ガラマサどん

佐々木邦




失業の名人


 長男が小学校へ入学して、初めての成績が全甲だった時、さいは、
「矢っ張りこの子は頭が好いわ」
 と得意になった。
「おれに似たんだ」
 と私は主張した。
「オホヽ」
「何だい?」
うでございましょうよ」
「無論さ」
「あなただって決して足らない方じゃありませんから」
 と妻は日頃持っている見積りの一端を洩らした。
「当り前よ。見括みくびるな」
「だから、いって申上げているじゃありませんか?」
「何処へ出たって押しも押されもしない」
「しかし……」
「何だい?」
「勤め運が悪いんですわ」
「然うさ。頭は好いんだけれど」
「あなた、大丈夫?」
「安心していろ。首になったって、ひもじい思いはさせない」
 と私は消極的の保証しか与えられない。
「…………」
「心配かい?」
「えゝ」
「何故?」
「あなたは落ちついた頃が一番危いんですから」
「取越苦労をしたって仕方がない。今の会社にばかり日が照りはしまいし」
「そんなことを仰有おっしゃるところを見ると、又ソロ/\怪しいんじゃございませんの?」
「大丈夫だよ。万一いけないにしても、直ぐに後を探す」
「あなたは後を探すことにかけると名人ね」
「失業しても一月と遊んだことはない」
「そこ丈けは本当にえらいわ」
 と妻も認めてくれた。但し、探す方が名人なら、失う方も名人ということになる。失わなければ探す必要がない。
 実際、私は勤め運の好くない男である。学校を出て直ぐに入った会社は特別に優遇してくれたが、三年目につぶれてしまった。事情が事情だから、涙金を貰うどころか、俸給を一月分倒された。最初その会社へ私を推薦すいせんしてくれた先輩の三好さんは、
「それは君の責任じゃない。不可抗力だ」
 と同情して、その月の中に一流新聞社の口を探してくれた。私はホッと息をついた。結婚したばかりだったから、長く遊んでいるとさいの信用がなくなる。その当座の心持を忘れずに辛抱すればかったのだが、上役に一人意地の悪い辣腕家らつわんかがいて、その機嫌が取り兼ねた。此奴に泣かされたのは私ばかりでない。同難どうなんの向きが大勢あった。一年たって席※(二の字点、1-2-22)やや暖まると共に、私は多少義侠心が手伝って、美事正面衝突をやってしまった。つらを見るのも厭だったから、三四日病気欠勤していたら、
りて御懸念なく明日より御出社に及ばず候。云々うんぬん
 という鄭重ていちょうな辞令に接した。しまったと思ったが、もう追っ着かない。親しい同僚はみんな同情して、その代表者が見舞いに来てくれた。
「兎に角、僕等は僕等で微衷びちゅうを表したいんだが、んなものだろう?」
 という相談だった。
「宜しく頼む」
 と私は無論未練があった。
「それじゃ明日の晩六時に倶楽部へ来てくれ給え」
「よし。皆集まるのかい?」
「うむ。送別会だ」
「何だい? 馬鹿々々しい」
「実は僕等も見殺しには出来ないと言って、れ/″\運動したんだが、手後ておくれだった。元来喧嘩は両成敗りょうせいばいだから、こんなことになる筈はない。君が休んでしまったものだから、うなっているのか分らなかった。諦めてくれ給え」
 と代表者は因果を含めた。
 うなると、唯一ゆいつの頼みは先輩の三好さんだ。以来年賀状を一枚出したきりで具合が悪かったけれど、仕方がない。私は早速伺って、
「先生、又不可抗力に出会いました」
 と一部始終を打ち明けた。
「困ったな」
「何処でも宜いですから、至急一つ」
「差当り心当りはないが、申込があり次第推薦しよう」
 と三好さんは快よく引受けてくれた。出身学校の幹事を勤めているから卒業生を売る責任がある。
 間もなく私は某雑誌社へ紹介して貰った。一年でも新聞社にいたというのが資格になって、考査の形式もなく、直ぐに採用された。しかし私は勤め運の好くないことがソロ/\分り始めた。一年足らずで、こゝも首になってしまったのである。理由は未だに分らないが、文筆癖がたたったのらしい。記者として文章のたしなみは結構な筈だが、私は余所よその雑誌記者と懇意になって、小遣稼ぎの原稿を時折自社の机で書いていた。余暇を利用したので、編輯事務には少しも支障を来さなかったが、矢張りこれがいけなかったのかも知れない。兎に角、或日、
「熊野君」
 と編輯長が呼んだ。
「何ですか?」
一寸ちょっと
「今少し忙しいんですが……」
 と私は迷惑した。某誌の締切が迫っていた。
「冗談じゃないよ」
「何ですか?」
「君は余所の社へ行って働いた方が宜いだろう」
「はあ?」
「この間から考えているんだが、矢っ張りその方が宜いよ。余所へ行って大いに働くことにしてくれ給え」
「僕は何方どっちでも同じことですけれど」
「同じことなら、是非うして貰いましょう」
 と編輯長はそれでもう申渡しを終ったのだった。流石さすがに大衆雑誌だ。婉曲えんきょくに首を切る。
 私はジタバタしない。直ぐに諦めて、母校へ駈けつけた。門のところで三好さんに行き会ったから、会釈えしゃくをして進み寄ったら、
「君、又不可抗力じゃないかい?」
 ともう察していた。
失策しくじりました」
「困るね」
「何処かありませんか?」
「ない」
「何でもいんです」
「今急用で出掛けるところだから、又今度来てくれ給え」
 と三好さんは電車を目がけて駈けて行ってしまった。
 次に私はこの不幸の原因になった記者をその社に訪れた。事情を打ち明けたら、
「それは気の毒だね。何うする?」
 と同情してくれたのを力に、
「こゝで使って貰えまいか?」
 と頼み込んだ。
「さあ」
「無論満員だろうが、一人ぐらい割り込めそうなものだ」
「何か手土産を持って来るか?」
「手土産って?」
「君の方の雑誌に書いている流行はやりが三四人あるじゃないか?」
「うむ」
何奴どいつでも宜いから、一人掻っ払って来るなら、何とか相談して見る」
「それはむずかしい」
「唯じゃ話にならないよ」
 ということで体好ていよくお断りを食った。
 いや、調子に乗って、首になった経歴を書き立てたが、もう端折はしおる。要するに、私はそれから三箇所で毎年のように不可抗力に出会って、現在の会社へ移った。その折、三好さんは、
「熊野君、もう構わないよ。宜いかね」
 と念を押した。
「はあ」
「初めからで何度だったろうね?」
「片一方の手では勘定出来ません」
「学校としてはもう充分責任を尽しているんだから、もう本当に構わないよ」
「今度こそ気をつけます」
 と私もりた。三十を越してう/\腰が据らなくては困る。
「何うして長続きがしないか、考えて見たことがあるかね?」
「さあ」
「然う度々首になるからには、何か道理わけがある筈だよ」
「不可抗力です」
「いや、違う。むしろ君の方が不可抗力だろうと僕は思っている」
ういう意味ですか?」
「否応なしに君の方から切らせるのさ」
「そんなことはありませんよ」
「上への努め方が足らない」
「然うでしょうか?」
「学生時代から当局を当局と思わないようなふうがあったよ」
「…………」
「二年の時、ストライキを起したろう?」
「先生、あれはもう時効じこうにかゝっています」
「いや、あゝいう反抗心が自然に現れるんだよ」
「自分じゃ温厚篤実の積りですけれど」
「何あに」
「相変らず信用がありませんな」
「君は日本の歴史では誰が一番好きだね?」
「さあ」
「徳川家康は何うだい?」
 と三好さんは妙なことを訊き始めた。
「あんな狸親爺は大嫌いです」
「それがいけない。家康公の嫌いなものは大抵成功しないよ」
「そんな統計があるんですか?」
「成功者の嫌いなものが成功する筈はない」
御道理ごもっともです」
「光秀は何うだね? 明智光秀は」
「さあ」
「有りのまゝを言って見給え」
「好きです」
「いけないね。光秀の好きなものは大抵成功しない」
「おや/\」
「熊野君、考えどころはこの辺だよ」
「はあ」
 と私は頷いた。世話になり通しだから無理を言われても仕方がない。
「君は小才こさい相応そうおうく」
「はあ」
「御機嫌を取ろうと思ってかゝれば、随分取れるんだ」
「はあ」
「もっと上へ努めるようにして見給え。屹度きっと重用じゅうようされる」
「大いにやります」
「同輩には何処へ行っても可愛がられるんだろう?」
とても評判が好いんです」
「下には何うだね?」
「さあ。下は小使と給仕丈けです」
「成程。ハッハヽヽ」
「その度に新規になりますから、いつまでたっても一番したです」
「動く石にはこけがつかない」
「確かにうです。役がつきません」
「この調子で行くと、平社員のまゝで頭が禿げてしまうよ。詰まらないじゃないか? 今度こそは腰を据え給えよ」
 と三好さんは懇切に尚お種々いろいろいましめてくれた。
 さて、現在の会社は醸造じょうぞう会社で、規模頗る宏大だ。清涼飲料もやるが、主としてビールをこしらえる。冷蔵室へ行くと、社員は幾らでも飲める。それに待遇も悪くない。今まで入ったうちで一番景気の好い会社だ。私は最初庶務だったが、新聞社にいて筆が立つという評判から、先頃宣伝部へ廻されて、主に広告文案を扱っている。その折、極く少々だったが、俸給が上った。これは私としては生れてから初めての経験だった。
「君は早いです」
 と同僚で殊に懇意な香川君が敬意を表してくれた。実はもうソロ/\いけないのかと内心案じていたところだったから、取り分けて嬉しかった。
「おい。何うだい? 俸給が上ったよ」
 と私は大威張りで、さいに辞令を突きつけた。
「まあ!」
「お美津みつやあい!」
「オホヽヽヽ」
「気を確かに持てやあい!」
「オホヽヽヽ。まさか癪を起しもしませんけれど、驚きましたわ」
「今度こそもう大丈夫だよ」
「私、あなたの俸給が上るなんてこと、一生あるまいと思っていましたわ」
「馬鹿にしちゃいけない」
「本当にお手柄よ」
「本気になればこの通りさ」
「でも九年かゝりましたのね」
「漸く認められたんだ。これから芽を吹く」
「私、矢っ張り心配ですわ」
うして?」
「余り思いがけないんですもの。あなたが大病をなさる前兆ぜんちょうじゃありますまいか?」
 と妻は未だ第一印象が抜けない。
 私は三好さんの忠告に従って、大いに上へ努めている。上といっても、私達の地位では課長級までしか手が届かない。社長や重役には社内で行き会った時、最敬礼をする丈けだ。私に限らず、すべて下積みは此方から咫尺しせきして真価を認めて貰う機会がない。それは課長級の壟断ろうだんするところとなっている。この故に彼等はドン/\出世する。此方はいつまでも取り残される。
「社長や重役の家へは伺わなくてもいんですか?」
 と私は新任早々香川君に訊いて見た。
「年賀に行く丈けです」
「普段は御無沙汰ですか?」
「えゝ。全く交渉がありません。しかし社長の所へは近々機会がありましょう」
「これは有難い。何ですか?」
「令夫人が御病気です」
「お見舞いですか?」
「いや、お葬式です。随分長いですから、もう最近でしょう」
 と香川君は待っているようだった。
「僕達は存在を認められていないんですな」
「そんなことはないでしょう。チャンと俸給を貰っていますから」
「それは然うですけれど」
 と私は気がついて控えた。こゝだ。相手構わずに不平を言うなと三好さんからいましめられている。
 香川君とは机が並んでいたから、直ぐ懇意になった。私は用心しながら話す。先方むこう故参こさんだから遠慮がない。
「毎日斯うやってセッセと働いていても、下積みは詰まりませんな」
 と或日香川君の方から不平を言い出した。
「私なんか下積みの下積みですから。ハッハヽヽ」
「君は幾らでおいでになったんですか?」
「八十円です」
「それなら特別好い方ですよ。学校を出たばかりのものは六十五円です」
「はゝあ。私の下にまだ下があるんですか?」
「ありますとも」
もっとも私は学校を出てから、もう十年以上になります」
「今まで矢張り会社丈けでしたか?」
「いや、新聞社だの雑誌社だのって、方々歩きましたよ」
 とつい告白して、私は急に口をつぐんだ。方々で首になったことをしゃべるなと言われている。
「世の中の荒浪に揉まれましたね」
「はあ」
「しかしこゝは大きいですから、清濁せいだく併せ飲むって具合で、首なんてことは滅多にありません」
 と香川君はもう察してしまった。
「勤め運の悪いものは仕方ありません。まあ/\、こゝで拾って貰ったのを振り出しに、下積みから仕上げます」
「八十円なら必ずしも下積みじゃありませんよ」
「しかし大抵の人は上でしょう」
「それは上には上があります。課長だって上を見れば果しがありません。重役連中は半期に四五万ですからね」
「はゝあ」
「ガラマサどんは十万からですよ」
「社長ですか?」
「えゝ」
「ビールを飲ませて、世間を酔っ払わせて、うまい話ですな」
「本当に」
「何うです? 冷蔵室へお供しましょうか?」
「昼から参りましょう」
此方こっちだって働いているんですから、飲むぐらいの権利はありましょう」
 と私は初めて冗談を言った。
「ガラマサどんは勲三等ですよ」
「それは承わりましたが、んな手柄があったんですか?」
「矢っ張りビールですよ」
「ビールを拵えて同胞を酔っ払わせて、勲章が貰えるんですか?」
「それは半面観はんめんかんに過ぎません。国家の自供自足と[#「自供自足と」はママ]いう点から見るとえらいものです。国産奨励の意味からでしょう。ガラマサどんがビールを拵えなければ、外国品が入って来て、日本の金が海外へ出てしまいます」
「成程」
「国家事業の積りでやっているんです」
「これは驚いた」
「しかし昨今のガラマサどんにはそれぐらいの意気込みがありますよ。勲三等を貰ってから、悉皆すっかり人格を上げてしまいました」
「ガラマサどんてのは大将の綽名あだなですか?」
「えゝ」
「何ういう意味ですか?」
かにのことです」
「はあ?」
「蟹です。蟹に似ているでしょう? 大将の体恰好が」
「成程」
「勲三等になった時、社員が祝賀会を催したんです。大将、大喜びでした。酔っ払って、歌い出したんです。上の句は忘れてしまいましたが、『ガラマサどんの横這い這い』ってんです」
「はゝあ」
「ガラマサどんの横這い這い、キンキラキンのキンキラキン」
「成程。そんな恰好をしたんですか?」
「えゝ。如何にも蟹らしいでしょう。それに体つきが似ていますから、以来ガラマサどんで通っています」
「何処の言葉ですか?」
「熊本の方言ほうげんだそうです。大将は熊本の産です」
 と香川君はガラマサどんの由来を説明してくれた。
 う聞けば皆ガラマサどんと呼んでいる。無論、陰へ廻ってのことで、面と向っては社長様々だ。
「昨夜は到頭ガラマサどんに取っ捉まってしまったよ」
「金曜の晩に行くものじゃない。大将、手ぐすね引いて待っているんだ」
「道理で初めから取り持ちが好いと思ったよ」
「お師匠さんが来ていたろう?」
「うむ」
「何をやったい?」
「例によって日吉丸三段目さ。君、立派な見台けんだいを拵えたよ」
「ふうむ」
上下かみしもも出来た」
「着て語ったかい?」
「うむ。でっぷりしているから、如何にも太夫たゆうさんらしい」
「イヨ/\本式だね。相勤めまする太夫、竹本蟹太夫か? ハッハヽヽ」
「ハッハヽヽ」
 と課長同志が話し合っていた。
 私は早速香川君に、
「ガラマサどんは義太夫を語るんですか?」
 と訊いた。
「やりますよ」
「聞いたことがありますか?」
「えゝ。宴会には必ず出ます。あれで悉皆すっかり酔が覚めてしまいます。尤もそれを察しているのか、酒丈けは全部社長持ちです」
「そんなに下手へたなんですか?」
「横這い/\の方です。しかしガラマサどんが語り出したら油断はなりませんよ」
「何故ですか?」
「秘書の松本君が見張っていて、居睡りをしたり欠伸あくびをしたりするものを手帳につけます」
「後から報告するんでしょう?」
「えゝ。勤務上の参考としていつまでも残ります」
「ボーナスに影響しますか?」
「そんなこともありませんが、俸給を上げません」
「尚おいけない」
「皆知っていますから、固唾かたずを飲んで聞いていて、終ると直ぐに大喝采だいかっさいです。大将、それを自分がうまい所為せいだと思って、大喜びをします」
後生ごしょうの好い人ですな」
「えゝ。やかまし屋ですけれど、斯ういう具合に間の抜けたところがありますから、決して憎まれません。徳人とくじんですよ」
 と香川君は社長を推奨した。
 その後、私は新年宴会で社長の義太夫を拝聴した。香川君の言った通り、三味線が鳴り出すと共に皆かしこまった。語り物は寺子屋てらこやの段だった。それもサワリ丈けの座興でない。本式に源蔵の戻りからやる。
「すまじきものは宮仕みやづかえ……」
 と来た時、私は成程と思って涙を流した。秘書が帳面につけるとすれば、私の勤務成績は満点だったろう。
 しかし社長は実際人気がある。義太夫ばかりでない。何をやっても、ガラマサどんが会社随一だ。ゴルフは重役連中丈けの娯楽で下積みの端倪たんげいすべきところでないが、社長が一番強いらしい。玉突きも天狗で、屋敷に玉突台を三つまで備えている。社長の将棋については、同僚の畑君が、
「ガラマサどんは神さまですよ」
 と感歎した。
「何故ですか?」
 と私は妙に社長に興味がある。
「初段です」
「それじゃ本当に強いんですね」
「いや、弱いんです。免状を買ったんです」
「成程」
「会社では工場長の鬼島きじまさんが一番強いんですが、社長と差すと、いつも大汗です」
「それじゃ社長の方が強いんでしょう」
「いや、うまく負けてやるのに骨が折れるんです」
「成程」
「僕でもうっかり差していると勝ちますよ」
「君もやるんですか?」
「えゝ。大会へ出ようと思って、去年から始めたんです」
「この間のですね?」
「えゝ。毎年社長の屋敷でやるんです。鬼島さんが二等賞を取りました。時価百円からする骨董品こっとうひんを頂戴しましたよ」
「一等賞は誰でした?」
「そこが面白いんです。『一等賞は何うせ我輩にきまっている。我輩のものを我輩が貰っても仕方がないから』って、初めから欠員けついんにしています」
「成程」
みんなわざと負けをしますから、何うしたって社長が一等になります」
「それが分らないんでしょうか?」
「神さまですよ。あれ丈け部下を信じていてくれると思うと、僕達は犬馬の労を厭いません。矢っ張り将に将たる人ですよ」
 と畑君も社長に敬服していた。
 ところでガラマサどんのことよりも自分のことだ。宣伝部へ廻って俸給の上ったのを力に、一安心すると間もなく、甚だ好ましからぬ形勢になって来た。或日庶務課長の中島さんが、
「熊野君、一寸ちょっと
 と呼んだのである。
「話したいことがあるから、応接室へ来てくれ給え」
「はあ」
 と答えて連れ立った時、私はもう落胆がっかりした。以前この手でやられている。
「熊野君、君は小説を書くってね?」
 と中島さんは果して変なことを訊いた。
「さあ」
「何とかいう雑誌へ出して懸賞を取ったってじゃないか?」
「あれは記者をしていた頃の友人がやっているんで、つい勧められたんです」
「何を書いたね?」
「探偵物です」
「ふうむ」
「しかし会社で書いたんじゃありません」
 と私は弁解を始めた。
「無論家でやるんだろうけれど、あれは時間のかゝるものかね?」
「はあ」
「会社でやるとしたら、一日に何枚書けるだろう?」
「事務と違いますから、会社では書きません」
「しかし仮りに書くとしたら?」
「仮りにも書きません」
「君、心配はらないよ」
「はあ」
ほかの人は何と言うか知らないが、僕は会社の宣伝部に君のような文士がいるのを結構だと思っている」
うぞ宜しく」
「仮りに家で書くとしたら……」
「本当に家で書いているんです」
「それじゃ家では一晩に何枚出来るね?」
「五六枚でしょう」
「案外はかの行かないものだね。五枚というと、月に百五十枚」
 と中島さんは考え込んだ。
「…………」
「探偵小説と立志伝は書き方が違うだろうね?」
「さあ」
「君はもっと堅いことは出来ないのか?」
「はあ?」
「例えば青年訓とか成功要訣とかいったようなものさ」
「記者時代には可なり書きました」
「この頃はやらないかね?」
「はあ。成功しない人間が書いたって売れません」
「成程。ハッハヽヽ」
「…………」
「しかし昔取った杵柄きねづかだから、材料さえあれば書けるだろう?」
「はあ」
「君のは好い隠し芸だよ。碁や将棋しょうぎよりも気が利いている」
「…………」
「いや、忙しいところを有難う」
「何う致しまして」
「この話は何れ沙汰のあるまで内聞ないぶんにして置いてくれ給え」
「はあ」
「それじゃもうこれで……」
「中島さん」
「何だね?」
「僕が小説を書くのが問題になっているんでしょうか?」
「そんなことはなかろう。本務に差支さしつかえない限り、何をしたって構わない筈だ」
「余暇を利用しているんですけれど、これから気をつけましょう」
 と私はそれとなく穏便おんびんの計らいを願って引き退った。
 さあ、心配だ。
「あなた、何うかなすって?」
 とさいは直ぐに感づいた。
「毎度のことで面目ないが、又いけないかも知れないんだ」
「厭ですよ、あなた。厭ですよ、あなた」
「十中七八まで又不可抗力らしい」
「何か前触れがございましたの?」
「うむ。おれは能く/\勤めの運が悪い」
 と私はしょげ返って、一部始終を物語った。
 それから一週間たったが、何とも沙汰がない。中島さんは相変らず機嫌よく口をきいてくれる。宣伝部長からは来月の仕事について相談があった。出張の内命さえ下った。首にするものなら、そんな筈はありようがない。して見ると、あれは中島さんが一存で注意をしてくれたのだろうと私は少し安心した。二日三日と何事もない。好い塩梅だと思っているところへ、
「熊野さん、社長さんが御用でございます」
 と言って、給仕が呼びに来た。
「へえッ」
 と私は忽ち飛び上った。

社長自叙伝係


 給仕に従って社長室へ向った私は胸が早鐘をついた。
「何の用だろう?」
 とひとごとのように、それとなく給仕に訊いて見るほど不見識を極めた。
「存じません」
 と答えて、給仕は駈け出す拍子に、折から廊下の曲り角だったので、誰かに突き当った。それが畑君だったことゝ、畑君が私に、
「やあ」
 と声をかけたことゝ、私が何とも応じなかったことをいまだにハッキリ思い出す。尚お足許にゴムバンドの新しいのが一つ落ちていたことも覚えている。人間、九死一生の場合にはとても頭が明晰めいせきになるものだと聞いていたが、確かに然うだった。
 私は先ず秘書の松本さんのところへ出頭して、
「何か御用でございますか?」
 と恐る/\伺いを立てた。松本さんは頷いた丈けで、
「此方へ」
 と私を社長室へ案内した。絨毯じゅうたんと窓掛の色彩が強く目をって、素晴らしく立派な部屋だった。
「やあ」
 と社長が書机デスクから中央の卓子テーブルへ進んだ。
「…………」
「お掛けなさい」
「はあ」
 と私は二度目のお辞儀をして腰を下したが、宣伝部の椅子とは勝手が違う。身体が深くめり込んだのに、すくなからず慌てた。
「熊野君はいつ入ったんでしたかな?」
「一昨年の春からお世話になっています」
「ナカ/\御勉強のようですね」
う致しまして」
「えゝと、御足労を願ったのは他のことでもないが……」
 と社長は言いかけて、
「松本君」
 と呼んだ。
「はあ」
 と松本さんは直ぐに秘書室から現れた。
「あの雑誌を取ってくれ給え」
 と社長が命じた。松本さんは書机デスクの上から取って来て渡した。私はそれを「新大衆」の最近号と認めた刹那、もう運命がきまったように思った。私の書いた探偵物が載っている。
「他のことでもないが……松本君、一寸ちょっと
「はあ」
「君もこゝにいてくれ給え」
「はあ」
「熊野君、他のことでもないが、君は小説を書くね?」
「はあ。その雑誌の記者と知合しりあいで、頼まれたものですから、つい」
 と私は告白と弁解を一緒にやった。
「中島君から聞いて、読んで見た」
「…………」
「探偵小説は黒岩涙香くろいわるいこう以来久しく読まなかったが、ナカ/\面白かった」
「…………」
「しかし君は何故本名で書くんだね?」
「さあ」
雅号がごうはないのかね? 雅号は」
「ありません」
「斯ういうものを書くなら、雅号をつけないといけない。尾崎紅葉、幸田露伴、みんなあるじゃないか?」
「はあ」
「やるなら本式にやる方がいよ」
「もう致しません。本務のさまたげになるように誤解されると困ります」
「何あに、構わないさ。しかし熊野権次郎じゃいけないよ。会社員き出しで、っとも文章家らしくない」
匿名とくめいにすると宜かったんですが、以来もう一切慎みます」
 と私は何うやらお叱り丈けで事済みになりそうにも思えて、一々下から出た。
「社長」
 と秘書の松本さんが存在を示した。
「何だね?」
「この頃は雅号なんてものは時代おくれで、流行はやらないんです」
「そんなことがあるものか」
「いや、その証拠に、新しい小説家は皆本名ですよ」
「はてね」
「それで熊野君も本名をお使いになったんでしょう」
「熊野君、然うかね?」
「はあ」
「それじゃ雅号よりも本名が流行はやる?」
「はあ。大体然うした傾向です」
「ふうむ。妙なことがあるものだね。うも合点が行かない」
 と社長は考え込んだ。
「兎に角、私はこの会社が本務ですから、以来書くことはもう差控えます」
 と言って、私は頭を下げた。
「いや、それには及ばない」
「…………」
「結構ですよ。実は熊野君」
「はあ」
「我輩も考えて見れば、もう取る年で、先が短い。今の中に自叙伝じじょでんを書いて貰いたいと思って、この間から然るべき文章家を探していた。しかし会社外のものに頼むのも具合が悪いから、先頃中島君が義太夫を聴きに来た時、相談して見たら、君がナカ/\達者だということだった」
「はゝあ」
「それから君の書いたものを二三種読んで見たが、皆面白い。何うだね? 探偵小説がいけるくらいなら、自叙伝もいけるだろう?」
「さあ」
「似たり寄ったりのものだ」
 と社長は至って大ざっぱに考えている。
「はあ」
「何うだね? 君、一つ引受けてくれるか?」
「はあ、私の力で出来ることなら、犬馬の労を辞しません」
 と私は首が飛ぶのかと思って心配していた矢先だから、殊更意気に感じて、直ぐにお受けをした。
「それは有難い」
波瀾重畳はらんちょうじょうの御生涯と承わって居りますから、余程浩瀚こうかんなものになりましょうな?」
「上中下の三冊に纏めて貰いたい」
「はゝあ」
「明治大正昭和にわたって、こんな桁外けたはずれの男がほんの少しばかり国家に尽したということをいささか後世へ伝えたいと思ってな」
「はあ」
「二三年かゝって、ゆっくりやって貰いたい。粗製濫造そせいらんぞうじゃ困る」
「心得ました」
「偉人伝というと語弊ごへいがあるが、大体その意気込で宜しい」
「はあ」
「罷り間違えば、現代の青年を多少裨益ひえきしないとも限らない」
「いや、社長の御一生は後進の模範でございます」
「そんなこともなかろうが、読み方によっては、千ざいのち懦夫だふ蹶起けっきせしめるかも知れない」
「はあ」
「君の筆なら必ず相応のものが出来るよ」
「さあ。自信はありませんが、題材が題材でございますから、或は書き好いかとも存じます」
「早速心掛けてくれ給え」
「はあ」
種々いろいろと註文があるから、うっと、今晩、何うだね? 宅へ来てくれまいか?」
「伺います。何時頃がお手空てすきでございましょうか?」
「さあ。七時過、いや、八時頃、御足労を願おうか?」
「承知致しました」
「それでは」
「失礼申上げました」
「御苦労でした」
 と社長は頷いたが、
「熊野君、一寸ちょっと
 と思い直した。
「はあ」
「君に雅号のないのは我輩の自叙伝を書く上に何うも面白くない。熊野権次郎著では如何にも社員に頼んだようで、具合が悪い」
「自叙伝と仰有るからは、無論社長御自身の御著述ごちょじゅつでございます」
「いや、人に書かせたものを自分の名で発表する次第わけには行かない」
「しかし自叙伝でございます」
「それにしてもさ」
「ハッハヽ」
 と松本さんが矛盾むじゅんを認めて笑った。
「こら、何だ?」
 と社長はむずかしい顔をした。
「はあ」
「自叙伝を人に頼むのが可笑おかしいのか?」
「いや、決してうではございません」
「我輩は部下に本を書かせて自分のものゝような顔をする社長や頭取と違う」
「はあ」
 と松本さんは可哀そうにこうべを垂れて只管ひたすら恐縮していた。
「熊野君」
「はあ」
「雅号のないのに、我輩、どうしても感心出来ない」
「はあ」
「松本君、君は何う思う?」
 と社長は不機嫌になっていた。
「それは無論号のある方が本式でございましょう」
「ございましょうではハッキリしない」
「ございます」
「熊野君、今も言った通り、熊野権次郎では文章家らしくない。素人に書いて貰ったと思われると、折角の自叙伝に権威けんいがつかないから、君、一つ雅号をつけ給え」
「承知致しました」
「我輩が考えてやろうか?」
「何うぞ願います」
「バクエンは何うだい?」
「はあ?」
「バクエン」
「何う書きますか?」
麦園ばくえん、麦の園さ。麦酒会社に勤めているから」
「結構でございます」
「それじゃ以来麦園と号し給え。熊野麦園。如何にも文章家らしい」
「有難うございました」
 と私は謹んで拝受した。大抵なら、これぐらいで喧嘩をして不可抗力になるのだが、相手が社長だから仕方がない。
 松本君は私を廊下まで送って来て、
「御苦労でしたね」
 とねぎらった。
「種々とお世話になりました」
 と私はお礼を言って、額を撫でたら、汗をかいていた。
「大役を承わりましたな」
「はあ」
「大将、あの通りですから、これから先が思いやられますよ」
「私も何うして宜いのか分りません」
「心得を話して上げましょう。その中宅へいらっしゃい」
「是非伺わせて戴きます」
「要するに、何と言われても、さからわなければ宜いんです」
「はあ」
「元来豪傑気取のところへ、勲章を貰ってから誇大妄想こだいもうそうが手伝っています。西郷どんとガラマサどんと何方どっちだろうなんて言いますよ」
「綽名を御存知ですか?」
「そこです。私はつい『それはガラマサどんです』と口走ってしまいました。『こら、ガラマサとは何だ?』と笑いながらでしたが、早速逆捻さかねじを食わせました」
「危いですな」
「うっかり出来ません」
「気をつけます」
「万事うまく調子を合せることです。しかし精々日露戦争時代の頭ですから、う恐れることもありませんよ」
「はあ」
「簡単です。今の麦園がその一例でしょう」
「あれには驚きました」
「御自分の言条いいじょうは必ず通します」
「何うしてあんなに御機嫌が悪くなったんでしょうか?」
「あれは私が口を出したり笑ったりしたからです」
「はゝあ」
「お山の大将ですからね」
「飛んだ御迷惑をかけました」
「何あに。しかし好い人ですよ。一旦目をかけたからには一生捨てません。我儘な代りに人情味たっぷりです。大将が直接お頼みするなんてことは滅多にありません。これを機会に精々腕を見せるんですな。それじゃその中いらっしゃい」
 と松本さんは秘書を勤めている丈けに如才じょさいない。昨日までは通り一遍の没交渉で、会っても知らん顔をしていたが、今日は私の肩を叩いてくれた。平社員も社長の息がかゝると違う。
 宣伝部の机へ戻ったら、畑君が、
「何処へ行ったんだい?」
 と訊いた。
「社長室さ」
「え?」
「ハッハヽヽ」
 と私はもう得意になっていた。
「何の用で?」
「仕事を頼まれた」
「君がかい?」
「然う見括みくびったものじゃないよ」
「おい、本当かい?」
「嘘をつくものか」
「社長室へ呼ばれたこと丈けは確かだね。先刻廊下で行き会った時、顔色がんしょくつちの如くだったもの」
「あの時はテッキリ首だと思ったが、世の中は案外なものさ」
「何うしたんだい?」
「話して宜いんだか? 悪いんだか?」
ふくんで置くよ」
「実は社長の自叙伝を頼まれた」
「ふうむ」
「何うしたものだろう? 君の勘弁かんべんを借りたい」
「しかしもうお受けをして来たんだろう?」
「うむ」
「それじゃ勘弁も何もないじゃないか?」
「一寸お世辞を使ったのさ」
「こん畜生!」
「ハッハヽヽヽ」
「しかし有望だよ」
「悪い兆候ちょうこうじゃなかろう」
「ガラマサどんは一旦認めた人間は意地にも引き立てる。君はこれから芽を吹くよ」
 と畑君も私の前途を祝してくれた。
 その日の退出時刻に、庶務課長の中島さんから呼び出しが来た。今度は安心して出頭すると、辞令だった。社長秘書兼務を命ずというのが一枚、昇給が一枚。自叙伝完成後編纂料が貰えるのだろうと思っていたら、覿面てきめんなのに驚いた。
「宣伝部の仕事は今まで通りにやって、社長の都合の好い時丈け秘書を勤めて戴く」
「はあ」
「秘書兼務といっても、松本君がいるんだから、君のはほんの形式に過ぎない。社長から呼び出しのあった時丈け詰めていれば宜しい。まさか社長自叙伝係とも書けないから、秘書兼務としたので、松本君とは全然仕事の性質が違う」
 と中島さんはその辺に誤解のないように説明した。
「承知致しました」
「社長もナカ/\考えている」
「何故でしょうか?」
「自叙伝を会社の俸給で書かせる」
「しかし私は余り公私の別を立てゝ戴かない方が結構です」
「何うして?」
「会社の俸給なら永久的です。お役目が済んだからって、まさか引き下げることはございますまい」
「成程。君も考えているね」
「実は、中島さん」
「何だね?」
「私はこの間から大心配をしていました」
「この問題でだろう?」
「はあ、小説を書くのがたゝったのかと思いまして……」
「ハッハヽヽ」
「或は因果を含められるのかと※(二の字点、1-2-22)ほぼ覚悟を極めていましたところ、全く案外でした」
「実はこの間はついでをもって一寸おどかした気味もある」
「お人が悪いですな」
「ハッハヽヽヽ」
「しかし有難うございました」
 と私は満足だった。公私混合でも、俸給の上るに苦情はない。会社の金なんてものはうせ誰かが使ってしまう。
 折しもあれ、室内のものが一斉に立ち上って姿勢を正した。見ると社長がノッソリ入って来た。私は特別丁寧に頭を下げた。
「熊野君」
 と社長が私を呼んだ。
「はあ」
「時間の都合がついたから、これから直ぐに家へ帰る。君も一緒に来ないか?」
「はあ」
「もう仕事は済んだんだろう?」
「はあ。直ぐにお供致します」
 と私は大得意だった。室中へやじゅうの視線が私に集注した。
「それじゃ出掛けよう」
一寸ちょっと外套を着て参ります」
「玄関で待っている」
 と社長は先に立った。
 私は社長と同乗で会社を出た。附近の交叉点で一寸の間止まっている中に、電車を待っている社員達が社長を見かけて脱帽した。私が会釈したら、私にもお辞儀をした。虎の威光いこうは借りるまでもなく、側に坐っていると自然に身につく。
「社長」
「何だね?」
「今日は好いお天気でございますな」
「うむ」
「昨日は一日曇りましたけれど」
「朝少し降ったよ」
「はあ。一昨日は一日時雨しぐれました」
「然うだったかね」
「冬初めのお天気は何うも長続きが致しません」
 と私は話しているところを見て貰いたさに、大いに努力したのだった。我ながら浅ましいと思ったが、仕方がない。会社員には会社員の本能がある。
 自動車の中は※(二の字点、1-2-22)ほぼ対等だったが、新邸に着くと大将と一兵卒の関係に戻った。私は応接間へ通されたきり、二時間近く待たされた。尤も女中がお茶を代えに来て、
「唯今御入浴中でございます」
 と報告した。次に、
「唯今電気按摩をかけていらっしゃいます」
 とあった。
「唯今血圧を計っていらっしゃいますから、もう直ぐでございます」
 と五杯目のお茶が出てから間もなく、
「何うぞ此方へ」
 ということで、食堂へ案内された。社長は和服に着替えて、夕刊を読んでいた。
「やあ」
「お邪魔を申上げます」
「何あに、一向構わんよ」
 と好い気なものだ。御大将おんたいしょうとして長年修業を積んでいるから、人を待たせることがっとも苦にならない。
「さあ。何もないけれど」
「恐れ入ります」
 と私は相対して大きな食卓についた。広い西洋間でガランとしている。
男鰥おとこやもめだから、生憎と御接待が出来ない」
 と社長が沈んだ調子で言った。去年奥さんを失って、もう後を貰わない。これには、
「貰いたくても、あんな爺さんのところへ来るものはあるまい」
 とけなすものもあれば、
「いや、社長の成功は半ば奥さんの内助による。それを忘れないから、病中も実に大切だいじにしたそうだ。何処までも義理を立て通すところが矢っ張りガラマサどんのガラマサどんたる所以ゆえんさ」
 とめるものもある。実業界の巨頭にも拘らず、若い時から品行方正の人だった。近頃、一世の師表しひょうをもって任じて自叙伝を思い立ったのも、その辺の確信から来ているのかも知れない。存在を認められたので急にお太鼓を叩くように思われては困るが、私も内心つとに社長の人格に興味を持って、陰ながらの贔屓ひいきだった。無論癖はある。しかし人間味たっぷりの人だ。社長が、
「男鰥だから……」
 と淋しそうに言った時、私は自叙伝記者という矛盾した職分を真剣でやる決心がついた。人間て奴は妙なところで感じる。
 私達は食事中、早速その自叙伝の打ち合せを始めた。
「熊野君、急に君をわずらわすことになったが、実は一ちょうせきの思いつきじゃない。この一二年、手当り次第に伝記書類を読んで見た。しかし何うも気に入らん。初めから教訓の積りで書いているから、肩が凝ってしまう」
 と社長は葡萄酒を飲みながら語り出した。
「はゝあ」
たとえば、孔子さまは三十にして立ったから、お前達凡人も、所謂いわゆる而立じりつで、三十にして立たなければいけないというような註文をしている。些っと無理じゃなかろうか?」
「はあ」
「我輩はあゝいう教訓の押売をしたくない。第一、読む人間が可哀そうだ」
「それでは教訓は全然抜きで参りますか?」
「いや、違う。読んで教訓にならなければいけない」
御道理ごもっともでございます」
「一つ新機軸を出して貰いたいな」
「精々努めます」
「小説を書く君に目をつけたのも、その辺の期待から来ている」
「生い立ちから面白く筆を起しましょう」
「いや、生い立ちなぞはうでも宜しい」
「はあ」
「例えば我輩が元治元年に生れたというようなことは問題でない」
「はあ」
「それよりも我輩の精神を書いて貰いたい」
「無論それが眼目でございます」
 と私も骨が折れる。
「例えばシェキスピールの生れた年は学者間に意見が一致していない。各自区々てんでんまちまち別々べつべつのことを言っている」
「はゝあ」
「西洋紀元の基準になるキリストにしても学者の研究によると、誕生日が二年間違っているそうだ」
 と社長は耳学問で案外のことを聞き込んでいる。
「はゝあ」
えらい奴になると、生年月日なんか問題でない」
「はあ」
「人間も履歴書が時々要るようじゃ駄目だ」
「恐れ入りました」
 と私は覚えず頭を掻いた。
「ハッハヽヽ」
「耳が痛いです」
「年代に疑問があっても、シェキスピールの精神キリストの精神は分っている。それを書いたものがシェキスピール伝キリスト伝じゃあるまいか?」
「御道理でございます」
「君は我輩の経歴を書こうと思っちゃいけない」
「はあ」
「日常我輩に接触していて、見聞したところを書けば宜しい」
 と社長は漸く要領に達した。
「すると自叙伝よりはむしろ言行録でございますな?」
「いや、生きた言行を材料にして自叙伝を書くのさ」
「成程」
「例えば、今日は社長がこんなことを言ったとか、あんなことをしたとか、と覚えて置いて、成るべくそのまゝに書いて貰いたいのだが、下手をやると、速記録みたいなものになる」
「はあ」
「速記録なら速記者を頼む方が早い。しかしそこをうま塩梅あんばいして、ガラマサどんの精神を如実にょじつに現すのが君の腕さ」
「成……」
 とまで言って、私は後を呑み込んだ。危い。
「社長」
「何だね?」
「ガラマサどんてのは何のことでございますか?」
「君は知らないのか?」
「はあ、一こう
 と私は松本さんの覆轍ふくてつに鑑みたのだった。
「我輩のことさ」
「はゝあ」
「君はだ日が浅いから知らないのだろうが、我輩の綽名あだなだそうだ」
「はゝあ」
「社員の中には存外不届ものがいる。しかしそれも我輩の精神が部下に徹底していない証拠だと思うと、慚愧ざんきに堪えない。熊野君、君も責任が重いぜ」
 と社長は豪傑気取にも拘らず、矢張こんなことを気にするのらしい。
「大体要領が分りましたが、自叙伝として筆を起す関係上、一応社長の御経歴を伺って置きませんと、何うも都合が悪いように存じます」
「それは無論子供の頃からの艱難辛苦を詳しく話す」
「何うぞ願います」
「追々さ。今じゃない」
「はあ。社長の御一生は奮闘の御一生でございますから、自叙伝から絶大の感激を受けて生活を立て直すものが必ず出て参りましょう」
「さあ、無論然うあって欲しいんだが」
「私も全力を尽します」
「読みさえすれば、多少の教訓はある積りだ」
「いや、読者以外にも裨益ひえきするものがございます」
「誰だね? それは」
「直接編纂へんさんの任に当る私はいの一番でございます。お蔭を持ちまして、好い精神修養が出来ましょう」
 と私はこのところ取入り専門だった。
 社長は上機嫌で話し込んだ。葉巻の灰をコーヒの中に落しながら、不図ふと思い出したように、
「熊野君、これが我輩の癖だ。長い間の悪い癖さ。家内が始終やかましく言ったが、未だに改まらない」
 と溜息をついた。
「召上らないで、灰皿に御利用のようでございますが」
「然うさ。灰皿に落せば宜いのに、コーヒの中へ落す。チュッと音がするだろう? これが何とも言えない好い心持だ」
「はゝあ」
「家内は口やかましい女だったけれど、亡くなって見ると淋しいよ」
「御同情申上げます」
「いや、つい、詰まらない愚痴になった。ハッハヽヽヽ」
「何う致しまして」
「熊野君、我輩はコーヒについてはもっと勇猛な思い出がある」
「早速承わりましょう」
「我輩が熊本をおっ走って東京へ出て来たのは明治十七年、二十一の時だった。これは覚えて置いてくれ給え」
「はあ」
「或日同郷の先輩のところへ頼って行ったら、お茶の代りに妙なものを出した。甘くて苦くて頗るうまい。『何ですか?』と訊いて見たら、『コーヒとうじゃ』と言う。その頃のコーヒはこの節のと違って、角砂糖の中へ仕込んであった。砂糖ごと熱湯で解かして飲む」
「私も子供の時飲んだことがあります」
「それは感心だ」
「しかし余りうまかったとも覚えていません」
 と私は味まで思い出した。
「ところが我輩は田舎漢いなかものだったから、東京の紳士は実に豪いものを飲んでいると思って、悉皆すっかり敬服してしまった。我輩も一つ毎日コーヒ湯の飲める身分になってやろうと発憤して勇猛心を起したのさ」
「はゝあ」
「しかしコーヒ湯はナカ/\飲めん。これはとても駄目かとさえ思った」
 と社長は又コーヒの中へ葉巻の灰を落した。

生きた材料


 或朝、出勤の電車の込み合いの中で、
「熊野さん」
 と私を呼んだものがあった。振り返って見ると、販売課の柳下君やぎしたくんだった。
「何うぞ」
 と会釈して席を譲ろうとしている。
「宜いですよ」
「いけません。何うぞ」
「もう直ぐですから」
「いや。あなたは年長者です」
「それでは」
 と私はお言葉に甘えた。柳下君は私より若いけれど、会社ではズッと故参こさんだ。つい先頃までは、同じ電車に乗り合せても、平気で新聞を読んでいたのである。
「何うですか? お忙しいでしょう?」
 と柳下君は私に代って吊革に下りながら訊いた。
「掛け持ちで、天手古舞てんてこまいです」
「しかしそれ丈のことがおありでしょうから、結構ですよ」
「何あに、叱られるのが儲けぐらいのものです。松本君も始終こぼしています」
「松本さんと同じ仕事をなさるんですか?」
「はあ。無論僕は手伝いですが、家へまで引っ張られるんですから、僕の方が本当のプライベイト・シクレタリーかも知れません」
「信用が篤いんでしょう」
「いや、お人好しだから、使い宜いんですよ」
 と私は謙遜してやった。
「まさか」
「ハッハヽヽ」
「ガラマサどん、いや、社長はナカ/\精力家だそうですな」
えらいものですよ。矢っ張り体力からして普通人じゃありません」
「はゝあ」
「僕も随分丈夫な方ですけれど、お相手に骨が折れます」
「お家へは始終伺うんですか?」
「いや、時折ですが、大将、話し好きですからね、おそくなるんで困ります」
「成程」
「昼間働いた上に、十一時十二時までお相手をすれば、誰だってねむくなりまさあ」
御道理ごもっとも
欠伸あくびをすると、大将、頗る御機嫌が悪いんです」
「はゝあ」
「大将は決して欠伸をしません。僕は見たことがないんです」
「矢っ張り精力家ですなあ」
とても敵いませんよ」
「お察し申します。しかしその分認めて戴けるんですから」
「何あに、叱られてばかりいます」
「何う致しまして」
 と柳下君は羨ましそうだった。
 次の停留場で、機械課の臼井さんが乗り換えて来た。
「やあ」
「何うぞ」
 と今度は私が譲る番だった。この人は私よりも数年の長者ちょうじゃである。
「飛んでもない」
「あなたは御老体です」
「冗談言っちゃいけない」
「さあ。何うぞ」
「もう直ぐだ。これで結構」
 と臼井さんはいっかな応じない。尤も後二停留場だ。
「それでは失敬します」
 と私はそのまゝ納まった。
「何うだね? 社長秘書は」
 と臼井さんは釣下って私に話かけた。し吊革がなかったら、正に私を撲ろうとする構えだ。しかし多大の善意を持っている。
ほんのお手伝いです」
「本務よりも忙しいだろう?」
「掛け持ちですから、彼方此方あっちこっちと天手古舞いです」
「お察し申す」
「夜まで引っ張られるんですから、かないません」
「淀橋の方へ伺うのかね?」
「はあ」
「それじゃ大変だ。義太夫を聴かされやしないかい?」
「はあ。それで弱るんです」
「ガラマサどんのデン/\と来たら、皆遁げ出すんだからね」
「欠伸をすると、御機嫌が悪いです」
「当り前さ。宴会の時は松本君が手帳につけている」
「宴会の時は大勢ですけれど、家では二人差向いですから、っとも油断がなりません」
 と私は訴えた。
「まあ/\、精出して拝聴することだよ」
「はあ」
「相手がガラマサどんだ。悪いようには決してしない」
「はあ」
「君は義太夫が嫌いかい?」
うでもないんですけれど、妙に草臥くたびれますよ、大将のは」
「素人芸は皆然うさ。至らないところを補って聴いているから、精力の持ち出しになる。君」
「何ですか?」
「好い法がある。伝授しようか?」
「何うぞ願います」
「耳へ綿を詰めて行くんだ」
「さあ。他の用事の時、聞えないと困ります」
「用意していて、イヨ/\始まる時に、便所へ立って詰めて来れば宜い」
「成程」
「こんなことを僕が教えたと言っちゃ困るぜ」
「大丈夫です」
「実は僕の方の連中は宴会の時、皆実行しているんだ」
「はゝあ」
専売特許せんばいとっきょさ。真似をされちゃ困る」
 と臼井さんは伝授のくだりから急に声を潜めて、柳下君に聞えないように計らった。
「流石は機械課ですな」
「ハッハヽヽヽ」
「ハッハヽヽヽ」
「何ですか?」
 と柳下君が首をのばして訊いた。
「秘密々々」
 と臼井さんは相手にしない。
「熊野さん、何ですか?」
「冗談ですよ」
「教えて下さい」
「さあ。困りましたな」
「決して喋りません」
 と柳下君は益※(二の字点、1-2-22)好奇心をそそられる。
「それじゃ後から」
「何うぞ」
「いけないよ、熊野君。洩らされると、僕は課のものに申訳がない」
 と臼井さんはそれも然うだったかも知れない。
 この二人は一般同僚の態度を代表している。私は社長秘書兼務を仰せつかって以来、急に人気者になった。上の人も下の人も、
「熊野君、何うだね?」
「熊野さん、何うですか?」
 と競って珍重してくれる。二年そこ/\の新参だから、下といっては給仕小使の外殆どない筈だったが、同輩が一目置いて下になってくれたのである。今まで全く交渉のなかった他の課の連中まで何かの切っかけに話しかける。
「熊野さん」
「何ですか?」
「あなたは昨日の夕方、社長とお二人で京橋のところで自動車からお下りになったでしょう?」
「えゝ。大好堂だいこうどうへ寄ったんです」
「僕、外から覗いて見ました」
「然うでしたか」
骨董屋こっとうやですな? あすこは」
「えゝ」
「あなたはあのほうの趣味がおありなんですか?」
「いゝえ、ほんのお供です」
「日曜でもお家へ伺うんですか?」
「お閑だったものですから、呼び出されたんです」
「大変ですなあ。お忙しいでしょう?」
「天手古舞いです」
「社長のお家へは年賀に上る丈けですが、駅から大分あるようですな?」
「十分ぐらいのものでしょう」
「然うですかねえ。もっと遠いような気がしましたが」
「慣れると近いです」
「あなたのお宅は何処ですか?」
「青山です」
「すると会社へは市電でおいでですな?」
「えゝ」
「何分かゝりますか?」
 といった具合で、相手になっていると、果しがない。会社まで何分かゝるかということは皆が訊くから、余程重大な問題だろうと思っていたが、これは住所を尋ねた後、ほんのお世辞に心配してくれる丈けで、深い意味はないのだ。考えて見れば、一時間かゝろうが、二時間かゝろうが、本人以外には痛痒つうようない。
「二十五分かゝります」
 と私はその都度答えているのに、昨今でも、
「お宅は青山でしたね。会社まで何分かゝりますか?」
 と未だに半分しか覚えない男がある。
 宣伝部に机を並べている畑君丈けは親しい間柄だから、然う慌てゝ態度を変えない。私の値打を初めから認めている。何も彼も知っているのだから、この男に向って勿体もったいぶっても仕方がない。
「熊野君、君はとても素晴らしい人気だぜ」
 と云って、喜んでいる。
「もう平社員じゃないんだからね」
「皆も然う誤解しているんだ」
「君に会っちゃかなわない」
「余っ程信用があると思っているよ」
「有難いね」
「ガラマサどんの懐刀ふところがたなだって評判だ」
「ハッハヽヽ。しかしこれでも肥後守ひごのかみぐらいの切れ味はあるかも知れないよ」
「精々その辺だろうが、世の中は面白いものさ」
「何故?」
「僕まで鼻が高いんだ」
「ふうむ」
「君と懇意にしているものだから、皆それとなく敬意を表してくれる」
「そんなに豪くなったのかなあ、僕も」
「兎に角話と云えば君のことだ。君の経歴を僕のところへ訊きに来る奴さえある」
「宜しく宣伝してくれ給え」
「いや、僕は事実ありのまゝを正直に話している」
「それじゃ宣伝部にいる資格がないぞ」
「先刻も米沢君が熊野君は一体何新聞から来たんですかと訊いたから、新聞は三つ四つ前でしたろうと言って置いた」
「いけないね」
「新聞の次が雑誌だったのかい? 雑誌の次が新聞だったのかい?」
「新聞から雑誌、それから後は会社ばかりさ」
「それじゃその通りだ」
「方々で首になったことまで喋ったのかい?」
「うむ」
「よしてくれ」
 と私もこれには恐れ入った。
「ところで何うだい? ガラマサどんの自叙伝は」
「一向目鼻がつかない。大将、義太夫ばかり語って聴かせる。昨夜は十二時さ」
「未だ一枚も書かないのかい?」
「材料がないから、手のつけようがない」
「しかし材料蒐集しゅうしゅうの為めに私宅へ伺うんだろう?」
「それは然うだけれど、大将、少し話すと直ぐに気が変って、『何うだい? 一段聴かせようか?』と来る」
「君は能く辛抱が続くね?」
「これから取り入ろうってところだもの。此方は素より一生懸命
「おや/\?」
いやもう/\大抵のことじゃござんせぬ
「よし給え。馬鹿々々しい」
 と畑君も義太夫は耳に綿の欲しい方だ。
「大将、註文が無理だよ。『経歴なんかうでも宜い。成るべく接触していて、見聞したところから直ぐに精神を書け』と言うんだ。例のシェキスピールの精神、キリストの精神さ」
「国産ビールの精神だろう」
「然うかも知れないが、大将、自信家だからね。西郷どんに会って感じたところを書くのが本当の西郷伝じゃあるまいかと言っている。僕はガラマサどんから何か霊感インスピレーションを受けるのを待っているんだ」
「西郷どんとガラマサどんは一緒にならないよ」
「それは分っているけれど、口に出した日には忽ち御用御免になる」
「一体いつまでに仕上げろと言うんだい?」
「三年かゝっても五年かゝっても宜いんだそうだから、此方も敢えて急がない」
「しかし出来る丈け早くやる方が君の為めだぜ」
「何故?」
「大将はもう六十六だから、いつコロリとくかも知れないよ」
「いや矍鑠かくしゃくたるものだぜ。僕なんかとてかなわない」
「万一の場合さ。自叙伝の出来ない中に間違があって見給え。君の立場は随分変梃なものになるぜ」
もと木阿弥もくあみさ」
「現在得意な丈けに思いやられる」
「木から落ちた猿かね?」
「それで済めば結構だけれども」
「まさか首にはなるまい?」
「首になる理窟はないが、君の性分として辛抱が出来るか知ら? 君は不平があると直ぐやめる男だからね」
「それはその時になって見ないと分らない」
「何あに、もう六回おん出されたかおん出たかしている」
「おい」
「何だい?」
「そんなにツケ/\物を言うなよ」
「君の為めを考えてやるのさ。取越し苦労のようだが、この不景気に中年者が短気を起したら、もうお仕舞いだぜ」
「驚いたなあ。昨今僕に意見をするのは君丈けだ」
 と私は少々不平だった。
「一体君は自叙伝が目的かい? 出世が目的かい?」
「無論出世さ。幾度も話しているじゃないか? 自叙伝に粉骨砕身ふんこつさいしんしてから、感心な奴だという次第わけで引き立てゝ貰うんだよ」
「それなら益※(二の字点、1-2-22)急ぐ必要がある。ガラマサどんが生きていればこその自叙伝だからね」
「分っているよ」
「ガラマサどんが丈夫でいればこそ引き立てゝ貰えるんだからね」
「急ぐよ」
釈迦しゃかに説法かい?」
「まあ、その辺だろう」
「君はその通り現金だから案じられる。トン/\拍子になると元気が好いけれど、普段はカラキシ駄目だ」
「そんなこともなかろう」
「いや、この間まで不平ばかり言っていたぜ」
 と畑君は私の平素を知っているから、退きさせない。
 私は午前中宣伝部の仕事をして、昼から社長室へ出仕する。松本さんの手伝いをしながら、社長の為人ひととなりを研究することになっている。
「生きた材料を提供してあるんだからね」
 と社長は言う。
「はあ」
「ねえ、松本君」
「はあ」
 と松本さんもデスクから頭をもたげなければならない。うっかりしていると叱られる。社長は尚おひまを見て昔話をする。
一寸ちょっと思い出したから、熊野君の参考の為めに、吾輩の腕白時代を物語ろう。松本君も聴いてくれ給え」
「はあ」
「君達と違って、我輩は寺子屋てらこやの教育を受けたものだ。時世におくれている筈だよ」
「何う致しまして」
「君達はいつか我輩の語った菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ、寺子屋の段を聴いたろう?」
「はあ」
「松本君」
「はあ」
「君はあの時、ビラに寺小屋てらこやしょうの字を書いたね?」
「はあ」
「あれはいけない。子だよ。子供の子さ。寺子てらこといったものだ。寺子の集まるところ即ち寺子屋さ」
「然うでしたか。私は寺の小屋だとばかり存じていました」
「新しがっても、う無学じゃ仕方がないぜ」
「恐れ入りました」
「あの寺子屋の段の通りだったよ。お師匠さんは矢張り浪人だった。弓矢は家に伝えても、今は仕えん君知らず、はねなき矢間重次郎やざまじゅうじろう尾羽おはち枯らしていたのだろう」
「はゝあ」
「考えて見ると、日本て国は変な国だった。実に変な国だった。何うも変な国だった」
「何故でございましょう?」
 と、斯ういう時気をかさないと直ぐに御機嫌が悪くなる。
「寺子屋といえば、大抵浪人の仕事だった。最も大切な普通教育を失業者がやっていたんだからね」
「成程」
「未だ丁髷時代ちょんまげじだいで、今思い出して見ると、お師匠さんは丁度武部源蔵たけべげんぞうさ。我輩は寺子屋の芝居を見る度に何ともいえない懐かしい心持がする。語る時でも本当に泣いているんだ。あだおろそかに聴かれちゃ困る」
「はあ」
「矢張り昔のものは好い。活動写真なんか見るものは馬鹿だよ」
「はあ」
「確かあの会の時だったが、我輩の語った直ぐ後から映画説明の真似をした男があったね」
「さあ」
「あれは誰だい?」
「余興は大勢やりましたから、誰でしたか一寸ちょっと思い出せません」
 と松本さんは明答を避けた。これがこの人の好いところだ。
「あゝいう人間は将来見込がない」
「しかし好き/″\で仕方がないでしょう」
「それにしてもさ」
「はあ」
「社長の寺子屋時代はお幾つ頃でしたか?」
 と私は又気を利かした。
「八つから入ったように覚えている。明治三、四年だったろう」
「はゝあ」
「お師匠さんはナカ/\厳しかった。我輩は腕白もので叱られ通しさ。しかし胸はさとかった。お師匠さんも『太田原は名詮自性みょうせんじしょう宗郷むねさとじゃの』と頭は認めていてくれた」
栴檀せんだんは二葉よりかんばしかったんですな」
「何あに、十で神童の組さ。到頭こんな馬鹿ものになってしまった」
「何う致しまして」
「ハッハヽヽヽ」
「図抜ける人は矢張り子供の時から違いますよ」
「僕なんか子供の時だって今だって褒められたことはありません」
 と松本さんは厭味いやみを言った。
「兎に角、目から鼻に抜けるような子だった。何処へ行っても、太田原の宗郷さんは胸が敏いという評判さ。当時は頭ってことは言わなかった。頭は頭痛の道具とでも思っていたのだろうか?」
「さあ」
「頭の悪いことを胸がうといと言ったものだ。胸に手を当てゝ考えるとか、腑に落ちないとか、肚だとか度胸だとか胆力だとか、頭の働きを胴中どうなかでやっていたんだね」
「これは面白い御観察です」
「膝とも談合なんて、もっと下の方へ持って行っている」
「ハッハヽヽヽ」
「いや、何うも我輩は余談に入っていけない」
「思想豊富でいらっしゃるからです」
閑話休題かんわきゅうだい。その太田原の宗郷さんだが、褒められて増長したんだね。いつの間にか餓鬼大将になってしまった。尤も群鶏ぐんけいの一かくさ。『何れを見ても山家育やまがそだち。繁華の地と違い』って次第わけで、侍の子は我輩一人だった。小さい刀を一本差していた。自然押しが利く」
「成程」
「しかしお師匠さんにはかなわない。失業者にしては教育家だったよ。侍の子も町人の子供も差別しない。我輩がいたずらをすれば、胸のうとい百姓の子供と同じように罰する。机を捧げさせられたり、線香を持たされたり、ざまはない。これが癪に障った。此方は何処までも侍の子だという頭がある」
御道理ごもっともです」
「口惜しくて仕方がないけれど、お師匠さんは影を踏んでも罰を当てると聞かされている。怖くて手出しが出来ない。そこで考えたんだよ、長いこと」
「はゝあ」
「お師匠さんは勿体ないから、代りに奥さんに敵討をしてやろうと思いついた。奥さんは世話を焼く丈けでっとも教えない。お師匠さんの奥さんだけれど、お師匠さんじゃないから大丈夫と考えた。迷惑千万な話さ」
「イヨ/\佳境かきょうに入りますな」
「そこで我輩は或日谷川たにがわへ行って、大きなガラマサどんをつかまえて来た」
「はあ?」
「ガラマサどんさ」
「何ですか? 一体全体」
かにだよ」
「はゝあ」
「蟹の大きなのを捉えて来て、奥さんの袂へ入れた。夏のことだから、ガラマサどん元気が好い」
「ハッハヽヽヽ」
「這い上って行って、腋の下をはさんだ。大変な騒ぎさ」
「ハッハヽヽヽ」
 と私達は大笑いをして顔を見合せた。危い/\。
 ガラマサどんは国産ビールの外三つ四つの会社に関係しているから忙しい身体。日中、閑といっては殆んどない。話し始めると間もなく、訪問客が見えたり重役が入って来たりして、
「それじゃ熊野君、今の続きは今晩ゆっくり話そう。思い出した時やって置かないと忘れてしまうから、御苦労だけれど、今晩七時までに来てくれ給え」
 というようなことになる。私は家へ帰って、夕食をしたためてから、淀橋の新邸へ出頭する。そこでは滅多に邪魔が入らない代りに、社長は思う存分待たせる。時間をやかましく言う人だが、あれぐらいの地位になると、自分のことは特別にしている。それで通るから仕方がない。此方は後生大切ごしょうだいじと必ず七時までに駈けつけるけれど、社長が応接間に現れるのは八時過だ。
 或晩、いつもより長く待たされた。私は幾度も時計を見て、
「これなら八時過に来いと言ってくれゝば宜いのに」
 と呟いた。次いで退屈の余り欠伸あくびをしているところへ、女中がお茶のお代りを持って来て、
「お待ち遠さま」
 と笑った。
「今晩は特別長いですな」
 と私は両肘を突っ張って首を左右に動かした。肩が凝っている。
「もうソロ/\でございましょう」
「何をしていらっしゃるんですか?」
「およっていらっしゃいますのよ」
「え?」
「お休みになっていらっしゃいますのよ」
 と女中は拳を耳のところへ寄せて、枕の意味を伝えた。分りの悪い男だと思ったのだろう。
「何処かお悪いんですか?」
「いゝえ、夕食後お風呂に召してから、いつも一時間か二時間お休みになるんでございますよ」
「はゝあ。然うですか?」
 と私は感心した。宵寝よいねをしているんだ。欠伸をしない筈だ。
「やあ」
 とそれから間もなく社長が現れて、
「何時だい?」
 と訊いた。
「八時半です」
「それじゃもう晩いから、話は又今度にして、一段語って聴かせよう。座敷へ来給え」
「今晩は義太夫は御免蒙ります」
 と私はつい強く言った。待たせて置いて、もう晩いからもないものだ。一寸の虫にも五分の魂がある。
「何故だい?」
「私はお仕事をお引受けしている以上は早く完成したいのです」
「それは分っているよ」
「義太夫も結構ですが、材料になるようなお話を承わりたいと存じます」
「材料は毎日生きたのを提供しているじゃないか?」
「しかし一通り御経歴を承わって置きませんと、何処から手をつけて宜いのか分りません」
「いつも同じことばかり言っているんだね。精神を書けば宜いんだよ、我輩の精神を」
「それは及ばずながら心掛けているんですけれど」
「我輩が義太夫を語っているところを書いても、我輩の精神が現れそうなものじゃないか?」
「さあ」
「斯うやって腕組をしているところを書いても事は足りる」
「肖像画なら兎に角、自叙伝となりますとナカ/\うは参りませんよ」
「いや、君は普通の伝記類にとらわれているから、経歴に重きを置くのさ。もっと砕けてかゝって貰いたいね。例えばシェキスピールにはシェキスピールの精神がある。その精神を充分に伝えるように書いたものは、たとえ生年月日やその他の事実に多少の間違があっても、立派なシェキスピール伝じゃあるまいか?」
 と社長は自分こそ同じことばかり言っている。これは恐らく交詢社こうじゅんしゃあたりの文芸講演で聞いて来たのだろう。元治元年生れの寺子屋育ち、その後変則英語を少しかじった丈けだそうだから、所謂シェキスピールなぞは読んでいる筈がない。
 押問答をしても相手が社長じゃ仕方がない。長いものには巻かれろと思って、私は一段聴かされることになったが、
「しかしお序ですから、社長が義太夫をお始めになった動機をお話し下さい」
 と条件をつけた。
「然うさね」
「簡単で結構です。お若い時からおやりでしたか?」
「いや、四十を越してからだけれど、動機は遠く青年時代に胚胎はいたいしている。熊野君、これは立志伝に持って来いの材料だよ」
「有難いです」
こころざしを立てゝ上京してから間もなくのことさ。我輩は先輩の紹介で或弁護士の家へ書生に住み込んだ。この間話したろう? そら、将来毎日コーヒ湯の飲める身分になってやろうと発奮はっぷんした頃のことさ」
「承わりました」
「その弁護士というのが毎晩義太夫を語ったものだ。それも奥さん初め、書生女中、家中のものが聴いていないと御機嫌が悪い。我輩も無論傾聴した」
「成程」
「今考えて見るとナカ/\巧者こうしゃだったが、その頃の我輩は徹頭徹尾迷惑した。しかし物は考えようさ。わざわいを転じてさいわいにするように心掛けなければいけない。毎晩拝聴を仰せつかりながら、今こそ迷惑しているけれど、将来は必ず人に迷惑をかけるくらいの身分になりたいと発心ほっしんした」
「はゝあ」
「当時、我輩が詩をぎんじたところで誰も迷惑しない。何となれば、『やかましい! 黙れ』の一かつで問題が片付く。しかし相応の地位になると否応なく聴かせる。声の遊芸を聴かせるか聴かされるかで人物がきまると考えた」
「これは驚きました」
「演説にしてもうだろう? 聴かせる方が聴かされる方よりも大抵の場合えらい」
「はあ」
「物事の逆を行くことが時には必要だよ。し当時義太夫が厭だ/\と思っていたら、我輩は恐らく今日がなかったろう。今に見ろと思って聴いていたから、勤まったし、好きにもなった。今ではあの弁護士に感謝している。もっとももううに死んでしまったけれど」
「好い御教訓です」
「その後数年でうやらコーヒ湯の飲める身分になったが、未だ/\義太夫を語るには遠い。単に好きで彼方此方聴いて歩く丈けだった。それが二十年も続いたろうね。実に一朝一夕じゃない」
「会社へお入りになってから、お始めでしたか?」
「いや、入っても平社員じゃ誰も聴いてくれない」
「成程」
「四十を越して重役になる早々、時こそ来れとイヨ/\始めたのさ」
「然ういう御動機じゃ私も仕方ありません」
「一段聴くかね?」
「はあ」
一間ひとまにこそはあゝ……」
 と社長は立った。ついて日本間へ行ったら、三味線弾きが待っていた。とてかなわない。

月足らずの偉人


 社長の自叙伝係を仰せつかってから、三月たって年末になった。いつもなら、
「あなた、大丈夫?」
 とさいが毎日のように訊き続ける季節だ。それも世の常の大丈夫とは内容が違う。
「あなた、ボーナスは大丈夫?」
 という期待でなくて、
「あなた、お首は大丈夫?」
 という心配だから、可哀そうだった。私としても見識のないことおびただしい。主人の威令は無論行われなかった。十年間に六回首になっている。二年に一回強だから、席の温まる暇がない。
「これから先、何うなるんでございましょう?」
 と妻はその都度泣いたものだ。身に沁みているから、兎角心配する。国産ビールへ入ってからも、
「あなた、大丈夫?」
 と念を押し続けたが、案外のことに一年と少しで俸給が上った。妻は何か大きな災難の来る前表ぜんぴょうのように考えたようだったが、それから三月ばかりで社長秘書兼務に栄転した時、
「もう安心でございますわね」
 と初めて愁眉しゅうびを開いてくれた。
「おれもイヨ/\芽を吹くよ」
 と私も前途が明るくなった。
「矢っ張りあなたは何処か好いところがあるんですわ」
「そこに目をつけて来てくれたんだろう?」
「えゝ。オホヽ」
「これからだ」
「でも長かったわね。来ると直ぐ第一回の失業で、私、本当のことを申しますと……」
 と妻はつい愚痴ぐちになった。
「飛んでもない人間に取っ捉まったと思ったろう?」
「えゝ。けれども直ぐ又新聞社の方の口が見つかって、会社ばかりに日は照らないと仰有った時、矢っ張り頼もしい方だと思いましたわ」
「新聞社で首になった時は?」
「もう春夫が生れていましたから、何んなことになっても運命を共にする決心でございました」
「有難い。長いこと苦労をかけたよ」
「廻り合せですから、仕方ありませんわ」
「しかしこれからはもうトン/\拍子だ」
「私、大きな慾は申しません」
「せめて課長ぐらいって註文かい?」
「いゝえ、今のまゝで首にさえならなければ、願ったり叶ったりよ」
「これは驚いた。まだ首の心配をするのかい?」
「もう大丈夫とは思っているんですけれど」
「以前が以前だからね」
「えゝ」
「見ていて御覧」
 と私は希望に溢れていた。
 以来、く都合好く運んでいる。本務の上の兼務だから、忙しいことは目の廻るくらいだけれど、ガラマサどんは能く見ていてくれる。流石に苦労人だ。御機嫌の好い時には、
「斯う毎晩のように晩くまで引っ張って、奥さんから苦情が出やしないかね?」
 なぞと人間味たっぷりなものがある。
「何う致しまして。家内も漸く私の地位が固まったと言って、大安心をしています」
 と私は序をもって暗示を与える。
「お子さんが三人あると言ったね?」
「はあ」
「一番上は男だと言ったね?」
「はあ。尋常二年でございます」
「君に似て頭が好いと言ったね?」
「何う致しまして」
「男の子は大学までやることだよ。我輩の若い頃は世の中が混沌こんとんたる戦国時代だったけれど、これからの人は正式の教育を受けて置かないといかん」
「私も然う考えています」
「その積りで精々勉強することだよ」
 と社長は理解がある。元来迷惑をかけるのが目的だと公言して下手な義太夫を聴かせる時は小憎らしいが、決してう図々しいばかりの人間でない。大将だから我儘だ。しかし同時に親分として子分のことを能く考えていてくれる。
 私はサラリーマンになってから十年、その暮の俸給日に初めて自分の地位の有難さを感じた。夕刻、驀地まっしぐらに家へ帰って、
「おい。何うだい?」
 とボーナスの入っている俸給袋を妻に突きつけた。
「有難うございます」
「と言って、幾ら入っているか分るのかい?」
「ボーナス丈けいつもより余計でございましょう? 有難うございました」
「まあ/\、そのボーナスを見てからお礼を言いなさい」
「拝見致します」
 と妻はあらためて、
「まあ! 俸給が上るとこんなにも違うものでございますかね?」
 と相好そうごうを崩した。
「二回上っている上に秘書は忙しいから率が特別らしい」
「本当に芽を吹きますのね」
「まだあるんだよ」
 と私はポケットから出した。
「これは?」
「社長からだ。『おい、君、車代くるまだいだ』とさ」
「拝見致します」
 と妻は又検めて、
「まあ!」
 と驚いた。百円紙幣さつが二枚。
「一枚は長年の労をねぎらう為めお前にやる」
「本当? あなた」
「うむ。途々考えて来た。何でも欲しいものを買いなさい」
「有難うございます」
「もう安心しておくれ」
「はあ」
「苦節十年、失業家も時を得た」
「能く御奮闘なさいました」
「お前こそ能く辛抱してくれたよ」
「でもあんまりトン/\拍子ね。夢のようですわ」
「何あに、今までがひど過ぎたんだ。元来ならもうこれぐらいになっているのが当り前だろう」
「当り前以上ですわ」
「少し以上かも知れない」
 と私は無論異存がなかった。
 その晩、妻はもすると笑い出して、
「あなた、家庭は矢っ張りお金ね」
 とツク/″\言った。
「或程度まで然うさ」
「いつもの年末とはまるで気分が違いますわ」
「これからは毎年この調子で行くんだ」
「お蔭さまね」
「矢っ張り何処か好いところのある男だろう?」
「えゝ。あなたはこの頃人品じんぴんが上って参りましたよ」
「もう十ひとからげの平社員じゃないからね」
「地位が好くなると、はくがつくのよ」
「男っ振りは何うだい?」
「上ってよ。私、それを言っているんですわ」
「有難いね。ハッハヽヽ」
 と私も満足だった。そとに信用があれば、うちでも大切にされる。失業はするものでない。
 翌日は日曜だった。
「あなた、今日は早速社長さんのお宅へ伺うんでございましょう?」
 と妻が促すように訊いた。
「何故?」
「お礼を申上げなければいけませんわ」
「しかし今日は何とも沙汰がなかったから、何うしたものだろう?」
「お礼丈けに上っていらっしゃればよろしいじゃございませんか? 序に申上げたんじゃ横着になりますよ」
「それじゃ行って来よう」
 と私は決心した。
「あなた」
「何だい?」
「もう一軒お礼に上るところがございますよ」
「課長のところかい?」
「いゝえ。課長さんにも特別に引き立てゝ戴いていますけれど」
「松本君かい?」
「いゝえ。松本さんにも一方ならぬお世話になっていますけれど、会社向きは私が一度上りますわ」
「然うして貰おう」
「あなた、もう一軒ございますよ。もっと大切だいじのところが」
 と妻が主張した。
「はてな。誰だろう?」
「あなたは恩知らずね」
「誰だい? 一体」
「三好先生よ」
「成程」
 と私は気がついて、
「会社の人だと思ったからさ」
 と弁解した。母校の三好さんには初めの会社へ推薦して貰って以来、殆ど失業毎にお世話になっている。国産ビールへ入ったのも先生の肝煎きもいりだった。卒業生売捌係だから職掌上とはいうものゝ、私ぐらい手数をかけている奴はあるまい。
「困る時ばかりお頼みになって、あんまりひどうございますわ」
「ついうっかりして申訳ない」
「行っていらっしゃいよ」
「是非伺う。先生も今度は喜んでくれるだろう」
「又頼みに来たと思われるといけませんから、この間出来て来たモーニングを着てキリッとしていらっしゃいよ」
 と妻が注意してくれた。
 私は早速三好先生を訪れた。手土産の果物籠が嵩張かさばるから円タクで行った。近間へ差しかゝった時、以前その辺を悄然しょうぜんとして通ったことを思い出した。門前で下りて玄関へ進むと、先生が一人の男を送り出すところだった。矢張り卒業生らしかった。れ違った時、失業者のにおいがした。以前の自分に行き会ったのかも知れない。
「やあ、珍しいね」
 と三好さんは私に気がついた。
「先生」
「又いけなかったのかい?」
「いやその後は御無沙汰致しました」
「不可抗力じゃないかい?」
「先生、今度はもう大丈夫です」
「それなら上り給え」
 と先生はしょうじてくれた。思い出したが、今度失策しくじったらもう構いつけないという約束だった。
「先生、お蔭さまで大成功です。俸給も二回上りました」
 と私は片時へんじも早く偏見へんけんを一掃することに努めた。
「ふうむ」
「この十月から社長秘書に抜擢ばってきされて、至って都合好くやっています」
「それは結構だった」
「今度こそは大丈夫ですから、お礼に伺いました」
「あゝ、宜かった/\。しかし不思議なものだね。今あの男を送ってこの部屋を出る時、熊野は何うしているだろうと偶然君のことを思い出したよ」
「はゝあ」
「もうソロ/\失策しくじる時分だと思いながら玄関へ出て来たんだが、丁度その頃君は門を潜ったんだね」
 と先生は此方が忘れていても、矢張り思っていてくれる。
「恐れ入りました」
 と私は覚えず頭が下った。
「そこへ君が顔を出したものだから、あんな失敬なことを言ったんだよ」
「何あに、一向」
「気にかけないでくれ給え」
「私が悪いんです。顔を出す時といえば必ず失策った時ですから」
「それもあるね。いや、それだからさ。ハッハヽヽ」
 と三好さんは上機嫌だった。
「先生、これは詰まらないものですけれど」
 と私は手土産を押し出した。出世が下手丈けに、斯ういうことは至って不器用だ。
「そんなことをしちゃ困る」
「何でもないんです」
「いや、困るよ」
「先生、これは僕が三十幾つになって漸く一人前の待遇を受けた記念ですから、何うぞ」
「それじゃ有難く頂戴しよう。しかし恐縮だね」
「何う致しまして」
 と私は漸く納めて貰って、
うに伺うのでしたが、何分本務の上の兼務で夜まで引っ張られるものですから、毎日天手古舞てんてこまいです」
 と社長に信用の篤いところを有りのまゝに物語った。
「それは結構だ」
 と先生は一々頷いた。
「こんな次第わけで、うやら芽を吹いたようです」
「しかし自叙伝係とは妙な役だね」
「註文がむずかしいので、ナカ/\骨が折れます」
「社長は誇大妄想狂こだいもうそうきょうじゃないかね?」
「さあ。多少それがありましょうな。随分大きなことを申します」
「君は確かに所を得た」
「はあ」
「元来君もそのがあるんだから」
「はあ?」
「いや、好い相棒だというのさ。ハッハヽヽ」
「恐れ入りました」
 と私は頭をいた。
「君はカーライルの英雄崇拝論を読んだことがあるかね?」
「ありません」
「あれを読んで社長の御機嫌を伺い給え」
「何んなことが書いてありますか?」
「その何とかどんの喜びそうなことが書いてある。僕はもう要らないから上げよう」
 と三好さんは書斎から持って来て、つぶさに内容を説明してくれた。何処までも先生だ。
「先生」
「何だね?」
「教育家なんて詰まらないものですね」
 と私は先生の親切に感じ入ったまゝ、つい口に出してしまった。
「何だって?」
「いや、割に合わない商売です」
「何故?」
「何年も薫陶くんとうして幾度も職業を紹介した上に、調子が好ければ好いで又心配になって講義レクチュアーをなさいます」
「もう心配なんかしやしない」
「兎に角、それ丈けお尽しになって、お礼はその果物一籠です。それも取るの取らないのって大騒ぎじゃありませんか?」
「妙なことを云い出したね」
「全くお気の毒に思っているんです。先生」
「何だ?」
「将来重役に出世したら、二三万現ナマで持って上ります」
「それだから君は気があるってのさ」
「いや、真剣です。その時は是非お納めを願います」
「志があるなら、学校へ寄附し給え」
「仕方がないですな」
 と私は諦めた。衣食足って礼節を知る。私は先生が死んだら香奠こうでんを沢山出すことに決心して辞し去った。しかし先生も抜け目がない。翌日、維持会加入の勧誘を活版刷りの手紙で寄越した。
 私は三好さんから社長の新邸へ廻った。ガラマサどんは大仕掛で、先頃から洋間の一つを自叙伝編纂室に当てゝいる。私はそれへ通ったが、一時間待つのか二時間待つのか例によって分らない。念の為め、女中に、
「お忙しいようなら、又伺いますから」
 と都合を訊いた。
「御令息さまが見えていらっしゃいます」
「それじゃこのまゝ失礼致しましょう」
「いゝえ、私が叱られますから」
 と女中は取次に行って、
「お目にかゝりたいと仰有いますから、何うぞ少時しばらく
 と復命した。御親子御対面中なら長かろうと私は覚悟したが、案に相違して、
「やあ」
 と社長は間もなく現れた。
「昨日は頂戴物を仕りまして……」
 と私は直ぐにお礼を申述べた。
「いや、何あに。ほんのおしるしだ。さあ、掛け給え」
「はあ」
「今日はせがれが来ている。丁度好い都合だから紹介して置こう」
「何うぞ願います」
「忰の見た我輩ってのも材料になるだろうと思う」
「お話を願えれば、この上ございません」
「今来る」
「御長男さまでいらっしゃいますか?」
「うむ。時に熊野君、この間のを読んで見たよ」
 と社長はデスクから私の原稿を取り出して、眼鏡を掛けた。
「如何でございましょうか?」
「大体結構だ。殊にこの『阿蘇の煙』というのは第一回の標題としては我が意を得ている」
「矢張り伝記でございますから、劈頭へきとうに御誕生が出ないと、うも具合が悪いと存じまして」
「そんなことは構わんが、我輩の精神が幾分か現れている」
「大分苦心致しました」
「好い思いつきだよ。地方色も多少我輩の郷里を彷彿ほうふつしている」
「その辺も心掛けました」
「流石に餅は餅屋さんだと思った」
「恐れ入ります」
 と私は謙遜して、
「これで宜しければ、直ぐ第二回へ移りましょうか?」
 と伺いを立てた。もう及第の積りだったのである。
「さあ」
 と社長はページをパラ/\はぐった。何うやら不足らしい面持と見受けた。
「多少書き足す必要があるかとも存じますが、如何でございましょう?」
「量は第一回としてこれで結構だよ」
「はあ」
「内容に少し註文がある」
「はゝあ」
「我輩の精神をもっと濃厚に現して貰いたい。この『阿蘇の煙』を『阿蘇の炎』と改めたらんなものだろう?」
「成程」
「背景も従って未曽有の大噴火にして貰いたい」
「宜しゅうございます」
「何かの前兆だろうと触れ歩くものがあって、人心恟々きょうきょうたるところへ我輩が呱々ここの声を上げると、さしもの大噴火がその朝から静まる」
「はゝあ」
 と私は覚えず驚きの声音こわねを洩らした。
「何んなものだろうな?」
「分りました」
「分ったではいかん」
「はあ」
「分ったではいかんよ。作として何んなものだろうかと訊いているんだ」
 と社長は共鳴しないと直ぐおかんむりを曲げる。
「無論結構でございます。社長の奮闘的御精神は煙とするよりも炎とする方が如実に現れます」
「そこさ」
「早速書き直しましょう」
「頼むよ。勝手のようだが、洋服を誂えても知れた話だからな」
「はあ」
「未曽有の大噴火にしてくれ給え」
「はあ。しかし……」
「何だい?」
「元治元年にそんな大噴火の事実がございましたろうか?」
「事実にとらわれちゃいけないと言っている。シェキスピールの精神を充分伝えるように書いたものは事実に多少の間違があっても……」
「分りました。いや、御道理ごもっともでございます」
「キリストの誕生にしても、十字架についた時の日蝕からさかのぼって数えて見ると、二年間違っている」
「はあ。奇蹟として扱えば一向差支ございません。早速大噴火に改めます」
 と私が慌てゝ屈服した時、瀟洒しょうしゃたる洋服姿の青年紳士が入って来た。
「熊野君、長男の宗勝です。これは会社の熊野君だ」
 と社長が紹介した。
「父が飛んだ御厄介を願いまして」
 と令息は知っていた。
「いや、私こそ一方ひとかたならぬお世話になっています。何うぞ宜しく」
「さあ。何うぞ」
「はあ」
 と私は再び席についた。
「お父さん、一向編集室らしくもないじゃありませんか?」
 と部屋を見廻した。
「未だ始めたばかりだ」
「材料は集まりませんか?」
「追々さ」
 と社長は話し込む積りと見えて、葉巻を取り出した。
 それに火をつけるのも私の役目の一つになっている。
「熊野さん、随分お骨折りでございましょう」
 と令息はその間に原稿を手にした。
「いゝえ、一向」
「父のことですから、さぞ無理な註文を致しましょうな?」
「いゝえ」
 と私は否定する外仕方がない。
「これですね?」
「はあ」
「それは未定稿みていこうだよ」
 と社長が断った所為せいか、令息は三四枚目を通した丈けで、
「誕生のところですな」
 と言って置いてしまった。
「はあ。第一回ですから、何うも外に分別がなかったんです」
 と私は社長の顔色を覗った。
「伝記ですもの、生れたところから書くのが当り前ですよ」
「矢張り然うでございましょうな」
「それも事実そのまゝに書かなければいけません」
「はあ」
「誕生で思い出しましたが、父は今こそこんな恰幅かっぷくをしていますけれど、生れた時は月足らずだったそうです」
「馬鹿なことを言うな」
 と社長はり返った。偉人をもって任じているのだから、月足らずでは具合が悪い。
「いゝえ、私はお母さんから度々承わっています」
「お前のお母さんがわしの生れた時のことを知っているものか」
「お母さんはお祖母ばあさんから伺ったと仰有いましたから確実です」
「ハッハヽヽ」
「何うですか?」
 と令息は妙なところへ力瘤ちからこぶを入れる。
「然う証拠が上っていちゃ仕方がない。旧悪きゅうあく露顕ろけんだよ。ハッハヽヽヽ」
「ハッハヽ」
「何だ? 熊野君」
「いや、月足らずが悪事ってこともございますまい」
 と私は誤魔化した。
「それも大晦日おおみそかの晩だったそうです」
 と令息は正確な材料を提供する積りと見えて用捨がない。
「はゝあ」
「生れると直ぐ冷たくなってしまって、一度息が絶えかけたのを温めて漸く持たせたという話です」
「成程」
「月足らずには育つのと育たないのがあるそうですな」
「はゝあ」
「父のは何でもその育たない方の口だったそうですが、不思議にも生き長らえました」
「奇蹟でございますな」
「それで母がく申しました。『お父さんは月足らずで大晦日に生れるくらい運のない人でしたが、自分の奮発一つでこれ丈けになったんですから、お前なぞは殊更豪くならなければいけませんよ』と能く斯う申しました」
「好個の資料を頂戴しました。お母さまのお言葉はそのまゝ現代青年への大教訓でございます。月足らずというハンデキャップが社長の御成功を益※(二の字点、1-2-22)偉大ならしめる所以ゆえんかと存じます」
 と私はわざわいを転じてさいわいと為すことに努めた。社長もこれに満足したと見えて、
わしは生れると直ぐにもう人一倍の奮闘を要求されたんだね」
 とニコ/\笑っていた。
「その頃からもう天意が今日にあったんじゃございませんでしょうか?」
「いや、成功は運だよ。まぐれ当りだ。しかし奮闘丈けは遺憾なくしている」
「熊野さん」
 と令息が呼んだ。
「はあ」
「父を余りえらくお書きになると、私達が困りますよ」
「決して御迷惑はお掛け申上げません」
「弟も私と同意見で、出版前に一度原稿を拝見したいと言っています」
「俺の自叙伝だ。お前達が彼れ是れくちばしを入れることはない」
 と社長は極めつけた。
「丁度好い序ですから、と申しては失礼ですが……」
 私は割込んで、
「御令息のお目に映じた社長という題で少しお話を願えませんでしょうか?」
 と令息へ申入れた。
「さあ」
「話したら宜かろう」
 と社長も言葉を添えてくれた。
「いや、お父さんがそこに然うして坐っていらっしゃると、兎角遠慮があっていけません」
「構わないさ。何でも思い通りを言いなさい」
「又今度のことに致します」
 と令息は渋った。
「何故?」
「思い通りを申上げますと、唯今のお約束を帳消しにされます」
ずるい奴だ。ハッハヽヽ」
 と社長はそのまゝにした。
「私はもうこれで失礼致します」
いじゃないか?」
「いゝえ。普段閑な丈けに日曜が忙しいんです。それでは熊野さん」
「失礼申上げました」
「私はもとの屋敷の方にいますから、何うぞお遊びにおいで下さい。材料を提供致しますよ」
 と令息は愛想が好かった。
 玄関まで見送って、編集室へ引き返したら、社長は腕を組んで考え込んでいた。目を閉じたまゝで私の戻ったことに気がつかない。
「社長」
「うむ」
「御令息さまが後を宜しくと仰有いました」
「はゝあ。ういう意味だろう?」
「さあ」
「我輩の車に乗って行きはしまいね?」
「乗っておいでになりましたよ」
「成程。早速示威運動か? 然う右から左へ行くものと思っちゃ困るんだけれども」
 と社長は独り言のように言った。斯ういう折に口を出して宜いものか悪いものか分らない。
「…………」
「一台買ってくれと半年前からねだっているんだ」
「はゝあ。先刻さっきのお約束ってのはそれでございましたな」
「いや、あれは又別口だ。活動写真の会社の重役の口があるから、我輩に株を持ってくれと言う」
「成程。流石にねだりものが大きいですな」
 と私は感心した。
種々いろいろのことをやるが、何うも長続きがしない」
「はゝあ」
「彼奴にくらべると弟の方は余っ程しっかりものだ」
「はゝあ」
「時にこの間は何処まで話したか知ら?」
「寺子屋時代のことで、鎮守の森の大榎の素天辺すてっぺんから釣下ったところでございました」
「然う/\、枝が折れてな」
「はあ」
「何だい? あれから一二三四と四日間釣下っているのかい?」
「はあ。下では大勢がワイ/\言って騒いでいます」
「それはお待ち遠だった。ハッハッハ」
 と社長は笑って語り出す。

一生の転機


 社長は手空きと見えて、デスクから中央の大卓子おおテーブルへ移った。
「熊野君」
「はあ」
 と私は答えるのと立つのが一緒だ。相変らず後生大切ごしょうだいじに努めている。
ういう手紙が来たんだが、一つ見てくれ給え」
 と社長は手に持っていたのを渡した。

 謹啓、厳寒のみぎり愈※(二の字点、1-2-22)御清穆ごせいぼくわたらせられ大慶のいたりに存じ上げます。毎々多大の御厚情をこうむり有難一同深く感謝致して居ります。さて、御多用中甚だ恐れ入りますが、今回「我が一生の大転機」と題して諸先生方に成功訓の御執筆を願い小誌上特別の光彩たらしめたいと存じます。これには立志伝中の人物、一代の師表しひょうたる先生の御一文を是非々々仰ぎ上げたいのでございます。方今ほうこん世道せどうおとろえ、思想月にすさみ、我等操觚者そうこしゃの黙視するに忍びないものが多々ございます、云々うんぬん
○○○○編集局
太田原宗郷先生
御侍史
「はゝあ。お原稿の御依頼でございますな」
「うむ。先生は恐れ入ったよ」
「これは私が以前勤めていた雑誌社でございます」
「ふうむ。それじゃ君が我輩のことをしゃべったんだろう?」
「何う致しまして」
 と私は否定した。自叙伝係をやっているとはまさかに吹聴ふいちょう出来ない。
「兎に角、太田原宗郷先生は恐れ入った」
 と社長は再び手紙を手にして、
「地方へ行って大臣と間違えられたことはあるが、先生は初めてだ」
 と頗る満足のようだった。
「社長は先生に相違ございません」
「何故? 先に生れているからか?」
「いや、先覚者せんかくしゃでございます」
「成程、その意味からなら先生かも知れん」
「何かお書きになりますか?」
「さあ。これはまさか書かせて置いて後から会社の広告を取りに来るんじゃなかろうね?」
「一流雑誌ですから、そんな御心配はございません」
 と私は尚お説明を加えた。
「悪徳雑誌でなければ、広告ぐらい出してやるさ。万事君に頼む」
「はあ」
「今日これから話すことを後で書いてくれ給え」
「承知致しました」
「しかし長くなるかも知れないね」
「社長あたりのものは長いほど喜んで頂戴致します」
うかね。君は以前やっていたんだから、間違あるまい。よし」
 と社長は少時しばらく考え込んだ後、
「熊野君、君はコロンバスの話を知っているか?」
 と訊いた。
「アメリカ発見ですか?」
「馬鹿だなあ、君は」
 と何うも好くない癖だ。思う壺にまらないと直ぐにおかんむりを曲げる。
「はあ」
「コロンバスがアメリカを発見したぐらいは小学生でも知っているよ」
「はあ」
「そんな分り切ったことを訊いているんじゃない」
「はあ」
 と秘書は辛い。見す/\無理な小言を言われても逆らうことが出来ない。又始まったと思ったのか、松本さんが仕事をしながらクスッと笑った。
「松本君」
 と社長は聞き流しにしなかった。
「はあ」
「閑なら此方へ来給え」
「はあ」
「君は何うだね? 知っているか?」
「さあ。単にコロンバスの話と仰有れば、差詰めアメリカの発見じゃございませんでしょうか?」
 と松本さんはもう覚悟をして、ノコ/\やって来た。何、此奴がという肚があるから、時折反抗的態度に出て、結局、められる。
「成程」
「…………」
「これは我輩が悪かったかも知れん」
 と社長は雅量がりょうを示した。
「いや、何う致しまして」
「社長、玉子の話ではございませんか?」
 と私が訊いた。気を利かさないと松本さんが迷惑する。
「玉子の話?」
「はあ」
「それは我輩知らんぜ。松本君、君は知っているか?」
「存じています」
「これは驚いた」
「私だって知らないことばかりはございません」
後学こうがくの為め承わろう」
 と社長は極く正直なところもある。自分の知っていることをひとが知らないと軽蔑する代りに、自分の知らないことを他が知っていると敬意を表する。
「コロンバスがアメリカを発見してから後の話です」
「発見は分っている」
「それでございますよ。同じ方角へ何日も進んで行って陸地を発見するぐらいのことは誰にでも出来ると言って、皆がけなしたそうでございます」
「皆って誰だね? 世間一般か?」
「いや、恐らく宮廷の人達でしたろう。コロンバスの成功がうらやましかったに相違ありません。御殿女中根性です。コロンバスはそれには答えず、そこにあった玉子を取って、諸君の中で誰かこれを卓子テーブルの上に立てることの出来るものがありますかと訊きました」
「はゝあ」
「皆やって見ましたが、玉子は円いからコロ/\転がるばかりで立ちません。『それでは御伝授申上げましょう。うやるのです』とコロンバスは玉子の尻を卓子テーブルの角で割って、美事に立てました」
「成程」
「然うやるなら誰にでも出来ると申しましたが、『御説の通り、人のやった後からなら何でも出来るものでございます』とコロンバスは笑っていたそうです」
一寸ちょっと面白いな」
「如何でございますか?」
「感心しているのに要求することはない」
「はあ」
「しかし考えて見ると、宮廷に玉子があったというのは変だね。宮廷の台所か知ら?」
「無論作り話でございましょう。成功者の逸話いつわなんてものは後から拵えたものが多いですから」
 と松本さん、少し何うかしている。ガラマサどんは現に自分の逸話を私に編纂へんさんさせているのだから、むずかしい顔付になった。
「社長」
 と私は松本さんの為め又自分の為めに再び執成とりなさなければならなかった。
「…………」
「社長」
「何だ?」
「社長のコロンバスのお話と仰有るのは矢張り松本さんのと同様教訓的のものでございますか?」
「教訓の押売をする逸話じゃない」
「はあ」
「世界の歴史そのものだ。教訓よりも神意しんい発現はつげんだろう。考えて見ると、我輩も身につまされる」
「自叙伝編纂の参考資料として、是非承わりとうございます」
「私も是非」
 と松本さんも態度を改めた。後が怖いことを知っている。
「コロンバスののどが乾いたという丈けの話だが、これが世界の歴史に影響を与えるから面白いだろう?」
「はあ」
「コロンバスは喉が乾いた。し乾かなかったら、現代の日本の文明も多少面目を異にしているに相違ない」
「はゝあ」
「ところが好い塩梅に喉が乾いてくれたよ」
 と社長は同じことばかり言っている。しかし催促は出来ない。
「成程」
「折から差しかゝったお寺へ寄って水を一杯所望しょもうした。奴、しこれをやらなかったら、アメリカ発見が出来ずにしまったろうというのさ」
「はゝあ」
「君達も知っている通り、元来コロンバスは新大陸を発見する積りじゃなかった。世界が円いという理窟から、西へ/\と船を進めれば東洋へ出られると考えていた。支那あたりに着いて、金銀財宝を持って帰る積りだった。単に桃太郎の思想さ。その相談を彼方此方あっちこっちの王室へ持ち込んだが、断られてしまった。スペインでも失敗した」
「成程」
「それから間もなくのこと、或日トボ/\歩いていると喉が乾いてお寺へ寄ったのさ。水を飲ませて貰っている中に、住職に会って、東洋行の目論見もくろみを話したんだね。この住職というのが女王陛下のお気に入りだったから、それなら拙僧から申上げて見ましょうと、もう一度女王陛下に拝謁を計らってくれた」
「はゝあ」
「今度は両陛下ともコロンバスに動かされて、その結果、新大陸発見という劃時代的かくじだいてきの事件が出来しゅったいしたのさ」
「あれは一四九二年でございましたな」
 と私が思い出した。
「よく知っているね」
「学生時代の試験勉強にゼノア生れのコロンバスが伊予の国を発見したと覚えていました。電話番号式に申しますと一四九二イヨノクニでございます」
「成程。これは覚え好い。当時、日本の年代は?」
「無論存じません」
明応めいおう元年さ。西洋で新世界を発見するのに、お互の先祖は例によって城の取りっこをしていた。その頃コロンバスのように海外へ着眼して見給え。アメリカの此方側こっちがわぐらいは日本のものになっている。いや、コロンバスを待つまでもない。当時我輩が生れていたら、確にやっていたんだがなあ!」
「社長」
 と松本さんが注意した。
「何だ?」
「それは先刻の玉子の話でございます。コロンバスに叱られますよ」
「参った。ハッハヽヽヽ」
 と社長はもう御機嫌になっていた。
「好い学問を致しました」
 と私は社長の博識に敬意を表した。昨今、昔の語学のさびを落すのだと言ってチョク/\横文字を読んでいるから、最近の仕込みに相違ないが、記憶の好いには感心する。それに人間が出来ているから精神で読む。変則英語も馬鹿にならない。
「松本君」
「はあ、私も好い学問を致しました」
 と松本さんは慌てたが、社長は小言ではなかった。
「この喉の乾いたのがコロンバスの生涯の一大転機、いや、人類文明史の一大転機だったと考えられないことはあるまい?」
「はあ」
「しかし後から見てこそ転機だけれど、お寺の門へ入る時には御本人うとも気がつかなかったに相違ない。妙なものさ。自ら招いても来なかった転機に偶然行き当った」
「はゝあ」
天機てんきらすべからず」
「はあ」
洒落しゃれだよ」
「はゝあ。ハッハヽヽ」
 と私達は呑み込みが悪い。
「さて、『我が一生の大転機』はと考えて見るに、二十三の夏、京橋の共同便所で小用を足したのが正にそれだと思われる」
「はゝあ」
「コロンバスとは反対だったよ」
「ハッハヽヽ」
「その折、手洗の傍に袱紗包ふくさづつみが落ちていた。拾って見ると、なかが紙入のようだったから、交番へ届けたら、『一寸ちょっと来い』と警察へ引っ張られた」
「何うしたんでしょう?」
 と私が主としてお相手を勤める。
「馬鹿な話さ。その頃あの界隈かいわいを荒していた掻っ払いに我輩の人相が似ていたんだ」
「ハッハヽヽ」
「警察でも此奴に相違ないと言う。しかし考えて見ると無理もない。当時世話になっていた弁護士が大阪へ移ってしまって、我輩は木賃宿を泊り歩いた果、その三四日全く路頭に迷っていたんだから、風体ふうていが如何にも宜しくない」
「社長にもそんな時代がおありでしたかなあ」
「あの時がどん底だった。掻っ払いと間違えられたんだから、行くところまで行ったんだね。窮すれば通じる。もう転機が来ていた。人間の運命って奴は実に妙なものだよ。我輩の今日をそれからそれと手繰り戻ると、京橋際のあの共同便所に辿たどりつく」
 と社長は四十年昔の発祥地を懐しむようだった。
蛟龍こうりょうつい雲雨うんうを得ましたな?」
「いや、だ/\前途遼遠ぜんとりょうえんだ。紙入の中に名刺があったので、夕刻、落し主が呼び出された。松本君、誰だったと思う」
「私の祖父じじいです」
うさ」
「はゝあ」
 と私は初耳だった。松本さんは親の代からの関係で、無能にも拘らず、秘書を勤めていると聞いたが、詳しいことは知らなかった。
「君、松本君のお祖父さんは建築の請負人で、ナカ/\景気が好かったんだよ。その紙入に千円からの金が入っていた。盗まれたのでなくて、落したということが分ると、我輩の嫌疑も晴れた。尤もそれまでに巡査との押問答で、満更無教育ものでないことが分ったのだろう」
「漸く安心致しました」
「ところが松本老人は無筆だ。受取証が書けない。『お若いの、何も縁だ。君、書いてくれ給え』と頼んだから、我輩が書いてやった。いんけは首にかけて持っていたから、こゝへ何うぞと言ったら、『こゝか?』と見当をつけて、スポンと掛け声をしてした。皆笑ったぜ」
「ハッハヽヽ」
「老人は我輩にお礼をくれると言ったが、我輩が辞退したら、兎に角その辺まで来てくれと我輩の腕を捉えて放さない。相撲のように太った人で、力がある。警察を出ると、人力を呼んで、立派な料理屋へ乗りつけた。そこで又お礼を押しつける。我輩が拒絶する。『金は取らなくても、実に能く食うね。君は腹がへっているんだろう?』と老人が訊いた。『はあ。二日ばかり食いませんから』と我輩は正直なところを答えた。『食うに困るなら、俺の家へ来ないか? 何も縁だ。君一人ぐらい何うにでもする』と老人は何処までも親切だった。これには我輩二つ返辞さ。そのまゝ松本さんのところへ引き取られて、請負人の手代てだいになった」
「社長、今日のお話は一々材料になります」
「我輩もその積りで喋っている」
「筆記を致します」
「然うしてくれ給え」
 と社長は頷いた。松本さんはデスクの上から葉巻を持って来た。社長が又頷いたので、先を切って、火をつけてやる。
「松本君」
「はあ」
「今日は何の日だか、君知っているか?」
「さあ」
「君のお祖父さんの命日だよ」
「はゝあ」
「忘れていたね。一月の十五日に亡くなった。尤も君の生れない前だったからね」
「はあ」
 と松本君は稍※(二の字点、1-2-22)面目が立った。
「好い人だった。しかしひどい死に方をしたよ」
「親父から承わっています」
「我輩が医者を呼んで来た時にはもう悉皆すっかりいけなかったが、未だ煙が出ていた。身体の内部が燃え上ったんだから溜まらない」
火傷やけどをなすったんですか?」
 と私が訊いた。
「いや、大酒飲みだったから、身体中がアルコール分になってしまって発火したんだそうだ」
「はゝあ」
「自然爆発という奴で、強い酒を飲む西洋人には時稀ときたまある現象だそうだが、日本では初めてだと言って医者が感心していた。煙も出たし、身体中が黒くなっていたから、あれは確かに燃えたんだね」
「恐ろしいものですな」
「何うせ酒で死ぬんだと始終言っていたが、実にひどい死に方をした。身体中がアルコール分なら、全く危い話だ。斯うやって葉巻をくわえていれば、口火をつけるのも同じことだから、直ぐに爆発する。お祖父さんは屹度煙草を吸っていたんだよ」
「然うかも知れません。死んだら瓢箪形ひょうたんがたの墓を建てゝくれと遺言するくらいの飲んだくれでしたから、自業自得です」
 と松本君はお祖父さんに余り好感を持っていない。
「ひどいことを言うな」
「いや、祖父が大酒を飲んだ酬いで親父が病身でした。現に私が、頭が好くないって、社長に叱られるのも祖父の不行跡ふぎょうせきたたっているんです」
「ハッハヽヽ」
「日本中に類のないような死に方をする祖父ですからな」
「しかし豪い人物だったよ。我輩は未だに敬服している」
「社長、その頃の御生活をくわしくお願い申上げます」
 と私は促した。松本さんのお祖父さんの人物なぞは何うでも宜い。
「他に手代が二人いたが、我輩が一番のお気に入りさ。『京橋のをつれて行く』と言って、いつもお供を仰せつける。『京橋はよして下さい』と我輩は頼んだ。如何にも京橋から拾われて来たようで具合が悪い。老人は全くの無筆だった。しかし、『俺は家を建てるのが商売で、字を建てるんじゃない』と云って大威張りだ。我輩は契約書や請求書を認めて、こゝへ一つと姓名の下を指さす。大将『よし。こゝか? スポン』と掛け声をして印を捺す。実に景気の好い人だった」
「大分変っていますな」
とても当り前じゃない。しかし頭の好い人だったよ。何も彼も曲りなりに分っていた。自分は無学文盲もんもうでも、我輩には勉強を勧めてくれた。『君は他の手代と違う。これから出世をするんだから、学がないといけない。英学をやりなさい。英学をやって独逸の技師に使って貰うのが一番早道だ』と言って、夜学へ通わせてくれた。こゝが老人らしいところさ。西洋は独逸でも仏蘭西でも英学だと思っていたんだね」
「成程」
「しかしその英学で我輩は独逸人に知己ちきを得たんだから面白いじゃないか?」
「はゝあ」
「君達も知っている通り、この会社は元来独逸人がはじめたんだからね」
「はあ」
「斯う考えて見ると、松本君のお祖父さんは我輩の大恩人さ」
「先刻のコロンバスのお話のお坊さんの役でございますな」
「いや、三年間世話になったんだから、あれ以上さ。しかし松本君」
「はあ」
「我輩が斯う思っていても、君は君だ。増長しちゃいかんぜ」
「大丈夫です」
「いや、冗談だよ。ハッハヽヽ」
 と社長は矢張り戒めたのだった。
「祖父は気紛きまぐれものだったそうですから、随分お骨折りでございましたろう?」
「無筆の人の秘書ってものは楽なようでいて苦しい。書くばかりでなく、読んで聞かせなければならないからね」
「成程」
「此方も骨が折れるが御本人も不便だろうと思って、六十の手習いを勧めて見たけれど、てこでも動く人じゃない」
「強情だったそうでございますよ」
わしはお前達麦魚めんざッ子とは人間の出来が違う所為せいか、細かいものを見ると目が廻ると言ったよ」
「はゝあ」
「その代り気力が好いから、一遍見たこと聞いたことを決して忘れないと言って威張っていた」
「社長」
「何だ?」
「要するに、京橋際の便所から拾い上げられて請負人の手代におなりになったのが社長の御一生の大転機でございますな?」
 と私は万年筆を動かして迫った。松本老人の話をしていたのでは果しがない。
「ひどいことを書くなよ」
「違いましたか?」
「いや、それに相違はないけれど、何とかもっと婉曲えんきょくにやって貰いたいな」
「しかし社長」
「何だ?」
「成功伝は出発点が低いほど受けるものでございます」
「はゝあ」
「橋際の乞食から大会社の社長へというような幅のある題目が殊に喜ばれます」
「乞食はした覚えがないけれど、下等なことならなりやっている」
「それを是非伺わせて戴きます」
「我輩は請負人の手代として諸官省へ出入をする間に※(二の字点、1-2-22)しばしばカギをやった」
「はあ?」
「鍵さ。これだ」
 と社長は人さし指を曲げて見せた。
「はゝあ」
「職人を大勢使っているから、工事がないと立ち行かない。松本老人は『おい、やって来いよ』と命じる」
「やっておいでになるんですか?」
「うむ。仕方がないさ。皆やるんだもの」
「よくつかまりませんでしたな」
じゃみちへびさ。そこを巧くやる」
「これは標題ひょうだいとして乞食よりも更に結構に戴けます。一介の泥棒から大会社の社長へ」
「馬鹿!」
「はあ」
「泥棒じゃない」
「でもカギと仰有いました」
「そのカギとはカギが違う」
「はゝあ。これは失礼申上げました」
 と私は何うも軽率でいけない。社長が上機嫌だと、つい調子づいて叱られる。
「カギというのは馴合入札なれあいにゅうさつのことだ。例えばこゝに一万円見当の工事がある。一万円で取れば儲かるんだけれど、皆競争で安く入れる。九千円ぐらいでも安心していられない。この辺の理窟は君にも分るだろう?」
「はあ」
「ところが一万円の工事を一万円で取る法がある。これがカギだ。競争者全体が談合してカギ主を極める。カギ主が一万円に入れて、他の連中は皆一万円以上に入れる。皆でカギ主を保護するんだね。その代りカギ主は皆にカギ銭をやらなければならない」
「成程」
「仲間が多いとカギ銭が沢山出るから、結局安く取ったと同じ勘定になるけれど、必ず取れるから安心していられる」
「カギ銭を貰う奴は唯儲けですな」
「役得だ」
「するとカギ銭稼ぎ専門の賊が出て来はしませんか?」
「賊は厳しいね」
「兎に角、不正ですからな」
「カギという字がつくんだから、無論正しいことじゃない」
「この頃の請負人もやっているんでしょうか?」
「いや、昔の話さ。恐らく松本君のお祖父さんがカギの元祖がんそだったろう。カギ屋という名がついていた。無学文盲でも頭の好い人だったからね」
「カギ屋の手代からこの会社へお入りになった径路は何んな風でございましたか?」
 と私は又万年筆を動かした。
「それもカギだ」
「はゝあ」
「松本老人がその頃この会社の新築工事をカギで取ったのさ」
「成程」
「老人は何ういう考えか無暗に独逸贔屓ドイツびいきだったよ。これは独逸人の会社で酒を拵える工場だから是非取ると言って、取ったことは取ったが、工事落成間際に爆発してしまった。さあ、我輩は困ったね。老人一人で持っていた家業だから後が続かない。しかしこれが又一転機だったよ」
「はゝあ」
「当時この会社の社長をしていたハイゼという独逸人が我輩を事務員に採用してくれた。十七円の月給だったが、これが出世の糸口さ。雑誌の方はこの辺にして置いてくれ給え。カギのことは書いちゃいけないよ。宜いかい? 熊野君」
 と社長は念を押した。

或日の秘書室


 コツ/\と戸を控え目に叩く音がする。社長室は誰にしても気兼だと見えて、入らない中から、もう態度を改める。私も平社員時代を思い出すと、謹んで廊下を通ったものだ。
「コツ/\/\」
「お入りなさい」
 と松本さんが大きな声で応じた。松本さんは社長がいないと元気が好い。私も無論くつろぐ。
 戸を開けて、
「社長は?」
 と伺いを立てたのは販売課長の栗栖くりすさんだった。
「たった今お帰りになりました」
「おや/\」
「栗栖が来たら待たせて置けって仰有いましたよ」
「はゝあ。それじゃ又お戻りか?」
「はあ」
「いつ?」
「明日の朝の十時頃」
「やったね」
「ハッハヽヽ。まあ、宜いじゃありませんか?」
 と松本さんがしょうじた。
「忙しいんだよ。君達のように用がなくて困っている人とは違う」
「今漸く手がいたところですよ」
「お叱り済みかい?」
「図星です」
「ところで斯うっと……」
「急な御用ですか?」
「さあ。今何時だね?」
 と言って、栗栖さんは時計を見上げた。松本さんも釣り込まれて、壁間を仰いだ。
 その刹那に、栗栖さんは松本さんの額を手早く撫ぜて逃げて行った。
まった」
 と松本さんは今更気がついて追おうとしたが、もうおそかった。
「ハッハヽヽ」
 とこれは私だった。社長が居ないと天下晴れて笑える。
「何うも彼奴は茶目でいけない」
「ハッハヽヽ」
「君、何故僕の額を撫ぜたか分るかい?」
 と松本さんが訊いた。
「さあ」
「僕がおビンズルさまに似ていると言うんだ」
「成程」
「何うだい? 似ているかい?」
「さあ」
「おい!」
「似ちゃいないが、何うしたと言うんだい?」
「ところが栗栖君は生写しだと言うんだ。何か御利益ごりやくがあるかと思って、参詣の序に撫ぜて行くんだって」
「馬鹿にしていやがる」
「無論冗談さ」
「冗談にしても失敬だ」
 と私はこの通り言葉使いが変って来た。秘書室に机を並べてから半年、叱られ相手の松本さんとは境遇上共鳴するところが多い所為せいか、悉皆すっかり懇意になった。以前は兼任で居候の格だったが、最近宣伝部の方の本務が解けて秘書専任になったから自然鼻息が荒い。松本さんも私を力にしている。
流石さすがに大将のいる時はやらないよ」
「態度が違う。僕にまで『いや、お邪魔をしました』なんて言って行く」
「裏表を使い分けるんだよ」
「今度やったらめてくれる」
「役者が一枚上だよ。今だって然うだったろう? 大将がいると思ったから、初めは処女の如く、いないと分ったものだから、後には脱兎の如しだ」
「何あに」
「名案があるかい?」
「これってこともないが、何か考えて置こう。うっちゃって置くと癖になる」
「しかし先方むこうだって深い料簡があるんじゃないんだからね」
 と松本さんは人が好い。
「いや、意味深長だよ、おビンズルさまってのは」
「何故?」
「本尊さまの側に坐っている木偶でくぼうって意味さ」
「成程」
婉曲えんきょくに無能をふうしたんだよ」
「失敬な」
「一むくいなければ、秘書室の威信に拘わるぜ」
「よし」
うする?」
「取っ捉えて面をさかさにいてやる」
「腕力は穏かでないよ」
「それじゃ何うする?」
「先方が婉曲に来ているんだから、此方も念を入れる必要がある。待ち給えよ」
 と私は少時しばらく考えて、
「矢っ張り大人しく撫ぜさせるんだね、三度」
「三度?」
「うむ。おビンズルさまだから仕方がない」
「おい!」
「その代りコツンと食わせるんだ」
「腕力じゃないか?」
「構わない。憤ったら笑ってやるさ。『おい、仏の顔だぜ』って」
「成程。此奴は好い」
 と松本さんは喜んだ。
一寸ちょっとこれぐらいのものさ」
「感心した。君はナカ/\喧嘩が上手らしい」
資本もとを入れてあるんだよ」
「学生時代にかい?」
「いや、度々首になっている」
 と私はもう地位が安定したから腹蔵ない。
「一つ栗栖さんの頭をコツンとやるかな?」
「未だ決心がつかないのかい?」
「いや、やるよ。これというのも皆大将が悪いんだから、責任は大将にある」
「何故?」
「人前ってことを考えないで、無暗むやみに僕を叱りつけるから、自然同僚が侮るのさ」
「それが確かにあるね。一体ならもうっと強持こわもてのするものだけれど」
「こゝのは貧乏※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)びんぼうくじだよ。大将からは二そくもんのように叱り飛ばされる。他の連中からは余計ものゝように思われる。ツク/″\厭になってしまう」
 と松本さんは愚痴をこぼし始めた。
「しかし君は僕と違って特別関係だから、まだ/\勤め宜いんだぜ」
「いや、それが却っていけないんだよ。見給え。君が叱られることは滅多にないが、僕は殆ど毎日だ」
うでもないさ」
「いや、僕にばかり無理なことを言う。先刻なんかもひどいじゃないか? 『君はアベコベだね。会社の株の下るのと我輩の血圧の上るのを喜んでいる』と話の内容も聞かないで、頭ごなしだからね」
「今日は朝から少し来ていたんだよ。お天気の加減が幾らかあるらしい」
「天候の責任を負うんじゃ秘書も立ち行かない。この間のも大将が目に見えて無理だよ」
の口だい?」
「園遊会の前の日さ。お天気にしたいものだというから、『はあ』と答えたんだ。当り前じゃないか? ねえ君」
「無論社長が無理さ」
「それを大将は機転が利かないと言う。天気にしたいと言ったら直ぐに気象台へ電話をかけるものだと来た。然うは頭が働かないよ」
「しかしもう一つ序に『はい』と答えれば宜かったのに」
「そこは一寸の虫にも五分の魂があるから、つい『気象台へ電話をかければお天気にしてくれますか?』とやってしまった。僕はあゝいう時にはもう何うなっても宜いと思っているんだ」
「正面衝突は損だよ」
「しかし忌々いまいましいからね」
「大将も無理は分っているんだ。後から奥さんやお子さんのことを訊いたりして、御機嫌を取ったじゃないか?」
「あれが常套手段さ。僕を叱って置いて、さいを褒めたり子供を褒めたりする。去年の今頃だったよ。僕がイヨ/\決心して辞表を突きつけたら大将、晩に家へやって来た。近所を通ったから序だと言ったが、※(二の字点、1-2-22)わざわざきまっている。妻を初め四人の子供を順々に褒めるんだ。一番末のは生れたばかりだぜ。余っ程馬鹿な奴だと思ったよ」
「君は褒めなかったかい?」
「褒めたくても喧嘩をしたばかりだ。仕方なしに死んだ親父や祖父を褒めた。妻は何ういう意味だか分らない」
「成程」
「僕は努めて大きな顔をしていたが、家中うちじゅうのものを褒められゝば厭な心持はしない」
「御機嫌を直したのかい?」
「うむ。仕舞いに笑っちゃった」
「それで辞表撤回か?」
「然うさ。笑っちゃったから仕方がない。翌朝ノコ/\出掛けて行って、『社長、あれを返して戴きます』とやった。ところが大将は人が悪いよ。『何か忘れものをしたのかい?』と空とぼけている。『辞表です』と頭を掻いたら、『あれは君、感ずるところがあって出したんだろう?』と来た。『はあ。しかし又感ずるところがあって、返して戴きます』『会社員は詩人と違う。然う敏感じゃ勤まらない』と大将、まるで居直り強盗さ。前の晩にあやまりに来た時と悉皆すっかり態度が変っている」
「ハッハヽヽ」
「コン/\説諭せつゆを加えた後、『お前の辞表ぐらいでビクともする我輩じゃない。以来こんなものを書くと承知しないぞ』と凄まじい権幕さ。仕方がないらか[#「仕方がないらか」はママ]、あやまってしまった」
「そんなことだろうと思ったよ」
「実に遣口やりくちが巧妙だ。叱られる上に自由自在に操縦されるから忌々いまいましい」
「しかし君だから我儘がくんだぜ」
「いや、僕だから先方むこうの我儘が利くんだよ」
「何あに、社長ってものは何処でもあれぐらいが相場さ」
 と私は公平な判断を期した。
「君は自叙伝の方丈けで交渉が一般的でないから簡単に考えているんだが、僕のように圧迫されて見給え、とても辛抱出来ないよ」
「君のは特別さ」
「特別関係だから、大将の我儘が利く」
「いや、君の我儘が利くんだよ」
「僕が我儘かい?」
「さあ」
「大将こそ我儘じゃないか? 特別関係が好い有難迷惑さ。僕の家の長男は僕の帰りが晩いと、『お父さんは又社長さんに叱られていたの?』って訊くくらいだ。家庭教育の上にも面白くない結果をきたす」
「しかし大将は君にばかり当るんじゃないぜ。その時の気分次第だからね」
「当りい奴に当るのさ」
「いや、僕にも随分当るんだけれど、僕は直ぐに折れる。しかし君は特別関係って肚がある」
「それじゃ僕が我儘だってのかい?」
「まあ、然うさ」
「これは聞きものだ」
 と松本君は開き直った。
「君は対等の議論なら社長に負けないと言っているだろう?」
「うむ。実際然う信じているんだ」
「僕もその積りだけれど、おもてには決して現わさない。猫をかぶっている」
ずるいね」
「自衛上仕方がないさ。ところが君は時々我を忘れて、大将と対等になるぜ」
「君よりも人間が正直なんだろう」
「然うかも知れない。要するにそこが賢愚けんぐわかれるところさ」
「おい!」
「ハッハヽヽヽ」
「聞き捨てならないことばかり言うね」
「ハッハヽヽ」
「おい!」
「憤ったのかい?」
「いや、僕よりも巧く立ち廻っているところを見ると、君の方が確かに賢だよ」
「賢ってこともないが、斯うかどの取れるまでには可なり資本もとを入れてある。游ぎ丈けはこゝの池の外何処も知らない君より少し達者の積りだ。悪いことは言わないから、まあ聞き給え」
海千山千うみせんやませんにはかなわない」
「君は僕のように揉まれていないから人間が生一本だ。親しく附き合って見ると、実際好いところがある」
「同時にそれが皆悪いところだろう?」
「感心々々、分っているんだね」
 とわざわいも三年、私は過去の失業が今や同僚に意見をする権威になる。
「世の中が変って来たよ」
「何故?」
「去年の秋、君がこの室へ来始めた頃は僕が指導の任に当ったものだったがね」
「君は万事調子を合わせてさからわないことだと教えてくれたよ。お蔭さまで無事に勤まっている」
出藍しゅつらんの誉って奴だね。この頃じゃ君の方が余っ程信用があるようだぜ」
「然うでもなかろうが、内心凌駕りょうがしようと思って及ばずながら努めている」
「油断がならない」
 と松本さんは大袈裟おおげさな表情をしたが、無論冗談だ。係が全く違うから、私と競争をする気はない。
「君はえ抜きだけれど、僕は飛入りだから、この機会を利用して地位を固めて置くのさ」
「折角やり給え」
「自叙伝が完成したからってノメ/\平社員に戻されるんじゃ気が利かないからね」
「その点は大丈夫だよ。今度で分っている」
「専任になったからかい?」
「然うさ。これから先のことを考えているんだよ。大将は一度信用したら、何処までも引き立てる。我儘だけれど人情にはあつい」
「御機嫌の変らない中に充分食い入って置こうと思って一生懸命さ。自分ながら感心するくらいだ。心掛の一端を御覧に入れようか?」
「大いに宣伝するね。流石さすがに出身は争われない」
「これだよ、君」
 と私は手帳の一頁を開いて突きつけた。
「何だい?」
 と松本さんは手に取って、
「ふうむ。これは/\」
 と喉を鳴らしながら読み始めた。

おぼ
一九三〇元旦
○好配を求めてめとる事。茶飲み友達ゆえ、四十台にてよし。
○及ぶ限り血圧を下げる事。
自叙伝じじょでん上巻出版の事。
○恩人祭挙行の事。
○及ぶ限り増配の事。
○増資決行、南満工場設立の事。
○禁酒実行の事。ビールも含む。血圧の為めよろしからず。
○及ぶ限り節煙の事。矢張り血圧の為めなり。
○及ぶ限り菜食さいしょくの事。同上。
○国産ビール稲荷神社いなりじんじゃ昇格の事。
○末次君探幽たんゆう菊寿童きくじゅどうの事。(懇請こんせい
○赤石君雪舟せっしゅう双幅そうふくの事。(奇襲。呵々かか又呵々)
○赤石君因陀羅いんだら寒山拾得かんざんじっとくの事。(宗達そうたつ交換こうかん
○赤石君文晁ぶんちょう帰去来ききょらいの事。(懇請、頓首とんしゅ
○将棋三段免状の事。
○三須君引退の事。
○門脇君同上。
○川崎君昇進の事。
○戸張君昇進の事。

「大将の発心ほっしんさ。年頭に書いたものらしい」
「君に見せたのかい?」
「何うして/\。内証だ」
「よく手に入ったね」
「これで二頁だ。もう一頁あったようだったけれど、これ丈け写し取ったら足音が聞えたから、中止やめにした」
「家でかい?」
「うむ」
「もう一頁欲しかったな。松本君昇進の事と書いてあったかも知れない」
「惜しいことをしたよ。川崎さんと戸張さんの後釜が分る筈だったけれど」
「常務が二人も引くとなると、それからそれへ大異動が来る」
「兎に角、虎の巻だろう?」
 と私は得意だった。
「大将、結婚する積りだね」
「見かけによらないものさ。僕はこれに一番驚いたんだよ」
「茶飲み友達ゆえ四十台にてよし。何だい? ヘッヘヽヽ」
「ハッハヽヽ」
 と私達は一々個条書を研究し始めた。
劈頭へきとう第一に書いているから、これは何をいても実行するぜ」
「あんな爺さんのところへ来る女があるだろうか?」
「それはあるさ」
「元治元年だぜ」
「四十台なら二十幾つしか違わない」
「そんなに違っちゃ素人しろうとじゃ来まい」
「何あに、未亡人ってものがある。何なら僕が世話をしても宜い」
「心当りがあるかい?」
「ないけれど探すさ」
「アベコベだね。秘書が社長の仲人なこうどをするなんて」
「及ぶ限り血圧を下げること」
「これだよ」
「うむ。斯うと知ったら考えがあったのに」
 と松本さんは思い当った。
「然うだろう? 血圧の話を始めたら、手のものを置いて傾聴しないと忽ち御機嫌が悪くなる。今朝はこの第二項に打っつかったんだよ」
「こんな筋書を持っているなら、教えてくれゝばかったのに」
「いや、これはつい四五日前に手に入れたんだ。大将が頑張っているところで見せられる代物しろものじゃないから、大切だいじを取ってつい失敬していた」
「それなら仕方がない。しかし血圧々々って、そんなに重大なものかね? 結婚の次だぜ」
「豪くなると血圧を問題にする。この頃の流行はやりさ」
「然ういえばお互は平気だね。僕なんか幾らあるか知らないでいる」
「社長のような地位になると、不可能なことを希望する。金はある。勲章は貰う。自由は利く。百事意の如しだ。そこで何か一つ不如意ふにょいなことがないと気がまぎれないんだ」
 と私は解釈を加えた。
「馬鹿を言っている」
「いや、本当だよ。それには血圧が持って来いさ。血圧ってものは年を取れば上るに定っているんだ。それを下げようとするんだから、何うしたって意の如く行かない。丁度好い退屈しのぎになる。ブルジョアの道楽さ。赤石さんでも末次さんでも丸山さんでも皆見給え。重役連中は一人残らず血圧を心配している」
「血圧の次は自叙伝か? 此奴も不如意だろう。凡人を偉人のように書かせるんだから」
 と松本さんが第三項に移った時、コツ/\と戸を叩くものがあった。
「はあ」
 と応じて、私は手帳を仕舞った。
「やあ」
 と言って、常務の赤石さんが入って来た。社長の次はこの人だ。
「これは/\」
 と私達も改まらざるを得ない。立って迎えた。
「社長はもうお帰りになったろうね?」
「はあ」
「留守を狙ってやって来た」
「はゝあ」
「少しゆっくりするよ」
 と赤石さんは大卓子おおテーブルへ進んで、
「さあ。掛け給え」
 としょうじた。
「はあ」
 と私達は謹んで席についた。主客顛倒しゅかくてんとうだ。
「忙しいかね?」
「いや、丁度手空てすきになったところでございます」
「腕利きの揃いだから」
「何う致しまして」
 と松本さんが宜しくやってくれる。
「時に熊野君」
「はあ」
「社長の自叙伝ははかどったかね?」
「いや、前途遼遠でございます」
「さぞ註文の多いことだろうね」
「はあ。しかし……」
「ふむ?」
「昨今漸く方針がきまりましたから、後は材料の問題でございます」
「その材料を一つ君に提供しようと思ってやって来たんだよ」
「それは/\」
「社長が意志の人だということは衆目の認めるところで、私もこの点に特別敬意を表している。一旦思い立ったら必ずやり通す。えらい人だよ」
「はあ」
「それについて一つの逸話がある。最近の出来事だ。昨夜だ」
「はゝあ」
「社長は時々私のところへ遊びに来る。会社で一緒に仕事をする上に書画骨董の道楽が共通だから、特別御懇意に願っている。ところで一寸ちょっと苦情になる」
「はあ?」
「今更仕方がないが、昨夜社長に家宝かほうを一つ奪われてしまった」
「はゝあ」
「社長は去年から頻りに手土産を持って来る。それもその都度つど真物ほんものなら五百金千金とも思える古書画ばかりだ。熊野君は時折骨董屋へお供をするだろう?」
「はあ」
の方面だい? 一体」
「主に芝です。骨董屋ばかり並んでいるところがあります」
「大方そんな見当だろうと思っていた。掘り出しものだと言って頻りにくれるが、考えて見ると、私は然う/\唯で貰ういわれがないから、少し気味きびが悪くなった。ところで昨夜のことさ」
「はゝあ」
「社長は鹿爪らしい顔をして、『土産を持って来るばかりで、いつも手ぶらで帰るのは具合の悪いものだよ』と苦情を言い出した」
「ハッハヽヽ」
 と松本さんが笑った。
「私も『貰うばかりでお気の毒だから、何か一つ差上げたい』と実際然う思っていた。『それじゃ一つ不用品を拝領しようか?』と言うから、『何でもお望みにまかせる』とつい釣り込まれて言葉をつがえてしまった。『雪舟の双幅そうふくが欲しい』と社長は如何にも欲しそうな声を出したよ」
「成程」
 と私は覚え書の項目を思い出した。
「この雪舟の双幅というのは先祖伝来だ。私は無論手放す気がない。しかし男子が一旦口外したことだから仕方なしに、双幅の片一方丈けで堪忍して貰うことにした。社長はとこに懸けて見て、『何方どっちをくれる?』と訊くから、『好い方を家に残したい』と私も今更惜しい。『それじゃ不公平だ。※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)くじにしよう』と、君、実にひどい男があったものじゃないか?」
「可なりひどいです」
「大いにひどいよ」
「はあ」
「仕方がない。※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)にした。その結果社長に好い方が当った。斯うなると諦めがつく。それに双幅が片一方欠けたんじゃ価値がなくなる。『両方差上げましょう』といさぎよく降参した」
「ひどい目に会いましたな」
「しかしこの意気込みだよ、社長の今日ある所以ゆえんは。思い立ったら必ず通す。何処までも意志の人だよ」
「はあ」
「自叙伝にはこの方面を特に力説して貰いたい」
「承知致しました。い材料でございます」
「一事が万事さ。たゆまずまず、結局目的を達する」
「はあ」
「雪舟ばかりじゃない」
寒山拾得かんざんじっとくあぶのうございますよ」
 と私は注意してやった。
「え?」
「ハッハヽヽ」
因陀羅いんだらかい?」
「はあ」
「君が知っているところを見ると、社長は矢張りこの室で画策かくさくするんだね」
「いや、頻りに褒めていられましたから」
「危い/\。道理であれを見せろ/\と言う」
「それから帰去来ききょらいってのがございましょう?」
 と松本さんが訊いた。
「ある。これは驚いた」
「ハッハヽヽ」
「あれも欲しがっているんだ。何れも家宝だよ。君達は片手間に私の倉の目録を頼まれているんじゃないかい?」
「何う致しまして」
「白状し給え」
「決して」
「ハッハヽヽ。兎に角これは警戒を要する」
 と赤石さんは益※(二の字点、1-2-22)上機嫌で話し込んだ。

首尾不首尾


「人間は心掛一つさ」
「はあ」
「俸給が少いの何のと苦情を言うものは見込がない」
「社長、地震でございます」
 と私は話半ばに注意しなければならなかった。
「成程」
 と社長は天井を仰いだが、
「我輩は十七円の月給にありつくと直ぐに、鬼の首でも取った気になって、郷里から母を呼び迎えた。熊野君、この点は特筆大書して貰いたい」
 と続けた。
「はあ」
「十七円といえば、この頃では給仕の月給だ」
「これは大きいです」
 と松本さんが立ち上った。
「大きい/\」
 と私も中腰になった。
「十七円の月給で親を養ったんだから、この頃の若いものとはいささかながら心掛が違う」
 と社長は平気だった。
「はあ」
「大きいですよ」
「社長、未だ揺っています」
「これは危かないですか?」
 と私達は立ったり坐ったりした。これで二人とも後から叱られた。
「人間は心掛一つさ」
「はあ」
「しかし君達のようじゃ見込がない」
「はあ?」
「今のざまは何だい?」
 と社長はむずかしい顔をして、私達二人を見据えた。
「…………」
「日本は地震国だよ」
「はあ」
「あれぐらいの地震を恐れていたんじゃ落ちついて仕事は出来ない」
「私は特別嫌いなものですから、つい」
 と松本さんが頭を掻いた。
「特別に地震の好きな人間もあるまいが、あんまり意気地がなさ過ぎる」
「社長の御身辺をお案じ申上げたからでございます」
 と私は苦しい弁解をした。
「我輩は心配ない」
「はあ」
「このビルデングが倒れるようなら、社長として運命を共にする。始終その覚悟でいるから、何んな大地震が来ても驚かない」
「…………」
「人間は何うせ死ぬんだ」
「はあ」
「死んで元々じゃないか?」
「はあ」
「悟りを開かなければいけないよ」
「はあ」
「人間は一遍しか死なない。然う思っていれば、何も恐れることはない筈だ」
「はあ」
「この頃の若いものは精神修養が足りないから、何かというと慌てくさって度を失う。困ったものだ」
 と社長は悉皆すっかり御機嫌が悪くなっていた。
「何とも汗顔かんがんの至りでございます」
 と私は恐縮した。
「松本君はうだ?」
「はあ」
「はあじゃ分らん」
「何とも汗顔の至りでございます」
「これからっと気をつけ給え。見っともないじゃないか?」
「気をつけます」
くだらない西洋の活動写真を見る暇に、日本人として精神修養を心掛けちゃ何うだね?」
「心掛けます」
「西洋人は地震を恐れる。以前この会社の社長をしていたハイゼなんかは地震というと蝙蝠傘こうもりがさをさして二階から飛び下りたものだ。君達は趣味が西洋人の趣味になっているからいけない」
「はあ」
「音楽にしても、西洋物に心酔して、義太夫の妙味が分らない」
「…………」
「絵だってペンキ屋の描いたような油絵が好きじゃないか?」
「…………」
「実に困ったものだ。もっと日本人らしい精神修養を心掛け給え」
「はあ」
「人間は心掛け一つだ。ハイゼは明治二十六年の地震の時、二階から飛び下りたが、我輩は東京の真中にいながら、大正十二年の震災をっとも知らなかったじゃないか?」
 と社長は尚お説法を続ける積りらしかった。しかしその折、戸を叩くものがあったので、松本さんは好い幸いに、
「はい/\」
 と立って行った。常務の赤石さんが、
「やあ。大きな地震でしたな」
 と言いながら入って来た。
「何あに」
「久しくないと思っていたら、急に大きなのがやって来ました」
「何あに」
 と社長は万事否定した。
「時に社長」
「うむ?」
「もうソロ/\時刻じゃありませんか?」
「何の?」
下見したみですよ」
「成程」
「今の地震でお忘れになりましたか?」
「何あに」
「御都合が宜しければ」
 と赤石さんは急き立てる。
「出掛けるかな」
「お供致します」
「松本君、外套々々」
 と社長は立ち上った。
 私達は社長と赤石さんを玄関へ見送って手が明いた。
「あゝ/\。あゝあ」
 と松本さんは秘書室へ戻ると直ぐに欠伸あくびをした。
「あゝあ」
 と私も肩が凝っていた。
「今日のは全く御同難だったね」
「赤石さんが来てくれて助かった」
「いや、以下次号さ。帰って来たら大いに警戒を要する」
まらないなあ」
「悪い癖だよ。直ぐに居直る」
「居直り強盗か?」
「例の通り十七円の月給が出たから、立志談だと思って安心していたんだよ」
「悪い時に地震が揺ったのさ」
「地震の方は叱られても仕方がないけれど、後の附け足しが無理だ。君は大将の意のあるところが分ったかい?」
 と松本さんは昨今研究的になっている。
「直ぐに思い当った。僕はこの間の晩、義太夫を忌避きひしたものだからね」
「道理で」
「無理に聴いても、欠伸をして叱られるに定っている。もう十一時だったからね」
「やれ/\」
何方どっちにしても免れ難い運命だった」
 と私は諦めをつけた。
「僕のは書画だ。大将はこの間三千円の仏画を買ったろう?」
「うむ」
「僕はついうっかりして、『こんな真黒な物にそんな値打があるんでしょうか?』と訊いてしまった」
「成程。あれは僕も見たが、実際そんな感じがする」
「ペンキ屋の描いたような油絵が好きだってのは、あれがたたったのさ」
「仕方がない。もう逆らわないことだよ」
「しかし趣味が西洋だから地震を恐れるって理窟は立たないぜ。それから精神修養を心掛けたところで、趣味は趣味だ。対等なら揚げ足を取って、ひどい目に会わせてやるんだけれど」
 と松本さんはお株を始めた。
「それがいけないんだよ」
「矢っ張り長いものには巻かれろか?」
「然うさ」
「仕方がない」
「ところで大将は東京の真中にいながら震災を知らなかったと言ったが、あれは本当かい?」
「本当だ」
流石さすがに胆力が据っているね」
「しかし知らない筈だよ」
「何故?」
「入院していたんだ。盲腸の手術が済むと同時にあの大地震さ。麻酔ますいにかゝっていたんだもの」
「ふうむ。成程」
「長男は親父の盲腸なんか見たくないという不孝ものだからね。僕と奥さんが立会人さ。慌てたの何のってないよ。直ぐに火事だろう? 大将を寝台車に乗せて逃げ出した」
「それは大変だったね」
「無論医員と看護婦が附き添っているから手落ちはない。しかし下町はもう何処も危いってので、青山まで逃げたよ。大将は途中で目が覚めたのだろうが、改めて気を失ったと見える。何しろあの大騒ぎの最中だったからね。青山の病院に着いた頃はしょうがなかった」
「成程」
「僕も家の方が心配だから、大将が正気づくのを待って帰って来た。震災を知らなかったと言って威張るけれど、全く無我夢中だったんだ。度胸が据っているんでも何でもない」
「何うも大将は誇大妄想の気味が多少あるようだね」
「大いにあるよ。医者が我輩の盲腸をいじったものだから、あんな大地震が揺ったんだなんて法螺ほらを吹く」
「ハッハヽヽ」
「阿蘇の炎さ、日外いつかの」
「ハッハヽヽ」
「しかし本心は善良な人間だよ。僕のお蔭で助かったことを認めている」
「お礼を言ったかい?」
「あゝいう負け惜みの強い人だから、無論それとは明言しない。『おい、君。これは君が地震で慌てたお礼だよ』と誤魔化して、金一封さ」
「幾らあったい?」
「大きいんだよ。建築費だもの」
「然う/\。君の家はその間に焼けてしまったんだね」
 と私は松本さんがその折の焼け出されだったこと丈け聞いていた。
「その晩だったけれども」
「社長も確かに好いところがある」
「それは無論あるさ」
「悪いところもある」
「悪いといっても、性根しょうねは善人だよ」
「要するに我儘さ」
「頭の押え手がないから、勝手なことをかす」
「吐かすは厳しいね」
「ハッハヽヽ」
 と松本さんはもう御機嫌が直っていた。社長に叱られると真赤になって憤慨するけれど、社長の恩顧を思い出すと直ぐにやわらぐ。
「君」
「何だい?」
「社長は本当に見せかけているほどの豪傑ごうけつか知ら?」
「さあ。西郷どんほどのことはあるまいが、ガラマサどんは矢っ張りガラマサどんだよ」
「僕は自叙伝を書く上から、何れくらい度胸の据った人か正確に知りたいんだが、何か逸話はないかね?」
「震災を知らなかった話は何うだい?」
「人事不省じゃ問題にならない」
「昼寝をしていたことにすれば宜いじゃないか?」
「嘘は書けないよ」
「事実談にしても、社長のは大抵おまけがついているんだからね」
「多少は仕方がないさ。何うせ大将のことだから」
「この会社の裏で独逸人と決闘をしたという話がある。大将が家重代いえじゅうだいの国光を振りかぶったら、先方は腰を抜かしてしまったそうだ」
「大きいね、相変らず」
「しかしこれは嘘に定っている。経済上不可能事だ」
「何うして?」
「国光といえば大したものだぜ。二十一の時、家財を悉皆すっかり売払って、お母さんを親類へ預けて東京へ出て来たと言うんだから、そんな銘刀を持っている筈がない」
「成程」
「都合次第で、家重代の銘刀が出て来たり、全くの裸一貫、腕一本すね一本から仕上げたり、大将の言うことは実際矛盾している」
耄碌もうろくしているんじゃなかろうか?」
「何に、頭は確かだよ。口から出まかせの駄法螺だぼらを吹くんだ」
「決闘そのものは本当だろうね?」
「受合わないよ。同じ法螺を幾度も吹いている中に、自分でも本気にしてしまうのらしい。震災を知らなかった話も、この頃では自分の度胸の所為せいにしているんだもの。入院していたなんてことは決して言わない」
「面白い爺さんだ。その決闘を一席弁じさせてやろう」
 と私はつい調子づいた。後から考えて見ると、これがいけない。
 社長は昼過に戻って来た。
「熊野君」
「はあ」
「君は我輩の爛柯らんかを見たね?」
「はあ?」
「元信の爛柯だ。『爛柯の図』だ」
「さあ」
「覚えていなければ話にならない。宜しい」
 と社長はもうおかんむりを曲げかけた。折角御機嫌で帰って来たのに惜しいことだと思ったが、仕方がない。
「…………」
「松本君」
「はあ」
「君は覚えているか?」
「はあ。あの碁を打っている絵でございましょう」
「然うさ」
「結構に拝見致しました」
 と松本さんは成功した。その絵なら私も見せて貰ったが、今更功名争いも出来ないから、黙っていた。
「あの爛柯が○○伯爵家の売立に出ていたんだよ」
「はゝあ」
「同じ元信でも我輩の持っている方が余っ程好い。赤石君が地団太を踏んで口惜しがった。ハッハヽヽ」
「何故でございますか?」
「我輩のは元来赤石君が或店で発見して来て我輩に相談をかけたのだ。我輩は一目見て真物ほんものと鑑定したが、赤石君には『これは怪しい』と言って置いて、後から買ってしまった。ハッハヽヽ」
「一杯お食わせになったんですな?」
「然うさ。赤石君も始終悪辣あくらつなことをやるから、正当防衛で仕方がない。美事みごと仇を討ってやったのさ」
 と社長は得意だった。
「伯爵家のは存じませんが、社長のは実に名画でございました」
「元信はよく爛柯らんかを描いたものらしい」
「爛柯ってのは仙人の名前でございますか?」
「知らないのかい?」
「はあ」
「知らないで褒めても仕方がない」
「…………」
「熊野君」
「はあ」
「君は知っているか?」
「存じません」
 と私もいけない。二人とも朝から首尾の悪い日だった。
「先刻も言った通り活動写真なんかばかり見ていて日本人としての精神修養を怠っちゃ駄目だよ」
「はあ」
「爛柯ってのは碁のことだ」
「はゝあ」
 と松本さんが受けた。
「君はヘボ碁を打つくせに、無学も甚だしいな」
「恐れ入ります」
「昔、晋に王質という木樵きこりがあった。或日、山へ行ったら、童子どうじが数名碁を打っていた。王質はおのを置いて勝負を見物し始めた。あの絵は然うだろう?」
「はあ」
「すると一人の童子が王質になつめの実をくれた。それを食べたら、もう腹がへらない。いつまでも見物している。その中に童子が『何故帰らんか?』と言ったから、立って斧を取って見ると、柄が朽っていた。らんは朽ちるの意味、は斧の柄のことだ。つまり斧の柄が朽ってしまうまで見物していたんだね。村へ帰ったら、何百年もたっていて、昔の人は誰も生きていなかったという」
「成程。承わって見れば、意味深長な故事こじでございますな」
「以来碁にふけることを爛柯と称する」
「お蔭さまでい学問を致しました」
「ヘボ碁は打たないことだよ」
「はあ」
「万年筆が朽ってしまう」
「これはきました」
「ハッハヽヽ」
将棋しょうぎは如何でございましょうか?」
「お生憎さまだ。将棋の方には故事がない」
「御都合が宜しゅうございますな」
「勝負事には関係ないが、日本にもこれに似た伝説があるだろう?」
「さあ。浦島太郎でございますか?」
「頭が好いぞ」
 と社長は然う不機嫌でもないようだったから、私は安心して、
「西洋にもございますよ」
 と口を出した。
「ふうむ」
「リップ・※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ン・ウインクルって奴です」
「はゝあ」
「よく似ています。この男は猟に行って矢張り山へ入るのです。そこで妙な連中が勝負事をしているところへ来合せたのです」
「成程」
「怠けものですから、坐り込んで見物を始めます。その中に連中が酒を飲みます。ウインクルも仕合せよしと御馳走になります」
「成程」
「酔って寝てしまって、目を覚ますと、髯が三尺も伸びて、鉄砲が錆腐さびくさっています」
「はてね」
「村へ帰って見ると、もう知った人は一人も生きていなかったというのです」
「全く同巧異曲どうこういきょくだね」
「はあ」
「面白い。何処の話だい?」
「アメリカです。殖民地時代でしょう」
「それじゃ爛柯の伝説を盗んで焼き直したんだろう」
 と因縁をつけた丈けで、社長は別段異存も唱えなかった。
「社長」
「何だね?」
「社長がお若い時に決闘をなすったということを承わりましたが、本当でございますか?」
 と私は間もなく持ちかけた。もっと突如いきなりではない。それまでに然るべく手順を運んでいる。
「やったよ」
「相手は独逸人だったそうでございますね」
「うむ。序に話そうか?」
「はあ。是非」
「相手は独逸人。経緯いきさつは女と来ている」
「はゝあ」
「しかし誤解しちゃ困るよ。元来謹厳な我輩だ」
 と社長は断った。
「大丈夫でございます」
 と保証して、私は松本さんと顔を見合せた。二人の頭に、茶飲み友達ゆえ四十台にてよしという覚え書の第一項が浮んだのである。
「ベッケルという独逸の技師だ。殊更に喧嘩口論を好むような男じゃなかった。此奴のラシャメンが我輩に秋波しゅうはを送る。しかし我輩よりも年が多い。無論年が少いからって何うのうのと思う我輩じゃない」
「はあ」
「しかし双方社宅に住んでいたから始末が悪い。ラシャメンの奴、家まで押しかけて来る。我輩は無論相手にしない。裁縫を習いたいという口実で母と話し込むんだ。迷惑千万さ。しかしナカ/\の別嬪で、評判ものだったよ」
「社長もお若い頃は艶福家でございましたな」
「若い頃と限らなくてもかろう」
「ハッハヽヽ」
 と松本さんが笑い出した。
「丁度四十年前だったからね。少くともこんな老人じゃなかった」
 と社長は多少の感慨を催したようだった。
「それから何うなさいました?」
 と私が促す。
「当時我輩は月給二十五円。破格の抜擢で二回続けさまに昇給したんだから、同僚にそねまれていたんだね」
「成程」
「確かに誰かベッケルにきつけたものがあった。無論日本人の同僚さ。我輩とラシャメンのありもしない関係が評判になって、或朝、我輩の机の上にベッケルからの果し状が置いてあった」
「イヨ/\参りましたな」
「晩の十時にお好みの武器を持って介添かいぞえを一人つれて、会社の裏の松林へ来てくれとある」
「成程」
「我輩も後へは引けない。行ったよ。当時はこの裏一帯が田圃たんぼさ。日が暮れゝば人っ子一人通らない。果し合いには持って来いのところだ」
「胸がドキ/\します」
「ベッケルはベックマンという相役の技師を介添につれて松林へ来ていた。月夜の晩だった。我輩はたすき綾取あやどって、向う鉢巻、相好そうごうがもう殺気を帯びている。『君は介添をつれて来ないか?』とベッケルが訊いた。『つれて来た』『何処にいる?』『これだ』と言って、ギラリとばかり二尺八寸、家重代の国光を振りかぶった」
 と社長は立ち上って、その通りの構えをして見せた。
「到頭おやりになりましたな」
「我輩は二人を斬って死ぬ覚悟だったからね。西洋の決闘は傷をつければ宜いんだ。意気込が違う」
「ベッケルは何うしました?」
「ベックマンと相談を始めて、結局、介添のいない決闘は法式にかなわないから厭だと言い出した」
「恐れを為したんですな」
「然うさ」
「それから何うなりましたか?」
「さよなら、お休みなさいと日本語でお世辞を言って行ってしまった」
呆気あっけないんですね」
「此方も拍子抜けがした」
「ラシャメンは何うなりましたか?」
「間もなく暇を取って、銀座の勧工場の唐物屋へ嫁に行ったよ」
「はゝあ」
「我輩は時折行ってネクタイを買ってやった」
「もう秋波は送りませんでしたか?」
「送っても驚かない。此方はもうさいを迎えていた」
「ハッハヽヽ」
 と松本さんが又笑った。
「しかし我輩も二尺八寸家重代の国光を伊達に振りかざしたんじゃない」
「はあ」
「当時会社は独逸人が経営していたんだから、独逸社員の威張ることゝいったらとてもお話にならない。日本社員は頭数が多くても皆下積みで、圧迫されていた。我輩は日本人の気魄を示すという心持もあった。罷り間違えば二人を斬って自分も死ぬ覚悟をしていた」
「それは然うでございましたろう」
「二尺八寸はいたよ。ベッケルとベックマンの心胆を寒からしめたのみならず、日本社員一同の溜飲を下げた。一人二人変な奴がいたけれど、余他あとは皆我輩を徳としていた」
「社長はその頃もうソロ/\幹部級でございましたか?」
うして/\。我輩の上に二十人からあった。その上が幹部で、これは皆独逸人だ」
「しかし既にもう今日の御成算がおありになったんでございましょう?」
とても/\」
「はゝあ」
「我輩の今日あるのは全く偶然だよ」
「そんなことはございません」
 と私は力強く否定した。社長が謙遜する時には何か考えがある。うっかり共鳴していると飛んでもないことになる。
「単に運が好かったのさ」
「いや、成功者は必ず何か常人にない特別の要素がございます」
「強いて言えば胆力かな」
「胆力もその一つでございましょう」
「胆力丈けは若い時から据っていた。人間が図々しく出来ているんだね。東京の真中にいて震災を知らなかったんだから」
 と社長はこの通り矢張り自ら任じているところがある。
 胆力論が少時しばらく続いた。後から考えて見ると、松本さんが横合から口を出したのがいけなかった。尤もそれには社長が、
「松本君の如きは好い例じゃないか? 地震が一寸揺っても直ぐに立ち上る。据っていない」
 と洒落を交ぜてからかいをかけている。松本さんは苦笑いをしていた。
「地震は特別でしょう。皆懲りていますから」
 と私は自分の弁解を兼ねて、松本さんの為めを計った。
「君達は何うして然う地震を怖がるんだろうかな?」
「家が潰れると大変です」
「それがいけない」
「しかし潰れないとも限りませんからね」
「いや、潰れる潰れないの問題でなくて、大変という言葉がいけない」
「はゝあ」
「昔の武士は大変という言葉を慎んだものだ。殿様御切腹、お家断絶というようなことでもなければ大変とは決して言わない。この頃の若いものは大変の安売をする。据っていない証拠だろう?」
「成程」
「松本君はインキをこぼしても大変と言うぜ」
「社長」
 と松本さんはもう料簡を据え兼ねた。
「何だい?」
「社長は物に動じませんか?」
「動じない」
「それじゃ私が試して見ましょうか?」
いとも」
「この二三日の間に社長に大変と言わせて御覧に入れましょう」
「そんなことは言わないよ」
強情ごうじょうで仰有らなくても、大変と思わせて差上げます」
「思わないよ」
「兎に角やって見ます」
「やり給え」
「しかし後から御立腹になっちゃ困りますよ」
「決して憤らん。冗談を憤るようなら、据っていない証拠だ。手を打って笑ってくれ給え」
 と社長も行きがかり上、よんどころない。大人気おとなげない約束をしてしまった。
「熊野君、相談がある」
 と後刻、社長が帰ってから、松本さんが椅子をり寄せた。
「何だい?」
「社長を吃驚びっくり狼狽ろうばいさせてやるんだが、何か好い智恵はないか?」
「さあ。憤るよ」
「憤らない約束だ」
「いや成功するくらいのことをすれば屹度憤る」
「憤ったら笑ってやれば宜い」
「君は特別関係だから安心だけれど、僕は直ぐに首になる」
「そんな料簡の狭いガラマサどんじゃない」
「然うかね」
「安心して一つ考えてくれ給え」
「やるか? 僕も欝憤うっぷんが溜まっている」
「君はおとなし過ぎる」
「然うでもないんだけれど」
 と私はついおだてに乗った為め、大変なことになった。

エレベーター事件


 失業の名人もトン/\拍子が少時しばらく続いた為め、少々増長の気味があった。相役の松本さんに向って、
「君は特別関係だから……」
 と言いながらも、私も実はその積りで、足元を大磐石と思っていた。尚お特に面目を施す機会が降り湧いたので調子づいた。それは米国観光団の来訪だった。何等の前触れもなく、二十名ばかりの紳士淑女が押しかけて来て、その一人が社長への紹介状を持っていた。
「松本君、誰か若手に英学の達者なものがあるだろう? つれて来給え」
 と社長が命じた。
「誰に致しましょう?」
「それを君に相談しているんだ」
うっと……」
「大学出が幾らもいるじゃないか?」
「はあ、探して参ります」
 と松本さんが出て行った後へ、庶務課長の中島さんがもうお客さんを案内して来た。
「社長、困りました」
「これは/\、ようこそ」
 と社長は胆力を誇る丈けに泰然として日本語を使った。しかしそれでは通じない。
「熊野君、君、何とか頼む」
 と中島さんが私のところへ寄って来た。
「やりましょう」
 と私は通訳を買って出た。
「聴く方は宜しい。喋る方丈け頼む」
 と社長は満足そうに頷いて、
「これは/\ようこそ。友あり遠方より来る。また楽しからずや」
 と言った。私はその通りを訳した。片一方丈けだから大きに助かる。
「マッケンジーさんも一行に加わる筈でしたが……ミス・マッケンジー……何うぞ宜しくと申されました」
 と代表者が流暢りゅうちょうに話す。……のところは分らない。以下すべて精神訳にする。
「有難うございます」
「ミス・マッケンジーを御紹介申上げます」
「ようこそお出下さいました。御尊父には先年一方ひとかたならぬ御厄介をかけました」
「何う致しまして」
 とミス・マッケンジーは一行中の美人だった。
「一同は特に東洋美術に興味を持っていまして……あなたの御蒐集ごしゅうしゅうの書画骨董……」
 と代表者が申出た。多分拝見したいというのだろうと思っていたら、果して、
「お安い御用でございます」
 と社長が応じた。
「突然伺いまして……」
「いや、一向。序に工場を御覧になりますか?」
「私達は禁酒国のものでございますから、醸造業は拝見致しても参考になりません」
「国産ビールは酒ではありません。清涼飲料です」
「成程」
「設備は東洋一」
 と社長は宣伝を始めた。
「しかし時間がありませんので……」
「それでは直ぐに宅の方へ御案内申上げましょうか?」
「甚だ恐縮でございますが……東洋一の御蒐集……」
 と代表者は先年社長が外遊の折吹いて歩いた法螺ほらを信じ切っていた。
 社長は一行を新邸へ案内した。庶務課長と松本さんと私、それに定兼君がお供をした。定兼君と私が通訳の労を執る。書画骨董の説明はナカ/\骨が折れた。社長は就中なかんずく家重代の国光に一行の注意を呼んで、
「これは私の先祖の大名が朝鮮征伐の時使ったものです」
 と言った。
「ひらりと見えし刀の影、首は前にぞ落ちにける」
 と振りかぶって見せた。西洋人にまで義太夫を語って聴かせたいのだから始末にえない。尤もこれは通訳の限りでなかった。
「本当に持っているんだね?」
 と私は松本さんにささやいた。
「その後買ったのさ」
 と松本さんが答えた。
「太田原さんは伯爵でございますか?」
 と一人の淑女が定兼君に訊いた。
「さあ」
「日本の伯爵のお方に船でお目にかゝって、種々いろいろとお話を承わりました」
「はゝあ」
「その方の御先祖が矢張り大名で朝鮮征伐においでになったそうですから、太田原さんも伯爵でございましょう」
「伯爵とは違いますけれど、サムライ族で勲三等でございます」
「サムライ族と申すのは矢張り貴族の一種でございましょう?」
「然うです。昔は本当の貴族よりも幅を利かせたものでございます」
 と定兼君はしきりに取繕とりつくろっていた。
 観光団はプログラムがきまっていたから、二時間足らずで急遽引き揚げた。あれでは鑑賞の余裕もなかったろうが、長くいられると通訳が困る。私達は直ぐに会社へ戻った。社長は上機嫌で、
「熊野君はナカ/\度胸が好いね」
 と褒めてくれた。
「いや、随分まごつきました」
「あれぐらい図々しくやれゝば結構だよ。以来西洋人の客が見えたら君に頼む」
「恐れ入ります」
「発音が少し変則で耳障りだけれど、何うせ日本人について習った英学だろうから、それは仕方がない」
「はあ」
 と答えたが、私は少々不服だった。英語を英学と呼ぶ時代の人に何が分るものかと思った。
「我輩は最初から英国人についたから、発音が好いよ」
「はゝあ」
「それに場数ばかずを踏んでいる。会社の幹部が独逸人ばかりだった頃はすべて英学で用を足していたし、彼方あっちでは時折演説をやったものだ」
「御外遊はいつ頃でございましたか?」
「もうソロ/\十年になるかな。我輩の英学には彼方の人達が驚いていたよ」
「御講演でございましたか?」
「いや、食後の演説さ。君達は知るまいが、彼方では食後デザート・コースに入ると主立った人間は何か喋らなければならない。指名されて即席にやるんだ」
「テーブル・スピーチでございますな」
「いや、テーブル・スピーチなんて言葉は彼方にない。それは日本人が拵えた英学だろう。彼方ではアフター・デンナー・スピーチという。後学の為め覚えて置き給え」
 と社長は西洋人が行ってしまってから語学の法螺を吹き始めた。
「社長」
 と松本さんは昨日から反感に燃えている。
「何だい?」
「それほどお達者なら慌てゝ通訳を探し廻るにも及ばなかったじゃございませんか?」
「何も慌てやせんよ」
「はあ」
「君は我輩が自分で事に当れば宜かったと言うんだろう?」
「はあ」
「それは外国語を知らない素人考えというものさ」
「何故でございましょう?」
「幾ら達者でも、外国語は自国語と違う。自然控え目になって遠慮勝ちに話すから分が悪い」
「成程」
「英米人と日本人が英語で話しているところを見給え。何うしても日本人が英国人なり米国人なりから取調を受けているような形になる」
「それは確かに然うでございますな」
「これは英学の力に甲乙があるからだ。反対に日本語で話して見給え。今度は西洋人が日本人から取調を受けているような形になる」
御道理ごもっともでございます」
「それで我輩は通訳をつけたのさ。国産ビールは如何なる点に於ても西洋に負けたくない。始終我輩の側にいて我輩の精神が分らなくては困る」
 と社長は何につけても一見識立てないと承知しない人だ。英学のお蔭で出世したというのだから、話せば本当に達者かも知れない。
「社長、お序に何か御外遊中の御逸話を拝聴したいものでございます」
 と私は松本さんの安全の為めに話頭の転換を試みた。
「さあ」
「失敗談でも結構でございます」
「自叙伝に失敗談を入れちゃ困る」
「彼方でお感じになったことでも宜しゅうございます」
「さあ。別にこれってこともないな」
 と社長は考え込んだまゝ、もう口をきかない。松本さんは仕事があるから、
「失礼致します」
 と断って、机へ戻った。私は社長が動くまで動けない。
「君も宜しい。御苦労だった」
 と社長から許可の出るまで少時しばらくボンヤリしていた。立ち廻りにナカ/\気を使う。
 間もなくお昼だった。食堂は六階にある。松本さんを誘ってエレベーターへ入ったら、社長と重役の末次さんが一緒だった。二人も出会い頭だったと見えて、末次さんは社長に、
「時に今日はアメリカの美人連中が押し寄せたそうですな」
 と話しかけた。
「うむ。朝の中をつぶしてしまったよ」
「私は知らないでいて惜しいことをしました」
「しかしアメリカ美人は禁物だ」
「何故でございますか?」
「威張って仕方がない。何んな美人でも、アメリカと聞いたら、我輩は逃げ出す。斯うやってエレベーターに同乗しても、男子は脱帽していなければならないんだからね」
「お安い御用じゃありませんか?」
「エレベーターで思い出したが、熊野君」
 と社長が私を呼んだ時、私達はもう六階に上っていた。
「何でございますか?」
「食事をしながら話そう」
「はあ」
 と私は食堂へ入って、社長の側に席を占めた。
「熊野君、我輩がアメリカで最も痛切に感じたのは婦人の威張ることだよ」
 と社長は早速話し始めた。周囲あたりの連中は皆傾聴の態度を取った。
「はゝあ」
「日本では男子が横暴過ぎるけれど、アメリカでは確かに婦人が横暴過ぎる。婦人はんな無理でも通す。人を殺しても大抵無罪になる」
「大変なところでございますな」
 と言って、私はまったと思った。国家の存亡以外に大変はないと昨日いましめられたばかりだった。
「一時の逆上でやった仕事として結局放免になる。尤もこれは美人に限る」
「ハッハヽヽ」
 と皆が笑った。
「自動車でも婦人の運転しているのが一番恐ろしい。かれて見給え」
賠償ばいしょうが取れませんか?」
「賠償どころか、アベコベに罰金を取られるよ」
「驚きましたな」
「それは美人でなくても宜いんですか?」
 と末次さんが隣りから訊いた。
「新聞に出るもの」
「はゝあ」
「新聞に出れば皆美人になる」
「成程。その辺は日本と違いませんな」
「それに彼方の女は大抵美人だよ。女中にもこれはと思うのが幾らもいる」
「はゝあ」
「電車の運転手なぞがとても釣合の取れないような美人をつれて歩いている。それが細君なんだ。男と生れるなら斯ういう国だと思わないでもなかったよ」
「ハッハヽヽ」
「実際の話」
「それでは先刻さっき逃げ出すと仰有ったお言葉と矛盾致しますな」
「いや、然う思わないでもなかったと断っている」
「然う思わないでもなかったなら、正に然う思ったんじゃありませんか?」
「これは末次君に尻尾を捉まえられたよ。ハッハヽヽ」
「ハッハヽヽ」
 と一同が笑う。
「神さまだね、彼方の婦人は」
 と社長は又やり出した。
「日本にもかかあ大明神ってのがありますよ」
 と末次さんが受けた。以下、私は末次さんに相槌を委せた。皆の前で社長と心安そうに話すのは気がす。
「嬶大明神は御亭主の心掛次第さ。お互の家庭にも可なりいるようだが、るいは他に及ぼさない」
「それは確かに然うですな」
「保証するかい?」
「いや、私のところじゃありません」
「ハッハヽヽ」
たちが悪いですな」
「ハッハヽヽヽヽ」
 と皆、役者が社長と常務だから、待っていたように笑う。
とても嬶大明神の比じゃない。一般的社会的だ。婦人殿下といっているくらいだからね。今も話した通り、エレベーターに乗り合わせても、男子は脱帽して敬意を表さなければならない」
「厄介な習慣ですな」
「忘れていると睨みつけられる」
「しかし頭によっては御覧に入れない方が却って敬意かも知れませんよ」
「よく突っかゝって来るね」
「いや、一般論です」
「誤魔化したね」
「ハッハヽヽ」
「ところで、君、痛快なことがあるんだよ。最近この脱帽の習慣が経済上持ち切れなくなったというんだ」
「はゝあ」
「シカゴ丈けの話だが、男子がエレベーターの中で婦人に敬意を表すると、年に二万五千弗の経費がかゝる」
「何ういう意味でしょうか?」
「帽子を斯う両手で持っているからね。肘が突っ張る。その結果として、男子四人が脱帽していると丁度一人前の空間をふさぐ。二十人の男子が敬意を表して見給え。五人乗れなくなる勘定だ」
「成程」
「従って運転回数が増すから、動力を無駄に使う。機械を早く傷める。それが年に積るとシカゴ丈けで二万五千弗だそうだ」
「はゝあ」
「アメリカ全体だと莫大な数字になる。これ丈け費用をかけて婦人に敬意を表する必要があるか何うかというのさ」
 と社長はロク/\喰べないで語り続けた。座談の上手な人だから、虚心きょしんに聴いていても面白い。
 食後、松本さんと二人でエレベーターに乗って直下する途中、私の頭に致命的の着想が浮んだ。
「松本君、好いことを考えた」
 と私は部屋へ戻ると直ぐに言った。
「何だい?」
「社長を驚かす法だ」
「それは有難い」
 と松本さんも昨日から考えていた矢先、早速話に乗った。
「今のエレベーターの話で思いついたんだ」
「何うする?」
「明日食堂へ行く時、エレベーターを五階と六階の間で止めて、『社長、故障です。ロープが切れたらしいです』とやる」
「成程」
「それは大変だと言うだろう」
「無論言うね。言うまで止めて置くさ」
「何うだい? やって見ようか?」
「やろう」
「しかし叱られやしまいか?」
 と私は多少の懸念があった。
「大丈夫だ。憤らない約束だもの」
「よし」
「しかしお互が言っても駄目だよ。大将、この二三日は警戒しているに相違ない」
「エレベーター・ボーイを買収するのさ。念が入る丈けに後が心配だ」
「責任は僕が負う。僕から河野に頼む」
「しかしナカ/\承知しまい?」
「何あに、一杯飲ませる。善は急げさ」
 と松本さんは早速行って、掛け合って来た。
「何うだったい?」
「承知したよ」
「案外簡単だったね」
「いや、飲む方丈けさ」
「仕事の方は?」
「飲ませながら頼むさ。今晩ってことにして来た。君も附き合うだろうね?」
いとも」
 と私はもとより発起ほっきしたのだから異存がない。
 エレベーター・ボーイといっても、河野は立派な青年だった。
 社長室や重役室に近いところを受持っている。
「こゝは客種が好いね」
 と私は冗談を言ったことがある。
「へい。社長か重役か重役候補のお方ばかりです」
 と河野はお世辞を言った。その重役候補が二人で晩飯を御馳走したのだから、大いに恐縮して、
「一体何ういう御用でございますか?」
 と伺いを立てた。
ほかのことでもないが、明日の昼、社長と僕達がエレベーターに乗った時、五階と六階の間で一分間ばかり止めて貰いたい」
「はゝあ。何うするんでございますか?」
「社長を驚かすんだ。実は……」
 と松本さんが経緯いきさつを簡単に説明した。
「折角でございますが、御免蒙ります」
「何故?」
「そんな悪戯いたずらをすると首になります」
「首は僕達が保証する」
「大丈夫でございましょうか?」
「安心してい給え。万一にも叱られたら、僕達が無理にさせたと言えば宜い」
「しかし……」
一寸ちょっと止める丈けだ。『故障です。あゝ、ロープが切れたようです』と言ってくれゝば、尚お結構だけれど」
「そんな嘘は申上げられません」
「それじゃ止める丈けなら宜いだろう? 機械の都合でういうこともあるんだろうから」
「はあ」
「止めてくれるかね?」
「やって見ます」
「その時、僕が訊く」
「何とお訊きになります?」
「さあ。『故障かい? ロープが切れたんだろう?』と訊くから、一々頷けば宜い」
「嘘になりますな、矢っ張り」
「それなら黙って心配そうな顔をしていても宜い」
「松本さん、今のは取消しにして、もう少し考えさせて下さい」
 と河野も首が怖いから、ナカ/\決心がつかない。
「そんなに真剣にならなくても宜いんだよ。社長は冗談に、我輩を驚かして見ろと言っているんだから、何をしたって憤りはしない」
 と続いて私が勧誘に努めた。
「本当に大丈夫でございましょうか?」
「君が首になるようなら、張本人の僕達は一溜ひとたまりもない。考えても見給え。僕達だって首は大切だいじなんだからね」
「それは無論然うでございますな」
「社長が黙っているのに驚かすのなら、無論宜しくない。しかし驚かして見ろと言っているんだ」
「はあ」
「安心して一つ引受けてくれ給え」
「実は私もやって見たいことはやって見たいんです。あゝいう豪い人を驚かせれば、エレベーター・ボーイの名誉です」
「これは話せるぞ」
「一つ思い切ってやりましょうか? しかし……」
「度胸の悪い男だ」
「やります」
「又しかしだろう?」
「いや、やる以上はうまくやりますよ」
「何うやる?」
「止めて置いて、『申訳ございません。ロープが切れました。落ちます。落ちます』とうやります」
「然うやって貰えば願ったり叶ったりだ。ねえ、松本君」
「うむ」
 と松本さんは頷いて、
「河野君、これは当座のお手当だ」
 と五円紙幣を出した。
「首尾よく行けば、褒美ほうびの金は望み次第」
 と私もおだて上げた。
「やります」
 と河野は到頭引受けた。私達は詳しく手筈を打ち合わせた。
 それから昨日だ。松本さんと私は出勤すると直ぐにエレベーターに乗って実地をやって見た。社長は朝から忙しかった。昼少し前に常務の赤石さんが入って来たのには一寸ちょっと困った。
「一緒に食堂へ行くんじゃなかろうか?」
「然うかも知れない」
「迷惑千万だね」
「延すか?」
「いや、二三日中という約束だから、もう日がない」
「あゝ、帰る。立ったよ」
「又坐った。駄目だ」
 と私達は秘書室から見守ってコソ/\話していたが、赤石さんは帰らない。
「まゝよ」
「僕もそこに帰着した」
「一れん托生たくしょうさ。赤石さんもついでに驚かしてやろう」
 とめてしまった。これがいけなかった。
 社長が立って、赤石さんが従った。
「何うです? お昼に行きましょう」
 と赤石さんが私達に会釈した。私達も立って、廊下へ出ると直ぐにエレベーターへ入った。河野は松本さんに目くばせをした。松本さんの目も意味深く働いた。
 エレベーターはスル/\ッと上り始めたが、四階近くで止まって、二階までノロ/\下った。
「何うした?」
 と赤石さんが驚いた。
「さあ」
 と河野は小首を傾げたが、又動き出して、今度は五階と六階との間で止まった。すべて打ち合せた通りだった。
「妙なところで何うしたんだい?」
 と社長が訊いた。
「…………」
「動かないのかい?」
「はあ」
「何うして?」
「故障でございます。申訳ありません」
「うむ?」
「ロープが切れたらしいです」
「それは大変だ」
 と社長はあざやかに言って、横に廻してある真鍮しんちゅうの棒に捉まった。赤石さんも捉まってかがんだ。松本さんが咳払いをした。エレベーターは徐々と上って六階で止まった。
「助かった」
 と言って、這うようにして出た赤石さんは顔色土の如くだった。
「君、待ち給え」
 と社長は河野に命じて、もう一方、
「松本君」
 と呼んだ。
「はあ」
「これは直ぐ運転休止にしなければいけない。中島君を呼び給え」
「はあ」
 と松本さんは今更説明する勇気がない。私も黙っていた。
「君、君行って来給え」
 と社長は更に河野に命じた。
「はあ」
 と答えて、河野はエレベーターへ入るが早く、スル/\ッと下りて行ってしまった。
「危いことをする奴だ」
 と社長は尚お突っ立ったまゝだった。
「実は社長」
 と松本さんがこうべを垂れた。
「何だい?」
「申訳ございません」
「何が?」
「社長」
 と私も進み寄った。ことここに至っては仕方がない。二人は恐る/\告白した。
「馬鹿な奴等だ」
 と社長は大喝だいかつ一声、食堂へ入ってしまった。
 私達は昨日に引きえて、社長から最も遠い末席を選んで坐った。
「君」
 と松本さんがささやいた。
「困ったことになったね」
 と私は会社のまかない弁当を見詰めた。
「矢っ張りいけなかった」
「大丈夫だろうか?」
「これってこともあるまいが、あんなに憤ったのは初めてだよ」
「念が入り過ぎた」
「平あやまりにあやまる外はない」
 と松本さんも悉皆すっかりしょげてしまった。
 社長は食事中談笑常に異ならなかった。
「案外御機嫌のようだぜ」
「笑っている」
「相手は誰だい?」
「赤石さんだ」
「気の毒だったね、赤石さんには」
「社長よりも余計慌てたよ。未だ青い顔をしている」
 と私達は屈託していて、食事もソコ/\に済ませた。
 部屋へ戻ってから、又評定ひょうじょうだった。
「ナカ/\来ないね。何うしたんだろう?」
「晩いほど安心だよ」
「何故?」
「憤っているなら直ぐに来る」
「脈があるかね」
 と私は元来失業の名人だ。唯さえ造詣ぞうけいが深いのに余計なことを仕出来したものだと後悔しても先に立たない。
 戸が開いた。私達は謹んで立ち上ったが、社長でなくて庶務課長の中島さんだった。
「君達は馬鹿なことをしたものだね」
 と云いながら入って来た。
「はあ」
「大将はカン/\だよ。血圧が上ってしまう」
「何とも申訳ありません」
「今日はもう引取り給え」
「いけないんですか?」
 と松本さんは顔色を変えた。
「社長は何と仰有いましたか?」
 と私も訊いた。
「辞令を出せと言うんだ」
「はゝあ」
「出せばそれっきりだよ」
「はあ」
「考え直して貰うにもあの権幕では寄りつけない」
「…………」
一先ひとまず引取り給え」
「…………」
「一体何だってそんな馬鹿な悪戯いたずらをしたんだね?」
「社長が高言ばかり吐くからです」
 と松本さんは急に反抗的になって、一部始終を説明した。
「社長はそんなことは一向言わなかった」
「その通りずるいんです」
「しかし考えて見給え。お互同志と違う」
「はあ」
「冗談にも程合ってものがある」
「無論僕達が悪かったんです」
「あやまる外はなかろう?」
「はあ」
「僕が一つ策をさずけてやる」
「何うぞお執成とりなしを願います」
「いや、僕じゃ駄目だ。赤石さんに頼んであやまって貰い給え」
「ところがその赤石さんもカン/\でしょう?」
「無論好い感情は持っていまいが、君達は赤石さんにあやまらない積りかね?」
「あやまります」
「この際、社長を動かせるのは御同難の赤石さん丈けだ」
「はあ」
「赤石さんにあやまって、赤石さんからあやまって貰うさ」
「然う致しましょう。しかしあやまった上にお願いをするんですから、厚かましい話ですな」
「それは君達が好んで仕出来しでかしたことだ」
「仕方ありません」
「何なら僕が一緒に行ってやろうか?」
「はあ。何うぞ願います」
「それじゃ今晩、うっと、七時頃に僕のところへ来給え」
 と中島さんが口添えをしてくれることになった。
「河野は何うなりましたか?」
 と私は責任を感じて訊いて見た。
「あれは雇員だから辞令も何も要らない」
「矢っ張りいけないんですか?」
「今申渡したところだ」
「はゝあ」
「はゝあ」
 と松本さんは私と顔を見合せた。

長いもの


 家へ帰ったら、妻が、
「あらまあ、お早いんでございますね」
 と驚いた。それもその筈、いつもは夕刻なのに、小学校帰りの長男と一緒に敷居を跨いだのだった。
「少し具合が悪くて、早目に仕舞って来た」
「それはいけませんでしたね。何うなさいましたの? お風邪?」
「然うかも知れない」
 と私は靴を脱ぎながら溜息をついた。
「直ぐお休みになったらうございましょう」
「さあ」
「お医者さんを呼びましょうか?」
 と妻は電話口へ進もうとした。
「それにも及ばない」
 と私は和服に着替えながら、この電話も召し上げられてしまうのだと思った。
「あなた」
「何だい?」
「本当に何処かお悪いのでございますか?」
 と妻はもう察したようだった。
「ハッハヽヽ」
「厭でございますよ、又、あなた」
「あゝあ」
「又いけないんでございましょう?」
「分ったかい?」
「直感したんですけれど、子供の前で滅多なことは申上げられませんから」
「いけないんだよ」
 と私は失業の名人だから、言うことに権威がある。妻は文字通りに信仰して、
「今度こそもう大丈夫と思って、安心していましたのに」
 と鼻声になった。
「未だ泣くには早いよ」
「辞令を戴いて来たんじゃございませんの?」
「うむ。しかし大抵いけないと思っていれば間違ない」
「何うなさいましたの? 喧嘩?」
「喧嘩ならこの頃は誰としても負けないんだが、肝心の大将を憤らしてしまった」
「まあ!」
「馬鹿なことをした」
「何をなさいましたの?」
「それまで立ち入らなくても宜い」
「はあ」
「何うにかなるよ。お前達にひもじい思いはさせない」
 と私はイラ/\した。八つ当りの気味だが、仕方がない。
「…………」
「あゝあ」
「…………」
「しかし今度のは惜しい。トン/\拍子に行っていたんだけれど」
「…………」
「確かに増長した。詰まらないことをしてしまったよ」
「…………」
「お美津、お前は何故黙っている?」
「申上げるとお憤りになりますから」
「憤りゃしないよ」
「それじゃ私、申上げますわ」
「何でも申上げなさい」
「私、今晩松本さんのところへ御相談に上ります」
「いや、松本君も一緒だ」
「まあ!」
「松本君と一緒だから、全く脈がないでもない」
「社長さんにあやまってお帰りになりましたの?」
「いや、カン/\でとても寄りつけないそうだから、そのまゝ逃げて来た」
「松本さんは?」
「同じことさ。今晩、中島さんにつれられて、二人で赤石さんへあやまりに行く」
「あら、赤石さんでございましたの?」
「赤石さんと大将さ。二人を憤らしてしまった」
「念入りね」
 とさいは呆れたように言ったが、内容は尋ねなかった。
「考えて見ると憤るのも無理はないんだ」
「…………」
「話そうか?」
「宜うございますわ。公務は女の立ち入る限りでございませんから」
「いや、公務じゃないんだ」
「それなら、承わりましょう」
「社長と赤石さんをエレベーターの中で驚かしたんだ」
 と私は委細を説明した。
「そのエレベーター・ボーイは本当に首?」
「うむ」
「それじゃ矢っ張り駄目でしょう」
「駄目かも知れない。中島さんも辞令を出せと言われたくらいだから」
「あなた方の?」
「うむ。出せばそれっきりだから、兎に角早く帰れってのさ。社長も赤石さんも悉皆すっかり血圧を上げてしまって、とても手がつけられないと言っていた」
「困りましたわね」
「松本君も今まで随分社長の感情を害している。わしは可なり努めた積りだけれど、何分自叙伝係って役で、会社の事務はほんの形式丈けだから、社長の御機嫌が変ればそれっきりだ。これは事によると覚悟をして貰わなければなるまいよ」
「私、覚悟丈けはいつでもしていますわ」
流石さすがにおれの女房だよ」
「実は内証で月掛貯金に入っていますの。早晩斯ういうことがあるだろうと思いまして」
「有難い」
「半年ぐらいは平気の積りですが、この頃は失業者が多くて、ナカ/\口がないんですってね」
「何あに、何うにかなるさ。おれは失業しても直ぐにある。然う/\、三好さんへ御無沙汰していた」
 と私も三好先生を思い出す時はいつも形勢が悪い。
 間もなく松本さんから電話がかゝって来た。
「何うだい?」
 と気の所為せいか力のない声だった。
「有難う。覚悟を極めている」
「此方はカン/\だよ」
「え?」
「カン/\。家内がカン/\だ」
御道理ごもっともだよ」
「馬鹿なことをしたね、考えて見ると、実際」
「今更仕方がない」
「今、中島さんへ電話をかけたんだよ」
「何んな具合だったい?」
「ガラマサどんもカン/\。赤石さんもカン/\。しかしね」
「うむ」
「今晩上るからって、足止め丈けはして置いたそうだ」
「赤石さんかい?」
「うむ。それから七時に中島さんのところへ行く筈だったが、あやまるには早い方がいそうだから、六時ってことにしよう」
「よし/\。しかし六時に中島さんが帰っているか知ら?」
「中島さんが然う言ったんだから大丈夫だ」
「それじゃ六時に行く。僕も何なら早い方が宜い。斯うやって何方どっちつかずに待っているのは厭なものだよ」
「本当にね。何うなるんだろうなあ?」
「さあ。なるようにしかならないと思っていればい」
「仕方がない。これ丈けだよ、報告は」
「有難う」
「さよなら」
 と松本さんは切った。
 私は六時少し前に中島さんへ出頭した。松本君はもう来ていた。
「熊野君、今松本君にも断ったんだが、僕は責任をわないよ。唯一緒に行く丈けだ。宜いかね?」
 と中島さんは早速問題に触れた。
「はあ。しかしお口添えを願います」
「無論、それが主眼で行くんだけれど、赤石さんが首を横に振れば、それまでの話だからね」
「仕方ありません」
「早い方が宜い。直ぐ出掛けよう」
「宜しくお引廻しを願います」
 と私は坐ると立つと殆んど一緒だった。
 時を移さず、一同赤石さんの邸宅へ乗りつけた。直ぐに客間へ通されたが、主人公、ナカ/\出て来ない。成程、重役だったと今更気がついたところを見ると、私も余程上っていた。三十分ばかり待った時、
「やあ。お揃いだね」
 と言って、赤石さんが現れた。私達は座蒲団からすべり下りて平伏した。
「不都合者をつれて上りました」
 と中島さんは早速用件に取りかゝった。
「今日は飛んだ御無礼を申上げて、何とも申訳ございません」
 と松本さんと私が後に続いた。
「中島君」
 と赤石さんは私達の方を見向いてくれない。
「はあ」
しきりに足止めをするから、大方おおかたこんなことだと思っていたよ」
「夜分押しかけて参りまして、飛んだお邪魔を申上げます」
「宜いさ。久しぶりだ」
「毎日お世話になっていながら、正月以来御無沙汰申上げています」
「少しひどいぜ」
「恐れ入りました」
 と中島さんは額に手を当てた。要領が好くて出世の早かった人だから、私達は大いに学ぶ必要がある。
「そののちえらいものを掘り出したよ」
 と赤石さんは床の間の双幅そうふくに目を向けた。
「これでございますか?」
「うむ。それもその一つだ」
「結構でございますな」
「天下の絶品だよ。よく見てくれ給え」
「拝見させて戴きます」
 と中島さんは床の間へ進んで端坐した。
「社長が垂涎万丈すいぜんばんじょうさ」
寒山拾得かんざんじっとくって形ですな?」
「寒山拾得だよ」
「はゝあ。余程お古いものでございましょう?」
足利あしかが時代だ」
「誰でございますか?」
兆殿司ちょうでんすさ」
「成程。支那人でございますな」
「冗談言っちゃいけない。日本人だよ」
「はゝあ」
明兆みんちょうといって、豪いお坊さんだ」
「成程」
「東福寺の大道禅師だいどうぜんじについていたが、絵を描いてばかりいてお勤めを怠るものだから、首尾が悪かった。或時、禅師の不在を幸いに、不動尊の絵を描き上げたところへ禅師が戻って来た。明兆は慌てゝ、膝の下にかくしたが、名筆の力は恐ろしいものさ。巨勢金岡こせのかなおかの描いた馬が夜毎に抜け出して苗代田なわしろたを荒したという話を君は知っているだろう?」
「はあ」
「明兆も金岡に劣らない。膝の下に匿した絵から忽ち不動明王の炎がポッポ/\と燃え上った。幾ら押えても消えない。大道禅師は驚いた。『申訳ございません』と明兆が出して見せると、禅師は感に入って、少時しばし言葉もなかった。以来、明兆が絵を描くのを大目に見てくれたという」
「豪いものでございますな」
「後に東福寺の殿司になって、兆殿司と号した。種々いろいろと逸話のある人だよ。貧乏で絵の具が買えなかった頃は近所の川から五色の石を拾って来て、それを砕いて使ったという」
「成程」
「その石の粉で描いた涅槃像ねはんぞうが現に東福寺の宝物ほうもつになっている」
 と赤石さんは講釈を始めた。談義が長いので皆辟易へきえきする。次は青磁せいじ香炉こうろだった。この二品ふたしなで一時間余り喋り続けた。その間、私達二人は身動きも出来ない。これくらい窮命きゅうめいすれば堪忍して貰う値打が充分あると思った。
「ところで……」
 と中島さんは度々切り出したが、赤石さんは受けつけない。
「これによってこれを見るに、社長が何と言ってケチをつけても、この品は政宗青磁さ」
「はあ」
「伊達家に伝わっているのと全く同じものさ」
「はあ」
ふるきをたずねて新しきを知る。この意味に於ても書画骨董の趣味は大切だいじなものだよ」
「種々と承わって、好い学問を致しました」
「何うだね? 一つ入門しないかい?」
 と赤石さんは斯道しどうの最高権威をもって任じている。
とても駄目でございます」
「何故?」
「ハッハヽヽ」
「笑って答えずか? 何か仔細がありそうだね」
「条件つきでお弟子になりましょう」
「はてね」
「重役に抜擢して戴きます」
「ハッハヽヽ」
「骨董を買う資格が出来次第、御門下に加わりましょう」
「買わなくても宜いんだよ。わしのところの品物を見て、俺の講義を聞いていれば宜いのさ」
「これからは度々お邪魔を申上げましょう」
「必ず得るところがあるよ」
「資格のつくまで差当り講習生でございます」
「然うさ。目をこやして置けば宜いんだ」
「ところで、赤石さん、今晩の用件でございます」
「何だっけな?」
「この二人でございます」
「二人が?」
「今日大変な失礼を申上げました」
「うむ/\/\」
「お詫に上ったのでございます」
「何とも申訳ございません」
 と松本さんと私は存在を認めて貰うことに努めた。
「あゝいうことをしちゃいけないね」
 と赤石さんは漸く私達の方へ向いてくれた。
「はあ」
 と松本さんが代表して、私も頭を上げない。
「これから気をつけるさ」
「必ず慎みます」
「宜いよ、もう、心配しなくても」
「しかし赤石さん」
 と中島さんが遮って、
「社長は大変な御立腹で、二人とも甚だ首尾が悪いんでございます」
 と経緯いきさつ詳説しょうせつした。
「何うしてもいけないと言うのかね?」
「はあ」
「それは困ったね」
 と赤石さんは首を傾げた。
「常務には何とも申訳ございませんが、社長は然うお憤りになる理由がないんです」
 と私は説明の必要を認めた。
「何故?」
「社長は松本君に『我輩は度胸が据っているから物に動じない。驚かして見ろ』と仰有ったんです」
「はゝあ」
「一昨日でした。然うです。地震が揺って、私はいささか狼狽した為めお小言を戴いたのでございます。丁度常務が入っておいでになった時でした」
「成程」
「松本君は大変だと言って叱られたのでございます」
「あの時言ったんじゃないよ」
 と松本さんは何方どっちでも宜いようなことを問題にした。
「いや、あの時さ。家が潰れると大変だと言った」
「後から然う言ったんだ。地震最中じゃない」
「然う/\。朝は朝で叱られて、下見からお帰りになってから又叱られたのでございました」
 と私は訂正した。
「よく叱られるようだね、君達は」
「はあ。私達も届かないんですが、社長もナカ/\……」
「やかましい人さ」
「大変という言葉がお気に召さないのです。『昔の武士さむらいは殿様御切腹、お家断絶以外を大変と言わない。松本君はインキをこぼしても大変と言うじゃないか?』と仰有いました。松本君も好い心持は致しません」
「成程」
「それでは社長は物に動じませんかと訊いたのでございます」
「松本君がかい?」
「はあ。社長は決して動じないとお答えになったばかりか、おどかしても宜い、決して大変と言わないと仰有ったのでございます」
「ふうむ。成程」
「御立腹になっては困りますと松本さんは念を押したのですが、社長は『決して憤らん。憤るようなら度胸が据っていないのだから、手をって笑うがい』と仰有いました」
「それじゃ約束じゃないか?」
「はあ」
「しかしわしはそんな約束をしなかったよ」
まことに申訳ございません。常務のは全くの巻き添えでございました」
「好い面の皮だ」
「恐れ入りました」
「いや、俺はもう宜しい。然ういう事情なら尚更のこと意に介さない」
「…………」
「と突っ放されたんじゃ困るんだろう? ハッハヽヽ」
「実はお詫かた/″\折入ってお願いがあるんでございます」
 と松本さんが切り出した。
「俺から社長へお詫の口添えでもしてくれというのかね?」
「はあ」
「それでございますよ。私も間に入って困りぬいています。これから社長の宅へ伺う積りですが、私一人の手ではとても見込がありません」
 と中島さんが頼み入った。
「宜しい」
「お供を願えましょうか?」
「明日でも宜かろう?」
「いや、明日から出て来るに及ばんと仰有るんでございます」
「ひどくおかんむりを曲げたものだね」
「カン/\でございます」
「よし。出掛けよう」
 と赤石さんは電鈴ベルを鳴らして女中を呼んで、
「社長さんのところへ電話をかけておくれ。これから一寸ちょっと伺いますが、御都合は如何でございますかって」
 と命じた。社長が家にいてくれないと私達は明日の出勤が叶わない次第わけだ。益※(二の字点、1-2-22)こだわるおそれがある。
「お待ち申上げますとございました」
 と女中が取次いだ時、私達はホッと安心の溜息をついた。
 社長の新邸へは赤石さんの自動車で乗りつけた。西洋間へ通されて待っている間に三味線の音が聞えた。
「おや、今日は金曜日だったよ」
 と赤石さんが中島さんに囁いた。
「然うでしたな」
美事みごとかつがれた」
「成程」
 と中島さんが小膝を拍った。
「何うしたんですか?」
 と私が訊いた。
「何あに、何あに」
 と中島さんは誤魔化した。
「何だって?」
 と松本さんが私の方へ耳を寄せた。
 そこへ社長が入って来て、
「やあ」
 とり返った。社長のお辞儀は下らないで上るという評判だ。それは宜いが、
「これは何処の人達だね?」
 とも不思議そうに私達を見返ったのには驚いた。
「お詫につれて上りました」
 と赤石さんが言ったのを合図のように、私達は、
「今日は飛んだ御無礼を申上げまして、何とも申訳ございません」
 と頭を下げた。行く先々で器量の悪い話だけれど仕方がない。
「御同難のわしがもうコン/\言い聞かせて来たんですから、今日のところは水に流してやって下さい」
 と赤石さんが口を添えてくれた。
「馬鹿につける薬はない」
 と社長は椅子にかけて腕組をしたようだった。私達は頭を下げたまゝ只管ひたすら恭順きょうじゅんの態度を取った。
「…………」
「以来気をつけることだね」
「はあ」
「我輩は驚かして見ろと言ったのだ」
「はあ」
「嘘をついて見ろとは言わない」
「はあ」
「我輩は君達を自分の手足のように信用しているのだ。それが嘘をついたんじゃ安心して仕事が出来ない」
「はあ」
「驚かす分なら幾らでも歓迎する。我輩は決して動じない」
「はあ」
「松本は元来馬鹿でいかん」
「はあ」
「熊野もこの頃少し増長している」
「はあ」
 と私達は一々いちいち頷くばかりだった。
「宜しい。掛け給え」
 と社長は中島さんに目くばせをした。中島さんもお附き合いで立っていたのはお気の毒だった。
「さあ、掛け給え」
 と中島さんが模範を示した。
「これから気をつけるさ。職務上の手落があったんでもないんだから、安心して勤め給え」
 と赤石さんがいたわるように言ってくれて、事済みになった。
「時に赤石君」
「はあ」
「君が来たら一つワッと言わせようと思って、かくして置いたものがある」
「何ですか?」
啓書記けいしょきだ」
 と社長はもう御機嫌が直っていた。又しても書画骨董の話かと思って、私は松本さんと顔を見合せた。
「拝見しましょう」
 と赤石さんはもう立ち上った。
「社長、私達はもうこれで……」
 と中島さんが弱い努力をした。
「いや、君達にはもう少し話がある」
「それではこゝでお待ち申上げましょう」
「赤石君」
 と社長は赤石さんを誘って日本間の方へ行った。
「中島さん、種々いろいろと有難うございました」
「お蔭さまで危いところを助かりました」
 と私達は中島さんにお礼を言った。
「何あに、一こう
「今度は実際いけないのかと思いました」
 と松本さんは額の汗を拭いた。
「君は時々喧嘩腰になるのが宜くないんだよ」
「以来気をつけます」
んな無理なことを言っても社長だからね」
「はあ」
「長いものに巻かれていなければいけない」
「はあ。もうりたから大丈夫です。しかし嘘をつかないで驚かせってのは理窟に合いませんな」
「それが悪いんだよ」
「成程」
「社長は行きがかり上、もう驚かすなとは言えない。それで驚かすのは結構だが、嘘をついてはいけないと言っている」
「不可能な註文ですな」
「無論不可能なことを言っているんだ。要するにもう驚かしてはいけないということに帰着する」
 と中島さんは分り易いように説明してくれた。
「先ずもって無罪放免か? あゝあ」
 と私は伸びをした。
「いや、未だ安心出来ないよ」
 と中島さんが笑った。
「何かあるんですか?」
「これから話があると言ったろう?」
「はあ。しかしお説法は毎日会社で聞いていますから平気です」
「お説法じゃない」
「それじゃ何ですか?」
「義太夫だよ」
「はゝあ」
「金曜日だからね。お師匠さんが来ている」
「成程」
「皆逃げてばかりいるものだから、斯ういう時だと思って、二段ぐらい聞かせるよ」
「おや/\」
 と私はウンザリした。
「矢張り唯じゃ堪忍してくれないな」
 と松本さんが歎息した。
「社長は勘定高いからね」
「はあ」
「昼間の中からその積りでいたのかも知れない」
「はゝあ」
「それじゃ、あやまりにつれて来いとでも仰有ったんですか?」
 と私は訊いた。
「さあ。兎に角、癖になるから一番めてくれという御註文さ」
「成程」
「迷惑なのは僕だよ」
「決してお恨みには存じません」
「恨まれてまるものか」
「ハッハヽヽ」
「何の罪もないのに、赤石さんから書画骨董の講釈を一時間余り聞かされた上に、これから義太夫を二段聞かされるんだからね」
「お気の毒ですな」
「飛んだ巻き添えさ」
「巻き添えといえば、エレベーター・ボーイの河野は何うなりますか?」
 と松本さんが思い出した。
「あれは譴責けんせきで事済みさ」
「それは好い塩梅でした」
「君達は若いな」
「何故ですか?」
「社長があれぐらいのことで人を首にするものかね」
 と中島さんは今頃になって保証してくれた。
 大分待たされた。
「それは然うと長いですね」
 と私は安心すると共に欠伸あくびを催した。
「天狗同志の鼻突き合いで夜が明けるかも知れないよ」
「本物でしょうかね? 皆」
「さあ。此方には皆目かいもく分らない」
「何方が目が利いているんでしょうか?」
「それは赤石さんさ」
「唯貰っても感心しないようなものが二千円の三千円のってんですから驚きます」
「此方とは違う。金の使い道に困っているんだからね」
い身分ですな」
「神妙に勤めてあやかることだよ」
「赤石さんも義太夫を聞いて行くんでしょうか?」
 と私は何なら道連れにしてやりたかった。
「いや、逃げるよ。こゝを立った時、僕に目くばせをした」
「はゝあ」
「それで僕もあゝ言ったんだけれど、矢っ張り身分が違う。社長から義太夫を聞かされる間は未だ幹部じゃない」
 と中島さんは会社の不文律を教えてくれた。
「逃げれば宜いじゃありませんか?」
「いや、逃げられない。蛇に見込まれた蛙のようなものだ」
「はゝあ」
「逃げられるようになれば幹部さ」
「成程」
「妙なものだよ。覚悟をしてい給え」
「はあ。殊更不首尾の折からですから」
 と私は大して異存もなかった。

一国一城の主


「やあ」
 と言って西洋間へ戻って来た社長は果して独りきりだった。
「いつまでもお邪魔申上げています」
 と中島さんが私達の心持を表現してくれた。
「お待たせしたね」
う致しまして」
一寸ちょっと吸入きゅうにゅうをしていたものだから」
 と説明して、社長が席につく途端、私は松本君と顔を見合せた。社長は本式に義太夫を語る前に必ず吸入をする。
「はゝあ」
 と中島さんが受けて、
「赤石さんはもうお帰りになりましたか?」
 と訊いた。
「もう先刻さっき
「それではあの自動車の音が然うでしたな」
「うむ、三十分ばかり前だ」
「…………」
「あの男は人のものにケチをつける名人だが、今夜丈けはアッと言ったよ」
「はゝあ」
「天狗丈けあって、目がいている。一々無条件で感服して行った」
「お急ぎになったんじゃないでしょうか?」
「まさか」
「非常な養生家ようじょうかで夜分は十時きっかりにお休みになるんだそうですから」
「成程」
「いや、九時だそうでございますよ」
 と松本さんが口を出した。
「ハッハヽヽ。それじゃ一杯食わされた」
 と社長は額を叩いていた。
「ハッハヽヽ」
 と私達も覚えず笑い出した。社長にはこの通り間の抜けたところがあるから、叱られる時は口惜しくても、後から直ぐに好感を持つ。
「ところで何うだね?」
「はあ?」
 と中島さんが構えた。社長の「何うだね?」は普通の人の「何うだね?」と違う。肚の中で予定を拵えて置いて、それに同意を求めるのだ。例えば社長室で仕事をしていて、丁度お昼頃だとする。
「松本君、ところで何うだね?」
「食堂へお供を申上げましょう」
「行こう」
 と思う壺なら御満足だ。
「松本君、ところで何うだね?」
「雲切れがして来ましたから、お天気になりましょう」
「何を言っているんだ?」
「はあ」
「先刻の手紙は出来たかと訊いているんだ」
「あゝ、然うでしたか?」
「相変らず頭が悪いね」
「しかし社長は唯今お天気のことを仰有いましたから」
「天気と仕事と何方が大切だ? 窓から雲切れなんか見ているからはかどらない」
 と直ぐ御機嫌を悪くしてしまう。この辺、中島さんは心得たものだ。テッキリ義太夫と覚悟したようだったが、早まって叱られては詰まらないから、一応猶予ゆうよを求める為めに、
「はあ?」
 と返辞だか質問だか分らない受け方をしたのである。
睡気覚ねむけざましに玉露ぎょくろでも入れさせようか?」
 と社長は未だ義太夫でなかった。しかし確かにその下拵したごしらえだった。
「いや、もう結構でございます」
「松本君は?」
「私も結構でございます」
「熊野君は?」
「私も結構でございます」
「皆同じくか?」
「もう大分おそうございますから」
 と中島さんは時計を出して見た。先刻から幾度も出して見て、十時過のことがわかっていた。
「十時十一時は我輩の宵の口だよ」
「社長は相変らず精力絶倫ぜつりんでいらっしゃいますな」
「そんなこともないさ。年が寄ったよ」
「私達少壮連中のとても及ぶところじゃございません」
「君達は然う直ぐ諦めるからいけない」
「はあ」
「人間は心の持ちよう一つだよ。睡いと思えば睡い。睡くないと思えば睡くない」
「はあ」
「我輩は赤石君と行き方が違う。赤石君は養生の為めに九時に寝るそうだが、君、寝ている間は死んでいるのも同じことだよ」
「無意識だからですか?」
「うむ。寝ている間は頭が働かない。酔生夢死すいせいむし不自覚也みずからさとらざるなりで、生きていても勘定カウントに入らない」
「成程」
「九時に寝て何時に起きるのだろう? 赤石君は」
「さあ」
「五時きっかりだそうでございます」
 と松本さんは又知っていた。
「九時から五時というと何時間だろう?」
 と社長は指折り数えて、
「八時間だね。我輩は四時間だ。見給え。我輩は半分しか寝ない」
 と夕食後一時間ばかり微睡まどろむことは棚へ上げて、大いに主張した。
「はあ」
「赤石君よりは毎日四時間長生をしている」
ういう勘定になりますな」
「毎日八時間死んで長生ながいきをしよってのは料簡りょうけんが分らない」
「成程。不老長寿法にも自家撞着じかどうちゃくがございますな」
 と中島さんは要所々々を決してはずさない。
「算盤に乗らない長寿法は駄目だよ」
「しかし社長と赤石さんは一緒になりません。赤石さんが社長の真似をなされば一週間で参ってしまいます」
「ハッハヽヽ」
「社長は特別でございますから、一般の標準になりません」
「いや、それが心掛け一つだ。我輩は元来こんな頑健な人間じゃなかった。自叙伝にも書かせている通り、実は月足らずで生れて来て、育つか何うか疑問だった。君、熊野君」
「はあ」
 と私は頷いた。
「熊野君は職務柄我輩の日常を研究しているから、何でもよく知っている。この間中は二人で毎晩首っ引きだった。熊野君もナカ/\元気旺盛だよ」
「何う致しまして」
「勇将の下に弱卒なしでございましょう」
 と中島さんが調子を合せた。
「我輩の感化を受けて、昨今は欠伸あくびをしなくなったね。熊野君」
「いや、時々お小言を頂戴致します」
「我輩は自分がねむがらない方だから、欠伸をされるのが一番厭だ」
「…………」
「欠伸は頭の中の発条ぜんまいゆるんでいる証拠だよ」
「はあ」
「会社でも幹部丈けは流石に緊張している。重役で欠伸をするものは一人もない。尤も赤石君のように八時間も寝れば、頼まれても出来まいけれど」
「ハッハヽヽヽヽ」
 と私達の笑った声には悲壮なものがあった。これから語って聴かせるから欠伸をするなという警告である。日本間の方ではお師匠さんが待ち草臥くたびれているのか、三味線をき始めた。社長は無言のまゝ、それを指の先で合せていたが、忽ち、
「ところで何うだね? 中島君」
 と頭をもたげた。
「一段拝聴させて戴けませんか?」
 と中島さんは正解した。もっともこれをき違えるようなら庶務課長は勤まらない。三味線がまぎれのない註釈を加えている。
「何だい? 義太夫かい?」
 と社長は押しが太い。所望しょもうされてよんどころなく語る形式にしたいのだ。
「はあ」
「これは驚いた」
「もうおそうございますかな?」
 と中島さんも巧者しれもの、あわよくば礼儀丈け尽して逃げ出そうとする。
「今も言う通り、十時十一時は我輩の宵の口だよ」
「御迷惑でございませんければ、久しぶりで一段」
「所望とあれば後には引かない。彼方あっちへ行こう」
 と社長は直ぐに立った。
 日本間へお供をすると、お師匠さんは悉皆すっかり支度をしていた。私は時々聴かされるので見知り越し以上の間柄だ。私も同情しているが、先方むこうでも同情してくれる。松本君は古いから私よりも懇意だ。社長は、
「中島君、これは兜太夫かぶとだゆう
 と簡単に紹介した。
「太夫さん、暫くでございましたな。宜しくお願い申上げます」
 と松本さんは特別念入りに挨拶した。お手軟かにという意味らしかった。
「会社の忘年会でお目にかゝりました」
 と中島さんも努めた。
「お引き立てにあずかりまして」
「我輩と同じように睡がらない太夫さんだよ」
 と社長が言った。
「何う致しまして。ヘッヘヽヽ」
 と太夫さんは顔中を皺だらけにして笑った。
「この太夫さんの豪いところはめばたきをしないことだ」
「…………」
「中島君、瞬きをしないことだよ」
「はゝあ」
 と中島さんは慌てゝ応じた。
「我輩もしないが、太夫は堂に入ったものだ。矢張り芸の力ってものは恐ろしい」
「成程。社長は滅多に瞬きをなさいませんな」
「瞬きは神経衰弱の徴候ちょうこうさ」
「図星でございますな。私なぞは至って頻繁です」
先刻さっきも見ていたが、続けざまにして、それでも間に合わなくなると目をつぶるよ」
「これは/\。悪いところを御覧に入れてしまいましたな」
「ハッハヽヽ」
「しかし魚なんかと違って、人間ですから、絶対に瞬きをしないでいられますまい?」
「無論比較的の話さ。瞬きをしちゃならんとは言わない。しかし人間、一生懸命の時は目を見張っている。精神が緊張していれば瞬きをすることがすくない」
 と社長はこれも自慢の一つだ。欠伸あくびを封じた上に瞬きをしないで拝聴しろと仰有るのだから助からない。松本君がんな顔をしているかと思って、っと横目を使ったら、先方むこうも私の顔を見ていた。
「矢張り陣屋をお語りになりますか?」
 と太夫さんが社長に訊いた。打ち合せがしてあった。
「うむ。同じやるなら、あれがい」
「少しお長くはございませんか?」
「何あに。今日は声がタップリだから」
「へい/\」
「諸君、一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんき熊谷陣屋くまがいじんやの段を語る」
「はゝあ」
 と私達は緊張した。
「社長さんの熊谷は天下一品でございます」
 と太夫さんも心得たものだ。
「そんなこともないが、あゝいう荒武者はがらに合っていると見えて、やりいんだ」
「私共が致しますと、幾ら大声を張り揚げても、熊谷になれません。下司げすは情けないものでございますよ」
「…………」
「そこへ行くと社長さんは斯うして黙って坐っていらっしっても、そのまゝ熊谷次郎直実くまがいのじろうなおざねでございます。肚が出来ていらっしゃるからかないません。人格の力は恐ろしいものでございますな」
「…………」
「その人になり切るのでございます。熊谷ばかりじゃございません。猿廻しの与次郎になれば如何にもその日暮らしの慌てものらしく、おしゅんになれば矢張りお俊らしく、れ/″\御工夫ごくふうをなさいます。芸事でも何でも詰まるところは頭でございますよ。私はお師匠さんとして毎度お稽古に上りますものゝ、実は私の方が教えられて、感心して帰ることが度々ございます」
「おい/\。口上こうじょうはそれぐらいにして置いて、始めた/\」
 と社長は上機嫌だった。
 前弾まえびきの間、社長が目を瞑っていたのを幸いに、中島さんは思いさま瞬きをした。溜置きの積りだったろう。
「奥へつれて行く。相模は障子押し開き、日もはや西に傾きしに、夫の帰りの晩さよと、待つ間程なく、熊谷次郎直実……」
 とこれは先頃から稽古中のもので、私は二度聴かされて、非常に長いものだということ丈け頭に残っていた。気をつけて時間を計って見たら、一時間と二十分かゝった。その間、欠伸をして昇給を棒に振ってはまらないから、私達は固唾かたずを呑んで身動きもしなかった。
「……有為転変ういてんぺんの世の中やと、互に見合わす顔と顔。さらば/\おさらばの、声も涙に掻き曇り、別れてこそはいでて行く」
「テヽン」
 とお師匠さんは弾き終った。私はいつもこのテヽンで愁眉しゅうびを開く。
うも有難うございました」
 と中島さんが代表してお礼を述べた。
「大汗だ」
 と社長は直ぐに肌を脱いだ。女中がうやうやしくタウルを捧げる。もう一人は後ろから拭く。
「今晩は素晴らしいお出来でございました」
 と太夫さんがめた。
「聴き手があると調子に乗るからね」
「へい」
「何処が好かったね?」
「何処も彼処かしこも申分ございません」
「そんな無責任な批評は御免蒙る。特別好かったところを言って見給え」
 と社長はもとより好いに定めている。
「十六年も一昔ひとむかし
「うむ」
「あゝ夢であったなあと。あの辺が如何にもシンミリとお出来になりました」
「得意のところだもの」
「私共は熊谷ほど悟り切れませんから、彼処あそことてもあゝ参りません。何うしても苦情らしくなります。何しろ女房に相談なしに頭を円めて出家しゅっけをするんですから、筋が無理でございますよ」
「無理なことはないさ」
「へい」
「その時の熊谷の心持になれば悟れるんだ」
「なれませんよ。後で女房が困ります」
「馬鹿だね。ハッハヽヽ」
「ヘッヘヽヽ」
 と太夫さんは頭を掻いた。
「しかし実をいうと、我輩も熊谷じゃ少し食い足りない」
「何と仰有いますか?」
「あの時代に生れ合せれば、一国一城のあるじになっている積りだ」
「お大名でございますな?」
「うむ」
「唯今でも御財産から申上げれば立派なお大名でございます」
「何うもお前はいやしくていけない」
「へい/\」
「一国一城の主にしてからが、我輩の性格では何うも終りを全うしそうもない。光秀だろうね、差詰め。光秀を語ると我輩の本領がそのまゝ現れる」
「太功記は社長さんの十八番物でございますな」
「何うだね?」
 と社長は太功記を語りたいのだった。
「へい」
「草臥れたかね?」
「そんなこともございませんが……」
 と太夫さんはお辞儀をしながら私達に訴えるような目使いをした。
「社長」
 と中島さんも慌てたようだった。
「何だい?」
「もう十二時半でございます」
「明日の仕事に差支えるかね?」
「はあ。これから帰ると一時過になります」
「惜しいけれど仕方がない。又出直して来給え」
「はあ」
「金曜の晩はいつもこの太夫さんか三味線の人が来ている。君の課のものを引きつれて来給え」
「有難うございます」
「今晩は御苦労だったね」
「何う致しまして」
「君あたりが中堅だ。若いものゝ為に気を利かしてくれて、まことに好都合だった」
 と社長は流石に中島さんをねぎらうことを忘れなかった。
 私達は太夫さんとも四人、社長の自動車に乗り込んだ。私は一番近いので、前の席をめた。門を出切った時、
「あゝ/\、あゝあ」
 と中島さんが大欠伸をして、
「ひどい目に会った」
 と呟いた。
「本当に御苦労さまでございました」
 と太夫さんが同情した。
「いや、何、太夫さんこそお草臥れでしょう?」
「私は商売でございますから」
「お宅は何処ですか?」
「浅草です」
「大変ですな」
「何あに、斯ういう便利なもので送って戴きますから」
「いつもこんなに晩くなるんですか?」
「へい。一時二時のこともございます。今晩なぞも、もう一段お始めになりますと、く早く仕舞っても二時でございましょうな」
「危いところでしたね。あゝ/\、あゝあ」
「あゝあ」
 と松本さんも欠伸あくびをして、
「感染しますな、欠伸は」
 と隣りの中島さんの所為せいにした。
 中島さんは真中に乗っていた。
「もう一段語られたらのぼせ上ってしまう」
「真正面だから敵いません」
「あゝあ、実際草臥れた」
「しかし中島さん、一段拝聴させて戴けませんかなんて、御所望をなすったのは一体何誰どなたでしたか?」
「何だって?」
「御所望をなすった張本人ですよ」
「冗談言っちゃいけないよ」
「はあ?」
「君は一体誰の為めに僕が出て来たと思っているんだ?」
 と中島さんは憤ってしまった。
「恐れ入りました」
「赤石さんから一時間以上骨董の講釈を聴かされた上に、又一時間半だぜ」
「はあ」
めばたきをするの何のって叱られてさ」
「申訳ございません」
「少しは察してくれなければ困るよ。何も酔狂すいきょうで所望したんじゃないんだから」
「全くお蔭さまです。飛んだ失礼を申上げました」
 と松本さんはあやまる外なかった。
「何れ改めてお礼に伺います。お蔭さまで危いところを助かりました」
 と私も言葉を添えた。喉元過ぎて熱さを忘れる。夕刻中島さんの家を出る時はしょげ返っていたけれど、無事に首がつながると共に、もう好い気になって、お礼さえ碌々ろくろく言わなかったのである。しかし中島さんは、
「もう宜いよ」
 と直ぐに機嫌を直して、
「時に太夫さん」
 とお隣りへ話しかけた。太夫さんはお歴々と同乗した積りで恐懼している。そこへ首の問題なんか持ち出しては気が利かない。
「へい/\」
「大将の義太夫はんなものですか?」
「へい」
「あれで巧いんですか?」
「さよう」
駈引かけひきのないところ」
「学のあるお方でいらっしゃいますから、理窟の方はナカ/\仰有います」
「実際の方はまずいんでしょう?」
「何う致しまして。ナカ/\お耳が肥えていらっしゃいます」
「自分で語る方は何うですか?」
「もう随分長くやっていらっしゃいますから」
「多少堂に入っているんですか?」
「私がせんの師匠に代ってから五年でございます。先の師匠は私の師匠で近頃にない名人でございました。これに十年もおつきになったんですから、御研究は充分積んでいらっしゃいます」
「長いことは分っていますが、見込があるんですか? ないんですか?」
「すべて芸事というものは一生涯修業でございますよ」
 と太夫さんは明答を避けた。
「要するに拙いんですな」
「いや、何う致しまして」
「太夫さんもお骨が折れましょう」
「へい」
「結局、持て余しものだと仰有らないばかりじゃありませんか?」
 と私が笑った時、太夫さんは目をパチクリさせて、私を指で差した。
「何ですか?」
「後ろ」
「え?」
「運転手」
 と太夫さんがささやいた。成程。これに聞かれて社長へ筒抜ければ、太夫さんの立場が危い。
「矢っ張り長くやっていられる丈けあって、好いところがありますね」
 と中島さんも気がついて、大きな声で話し始めた。
「兎に角、その人になり切ります。熊谷なら熊谷」
「成程」
「与次郎なら与次郎」
「成程」
「お俊ならお俊。一寸ちょっとこれは柄にないようですが、巧いものでございますよ」
 と太夫さんは改めてめ出した。
「お俊伝兵衛ですな?」
「へい」
「一遍拝聴したいものですな。あゝあ」
「肚の出来たお方ですから、時に玄人跣足くろうとはだしのところがございます」
「あゝあ。あゝあゝあ」
 と中島さんは欠伸が込み上げて来た。
「あゝあ」
 と松本さんも負けていない。
「僕はもう直ぐだ」
 と私は窓外へ注意を払った。
「家へ土産に持って帰るのかい?」
「うむ」
「しかし君は始終接近している丈けに修業が積んだね」
「欠伸でございますか?」
 と太夫さんが首を伸した。
「はあ」
「私もあれでは困り切りました」
「小言を仰有るでしょう?」
「へい。しかし近頃は工夫を致しました」
「はゝあ」
「三味線を弾きながら鼻で致します」
「そんなことが出来ますかね?」
「出来ますとも。斯ういう具合でございます。一寸ちょっと変な顔になりますけれど元来こんな顔でございますから」
「成程」
「ヘッヘヽヽ」
「ハッハヽヽ」
 と一同笑い出したので、運転手が振り向いた。
「そこの角のところで一寸止めてくれ給え。御苦労さま」
 と私は丁度好かった。
 翌朝、会社で顔を合わせると直ぐ、松本さんと私は庶務課へ出頭して、中島さんにお礼を申述べた。
「こゝ当分特別に気をつけ給えよ」
 と中島さんは注意してくれた丈けで、もう愚痴をこぼさなかった。
「熊野君」
 と庶務課の奥の宣伝部から畑君が私を見かけて出て来た。
「お早う」
「一寸々々」
「何だい?」
 と私は引っ張られるまゝに隅の方へついて行った。
「宜かったのかい?」
「何が?」
「これさ」
 と畑君は自分の首を叩いて見せた。
「無事につながった。しかし君はよく知っているね?」
「評判だぜ」
「ふうむ」
「エレベーター事件といって昨日から持ち切っている」
「驚いたね」
「秘書が二人首になると言って、みんな溜飲りゅういんを下げている」
「道理で今朝僕の顔をジロ/\見る奴があった」
「気をつけ給え」
「心配していたのかい?」
「当り前さ。衆目の見るところ、君は昨今調子に乗り過ぎている」
「それをこゝの親方からも言われたんだよ。一時は一寸脈がなかった」
「危い/\」
「こゝの親方に口をきいて貰って、昨夜一晩がかりでお詫が叶った」
「まあ/\、宜かった。これに懲りなけりゃいけないよ」
「以来大いにつつしむ。しかし一体何処から洩れたんだろう?」
「エレベーター・ボーイさ。可哀そうに、首になったぜ」
「いや、来ているよ」
「然うかい?」
「矢っ張りお詫が叶ったんだろう? それじゃ失敬。種々いろいろと御心配有難う」
 と私は畑君の好意を謝した。以前宣伝部に机を並べていて最も懇意の間柄だ。
 廊下へ出たら、販売課長の栗栖さんに行き会った。
「お早う」
 と声をかけると同時に、
「何うでした? エレベーター事件は」
 と来た。
「おきゅうけで事済ことずみになりました」
「それは宜かったね。皆心配していたよ」
「有難うございます」
「熱かったろう? お灸は」
「はあ」
「中島君から赤石さん、赤石さんから社長と、どう/\めぐりをしている中に夜が明けたろう?」
「それほどでもありませんが、よく御存知ですな」
「ハッハヽヽ」
「ひどい目に会いました」
「少し強薬つよぐすりの必要があると言っていたもの」
「はゝあ。誰ですか?」
天機てんきらし難い」
「矢っ張り予定でしたかな」
「一段聴かされそうなことだと思って案じていたが、何うだったね?」
「聴かされましたよ」
「ハッハヽヽ」
「失礼致します」
 と私は逃げて来た。
「何うも変だよ」
 と松本さんが一足おくれに入って来た。
「何処へ行っていたんだい?」
「竹内さんに捉まって、散々冷かされた」
「僕は今栗栖さんに捉まった」
「何と言っていたい?」
「あの人のことだから、何うせ碌なことは言わない。考えて見ると、昨日のことはあんなに心配しなくても宜かったらしい」
 と下司の知恵は後からで、私も一晩寝て起きて漸く分った。
「僕も然う思うんだ。懲らしめの為めに、大将と中島さんの間にあらかじめ打ち合せがしてあったんだ」
悉皆すっかり引っかゝったよ」
「矢っ張りかなわない」
「それとさとったところであやまりに行かなければ危いんだからね」
所謂いわゆる長いものさ」
「巻かれろ/\か?」
「それにしても誰も彼も知っているには驚いたよ。清水君にも会ったが、エレベーター事件は何うでしたって訊くんだもの」
「そこがらしめの為めさ。僕達の肩身を狭くしようってんだ」
「実際肩身が狭い。この二三日はこゝに閉じ籠っていて余り出て歩かないことだね」
 と松本さんは元気がない。
 社長はいつもの通り十時に出勤した。
「お早うございます」
 と私達は手のものを置いて出迎えた。
「お早う」
「昨晩は失礼申上げました」
「何うだね?」
「はあ?」
 と松本さんは猶予を申入れた。
「何うだね? 熊野君」
「エレベーター事件でございますか?」
 と私は朝からそればかり頭にあったので、つい口に出してしまった。
「何を言っているんだ? 寝が足りなかったと見えて頭が悪いね」
 と社長はもう意に介していないようだった。

高顴広額


 エレベーター事件以来、私達秘書役は慎んで勤務している。先頃までの意気がない。少くとも私一箇に取っては、お灸が好い薬になった。浅ましい話だが、私は社長の信任を笠に着て、いつの間にか故参こさんの同僚を下目に見る癖がついていた。畑君あたりと話をしていて、課長連中の噂が出ても、
「何あに、あの男は駄目だよ」
 と一口にけなしつける。
「何故?」
「大将に信用がない」
「ある筈だがな」
「いや、ないよ。この間僕の見ている前で叱りつけられた」
 と社長の信用で人物の価値を定めてしまう。畑君自身には、
「君はあるぞ」
 と教えている。
「何うだか?」
「少くとも認められている」
「何んな程度で認められているんだい?」
「宣伝部に何とかってヒョロ長い男がいたねって」
「情けないんだね」
「大将はいつも君の名前を忘れているんだ。しかし印象はあるよ」
「益※(二の字点、1-2-22)心細い」
「僕は大いに推薦しているんだ。将来宣伝部が独立して課になれば、君は課長だよ」
「当にしないで待っている」
 と畑君は利巧りこうだから本気にしない。しかし誰が社長に信用があるかということについては常に私を権威者として消息を聞きたがったものだ。ところが昨今はもう悉皆すっかりいけない。
「気をつけ給えよ。同じ秘書でも、君は松本君と違う。自叙伝係なんてものは会社の職員録にない。大将の気紛きまぐれで浮び上ったんだから影が薄い。調子に乗って馬鹿なことをやると、御用済みになっても、もと木阿弥もくあみに戻れないかも知れないぜ」
 と案じてくれる。
「熊野と松本はすんでのことに首になるところだったが、中島さんの執成とりなしで、始末書を入れて漸く繋がった」
 という評判が小使給仕の果まで伝わった。これはエレベーター・ボーイの河野が言い触らしたのだろう。始末書丈けはおまけだ。自分が取られたものだから、此方も取られたと思っている。
 一週間ばかりたってから、松本君が、
「しかし天気晴朗がよく続くね」
 と感心した。
「好い塩梅だよ」
「今度は全く此方が悪かったらしい」
「何故?」
「大将、っとも僕の御機嫌を取らない」
「然ういう料簡だからいけないんだよ」
「いや。いつもならもうソロ/\後悔して、『何うだね? この頃は皆丈夫かね?』なんてやり出す時分だ」
「僕には言ったよ」
「何て?」
「何うだねって」
「それから?」
「僕は黙って恐縮していた。例の応接間だったからね」
「成程」
「ハッハヽヽって笑ったよ。利いたろうって意味さ」
たちが悪いよ」
「子供のようなところがある」
「又毎晩かい?」
「うむ。急に忙しくなった」
 と私は信用回復を心掛けて一生懸命だ。
「今何ういうところを書いているんだい?」
「大将の風采ふうさいさ。高顴広額こうかんこうがくという註文だ」
「何だって?」
「高顴広額。これが古今東西を通じて偉人の風貌ふうぼうだそうだ。顴骨が高くて額が広い」
「成程」
「見給えと言うんだ。見てそのまゝを書けばいと言うんだ。相変らず生きた材料を提供する」
「額は確かに広いね」
「しかし頭が禿げているんだから、あの顔は何処までが額で何処からが頭かハッキリ分らないんだ」
「ハッハヽヽ。額に三本毛が残っているところを見ると、あの辺は昔頭だったのかも知れない」
「僕もう直言したんだよ」
「憤ったろう?」
「いや、笑っていたよ。君は始終そばにいながら研究が足りないって」
「ふうむ」
「これは生えたんだって、老来元気横溢の証明だって」
「豪い人だけれど、自分のことゝなると全くムチャクチャだね」
「しかし然う信じているんだよ」
「あゝいう額が偉人なら、小使の小西なんか立派な偉人だ」
「偉人は額が広いというのは大抵年寄だからだと思う。僕はガラマサどんのお蔭で一つ発明した」
「額の広いのが偉人なら、門番の羽田なんかは何うしたものだろう? 彼奴の額は脳天を突破して襟元まで行っている」
「ハッハヽヽ」
「社長よりも余っ程偉人だろう。チェッ! 対等の議論ならそんなことは言わして置かないんだけれど」
 と松本君がソロ/\持病を起した頃、電鈴ベルが鳴った、玄関のボーイが社長の到着を知らせてくれるのである。私達は手のものを置いて出迎える。
 松本君は社長の鞄を持って先に立つ。私は後から護衛という形だ。廊下で行き会う連中は私達にまで頭を下げる。
「栗栖君」
 と社長は販売課長の栗栖さんに会釈を賜わった。
「お早うございます」
「何うした?」
「目を少し悪くしまして」
 と栗栖さんは青い眼鏡をかけていた。
「それはいけないね」
ほん一寸ちょっとでございます」
大切だいじにし給え」
「有難うございます」
「君でも色眼鏡をかける必要があるのかね」
「恐れ入りました」
「ハッハヽヽ」
 と社長は上機嫌だった。
「失礼致します」
 と栗栖さんは頭を掻いて逃げて行った。
「何うだね? 松本君。今の警句は」
 と社長は部屋へ入ると直ぐに訊いた。
寸鉄すんてつでございました」
 と松本君も警句と断って貰えばまごつかない。
「あの男は皮肉な男だ」
「はあ」
「唯さえ色眼鏡をかけて物を見る」
「はあ」
「そこで君でも色眼鏡の必要があるかねとやったのさ」
 と社長は御丁寧に説明を加えた。松本君は余程頭が悪いと思われている。
「ハッハヽヽ」
 と松本君がお相伴しょうばんに笑ったので、私もそのお相伴をした。
「熊野君」
「はあ」
「高顴広額の章は何うなったね?」
「大体まとまりました」
「後から目を通させて貰おう」
「しかし未だ清書が出来ていません」
「草稿で結構だよ」
「もう少し推敲すいこうさせて戴きたいのですが、如何でございましょうか?」
「宜しい」
「実はあの中へ英雄論を入れたいと思っています」
「成程」
「御風采丈けで一章と申しますと、何うも材料が乏しいんでございます」
「乏しいことはなかろう。生きた材料がこゝにいるじゃないか? 見たまゝを詳細に書けばい」
「無論詳細にしたためますが、その後へ附け加えたいんでございます」
「英雄論をかい?」
「はあ。古今東西の英雄の風貌と比較して、結論をつけるのでございます」
「結構だね。しかし何ういう論旨だね?」
「お手空てすきの折、ゆっくり申上げます」
「よし/\。松本君」
 と社長は仕事に取りかゝった。豪傑だから荒い。盲判をポン/\す。尤も課長や重役が慎重に考えて定めたことに形式的の是認を与えるのだから間違はない。
 私は三好先生から貰って来たカーライルの英雄論を種に使って社長の御機嫌を迎える積りだった。去年抜擢ばってきされて自叙伝係になった時、報告に上って委細を話したら、先生は、
「社長は誇大妄想狂じゃないかね?」
 と訊いて、カーライルの英雄論が好い参考になると推薦してくれた。以来一読して見たが、成程、社長の気に入りそうなことばかり書いてある。英雄は元来素質が違っているという主張で、大衆を認めていない。大衆は単にまきだ。英雄という天の霊火が落ちて初めて燃え上る。全く十九世紀の思想だが、それ丈けに社長の共鳴が買えると思って、私は後刻、
「社長、お手空きでございますか?」
 と進んで申入れた。
「よし/\」
 と社長は中央の卓子テーブルへ出て来た。
「先刻の英雄論でございます」
「承わろう。松本君、君も来給え」
「はあ」
 と松本君も側にした。
「社長」
「何だね?」
「これでは私が講釈を申上げるようで具合が悪いです」
 と私は少し気が引けた。
「構わないよ。いつもの通り座談的にやるさ」
「はあ」
「始め給え」
「英雄というものについて、社長のお考えは如何でございましょうか?」
「さあ。君の考えから聞いて、間違っているところを直してやる。真理は結局一つしかないんだから」
「はあ。然ういうことに願います。お仕事を仰せつかって以来、参考の為め広く伝記書類をあさって大分学問を致しました。これは私の管見かんけんですが、英雄というものは凡衆ぼんしゅうとは違うようでございます」
「それは当り前だ」
「素質そのものが違っています。秀吉にしろナポレオンにしろ、元来将に将たるように生れついているように思われるんですが、如何でございましょうか?」
「天分ってことは無論あるさ。英雄でないお互にしても、頭の働きに夫れ/″\甲乙があるからね」
「それで私は英雄即ち天才と考えて見たのでございます」
「成程」
「図抜けて天分の厚い人が英雄ということに定めて論じたいんですが、如何でございましょうか?」
「無論英雄はその道の天才だね」
「その道と限らないんです。天才は元来嚢中のうちゅうきりのようなものですから、の道へ入っても、必ず現れて参ります」
「さあ。然う一概には行くまい」
 と社長は此方の言うことを一々いちいちそのまゝ受け容れる人でない。
「行きませんでしょうか?」
 と私もそこを利用して、社長に話させる方針だった。此方ばかりで喋っていると屹度尻尾を捉まえられる。
「例えばこゝに文学の天才があるとする。その男が軍人になったって出世はしまい」
「いや。文学の天才というのは天才が文学の道へ入ったから文学の天才で、し軍人になっていれば矢張やっぱり軍人の天才でございましょう」
「すると天才は万能膏ばんのうこうか?」
「然う解釈したいのです。天才のシェキスピヤは文学をやったからシェキスピヤでしたが、し軍人になっていたらナポレオンでしたろう。ナポレオンも軍人として立ったからナポレオンでしたが、若し文学をやっていたらシェキスピヤでしたろう」
「成程」
「政治家になればクロムウェルです。宗教家になればルーテルです」
「太田原宗郷も戦国時代に生れていれば一国一城の主になっている」
「確かに然うでございます」
「ハッハヽヽ」
「英雄は天才で素質的に凡衆と違っていますから、風采も尋常でありません。高顴広額はよってきた所以ゆえんがあります」
「一寸面白い観察だね」
「広く英雄伝を読み漁っていささか得るところがございました」
「しかし熊野君、それは世の中に通用しない大掴みの書生論しょせいろんだよ」
「はゝあ」
「英雄を天才と定めてしまったんじゃ学問も修養もあったものじゃない」
「いや。天才は頭が好いですから、一を聞いて十を知ります。頭の悪い凡衆よりも余計に学問や修養が足しになります」
「松本君、君は何う思う?」
 と社長は突如松本君に訊いた。
「恐れ入りました」
「何うしたんだい?」
「何うせ私は頭が悪いんです」
「悪いとも何とも言っていやしない」
「いや。熊野君が頭の悪い凡衆と仰有ると直ぐでした」
「何が?」
「君は何う思うかって。頭の悪い君は何う思うかと仰有らないばかりでした」
「然うひがんじゃ困るね」
「…………」
「松本君」
「はあ」
虚心坦懐きょしんたんかいに考えて、君は何う思うかね?」
「さあ」
「熊野君のは要するに英雄天才論だ」
「一向感服しませんな。成功する人間が初めからきまっていたんじゃ励みがありません」
 と松本君は文学的想像力が全くない。英雄即ち成功者と解している。
「ハッハヽヽ」
「実社会に通用しない書生論です」
「宜しい。英雄が天才だと凡衆が迷惑する」
「成功は運です」
「それは賛成出来ない。運だったら修養も努力も一切不必要になる」
「九分通り運です」
「運も無論あるが、天分と努力がある。ナポレオンが何うしてナポレオンになったかは一朝一夕に論じ尽せない。世の中は複雑なものだよ。天分ばかりでは押し通せない。運ばかりでもない。御両君ともお若い/\」
「はゝあ」
「もっと世間を見なければ駄目だよ」
「はあ」
「人間社会の問題は議論じゃ行かない。黙ってコツ/\働いていると、生活そのものが立派に解決してくれる。六十年間浮世の波風にまれて来た我輩には我輩独特の英雄論が自然のうちに出来上っている」
 と社長は得意そうに乗り出した。
「是非承わらせて戴きます」
 と私は職務柄真剣になった。
「我輩は蝦蟇がまの主を見たことがある。蝦蟇の主と言っても分るまいが、我輩の家の池に素晴らしく大きな蝦蟇が一ぴきいる」
「はゝあ」
「手足を拡げると一尺に近い。あれは君達に見せたいものだ。去年引移ると間もなく、運転手の杉原が見つけ出したんだ」
「鳴きますか?」
「うむ。唸る」
「それじゃあれですな。この間の晩、編纂室へんさんしつでお待ちしている時聞えました」
「冗談言っちゃいけない」
「はあ?」
「あれは我輩が稽古をしていたんだ」
「はゝあ」
「ハッハヽヽ」
 と松本君が笑い出した。
「いや。確かに社長のお声じゃございませんでした」
 と私は執成しに努めた。
「いつだったい?」
「二三日前の晩でした。雨が降っていました」
「それじゃ矢っ張りガマどんかも知れない。彼奴は顔まで我輩に似ているんだから」
「…………」
「杉原の奴、あれを見つけて注進に来た時、笑ったの何のって」
「ハッハヽヽ」
「ガマどんという名をつけた」
「…………」
「そのガマどんの話だがね。近所の評判によると、あれはあの池の主で、あすこに五十年からいるそうだ。あゝいうものは何年生きるか知らないが、大きさから察しても余程の御老体らしい。しかし矍鑠かくしゃくたるものだ。池のぬしというからには、国家なら王様だろう」
「はあ」
「正に蝦蟇の社会の英雄だ。こゝだよ、君」
「はあ」
「あのガマどんが生れながらにして今日の地位を占めたと考えられるか?」
「考えられません」
「無論蝦蟇中の天才だったろうが、人一倍の努力奮闘をして来たに相違ない。人間でないから、シェキスピヤになる気もナポレオンになる気もなかったろう。唯一筋に蝦蟇中の蝦蟇になろうと心掛けて今日こんにちあったんだろうと思われる」
「しかし虫ケラにそんな心掛があるでしょうか?」
「早速来たね。なければ却って我輩の主張が通る。お互人間は皆自己の幸福を意識的に心掛けるが、虫ケラはそれを本能的に心掛ける。我輩は去年あのガマどんを見た時、ツク/″\考えさせられた。顔は矢張り高顴広額だよ」
「はゝあ」
「英雄の定義が立ちどころに出来た。曰く、英雄は生存の適者なりと。何うだね?」
「結構でございます」
「生存の適者とすれば、君の天才説も入る。松本君の運も主張が通る。我輩の努力説も立つ。幾ら天分があっても、運がなければ成功しない。運が好くて天分が厚くても、努力しなければ大成は覚束ない。三拍子揃った奴が生存の適者として、結局英雄になる」
「全く御道理ごもっともでございます」
「三つの中、努力が一番有効だ。天分でも運でも努力で補える。松本君」
「はあ」
「励みがあるだろう?」
 と社長は皮肉でも何でもない。
「君は直ぐに腹を立てるから、ついからかって済まないが、我輩もこれで君の為めを考えているんだよ」
 とシミ/″\言った。
「有難うございます」
「人間は努力だ。辛抱だ」
「はあ」
「熊野君も」
「はあ」
「我輩だって君達をいじめて何の面白いことがある」
「…………」
「我輩を誤解しないで、精々努力してくれ給え」
「誤解なんか決して致しません」
「生存の適者も年を取ると愚痴になる。兎角小言の数が多くなっていけない」
「何う致しまして。皆私達が届かないんでございます」
「ハッハヽヽ。こんなことを言わせるのも確かに年だ。もう長い命じゃないだろう」
「そんなことはございませんよ」
 と私は否定した。
「今社長にお間違でもあられたら会社はやみでございます」
 と松本君もこれを最も恐れている。
「いや。命数めいすうってものがある。赤石君にしても末次君にしても、もう先が見えている」
「皆さんだお若いです」
「課長連中にしても皆五十を越している。今から二十年たって見給え。君達は差詰めこの会社を背負しょって立つんだ」
とても/\」
 と私達はそんな遠い将来のことは見込が立たない。
「君達の年輩が一番大切のところだ。若ければ諦めをつけているが、もう中年へ差しかゝっているのに先が全くつかえていると思うからしびれを切らす。我輩も然うだったよ。この会社へ入った頃は、いつも話す通り、月給十七円。四十年前で物価が安かったにしろ、君達よりも余っ程割が悪い」
「はあ」
「日本人社員中のドン底さ。その上に独逸人幹部が六七人威張っているんだから、迚も見越しがつかなかった。例のベッケルとの決闘なんかも実は破れかぶれさ」
「しかし幹部と決闘をしようってんですから、この頃の私達と違って、元気溌剌はつらつたるものがございましたな」
「時代が違う。一般に気が荒かった。下役を叱って晩に寝首を掻かれた役人があったくらいのものだ」
「はゝあ」
「それにドン尻なら何処へ行っても使って貰えると思うから恐れない。独逸人が手を引いて日本人の経営になってから、漸く君達ぐらいのところさ。中軸だけれど、上がギッシリ詰まっている。二年も三年も俸給が上らない。痺れが切れたよ」
「社長の御気象では如何にも然うでございましたろう」
 と松本君が代って相槌へ廻った。
「詰まらないから官の方へでもかわろうと度々思ったが、あの時余所よそへ行ったら、幾ら努力したって今日はなかったろう。人間は辛抱が肝心だよ」
「はあ」
「動いちゃいかん。何んなことがあっても動いちゃいけない」
「はあ」
「同じところに長く勤めているということがもうこの上ない出世の資格だ。機会は屹度来る。我輩は四十近くになった頃、上役はもう皆五十以上でポツ/\死に始めた。天道人を殺さない。人間は大抵年順に死んで行く。先ず社長が死んだ」
「はゝあ」
「専務が後釜に据ると、後は順繰りに上る。我輩も恩典に浴した」
「もう幹部でございましたか?」
「いや、未だ/\。しかしそれまでに痺れを切らした先輩が二三名新会社へ転じたから、都合は甚だ好くなっていた。年寄ってものは死に始めるとドン/\死ぬものだよ。今度は一年の中に重役が二人片付いた。我輩は一年の中に二度上って課長になった」
「成程」
「これはもう黙ってコツ/\働いて上の人の死ぬのを待っていれば宜いと見越しがついた。それから後は早かった。死なゝくても健康が衰えて行く人がある。重役連中は血圧が高いから中風ちゅうぶになって勤まらない人も出て来る。我輩は自分の努力で出世したように思っているが、上の人達が順々に死んで今の地位へ引き上げてくれたようなものさ」
「しかしそれ丈けの御手腕がおありになったからでございます」
「それよりも二十年三十年と同じところで辛抱していたからさ。高がビールを拵えて売る商売だ。誰がやっても甲乙はない。甲乙ないとなると、古くからいる奴を上へ据える外仕方があるまい?」
「はあ」
「君達に出世の秘訣を教えてやる。それは動かないことだ。動いちゃいかん」
「分りました」
「叩き出されても動いちゃいかん」
「はあ」
「我輩や赤石君の死ぬのを待っていてくれちゃ困るけれど、理窟は先ず斯うしたものさ。一に辛抱、二に長生ながいき。自分が死んでしまったんじゃお話にならない。すべからく大いに加餐かさんして、出世の資格を拵えるんだね」
 と社長は悉皆すっかり打ち解けて、昼食に立つまで話し続けた。
 私は何うやら将来重役になれそうに思われて、明るい気分になって来た。食堂へお供して、末席へへりくだった時、
「何うだい? 日本晴れだったね」
 と松本君が囁いた。
「珍らしいことだったよ」
「この間のは矢っ張り此方が悪かなかったんだ」
「何故?」
「大将は後悔してあやまったんだ」
「成程」
「痛快々々」
「しかし婉曲えんきょくなものだね」
「まさか社長がこの間は我輩が悪かったとも言えまい。苦しかったろうさ。叩き出されても動くなと言ったろう?」
「うむ。あの辺は正にこの間の取消だね」
「矢っ張り善良な人だ。僕はもう堪忍してやる」
「僕も恨みを忘れた」
「おい。重役になれるぜ」
「なれる。確かになれる」
 と私が答えた時、
「何だか景気の好いお話ですな」
 と隣りから平社員の某君が口を出した。

ガラマサどんの死


「君、エレベーター・ボーイの河野って奴はナカ/\感心な青年だね」
 と社長が言った。夜分新邸へ伺った時のことだった。
「何かございましたか?」
「夜学の法律学校へ通っているそうだよ」
「はあ。何処かの私立大学でございましょう」
「話して見ると、ナカ/\筋の通ったことを言う。見込のある男だ」
「若いですが、しっかりものでございます」
 と私は調子を合せた。
「頭が好いよ」
「はあ」
「我輩と肝胆相照らしたには驚いた」
「はゝあ」
「今日、我輩と二人きりの時、奴、横目を使って、我輩の顔をチラ/\見る。尤も我輩も奴の顔をジロ/\見ていた。君、何ういう意味だか分るか?」
「さあ」
「我輩が河野を見ている。河野が我輩を見ている」
「…………」
「我輩と河野でなくても宜い。六十七になる社長と血気盛んの青年雇員がエレベーターの中でお互に興味を持って顔を見合っているんだ。し然ういう場合を描いた絵があったら、君は何と画題をつける?」
「さあ」
「何うだね?」
 と社長は例によって自分丈け分っていることを訊く。
「叱る人、叱られる人」
「何だって?」
先達而せんだってのことがあったからでございましょう」
「先達而のことって?」
「エレベーター事件です」
「エレベーターが何うした?」
「エレベーターを止めて、いたずらをした事件です」
「馬鹿だなあ、君は」
「はあ」
 と私はもう失策しくじってしまった。
「あんな瑣々ささたることを我輩が意に介しているものか?」
「…………」
「我輩はもううに忘れていた。ハッハヽヽヽ」
「しかし河野は覚えていたのでしょう」
「大分見当が違っているよ」
「それじゃ分りません。いさぎよく兜を脱ぎます」
「エレベーター・ボーイを勤めながら苦学をしている河野は我輩がうらやましいのだ。あの年頃でいやしくも青雲の志あるものは英雄を崇拝する。我輩も明治十七年に二十一で東京へ出て来た頃、正にうだった」
「はゝあ」
「途上で大臣なぞが馬車に乗って通るのに行き会うと、立ち止まってよく見たものだ。河野はその意味で我輩を見ていた。ところが我輩も亦河野が羨ましい。というのは何うか斯うか人間並になったと思うと、もう先がない。此奴ぐらい若かったらと、つい河野の顔をジロ/\見ていたのさ」
「成程」
「それが以心伝心でお互に通じたんだね。両方とも期せずしてニッコリ笑った。何うだい? 面白いだろう?」
「はあ。河野もさるものでございますな」
「頭が好い。大いに激励して置いた」
 と社長は河野にも特殊の形式で和解を申入れたのらしい。松本君の言う通りだ。叱っても、自分が悪かったと思えば、そのまゝにしていられない。必ずねぎらう。
 それは兎に角、私は自叙伝の材料を取りに毎晩のように出頭するのだが、社長はその折の気分次第で編集事務に一向関係ない話を始める。義太夫を聴かされるよりは宜いようなものゝ、これでは仕事がはかどらなくて困る。その晩も空しく世間話のお相手を勤めるのかと思っていたら、
「君、一番お仕舞いの章は『ガラマサどんの死』としてくれ給え」
 と突如本題に入った。
「はあ?」
「ガラマサどんの死」
「社長、ガラマサどんてのは一体何のことですか?」
 と私は忽ち薄氷の上へ投り出されたような心持になった。
「我輩のことを皆然う言っている。君は聞いたことがないのかい?」
「さあ」
「うむ?」
「ハッハヽヽヽ」
ずるい奴だ」
「恐れ入りました」
「ハッハヽヽヽ」
 と社長は呵々大笑して、
「しかしあれは間違っている」
「はゝあ」
かにのことならガネマサが本当だ。カニのなまりだもの、ガネさ。ガネマサどんの横這い這いさ。我輩に綽名をつけた積りだろうが、皆矢っ張り頭が悪いね。ガラマサどんと呼ばれる分には意味がないんだから、我輩一向痛痒つうようを感じない」
 と説明してくれた。
「社長」
「何だい?」
「死という標題は面白くありません」
「構わん。かつぐことはない。ガラマサどんの死として置いてくれ給え」
「しかし……」
「我輩はもう先がない」
「そんなことはございません」
「いや。皆然う言ってくれるけれど、統計は争われない」
「社長は普通の人と違って、特別に御丈夫でございますから」
「無論今日明日ってこともなかろうけれど、友達がよく死ぬよ、この頃は」
「確かに昨今頻繁でございましたな」
「昨日も今日も極く親しい友人の葬式が続いてクサ/\しているところへ、夕刊を見ると又一人死んでいる」
「○○保険の渋川さんでございましょう?」
 と私も社長秘書だ。夕刊の黒枠丈けは必ず見て来る。
「然うさ。我輩と同年だよ」
「はゝあ」
「丈夫な男だったがなあ!」
「突然でございましたか?」
「うむ。脳溢血らしい」
「はゝあ」
「矢張り血圧の高い方で、可なり用心していたんだけれど」
「…………」
「我輩ぐらいの年配になると、もう据置期間すえおききかんを経過して抽籤償還ちゅうせんしょうかんということになっているんだから、いつ番が廻って来るかも知れない」
「今晩は妙に心細いことばかり仰有いますな」
「事実だもの。一週間に一度は必ず葬式がある」
「全く御頻繁ごひんぱんでございます」
「残っているものが少ないから当り※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)くじが多い次第わけさ。しかし我輩は死ぬのを恐れてこんなことを言うのじゃない」
「はあ」
「生きる方を遺憾なくやって来た以上、死ぬ方も立派にやりたいと考えている」
 と社長はひどく陰気な話題を選んだ。私はいつになく淋しい心持になった。ふと蝦蟇がまぬしの鳴く声が耳に入ったので、
「今晩は鳴いていますな」
 と方向転換を試みたが、社長は、
「ガマどんかい?」
「はあ」
「彼奴も年だ。我輩同様もうソロ/\死ぬことを考えているのだろう」
 といっかな動かない。
「…………」
「君、生れて来た以上は死ぬってことが自然のすうだ」
「はあ」
「当然あるべきことを非常に恐れて無暗にのがれようとするのはな話だと思う。生が人生の実務なら、死も亦人生の実務だ」
御道理ごもっともでございます」
「何うも世の中一般が考え違いをしている。生きる方の研究は一生懸命にやっているが、死ぬって問題になると口に出すのさえんで、全く考えないでいるから、イヨ/\という場合に慌てるんだよ」
「はあ」
「我輩は不幸のあった友人の遺族を訪れる度にこの感を深うする。皆、飛んだ災難に出会ったような心持でいる」
「しかし災難に相違ありますまい、死ぬんですから」
「若い人なら兎に角、六十七十の老人だぜ。死ぬのはむしろ当り前じゃないか?」
「理窟は無論然うでございますけれど、愛惜あいせきの情ってことを考えなければなりません」
「愛惜は結構さ。それをとがめるんじゃないが、普段死という実務を全く計算に入れてないからいけない。君達も然うだろう?」
「はあ。一向考えません。死ぬなんてことは考えるのも厭です」
「まあ/\、若い中はそれでも宜かろう」
「それでなければいけないんです。生活の苦労がある上に死ぬことまで考えていたんじゃとても遣り切れません」
 と私はこの辺遠慮なく主張した。六十七の老人と一緒にされては溜まらない。
「我輩は還暦に達した時から、もう据置期間が経過したと思って、生の屈託くったくよりも死の支度に重きを置いている。種々いろいろと考えて見た。古今東西に亙って偉人の死に様も研究した。それで死ということについては一日の長がある」
「はゝあ」
「それを一つ君に書いて貰いたいんだ」
「御命令なら仕方ありません。しかし自叙伝に死ということを書くのは大きな矛盾でございますな」
「見込で宜いんだ。何うせ死ぬんだもの」
 と社長は何処までも分らないことを言う。
「それではガラマサどんの、いや、社長の人生観という標題にして、その中へ御研究の結果を幾分書かせて戴きましょう」
「ピンと来ないよ。矢っ張り『ガラマサどんの死』の方が宜い。我輩は未だ死なゝいんだから、必ずしも死んだように書く必要はない。何んなざまをするか、想像を働かして婉曲に彷彿ほうふつさせれば宜いんだ」
「何うもこれは益※(二の字点、1-2-22)むずかしいことになりますな」
「何あに、材料を提供して置く。案外早く役に立つかも知れないよ」
「社長、社長は何処かお悪いんじゃございませんか?」
 と私は改めて訊いて見る必要を感じた。これは近く死を予期して一種の遺言を試みているのではなかろうかと思われたのである。
「いや、一向これってこともないよ」
「それなら結構ですけれど」
「第一に死は消滅だという思想がある。これが何うもわざをしていて、死ということを実質以上に恐れさせる。しかし我輩は消滅で結構だよ。君、消滅なら、これくらい痛快なことはないぜ。自分が死ぬと一緒に世界が消滅する」
「世界は消滅しません」
「いや、主観的にさ。何も彼もなくなってしまえば、実際寂滅為楽じゃくめついらく。坊主は流石に専門家だ。うまいところを捉えている。羨ましい境地じゃないか?」
 と社長は腕を組んで目を閉じた。寂滅為楽の境地を想像していたのだろう。
「要するに諦め方一つでしょうな」
「何も彼もなくなってしまったという意識までなくなってしまうんだから、本当に空の空の又空だろう。サッパリするに相違ない」
「そのサッパリすることさえ本人には分らないんですから、あんまり感服出来ませんな」
「消滅説が面白くなければ永眠説さ。これは元がなくなるんじゃない。永遠無窮の眠りに入る。我輩はこれでも結構だ。人生は一大努力だからね。一日の働きを終って一晩寝るように、一生の働きを終って永久に休む。我輩は死んだ人が棺に納まるところを度々見ているが、如何にも楽そうだよ。あれなら遺憾なかろうと思う」
「しかし後のものが困りますよ」
「奥さんに未練が残るかね?」
「私達は社長ほど悟っていません」
「それは年が若いからさ。無理もない。我輩のような独身ものはそこへ行くと楽だ。次に死は来世らいせへの解脱げだつなりという考え方がある。我輩はこれでも結構だ」
 と社長はそれからそれと説を持ち出して、一晩中死ぬことを話し続けた[#「続けた」はママ]
 自動車で家まで送って貰う途中、私は運転手の杉原に、
「君、社長の宗旨しゅうしは何だね?」
 と訊いて見た。
「さあ、存じませんな」
「仏教のことは分っているけれど、ナカ/\研究しているようだよ。今晩はお説教を聴かされた」
「義太夫と何方どっちです?」
「ハッハヽヽヽ」
「この頃時折牧師さんが見えますよ」
「ふうむ。教会へ出るのかい?」
「いや、おいでにはなりません」
基督教キリストきょうの方へ引っ張られるんだろう? 牧師ってものは見込をつけると根気よくやって来る」
「坊さんも見えますよ」
「ふうむ」
「皆寄附金を取りに来るらしいです」
「成程」
「大将ぐらいになると交際の広いものでございますなあ」
「随分と種々いろいろの人が来るだろうね?」
「はあ。いつか大臣が見えましたよ」
「誰だい?」
「逓信大臣です」
「ふうむ」
「役人は割合とすくのうございますが、社長重役というのがザラに見えます。尤も随分ひどいのも来ます」
「僕かい?」
「御冗談ばかり」
「ハッハヽヽヽ」
「この間は以前もと会社で大将と相役あいやくだった人が金の無心に来ました」
「落ちぶれているんだね」
「無論柄が好くありません。夜晩かったので、私が送って行きました」
「送りが多いから夜も楽は出来ないね」
「それは商売だから仕方がありません。危い!」
 と杉原は急にブレーキを掛けて、
「危い奴だ。犬ですよ」
 と又落ついてスピードを出した。晩いから無論規定を越している。
「何んな男だったね? 無心に来たのは」
「もう年寄でした。私は大将とその人の心掛の違っているのにツク/″\感心しました。出世をする人は矢っ張り出世をする丈けのことがありますよ。社長は昔の附き合いを忘れませんから、金をやった上に私に送らせたのです。ところがその人は車の中で大将の悪口を私に言って聞かせるんです」
「成程」
「今でこそ勲三等を貰ってえらそうな顔をしているけれど、長男の生れた時は産婆のお礼に困って俺のところへ三円借りに来たなんて申しました」
「ひどい奴だね」
「私もしゃくに障りましたから、お話をしかけて下さると危いですからって、もう相手になりません。すると、マッチを貸せと言うんです。葉巻を吸い始めました。応接間から掴んで来たんです。実に心掛の好くない奴でした」
「呆れたものだね」
「お話になりません」
「そんなのが時々来るのかね?」
「来ますよ。そんなのに限って、大将にケチをつけます」
「自分の弁解もあるんだろう」
うですよ。自分の方は大将より上だったようなことを言います。矢っ張り具合が悪いからでしょうな」
「一種の悲鳴だと思って聞いていれば宜い」
「金をくれたり悪口を言われたり、大将こそ好い面の皮です」
「兎に角、大将は豪い」
「豪い人です。時に熊野さん」
「何だい?」
「あなたは素晴らしく御信用がありますぞ」
「何うして/\」
「いや。違いますよ。もう一人のお方とは全く違います」
「まあ/\、そんなことは何うでもいさ」
 と私はひそかに期しているところを突如いきなり指されて尠からず面食めんくらった。
 翌朝、会社へ出勤すると、松本君が、
「君、大将は病気だよ」
 と言った。
「え?」
「今電話があったところだ」
「何うしたんだい?」
「食事中急に変になったというんだ」
「脳溢血か知ら?」
 と私はあえぐと共に、据置期間経過抽籤償還の件が頭の中で渦を巻き始めた。
「詳しいことが分らないから、これから見舞に行こうと思っている」
「僕もお供をする」
「昨夜は何ともなかったんだろう?」
「うむ。しかし……」
「しかし何だい?」
「死ぬことばかり話していた」
「ふうむ」
 と松本君も真剣な顔をした。今社長に間違があると、会社も困るだろうが、一番打撃を受けるのは秘書を勤めている私達二人だ。出世が止まってしまう。
ほかのことは何も言わない。一晩中死ぬ話ばかりしていたから、実は僕も気にしていたんだ」
縁起えんぎでもない」
「出掛けよう」
 と私が促すまでもなく、松本君は廊下を駈け出した。
 新邸の玄関に乗りつけたら、丁度医者が帰るところだった。松本君は見知り越しだから、取っ捉えるようにして、
「一体何ういう御容態ですか?」
 と訊いた。
「血圧が急にお高くなりました」
「余程お高いんですか?」
「さあ。大したこともないでしょうが、もう御老体ですから、御用心しないといけません」
「血圧丈けで、他に御異常はございませんか?」
「これって見当りませんが、こゝ四五日絶対安静をお勧めして置きましたから、何うぞそのお積りで」
 と医者は重く見ているようだった。
 社長は寝ていた。
「大丈夫だよ。唯用心して寝ているんだから」
 と声音こわねは平常にことなるところがなかった。
うなすったんでございますか?」
 と松本君が進み寄った。
「食事をしていたら女中の顔が二つに見えた」
「はゝあ」
「おやッと思ったら、茶碗も箸も二つに見える。覚えず取り落したが、単に驚いたんで、脳溢血の何のってことはない。頭は確かだ」
「矢張り血圧のお加減でございましょう?」
うもうらしい。君達は四人かい?」
「いや、二人です」
「矢っ張りいけない。四人に見える」
「社長」
「何だ?」
「特別に御用心を願います」
「こゝ四五日絶対安静だ。誰も見舞に来ちゃいけない。中島君に然う言って置いてくれ給え」
「はあ」
「君達も四五日楽が出来る」
「お手紙なぞは何う致しましょうか?」
「万事赤石君に相談してくれ給え」
 と言って、社長は枕元のコップをくつがえした。
「これは/\」
 と松本君はこぼれた水をハンカチで拭いた。
「二つに見えるものだから、何処を捉えて宜いのか分らない」
「いけませんですな」
「何方が本当の君だい?」
「何方って、私は一人しかいません」
「二人に見えるんだ。松本が二人斯う一尺ぐらい離れて坐っている」
「困りましたな」
「熊野君」
 と社長は私に言葉をかけた。
「はあ」
「もっと進み給え」
「はあ」
「矢っ張り二人に見える」
「社長、何うぞお気をつけ下さい」
 と私は平伏した。
「心配することはないよ」
「はあ」
「見舞には来ないように」
「はあ」
「容態が心配なら赤石君に訊く」
「はあ」
「四五日静養すれば屹度直る」
 と社長は私より一尺ばかり右のところを見詰めていた。
 私達は急に閑になった。三日目に、松本君が、
「楽には楽だが、心配だね」
 と言い出した。
「気が気じゃないよ」
「考えて見ると僕達の地位は社長の健康が土台になっている。社長が倒れゝば共倒れだ。まさかおっ投り出されもしまいが、もうとても出世の見込はない」
「この間は重役になれる約束だったがね」
「あんなことは夢の夢だ」
「僕は自叙伝係だから尚お困る」
 と私も自分の立場を益※(二の字点、1-2-22)よく理解し始めた。
 家へ帰ると、さいが、
うでございましたの?」
 と社長の容態を訊く。
「未だ出て来ないよ」
「およろしい方ですか?」
「悪くはないようだが、はかどらない」
「困りますわね」
「うむ」
 と私は一個人の健康に左右される地位の弱味をツク/″\感じた。
 四日目に、重役室へ容態を訊きに行ったら、赤石さんが、
「まあ/\、話して行き給え」
 と私達を引き止めた。
「それじゃ昨日からおよろしい方ですな」
 と松本君が念を押した。
「明日、いや、明後日から出て来るよ」
「あゝ、漸く安心しました」
 と私は溜息をついた。
「ハッハヽヽヽ」
 と末次さんが笑い出した。
「何でございますか?」
「社長も罪を作るよ」
「はあ?」
「若いものに心配をかけてさ」
「僕達は社長が抽籤償還になったんじゃ立場を失います」
 と私は重役に暗示を与えて置く必要を認めた。
「そんなこともなかろうが、赤石君」
 と末次さんは赤石さんに目配せをした。
「何だい?」
「君も人が悪いよ」
「さあ」
「もうソロ/\発表しても宜いだろう?」
「然うさね」
「この二人は目方が減ったよ、屹度。君、罪だよ」
「ハッハヽヽヽ」
 と赤石さんも笑い出した。
「何ですか?」
 と松本君が訊いた。
「吃驚しちゃいけないよ」
「はあ。笑っていらっしゃるんですから、悪いことじゃありますまい」
「極く好いことだ」
「はゝあ」
「何ですか? 赤石さん。僕達はこの間から神経衰弱になりそうです」
 と私も歎願した。
「社長は結婚した」
 と赤石さんが言った。
「はゝあ」
 と松本君と私は異口同音だった。
わしが仲人さ」
「はゝあ」
「貰わないと断言していたから具合が悪いと見えて、極く内々にという註文だ。そこで作病さくびょうを構えて、物が二つに見えると言った日の晩に形ばかりの式を挙げて、目下塩原へ新婚旅行中さ」
「驚きましたなあ!」
「これは一杯食わされました」
 と私も呆れ返った。
「しかし表面は絶対安静ということになっているから、未だ誰も知らない」
「兎に角お芽出度うございました」
「結構さ。それに社長の方で見初みそめたんだから、恋女房だ」
「へゝえ」
「この辺は自叙伝に特筆大書してやるんだね」
筆誅ひっちゅうしてやります」
「花嫁は某伯爵のお嬢さんだ。妾腹しょうふくだけれど、立派な身分さ」
「お幾つですか?」
「三十一だそうだ」
「はゝあ。社長は六十七ですから、三十六違いますな」
「三まわりか? ハッハヽヽ」
「若い茶飲み友達ですな」
「矢っ張りえらい人は違う」
 と赤石さんも感心していた。
「僕も今度は社長にひどく引っかゝった」
 と末次さんが言った。
「何だい?」
探幽たんゆう菊寿童きくじゅどうだ」
「あれを取られるのか?」
「一身上の祝いごとがあったら贈れと言うから、七十七の賀だろうと思って、何あに、それまで持つまいと高をくくっていたら、今度の事件さ」
「成程」
「結婚は一身上の祝いごとに相違ない」
「うまくやられたね」
とても敵わない」
「見込まれたら駄目だよ」
 と赤石さんも始終懇望されている。
 社長の新婚はそれからそれと評判が伝わった。もう解禁になっていたのだった。翌々朝、今日から出るという電話がかゝった。
「大将、何んな顔をして来るだろう?」
 と私達は待ち構えていた。社長室に着くと直ぐに、松本君が、
「社長、御全快でお芽出度うございました」
 と開き直った。
「有難う」
「お案じ申上げていました」
「お蔭で」
 と社長は澄ましたものだった。
「お申付けに従ってわざとお見舞を申上げませんでした」
 と私も婉曲えんきょくに責めかけた。
「心配をかけて済まない」
「もう物が二つにお見えになりませんか?」
「大丈夫だ」
「何うしたお加減でございましたろう?」
「ハッハヽヽヽ」
 と社長は流石さすがに良心があった。
 後刻、私は社長引籠り中に纒めた原稿を持ち出して、
「お目通しが願えましょうか?」
 と御都合を伺った。
「さあ。長く休んだものだから用が溜まっている」
「お手空きの折で結構でございます」
「当分手が空きそうもない」
「はゝあ」
「君に預けて置こう」
「それでは夜分お屋敷へ上る時持参致しましょう」
「さあ」
「…………」
「家の方の仕事は当分休もう」
「はゝあ」
「今までの材料を利用して先の方をドン/\書いて置いてくれ給え」
「はあ」
「忙しいところを五日静養したものだから、抜き差しが叶わない。落ちついてから又大いにやろう」
 と社長は万事多忙にかこつけて、昼食ちゅうじきを済ますと間もなく帰って行ってしまった。





底本:「佐々木邦全集5 ガラマサどん 使う人使われる人 ぐうたら道中記 豊分居雑筆 世間と人間」講談社
   1975(昭和50)年2月20日第1刷
   1980(昭和55)年3月3日第2刷
初出:「キング」
   1930(昭和5)年1月〜12月
※「ひもじい」と「ひもじい」、「言って」と「云って」、「編輯」と「編集」、「横這い這い」と「横這い/\」、「陰」と「蔭」、「取っ捉まって」と「取っ捉えて」、「纏め」と「纒め」、「シェキスピール」と「シェキスピヤ」、「義太夫を聴かされ」と「義太夫を聞かされ」、「珍しい」と「珍らしい」、「食べ」と「喰べ」、「智恵」と「知恵」の混在は、底本通りです。
※「祟」に対するルビの「たた」と「たゝ」の混在は、底本通りです。
入力:橋本泰平
校正:芝裕久
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード