さんは悉皆聞いているのである。

紆余曲折


 僕は矢田家を辞して、途中で高野君に別れて帰って来た。まだ円タクのない頃だったから、無論電車だった。もう晩かったにも拘らず、菊太郎君は停留場のところで待っていた。
「おい。何うだったい?」
「やあ」
「何うだったい?」
「兎に角、使命を果して来たよ」
「有難う。形勢は?」
「家へ行ってから話す。流石に一生懸命だね。こゝで待っていたのかい?」
「待っていたって次第わけでもないが、涼みながら、彼方此方ブラ/\歩いていた」
「あれから今まで?」
「うむ。出たり入ったりさ。暑いんだもの。凝っとしていられない」
 と菊太郎君は夕涼みにかこつけた。実際暑い晩だったが、以来これが癖になってしまって、季節は問うところでない。昨今でも何か事があると、腕組みをして往来をブラ/\歩く。出たり入ったりする時は必ず思わしくないのだ。
「何うだい?」
「落ちつかないんだよ」
「又引っかゝっているね?」
「うむ。大きいんだよ、今度は。その上子供が昨夜から熱を出している。凝っとしていられないんだ」
 と如何にももだわしそうな恰好をする。僕に較べると噸数が小さいから、包蔵力が足りないのらしい。しかし正直で好い。
 さて、使命を果して来た僕は菊太郎君のところへ寄って、矢田家の方の形勢を詳細に話した。此方の事情に暁通ぎょうつうしているから、同じことを見聞しても、高野君よりは要領を得易い。看護婦の秋山さんが先方の奥さんの身寄だという事実には菊太郎君も驚いた。
「世間は狭いね、矢っ張り悪いことは出来ないや」
「本当だよ。実は僕もドキンとしてたんだ。君は何か覚えがあるだろう?」
「何ういう?」
「秋山さんは若くて一寸綺麗だ。君は病中何かよろしくない冗談を言っているだろう?」
「大丈夫だ。生死の境だもの、そんな余裕はなかった」
「肥立ちになってからさ」
「謹厳そのものだったよ。漸く助かったんだもの」
「矢田夫人は丁度好い幸いにして、秋山さんに君のことを訊くぜ」
「訊いて貰おう。結構だ」
「そう楽観出来るのかい? 病中のことをよく考えて見給え」
 と僕は念を押した。秋山さんの出現はし好いとすれば非常に好い。しかし悪いとすれば致命的だ。
「天地にじない積りだ」
「しかし随分ダラシのないことがあったぜ。失禁演説なんてものは決して推薦にならないよ」
「あれは熱が高かったからさ。自分でも覚えがないんだから、僕の責任じゃない」
「食いたがって、僕に喧嘩を吹っかけたこともある」
「肥立ちになってから少し本性を現したけれど、病中は無難だったよ。その証拠に、模範的患者だったから、危いところを取り止めたと言って、秋山さんが褒めてくれたもの」
「満更悪い印象ばかりでもないと思うんだけれど」
「それからもう一つある。矢っ張り好いことをして置いたよ」
「なんだい?」
「僕は悉皆すっかり丈夫になってから、秋山さんに会いに行ったんだよ。何うしても改めてお礼を言いたかったんだ。喜んでくれたぜ。大抵は癒ってしまえば、それっきりのものですけれど、あなたのように義理の堅い人は珍らしいって」
「成程」
「宜かったよ。往って来て置いて」
「有望かな? それじゃ」
「病勢のさかんな時は誰だってダラシがない。生理的には寧ろそれが当り前だろう。イヨ/\となれば死んでしまうんだから、ダラシのないことこの上なしだ。しかし精神的には僕は僕以上の僕になっていた。それは断言出来る理由わけがある」
「ふうむ」
「僕はもう助からないと覚悟を極めていたんだ。万感※(二の字点、1-2-22)こもごも到ったよ。親を喜ばしたことのない一生だと思うと、それが一番辛かった。これから孝行を尽すどころじゃない。逆さを見せて終るのかと思ったら、泣いちゃったよ。秋山さんがはたから慰めてくれた。そんな関係だから、僕は普段の僕と悉皆違っていた」
「身に沁みたことを言い出したね」
「今話しても君が感じるくらいだから、始終ついていてくれた秋山さんは感じているに相違ない。僕のことは決して悪く言わないよ」
「成程ね。これは縁があるのかも知れない」
「僕は秋山さんが先方の身寄だと聞いた時、直観が動いたんだ」
「直観はよしてくれ」
「何故?」
「当ったためしがない」
「馬鹿にするなよ」
「まあ/\僕が骨を折っているんだから、僕の考えに委せて置き給え」
「何分頼む」
「秋山さんが推薦してくれると頗る有望だ。内外呼応ってことになって、グン/\やれるから、早く目鼻がつく」
「それが僕の直観だよ。待ち給え。吉報だから、お父さんお母さんにも君から話して貰おう。ついでに少し刺戟して置いてくれ給え」
 と菊太郎君は僕を引っ張るようにして、階下したへ急いだ。
 僕は市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、401-下-1]さん夫婦の前で報告をし直した。実は矢田氏自身の返答も奥さんの態度も然う意を強くするに足るものでなかったが、その辺を取り繕って話したものだから、汗をかいてしまった。秋山さんのことは力説した。秋山さんが出て来てから奥さんが寛いで話しかけてくれたのである。菊太郎君は早速僕の親父に出動して貰うという意見だったが、市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、401-下-7]さんは相変らず念を入れる。
「まだ慌てることはないよ」
「慌てはしませんけれど、秋山さんが推薦してくれますから、内外呼応ってことにして、グン/\やる方が早いと思うんです」
「しかし推薦してくれるかどうか、分ったものじゃあるまい」
「それはもう定っています。秋山さんは僕を褒めているばかりでなく、お父さんお母さんにも感心しているんです。あなたのところは相当に好い御家庭で羨ましいって、始終言っていました」
「それは本当でございますよ」
 とお母さんが保証した。
「丁度好い人がいたものだね」
「あの方なら屹度菊太郎を褒めて下さいますわ。この頃はまたもとの我儘に戻りましたけれど、入院中は申分なかったんですから」
「兎に角、此方からは申入れてあるんだから、先方から何とか沙汰のない限り、この上押しかけると足許を見られる」
「しかし……」
 と菊太郎君が言いよどんだ。
「何だね?」
「此方の熱心、いや、誠意です。誠意が通じれば、早く何とか沙汰がありましょう」
「慌てることはないよ」
「はあ」
「縁があれば貰えるんだ」
「はあ」
「ない縁なら、幾ら騒いでも仕方がない」
「…………」
「日出男さん、然うじゃありませんか? 物の道理が?」
 と市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、402-上-12]さんは僕に共鳴を求めた。何処までも冷静だ。万一の場合の用心に、意見をして置く積りらしかった。
「僕、物の道理は然うじゃないと思います」
「はゝあ」
「思い込んだ上からは、縁のあるなしに拘らず、貰いたいのが人情でございましょう」
「そういう料簡かな? 菊太郎は」
「…………」
「縁がなければ、何うしたって仕方があるまい?」
「ない縁でも、あらせれば宜いんです。しかしこれはある縁だと僕は信じています。それですから今が大切です。ある縁でも、熱心を見せませんと、余所よそから先を越されて、ない縁になってしまいます」
 と僕は菊太郎君の為めに大いに努めて、菊太郎君は何うか分らないが、若しこれが自分だったら、一生の運命に関係するとまで極言した。感情よりも友情だ。
「しかし日出男さん、先方むこうはまだ会ったこともない人でしょう?」
「会っているんです」
「しかし往来で見かけただけで、言葉を交したこともないんでしょう?」
「はあ」
「謂わば路傍の人です。それで何ういう性格の令嬢か分るんですか?」
「さあ」
「たゞ器量だけを見て、その人を貰わなければ一生の運命に関係するなんてことは何んなものでしょうね?」
「…………」
うわっ調子じゃいけませんよ。あなたも菊太郎と同じことで、心得が違っています」
「あなた、あなた」
 とお母さんが制した。市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、402-下-16]さんは家の親父と甲乙がない。分らず屋だ。仲人を叱り飛ばすんだから恐れ入る。僕は見合結婚だって然うでしょうと言ってやりたかったが、憤らせてしまうと菊太郎君が迷惑するから、御無理御道理ごもっともあしらって、間もなく逃げて来た。
 それから四五日たったように覚えている。或朝、高野君が場で顔をあわせると直ぐに、
「金子さん、乃木坂は成功です」
 と伝えた。
きまりましたか?」
「いや、未だ然うははかどりませんが、順調に進んでいます。昨夜お嬢さんのお写真をいたゞいて、今市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、402-下-27]さんへ寄って参りました」
「それは/\」
「あなたのところも一寸覗いたんですけれど、もうお出掛けということでした」
「お蔭さまです。有望になりました」
「僕よりもあなたが功労者です。あなたがお出になってから態度一変です。迚も評判が好いんですよ」
「僕ですか?」
「いや、市岡さんです」
「結構です」
 と僕は念を入れた。かなり要領よくやった積りだから自信がある。仲人は引き立て役だ。此方が評判を取ってしまうと、菊太郎君が差支える。
「稀に見る秀才らしいと主人公が仰有るんです。無論調子を合せて置きましたが、市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、403-上-15]さんの若旦那はそんなに豪い学者ですか?」
「そんなことは?」
「入院している間も学問の講釈ばかりしていたって話です。これも相槌を打って、その辺は金子さんあたりと違いますとあなたにケチをつけましたが、臨機応変の処置ですから、勘弁して下さい。しかし本当ですか? 病院で講義をしたってのは」
「脳症を起したんですよ。他に芸のない男ですから、譫言うわごとに学校の講義のノートを口走ったんでしょう」
「はゝあ。矢っ張り違います」
「試験が済んだ直ぐ後でしたから、試験勉強の出しがらが頭の中に残っていたんです」
「それにしても豪いものですよ。実は僕もチブスをやって脳症を起したことがあるんですが、肚に学問のないものは仕方ありません。飛んでもない譫言を言ってしまいました。芸者の名前ばかり口走ったそうで、後から女房に散々油を取られましたよ」
「ハッハヽヽ」
「矢っ張り秀才です。凡人には出来ない芸当です」
 と多少為人ひととなりを知っている高野さんが敬服するくらいだから、矢田家の人達へ好い印象を与えたこと言うまでもない。
「それっきりでしたか? 脳症の話は」
「はあ。雄弁滔々だったそうです」
「有難いです。秋山さんは好いところだけ吹聴してくれたんでしょう」
「医者も感心していたというんですから豪いものです。御主人も奥さんも悉皆乗気になって、早速話を進めてくれと仰有いました」
「するとこれから僕のところの親父が乗り込むんですな」
「はあ。橋渡しはもう済みました」
「御苦労さまです。何ともお礼の申上げようがありません」
 と僕が喜んでいるところへ菊太郎君がやって来て、突然いきなり、僕の首っ玉に齧りついた。場だから人目がある。皆驚いた。
「喧嘩じゃありません。縁談ですよ」
 と高野君は誤解を恐れた。
「ハッハヽヽ」
 と周囲あたりの人達が拍手喝采した。菊太郎君は感極まったのだった。純情は結構だが、これでは纏まらない中から評判になってしまう。
 次の日曜に僕の親父が菊太郎君の写真を携えて矢田家を訪問した。無論打ち合せがしてあったけれど、僕は何となく不安を感じた。功を一くということがある。親父は堅人に相違ないが、僕と違って、円転滑脱の才が利かない。場合によっては、市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、404-上-8]さんと同じように妙な理窟を言いだす。
「何うだろうね?」
 と菊太郎君も内心危んでいた。
「まさかこわしもしまいが、考えて見ると、僕のところの親父は何うも適任じゃないよ」
「君の仲人は僕の親父がやると言っているから、若し下手をやるようなら、将来敵討ちをして貰うぜ」
「僕は君のところへは頼まない」
「何故?」
「親父同様適任じゃない」
「ひどいね。人の縁談なら不適任でも構わないのかい?」
「親父が適任ってことは丸尾さんが言い出したんだ。しかし絶対的に不適任でもないと思う。あゝいうのは好ければ極く好い。その代り悪ければ一遍で駄目になるかも知れないよ」
 と僕は脅かしてやった。
「心細いね」
「無論纏める気でいったんだ」
「当り前さ」
「難物だよ」
「僕はこの際好ければ極く好い方に解釈したい。却って好いかとも思うんだ。あゝいう人の方が」
「何ういう人だい?」
「愛嬌がない代りに駈け引きがない。ザックバランで行く」
「そのザックバランが考えものさ、『どうせあんなものですよ。この頃の人間は』なんてやるんだからね」
「僕のことかい?」
「いや、僕のことだけれど、君にも応用する。親父は君と僕が一番手近だから、二人の悪いところを寄せ合せて、現代青年を論じるんだ。例えばこの頃の人間は怠けると言う。目に余る筈さ。二人分を一人の責任にしているんだから」
「迷惑だね」
「此方こそ」
「しかしお互に好いところだってあるんだぜ」
「好いところは認めてくれないんだ」
「少し取りつくろって貰わないと困るよ。漸くこゝまで漕ぎつけたんだから」
 と菊太郎君はまた出たり入ったりだった。
 親父は散々待たせて、昼頃帰って来た。直ぐに菊太郎君のところへ報告に行ったが、また長い。
「お父さん、何うでしたか?」
 と僕は待ち焦れていて、様子を訊いて見た。
「議論になってしまったよ」
「はゝあ」
「負かしてやった」
「駄目ですよ、そんなことをなすっちゃ」
「いや、縁談の方は大丈夫だ」
「纒まりそうですか?」
「仲人は腹切り仕事だという。見込みのないことは引受けないよ」
「すると有望ですね?」
「縁と月日だ」
「はゝあ」
「気を長く待つようにと今も菊太郎さんに然う言って来た」
「それじゃまだ手間がかゝりますか?」
仲人なこうど履物はきものきらしといって、然う一遍じゃ納まらない。これからだ。しかし話のよく分る御夫婦だから、わしも張合がある」
 と親父は上機嫌だった。
「結構でございました。仲人口のきけるお方じゃありませんから、私もお案じ申上げていましたけれど」
 と母親がねぎらった[#「犒った」はママ]
「何あに、これでもイザとなれば相応にやるんだ」
「お骨折りでも、今御面倒を見て差上げて置けば、日出男が又お世話になることもございましょう」
「情けは人の為めならずか? しかし日出男や」
「はあ」
「斯ういう縁談は余り感心出来ないよ。下から出て、あやまり閉口するんだから、第一、器量が悪い。その上に後々あとあとが思いやられる。こんな貰い方をすると、菊太郎さんはお嫁さんに頭が上るまい」
「あれはあゝいう男ですから、何処からどんな貰い方をしたって同じことでしょう」
「いや、人の振り見て我が振りだ。お前も気をつけなければいけない」
「はあ」
「市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、405-下-6]さんも今度は大分首をひねったようだけれど、菊太郎さんがあの通り狂人きちがいのようになっているから、仕方なしにを折ったのらしい。愚痴をこぼしていたよ。嫁は矢っ張り当てがい扶持ぶちが一番簡単のようだ」
「さあ」
「後の納まりも、その方が簡単に行く」
「しかし一生の大事ですから、簡単ばかり重じる問題じゃないでしょう」
「兎に角、此方から註文をつけて、その人でなければ叶わないとなると、親も大変、仲人も大骨折りだ」
「…………」
「先方へ行っても、一々御機嫌を取るんだから、気が引けて困る」
「しかしお父さんは議論をなすったというお話じゃございませんか?」
 と僕は話題を換えることに努めた。嫁は親の当てがい扶持という家憲に記名調印を迫られては、それこそ大変だ。親父が諺を連発する時はお説法の支度だから、大いに警戒を要する。
「それは問題が違う。商売論だ」
「何ういう商売論でございましたか?」
「素人が株式投機に手を出しても見込がないから、おやめなさいと忠告してやった」
「それは少しお立ち入り過ぎはしなかったでしょうか? あすこでは御夫婦とも好きでやっていらっしゃるんですから」
「しかしこの上とも御交際を願うんだから、黙って見てはいられない。斯ういう議論さ。俺等は年中ねんじゅうに出て商売にやっていながら容易に儲からない。それを相場表ぐらいを頼りにして、遠くから電話をかけて儲けようってのは己惚が強過ぎる。好いことのある筈はありませんよと道理を説いて聞かせたけれど、笑っているんだ」
「道楽にやっていらっしゃるんですから、干渉なさらない方が宜いでしょう」
「奥さんも、そう言ったよ。退屈凌ぎになるからって。そこで俺は承知しない」
「力瘤の入れどころが違っていますよ」
「持論を出したよ。声を玩具おもちゃにする謡曲うたいや長唄はまだ罪が軽いけれど、金を玩具にする道楽は罰当りだ。禄なことはない」
「そんなことを仰有ったんですか?」
「うむ。縁談の方は下から出るけれど、他の問題は対等で行く。大分やって来たよ。重役連中の使い込みには裏面に必ず株の思惑がある。俺は統計を取ってあるんだから、文句を言わせない」
 と親父は得意だった。株屋をやっていながら、株に手を出す素人に好意を持たない。つまりお客様が嫌いってことになる。それでいて専ら口銭を稼げと言うのだから矛盾も甚だしい。
 それは兎に角、菊太郎君の縁談は順当に進んで、間もなく先方から見合を申込んで来た。菊太郎君としてはその必要がないけれど、久子さんの方はまだ面識がない。家ではもう母親まで出動していたから、早速取り計らった。それから後は早かった。直ぐに結納ゆいのうを取り交して、来年三月挙式ということに決った。
「来年の三月までは半年ある。待ち遠しいけれど、君、これから毎日でも交際が出来るんだ」
 と菊太郎君は宿願が叶って大喜びだった。
「お手軟かに願うよ」
「もう始まっているんだ。昨夜行って来た」
「具合の悪いものだろうね?」
「何あに、平気だ。尤もこの間も一寸行ったから」
「宜しくやっている」
「秋山さんがついていて梶を取ってくれるから話がはずむ」
「あれが一番の功労者だよ。お礼を言ったかい?」
「言った。しかしもうソロ/\邪魔になる」
「ひどい奴だ」
「ハッハヽヽ」
「僕は縁の下の力持でまだ正式に会っていないから、その中に紹介してくれ給え」
「つれて行ってやろうか?」
「それには及ばない。今に君のところへ来るようになるだろうから、その時で宜い」
「君に会いたいと言っているんだ。僕と一緒にあの辺をブラついたことが伝わっているし、秋山さんが頻りに話すものだから、君に興味を持っている。矢張り秀才でございましょうと来た」
「有難いね」
「あのお父さんのお子さんですからって」
「何ういう意味だろう?」
「訊いても見なかったが、君のお父さんは大変な難物と思われている。あれでよく御商売が出来ますねって、矢田さんが不思議がっていたよ」
「君のところだって似たり寄ったりだろう」
「しかし親父は差当り善い子になり切っている。具合の悪いことは皆君のお父さんに言って貰うんだ」
「ふうむ」
「仲人は損な役だと思った」
うせ僕も引き立て役さ。今回はこれで甘んじる代りに、僕の問題が起った時、犬馬の労を執ってくれ給え」
 と僕はこれを機会に元来の約束を思い出させた。
「宜いとも。当てがあるのかい?」
「ないけれども、忘れると困るから」
「大丈夫だ。今度は二人で尽す」
「然うしてくれ給え」
「久子さんはとても頭が好いんだ」
「もう結構だよ」
「僕なんか到底敵いそうもない」
「初めから覚悟していれば世話がなかろう」
「これから面目一新だ。秀才だと思って来てくれるんだから、期待を裏切りたくない」
「好い心掛けだよ」
「大いに努力する」
「手張りは当分休業かい?」
「いや、もう動きっこないからソロ/\始める」
「矢っ張り話せる」
「君はやっているのかい?」
「うむ。好いんだよ。昨今は」
「僕の直観は買いだ」
「買っているんだ」
「僕も買って置こうかな? 少し」
 と菊太郎君はもう気が弛んでいた。しかしこの時は可なり儲けたようだった。相場は調子ものだ。運の向いている時に度胸を据えると、菊太郎君あたりでも只取れる。
 僕と丸尾さんと高野君は慰労のため一夕市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、407-下-13]さんの家へ招かれた。僕のところの親父も列席した。市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、407-下-14]さん夫婦が鄭重にお礼を述べた。僕も菊太郎君も親父達は苦手だ。丸尾さんは僕の店の番頭で、高野君はその友人だから、この二人とも遠慮がある。
「何うですか? 一向弾みませんね」
 と僕の親父は斡旋の積りだったが、丸尾さんは僕の耳に口を寄せて、
「これは若いもの同志で『かのう』へ持ち込んで貰う方が宜かったです」
 と囁いた。
「日を改めて二次会をやりましょう」
「会費持ち出しでも、その方が気楽ですよ」
「何ですか?」
 と高野君が聞き耳を立てた。
「君は一つ何うだね?」
「何を?」
「例の一件さ。市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、408-上-3]さんへも嫌疑をかけているんだから、こゝで一つ頑張って見給え」
 と丸尾さんが吹聴するように言った。
「何ですか? 高野さん」
 と市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、408-上-7]さんが訊いた。
「いや。何でもありません」
「無礼講ですから御遠慮なく」
「はあ」
「高野君、やり給え」
 と僕も促した。
「それじゃ申上げます。市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、408-上-13]さんの御主人、御当家の御縁談は芽出度く纒まりましたが、そのドサクサ紛れに大きな損をした人間がこゝに一人ございます」
 と高野君がやり出した。
「何方ですか?」
「私です」
「何うなすったんですか?」
「矢田さんは年来の得意先でしたが、昨今急に御註文が絶えてしまいました」
「はゝあ」
「私は主人に叱られました。お前は間抜けだから、仲人の手伝いをしている中に、市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、408-上-24]さんか金万さんに上得意を取られてしまったと斯う仰有るんでございます」
「ハッハヽヽ」
 と市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、408-上-27]さんは笑いだした。
「本当に註文が来ないんですか? 高野君」
 と僕の親父が膝を進めて訊いた。
「はあ。金万さんを疑うのではありませんが、あなたが御出動になってから追々と細って来て、昨今パッタリ絶えてしまったのですから、何うも不思議でなりません」
「ハッハヽヽ」
「御懇意の間柄に火事泥なんてことは少しおひどいでしょう」
「いや、薬がいたんですよ。わしは責任の地位にある重役が思惑をやることは反対ですから、行く度に議論をしたんです。ひとの金の自由の利く人ほど危いんです。お気をつけ下さいって」
「何とか仰有って、ハッハヽヽ」
「本当ですよ」
「いや、私もこの上間抜け面をさらしたくありません。現に私が若旦那を矢田さんへ御案内申上げた時、若旦那はお名刺を出して、堅実一方の店ですから何うぞお引立てをと宣伝をなさいました」
「それは俺は知りませんが、飛んでもない誤解ですよ」
「商売は矢っ張り商売、御交際は矢っ張り御交際です。両方を一緒だと思っていたものですから、つい油断がありました。何も学問です。諦めます」
 と高野君は然う信じているのだから仕方がない。考えて見ると、僕にも先頃から頻りに謎のようなことを言っていた。
「困りましたな、これは」
 と親父は頭を掻いた。
「株屋の御主人が株をやるなと御意見をなさることからして不思議じゃございませんか?」
「成程。弁解しても承知してくれますまいな」
「今更何の彼のとは申しません。唯斯ういう次第わけだったことをお聴きに達して置きます」
「俺の忠告が利いたにしても、君の得意が一人へったんだから、何とか埋め合せをしましょう」
「御覧なさい。矢っ張り良心がおありです」
「困るね」
「二人ですよ。御主人と奥さんですから」
「極上の得意を一軒紹介しよう」
「何うぞ願います」
「高野さん、私の方からも一軒都合をつけますよ。勘弁して下さい。御迷惑でしたな」
 と市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、409-上-15]さんも同情した。
「何分よろしく」
 と高野君は決して辞退しない。取られたと信じ切っているから、当然の権利の積りだった。僕と菊太郎君は笑い出してしまった。
「豪い」
 と親父が言った。
「…………」
「日出男や、高野さんの商売熱心がお前には好い薬になる」
「はあ」
 と僕は逸早く頭を下げた。意味を訊くと、お説法になる。
「菊太郎」
 と市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、409-下-1]さんが呼んだ。
「はあ」
「お前もよく覚えて置くんだよ」
「はあ」
 と菊太郎君も平伏した。掛け合いだから敵わない。
「成程、私はこれで一つ思い出したことがありますよ」
 と丸尾さんが気を利かした。丸尾さんだって、酒の肴にお談義は聞きたくない。
「何ですか?」
 と僕は急いだ。菊太郎君も向き直った。
「以前病気揚句に毎晩のように洋食屋へ行った時です。痩せっこけてしまって、滋養分をる必要がありました。景気の好い頃でしたから、チップを弾みましたよ」
「成程」
「或晩のこと、ボーイが変りました。いつものボーイは如何したかと訊いて見たら、いますけれど今日から一週間僕が旦那を譲り受けましたと言うんです」
「はゝあ」
「いつものボーイはそのボーイと賭をして借金が出来たんですけれど、持ち合せがありません。そこで僕を譲り渡したんです。僕から一週間チップを取れば丁度差引の勘定が済むというのでした」
「ハッハヽヽ」
「ひどいことをするものだと思いましたが、考えて見ると、高野君に店の得意を一軒渡すのと全く同じ流儀でしょう」
「成程」
「私は成るべくチップを払わないのを譲りたいと思っています」
「いけないよ」
 と高野君がつい大声で故障を申立てた。こんな調子で何うやら座が賑い始めた。

北海道の熊


 その頃、僕は未だ若かった。今でも若盛りだけれど、その頃は殊に経験が足らなかったのである。菊太郎君の縁談が纒まると間もなく、仲人に成功して友情に失敗したような心持がし始めた。十数年の学校生活を通じて始終行動を共にしていた菊太郎君が急に言うことを聞かなくなってしまった。
「何うだい? 久しぶりで附き合わないか?」
「厭だよ」
「何故?」
「君と違って、待っている人がある」
 と誘引に応じないばかりか、真向から侮辱を加える。僕は単独行動を取る外仕方がない。淋しいものだ。
「お父さん、仲人なんかするものじゃありませんね。僕はツク/″\そう感じました」
 と或晩つい愚痴をこぼした。
「お前でも感じることがあるのかい?」
「ありますよ」
「何うしたんだ?」
「菊太郎君はもう恩を忘れています」
「そんなことはあるまい。お蔭さまだと言って喜んでいる」
「口先は兎に角、もう僕に附き合いません、それが何よりの証拠です」
「しかし毎日仲よく往ったり来たりしているじゃないか?」
「往ったり来たりはしませんよ」
「成程。然う言えば余り見えないな」
「場で顔を合せるだけです。別に仲違いをしたって次第わけでもありませんから、話もします。しかしもう一緒に歩きません」
「ふうむ?」
「誘っても断るんです」
「何処へ誘うんだい?」
「さあ」
「カフェーだろう? それはお前が悪い」
 と親父はこれだから困る。極く当り前の話の中にお説法の切っかけを見つけ出す。
「兎に角、場が引けると脱兎の勢いです。僕なんか見向きもしません。乃木坂へ飛んで行ってしまいます」
「結構じゃないか? 此方は仲人だ。それでこそ世話の仕甲斐がある」
「然う言えば然うですけれど」
「この間中と違って、もうお前に用がなくなったのさ」
「現金なものです。日曜には先方から来ますから、無論寄りつきません。それだけなら宜いんですけれど、明日は来るんだからねって、前の日に念を押します。誘わない中から撃退です」
「ハッハヽヽ」
「僕はこんなに邪魔にされる積りで奔走したんじゃありません」
狡兎こうと死して走狗煮られ……」
「はあ?」
高弓こうきゅう、いや、高鳥死して良弓りょうきゅうかくる。確か然うだった」
「諺ですか?」
「うむ。用がなくなれば、今まで調法したものも邪魔にされる。世の中はそれが当り前だ」
「その通りです」
 と僕は簡単に共鳴して直ぐに逃げ出した。親父は諺の問屋だ。卸し売りが怖い。
 高野君も不平だった。これは損をしたという感じが抜けない。
「何と言っても、矢田さんは一得意でした。御夫婦お二方でしたから」
「今度のは余りかんばしくないんですか?」
「香しいにも香しくないにもまだ紹介していたゞいたばかりです」
「成程」
「矢田さんは大きかったです。ドデン/\と行きますから、口銭こうせんの稼げること随一でした。それに芽を吹けば黙っちゃいません。必ず吹くんです。御主人が買いなら、奥さんが売りでしょう。奥さんが買いなら、御主人が売りでしょう」
 と高野君はいつも同じことを繰り返す人だから、愚痴の方も念が入った。
犬骨いぬぼね折って鷹に取られって次第わけでしょう」
 と僕も親父の子だから、多少仕入れている。
「取られたんでしょう? 矢っ張り」
「いや、諺です」
「市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、411-下-5]さんが続き合いになれば、取るのは当り前です。あれだけの御道楽をパッタリおやめになったとはどうしても思われません」
「いや、それ丈けはあなたのお考え違いですよ。本当におやめになったんです」
「行きがけの駄賃ってことがありますよ。諺なら」
「ハッハヽヽ」
「見す/\お得意を召し上げられた上に、お惚気のろけを聞かされるんですから遣り切れません」
「厳しいでしょう?」
「お嬢さんを存じ上げているだけに、私には当て好いんです。顔をあわせると直ぐですから遣り切れません」
「いや、僕だって随分当てられていますよ」
「お惚気だけなら、若い人のことだと思って辛抱しますが、邪魔物扱いは些っと義理人情を欠いているでしょう」
「そんな態度を見せるんですか?」
「見せるなんて生優なまやさしいことじゃありません。口に出して仰有るんですから厳しいです」
「ハッハヽヽ」
「昨日引けてから、私は矢田さんへ様子を見に上ろうと思って電車に乗ったんです。その時僕を押し退けて先に乗った男がありました。見ると菊太郎君です。『失敬々々』『何処へお出掛けですか?』『こう急いているんですから大抵お分りでしょう。ヘッヘヽ』ともう始めています。坐らない中からですよ、『私も矢田さんへ御機嫌伺いです』ってことで、話しながら行きましたが、乃木坂に着くまで聞かされました。それからです。門のところで、『これは邪魔な人と一緒に来てしまった』と言うんです」
「はゝあ」
「一緒に入ると一緒に客間へ通されて、直ぐに久子さんの部屋へ行けないから、君は一足後から来てくれという相談です」
「成程」
「私は情けない話だと思いました。橋渡しをして上得意を奪い取られた揚句の果てが、今度は邪魔物扱いです」
「ハッハヽヽ」
「遣り切れませんよ」
 と高野君は多分誇張もあるだろうが、可なり利かされているようだった。
 僕は誘い出す都合ばかりでない。この通り、橋渡しの恩人高野君にも評判が悪いのだから、反省を促す必要がある。黙っていては友人として不親切になる。
「菊太郎君、どうだい?」
 と僕は万一を僥倖ぎょうこうする気もあった。
「駄目だよ。忙しいんだ」
「狡兎死して走狗煮らる」
「何だい? それは」
「高鳥死して良弓蔵る。弓は弓だ」
「分ったようで分らない」
 と菊太郎君は国漢文が不得手だ。学校時代には僕が教えてやった。その代り僕は数学でお世話になっている。
「犬馬の労を執った人間も用が済めば邪魔物扱いだ。世の中はそんなものだろうけれど、お互は然うありたくないという意味さ」
「来たね」
「附き合えよ。僕は好いところを発見してあるんだ」
「駄目だよ」
「覚えていろ」
「凄いんだね。しかし当分は乃木神社へ日参だから」
「嘘をつけ。素通りのくせに」
「ハッハヽヽ」
たまには宜いだろう?」
「いけないんだ。欠勤の時は保証人連署で届けをお出し下さいってんだ」
「保証人は僕だから、幾らでも判を捺してやる」
「金子さんのはどうせ盲判でしょうけれど、あなたのは良心の自署サインよ。雨が降ったぐらいで休めて?」
「おい!」
「ハッハヽヽ」
「もう始めている。油断も隙もならない」
 と僕は呆れ返った。
「君、まあ/\、長い目で見て、誤解しないでくれ給え」
「それは察しているけれど」
「無暗に忙しいんだ。当分は迚も附き合えない」
「宜いよ、それなら」
「しかし君を邪魔物だなんて思っているんじゃない。そんな悪意は決して持っていないから、安心してくれ給え」
「サンザ骨を折って、悪意を持たれて溜まるものか?」
「無論感謝している」
「それが先ず当り前だろう。恩に着せるんじゃないけれど」
「しかし早い話が南京豆の殻さ」
「何が?」
「君だよ。もう用がないんだ」
「ふうむ」
「この間中は日出男さま/\だったけれど、もう用が乃木坂へ移った。僕の頭の中は久子さんで一杯だ。君のことなんか考える余裕がないんだ」
「恐ろしく正直なことを言うんだね」
「僕は自ら欺かない。こゝが僕の好いところだろう?」
「何うだかね」
「親姉妹のことも忘れているんだから仕方がないよ」
 と菊太郎君は始末にいけない。
 僕は差当り商売に身を入れた。附き合う相手がないと腰が落ちつく。店員達と一緒になって、夜までお得意廻りをした。見習いの月給五十円は口銭で稼ぎ出して余りあった。丸尾さんが感心した。極く凡庸ぼんような若旦那だと思っていたところ、急に切れ始めたから驚いたのだろう。隣りに菊太郎君という見本がいるから迷惑する。同じ白鞘でも中身が違う。
「丸尾さん、これでもイヨ/\抜けば正宗です」
 と僕は得意だった。
「恐れ入りました」
「口銭を稼ぐだけなら、お安い御用ですよ。お客さまの数さえふやせばいいんです」
「へい」
「子供にも出来る仕事です。皆は何をしているんだろうと思います」
「皆一生懸命です」
「僕はもう十軒拵えています」
「実はそれで一寸申上げたいと思っていたところです。その辺で一つお手控えってことにお願い申上げます」
「殖しちゃいけないんですか?」
「いや、お客さまは多いほど結構ですけれど、内容をお考えにならないと危いです。儲かる時は問題が起りませんが、損をすると逃げ出すのがあります」
「成程」
「私は一年間は初対面ってことに規則を定めています」
「すると僕のお客さまは皆まだ初対面です」
「それですから、保証金の立て替えなんてことは一切お引受けになっちゃいけません」
「しかし場へ電話がかゝって来た時は仕方ないでしょう? 一刻を争うんですから」
「信用の問題です。初対面ってことをお忘れにならなければ、間違いありません」
「すると先ずお法度はっとですな?」
「へい。十軒の中、半分に整理の必要がありましょう」
「危いんですか?」
「若旦那のことですから、店の顔も利いていましょうが、一月や二月の中に手堅いお得意が十軒なんて取れる筈はありません」
「しかし皆相応立派に暮している人達ばかりですから」
「株をやる人は皆見かけは相応です。此方も商売をしたい一心ですから、これぐらいなら大丈夫だろうと思い込みますが、内容ってものはナカ/\分りませんよ。現に私なんかも用心をしながら度々食われています。皆だって経験があります。一口に何をしているなんて仰有るのは素人の観察です」
 と丸尾さんは感心に始まって、忠告に終った。お客さまに間違いがあると、責任者が弁償しなければならない。僅かな月給と細い口銭を溜めた金から吐き出すのだから身に沁みる。それだから進んで新しいお客さまを取らないというのである。しかしそんな事勿れ主義で発展が望まれるだろうか? 店に活気がない筈だ。
 僕は若主人として相応考えがある。商売は何処までも積極的にやりたい。手堅いのは結構だけれど、石橋を叩くばかりで渡らなければ話が始まらない。お客さまも大量生産だ。大きな網を張って、雑魚ざこは後から棄てれば宜い。何のことやあると僕は益※(二の字点、1-2-22)手を拡げた。相場表の送り先も今まで五百軒内外だったのを二千軒に改めさせた。
「丸尾さん、又二三軒殖えましたよ」
「はゝあ」
「これは自然の大勢だから仕方ありません。しかし初対面の規則は堅く守っていますから、御安心下さい」
「何分宜しく」
「働くのは面白いです」
「へい」
「これが店員ですと他のものに遠慮もありましょうが、僕が出しゃばる分には構いません。当分黙って見ていて下さい」
「宜しゅうございます。村正の切れ味を拝見致しましょう」
「おっと。ケチをおつけになっちゃいけません。正宗ですよ。ハッハヽヽ」
 と僕は笑って誤魔化した。村正は悪剣だ。此方は機先を制したのである。親父といい、丸尾さんといい、直ぐに諺やたとえを使って意見をしたがるから厄介だ。
 菊太郎君は相変らずだった。心こゝにないのだから、場へ出て来ても、機械的に動く丈けだ。夕方になると、後を店員達に委せて、乃木坂へおっ走る。しかしいつの間にか僕の勉強振りに気がついたと見えて、或日のこと、
「日出男君、君は大いにやっているんだね」
 と敬意を表した。
「イヨ/\正宗を抜いたんだよ」
「素晴らしい評判だ。僕は差当り余り仕事に身が入らないんだから、お手軟かに頼むぜ」
「僕の方こそだ」
「いや、君が余りパリ/\やると、僕は迷惑する。お隣りの日出男さんを御覧と来る」
「少しは仕方がないよ。此方だって、好い加減迷惑しているんだから」
「ハッハヽヽ」
「おっと、どっこい」
「何だい?」
「もう寸が伸びた。乃木坂の話は出さないでくれ給え」
「僕もその中に発心ほっしんする。今の分だと店員達に悔られる[#「悔られる」はママ]
「少しダラシがないようだね」
「結婚してしまえば本気になれる」
「後三月と少しの辛抱だ」
「辛抱って程のことでもない。毎日会えるんだから」
「失敬するよ。僕は忙しいんだ」
「まあ宜いだろう?」
「いや、今日は四五口引受けている上に動きが早いから目が放せない」
「手張りもやっているんだろうね?」
「やっているとも。今に目に物を見せてくれる」
 と僕は油が乗り切っていた。
 それから二三日後だった。高言を吐くと直ぐだったから、世の中は皮肉に出来ている。それまでは実際調子がよかったのだけれど、僕は一朝にして、ペチャンコになってしまった。自分で目に物を見てしまったのである。ガラが来た。手張りを逃げ損なって、七百円ばかり引っかゝった。尤もその前に少し儲けている。丸尾さんの言う通り、いつも小さく取って、大きく取られる。僕としては初めての大損だった。お客さまも売廻っていたお医者さんの外は皆それぞれを負った。お医者さんには株の打診をする人が多い。僕はその晩勘定に廻った。人情として、喜んで貰える方へ先ず足が向いた。それから損の小さいところから大きいところへと心掛けた。道順も※(二の字点、1-2-22)ほぼ然うなっていたから、矢張り一種の運命が働いているのだろうと思って自ら慰めた。最後のお客さまは千円を少し突破していた。一月ばかり前から始めたのだったが、奥さんには内証だった。それだから自分で取次ぎに出るのだと言った。学校の先生らしかった。此方もその意を体して、打ち合せの時間きっかりに行くことにしていたが、その晩は正十時という指定にも拘らず、主人が出て来ないで、お嬢さんが取次ぎに現れた。
「金子でございます。御主人さまに何うぞ」
 と僕は尠からず慌てた。次いでお嬢さんと入り替ったのは奥さんだった。これは大事になると思ったけれど、今更逃げ出す次第わけにも行かない。
「御主人さまにお目にかゝりたいんでございますが……」
「金子何方さまでいらっしゃいますか?」
「金子日出男と申します。お目にかゝれば直ぐお分りになります」
 奥さんが引っ込んで、主人が現れた。しかし驚いた。似ても似つかぬ別人だった。
「私が加藤です」
「はゝあ」
「何ういう御用でいらっしゃいますか?」
「これはお門違いでしょうか?」
 と僕は今更玄関を見廻した。
「人違いじゃないんですか? 渋川君のところへおいでになったんじゃないんですか?」
「さあ」
「渋川君なら今日郷里くにへ立ちました。何か問題を残して行ったんじゃないんですか?」
 と加藤さんは頭の好い人だった。その瞬間、僕は菊太郎君じゃないが、直観が働いた。これは見事引っかゝったとハッキリ分ったのである。
「もうお戻りになりませんか?」
「はあ。当分彼方でしょう。しかしどういう御用件ですか?」
「実はぎょくの整理です」
「ギョクと仰有ると?」
新東しんとうを買っていらっしゃったんです」
「シント?」
「株をやっていらっしゃったんですが、丁度千円ばかりの御損です。困りましたな、これは。私の方でお立て替えしてあるんですから」
 と僕は泣きそうになってしまった。自分の七百円さえ背負い切れない。そこへ千円と少し端多はしたがつく。
 加藤さんは親切な人だった。客間へ請じて、渋川氏のことを詳しく話してくれた。同郷の後輩だそうだ。大阪で会社を失策しくじって就職運動のために上京、先頃から加藤さんのところに居候をしていたが、退職手当を資本に一攫千金を夢みたのらしい。僕は主人と思い込んだのみならず、教育家と聞いたから、悉皆信用していた。家の構えも相応だった。
「自分の家の客間で自分の名刺を出すなんてことは初めての経験ですが、念の為めです」
 と言って、加藤さんは肩書つきの名刺を渡した。中学校の校長さんだった。
「恐れ入ります。私は斯ういうものでございますが、商売の方の意味でなしに、何分宜しく」
 と僕も今更慌てゝ名刺を出した。
「渋川君は私の名前で株式投機をやっていたんですか?」
「いや、御主人に成り澄ましていましたが、教育家として具合が悪いから、杉山として置いてくれと仰有いました」
「成程」
「私は御本人の仰有ることですから、間違いないと思っていました」
「本人じゃないんですよ」
「はあ。しかし本人と思い込んでいて、今の今まで疑わなかったんです。奥さんには内証だと仰有るし、如何にも巧く固めてありました」
「豪い芸当をやる男ですな。それで少しは儲かったんですか?」
「トン/\ぐらいのところでした。今度は別ですけれど」
「もう長くやっていたんですか?」
「丁度一月ぐらいになります。実はもう十数回伺っています」
「それを些っとも知らずにいたんですから、私も迂濶うかつでした」
「いや、先生に責任は決してございません」
「何ともお気の毒です。渋川君が悪いに相違ありませんが、斯ういうことになると、あなたは店員として地位が危いんじゃありませんか?」
「はあ。困るんです」
「御主人に私から事情を説明してお詫びをして差上げましょうか? 然ういう意味でお力になる外仕方がありません」
「有難うございますが、私は若主人ですから」
「はゝあ」
「首の心配はありません。叱られるには定っていますけれど」
「たゞの店員でなくて大仕合せでした」
「渋川さんは今日何時頃お立ちになったんですか?」
「さあ。私が帰ると直ぐでしたから、四時頃でしたろう?」
「すると悉皆すっかり[#ルビの「すっかり」は底本では「すかつり」]見切ってくれと電話をかけた時にはもう決心がついていたんです。お郷里の方へ言ってやっても見込はないでしょうな?」
「さあ。然ういう経緯いきさつから郷里へ帰ったのかどうかも分りません。兎に角、ほかに当てはないんですから、郷里の方へ掛け合って御覧なさい。私からも手紙を出して置きます」
 と加藤さんは原籍を教えてくれた。
 僕は石臼いしうすを背負ったような心持で帰途についた。電車に乗っても、凝っと考え込んでいて頭が上らない。実に厭なものだ。しかし斯ういう経験を以来今日まで度々繰り返している。尤もこれで懲りたから、もう倒されることはない。寧ろ好い薬になったが、自分で損をする方は止むを得ない。時々ひどく見込が外れて、天地晦冥てんちかいめいとなる。然ういう折からは不思議にいつもこの晩の帰りが胸に浮んで来る。わざわいの裏はさいわい、暗の裏は光だ。親父にかぶれて諺を使うようだけれど。僕は然う考えて諦めをつける。それ丈けでは説明にならないから、二度目の乗り換えで菊太郎君と一緒になったことを書いて一寸香わして置く。此方は屈託していて気がつかなかったが、
「日出男君」
 と先方から声をかけたのだった。
「やあ」
「今頃まで廻って歩くのかい?」
「うむ」
「精が出るんだね」
「仕方なしさ」
「僕は乃木坂の帰りだ。恥じ入った。好い対照コントラストだもの、働き者と怠け者の」
「さあ」
 と僕は受け答えも碌々出来なかった。
「君、今夜は慎むよ」
「何だい?」
「君が真黒になって稼ぎ廻るのを見ちゃ呑気な話も出来ない」
「構わないよ。遠慮なしにやり給え」
「いや、僕だって店の方を本気にやらなければ冥利みょうりに尽きる」
 と菊太郎君はいつになく真剣味を見せた。これが二三日前なら、竹光を抜き給えとでも言うところだったが、折が折だったから、僕は心中忸怩じくじたるものがあった。
「本気になって好いんだか悪いんだか分らないぜ」
「今日は動いたね」
「うむ」
「久しぶりで大波瀾だった。何うだい? 景気は」
「いけないんだよ」
「ふうむ」
「大きく引っかゝってしまった、そればかりじゃないんだ」
 と僕はつい愚痴になった。失策しくじりかくしているような度胸はない。お客さまに逃げられた経緯を話しながら、不図菊太郎君の横顔を見て、何ういう張り合いか、豊子さんを思い出した。兄妹だから無論似ている。その豊子さんの顔がいつの間にか他の女性の顔に変った。それは先刻見かけた加藤さんの令嬢の面影だった。
「何うしたんだい? それから」
「うむ。そう/\」
「急に考え込んでしまったじゃないか」
「居候なんだ。主人じゃないんだ」
「まだ居候も主人も出て来やしない。奥さんがお嬢さんに代って取次ぎに出たところだ。それから?」
 と菊太郎君が促した。
「その令嬢が何処となく豊子さんに似ているんだ」
「ふうむ」
「実に綺麗な人だった。君は矢っ張り豊子さんに似ているんだね。君から豊子さんを思い出して、豊子さんからその人を思い出した」
「豊子に似ている人が綺麗で、僕が豊子に似ているってのは大賛成だ。エヘン」
「これはいけない」
「しかし余裕綽々よゆうしゃくしゃくたるものだね。千円も倒されていながら、そこの家の娘を美人と見届けて来るんだから胆が据っている」
「そこの主人が倒したんじゃないんだ。居候にやられたんだ」
「ふうむ」
「奥さんが引っ込むと今度は主人が出て来た。驚いたよ。いつもの人と違うんだ」
 と僕は話し続けたが、斯ういう倉皇そうこうの際に佳人を発見して来るのだから、菊太郎君の言う通り、その方面だけは胆が据っているのかも知れない。
 翌朝、丸尾さんは僕の報告を聴いて、これあるかなと言ったような顔をした。
「あなたの御損は自業自得ですから仕方ありません。しかしもう一つの方は災難です。多少御自分でお招きになった形もありますが、一遍目に物を見ないと性がつきません。おきゅうですよ」
「何のお灸ですか? 僕は悪いことをした覚えはないんですけれど」
「それがお分りにならなければ又据えられますよ」
「要するに不注意でした」
「然うですとも。私の申上げないことじゃありません」
「はあ」
「学校へ長く行った人は斯ういう商売に不向きです。それですから、私が頑張っている限り、学校出ってものは一切採用しません。あなたは若主人ですから仕方がないと思って観念しているんですけれど」
「厳しいんですね」
「十何年も同級生ばかりと附き合って来たんですから、世の中に悪い人間はないと思っているんです。しかし世の中の人間を皆同級生の積りでいらっしゃると大変ですよ」
「そんな積りじゃいない積りです」
「あなたは何でも積りですから危いんです。商売を一生懸命でやっていらっしゃる積りでしょう?」
「丸尾さん、失敬じゃありませんか?」
「私の申上げることがお気に召さないなら、直接お父さんにお打ち明け下さい。お執り成しをするからには、私も御遠慮なしに御意見を申上げたいんです」
「…………」
「私だってお店をお預かりしていれば責任ってものがあります」
「僕、悪かったです」
「引っかけた人は実に目から鼻へ抜けています。学校出のお坊ちゃんと見て取ったんです。先生だから内証だとは巧くやりました。世の中の人を皆同級生と思っているんですから、先生と聞かされゝば、一も二もなく敬意を表します」
「実際他の客よりも安心だと思っていたんです」
「大難が小難でした。このお灸がけば、千円のお灸も安くつきます」
「何分宜しく」
「御参考の為めに申上げて置きますが、斯ういうことが店員のボーナスに響いて来ますよ、その人から取れなければ、他に何処からも埋め合せが出来ません」
「重々恐れ入りました」
 僕は一々下から出た。使用人のくせに生意気だと思ったけれど、執り成して貰うのだから仕方がない。晩にイヨ/\親父の前へ出た。丸尾さんからもう逐一話してある。丸尾さんが僕の直ぐ側に坐ってくれたのは頼もしかった。
「北海道には熊がいる」
 と親父が口を切った。
「…………」
「熊というものは鮭をるのが上手だ。何尾も捕って、縄に通して担いで行くけれど、結び瘤を拵える智恵がないから、折角の獲物が皆抜けてしまう」
「…………」
「お前はこの熊に似ている。くくりがないから、斯ういうことになる」
「何とも申訳ございません」
 と僕は頭を下げたまゝだった。親父の譬えは必ずしも当っていない。熊は捕ったさかななくすだけだから元々だ。僕は積極的に損をしている。
「拡張も好いが、向う見ずじゃ困るね」
「はあ」
「居候を主人と思い込むなんて、何ういう料簡だか分らない」
「実は教育家と思い込んでしまったんです」
「教育家が株に手を出すと思うのか?」
「…………」
「何のために大学まで行ったんだ?」
「つい口車に乗せられてしまったんです」
「締め括りがないからさ」
「はあ」
「北海道の鮭だ」
 と親父は間違ったけれど気がつかない。無論熊の積りだ。尤も僕は笑う余裕がなかった。親父の前へ出ると胆が些っとも据っていない。
「御主人、これは半ば私の責任でございます」
 と丸尾さんが平伏した。
「店の締め括りをするのは君だからね」
「はあ。実は若旦那に御注意を申上げようと思っていたんですけれど、実に御熱心にやっていらっしゃるんですから、折角のところへ水を差すのも何うかと存じまして、つい/\差控えていました」
「骨身は惜まないようだな」
「模範でございます。店員共も自然凝っとしていられません。お気づきか何うか存じませんが、頗る緊張ぶりを示しています」
「俺も目はある積りだ」
「学校出の若旦那でお店の若旦那くらい精根に働いている人はこの兜町にございませんでしょう?」
「大きなことを言うものじゃないよ」
「いや、私は然う思っています」
「身を入れ始めたのは、こゝ二月か三月だ」
「私はその二月か三月の時期を特別に買って差上げたいと思います。お隣りの菊太郎さんは如何ですか?」
「如何とは?」
「お嫁さんが定って有頂天です」
「あれは逆上のぼせている」
「それを見て羨ましいともお思いにならず、商売に身を入れて、一挙十数軒のお得意をお拵えになったんですから、手張りぐらいは仕方ありません」
「手張りも失策っているのかい?」
「はあ」
「困った奴だ」
「今度の瓦落がらには軒並に引っかゝっているんですから、日頃の御勉強に免じて、お咎めなしってことに願い上げます。これで私からも御意見を申上げる切っかけがつきましたから」
「日出男や」
「はあ」
「働くのは結構だ。この上ともやって貰わなければならない。しかし北海道の鮭じゃ駄目だよ。いや、熊じゃ駄目だよ」
 と親父は漸く気がついた。

五分々々の計算


 僕は豊子さんの面影に似た加藤さんの令嬢を時折思い出した。しかしそれ丈けのことだった。菊太郎君と違って、近所をうろつき歩くような不見識は敢てしない。尚お商売が忙しい、失策ってからは特別に念を入れている。一体、若い中は気の多いものだ。あれなら貰っても宜いと思うような女性に一日置きぐらいに行き当る。加藤令嬢も単にその一人で、少し感銘が深かった丈けだ。唯一度会って、この人でなければならないと思い込むのは早計と浅薄を表白している。僕のは単にこの人なら辛抱出来るという及第点をつけるのである。その後二月三月の中に多くの綺麗な令嬢を見かけたから、加藤令嬢のことはソロ/\忘れ気味になった。商売も忙しいが、目先も忙しい。
 菊太郎君は半年の婚約期間を終って、イヨ/\結婚した。何うせ久子さん/\で当分は問題になるまいと思っていたら、新婚旅行から帰った翌日、僕のところへお礼に来て、決心の程を示した。
「日出男君、何から何まで有難う。御恩は一生忘れない」
「いや、一向。目出度い/\」
「しかし目に余ったろう?」
「人間は締まる時に締まれば宜いんだ」
「これから締まる」
「然う右から左へは行くまいけれど、ソロ/\心掛けることだね。身が固まったんだから、お父さんお母さんに安心させてやり給え」
「うむ。本気になる。この半年の間、僕は君の勉強ぶりを見てじ入っているんだ。君は実によく続く」
「それはね、君と僕とは少し違うんだよ。僕はもう悟りを開いている。君、恋愛は痲疹はしかだよ」
「痲疹?」
「うむ。僕はもう一遍やってしまったから、免疫になっている。君も今度漸く肥立ったんだから、もう悟りを開いても宜かろう」
「成程」
「善は急げだ。明日から場へ出給え」
「出る」
「若主人が本気になると、店員達も力瘤の入れ方が違って来る。覿面てきめんなものだぜ。僕は遣り過ぎて失策ったけれど、その後何うやら取り返しがついている。稼ぐに追いつく貧乏なしってのはよく言ったものさ」
「君はダン/\親父さんに似て来るね」
「何故?」
「諺を使ってお説法をする」
「お説法なんて気もないけれど、つい出るのさ」
「目に余っているんだから仕方がない。幾らでも聴かせてくれ給え」
「然う改まられると困る」
「気のついたところは遠慮なく言ってくれ給え」
「追々に注意しよう」
「僕は店を改革したいんだ。余り旧式だものだから、久子さんが案外に思っている」
「おっと、どっこい」
「何だい?」
「未だ牝鶏めんどりに時を告げさせるには早い」
「然ういう意味じゃないけれど、君のところにしても僕のところにしても、親父の頭は決して新しい方じゃないぜ」
「形式よりも内容だよ。内容が充実すれば、今の形式が持ち切れなくなる。それだから先ず得意を殖すことさ」
「無論手を拡げる」
「同時に客性を吟味してかゝらなければならない。これがナカ/\大変だ。保険屋のように唯殖しさえすれば宜いって次第のものじゃない。伸びたいんだけれど危いんだ。そこに悩みがある」
 と僕は改革案を出して親父に叱られた後だったから、これも一日の長があったのである。
 菊太郎君は早速商売に身を入れ始めた。一寸生れかわったようだった。但し女房を貰った嬉しさが手伝っている。それにしても見直した。
「本気になってやって見ると、店員達は甘い。何をしているんだろう?」
 と未だ若いから仕方がない。しかし手堅くやっている。医者が専門らしい。東京中の医者へ相場表を送って、得意を開拓する。金のあるのも医者で、山気のあるのも医者だという考えだった。尚お医者は患家が定っているから、損をしても逃げる心配がないと来た。好いところへ目をつけた。これも僕が逃げられたお蔭だろう。
「片や金万、片や市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、422-上-6]、何方も若主人が腕利きらしい」
 という評判が立った。二人は顔を見合せて、快心の笑を洩らした。
「両花道って次第わけですね」
 と店員達が煽てた。周囲が団栗どんぐり丈較せいくらべだから、すぐに頭角をあらわす。優良若旦那の好一対、お神酒徳利として認められたのはつとにこの頃からだった。調子に乗って、手張りも熾んにやったが、大きな損はしない。小さい中に見切ることを覚えた。夏に入ってからは当りつゞけて、僕は母親に一反百円の薩摩上布を買ってやった。高いものについていると親父が言ったけれど、親孝行には相違ない。菊太郎君は同じ値頃のを久子さんに着せた。これは女房孝行だ。一寸豪勢なものだったが、秋が立つと共に二人とも忽ちペチャンコになってしまった。しかし蓄めてあったのを悉皆吐き出したから、大した迷惑はかけなかった。親父が縁起をつけた通り、上布が高いものについた。好い後はどうも悪い。その代りに悪い後は大抵好い。福の裏に禍があって、禍の裏に福がある。
 或日、僕は友人から結婚披露の案内状に接した。矢張り同級生だった。親しい同級生の結婚が菊太郎君とこの男を合せて、もう三口に達している。吉例の文句だと思って読み下すと驚いた。お嫁さんは加藤直三郎長女文子とあった。名は知らないが、あの加藤さんの令嬢なら、あの人に相違ない。妙な廻り合せだ。世の中は広いようで狭い。小柴君があの令嬢を貰うのか? と僕は友人の幸福を祝すと共に、胸の中に空虚を感じた。一度会ったきりで縁が切れてしまったから、是非にと懇望する勇気もなかったが、小柴君が何うか出来るものなら、此方だって何とかなる。遠慮し過ぎた。教育家は株屋を相手にしないと親父に極めつけられたのも利いていた。
「君、小柴君から案内が来やしなかったかい?」
 と僕は菊太郎君に訊いて見た。
「来たよ。僕は御同列で出席する。君も無論出るだろう?」
「うむ。ところで不思議なことがあるんだよ」
「何だい?」
「そら、いつか僕が千円逃げられたろう。その逃げた奴の泊っていた家が加藤さんといって、中学校の校長さんだ。その校長さんの娘だよ。小柴君のお嫁さんは」
「ふうむ。豊子に似ているとか言った?」
「然うさ」
「君は多少心掛けていたのかい?」
「綺麗な人だと時々思い出した」
「又とんびさらわれたな」
「そんなことに帰着する。兎に角、心の手帳につけて置いたんだから」
「君は女運が悪いね」
「仕方がないさ。些っとも行動しなかったんだから」
「僕に頼めば犬馬の労を取ってやったのに、黙っているんだもの」
「或はその中にと思っていたんだ。初め話した時に君が何とか、言ってくれゝば決心がついたかも知れない」
「それは無理だ。然うまで察しがつかない」
「しかし僕は綺麗な人だと言ったぜ。感銘を受けたから、可なり印象的に話した積りだ」
「女のことなら、君はいつだって印象的に話す」
「君は乃木坂の帰りだったから、上の空で聞き流したんだよ」
「今度からハッキリ言ってくれ給え。貰いたいって声がかゝらなければ、僕だって単に世間話と思い込んでしまう。君には一方ならずお世話になっているんだから、僕も恩返しをしたい。是が非でも纒めて見せる」
「惜しいことをしたよ。切っかけがなかったものだから」
「切っかけなんか待っていれば、鳶に攫われてしまう。縁談は早いもの勝ちだ。ない切っかけを拵えるのが仲人の役じゃないか? 今度は見初めたら直ぐに貰いたいとハッキリ言ってくれ給え」
 と菊太郎君は大いに力瘤を入れてくれた。
 僕達は小柴君の披露会に出席した。お嫁さんは晴れのお化粧をしていたから、僕の心覚えよりも更に美しかった。しかし斯うなって見れば、完全に諦めがつく。僕は心からの祝賀者だった。見切りの早いのが僕の取柄だ。買いが利かなければ、直ぐに売りへ廻る。目先が働く。お嫁さんの友達が大勢来ているだろうと、その方に興味を持って見渡したら、若い女性が二テーブルに溢れていた。皆着飾っているから相応綺麗だった。尤も場所柄余りキョロ/\する次第に行かない。小柴家の関係者と加藤家の関係者とは卓が別になっていた。僕は小柴家の方の中軸を占めて、加藤家の方とは背中合せだったが、物色の必要を認めて、加藤さん夫婦の席を見返った。同時に自分の目を疑わざるを得なかった。加藤さんの玄関で見かけたまゝの令嬢が加藤夫人の側に坐っていたのである。
「君、君」
 と僕は見極めてから隣席の菊太郎君に囁いた。
「何だい?」
「お嫁さんが違う」
「うむ?」
「姉さんの方だ。僕の言っていたのは妹らしい。見給え。お母さんの側に坐っている」
「復活したのかい?」
 と菊太郎君は振り返って足らず、立ち気味になって見渡した。
「あれだよ。今お母さんと話している」
「ふうむ」
「あなた」
 と久子夫人が隣席から注意した。
 それから僕は無我夢中だった。何を食べて何を飲んだか覚えがない。仲人が披露の辞を述べた後、来賓代表者が新夫婦の万歳を唱えた。僕は心から和した。周囲あたりの人達の注意をひくくらい大きな声を出して祝したのである。一同控室へ流れ込んだ時、僕はお嫁さんの妹さんの側へ行って見た。確かにまぎれなかった。小柴君がやって来て、お嫁さんへ引き合せの序に、加藤さんにも紹介してくれた。
「実は僕、お目にかゝったことがあります」
「はゝあ。矢張り学校関係ですか?」
 と加藤さんはもう忘れていた。一寸心細く感じた。校長さんだから昔の生徒と思ったのらしい。僕は名刺を出した。
「成程。いや、その節はどうも……」
「以来御無沙汰申上げております」
「君、知っているのかい?」
 と小柴君は案外のようだった。詳しいことを話す場合でもない。菊太郎君夫婦も紹介して貰った。加藤夫人と問題の妹さんは他のお客さんとの応接に忙しかった。
 帰りは菊太郎君夫婦と一緒の車だった。走り出すと間もなく、僕は明言した。
「君、直ぐハッキリ言って置く。僕はあの妹さんを貰いたい。何分宜しく」
「合点!」
「はあ?」
 と運転手が振り返った。菊太郎君はそれくらい意気込んでいたのだった。
「まあ。オホヽヽ」
 久子夫人が笑い出した。
 僕は楽観した。菊太郎君の場合より形勢がグッと好い。先方は親しい友人の奥さんの妹だ。僕はそのお父さんの加藤さんを知っているし、仲人役の菊太郎君も形式的ながらもう紹介して貰っている。切っかけがないと思って諦めていたら、切っかけだらけになって来たのである。大手おおて搦手からめてから攻めが利く。唯一つ案じられるのは先口だ。それを考えると暗くなる。
「これは屹度纒まる。是が非でも僕が纒めて見せる」
 と菊太郎君が翌日言った。
「何分頼む」
「大舟に乗った気でい給え」
「君の大舟には懲りているけれど、今度は棚のものを取るだけの労力らしいから安心している」
「然う手軽に見られちゃ張合がないな」
「お手軽に限るんだ。僕は君のように無理な註文をしない。知っているところから知っているところへ足を運んで、極く当り前の口上を言って貰えば宜いんだから」
「恩返しだから、些っと骨を折りたいんだけれど、これはシーザーだ。我既に勝てり」
「違う。我、来たり、見たり、勝ちたり」
「然うか? 兎に角、朝飯前だ。これが纒まらないようなら、僕は余っ程何うかしている」
「しかし先口ってことがある。これが怖いんだ」
「先口は絶対にない」
「何故?」
「直観だ。考えて見給え。姉さんの縁談で忙しかったから、妹の方の話を始める余裕がない。僕のところでも僕の身が固まったら、昨今漸く律子りつこの方へお鉢が廻ったんだ。親ってものは同時に二人分の縁談を考えない。問題が重大だから、本能的に然うなるんだろう」
「成程」
「経済方面からも先口はないと断定出来る。中学校の校長さんだぜ。清貧せいひんきまっている。一人片付ければ可なり利くから、矢継ぎ早にもう一人って元気は出ない」
「成程」
「それだから妹さんの方は未だ話が始まっていない」
「有難い」
「これぐらいの直観が働かなければ、株屋の若旦那は勤まらないぜ」
「直観はよしてくれ給え。危くて仕方がない」
「大舟に乗った気でい給え」
「それも前例があるんだから」
 と僕は口先で冗談を言っても、肚の中では菊太郎君の論理に敬服した。
 菊太郎君は数日後、小柴君が新婚旅行から帰る頃を見計らって、早速行動を開始してくれた。小柴君から加藤家へ橋渡しをして貰う段取だった。小柴君は会社員だ。しかし大した格式の会社員でもないし、学校の成績も僕達と似たり寄ったりだった。それでいて文子さんを貰っているのだから、この点も意を強くすることが出来る。僕は菊太郎君の帰りを停留場で待っていた。歴史は繰り返す。正に去年の秋の菊太郎君だと思った。
「何うだったい?」
「上首尾だ。小柴君は一も二もなく引受けてくれた」
「先口は?」
「絶対にない」
「安心した」
「早速先生に相談すると言った。女房の親父を先生と呼んでいる。尤も弟子だから仕方がない」
「弟子かい?」
「小柴君は加藤さんが地方の中学校長をしていた頃の生徒さ」
「ふうむ。そんな関係があったのか?」
「仲人が然う言ったじゃないか? 披露会の時に。師弟が親子になったんだから御円満この上なしでしょうって」
「僕はついウッカリしていて耳に入らなかった。何がさて、席上で大発見をしてしまって、無我夢中だったからね。名前は何と言うんだい?」
「文子さんさ」
「いや、妹の方さ」
「幽香子さんだ。幽霊の幽に線香の香と覚えて来た」
 と菊太郎君は語彙ごいの狭い男だから、縁起の悪いものばかり引き合いに出した。
幽幻ゆうげんの幽に色香の香だろう?」
「正にその通り、失敬した。ケチをつけたんじゃないよ」
「幽香子さんか? ゆかしい名前だ」
「文子さんも一緒になって大分話し込んだ」
「姉さんの意向は?」
「これってことも発表しなかったが、小柴君が引受けたからには異存もないだろう。仲が好いぜ。文子さん/\って悉皆当てられて来た」
「君が当てられるくらいなら余っ程だろうね」
「まあ/\、帰ってから話す」
 先口のないのは何よりの安心だった。もう慌てることはない。無競走で当選しないようなら、人間を辞職する方が早い。と高をくくっても矢張り気になるから、指折数えて待っていた。小柴君がその中に菊太郎君のところへ報告に来る約束だった。しかし半月たっても音沙汰がなかった。
「何うしたんだろうね?」
「さあ。奴、新家庭で忙しいんだよ」
「しかしもう半月たっている。その中にと言ったんだろう?」
「それは然うだけれど、問題が問題だからね。右から左へ目鼻のついた返事は出来ないんだろう。まあ/\当分と言われゝば、それっきりだ。姉娘をくれた直ぐ後で草臥くたびれているんだろうから」
「それなら然うで宜いんだけれど、駄目になったのを握り潰しているんだと困る」
「兎に角、僕、往って来る」
「頼むよ」
「早く君のお父さんが出動するようにならなければ駄目だ」
「僕の時だって随分手間がかゝったぜ」
「しかし今度は条件が違う。元来知った同志だもの」
 と僕は短兵急だった。
 菊太郎君は早速又出掛けた。雨降りだったから、僕は家で待っていた。菊太郎君は案外早く帰って来て僕を呼びつけた。奴、勿体をつけるくらいだから巧くやって来たのだろうと思って行って見たら、甚だ香しくない報告をもたらしたのだった。
「君、弱ったよ」
「何うした?」
「株屋はお断りだと言うんだ」
「ふうむ」
「本人さえシッカリしていれば、職業は何でも構わないけれど、株だの米だのと投機的の商売をしているものは原則としてお断りだと言うんだ。流石に校長さんだと思った」
「君は感心しているのか」
「いや、如何にも教育家の言いそうなことだからさ」
「すると駄目か?」
「うむ。見込が立たなくなってしまった」
「君はそれで済むと思っているのかい? 子供の使いじゃあるまいし」
「しかしキッパリ断られて来たんだ。父は一こくでございますからって、奥さんも気の毒がってくれた」
「それでスゴ/\帰って来たのかい?」
「うむ。早かったろう?」
「早いことなんか希望しちゃいないよ」
「御機嫌が悪いね」
「当り前さ。是が非でもってことを君は再々言っているじゃないか? なんだ?」
おこるなよ」
「僕は親父の校長さんを貰うんじゃない。幽香子さんを貰うんだ。幽香子さんの意志を訊いてくれ給え。もう一遍行ってくれ給え」
「何遍でも行く」
「加藤さんの一存に相違ない。幽香子さんには話さないで断ったんだろう?」
「無論然うだろう。受けつけないんだから」
「それじゃ話が未だ徹底していない。そんなことでノメ/\引き退さがって来る仲人があるものか? 何が犬馬の労だ?」
 と僕はプリ/\した。親しい間柄だから、つい我儘が出る。
「これから相談しようってんだ。一足飛びの結論をするな」
「君はそんなことを言われて黙っていたのか?」
「先方の都合なら仕方があるまい?」
 と菊太郎君も気の練れている方でない。お婿さんの候補者と仲人の候補者が睨み合っているところへ、久子夫人がお茶を持って上って来た。菊太郎君は直ぐに相好を崩した。女房の顔を見ると筋肉が弛緩しかんする男だ。僕も女性の前では体裁を重んじる。
「君、原則が間違っていると僕は思うんだよ。株屋を正業でないように言われて、君は黙っていたのかい?」
「議論をしたって仕方がない。小柴君だって取引所論ぐらい分っている。単に加藤さんの考えを取次いだんだから」
「加藤さんの考えが間違っている。株屋を侮辱した言分じゃなかろうか?」
「株屋といえば危いものだと思っているのさ。要するに商売違いだから、理解がないんだろう」
「そんな理解のない人が中学校長をしているのは教育上面白くない。縁談は兎に角として、国家のためにもうひらいてやる責任があるよ」
「僕も自分の商売を正面にけなされたんだから、実はムッとしたんだけれど、まあ/\と思って、胸をさすって帰って来たんだ」
「何うなさいましたの?」
 と久子さんが訊いた。恩返しの責任を感じて、深い関心を持っていてくれるのは有難い。
「株屋だからいけないと言うんです。あなたのお父さんぐらい分っている人なら話が早いんですけれど、早速一頓挫です」
 と菊太郎君は友達よりも女房に丁寧な言葉を使う。
「それで?」
「困っているんです」
「縁談は兎に角として、株屋は正業でないなんて言われたんじゃ兜町一般が迷惑する。奥さん、僕は正義の為めに主張します。僕の心持はあれです。高風清節こうふうせいせつです」
 と僕は床の間の軸を指さした。竹に鶴の絵に高風清節と書いてある。
「恐れ入りました」
「君、それじゃ幽香子さんが貰えなくても宜いのかい?」
 と菊太郎君は僕が取りつくろっているのをに受けてしまった。
「さあ。元来が縁談で始まったことだから……」
「話を打ち毀しても宜いのなら早い。僕だってい心持はしていないんだから、何ならこれからでも乗り込んで、校長さんに取引所論の講義をしてやる」
「まあ/\、待ってくれ。いては事を仕損じる」
「今夜ノートをよく読んで置いて、明日にしても宜い」
「貰えなくちゃ困るよ。矢っ張り縁談が第一だ。議論は第二にしてくれ給え」
「オホヽヽヽ」
「ハッハヽヽ」
「何うぞ御ゆっくり御相談を」
 と久子さんは気を利かして、もうそれ丈けで下りて行ってくれた。
「君、斯うなったら、見識を捨てゝかゝる方が早いぜ。理窟は後廻しにして」
「うむ。実はその積りだけれど、奥さんの手前さ」
「それを見て取ったんだよ。何んなものだい?」
 と菊太郎君は威張った。
「あの人を貰えさえすれば、株屋は悪魔でも外道げどうでも宜いんだ」
「ひどく譲歩したね」
「君に一任する。何とかして、貰ってくれ給え」
「宜いとも。僕はあんな無理な縁談に成功している。無論君のお蔭もあるけれど、あれでコツが分った。女相手なら、見識を捨てゝかゝれってことだ」
「成程」
「僕は見識を捨てゝいるから、久子さんは実によく愛してくれる」
「ふうむ」
とても並み一通りの夫婦関係じゃない」
「もう分っているよ」
「それだからさ。君は貰いたいってことをもっと徹底させる必要がある。僕は仲人として君の見識を自分勝手に下げる次第に行かないから、く世間並みの申込をしたんだ。それで充分利く積りだったけれど、株屋ってことが障害になって、頭から断られてしまった。こうなって見ると、これは棚のものを取るような生易しい縁談じゃない」
「現にもう望みが絶えてしまったんだから」
「いや、復活するよ。お嫁さんも一遍望みが絶えて復活したんだから、縁は必ずあるんだ。僕も手伝うけれど、君から直接小柴君夫婦に頼んで見ちゃ何うだい? 貰いたいにも程度がある。その辺がもっと徹底すれば、小柴君夫婦も本気になって考えてくれる」
「親しい間柄だから有りのまゝを話しても宜い」
「僕も側から調子を合せる。その中に一緒に行こう」
「一寸具合が悪いね、新夫人の手前」
「その見識を捨てゝかゝるのさ」
「仕方がない。やって見よう」
 と僕は決心がついた。
 世の中には元来見識のない人間がいる。然ういうのは斯ういう折からあつらへ向きのようだけれど、初めからの坊主は剃ってもお詫びが利かない。ある見識を捨てゝこそ認められるのである。僕はこれでも大いにある方だ。捨てろと言うくらいだから、菊太郎君もチャンと見ているのだ。そこで僕は翌晩、菊太郎君と一緒に小柴君の家庭を訪れて、一部始終を物語った。去年の暮から小柴君の披露会までにわたって、可なりの長講だった。文子夫人にも残らず聴いて貰って、悉皆見識を落してしまった。
「僕としては一も二もないんだけれど、お父さんは株屋が嫌いだと言うんだ。困ったな、これは」
 と小柴君は首を傾げるだけで、一向友達甲斐を示さない。
「何うして株屋が嫌いなんだろう?」
「投機的の商売だからさ。危いと思っているんだ」
「仲買人だぜ。投機をやるのはお客さんだ。僕達は売買の仲介をして、手数料で食っている。扱う品物が証券で相場の変動が激しいから、素人目には危いように見えるかも知れないけれど、石炭屋金物屋と同じような手堅い商売だ。又然うなくては立ち行かない」
手張てばりなんか些っともやらないんだ」
 と菊太郎君は余計なことを言う。
「手張りって?」
 と小柴君はすぐに問題にした。
「張るのさ。自分の手で」
「チョク/\やっているんだろう?」
「いや、やってもほんの小遣取りだ」
「小柴君、君だって取引所の経済機能ぐらい分っている筈だ。大量的需要供給の投合調節、公定相場の作成、価格の平準作用……」
 と僕は説き立てた。実は小柴君よりも文子夫人が目的だった。奥さんが株屋を理解してくれると前途有望になる。
「もう沢山だ。学校で習ったよ」
「それじゃ君一つお父さんに講義をして、蒙を啓いてくれないか?」
「駄目だよ」
「何故?」
「昔の先生だからね。恩師だから頭が上らない」
「あなた、私から改めてお母さんに申上げて見ましょうか?」
 と文子夫人が義勇心を起してくれた。
「然うして頂ければ僕も助かります。金子君は商売に似合わない人格者ですから、幽香子さんのお婿さんとしては適任です」
「お取次ぎ丈けは致します。これは御縁があるのかも知れませんわ、種々と思い合せて見ますと」
「学校の先生だと申分ないんですけれど」
「でも幽香子さんは先生を望んでいませんわ、地味じみだからいやですって」
「会社員ですか? 矢っ張り」
「月給で縛られている人は嫌いですって」
「おや/\」
「矢っ張り大きな商家を望んでいるんでしょう。趣味が派手ですから」
「株屋さんでも宜いんでしょうか?」
 と小柴君も偏見を持っているらしい。困った奴だ。
 それから菊太郎君の奔走がつゞいた。何しろ足マメだ。頻繁に催促に行ってくれた。しかしいつも煮え切らない返事ばかり持って来る。矢っ張り商売が邪魔をしているようだと言うかと思えば、職業よりも人格本位らしいと言う。小柴君よりも文子夫人の方が進んでいると言うかと思えば、流石に小柴君は年来の友人だから考えていてくれると言う。猫の目のように変るから真相が分らないけれど。話の捗らないことは確実だった。僕は商売が手につかない。歴史は繰り返す。去年の夏頃の菊太郎君そのまゝだった。
「君、人格本位だから、商売の方をもっと目覚しくやらなければいけない。先方は漫然と引っ張って置いて、調査しているのかも知れないぜ」
 と菊太郎君が注意してくれた。
「駄目だよ、もう僕は」
「一向進捗しんちょくしないんだから無理もないけれど、調査しているんだと困る」
「人格本位ってことが分ったのかい?」
「さあ。それは単に僕の想像だ」
「僕は無能な仲人と無情な友人の手にかゝって相果てるのだろう」
「人を恨むものじゃないよ。小柴君だって僕だって一生懸命だ」
「僕はもう君の顔を見るのが厭になった」
「何故?」
「この頃は忠告ばかりする。小柴君も失敬だ。もう行かない」
「まあ/\、気を長く待つんだね。君は一遍人生の痲疹はしかをやって、もう悟りを開いていると言ったじゃないか?」
「あれは軽かったから、今度のが本当だろう。重い上に藪医者ばかりついている。癒りっこないんだ」
 と僕は悉皆気が腐ってしまった。秋の中頃から始まって、もう年の暮だった。手張りをやる元気もなく、得意を失策しくじらない程度で怏々おうおうとして勤めつゞけた。
 押し詰まって、或晩のこと、
「日出男や、一寸お出」
 と母親が僕を親父のところへつれて行って、一緒に坐った。
「何か御用ですか?」
「日出男や、お前は何うかしたのか? この頃は苦虫を噛み潰したようなむずかしい顔ばかりしているじゃないか?」
 と親父はお談義らしかった。目に余っていたに相違ない。
「…………」
「何処か身体でも悪いのか?」
「いゝえ」
「何か不足があるのか?」
「さあ」
「菊太郎さんが世帯を持ったのに、お母さんも俺も知らん顔をしているから、面白くないんだろう?」
「…………」
「嫁を貰ってやるが、何うだね? 丁度好いのがある」
「僕、その問題なら自分に考えがあるんですから」
「親の言うことを聞いても、罰は当るまい。お父さんもお母さんも心配しているんだ」
「それは分っていますけれど」
「何うだね?」
「少し考えさせて戴きます」
「神経衰弱かな? 些っとも煮え切らない」
「…………」
「尤も一生の問題だから、然う右から左へも返事が出来まい。よく考えて見なさい」
「はあ。失礼します」
 と僕は素敏すばしっこく切り上げて出て来た。この上お談義を聞く気分になれない。
「おい。障子を締めて行きな」
 と親父が後から追っかぶせた。僕はついガタンとやってしまった。親不孝のようだけれど、仕方がない。
 二階へもガタピシ上って行った。別に考えるまでもない。これが娘なら、突き詰めて料簡違いを仕出来すところだ。しかし僕は一向慌てない。断るまでの話だともう肚がきまっている。幽香子さんが駄目なら、諦めてまた探す。幾度でも痲疹をやってやる。何でい! と妙なことが切っかけになって、図太く構えたところへ母親が上って来た。
「日出男や」
「はあ」
「写真だけでも見て置いておくれ」
 と言って、母親が突きつけたのは幽香子さんの写真だった。
「はゝあ!」
「不服かい?」
「お母さん!」
 と僕は両手をついて平伏した。そこへ菊太郎君がノッソリ上って来て、
「おい。何んなもんだい?」
 と威張った。
「参った。お礼を言う。しかしこれから見合かい?」
「いや。もう異存はない筈だ」
「先方さ」
「君は小柴君の家で再三隙見をされているんだから、然う自慢に幾度も見せることはあるまい」
「有難う。悉皆すっかり馬鹿扱いにされたんだけれど、千万かたじけない」
 と僕は満足だった。
「手柄にしたいんだけれど、僕一人じゃないんだよ」
「無論小柴君も尽してくれているよ」
「僕や小柴君よりもお父さんお母さんだ」
「ふうむ」
「僕の親父も手伝った」
くわしく話してくれよ」
「追々としよう。大分込み入っているんだから。それだけれど、何だな、日出男君」
「何だい?」
「これにつけても親孝行を忘れないことだよ」
「うむ」
「物言いぶしも優しくすることだね。障子をガタンなんてやっちゃいけない」
「君は先刻から来ていたのかい?」
「ハッハヽヽ」
 と菊太郎君は勝ち誇った。市※[#「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号、431-下-16]の若旦那もナカ/\あじをやる。甘くたくんだ。僕は久子さんの件で菊太郎君の頭を押えていたが、今度は物の見事に押えられてしまった。しかし五分々々だ。





底本:「佐々木邦全集3 脱線息子 大番頭小番頭 勝ち運負け運」講談社
   1974(昭和49)年12月20日第1刷
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
   1934(昭和9)年1月〜12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「同士」と「同志」、「痲疹」と「麻疹」、「試し」と「試めし」、「陰」と「蔭」、「張り合い」と「張合」、「売り」と「売」、「選ん」と「撰ん」、「相見互」と「相身互」、「重んじる」と「重じる」、「纏」と「纒」、「瘠せ」と「痩せ」、「買」と「買い」、「徳」と「得」の混在は、底本通りです。
※「素敏」に対するルビの「すばしこ」と「すばしっこ」の混在は、底本通りです。
入力:橋本泰平
校正:芝裕久
2020年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「Γ」を左右反転したもの、屋号を示す記号    317-下-10、318-上-5、386-上-11、387-上-13、389-下-20、390-上-2、390-下-24、391-下-18、392-上-8、392-上-19、392-下-16、392-下-26、393-上-24、393-下-4、394-上-7、394-上-13、394-上-15、394-上-17、394-下-8、394-下-9、395-上-16、396-下-17、398-上-7、401-下-1、401-下-7、402-上-12、402-下-16、402-下-27、403-上-15、404-上-8、405-下-6、407-下-13、407-下-14、408-上-3、408-上-7、408-上-13、408-上-24、408-上-27、409-上-15、409-下-1、411-下-5、422-上-6、431-下-16


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