脱線息子

佐々木邦




転地療養


 寿商店ことぶきしょうてん独息子ひとりむすこ新太郎君しんたろうくんが三度目の診察を受けた時、丹波たんば先生は漸く転地を勧めてくれた。
「山がいでしょう。一月ひとつきばかり呑気のんきに遊んで来れば直りますよ」
 と子供の頃から手にかけているから、新太郎君の容態を兎角軽く見る。新太郎君は又重く言う癖がある。今回は元来転地が希望だったので、既に去年の避暑の宿を頭に描いていたから、
「海岸じゃいけませんか?」
 と註文をつけた。
「海岸でも結構です」
 と丹波さんはニコ/\していた。番頭や小僧の多い商店は下町の開業医に取って一番大切だいじ患家かんかである。
「それじゃ海岸にします」
 と新太郎君は元気好く答えた。去年までは学生だったから、毎年大威張りで避暑に行けたが、この四月からは親父の店の月給取だ。矢張り一緒に卒業した従兄弟いとこの寛一君と二人がかりで番頭共にお手本を示す立場だから骨が折れる。神経衰弱にでもかからなければ浩然こうぜんの気は養えない。
「兎に角お父さんから避難出来れば宜いんでしょう?」
 と先生も多少その辺の消息を解していた。
「冗談仰有っちゃいけませんよ」
 と新太郎君は頭を掻いて診察室を出た。それから薬局の窓口へ廻って、
「もし/\、お薬は後から小僧が取りに参ります」
一寸ちょっとお待ち下さい」
 と薬局生は先生のところへ訊きに行って来て、
「お薬には及びませんそうで、折角お大切だいじに。ヘッヘヽヽヽ」
 と窓の内から新太郎君を覗き上げた。
 新太郎君は※(二の字点、1-2-22)やや忌々いまいましかったが、完全に目的を達した次第わけである。家へ帰ると直ぐに、
「丹波さんはうも大袈裟おおげさで困りますよ。この忙しいのに、一月ばかり海岸へ転地しろと仰有おっしゃるんです」
 とお母さんに相談した。
「そんなに悪いの?」
「いや、今直ぐうってことはありませんが、無理をすると悪くなる心配がありますから、一思いに早く静養する方がかろうと仰有るんです」
うしますか?」
「えゝ。店の方の都合さえつけば」
「病気なら仕方ありませんわ。卒業試験の時に毎晩徹夜で勉強したのがこたえているんですよ」
「然うです。学校を卒業すると大抵一遍は神経衰弱をやるものです」
 と、まさかそんな理法もあるまいが、母親はだまい。
「でも寛一は平気じゃないの?」
「あれは特別です。撲ったって死にません。僕、何でも寛一君と一緒にされるんで困りますよ」
「お前は子供の時から弱かったからね」
「独息子で余り大切にし過ぎたからですよ」
「大切にしてやったり苦情を言われたりしちゃ埋まらないわ」
「毎日頭が重いんです」
「それじゃ私からお父さんに相談して上げましょう。折角卒業しても、身体をこわしたんじゃ元も子もなくなってしまいますよ」
 と母親は新太郎君の健康を案じてくれた。父親よりは理解がある。
「活動へ行って夜更よふかしをするから、朝の中頭がボンヤリしているんだ。晩に早く寝れば直るよ」
 なぞとは言わない。
 新太郎君のお父さんは一代で身上しんしょうを起した人けになか/\激しい。朝から晩まで店に坐って采配さいはいを振っている。家業一方で趣味も嗜好もない。道楽といえば番頭や小僧に小言をいうぐらいのものだ。この方は大分研究している。新太郎君がお医者さんから帰って来た時も、
清吉せいきちや、今の電話は何だい?」
「間違ったんですよ」
「ふうむ。これから間違ってかゝって来たら利用してやりなさい。唯時間を潰しちゃ損だろう?」
「はい」
「違いますと直ぐ言わないで、『此方は銀座の寿商店、羅紗らしゃ一切を扱います』と言ってやりなさい。それから切ってもおそくない。つまり電話料は先方持むこうもちで此方の広告が出来る」
「はい」
「お前は返辞丈けは宜いな」
 と冗談まじりに小僧を戒めているところだった。
「行って参りました。矢張り今の中に静養しなければいけないそうです」
 と新太郎君は改まって報告した。お母さんには我儘を言っても、父親の前へ出ると鼠のようになる。
「ふむ。うかい? 二三日休むか?」
「はあ。お母さんが一寸ちょっと何か御相談があるそうです」
わしにか? よし/\」
 と父親は奥へ入って行った。
うだったい?」
 と寛一君が近寄った。
「巧く行きそうだよ」
 と新太郎君はささやいた。
「若旦那、如何いかがでございましたか?」
 と大番頭の栗林さんが訊いた。
「神経衰弱で少くとも一ヵ月の転地療養を要するそうです」
 と新太郎君は今度は大きな声で答えた。それから持場に坐って帳簿を繰り始めると間もなく女中が迎いに来た。恐る/\奥へ入って見ると、
「新太郎や、お母さんから種々いろいろ聞いたが、真正ほんとうに悪いのなら何も遠慮することはないよ。一月ひとつき遊んで来るさ。身体が一番大切だいじだ。充分健康を恢復して、ミッシリ働くさ」
 と父親がもう承諾していたのには、新太郎君、少し気味きびが悪かった。しかしお許しの出た上は御意ぎょいの変らない中にと、早速店の方を休むことにして、逗子ずしの避暑宿へ問合せの手紙を出した。
「お母さん、田舎へ行くんですから、せめてもの名残りに、今日はこれから芝居を見て来ます」
 と新太郎君は身体が明けばっとしてはいられない。
「心細いことを言うのね。見ていらっしゃい。お父さんには内証ですよ」
 と母親は少しやな顔をした。お父さんに内証で独息子を悉皆すっかり馬鹿にしてしまう。男親が厳し過ぎると思ってかばう気があるからいけない。
 翌日新太郎君は同期卒業でだ職業にありつかない友達を訪れた。少時しばらく話し込んだ後、
うだい? 海岸へ遊びに行かないか?」
 と誘ったが、
「君は罰が当るぞ。おれなんか働きたくても使ってくれないんだ」
 と言って、友人は応じなかった。
「親父に使われるのは又違うよ。怠ければ家の損になるから何うしても勉強する。身骨みぼねが折れるぜ。自然神経衰弱になる」
「神経衰弱って柄でもないじゃないか?」
「いや、嘘じゃない。医者が転地を勧めるくらいだから確かなものさ」
「一体君は神経衰弱の徴候ちょうこうを知っているのかい?」
「馬鹿にするない。これでも朝起きると頭の重いことがある」
「それは酒をくらって夜更しをすれば誰だってうだよ」
「次に仕事をするのが億劫おっくうでいけない。うやって無駄話をしている方が余っ程楽だ」
「それは人類全体の傾向さ。何も神経衰弱だからじゃないよ」
「実は医者も神経衰弱といえばまあ神経衰弱でしょうなあと頗る不平のようだったよ」
「それ見ろ。この親不孝もの!」
「家へ密告丈けはするなよ」
 と新太郎君は事実を告白した。それから夕方まで喋って、
「晩飯を附き合い給え」
 と友人を神田辺へ引っ張って行った。銀座は親父の目が光っている。
 その次の日に逗子の宿から返事が来た。見晴らしの好い部屋が明いているとあった。未だ海水浴には少時しばらく間があるから、今の中ならり取りらしい。
「お母さん、長々お世話になりましたが、明日出掛けます」
 と新太郎君はその晩荷物を纒め始めた。
「変なことを言うのね、お前は」
「一寸お礼を申上げたんですよ」
「お前に改まってお礼なんか言われると、私は気にしますよ」
「普段が普段ですからね」
うさ。いつにもないことだからさ」
 と言っても、母親は息子の殊勝しゅしょうらしい態度が多少嬉しかった。
「荷物がナカ/\ありますよ」
「沢山本を持って行くのね? 皆小説?」
「えゝ。退屈するでしょうから」
「明日何時に立つの?」
「朝の八時の汽車で行こうかと思っていますから、七時を打つのを合図に……」
 と新太郎君はわざと言い淀んだ。
「合図に何ですの?」
「イヨ/\お別れです」
「厭なことばかり言うもんじゃありませんよ。い気になって」
 と母親は怒ってしまった。
「そこが神経衰弱ですよ。皆病気が言わせるんです」
「そんなに心細いなら、誰かつけてやりましょうか? 私がついて行って上げましょうか?」
「いえ/\、それには及びません。大丈夫ですよ」
 と新太郎君は慌てた。監督者につかれたんじゃっとも保養にならない。
「それは然うとお父さんから月給を戴いて?」
「六七八と三月分頂戴しました。これからは万事店員並みで、自分の養生も自分の月給でするんだそうです」
「それは仕方がないわ。お店を休んで保養に行くんですもの」
「転地から帰って来ると夏中只で働かなければなりません」
「その時は前借りをして、チビ/\くずしにすればいのよ」
「お母さんまで現金ですね。まるで手の平を返したようですよ」
「何故さ?」
「学校へ行っている間は大切だいじにして置いて、卒業すれば直ぐに虐待ぎゃくたいするんですもの」
「虐待なことがあるもんですか。みんなお前の身の為めよ」
いです。自費で海岸へ行って自費で養生をして来ます」
「そんなに恩に着せることはないわ」
種々いろいろとお世話になりました」
「改まってお礼を言うこともないわ。親子の間ですもの」
「親子の間に月給制度があるんですね?」
「七八月が心配になるなら、私からお父さんに話してうにでもして上げますよ」
うして戴かないと励みがありません」
「機嫌好く行っておいでなさい。変なことばかり言われると私も気になりますよ。お金は三月分あれば沢山でしょう?」
「大抵間に合う積りですが、お母さん、思召おぼしめしはございませんか?」
「まあ、厭な子だねえ。先刻からお別れだの何だのって妙に心細がらせると思っていたら、私からも取る積りだったの?」
 とお母さんは合点が行くと共に安心して、早速三十円出してくれた。
 翌朝新太郎君は寛一君と清吉に送られて新橋から立った。その折寛一君は、
「少し手廻しが早過ぎるようだぜ」
 と言って笑った。
「何だい?」
「二度言うと風邪を引く」
「何だよ。もう汽車が出る」
う乗り込んでしまえばおこっても構わない」
「足許を見るなよ」
「君は去年の松浦さんが忘れられないんだろう?」
「馬鹿を言え」
「今から行って待っているんだろう?」
「馬鹿あ言え。こん畜生!」
「土曜の晩に行くよ。さよなら」
「さよなら。待っている。清吉、御苦労」
 と新太郎君は動き出した。
 湘南しょうなんの海岸も季節前は生地きじのまゝで、一帯の漁村続きに過ぎない。逗子の町はだひっそりしていた。新太郎君はなぎさ伝いに散歩をしても宿で小説を読んでいても、常に太平洋を独占するような心持がした。淋しかろうとはもとより予期していたことだから苦情もなかったが、退屈をまぬかれない。その中に寛一君が約束通り土曜から日曜へかけて遊びに来た。この二人は従兄弟同士で似たり寄ったりの現代青年、成績も等しく抜群ではなかったから○○大学を恨みっこなしに中どころから少し下で卒業した。六年間何でも一緒でく仲が好い。現に去年もここへ二人で来て最後の暑中休暇を泳ぎ暮した。寛一君は新太郎君の家の店に勤めていても遠慮はない。新太郎君も今更若旦那風を吹かせる程の馬鹿でない。
うだい? ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの御機嫌は?」
 と新太郎君は気が咎めると見えて、間もなく父親を問題にした。英語で親父のことをガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーというと聞いた時、如何にも適称だと思って、以来ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーにしている。
「好かろう筈があるものか」
 と寛一君は怖い顔をして見せた。
「何か言っていたかい?」
「うむ。新太郎の奴、お母さんをだますのが上手で困るって言っていた」
「矢っ張り知っているんだね」
「知っているとも。『見す/\嘘と分っていても、それを言えば母親が先に立って騒ぐからと思って黙っていたが、まさかお前も後から神経衰弱を起す約束じゃあるまいな』と僕に一本釘を打ったよ」
り切れないね」
 と新太郎君は大袈裟おおげさに頭を掻いた。
「未だあるんだよ。『女親の馬鹿には困る。お前の前だけれど』と来た。余り無理な拵えごとをすると伯母さんが可哀そうだぜ」
「全然拵えごとでもないんだがな」
「おれにまで嘘をつくなよ」
「いや、真正ほんとうだよ。苦労をかける分、病気が直ってから一生懸命に働く」
「然うし給えよ。悪いことは言わない。僕は今夜は忠告係だ。未だあるんだぜ」
「何だい?」
「君は既に七月まで引き出していたんだってね? そこへガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーから六七八と三月分渡せと特別命令が出たものだから、新井さんは狼狽したのらしい。前貸をしましたと言えば叱られるにきまっている。何とかしなければならない。『長いこと会計係をやっていますが、帳簿を誤魔化したのは今度が初めてです。若旦那が勤めるようになってからは種々いろいろの芸当をさせられます』と言っていたぜ」
「新井さんは気が小さいからね」
「会計係は気が大きくちゃ困る。兎に角暮までに何とかしてやらないと、新井さんがお目玉を食うよ」
「年末賞与で埋めてやる」
「年末賞与が貰える積りかい?」
っと怪しいか? ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは他人も身内も見境みさかいがないからね」
 と新太郎君、甚だ覚束おぼつかなかった。
 寛一君は翌日昼過まで海岸の空気を吸って又次の日曜を約したが、
「君、そこの離れにいる男は確かに肺病だよ。折角丈夫な身体を転地療養に来て、病気を背負しょっちゃ詰まらないぜ。早く何処かへ越し給え」
 ともう一つ忠告を残して行った。新太郎君はその晩女中に、
「あの離れにいる人は何処か悪いのかね?」
 と訊いて見た。
「あの方は……」
「何だい?」
「……あの、肺が極く少しお悪いんだそうでございます」
 と女中はモジ/\しながら答えた。たずねられても言わないようにと教えられているのらしかった。
「驚いたな。ふうむ。食器なんかはうしているね?」
「はあ?」
「お茶碗なんか別にしているのかい?」
「いゝえ、此方こちらさまと御一緒でございます」
いやだぜ/\」
 と新太郎君は慌て出して、
「もう一人このはずれにいる人は?」
 と念を入れた。
「あの方も東京でございますよ」
「東京は分っているが、矢っ張り病人だろう? 何処が悪いんだい?」
「チブスをやったとか仰有いました」
「チブスか? 此奴も気味きびが悪い。そうしてやっ張り御一緒だろう?」
「オホヽヽ。でも最早もう悉皆すっかり直っていらっしゃいます」
 と女中は膳を引いて行った。
 実際、転地療養に来て丈夫な身体に病気の背負い込みをしてはまらない。新太郎君は転宿の意を決して、即夜おかみさんに相談した。そこは去年から馴染みだから都合が好かった。
「肺の方は離れですから大丈夫ですわ。此方の方もチブスはもううの昔に直って神経衰弱を起している丈けですから、うつる気遣きづかいはありませんよ」
 とお上さんは一応弁明した。
「うつらなくても毎日顔を見るのが厭だよ。神経衰弱なんか」
 と新太郎君はいくら大きな声を出しても東京まで聞えっこないから安心だった。
「季節外れにおいでになる方は大抵病人ですよ。あなたのように御勉強にお出になる方は滅多にありません」
 とお上さんは誤解していた。結局、そこの主人の庶弟のところも貸間をしているから、それへということになった。新太郎君は今度は用心深く相宿あいやどを確めたが、
「一人東京から年寄の方が見えています。釣道楽で朝から晩まで岩の上に立っているくらいですから大丈夫でしょう」
 とあった。
 引き移った宿は前のよりも間数が多く且つ小綺麗で申分なかった。新太郎君は一番好い室を占領した。同宿の老人は毎朝釣竿をかついで出て行く。夕方にならなければ帰らない。
「大分熱心のようですが、何か釣って来ますか?」
 と或日そこの主人に訊いて見た。
「あれこそ下手の横好きってんでしょうな。河豚ふぐばかりです」
「河豚は食えますまい?」
「食えませんけれど、釣れないよりは宜いと見えて持って来ます。しかし彼奴あいつは鶏が食っても死にますから、肥溜こえだめてるより外ありません」
「厄介ですな」
「けれども面白いんですよ。釣竿さえ持っていればニコ/\ものです。あれで鯛を釣って来れば真正ほんとうのお恵比須えびすさんでさあ」
 と亭主は笑っていた。
 或朝新太郎君は干潟ひがたを歩いていると、岩の上でもう釣魚つりを始めていた老人が振り向いたから、
うですか?」
 と声をかけた。お辞儀丈けは交換していたが、口をくのはこれが皮切りだった。
「今黒鯛の大きいのを釣り落しました」
 と相手が極く気軽に応じたので、新太郎君は岩へ上って行った。
浮子うきはないんですか?」
「ハッハヽヽヽ、あなたは素人しろうとですね?」
「えゝ」
玄人くろうとは感で釣ります。目で釣りません」
 と老人ナカ/\天狗だ。
「魚が食うと竿へ響くんでしょう?」
「竿から手、手から脳天へ響きます。ブル/\ッとね。何とも言えない好い心持です」
「それは僕も経験があります。心臓がドキッとするでしょう?」
「これは話せますな」
「矢っ張り浮子を使わないで、こんな大きな鯉を引っかけたことがあります」
 と新太郎君は手を拡げて見せた。
「鯉はむずかしいですよ。何処ですか?」
「子供の時浅草の釣り堀でやったんです」
「ハッハヽヽヽ」
「ヘッヘヽヽヽ」
「浅草の釣り堀と太平洋を一緒にされちゃまりませんな」
「太平洋では何が釣れますか?」
「こんな大きな黒鯛を二枚釣り落しました」
 と老人も手真似で寸法を示した。釣り落したことばかり言っている。
「お邪魔じゃありませんか?」
「いや、結構です。あなたは東京だそうですな?」
「はあ」
「私も東京です。私は道楽で来ていますが、あなたは御休養ですか?」
「えゝ、少し神経衰弱をやりまして」
 と新太郎君は逗子でも都合によっては神経衰弱を利用する。
うですか。それはいけませんな」
「何あに、大したことはありません」
「一つ神経衰弱の直る妙法を伝授しましょうか?」
「承りましょう」
「これです」
「何れですか?」
「これですよ」
 と老人は釣竿を動かして見せたついでに引き上げたら、河豚の子が釣れていた。
「それを喰べれば死にましょう?」
「いや、これは毒です。釣魚が神経衰弱の薬なんです」
「はゝあ」
「釣魚ぐらい気のまぎれるものはありませんよ。うやって一本の糸に心を打ち込んでいると、苦痛も何も忘れてしまいます。無念無想って奴ですな。同時に海辺の好い空気を吸う。運動にもなる。私も神経衰弱をやって長いことブラ/\していた揚句、人に勧められて釣魚を始めたのです。これくらい自然にかなった療法はありませんな。御覧なさい。この辺の漁師達は始終釣魚をやっていますから、決して神経衰弱に罹りません」
「成程」
 と新太郎君は相槌を打って傾聴の態度を取った。老人の説によると、釣魚はただに神経衰弱の自然療法ばかりでない。釣れるか釣れないかという不確実なところに博奕ばくちの興味を備えている。人生五十年の運命を一日の中に髣髴ほうふつさせる一種の哲学だとあった。
 翌日老人が釣魚に誘った。新太郎君は釣魚を見物するのが馬鹿の標本のことを知っていたが、先方は神経衰弱を直してくれる積りだから断り兼ねた。しかし老人、この日は好運に恵まれて、見る/\大きな磯魚を三びきまで釣り上げた。
「何うです? あなたも釣竿をお求めになっちゃ?」
うしましょうかな」
 と新太郎君は興味を覚えた。
「これから町へ行って私が吟味ぎんみして上げます」
 と老人はナカ/\親切だった。新太郎君は釣道具一切を揃えて、昼から又お供したが、河豚を三疋釣ったばかりだった。
「汐加減で河豚ばかりです」
 とお師匠さんも十疋ばかり釣った後、早目に切り上げることにした。
 宿へ帰ると間もなく、新太郎君の室の窓下で鶏がけたたましく騒ぎ出した。顔を出して見ると釣竿が転んで動いている。はりにゴカイをつけたまゝにして置いたら、それを鶏が喰べて引っかゝったのだった。新太郎君は亭主を呼んで来た。おかみさんも手伝って、鉤を外すのに大骨折りだった。
「西川さん、大物が釣れましたな」
 と老人はもう名前を覚えてしまった。
「いや、大失策おおしくじりでした。ゴカイをつけっ放しにして置いたものですから」
 と新太郎君は亭主に気の毒でならなかった。
「何あに、明日黒鯛が釣れる瑞祥ずいしょうですよ」
「海じゃ駄目です」
「いや、あなたは確かに見込があります」
 と老人はいつの間にか明日の約束を固めた。
 次の日、玄人と素人はかなり遠方まで出掛けて、長い岩鼻の突っ先に陣取った。
釣魚つりって奴は一寸詐偽さぎに似ていますな」
 と新太郎君は幾度も餌を取られてから感想を洩らした。
「何故ですか?」
「斯うやってゴカイを寄進きしんについても中に鉤が仕込んであります。人間相手にこんなことをやったら直ぐに縛られましょう」
「しかし鉄砲よりは罪が軽いです。鉄砲はとりけだものが何も知らないでいるところを、ズドンと一発で引導いんどうを渡します。理窟も何もない。純然たる暴力です。ところが釣魚は先方むこう料簡りょうけん此方こっちのものを食いに来て引っかゝるのですから、責任は五分々々です。それに釣り上げるまでには幾ら餌を取られるか知れません。鉄砲と違って資本がかゝっています。中には鉤があるのを承知で、餌丈け取りに来る横着おうちゃくな魚もいますよ。此方は万物の霊長れいちょうですもの。ういうずるい奴に制裁を加えるのは当り前のことです」
 と老人は又々釣魚の効能こうのうを述べ始めた。
「大変な議論です。おやッ!」
 と驚いて竿を引いた時、新太郎君は可なり大きなのを釣り上げた。
「おや/\」
「何でしょう?」
「黒鯛々々。これはお手柄だ」
 と老人は自分のことのように喜んだ。名ある魚は滅多に磯から釣れるものでない。この黒鯛は矢張り神経衰弱で転地をしていたものか、或は何か特別の天意があった一疋かも知れない。
 兎に角、これが病みつきで、新太郎君は釣魚が大好きになった。毎日老人と二人づれで出て行く。もう黒鯛はかゝらなかったが、磯魚が結構釣れた。天然療法が効を奏して、心持あった神経衰弱も拭ったように取れた。その間に寛一君が両三度遊びに来て、海水浴の季節が近づいた。新太郎君の許された一ヵ月の静養期間が切れた頃、もう帰って来そうなものと待っていた寛一君は或日次の手紙を受取った。

 寛一君。
 大変なものが釣れた。黒鯛どころの騒ぎじゃない。今日昼から釣魚に出掛けようとすると松浦さんの姉妹にバッタリ行き合った。僕を覚えていてくれたのは有難い。
「おや/\」
「あらまあ」
 といったような次第さ。二人は宿を探しに来たのだ。直後すぐあとから供の兄さんが追いついた。
「これは/\」
 と又覚えていて貰ったのには光栄身に余った。
「去年のお連れも御一緒ですか?」
 と、君も光栄だぞ。しかし僕は、
「彼奴は店番に残して来ました。僕達はもう卒業したんです」
 と言ってやった。僕の宿を紹介したら、気に入って直ぐにめてしまった。矢張り五人連れで来月早々来るそうだ。
 寛一君、君の言った事が実現した。うなると僕も期限通りには帰れない。察してくれ。ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの御機嫌を宜しく頼む。君とは年来の兄弟だ。手を合せて頼む。七月一杯といって同時に母へ願入れたから、御助力を頼む。日曜に容態を見に来てくれ給え。
六月三十日
新太郎
寛一君

裏と表


 羅紗問屋寿ことぶき商店の主人西川さんはナカ/\のむずかし屋だ。我儘な独り息子の新太郎君さえその前へ出るとおのずから態度が改まるくらいだから察しられる。店員共はコトリともしない。厳格な人として近所へも鳴り響いている証拠に、「鬼瓦おにがわら」だの「雁首がんくび」だのというコチ/\した綽名あだながついている。寛一君は当然この伯父さんが煙ったい。伯母さんの方は母の姉だから肉親である。相牽あいひく力が強いのみならず、優しい一方だ。然るに伯父さんは元来他人の上に、始終苦虫を噛み潰したような顔をしている。兎角取っ付きが悪い。殊に寿商店へ勤め始めてからはこの伯父さんが御主人様だから、二重に煙ったくなった。
「親父はうも公明正大過ぎて困るよ。店のことになると他人も身内も見境みさかいがない」
 と新太郎君がこぼしているほど訓練が激しい。伯父甥の間柄に主従関係が加わってから、寛一君は何うも圧迫を感じていけない。忠実に仕事をしていればそれで仔細しさいはないのだが、使われている上からは、気に入りたいと思うのが人情の自然だ。一挙手一投足、伯父さんに監視されているような心持がする。求めるところがあると相手が負担になる。これが勤め人の浅間しさである。勤めるところは充分勤めていながら、兎角念の入った苦労をする。以前はうでも構わなかった伯父さんの御機嫌が昨今は始終気にかゝる。
 しかし西川さんは息子や甥が想像しているような唯むずかしいばかりの分らず屋でない。そこは腕一本で身上しんしょうを起した苦労人だ。いも甘いも能く心得ている。その初め寛一君を店へ貰い受ける時も、寛一君のお父さんへあらかじ懇望こんもうして将来のことまで約束したのだった。但し裏と表を使い分ける。手品の種を直ぐには明かさない。
「寛一さん、君も今度は卒業だが、うする積りだね?」
 とその折伯父さんが訊いた。
だ方針がきまっていません。定めたところでこの頃のような就職難じゃうしようもありません」
う諦めたものでもあるまい。表門から入れなければ裏門からってこともある。会社によってはわしが頼んでやっても宜い」
「有難うございますが、とても駄目です。私は卒業成績が好くないに定っています」
 と寛一君は悉皆すっかり諦めていた。
「成績は然う関係しないよ。現に俺の知っている重役は一番や二番を集めたら融通ゆうずうの利かないのばかり揃って困ったと言っている。真正ほんとうに使えるのは勉強しないで十番どころを占めている実力家だそうだよ。君は新太郎と好い相棒で決して無理な勉強をしない方だから、註文にはまっているぜ」
「恐れ入りますな。しかし三十番以下と来ています」
「何あに、下の方にいて落第をしないのは融通の利く証拠さ。三十番なら十番の三倍方使える勘定になる」
 と伯父さんはいつになく冗談を言って話し込んだ末、
「寛一さん、商売と学校はまるっきり違うよ。わしのような横文字も碌々ろくろくに読めない者でも組合の頭取とうどりが相応勤まって行く。金儲けは又別さ。融通が利いて堅ければ宜い。その上に学問があれば尚お結構だ。うだね? 寛一さん、一つ家へ来て働いてくれる気はないか?」
 と急に思いついたように切り出した。
「はあ?」
 と寛一君は全く意外だった。寿商店の番頭は皆小僧上りの腕利き揃いだ。学校出は理窟ばかり達者で仕事が出来ないから一切使わないことにしている。
「万事新太郎と一緒にやって貰うさ。よそに負けない待遇をする。仕事といって別にむずかしいことはない。家のものだから特に忠実に勤めて、店員に模範を示してくれゝば宜い。何うだね?」
「私で出来ることなら……」
「新太郎の相談相手さ。二三年やって一通り商売が分ったら、二人で彼方あっちへ視察に行って来る。子飼いからで十年かゝるところを二三年で仕上げるんだ。そこは学校を出ていると早いよ。俺もだ若い積りだが、ソロ/\後のことを考えて置きたい。新太郎はあの通り気紛きまぐれものだから、何彼なにかと取越し苦労をする。君が一緒にいて指導してくれゝば何うにかうにか店が張って行けよう。斯う言うとえらく手前勝手のようだが、君もその中には一本立ちになるさ」
「そんなことは何うでもいですが、指導なんかとても出来ませんよ」
「何あに、それは将来のことさ。従兄弟同志同じ商売をしていれば相談相手になれるからね。彼奴が脱線しかけた時、君がブレーキをかけてくれゝば宜いんだ。差当りは君が側にいて勉強してくれゝば、彼奴独り怠ける次第わけには行くまい。一つやってくれるかね?」
「はあ」
「一生の方針に関係することだから、まあ、ゆっくり考えて見てくれ給え」
いずれお父さんやお母さんと相談してから御返辞申上げましょう」
 と寛一君は※(二の字点、1-2-22)ほぼ決心がついていた。兄弟のような新太郎君と一緒が嬉しかったのである。他人の中へ入ってまれるよりもと考えたし、余所よそへ行けば必ずしも東京にいられるかうか分らない。就職難が厳しいと青年は藁へでも取っつかまる。それに二三年後の海外視察が気に入った。一度は西洋を見たいと思っていたが、斯う近い将来に機会が潜んでいようとは望外ぼうがいの仕合せだった。
 家へ帰ってお父さんに相談したら、
「それはかろう」
 とあった。父は官吏だが、帝大を出てさえいればと常々残念がっている下積みの方だから、必ずしも俸給生活に満足していない。自分の算盤玉でやって行く商人の自由な境涯きょうがいうらやましがっている。息子が義兄の店で勤め上げて一本立ちにして貰えるならこの上はない。その意味から既に先方へ諾意だくいを表していたのである。母親は実の姉の店のことだから無論異存のあろう筈がない。銀座々々と言ってすくなからず鼻にかけているくらいだ。
「寛一君、宜しく頼むよ」
 と新太郎君も歓迎した。寛公なら組し易い。気心の知れないものよりも我儘がくという肚だ。新太郎君のお母さんに至っては、
「寛一や、お前が来てくれゝば新太郎にしてもんなに勤め宜いか知れないよ。伯父さんだってやかましいばかりじゃありません。あれでも目はあるんだからね、精を出して働いておくれよ」
 と身贔屓みびいきの強い人けに、自分の勢力を拡張した積りだった。要するに寛一君は八方四方の賛同と期待を受けて、○○大学卒業早々伯父さんの店へ入ることになったのである。
 成程、商売と学校とは違う。従兄弟同志は勤め始めてから一週間ばかりたった時、ツク/″\う感じた。店員の模範になるどころか、一々いちいち係りの番頭から手解てほどきをして貰わないと仕事が分らない。寛一君は一生懸命だった。新太郎君も寛一君に引かれてコツ/\やっていたが、或日のこと、溜息をついて、
「寛一君、何と物は相談だが、もう少しお手軟かに願えまいかね?」
 と妥協を申出た。
「うむ? 何?」
「君と二人で店の有象無象うぞうむぞうに勤勉の見本を示すんだそうだが、僕はうもり切れそうもない。頭がガン/\する。あゝ/\/\」
「君、君、そんな大きな声を出すなよ」
 と寛一君はささやくように制した。大番頭の栗林さんが禿頭をもたげていた。
「ハッハヽヽヽ、それじゃ奥へ行って話そう」
 と新太郎君は今しがた親父さんが出て行ったのを幸い、寛一君を誘った。
「世の中が大分変って来ましたな」
 と栗林さんは二人の姿が消えた時、眼鏡を額へ休ませて独りごとのように感想を洩らした。
「いかさま。ヘッヘヽヽヽ」
 と会計係の新井さんが応じた。
「大旦那も急に頭が新しくなりましたよ。将来は学校出で固める積りなんでしょう」
 と門倉君も黙っていなかった。おたなものは兎角口うるさい。新太郎君は若旦那だから仕方がないとしても、寛一君まで入って来たのが殊に若手の腕利き連中に面白くないのだった。
「学校出なんて甘いもんですなあ。二人がかりで丁度一人前の仕事をしていますよ」
「そこは此方こっちと違って頭が別製だからさ。少しこんを詰めるとガン/\するんだろう」
 と他の二人は更に辛辣しんらつなことを言った。
「何うだね? お店は忙しいの?」
 と奥ではお母さんが新太郎君と寛一君を迎えた。
「忙しいの何のって、頭がガン/\します」
 と新太郎君は火鉢の側に坐った。
「大袈裟だねえ、お前は」
流石さすがに社会です。学校とは違う。ねえ、寛一君」
「しかし下読みや試験がないけ楽だぜ」
 と寛一君はうまで感じていなかった。
「算盤なんか毎日試験も同じことだよ。後から/\と間違ったことがれてくる。極りが悪いや」
「まあ/\、お茶でも入れましょう。お父さんの留守の間に息抜きをするさ。商売となればうしたって骨が折れますよ」
 と母親はういう犬ころ可愛がりが宜しくない。
「僕は何うも神経衰弱のようだ」
 とこの時新太郎君は初めて神経衰弱を言い立てたのである。
「そんなことはないでしょう」
だ慣れないから草臥くたびれるんだよ」
 と寛一君も否定した。新太郎君は別に主張もしなかったが、
「僕達はとても店のものゝ模範になんかなれません。一体家のお父さんて人は無理なことばかり言うんです」
 と少時しばらく駄々をねた。
「それはお前、お父さんは精神丈けを仰有おっしゃるんでしょう。先方むこうは皆子供の時分からやっているんだもの、競争したってかないっこありませんわ。仕事で勝たなくても、此方は主人で学問があるんだから、唯チンと澄ましていれば宜いのよ」
 とお母さんは心得を説いた。
「ところが主人も学問も店へ出るとかたなしです。第一お父さんが僕を頭ごなしに叱りつけるでしょう? それを見ているから、店員が自然僕をあなどるんです」
「お父さんは誰でも頭ごなしですよ。口やかましいのは今始まったことじゃありません。あゝいう人だと思って辛抱するより外仕方がないわ」
「お父さんがもう少し気を利かしてくれると、僕達も大きな顔をしていられるんですが、毎日散々ですよ。ねえ、寛一君」
「さあ。そんなでもないじゃないか」
 と寛一君は兎に角全力を尽して勤めている。
「お父さんに叱られる上に店員にいじめられるんだから立つ瀬がない。あゝ/\/\」
仰々ぎょうぎょうしいのねえ、お前は! そんな筈はありませんよ。栗林さんにも新井さんにも私から呉れ/″\も頼んであるんですもの」
「年寄は好くしてくれますが、若い奴等が生意気でいけません。種々いろいろと問題を持ちかけて僕達を困らせるんです。昨日は門倉が織元おりもとの広告を僕に突きつけました」
 と新太郎君は実例を持ち出して訴えた。
「英語でしょう?」
「えゝ」
「教えてやればいじゃないの?」
 とお母さんは大束おおたばに出た。英語も長唄同様、習いさえすれば一通り出来るものと思っている。
「いや、うは問屋とんやが卸しません。実用英語ですから、学校でやったのとは勝手が違うんです。半分ぐらいしか分らなくて好い恥をきました」
「あれには僕も弱った。仕舞いの方は機械の説明だから、てんで見当がつかない」
 と寛一君も門倉君に試めされたのだった。
「意気地のない人達ね。大学まで行っていながら」
「宜いですよ。同情して下さらなければこのまゝ辛抱します。けれどもお母さん、二丁目の増本さんのところのようなことがありますからね」
「厭やなことをお言いでないよ」
貞吉ていきちさんは学校にいた頃から神経衰弱だったんですよ。それを親父さんが無理やりに店へ勤めさせたものだから、首をくくって死んだんです。貞吉君はうせ親父に責め殺されるんだと言っていました」
「新太郎や」
「貞吉君は弟が大勢あるから宜いようなものゝ、僕は一人息子ですからね。後が案じられます」
「新太郎や、お前は真正ほんとうに何処が悪いの?」
 とお母さんは不安そうな顔をした。
 この中休み以来悪い癖がついた。新太郎君はお父さんが出掛けると、必ず、
「あゝ/\/\」
 と伸びをして、寛一君を奥へ誘う。店員は笑っている。時にはお母さんの方から気を利かして呼びに来ることもあった。うなると影日向かげひなたも半公認だ。寛一君は同輩の手前具合が悪いから、三度に一度は多忙にかこつけて辞退した。伯父さんの註文と従兄の要求が相容れないには困る。店の仕事を忠実にすれば親友への義理が欠ける。変なことがあるものだと思った。しかしその中にこの中休みが偶然の機会から発覚した。或日出て行った主人公が忘れ物に気がついて直ぐ戻って来たら、息子と甥はもう奥へ引込んでいた。
「朝から何をしているんだ? お前もお前じゃないか? 店員と分けへだてをするのが可愛がるんじゃないよ。お前こそ子供を殺してしまうんだ」
 と呶鳴りつけられて、西洋菓子を御馳走していたお母さんは一言もなかった。
「お前達もっと考えなければいけない。店員の模範になるものがそんなことでうするんだ? 昼休み以外は一切店を明けちゃいけない」
 と二人も厳しく申渡された。新太郎君は今は早これまでなりと思ったのか、それから神経衰弱が日一日とおもって、再三丹波さんに謎を掛けた結果、一ヵ月間転地療養の必要ありと認めて貰ったのである。
 これは新太郎君の掣肘せいちゅうを受けていた寛一君にはかえって都合が好かった。店員になり切って勤め始めてからは仕事もはかどれば朋輩との親しみも増した。主人の片割れだし、何といっても大学教育が口を利く。
「原田さん、こゝのところを一寸読んで下さいな」
 と相手は皆夜学か講義録で英語をやった連中だから、寛一君に教えを仰ぐ。う/\機械の説明ばかりは持って来ない。伯父さんも至極満足らしく、
「寛一君、ナカ/\精が出るな。その調子、その調子。習うより慣れろさ。今に店の仕事が空気を吸うように楽になるよ。新太郎が帰って来たら巧くおだてゝ引き廻してくれ給え」
 と時折相好そうごうを崩した。益※(二の字点、1-2-22)励みが出る。ところが新太郎君は一ヵ月の期限が切れても帰らないのみならず、去年の美人連中が海水浴に来るから、もう一ヵ月何とかして親父の機嫌を取り結んで置いてくれという虫の好い註文だった。
 寛一君は手紙を読んだ時、
「仕様がねえなあ」
 と呟いた。又板挾みになるのかと思ったが、頼む/\と平頼みに頼まれて見れば知らぬ顔もしていられない。君とは年来の兄弟分だからと新太郎君も退きさせないように申入れている。それで翌朝店へ行って仕事をしながらも、何と切り出したものかと気になって、チョク/\伯父さんの顔をぬすみ見た。為にするところがあるとうも落ち着かない。妙に伯父さんが負担になる。これは矢張り新太郎君をいさめて連れ戻す方が宜い。それが兄弟分としても道筋である。正しきを行って恐るゝなかれだとも考えた。しかし親子の間柄だから病気だとつくろえば何とかなるかも知れない。出来ることなら計らってやるのが友情だ。世の中は然う理窟ばかりで行くものでない。真正ほんとうに病気になったと思えば一月ぐらい何でもないのだからとも考えた。方針に迷っているところへ奥から女中が呼びに来たので、おぼえず伯父さんの方へ振り向いたら、視線と視線が衝突した。寛一君は腹の中を見透かされたように愧じ入って、矢張り心にやましいことはしまいと決するところがあった。
「寛一や、新太郎から手紙が来たろうね?」
 と伯母さんは茶の間の入口に立ったまゝ待っていた。
「えゝ、参りました」
「又悪いんだってね?」
「さあ」
 と寛一君は行き詰まった。
「この間お前が見舞に行ってくれた時にはもう悉皆すっかり好いってことだったのにね?」
「えゝ。毎日魚を釣って歩いて、身体の方はピン/\しているんですよ」
「身体は兎に角、神経衰弱の方さ」
 と伯母さんは身体と神経衰弱を別々に考えている。
「矢っ張りもう一月養生したいって言って来たんですか?」
「然うですよ。お前が容態を知っているから、万事お前と相談の上でお父さんにお願いして貰いたいんですって」
「もう一月彼方にいれば理想的には相違ありませんがね」
 と寛一君は又義理にかされた。伯父さんに睨まれるとかたくなる程度で伯母さんの前へ出ると軟かくなる。新太郎君に会えば悉皆すっかり共鳴してしまう。人柄の好いことこの上なしで自分料簡じぶんりょうけんというものがっともない。
「お前も然う思うの?」
「えゝ。それは無理に働けば働けないこともないでしょうが、用心の為めにですな」
「神経衰弱ははたから見ていると仮病けびょうのようだけれど、あれでナカ/\苦しいんですってね。丹波さんも然う仰有っていましたよ。増本さんの家のようなこともあるんだから、油断はなりません」
「そんな心配は万が一にもありませんが、折角転地した序です。ゆっくりして完全に直す方が宜いですよ」
「お前とは身体が違うんだから、仕事の方はおくれても仕方がないとして、まあ/\気長く養生をさせましょうよ」
 とお母さんは寛一君を味方にしてお父さんを説きつける積りだった。
「いっそのこと七八両月ゆっくり遊ばせたら何うでしょう?」
「すると避暑になってしまうわね」
「まあ然うですな。その代り涼気すずけが立てばとても気が荒くなって帰って来ますよ。お頼み申したって彼方にいることじゃありません」
「何故さ?」
「あれは病気だ/\と思う病気なんですからね。海水浴でも始まって気がまぎれゝばケロリと忘れてしまいます。考えさせるのが一番いけません。今無理に呼び戻すと屹度又悪くなります。夏中本人まかせにして置けば直ること保険つきですよ」
 と寛一君は断言する丈けの根拠を持っていた。
「それじゃ然ういうことにしましょうよ。お前にまで種々いろいろと心配をかけますね」
「いや、う致しまして。それはうと伯父さんの方は大丈夫ですか?」
「少し御機嫌が悪いんだよ。自分が丈夫なものだから些っとも同情がないんだね。お前に新太郎のことを何か訊くかも知れないから、その時は今の通りに言って下さいよ」
「えゝ」
「それからお前又今度の日曜に見に行って来てくれる?」
「海水浴ながら行って参ります」
「度々で気の毒だから官費にして上げるわ」
 と伯母さんはく気がつく。
 寛一君は早速逗子へ形勢を報告して土曜日を待った。従兄弟の為めに多少尽すことが出来たと思って満足に感じたが、こんな陰謀いんぼう加担かたんしていると兎角後ろ暗い。
「寛一君」
 と伯父さんから呼ばれる度毎に一応ドキッとした。しかしそれはいつも事務上の用件で、新太郎君のことではなかった。一向問題に触れない。矢張り一つ穴のむじなと見られているらしい。土曜の夕刻、
「それでは行って参ります」
 と多少覚悟の上で暇を告げた時も、常例いつもの通り、
「御苦労だね」
 とお礼を言ったけだった。実は伯母さんから御意向の程を確めて行きたかったのだが、同席だったのでその機会がなかった。
 逗子の宿では新太郎君が待っていた。
「何うだい? 成功したかい?」
 と挨拶もソコ/\だった。
「大抵好いんだろうと思うがね」
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは何とか言ったかい?」
「何とも言わないんだよ」
「お母さんは?」
「伯母さんにも訊き損なってしまった」
 と寛一君は事情を話しながらことずかって来た夏物の包を渡した。
ういうものを渡すところを黙って見ているようなら承知なんだよ。ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは反対の時か小言こごとの時の外は口を利かない主義だからね。恐れ入った。矢っ張り持つべきものは親友だよ」
 と新太郎君は初めてお礼らしいことを言って、もう安心したようだった。
「しかし伯母さんは本気になって心配しているぜ。僕はあんまりお気の毒だから少しにおわせかけたんだけれども」
「何を?」
「松浦さんのことを」
「それは困るよ。尚お心配すらあ」
「ところでもう来たのかい?」
 と寛一君は早速当面の問題に移った。
「来たよ。一昨日おととい来た。離れを借り切っている。もっとも弟は未だ学校があるから日曜丈けだけれど」
「弟なんか何うでも宜いんだろう?」
「ヘッヘヽヽヽ」
「申分ないじゃないか? 君が逗子と言い出した時、うも変だと思ったよ」
「そんな遠謀はなかったんだよ。海岸なら逗子と思ったんで、全く偶然さ」
「巧いよ、実際、段取だんどりが」
「いや、真正だよ。君をだましたって仕方がない」
「一緒に海へ入ったかい?」
「うむ。昨日から始めたよ。游泳およぎを教えるのは去年からの約束だもの」
「それで偶然かい?」
「何うもたちが悪いね」
「僕は腑に落ちないことは何処までも研究する性分だからね」
「それじゃ白状する。多少予定の行動もあったのさ。今後とも宜しく頼む」
 と新太郎君は兜を脱いだ。
「然う下から出るなら一の力を貸してやる」
「当分は秘密を守ってくれ給え」
「宜いとも」
「イヨ/\となったら君からマザーを説いて貰うんだ」
「宜いとも」
 と寛一君はもう悉皆すっかり知己ちきに感じてしまった。学校時代にカンニングの手伝いをして退学になりかけた丈けのことはある。頼まれゝば何でもする。
「皆君の来るのを待っているんだぜ」
「それは有難い」
一寸ちょっと行って見ようか?」
「もうおそいよ。何うせ明日会うんだもの」
「それも然うだね。これから土曜日に屹度きっとやって来給え。八月になったら一週間休暇を貰うさ」
「実はその辺まで考えて君の方も七八両月と伯母さんに吹っかけて置いた」
「有難いね。実はこゝはもう七八両月と借り切ってあるんだよ。東西期せずして肝胆相照かんたんあいてらしたのも妙さ」
「何とか言って、実は網を張って綺麗な魚を待っていたんだろう?」
「いや、松浦さんがめた日に僕も定めたんだよ。金を払ってしまって、ソロ/\窮乏を告げそうだ。しかし一緒に言ってやるのは策の得たものでないから、その方は後廻しにして又君をわずらわせるのさ」
「ナカ/\考えているね。少し置いて行こうか?」
だそれほどでもないが、帰ったらマザーに予備知識を与えて置いてくれ給え」
 と新太郎君は遠いこと近いことを一々頼む。
 二人は松浦さんと去年からの知合しりあいである。毎日海岸で顔を合せてお天気の挨拶を交している中に、
「あなた方学校は何処でいらっしゃいますか?」
「○○です」
「はゝあ、私も彼処あすこを出たんですよ」
 と先輩後輩のことが分って急に懇親こんしんを加えた。松浦夫人は未だ若かった。その妹さんが秀子ひでこさんと芳子よしこさんで、その下に中学生の弟があった。新太郎君と寛一君はこの少年に游泳およぎを教えた。松浦さんは金槌の方だったから、それからの滞在中二人を頼みにしていた。新太郎君は秀子さんが忘れられなかった。その後時折噂に持ち出して寛一君に冷かされた。尚お去年の暮に松浦さん夫婦が銀座へ買物に来た時、偶然家の前で行き会った。
「こゝですか? あなたのお宅は」
 と松浦さんはその節新太郎君の家の商売を承知した次第わけである。新太郎君もその前に卒業生名簿を繰って松浦さんの身元を研究する丈けの興味を持っていた。松浦友三郎の下に旧姓小早川と括弧かっこがしてあったので、
「君、松浦さんは養子だぜ」
 と寛一君に報告した。
「商売は何だい?」
「書いてない」
「それじゃ金の番人だろう」
 と寛一君も養子と定めてしまった。
 さて、新太郎君と寛一君はこの松浦さんの一行と共に海水浴場へ出掛けたのである。折から好晴であつらえ向きだった。未だ季節が始まったばかりだけれど、日曜だから最早もう相応人出があった。
「お蔭さまで俊男君としおくんは上達しましたよ」
 と松浦さんが寛一君に去年のお礼を述べた。
「あなたも今年は本気になって練習なすっちゃ何うです?」
 と新太郎君が勧めた。
「私は駄目です。妹達をお仕込み下さい」
 と松浦さんは海水着丈け仰々しいが、滅多に入らない。砂の上に立って婦人連中の心配ばかりしている。間もなく新太郎君は神経衰弱を忘れ、寛一君は店を忘れて手練しゅれんの程を示し始めた。
 昼からは日帰りの連中が入り込んで来て益※(二の字点、1-2-22)賑った。新太郎君は秀子さんの手を取って補導に努めた。婦人を深いところへ案内するほどけたたましいことはない。今にも殺されるような悲鳴を揚げて、懸命に※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがく。
「君、君」
 と折から芳子さんを引受けていた寛一君が岸に立っている見物の姿に気がついた。
「駄目ですよ、そんなに怖がっちゃ」
「でも厭よ、こんな深いところは、あら/\/\」
「大丈夫ですよ」
 と新太郎君は耳に入らない。
「新太郎君、大変だ」
 と寛一君は声を励ました。
「何だい?」
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーとマザーが来ている」
「えゝ!」
 と振り返ると、成程、それに相違ない。お母さんはハンカチを振って注意を呼んでいる。
「一寸失敬します」
 と新太郎君は慌てゝ手を放した。
 その刹那大きな波が来た。
 秀子さんは、
「あれえ!」
 とよろめいて、
「厭よ、放しちゃ」
 とすがりつく。
「失礼々々」
 と新太郎君は否応なく又手を取って浅い方へ帰って来た。
「新太郎や、容態はうだな?」
 とお父さんはニコッともしないで訊いた。

多端な一日


 若い男性の多くは若い女性の天真に近い姿が見られるから海水浴場に寄りつどう。無論そればかりが動機ではなかろう。主な目的は読んで字の如く海水に浴することにある。しかし当然伴う審美的しんびてき副産物をしりぞける[#「郤ける」はママ]必要もない。女性に於てもこの辺の消息を察している証拠には、当局の干渉にも拘らず、年々歳々海水着の寸を詰める。この分で進むと今にネクタイぐらいに縮まってしまうかも知れない。游泳の伝授にかこつけて斯ういう理解のある妙齢みょうれいの女性をキャッ/\と言わせること――それは夏場情調の一つである。今松浦の秀子さんをつかまえてしきりにそれをやっていた神経衰弱の新太郎君に取っては、両親の出現はまことに不意打ちだった。寛一君も面喰めんくらった。伯母さんは兎に角、伯父さんが煙ったい。一つ穴のむじなと見破られたような心持がする。二人は適当な言葉が見つからずに、唯お辞儀をするばかりだった。
「こんなに丈夫になっているとは思わなかったよ。結構々々」
 と親身の父だ。皮肉でも小言でもないのだが、新太郎君にはビシ/\といた。
「随分呼んだのよ。っとも聞えないんだもの」
 と母親は秀子さんの方をチラリと見た。
「はあ、つい、その」
 と新太郎君も父親と一緒の母親には策の施しようがない。悉皆すっかり見られてしまったと肚の中で思っていた。
「宿へ御案内しよう」
 と寛一君が相談をかけた。
「うむ」
 と新太郎君はうなずいて、
「さあ、参りましょう」
 と先に立った。
「盛んなものだなあ!」
「これだから丈夫になるんですよ」
 と両親は波間に嬉遊きゆうする人魚の大群を眺め乍ら歩き出した。
「伯父さん、好いお天気ですなあ」
 と寛一君が間もなく言った。余り黙っていては具合が悪いと思ったのだが、今まで泳いでいて殊更に「好いお天気」もないものだと気がつくと※(二の字点、1-2-22)やや失敗の感じがあった。しかし伯父さんは、
「好い景色だ」
 と浪の音のお蔭で聞き違えてくれた。
「あら/\!」
 と伯母さんはチョロ/\波に追いつかれて立ちすくんだ。足袋が濡れてしまった。
「うっかりしていちゃ駄目ですよ。もっと此方をお歩きなさい」
 と新太郎君は稍※(二の字点、1-2-22)鋭く注意した。単独にお母さんだと直ぐ地金を現す。
「はい/\」
 と母親は好い気なものだ。折から通りかゝった二人の女性は殊に大胆な新型のワンピースに出立いでたって官憲の許す限りを露出していた。それが新太郎君にニッコリと目礼して行き過ぎた。
「新太郎は大分顔が広いようだな」
 と父親は見遁みのがさなかった。
「いゝえ、そんなこともありませんが、あれは去年来ていた何処かの奥さん達です」
 と新太郎君は恐縮の態度で弁明した。
「海水着の短くなったのには驚く。まるで裸体はだかだ」
 と父親は時世におくれていることを告白したのみならず、
「ブザマなものさ。せいの低い方は家鴨あひるに似ている」
 と忌々いまいましげに振り返って、年の寄ったことも表示した。若い女性の半裸体がブザマに見えるようになれば、人生はもう墳墓ふんぼに近い。
「でもこの頃はあんな短いのが彼方あっち流行はやりだから仕方がありませんわ」
 と母親は若がる丈けに理解を持っている。
「いくら彼方の流行でも日本の女は日本の女らしくして貰いたいものだね」
「活溌で好いじゃありませんか。スカートにしても年々短くなるばかりですよ」
わしはそれが第一気に入らない」
 と父親は主張したが、これは至極道理もっともだった。スカートを短くすればそれ丈け羅紗らしゃが節約される。然るに西川さんは銀座の羅紗問屋である。
 海水浴場から宿までは目と鼻の間だ。
だ余っ程ある?」
 と母親が訊いた時、
彼処あすこです」
 と新太郎君は脱兎だっとの如く駈けだして、部屋へ飛び込む早々周囲あたりを片付け始めた。両親が来るとは思わなかったから、見せたくないものも取り散らしてあった。続いて寛一君も手伝って、
「さあ、うぞ」
 と漸くお客さまを迎える仕度が出来た。
裸体はだかで『何うぞ』があるものかね。着物をお着かえなさいよ。慌てゝいるんだね」
 と母親がたしなめた。
「つい忘れました」
 と二人は早速着替えた。
「八畳か? ナカ/\好い部屋だ。縁側がついているから広く使える」
 と父親はその縁側近くの涼しそうなところに座を占めた。
だ新らしいのね」
 と母親も気に入ったようだった。
「こんなところは一寸ちょっとありませんよ」
 と新太郎君は寛一君と共にかしこまっている。
「離れもあるんだね? これは大分手広いようだ」
 と父親は立ち上って縁側へ出た。離れには松浦さん連中の女ものが沢山乾してある。それが新太郎君の目にはこの際甚だ迷惑な感じを与えた。
「離れは女のかたばかり?」
 と果して母親が疑問を起した。
「いゝえ、うでもありません」
先刻さっき一緒に游いでいた娘さんもこゝに宿を取っているの?」
「えゝ。その何ですよ。その……」
「何ですの?」
「兄さんの御夫婦が一緒で監督しているんです」
「寛一や、のどかわいたから何か飲料いんりょうを頼んでおくれ」
 と西川さんが注文した。
「今命じましたからもう参りましょう」
「俺はビールにして貰おう」
うですか」
 と寛一君は出て行った。ビールとも思わないでもなかったが、ういうことに余り気がつき過ぎるのは却って危険と考えたのだった。一つ穴のむじなは目に見えないところにねんを使っている。
 新太郎君は耳痛いことを聞かされる積りで覚悟をしていたが、それもなくて、当らずさわらずの話が長い間続いた。
「新太郎も寛一君も一向飲まないね?」
 と父親は独りでビールを傾けた。
「僕は此方こっちです」
「僕もサイダー党です」
 と二人は大いに謹慎きんしんしている。その中に西川老は、
「便所は何処だい?」
 と訊きながら立ち上った。
其方そっちです。その縁側の突き当りです」
 と寛一君が指さした。
「分った/\」
 と言って父親が出て行った時、首を伸して見送った母親は帯の間から半紙に包んだものを出して新太郎君に渡した。新太郎君は手早くそれを懐中ふところへ仕舞い込んだ。寛一君は知らん顔をしていた。
「新太郎や、お父さんは御機嫌が悪いんですよ」
 と母親はお金の包のことには一言も触れずに声をひそめて話し始めた。
「今朝は連れ戻すと仰有おっしゃって大変な権幕でしたが、私、種々いろいろと申上げて今月丈けということにお願いして来たんですから、月末には是非帰って下さいよ」
「はい」
「私、間に入って独りで困っていますのよ。もう悉皆すっかり好いんでしょう?」
「えゝ、夜時々寝られませんけれど」
「嘘を仰有い」
真正ほんとうですよ」
 と新太郎君は口をとがらせた。
「私、見に来てかったと思うわ」
「何故ですか?」
「こんなところには心配でう/\手放して置けませんよ」
 と母親は離れの方を見た。
「お母さん、私を信用して下さらなければ困ります」
「信用出来ませんよ」
「伯母さん、そんな御心配は一向ないんです」
 と寛一君が加勢に入った。
「寛一や、お前もく/\だよ。お前は……」
 と伯母さんは何か言分があるようだったが、父親の足音が聞えたので、
「お前は何時の汽車で帰るの?」
 と話頭を転換した。
「もうソロ/\帰る時間かい?」
 と父親は時計を出して見て、
「新太郎や、わしは今日はお前に相談があって来たんだがな」
 と再び座についた。
「はあ」
「その分では容態も最早もう普段と変らないようだが、何うだね?」
「はあ。お蔭さまで」
「もう悉皆すっかり快いんだね?」
「はあ」
 と新太郎君は父親の前へ出ると鄭重を極めて「はあ/\」言う。
「それじゃ帰ったら何うだね? 店は夏分だから忙がしいこともないが、ソロ/\店員に休暇をやらなければならない。今直ぐといっても種々いろいろと都合があるだろうから、後一週間で切り上げなさい」
「しかしお父さん……」
「何だい?」
「未だ直ったばかりですから、もう少し用心したいんです」
「お前のように用心ばかりしていたら一生働く暇がなかろうよ」
「はあ」
「一週間たったら俺が又迎いに来る」
「あなた、それはお約束が違うじゃありませんか?」
 と母親が乗り出した。
「お前は黙っていなさい」
「でも今月中ってことに御承知下さいましたから、私も寛一にう言って、この子もその積りでいるんでございますもの」
「それは容態を見なかったから然う言ったんだ」
「矢っ張り夜寝られないことがあるんだそうですから、斯う見えても悉皆直っているんじゃありませんよ。今月中丈けは呑気にさせてやりとうございますわ。何もこれがいなければ店が差支えるという次第わけでもありませんし」
「差支えなくてもさ」
「学校を落第していればこの夏は大手を振って遊んでいるところですわ。近所にだって夏中子供を休ませる家がいくらもあるじゃございませんか? まして身体が悪くて転地療養に来たんですもの」
「能くしゃべるね。海岸へ来てウカ/\しているのが転地療養か?」
「新太郎や、お前もっと気をつけておくれよ。お母さんがこんな厭味いやみを言われますからね」
「はい」
「もう宜いよ。それじゃ今月末に屹度帰りなさい」
 と父親はを折った。西川の鬼瓦はやかまし屋の割合に女房には弱いという評判だ。
 折りから松浦さんの連中がガヤ/\言いながら帰って来た。離れは新太郎君の部屋と向き合いだから青簾越あおすだれごしに能く見える。秀子さんと芳子さんは無論のこと、大姉さんの松浦夫人まで西川老の忌諱ききに触れそうな短い海水着姿で通りかゝった。
「西川さあん!」
 と秀子さんが呼んだのに新太郎君は困った。
「西川さあん、一寸ちょっと
「何ですか?」
 と新太郎君は縁側のはずれまで出て行った。
「先刻姉さんにお預けになったお時計よ」
 と秀子さんの用向は新太郎君がうっかりつけて行って水浴中松浦夫人に預けた腕時計を返すことだった。
「有難うございました」
「又夕方いらしって?」
「さあ」
 と新太郎君は持て余した。
「お客さま?」
「えゝ」
「御一緒にいらっしゃいよ。宜いでしょう? いらっしゃいよう」
 と秀子さんは遠退くに従って声を大きくした。新太郎君は席に戻った時額に玉の汗をかいていた。
「新太郎や、今月末には厭応いやおうなしだよ」
 と母親は妙に白けた座をつないでくれた。
「はい。私も長らく御心配をかけましたから、今度は生れかわって勉強します」
「然うして下さいよ」
「神経衰弱って病気は丁度遊び頃なものですから、兎角誤解を受けて残念です」
「然ういう気概があれば結構だ。店の方は繰り合せるから、今月中機嫌好く遊んで、来月から魂を入れ替えるさ」
 と父親も改めて快諾を与えた。
「はあ」
 と新太郎君は平伏した。
 それから少時しばらく世間話に打ち解けた後、
「どれ、ソロ/\引き揚げようじゃないか?」
うでございますね」
 と両親は立ち支度をした。
「それじゃ私も御一緒に帰りましょう」
 と寛一君はよんどころなかったが、
「いや、俺等わしらは横浜へ寄るから」
 とあって、それにも及ばなかった。
 二人は駅まで見送った。汽車を待つ間、新太郎君は父親の側を離れずに何彼なにかとお相手を勤めた。游泳およぎの伝授中をお目に留まったのが気になって仕方がない。訊かれたら説明して誤解を正す積りだったが、父親は一向その機会を提供してくれなかった。寛一君は又伯母の思惑が苦になって始終側についていた。
「寛一や、お前は何時の汽車で帰るの?」
 と伯母さんは時間表を見上げた。
「さあ、だ定めてありませんが、何うせ日が暮れてからです」
「帰りに一寸ちょっと寄って下さい」
おそくなるかも知れませんよ」
「晩くても宜いのよ。私、明日の朝まで待っていられませんわ」
「伯母さん、っとも心配はないんですよ。真正ほんとうですよ」
 と寛一君は新太郎君の為めに保証した。
 息子とおいに見送られて発車した西川夫婦は、長いこと無言で考え込んでいた。無論我儘な独息子の身の上である。
「あなた、私、心配で仕方がありませんの」
 と母親が先ず囁いた。二等車はう込んでいなかった。
うして?」
「あの娘は不良少女らしゅうございますもの」
「馬鹿!」
「何でございますの?」
「お前が馬鹿だというんだよ」
 と父親は明瞭に言って聞かせる必要を認めた。汽車の走る音で声の通りが悪い。
「私が馬鹿でございますの? 何故? 何故? 何故ですか承わりましょう」
 と母親は並んで坐っているのを幸い言葉に力を入れると共に身体で押した。
「自分の子には盲目だからさ」
「でも新太郎はあの通り青竹を割ったような子でございますよ」
「青竹を割ったどころか、漢竹かんちくねじったような子だ。嘘ばかり吐いている。お前は余所よそさんの娘を不良少女なんて言う資格がない」
 と父親は冷然として主張した。普段は女親がヒステリイのようになって騒ぎ立てるから事面倒と思うと直ぐに折れる。しかし今日は汽車の中だからその心配がない。
「でも不良だと思えば不良扱いにして此方の子の安全を計る必要がございますわ」
だ分らないんだね。お前の息子の方が余っ程不良少年だよ」
「まあ! 新太郎が不良少年?」
 と母親は敦圉いきまいたけれども仕様がない。
「不良さ。学校時代から不良傾向があった。別段悪いことを仕出来しでかさないのはお前が小遣を充分みついでいるからだ」
「まあ! 私がいつ貢ぎました?」
「そんなことはうでもい」
「何うでも宜かありません」
いよ」
「宜かありませんよ」
「あのまゝ夏中おっ放して置いて見ろ。あのお嬢さんを誘惑するにきまっている」
「まるで反対あべこべね。私は夏中置いたらあの不良少女に誘惑されるだろうと思って心配しているんでございますよ」
「余所さんの娘にきずをつけるな」
「家の息子になら疵をつけても宜いんでございますか?」
「家の息子を不良と見て警戒する分にはひとの迷惑にならない」
「あなたはあの子がそんなに憎いんでございますか?」
「分らないことを言うなよ」
「いゝえ、憎いんでございますよ」
「見っともない。横浜へ着いてからゆっくり話す」
 と父親は口をつぐんでしまった。
 新太郎君と寛一君は見送りを果して、ホッと一息ついた。
えらい目に会った。かたなしだよ」
 と新太郎君が呟いた。
「僕は君のお蔭で伯父さんの方が完全に駄目になると同時に、伯母さんの信用まで失ってしまった。あゝ/\」
 と寛一君もこぼした。
「嘘はつけない」
「今更分ったかい?」
「追々形勢が悪くなって来るから、もう一思いに帰ろうか?」
うし給え」
「今月一杯で」
「来月までいる気だったのかい? 図々しいにも程がある」
「しかし今月一杯じゃ未だ海のものとも山のものともつきそうにない」
「そんな気の長いことを言っていないで僕の策をれ給え」
だ早いよ」
「いや、今日ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーとマザーが見て行ったのは却って好都合だ」
うかね。僕はあれで悉皆すっかり悲観してしまった」
「僕がそれとなく当って見ようか? 今夜寄れば何うせ訊かれる。その打ち合せも能くして置こうぜ」
「然うさなあ。僕は頭の中が掻き廻したようになってしまって何うして宜いか分らない」
「マザーはあの新太郎と一緒に游いでいた娘は何ものですかと訊くに相違ない。その返辞一つで君の運命がきまらあ。おい、活殺自在かっさつじざいだよ」
「ゆするなよ。おっと、先刻のを忘れていた」
 と新太郎君は懐中ふところから例の紙包を取り出して開けて見て、
「十枚らしい。話せるなあ」
 と立ち止まって勘定した。
「この上苦労をかけると罰が当るよ」
「実際だ」
「何うだね? 当って砕けようじゃないか? 僕は九分九厘まで大丈夫だと思う。何うせ片付ける二番娘だ。家庭も相応、教育も申分ない。悉皆条件が揃っているじゃないか?」
「それは此方から見れば然うだけれど、先方むこうんな都合があるかも知れない」
「でも先口のないことは確めたんだろう?」
「先口がないからって僕にくれるか何うか分らない」
「分らないから申込んで見るのさ。こゝにいてチョッカイをかけるよりは東京へ帰って正々堂々の手順を用いる方が何んなに安全だか知れないよ」
「然う出来ればそれに越したことはないが、正々堂々と申込んで万一断られた日にはかたなしだ」
「チョッカイで失策しくじれば尚お形なしだぜ」
「それも然うだね」
「マザー丈けなら僕が必ず説きつける」
 と寛一君は尚お頻りに帰京を勧めた。
 宿に戻り着くと、秀子さんと芳子さんと俊男君が海へ出掛けるところだった。
「西川さんも原田さんも行きましょうよ」
 と俊男君が誘った。もとより辞すべくもなく二人は早速海水着に着換えた。みちすがら、
「西川さん、先刻のお客さまを当てゝ見ましょうか?」
 と秀子さんが申出た。
「えゝ」
「怖い/\ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーさんと甘い/\ママさんでしょう?」
「大当り。豪いですな」
 と新太郎君は大袈裟おおげさに感心した。
「誰だって分りますわ、それぐらいのこと」
 と芳子さんは不平だった。
「何故?」
「西川さんの恐縮振りってなかったんですもの」
「おや/\」
「西川さん、あなたは先刻私がお時計を返しに上った時、とても困ったようね?」
 と秀子さんが話し続けた。
「えゝ。海の中であなたにからかっているところを見られていますからね」
「まあ、それで?」
「えゝ」
「それじゃ私、あんな大きな声を出して、さぞ御迷惑でございましたろう?」
「大いに迷惑しましたよ、冷汗れいかんの思いでした」
 と新太郎君は漢文を用いて形容した。
 海水浴場に着いて皆泳ぎ始めた。
「原田さん、私、深いところへ行きますから御保護を願います」
 と秀子さんは寛一君の腕に捉まった。寛一君は少時しばらくお相手を勤めてから甲羅こうらを乾した。
「秀子さん参りましょう」
 と間もなく新太郎君が申出た。
「私、いやよ」
「参りましょうよ」
「厭でございますよ」
「何故?」
「又御迷惑をかけますからね」
「もう帰ったから大丈夫ですよ」
「それだから厭なんですよ。私、御両親の前に私をはじとするような方とはもう御交際を願いません」
 と秀子さんは凛然りんぜんとして謝絶した。新太郎君は又冷汗三斗だった。それから種々いろいろと御機嫌を取ったが更に効果が見えなかった。帰りには、
「僕はもう何が何だか分らない」
 と泣きそうになっていた。
「秀子さんの言分は道理もっともだよ。僕は敬意を表する。この上チョッカイをかけると駄目になるばかりだぜ。東京へ帰ろう」
 と寛一君は又勧めた。

儲からない役


 夕食の折、新太郎君は多少自暴やけ気味で無暗にビールを傾けた。寛一君も煙ったい伯父さんの姿が見えなければ、必ずしもサイダー党でない。ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーもナカ/\罪なことをする。二人は未だ不意打ちの驚愕から全然恢復していなかった。話は自然それに触れる。
「まあ/\、もう少し同情してくれ給え。ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーに見つかったからって、う手の平をひっくり返したように態度を変えなくても宜いじゃないか?」
 と新太郎君は厭味いやみを言い出した。怖い父親の首尾と懐かしい秀子さんの御機嫌、両方を失策しくじってイラ/\しているところへ帰京を勧められたのだから無理もない。しかし寛一君は、
「然ういう次第わけでもないけれど、マザーに安心させて置かないと話が拙いんだよ、この際、特にね」
 と相談相手として先の先まで考えていたのである。
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーが承知したんだもの。今月一杯は立派に権利がある。帰るもんか」
「僕だって是非とは言わないよ。それは鼠の天ぷらが鼻の先にぶら下っているんだもの、同情はしていらあ」
「鼠の天ぷらだなんて恐れ多いことを言うなよ」
「誰に恐れ多い?」
「秀子のきみにさ」
「世話はない。自分はコン/\さんでもいのかい?」
「おれは何でも宜い。秀子さんの御機嫌さえ直れば」
 と新太郎君は悉皆すっかり傾倒している。
「その通りだからね。この際特にガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの信用をつないで置く必要があるんだよ」
「お為ごかしか?」
「そんなにひがまないで、まあ/\、冷静に考えて見給え」
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの信用も大切だいじには相違ないが、今帰ったんじゃ此方の問題が全然打ち切りになってしまう。困るよ、特にこの際」
「いや、帰ったら直ぐに申込むんだ」
「申込んでも先刻の調子じゃ断られるよ」
「何あに、ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーからなら秀子さんの註文通り公明正大じゃないか?」
「いや、『それなら私、公明正大にお断り致しますわ』と来る。ざまはないよ。もう少し様子を見てからにしてくれ給え」
「そんな御念ごねんには及ばないんだがなあ」
「いや、僕は今日で人格を見透かれてしまった」
「悉皆自信がなくなってしまったんだね。それじゃこの上形勢が悪くなったら何うするんだい?」
「世間は広い。その時は河岸かしを更えるばかりさ」
「君、そんな料簡方なら僕はもうかゝり合わないよ」
「いや、今のは冗談だ」
「何うだか分ったものじゃない」
「いや、真面目だよ」
「兎に角僕は今夜伯母さんに訊かれるにきまっているんだが、何ういう程度で答えれば宜いんだい?」
 と寛一君は差当りの方策に移った。
「然るべく取りつくろって置いてくれ給え」
「否定するのかい?」
「何を?」
「君が参っていることを」
「無論さ。僕は別に意思もないが、先方むこうで参っているような具合に話して置いてくれ給え」
「アベコベだね?」
「僕は見識けんしきを下げたくない」
「それぐらい下げていれば沢山じゃないか?」
「厳しいね」
「当り前さ。しかし全然否定してしまうと後で動きが取れなくなるぜ」
「そこは臨機応変にやってくれ給え。『先方も相応の家庭らしいですから、御意見次第では身許を調べて、一つ新太郎さんを説いて見ましょうか?』ぐらいに言って置くさ」
「君は何処までも堅人かたじんで通すのかい?」
「まあうさ」
「ナカ/\虫の好いところがあるよ」
「気に入らないかい?」
「感服しないね。こんな役をノメ/\仰せつかるとは僕も余っ程お人好しだね」
「そこを見込んで頼んでいるんだよ」
「畜生!」
「松浦家を大いに推薦して置く必要がある」
「推薦にも何にも僕は知らないぜ」
「地主だよ。牛込の弁天町に地所家屋を大分持っている。義兄が○○出身で僕の成績を知っているから秀子さんをくれたがるんだろうと言い給え」
「笑わせるなよ。しかしマザーならそれくらいで結構誤魔化せるぜ」
「唯ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーだよ、難物は」
「二人同席だと困るね」
「僕もそれを案じている。今日は返す/″\もバツが悪かったからね」
 と新太郎君は思い出して溜息をついた。
 従兄弟同志が食事と共に打ち合せを終ると間もなく、
「原田さん、もうソロ/\出掛けませんか?」
 と俊男君が離れから大声で呼んだ。松浦の俊男さんも同じ汽車で東京へ帰る。
「お供しましょう」
 と応じた原田の寛一君は支度も何もない。折から秀子さんの笑い声が陽気に響いた。
「僕も駅まで送ろう」
 と新太郎君はいきおい好く立ち上った。
「現金だなあ」
「いつでも送るじゃないか?」
「いや、立ち方がさ。土瓶を蹴飛ばしたぜ」
「気むずかしい男だな」
「何彼につけてダシに使われるんだもの」
 と寛一君は能く観察していた。
 松浦さんでは主人公と秀子さんが俊男君を送って行く。
「御一緒だと安心ですよ」
 と松浦さんは寛一君に頼む意味だった。
「込みましょうよ、今日は」
 と寛一君もアッサリ引受けた。
「芳子さんは御留守番ですか?」
 と新太郎君は秀子さんに話しかけて御返辞の光栄に浴した。※(二の字点、1-2-22)やや持ち直したと思ったのか、
「暑いですなあ」
 と松浦さんが言った時、
「しかし昼の中から見ると余程しのぎ宜いですよ」
 と喜んでいた。
 寛一君は俊男君との同行を好い機会だと思った。それとなく当って見て、新太郎君に対する松浦家の人達の態度を確めることが出来る。尚この際松浦家そのものについて及ぶ限り知って置く必要があった。その意味から特に、
「俊男さん、今度の日曜が待ち遠いでしょう?」
 と重きを置いた。
「今度はもう試験だから来ません」
「然うですか。暑いのに大変ですな」
「僕一人いやになってしまう」
 と俊男君は訴えた。
「実は夕方から天気模様が悪くなって困ったんですよ」
 と松浦さんが笑った。
「ポロ/\降り出したのよ」
 と秀子さんが素っぱ抜いた。俊男君は他人の手前、
「何だ、此奴!」
 と真剣になって詰め寄った。
「厭よ、俊男さん」
 と秀子さんは新太郎君を楯に保護を求める積りでグルリと廻った。
「あ、痛!」
 と新太郎君は足を踏まれて飛び上ったが、
「あら、御免遊ばせ」
 といたわられて、
「いや、う致しまして」
 と光栄のていを示した。
「俊男さんが悪いのよ」
「何?」
「もうおよし、もうおよし」
 と松浦さんは二人を制して、
「原田さんは真正ほんとうに日曜だけですか?」
 と訊いた。
「えゝ。店がありますからな」
「御主人のように神経衰弱が利きませんのよ。オホヽヽヽ」
 と秀子さんが又素っぱ抜いた。
ひどいですなあ」
 と新太郎君は大袈裟に頭を掻いて又光栄がった。
 松浦さんも笑い出す。
「脈があるぜ」
 と寛一君が機会おりを見て囁いた。
「痛い!」
 と新太郎君は再び飛び上って、
「今日は無暗に足を踏まれますよ。ヘッヘヽヽヽ」
 とヨロ/\した。
「だらしのない男だなあ」
「オホヽヽヽヽ」
 とこれは秀子さんだった。
 駅は日帰りの連中で一杯だった。込み合いが押し合いになって松浦家の人達よりも先にプラットフォームへ出た時、
「然う形勢の悪いこともないようじゃないか?」
 と寛一君は見たまゝを言った。
「うむ。悲観したものじゃないかも知れないよ。時に君」
 と新太郎君は後ろを顧みたが、俊男君は未だ揉まれていた。
「何だい?」
「申兼ねるが、不二家ふじやのチョコレートを十円丈け明日直ぐ送ってくれ給え」
「はい/\」
「冗談じゃないよ。頼む。進物しんもつだ」
「よし/\。何なら今夜これから寄って申付ける」
「いや、それには及ばないよ。君に立て替えて貰うと後から払わなければならない。家から電話で命じてくれ給え」
「考えているなあ」
 と寛一君は感心した。そこへ松浦さんの連中が出て来た。
「込みますのねえ」
 と秀子さんは今更周囲あたりを見廻した。
「何あに、僕が割り込んで俊男さんの席を取って上げます」
 と新太郎君は忠勤をぬきんでるに怠りない。そうして汽車が着くや否や寛一君と二人で飛び込んでその通り計らった。
 寛一君は品川で俊男君と別れるまでに松浦家に関する知識を多少獲得した。しかし立ち入ったことは気がして訊けなかった。但し一度俊男君の方から、
「秀子姉さんはお父さんやお母さんのお気に入りだから一番威張っています」
 と言い出した。それに引き続いて、
「もう/\ソロ/\お嫁にいらっしゃるんでしょう?」
「行くもんですか」
「何故?」
「あんな我儘ものを誰が貰うもんですか」
「あゝ分った。先刻の経緯いきさつでそんなに悪口を言うんでしょう?」
「いゝえ、大姉さんさえ持て余しているんですよ。何処へ行っても大切だいじにされるものだから増長しているんです」
 というような会話があった。
 新橋で下りて銀座の寿商店ことぶきしょうてんへ向った寛一君は只管ひたすら伯父を恐れた。伯父の信任を裏切ったという自覚がある。いや、うから裏切っているのだが、それが知れてしまったという自覚にとがめられる。実は今晩は伯母にも首尾が悪い。確に誤解を受けている。しかし伯母一人なら充分納得の行くように説明が出来る。難物は新太郎君も言った通りガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーだ。うかヘボ将棋の客でも来ていてくれゝば宜いがと念じながら、店から奥へ進んだ時、
「やあ、寛一君、待っていた」
 とその苦手の伯父さんが先ず葦簾戸よしずど越しに声をかけたには、寛一君、もう助からないと思った。
おそかったのね」
 と伯母は不機嫌のようだった。二人は逗子以来の争議を続けていたのである。人柄の好い伯母も問題が独息子ひとりむすこのことになると決して負けていない。
「ついおそくなって何うも相済みません。先刻せんこくは失礼致しました」
 と寛一君は伯父伯母の前に改まった。
「寛一や、私はお父さんに新太郎のことを不良少年だと言われたよ」
 と伯母はたちま甲走かんばしった。
「仕様がないね。お前は。まるで狂人きちがいのようだ」
 と伯父は手にあましていた。寛一君は予想以上に事が大きくなっていると思って益※(二の字点、1-2-22)恐縮した。
「寛一や、あの娘さんはこの頃流行はやりのモダン・ガールでしょう? 不良少女でしょう?」
 と伯母はモダンも不良も一緒だ。
「いや、そんなことはありませんよ」
「何処のういう家の娘さんですか、くわしく話しておくれ」
「あれは金持の娘です。家は牛込の弁天町の地主だそうですよ」
「それ御覧。言わないこっちゃない。自分の息子を差置いて、余所よそさんの娘にきずをつけちゃ済むまい?」
 と伯父がたしなめた。
「不良性は身分に関係ありませんよ」
「それは然うさ。家が相応でも親が甘やかすと不良になる」
「厳し過ぎても不良になりますよ」
 と伯母は言い返した。寛一君は両方だと思ったが、新太郎君を不良とまでは見做みなしていない。
「寛一君、実は今日はあれから二人で種々いろいろと考えた。これはあの娘さんが不良少女で新太郎を誘惑しようとしていると言う。わしは反対に、遺憾ながら、新太郎の方が不良傾向を帯びていると思う。何方どっちにしても、これは大問題だ。君は大略あらまし分っているだろうから、今夜は一つ腹蔵ないところを話してくれ給え」
「それは伯父さん、何方でもありませんよ」
 と寛一君は力強く否定した。
「すると唯通り一遍の交際かな?」
「無論然うです。監督者が側についているんですもの。っとも心配ありません」
「そこを案じるのが親心さ。間違がないまでも、万一悪い噂でも立って見給え。何方の為にもならないからね」
「それは御道理ごもっともですが……」
「一体うして懇意になったんだね?」
「去年の夏一緒でしたものですから」
「宿がかい?」
「いや、宿は違いましたが、海岸で始終一緒でしたし、弟さんに游泳およぎを教えた関係から兄さんと口をくようになったんです」
「兄さんというのはあの若い人だね?」
「えゝ。養子ですよ。惣領娘そうりょうむすめのお婿さんです。矢っ張り○○出身ですから殊に話が合うんです」
「成程」
「去年の暮にあの夫婦がこゝの前で新太郎さんに会って、先方むこうでは家を知っているものですから、信用があるんです」
「成程」
 と伯父は一々合点が行った。
先方むこう苗字みょうじは何といいますの?」
 と伯母は少し落ちついて来た。
「松浦と申します」
「娘さんの名は?」
「秀子さんです」
「幾つ?」
「二十一だそうです」
「お父さんもお母さんもお揃いでしょうね?」
「えゝ。しかしお父さんはこの二三年寝たり起きたりだそうです」
「何処がお悪いんでしょう?」
「さあ。存じません」
「新太郎はあゝいうかたい子ですが、その娘さんを貰いたいとか何とかとお前に言いはしなかったの?」
「さあ」
う?」
「矢っ張り、その何でしょうな、貰いたくないこともないんでしょうな」
「お前にそんな話をしたことがあるの?」
「別にありませんが、これは単に私の推察です」
「なけりゃない方がいのよ。実は此方こっちに丁度好い縁談が始まっているんですから」
「伯母さん」
「何?」
「実はないこともないんです」
 と寛一君は慌て出した。
「あるの?」
「幾度もあるんです」
「それ御覧なさい。一寸鎌をかければその通りじゃないの?」
「何うも唯事じゃないと思ったよ」
 と伯父もニヤ/\笑っていた。
「でも言わないでくれって頼まれたんですもの」
 と寛一君は追々じつを吐く。
「何と言ったの? 新太郎は」
 と伯母が追究した。
「それは訊かないで下さい。兎に角貰いたいことは私が保証します」
「そんな保証はして貰いたかないわ」
「けれども何うせ貰うものなら本人の気に入ったのが宜いでしょう?」
「それはうですけれども、未だ身許も碌々分っていないじゃありませんか?」
「身許の確なことは私が保証します」
「保証ばかりしているのね。牛込弁天町の松浦何というの? お父さんは」
「さあ。お父さんの名は分りませんが、養子の方なら松浦……松浦……何三郎といいましたかな?」
「駄目ね」
「学校の卒業生名簿を見れば分るんですがな。新太郎さんの本箱に入っています」
「持って来て見給え」
「はあ」
 と寛一君を二階へ立たせて、
「御覧。あの通り二人共謀ぐるになっている」
 と伯父がにがり切った。伯母は忌々いまいましそうな顔をしたが、何とも言わなかった。
 間もなく寛一君は卒業生名簿を持って下りて来た。はぐったら直ぐにマのところが開いた。
「これです。松浦友三郎でした」
「どれ」
 と伯父は眼鏡をかけて一応吟味ぎんみした後、そこに枝折しおりのように挾んであった紙片をつまみ上げた。
「何んでございますの?」
 と伯母が伸び上った。
「おや/\、興信所の調査だよ」
 と伯父は拡げて少時しばらく見入っていた。次に伯母が一読して、
「まあ/\呆れた。これは念が入っていますわ」
 と首を傾げた。それも道理、松浦家の戸籍財産信用なぞがくわしく書き上げてある。
「手廻しの好い奴さ」
「でも不良少年なら興信所で調べるなんてことは致しませんわ。矢っ張り真面目な証拠ですよ」
「その日附を御覧。逗子へ行く為に神経衰弱を言い立てた証拠にもなるよ」
「あなたはあの子のことゝいうと何でも悪く気を廻しなさいますのね」
「お前は何でも弁解するからいけない」
「寛一や、お前もあんまりだよ。何も彼も知っていながら何故そんなに白を切って私に恥をかゝせるの?」
 と寛一君は飛沫とばっちりを受けたが、
「いや、興信所で調べたことなんか一向聞かなかったんです」
 と実際存じも寄らないところだった。
「嘘を仰有い」
「いや、真正ほんとうですよ。困りますなあ、そんな風に誤解なすっちゃ」
「寛一君に当っても仕方がないよ。可哀そうに、おそくまで引っ張られた上に叱られちゃまらない」
 と、伯父が同情してくれた。
「でも私、こんなに驚いたことはありませんわ」
「新太郎を信じ過ぎるからだよ」
だ仰有いますね。あなたは」
「いや、新太郎が多少真面目だったことはこの調査書で分っている。わし何方どっちかといえば斯ういう証拠の出たのが満足だ。もっと交際が進んだら、恐らく俺等に打明ける積りなんだろう」
「然うですよ、伯母さん。僕も決して悪い意味でかくしたんじゃありません」
 と、寛一君は新太郎君の為自分の為に弁じた。
「それも分っている。して見れば一概に不良傾向だと言ったのは俺がっと早合点だったよ。喜んで取消そう。それでもう文句はあるまい?」
「ございませんとも。私も不良少女を取消しますわ」
いところは善い悪いところは悪いにして、く考えて見よう。お前のように一から十まで新太郎を善いと思っていたんじゃ相談が出来ない」
「分りましたよ。お互に機嫌を直して考えましょう」
 と、伯母も到頭折れた。
「話は又のこととして、寛一君はもう帰りなさい。海へ行って晩いと家で案じる」
「はあ」
「新太郎の為に好い面の皮さ。俺は分っているよ。伯母さんの言ったことを気にかけちゃいけないよ」
「はあ」
「晩くまで真正ほんとうに御苦労だったね。やあ、大変汗をかいたじゃないか?」
「いや、何あに」
 と寛一君額を撫ぜたらヌラ/\していた。実にもうからない役目だ。何うやら伯父が理解してくれるようなので僅に慰められた。
 翌朝も伯父は顔を合せると直ぐに、
「昨夜は御苦労だったね。まあ/\辛抱しておくれ。皆新太郎が悪いんだ」
 と言った。寛一君は安心して仕事にかゝった。間もなく女中が迎いに来たので、伯父に目礼して奥へ入って行くと、伯母は、
「寛一や、昨夜は御迷惑さま」
 とニコ/\しながら迎えた。
「何あに、構いませんよ、私なんか、何うでも」
 と寛一君は伸び/\に厭味いやみを言った。
「お前家へ行ってお母さんに言いつけたね」
「いゝえ」
「お前のお母さんは私のことを我儘だと思っているんだからね」
「何か御用ですか?」
「まあ/\、機嫌を直しておくれ。昨夜あれから伯父さんと相談したんですが、兎に角一日も早く新太郎を呼び戻す方が宜かろうってことになったのよ。仕事は仕事、縁談は縁談、ういつまでもウカ/\させちゃ置けませんからね」
「それは無論そうです」
「新太郎はあの秀子さんを貰えば落ちついて店の仕事に精を出すでしょうかね?」
「それは大丈夫でしょう」
「お前保証してくれる?」
「いゝえ、もう保証はしません」
「けれども今度はお前の力を借りなければならないのよ」
「僕のようなお人好しは使いいでしょうな?」
「そんなに厭味ばかり言わなくても宜いじゃないの?」
「でも僕は新太郎さんにはもうりました。僕を利用して置きながら肝心のことを黙っているんですもの。昨夜の興信所こうしんじょの一件なんかその手です」
「あれはもう宜いのよ」
「一体何ういう御用ですか?」
「近い中に新太郎を連れて来て貰いたいんですよ。この上我儘を通させたんじゃ後々のちのちの為にならないから、帰って来なければ縁談のことは一切構いつけないとお父さんは仰有っています。ういうもんだろうね?」
「でも、もう一つのが始まっているんでしょう?」
「もう一つのって?」
「昨夜のお話のですよ」
「あれは嘘よ。お前は正直ね」
「あゝ/\、僕は彼方此方あっちこっちだまし宜いと見えます。もう御免蒙りますよ」
「まあ/\、然う言わないで相談に乗っておくれ。元来もともと私が転地に出してやったようなものだから、私の手で素直に戻らせないと具合が悪いんですよ」
「帰って来れば秀子さんの方の話を進めて戴けるんですか?」
「それは無論よ。お父さんも申分ないと仰有っていますからね。けれども然ういう条件で帰って貰うんじゃありません。親は親、子は子です。そのぶん判明はっきりさせてからの話ですわ」
「至極御道理ごもっともです。条件でなくても結局秀子さんが貰えるようなら帰って参りますよ」
「お前引き受けてくれる?」
「しかし今直ぐは無理ですよ」
「早い方が宜いんですけれど、私もそれを考えていますの。昨日私達が行って後から直ぐっていうと何だか彼方あっちへも角が立つようですから、そこは二人で相談づくにして下さい」
「承知しました。今度の日曜に行って出来るけ早く切り上げさせましょう。一日でも早ければそれ丈け伯母さんの顔が立つ次第わけです」
「然うですとも。真正ほんとうにお前は呑み込みが宜いよ」
「煽てゝも駄目ですよ。ところで伯母さん、僕、新太郎さんに頼まれたことがあるんです」
「何に?」
不二家ふじやのチョコレートを十円今日直ぐ送ってやって下さい」
「そんなに何うするの?」
「秀子さんへ御進物ですって」
「まあ、厭な子だねえ! 私には羊羹ようかん一棹ひとさお買って来てくれたこともないくせに」

チョコレート


テンコウカイフク。アンシンアレ。
チヨコレートスグオクレ。シンタロ。
 これは机の上に待っていた電報だった。今し一日の勤めを果して家へ帰って来た寛一君は一読の後、
「ふん、仕様がない奴だなあ」
 と歎息した。そこへお母さんが顔を出して、
「寛一や、早くお湯にお入り」
「…………」
「寛一や、その電報はね……」
「お母さん、無暗に開けて見ちゃ困りますよ」
 と寛一君は白い目をした。新太郎君のように独り息子ではないが、矢張り長男だから、父親以外に頭の押え手がない。
「でも、お前、用向次第で店まで持たせてやらなけりゃなるまいと思ったんだよ」
「…………」
「チョコレートぐらいで電報を打ったりして、これだから、私、姉さんのところは駄目だと始終言っているんですわ」
 と母親は自分の家のしつけの厳しさを誇るようだった。しかし寛一君はそんなことに頓着なく、
「厭になっちまうなあ」
 と呟いた。昨夜といい今朝といい、新太郎君の為には伯父伯母の間に板挾みになってクサ/\している。
うして?」
「僕はもう店が勤まらないかも知れません」
「何うしてさ?」
「新太郎君のお蔭で伯母さんに叱られたり伯父さんに具合が悪かったり、些っとも面白くないんですもの」
「姉さんがお前を叱ったの? まあ! 何と言って叱ったの? 話して御覧なさい」
 と勝気の母親は早速気色けしきばんだ。
「叱ったって次第わけでもありませんが、新太郎君があんまりいつまでも帰って来ないものだから、伯父さんの御機嫌が悪いんです」
 と寛一君は昨夜のことを単に新太郎君の我儘として打ち明けた。
「それでお前に当るなんて、姉さんて人は真正ほんとうに勝手だよ、自分の子のことはいつでも棚へ上げているんだもの。私、その中に行って、言ってやるからいわ」
「いゝえ、それには及びません。伯母さんだって僕の立場を理解してくれています」
「伯父さんが何か仰有ったの?」
「伯父さんも僕が好い面の皮だって同情しています」
「それじゃ何にもお前が厭になる次第わけはないじゃありませんか?」
「理窟はまあそんなものですよ」
「それじゃ宜いじゃないの? 新太郎さんは新太郎さん、お前はお前で店の仕事に精をお出しなさい」
「然うしましょう」
「何にも心配することはないわ。伯母さんは我儘だけれど、話せば分る人だし、伯父さんだって顔こそ怖いが、肚の中は極く善い人だよ。何かの因果でお面丈け魔物にあやかったのらしいって伯母さんも保証しているくらいだからね」
「それも分っています」
「分ったら早くお湯にお入りなさい」
「あゝ、あゝ」
「何があゝ/\です?」
「毎日遊んでいて電報でチョコレートを取寄せる奴もあれば、毎日働いていて家へ帰ると叱られる奴もある」
 と寛一君は又愚痴になった。
「私、叱ったんじゃありませんよ。厭味いやみを言う子だねえ」
「…………」
「何をそんなに考えているの?」
「どっこいしょ。天候恢復か。あゝ/\」
「逗子は昨日そんなにお天気が悪かったの? 此方こっちは一日何ともなかったのに」
「いや、これは空のお天気じゃないんです」
「それじゃ何のこと?」
「ヘッヘヽヽヽ」
「何さ?」
「ハッハヽヽヽ」
「何ですね。笑ってばかりいて」
「おい/\、寛一」
 とこの時茶の間から父親が呼んだ。
「はい」
「話は御飯の時にして早くお湯にお入り」
「はい/\」
「お父さんは先刻から待っていらっしゃるのよ」
 と母親もき立てた。
 夕飯には及ぶ限り家中が揃うことになっている。寛一君が湯から上って食卓についた時、その赤い顔が皆の注目をいた。
「焼けたわねえ」
 と妹が感心した。それから逗子の話が出るのは当然のことだったが、寛一君は新太郎君の問題に触れるのが厭だった。新太郎君のことを訊かれると、勢い自分の立場を説明しなければならない。それでく沈黙を守っていたが、母親は誤解して、
「あなた、寛一は店が厭になって、こんなにしょげているんでございますよ」
 と突如いきなり一番困る問題を持ち出した。
「うん?」
 と父親は頭をもたげた。
「いゝえ、お母さん、そんなことはありませんよ」
 と寛一君は母親を睨んだ。父親の前へ都合が悪いといつもこれをやる。
「でも先刻愚痴を言っていたじゃありませんか?」
「あれは新太郎君がいつまでも帰って来ないから、伯父さんの御機嫌が悪いと言ったんですよ」
「新太郎さんは困ったものだね」
 と父親は首を傾げた。
「困りますよ」
「もう病気はいんだろう」
「初めから病気でも何でもないんです」
「商売が嫌いかな?」
「然うでもないようですが……」
「お父さんがやかまし過ぎるからな?」
「いゝえ、然うでもありません」
「若いものだから、何か彼方あっちに出来たんじゃないかな?」
「いゝえ、いゝえ、そんなことは決してありません」
 と寛一君は胸に汗の伝わるのを覚えた。
 父親はもう追究しなかったから、これで事済みかと思っていると、食後、妹や弟が立ってしまってから、
「寛一や、お前は新太郎さんと仲善しだから、都合の好いこともあるだろうが、都合の悪いこともあるだろうな?」
 と訊いた。
「えゝ」
わしは或はこんな問題が起るかも知れないと思っていたよ」
「お父さん、何にも問題なんか起っちゃいないんですよ」
 と寛一君は恨めしそうに又母親を睨んだ。
「兎に角、お前は新太郎さんに利用されるから、伯父さんの方が勤めにくくなるんだろう?」
「…………」
「人柄が好いからね。しかし新太郎さんの今の都合を考えてやるのは決して友情じゃない。毎日曜に行って少しは忠告をすることがあるのかい?」
「あります」
「この上とも早く帰るようにすすめるんだね」
「えゝ」
「若いものがノラクラしていれば決して好いことは仕出来しでかさない」
「然うですとも。伯父さんも伯母さんもそれを案じて昨日見に行ったんです」
「ところでお前は何うだな? 店が厭になったなんてことはあるまいね?」
「決してありません。それは全くお母さんの誤解です」
「誤解なら私もお礼を言うよ」
 と母親は満足のようだったが、
「けれども姉さんはあんな手前勝手の人だから、私、何うしても一遍行って能く話して来ますわ」
 と後の方が宜しくない。
「お母さん、何にも心配なことはないんですよ」
「でも帰り/\溜息なんか吐かれると、私だって気になりますよ」
「あれは新太郎君があんな呑気なことを言って電報を寄越したからです」
「家は貧乏ですからね。けれども寛一や、チョコレートぐらいは、新太郎さんをうらやましがらなくたって、いくらでも買って上げますよ」
「チョコレートが欲しいという次第わけでもないんですけれど……」
 と寛一君は笑った。そうして母親がチョコレートに重きを置いてくれたのを大仕合せだと思った。母が意気込んで伯母を訪れる段になると、新太郎君の恋愛問題を斡旋あっせんしていることまで知れてしまう。危い/\。
 さて、問題の新太郎君である。寛一君はその晩返事をしたためにかゝったが、もすると自分の苦情が先立つのに気がついた。彼方此方あっちこっちで叱られて、考えて見ると馬鹿々々しくなる。
「あゝ、厭だ/\。今度の日曜にウンと言ってやろう。直接談判だ」
 と肚を決めて、
「電報拝見。お芽出度う。しかし長居は不為だ。此方は形勢混沌こんとんとして一寸ちょっと筆紙に尽し難い。要するにガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは思ったより手強てごわいんだ。僕もマザーも悉皆すっかりめられてしまった。打ち合せが不充分だったから直ぐにボロが出た。今更仕方がない。僕は刑事被告人の形で逐一白状に及んでしまったから、もう手も足も出ない。ソロ/\引き揚げの支度をし給え。今度の日曜に万事申上げる。チョコレートは今日マザーから送った」
 と要領丈けで間に合わせた。しかしそれと行き違いに新太郎君から次の長文が着いた。
 昨日は失礼。厄介なことばかり頼んで重々恐れ入る。しかし僕の幸不幸の分岐点だから、このところ当分辛抱してくれ給え。その代り君の問題が起った場合、僕は水火の中も敢えて辞さない。兄弟は相身互身あいみたがいみだ。
 今朝天候完全に恢復、同時に訓電を発して置いたが、これはその詳細命令だ。君のことだから手ぬかりはあるまいが、両親に対しては飽くまで僕の見識を立てゝくれ給え。昨日も話した通り、君から先ず秀子さんを推薦すいせんするんだ。
「あんなに新ちゃんを慕っているんですもの、身許さえ確かなら貰ってやっちゃ如何いかがですか? 新ちゃんはあの通り堅人ですから一向平気のようですが、思召がございますなら、私から説きつけます」とやり給え。僕は甘んじて君に説きつけられてやらあ。しかしその節一寸渋って見せるぜ。「両親のめる嫁ならもとより異存もないが、身許はうだね、身許は?」と言う。「身許は大丈夫だよ」「いやういうことは念に念を入れなければいけない」そこで興信所へ頼んで調べる。無論及第だ。この点は僕が今から保証して置く。そのに及んで推薦者の君が立場を失うようなことは決してない。
 当方の現状にかんがみて僕は再びこの方式を主張する。君、脈があるどころじゃないぜ。何うも君はひとのことだと思って諦めが好過ぎるから困るよ。とはいうものゝ、実は僕も昨日は悲観した。一晩寝られなかったよ。真正ほんとうに神経衰弱になるのかと思ったくらいだ。しかし今日は悉皆すっかり持ち直したから、君も安心して僕の見識を立てゝくれ給え。
 今朝海へ行く途中、
「秀子さん、あなた未だ昨日のことおこっていらっしゃる?」
 と僕は恐る/\君の所謂いわゆるチョッカイなるものをかけたのさ。
「えゝ」
 と来たぜ。秀子さんは純情だからっともかくさない。それから後の問答にお目を留めて御覧ごろうじろ。
「秀子さん、考えて見ると僕何とも申訳ありません」
「申訳がないと気がついたら、人間は何うするもの?」
「謝罪するものです」
「案外常識コンモンセンス[#ルビの「コンモンセンス」はママ]が発達しているわね」
「おめにあずかって恐れ入ります」
「あら褒めたんじゃなくてよ。あなたなんか褒めて上げるもんですか」
「恐れ入りました」
「要求したんですよ」
「何の要求ですか?」
「知らない!」
「ねえ、秀子さん、何の御要求です?」
「矢っ張りあなたはおつの頭ね」
「恐れ入ります」
「恐れ入ってばかりいて図々しいのね。謝罪の要求よ。昨日のことおあやまりになったら宜いでしょう?」
「あゝ、秀子さん」
「知らない!」
「昨日のこと僕実に申訳ありません」
「…………」
「これから気をつけますから、何うぞ堪忍して下さい。ねえ、秀子さん」
「えゝ」
「有難うございます」
「私、怖い顔でしょう?」
「えゝ、いゝえ」
「憤っているといつもこんなよ。損だから堪忍してやるわ。オホヽヽヽ」
「有難うございます。もう一緒に游いで下さる?」
「えゝ」
「有難うございます」
 と乞食が一円紙幣さつを貰ったように有難うの百万遍だ。何方が教えるのだか分らない。そんなにしてまで師範を勤めたがるのは水府流すいふりゅうの名折れだなんて言うなよ。いささか不見識のようだが、弱味があるから仕方がない。貰ってしまえばう/\あやまらない積りだ。こゝ少時しばらくの辛抱さ。僕は死力を尽して御機嫌を取る。ついてはこの際チョコレートが早く着くと大変に都合が好いんだ。首を長くして待っている。昨日の今日だろう。母からと言って献上する。
 寛一君、察してくれ給え。斯うなると月一杯では帰れない。実は八月一杯と吹っかけたいんだが、せめて中旬までガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの御機嫌を繋いで貰えまいか? 昨日の権幕では覚束おぼつかない限りだが、マザーを説いてくれ給え。八月はひまなんだぜ。融通ゆうずうは充分つくんだ。まあ/\、これは急ぐこともない。今度の日曜までに策を考えて置く。その折チョコレートを一箱御携帯を頼む。矢張り十円で宜しい。矢張り不二家がお互の負担にならなくて宜しい。まずは右まで。頓首再拝とんしゅさいはい
新太郎
寛一兄

 新太郎君は斯ういう具合で、天候恢復以来とみに気が荒くなっていた。寛一君は呆れて返事を出さずにいると、又会話入りの長いのが来て不足税を取られた。次の日曜に報告がてら与えた忠告は無論馬耳東風と聞き流された。それから七月下旬、
「君は僕が斯うして毎日曜に来る意味が分らないのかい?」
 と言った時には、寛一君、もう口がっぱくなっていた。
「分っているよ、君は海水浴をやりに来るのさ」
「張り合いがないなあ」
「兎に角僕は今月一杯ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの許可を受けているんだ。マザーも僕の都合を考えてくれている。それを中途で引き揚げるのは天物を暴殄ぼうてんするに等しい愚挙だから、君が何と言っても今月一杯は動かないよ」
 と新太郎君は権利を主張した。
「それじゃ月末に帰るか?」
「そこを何とか君とマザーで計らってくれとこの間から拝むように言っているじゃないか?」
「それは君、あんまりだよ」
「当然のことなら頼みやしない」
「僕の立場も少しは察してくれ給え。今度君が帰らなければガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーはイヨ/\僕を君の傀儡かいらいと思い込む。僕だって辛いぜ。居心いごころが悪くなるばかりだ」
「気の毒だから今度限りさ」
「いけない/\。それからマザーの心持も察してやり給え。君が月末に機嫌好く帰ると思えばこそ、その都度チョコレートを十円ずつ持たせて寄越すんだ」
「マザーの心持も君の立場も分っている。しかし僕は今帰ったところで、こんな気分じゃ仕事が手につくまいぜ」
「それは又別問題だよ」
「いや。帰ってブラ/\していればガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの御機嫌が悪いにきまっている」
「そんなことを考えていたんじゃ果しがない」
「それじゃ君は理が非でも否応なしに帰れと言うのか?」
うさ」
 と寛一君も然う/\伯母の使命をはずかしめる次第わけに行かないから、思い切って強硬な態度を執った。
「君は友情がないのか?」
 と、新太郎君はムッとした。
「ない」
「ないなら帰れ」
「帰るとも。もう来ないぞ」
「来るなとは言わない」
「僕の勝手だ」
「おい/\、立たなくても宜いじゃないか? 憤ったのかい?」
真正ほんとうに君、一体何うする料簡だ?」
「おれは自分で自分が分らない」
「仕様がないなあ」
 と寛一君は長歎息するばかりだった。
 丁度その日のその刻限に新太郎君の家ではお父さんが発病した。外から帰って来ると間もなく眩暈めまいがして二三回吐いた。かゝりつけの丹波さんが直ぐに駈けつけて、暑気中しょきあたりと診断した。
「鬼の霍乱かくらんでしょう」
 と翌日店員達は当分くつろげる積りだった。しかし西川さんは我慢の強い人だから、二日寝たきりでもう帳場へ顔を出した。
「如何でございますか?」
「有難う。もうよろしい」
 と言って仕事をしていたが、実は頭が重かった。病気をしたことのない人は兎角無理をする。これが悪かったと見えて、西川さんは夜寝られなくなった。妙に目が冴えて店のことが気にかゝる。新太郎君の将来が案じられる。自分に万一のことがあったら何うするのだろうと思う。輾転反側てんてんはんそく明方あけがたまでまんじりともしない。そこで或晩丹波さんへ行ってつぶさに容態を訴えると、
「過労ですよ。少し神経衰弱が来ています」
 とあった。
「しかしあれは若いものゝかゝる病気の筈でしたがな」
 と西川さんは少々不平のようだった。
「お若い証拠ですよ。ハッハヽヽヽ」
 と丹波さんは如才じょさいない。
「巧く仰有るが、実はソロ/\焼が廻って来たんじゃありますまいか? 眩暈がして足がフラ/\するところは中風ちゅうぶのようですよ」
「いや、そんな御心配は決してありません。精神過労ですよ。忙しいかたにはくある奴で、あなたは特別御丈夫だから今まで持ちこたえたんです」
「あんなに急に来るものですかな?」
 と西川さんは未だ腑に落ちない。
「この間のは暑気中りで別物です。あれでお弱りになったから不断の御無理が著しく現われて来たのです」
 と丹波さんはついでをもって西川さん丈けが年来っとも薬を飲まないことをたしなめた。
「これは大失策おおしくじりですな。私は精神さえ聢乎しっかり持っていれば神経衰弱なぞは寄りつくものでないと言って威張っていました」
うは参りませんな。人間の身体は機械ですから、時々油を差したり休めたりしないとジリ/\弱って来ます」
「お言葉に従って当分休養致しましょう」
「一月ばかり転地をなすっちゃ如何ですか?」
「然うですな。温泉へでも行って来ますかな」
「さあ。血圧が少し上っていらっしゃるから、温泉は考えものでしょう」
「海岸は何うですか? 逗子あたりは?」
「至極結構ですな。丁度御令息も行っていられる」
「宿も八月一杯取ってあるらしいです」
 と西川さんは微笑を洩らした。
 その逗子では丁度その刻限に新太郎君が秀子さんや芳子さんや俊男君と月明の海岸を散歩していた。芳子さんと俊男君は附録に過ぎない。
「避暑ですもの。八月一杯は宜いでしょう? 若主人のくせに、それぐらいの御都合のつかない筈はないわ」
 と秀子さんは一々道理もっとものことを言っていた。
「せめて中旬までと原田に命じてあるんですが、彼奴この頃ナカ/\言うことを聞かなくなりました」
「あなたはガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーさんの次は原田さんが怖いんですわね」
「そんなことはありませんよ。この間なんか喧嘩をしちゃったんです」
「まあ!」
「為にならないから月末に是非帰れと言うんですもの」
いやな人ね」
「僕は憤って、そんなことを言うなら帰れと言ったんです。すると、『帰るとも。もう来ないぞ』と言って立ち上りました」
「お止めになって?」
「えゝ。止めて又あやまったんです」
「意気地のない御主人ね」
「でも、あの男はマザーの信用がありますからな。それに僕の分まで働いているんですから、感情を害する次第わけには行きません」
「それからうなって?」
「せめて中旬までとマザーへ執成とりなしを頼みました。しかし責任は負わないと言うんです。帰ったきり未だに手紙も寄越しません」
「駄目ね」
「矢っ張り憤っているんですよ」
「…………」
「僕は原田の感情を害すると実際困るんです」
「そんなに原田さんがお大切だいじなら早くお帰りなさいよ」
「大切って次第でもないですけれど」
「私、何もお止めしているんじゃありませんわ。明後日お帰りなさいよ。丁度晦日みそかで切りが好いわ」
「いゝえ、帰りません。僕には僕の意志があります」
「オホヽ、少しお強いのね」
「秀子さん、馬を川へ引いて行くことは出来ても無理に水を飲ませることは出来ないということわざがあるでしょう?」
 と新太郎君は苦しまぎれに自分を馬にたとえた。
「存じませんわ」
 と秀子さんはもう怖い顔になっていた。しかし俊男君が、
「ある/\。自由意志です。僕は英語で習った」
 と口を出して、
うですよ。You may lead a horse to the water, but …… but …… but ……えゝ、こん畜生!」
 と行き詰まってしまったのは大愛嬌だった。
 新太郎君はいくら自由意志があっても最早もう仕方がない。丹波さんの診察室で洩らした怖い/\ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの微笑で運命がきまった。西川さんは転んでも唯起きない商人あきんどだ。神経衰弱になって転地するにも副産物のことを考えていた。新太郎君の逗子の宿は先頃見て来て気に入っている。これから行って同宿を頼む。
「新太郎め、とても溜まるまい。否応なしに帰って来る」
 と思ったら、覚えず頬の筋肉がゆるんだのである。
 家へ戻って、
「如何でございましたの?」
 と細君に迎えられた時、西川さんは未だニコ/\していた。
「新太郎と同じ病気だったよ」
「まあ! 神経衰弱? そんなお年をして?」
「爺さん扱いにしなさんな。西川さんはお若いと言って同業のものが褒めてくれる丈けのことはある」
「兎に角大したことでなくて宜うございました」
「安心したよ。成程、この間から丁度遊び頃の容態だと思った」
「新太郎ばかり小言は言えませんわね」
「いや、新太郎のは偽物だよ」
「いゝえ、あなたの遺伝いでんですわ」
「でもわしの方が後だ」
「出たのは後でも下地したじがあったんですわ」
 と細君は例によって新太郎君の為に弁じた。悪いことは皆良人おっとの側の遺伝に定めていたが、唯一つ説明のつかなかった神経衰弱も果して然うと今日唯今初めて分ったのである。
「ところで、お直や、わしも転地療養を勧められて来た」
「まあ、丹波さんはそんなに手重ておもに仰有いますの?」
「いや、極く軽いんだが、家にいると何うしたって店へ顔を出すから、頭が休まらない」
「それも然うでございますわね」
「転地をして当分何も彼も忘れるのさ」
たまには御保養が宜しゅうございますよ。温泉へでもお供しましょうか?」
「いや、温泉はいけない。海岸が好いそうだから逗子へ行く」
「あなた、真正ほんとうでございますの?」
「真正さ。新太郎の宿が明くから入れ代る。何んなものだろうな?」
 と西川さんは細君の顔を見詰めた。
「さあ」
「俺は一人で行くよ。お前がついて来ると家が無人ぶにんになるから矢っ張り気を揉む」
「あなた、実は新太郎は八月中旬までいたいと言っていますのよ」
 と細君はズル/\ベッタリにする積りだったが、話の出た序を利用した。
「それなら一緒でも宜い」
「あなたは宜しくても、新太郎が窮屈でございましょうよ」
「親を窮屈がるような息子じゃないと思っているがね」
「新太郎は兎に角御近所が如何でございましょうかね」
「近所って?」
「松浦さんですよ。あなたはその娘さんが申分なければ貰ってやると仰有ったじゃございませんか?」
「然うさ。その検分けんぶんも序にして来る」
「駄目でございますよ。あなたがおいでになると纒まるものも壊れてしまいますわ」
「何故?」
「何故って、あなた、松浦さんのところは若い女の方揃いですもの」
「交際がむずかしかろうって言うのか?」
「えゝ」
「そこは如才じょさいなくやるよ。行ったら直ぐに顔を出す」
「それが案じられるのでございますよ」
「何故さ?」
みんなおびえてしまいますわ」
「そんなに怖いのかい? 俺の顔は」
「私は見慣れていますけれどもね。決してこの頃のお若い方に喜ばれる顔じゃございませんわ」
「人を馬鹿にしなさんな。新太郎の縁談が俺の顔できまりはしまいし」
 と西川さんはプリ/\した。
「いらっしゃるとなれば何日でございますの?」
「早い方が好い。明日支度をして明後日立つ」
「急ね。真正に一人で大丈夫でございましょうか?」
「大丈夫とも。今まで店で働いていた身体だ。寝られない丈で他に異状はっともない。それに行先は伜のところだ」
「寛一に送らせましょう。丁度日曜ですわ」
「心配なら然うしなさい。わしの病気のことは言ってあるまい?」
「えゝ、心配するといけませんから」
「何なら今夜お前から手紙を出して置いておくれ。突然いきなり行くと吃驚びっくりする」
「それじゃ何うでも逗子でございますか? もっと気の利いたところがいくらもありますのにね」
 と細君は今はもう仕方なかった。
 晦日みそかの夕刻逗子の駅に父親とお供の寛一君を迎えた新太郎君は、
「お父さん、何んな御容態です?」
 と長い顔をしていた。
「お前と同じだ。寝られない」
 と答えて、父親は直ぐ俥に乗った。寛一君は荷物を手渡しながら、
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは君の所為せいだぞ」
「うん」
「覚悟は好いか?」
「うん」
 と消息を交換した。尤もその前日に長文の電報を寄越していた。新太郎君はそれと母親の手紙によってイヨ/\のがれられない運命と諦めたから、宿に着くと早々、
「お父さん、私はお父さんの看病を致しましょうか? それとも店へ帰って働きましょうか?」
 といさぎよい覚悟の程を示した。
「ふうん」
 と父親は意外に感じた。尻尾を捲いて逃げ出す一と思っていたところへ、踏み止まって看病しましょうかと来たから気に入った。
「お父さん、長々我儘ばかりして申訳ありません」
「よし。それじゃ帰って貰おう。お前が真面目になれば俺は寝られる」
「はあ」
「万事栗林さんの指図に従って店の仕事に精を出しなさい」
「はあ」
「こゝはこのまゝにして行って、日曜毎に寛一君と二人で遊びながら見に来ておくれ」
「はあ」
 とそれから「はあ/\」が尚三四回続いた。
 夕食後、新太郎君は松浦さんの一家へ暇乞いの序に父親を紹介した。
「順繰りに神経衰弱にたたられまして、今晩から伜と入り代りです。何分宜しく」
 と言って扇子せんすをパチ/\させているところは、新太郎君の贔屓目ひいきめかも知れないが、こわいガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーさんとも見えなかった。母親が気を利かしたのか、手土産はチョコレートだった。松浦家では恐ろしくチョコレートの好きな親子だと思ったに相違ない。

条件つきの後悔


 汽車の動き出すのを待っていたように、寛一君は、
「君、往生際が好かったね」
 と冗談に託して感想を洩らした。
「うん?」
「案外往生際が綺麗だったってことさ」
「何を言やがるんでい」
 と新太郎君は見かけほどにしょげていなかった。
「悪に強いものは善にも強いっていうが、矢っ張り然うだね。看病をしましょうか東京へ帰りましょうかと神妙に恐れ入って、ジタバタしなかったところは見上げたものさ」
「この上罪人扱いにするなよ。斯うやって縄つきにして引いて行く丈けで沢山だろう?」
「君、誤解しちゃ困るぜ」
「巧く言っているよ」
「そんな風に気を廻されちゃ迷惑千万だ。君が斯う直ぐに折れると思わなかったから、昨日からの心配ってなかったんだぜ。手紙じゃもう間に合わないし、電報じゃ充分意思が通じないし、マザーと二人で青息吐息さ」
 と寛一君はしきりに弁解を始めた。宿ではガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーと差し向いで頭ばかり下げていた。途中は見送ってくれた松浦さんと俊男君の手前控えていたので、その機会がなかったのである。
 新太郎君は疑いが晴れると共に、
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは真正ほんとうに悪いのかね」
 と父親の病気を問題にした。
「真正とも。不眠症さ」
「まさか僕を連れ戻す為の計略じゃあるまいね」
「僕も最初は然う考えて見たが、それまでにしなくたって他に方法は幾らもあるんだから、矢っ張り真正に悪いんだと思う」
 と寛一君の結論は如何にも道理だった。
「然うだろうなあ。顔色も冴えなかった」
「君のことを気に病んでいるんだ」
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーこそ鬼瓦の生れかわりで神経衰弱なんて柄じゃないんだがなあ」
「あの病気だけは見かけによらないからね」
「変なことを言うなよ」
「実際の話、不眠症は君も経験があるじゃないか?」
「知らん」
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーのこそ真物ほんものだろう。主人だから仮病けびょうを使う必要がない」
「もうよしてくれ。弱味につけ込んでグイ/\やりやがる」
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの気象じゃ少しぐらい悪くたって転地なんかしない。く/\だよ」
「僕もう思った。先刻『お前がしっかりしてくれゝば俺は寝られる』と言ったろう? あの時僕はガクリと来た、手足の関節が利かなくなったような心持がした」
 と新太郎君には父親の病気が何よりの強意見こわいけんだった。
「実際、君、親孝行をし給え」
「今度こそは身にみた」
「親孝行さえすれば秀子さんが貰えるんだから励みがあらあ」
うも言うことが一々厭味いやみだね」
「冗談は兎に角、ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの転地には病気保養以外にもう一つ目的がある」
「何だい?」
「独り息子に嫁を貰うんだから、大事を取って、それとなく秀子さんを吟味ぎんみする積りだろうと思う」
「成程、然うかも知れないね」
「親は有難いものさ」
「しかしガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの人物試験じゃ秀子さんは落第する」
「何故?」
「僕とは標準が違うからね」
「何あに、苦労をした人だから案外分っているよ」
「秀子さんが及第しても、ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーが落第する」
「秀子さんにかい?」
「然うさ。あんな怖いお父さんは厭だと言うかも知れない」
「その時はその時さ」
「何ういう意味だい?」
「それまでの縁さ」
「ふゝん」
「溜息をついているのかい?」
 と寛一君はひとのことだから執着しゅうちゃくがない。
 汽車の中の内証話はナカ/\骨が折れる。声を低めれば車の響に消されてしまう。高めれば周囲あたりの人に聞えてしまう。二人は追々口を利くのが負担になって、間もなく申合せた様に目を閉じた。唯東京まで運ばれて行く外に差当り用がない。他の乗客には寝ているのが多かった。寛一君も一寸ちょっとウト/\したが、新太郎君の身体から微動の伝わって来るのを感じて我に返った。貧乏ゆすりだと思って又目を閉じると又ピリ/\と来た。顔を覗いて見たら、おおった手の下から涙が流れていたので、
「おい君、君」
 と慌てゝ囁いた。
「…………」
「何うした?」
「…………」
「見っともないぞ」
 とたしなめたが、新太郎君は何とも答えずに、居眠りをよそおって泣いていた。
 寛一君は呆れてしまった。秀子さんに別れるのがこんなにまでも辛いのかと思った。往生際が好いどころじゃない。しかし追究して馬鹿なことを口走られては困るから、もう構わなかった。その中に痙攣的けいれんてきの微動がダン/\遠退いて、
「おい」
 と新太郎君の方から言葉をかけた。
「何うした? 君」
「申訳がない」
「うむ?」
「親不孝をした」
「…………」
「今度こそは身に沁みた」
「それならもう宜いよ」
「ところで、君……」
「分っているよ。分っているよ」
 と寛一君もシンミリした心持になって又会話が途絶えた。
 そのまゝ考え込んで身動きもしなかった新太郎君は横浜で停車した時、
「君、こゝで一寸下りよう」
 と急に思いついたように立ち上った。
「何うして?」
「家へ着くまでに打ち合せて置きたいことがある」
「いけないよ」
 と寛一君は力強くしりぞけた[#「郤けた」はママ]
「君、早くしないと出るよ、もう」
「いけない/\」
「何故いけない?」
「君は後悔しているんじゃないか?」
「無論さ」
「後悔しているのに何の打合せがあるんだい?」
「善後策だ」
 と新太郎君は何か未練があった。
「万事投げ出して罪を待つのが真正ほんとうの後悔だぜ」
「それは分っている」
「分っているなら、もういじゃないか?」
「いや、決して後ろ暗い相談じゃないんだ。君、君」
「いけないよ。こゝで話し給え」
 と寛一君は伯母から言い含められていたので、いつになく強硬だった。
「こんなところじゃ話せない」
「話せないことなら止めにし給え」
「君は同情がないぞ」
 と新太郎君はイラ/\したけれど、汽車が動き出したからもう仕方がなかった。
 滅多に反抗したことのない寛一君は少し気の毒になって、
「君、マザーが待っているんだよ」
 と弁解の積りで言った。
「…………」
「君は憤っているのかい?」
「何あに、僕は今まで迷惑をかけ通しだからね」
「そんなことはないよ」
「僕は明日から生れ変って直ぐに店の仕事を始める」
「それが何よりだ。マザーは喜ぶぜ」
「ついては一つ打ち合せて置きたいことがあるんだから、新橋へ着いたら、一寸で宜いから附き合ってくれ給え」
「駄目だよ。清吉が迎えに来ている」
「君、それじゃ今日のは悉皆すっかり予定の行動かい?」
 と新太郎君は忽ち血相を変えた。
「いや、然ういう次第わけじゃないけれど、帰れば大抵この汽車だからね」
「宜いよ」
「何が?」
「昨日電報が来た時から屹度きっとこんなことだろうと思っていたんだ」
「何んなことだか僕は一向知らないんだ」
「白ばっくれても駄目だよ。僕はもう内股膏薬うちまたごうやくとは口をかない」
「君は誤解している。兎に角後悔した人がそんなことを言うのは変じゃないか?」
「…………」
「僕だってガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーとマザーの間に入って困っているんだぜ」
 と寛一君は苦しい立場を説明して領解を求める積りだったが、新太郎君はもう相手にならなかった。
 新橋に着くと果して清吉が出迎えていた。新太郎君は荷物を渡して、
「おれ達はこれから一寸寄るところがあるんだから、お前は構わずに一足先へ行っておくれ。御苦労々々」
 とき立てた。
「君、何処へ寄るんだい?」
 と先刻から新太郎君の態度に多少憤慨していた寛一君がとがめた。
「まあ、待ち給え」
 と新太郎君は清吉をやり過して、
「君」
「何だい?」
勃気むきになるなよ。未だ憤っているのかい?」
「君こそ憤ったじゃないか?」
「堪忍してくれ。僕は何が何だか分らないんだ」
「さあ、行こう」
 と寛一君は促して歩き出した。
「君、今生の名残にもう一遍僕の頼みを聴いてくれ給え」
「変なことを言うね」
「僕は明日から生れかわるんだ」
「それは分っているよ」
「万事一新する決心だが、逗子の方だよ。あれまで漕ぎつけて今更君におっ放されたんじゃ心細くて仕方がない。マザーに会う前に一寸打ち合せをして置きたいんだ」
「秀子さんの問題かい?」
「うむ」
「屹度それけかい?」
う/\迷惑はかけないよ」
「それ丈けなら僕は何処までも公明正大に応援する」
「有難い。僕は後悔して生れ更っても、秀子さんの方は諦められない。君、この通りだ」
 と新太郎君は手を合せた。斯うなると寛一君は到底断ることが出来ない。
 二人は新橋を渡ると間もなく或カッフェへ入って二階の一隅に陣取った。見知り越しの女給が出て来て、
「あらまあ、お久しぶりね」
 と早速御機嫌を伺ったが、新太郎君は極めて事務的にあつらえを命じて、
「用談だから寄りつくな」
 と睨みつけた。全く真剣だった。
「マザーが待っている。成るべく早く切り上げよう」
 と寛一君が促した。
「こゝまで来れば家へ帰ったのも同じことだよ」
「しかし飲まない方が宜いぜ」
二月ふたつきぶりで赤い顔をして帰ったんじゃ親不孝の上塗りになる」
「脈があるね」
「明日から見てい給え」
「僕もこれからは君の怠ける手伝いをしない。君が幾ら憤っても公明正大の同情の外は絶対にしない」
「宜いとも、今迄は僕が悪かったんだ」
 と新太郎君は何処までも折れて出た。
「いや、僕も責任がある。しかしこれからは両方で気をつけよう」
「僕さえしっかりすれば問題は起らない」
「君が然ういう気になってくれゝば有難い」
「ところで一つ君の公明正大な同情に訴えたいことがあるんだ」
「早速だね」
 と寛一君は笑った。
「僕はこれから家へ帰ってマザーに悉皆すっかり謝罪する。明日から生れ更った積りで働く。君は一つはたから大いに気を利かしてくれ給え」
「何ういう具合に?」
「秀子さんが貰えるようにさ」
「その方はもう充分推薦してある」
「そこをこの上ともに頼むんだよ。悉皆後悔してあの通り生れ更ったように堅くなっているんですから調子の狂わない中に早く貰ってやっちゃ何うでしょうと君が自分で気がついたように始終き立てるのさ」
「成程」
「僕だって無報酬じゃ然う長く続かない」
「変な後悔だね」
「いや、絶対に後悔しているんだが、僕だって聖人君子じゃない。側から何とか条件をつけてくれないと、励みがないから、改悛かいしゅんじつが挙げにくい」
「条件つきの絶対ってことはないぜ」
「いや、僕としては何処までも絶対さ。実際身に沁みている。しかし君が側から見るに見兼て条件をつけてくれるのさ」
「よし。承知した。未だ見るに見兼ねるほどのこともないが、同情は充分している」
「有難い」
「後戻りをすると僕はもう構わないよ」
「大丈夫だ。秀子さんさえ貰えればんな辛抱でもする」
 と新太郎君の後悔は結局条件つきだった。
「明日から直ぐ店へ出ればマザーは喜ぶぜ」
「心配しているだろうなあ」
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの病気と両方だからね」
「僕が生れ更れば、ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーも直るよ。そこへ君がはたから気を利かしてくれゝば、四方八方まるく治まる」
「又責任が重くなるんだね」
「宜しく頼むよ。僕はマザーに秀子さんのことを訊かれるのが今から苦になる」
「恥かしいのかい?」
「不見識だからね、考えて見ると」
「思い当るだろうね。天候恢復以来幾度あやまったい?」
「さあ、一々勘定はしていない」
「そんなに増長させてしまうと貰ってから操縦が出来ないぜ」
「貰ってしまえば然う/\御機嫌は取らない積りだけれど、僕よりも頭が好いんだから仕方がない。或程度まで下敷に甘んじるよ」
「伸びている。伸びている」
「何が?」
「鼻の下の寸法が」
 と寛一君はフォークを当てがって測る真似をして、
「少し縮め給え。そんな顔をして帰るとマザーが見違える」
辛辣しんらつに来やがったな」
「行こう/\。そんなことを聞かされて手間を取るんじゃ間尺ましゃくに合わない」
「まあ宜いだろう」
「いや、もう十時になるよ」
「然うかね。それじゃ寸法を縮めるかね」
 と新太郎君は上唇を両手で再三押し上げた。打合せが思い通りに行ったので調子づいていた。
 翌々日母親は逗子に父親を見舞った。
「何うだね? 与太よた息子は」
 と父親は自分のことよりも先ずそれを問題にした。
「あなたは如何でございますの?」
わしは大分好い。昨夜はいつになく能く寝られた」
「それは好い塩梅あんばいでございますわね」
「何うだ? 新太郎は」
「あなた、矢っ張り感心でございますのよ」
 と母親はそれを報告するのも用件の一つだった。
「働いているかい?」
「えゝ/\、一昨日の晩帰ると直ぐに私の前に坐って涙を流しながらあやまりましたわ。生れ更ると申しましてね、昨日から早速店へ出てセッセと働いていますの」
「三日坊主でなくてくれゝば宜いが」
「今度は続きましょうよ。真底しんそこから後悔しているようですから」
「満更の無神経でもないからね」
「悉皆変りましたのよ。私にお土産だといって青柳あおやぎから羊羹ようかんを買って来てくれましたの、こんなことは初めてでございますわ」
「何あに、晦日に勘定が来るよ」
「それにしても気がついたのは感心じゃございませんか?」
 と母親は喜んでいた。
「此方のことを何とか言っていやしなかったかい?」
「あなたのことでございますか?」
「いゝや、お隣り、お隣り」
 と父親は離れの方をあごでしゃくった。
「いゝえ」
「貰えると思って、それを当てに後悔しているんだろう」
「そんなことはございませんわ。私、店のお仕事も碌々出来ないものがだお嫁さんでもないでしょうと申してやりましたの。肚にあることを黙っている子じゃありませんが、恐れ入っていましたわ」
「ふうむ」
真正ほんとうに生れ更ったようでございますよ。あら、私、忘れていましたが、栗林さんが感心していますの。店の方は御心配なく御ゆっくり御休養なさるようにと仰有いました」
「お前達は感心が早過ぎるよ」
「でもあれ以上はございませんわ。寛一も驚いていますの」
「話半分に聞いても悪い方じゃないな」
「ところで、あなた、如何いかがでございますの?」
 と今度は母親が頤でしゃくった。
「さあ」
「お気に召して?」
「器量は新太郎が迷う丈けのことはある」
いようでございましたわね」
「昨日から海岸へ行って見ているが、この節の娘さんは何処のもみんなあんなだね。中には断髪をして男だか女だか分らないのがある」
「もう皆さんとお近づきになったんでございましょう?」
「新太郎が紹介して行ったから、松浦さんとは顔を合せると一言二言話す」
「私、その積りでもう一ぺん能く見て行きとうございますわ」
「一寸挨拶をして置くさ。これから時々来るんだから」
 と夫婦は寛一君の想像通りそれとなく秀子さんを詮議せんぎする積りだった。
 母親は二日置きに見舞った。父親はズン/\快方に向って、その都度退屈を訴えていた。新太郎君と寛一君は次の日曜に出掛けたが、着くと間もなく雨が降り出したので、海水浴どころでなく、半日ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーのお相手を勤めに行ったような結果になった。
わしは損な性分でういう遊び場へ来ると人一倍に退屈する」
 とガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは朝から欠伸あくびをしていた。
「少し海へお入りになっちゃ何うですか?」
 と寛一君が勧めた。
「今更そんな年でもなし、游泳およぎを知らないから駄目だよ」
釣魚つりは如何ですか? 釣魚は。私の道具がありますよ」
 と新太郎君が言った。
「松浦さんに誘われて一日行って見たが、あれはナカ/\修業が要る。第一根気が続かない」
「将棋の相手はありませんか?」
 と寛一君が訊いた。
「俺の将棋はこの頃漸く駒の動き方を呑み込んだぐらいのものだから、とても差すなんて言えない」
「御謙遜ですな」
「それに勝負事は何うも家業の邪魔になっていけない。松浦さんは碁を打つと見えて、俺に訊いたが、これは皆目分らない。実際芸なしは退屈する。こんな具合じゃ長くはいられそうもない」
「読書は頭脳あたまにいけませんか?」
 と新太郎君は成るべくゆっくり保養をして貰いたかった。
「戸棚の中にお前の本が沢山あったから出して見たが、わしは小説は昔から読んだことがない」
「それじゃ散歩丈けですな」
 と寛一君は新太郎君が藪蛇やぶへびになったのを見て取って早速気をかした。
うさ。毎日海岸をブラ/\歩いている。しかし何処へ行っても若い丈夫な人間がノラクラしていると思うと、あんまり好い心持はしないね」
「…………」
「保養もこれでナカ/\の難行苦行ですと言ったら、松浦さんも同情してくれたよ。この奥の方では謡曲うたいをやる人が毎晩集まるようだが、あれなんかはこんなところへ来ると好い楽みだろうな。松浦さんでは芳子さんがヴァイオリンをく。秀子さんがえらい声を出して西洋の歌を唱う。何方どっちも習っていて性質たちが好いんだそうだが、俺は西洋音楽と来るとラジオで聴いても地震の時と同じ心持になる」
「それは何ういう意味ですか?」
「早く止んでくれゝばいと思って待っているばかりさ。冗談に然う言ったら、奥さんが大笑いをしたが、娘さん達は気にかけたのか、もうやらなくなったよ。いやはや、無趣味なものは仕方がない。これといって好きなものがないんだから退屈する」
 とガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは歎息したが、実はこれまでが前置で、
「いや、たった一つある。それは商売さ」
 と来た。これからお説法が始まるのである。二人は覚悟を極めたものゝ、折からの雨が恨めしかった。
「斯うしていても店のことが始終頭にある。寝ても夢に見る。馬鹿な話さ、保養に来ていながら働くことを考えるのが何よりのたのしみだ。因業いんごうのようだがわしはこれだから兎に角世間並にやって行けるのだと思う。人の喜ぶ音楽や芝居が嫌いだなんていう人間は片輪さ。趣味は広いに越したことはない。けれども俺は若い時に道楽を覚える暇がなかったんだね。十五の時に箱根山を夜通し逃げて来て、小僧から番頭と全く自力で仕上げたんだから片輪にならなければ身の立たない境遇だった。生やさしいことじゃないが、否応いやおうなしで、自然商売の方に精が出た。ところでお前達はどうだろう? 立派な学校を卒業して学問が充分ある」
「いゝえ、一向駄目ですよ」
 と寛一君がお辞儀をした。
「趣味の方も発達して、西洋音楽まで能く分る」
「いゝえ、う致しまして」
 と新太郎君も恐縮した。
「お前達は何も彼も土台が出来ているから仕合せだよ。俺達わしたちよりも世界が広い。仕事をするにもそれ丈け楽な次第わけだ。けれども亦それ丈け油断がある。こゝを能く考えて貰いたい。早い話が、近所界隈かいわいを御覧、銀座の角屋敷かどやしきは何処も一代で潰れるという評判だけれど、何も角屋敷に限った話じゃない。無教育で商売を拵え上げた片輪の親父さんと趣味の広い学校出の息子さんとは何うしたって肩の入れ方が違うからさ。店員が又それを直ぐに見て取る。恐ろしいものだよ。人間は矢っ張り或程度まで片輪になる必要がある。道楽はそれから後のことさ」
 という具合に二人は二時間ばかり訓諭くんゆを受けて、昼食後う/\のていで辞し去った。
 松浦さんへは着いた時と帰る時に一寸顔を出したばかりだったので、新太郎君は、
「一週間一生懸命になって働いて、顔を見た丈けとは情けないなあ」
 と愚痴をこぼした。
「可哀そうになあ。しかし今度の日曜がある。今までの調子で又一週間勉強するさ」
 と寛一君が慰めた。
「見るに見兼ねるだろう?」
「大いに同情している」
「君が気をかしてくれてもガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーがこわしてしまいそうだぜ。ソプラノと地震を一緒にしたんじゃ秀子さんの気に入らないにきまっている」
「しかし大分懇意になっているらしいぜ。然う悲観したものでもあるまい」
「懇意になるほど無遠慮なことを言うから始末が悪いよ。相手と場合の見境みさかいがない」
「それは確かに然うだ。僕は店員だけれど、若旦那並にお説法を喰ったよ」
「サン/″\だったね」
「日が悪い」
「いや、天気が悪いんだ。雨さえ降らなければ今頃は海へ入って騒いでいらあ」
「この次も雨だったら世話はないぜ」
うか天気にしたいものだ。僕も唯じゃう/\は続かない」
 と新太郎君は弱音を吹いた。
 しかし第一週の辛抱は無益むえきでなかった。新太郎君は自らとがめるところのない生活の楽しさを解し初めていた。善い努力は善い方への傾きを強くする。その折は迷惑に思ったガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの説諭も一々肯綮こうけいに当っていると考えられた。
「感心々々! 見るに見兼ねるよ」
 とはたから励ます寛一君も後ろ暗い後押しをするよりは何んなにか気安かった。
 生れ更りの第二週が終った夕刻、
「君、天気は大丈夫のようだぜ」
 と新太郎君は事務机の上を片付けにかゝった。
「うむ」
 と応じて、ヒョッと顔を上げた寛一君は、
「君、ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーが帰った」
 と囁いた。店員が皆出迎えた。
「有難う。お蔭でもう悉皆すっかりい。あゝ、店へ帰ると生き返ったような心持がする」
 と言って、ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは奥へ通った。
 新太郎君は驚いたが、もう一つ驚くことが待っていた。鞄を下げて茶の間へお供をすると、
「新太郎や、お前はこれから私の名代で松浦さんへ一寸ちょっとお見舞いに行って来ておくれ」
 とあった。
「は?」
「手紙は着かなかったかい?」
「えゝ」
 と母親も怪訝けげんな顔をした。
「然うかい。松浦さんではお父さんがお悪いそうだ。昨日の昼頃電報が来て皆さんが引揚げた」
「それは/\何ういう御病気でございますの?」
「唯病重しという丈けの電報で能く分らないのさ。二三年前からの持病がこうじたのか、脳溢血でも起ったのかって、皆取るものも取り敢えず帰って行った」
「困りましたわね」
「新太郎や、お前は彼方あっちへ行っていなさい。後からでい。後からで宜い」
 と父親は急に気がついたように幾度もうなずいた。
 新太郎君は店へ引き返して、早速寛一君に耳打ちをした。
「君、話が進んでいる証拠だよ」
 と寛一君は道理もっともな判断を下した。
「然うかな」
「当り前なら病気見舞に行くほどの交際じゃない」
「それにしても悪い時に発病したものだ」
 と新太郎君は真剣な顔をした。
「ところで明日はうする?」
「もう行く必要はない」
「現金な奴だなあ!」
 と寛一君はおぼえず大きな声を出した。

撚りの戻る頃


 晩飯の時、新太郎君はこの食卓に親子三人揃うのは久しぶりだと思った。丁度二月半になる。もない神経衰弱を言い立てたのは五月末だった。六月一杯は転地療養と称して大っぴらに遊び暮した。それから七月一杯ズル/\ベッタリで居通して足らず、八月へ持ち越す料簡りょうけんだった。すると日頃丈夫な父親が急に不眠症を起して、突如いきなり宿へ転地して来た。もういやも応もなかった。仕舞ったと気がついたが、もうおそい。今考えて見ると、やかまし屋で通っている父親があれまで我慢をしてくれたのが不思議なくらいのものだ。自分都合じぶんつごうに目がくらんで、浅ましくも、当然不可能なことを可能のように思ったのである。
「七月末が限度だった。無理もない。それでもあの時には何うにも融通ゆうずうがつく積りだったんだから、おれも図々しい」
 と肚の中で言いながら、新太郎君は父親の顔を打目戍うちまもった。
「矢っ張り家のものは美味うまい。彼方あっちじゃ窮命きゅうめいしたよ」
 と父親は上機嫌だった。
「能く御辛抱が続きましたわ」
 と母親は二日置きに見舞いながら、口に合うものを拵えに行ったのである。
「唯二週間だけれど、帰って来ると家が珍らしいようだ」
「こんなに長くお明けになったことは初めてでございますからね」
「然うさ。物見遊山ものみゆさんの好きな方じゃないからな。病気にでも追い立てられなければ出掛けないよ」
「もう悉皆すっかりおよろしいんでございますか?」
 と新太郎君は丁度い切っかけを得ておくれながら容態を伺った。
「もう悉皆好い。この頃は寝られ過ぎて困るくらいだ」
うございましたな、お早くて」
「お前はうだい?」
「私はもう何ともありません」
「あなた、新太郎は真正ほんとうに生れかわりましたのよ、今度は褒めて戴きます」
 と母親が早速推挙した。しかしこれでは今まで仮病けびょうを使っていたことを認めた形で、むしろ有難迷惑だった。
「一家は矢っ張り斯うやって揃っていられるようでなけりゃ本当じゃない」
「然うでございますとも。私もこれで大安心を致しました」
「これからさ」
 と父親は勘定高いから、別に褒めなかったが、至極満足のようだった[#「ようだった」はママ]
 新太郎君は今まで、我儘息子に能くあるように、父親を恐れてばかりいた。理智に強い男親には頭があがらない。その分情愛にもろい女親を附け込む。男親には一も二もない。女親は場合によっておどしつける。使い分けをして甚だ宜しくない心掛けだった。ところがこの晩はいつもと違っていた。鬼瓦と呼ばれて有名な盤台面ばんだいづらが一向怖くない。父親の前へ出てこんなに平気でいられるのは初めてだった。心にたくむところがあると、兎角悪びれる。正直に勤めていれば恐れるところがない。慾がわざをする。新太郎君は早く斯う肚を極めれば何のこともなかったのにと思った。同時に秀子さんの方が有望になって来たので有難かった。現に松浦家へ見舞に行くように命じられている。ついてはもうソロ/\その話が出そうなものだと待ち構えていたが、父親は察しがない。
「明日から休むのは誰だな?」
 と店のことを訊いた。店員は七月中に手廻しをして置いて八月に入ってから二人ずつ一週間の休暇を取る。
「門倉君と三浦君です。明日の朝一寸御挨拶に上ると言っていました。先刻はお帰りになったばかりで取り込んでいましたから」
「それにも及ばないが、何処かへ出掛けるようだったかい?」
「さあ」
「出掛けるなら、逗子へ行ったら何うだろうな?」
「さあ」
「今月中宿が明いている。お前は無論もう行くまい?」
「はあ」
 と新太郎君は答えたが、もう行かないことに決心していた為め余り明瞭に言い放ったので気がした。松浦さんの連中が帰京したからのように聞えると思って、
「お父さんがお帰りになったんですから、もう必要がありません」
 と念を入れた。
「その次は誰だね?」
「新井さんと金田君です。栗林さんと寛一君は取りません」
「新井君なんか始終しょっちゅう青い顔をしているんだから、海岸へ行って色揚げをして来る必要がある。逗子へ遣ろうよ、何うせ今月一杯宿が明いているんだから」
 と西川さんは考えている。間代は既に新太郎君が払ってある。利用しなければ損だから、店員の慰労に振り向けようというのだ。
まかないも持ってやりましょうよ」
 と母親が申出た。
「無論さ。ケチなことは言わない。来年は皆丈夫の積りだからね。ハッハヽヽ」
「毎年じゃまりませんわ」
悉皆すっかり官費なら皆喜んで参りますよ。栗林さんもそれなら休暇を取るなんて言い出すかも知れません」
 と新太郎君は笑った。
 こんな話の中に食事が済んだ。父親はいつになく口軽くちがるく、母親も湯上りの顔をテカ/\させて若返っていた。新太郎君は生れ更り甲斐があった次第わけである。それはうと、今夜これから松浦さんへ見舞いに行くように仰せつかった積りだったが、その件は到頭沙汰なしに終った。親父、一番大切だいじの用事を忘れている。此方から進んで訊くのも変だし、立つのも惜しいし、煙草に火をつけて及ぶ限り手間を取った。しかし父親も母親も矢張り黙っている。仕方がないから、
「お先へ」
 と言っていさぎよく立ち上った時、
「新太郎や」
 と母親が呼び止めた。
「はあ」
 と新太郎君は発条仕掛ぜんまいじかけのように坐った。不断女親に対してうだとまことに申分ない。
「あなた」
「よし/\。新太郎や、お前に一つ話して置きたいことがある」
 と父親は膝を進めた。
「はあ」
「お前もこの頃は精が出るそうで何より結構だ」
「何う致しまして」
「お前が聢乎しっかりしてくれゝばこの通り覿面てきめんだ。わしも今度は安心して宜かろうと思うが、何うだな? 大丈夫だろうな?」
「大丈夫です。今までのことは申訳ありません」
「何あに、小言を言うんじゃない。ところで、その何だ。松浦さんの娘さんのことだが……」
「はあ」
 と新太郎君は真赤になって俯向いた。
わしはお母さんからも寛一君からも種々いろいろと話を聞いて、縁談としては申分ないと思っている。お前が貰う嫁だから、お前の気に入りさえすればいようなものの、俺等にもっと註文がある。俺は転地をしたついでに能く見て来た。結構な娘さんだ。新太郎もナカ/\目が高いとお母さんにも言ったことさ」
「…………」
「俺等には異存がない。そこで世間話の序に松浦さんに当って見た。すると松浦さんもお前に異存がない。あの若奥さんもお前を信用しているような口吻くちぶりだった。わしは何うだろうかと思ったが、二人ともナカ/\道理わけの分った人で、持ち出しえがあった。だ縁談はこれといって問題にするほどのがないそうだから、然う急ぐにも及ばない」
「いゝえ、あなた、手廻しは早いに越したことはございませんよ」
 と母親が口を出して、新太郎君の意向を代表してくれた。
「まあ、待ちなさい。いずれその中然るべき人を通して御両親へ申入れますから、宜しくお執成とりなしをとまで漕ぎつけたのが一昨日のことで、それから昨日の騒ぎさ。松浦さんは大慌てをして帰ってしまった。俺はもう少し確かなところを聞いて置きたかったが、そんなことを言っている場合じゃない。肝心のお父さんが家中うちじゅうを呼び寄せるような容態では、まあ、好い塩梅に持ち直すにしろ、万一このまゝいけなくなるようなら尚おのこと、こゝ当分は一頓挫とんざだ」
「あの病気は二三日持てば取り止めるそうですが、あとが長いそうでございますよ」
「何ういう御病気ですか?」
 と新太郎君が訊いた。
「脳溢血さ。松浦さんもうだろうと見当をつけて案じていたが、果して一番いけない奴だった」
 と父親は帰着後間もなく電話で問い合せたのである。
「そうして何んな御容態ですか?」
「未だ意識不鮮明だそうだ。余程重いらしい。ところで先刻言った見舞いのことだが、俺もたった二週間だけれど、松浦さんにはあんなに御懇意に願っていたんだから、電話をかけた丈けでそのまゝ黙ってもいられない。しかし略式ながら縁談らしいことを切り出していて見ると、何ういうものだろうな? 為にするところがあるように取られるのも辛い。種々いろいろと考えて見た。結局お前が顔を出せば当らず障らずだろうと思う。お前は松浦さんと去年からの馴染なじみだから、そのしゅうとさんを見舞いに行く分には差支えあるまい」
「はあ」
「今夜とも思ったが、取込み中だろうから、昼間の方が宜かろう。なあ、お直」
うでございますとも」
「それじゃ明日の朝行って来て貰おう」
「はあ、承知致しました」
「新太郎や、お父さんのようなブッキラ棒な人が初対面早々の松浦さんにこんな話を持ち出すのは大抵のことじゃありませんよ。皆お前が可愛いからだからね」
 と母親はこの際父親の前で有効に釘を打って置く必要を認めた。念が入ると自然にくどくなる。
「まあ/\、今夜は愚痴を言いなさんな。新太郎だって分っている。実はもう少し目鼻をつけて来る積りだったが、先方むこうのお父さんの発病で何も彼も一時沙汰止みだ。まあ、大体そんなことだと思って、店の方を一生懸命でやるさ」
 と父親の方が却って執成してくれた。新太郎君は感激して引き下ると共に、帽子をかぶって部屋から出て来た。未だ何か言い聞かせたくていて行った母親は出合い頭に、
「散歩かね?」
 と尋ねた。
「いゝえ、散髪です」
 と新太郎君は至って天真爛漫てんしんらんまんだった。明日は秀子さんの家へ顔を出すのだ。
「あなた、オホヽヽヽ」
 と母親は又茶の間へ戻った。
「何だい?」
「新太郎は早速散髪に参りましたよ」
「ハッハヽヽ、手廻しの好い奴だ」
 と父親は久しぶりで心底しんそこから笑った。
 翌朝、母親が手ずから着物を着せて、父親が口上こうじょうを教えてくれた。嫁を貰う息子を未だ子供だと思っている。新太郎君は羽織袴に昨夜散髪の帰途かえり大徳だいとくへ廻って特に吟味ぎんみして来たタスカン帽。瀟洒しょうしゃたる若旦那振りを発揮していた。
「立派だよ」
 と母親は褒めながら送り出した。店の前で円タクに納まって、
牛込弁天町うしごめべんてんちょう
 と命じた時、新太郎君の魂はもう秀子さんのところへ飛んでいた。年頃の娘を持つ病人は斯ういう見舞客のあることを覚悟しなければならない。
 松浦さんの家は想像以上に大きな構えだった。いかめしい表玄関と気の利いた内玄関が並んでいる。訪問者は身分をかえりみて二者一つをえらべという意味だろう。震災以来半バラック式に住んでいる新太郎君は少々度胆を抜かれた。しかし下町の目抜と山の手のぱなとは地価のけたが違う。新太郎君の家も、二百坪足らずだが、日本一の銀座の地主さんだ。悲観することはない。門前で自動車を乗り捨てたのは病人への遠慮、見舞い品を運転手に持たせて表玄関へ近づくと、なかから障子が明いて松浦さん自らが現れた。
「やあ」
「やあ」
 と両方が驚く。松浦さんは自動車の音に医者かと思って出迎えたのだった。病家の焦燥しょうそうもあるべきことながら、
「さあ、うぞお上り下さい」
 とねんごろに客間へしょうじた。
「如何でございますか? これはほんのお見舞いのおしるしです。両親から宜しくとございました」
 と新太郎君は頭に浮ぶまゝを自然に述べて見舞いの品を押し進めた。突然いきなり松浦さんに会ってしまったものだから、教えられた口上こうじょうを考え出す暇がなかった。
「これは何うも恐れ入ります。お蔭さまで昨夜から大分経過が好いようです」
「それは結構でございますな」
「急に意識が回復し始めて来て、主治医しゅじいもこの分なら生命に別条なかろうと申しましたので、今朝は一同※(二の字点、1-2-22)やや愁眉しゅうびを開いたところです」
「何よりでございました」
「昨夜はお電話を有難うございました。お父さんはもう悉皆すっかりお引き揚げですか?」
「えゝ。あの通り性急せっかちですから、いとなるともうっとしていられないのです。その節は種々いろいろとお世話を戴きまして、宜しくお礼を申上げてくれと言いつかって参りました」
う致しまして、私達こそ。まあ/\、早くお宜しくて結構でしたな」
「有難うございます」
「病気は一番いけませんよ。一昨日おとといから家中上を下へとひっくり返したような騒ぎです」
「お取込みでございましょう」
「いや、唯今も申す通り、容態が落ちついて一安心したところですから、何うぞ御ゆっくり」
 と松浦さんが何うやら別扱いにしてくれるようなのも新太郎君は嬉しかった。折から芳子さんがお茶を持って入って来て、それをすすめながら一礼した途端、
「あら」
 と気がついた。
「お見外みそれ申したかな」
 と松浦さんは温顔に微笑をたたえた。
「失礼申上げました。でも、海水着の時とまるで違っていらっしゃるんですもの」
 と芳子さんは赤くなった。
「海水着を着てお見舞いに上っちゃ大変ですよ」
 と新太郎君も笑った。芳子さんは直ぐに引き下ったが、間もなく秀子さんと共に今度は縁側から現れた。
「あら、まあ」
 と秀子さんは転ぶように坐って、
くおいで下さいました」
 と鄭重に挨拶をした。
「私、西川さんですって申上げても姉さんは信用なさらないんですもの」
 と芳子さんは※(二の字点、1-2-22)わざわざ注進して引っ張って来たのらしかった。新太郎君は不意を打たれてお見舞いどころでなく、唯お辞儀をするばかりだった。
 そこへ女中が顔を出して、
「若旦那さま、先生がお二人お見えになりました」
 と取次いだ。
「よし/\。それでは、西川さん、これから対診たいしんがありますから、一寸失礼致します」
「私はもうこれで……」
「いや、何うぞ御ゆっくり、御遠慮なく」
 と松浦さんは押しつけるように言って出て行った。
 秀子さん芳子さんと一緒に残された新太郎君は落ちつかない心持だった。矢張り坊ちゃん育ちの純な青年である。
「あなた方もいらっしゃるんじゃありませんか?」
 と心配そうに周囲あたりを見廻した。
「いゝえ、病室は看護婦二人と母と姉が附添っていて一杯ですの」
 と秀子さんは案外平気だった。
「しかしおよろしい方で結構ですね」
「はあ一時は随分心配しましたのよ」
うでしょうとも」
 と新太郎君も嘸々さぞさぞと察し入った。
 又女中が現れて、
「お嬢さま、大森の叔父さまと叔母さまがお見えになりました」
 と注進した。
「然う? 西川さん一寸失礼致します」
「私はもうお暇致します」
「いゝえ、構いませんのよ」
「いゝえ、お取込み中恐れ入ります」
「それじゃ、西川さん、又おいで下さる?」
「は」
「兄さんは帰ったらあなたにお出になって戴くと仰有っていましたの。何れ兄さんから申上げますから、何うぞ又今度」
「えゝ」
真正ほんとうにお早々でございましたわね」
「いゝえ、お忙しいところをお邪魔申上げました」
 と新太郎君は心ならずも急遽きゅうきょ辞し去った。
 従弟いとこの寛一君は今まで縁の下の力持ちを勤めていた関係上、時局の進展をあずかり知る権利があった。人間、順境に向うと義理を感じる丈けの余裕が出て来る。新太郎君は昼から早速寛一君を訪れて、昨夕ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナー帰着以来の一部始終を物語った。
「それじゃもう九分九厘まできまったようなものだ。僕が言わなかったことじゃなかろう?」
 と寛一君は鼻を高くした。
「いや、未だそんなに安心出来ないよ。成否五分五分さ」
「何故?」
「秀子さんは平気だったもの。あの様子から察しると、松浦さんは未だ話していないんだ。随って本人の肚が定っていない」
「それは話さなくても当然分っていれば話さないぜ。始終一緒にいるんだもの、見どころがあってわざと黙っているんだろう」
「然う善意に解釈すると、試験の点数見たいなことになるよ」
「好かれているか嫌われているかぐらいは君の本能で分りそうなものじゃないか?」
「まさか嫌われちゃいまい。しかし好かれているとは言えない。つまり本人は白紙、親父は人事不省、お母さんは何にも御存知ない。未だ話す暇がなかったんだ。養子の松浦さん一人で呑み込んでいるんだから心細い。五分五分以下かも知れない」
 と新太郎君は控え目に見積った。
「悲観ばかりしているね」
「実際だもの」
「いや、兎に角時局一開展かいてんだよ。たたかいこれよりチョッカイから正々堂々の陣にるんだ。見給え。僕の勧めたことが着々と事実になって来るじゃないか? ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは矢っ張り話せるよ」
 と寛一君はこの頃ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーを信仰している。
「いや。宮地さんが出動するまでは矢っ張り暗中摸索あんちゅうもさくさ」
「宮地さんに頼んだのかい?」
「これから頼むんだろう。それも想像さ。宮地さんは同業中の仲人屋だ。もう三十組近く拵えている。纒める方の名人だから、ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーが然るべき人と言ったのは宮地さんに相違ない」
「君、それならもうっとも心配ないよ」
「何うして?」
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーが動いた上に宮地出雲守いずものかみと来たら、君としてこれ以上の陣立じんだてが望めるかい? 残余あとは単に時間の問題だよ」
「然うあって貰いたい」
「大丈夫だ。その積りで店の仕事に念を入れるんだね」
「それはおおいにやるよ。昨今は見るに見兼ねるだろう?」
 と新太郎君は実際及ぶ限り努めているのだった。
 その晩、思いもかけず、松浦さんから新太郎君のところへ電話がかゝって来た。
「西川さんですか? 御令息ですね? 今朝は取込んでいてまことに失礼申上げました。容態は引続いて良好ですから御安心下さい。何うぞ御両親さまへ宜しくお執成とりなしを願います。今日は真正ほんとうに残念でした。いゝえ、何あに、御遠慮には及ばなかったんです。もう少し落ちついてから是非御ゆっくりお出下さい。何れ又お知らせ致します」
 とあった。新太郎君は後半が殊に気に入って、これも翌日寛一君に報告に及んだ。
「有望、有望」
 と寛一君は肩を二つ叩いてくれた。
 しかしそれから一月余り一向消息がなかった。待っている新太郎君には実に長い。
「何うしたんだろうなあ?」
 と時折思案にあます。
進捗中しんちょくちゅうだからさ。それで鳴りを静めているんだ」
 と寛一君はいつも善意に解釈している。
「しかし先方むこうのガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの容態が好いんだか悪いんだか分らない」
「好いのさ。悪けりゃもううに黒枠くろわくが来ていらあ」
「好くも悪くもないのかも知れない。それなら話は未だあのまゝだ」
「何あに、出雲守が出動しているよ」
「でも、家へ一向来ないもの」
わざと来ないのさ。宮地さんが顔を見せた日には店員は皆直ぐ縁談と思ってしまう。来ないところに意味がある」
「何処までも楽観説だね。君と話していると、つい釣り込まれて元気が出るが、一人になると又考え出す」
 と新太郎君は事実その通りだった。それで或晩のこと、松浦さんの方の件は一切わしに委せて置きなさいという父親からの申渡しにそむいて、電話をかけて見た。しかし松浦さんは生憎外出中だったので、
「それでは何誰どなたかお家の方に」
 とやった。ひょっとして秀子さんが出ないものでもないと思ったのである。ところがお母さんらしい声が聞えて、それも、
「はい。松浦は唯今屋敷に居りません。はい。私で宜しければお話を伺って置きましょう。ういう御用でございますか?」
 という切り口上だった。新太郎君はへどもどしながら、
「御主人の御容態は如何いかがでございますか?」
 と訊いた。
「極く順調でございます。はい。失礼ながら、あなた様は石川さんと仰有いましたね?」
「いゝえ、西川です」
「石川さん?」
「西川です。東西の西です。西川です」
「何処の西川さんでございますか?」
「銀座の西川です」
「銀座? 松浦の御友人でいらっしゃいますか?」
「いゝえ、はあ」
「御商売は?」
「羅紗屋です」
「あゝ、洋服屋さんですか? う申して置きますよ。はい」
 と彼方あっちから切ってしまった。新太郎君は落胆がっかりした。秀子さんのお母さんに頭をコツンと打たれたような心持だった。お父さんの病気騒ぎで松浦さんから未だ話の出ていないことが確実に分った。
「それにしても洋服屋さんですかとは失敬だ」
 と新太郎君は額の汗を拭きながら、
「宮地さんが出動しているものか。寛一め、ちゃらっぽこばかり言っていやがる」
 一等賞を当てにして走る選手は第一着の見込が影薄くなるにつれて歩調をゆるめる。新太郎君も親の安心と自分の本務を考えないではないが、美しい賞品が更に大きい動機を為していたから、一月半も驀地まっしぐらに走った今日、一向それに近づけなくては励みがない。自然仕事の調子をおろし始めた。監督役の寛一君は間もなく気がついて、
「君、昨今は少し見るに見兼ねるぞ、あべこべに」
 と注意した。
「何を言やがるんだ」
 と新太郎君は大分りが戻っていた。
「憤っちゃ困るよ。気がついたら言う約束だったじゃないか?」
「君の言うことはもう一切信用しない」
「何うしたんだい?」
 と寛一君は驚いた。
 その晩、新太郎君は父親が出て行ったのを幸い、
「お母さん」
 と鼻を鳴らしながら不機嫌な顔を茶の間に現した。
「何です?」
「あれは一体何うしたんです? お父さんは本気になってやってくれているんですか?」
「松浦さんの方かい?」
「当り前ですよ」
「そんな怖い顔をしなくてもお話が出来るでしょう?」
「何うせお父さんに貰った顔です」
「へらない口ね」
 とお母さんは笑って、
「実は私も毎日のようにお父さんにせっついているんですが、何分先方むこうのお父さんの御病気がハッキリしないものだから、宮地さんも手が出せないんですよ」
「もう宮地さんに頼んであるんですか?」
うの昔よ。お父さんが逗子へ出掛ける前から先方の身許を調べて貰っていますの。けれども、新太郎や、お前は万一この縁談が纒まらなくても自暴やけを起しちゃ困りますよ」
「お母さん、何かいけない次第わけがあるんですか?」
「未だ正式に申込んでいないんですから、何うってことも言えませんが、先方のお母さんて人はナカ/\むずかしい人らしいのよ」
「はゝあ」
「松浦さんのお家は旗本はたもとですとさ。秀子さんのお母さんは家つきの娘で、病気のお父さんは養子なんですよ。それでお母さん一人で威張り腐っているんですって。お金があるから御主人は何処へも勤めずに始終家にいて、奥さんの御機嫌取り専門らしいのよ。それがこの頃病気であべこべに介抱するんですから、お母さんの御機嫌の悪いってないんだそうよ」
「成程」
「松浦さんも養子でしょう。矢っ張り商売なしですわ。若奥さんにしても小さい時からお母さんを見ていますから、ナカ/\我儘らしいのよ。これはお父さんも逗子で見て来て、あれじゃ松浦さんが可哀そうだと言っていました。そんな家庭の娘さんなら、んなものだろうね? 秀子さんは」
「今更そんなことを仰有っても仕方がないじゃありませんか?」
 と新太郎君は泣きそうになった。
「お母さんはお見識の高い人で、町人とは一切縁組をしないと言っているそうです。時代おくれね。分らないこと生一本だという評判ですよ。それで松浦さんは話を持ち出すにしても、余程お天気の好い時を見計わないと、却って藪蛇やぶへびになると思っているらしいのよ」
「能く然う探索が届きましたね」
「そこが宮地さんですもの。あの人は探偵よ、まるで。お父さんも感心して、『これじゃ自分のことも宮地さんに訊いて見る方が早い』って笑っていましたわ。何処で何う聞き出して来るんですか、矢っ張りじゃみちへびね。日本橋の金輪さんの娘さんの縁談の時なぞも先方むこうかくしていたことを……」
 と母親は寄り道をしながら話す。
「お母さん、余所よそのことは何うでも宜いですが、家のはもう見込がないんですか?」
「それをこの間お父さんがあがって伺ったんですよ。数の中には斯ういうものも扱っていますが、こんな手硬てごわいのは珍らしいと仰有ったそうです」
「それじゃ駄目ですね?」
「いゝえ、矢張り専門ですから、むずかしいのほど意地にも手がけて見たいらしいのよ。若夫婦が賛成ですから、御当人さえ来る気なら屹度円く纒めて御覧に入れると保証して下すったそうです」
「西洋なら本人さえければいんです」
「でも日本ですもの」
「…………」
「お前は恥も外聞もなく、何うしても貰いたいの?」
「そんなことはありません」
 と新太郎君は又怖い顔をした。
「家は商家ですから、商家の見識ということもっと考えてくれなければ困りますよ」
「分っています」
「分っていれば私も安心です」
「お父さんはあれから松浦さんへ伺ったんですか?」
「何で伺うんですか?」
 と母親はいつになくりんとして反問した。
「…………」
「宮地さんに一切まかせてありますのよ。私達は先方のお母さんの態度が気に入りません。旗本が何です? 此方には此方の見識がありますよ。お父さんはその話を聞いてから電話さえかけません」
「はあ、うでしたか」
 と新太郎君は家の母からもコツンとやられたような気がした。
「正式に申込んで見て、しそのお母さんが町人の息子に娘はやれないと仰有るようなら、お父さんの気象きしょうですもの、お前が何と言って騒いでも、もう駄目ですよ」
「はあ」
「その覚悟丈けはしていて下さい。私達だって、そんなところへ七重の膝を八重に折って泣きを入れる因縁なんかっともないんですからね」
御道理ごもっともです」
「商売人として立って行くお父さんの心持を察してやって下さい」
「お母さん、私はもう諦めます」
「いゝえ、諦めるには及びませんよ。未だ申込まないんですもの」
「でもこの上御迷惑をかけたくありません」
「いゝえ、迷惑なことはありませんよ。出来ることならお前の註文通りにして上げたいと思って、お父さんもこの頃は考え込んでばかりいるんです。けれども万一の場合の覚悟さ」
「…………」
「まあ、お前は泣いているの?」
「いゝえ」
「馬鹿ねえ」
 と母親はたしなめたものゝ、矢張り涙をホロ/\とこぼした。

トン/\拍子


 新太郎君は母親の面前を辞して二階の書斎へ戻った時、
「旗本が何だ? 町人で気に入らないなら、此方から御免蒙る」
 と呟いた。流石は商人あきんどの息子だ。宮地さんから母親を通して伝わった先方のお母さんの態度が、グイッとしゃくに障ったのである。同時に先頃の電話の切り口上を再び思い出した。
「はゝあ、洋服屋さんでございますか?」
 とは人を馬鹿にしている。銀座の西川といえば何処へ行っても下へは置かれない。洋服屋の註文取と間違えられたのは初めてだ。
「諦める。いや、貰ってやらない。誰が? 畜生!」
 と大変な権幕だった。
 机の上に肘をついて、髪の毛を両手でしごいていた新太郎君は間もなく、
「しかし秀子さんは何うだろう? 当の本人の料簡は。これはもっと冷静に考えて見る必要がある」
 と思った。もう未練が出たのである。松浦家が旗本だとは初めて聞く。しかし旗本だから平民と縁組をしないなぞと言うものは今日の社会には先ずない。松浦さんにしても奥さんにしても、そんなふう※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびにも出さなかった。生活は贅沢ぜいたくだが、少しも見識張っていない。新太郎君は何かの話の切っかけに、
「あなたのところのお父さんも何処かの重役だったんでしょう?」
 と俊男君に訊いたことがある。
「いゝえ、無職ですよ」
「今は然うでしょうが、以前もとはですよ」
「以前からですよ」
「それじゃ兄さんもお父さんも始終遊んでいらっしゃるんですか?」
大屋おおやさんですよ」
 と俊男君は笑って答えた。これは興信所で調べたところに一致していた。山の手には地価の騰貴と共に所謂大屋の凸凹から向上した金持が多い。以来新太郎君も松浦家を大方そんなものだろうと思っていた。それで先頃見舞に行った時、いかめしい大玄関を意外に感じたのだった。
「秀子さんに些っとも罪はない」
 と新太郎君は気分が落ちつくと共に机の上の鏡を覗いた。それから筆立の櫛を取って、髪を分けながら考え続けた。松浦さん夫婦も此方に充分の好意を持っている。現に父親からの申込をこころよく受け入れて、時機を待っているという。問題はお母さん丈けだ。未だお目にはかゝらないが、あの電話の調子から察するに、余程ネチ/\した婆さんらしい。しかしばばあは婆、秀子さんは秀子さんだ。秀子さんが来てくれる意思があるなら、婆の反対を押えるために百方策をめぐらせても、決して不見識にはならない。頑冥がんめいなものを啓発けいはつするのは文化事業の一つだ。
「これは少々気が早かった。えてものが反対したか何うかも分っていないのに」
 と思って、新太郎君は微笑んだ。お父さんの病気で、未だえて物へは持ち出してないのだ。宮地さんの聞き込んで来たところは一般論に過ぎない。
羅紗屋らしゃやの息子には娘はくれられない」
 と言ったのではないのだから、えて物は取消す。婆も取消す。依然として先方のお母さんだ。そのお母さんの意向は未だ白紙である。此方が突然電話をかけて、羅紗屋だと言ったものだから、洋服屋さんですかと早合点をしたに外ならない。それぐらいの考え違いは誰にもある。顔の見えない電話だもの。
「未だ諦めるに及ばない。秀子さんはあの通り我儘だ。気に入らないことがあると、此方があやまるまで堪忍してくれない。自分の意地を何処までも通す。お母さんが分らないことを言ったからって、それで泣き寝入りになるような人でない。来る気さえあれば屹度来てくれる」
 と新太郎君は秀子さんの我儘と意地っ張りに多少辟易へきえきしているものゝ、この際それが頼もしかった。
 そこへ母親が上って来て、
「新太郎や。あらまあ、お前、鏡と睨めっこをしているの?」
 と見たまゝを口にだした。
「いゝえ、考えているんです」
「お前未だ諦めなくても宜いのよ。私が取越し苦労をして少し言い過ぎたんですから」
「万事成行きにまかせます」
「然うして下さい。私達も決して悪いようにはしませんから」
「分っています」
「私は又、お前があんまり静かだものだから、心配になって見に来たのよ」
「大丈夫ですよ。ハッハヽヽヽ」
 と新太郎君は景気好く笑った。
 しかし一日二日と暗い日が続いた。元来秀子さんが貰える積りでの改心だから、見込が立たなくなると、直ぐにぐらつき出す。
「困った婆だなあ」
 と寛一君も一部始終を聴いて歎息した。
「何うだね? 君の判断は」
 と新太郎君は寛一君が唯一の相談相手だ。
「兎に角、長いね、これは」
「纒まりがかい?」
「纒まるにしても、こわれるにしてもさ」
「破れそうな予感があるのかい? 心細いなあ」
「いや、宮地さんがついているから、大抵纒まるよ。しかし長いと君の辛抱が続くまいと思ってさ」
「僕はもう落胆がっかりしている」
「それが僕にも見えているんだ。いけないよ」
「でも、励みがない」
「しかし後戻りをするとガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの同情を失う」
「それは分っている」
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーが投げ出したら、もうお仕舞いだぜ」
「それも分っているよ」
「そこで君はもう一遍決心をし直す必要がある。君が店の仕事を一生懸命でやっている限り、ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは見るに見兼ねて、話を打ち切らない。君が可哀そうだと思えば、成らぬ堪忍もする。その間には宮地さんに策のめぐらしようがある。先方むこうは婆一人で頑張るんだから、然う/\続かない」
 と寛一君は忠告係として大いに努めている。
 或日新太郎君は、
「君、今夜、散歩につき合わないか?」
 と誘った。
「何処へ?」
「無条件でついて来給え」
「明日の晩にしてくれないか?」
「いや、今夜に限るんだ。君は僕が店の方さえ勉強すれば、んな無理でも聴いてくれると言ったじゃないか?」
「仕方がない。つき合おう。何処だい?」
「神楽坂の縁日さ」
「ふうむ」
「時々出掛けるって俊男君が言ったのを思い出したのさ」
「偶然行き合おうって寸法かい?」
うさ」
一寸ちょっと不良少年式だね。仕方がない。おともをする」
 と寛一君は応じた。
 二人はその晩、遙々神楽坂まで出掛けた。御苦労にも縁日の人込みに押されて彼方此方歩いたが、松浦家の人達は見かけなかった。しかし新太郎君も万一という淡い期待で来たのだから、失望はしない。
「兎に角、銀座じゃないから、斯うやって歩いていれば気休めになる」
「僕は退屈するばかりだよ。あんまり幾度も同じところを行ったり来たりすると怪まれるぜ」
「それじゃ家の方へ行って見ようか? 何うせ来た序だ」
 と新太郎君が発起ほっきした。
「近いのかい?」
「然う遠くもない。一本道だから来れば屹度会う」
「今夜は約束だから完全につき合おう」
 と寛一君も好奇心が手伝って、肴町さかなまちの方へ向った。
「将来この道を度々通る運命があるか知ら?」
「それは勉強次第だよ」
「何とか言って、働かせることばかり考えている」
「いや。昨今は僕も見兼ねるくらいだよ。ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーだって目がある。もう宮地さんが出動していらあ」
「然うならうまいんだがね」
 と新太郎君も昨今再び身を入れて申分なく勤めているのだった。
「それは然うと、大分遠いじゃないか?」
「神楽坂から直ぐのようだったが、自動車だった所為せいかな」
「厭だぜ/\」
「これから散歩さ。先刻神楽坂で下りたばかりだもの」
「斯ういうおつき合いをするのは余っ程好人物だろうね」
 と寛一君も今更仕方がない。
 新太郎君は一度来ているから、松浦家を探すのに困難がなかった。
「この辺だったがね」
 と二三軒順次に物色して行った後、
「こゝだよ」
 と門燈を指さした。
「成程、松浦家としてある。け余計だ。矢っ張り婆の見識が現れている」
「この中に秀子さんがいるんだね」
「拝み給え」
「馬鹿にするなよ」
「天の与えだ。くぐりが少し開いている」
 と寛一君は近寄って、なかを覗いた。
「見えるかい?」
「玄関が明るい」
「どれ」
 と新太郎君も忍び寄った。
「もうよせよ。人が来た」
 と寛一君が警戒した。
「行こう。停留場はこの見当らしい」
 と応じて、新太郎君は歩き出したが、矢張り名残惜しい。間もなく、
「もう一遍神楽坂を通って帰ろう」
 と言って又引き返した。
 再び松浦家の門前へ差しかゝった時、
「君、未練の残らないようにもう一遍能く拝んで行き給え」
 と寛一君がからかった。
「合点だ」
 と新太郎君は調子づいて、ツカ/\と潜りへ進み寄った。丁度その折、なかから戸が開いて、人が出て来た。
「やあ、これは/\」
 と松浦さんだった。門燈は新太郎君の顔を正面まともに照らしていた。続いて秀子さんと芳子さんが現れた。
「あらまあ!」
 と秀子さんの声が筒抜けた。
「ついそこまで……」
 と新太郎君は直ぐに行き詰って、寛一君を指さした。
「原田君も御一緒ですね。さあ、何うぞ」
 と松浦さんは※(二の字点、1-2-22)わざわざの訪問と思い込んだ。寛一君は揉み手をしながら進み出て、
「うまく見つかってしまいましたな。実は早稲田の友人のところへ行った帰りです」
 と嘘をついた。
「丁度好いです。さあ、うぞ」
「お出かけでございましょう?」
「いや、構いませんよ」
縁日えんにちですから、何うでも宜いんでございますよ」
 と秀子さんも言葉を添えた。
「いや、今晩はこれで失礼致します」
 と新太郎君は又してもチョッカイのたたりを覿面てきめんに感じて、一生懸命だった。
「何故? 西川さん」
真正ほんとうに上る気で伺ったんじゃないんですもの。そこまで来たのを幸い、原田君にお宅を紹介する積りで、丁度御門前へ差しかゝったところです」
「悪いことは出来ないものね」
「真正ですよ」
「それじゃ御無理を申上げても悪い」
 と松浦さんは潜りを閉じて、
「何うです? 神楽坂までお送り致しましょうか?」
 と到頭納得してくれた。
「お供致しましょう」
「山の手の縁日も馬鹿に出来ませんよ」
「はゝあ、縁日ですか?」
 と新太郎君は、実はその縁日を新聞で調べてやって来たのだった。
 みちすがら、松浦さんは先頃の見舞のお礼を述べて、
「実は明日あたり改めてお宅へ伺う積りでした」
 と言った。
「それでは却って恐れ入ります。もう悉皆すっかりおよろしいんですか?」
病症びょうしょうが病症ですから、以前もと通りってことは望まれませんが、お蔭さまで極く順調です。もう自分用じぶんようが足ります。間もなく屋敷内ぐらい歩けましょう」
「それは結構ですな」
「一時は心配しましたよ」
うでしょうとも。病気は一番いけません」
御大人ごたいじんはあれからもう悉皆御元気ですな。その後二度お目にかゝりました」
「はゝあ、うでしたか?」
 とこれは新太郎君には全く意外の消息だった。
「宜しく申上げて下さい。明日か明後日あさって一寸伺いたいと思っていますが」
「はあ」
「原田君は矢張り始終御一緒ですか?」
「はあ、時折御噂申上げて居ります」
 と寛一君が話し相手になった時、
「西川さん、私、銀座へ行くと、いつもお宅の前を通りますのよ」
 と秀子さんが新太郎君に寄り添った。
「嘘でしょう?」
真正ほんとうよ」
「僕が見えましたか?」
「えゝ。あなたと原田さんは机が並んでいますわ」
「おや/\、これは油断がならない」
「この間あなたは頭の禿げた方とお話をしていらっしゃいましたわ」
「あれは大番頭です。お寄り下されば宜かったのに」
「でも母と一緒でございましたのよ」
「はゝあ、然うでしたか?」
 と新太郎君は益※(二の字点、1-2-22)驚いた。
「その前、芳子さんと二人で行った時にはガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーさんが柱時計の下に坐っていらっしゃいましたわ」
「僕もいたでしょう?」
「さあ。ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーさんに睨まれてしまって、直ぐに逃げ出しましたのよ」
「あれは睨むんじゃありませんよ。あゝいう顔なんですよ」
「睨みましたわ。ねえ、芳子さん」
「えゝ。私、怖かったわ」
 と芳子さんが証拠人になった。
「私、見つかったと思って、一寸お辞儀をしましたの。するとガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーさんは怖い顔をなすってお立ちになりましたから、私、吃驚びっくりして逃げ出しましたの」
会釈えしゃくですよ、あれが。愛嬌を作ると益※(二の字点、1-2-22)怖くなるんだから始末にいけない。あれでそばで見ると、チャンと笑っているんですよ」
 と新太郎君は弁明に努めた。
「後からあなたに何とか仰有おっしゃいましたの?」
「いゝえ、一向」
「それ御覧なさい。私、余っ程悪い人間と思われているのよ」
「そんなことはありませんよ」
「いゝえ、確かに然うよ」
「困りましたな。しかし今に分ります」
「夜はお店が閉っていますのね?」
「夜もおいでになることがあるんですか?」
「えゝ。この間姉と参りましたの。二度通りましたのよ。私がわざと御用を拵えて」
「寄って下されば尚お有難いんですがな」
とても駄目よ」
「何故ですか?」
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーさんが怖いんですもの」
「厄介な顔の持主だなあ。区画整理くかくせいりの序に改造させましょうか?」
「オホヽヽヽ。実は家にも改造して貰いたいものがありますのよ」
「誰ですか?」
「母よ。頭よ。古いんですよ」
「矢っ張り怖いんでしょう?」
「御存じ?」
「いゝえ」
「厳しいんですわ」
「お母さんと御一緒にお通りになったのは何日いつですか?」
「一週間ばかり前よ」
「お母さんに僕の家をお教えになって?」
「いゝえ、母は存じませんのよ」
 と秀子さんが答えたので、新太郎君は未だ話が通じていないことを承知した。
「西川さん、あなたはお約束をして置きながら何故お遊びにおいでになりませんの?」
「お父さんの御容態がお悪いのかと思っていたものですから」
「もう悉皆すっかりいのよ。今度いらっしゃる?」
「えゝ、上ります」
「いつ?」
「その中に」
「西川さん、私、あなたのところへお電話をかけてもくて?」
「えゝ」
「でもあなた、ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーさんに叱られやしなくて?」
「大丈夫ですよ」
「それじゃ、私、兄さんと相談して日をめますわ。原田さんもつれていらっしゃいよ、ねえ」
「えゝ」
 と答えたが、新太郎君は何なら自分一人に願いたかった。
 話は神楽坂まで続いた。新太郎君は無論秀子さんばかり相手にすることは出来なかったが、ことごとく満足だった。別れて元の二人づれになった時、
「君、驚いたね」
 と寛一君が先ず口を切った。
「驚いた」
「これは案外進捗しんちょくしているぜ」
「親は矢っ張り有難い。うらんでいたのが申訳ない」
「励みがあるだろう?」
「あるとも」
「二度も会っているんだ」
「何故黙っているんだろう?」
「君が騒ぎ立てるからさ」
「未だ信用がないんだね」
うとも」
「あっさりしていやがる」
「しかし今夜のチョッカイは大成功だよ」
「ついては一つ困ることがある」
 と新太郎君は首を傾げた。
「何だい」
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーへ宜しく言ってくれと頼まれた」
「黙っていちゃいけないよ。今が大切のところだ。明日にも松浦さんが来れば分ってしまう」
「具合が悪いなあ。何処で会ったと来るにきまっている」
「僕から伯母さんに言ってやろうか?」
「マザーになら自分で言う。ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーに言ってくれ」
「御免だよ」
「仕方がない。君の悪智恵を借りて又早稲田の友人を利用しよう」
面食めんくらったぜ。しかし咄嗟とっさの嘘にしちゃ巧かったろう?」
「つき慣れている人は違う」
「君だって、『はゝあ、縁日ですか』って言ったぜ」
「嘘は一つつくとそれをまっとうするために幾つもつかなければならないと言うが、真正ほんとうだね。君のがれるといけないから、矢っ張り早稲田の友人の家へ行った帰りに偶然出会でっくわしたことにして置くぜ」
「宜いとも。別口の嘘を二つつくよりも、一つ嘘を二度つく方が罪が軽い」
 と寛一君は理窟をつけた。
 新太郎君は翌日一日松浦さんの来訪を待ち暮したが、何の音沙汰もなかった。次の日の昼頃、
「松浦家から参りました」
 と店先へ現れたものがあった。新太郎君は飛び立って取次に出たが、それは使の者が松浦家から全快祝いの鳥の子餅を持って来たのであった。
「何だ。馬鹿々々しい」
 と新太郎君は失望して机へ戻った。
「前触れだよ」
 と寛一君が囁いた。
 その晩松浦さんが羽織袴に改まってやって来た。新太郎君は最初の間、接待役を勤めていたが、挨拶が済んで世間話に花が咲き始めた頃、父親の目まぜと共に、
「新太郎や、一寸ちょっと
 と母親に呼び出されてしまって、肝心の用談は無論聴くことが出来なかった。もっとも自分でも急に立つのは気がして、進退に迷っていたところだった。松浦さんは二時間近くも話し込んで引き取った。それから父親と母親が茶の間で談合を始めた。吉か? 凶か? 新太郎君は気が気でない。書斎へ上ったり店へ下りたりして、いつもの癖で無暗に髪の毛を掴んだ。
「新太郎や」
 と、やがて、母親は梯子段の下まで来て、二階を目がけて呼んだ。
「はい」
 と直ぐ側の薄くらがりから声がしたので、
「あらまあ! 吃驚した」
「便所へ行ったんですよ」
 と新太郎君は待ち切れなくて、その辺を徘徊はいかいしていたのだった。早速茶の間へ罷り出ると父親は、
「何うしたんだい? その頭は」
 と怪んだ。
「これは一寸」
 と新太郎君は両手で撫ぜつけた。
「新太郎や、長いこと待たせたが、例の縁談が好い塩梅に進みそうだよ」
「はゝあ」
「お母さんからこの間話して置いた通り、先方むこうのお母さんという人が評判のむずかし屋だそうだから、途中でへんげるかも知れない。しかし大切だいじは充分取ってある。もうこの上念の入れようはないんだから、これで万一こわれるようなことがあったら、それまでの縁と諦める外仕方がない」
「はあ」
「松浦さんの若夫婦は今まで時機を待っていたんだよ。宮地さんも度々会って打ち合せてある。先方のお父さんは能く話の分った人で、娘さんさえ承知なら、全然異議がないらしい。宮地さんは念を入れて叔父さんまで手を廻している。皆納得しているんだから、お母さんも大抵宜かろうと見当がついたので、イヨ/\正式に申込むことになったのさ」
種々いろいろと御手数をかけました」
 と新太郎君は丁寧にお辞儀をした。
わしよりも宮地さんだよ。会ったら能くお礼を申上げなさい」
「はあ」
「宮地さんがついていますから、もう大抵大丈夫でございましょうね?」
 と母親は父親の共鳴を求めるように言った。
「いや、イヨ/\纒まるまでは五分々々と思っている方が宜いよ。取引でも縁談でも同じことだ」
「でも此年ことしになってから宮地さんが手がけて纒まらなかったのは一つもないそうでございますよ。此年は特別に当り年だと仰有っていましたわ」
「あれは些っと法螺ほらもあるよ。御苦労な男だと思っていたが、斯うなると有難い。どれ、一つ報告に行って来なけりゃならない」
 と父親は立ち上った。宮地さんは出雲町に住んでいる。仲人が道楽だ。同業者の息子息女むすめは大抵この人の肝煎きもいりで縁を結ぶ。出雲の神さまを住居の出雲町に引っかけて、宮地出雲守という綽名がついている。
 父親を送り出した時、店の電話が鳴った。新太郎君は直ぐに受話器を取り上げたら、それは秀子さんからだった。好いことはかさなる。一昨夜の挨拶があった後、
「西川さん、その時のお約束ね。今度の日曜は如何?」
とても駄目です」
 と新太郎君は慌てゝ答えた。丁度その頃に正式の申込をすることになる。
「あら、何故?」
「大変なことがあるんですよ」
「大変?」
「いゝえ、一寸ちょっと差支えるんですよ」
「お繰合わせはつかなくって?」
「えゝ、堪忍して下さい」
「それじゃその次の日曜は?」
「当分駄目です」
「あなたはあんまりね」
「でも実際具合が悪いんです」
「何故?」
「何故って、さあ、困りましたなあ」
「もう宜いわ」
「秀子さん!」
「何よ」
あがれない次第わけは今度の日曜あたりに分ります。秀子さん、うか悪しからず」
「堪忍して上げるわ。ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーさんが怖いと見えて小さなお声ね。それじゃ切ってよ」
「はあ」
「さよなら」
「さよなら」

お天下さま


 松浦家では家つきの貞子夫人が采配さいはいを振っている。御主人清次郎氏は生来の温厚人おんこうじんだ。婿養子に来てから三十年間、一度でも自説を主張したことがない。万事奥さんの御意ぎょいに委せる。結婚早々、自分の立場としてはこれが一番安全な政策と考えて、以来丹念に実行している。
 唯の夫婦でも強い細君は弱い良人りょうじんの鼻綱を取る。家庭生活も優勝劣敗を免れない。主人は外へ出て稼ぐ丈け歩が好いようなものゝ、
「主人が稼がないで誰が稼ぐのですか?」
 と開き直られゝばそれまでの話で、余他あとは全く対等の競争だ。権力は間もなく何方どっちかに落ちつく。松浦家では奥さんの貞子さんが元来適者の上にらゆる優勢条件を備えていた。貧乏士族の次男から旗本の資産家へ婿養子に納まった清次郎氏は最初から影薄い。尋常の勝負をしない中に組み伏せられてしまった。気の利かないことおびただしい。伝説だから真偽の程は保証出来ないが、その当座は奥さんをお嬢さまと呼んでいたそうだ。
みんなに笑われますよ。おさだとお呼びなさい」
 と姑女しゅうとめさえ見兼ねた。
「お嬢さま、それで宜しゅうございますか?」
「結構よ」
「それではお嬢さま……」
「あら、又」
「今のは前支度でございます」
「手間のかゝる人ね」
「お……矢っ張りいけません」
「胸がドキ/\して?」
「えゝ」
「宜いわ。そんな意気地なしなら、私、離縁にして上げるわ」
「やります/\。お貞!」
 と呼んで、清次郎氏は一生懸命に唇を押えていた。口が曲るかと思ったのである。
 それで今日こんにちでも天下晴れてお貞と呼んでいる。
「お貞や」
「何でございますか? あなた」
 と来る。貞子夫人は全権を握っていても、清次郎氏を主人として表向きに立てることを忘れない。昔卒業した学校から寄附金の勧誘なぞを受けた場合、
「斯ういうことは私の一存では計らい兼ねますから、主人に申して下さいませ」
 と言って清次郎氏へ廻す。主人公は鹿爪らしく面会するが、
「宜しゅうございます。一つ考えて置きましょう」
 と答える丈けで、決して責任は負わない。後から奥さんに相談する。
「あなた、こんなものに一々出していちゃはてしがありませんよ。キッパリお断りなさいませ」
 と貞子夫人が決定してくれる。御主人は看板に過ぎない。
 出入のものは皆これを知っているから、手っ取り早く直接じかに奥さんに当りたがる。しかし夫人はそんな良人をないがしろにした行動を許さない。
「旦那さまに訊いて下さい」
 と必ず仰有る。二重手間でまでもそれは人の手間だから構わない。何処までも御主人を御主人として立てる。例えば植木屋が仕事に来ていて、
「奥さま、あのお池の側の赤松でございますが、あれを……」
 と揉み手をしながら腰をかがめる。
「赤松が何うか致しましたの? お庭の方へ口出しをすると、私、叱られますから、旦那さまへ直接じかに申上げて下さい」
 と貞子夫人は至ってしとやかにねる。植木屋は御主人のところへ罷り出て、
「旦那、あのお池のところの赤松でございますが、あれをもう二間ばかり手前へ寄せますと、影が水に映って、お縁側からの眺望が一段と引き立ちますよ。あっしは二三年前から然う思っているんですが、旦那、如何でございましょうな?」
 と小手をかざして庭を眺める。この商売は眺めている時間と働いている時間が半々だ。
うさな」
「今なら丁度季節ですから、一つ動かして見ましょうか?」
「さあ、枯れやしまいかね?」
「大丈夫です。遠方なら兎に角。あっしが保証致します」
「確かに眺望は好くなるな。しかし何分古木だからね。まあ/\考えて見よう」
 と主人公は決して責任のある返辞をしない。早速奥さんのところへ行って、
「お貞や、植木屋があの赤松をもう少し池の方へ寄せようと言うんだが、何んなものだろうな?」
 と意向を伺う。
「然うでございますね」
「縁側から能く見えるようになるよ。水に映って風情ふぜいを添える」
「けれどもあんな大きなものを動かすと六七人手間になりますよ。それにあれは父が植えたんですから、矢っ張りあのまゝにして置きましょうよ」
「それも然うだな」
「あなた、植木屋ってものは仕事を拵えようと思って種々いろいろのことを言い出しますから、一々相手になっていちゃ駄目ですよ」
 と奥さんが考えて決定ばかりか注意までしてくれる。清次郎氏はいくら動かしたくても言葉を返す次第わけに行かない。ノコ/\と植木屋のところへ戻って来て、
「考えて見たが、あれはあのまゝにして置こう。松はうっかり手をつけると枯れるよ」
 と自分の決定のように申渡す。松浦家は地所以外に家作を沢山持っているから、職人の出入が多い。大工や左官が代り/″\に押しかける。主人公は一々考えなければならない。
 貞子夫人は自分から相談を持ち出すこともある。然ういう折は、
「あなた、あれは斯う決めましたが、如何でございましょうね?」
 という形式を用いる。単に事後承諾を求めるのだから、清次郎氏は、
「宜かろう」
 と答える外仕方がない。数年前、長女のみさおさんに婿養子を迎える場合もこの通りだった。
「あなた、操には小早川の友三郎を貰うことに決めましたが、如何でございましょうね?」
 と貞子夫人が切り出して以来、主人公は時々経過の報告を承わるに過ぎなかった。実は父親として自分にも多少考えがあったのだけれど、それを言い張れば夫人の意向をしりぞける[#「郤ける」はママ]ことになる。流石さすがの好人物も心平こころたいらかならぬを覚えた。そこで或日のこと、結納ゆいのうの相談で事後承諾を求められた時、
「宜かろう。お前さえ宜ければ宜いさ」
 と事態じたいありのまゝを相槌の打ち方に一寸響かせた。
「あなたは妙に仰有いますのね」
 と貞子夫人はナカ/\気むずかしい。
「何故?」
「でも、それでは私が始終勝手ばかり通しているように聞えるじゃありませんか?」
「それは悪かったな。然ういう意味で言ったんじゃない」
「それじゃ何ういう意味で仰有ったんでございますか?」
わしには元来異存がないから、お前さえ宜ければ宜いと言うのさ」
「友三郎は少し私の方の続き合いになっていますが、それだから貰うんじゃありませんよ。人格本位で決めたんですわ」
「無論人格本位さ。学問だって○○大学を出ているんだから申分ない」
「それに操も友三郎さんならと進んで居りますからね」
「無論本人の意向が大切だいじさ。その点ははたから何と言っても仕方がない」
「友三郎のところは今でこそあんなに微禄びろくしていますが、兎に角代々直参でございましたよ。いくら当世でも家柄ってことを考えなければなりませんわ」
「無論家柄が先決問題さ。小早川なら微禄といっても家屋敷を手放した丈けで、別に生計くらしに不自由をしているんじゃない」
 と清次郎氏は本気になって相槌を打ち直さなければならなかった。
 この友三郎さんも金持の婿養子にあり勝ちな好いばかりの人である。
「操さん、ねえ、あなた」
 の連発で家つきの娘さんに敬意を表する上に、気むずかしいお母さんの御機嫌を取る。お父さんにくらべると負担が二重だ。しかしそれは元来覚悟で来ている。実にく努める。会社や銀行へ行ってこれ丈け気骨を折ったら命が続くまい。幸いにして夫婦の情愛が収支しゅうしつぐのうようにしてくれる。この点はお父さんも同じことだ。操さんにしてもお母さんにしても我儘には相違ないが、生物いきものとしての良人は充分大切にしてくれる。それに食う方の心配がないからしのぎ好い。渾身こんしんの力を辛抱に振り向けることが出来る。実際松浦家は大旦那の諦めで持っている。すべて権力というものは唯一箇所に集中されていて動かなければ宜しい。家庭の権力も亦その如く、男にあっても女にあっても差支ない。一人が完全に握っていれば宜しい。争奪戦が起ると乱脈になる。松浦家は昔からお天下さまが一人にきまっているから常に円満だ。
 さて、若い松浦さんは新太郎君のお父さんから秀子さんを懇望こんもうされた時、
「宜しゅうございます。一つ考えて見ましょう」
 と引受けた。お父さんと同じ境遇だから、可否即答ということは決してしない。必ず操さんに相談して方針を定めて貰う。殊にこれは自分の一料簡で計らい兼ねる大問題だったから、その晩早速、
「操さん、あなたの吃驚びっくりするようなことが出来しゅったいしましたよ」
 と前置をして打明けた。
「私、何うも西川さんの御様子が変だと思っていましたのよ」
 と操さんは案外平気だった。
「矢っ張り第六感がありますね。私はうっかりしていました」
「秀子もうやらいやじゃないらしいのよ」
「私も然う見ています。しかし何んなものでしょうね?」
「西川さんなら申分ありませんわ」
「いや、お母さんの方ですよ」
 と松浦さんは操さんの上がお母さんだ。お父さんは同勤どうきんの間柄と思っている。
「然うね」
「西川さんのところは商家ですよ」
「然うね」
「商家はひどくお嫌いですからね」
「でも、もと士族なら構いませんのよ」
「しかし商家なら先ず平民と見てかゝらなければなりませんよ」
「それは然うね。あなた、これは秀子が是非行きたいなら、うっかり持ち出すと余っ程変なことになりますよ」
「私もそれを案じているんです」
「お母さまは反対するにきまっていますわ」
「一口に商家と言っても、種々いろいろあるんですがなあ」
「相応ね、あの店構えじゃ、西川さんのところは」
 と操さんは去年の暮に銀座の店の前で新太郎君に会ったことを思い出した。
「羅紗屋としては一流ですよ」
「もっと詳しいことが分ると宜いんですがね」
「学校に私の同級生が教授をしていますから、在学中の成績と品行を詳しく調べて貰いましょう」
「兎に角、私、秀子の心持を訊いて見ますわ」
「それが根本問題ですが、直ぐに仰有るでしょうかね?」
「然うね」
「はにかんでしまって、否定しますよ、屹度」
「そんなこともないでしょう」
みさおさん」
「何?」
「あなたの時は如何でした?」
「まあ! オホヽヽヽ」
「ハッハヽヽヽ」
 と友三郎さんは一寸した切っかけを御機嫌取りに利用する。
「秀子の心持次第で、あなたに先方むこうの身許を調査して戴いて、私、お父さんに相談して見ますわ」
「お父さんじゃ駄目でしょう」
「いゝえ、手順よ。お母さんへは渋谷の伯父さんから持ち出して戴くんです」
「成程」
「お母さんはお父さんにこそあんな風ですけど、伯父さんには相応遠慮がありますから、頭ごなしってことはございませんわ」
「然うですな。兎に角問題にはして貰えますな」
「皆で相談ってことになれば有望よ。お父さんも私達も賛成して、秀子の心持を訊いて見ると、これは無論進んでいます。お母さんも少しは考えて下さいますわ」
「多数決なら大森の叔父さんも引っ張り込んじゃうです?」
「いゝえ、渋谷の伯父さんが西川さんと御懇意で自分から思いついたようにして切り出すのよ。先方むこうからお話を持ち込まれたことにしても宜いわ。その辺はその時何んなにでも狂言が書けますわ」
「成程、それは巧い。矢っ張りあなたは悪智恵がある」
「まあ、ひどい人!」
「兎に角、私は早速身許調査にかゝります」
 と二人は相談の結果※(二の字点、1-2-22)ほぼ段取がきまった。西川の新太郎君は二夏に亙って秀子さんの御機嫌を取った丈けのことがあった。松浦さん夫婦にこの通り印象が好い。人格としては殆んど無鑑査という形だ。両親へ欠いた丈けの誠意をこゝの人達に尽したのである。苦心惨憺チョコレート、寛一君は遙々東京から持って来る度に、
「おい、皆唯食われちまうんじゃないかい?」
 と危んだが、決してうでなかった。尚お父さん自身の出馬が利いている。しかしその翌日大松浦さんが脳溢血を起したので、一家のものは急遽逗子を引揚げたきり、差当り縁談どころの沙汰でなかった。世の中は思うように行かない。物事は兎角食い違う。新太郎君は当分待たされる。しかしそのため……いや、それは後から分る。スラ/\と心持好くはかどって意外の失敗に達するよりも、渋滞じゅうたいの裡に確実な成功の機会が湧いて来れば、その方が新太郎君も本望だろう。
 松浦さん夫婦が起用しようとしている渋谷の伯父さんというのはお父さんの実兄で陸軍大佐だ。但し軍縮以前から首になって謡曲うたいばかり唸っている。陸軍大佐と羅紗屋の主人とは一寸腑に落ち兼ねる配合だが、今更仕方がない。松浦家は旗本にも拘らず、好い親戚に乏しい。この人が出世頭だ。もう一人大森の叔父さんというのはカラキシ信用がない。遣り手過ぎて失策しくじってばかりいる。時折松浦家へ泣きついて、唯さえ狭い清次郎氏の肩身を益※(二の字点、1-2-22)狭くする。
「兄さん、兄さんは一家の主人としてもう少し聢乎しっかりしなければいけない」
 と歯ぎしりをしてくれるが、後が宜しくない。
「兄さんが聢乎していれば、五百や千の金は右から左へわしに融通が出来る。少しちょろまかして下さい」
 と言う。大森は図太い。渋谷はそんなことがない。軍人上り丈けに謹厳そのものだ。而も蔭へ廻っては、
「清次郎、貴様は好く辛抱が続くなあ」
 と同情してくれる。
 或日この兄さんが見舞いに来ていた時、もう大分元気づいた清次郎氏が甚だ奇妙な現象を起した。三十年間貞子夫人の圧迫に甘んじて唯々事勿れ主義を取っていたこの温厚人が、
ばばあ、婆!」
 と口走ったのである。兄さんは驚いて、
「おい/\、清次郎」
 と注意した。
「何です?」
「お前は何うかしたのかい?」
「いゝや」
「でも、今変なことを言ったよ」
「何にも言いはしませんよ。うつら/\考えごとをしていたんです」
 と松浦さんはうるさそうに答えて寝返りを打った。
「然うか。わしの耳の所為せいだったかな」
「いゝえ、確かに申しましたわ。婆、婆と申しましたわ」
 と貞子夫人は聞き洩らさなかった。
「いや、はゝあ/\と笑ったんでしょう。病人に笑われるのは気味の悪いものです」
 と兄さんは取りつくろったが、未だ具合が悪いので、
「ねえ、看護婦さん」
 と加勢を求めた。
「さあ、何うでございますか知ら」
 と看護婦はかゝり合いになっては詰まらないから俯向いてしまった。もう一月余りになるので、奥さんの御気象を能く呑み込んでいる。
「いゝえ、婆々と二声申しました」
「はゝあとも聞えたようだし、婆とも聞えたようだし……」
「私のことを申したんでございますよ」
 と貞子夫人は何処までも主張する。
「まさか」
「私、口惜しゅうございますわ」
「或はこの看護婦さんのことを言ったのかも知れません」
「いゝえ、この看護婦さんは御覧の通りお若うございますわ」
「お貞や、わしは何にも言いはしないよ」
 と清次郎氏は再び否定した。いつの間にか寝返って此方を向いている。
「話をするとうるさいかい?」
「いゝや」
「しかし頭を使うと悪いから、俺はもう帰ろうか?」
「いゝや」
「兄さん、まあ宜しゅうございますわ」
 と貞子夫人が引き止めた。
「未だ頭が弱っているんですな」
「然うでございましょうかね。昨夜も何か独言を申しましたよ」
「自分では気がつかないようですね」
「さあ」
「兎に角来る度にい方へ向いていますから、張合がありますよ」
「今度おいでの時はもう坐れましょうよ」
「本当にお蔭さまです」
「何う致しまして」
「最初の様子じゃ直ったところでヨイ/\になるかと思いましたよ」
「家の中で起ったのが拾いものでございましたわ」
「外でやって御覧なさい。そのまゝです。私も恐ろしくなりました」
「兄さんは大丈夫でございますわ」
「いや、この病気ばかりは何時出るか分りません。こんなことを言っていて、帰りに往来でひっくりかえるかも知れません。区役所へ引渡されて仮埋葬なんてことになっちゃ溜まりませんから、この頃は帽子にも紙入にも名刺を入れて歩きます」
「まあ、御用心のお宜しいこと」
「これでく友人がこの頃殊に多いんです」
 と兄さんがつい又話し込んだ。すると清次郎氏は又やった。
「べら棒め。一生ばばあいじめられたんだ。この上ヨイ/\になって溜まるものか」
 と今度は一言一句まぎれがなかった。
「おい/\、清次郎」
「何です?」
「今は確かに言ったぞ」
「いゝや。うつら/\考えごとをしていたんです」
「変だね、何うも。しょうがない」
「私、もう彼方あっちへ参ります」
 と貞子夫人は決然として立ち上った。
「まあ/\、貞子さん、お待ちなさい。病人の言うことですよ」
「病人にしてもあんまりじゃございませんか?」
御道理ごもっともです」
「私は夜の目もち/\寝ずに看病しているんでございますよ。婆とは何事でしょう?」
「まあ/\、お下に」
 と兄さんは持て余した。
「何うしたものでございましょうね」
 と貞子夫人は漸く納得して坐った。同時に看護婦は気を利かして立って行った。
「こゝの病気です。頭がいけないんです」
 と兄さんは我と我が禿頭を叩いて見せた。
「私、一生懸命になっていますのに、こんなにひがむと思うと情なくなりますわ」
「病気が言わせるのですから、本気になすっちゃいけません」
「おや/\、俺が又何か言ったのかい?」
 と当の清次郎氏に至っては無責任も甚しい。
 伯父さんは帰りがけに友三郎さんを一室へ招き込んで、
「友さん、困ったものだ。お父さんは頭が以前もと通りにならないかも知れない」
 と申聞かせた。
「何か異状がございますか?」
「あの病気は人の名前を忘れたり物が直ぐに言えなかったり、種々いろいろの障害を残すものだそうだが、お父さんのはそれがもう来ているのらしい。思ったことをベラ/\と口に出して知らずにいる」
「はゝあ」
「今一寸の間にお母さんのことを二度まで婆と言って問題を惹起ひきおこしたところだよ」
「はゝあ、えらいことを仰有るんですな」
 と友三郎さんは益※(二の字点、1-2-22)驚いた。貞子夫人は丁度五十だが、白髪が一本もないのを御自慢にしている。四十そこ/\に見えなければ承知しない。女中や出入でいりのものには三十代に見える。日外いつぞや夫人を操さんの姉さんと思い違えた運転手は多大のチップに有りついた。それほどお若い大奥さんを婆と呼ぶのは叛逆はんぎゃくに等しい。
「お母さんは怒ったよ。ハッハヽヽ」
「御無理もありません。本当にお若いんですもの」
「ハッハヽヽヽ」
「しかし御病気に障ると困りますな」
「そこさ。又やるに相違ない。その度にお母さんが怒ってガミ/\言うと、病人が可哀そうだ。当分は成るべく操さんをつけて置きなさい。秀子でも芳子でも宜い」
 と伯父さんは呉れ/″\も頼んで行った。
 以来清次郎氏は独言が癖になった。考え込んでいると、頭の中のことがチョク/\口に出る。病気の加減と見えて、日によって程度がことなる。一向その気のないこともあるが、成績の悪い折からは、
「お貞や、一寸来ておくれ。婆、グズ/\しているな」
 といった風に、意識と無意識を続けさまに発表する。
「イヨ/\直る。有難い。お蔭さまだよ。此奴、腹の中ではサゾ/\恩に着せているだろうな」
 とつい自分の腹の中まで言って、ケロリとしている。
 しかし肥立ひだちは予定通りにはかどった。その次に渋谷の兄さんが訪れた時は床の上に起き直って、
「兄さん、この通りだ」
 とニコ/\していた。
「兄さん、あれから私サン/″\でございますのよ。もう悉皆すっかり婆にされてしまいました」
 と貞子夫人が早速訴えた。
わしがそんなことを言うものか」
 と清次郎氏は否定したにも拘らず、間もなく、
「黙っていると思って馬鹿にするな」
 と見本を示した。
「この通りでございますのよ」
 と貞子夫人はもう諦めて笑っていた。この日清次郎氏は殊に出来が悪かった。容態としては申分ないのに、独言を連発した。
 客間でお茶を戴きながら、兄さんは、
「貞子さん、これあるかなですよ」
 と言い出した。
「何でございますの?」
「清次郎の頭はこわれました」
「確かに異状がございますわ」
「貞子さん、あなたは三十年間清次郎を圧迫なさいました」
「まあ!」
「清次郎は思うことが言えなかったんです。恐らく三十年間の鬱憤うっぷんが頭の中に溜っているんでしょう。あの繰りごとは皆死んで行く人間の声ですよ」
「兄さん、御冗談を仰有っちゃ厭でございますよ」
死病しびょうの勢で初めて思うことが言える。わしはあれの今までが可哀そうでなりません。鳥のまさに死なんとするその鳴くやかなし。人の死なんとするその言や善し」
「兄さん、あなたは何を仰有いますの?」
「貞子さん、大切だいじにしてやって下さい」
「私だってそんな邪見じゃけんな人間じゃございませんよ。長の年月ですから、多少の我儘はありましたろうが、随分仲良く暮して来ましたわ」
「それは分っています。しかし清次郎が弱過ぎたのです」
「すると私が強過ぎたのでございますね?」
「今更仕方ありません。斯ういう因縁ごとでしたろう。清次郎はもう長いことはありませんよ」
「兄さん、よして頂戴」
「精々二三年でしょう。何うか大切にしてやって下さい」
「兄さん!」
 と制して、貞子夫人は泣き出した。悲しい涙か口惜しい涙か分らなかったが、兎に角気に入らないと直ぐに立ってしまう人がいつまでもこうべを垂れて坐っていた。
 この日、操さんは予定の行動で秀子さんの縁談のことを伯父さんに持ち出した。ちく一聞き取った上、伯父さんは、
「お前達までお母さんにそんな遠慮をしているのかい? よし/\、わしに出来ることなら何でもやってやる」
 と言って、こころよく引受けてくれた。後から友三郎さんが内証で上って相談することになった。
 操さんはナカ/\曲者だ。その晩、お母さんに、
「お母さん、渋谷の伯父さんは秀子に丁度好い縁談があると仰有っていましたよ。お父さんがもう少しお直りになってから、改めてお母さんに御相談申上げるそうでございます」
 と予備知識を注入して置いた。
 それから友三郎さんが西川さんと会見した。その結果、既に暗中飛躍を始めていた宮地さんが渋谷の伯父さんを訪れることになった。元来申分ない縁談の上に扱い人が専門家だったから、スラ/\と運んだ。友三郎さんが何食わぬ顔で西川家の店先へ現れた時は手筈が万端ととのっていたのだった。その次の日曜に伯父さんは、
「操さんからもお聞きでしたろうが、実は今日は芽出度い用件で上りました」
 と改まって、以来再三におわして置いた縁談を先ず貞子夫人に持ち出した。
「兄さん、斯ういうことは私一人の計らいじゃ参りませんわ。何うぞ主人に御相談下さいませ」
 と貞子夫人は例によって主人を立てた。尤もこの際は相手が主人の実兄だから、形式ばかりではない。殊にこの間のこともある。
「清次郎はあなたさえ宜しければ宜しいんでしょう」
「いゝえ、今回は私、一切口出しを致しません。万事主人の決定にまかせたいと存じます」
「貞子さん、それじゃ困りますよ」
「いゝえ、私も先頃御説諭ごせつゆを戴きましてから考えました」
「それじゃ清次郎初め御一同の御評議ということに願いましょう」
 と伯父さんは友三郎さんと操さんを呼んで、清次郎氏の面前で縁談の内容を発表した。
 貞子夫人は商家の平民と聞いて、無論気に入らなかった。しかし自分が善い子になりたい時は主人公に反対させる術を知っている。即ち、
「あなた、私はうでも宜しゅうございますが、先さまは商家でございますよ。それも平民でございますよ。けれどもあなたさえお宜しければ、何うぞあなたから秀子に納得させて下さいませ」
 と言って、清次郎氏を睨んだ。断ってしまえという意味だった。
「商家じゃ困るね」
 と清次郎氏はうなずいた。
「此方の家柄がございますからね」
「身分が違う。兄さん、これは折角ですが、お断り致します。旗本が何だ。詰まらないことを鼻にかける婆さ」
「あなた!」
 と貞子夫人は声を励ました。
「兄さん、平民なんか持って来ちゃ迷惑しますよ。以来お慎み下さい」
「…………」
「一体何でそんなにお高く留まっているんだ。本人同志も見知り越しだというし、この上の都合はあるまいじゃないか?」
「あなた、あなた、独言を仰有っちゃ駄目ですよ」
「友三郎さんは何ういう御意見ですか?」
 と伯父さんが訊いた。
「私はこの新太郎さんを能く存じて居りますから、むしろお父さんお母さんにお勧め致したいくらいでございます」
「非常な勉強家だという話だが、本当にうかね?」
「えゝ。それにこの頃の青年のように軽薄なところがっともありません。俊男さんなぞも随分親切にして戴きました」
「操さんは?」
「私も秀子の為に是非お願い申上げうございます。お母さん、一遍お会い下されば直ぐにお気に召しますわ」
「その方なら、私、お声だけは承わりました」
「あら」
 と悉皆すっかり計略で固めている操さんは一寸慌てたが、
「いつかお父さんのお見舞いにおいで下すった時でございましょう?」
 と気がついた。
「いゝえ、友三郎へ電話をかけて参りましたのよ。私、洋服屋の小僧さんかと存じました」
 と貞子夫人はついでをもってけなしつけた。商家や平民は眼中にない。折から、
「秀子は派手好きだから、大商人おおあきんどのおかみさんに丁度好かろう」
 と主人公の独言が筒抜けた。

士族平民


「斯ういう具合で主人公には毛頭異存がありません。むしろ町家を希望しています。話が分っていまさあ。うして/\、こゝが来ているどころじゃありません」
 と仲人屋の宮地さんは禿げ上った額を叩いて首をすくめた。西川家へ報告に罷り出たのである。事後じご即夜そくやだから、運びの思わしかったほどが察しられる。
「結構でした。何と言ってもお父さんですからな」
 と西川さんも満足のようだった。
「奥さんが睨んでいる間は反対そうなことを申しますが、何ぼ奥さんだって目が草臥くたびれまさあ。すると主人公、『商家が好い。旗本が何だ』と直ぐに本音を吹きます。そこへ若夫婦が手を合せないばかりに悃願こんがんしますから、もと/\御主人の考えに委せると言い切った手前、奥さんも今更仕方がありません。兎に角、娘さんの意向を訊いて見るということになりました」
真正ほんとうにお蔭さまでございます」
 と新太郎君の母親は句切くぎり/\でお辞儀をしている。
「ところで先刻のお話です。無論思わせ振りですが、お嬢さん、ナカ/\気が勝っていらっしゃいますな?」
「然うらしいんでございますよ」
「新太郎さんはうっかりしていると悉皆すっかり敷かれてしまいますぜ」
 と宮地さんが笑った時、縁側でコトリと音がした。それは新太郎君だった。
「早手廻しに今からそれを案じて居りますのよ。オホヽヽ」
 と母親は聞えよがしに言った。
「これ丈け話の進むまでに一言も自分の耳へ入れなかったというのが苦情らしいのです。確かに手ぬかりでしたよ。若夫婦はむずかしいお母さんの方にばかり屈託して、本人をそっちのけにしていたんですからな」
「新太郎はあんなブッキラ棒ですから、気に入らないと申すのではございませんでしょうかね?」
「まさか。それじゃ綺麗さっぱりで、はたから力の入れようもありません」
「いゝえ、新太郎はナカ/\頓狂ものでございますからね」
「何あに、お嬢さんは唯考えさせて貰いたいと仰有るんです。右から左では勿体がつきません」
「二三日と仰有いましたね?」
「奥さん、大丈夫ですよ。餌は確かに気に入っていますが、思わせ振りです。魚はみんなうしたものです」
「しかし魚じゃありませんぜ」
 と西川さんも多少不安があった。
「いや、私は年来手がけています。娘さんが考えさせてくれと言うのなら、もうめたものです」
「然うでしょうかな?」
「私が保証致します。奥さん、あなたにしてもお覚えがございましょう?」
「まあ。オホヽヽヽヽ」
 と母親は昔を思い出した。これは相手が名にし負う西川の鬼瓦おにがわらだったから、余程考えたに相違ない。
「私達は仲人の家で見合をしましたよ。これでも昔は若かったんですな」
 と西川さんにも感慨があった。
「早いものですよ。お互に、嫁を貰う。孫が出来る。これから又早いです」
「その嫁ですが、何うでしょうか?」
「安心してお待ち下さい」
「然う致しましょう。この上とも宜しくお願い申上げます」
「細工は流々りゅうりゅうの積りです。恐らくこゝ数日中に渋谷が手を引いて私が直接先方へ乗り込むことになりましょう」
 と宮地さんは尚段取を話した。万般渋谷の伯父さんや友三郎さんと打ち合わせてある。
 同じその晩、松浦家では大奥さんが頗る不機嫌だった。お天下さまが初めて反逆に会ったのだから無理もない。先ず手を叩いて女中を呼んだ。
「はい」
「早くよ」
「はい/\、此方でございましたか?」
「何処にいるものかね。病室でなければ此方にきまっていますよ」
「はあ」
 と女中は真四角に坐った。うっかりすると雷さまの落ちることを知っている。
「操を呼んで下さい。直ぐ来るように言って下さい。友三郎さんもよ」
 と奥さんは頭痛膏ずつうこうを張った※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみをピク/\動かした。
「お母さま、御用でございますか?」
 と操さんが現れた。
「友三郎さんは?」
「はあ」
 と友三郎さんが続いて入った。
「お前達は何うしたものですね? 秀子は行きたいとも何とも思っていないんですよ」
「…………」
「それだのに寄ってたかって渋谷の伯父さんまで引っ張って来てお膳立てをしてさ」
 と大奥さんは果してそのことだった。
「お母さん、あれは秀子が我儘であんなことを申しますのよ。心持はもうチャンときまっているんですわ」
「それが私、うもに落ちませんの」
「何故でございますか?」
「お前達が側についていながら、そんなに心持のきまってしまうほど交際をさせるということがありますか?」
「でも、お母さん、東京と違って海水浴場でございますよ」
「海水浴場にしてもさ。お前と友三郎さんは何の為の監督ですか?」
「でも、同じ宿にいるんですもの、悪い方でない限りは……」
 と操さんが行き詰まった時、
「お母さん、決してそんな次第わけじゃございません。ほんの通り一片の交際で何ういう方か未だ存じませんから考えさせてと秀子さんは仰有っています」
 と友三郎さんが助太刀に出た。
「秀子の心持よりも私の心持よりも病人の心持と渋谷の伯父さんの心持がお前達は大切と見えますのね」
「そんな風に仰有られると、私達、何とも申訳ありません」
「でも然うとしか思えませんよ」
「お母さん、この問題は兎に角秀子が仕合せになれば宜いのじゃございませんか?」
 と操さんは手っ取り早いところから説きつけようと思って、家門より個人という意味をほのめかした。
「生意気な口をおきでないよ」
 と母親はそんな思想を認めてくれない。
「…………」
「私は何うしても気が済みません。秀子を素町人すちょうにんへ片付けては先祖代々へ申訳が立ちません」
「お母さん、そんなら然うとハッキリ仰有って下されば宜かったじゃございませんか? お母さんの思召次第で何うにもなりましたものを」
「操や、お前は何処までも伯父さんや友三郎さんとグルになって私を抑える積り?」
「お母さん、飛んでもないことを仰有います」
 と友三郎さんが狼狽した。
「お母さん、誤解をなすっちゃ困ります」
 と操さんは取り縋るように膝を進めた。
「あゝ、情けない/\。愚図な主人に連れ添っていると、現在の娘や他所よそから来た婿にまで馬鹿にされます」
「お母さん、それほどお気に召さない御縁談なら、私、これから渋谷へ行って断って参ります。御心配をかけて申訳ございません」
 と友三郎さんはあやまってしまった。
「そんな面当てをして下さるには及びませんよ」
「…………」
「この上私を困らせる積りですか?」
 と、お天下さまはお旋毛つむじを曲げると手がつけられない。主人公も友三郎君も年に両三度必ずこんな目に会う。遊んで食って行く税金だろう。
「お母さん、実は先頃伯父さんからお話のあった時、充分申上げて置くとかったんですが、お父さんの御病気でつい差控えていました。それで私達ばかり承知しているようで、変に思召すのも御無理はございません。そもそもの[#「苟もの」はママ]始まりは七月、いや、八月、いや、矢張り七月末でした。西川君のお父さんが転地療養ながら逗子へおいでになって……」
 と友三郎さんは一生懸命になって説き起した。操さんもはたから加勢する。既に昼間荒ごなしがしてあったから、一々能く耳に入ったらしく、
「お前達が進んでいるほどあって申分ないようね。平民ってことの外は」
 と母親は大体合点が行って、最初の権幕にも似ず、相手が士族でないのを遺憾とするようだった。商家が必ずしも気に入らないのではない。平民だからいけないのである。
「お母さん」
 とこの時操さんがニコ/\した。
「何ですか?」
「武家というものは今日もうございませんから、お母さんの理想から申しますと、秀子や芳子は軍人へお嫁にやるより外ありませんわね」
「いゝえ、然うは参りませんよ。軍人にも平民がありますから」
「まあ、然うでございましたわね」
「平民は何でもいけません」
 と母親はこの点金城鉄壁きんじょうてっぺきだ。
「けれどもお母さん、紙屑買をしている士族と高等官をしている平民があると致しましたら、何方へ秀子をお上げになりますか?」
「さあ。何方へも上げられませんわ」
「けれども世間にこの二人しかないと仮定した場合です」
「さあ。その時は……」
「さあ。何方でございますの?」
 と操さんがおぼえず勝ち誇ったものだから、母親はそれと気がついて、
「お前はお母さんを何と思っているの? 口頭試問にかけてり込める積り!」
 と又少し不機嫌になった。それ丈け行き詰まったのである。
 間もなく友三郎さんは操さんの目くばせに応じて、
「操さん、考えて見ると私も平民でございますよ」
 と急に思いついたように言い出した。
「あらまあ、いやな人!」
 と操さんが受けた。二人は母親の前でお芝居をすることが度々ある。
「いゝえ、少くとも平民になっている身の上ですよ」
「何故?」
「一番上の兄は本家ですから士族ですが、次の兄は平民です。私もし何でしたら分家になるところでした」
「何でしたらって何?」
「何でもいですよ」
かないことよ、何?」
「宜いんですよ」
「宜かないことよ」
「あらまあ、喧嘩を始めて。馬鹿な人達ね」
 と母親は釣り込まれた。
「でも、平民になりたかったと仰有らないばかりですもの」
「然うじゃありませんよ」
「然うでございますよ」
「もう宜いわ、友三郎さんも分家をなされば今頃は否応なしに平民よ。失礼ながら掃溜はきだめへ落ちていらっしゃるのよ」
「お母さん、如何に三男でも掃溜は厳し過ぎますよ」
 と友三郎さんは大袈裟おおげさな表情をした。
「いゝえ、掃溜よ。士族でも華族かぞくでも分家をすれば平民に降るんですから、平民はつまりすたれものゝ落ちどころでございましょう?」
「おや/\、益※(二の字点、1-2-22)旗色はたいろが悪いですな」
気味きびよ」
 と操さんが笑う。
「未だあってよ」
 と母親は操さんを相手にする。
「何がでございます?」
掃溜はきだめの証拠よ。華族が不始末を仕出来すと何うなって?」
「私?」
「えゝ、口頭試問にして上げるわ」
「さあ」
「先ず爵位しゃくいを召し上げられます」
 と友三郎さんが代って答えた。
うでしょう? そうして平民にくだります。実際人間の掃溜扱いでございますよ、平民って階級は」
「困りましたな」
りに択って掃溜へお嫁にやることもありますまい」
 と母親は一足先に問題へ戻った。若夫婦は顔を見合せた。別に目的があって平民論を持ち出したのだが、打ち合せが足りない為、相手の主張を手伝ったような形になってしまった。
 折から女中が現れて、
「奥様、旦那さまがお呼びでございます」
 と注進ちゅうしんしたので、母親は直ぐに立って行った。
「駄目ね」
 と操さんが囁いた。
「お母さんのは信仰ですよ。とても理窟じゃ動きません」
 と友三郎さんも落胆した。
 操さんとしては母親の片意地は覚悟の前で、種々いろいろと対策を考えていたが、秀子さんの我儘は全く思いの外だった。
「秀子さん、決心がついて?」
 と促した時、
「姉さん、私、西川さんと半年か一年交際させて戴きとうございますわ」
 という返辞だった。
「そんなことはお母さんがお取り上げになりませんよ」
「でもあまり急なんですもの」
「それは私達、西川さんならお互にもう気心が知れていると思って、安心していたからよ」
「それがひどいわ」
「あらまあ、それじゃあなた行きたくなくて?」
「姉さん、私、それが気に入りませんのよ。西川さんなら行きたかろうと初めからめていらっしゃるのが気に入りませんのよ、私」
「秀子さん、あなたそれじゃ少し我儘が過ぎやしませんか?」
「でも、私、自分の考えがありますわ」
「兄さんにしても私にしても、これでもあなたの為と思って、随分人知れず心配していますのよ」
「それは分っていますわ。けれども私だって赤ん坊じゃありませんからね」
「それだから考えて戴きますの。私達、決して勧めるんじゃありませんわ」
 と操さんも忌々いまいましいが、おこってしまえば折角の苦心が水の泡になる。何処までも下から出てなだすかす外仕方がない。お天下さまにお代官さまだ。何方どちらを向いても相手が悪い。
 新太郎君の心持はうに通じていた。この辺、この頃の青年男女は思い違いがない。しかし秀子さんは気がついて見るとそれは悉皆すっかり姉や姉婿に覚られていたので甚だ面靦おもはゆい。胸の中では行くことに定めていても、勝気な性分として二つ返辞が出兼ねる。尚新太郎君に出し抜かれたような気がしてならない。
「姉さん、私、このお話の始まる日取を四日前から知っていましたのよ」
「まあ! 何うして?」
「西川さんが電話で仰有いましたの。この次の日曜に大変なことがありますって」
「まさか」
「いゝえ、真正ほんとうよ」
 と秀子さんはその折の経緯いきさつを打ち明けた。
「それじゃお断りの言訳によんどころなく仰有ったんですわ」
「いゝえ、序に私を馬鹿にしたのよ、申込まれるのも知らないでって」
「それはあなたの考え過ぎよ」
「私、あやまらしてやるわ。あやまるまで返辞をして上げなければ宜いわ」
きまってしまえば兎に角、縁談中からあやまらせるお嫁さんはありませんよ」
 と操さんは家つき娘らしいことを言ってたしなめた。
 母親がお高く止まっている上に当の娘さんが斯う見括みくびってかゝっているから、話がナカ/\はかどらない。新太郎君は洩れ聞いた数日という期限を、最初は二三日、次に四五日に解して待ち暮らした。
「出雲守、っとも来ない」
 と帳簿を扱いながら外ばかり見ている。
「戦今やたけなわさ。イヨ/\チョッカイから正々堂々の陣に入った」
 と寛一君は他事ひとごとだから冷静を失わない。成功すれば纒まり失敗すればこわれると信じて、無論前者を望んでいる。それは然うと、宮地さんの出入する家庭は縁談進行中と認められる。随って昨今は遠慮して夜分見える。白昼公然顔を出すようなら先ず確定と相場が定っている。さて五日目にその宮地さんが昼頃店へ現れて直ぐに奥へ通ったのである。間もなく女中が新太郎君を迎いに来た。
「何うやらお芽出たらしいですな」
「結構ですよ」
 と店員達が囁き合った。人間は何よりも結婚に興味を持っている。お嫁さんだといえば手の物を置いて見物に駈け出す。それを纒めて歩くのだから、宮地さんは人気がある。
 新太郎君は両親の満足そうな顔付で吉報と解した。
「御苦労様でした。草鞋わらじ千足です。何ともお礼の申上げようがありません」
 と父親が改まっていた。
「やあ、新太郎さん、お待たせ申しました」
 と宮地さんが会釈えしゃくした。新太郎君は一礼して母親の側に坐った。
「斯うなると代々の土百姓は能がありませんな」
 と父親が何か述懐じゅっかいした。
「奥さんのお手柄です」
「お母さん、何ですか?」
 と新太郎君は合点が行かなかった。
「矢っ張り士族平民がやかましいんだそうですが、考えて見ると此方は私のお母さんのお父さんが御家人ごけにんだったから、満更素町人すちょうにんでもないということになったのさ」
 と母親が説明した。
「妙なものが――と申しては失礼ですが、思いもかけないものが役に立ちますな」
「私さえ考えたこともないのに能く覚えていて下さいましたのね」
「ヒョッと思い出しましたよ。もっとも友三郎さんに責められたのです。何とかしてお母さんの顔を立てゝ貰いたいと一生懸命ですよ。先方むこうでも」
「お蔭様でございます」
後継あとが今もおありですか? お母さんのお里の」
「はあ、本所でお風呂屋をしていますが、引き合いに出すのも却って変なものじゃございますまいか?」
「いや、唯確めてさえ置けば私も安心して口が利けます。禄高ろくだかは何石でしたか?」
「さあ、存じませんね。御家人ですから。ピイ/\でございましたろうよ。母の話によりますと、青山の百人町でからかさを張っていたそうでございます」
「それも申しますまい。尤も御家人は皆傘屋が内職でしたよ」
 と宮地さんは納得したようだった。
「然うのようでございますね。芝居なんぞでショボ/\した御家人が傘を張っているところを見ますと、会ったことはありませんが、母方ははかた祖父じじいを思い出します」
 と母親も心細いことを言う。
「詰まらない先祖が役に立つんですな」
 と新太郎君は笑った。
わざわいも三年さ」
「それじゃ昼からイヨ/\正式に乗り込みますかな」
 と宮地さんは立ち支度をした。
「何うです? 前祝いに一杯」
 と父親が引き止めようとした。
「いや、後からに願いましょう」
「それじゃ晩にお待ち申上げます」
「細工は流々」
「何だい? 未だ流々か?」
 と新太郎君は又待ちもどかしくなった。実はもう成功して来たと思っていたのだった。

ベスービアスの噴火口


 宮地さんが入って来た時目を見張って迎えた店員達は、主人夫婦と新太郎君が宮地さんを送り出した時、一斉に立ち上ってお辞儀をした。新太郎君はそのまま机に坐って事務を執り始めた。
「おい。君」
 と間もなく寛一君が隣りからささやいた。
「何だい?」
たたかいイヨ/\正々堂々の陣に入ったね?」
「同じことばかり言うなよ」
「しかし何うだい? 形勢は」
「イヨ/\出馬だ」
「素敵々々」
「後から話す」
 と新太郎君は父親の方をチラリと見た。
「おい。話せよ」
 と寛一君はそれから幾度も誘いかけた。
「今夜定る」
 と新太郎君はそれ丈けを答えた。
 夕刻、ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーが引っ込んで店員達が帰り支度を始めた時、寛一君はもう遠慮がなかった。新太郎君の方へ椅子をり寄せて、
「おい。真正ほんとうに今夜かい?」
 と訊いた。
「うむ。もうきまっているかも知れない」
「お芽出度う」
「いや、何方に定るか未だ分らないんだよ」
「おや/\」
「実に頑冥不霊がんめいふれいな婆だね。何なら、『勝手にしやがれ』と啖呵たんかを切るところだが、然うしてしまえばかたなしさ」
「何を言っているんだい」
「これは矢っ張り駄目かも知れないよ」
「宮地さんの見込は何うだね? 乗込むからには充分成算があるんだろう?」
「例の士族平民で行き悩んでいるんだそうだ。これぐらい侮辱ぶじょくされゝば僕も諦めるのが本式だろうね?」
「然うだろうな。多少見識のある人間なら」
「こん畜生!」
「冗談は兎に角、何うなったんだよ?」
「その士族平民の件で宮地さんが又一思案してくれたのさ。あの人は智恵があるよ。そうして消息通だ。探偵だね。ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは自分のこともあの人に訊く方が早いと言っていたが、実際真正だよ。君、君はお互の先祖に御家人のあったことを知っているかい?」
「さあ。桃の湯かい?」
「然うさ。感心に知っているね。彼処あすこを起用しようってのさ」
「駄目だよ、湯屋の親爺なんか」
「いや、先祖を利用するのさ」
 と新太郎君は宮地さんから聞いた一部始終を話した。
「成程。考えたね」
「何うだろう?」
「さあ。本所へ調べに行くと困るぜ。彼処は借金だらけだって評判だよ」
「名を出すんじゃない。唯、母方に御家人があったと言う丈けさ」
「御家人ってさむらいだろうね?」
 と現代青年の寛一君はこの辺明確な観念を持っていない。
「士だろうさ。そら、鈴木主水すずきもんどさ」
「鈴木主水? 妙なものを引っ張って来たね」
「君は知らないかい? そら、『鈴木主水という士は』って」
「……春は花咲く青山辺のか? 成程、あれは士と断ってあるが、御家人だったかい?」
「その青山から聯想したんだよ。からかさを張っていたか何うか知らないが、貧乏だったことは分っている」
「心細いな。先様さきさまは旗本だぜ。あの玄関構えじゃ水野十郎左衛門ぐらいの格式だろう。そこへ持って行って御家人だの足軽だのって、かえって藪蛇になりはしないかい?」
「足軽だって士だろう? 寺岡平右衛門を見給え。兎に角さむらいならいんだ」
 と新太郎君も昔のことはアヤフヤで、芝居の人物を唯一の典拠てんきょにしている。
 寛一君は尚お少時しばらく話し込んでから、
「それじゃ勝負は先ず五分々々だね。明日の朝が楽みだ」
 と言って立ち上った。
「君が又その椅子に坐るまでには定っているよ」
「それは然うさ」
「僕も何方かになっているよ」
「え?」
「事によるとこれがお別れかも知れないよ」
「おい、君、変なことは言いっこなしにしようじゃないか?」
だましっこもなしにしたいものだね」
「え?」
「さよなら。お達者で」
「君、君、何が気にさわったんだい?」
「君は誠意がない」
「何故?」
「僕は今まで君に釣られて働いて来たんだ。貰ってやると言うから、真正に貰って貰えると思っていたんだ。九分九厘大丈夫だと云うから、その積りで八九十と二月半、一日も休まなかったんだ」
「殆んど大丈夫じゃないか? 秀子さんの心持も定っているし、松浦さん夫婦も賛成、お父さんも伯父さんもついている」
「しかし君は今五分々々の勝負だって言ったぜ。明日の朝が楽みだと言ったぜ。相撲の取組じゃあるまいし、あんまりひどい」
「それは君、言葉のあやだよ」
「いや、まるで他人事ひとごとのように考えているからさ。相撲だって贔屓ひいきなら、もっと心配する。君は僕のことなんか何うなっても宜いんだろう?」
「宜けりゃ斯うやってグズ/\していやしないよ。何なら今夜出直して様子を見に来ようと思っているんだ」
真正ほんとうかい?」
「嘘を言うものか」
「それじゃ散歩ながら来てくれないか?」
よう」
「僕は万一の場合覚悟を定めている。ついては後々のことを君に頼んで置きたいんだ」
「変なことを口走ると僕はマザーに言いつけるよ」
「兎に角八時頃に来てくれ給え。我儘の仕納しおさめだろう」
「君!」
「僕は又何が何だか分らなくなってしまった」
 と新太郎君は秀子さんの問題になると恥も外聞も思慮も分別もない。
 夕食の卓上、父親は、
「宮地君は手間を取るようだな」
 と言って考え込んだ。早ければ寄りそうな口吻くちぶりだったので多少支度もしてあった。
「然うでございますわね」
 と応じた丈けで、母親は間もなく他の話題を持ち出したが、それも二言三言で途絶えてしまった。新太郎君は無論落ちつかない。早々掻っ込んで立とうとした。
「新太郎や」
 とその時父親も最早もう済んでいた。
「はあ」
「この間からお前に話そうと思っていたことがある。まあ、ゆっくりしなさい」
「はあ」
「お前はわしと一緒に欧米視察をするようなことになるかも知れないよ」
「はあ?」
 と新太郎君は意外のおもむきを声音に現した。
「斯ういうと愚痴になるが、俺は先頃からお前の縁談ではクサ/\している。今時士族の平民のって、実に人を馬鹿にした話だと思うけれども、俺がおこってしまったんじゃ底も蓋も無い。これでも辛抱しているんだよ」
「何とも申訳ありません」
「今夜宮地さんが尻尾を巻いて帰って来るようなら、俺はもう手を引く。この上頭を下げちゃいられない。もうする丈けのことは悉皆すっかりしているんだから、お前は不足に思っちゃ困るよ」
「何う致しまして」
「貰いたい人が貰えなくなったら悲しかろう。しかし気を大きく持って貰いたいね。世間は広い。嫁の候補者は幾らもある」
「はあ」
「新太郎や、未だ破談はだんになったという次第わけじゃありませんよ。宮地さんのお話じゃ大抵纒まりそうですが、万一の場合ですわ。万一の場合に慌てちゃ困りますよ」
 と母親が註解を加えた。
「分っています」
「ところで洋行の話だが、実は俺は組合から欧米視察を頼まれている。何うせ一度は行って来たいと思っているし、別に目論もくろんでいることもあるから、丁度好い幸いに承知したのさ。副頭取の河内屋さんと岡本さんが一緒に出掛ける。俺一人だと唖の旅行でとても覚束ないが、立派な通訳が二人までついているから心丈夫だ」
「私もお供をさせて戴きましょう」
「実を言うと、俺はお前に留守居をして貰いたいんだが、万一縁談が纒まらないようなら、何うも心配で置いて行けない。お前はグれるにきまっている」
「大丈夫です。そんなことはない積りです」
「いや気散きさんじに世界を見て来るさ。しかし纒まったら留守居をしなさい。実は寛一をとも思って見たが、お前達は未だ/\早い。もう二三年やらないと、折角の視察が大して参考にならない」
「しかしお父さんはお一人で宜いでしょうか? この夏のようなこともありますからな」
「何あに、俺は大丈夫だ。病気を案じていちゃ果しがない。出るものなら家に斯うして坐っていても出る」
「それは然うですな。兎に角、私はお父さんやお母さんのお差図通りに致しましょう」
 と新太郎君は殊勝しゅしょうらしいところを見せた。所謂いわゆる※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーの前を繕うのが癖だけれど、此宵こよいは必ずしも猫でない。こんなにまで考えてくれるかと思うと、身にみて涙ぐんで来た。
「新太郎や、お前……」
 と母親はそれを誤解して鼻を詰まらせた。
「何ですか?」
「……駄目だったら真正に男らしく諦めておくれよ」
「もう諦めています」
 と新太郎君は俯向いて一雫ひとしずく落した。
「ねえ、あなた」
 と母親はき込んだ。
「何だ?」
「万一いけないようだったら、私、直接じかに大奥さんに会わせて戴きますわ。大奥さんだって、まさか鬼でも蛇でもございますまい」
「馬鹿! いくら言い聞かしても分らない!」
 と父親は声を励した。
「いゝえ、あなたは理窟ばっかりで、情愛ってものがっともございませんよ」
「それじゃ何うすれば宜いんだ」
「この間から申上げているじゃございませんか?」
い恥さらしだよ」
「お父さん、お母さんも御安心下さい。私だってそんな馬鹿じゃありません」
 と新太郎君は立派に言い切った。
たった一人の息子でこんなにごうを煮やすかと思うと俺もツク/″\厭になる」
「申訳ありません」
「一体ならお前は士族平民の話が出た時に考えてくれる筈だ。商売をしていたって、理窟のないところへ下げる頭はない。旗本が何だ? 平民には平民の見識がある」
 と父親はっとこらえている丈けにもすると腹が立つ。
「…………」
「お直もお直だ。此奴がこんな我儘ものになったのは皆お前が甘やかすからだ」
「然うでございましょうとも。家で悪いことと申したら、皆私の所為せいでございますよ」
 と母親も負けていない。
「然ういう不貞腐ふてくされだもの」
「でも悪いと仰有おっしゃるのに好いと申せば御機嫌がお悪いじゃございませんか?」
「情愛々々って言っても、お前のは猫可愛がりだから何にもならない」
「男親の前へ出ると思うことが碌々言えない子ですから、女親が相談に乗ってやらなければいじけるばかりですわ」
「何あに、ずるいんだ。お前が言いなりになるからだ」
「いゝえ、あなたがきびし過ぎるからですわ。箸の上げ下しに小言を仰有るからですわ」
「この頃は言わない積りだがな」
「仰有らなくても怖い顔をしていらっしゃいますよ」
「顔は生れつきだ。馬鹿!」
 と父親も面相の批評までされると益※(二の字点、1-2-22)敦圉いきまかざるを得ない。
「私は失礼致します」
 と一礼して、新太郎君は二階の書斎へ上ってしまった。
 一時間ばかりの後、来客らしい気配が下から聞えた。寝そべっていた新太郎君は宮地さんかと思って頭をもたげたが、
「新太郎君」
 と寛一君が階段の下から呼んだ。
「上り給え」
 と新太郎君は起き直った。
「何うだい? 未だらしいね」
 と寛一君は上って来た。
「うん」
おそいね?」
「晩い」
「悲観しているのかい?」
「悲観している」
 と新太郎君は一々鸚鵡おうむ返しだった。寛一君も持て余す。
「僕は有望だと思うよ」
「何故?」
「家へ帰ってマザーに訊いて見たら、御家人は小禄しょうろくながら直参じきさんだそうだ」
「僕はもう諦めている」
「何うして?」
「宮地さんは当てにならない。もう最後の手段あるばかりだ」
「最後の手段というと?」
 と寛一君は不安そうな顔をした。
「マザーに直接先方のマザーへ泣きつかせるんだ」
「成程」
「先方だって子を持つ親の情愛は分っているから、これなら或は動くだろうと思う」
「然うだね」
「それでも駄目だったら、僕は洋行してベスービアスの噴火口へ身を投げてしまう」
 と新太郎君はもう自暴やけだった。
 折から、
「さあ、何うぞ此方へ」
 と客をしょうじる父親の声が手に取るように聞えた。
「来た」
 と寛一君は耳を澄ました。しかし直ぐに奥へ通ってしまったと見えて、後は待っていても音沙汰がない。
「宮地さんだよ」
 と新太郎君は真剣な顔をした。
「吉報であって貰いたいな」
「ひっそりしているから心細いよ」
「あゝ、気がめる」
「駄目ならベスービアスだ」
「馬鹿ばかり言うなよ」
「耳がガン/\鳴る」
「僕、一寸ちょっと見て来てやる」
 と寛一君が立ち上った時、
「新太郎や」
 と間もなく階段の下から母親が※(二の字点、1-2-22)ややけたたましく呼んだ。
「はい」
「寛一もよ」
め/\!」
 と新太郎君は寛一君に目配めくばせして階段を駈下りた。
「新太郎や、お喜び、好い塩梅だったよ」
 と母親は嬉しさ余って涙が先立つ。
 矢張り餅は餅屋だ。仲人屋の宮地さんは美事使命を果して来たのだった。
「僕も彼方へ参りましょう」
 と新太郎君は奥へ進もうとした。
「いけませんよ」
「何故ですか?」
「斯ういう時には鷹揚おうように構えているものよ。出ない方が宜いわ」
「しかしお礼を言いたいんです」
「それは私達から申上げます。お前は何処を風が吹くかというような顔をしていなさい。嬉しがってピョコ/\すると、宮地さんは方々へ触れて歩きますよ。寛一や」
「はあ」
「お蔭さまだよ」
う致しまして」
「宮地さんがお帰りになるまで二階で新太郎の相手をしていておくれ」
 と母親は命じて奥へ急いだ。
 二階へ戻るや否や、新太郎君は座蒲団を床の間の前へ押し進めて、
「さあ、何うぞ」
 と寛一君をしょうじた。
「何ういう意味だい? これは」
上座かみざさ。恩人だもの」
「現金だね」
 と笑ったものゝ、寛一君も悪い心持はしない。
「しかし宜かった。僕も安心したよ。お芽出度う」
 と改めて祝意を表した。
「有難う。長いこと御苦労をかけた。この通り手をついてあやまる」
「もうよせよ」
「ところで今度は僕が君の為に一つ運動する」
「僕は今貰っても仕方がない」
「おっと、早まるなよ」
「それじゃ何だい?」
「お礼の為に君を洋行させる」
「今夜は能く洋行のことを言うが、一体何ういう次第わけだね?」
「実はガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーが出掛けるんだよ」
 と新太郎君は先刻父親から聞いた通りを話して、
「何うだい? 君は気があるか?」
「あるとも。洋行は世帯を持たない中に限る」
「おれは世帯を持てば洋行なんかしなくても宜い」
「ハッハヽヽヽ。天真爛漫てんしんらんまんだね。それで僕に譲ってくれるのか?」
「然うさ。マザーから手を廻して、丹波さんに説いて貰う」
「丹波さんも然う度々利用されちゃ気の毒だね」
「いや、実際年寄を一人で手放すのは心細いよ。此方にいる時と違って気を遣うから、秘書が必要だ。河内屋さんや岡本さんじゃ何うしても遠慮がある。真正ほんとうに君、万事面倒を見てやってくれ給え」
「ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーから命令が出れば喜んで随行するよ」
 と寛一君差当り諦めている景品が目の前にちらつき始めた。
「僕は極力尽力する。ところで君、もう一つ頼みがあるんだ」
「何だい?」
「一寸下へ行って様子を見て来てくれ給え」
「立聞きをするのかい?」
「まあ、その辺だ。その代り洋行を引受ける」
「よし/\」
 と寛一君は下りて行ったが、直ぐに帰って来た。
「早いね。何んな形勢だったい?」
「大将、成功して来たものだから、大奥さんを褒めちぎっている」
「ふうむ。僕も最早もう毛頭恨みがない」
「当り前さ。しゅうとじゃないか?」
「姑でもさ。何と言っていたい?」
「頭も好ければ肚も好い。くれると定めた以上、今まで故障を言ったような風は少しも見せない。最初からお礼の百万遍で恐れ入ったそうだ。流石に主人を下敷にして枝も鳴らさない丈けのことはあると言っていたよ」
「成程」
「それから器量の好いのに感心したそうだ」
「僕の審美眼しんびがんに敬意を表していたろう?」
「いや、大奥さんだよ」
「おっと、これは僕が早まった。ヘッヘヽヽ」
「四十そこ/\の姥桜うばざくらだとさ。あれなら私でも結構だってさ」
「宮地さんて人は女好きのようだね。それから?」
「仲人に行って先方むこうのお母さんを見初みそめちゃ済まないが、実際の話、あれじゃ若い時が思いやられます。ヘッヘヽヽって、君のような笑い声だったよ」
「そんなことは何うでも宜い。それから?」
「それ丈けさ」
「何あんだ。馬鹿々々しい。もう一遍行って来てくれ給え」
 と新太郎君は又命じる。
「よし。今のは見つからなかったから、ノーカウントだ」
 と寛一君は又下りて行く。
「何うだい?」
結納ゆいのうは早速取交して式は来年の三四月という先方の意向だが、ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーは五月に入ってから帰るのらしい。すると五月だね」
「結構だよ」
「それまではお互に交際して性格を理解し合うこと」
「申分ないね」
「以上主人病中ゆえ代って申上げますと、立板に水のよう、ハキ/\したものですよって、又めていたよ」
「以上というと?」
「中途から聞いたんだよ」
「後は?」
「この通り一から十まで話が分っているので、士族平民の件は、狐につまゝれたような心持がしましたが、そこは悧巧りこうな人丈けに大勢たいせいを見て取っててのひらかえすように……」
「掌を反すように……」
「こゝでマザーが出て来たんだ。もう少しでコツンコさ。僕はもう帰る」
「まあ宜いよ」
「いや、この上用を言いつけられて、縁側でガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーと鉢合せでもしようものなら、又むじな扱いにされる」
「それじゃその辺までブラ/\送ろうか?」
 と新太郎君は気軽く立ち上った。

首尾一貫


「新太郎さんですね? あなたは」
 と電話の声が確めた。
「はあ」
「私は松浦です。友三郎です。この度はお芽出度うございました」
「有難う存じます。何ともお礼の申上げようもございません」
 と新太郎君は深く感銘している。秀子さんとの縁談が纒まったのはひとえに松浦さん若夫婦の同情ある執成とりなしによる。
「ところで西川君、そのお話は差当り宮地さんと年寄達に一任して、ここ少時しばらく大洪水前に戻りましょう」
「はあ」
「前世界へ戻りましょう」
「はあ?」
「逗子の昔に戻りましょう。お話のあったことは恥かしいから厭だと秀子さんは相変らず気むずかしいんです」
「はあ/\、分りました」
「ところでその節お約束がございましたね」
「何ですか?」
「遊びにおいで下さる筈だったでしょう?」
「はあ」
「私もその中にお伺い致しますから、あなたも是非最近に」
「有難うございます。早速お邪魔申上げましょう」
「明後日は如何でしょうか? 丁度日曜です」
「結構です」
「それでは朝からお待ち申上げますよ」
「承知致しました」
「何もなかったことにして平気でお出下さい。私の方もその積りにしますから。いですか?」
「分りました。種々いろいろとお心遣い有難う存じます」
「何う致しまして。それでは明後日」
「はあ」
「操から宜しく申上げます」
「恐れ入ります。何うぞ宜しく。今回は特別の御配慮にあずかりました。何れお目にかゝって……」
「いや、それを仰有らない取定めですよ。ハッハヽヽヽ」
「然うでしたね。ハッハヽヽ」
「それでは朝から夕方までのお積りで」
「承知致しました」
「さよなら」
「さよなら」
 新太郎君は松浦家へこれで三度目の勘定になる。最初は父親の名代として危篤の病人を見舞いに行った。次には自分一個の資格で推参して寛一君諸共門から覗いていたところを取っ掴まった。あわただしい思出ばかり残っている。然るに今度は将来のお婿さんとして出頭する。それも一日ゆっくりとの註文だ。
「おい、君、松浦さんだろう?」
 と寛一君に図星を指された時、
「ヘヽヽヽ」
 と相好そうごうを崩したのも無理はない。
「何うしたんだい?」
「遊びに来いと言うのさ」
「トン/\拍子だね」
「全くお蔭様だよ」
「僕は矢っ張り洋行させて貰いたいな」
「それは無論骨を折る。成功謝礼だ」
「いや、これから半年は見るに見兼ねるだろうと思うからさ」
「何あに、大丈夫だ。僕だって理性がある」
「怪しいものさ」
「もう釣れている魚だぜ。然う/\御機嫌は取らないよ」
「何うだかね」
 と寛一君は手を焼いているから容易に信用しない。
 日曜の朝、新太郎君は新調のモーニングに身を固めた。この前の羽織袴に対して変化を試みたのである。秀子さんには無論のこと、初対面の両親に好い印象を与えたい。洋服屋の註文取と思われないように特に念を入れた。お土産は例によって不二屋のチョコレートだった。
「新太郎や、チョコレートはもう今度でお仕舞いにしろよ。余り甘いと思われるぜ」
 とむずかしい父親が冗談を言ったくらい、この縁談はチョコレートで首尾一貫している。
「ヘヽヽヽ」
 と新太郎君は昨今妙に頬の筋肉の緊張を欠く。
「笑いごとじゃありませんよ」
 と母親もたしなめた。
「御安心下さい。私だって考えています」
「取越し苦労のようだけれど真正ほんとうにしっかりしておくれよ」
「大丈夫です」
「この頃の娘さんはツク/″\うらやましいと思いますわ」
「何故ですか?」
「時代の所為せいかも知れないけれど、お母さんはお父さんに大切だいじにされたことなんかっともないんですからね」
「何を変なことを言っているんだい」
 と父親は例の鬼瓦に戻る。
「ところで、お母さん。真正に通り一遍の挨拶丈けで宜いんですか?」
いのよ。家は家同志、お前達はお前達同志で。宮地さんと友三郎さんと渋谷の伯父さんとで悉皆すっかり呑み込んでいてくれます」
「はあ」
「それは分っているわね、お父さんからもお母さんからもよ」
「はあ。両親からと申します」
先方むこうのお父さんとお母さんへもよ。先に若い方々にお目にかゝって後からでしょうから、忘れないようにね」
「承知しました」
「それじゃ行っておいで
 と母親が送ってくれた。
 銀座は空いた円タクが止度とめどもなく通る。新太郎君は車体の新しいのを物色するため三四台り過ごしてから頷いた。円タクはくしゃみをしても止まる。
「牛込弁天町」
 と行先を言って納まった時、この前のことを思い出して、
「あゝ/\、有難い。到頭成功したんだ」
 と痛切に感じた。同時に秀子さんの顔が浮んだ。いつもワン・ピースの海水浴姿でチラつく。男性が女性の裸体像ヌードを好む限り、夏分馴染む方が徳だ。
「一寸具合が悪いな」
 と首を傾げて、
「何あに、構わない。逗子の要領で好いんだ」
 と勇をす。不図ふと半座はんざを分けた風呂敷包が目をいた。チョコレートだ。アメリカでは娘をチョコレートで釣る。
「成程、成功した」
 と又思う。自動車が沢山通る。東奔西走、如何にも忙しそうだ。しかし此方のような大切だいじな用件で乗り廻しているものがあるだろうか?
「成功々々」
 と何彼につけて微笑まれる。神楽坂から肴町へ差しかゝった時、先頃縁日の晩寛一君と一緒にその辺を辿たどったことを思い出した。将来この道を度々通る運命があるだろうかとその折考えたが、現に今又通っている。それもこれから果しなく通る皮切りだ。
「有難い/\」
 と新太郎君、この両三日は感慨とみに深いものがある。
 松浦家に着くと、直ぐに洋間へ通された。最初友三郎さんが現れた。
「この度は種々いろいろとお世話になりまして……」
 と新太郎君は真赤になってお礼を言った。
「結構でした。これからは何うぞ宜しく」
 と松浦さんも満足のようだった。相婿あいむこになるという意味だったろう。次に操さんが、
「まあ/\」
 と会釈をしながら入って来た。
「この度は……」
 と新太郎君は又ドギマギする。
「秀子さんは?」
 と松浦さんが訊いた。
「出にくいんですわ、矢っ張り」
「呼んで来ましょうか?」
「今に参りますよ」
 と操さんは落ちついている。
 縁談関係らしい挨拶はそれ丈けだった。一昨日の打ち合せに従って、松浦さんは直ぐに、
「承わればお父さんは近々海外視察にお出かけだそうでございますな」
 と気を利かしてしまった。
「はあ」
 と新太郎君は何かもっと具体的なものを掴みたかったのである。
「あなたはお供なさいますか?」
「いゝえ」
「丁度よろしい機会じゃありませんか?」
 と松浦さんは無慈悲なことを言う。
「留守の都合がございますから」
「はゝあ」
「多分原田をつけてやることになりましょう」
 と新太郎君は自分の意思で任命するように大きく出た。
「成程、原田君ならあなたも同じことですから安心ですな」
「彼奴は無暗に行きたいんです」
「あなたもいずれお出かけになりましょう?」
「はあ、二三年中にと思っています」
「始終彼方へ行く機会のあるのは羨ましいですな」
「西川さん、こゝにも無暗に行きたい人が一人いますのよ」
 と操さんがっぱ抜いた。
「ハッハヽヽヽ」
「彼方というと目の色が変ってしまいますのよ」
「そんなこともありませんが、一度は行って来たいものです」
 と松浦さんは否定も主張も穏かにする。必ずしも婿養子だからでない。人格が然らしめるのだ。
「馬鹿を言え。しかし一遍は是非行って来るんだ」
 なぞと威張ったところで何の足しにもならないことを知っている。
「行っていらっしゃいよ。今度西川さんがお出掛けの時、お供をなされば宜いわ」
「操さん、あなたもいらっしゃい。西川君は秀子さん同伴でしょうから、二夫婦揃って出かけましょう」
「ヘヽヽヽ」
 と新太郎君は覚えず五体がゆるんだ。昨今変な笑い癖がついている。尤も二夫婦と聞いて耳よりだったのである。
「オホヽヽ。一つ若返ってお供致しましょうか? 真正ほんとうに」
 と操さんはお婆さんらしく言うが、未だ二十六七だから、それは社交上の謙遜に過ぎない。華族様の平民主義と同じことだ。に受けてうっかり相槌を打とうものならひどい目に会う。
「未だ若返る必要もありますまい」
 と友三郎さんはこの辺流石さすがに心得ている。
「けれども私……」
「何ですか?」
「今更洋装でもありませんわ」
「そんな御遠慮は要りませんよ」
「でもこんなに太っているんですもの」
「それよりせれば病人ですよ」
「婦人服なら私の知っている店に何んな人のでも似合うようにこしらえるところがございますよ」
 と新太郎君は商売柄推薦すいせんした。しかしそれがもとで洋装の話が始まって、二夫婦洋行の問題は立ち消えになってしまった。相婿が二人がかりで長いこと調子を合せた後、
「して見ると日本人は矢っ張り日本服が一番似合うんでございますわね」
「要するにそこですな」
「つまりうでございますよ」
 というりふれた結論に達した。新太郎君は我ながら馬鹿々々しくなった。友三郎さんや操さんと服装論を試みる為に参上したのではない。
「好いお天気ですな」
 と友三郎さんが話の途切れをつないだ時、
「今日は俊男さんは学校ですか?」
 と新太郎君は逗子以来の常套手段じょうとうしゅだんで馬に矢を向けた。廻り遠いが外に仕方がない。
「いや、家です。今日は日曜です」
 と友三郎さんが答えた。
「はあ、然うでしたな」
 と新太郎君は頭を掻いた。日曜だから来ているのだ。弛緩しかんしているのは頬の筋肉ばかりでない。折から操さんが、
「秀子を呼んで参りましょう」
 と言って直ぐに立ったのも胸中を洞察されたようで甚だ具合が悪かった。
 入れ違いに秀子さんが、
「お兄さま」
 と呼んで顔を出して、
「あら、西川さん、その後は御無沙汰申上げました」
 とニッコリした。
日外いつぞやは失礼致しました。今日こんにちはお兄さまからお招きにあずかりまして」
 と新太郎君は両の膝頭へ手を当ててペコ/\する。男子すべからくもう少し見識があって欲しい。
いずれごゆっくり」
 と秀子さんは益※(二の字点、1-2-22)落ちつきのあるところを見せて、
「お兄さま、お母さまがお待ち兼ねでございます」
 と注進を果した。
「それじゃ西川君、両親へ御紹介申上げます」
「はあ」
「此方へ」
「はあ」
「何うぞ」
「はあ」
 と新太郎君は多少手間がかゝった。一番怖い人に会うのだから、度胸を据える必要がある。現に友三郎さんは「お母さまがお待ち兼ね」と秀子さんが言ったのを「それじゃ西川君、両親へ御紹介申上げましょう」と解釈している。お母さまが両親だ。
 秀子さんのお父さまは新太郎君が想像していた通りの好々爺こうこうやだった。病後の衰弱を見せながらも、
「子供達がお世話になりまして……今後ともよろしく」
 とホク/\していた。
「これは/\。友三郎から始終お噂を承わって居ります」
 とお母さまに至っては切り口上で長い。
「秀子の母でございます。何うぞお見知り置きを願います。毎度子供達が一方ならぬお世話様にあずかりまして有難う存じ上げます。今日は又御遠方のところをうこそお越し下さいました。何うぞ御ゆっくり」
 と頗るさわやかだ。新太郎君は句切り/\をお辞儀で受けた。
「兄が始終上って御迷惑をかけます」
 とお父さまが社交に努めた時、新太郎君は、
「は?」
 とまごついて、友三郎さんの顔を見た。
「渋谷の伯父さんですよ」
 と友三郎君が注意した。渋谷の伯父と新太郎君の父親が友達だとは一蓮託生いちれんたくしょうでお父さま迄だましてある。
「は、はゝあ、始終お見えになります」
 と新太郎君、甚だ危い。
「おやかましいお客さまでございましょう? オホヽ」
 とお母さまがお笑いになった。
「何う致しまして」
天狗てんぐでございますからね。お褒めにならない方が宜しゅうございますわ」
「はあ」
「しかし伯父さんのお謡曲うたいは素人放れがしているそうでございますよ」
 と友三郎さんが念の為披露に及んだ。打ち合わせて置かなかったから、新太郎君が長唄か何かの積りでいると大事おおごとだ。
「好いお婿さんだよ」
 とお父さまは間もなく少し疲れて例のひとりごとを言い始めた。
「それでは彼方で御ゆっくり」
 とお母さまが気を利かしたので、新太郎君は友三郎さん諸共もろとも引き下った。
 洋間には秀子さん初め芳子さんと俊男君が待っていた。
「やあ、俊男さん」
 と新太郎君は馬として利用する関係上この少年には特に馴染んでいた。友三郎さんと操さんが接待係を勤める。顔ぶれがそのまゝだから、気分は逗子の夏に戻る。
「西川さん、原田さんはお変りございませんの?」
 と秀子さんが訊いた。
「あゝ、皆さんに宜しくと申しました。元気好く働いています」
「原田さんは近々海外視察に出かけるんですとさ」
 と友三郎さんが消息を伝えた。
「まあ。あなたは? 西川さん」
「私はとても」
 と新太郎君は覚えず力強く否定して、松浦さん夫婦の手前恥かしかった。
「父が出かけます。原田はお供で、僕は留守番です」
「それじゃ御主人ね? 当分」
「はあ」
「威張ったものね?」
「ヘヽヽヽ」
「遊びに上ってよ」
「何うぞ」
「秀子さんは銀座に一番好きなものがありますのよ」
 と操さんが素っぱ抜きを試みた。
「厭よ、姉さん」
「何ですか?」
 と新太郎君がも大事件そうに訊く。
「申上げましょうか」
「厭よ/\」
「銀座よりも新橋よ」
 と芳子さんが口を出す。
「およしなさいよ。自分だって大好きのくせに」
「何でしょう? 分りました。千疋屋せんびきやのメロンですね?」
「いゝえ、とてもお話にならない下司張げすばったものよ」
「何でしょう? 新橋ですね?」
「新橋よりも芝口しばぐちよ」
 と芳子さんが又やる。
「芝口? さあ、分らない。奥さん、これは兜を脱ぎます」
蜜豆みつまめよ」
「はゝあ」
彼処あすこに何とかいう家がございましょう? ――余り綺麗でない」
「大阪屋でしょう」
うよ/\。銀座へ行くと屹度彼処をねだりますの」
「蜜豆ならお安い御用です」
「オホヽヽヽ」
「ヘヽヽヽ」
 昼少し前に友三郎さんが、
「西川君、一つ庭を御覧下さいませんか?」
 と申出た。
「はあ、是非拝見させて戴きます」
「秀子さん、あなた御案内申上げて下さい」
「はい/\」
 と秀子さんは気軽く承知して直ぐに立った。
「僕も行こう」
 と言って、俊男君が後を追おうとした時、
「俊男さん、あなたは一寸ちょっと
 と友三郎さんが止めた。
「何ですか?」
「何でも宜いのよ。一寸々々」
 と操さんが然るべく計う。
 新太郎君は靴下に庭下駄を穿いて、秀子さんと連れ立った。
「お広いですな。大きなお池がありますな。銀座あたりから来ると羨ましいです」
 と恐悦至極だった。
「古いだけが自慢よ。これで庭師が見ると何処か法に叶っているんですってね」
「素人の私にも何となく結構ですよ」
「私はもっと現代的のが欲しいわ」
「花壇ですか?」
「いゝえ。花壇は裏にありますよ」
「それじゃ西洋式ですね?」
「えゝ」
「あれはとてもこれほどの趣がありません。やあ、大きな鯉がいる」
「もっと大きなのがいたんですが、四五年前に皆死んでしまいましたの」
「何うしたんです」
れたことのないこの池がその夏に限って涸れてしまいました」
「はゝあ」
「すると間もなくあの大震災です」
「はゝあ、何か地震と関係があるんでしょうかね」
「さあ。安政の時にも涸れたと申しますわ」
「不思議ですな」
「西川さん、彼処あすこで休みましょう」
 と秀子さんは築山つきやまの麓へ案内して行った。陶器の腰掛が二つあつらえ向きに並んでいる。
「あら。犬が来ましたよ。お家の?」
「えゝ」
「不審そうに僕の顔を見ている」
「西川さん」
「はあ」
「私、口惜しいわ」
「何ですか?」
「私、あなたの計略にかゝってしまったんですもの」
「計略?」
「えゝ。日外いつかの電話で分っているわ。けれども私、わざとかゝって上げるのよ、あなたの計略に。分って?」
「はあ」
だ私の心持次第でうにでもなるのよ。分って?」
「はあ」
「それじゃ大切だいじにして下さる?」
「無論です。何でも仰有る通りに致します」
「それなら堪忍して上げるわ。さあ、参りましょう」
「未だ宜いでしょう?」
「それ御覧なさい。それが仰有る通り?」
「参りましょう」
 と新太郎君はいさぎよく立ち上った。
「嘘よ、こゝでもっと話しましょうよ。未だ/\私、条件が沢山あるのよ」
 と秀子さんは再び坐った。
「はあ」
「オホヽヽヽ」
「ヘヽヽヽ」

骨のある喃語


 好い秋晴の日だった。微風だにない。池の面は鏡のようなめらかだ。鯉も安心して岸辺へ寄って来る。
「西川さん、私、勘定して見ると条件が十ばかりありますのよ」
 と秀子さんは落ちついたものだった。
「いくらでも仰有って下さい」
「申上げますわ」
「何うぞ」
 と新太郎君は膝に手を置いてひとえ恭順的きょうじゅんてき態度を執る。大切だいじの瀬戸際だ。
「オホヽヽ。私、何だか極りが悪いわ」
「構いません」
「あなたから仰有いよ。あなただって御条件がございましょう」
 と秀子さんは見括みくびっている。
「さあ」
「なくて? あって?」
「ありません。来てさえ下されば無条件です」
 と新太郎君は益※(二の字点、1-2-22)不見識の程を示す。
「私は何うしてもあるわ。人を計略になんか掛けるんですもの」
「計略って次第わけでもないんですが……」
「それじゃ何?」
「去年からなんです」
「あらまあ! ずるい人ね」
「ヘヽヽヽ」
「それじゃ私、去年からかゝっていたんですの?」
「計略じゃないです」
「いゝえ、計略ですわ。けれども私、わざとかゝって上げるんですから、条件を出す資格があるでしょう?」
「あります。御遠慮なく仰有って下さい」
「申上げますわ。西川さん、私、御両親と同棲どうせいは厭よ」
「はあ」
「お母さん丈けなら我慢しますけれど、ガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーさんが怖いわ」
 と秀子さんはにらむ真似をして見せた。
屹度きっと然うでしょうと思っていましたよ」
「宜くて?」
「えゝ。承知しました」
「それじゃあなたがお店へ通うことにして下さるのね?」
「然うです。店は店、住宅は住宅で別の方が僕も具合が好いんです」
「銀座は住むところじゃありませんわ。散歩に行くところよ。私、園芸が大好きですから、庭がなければ駄目よ」
「郊外に地面を買います」
「いゝえ。地面はこの屋敷廻りに家のがいくらもありますよ。姉さんばかりに上げないで、私も芳子も俊男も分けて戴くことになっていますから、それを差上げますわ」
「恐縮ですね」
「家はそれへ建てゝ戴きますわ。これも条件よ。くて?」
「えゝ。承知しました」
 と新太郎君は唯々諾々だ。
「こゝなら母も毎日来られますわ」
「然うですな」
「私も毎日帰れますわ」
「結構です」
「西川さん、あなたはこの夏原田さんとお二人で兄さんや姉さんの悪口を仰有ったそうですわね」
「はあ」
「芳子が聞いて来て大憤慨でしたわ。姉さんに言いつけましたの」
「何ですか? 一体」
「家では兄さんが姉さんのことを『あなた』と仰有るでしょう。それで松浦のところは夫婦何方も『あなた』だから蔭で聞いていると牝牡めすおすが分らないって仰有ったそうですわ」
「あれは原田が言ったんです」
「あら、あなたよ、あなたの方が原田さんよりもっ程お口が悪いわ」
「ヘヽヽヽ」
「それ御覧なさい」
「しかし冗談ですよ」
「冗談は分っていますけれど、私、然ういう思想が気に入りませんの。あなたは私を『お前』と仰有る積り?」
「そこまでは未だ考えていません」
「私、『あなた』と仰有って戴きますよ。それから呼び捨ては御免蒙ります。宜くて? これも条件よ」
「承知しました」
「それから西川さん……」
「はあ」
「あら、ジョンが来たわ。誰か来るのよ」
 と秀子さんは話し止んだ。
「西川さん」
 と友三郎さんが築山の蔭から現れた。
「はあ」
 と新太郎君は慌てゝ立ち上る。
「何うです? 記念に一つ写真を取らせて戴きましょうか?」
 と友三郎さんはコダックを提げてニコ/\していた。
「願いましょう」
「私は厭よ」
 と秀子さんが断った。
「何故?」
「オホヽヽヽ」
「ひどいですな。そんなに軽蔑けいべつしたものじゃありませんよ。さあ」
 と友三郎さんが促す。
「私、厭よ。西川さん、兄さんのお写真と来たら未だほんの素人の駈け出しよ。写ったり写らなかったりですわ」
「はゝあ」
「この間はお母さんを写して大変叱られましたのよ。お婆さんに取ってしまったんですもの」
 と秀子さんが素っぱ抜く。
「あれから毎日やっていますから可なり上達しましたよ」
「いゝえ。女中達を写してお父さんに御覧に入れたら、『これは刑務所の女囚かい?』とお訊きになったんでも分っていますわ」
「散々ですな」
「嬉しがって写して戴くのは姉さんぐらいのものよ」
「それじゃ止めます」
 と友三郎さんは諦めかけたが、
「僕丈け願いましょう」
 と新太郎君はこゝぞ恩返しと思って進み出た。
「秀子さん」
「はあ」
「記念です。何うぞ」
 と友三郎さんは悃願こんがんした。
「厭よ」
「それじゃ私も考えがありますよ」
「何あに?」
「今度の音楽会へお供しないから宜いです」
真正ほんとう?」
「真正ですとも」
「それじゃ写して戴きますわ」
 と秀子さんは案外もろかった。友三郎さんが一緒でないと夜分の外出を許されないのだから仕方がない。
 友三郎さんの写真は先頃アメリカ帰りの友人に機械を貰ってからの道楽だから未だ日が浅い。下手な上に手間が取れる。二人を松の木の下に並べて種々と註文をつける。
「西川さんは心持ち前へ出て見て下さい。あゝ、出過ぎました」
「秀子さんはもっと上を見る」
 と大騒ぎだ。しかし新太郎君は秀子さんと一緒だから少しも迷惑でない。言われるまゝになっている。
「西川さん、もう少し秀子さんの方へ寄って」
 と友三郎さんは尚おレンズを覗きながら、
「然う/\。あゝ、いけません。寄り過ぎました。然う/\。それから鼻の下をもう少し短くして。それくらい。それくらい。宜しい。パチン」
「ヘヽヽヽ」
「そのまゝ。そのまゝ。念の為もう一枚取らせて戴きます」
 新太郎君はこの日を第一回として毎日曜に松浦家を訪れることになった。一時ゆるみかけた決心も縁談の上首尾と共に旧に復して、週日の勤め振りは申分ない。
「その調子、その調子」
 と例によって寛一君がはたからおだて上げる。新太郎君にぐらつかれると洋行の方が模様替えになるから一生懸命だ。
「もう大丈夫だよ。親の有難さが身に沁みている」
 と新太郎君も無神経でない。
「現金だね」
「仕方がないさ」
「それは構わないが、思い出し笑い丈けは慎み給え。角倉君が勘定している」
「彼奴に会っちゃかなわない。しかしこれでも肚の中は締まっている積りだよ」
うだか? 君が行く度に背負って来る条件を家のマザーに話したら吃驚していたぜ」
「余り吹聴ふいちょうしないでくれよ」
「しかし目に余るからね」
「何あに、あれは完全に釣り上げるまでの御機嫌取りさ」
「何とか言っているよ」
「それじゃ日曜に足を抜いて見せようか?」
「そんなに虚勢を張るには及ばないが、少し見識ってことを考え給え。何のことはない。君の方から松浦家へ養子に行くような恰好になってしまうぜ」
 と寛一君は何処までも忠告係だ。
 折から秋酣あきたけなわの運動季節だった。土曜日曜には必ず野球の大仕合がある。各大学のリーグ戦は最早学生の専有物でない。忙しい社会人が仕事の繰り合せをつけて見物に行く。去年まで応援団に牛耳ぎゅうじっていた新太郎君と寛一君は○○大学の成績が益※(二の字点、1-2-22)好いにつれて、ソロ/\日曜丈けでは堪能たんのう出来なくなった。但し二人は意味が違う。寛一君は日曜にも行くが土曜にも行きたい。新太郎君は毎日曜を秀子さんに取られるから土曜に行きたい。
「好い天気だなあ」
「惜しいなあ。折角の招待券が無駄になってしまう」
 と土曜日には朝から溜息をつく。日曜は日曜として仕事のある上土曜に行きたいということには双方一致している。
「新太郎君、一寸ちょっと
 と○△第一回戦の朝、寛一君が思い余った。
「何だい?」
「アメリカでは野球を見に行きたい時に伯父さんが死んで葬式がありますからと言って抜け出すそうだね?」
「然うさ。『宜しい。応援旗を持って行け』って、彼方の店主ボスは話が分っていらあ」
「羨ましいなあ」
「この節は日本でも多少伯父さんの応用が利くんだろう。それでなくて銀行会社の連中があんなに大勢来る筈はない」
「しかし僕は何て因果な人間だろう。その伯父さんの店に勤めてるんだからね」
「忠告係、到頭弱音を吹き始めたね」
「△△△だからさ。今日は仕事が手につかない」
「おい」
 と新太郎君は一段声を低めた。
「何だい?」
「今日はガ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ナーが横浜へ行くよ」
「然うかい?」
「抜けようか?」
「さあ」
「僕は未だ一遍も行かないんだから察してくれ」
「それは心柄こころがらで仕方がない」
「明日が利かないんだから、行こうよ、是非今日、栗林さんに巧く頼んで置く」
「しかし危険だな」
「大丈夫だよ」
「君丈け行き給え。僕は明日行く」
「何故?」
「洋行がフイになると大変だもの」
「何あに、あれはもう動かない。組合へ発表して旅行免状まで願出ているんだもの」
「まあ/\、兎に角この際だ。自重しよう」
 と寛一君は考え直したようだったが、結局二人とも抜け出した。
 その日、○軍は二年越し△軍に負けていたのを見事雪辱せつじょくした。応援団は狂喜して文字通り手の舞い足の踏むところを知らない。新太郎君も寛一君も在学中歯ぎしりをし通した丈けに嬉しかった。
「僕は明日も来る」
 と新太郎君は興奮していた。
えらいね。しかし牛込の方は何うする?」
 と寛一君が訊いた。
「後から廻る」
「何だ」
「来年の春からは御同伴だぞ」
「秀子さんは野球が分るかい?」
「何うだか知らないが、僕が教育するよ」
 と新太郎君は大威張りだった。
 翌日も二人連れ立って見物した。○軍は段違いのスコアで△軍をほふった。二年間負け続けて先輩から風紀敗頽はいたいそしりを受けていた折からの快勝に、嬉しさ余った選手達は相擁して泣き出すという始末。薄暮の野球場に劇的光景が展開された。感激に富む数千の若殿原わかとのばらはそのまゝ去りやらぬ。
「祝勝会をやろう」
「大々的に」
「銀座へ」
「銀座、銀座」
 という声が伝わった。
「何うだい?」
 と寛一君。
「行くとも」
 と新太郎君。
 松浦の友三郎さんも○○大学出身だ。同窓なればこそ今回の縁談に特別の計らいをしてくれたのである。それで次の日曜に新太郎君が訪れた時、
「宜かったですなあ」
 と話は先ず○軍の勝利で始まった。
「二年振りで溜飲を下げましたよ」
 と新太郎君は早速仕合の概略がいりゃくを物語った後、
「晩に祝勝会があったんでつい失礼致しました」
 と不可抗力のように言った。黙って聴いていた秀子さんはこの時、
「西川さん」
 と呼んだ。
「はあ」
「あなたは洋行なすっちゃ如何?」
「はあ?」
「あなたなんか洋行してベスービアスの噴火口へ身を投げておしまいなさいよ」
 新太郎君は答える言葉を知らなかった。尤も秀子さんに断わられるようならうしようかとまで思い詰めた旨を先頃冗談ながら話したことがある。
「秀子さん、あなたは何うなすったの?」
 と友三郎さんが聞き兼ねてたしなめた。秀子さんはプイッと立って出て行ってしまった。
「何うなすったんでしょう?」
 と新太郎君は合点に苦んだ。
「この前の日曜の件ですよ」
「はゝあ」
「秀子さんは朝から待っていたんです。すると十時頃電話で夕方と仰有ったでしょう?」
「えゝ」
「その夕方が祝勝会でお流れになったから、大分おかんむりを曲げていましたよ」
 と友三郎さんが説明してくれた。
「悪いことをしましたね。あやまりましょうか?」
「いや、それには及びません」
「しかし……」
「あなたは今が大切だいじですよ。折れてばかりいると増長します。ナカ/\我儘ですからね」
「そんなこともないでしょうが……」
 と新太郎君は受け答えに苦む。
「いや、実は私も婚約中に少し機嫌を取り過ぎた形があるんです。それがたたっていて、いまだに兎角いけません。無論あなたとは境遇が違いますが、自分の責任も多少あると思って、今では後悔しています」
「…………」
「あなたは最初からしっかりやるんですな」
「はあ」
「妙なことを申すようですが、皆母親譲りですからね。あなたが思い切って強く出るようにならないとはてしがありませんよ。お父さんやお母さんのお気に召さないようなことがあると大変です」
「それほどのこともありますまいが、気が勝っていますからな」
「あなたは逗子で度々あやまらせられたでしょう?」
「えゝ」
「ハッハヽヽヽ」
「でも、あやまらないと口をきいて下さらないんですもの」
「悪い癖です」
「此方へ伺うようになってからも、二度、いや、三度あやまりました」
「それじゃいけませんよ。もう普通の交際じゃないんですからね。あなたのところの家風かふうにはまるように教育する積りで、悪いところは充分言い聞かせて下さい」
「折を見てそれとなく申上げましょう」
「遠慮は要りません。それがあれの為め、あなたの為めです。実際今が大切のところですよ」
 と友三郎さんは数年の長がある。手を焼いている丈けに用意周到な義兄振りを示した。
 そこへ操さんが入って来て、
「あら、お二人きり? 秀子さんは?」
 と訊いた。
「この前の日曜のことを根に持って未だお冠を曲げているようです」
「仕様のない人ね。呼んで参りましょうか?」
「この間は真正ほんとうに失礼致しました。祝勝会の方へ引っ張られておそくなってしまったものですから」
 と新太郎君は頭を掻いた。
「お察し申して居りましたのよ」
「操さん、秀子さんを少し教育するようにって、今申上げていたところです」
 と友三郎さんが問題に触れた。
「我儘でございますからね」
「そんなことはありません」
 と新太郎君は黙っていると認容にんようすることになる。
「私、呼んで参りますわ」
「宜いですよ。打っちゃってお置きなさい」
「あら、庭に出ていますのよ」
 と操さんは障子の硝子から覗きながら、
「西川さん、彼方あちら如何いかが?」
 と誘った。
「はあ」
 と新太郎君はもとより望むところだった。友三郎さんと野球の話をする為めに来たのでない。序ながらお父さんお母さんの御機嫌を伺って、間もなく縁側へ出た。
「西川さん、一寸」
 と案外にも秀子さんの方から言葉をかけた。待っていたのである。新太郎君は洋服に庭下駄穿きで下りて行った。
「私のあがる日はいつも上天気ですな」
「そんなこと何うでも宜いわ。彼方へ参りましょう」
 と秀子さんは先に立って池のほとりの腰掛へ案内した。
「大きな鯉がいますね」
「西川さん!」
「はあ」
「何も仰有らないでおあやまりなさいよ」
「何をですか?」
 と新太郎君はわざと訊いて見た。こゝぞ教育と考えたのである。
「お分りになりませんの?」
「この前の日曜のことなら先刻お詫申上げました」
「あんなことじゃ私気が済みませんよ」
「何うすれば宜いんですか?」
「ちゃんとあやまって戴きましょう」
「秀子さん、あなたはその癖をお直しにならなければいけません」
「何ですと?」
「秀子さん、それじゃ堪忍して下さい」
「それじゃとは何です? 私、そんな気の乗らないあやまり方じゃ堪忍して上げられませんよ」
「秀子さん、そんなに仰有るものじゃありません。私が悪かったに相違ありませんが、男には男の交際があります」
「それじゃもう宜いわ」
「秀子さん」
「もう宜いわよ」
おこらないで下さい」
「男の交際がそんなにお大切なら、私はもう絶交させて戴きます」
「秀子さん、お待ち下さい。婚約中のものが絶交出来ますか?」
「知らない!」
「秀子さん」
「知らない!」
 と再び甲走かんばしって、秀子さんはサッサと行ってしまった。
 新太郎君の教育は第一回で失敗に了った。家へ帰ってから電話であやまり直したけれど駄目だった。斯うなると覿面てきめんだ。その週は怏々おうおうとして楽まない。
「君、少し変じゃないか?」
 と寛一君も気がついたくらいだった。
「又神経衰弱らしいよ」
「厭だぜ/\。何うしたんだい」
「祝勝会がたたったのさ。君が無暗に誘うんだもの」
 と新太郎君は秀子さんの我儘を訴えた。
「それだから言わないこっちゃないよ」
「斯う一々条件をつけられたり、あやまらせられたりしたんじゃ僕もり切れない」
「しかし今更仕方がないぜ」
「仕方がない」
「何うする?」
「今度の日曜にあやまって堪忍して貰う」
なあんだ」
 と寛一君は呆れ返った。
 次の日曜の朝定刻に松浦家へ出頭した時、取次に現れたのは秀子さんだった。新太郎君は矢張り待っていてくれたかと思うと嬉しくなって、
「この間は失礼申上げました」
 と忽ちニタ/\した。
何方様どなたさまでいらっしゃいますか?」
 と秀子さんは三つ指をついて尋ねた。悉皆すっかり改まっている。
「秀子さん」
「あなたは何方様でいらっしゃいますか?」
「西川です」
 と新太郎君も馬鹿々々しいけれどよんどころなかった。逆らえば何んな目に会うかも知れない。
「何処の西川さんでいらっしゃいますか?」
「銀座の西川です」
「何方に御用でいらっしゃいますか?」
「松浦さんにお目にかゝりうございます」
「松浦は大主人でございますか? 若主人でございますか?」
「若主人に一寸ちょっとお取次を」
「何ういう御用向でいらっしゃいますか?」
 と秀子さんは何処までも真剣だ。
「さあ、御無沙汰伺いです」
「お名刺を戴きましょう」
「生憎と持ち合わせません」
「それでは西川何様と仰有いますか?」
「新太郎と申します」
 と新太郎君が完全に名乗を上げた時、
「秀子さん、好い加減にしなさいよ。さあ、西川さん、何うぞ」
 と友三郎さんが笑いながら出て来た。
 客間へ通ったが、秀子さんはもうそれきり姿を見せない。
悉皆すっかり御機嫌を損じてしまいました」
 と新太郎君はしきりに髪の毛をしごき始めた。煩悶はんもんがあると必ずこれをやる。
「何あに、心配はありません。その中に直りますよ」
 と友三郎さんは落ちついている。
「飛んだ失礼を申上げました。今参ります」
 と操さんが注進してから余程たって、秀子さんがお茶のお給仕に入って来た。
「秀子さん、先日は失礼致しました」
「…………」
「秀子さん、お庭へ参りましょう」
 と新太郎君は第三者のいないところであやまり直す決心だった。
「秀子さん、お供をなさい」
「もう御機嫌を直すんですよ」
 と若夫婦がはたから勧める。
 今度は新太郎君が先に立って例の池のほとりの腰掛へ案内した。
「秀子さん、私が悪かったです。堪忍して下さい」
「…………」
「もう約束は必ず守ります」
「宜くてよ、もう」
「堪忍して下さいますか?」
「えゝ」
「有難うございます」
「私、一週間損しちゃったわ」
「何故ですか?」
「憤っていると面白くないんですもの」
「僕も一週間煩悶はんもんしましたよ」
真正ほんとう?」
「えゝ」
「私、実はあの晩お電話の時、余っ程堪忍して上げようかと思いましたのよ」
「それじゃ何故あんなに仰有ったんですか?」
「でも絶交したばかりでしょう」
「行きがかりですね?」
「まあうよ。先刻さっきのも。オホヽ」
「先刻はきました。ハッハヽヽ」
「私、可笑おかしかったのよ」
「お人が悪いですな。もう絶交はブル/\です。僕はイヨ/\ベスービアス行きかと思いましたよ」
「まあ、厭だ」
「これからはお互に気をつけましょうね」
「私も少し悪かったわ。お電話の時堪忍して上げなかった丈け」
「何あに、僕が悪いんです」
「喧嘩は損よ」
「もう憤りっこなしにしましょうね」
「えゝ、あなたもこれからは直ぐにあやまって頂戴よ。お父さんでも兄さんでも直ぐにあやまりますから、事が大きくなりませんのよ」
「承知しました」





底本:「佐々木邦全集3 脱線息子 大番頭小番頭 勝ち運負け運」講談社
   1974(昭和49)年12月20日第1刷
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
   1927(昭和2)年7月〜1928(昭和3)年7月
※「独息子ひとりむすこ」と「独り息子」、「註文」と「注文」、「従兄弟いとこの寛一君」と「従弟いとこの寛一君」、「真正ほんとう」と「本当」、「恢復」と「回復」、「ここ」と「こゝ」、「五分々々」と「五分五分」、「行き合った」と「行き会った」、「宜しく」と「宜く」、「尚お」と「尚」、「取っつかまる」と「取っ掴まった」、「門倉君」と「角倉君」、「ものゝ」と「ものの」、「身元」と「身許」、「面喰った」と「面食った」、「当てゝ」と「当てて」、「不二家」と「不二屋」、「ことゝ」と「ことと」、「そのまゝ」と「そのまま」、「それぐらい」と「それくらい」、「これぐらい」と「これくらい」、「現われ」と「現れ」の混在は、底本通りです。
入力:橋本泰平
校正:芝裕久
2020年8月28日作成
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