求婚三銃士

佐々木邦




待遇問題


 安達君は乗換の電車を待ちながら、青空せいくうを仰いで、意気軒昂いきけんこうたるものがあった。卒業後半歳はんさいにして、ついに就職戦線を突破したのである。勤め始めてから丁度一週間、仕事の方はまだ無我夢中だ。サラリーマンとしては文字通りに日が浅い。しかし得意の度合どあいはそれに反比例をたもっていた。もう一人前だと思うと、何となく尾鰭おひれがついたような心持がする。
「おい。うだい?」
「駄目だ。う言う君は何うだい?」
「矢っ張りいけない」
「いつになったら目鼻がつくんだろうかな?」
 と心細い問答を繰り返していた頃とは違う。
 待っている電車が来ない中に、もう用のない方が又着いて、乗換の客が際立って数を増した。安達君は多少迷惑を感じた。押し合いになるから、うっかりしていると取り残される。一体、安達君は控え目の性分しょうぶんだ。人を突き退けて自分丈け進む気になれない。学校時代には、その為め見す/\遅刻したことがあった。しかし今は出勤だ。遅れては困る。覚えず腕時計を見て、努力を心掛けた。
「やあ。安達君」
 と折から声をかけて、人を分けて来た青年があった。同じクラスに机を並べた村上君だった。然う別懇べっこんの間柄でもないが、野球の応援団を指導していた男だから、一種の公人として親しみを持っている。安達君と違って、万事積極的だ。
「やあ」
「何うだい?」
「漸くありついた」
「何処だい?」
「○○だ」
「ふうむ。銀行かい?」
「信託の方だ」
「それは素敵だ。あすこの信託はこれからだから、有望だよ。新らしいところに限る。幾らだい?」
「五十五円さ。余り素敵でもないんだよ」
「しかしボーナスとも七十円になるだろう?」
「先ずその辺さ。君は何うだい?」
「これだ」
 と村上君は折鞄を動かして見せた。
「何処だい?」
「○○生命さ」
「ふうむ。これこそ素敵だ」
「いや、外勤だ、差当り。一年たつと内勤にして貰える。ところで君、ボーナス丈け何うだい?」
「おい。来たよ」
 と安達君が注意した。村上君は機敏だ。側にいた人を押し退けて、安達君の腕をつかまえながら第一着に乗り込んだ。しかし朝の電車は混んでいる。坐る席は無論なかった。
「君、ボーナス丈け何うだい?」
「何が?」
「保険へ入ってくれ」
「さあ」
「ボーナス丈け貰わないものと思えば、三四千円入れる。それぐらいの心掛がなければ、出世は覚束ないぜ」
 と村上君は釣革に下りながら勧誘を始めた。職務に忠実なものである。
だ保険どころじゃないんだよ」
「誰でもそんなことを言うけれど、その議論は成立しない。保険どころじゃない奴こそ保険の必要があるんだ」
「ナカ/\巧いや」
「一体ボーナスは幾つだい?」
「…………」
「皆取ってしまっちゃ可哀そうだから、半期丈けで宜い。五十五円で半期に一つ半なら……」
「おい。聞えるよ」
「うむ」
「よしてくれ」
「それじゃその中に君のところへ行って、ゆっくり話そう。何処だい?」
「待ち給え」
 と安達君は釣革から手を放して、名刺を出した。肩書つきだった。こしらえたばかりで初めて使う。
「有難う。自宅は、下宿かい? 大谷方ってのは」
郷里くにの先輩のうちだ」
かたは名刺に書くものじゃないよ」
「僕も少し具合が悪いと思ったけれど、書かないと、郵便が来ない」
「まだ書留を当てにしている方だね」
「当り前さ、まだ一遍も貰わないんだから」
「書留だって何だって来る」
「来ないよ」
「智慧がないんだね。名札を出して置くのさ。かたなんて書いたんじゃ信用がつかない。番地丈けにして置けば、堂々たる構えだと思って貰える。僕のを見給え。これで矢っ張り素人屋しろうとやだけれど、然うは見えまい」
 と言って、村上君も、参考の為めに一枚出した。
「何だい? 電話があるのかい? これは堂々たるものだ」
「この調子で行かなければいけない」
「しかし電話のある素人屋なんてものは滅多にないよ」
「いや、電話は筋向いの酒屋だ。小僧に毎月活動の切符をやって取次を頼んである。但しその切符は映画会社へ出ている奴から只貰う」
「凄いんだね」
「ハッハヽヽヽ」
「そのくらい抜目がなければ、成績も好いんだろう?」
相応そうおうやっている。ところでいつ行こうか?」
「日曜の午前中は大抵いるから、やって来給え」
「医者をつれて行くよ」
「冗談言っちゃいけない。僕は未だっとも考えていないんだから」
「考えていて会社へ自首して来るようなのは御免蒙っている。叩き殺しても死なないようなのに見込をつけるんだ。何うだい?」
「よせよ、もう」
「僕のところは五大会社ビッグ・ファイブの随一だ。ほかの会社と違う。その辺を詳しく説明してやる」
「幾ら説明しても僕は駄目だよ」
「ナカ/\頑強だね」
「差当りそんな余裕はないんだ」
「それじゃはいるとしたら、僕の手で僕の会社へ契約してくれ給え。何も急ぐんじゃない。枯木も山の賑かしってことがある。勧誘員ってものは、兎に角間口まぐちを拡げて置くのが成功の第一歩だ」
「僕は本当に枯木だよ。勧誘しても、見込はない」
「いや、枯木に花を咲かして見せる。そこが僕の腕だ」
かなわないな、これは」
 と安達君は持て余した。逃げ出したいところだけれど、電車の中だから仕方がない。
「君のところへ始終来る連中があるかい?」
「さあ。同級生でかい?」
「うむ」
「二三人ある」
「誰と誰だい?」
「小宮君と吉川君ぐらいなものだ。もう一人、瀬戸君が時々来る」
「吉川君にはこの間会ったよ。しかし、やつ、君よりも機敏だ。失敬と言って行ってしまった」
「電車の中じゃ逃げられないよ」
「ハッハヽヽ」
「吉川君は一番早かった。○○電力だよ」
「然うだってね。巧くやった」
うちは僕のところの直ぐ近所だ。自分の家だ。これこそ本当に堂々たるものだぜ」
「有望々々」
「何だい? 勧誘の目的かい?」
「当り前さ。小宮君は何うだい? 何処かへきまったのかい?」
「これは叔父さんの店だ」
「幾らだい?」
「分らない。そんなことには超越している。叔父さんの娘を貰ってあとを継ぐんだから、お互い使用人とは格式が違う」
「有望々々」
「しかし、うっかり行けないよ」
「何故?」
「見せつけられる。手放しだからね。とても溜まったものじゃない」
「もう結婚したのかい?」
「いや、未だ/\。その従妹いとこってのは女子大学へ通っていて、迚も綺麗な人だ」
「仲が好いのかい?」
「迚も」
「ふうむ。迚も尽しか? これは驚いた」
「小宮君が僕と話しているところへ来て、兄さんと呼ぶんだ。『兄さん』『何だい?』『内証よ。でも急用ですから』って、小宮君の耳へ口を持って行く。小宮君は若子わかこさんの手を取って立ち上る。若子さんというんだ。映画の『エンド』を思い出させるような恰好になるから、そばにいるものは当てられる。僕はいつも庭の方を向いて、木が何本えているか勘定している」
「ハッハヽヽ」
「見せつけたいんだね、何方どっちも。この間は二人でやって来たよ。小宮君が靴の紐まで結んでやるんだ。僕のところの奥さんはそれを見ていてあとから主人に食ってかゝった。この頃の人は違いますと言うんだ。あなたなんか駄目ですと言うんだ」
「そんなことよりも、店は何うだい? 大きいのかい」
「家とは別だから知らないが、高松商事といって、相応のものらしい。何でも屋だ」
「有望々々。これはダブル・プレーだ。二人入れてやる」
「叔父さんの財産が美人ぐるみ転がり込むんだから、好い星の下へ生れて来た男さ」
「そこを睨んでいる。相続税を取られるから、その時の用心に叔父さんまで入れてしまう。一寸こんなものさ」
「あゝ、忘れていた」
「何だい?」
「保険会社の代理店もやっているんだよ。小宮君はその方の係だと言っていた」
「詰まらない! 糠喜ぬかよろこびをさせやがった」
 と村上君は背負しょい投げを食った形だった。
「ハッハヽヽ」
 と安達君は偶然ながら、少し溜飲を下げた。
「もう一人、瀬戸君の方は何うだい? まさか保険会社じゃあるまい?」
「先生だよ、これは、商業学校だ」
がらにないね」
「いや、初めから教員志望だった。お互と違って、成績も好い方だったから、納まり返っている」
「幾らだい?」
「七十五円だ。僕よりもグッと好い」
「しかし学校は初めのうち丈けだよ。したところで天井てんじょうつかえているから、大したことはない」
「自分でも然う言っている」
「ボーナスなんかあるまい?」
「年末に少しあるらしい」
「訊いて見たのかい?」
「いや、彼奴あいつは金の話をすると、機嫌が悪いんだ」
「そんな変人じゃ心細いけれど、まあ/\、山の賑かしだ。何処だい? 下宿は」
「五反田たんだだ。この間引越したばかりだから、番地は覚えていない。家へ帰れば分るけれど」
「もうほかにないかい?」
「ないよ」
「兎に角、その中に遊びに行く」
「来給え」
「矢っ張り同窓ってものは有難い。一寸電車で会っても、これ丈け胸襟きょうきんを開いて話せる。僕は同級生と先輩の関係で、それからそれと手蔓てづる手繰たぐって行くから、随分手広く勧誘が出来る」
「成程、君は応援団長をやっていて顔が広いからね」
「何が仕合せになるかも知れない。この頃は学校時代に余り交際しなかった連中と悉皆すっかり友達になってしまった。皆就職で一苦労した後だから同情してくれる。お蔭さまで責任額なんか朝飯前だ」
「一体幾らぐらいになるんだい?」
「さあ。月によって出来不出来があるけれど、ならし百五十円」
「えゝ?」
「ハッハヽヽ。話半分に聞いて置けば間違ない」
「七十五円かい?」
「先ずその見当だろうね」
 と村上君は然う威張るほどのこともないのらしい。随って友達を見かけると、取っ捉えて放さない。何処までも粘着力ねんちゃくりょくが強い。それでいて、相手に少しも不愉快な心持を起させないのは、野球の応援が一種の精神修養になっているのだろう。
 安達君はその月の中に数名の同級生に行き会って、村上君の言ったことを思い出した。同じ就職難を突破して来たばかりだから、お互に対して興味と同情を持っている。然う親しくもなかった同志が顔を合せるとニッコリ笑って歩み寄る。
「久しぶりですな」
「何うですか?」
「有難う。何うにかうにか」
「君は何処ですか?」
「○○信託です」
「はゝあ。好いところへ入りましたね」
「君は?」
「松竹興行です」
「はゝあ。芝居が只見られますね」
「それぐらいが役徳やくとくですよ。君の方は待遇が好いでしょう?」
「いや、駄目ですよ」
「失敬ですが、お幾らですか?」
「五十五円です。君はもっと好いんでしょう?」
「好くても知れたものです。六十円です」
「相場でしょうね、この辺が」
「駈け出しは何処も似たり寄ったりです。僕の方は五十、五十五、六十と刻んであります。僕は少しとくをしました」
「成績が好かったからでしょう?」
「さあ」
「ボーナスは幾つですか?」
 と会話は必ず待遇問題だ。急いでいても、勤め先と月給とボーナスを確めてから別れる。学生ではない。学校時代には学科の点数が主な屈託くったくだった。点数を余計せしめるものを秀才と認めて、これに敬意を表した。しかし今はサラリーマンだ。人間の値打が金でまるものでないという理窟は万々承知していても、差当りサラリーの多寡たかが尺度になる。
「やあ」
 と或日安達君は百貨店のエレベーターの中で級友に対面した。
「何うだい? 景気は」
「有難う。到頭ありついたよ」
「○○信託だってね」
 と相手は知っていた。二人は流石さすがに憚って声を潜めた積りだったが、七階へ着くまでに、安達君が五十五円、級友が六十五円、ボーナスは何方どっちも半期に一つ半という待遇が、エレベーター・ガールに分ってしまった。エレベーター・ガールは二人の顔を見てニヤ/\笑った。二人も覚えず相好そうごうくずして、逃げ出した。
まった」
「ハッハヽヽ」
「しかし一寸綺麗な奴だったね」
「うむ」
「君は買物かい?」
「いや、何てこともない」
「それじゃ一緒にぶらつこうか? 然う/\、関君がこゝへ入っているよ」
「ふうむ。何をしているんだい?」
「洋書部だ。寄って見よう」
「幾らだい?」
 と何処までも待遇問題だ。

その次の屈託


 日曜の朝、安達君は散髪屋へ行った。容姿端正ということは会社の勤務規定に書いてないけれど、現代青年は本能的にその努力をする。殊に安達君は几帳面きちょうめんの方だ。学生時代にも伸びるから伸びるまでゝなく、月一回と規則正しく定めていた。それを今回少し早目にしたのは矢張り就職気分の刺戟だった。
「旦那」
 と床屋の主人がチョキ/\はさみを入れながら呼びかけた。
「何だい?」
「イヨ/\お勤めでお芽出度うございます」
「有難う。何うして分ったんだい?」
「吉川さんからうけたまわりました」
「成程」
「これで陰ながら歯ぎしりをしていました。何しろ六年からのお得意さまです」
「長いことお世話になったね。学校へ入った時からだから」
「今後とも何分宜しく。御卒業御就職は結構ですが、早速お嫁さんを貰って、砧村きぬたむらあたりへお引っ越しになっちゃ困りますよ」
「ハッハヽヽ。砧村は好かったね」
「逆さまに読めばタヌキ村でさあ」
「成程。ハッハヽヽ」
「大丈夫ですか?」
「そんな遠っ走りはしないよ」
「遠っ走りをしないと仰有おっしゃるところを見ると、近っ走りをなさる当てがあるんでしょう?」
「いや、当分現状維持だよ」
 と安達君は話が余り個人的になるので、不図ふと目を開いた。周囲あたりを見廻したが、未だ早かったから、客は自分一人だった。
「旦那。あっしはお世辞でも何でもなく、旦那に感心しているんですよ」
「何うして?」
「吉川さんのように歴乎れっきとした御自分の家なら兎に角、六年間も同じところから通う大学生さんってものは滅多にありません。それ丈けでも旦那は人格者です」
「好くしてくれるから動かないのさ。何も意味はないんだ」
「綺麗な娘さんでもいるなら兎に角」
「ハッハヽヽ」
「しかし奥さんはナカ/\綺麗な人で、思い切って若作わかづくりですな」
「うむ。子供がないからね」
一寸ちょっと有閑マダムの方でしょう。よく出てお歩きになります」
「よく知っているんだね」
「こゝは電車への関門ですから、毎日見ています。それにチョク/\お顔を当りにおいでになりますから」
「成程」
「余計なことを伺うようですが、お幾つですか? 美人と西洋人の年は何うもあっしにはキッカリしたところが判りません」
「三十五だよ。僕と十違うんだから」
「それじゃ未だ本当にお若いんですな」
「若いとも。それだから小母さんというと厭がる。奥さんと呼んでくれって註文だ」
「それは当り前でしょう」
「夫婦ともよく物の分った人だよ」
「御主人は十年からのお得意さまです。好い人ですな」
「これこそ人格者だよ」
「書生さんを大学へ通わせるなんてことは一寸出来ない芸当です」
「えゝ?」
「俺は初めの中、あなたを大谷さんの甥御おいごさんだとばかり思っていましたが、二三年前に泥棒が入った時の新聞で分りました。書生安達の談と出ていましたから」
 と親方はその折の間違った記事をそのまゝ信じているのらしかった。泥棒が入ったけれど、安達君が目を覚したものだから何も取らないで逃げ出した。丁度巡査が通り合せて、泥棒と格闘が始まった。安達君は金盥かなだらいを叩き鳴らして近所へ急を報じた。隣家の書生が出て来て手伝ったのだけれど、それがどう間違ったのか、安達君の武勇伝として新聞に現われたのである。
「書生じゃないんだよ、僕は」
「はゝあ」
「大谷さんは郷里の先輩だよ。僕は家から預けられているんだから、何方どっちにしても頭が上らないんだけれど」
「然うですか? これは失礼申上げました」
「あれ以来方々で僕を書生だと思っているのらしい」
「しかしお手柄でしたな」
「何あに、金盥を叩いたばかりだ」
「それにしてもです」
「手柄でも何でもない」
「いや、下宿から通える身分でいながら、窮屈な監督を受けて、六年も御辛抱なさるところがお堅い証拠です。あっしが会社の重役なら、そこへ直ぐに目をつけます。これで長年この稼業をやっていますから、人間ってものが判るんです」
「何うだかね。僕を書生だと思っていたんだから」
 と安達君はすくなからず不平だった。
 そこへお客さんが来たものだから、親方は如才じょさいなく応対を始めた。しかしその間もチョキ/\/\と鋏は休ませない。口八丁手八丁だ。お客さんを職人にまかせて置いて、又話し出す。
「旦那、うっと、何処まで申上げましたかな?」
「もう宜いよ」
「然う/\。相済みません。飛んだ粗相を申上げました。大失策おおしくじりです」
「何あに、構わないけれど」
「これでも人間は分る積りです。一口に散髪屋といっても、俺のところは高級で、それ、その、トンソリヤル・サルーンですから、インテリの頭ばかり扱います。インテリは頭が資本です。その資本を扱うからには、一種の資本家でしょう」
「好い加減にしてくれよ」
「数を手がけていると、恰好かっこうで分りますよ」
「何が?」
「頭の恰好で出世する人か、出世しない人か、将来が分ります」
「僕のは何うだい?」
「保険つきです。重役ですよ、この真黒な毛が悉皆すっかり禿げ落ちる時分には」
「それまで首が持つまい」
「大丈夫です。動いちゃいけません」
「動きはしないよ」
「いや、お勤めの話です。人間、動かないことが一番ですな。俺にしても、十何年こゝに腰を据えて動かなかったればこそ、お得意が固定して、もう押しも押されもしません。これでも組合へ行けば、幅利はばききの方ですよ。旦那も一つ腰を据えて、動かないで下さい」
「動かない積りだ」
「六年同じところからお通いになったんですから見込があります。一寸出来ない芸当ですよ。近所にいても時折気が変るものですが、旦那はそれがない。ズッと続けて俺のところです」
「何だい? 学校のことだと思ったら、散髪の話かい?」
「トンソリヤル・アーテストですから、散髪で世の中を見ているんです。始終散髪屋をえるような人は一事が万事ですから、何処へ行っても長続きがしません。根を張る暇がなければ、草木にしても伸びずじまいで、早く枯れる勘定でございましょう」
「するとタヌキ村へは越せないね」
「もっての外です」
「仕方がない。この上とも、精々御厄介になろう」
「何分宜しく」
「ハッハヽヽ」
「早い話が其方そっちの旦那はあっしがこの店を出した頃からのお得意さまです。十何年というもの、頭の毛が薄くなるまでっともお動きになりませんから、御出世が早くて、もう課長さんですよ」
「おい/\。人を店の宣伝に使うなよ」
 と隣りの椅子の客がシャボン泡の中から、故障を申立てた。
「ヘッヘヽヽ」
「その上、頭の禿げたことなんか余計な話じゃないか?」
「恐れ入りました」
「未だそれほどでもない積りだ」
「ヘッヘヽヽ」
「おい。親方」
「何でございますか?」
「近所へ新店しんみせが出来たのを神経に病んでいるんじゃないかい?」
「先ずその辺かも知れません。何分宜しく」
 と親方が本音ほんねを吹いたので、大笑いになった。
「何軒出来たって恐れることはない」
「へい」
先方むこうが余計勉強すれば、此方こっちが負ける丈けの話だ」
「それじゃ困りますよ。先方は新店だから勉強を看板にするにきまっています。此方は老舗しにせだから、今更勉強なんかしたくありません」
横着おうちゃくだね」
「勉強で勝つのは当り前でしょう」
「怠けていても負けない法を考えているのかい?」
「へい。頭を悩ましています」
「一つ相談に乗って、策を授けてやろうか?」
「何分宜しく」
「マネキンを置いちゃ何うだね? 素晴らしいのを。来るぜ」
「来たって、高くついたんじゃ勉強になります」
「いや、数さえ来れば引き合う。引き合いさえすれば、勉強にならないから、別に気の咎めることはあるまい」
「へい。しかしマネキンは高いでしょう?」
「五円ぐらいからある」
「いけません。五円頭をねられるんじゃ気が咎めます。大勉強ですよ。商売があがったりです」
「分らない男だな。その代り客が押しかけて来る。僕にしても、二度のところを三度も四度も来る」
「毎日五円取られるんですから、余っ程来て下さらなければ立ち行きません」
「カフェーへ行く代りだ。一晩置きに、来てやる」
「そんなに頭の毛があるお積りですか?」
「おい。なぐるぜ」
 と客人も親方に劣らない達者ものだから、二人の遣り取りが面白かった。安達君は傾聴の役に廻った。元来親方の敵手あいてでない。その中にお客さんが押しかけ始めた。日曜の朝を利用するのは大抵サラリーマンだ。それも親方が宣伝する通り、相応のところが多い。安達君は、兎に角もうこの連中の仲間入りをしたのだと思ったら、肩身が広かった。
 家へ帰ると間もなく、大谷夫人が二階へ上って来て、
「安達さん、斯ういうお方がお見えになりました」
 と名刺を取次いだ。村上君だった。
「友人です」
 と安達君は立とうとした。
先刻さっきよ。もうお帰りになりましたの」
「はゝあ。失敬しちゃったな、これは」
「御散髪ってこと分っていましたが、初めてお見えになった方ですから、お留守と申上げてしまいました」
「嘘じゃないから宜いです。又来ましょう」
「保険会社の方ね」
「はあ」
「勧誘にお出になったんじゃありません?」
「それもあるんです」
「保険なら◎◎へお入り下さい。兄が勤めていますから精々御便宜を計らせます」
 と奥さんは世話好きだ。
「いや、保険は何処でも金城鉄壁きんじょうてっぺきです」
「お入りになりません?」
「えゝ」
「今日は何処かへお出掛け?」
「さあ」
「お勤めが始まると、日曜は好いものでしょう?」
「えゝ」
「秋晴れで家にいるのは惜しいようね」
「はあ」
「安達さん」
「何ですか?」
「あなたは現金ね」
「何故ですか?」
「御就職のことで私が駈廻っていた間は下にも置かないようにして下すったのに、御用済みになれば生返辞なまへんじばかりですもの」
まった」
 と安達君は慌てゝ立って、座蒲団を持って来て、
「奥さん、さあ、何うぞお敷き下さい」
 とすすめた。
「オホヽヽヽ」
「忘れていたんですよ。もう一枚差上げましょうか?」
「まあ。オホヽヽヽ」
「全くお蔭さまです」
「お礼なんか仰有らなくても宜いのよ」
「漸く一人前になりました。会社の方も何うやら勤まりそうです」
「お勤まりになりますとも」
「そこで僕一つ奥さんにお願いして見ようかと思って考えていたことがあったものですから、つい失敬したんです」
「宜いのよ、もうそんなこと。御冗談に申上げたんですわ」
「実は僕、奥さんにお願いがあるんです。もう就職して一人前になったんですから、学生とは違います。交際上も不便だからって、友人が注意してくれましたから……」
「私、そのほううから考えていますのよ」
「何の方ですか?」
「お嫁さんでしょう?」
「ハッハヽヽ」
「この頃の若い人ってものはえらいんですわね。お顔一つ赤くもなさらないで、お頼みになるんですから」
「ハッハヽヽ」
ずるいのね、笑って誤魔化して」
「違うんですよ、奥さん」
「心得ていますから御安心下さい」
「本当に違うんですよ」
「何あに? それじゃ」
「僕の標札ひょうさつを門へ出させて戴きたいんです。名刺に書くのに、大谷方では如何にも居候いそうろうのようで具合が悪いというんです」
「まあ。そんなこと?」
「はあ」
「お安い御用ですわ」
「御主人にも奥さんからお願いして置いて下さい」
「お願いも何もないじゃありませんか?」
「それじゃ早速出させて戴きます。実は先刻さっき来た村上君の注意です。成程と思っていたところへ、今散髪屋で書生と間違えられました。六年間辛抱したと言ってしきりにめてくれましたから、得意になっていたら、親方は僕をこゝの家の書生だと思っていたんです」
「まあ/\」
「矢っ張り僕は人間が地味に出来ているんでしょうね。普段ふだん小さくなっていることがこれで分ります」
「人聞きが悪いわ。大威張りのくせに」
「ハッハヽヽ」
「何か書生さんらしい御用をなすった覚えがあって?」
「部屋の掃除をします」
「それは御自分のお部屋ぐらいはね」
「朝、新聞を取って来ることがあります」
「その外は縦のものを横にもなさいませんわ」
「ハッハヽヽ」
「主人や主婦に就職運動をさせる書生さんがありますか?」
「重々恐れ入りました」
「到頭降参なさいましたわね」
「決して徒疎あだおろそかに思っていません。お世話ついでにこの上とも何分宜しくお願い申上げます」
「御冗談は兎に角、お勤め口がおきまりになって一段落ついたんですから、今度はその次の問題でございます」
「何ですか?」
「結婚問題」
「それは前途遼遠りょうえんです。卒業してからまだ半年しかたっていません」
「でも小宮さんはどう?」
「小宮君だって未だ結婚はしていません」
「何うせお貰いになるんですから、好いのがあったら、早い方が宜いでしょう?」
とても/\。五十五円じゃ、お嫁さんの干物が出来てしまいます。未だ/\前途遼遠です」
「そこはおうちでも、お考えになって下さいますわ。お父さんお母さんも早く御安心なさりたいんでございましょう。実は私、クレ/″\もお頼みを受けていますの」
「はゝあ」
「好いのがあったらすすめて下さいって」
「あるんですか?」
「えゝ。二人も三人も」
「本当ですか?」
「御覧なさい。前途遼遠が乗り出していらっしゃいましたわ」
 と奥さんはナカ/\機敏だ。

策士吉川君


 安達君は大谷夫人には遠慮がない。何でも打ち明けて話す。冗談も言う。しかし大谷さんと来ると苦手だ。立志伝中の人だと聞いているから気が引ける。大谷さんは郷里くにの中学校を出ると直ぐに東京へ逃げて来て、苦学をしながら、私立大学を卒業したのである。独立独歩だ。○○銀行へ入ってからも出世が早かった。目下市内の某支店長を勤めている。安達君に取っては中学校も先輩、大学も先輩だから、事情に通じ過ぎていて、監督者としては甚だ煙たかった。
「安達君、この頃は何うだね?」
 と大谷さんが訊く時は、安達君、いつも胸に覚えがあった。
「相変らずです」
「ノートは何でも皆自分で取っているんでしょうね?」
「はあ」
「溜めて置いて、人から借りて写したんじゃ駄目ですよ」
「はあ」
「此年から民法があるんでしょう?」
「あります」
「田中さんですか? 林さんですか?」
「林さんです」
「僕も林さんに習いました。先生あれから十五年一日の如く同じ講義をしているのかも知れません。ノートを一寸拝見しましょうか?」
「さあ。友達に貸してあるんです」
「ハッハヽヽ」
「本当です。吉川君が持って行ったんです」
 という安達君の主張は自分の耳にも覚束なく聞えた。具合が悪いと思って頭を掻いたら、益※(二の字点、1-2-22)告白のようになってしまった。
「駄目よ、安達さんは。去年好かったと仰有って、悉皆すっかり調子をおろしていらっしゃるんですから」
 と奥さんがはたから余計な口を出す。
「勉強し給えよ」
「はあ」
「好い成績を取って置かないと、就職の時に困ります」
「はあ」
「数が多いんですから、中以上でないと問題になりません」
「はあ」
 と安達君は一々頷く。そうしてその当座は相応努力する。極く当り前の学生だった。
 大谷さんは学校の事情に通じているばかりでない。
「安達君、僕はこの間同窓会で横山君に会いましたよ」
「横山先生ですか? 会計学の」
「えゝ。あの人は僕と同級です」
「はゝあ」
「君のことを頼んで置きましたよ」
「これは怠けられない」
 というような次第わけだった。
 安達君は可もなく不可もない成績で卒業したけれど、就職の考査に再三失敗した揚句あげく、大谷さんが○○銀行に勤めている関係から、その肝煎きもいりで○○信託へ入れて貰ったのである。大谷さんは然うでもないが、奥さんはこれを鼻にかける。
「安達さんは学校もうちから通って、就職の方も家で運動したんですから、全く大谷製でございますよ」
 と吉川君のところへ行って言ったそうだ。安達君は実際その通りだから、恩に着せられても仕方がないと思っている。大谷さんは学校時代にも保証人だったが、会社へ勤めるようになっても又保証人だ。
「後れて入ったんですから、少し割が悪いそうですけれど、後は腕次第ですって」
「一生懸命でやります。決して保証人に御迷惑はかけません」
「その点は安心していますのよ。あなたぐらい堅い人は滅多にありませんわ」
 と奥さんは流石さすがに理解していてくれる。
 もう一人保証人がある。それは親友吉川君のお父さんで鉄道省の技師だ。工学博士の肩書がついている。直ぐに引受けてくれたが、安達君はその折初めて話し込んで、吉川君が猫をかぶっているのに驚いた。
俊彦としひこは人間が堅過ぎて困ります。これは私の教育が厳格過ぎた結果だと思って、今更後悔しています」
 とお父さんが歎息した。
「はゝあ」
「第一、友達がありません。あなた丈けですよ、時々おいで下さるのは」
「僕も友達はすくない方です」
「多少性格に似たところがあるんでしょうね」
「さあ。僕は元来引っ込み思案の方です」
「俊彦はそれが極端ですよ。こんなに偏屈じゃ同僚との交際が円滑に行くか何うか案じられます」
「そんなこともないでしょう」
「もう少しひらけてくれると宜いと思っているんですけれど」
「いや、可なり開けていらっしゃいますよ」
 と安達君が言った時、吉川君は記事差止めの目くばせをした。お父さんは一体子供自慢らしい。
「家でこそ威張り返っていますけれど、余所よそへ行くと、口上一つ満足に言えません。全く世間知らずのお坊っちゃんですよ」
 と先ず謙遜して取りかゝった。
「然ういう傾向が確かにありますな」
「随分分らないことを言うでしょう?」
「はあ。目の前に置いて、失敬ですけれど」
「二三年前でした。私と一緒に銀座へ年の市を見に行ったんです。カフェーの前に差しかゝった時『お父さん、電燈が綺麗ですね。何でしょうか?』と訊きました。『カフェーさ』『何をするところでしょう?』と真面目ですよ」
「はゝあ」
「大学生になっても、カフェーってものを知らないんです」
「満更知らないこともないでしょう」
「それはカフェーってことは知っていても、無関心ですから、内容をハッキリ知らないんです」
「ハッハヽヽ」
「私も考えましたよ。これじゃ家庭教育が成功したんだか失敗したんだか分りません」
「無論御成功の方でしょう」
「然うあって欲しいんですけれどもね。っと極端です」
「ハッハヽヽ」
「笑うなよ。実際、知らなかったんだ、あの頃は」
 と吉川君、巧くやっている。何だい? 野球の祝勝に調子づいて、カフェーで暴れて問題を起したのは丁度その頃だったじゃないか、と安達君は言ってやりたかった。
「カフェーなんか無論知らない方が宜いんですけれど、余り呑気ですからね。この話をすると皆笑うんです」
「ハッハヽヽ」
「もう一つあるんですよ、美談が」
「はゝあ」
「中学時代でした。歌舞伎座の前を通ったら、こゝは何をするところですかと訊きました」
「訊くのがお得意のようですね」
「私は考えました。芝居ってものゝ概念が全然ないのは常識教育上感心出来ません。余り厳格にするのも考えものだと思って、間もなく見せにつれて行きました」
「映画の方が面白いと仰有ったでしょう?」
「いや、活動はついこの頃まで禁じてありました」
「成程」
「もう自由ですよ、何でも。もう一人前になったんだから、何でもやれと言い渡してあります」
「はあ」
「しかし依然として酒も飲まず煙草も吸わず、カフェーの敷居もまたぎません。習い性となってしまって、立派な石部金吉いしべきんきちに育ち上りました」
「それはお父さんが鉄道の工学博士だからでしょう」
「何ういう意味ですか?」
「石や金ばかり扱っていらっしゃるから……」
「成程」
「ハッハヽヽ」
「俊彦もその調子だと宜いんですが、ムッツリもので困ります」
余所よそでは可なり、おやりのようですけれどもね」
とても/\」
 とお父さんは決して信じない。
「駄目だよ、僕は」
 と吉川君は別人だ。
「煙草は本当に嫌いのようだね」
 と安達君はそれ丈け認めてやった。
「一つこれから修業して見ようか?」
「修業なんかすべきものじゃない。お父さんを御覧。やめようと思っても、やめられなくて困っている」
 とお父さんはその証明のように煙草に火をつけて、
「安達さんはお酒の方も可なりおやりだそうですね」
 と頭から極めてかゝった。
「いや、ほんの少しです。それも会なんかでいられる時丈けです」
「その会の時です。俊彦はいつもあなたの介抱でおそくなると言っています」
「そんなことはありませんよ」
「宜いですよ、おかくしにならなくても」
「恐れ入りましたな、これは」
 と安達君は往生した。本当のことを言えば、その反対だけれど、吉川君が睨んでいるから仕方がない。
「身許保証人となれば責任がありますから、申上げて置きますが、お酒は成るべく慎しんで下さい」
「はあ」
「酒そのものは大したこともありませんが、種々いろいろの誘因になりますからね」
「気をつけます」
「それからカフェーです。ネオン・サインを危険信号と思っていれば間違ありません」
「俊彦君を学びましょう」
「然うして戴きます。取柄とりえのない男ですけれど、堅いこと丈けは確実ですから」
「お父さん、そう宣伝されると、僕、後が怖いです。ひどい目に会わされます」
 と吉川君は何処までもたちが悪い。
「安達さんにかい?」
「はあ」
「ハッハヽヽ」
「僕だって安達君に学ぶところが多いんです」
「それは然うさ。お互いに長所短所相補う」
「お説法よりも盲判めくらばんです。お役所並に一つ願います」
「早速安達さんを学ぶんだね。よし/\」
 と、お父さんが印を取りに立った後、二人は顔を見合せて地金じがねに戻った。
「やい。この野郎」
「参った」
「親父の前だと思って、自分一人い子になりやがって」
「堪忍してくれ」
「いけない」
「カフェーをおごる」
「宜しい」
「ハッハヽヽ」
「いつ?」
「明日の晩」
「会社の帰りに落ち合おう。何処だい?」
「六時きっかり、西銀座」
「デカメロンかい?」
「うむ」
「あすこは何をするところだろう?」
「ハッハヽヽ」

正直者安達君


 さて、日曜の朝だった。安達君が大谷夫人に縁談を勧められて膝を乗り出した時、女中が上って来て、吉川君と村上君を取次いだ。
「おい/\、珍客だよ」
 と吉川君は否も応も言わせない。もう村上君を案内して現われて、
「やあ、奥さんがいたのか? いや、いらっしゃったんですか? この間は失礼」
「何う致しまして」
「お小言最中お邪魔申上げます」
「まあ」
「何を仕出来しでかしましたか?」
「迚も敵いませんわ。何うぞ御ゆっくり」
 と奥さんは逃げ出した。
「さあ。村上君、何うぞ」
 と安達君は稍※(二の字点、1-2-22)改まってしょうじた。
一昨日おとといは失敬」
「僕こそ」
「早速やって来た。先刻さっき、一寸寄ったんだよ」
「然う/\。失敬した。一寸出ていたものだから」
「保険屋になると居留守は食いつけているから一向驚かない」
「本当だよ。厭にひがむんだね」
「ハッハヽヽ」
「散髪屋へ行っていたんだよ」
「成程。頭が証明している」
「或は吉川君ところへ廻ったんだろうと思って、心待ちに待っていたんだ」
「すると、もう覚悟しているんだね。有難い。幾ら入ってくれる?」
「しかし勧誘員の資格でやって来たのなら撃退だ」
「おや/\」
「今日は日曜だから実務ビジネスは語らない」
「平日なら宜いのかい?」
「よせよ、もう」
「失敬々々。時に、好いところだね、こゝは」
 と村上君は漸く個人の資格に戻った。
 話題は同級生の身の上だった。矢っ張り時期だ。皆それ/″\かたがついていた。
「似たり寄ったりだね。余裕がないんだから、皆頑強に抵抗するだろう?」
 と安達君はつい村上君の実務に触れてしまった。
「安達君、僕は陥落しちゃったよ」
 と吉川君が言った。
「早いんだね」
「何だい? 手引きをして置いて、早いんだねもないものだ」
「ハッハヽヽ」
「そうして自分丈けは逃げようってんだからたちが悪い」
「幾らはいる?」
「二千円で勘弁して貰った」
「ふうむ」
「君も入れよ。何うせ早晩誰かの槍玉に上がるんだから、同期生の手にかゝってやれ」
「驚いたな。君まで勧誘か?」
「人をのろえば穴二つってことがある」
「呪った次第わけでもないんだけれど」
「二千円入れよ。年に七十円足らず、月に割ると五円と少しだ。それで、妻子が浮べるんだから」
「縁起の悪いことを言うなよ」
「兎に角、考えてやれよ。僕もほかの奴なら撃退するけれど村上君だから直ぐに観念してしまった。村上君は応援団長として学校の功労者だ。ビリ一になって就職の方が巧く行かなかったのも犠牲の精神に富んでいるからだ。これは皆入ってやる責任がある」
「よし。考えて置く」
 と安達君は急に折れた。妙な責め手があるものだ。
「今日はもう実務は語らない。吉川君が二千円、君が二千円、合計四千円出来たんだから、もう沢山だ」
「僕は千円だよ」
「二千円奮発してくれ」
「駄目だよ。実はこゝの奥さんの兄さんが◎◎生命へ出ていて、その方からも勧められているんだから」
「それじゃ千円なら入ってくれるね?」
「うむ。都合をつける」
「◎◎の方の手が動いても、後へは引くまいね?」
「引かない」
「何んなことがあっても?」
「安心し給え。一旦口から出したからには責任を尽す」
「有難う。千円出来た」
 と村上君は応援の時にやる手拍子を打った。
「君」
 と吉川君はお茶を薦め終った女中に声をかけた。
「はあ」
「千円だの二千円だのって、僕達もえらいものになったろう」
「はあ」
「月給の話をしているんだよ」
「まさか。オホヽヽヽ」
 と女中は笑って下りて行った。安達君が五十五円、吉川君が六十円ということをチャンと知っている。
「ところで吉川君、今度は君だ」
 と村上君が向き直った。
「僕は駄目だよ」
「千円でも宜いんだから」
「おや/\? 吉川君は未だかい?」
 と安達君は案外だった。顔が長くなった。
「ナカ/\頑強なんだよ」
「何だ? 僕にペテンをかけたのか?」
「一寸こんなものさ」
 と吉川君は威張った。
「そんなインチキはないぜ」
「ハッハヽヽ」
「人を呪えば穴二つだ。入らなければ、僕が承知しない」
「まあ/\、ゆっくり考えさせてくれ」
「今更何だい?」
「冗談が本当になってしまったんだよ。君は矢っ張り正直だな」
「この上褒めて貰えば世話はない」
おこったのかい?」
「宜いよ。もう君の言うことは、信用しないから」
「入らないとは言わない」
「入り給え」
「然う右から左へはめられない。君と違って、僕は月給六十円、まだ駈け出しのサラリーマンで親がかりの身分だからね」
「皮肉を言うなよ」
「単に保険へ入るといえば、実務取引のようだけれど、内容は死ぬ生きるの問題だから、一応両親に相談しなければならない」
「保険って何をするものですかってかい?」
「先ずその辺だ」
「訊きさえすれば信用がつくと思っている。村上君、吉川君は実に要領が好いんだよ」
 と安達君は村上君の注意を呼んだ。
「悪い方じゃないようだね」
「カフェーってものを知らないことになっているんだから驚く。お父さんと一緒に銀座を散歩して、ネオン・サインを指さしながら、『お父さん、こゝは一体何をするところでしょう?』と訊いたんだそうだ」
「ふうむ」
「訊く方も訊く方だが、それをに受けて、うち息子むすこは堅いと思っている方も思っている方だろう?」
何方どっちも何方だ。しかし閑話休題かんわきゅうだい、君は吉川君に瞞されて入ったんだから、吉川君を入れる責任がある」
「未だ入りはしないよ」
「しかし後へは引かないと言っているから、もう入ったのも同じことだ」
「要領の好い連中にはかなわない。僕は君の手伝いをするのかい?」
「自然そんなことになってしまったんだよ。吉川君、安達君の立場に同情してやり給え」
「僕は父親ファーザーに相談する」
「それっきりかい?」
「うむ」
「要領が好いんだね? 本当に」
「迚も敵わない」
 と安達君は諦めた。入りたくもない保険へ入れられた上に勧誘の手伝をしていると気がついたら、馬鹿々々しくなった。
 そのまゝ少時しばらく沈黙が続いた後、吉川君が口を切った。
「好い天気だね、今日は」
「何うだい? 何処かへ出掛けようか?」
「おい。本当に駄目かい?」
 と村上君は天候よりも商売だった。
「父親に相談する」
「宜いだろう? 君の考えで」
「分らないんだね、君は」
「何故?」
「余計入ってやりたければこそ、家へ相談するんだ。慌てないで待ってい給え」
「これは有難い。当てにして待っているよ。しかし慌てるんじゃないけれど、早い方が宜い」
「然う手間は取らせない。僕のところは厳重だから、友達が遊びに来れば、母親マザーが直ぐ後から素性すじょうを訊く。『今日おいでになった怖い顔の人は学校のお友達?』って」
「僕のことかい?」
「うむ。僕は取りつくろって答える。『あれは同級の秀才で保険会社へ勤めている孝子こうしです。実に感心な男です』って」
「評判が好いんだね」
「君の為めよりも僕の為めだ。良友と交際しなければ信用がつかない」
「然ういう利用の仕方なら幾らでも材料になってやる。孝子結構、決して親不孝じゃないんだから」
「次に君の用向きが問題になる。『勧誘に来たんですけれど、今の俸給じゃ入っても保険料が払えませんから断りました。しかし考えて見ると保険は必要です。僕は大丈夫の積りですけれど、万一の場合の用心に、お父さんお母さんの為めに少しでも入って置きたいんです』とやる」
「成程」
母親マザーは一々父親ファザーへ報告するのが役目だ。俊彦は好い心掛けの子ですって。感心なものでございますって。僕の声価はとみに高まる。そこへ又君がやって来るんだ」
「成程」
「三千円ぐらいは大丈夫だよ」
「有難い。多いのは幾らでも構わないが、三千円となると、年百円を越すから、月給との釣合を考えて見てくれ給え」
「いや、保険料はうちで払って貰う。元来それが目的で相談するんだから」
「成程、矢っ張り要領が好い」
「三千円と見ていてくれ給え。父親は感激家だから、場合によっては、もっと奮発するかも知れないけれど」
「出来た」
 と村上君は又応援の手拍子を打った。
「何うだい? 安達君、これで苦情はあるまい?」
「感心した。矢っ張り君は親をだます名人だ」
「人聞きの悪いことを言うなよ。瞞すんじゃない。安心させるんだ。親孝行ってものは出来る中にして置かなければいけない」
「変な親孝行だね」
「見給え。これで君の顔も立てば、村上君の顔も立つ。君のように事後承諾で払わせるんじゃないから、親の顔も立派に立っている。すべて事に当っては四方八方の顔を立てる上に自分が一番徳をしなければいけない。これが僕の処世術だ」
 と吉川君は又威張り出した。
「村上君、察してくれ給え。僕は斯ういう人間と始終一緒だから、ひどい目にばかり会っている」
「学校時代もこんな風だったのかい?」
「今考えて見ると、この方針だったんだね。僕は教室で吉川君の返事をしてやって、先生に取っ捉まったことがある」
「しかしあれはお互に、便宜を計るんだから」
「いや、僕は滅多に休まなかったんだ。それでいて出席は吉川君の方が好いことになっているんだから詰まらない」
「ハッハヽヽ」
「ノートだって僕がおもに稼いだんだけれども、席次は吉川君の方がグッと好いんだ。一つは試験運もあるだろうけれど、一緒にやるなら自分が徳をしようと思っているんだから敵わない」
「それは偶然だろう。成績なんてものは初めから予定で行けるものじゃない」
「いや、現に然う宣言しているんだもの。悉皆すっかり分った。これじゃ僕よりは余計飲むくせに、一滴も飲まないことになっている筈だ」
「ハッハヽヽ」
「カフェーへ行っても吉川君丈け持てゝ、チップは割勘ってことにきまっている」
「ハッハヽヽ」
たまに口止めの為めにおごれば条件つきだ。この間は吉川君が貴公子で僕はお供って心得だったぜ」
「君、僕はもう失敬するよ」
「宜いじゃないか? 未だ」
「いや、もうソロ/\お昼だ。それにもう一軒当てがある」
「昼からだろう?」
「約束じゃないんだけれど、日曜の朝は皆家にいるから書き入れだ。早く行かないと出てしまう」
「勉強だね」
「ところで君の方は、いつ医者をつれて来ようか?」
「仕方がない。今度の日曜の朝のうちに来てくれ給え」
「宜しい。それじゃ吉川君、その時又君のところへ寄る」
 と村上君は折鞄を抱えた。
「僕も帰る」
「君は近いから、もう少し宜いだろう?」
 と安達君が吉川君を止めた。
「いや、形勢が不穏だから。ハッハヽヽ」
「言って聞かせる丈けだ」
「又来るよ」
御意ぎょいの変らない中にってことがある」
 と村上君は急いだ。吉川君も後に従った。二人を送り出した安達君は何だかペテンにかゝったような心持がした。一寸の間に保険へ入ることになってしまった。保険そのものに異存はないが、自分の意志が一向働いていない。吉川君に乗せられたのだ。村上君も話し合せて来たのらしい。何んな事があっても後へ引くまいねと念を押した。たちが悪い。二人で謀ったのだ。忌々しい。取消してやろうか? 然うだ。先方むこうが元来瞞してかゝったのだから、此方も信義を守る責任がない。今からでも手紙で断れば間に合う。と考えたが、村上君が喜び勇んで帰って行ったと思うと、それも可哀そうだ。吉川君も入る。友達は扶け合わなければいけない。まして村上君は応援団長として手柄がある。まあ仕方がない。保険には何うせ入るんだ。早晩槍玉に上るのだから、友達に功名をさせてやる。と安達君は改めて自分自身を勧誘していた。
 間もなくお昼だった。食卓はいつも主人夫婦と一緒だが、大谷さんは姿を見せなかった。
「御主人は?」
 と安達君が訊いた。
「本店の重役さんのところへ伺いましたの」
「はゝあ」
「ゴルフを勧められて、今日は見学の為めお供ですって」
 と奥さんは、大谷さんの信用を誇りとしている。何とか言うと、直ぐに本店の重役さんだ。
「ゴルフは面白いそうですね」
「安達さんもお始めになっちゃ如何いかが?」
「迚も/\、五十五円じゃ」
 と安達君は箸を取りながら首を縮めた。
「あなた、それがいけませんのよ。主人も申していました」
「何ですか?」
「直ぐに月給のことを仰有るから」
「成程、余り品が好くありませんね」
「吉川さんのように黙って澄ましていらっしゃれば、百円だか二百円だか分りませんわ」
「気をつけましょう。考えて見ると、お世話して下すったあなた方にも失礼に当ります」
「そんな意味で申上げたんじゃありませんけれど、あなたは少し正直過ぎますわ」
「僕も然う思っていたところです。人の言うことを直ぐ本気にするからいけません。保険へ入れられてしまいました」
「あらまあ!」
 と奥さんは驚いた。
「二人で来て計略を使ったものですから」
「お入りになるなら、◎◎の方へって、先刻さっきお願い申上げて置いたじゃございませんか?」
「然う言って断ったんですけど、つい乗ってしまったんです」
 と安達君は経緯いきさつを物語った。
「私、矢っ張り予感があったんですわ。それですから、それとなく御注意申上げたんですわ」
「済みません。全く」
「いゝえ、これが二万三万とかいうのなら、お断りして戴くんですけれど、千円で男が立つなら結構よ。今更仕方ありませんから、快く友情を尽して上げることですわ」
「千円でも五十五円の月給じゃ……」
「あら、又」
「口がすべりました。千円でも掛けるのにナカ/\骨が折れます」
「そこへ行くと、吉川さんはお悧巧ね」
「要領の好い奴です。迚もかないません」
「吉川さんや瀬戸さん、それに小宮さんは長年ながねんの御交際ですから安心ですけれど、しょうの分らない人は学校のお友達でも油断がなりませんよ。幾らお頼まれになっても、借用証書の連署丈けはお断り下さい」
「大丈夫です」
「いゝえ、あなたは正直過ぎますから」
 とこれが奥さんの見積りらしかった。
 食事が終っても、安達君は立たなかった。先刻縁談を勧められたところへ、吉川君と村上君が訪れたのだった。中断された話の続きがあるのだろうと思って期待していたが、奥さんは知らぬ顔でラジオにスイッチを入れた。丁度お昼のニュースだった。安達君はそれを聴き終っても立たなかった。
「奥さん」
「何あに?」
「先刻のお話の続きを伺いましょう」
「何でございましたか知ら?」
「もう忘れていらっしゃるんですか? 前途遼遠の問題ですよ」
「まあ。オホヽヽヽ」
「僕は矢っ張り人が好いんですね。彼方此方あっちこっちかつがれます」
「でも前途遼遠じゃ仕方がないでしょう」
「いや、相手次第で然う遼遠でもないんです」
「その辺が本音でございましょうね、先刻からナカ/\お立ちになりませんから」
悉皆すっかり足許を見られてしまいました」
「お言葉序に、橋本さんのお嬢さんをお頼み申上げますと仰有いません?」
「…………」
「何う? 安達さん」
「恐れ入りました。見込があるんですか?」
「ないこともありませんわ。私、お母さまとお親しく願っているんですから」
「あの人なら申分ないんですけれど、先方むこうは閣下の令嬢、此方は……」
「五十五円」
「ハッハヽヽ」
「あなたは矢っ張り引っ込み思案ね。お人柄ひとがらが好い丈けに」
「斯ういう性分だから仕方ありません」
「それじゃ御棄権なさいますの?」
「さあ。しかし立候補をして勝つ見込があるんですか?」
「勝つ見込って、あなた、相手を御存知?」
「相手があるんですか?」
「吉川さんよ」
「え?」
 と安達君は、飛び立つように両方の膝を叩いた。

九分一分のチャンス


 競争相手を吉川君と聞かされた安達君が未だ驚愕から回復しないうちに、女中が現われて、
「安達さん、瀬戸さんがお見えになりました」
 と取次いだ。どうも邪魔が入る。
「二階へ通して置いて下さい」
 と安達君は時に取って少し迷惑だったが、親友のことだから仕方がない。しかし直ぐに立とうとはしないで、
「奥さん」
 と声をひそめた。
「はあ」
「本当ですか?」
「こんなこと、御冗談は申上げませんわ」
「もう話が始まっているんでしょうか?」
「そこまでは伺いませんでしたけれど、昨日の朝、橋本さんの奥さんがお見えになって、吉川さんのことをお尋ねになりましたの」
「はゝあ」
「それとなくでしたけれど、学校の成績は如何でしたかとか、若いお方ですから矢張りカフェーへいらっしゃる組ですかとか、一種の御調査でございました」
「それじゃ申込んであるんでしょう?」
「然うかも知れませんね」
「駄目ですよ、もう」
「いゝえ、お諦めになることは、ございませんわ」
「今からでも申込めば、未だ見込があるんでしょうか?」
「ございますとも。あなたの方が御条件にかなっていらっしゃるんですから」
「何ういう条件ですか?」
「第一、成績の好いかたって御註文でございます」
「しかし卒業の席次は吉川君の方が上です」
「あら、あなたの方が上だと仰有ったじゃございませんか?」
「あれは奥さんが、上でしょうとお訊きになったから、大したこともありませんとお答えしたんです。無論実力では負けない積りですけれど、向方むこうは要領が好いから敵いません」
「あなたこそ要領が好いわ。私、今まであなたの方が上だとばかり思っていました」
「ハッハヽヽ」
「でも似たり寄ったりのところでございましょう?」
「はあ」
「私、普段ふだんからあなたのことを宣伝してありますの。その辺に手ぬかりはございませんわ」
「有難いです」
「昨日も吉川さんのことをあなたに比較を取りながらお答え致しました。それは安達さんほどのことはありませんけれどもって」
「はゝあ」
「カフェーへもチョク/\いらっしゃるようでございますわ。それは安達さんほどのことはありませんけれどもって」
「冗談じゃありませんよ」
「オホヽヽヽ」
「第二の条件は何ういうんですか?」
あとから御ゆっくり申上げましょう。瀬戸さんがお待ち兼ねよ」
「あゝ、然う/\」
「矢っ張り前途遼遠でございましたわね。お友達なんかお忘れになってしまうんですから」
 と奥さんが笑った。
 安達君は二階へ急いだ。平心を失っていたから、爪先を階段に蹴当てゝ、
「あゝ、痛い/\」
 と顔をしかめながら部屋へ入った。瀬戸君はその辺に散っていた保険会社の広告書類に目を通していた。
「やあ」
「失敬々々。お待たせしました」
「いや、一向。御無沙汰した」
「未だ痛い。これは生爪を起したかな?」
「何うしたんだい?」
「階段を蹴飛ばしたんだよ」
「ナカ/\大きいものを蹴るんだね」
 と瀬戸君は驚かない。
「何うだい? ところで」
「相変らずだ。君こそ、何うだい? 会社の方は」
「然う/\。勤め始めてから初めてだったね。万事順調だ」
「それは宜かった」
「この間は祝賀会を有難う。これで漸く身の振り方がついた。大いにやるよ」
「やり給え。君は会社員として特別有望だ」
「何故?」
「正直だから、誤魔化しってことがない。長い年月にはそれが分る」
「有難う」
「人間は矢っ張りどんやつが結局勝つものらしい」
いやな褒め方をするね。それでなくても今日は正直でひどい目に会ったところだ。君、僕は保険へ入れられてしまったよ」
「ふうむ」
「村上君が○○の勧誘をやっているんだ」
 と安達君は保険そのものよりもだまされたのが忌々いまいましかったので、その朝の一部始終を物語った。
「成程ね。応援団長と吉川君が組んで来たんじゃ敵わない」
たちが悪いよ」
何方どっちも君より役者が一枚上だ」
「君」
「何だい?」
「僕はそんなに鈍に見えるかい?」
「そんなにって、何んなに?」
「一目見てこれは鈍物どんぶつだ、と折紙がつくくらいに」
「さあ。それ程のこともないよ」
「それじゃ、何れ程のことがある?」
「おい、おこっちゃいけない」
「正直のところを言って貰おう」
「鈍といっても、鈍物の鈍じゃない。世の中は鈍、根、運だというだろう? その鈍さ。成功者の要素だよ」
 と瀬戸君は如才じょさいない。
「誤魔化したね」
「いや、人間はガッチリしたところがないといけない」
「吉川君と僕と較べたら何うだろう?」
「何が?」
「二人並べたら、僕の方が無論鈍に見えるだろうね」
「それは担ぐ奴と担がれる奴は違うだろう」
「君はよく知っているから、う思うんだろうが、知らない第三者が見たら、何うだろう?」
「馬鹿だな、君は」
「何だい?」
「又カフェーへ行って女給の争奪戦をやっているんだろう?」
「あれはもう諦めた」
「吉川君は軽い。君は重い。軽いのが上に浮いて、重いのが下に沈むのは当り前だろう」
「仕方がないかな?」
「性格だよ」
「学校の成績だって然うだぜ。試験の時は僕の方が教えてやるんだけれど、蓋を明けて見ると、吉川君の方がいつでも上になっている」
「しかし、二三番の違いだ。大した開きじゃない。君達のところは十一からげだ」
「大きく出やがった」
「ハッハヽヽ」
「負けない積りだけれど、吉川君は何うも苦手だよ」
「君達は仲が好い癖に、始終何か詰まらない経緯いきさつがあるんだね」
先方むこうから仕掛けて来るんだ」
「してやられるから恨み骨髄に徹しているんだろう?」
「うむ。それでいて喧嘩は決してしない。矢っ張り親友だから妙なものだ」
「その辺が君達の好いところだろう。ほかは何も取柄とりえはないけれど」
「敵わないな、これは」
「時に吉川君は在宅うちだろうか?」
「いるだろう」
「序に寄って行く。後から何うだい?」
「僕は先刻会ったばかりだ」
「宜いじゃないか。久しぶりで銀座へでもそう」
「今日は少し都合があるんだ」
「何だか変だね」
「正直のところを言うと、つらを見るのも癪に障る」
「又何か始まっているのかい?」
「僕を瞞して保険へ入れたからさ」
 と安達君は縁談のことを考えて込み上げて来たのだったが、表向きを取繕ったのである。
「君」
「何だい?」
「イヨ/\真剣な競争が始まったんじゃないか?」
「さあ」
「僕は先刻予感があった」
「何の?」
「こゝへ来る途中、橋本さんのうちの前を通った時、君達はもう競争を始めているんじゃなかろうかと思ったんだよ」
「実はそれさ」
「ふうむ」
「吉川君に先手せんてを打たれてしまった」
「ふうむ。吉川君はもう申込んだのかい?」
「然うらしいんだ」
「君は立ちおくれか?」
「一寸そんな形になってしまった。忌々いまいましくて仕方がない」
「道理で御機嫌が悪いと思った。しかしせんを越されたって、そのまゝ引っ込むんじゃあるまい?」
此方こっちも直ぐに手を廻す」
「驚いたね、これは。予感どころか、霊感だった」
 と瀬戸君は我ながら明察に感じ入ったように首をかしげた。しかし大したことはない。先頃まで近所に下宿していたから、この問題についても二人の関係を知っているのだった。
「何んなものだろうね? 実は今しがたこゝの奥さんから話を聞いて、周章狼狽しゅうしょうろうばいしたところだ。丁度そこへ君がやって来たんだよ」
「吉川君が申込んでいることは確実かい?」
「確実らしい。申込んで置いて知らん顔をしているんだから癪に障る」
「しかし報告する責任もないだろう」
「やる時には正々堂々とやろうって約束だった。それも自分が言ったんだぜ。あの頃からの予定の行動だったんだ」
「こゝの奥さんは何と言っているんだい?」
「詳しい話を聞く暇がなかったんだよ。君を待たせちゃ気の毒だと思って、梯子段を蹴飛ばす始末だったから」
「ふうむ」
「僕は就職の方が後れたし、五十五円ばかりじゃ、未だそんなことを考える資格がないと思って、つい遠慮していたものだから、悉皆出し抜かれてしまったんだよ」
 と安達君は最初から意思のあったことを権利のように主張した。
「君は矢っ張り正直ものだな」
「もう褒めなくても宜い。それよりも君の見込を聞きたいんだ。何んなものだろうね? チャンスは」
「さあね。五分と五分と言いたいところだけれど、四分六分だろう」
先方むこう先口せんくちだからかい?」
後口あとくちだって構わないけれど、こゝは元来吉川君の勢力範囲だからね」
「僕だって勢力範囲だよ」
「しかし吉川君はえ抜きだ。こゝにうちがあるんだからね。それから親の光が利く。鉄道省技師工学博士が利く。君だって郷里くにへ帰れば堂々たるものだろうけれど、こゝから北海道までは一寸目が届かない」
「余り堂々たるものでもないんだよ。それに僕は三男坊だから冷飯ひやめしだ」
「それもカウントに入るよ。吉川君は惣領そうりょうだからね。七分三分かな、これは」
「しかし惣領は係累けいるいがあるぜ。跡を取るから責任が重い」
「係累も財産が伴えば問題にならない。可なりあるだろう、吉川君のところは」
「うむ。初めから好いのらしい」
「無係累の腕一本なんてのは、本人が余っ程しっかりしていないと見込が立たない」
「おや/\」
「それに橋本さんは閣下だから、官吏の家庭に理解があるだろう。予備の海軍中将と鉄道省技師工学博士なら、似たり寄ったりのところだからね。釣合ってものが口をきく」
「心細いんだよ、此方はそこを考えると」
「君だって家は好いんだろう。地方の素封家そほうかなら博士以上だろうけれど、相手が軍人だからね。余程宣伝しなければ駄目だろう」
「宣伝するほどのこともないんだ。馬が何百頭も、山に飼ってあるけれど、そんなことを言えば、田舎漢いなかものって印象を与えるばかりだろう。それに一頭だって、僕のものになる見込はないんだ」
「これは君、何だぜ、八分二分の兼合かねあいかも知れないよ」
「ダン/\悪くなるんだね」
「人間そのものとしては今も言った通り、君と吉川君は十把一からげの部類だ。甲乙ないんだから、何うしても境遇が物を言う」
「結局八分二分か? 情ないな」
「遠慮のないところを言うと、もう少し下るんだ。内容は甲乙ないけれど、印象が違う。吉川君は君も認めている通り小才こさいが利く。君は何方どっちかと言うと……」
「鈍の方だろう?」
「憤るといけないから、最後の勝利を得る傾向に富んでいるとして置こう。しかしこの傾向は一寸見たんじゃ判らない。吉川君と君を並べて見ると、片や東京育ち、片や北海道生れということ丈けがいちじるしく目につく」
「よせよ、もう」
「これを計上すると、九分一分になる」
 と瀬戸君は無論冗談半分だった。
「それじゃ君は諦めろという忠告かい?」
「忠告じゃないよ。見込を訊かれたから、冷静に答えた丈けさ」
「何か妙案はないかね?」
「さあ。何方どっちも親友だから困る。僕は中立の態度を執る外仕方がないよ」
「それは然うだな」
「兎に角申込んだら宜いだろう」
「申込むとも。僕も意地だ」
「縁談ってものは矢っ張り縁だというからね。早い話が、こゝの主人公の大谷さんだ。見かけは決して好くないぜ。君の先輩丈けに矢っ張り最後の勝利者って傾向だけれど、奥さんは美人じゃないか?」
「ロマンスがあったんだよ」
「それだからさ。縁談には番狂わせってことがある。君だって案外かも知れないよ」
「もう沢山だ。君と話していると自信がなくなってしまう」
 と安達君はむずかしい顔をした。
 大谷夫人が上って来た。安達君の仲間はこの奥さんを有閑マダムと呼んでいる。しかし悪い意味ではない。奥さんが綺麗だから、然う言ってからかうのである。奥さんは真面目になって否定する。但し子供がなくて閑だから客を歓ぶことは事実だ。自分も好んで出歩く。学生時代に安達君の部屋が集会所の観を呈したのも奥さんの親切がなかしからしめたのである。
「瀬戸さん、ようこそ」
「御無沙汰申上げました」
悉皆すっかりお見限りでございますわね」
「忙しいものですから、つい」
「島さんのところお変りございませんか?」
「皆元気です」
「一寸美談でございますわね、下宿人ぐるみお引っ越しなんて」
「子供達が懐いているものですから」
「矢っ張り教育家は何処か違いますわ」
「何う致しまして」
「瀬戸さん丈けは模範的よ。私、安達さんにも始終然う申上げていますの」
 と奥さんは必ずしもお世辞でなかった。安達君の仲間では瀬戸君が一番勉強家で一番優秀だったから、お説法の引き合いに度々使ったのである。
「実際此奴こいつは少し違います。吉川君や小宮君に較べると、矢っ張り兄貴です」
 と安達君はもう機嫌を直して調子を合せた。
「評判が好いね」
「これで口が悪くないと、立派な人格者だけれど」
「何か条件がつくと思っていたよ」
「ハッハヽヽ」
「吉川さんと何方どっちでございましょう?」
 と奥さんもそれは認めていた。
い相撲ですよ」
「本当ね」
「矢っ張り瀬戸君の方が一枚上かも知れませんよ。辛辣しんらつですからね」
「然う仰有るあなただって相応のものよ」
「これは二人の感化を受けたんです」
「小宮さんね、一番無邪気なのは」
「無邪気なこともないでしょう。こゝへ来て問題を起すくらい見せつけるんですから」
「当てられましたわね」
「小宮君が従妹いとこをつれてやって来たのかい?」
 と瀬戸君が絶大の興味を示した。
「うむ。奥さんに見せに来たんだよ」
「僕も見たかったな。シャンかい?」
「素晴らしいんだ。あれじゃ、献身的になる筈だ」
「一つ探検に行くかな?」
「お供しても宜い。しかし覚悟が必要だよ」
「気つけ薬をもって行く」
「奥さん」
 と正直な安達君は小宮君の許嫁から縁談を思い出した。
「まあ! 大きなお声ね」
「つい興奮したんです。僕、今瀬戸君の鑑定を求めましたが、僕は落第らしいです」
「何が落第?」
「橋本さんの方です」
「あら! お話し申上げましたの?」
「はあ。見込がないから諦めろと言わないばかりです」
「私が申上げた通りでしょう? お諦めになる方が宜うございますわ。もう吉川さんの方のお話が進んでいるんですから」
 と奥さんは言葉の切れ目毎に目使いをした。問題に触れるなという打ち合せだった。安達君は直ぐに口をつぐんだが、瀬戸君は乗り出し気味になって、
「吉川君の方は、そんなに進んでいるんですか?」
 と訊いた。
「詳しいことは存じませんが、何うもうらしいんでございます」
仲人なこうどは何ういう方面でしょうか?」
「それも存じませんの」
「吉川君に先鞭をつけられてしまったんじゃ安達君が可哀そうです。僕は両方の親友ですから、何方ってこともありませんが、公平上安達君にも何とか手段を講じてやりたいです」
「安達さんには私、もっと好いのをお世話して上げますわ」
「お心当りがおありですか?」
「はあ」
「羨ましいですな」
「あなたにもお世話申上げましょうか?」
「何うぞ」
「本当?」
「はあ」
「何とか仰有って、もうお心当りがおありでしょう」
此方こっちから丈けなら、ないこともありませんが、相手になってくれません。僕はロマンスで行きたいと思っていますから、少し註文が無理です」
「その中にございましょう」
「奥さん、一つ奥さんのロマンスをお聞かせ下さいませんか?」
いやね。まあ! そんなもの生憎あいにくと持ち合せがございませんわ」
「いや、うから聞き込んでいるんです」
「私達のは見合結婚で平凡この上なしよ。第一ロマンスなんて柄じゃございませんわ」
「巧く仰有っています。何うぞ」
「オホヽヽヽ。もう退散。失礼申上げました。何うぞ御ゆっくり」
 と奥さんは手際よく逃げ去った。未だ若くて美しい積りでいるから、自然若いものと対等になってしまう。有閑マダムの称も、その辺に胚胎はいたいしている。

実は三人三つ巴


 安達君は結局、瀬戸君の誘い出すところとなった。しかし吉川君のうちへでなく、小宮君の店へだった。個人商店だから、日曜も休まないと聞いた。尚お家が店だから、忙しくない時は普段だって休んでいるのも同じことだと言っていた。
「電話をかけて置こうか?」
「いや奇襲の方が面白い」
 とあって、直ぐに出かけたが、失望が二人を待っていた。許嫁のモダン・ボーイと、モダン・ガールがこんな明朗な小春日和の日曜に家にくすぶっている筈はない。小店員が取次に現われて、
「若旦那さまはお店の御用でドライブにお出掛けになりました」
 と言った。瀬戸君は安達君の名刺まで徴発して、
「探検訪問」
 と書いて置いて来た。
「お店の御用でドライブとは如何にも小宮式だね」
「宜しくやっているんだ」
「一緒だろうね」
「無論さ」
「あゝいうのが事故を起すんだよ」
「何故」
「直ぐ背後うしろ恋愛場面ラブシーンが発展していると思うから、余程精神修養の積んだ運転手でないと、注意が散漫になる」
「成程」
「鏡の中を気にしているに、ドカンとやるんだ」
「危い/\」
「ところで何うする?」
「矢っ張り電話をかけると宜かったんだ」
 と安達君は然う発起した丈けに今更軽率を悔んだ。
 三越が近かったので、二人は寄って見た。何も買物はない。彼方此方ブラ/\歩いている中に絵の展覧会場へ出た。何方も興味はないけれど、退屈凌ぎに見物した。瀬戸君は年嵩としかさの紳士に出会って、ペコ/\頭を下げた後、安達君のところへ寄って来て、
「安達君、教頭に取っ捉まってしまった。一緒にお茶を飲もうと言うから、僕はこれで失敬する。さよなら」
 とひとめに定めて行ってしまった。安達君はこの時初めて瀬戸君を当てにならない男だと思った。長い交際だけれど、こんなことは今までなかった。小宮君が不在でも、日本橋くんだりまで引っ張り出した以上は行動を共にするのが当り前だ。電話をかけさせなかった責任も感じないで、弊履へいりを棄てるようにして後も振り向かない。全然自己本位だから、甚だ不愉快だった。しかし間もなく同情的に考え直した。もうお互に学生ではない。勤めが大切だ。自分にしても、し会社の上役うわやくに会って誘われゝば、矢張り同じような態度を取るかも知れないと思って、宥恕ゆうじょすることに努めた。
 安達君の薄曇った心持は、エレベーターの前で急に晴れ渡った。下りようと思っていたら、上って来たエレベーターの中から橋本さんの佳子よしこさんとその弟のたすく君が現われたのである。
「やあ、安達さんだ」
 と弼君が挙手の礼をした。それよりも嬉しかったのは佳子さんの方が先に認めていさぎよくお辞儀をしてくれたことだった。人の心持は咄嗟に顔を合せて取繕う暇のない時によく分る。エレベーターが好い役をしてくれたのである。尤も安達君は然うまで深く考える余裕がなかった。唯満足に感じた。
「お一人?」
 と佳子さんは周囲あたりを見廻した。
「はあ。お買物ですか?」
「弼にねだられまして」
「僕はもう帰るんです」
「それでは」
「安達さん、来ました」
 と弼君は親切の積りで下りのエレベーターを指さした。丁度着いたところだったから否応ない。
「さよなら」
 と一礼して、安達君は乗りこんでしまった。もっと話せたのに馬鹿なことをしたと思った。訊かれもしないのに、もう帰りますなんて宣言する必要はなかったと気がついた。弼君は中学生だからわきまえがない。便宜を計ってくれた積りだ。可笑おかしくなってしまう。もう一遍五階まで上って、ブラついて見ようか? いや、もう帰りますと言っている。実際斯ういうところで方針を発表するものでない。
「あなた、地下室でございますよ」
 とエレベーター・ガールが注意してくれた。
 安達君は心気とみに回復した。外へ出たら、秋の空が高かった。日本橋から麻布の狸穴まみあなまで、電車の中も佳子さんのことを思い続けた。瀬戸君も瀬戸君の主張した九分一分の見込も何処かへ飛んでしまった。考えて見ると、佳子さんが目につき始めたのは三年ばかり前からだった。橋本家は大谷家に近い。安達君は弼君がボールをやっているところへ行ってお相手を勤めた。その中に弼君の方から誘いに来た。そこへ吉川君が加わった。往来でやってはならんとおまわりさんに叱られたことがある。弼君は当時中学校へ入ったばかりでえらくなった積りだったから、大学生と遊ぶのを喜んだ。安達君のところへやって来て、
「タスクとは何う書く?」
 と訊いた。安達君がたすくと書いたら、そんな変な字じゃないと言って、たすくという字を教えた。安達君はその次に試験をされた時、直ぐに書けなかったものだから、
「頭が悪いんですね」
 と極めつけられた。弼君が佳子さんへのっかけだった。行き会うとお辞儀をするようになった。安達君と吉川君は期せずして弼君の御機嫌を取ることに一致した。去年あたりは切符を工面して、弼君を早慶戦見物につれて行った。
「姉さんも行きたいんですって。野球大好きですから」
 と弼君が言った。これは佳子さんが弼君を通して意思を発表したのである。
 安達君が帰り着くと、奥さんは待っていたようにお茶の間へ呼び込んだ。
「小宮さんはお留守でございましたの?」
「はあ。馬鹿を見ました」
「御苦労さまね。瀬戸さんは?」
「三越で別れて来ました」
「先刻の続きを申上げましょうか?」
「何うぞ」
 と安達君は端坐した。
「ニコ/\なさって、現金ね」
とても好いことがあったんです。三越で佳子さんに会いましたよ」
「まあ!」
「弼さんと一緒でした」
「お言葉を賜わりまして?」
「はあ」
「好い幸先さいさきですわ」
「僕も然う思っています」
「けれども、あなた、瀬戸さんにこのお話、申上げちゃ駄目よ」
「何故ですか?」
「就職問題とは違いますから、少し目鼻のつくまでは誰にも秘密にして置く方がうございますよ」
「それは分っていますけれど、瀬戸君は兄貴分ですから、相談して見たんです。何か好い分別があるかと思って」
「正直ね、あなたって人は。私、硝子の中の熱帯魚を見ると、いつもあなたを思い出しますのよ」
「僕、あんなグロテスクなものに似ているんですか?」
「お顔じゃございませんわ。おなかの中が透き通って見えますから」
「ハッハヽヽ」
「私なら、この際瀬戸さんに警戒してかゝりますわ」
「敵に内通するおそれがあるんですか?」
「それだから駄目よ、あなたは。瀬戸さんだって、ついこの間までこの辺にいらっしゃったんですから、思召しがないとも限りませんよ」
「瀬戸君は大丈夫です」
「それが御油断ですわ」
「瀬戸君は勉強一方です。学位を取る積りですから、僕達と違って、女性に興味を持っていません」
「持っていない事があるもんですか? 日本橋まで探検にお出掛けになったじゃございませんか?」
「あれは冗談です」
「シャンかいってお訊きになった時なんか、猛獣が飛びかゝるような勢いでしたわ」
「成程」
「私、目つきで、然ういう心持の人が分りますわ。私の顔を始終、ジロ/\見るのは瀬戸さんよ」
 と奥さんは自負心が強い。
「しかし、まさか申込む料簡じゃないでしょう」
「何とも申されませんわ。斯ういう問題には何んなところから何んな人が飛び出して来るか知れませんから」
「奥さんは御経験があるんでしょう?」
「御冗談じゃございませんよ。安達さん」
「失礼申上げました」
「あなたがお打ち明けになった時、瀬戸さんは何んな態度をなさいましたの?」
先方むこうから察して、図星ずぼしを指したんです」
「御覧なさい。探偵にお出になったんですわ」
「さあ」
「何と仰有って?」
「吉川君に先鞭をつけられた事を話しました」
「いゝえ、瀬戸さんよ」
「見込がない、と言うんです。九分一分ですって」
「瀬戸さんは屹度きっとお申込みになりますよ。吉川さんの仲人のことをお訊きになったでしょう?」
「はあ」
「気のない人がそんな立ち入った詮索せんさくをなさる筈はございませんわ」
「然うですね」
「私、吉川さんよりも瀬戸さんの方が強敵だと思いますわ。成績がお宜しい上に、お父さんが官吏で可なり上の方でございましょう?」
「○○県の内務部長です。今度栄転すれば知事だと言っていました」
「御家庭は吉川さんぐらいにしても、学位が取れて大学の先生になる見込があるんですから、グッと違って参りますわ」
「僕なんかもう駄目です。家の財産は馬ばかりです」
「あなたのところだって悪いことはございませんわ。しかし何分遠い北海道ですから」
「瀬戸君もそんなことを言っていました」
「困ったものね。私、ひょっとして、あなたが申上げるといけないと思って※(二の字点、1-2-22)わざわざ上って参りましたのよ」
「それなら然うと、早く仰有って下されば宜かったんです」
「だってお話途中だったじゃございませんか」
「今までカウントに入れなかったが、此奴は大敵だ」
「本当よ」
「彼奴はやるとなれば、何んなことでもし兼ねません。実は今日少し呆れたんです」
 と安達君は思い当るところがあった。油断のならない世の中だ。安達君は一朝にして二人の親友を二人の敵手と認めなければならないことになった。

競争は競争、友情は友情


「拝啓。天高く馬肥ゆるの候、御両親様には益※(二の字点、1-2-22)御清福奉賀候。降って小生入社以来無事勤務罷在候間、御安神被下度候。さて、突然ながら、今回好き縁談有之候間、御相談申上候。先方は海軍中将従四位勲二等功四級橋本尚信氏の三女にて、身分は申分無之候。仲人は大谷御夫婦に御座候。小生としては未だ急ぐことも無之候が頻りにお勧め被下候為め、何うせ貰うものに候間、定めて置くも宜しくと考え、一存ながら諾意を表し置き申候。東京にて生活するには矢張り東京の人が宜しく候。会社員の成功は一つに交際により申候間、好き内助を得ることが肝要に御座候。これは大谷氏の家庭を見ても分り申候。御両親に於ても何卒御同意の上、改めて大谷御夫婦へ、御依頼被下度お願い申上候。云々」
 安達君は両親に丈けは必ず候文でしたためる。口語体で書いたこともあったが、経験上候文を適当と考えた。元来両親には金の請求以外に余り用がない。外套がボロ/\になって見すぼらしいですから金四十円至急送って下さいと書いてやったら、学生には虚構きょこうを申送りて家郷より遊蕩費を徴発する向き往々にして有之候と言って断って来た。兄貴がだましたものだから、僕までが疑われる。折り返して、外套全く使用に堪えず、新調の上は御参考の為め洋服屋の受取証御覧に入れ可申候間何卒お願い申上候と認めてやったら、今度は直ぐに送って寄越よこした。それ以来候文の方が成功することを覚えたのである。
 外套どころではない。一生の大事だから、故障を言われては困る。「何れ詳しきことは大谷氏より御音信有之ことゝ存申候。先は右まで、早々頓首」
「奥さん、斯う書いて出しますから、明日にも申込んで下さい」
 と安達君は手紙を見せた。
「これは少し違っていますわね。私達、お勧めなんかしませんわ」
「お勧めになったじゃありませんか? 奥さんの方から仰有ったんですもの」
「申上げたには相違ありませんけれど、これじゃ全然私達の責任になってしまいますわ」
「責任を負って下さい。お願いです」
「縁談有之でなくて、これからこしらえるのよ」
「そこを宜しく」
「私、あなたにけを取らせたくないと思って一生懸命になっているんですけれど、必ず貰えるって保証は致しませんよ」
「はあ」
さきさまに何んな御都合があるかも知れませんし、有力な競争者が二人もいるんでございますから」
「人事を尽して天命をちます」
「間違っても決して私をお恨みになりませんね?」
「はあ。大丈夫です」
「それじゃ御返事が参り次第、私、橋本さんへお伺い致しますわ」
「返事は来るにまっているんです。うちから然ういう依頼があったと仰有ったじゃありませんか?」
「でも具体的のお話は別よ。念を入れてかゝらなければ」
「気が長いんですね」
「小生としては、まだ急ぐことも無之候ってのは如何?」
「相手さえなければ落ちついていられるんですけれど、出し抜かれているんですからね。し手間を取る為めいけなくなるようなら、奥さんの罪です」
「まあ/\」
「兎に角、明日申込んで下さい」
「お家の御承諾がなければ駄目よ。私、主人に叱られますわ」
 と奥さんは慎重の態度を取った。
 安達君はその翌晩、吉川君のところへ偵察ながら行って見ようかと思いついたが、不愉快が先立って差控えた。出し抜いた奴の家へ此方からノメ/\出掛けるのは人が好過ぎる。自分はこれだから馬鹿にされるのだ。先方むこうから来るのを待っていて突っ込んでやろう。寸鉄相手の胸を刺し貫くような警句はなかろうかと、種々考えている中に興奮して来て、自分の胸がドキ/\した。これは何うしても喧嘩になる。しかし構わない。
「安達さん、小宮さんから、お電話でございます」
 と女中が取次いだ。出て見たら、昨日は不在で失礼したというお詫びの後から、一度諸君を家へ招待したいというのだった。
「何うだい?」
「結構だ」
「若子さんを紹介したいんだ」
「それはもう済んでいる」
「いや、瀬戸君にはまだ会っていない。君達だって一寸会ったばかりだから、真価は分っていないんだろう?」
「シンカ?」
「本当の値打さ」
「へゝえ」
「若子さんも君達と話したいんだ。僕が君達のことばかり言うものだから、君達はとても信用があるんだよ」
「有難う」
「ついては何もございませんけれども、ってことになったんだ。明後日夕刻四時頃から来てくれ給え。大祭日だから宜いだろう?」
「うむ」
「若子さんが料理に腕を揮う」
「吉川君も行くのかい?」
「無論来て貰う。君と吉川君と瀬戸君だ」
「よし」
「吉川君には今かけたところだ。君の方がお話中だったから」
「ふうむ」
「明後日の夕刻四時だよ」
「分ったよ」
「それじゃ失礼」
「さよなら」
「おい」
「何だい?」
「忘れものがあるだろう?」
「さあ」
「若子さんに宜しくって」
「うむ。宜しく言ってくれ」
「ハッハヽヽ」
「失敬」
「おい」
「何だい?」
「矢っ張り吉川君の方が君よりも気が利いている。催促されない中に、若子さんに宜しくと言ったよ。君は落第だ」
「…………」
 君は落第だよの一言が時に取って安達君にひどくいた。瀬戸君も殆んどそれに近いことを言った。もっともこれはゆがんだレンズから見ているのだが、小宮君に至っては無私公平だ。為めにするところがっともない。
「安達君」
 と大谷さんが書斎から呼び止めた。電話はお茶の間にある。
「はあ」
「少し話していらっしゃい」
「お邪魔じゃございませんか?」
 と安達君は入って行った。奥さんには遠慮がないけれど、主人は窮屈だ。
「一向。お掛けなさい」
「はあ」
「家内から聞きましたが、妙な競争が始まるんだそうですね?」
「さあ」
「何んなものでしょうな? 親友同志」
「仕方がないんです」
何方どっちが勝っても具合の悪いものですよ。僕の友達にも然ういう例がありました」
「はゝあ」
「親友でしたが、以来仲違いです。詰まらないじゃありませんか?」
「…………」
「候補者は探せばほかに幾らもあるんですから、もっと広く求めたら何うでしょうか?」
「さあ」
「危険を冒す必要はないです」
「僕も意地ですから」
「困ったものだな」
「競争は競争、友情は友情でしょう。何とか折合をつけます」
「しかし実際はナカ/\然う行かないんです。折合のつくような君子人同志くんしじんどうしなら、初めから争いません」
「…………」
「安達君、よく、考えて見なければいけませんよ」
「はあ」
「親友が二人出来るか、敵が二人出来るかという問題です。競争さえしなければ、吉川君はいつまでも親友です。親友の奥さんは矢っ張り親友でしょう?」
「はあ」
「それを親友が敵になって、思う人がその敵について行ってしまうんですから、此方こっちは目も当てられません」
「…………」
落胆がっかりしてしまって、会社の仕事も手につかないようになります。出世にまで関係して来ますよ」
「はあ」
「親友を失う上に自信力がなくなるんです。これが大きいですよ。折角好いスタートを切ったのに、惜しいじゃありませんか?」
 と大谷さんは、負けた場合ばかり想像している。此方が勝つとは決して思わないのらしい。安達君はにがり切ってしまった。そこへ奥さんが、
「安達さん、吉川さんが、お見えになりましたよ」
 とお茶の間から取次いだ。
 引き退るに好い切っかけだった。安達君は玄関へ行ったが、吉川君はもう二階へ上っているのだった。
「何うだい?」
「何うでもないよ」
「小宮君から電話がかゝって来たろう?」
「来た」
「行くかい?」
「行く」
 と安達君は一々無愛想に答えた。
「ところで誘惑に来たんだ。何うだい? これから銀座へ附き合わないか?」
いやだ」
「何故?」
「そんな心持になれない」
「御機嫌が悪いのか?」
「当り前だ」
「おや/\。さてはこの男、もう感づいているんだな」
「僕を盲目めくらだと思っているのか?」
「恐れ入った。実は君に話して諒解を得たいことがあるんだ。飲みながらと思ったが、こゝでも宜い」
 と吉川君は銀座を諦めて落ちついた。安達君の頭の中には今しがた考えた警句が渦を巻いていた。
「眉毛に唾をつけて聞こう」
「僕もこれで良心があるんだ」
「少し麻痺しているけれどもね」
「お察しの通り、橋本さんの一件だよ。急に縁談が始まったんだ」
「始まったのか? 始めたのか?」
「この間第三者を介して、話があったものだから」
何方どっちへあったんだ? 君の方へか? 先方へか?」
「詮議が厳しいんだね。仕方がない。僕の方から先方へだよ」
「見ろ。自分で申込んで置いて、申込まれたように嘘をつく」
「つきはしない。つこうと思ったが、考え直したんだ」
「斯ういうのが掻っ払いをやるんだろう」
 と安達君は、用意していた丈けに隙がなかった。
「君もナカ/\達者になったね」
「好い師匠がついているからだ」
「これは迚も敵わない」
「お世辞を使って誤魔化しても駄目だ。あの問題はお互に正々堂々という約束だったじゃないか?」
「それだから報告に来たんだよ」
「先にスタートを切るのが正々堂々か?」
「二日や三日は仕方がないだろう。まさか二人揃って申込みにも行けまい」
「兎に角、あらかじめ話すのが本当だろう?」
「慌てゝしまって、その余裕がなかったんだ。君」
「何だ?」
「瀬戸君が申込んでいるんだ」
「え?」
「丸尾夫人が聞き込んで来て母に話したものだから、足許から鳥が立つように驚いて、僕も申込んで貰ったんだ」
「呆れた奴だな、瀬戸は」
「君はっとも気がつかなかったのかい?」
「いや、昨日やって来たんだよ。あれは矢っ張り様子を見に来たのかも知れない」
「昨日何時頃?」
「昼からだ」
「こゝまで来て、僕のところへ寄らないのが変だ。偵察だろう、屹度」
 と吉川君は頻りに首を傾げた。
「もう始まっているんだろうって、僕に訊くんだ。それから話している中に、種々いろいろと変なことを言うんだ。それだものだから、何うも此奴怪しいと睨んだんだけれど、申込んでいるとは思わなかった」
「何んなことを言ったんだい?」
「探りを入れて頻りに訊くんだ。それだものだから、気のあることが分ったんだ」
 とこの辺、安達君は多少取繕って話す必要があった。
「ハッハヽヽ」
「何だい?」
「眉毛に唾をつける」
「何故?」
「君は矢っ張り正直だ。嘘をつく時にはいつも『それだものだから』と前置をつける」
「嘘なんかつくものか? 君とは違う」
「こゝの奥さんに偵察して貰って置いて自分の手柄にしているんだ」
 と吉川君は当らずと雖も遠くなかった。
「然う思うなら、うして置き給え」
「僕さえ気がつかなかったんだもの。僕は瀬戸君丈けは勉強一方の学究だと思っていた」
やつはいつ申込んだんだい?」
「最近らしい」
「仲人は?」
「それも分らないが、奴のことだから、無論有力者を使っているに相違ない」
「君は丸尾夫人かい?」
「うむ。もう種明しをしてしまったんだから仕方がない。君はこゝの奥さんだろう?」
「然うだ」
「何かの因縁だろうね、これは。仲人同志が目の敵だ」
「成程、悪く出来ている」
「しかしお互は公明正大に行きたいものだ」
「出し抜いて置いてね」
「そんな卑怯な料簡はないんだよ。母が丸尾夫人に形勢視察を頼んで置いたんだから、母と丸尾夫人の交渉だろう。それを一々君に報告するにも及ばないと思って、無断でやったんだ。しかし、斯うやってチャンと領解を求めに来ている」
「勘弁してやる」
「君はもう申込んだのか?」
「これからだ。君と喧嘩になっても仕方がない」
「僕も仕方がないけれど、喧嘩はよそうよ」
「何故?」
「万事佳子さんの意思と橋本家の都合で定るんだから、僕に責任は些っともない。僕を恨むのは間違っている」
「君を恨むって、君は勝つ積りか?」
「無論さ」
「生意気なことを言うな」
「その態度が間違っている。君だって勝つ積りでやれば宜いんだ。初めから負ける積りでやる奴があるものか?」
「よし」
「僕はこの辺もよく話し合いをつけて置きたいと思うんだ。仮りに君が勝っても、僕は君を恨まない。君の責任でなくて、単にういう廻り合せなんだから」
「分っているよ。競争は競争、友情は友情ってことにしよう」
「もう一つ何うだい? 分り序にもう一歩進んで貰えまいか?」
「何うするんだい?」
「棄権するのさ。競争がなくなって、友情ばかりになる」
「それは妙案だね。君、一つやってくれ給え」
「仕方がないかな?」
「仕方がない」
「斯うなると一番太いのは瀬戸君だよ」
「うむ。出し抜いて知らん顔をしている」
「知らん顔をしていて出し抜いたんだ。今となって見ると予定の行動だったんだ。頭が好いだけにたくみが深い」
「明後日会ったら面皮めんぴを剥いでやる」
「いや、黙って見ている方が面白いよ。此方がまだ知らないと思っているから、種々と芸当をする。目に余ったら僕が突っ込む」
「僕も突っ込む」
「僕は可なり策士の積りでいたけれど、上には上がある」
「本当だ。二人に出し抜かれたんだから、僕は矢っ張り一番正直者だろう」
 と安達君は自ら認めていた。

仲人同志の美人競争


 吉川君は尚お少時しばらく話し込んで辞し去った。それを待っていたように、大谷夫人が上って来た。
「安達さん、私、主人に叱られてしまいましたわ」
「はゝあ」
「主人は、私が余計なことをお勧めでもしたように考えているんでございます」
「先刻お話がありましたが、御反対のようですね」
「吉川さんと競争にさえならなければ、纒めて差上げるのが本当ですけれど、見す/\……」
「見す/\僕が負けるんですか?」
「何うやら主人はう思っているらしいんでございます」
「十目の見るところ、これは諦めものでしょうか?」
「何しろ先口せんくちですし、お家がレッキとしていますから……」
「はゝあ」
「と申すんでございます。何方どっちがお勝ちになっても、仲違いですわね」
「そんなことはない積りです。今もそれを話し合って、理解をつけたんです」
「万が一、あなたがお負けになれば、私達、あなたの保証人としてお家へ申訳が立たないと主人は斯う申すのでございます」
「それは廻り合せで仕方ないでしょう」
「あなたは然うアッサリとお諦めがつきますの?」
「はあ」
「そのくらいなら、橋本さんの佳子よしこさんってもの、初めからない人と思えませんか?」
「…………」
「私、かねの草鞋を穿いても、もっと綺麗な人を探して上げますわ」
「奥さんまで僕を見放すんですか?」
「然うじゃありませんけれど、御相談よ」
「急にお話が違って来ました」
「お力には何処までもなって差上げたいんですけれど、これはおいさめして今のうちに思い止まって戴く方が宜かろうと主人が申すのでございます」
 と奥さんはその次第わけの説明が長かった。安達君のところでは長兄が某私立大学へ入ると間もなく金を使い始めて、半途退学の余儀なきに至った。これは遠くへ出さないに限るとあって、次兄は中学校丈けで満足しなければならなかった。安達君の東京遊学は大谷さんという厳格な監督者があったからだった。大谷さん夫婦はクレ/″\も頼まれている。安達君は幸い学校を無事に卒業して就職戦線を突破したけれど、こゝで競争のある縁談にたずさわって万一失敗すれば、自暴自棄に陥るかも知れない。折角今まで順調に進んで来たのである。側についていて然ういう危険を冒させたくないというのが責任感の強い大谷さんの主張だった。
「…………」
「佳子さんよりももっと好い人を貰って、吉川さんを見返して上げることも出来ましょう?」
「宜いです、もう。お為めごかしになさるなら」
 と安達君は思いつめているから、人の親切が分らない。
「おおこりになっちゃ駄目よ」
「今の今まで奥さんを相談相手だと思っていたんです」
「困りますわ、私、間に挾まって」
「僕は男が立ちません。正々堂々の競争をしようと吉川君に言い切ったばかりです」
「譲歩して恩に着て戴く法もありますわ」
「いや、譲歩すれば敵わないからだと思います。吉川君は何処までも僕を見括みくびっているんですから」
「吉川さんはもうお申込みになったと仰有いましたか?」
「はあ。仲人は丸尾夫人です」
「まあ!」
 と奥さんは顔色が変った。
「有力ですよ、あの奥さんなら」
「…………」
此方こっちは見放されてしまったんですから」
「見放すなんてことはありませんわ」
「宜いです、もう」
 と安達君は投げるように言って腕組をした。決して宜いのではない。
 その界隈かいわいで一番綺麗な奥さんは大谷夫人か丸尾夫人かという評判だ。何方も自信が強い。そうして事実評判を裏書する丈けのことがあるから、互角の競争になっている。丸尾夫人は大蔵省の高等官の奥さんだ。大谷夫人よりも二つ三つ若い。しかし美人の年というものは本当のところが分らない。五つも六つも若いように吹聴ふいちょうしている大谷夫人は、年の多い丈けが自分の方がけ目だと思っている。他の点では決して負けない積りだ。高等官と支店長なら主人の格式も似たり寄ったりだろう。何方も子供がないから自己奉仕以外にこれという屈託がない。或日二人は偶然三越で落ち合った。大谷夫人が着物のがらを吟味しながら、不図ふと気がつくと、丸尾夫人が直ぐ側に立っていた。表向きは素より清い交際である。
「あらまあ! 奥さま」
「まあ/\」
「お気に召したものがございましたら、何うぞお沢山に」
「有難うございます。オホヽヽヽ」
「奥さま、これ私に何うでございましょう?」
 と大谷夫人は見ていた品物を肩に当てゝ批判を求めた。
「さあ」
「好い柄でございましょう?」
「柄そのものは結構でございますけれど、何ぼ何でも少し何でございましょう」
「何でございますの?」
「お派手でございましょう」
 と丸尾夫人は平気で答えた。大谷夫人はこの恨みを忘れない。あんな礼儀作法を知らない人はないと言っている。以前は大谷夫人の独り舞台だったが、三年ばかり前に丸尾家が地方から吉川君の隣りへ越して来たのである。吉川君のところの借家だ。大谷夫人は吉川家へ伺った時奥さんから丸尾夫人に紹介された。その折の印象が悪かった。丸尾夫人は吉川夫人との話の中に、
「地方は土地が狭うございますから、勢い民間の人達とも交際しなければなりません。それがつろうございました」
 と述懐したそうである。銀行は民間だ。大谷夫人はひどく侮辱されたように感じた。その後間もなく大谷さんが、
「今そこで大変綺麗な奥さんに会ったが、何処の人だね? この間も見かけた」
 と問題にした。
「お目に留まりましたの?」
「うむ」
「丸尾さんといって、民間の嫌いな奥さんよ」
「えゝ?」
「高等官夫人ですわ。吉川さんの借家へ越してお出になりました」
「兎に角、綺麗な人だ」
「あなた、そんなことで支店長の締めくくりがおつきになりますか?」
 と大谷夫人は見当違いをしている。銀行は金融機関だ。
 その丸尾夫人が吉川君の仲人を買って出たと聞いては引っ込めない。現にその為め安達君が目の前で泣きそうになっている。女にも侠気おとこぎがある。
「安達さん」
「…………」
「安達さん、私、お引受け致しますわ」
「はゝあ」
「主人も見込さえあれば反対は致しません。主人を説いてかゝります」
「何うぞお願い申上げます」
「おうちからお手紙が着き次第、橋本さんへ伺います」
「僕、失敗しても決して自暴自棄なんかに陥りません」
「成功しますわ。これは是が非でも勝たなければなりません」
「無論勝ちたいんですけれど」
「勝ちましょう。私、何んなことがあっても負けません」
 と奥さんは諫めに来たのだったが、又悉皆頼もしくなった。

狸穴四人組


 翌々日の夕刻四時に、安達君と吉川君と連れ立って、小宮君を訪れた。その途中、
「君、瀬戸君はこの間、橋本さんへ寄ったんだよ」
 と吉川君が言った。
「ふうむ」
「もう交際が始まっているんだ」
「何うしてそれが分る?」
先刻さっきたすくさんから聞いた。ギャフンと参ったよ。此方は全然出し抜かれているんだ」
「ふうむ」
「余っ程有力なところから行っているんだよ。尤も交際でめる方針らしい。姉さん達二人も然うだったという話だから」
「それなら君のところへも何とか沙汰がありそうなものじゃないか?」
「待っているんだけれども」
「会社の申込のように成績の条件がきまっているんじゃなかろうか? 君がいけないようなら、僕も当然落第だ」
 と安達君は大谷夫人から聞いた条件の第一を思い出した。
「これはもう余程前に申込んだに相違ない」
「全く知らなかったんだから、此方は念が入っている」
「結果から言えば、此方は無論大間抜けだけれど、要するに奴を信じていたんだ。癖になるから、これは一つやっつけて置く必要があるよ」
「撲るのかい?」
「いや、腕力は用いない。此方も大切のところだからね」
「突っ込むのか?」
「うむ。何とか挨拶のあるのが当り前だ。僕達の競争を知っていて出し抜いたんだから」
 と吉川君は大分興奮していた。
 小宮君と若子さんが二人を迎えた。小宮君その日の目的は先頃婚約を祝って貰ったお礼返しの招待だけれど、同時に若子さんを見せつけることにある。二人もそれは覚悟の上だった。
「お手軟てやわらかに頼むぜ」
「何を?」
「ハッハヽヽ」
「分らないな」
「オホヽヽヽ」
 と若子さんは些っとも含羞はにかまない。朗らか一方の人だ。小宮君も明るい性格だから、申分のない家庭が出来る。
 早速話し込んだところへ、瀬戸君がやって来た。
「安達君、この間は失敬した」
「もう君にはウッカリ附き合わないよ」
「何故?」
「日本橋まで引っ張り出して置いて、はい、さよならと来る」
「それだから失敬したと言っている」
「もっとあるだろう? 大いに失敬していることが」
 と安達君は正直者だから、肚の中が直ぐに口へ出る。
 小宮君のところは表が店で、奥が住居になっている。外からの見かけによらず、ナカ/\広い。二代かゝって築き上げた身代を小宮君が入婿になって将来受継ぐ。三代目だ。責任が重い。小宮君の生家も日本橋の老舗しにせで、これは養家よりも更に大きい。小宮君は叔父さん叔母さんに懇望されたのだ。若子さんとは子供の時からの馴染なじみだったから、一も二もなかったらしい。その叔父さん叔母さんが一寸顔を見せた。小宮君から一々紹介を受けて、
「今後とも何分宜しくお願い申上げます。何うぞ御ゆっくり」
 とそれ丈けで引き退った。
 後はもう遠慮がなかった。若子さんが斡旋して、食事の中に話が弾んだ。
「この中で、誰が一番先に家庭を持つだろうね?」
 と小宮君が問題を出した。
「それは君だよ。もう側に坐っている」
いやになってしまうな。分り切ったことを訊いて脂下やにさがっている」
「然う言えば、先刻のも然うだったよ」
 と三人はもう大分当てられている。
「僕はもうきまっているけれど、君達三人の中でさ」
「さあ」
「誰だろうな」
 と小宮君が促した時、三人は期せずして黙ってしまった。
 個人同志の交際が今に家庭同志の交際になるという話から、この四人の中で誰と誰が一番昔からの馴染だったろうという追憶に移った。
「それは僕と、吉川君だろう」と安達君が言った。
「然うだよ。二人が元だ」と吉川君が応じた。
「入学試験の時からだもの。僕の隣りに坐っていて、時々僕の答案を覗く奴があったんだ」
「嘘をつけ」
「ハッハヽヽヽ」
「君こそ覗いたよ。ナイフを貸せと言って」
「あれが口のきゝ始めだったろう」
「そのくせ帰りに電車で一緒になっても、知らん顔をしていたぜ」
「僕が下りたら、君も下りた。僕について来るから、変な奴だと思った」
「その次の日も同じ電車だったね」
「うむ。それで此奴は矢っ張りこの辺の人間ってことが分ったんだ。しかし郷里くにを出る時、断られて来たから、ウッカリ交際する気にはなれなかった」
「此方は君なんか眼中になかったんだ。ポッと出に相違ないと思った。腰に手拭を下げていたぜ」
「参ったな、これは」
「発表の日に又会ったね。君が僕にお芽出度うと言ったから、僕も敬意を表してやったのさ」
「君も狸ですかって、君が訊いた。僕は分らなかった。狸穴まみあなに住んでいるんですかって、君が訊き直した。成程、これは洒落だと思った」
「そこがポッと出さ」
「そのポッと出って言葉も君から習ったんだ。北海道からポッと出て来たんだって。ろくなことは教えない奴だ」
「あの時分から見ると進化したものさ」
「何を、この野郎」
 と安達君は今はもう対等だ。
「僕の方は僕と瀬戸君だ。これがナカ/\面白い。同じ机に坐っていながら、一週間も口をきかなかったんだから、瀬戸君も変人さ」
 と小宮君がやり出した。
「ハッハヽヽ」
 と瀬戸君は変人を是認した。
「それから土曜日に僕が学校の帰りを芝園館へ寄ったんだ。明るくなった時見ると、隣りに瀬戸君がいた。『やあ』と初めて口をきいた。両方一緒だった。話せる奴だと思ったんだね」
「成程そんなことがあった。僕はあの時まで君を、とても問題にならない堅人かたじんだと思っていたんだ。人間というものは飛んでもない誤解をするものだよ」
「変なことを言うな。若子さんに叱られる」
「ハッハヽヽ」
「僕達は急に仲が好くなってしまって、もう始終一緒だった。あの頃君は高輪たかなわにいたね。きたない下宿だったじゃないか?」
「あすこから引っ越した先が偶然この二人の近所さ。僕がこの二人と懇意になったものだから君も狸穴組の仲間に入ったんだ」
「以来六年、悉皆すっかり意気投合してしまった」
「こんなのは一寸類がないよ。管仲かんちゅう鮑叔ほうしゅく、デーモン、ピシアスというところだろう」
「不思議なものだね、縁ってものは」
「おっと、その辺で打ち切りを頼む」
「変に気を廻すなよ」
 と小宮君は必ずしも若子さんのことばかりではなかった。

逆捩じの形


 十時近くまで話し込んで、小宮君のところを辞し去ると直ぐだった。吉川君は安達君に目くばせをして、
「瀬戸君、君、これからその辺まで附き合ってくれないか?」
 と申入れた。
「早速始まったね。しかしもうおそいよ」
「飲むんじゃないんだ。話がある」
「又今度にしよう。もうサンザッぱら話したじゃないか?」
「何でも宜いから、その辺の暗いところまで来てくれ」
「凄いんだね。何だい? 一体」
 と機敏な瀬戸君は、もう用件をさとってしまった。
「少し手間が取れる」
「僕はこれから帰って明日の下読したよみをするんだから、酔っ払いの相手はしていられない。話があるなら、歩きながら聞こう」
「酔っ払いとは何だい?」
「悪かったら取消す。しかし何の用だい? 改まって」
「訊きたいことがあるんだ。君は橋本さんへ申込んだか?」
「その話か? 申込んだよ」
「何故知らん顔をしているんだ?」
「未だ発表する程まで進んでいないからさ。しかし君が知っているなら丁度好い幸いだ。何分宜しく」
「馬鹿にするな。出し抜いて置いて」
「出し抜いた?」
「当り前さ」
「僕はそんな覚えはないよ。僕は僕一人の責任で申込んだんだから」
盗人猛々ぬすっとたけだけしいってのは君のことだ。呆れて物が言えない」
 と吉川君は気色けしきばんだ。
「瀬戸君、君はこの間僕のところへ来た時、何と言った? 少し、誠意を欠いていやしないか?」
 と安達君が詰め寄った。二人は全く案外だった。相手が一も二もなく恐れ入るだろうと思っていたのである。
「一時間以上も話したんだから、種々いろいろのことを言ったろうさ。しかし要するに、君が吉川君に勝てるかどうかとチャンスを訊いたから、僕は一々誠心誠意で答えた積りだよ」
「その問題じゃない。君は申込んだことを黙っていたじゃないか? 些っとも関係のないような風をして相槌を打ったじゃないか?」
「それは今も言う通り、発表の時機に達していないからさ」
「出し抜いたんだ」
「君達は妙に主観的だね。申込ってものは誰でも自分一人の責任でやるものだろう? 親友だからって相談をする必要はないだろうと思うんだ」
「それが言い抜けってものだ」
 と吉川君が極めつけた。
「待ち給え。君は僕に喧嘩を売るのか?」
「場合によっては勘弁しない」
「穏かに話せば分ることだ。安達君」
「何だい?」
「君も申込めば宜いじゃないか? 僕はあの時勧めた積りだ」
「無論申込むさ。しかし出し抜いて知らん顔をしているのはひどいと言っているんだ」
「出し抜きも何もしない。妙な因縁をつけるんだね。何か僕は君達と一緒に申込むという約束でもしてあったのかい?」
「それはなかったけれど」
「僕は全然自由の積りだ。君達二人の関係を僕にまで押し拡められたんじゃ迷惑する」
「…………」
「それとも君達は橋本家に対して何か特別の権利があるのかい?」
「…………」
「これがし君達が申込んだ後へ僕が割り込むのなら、一言挨拶して理解を得る必要があるけれど、僕の方が先だ。文句を言われるのはアベコベのような感じがする」
 と瀬戸君は落ちついたものだ。安達君は見事逆捻さかねじを食ってしまった。
「理窟は君の云う通りかも知れないけれど」
 と吉川君が代った。
「分ったら、もう宜いじゃないか?」
「しかし前後の関係ってものがある。君は友情を犠牲にしてかゝるのか? それから先に答えてくれ」
「君は今更そんな疑問があるのか? 僕達四人は管仲、鮑叔、デーモン、ピシアスと先刻言ったばかりだ」
「それじゃ訊く。君は僕達二人が橋本さんへ申込むことを予期していたんだろう?」
「いや、一向」
「嘘を言っちゃ駄目だ。君はこの間競争が始まっているかって訊いたというじゃないか?」
「それは訊いたよ」
「予期していたから訊いたんだろう?」
「その時の安達君の口吻こうふんで漠然そんな感じがしたから訊いたのさ」
「いや、以前から僕達二人の関係を知っている筈だ」
「それだから君達は主観的だと言うんだ。僕だって忙しい。近頃は滅多に会わないんだから、君達が何んな申合せをしているか分るものか?」
「学生時代からのことさ」
「僕は君達を信じていたんだよ。狸穴組の本領は学問第一ってことだったろう?」
「それは君が勝手に定めたんだ」
「君達も賛成したじゃないか」
「反対すれば試験の時に面倒を見て貰えないから、学生時代は、何でも君の言いなりになっていたんだ。しかし今はもう違う」
「何う違うんだい?」
「君の我儘は通さない」
「言うことが一々変だね。僕は君達の面倒を見てやった覚えなんかないよ。一緒に勉強した丈けだ。我儘はお互だったろう。僕は君達も学問第一だと信じていたから、ほかに屈託があるとは思わなかったんだ。それが君達に対する敬意というものじゃあるまいか?」
「思わなかったというのは嘘だよ」
「無理だよ、それは」
「学問以外に屈託のない学生があると思うようなら、君は常識がないんだ」
「妙な議論だな、これは。友達の胸臆きょうおくわだかまる秘密を察しなければ、一々責任を問われるんだから遣り切れない」
 と瀬戸君は何処までも兄貴だ。吉川君も歯が立たない。停留場へ着いた頃にはもう主張の種が切れてしまった。
「それじゃ結局三人の競争だね」
 と安達君は現在の情勢をそのまゝに認める外仕方がなかった。
「後から割り込んで来た君達の方から何とか挨拶があって然るべきだろうと思うんだ」
「斯ういうのにかゝっちゃ敵わない」
「それは此方の言うことだ」
「面倒だからもうけりをつける」
「何うするんだい?」
 と瀬戸君はいささか不安を感じた。口は達者だけれど、柄が小さいから、腕力では勝味がない。まして相手は二人だ。
「議論で主張が通らない場合は大抵分っているだろう? 僕達も男だ」
「冗談じゃないぜ」
「本気だよ。ねえ、吉川君」
「うむ、一寸その辺の暗いところまで来て貰おう。もう手間は取らせない」
 と吉川君は瀬戸君の手を捉えた。無論脅しの狂言だった。
「よせよ。詰まらない」
「それじゃ挨拶をするか?」
「何の挨拶だ?」
「出し抜いて済まなかったと言い給え」
「無理だよ。それは」
「僕達も男の意地だ。もう議論じゃない」
「それじゃ済まなかった」
 と瀬戸君は仕方なしに頭を下げた。
「それじゃが余計だ」
「済まなかった」
「出し抜いてが脱けている」
「出し抜いて済まなかった」
「よし」
「ハッハヽヽ」
 と安達君は手を拍った。
「勘弁してやる」
「斯ういう乱暴なのにかゝっちゃ敵わない」
「これでけりがついた」
「君達は予定の行動だったのかい?」
「然うさ。正義の為めなら、親友だって用捨はない」
「理窟のない正義があるものか知ら?」
「あるとも。正義は道徳観だから直観で行く。生意気を言うと本当にやるぜ」
 と吉川君は圧迫を加えた。
 論判中に電車が一つ通ったものだから、後はナカ/\来なかった。
「僕はこゝで失敬して神田駅まで歩く。その方が早い」
 と瀬戸君が言い出した。
「いけない」
「何故?」
「こゝで別れたんじゃ何だか喧嘩別れのような心持がして具合が悪い。車で行こう。五反田まで送ってやる」
「矢っ張り無理をすると気が咎める。以来つゝしむんだね」
「何でも宜い。まかせて置け」
 と吉川君は円タクを呼び止めて、窓に捉りながら掛け合い始めた。安達君もこのまゝ別れるのは本懐でなかった。言い負かされたのは口惜しかったが、冗談にも腕力をかざして挨拶をさせたのは卑怯だった。狸穴まで同車する中に、もう少し何とか取繕いたいものだと思った。
 円タクに乗り込むと間もなく、
けりがついてこれから何うなるんだろう?」
 と瀬戸君が安達君に訊いた。
「三人対立さ。挨拶があったから、君の立場を認めてやるんだ」
「それも僕の方から言うことらしいが、まあ/\、この際だ。対立ってことにして貰う」
「競争は競争、友情は友情さ」
「それが本当だよ」
「正々堂々とやろう。負けても恨みっこなしに」
「うむ」
「何う転んでもお互は一生の親友だ。この為めに何だ彼だってことが起るような狭い料簡りょうけんは持ちたくない」
「君はナカ/\分っているようだけれど、其方そっちの大将はどうだい? 吉川君」
「競争は競争、友情は友情だ」
「成程」
「これは安達君にしては名言だろう? 又もってお互の金科玉条きんかぎょくじょうとするに足る」
「うむ。安達君よりも余っ程穏健だよ」
「何を言っていやがるんだい?」
 と吉川君はまだ少し酔っているようだった。

正直者と軍師


 その晩、安達君はそれからそれと考えて、容易に寝つかれなかった。吉川君も強敵だったけれど、瀬戸君に至っては更に侮り難い。これは一体何うなるのだろう? 吉川君丈けでも持て余すところへ、瀬戸君はもううに申込んで交際を始めているのだ。此方は未だ郷里くにから手紙が来ない。二人に出し抜かれたのだから念が入っている。先口せんくちから考査されると、此方の番にならない中に何方どっちか及第してしまう。しかし然う右から左へはめまい。就職だって、溜めて置いて一遍に銓衡する。申込の順番は問題じゃなかろう。矢張り一番適任の者が採用される。
 安達君は大谷夫人から聞いた三つの条件を思い出して、三人を当て嵌めて見た。第一、成績が好くて前途有望の方とある。学校の成績からいうと、瀬戸君が図抜けている。追随を許さない。吉川君と自分は似たり寄ったりだが、席次は此方が下だ。前途有望の点も瀬戸君に先ず指を屈しなければならない。学位を取る積りだ。将来母校へ戻って教授になる見込がある。吉川君は此方と同じような会社員だけれど、親の光が手伝う。学校を出ると直ぐに就職したのもその為めだ。今は然う違わないが、十年二十年の後には開きが目立って来るかも知れない。そこで第一の条件は瀬戸君、吉川君、それから自分ということになる。次に第二は多少資産のある方である。月給丈けでは困るという意味らしい。悉皆すっかり察している。これは吉川君が一番だ。次が瀬戸君だろう。親父が腰弁だと言っているけれど、内務部長なら相応のものだ。多少残しているのだろう。案外裕福かも知れない。一向足掻あがかないのでも分る。見込のないのは自分だ。家の財産は山に飼ってある馬ばかりだと聞かされている。それで当てにはしなかったが、この四五日考えた結果、百円の馬を年に五頭宛貰うことに決心しているけれど、果してくれるか何うか分らない。年五百円というと一万円の利子に当る。昨今は金利が安いから、一万五千円の資産と見ても宜しい。しかしこれから生れる馬を当てにするのはらぬ狸の皮算用に近い。第二の条件は、吉川君、瀬戸君、それから自分だ。これでビリが二度続く。第三は成るべくは係累のない方、少し無理な註文ながら、くれたでもなし、貰ったでもなしというような身軽な方とある。これは自分が一番だ。三男坊だから係累がない。吉川君も瀬戸君も長男だ。両親が控えている上に弟妹がある。瀬戸君は祖父母が土佐に隠居していると言った。何方も責任が重い。嫁にくれたでもなし、婿に貰ったでもなしという条件に当てまらない。第三、自分、吉川君、それから瀬戸君。三人が三人ながら一度宛一番を取っている。して見ると夫れ/″\互角の勢いかも知れない。条件は第三までだけれど、もう一つ重大なのがある筈だ。佳子さんのお気に召さなければ、ほかの条件が揃っていても問題にならない。
 それから安達君は佳子さんの面影を思い浮べた。この間三越で出会った折の光景が目に残っている。その後度々研究して見たが、あれは何うしても善意を表白した態度だった。もっと長く話すと宜かったのだが、実に占まったことをした。下司げすの智恵は後から出るというが、弼君たすくくんが一緒だったから、弼君を利用すれば、事が足りたのである。
「弼君、屋上へ参りましょうか?」
 と誘えば、
「姉さん、屋上へ行って見ましょう」
「厭よ、安達さんが御一緒ですから」
 とは佳子さんもまさか仰有るまい。然るにもう帰るところですと言い切ったものだから、丁度降りて来たエレベーターへ不可抗力のように押し込まれてしまった。エレベーターの中は馬で一杯だった。定員を超過していた。但しこれが一頭百円とは有難い。何頭いるだろうと勘定して見たが、とても及ばない。奥の方に一町ぐらい続いている。恐ろしく長いエレベーターだと思った刹那、安達君はいびきをかき始めた。
 翌朝、両親から返事が着いた。大谷夫婦が勧めるくらいの縁談なら異議なし、御夫婦へも改めて御依頼申上げたというのだった。大谷さんは、奥さんが見込を力説したから一肌脱ぐことになっていた。むずかしい人だけれど、奥さんの言うこと丈けはよく聴く。
「奥さん、今日早速何うぞ」
 と安達君は出勤の折、玄関で念を押した。
「心得ました」
「一万五千円ぐらい分けて貰えると仰有って下さい。これは是非お忘れにならないように」
「大丈夫よ。もう悉皆すっかり考えてありますから」
「馬は吉兆きっちょうでしょうか?」
「はあ?」
「馬です。昨夜馬の夢を見たんです。三越のエレベーターの中に一町も続いていました」
「まあ/\」
「夢って変なものですな。それが如何にも現実らしくて、不思議でないんです。目が覚めてから馬鹿々々しいと思いましたが、その時は感心していました」
「あなたはこの頃頭が少し何うかしていらっしゃるんじゃありませんの?」
「然うかも知れません」
「直ぐ側の電車や自動車が一町も先に見えたりすると大事おおごとでございますよ」
 と奥さんは途上に注意する必要を認めた。
 それから御主人大谷さんの出勤だった。
「おい/\、帽子がない」
「何うしたんでございましょう? あら、安達さんのがありますわ、間違えておいでになったのよ」
「成程。仕様のない男だ」
「無我夢中ね」
「心配だよ、これだから。失敗した場合が思いやられる」
「成功しますわ」
「しかし万一ってことがある」
「今日は申込みに上るんですから、ケチをおつけにならないで下さい」
「よし/\。巧くやって来ておくれ」
「行っていらっしゃい」
 大谷夫人は早速お化粧に取りかゝった。外出の折は三十五を二十五に見せたいのだから、努力が大変だ。自信も強い。二三年前に矢張り仲人をして、初めの中何うも話がトンチンカンだと思っていたら、お婿さんが奥さんをお嫁さんと間違えたのだった。
「頓狂な人があるものね」
 と、これを一種の功名談として末の世まで語り伝える積りらしい。大谷さんも奥さんがもう長いこといつも本当の年より十宛若いのに異存がない。女中が又よく調子を合せる。尤もその方が勤め好い。
「奥さま」
「何あに?」
「私、奥さまのお供をさせて戴きますと、肩身が広うございます」
「何故?」
「男の人達が振り返って見ますから」
「それはお前を見るんじゃないのよ」
「奥さまを御覧になるんですけれど、私、これが私の御主人さまよって、大きな顔をして差上げますの」
きよは本当に忠義者ね」
 と奥さんは御機嫌が好い。
 お化粧最中へ、その清が※(二の字点、1-2-22)ややあわただしく、
「奥さま、唯今丸尾さんの奥さまがお家の前をお通りになりました」
 と注進した。
「仰々しいのね」
「御門の前を歩いていらっしゃいましたから」
「丸尾さんの奥さんだってお歩きになりますよ。脚のない人じゃありません」
「はあ」
「私、あの人、嫌いだと言っているじゃありませんか?」
「つい……」
「つい何あに?」
「つい申上げようと思ったものでございますから」
「申上げなくても宜いのよ、あんな人のことは」
「はあ」
「気のかない人ね。厭な心持になるじゃありませんか?」
 と奥さんは頭ごなしにしてしまった。
 しかし女中は一かど気を利かしたのだった。大谷夫人は後刻橋本さんの家の応接間で、大嫌いな丸尾夫人と顔を合せたのである。
「まあ/\」
「お邪魔申上げております」
「私こそ少しも存じませんもので。御用談中ではございませんでしたか?」
「いゝえ、一向。漫談でございます」
「ゴシップじゃございません?」
「それも多少」
「オホヽヽヽ。お仲間入りをさせて戴きましょうか?」
「何うぞ」
 と二人は無論表面は善隣だ。大した根柢こんていはないのだから、会って話す時は好意が溢れる。必ずしもお芝居でない。
 橋本夫人が取り持ちに努めた。二人の関係を薄々覚っている。この人はもう五十を越しているから、競争意識がない。
「丁度宜しゅうございました。お二方ふたかたとも何うぞ御ゆっくり」
「私は先刻からも大分お饒舌しゃべりを申上げましたから……」
「未だお宜しゅうございましょう」
「残念ですけれど、実はこれから官邸の方にお約束がございますから」
「引っ張り凧ね、彼方此方あっちこっちで」
「何う致しまして。お人好しですから、調法がられるんでございましょう」
「花形役者よ。お若くてお綺麗で」
「飛んだことでございますわ」
「精々御活動をなさいませ」
雑魚ざこ魚交ととまじりと申しましょうか、次官さんや局長さんの奥さま方と御一緒ですから、気骨が折れて困りますわ」
「その代りそれ丈けのことがございましょう。内助の功をお立てになるんですから」
内妨ないぼうですって、私は。主人がそう申してからかいますの」
「何故でございますか?」
「出歩いてばかりいて、内を外ですって。主人には私の苦心が分らないんでございます」
 と丸尾夫人は立ちかけて喋り続けている。大谷夫人は差当り拝聴している外仕方がなかった。まことに宣伝上手な奥さんだと思った。御主人の惚気のろけまで言っている。官邸だの次官だの局長だのと気障きざの限りである。
「大谷さんの奥さまも始終お忙しいようでいらっしゃいますわね」
 と橋本夫人は漸く大谷夫人へ話しかける機会を得た。
「はあ。私のは貧乏閑なしの方でございます」
「まあ/\。大変な御謙遜でございますこと」
「お前は貧乏性だから始終セカ/\していると主人が申します」
「矢張り花形でいらっしゃいますから、彼方此方で引っ張り凧になるんでございますわ」
「何う致しまして。丸尾さんあたりと違って、地味なものでございますよ。同じ凧でも、鳶凧とんびだこかも知れません」
「まあ/\」
「それは御交際もありますけれど、私達の方は民間でございますから」
 と大谷夫人はいささか思い知らせた積りだった。これが宜しくない。しかし丸尾夫人は一向に感じなかった。民間は官途に一もく置くものと信じているから、大谷夫人の厭味いやみを当然の卑下ひげと認めて、御機嫌よく暇を告げた。大谷夫人はこれからだ。
「実は奥さま、今日は折り入ってお願いがあって伺いました。私も丸尾さんと同じように顔を立てゝ戴けませんでしょうか?」
「お顔を?」
「はあ。吉川さん御同様に、宅の安達さんも特別の御詮議にあずからして戴きたいのでございます」
「まあ。そのお話でございますか?」
「はあ。私、安達さんに泣きつかれてしまって、兎に角、御懇意に願っていますから、お受けつけ丈けはして戴ける積りで伺いました」
「有難うございます。まあ/\、これはお婿さんのお鉢合せでございますね」
「吉川さんの外にもう一人おありのように承わっております」
「実はこの夏から五人でございましたの」
「まあ/\、御繁昌でいらっしゃいますこと。矢張りお綺麗なお嬢さまは世間の目につきますから」
「でも二人お断りして、唯今のところは吉川さんと瀬戸さんと、もう一人あれの姉婿の同僚でございます」
「そこへもう一枚安達さんをお加えになっては戴けませんでしょうか? 人物は主人と私が御保証申上げますから」
「結構でございますわ、安達さんなら」
「三男ですから、くれたでもなし、貰ったでもなしという御条件には打ってつけにまっております」
「御郷里は北海道でいらっしゃいましたね」
 と橋本夫人は弼君たすくくんを通して知っていた。安達君は夏休みに帰省した時アイヌのこしらえた弓の矢を買って来て、弼君へのお土産にしたことがある。
 大谷夫人は安達君の家を村一番の豪農として力説した。家系の正しいことは言うまでもない。長兄のお嫁さんが一度代議士に出た人の娘で、次兄が北海道大学教授の姪を貰っていることにまで及んだ。大谷夫人は東京の人だけれど、御主人の帰省のお供をして、安達君の家へ寄ったことがある。
「大きなうちでございますよ。現に直ぐ上の兄さんが分家をして、立派にやっていらっしゃるんですから、安達さんも生活の安定はつけて戴けます。その辺のことはいずれ主人からお郷里くにの方へお尋ねして、確かなところを申上げましょう」
「御本人さえシッカリしていらっしゃれば、大きなことは望みませんが、この頃のお若い方は概して薄給でございますから、初めから然うひどい貧乏もさせたくないと存じまして」
「安達さんは兄さんの割合から一万五千円ぐらいの見当をつけていらっしゃいますが、私はその上に家を一軒建てゝ戴くようにと突っついています」
「好い軍師がついていて、お仕合せでございますわね」
「まあ。オホヽヽヽ」
「長いこと御一緒ですから、弟さんのように思召しでございましょう」
「はあ。何うしても力瘤を入れます。それに好い気立の方でございますから」
「何れ主人と相談の上御返事申上げますが、主人は流儀がございますから、何うぞそのお積りであしからず」
「宜しく御詮議をお願い申上げます」
「姉二人も候補者の方々と半年余り御交際を願ってからめましたから、矢張り然ういうことになりましょう」
「結構でございます」
「御承知の通り、主人は長いこと部下を扱って参りましたから、人間は会って見れば大抵分ると申しまして、候補者の方に直接お目にかゝります。実は瀬戸さんもつい四五日前に試験を受けたのでございます」
「御主人が御試験をなさるんでございますか?」
「はあ。メンタル・テストみたいなことを致します」
「まあ/\」
「ナカ/\気むずかしいんでございますよ。私が見て申分ない方でも、一寸したことで落第になります。智子ともこの婿の同僚は何うやら失策しくじったようでございます」
「三人の中のお一人でございますか?」
「はあ」
「有難うございます。競争が楽になります」
「本当に入学試験のようでございますわ」
 と橋本夫人が笑い出した。
「何ういう御失策でございましたか?」
「それが何でもないことですから、婿も抗議を申入れていますの。お目にかゝっている時、地震が揺りました。二週間ばかり前でございます」
「ございましたわね。可なり大きなのが」
「このかたは揺り出すと直ぐに立ち上って、如何にも不安らしい顔をしたから、とても見込がないと申すのでございます」
「まあ」
「主人は一生軍艦に乗って来たのですから、揺れることは平気でございます。婿も私もその辺を斟酌しんしゃくして下さるように申入れましたが、『あれはいかん。あれはいかん』と首を振るばかりで受けつけません」
「むずかしいんでございますね」
「地震さえ揺らなければ、無論及第する人でございます。思い込んだが最後、てこでも動かない性分ですから仕方ありません」
「瀬戸さんは及第なさいましたか?」
「はあ、あの方はナカ/\才物ですって。褒めていました」
「吉川さんは如何でございましょう?」
「二三日中にお目にかゝると申しています」
「そのメンタル・テストに及第した方が御交際を願えるんでございますね」
「はあ」
「吉川さんも瀬戸さんも要領が好いんですけれど、安達さんは心配ですわ。何んな御試験でございましょう?」
「それは前もって分りません。その時勝負でございます。この間お断りしたお医者さまのお方も、考えて見ると詰らないことで失策しくじりました。床の間に鴨を籠に詰めた絵が掛けてありましたのを、その方が褒めたのでございます」
「褒めてはお悪いんでございますか?」
「いゝえ。主人は絵の好い悪いなんか分りませんけれど、親戚の画家から戴いたばかりでしたから、箱書はこがきを覚えていて、『これは雁鴨青籠詰がんかもあおかごづめの図ですよ』と申しました」
「籠詰めの鴨と申しますと、年末の御贈答に使うあれでございますか?」
「はあ。あれを描いて戴いたのでございます。その医学士の方は雁鴨と仰有った後がうまく続きません。雁鴨青籠詰めの図と主人が又申しました。これは私も余程落ちついてかゝりませんと舌が廻り兼ねます」
「ガンカモアオガモ……」
「奥さまにして然りでございましょう?」
「あらまあ!」
 と大谷夫人はお達者なのをたしなめられた形だった。
「そのかたは何うしても正確に仰有れなかったのでございます。そこで、あの男は呂律ろれつが廻らないから少し足りないのだろうということになりました」
「まあ/\、お可哀そうに」
「詰り分らず屋でございますわ、宅の主人は」
「そんなこともございますまいけれど」
「いゝえ、海軍部内の分らず屋番附に張出し大関と出ていたそうでございますから」
「するとまだ上がございますのね」
「世の中は広いものだと思いましたよ」
 と橋本夫人は閣下を持て余しているのだった。
 その夕刻、安達君は会社から帰ると直ぐに、
「奥さん、何うでしたか?」
 と意気込んで訊いた。
「申込んで参りましたが、メンタル・テストがありますのよ」
「はゝあ」
「それに及第しなければ、御交際が願えないんですって」
「誰がやるんですか?」
「閣下よ」
「驚いたな、これは」
「迚もむずかしいかたらしいのよ」
弼君たすくくんが言っていました。頑固番附の張出し大関ですって」
「矢っ張り御存じね!」
「多少研究しています。謹厳そのものでしょう」
「然ういう方を向うへ廻して、及第の御自信がありますか?」
「さあ」
「然う/\、私一つ問題を考えて置きましたの。これが読めて」
 と大谷夫人は台所のメモに雁鴨青籠詰めの図と書いて仮名かなまで振ったのを差しつけた。
「ガンカモアオカゴヅメノズ」
「もう一遍」
「ガンカモアオカゴヅメノズ。これが何うしたんですか?」
 と、安達君は淀みがない。
「感心ね。ガンカモアモガグ……」
「アオカゴヅメです」
「あら、私、濁るから言えませんのね」
「然うでしょう。濁るのは間違っています」
「して見ると閣下はナカ/\の曲者くせものよ。わざと間違えて引っかけたんですわ。奥さんも奥さんね」
 と大谷夫人は口惜しがった。

閣下のメンタル・テスト


 日曜の朝、安達君は村上君と保険医の襲うところとなった。約束をして忘れていたのだった。否応なしに診査を受けた。健康状態申分なく、医者に褒められた。
「会社では斯ういうのを歓迎するんだ。三千円ぐらいにして置こうか?」
 と村上君は冗談にかこつけて気を引いた。
「駄目だよ」
「それじゃ二千円」
「約束通り千円さ」
「仕方がない。負けて置く。二三日中に又来るから、その時払込を頼むよ」
「二十五日過ぎにしてくれ給え」
「よし/\。都合によっては猶太人払ユダヤじんばらいでも宜い」
「猶太人というと?」
「半年払いだ、一年払いの方が徳だけれど、半年で死ぬかも知れない。猶太人はその辺まで考えるから、半年払いにする」
「僕も猶太人で行こう」
「死ぬ心配はないけれど、その方が楽だ」
「うむ。半年払いにして、二十五日過ぎに来てくれ給え」
 と安達君は俸給日を待っている。
「よし/\。まだ和蘭陀オランダ人払いってのがあるけれど、君は知っているかい?」
「知らない」
割勘わりかんのことだよ。保険には関係ない」
「ふうむ」
蘇格蘭スコットランド人払いってのは?」
「知らない」
「これは吝嗇けちでナカ/\払わないことさ。愛蘭アイルランド人払いってのは……」
種々いろいろの払いがあるんだね?」
「此奴は更にたちが悪い。喧嘩をして勘定を踏んでしまうことだ」
「僕も、その愛蘭人払いにしたいくらいだよ。初めて取る月給が大部分飛んでしまうんだから」
「まあ/\、辛抱してくれ」
「仕方がない」
「月給で思いついたが、サラリー・マン払いってのを知っているか?」
「それは月賦のことだろう」
「当った。もう何かないかな? 玄関払い。これは僕達保険屋の常食だ。厄介払い。段々悪いところへ帰着する」
「村上さん、あとつかえていますから、もうソロ/\失礼致しましょう」
 と保険医が注意した。
「出掛けましょう」
「吉川君のところかい?」
 と安達君が訊いた。
「うむ」
「幾らだい?」
「二千円と言っているけれど、五千円にして貰う」
「奴は五千円でも六千円でも平気だ。僕と違って、家から出して貰うんだから」
「しかし頑張るんだ。あれから又行ったんだけれど」
「一つ策を授けてやろうか?」
「宜しく頼む」
「君は嘘がつけるか?」
「嘘は名人の積りだ」
 と村上君は如何にも自信があるようだった。しかし、安達君は咄嗟の間に合わない。少時しばらく考え込んだ後、
「行ったら直ぐ言うんだ。『安達はひどい奴だよ。昨日になって電話でことわって来た。此方はもう手筈をめてあるから、否応言わせない積りで今寄ったら、居留守を食わせやがった』とね。僕に会ったと思わせちゃいけない」
「よし/\。それから?」
「それから少時置いて、思い出したように『君、そこに橋本尚信って家があるね』と言うんだ。すると奴、『君、知っているのかい?』と訊くにきまっている。『知らないけれど、あれは海軍の閣下だろう?』『うむ。知っているじゃないか?』『閣下自身は知らないけれど、閣下の弟が僕の方の重役だ。実は僕はその口添えで会社へ入れて貰ったんだ。親分だから始終出入りをしている。面白い人だぜ』とやる」
「それから?」
「もうそれでく。後は余り言わない方が宜い」
「何ういう次第わけだい?」
「さあ。吉川君は年来近所同志だから、家同志交際している。それだものだから、吉川君は閣下を尊敬している。実は閣下に仲人を頼んで某閣下の令嬢を貰いたいんだ。ついては閣下にこの際取り入る必要があるんだ。それだものだから、閣下が会社に関係があると思えば、屹度奮発する」
 と安達君はシドロモドロだったが、兎に角相手が納得する程度に辻褄つじつまを合せた。先日の敵討だ。
「有難う。好いことを教えてくれた」
「成功しなくても元々だ。やって見給え」
「然ういう趣向なら、僕が又焼き直して巧くやる。迷惑はかけないから安心し給え。僕ばかりじゃ信用しないといけないから、この先生に一役買って出て貰う。先生」
「私は御免蒙りますよ」
「調子を合せて下さい」
「診査丈けが私の職分です。早く参りましょう」
 とお医者さんはき立てた。
 昼過ぎに安達君は吉川君を訪れた。村上君が成功したか何うか、その興味もあったが、或は今朝あたり橋本閣下のメンタル・テストを受けたかも知れないと思って、探りを入れに行ったのだった。
「先刻村上君がお医者さんを引っ張ってやって来たよ」
 と吉川君は保険の話から始めた。
「ふうむ」
「君は居留守を使ったんだってね。ひどい奴だ」
おこっていたかい?」
「然うでもない。君なんかめて掛っている」
「君もめられたろう?」
「僕は初めから覚悟をしていた。何うせ入るんだからね。君の分まで埋め合せをやったよ。もう君のところは攻めるなと言って置いた」
「感心だね」
「それで宜いんだ。この間のは冗談だから」
「君は幾ら入った?」
「五千円」
「ふうむ」
 と安達君は少し気の毒になった。この間のは冗談だと相手が言っているのに、此方の冗談は本当になってしまったらしい。
 それから吉川君は先晩の話に移って瀬戸君の攻撃を始めた。閣下に会ったのか何うか、自分の問題には一向触れなかった。安達君はもし吉川君が威張るようなら及第、しょげているようなら落第と推定する積りだったが、何方どっちともつかなかったから、
「何うだい? 君の方は」
 と直接に訊いて見る外仕方がなかった。
「未だあのまゝさ」
「面会で資格を定めるんだってじゃないか?」
「よく知っているね?」
じゃみちへびだよ」
「メンタル・テストがあるって話だから、首を長くして待っているんだけれど」
「何とか言って、もう済んでいるんだろう?」
「いや、一向音沙汰なしだ。実は今朝あたりの積りで当てにしていたら、悉皆すっかり忘れていた保険屋がやって来やがった。世の中は具合が悪く出来ているよ」
 と吉川君は嘘でもないようだった。
「今度のことは何でもこれで行かなければいけない」
「何れで?」
「これさ」
 と安達君は眉毛につばをつけて見せた。
「僕は大丈夫だよ」
「いや」
「僕のところでは少し問題が起っているんだ。ファザーマザーも申込む時まで乗気になっていたが、先方むこうの態度が変に高飛車だものだから御機嫌が悪い。こんな筈じゃなかったと思っているのらしい」
「僕と競争になることを知っているのかい?」
「瀬戸君の分丈けは丸尾夫人が話した。然ういうことなら考えものだと言っている」
「成程」
「僕は或は手を引くかも知れないよ」
「ふうむ」
「女なんてものは浜の真砂まさごの数ほどある」
「そら来た。これだ/\」
「ハッハヽヽ」
「しかし手を引くなら些っとも遠慮に及ばないよ」
「閣下に会って話して見なければ分らない。閣下だって唯威張っているのじゃなかろうと思う。候補者が多ければ、人物試験をしてから交際を許すのが当り前だろう。むしろ慎重の態度と認めてやりたい」
「見給え。直ぐもう閣下の弁護だ。この親不孝者!」
「矢っ張り親よりも嫁の方につくのが人情だろう」
「貰いもしない中からそんな料簡じゃ行末が思いやられる」
「ところで君は何うだい? 無論申込んだろうね?」
「いや郷里から反対して来た。家の方に候補者がある。それだものだから、見合せろと言うんだ」
「折角親孝行をし給え。僕に遠慮なく」
「命令に従わないと、馬が貰えない」
「何が?」
「馬だよ。馬が僕の家の主な財産だ。貨幣学でラテン語の金銭って字が家畜って字だということを習った時、案をって感心したのは僕だった」
「詰らないことを威張っている」
「それだものだから、大谷さんも諦める方が宜いと言っているんだ」
「駄目だよ。それだものだからと告白している」
 と吉川君は癖を呑み込んでいるのだった。安達君は嘘がつけない。つく時には必ず「それだものだから」と前置をつける。
「ハッハヽヽ」
「これは何うせお互いに徹底的にやるんだ」
「うむ。実は申込んだ」
「見ろ。嘘も器用にはつけない」
「そんなに見括みくびっていると、後から驚くことがあるぞ、今に僕の不誠意が分る」
「言うことがアベコベだ。誠意が分ると言うものだろう?」
「ハッハヽヽ」
「不器用だけれど、誠意がある。そこが君の取柄とりえだ」
「いつでも変な褒め方をしやがる」
「僕はイヨ/\となれば、瀬戸君よりも君の方が怖い」
「よせやい」
「本当だよ。学問や世才は兎に角、人間としては君が一番出来上っている」
「これだ/\」
 と安達君は又眉毛に唾をつける真似をした。
「ところで閣下のメンタル・テストってのは何んなものだろう?」
「分らないね」
「度胆を抜くって話だぜ。何しろ軍人上りだから仕事が荒いにきまっている」
「地震が揺っても立ったりしちゃいけないんだそうだ」
「ふうむ」
「沈勇を示せば宜いのらしい」
「心得を詳しく教えてくれ給え。君は大谷夫人から聞き込んでいるに相違ない」
「地震の話丈けだよ」
「それは僕も丸尾夫人から聞いた」
「もう一つ雁鴨青籠詰めってんだ」
「何?」
「雁鴨青籠詰めの図。一口で言って見給え」
「ガンカモアオ……。おい。もっと親切に教えてくれ」
 と吉川君は兜を脱いだ。安達君は説明を加えた後、
呂律ろれつに重きを置く。これで日頃酒を飲むか何うかの参考にする」
 と道理もっともらしい解釈をした。
「それから?」
「もうそれ丈けだ。君も丸尾夫人から聞いたことを話し給え」
「厭だよ」
「何故?」
「損をする。僕は自分が及第して君が落第すれば宜いと思っているんだから」
「ひどい奴だ」
「ハッハヽヽ」
 と吉川君はわざと悪人振る。
「話せよ」
「実は材料がないんだ」
「しかし丸尾夫人が仲人として何か注意しているに相違ない」
「さあ。地震が揺っても慌てちゃいけないってことと、閣下が洒落しゃれを言ったら必ず笑えってことだよ」
「洒落を言うのかい? あの閣下が」
「うむ。しかし余程頭がよくないと分らない洒落らしい。それだから分らないと直ぐに頭が悪いと思ってしまう。現役時代にも部下のメンタル・テストにはこれが一番有望だと言っていたそうだから、洒落としては価値がない代りに試験問題として難解のものだろう」
「ふうむ」
「直ぐに出ないらしい。一時間ぐらい前に言ったことに引っかけるから、此方こっちはまごつく。するともう頭が悪いと定めてしまう」
「敵わないね」
「一時間考えて言う洒落だから始終一時間前に目標を置いてお相手をするようにという注意だった」
「成程」
「それで僕は考えたんだよ。一時間足らずで切り上げれば洒落の出る暇がない」
「成程。これはうまい」
「しかし切っかけを下手へたにやると、此奴、避難したと思われる。先方むこうは洒落を言いたい一心だ。その辺を要領好くやるんだね」
「何の因果でそんなに洒落が言いたいんだろう?」
「それは君、軍人だ。軍人だから野暮だと思われたくない。頭がコチ/\ってことを自覚しているから、然うでないように見せたいんだ。人間ってものは、兎角柄にないことをやりたがるものだよ」
「一つ此方から洒落を言ったら何うだろう?」
「言える積りかい?」
「何だって?」
「いや、失敬になる。試験官を試験することになるから」
「成程」
「殊に君はこの頃漸く分り始めたんだから、自分では飛ばさない方が宜い。独り歩きが出来ると思うと大間違だよ」
「生意気を言っている」
「ハッハヽヽ」
わざわいも三年ということがある」
「何だい?」
「始終君の駄洒落を聞かされているから、斯ういう時に応用が利く」
「それは昔から見れば大変な進境さ」
「…………」
「以前は一々説明を訊いたものだが、昨今は分る丈けは分るようになっている」
「始終君の駄洒落を聞かされているからね」
「僕のは駄洒落じゃない」
「しゃればダアと驚く必要もない。何うだ?」
「やったね」
「…………」
「考えていちゃ駄目だ」
「それだものだから応用が利く。これでも応用の利かないほど鷹揚な人間じゃない」
「矢っ張り律義者だよ。一々前置をつける」
「…………」
「もう沢山だ。余り頭を使うな。脳膜炎を起すといけない」
「幾らでも出るんだけれど、先ずこの辺がモデルだろう。幾らでも出る。分るかい? 一寸高級だろう?」
 と安達君は得意だった。
「もう結構だ」
「それから何うだい?」
「何が?」
「面会の心得さ」
「もうないよ。瀬戸君が及第しているんだから、大したことはあるまいと思うんだ」
「しかし僕は心配で仕方がない」
「何故?」
「就職の時に三度も失敗しているんだからね。実力は兎に角、試験運が好くない」
「それは確かにある。正直だから誤魔化しが利かない。しかしそこが君の好いところだ」
「好いところかも知れないけれど、見て貰えなければ何にもなるまい?」
「それだから僕も安心している」
「何だ? 詰らない」
「ハッハヽヽ」
「一つこれから瀬戸君のところへ行って見ようか? 面会の心得を探りに」
「さあ。奴、話すか知ら?」
「兎に角、この間のこともあるから、僕はもっと理解を得て置く方が宜いと思うんだ」
「あれはもうあれで済んでいる。此方は正義だ」
「しかし念を入れるのさ。先方むこうはもうスタートを切っているんだから、腹癒せに変な策動をしないとも限らないよ。あの二人は始終カフェーへ行って争奪戦をやっているなんて吹聴ふいちょうされたらざまはないぜ」
「成程ね」
「正義は正義だけれど、対等の地盤になるまでは多少御機嫌を取って置く必要がある」
「行こう。しかし、いるか知ら?」
「いなかったら、何処へでも附き合う」
「よし」
 と吉川君は直ぐに応じた。

非紳士協定


 書き入れの日曜だから外出のおそれがあったが、瀬戸君は丁度好く在宅だった。
「今日は君達がお揃いで謝罪に来るに相違ないと思って、昼から待っていたんだよ。朝は二人とも寝坊だ。それから保険屋が来るから潰れてしまう。何うだい? 手に取るようだろう?」
 と瀬戸君は先見の明を誇るように、既に並べてあった二つの座蒲団を指さした。但しこれは玄関の応対を聞きつけてから置いたのかも知れない。
「大体当っている」
「君が三千円、安達君が千円か?」
えらいよ、君は」
 と吉川君は肚の中で馬鹿にしていた。
「この間は失敬した」
 と安達君が直ぐ問題に触れた。
「酒の酔が醒めてから分ったろう?」
「さあ」
「まあ/\、宜いさ。水に流そう。二人揃ってやって来たんだから」
「ところで君は閣下のメンタル・テストを受けたのかい?」
「受けたよ」
「その大略あらましを話してくれ給え。僕達はこれから受けるんだから、参考にする」
「虫の好いことを言うじゃないか? 競争は競争だろう?」
「しかし、友情は友情だ」
「換言すれば、友人としての附合いは何処までも友人としての附合いで、敵手てきしゅとしての関係は何処までも敵手としての関係だろう。敵手のところへ競争の駈引を相談に来ても駄目だよ」
 と瀬戸君は冷然として蹴ってしまった。
「仕方がないかな?」
「斯うなれば僕だって真剣だ。敵に塩を贈るほどの雅量はない」
「よし。それじゃ訊くまい」
「メンタル・テストからもう競争が始まるんだ。いきなり受けるのとあらかじめ段取を知っていて受けるのとは大分違う」
「しかし結果丈けは訊いても宜いだろう?」
 と吉川君が割り込んだ。
「うむ。僕の結果は及第さ」
「もう交際が始まっているのかい?」
「閣下は公平だよ。何人候補者を揃える積りか知らないが、悉皆すっかり揃ってから通知すると言っている」
「その場で及第が分るのかい?」
「うむ」
「面会は日曜か知ら?」
「僕はこの前の日曜だった」
「すると僕のは何うしたんだろうな?」
「今日は駄目だよ。誕生日だから親類のものを招待すると奥さんが言っていた」
「奥さんも一緒かい? メンタル・テストの時は」
「うむ。ニコ/\して聞いている」
「矢っ張り奇抜な質問が出るんだね?」
「それは返答の限りじゃあるまい」
 と瀬戸君は区別が厳重だった。
「失敬した」
「僕の時には閣下の令弟が来合せて一寸ちょっとの間見物していたが、笑い出したものだから、閣下に叱られた」
「見物というんだから察しられる」
「察しるのは君の勝手だよ」
「令弟は何と言っていたい?」
「その手は食わない。君は試験の時無暗に質問をして先生を引っかける名人だった」
「参ったね」
「自力でやるんだ。学校時代の癖を出しちゃいけない」
「閣下の令弟は保険会社の重役だろう?」
「いや、矢っ張り海軍だ」
「重役の令弟があるだろう?」
「兄弟三人とも海軍だよ。閣下の次も閣下で、その下が大佐だ。僕の仲人はこの大佐の親友だから、橋本家のことが詳しい。当然その大佐が来ていたんだ。僕は仲人から話を聞いて閣下の性格を呑み込んでいたから、テストが受け好かった」
「すると保険会社の重役は奥さんの弟だろうか?」
「奥さんの弟は一人が海軍で一人がお医者さんだ。もう一人はアメリカへ行って何かやっている。僕は仲人を物色する為めに関係を悉皆すっかり調べたんだ」
「それじゃ少し話が違う」
「ハッハヽヽ」
 と安達君が笑い出した。
「何だい?」
 と吉川君が向き直った。
「器用に嘘をついたろう?」
「うむ?」
にぶいぞ」
「此奴、やったのか?」
「一寸こんなものさ」
「ふうむ」
「失敬しちゃったよ」
 と安達君は思い知らせた。無論あとから告白する積りだったが、斯う早く機会が来ようとは思わなかった。未だ申込金額の訂正が叶うのは仕合せだった。瀬戸君も経緯いきさつを聞いて、大笑いをした。
 続いて吉川君の持ち出した紳士協定は瀬戸君の退しりぞけるところとなった。その為めに、吉川君と瀬戸君の間に議論が起った。
「別に責任は負わせない。紳士的に正々堂々とやろうと言うんだ」
「僕もその積りだけれど、お互に推薦し合うなんて無意味な協定は御免蒙る。それじゃ競争にならない」
「推薦し合うんじゃない。悪口を言わないようにするのが紳士的だろう?」
「僕は寧ろ紳士的に正々堂々と君達を攻撃する積りだ」
※(二の字点、1-2-22)わざわざ悪口を言うのか?」
「悪口じゃない。事実を述べるのさ。例えば吉川君は酒を飲むかと訊かれた場合決して取繕わない。悪いことは何でも攻撃の材料に使う」
「好いことは何うする?」
「あるのかい? 好いことが」
「…………」
「よく自己を吟味して見給え」
「君、それは失敬な言分いいぶんじゃなかろうか?」
「お互に好いところがあると思っていると大間違だよ。頭の隅っこにこの間見た映画の知識があるばかりだろう?」
「土佐犬!」
「冷静を失っちゃいけない。お互にと言っている」
「馬鹿野郎!」
「君、君」
 と安達君は吉川君をつかまえてしまった。
「土佐犬は負けないぞ。何処までも正々堂々とやる」
 と瀬戸君も気色ばんで、吉川君と睨み合った。
「弱ったな、これは」
 と安達君は持て余した。うちの主婦が聞きつけたのか、お茶を替えに来て、ジロ/\眺めて行った。三人は甚だ具合が悪かった。
「瀬戸君」
「何だい?」
「協定は撤回する」
 と吉川君は稍※(二の字点、1-2-22)落ちついた。
「然うしてくれ給え」
「その反対に手段をえらばずってことにしよう。僕は毒瓦斯どくガスを使う」
「宜いとも、虚々実々だ」
「大きなことは勝ってから言え」
「僕は直ぐ行動を開始するから驚くな」
「それは此方から断って置く」
「友情の試験だ。これで持ち続くようなら本当に管仲、鮑叔、デーモン、ピシアスだろう」
「又始めやがった」
「安達君も宜いだろうね?」
「うむ」
「君は僕よりも吉川君を警戒する必要がある」
「それがもう手だろう?」
「然うかも知れない。兎に角、驚かないことだ」
「大丈夫だ」
 と安達君も意気込んで、期待とは全く反対の協定が成立してしまった。
 その翌晩、吉川君は閣下の家へ呼ばれて、面会を果した。しかし安達君には知らせなかった。安達君は土曜の晩に橋本家から日曜の朝の都合を問い合わされて初めて吉川君がもう済んだことを覚った。先頃から日曜には必ず新事件が発生する。安達君は気を落ちつけて、橋本家へ出頭した。応接間へ通ると直ぐに、地震が揺っても立たない覚悟を思い出した。待ち始めてから不図気がつくと、テーブルの上に紙と鉛筆が置いてあった。謄写版刷りの書式だった。項目が並んで、下が余白になっている。申込者氏名、生年月日、出生地、原籍、現住所、両親及びその職業、両親の兄弟姉妹及びその職業、兄弟姉妹及びその職業、卒業学校、兵役関係、賞罰、職業、収入、趣味、酒量、健康状態及び病歴、親友五名を挙げよ。旧師五名を挙げよ。社会地位十年後の見込、同二十年後の見込、申込の動機、仮設の配偶者との相識関係、仮設の配偶者に関する感想、云々。項目が多いから、三枚に亙っていた。
 安達君は書式を見詰めて考え込んだ。窓の方に人の気色けはいがしたから振り向いたら、弼君が首を出したのだった。
「安達さん、書き込むんですよ。書き込むんです」
 と弼君は書く手真似をして逃げて行った。
 安達君は成程と思った。こんな気の利かないことでは覚束おぼつかないと少し慌てゝ、早速書き込みに着手した。初めの方は機械的だったけれど、十年後の見込からは作文の試験の心得になった。仮設の配偶者というのは無論よし子さんのことだ。それとの相識関係とそれに関する感想には特別念を入れた。漸く書き終って読み直しているところへ、閣下と奥さんが入って来た。
「やあ。これは※(二の字点、1-2-22)わざわざ何うも」
 と閣下が一揖いちゆうした。外では時々顔を合せるけれど、言葉を交すのは初めてだった。安達君は鄭重に挨拶を申述べた。
「何うぞおかけ下さいませ」
 と奥さんがくつろがせてくれる。
 閣下は書類を手に取って、至って事務的に目を通し始めた。
「酒量ナミというのは何合ぐらいの標準ですかな?」
「ナミじゃありません。ナシです。字が拙いものですから……」
「はゝあ。量ナシですか? 量を知らずというと、これは大変だ」
「いや、飲まないんでございます」
「ハッハヽヽ」
 と閣下はからかったのだった。
「実は会なぞで友達に勧められますと、少しやるんですけれど、先頃からやめる決心をしています。元来好きではないんでございますから」
「少しは宜いでしょう」
「しかしっともうまくないんです」
「御丈夫のようですが、徴兵の方は何ういう次第わけで乙種ですか?」
「胸囲が少し狭いものですから」
「乙種ですと、召集される可能性がありますな?」
「はあ」
「脅威を感じてはいませんか?」
「大丈夫です。ハッハヽヽ」
 と安達君は急いで笑い足した。そら来たと思ったのである。
「親友は三名しかないんですか?」
「可なり親しいのがまだあるんですけれど、皆似たり寄ったりの程度ですから、後から書き足す積りでいて、つい忘れました。もう二人書きましょう」
「いや、これで結構です。この三人の中、吉川君と瀬戸君が申込んでいるのを御承知ですか?」
「はあ」
「その為め将来の交際が危機に瀕するようなおそれはありませんか?」
「ない積りです。尤も競争中は有らゆる手段を尽して出し抜き合います」
「はゝあ」
「親友だからといって、決して用捨は致しません。ころばされた奴が間抜けという申合せです」
「面白いな、これは。おとら、何うだ?」
 と閣下は奥さんを見返った。
「お案じ申上げていた通りでございますわ」
「しかし、やる以上はそれぐらいの意気込みがなければいかん。男らしくやって貰いたい」
「然うおあおりになっては困ります。智子ともこの時で懲りてるじゃございませんか?」
 と奥さんは抗議の口調だった。
「あの連中と違って、今度の三人は、相許している親友だ。まさか腕力には及ぶまい。安達君」
「はあ」
「実はあれの姉の縁談の折、競争者が決闘をすると言い出したのです」
「はゝあ」
わしが差止めて、同時にキッパリと申渡しました。鷸蚌いつぼうの争いによって漁夫の利を占めたのが今の婿です。正々堂々の競争は結構ですが、暴力ということがわしの耳に入ったら、もうお仕舞いですよ」
「その辺は決して御心配に及びません」
「念の為めです。実は俺は甚だ満足に思っています。三人が三人ながら三人を親友の筆頭に書いていながら競争をする。これは三人が三人の人格を証明しているんです」
「はあ」
「やって戴きましょう」
 と閣下は当然安達君の立場を認めてくれた。引き続く話の中に、この問題に関する閣下の意見が出た。それは娘の婿は娘に選定させるのが本当だということだった。しかし広く世間へ出て探す次第わけに行かないから、親が然るべき候補者を吟味して当てがう。娘は交際して見て、その中から気に入ったのを極める。
「それでございますから、実は甚だ手前勝手で相済みません」
 と奥さんが申添えた。
「何う致しまして」
「早速でございますが、次の日曜に又おいでを願えませんでしょうか?」
「伺います」
「お三人御一緒に集まって戴いて、私から改めてお願い申上げます」
「恐れ入ります」
「私はこれで引き下りますが、主人からまだ種々いろいろとお話がございましょうから、何うぞ御ゆっくり」
「しかしもう大分お邪魔を申上げました」
「いや、安達君、これからだ」
 と閣下が引き止めた。
「安達さん、何うぞ御用心を」
「はあ?」
「オホヽヽヽ」
 と奥さんは会釈えしゃくして姿を消した。

宣戦布告の日


 次の日曜の朝は九時出頭ということだった。競争者三人が橋本さんの家の応接間で顔を合せるのである。安達君は支度を終って、腕時計を見ながら、
時間厳守パンクチュアリチーは紳士の美徳」
 と英語で口吟くちずさんだ。
「何あに? それは」
 と大谷夫人が訊いた。大谷氏はもうゴルフに出掛けてしまったから、奥さんは掣肘せいちゅうされるところなく、軍師として附き添っていた。
「時間厳守は英国紳士の美徳と申します。閣下は海軍ですから、英国流でしょう。僕は九時が鳴る時、玄関の電鈴ベルを押します」
「結構ね」
「まだ二十五分あります」
「今日は屹度佳子さんが御同席でございましょう」
「はあ。それを考えると、もう胸がドキ/\します」
「そんな気の弱いことじゃ駄目よ」
「何ういうものでしょうかね? 道で会っても然うです。遠くから見かけて、あゝ、佳子さんだなと思うと、もう胸が乱調子になって、早鐘を打つんです」
「それじゃお貰いになった後が大変ですわね。始終しょっちゅうなら心臓が弱ってしまいましょう」
「その時はその時で、強心剤を持薬に飲みます」
「まあ」
「ハッハヽヽ」
贔屓目ひいきめもありましょうけれど、あなたが一番有望よ。風采といい態度といい」
「それは始終見慣れていらっしゃるからですよ。風采では吉川君に敵いません。態度の落ちついているのは瀬戸君です」
「何方も侮り難い強敵には相違ありませんが、本当のところはあなたよ。お二人とも要領が好いから、実力以上に見えるんですわ」
「僕は以下に見える性分です。第一、口が重いです」
「それほどでもありませんわ。随分おやりになるじゃございませんか?」
「北海道は損ですよ。瀬戸君だって郷里くには土佐ですけれど、東京生れですから、矢張り何処となく軽いです。僕は何うしても東北人の重っ苦しいところが抜け切れません」
「でも斯ういう人と分ってしまえば、軽薄なところがっともないんですから、あなたが一番ですわ」
「分らせる法はないでしょうか?」
「それは交際している中に、自然に分ります。宅の主人にしても、初めのうちは丁度あなたのようでございましたから」
「心細いですな」
「まあ! ひどいわ」
「失礼申上げました。御主人のように謹厳そのものじゃないという意味です」
 と安達君は誤魔化した。
 女中のお清さんが稍※(二の字点、1-2-22)あわただしく上って来て、
「奥さま、唯今……」
 と口ごもった。
「何あに?」
「唯今丸尾さんの奥さまが……」
「丸尾さんの奥さまが何うしましたの?」
「お通りになりました」
「馬鹿ね、お前は」
 奥さんはたしなめたが、先日のことを思い起して、
「橋本さんへいらしったとでも言うの?」
「はあ。唯今吉川さんと御一緒に橋本さんの御門へお入りになりました」
「あらまあ!」
「これは機先を制された」
 と安達君はねるように立ち上って、階段へ急いだ。奥さんも続いて下りた。
「お待ち下さい」
「これだから油断がなりません」
「仲人同伴ってことを御主人なり奥さんなりが仰有ったんでございますか?」
「いや、一向」
「丸尾さんは何処までも私を出し抜く積りですわね」
「僕、もう出掛けます」
 と安達君は帽子に手をかけた。
「私もお供致しましょうか?」
「さあ」
「考えて見ると、今日は正式の訪問ですから、仲人同伴が本当かも知れませんわ」
「…………」
「玄関まで送り届けて、御主人なり奥さんなりにお目通りして、それでは何分宜しくお願い申上げますって」
「行って参ります」
「あゝ、困った/\」
 と奥さんは念を入れたいにも、今からではお化粧が間に合わない。外出の折は十以上若返ることを原則にしている。して相手が丸尾夫人だ。
 橋本さんのところはつい目と鼻の間だ。距離の関係から言えば安達君が最も有力に縄張りを主張出来る。安達君は玄関の靴の数で、吉川君ばかりでなく瀬戸君ももう来ていることを認めた。丸尾夫人のらしい草履がお清の注進を裏書していた。北海道も昨今は一生懸命だから頭が働く。
「やあ。早かったね」
「上には上がある。瀬戸君が第一着だった」
「この間は失敬。相変らずかい?」
 と瀬戸君は落ちつき払っていた。
「君は一人かい?」
「一人とは?」
「仲人同伴じゃないのかい?」
「一人さ。何分宜しく」
「それでこそ正々堂々だ」
 と安達君は吉川君へ一本かせた。
「僕は附き添いがあるんだよ」
 と吉川君は早速反応を示した。
「チャンと分っているんだ」
「二階から見ていたんだろう?」
「いや、スパイをつけてある」
「これは凄い」
「一々手に取るように判るんだ」
 と安達君は威張った。
「その辺と違って、内気なお坊っちゃんは一人じゃ恥かしいんだよ」
「そんな柄かい?」
「ハッハヽヽ」
「人一倍厚いくせに」
「それだから薄く見せる必要があるだろう。丸尾夫人の細工は流石さすがだよ。今に分る」
 と吉川君も負けていない。
 瀬戸君はこの会話を全く余所よそに、ポケットから洋書を出して読み始めた。二人を歯牙しがにかけないという態度だった。吉川君は安達君に目まぜをした。
「やっているよ。相応に」
「うむ。学者は違う」
「寸陰を惜しむところを閣下に見て貰いたいんだろう」
「しかし、この際本を忘れないのは感心だよ」
「それこそ厚口の方だからさ。千枚張りだもの、ビクともしない」
「何だって?」
 瀬戸君が見返った。
「厚い本だと言うのさ」
「ポケット版だよ。君の面の皮ほど厚くない」
「厳しく来たね」
「断って置くが、この間の非紳士協定を忘れないことだぜ」
「言うにや及ぶ」
「安達君もね」
生馬いきうまの目を抜いてやる」
 と安達君が力み返った。三人の競争意識は最高潮に達していた。
 間もなく閣下と奥さんが現れた。続いて丸尾夫人が佳子さんを扶けるようにして入って来た。佳子さんは流石に具合が悪いと見えて真赤になって俯向いた。丸尾夫人は直ぐに吉川君の側へ行って立ち並んだ。成程、附き添いという形だった。吉川君が又心得たもので、その折二人から離れて夫人の方へ一歩寄ったのである。閣下は改めて佳子さんを紹介した後、
「皆さん、これは全然相互信頼の問題です。私共はあなた方の人格に信頼して、佳子と自由に交際をして戴きます。あなた方も私共を信頼して、誠意を尽して下さいます。佳子としても結局あなた方の中から一番信頼に値すると思う人をえらぶことになります。私共両親は決して奇をてらうものではありません。先頃も申上げました通り、これは娘に一番適当な婿を授けたいという親心の発露であります」
 と厳格な調子で説き始めた。
「何うぞお席に」
 と奥さんが気を利かして、
「あなたもお掛けにならないと、御演説のようになって困ります」
「よし/\」
「何うぞ皆さん」
「佳子の姉二人も矢張り同じような方式で婿を定めたのです。一番上の姉の場合は候補者が二人で、何方どっちも海軍の中尉でした。競争中に一方が大尉に進みました。あなた方と同じように二人は親友でしたから話が早い。『貴様は上官の命令に従わんか?』『従う』『それなら手を引け』『それは無理だ』『何が無理だ?』……」
「ハッハヽヽ」
「というようなことで、案外簡単に片付きました」
「…………」
「軍人はサッパリしています。争奪戦をやった二人が相変らず刎頸ふんけいまじわりを続けているのです。君達も斯うあって欲しい」
 と閣下は悉皆すっかり座談になった。
「はあ」
「次の姉の場合は三人の中二人が決闘すると言い出しました。知らない同志でしたから、誤解もあったのでしょう。すんでのことに芝公園へ出掛けるところを私が差止めました。飛んでもない人達です。この為め二人は資格を失いました」
「はゝあ」
「策略は幾ら使っても構いませんが、腕力は絶対になりません。何処までも紳士的にやって戴きます」
「はあ」
 と非紳士協定者は異口同音だった。
「私の友人に面白い実例があります。今は開業して病院をやっていますが、その頃は軍医でした。或令嬢を貰いたくてひそかに心掛けていたところへ強敵が現れたのです。それが同じ船に乗組んでいる大尉でした。懇意の間柄ですから、大尉の方から話したんです。大尉は髭が薄くて困ると言いました。その頃は海軍でもまだ髭を立てることが流行はやっていました。濃くする法はなかろうかと軍医に相談したのです。軍医は薬を拵えて渡しました。それを毎日つけているうちに、士官の鼻の下が腫れて来ました。狐のような顔になったそうですけれど、己惚うぬぼれってものは恐ろしいもので、本人は気がつきません。そのまゝ見合に行って失敗しました」
「ハッハヽヽ」
「その後へ軍医が乗り込んで美事成功したのです」
「ハッハヽヽ」
「斯ういう具合に手際好くやらなければいけません」
「しかし……」
 と瀬戸君がして、躊躇した。
「何ですか?」
「医者として如何わしい薬を盛るのが紳士的といえましょうか?」
「患者じゃありません。敵ですよ」
「敵にしても、医は仁術と申します」
「仁術を尽すのは敵が負傷をしてから後のことです。初めからじゃありません」
「成程」
「敵が道を訊きに来た時、本当のことを教えるものは正直を通り越して、馬鹿か売国奴の領分に入っています」
「分りました」
「陥れなければ勝負がつきません。私の友人には斯ういう話が実に多いです。次は目的物が令嬢ではありませんが、甲と乙が同じ……」
「あなた」
 と奥さんが遮った。
「何だい?」
「然ういうお話は若い方に申上げない方が宜しゅうございましょう」
「同じ船に乗っていたんだ」
「…………」
「しかしこれは割愛かつあいしましょう。ハッハヽヽ」
「ハッハヽヽ」
 と三人はお相伴笑いばかりでなかった。然ういうことは覚りが早い。
「紳士的と言っても、要するに、敵に対して紳士の態度を忘れないことです」
「はあ」
「腕力さえ出さなければ、何をやっても差支ありません。勝てば官軍です。目的が手段を釈明してくれます」
 と閣下は三人の非紳士協定を見抜いているようだった。
 佳子さんは始終伏目になっていた。三人に好意を持っているとしても、若い女性としては差当り迷惑千万だったに相違ない。閣下が話し止むのを待っていたように、お母さんに何か囁いた。
「それでは私達はもうこれで」
 と奥さんが気を利かした。佳子さんは又真赤になって、ニコヤカに一礼した。三人は立ち上って答礼した。奥さんも丸尾夫人も眼中になかった。佳子さんの後姿丈け見送って、気がついたら、閣下だけが居残っていた。
「これでお引き合せが済みました。後は何分宜しく」
「御交際は何ういう風にお願い申上げたら宜しゅうございましょうか?」
 と瀬戸君が訊いた。
「全く御自由で結構です」
「いつお伺いしても宜しゅうございますか?」
「はあ」
「しかし三人ですから、カチ合う心配があります」
「それも差支ありません。却って賑かで結構でしょう」
「いや、三人の都合です。差当りお互に見たい顔ではないんですから」
「ハッハヽヽ」
「誰が何曜日という具合に、日を定めて戴いたら、何んなものでしょうか?」
「その辺もあなた方の御自由です。申合せをなすったら如何ですか?」
「僕はその方がキチンとして宜いと思うんです。吉川君、何うだろう?」
「僕は反対だ」
 と吉川君は首を振った。
「何故?」
「そんな窮屈なことは面白くない。時間割はもう学校で懲りている」
「面白ずくじゃない。便宜上の話だよ」
「僕は敵の便宜を計りたくないんだ」
「しかし吉川君、敵の便宜は同時に自分の便宜だぜ、機会均等だからね」
 と安達君が道理を説いた。
むしろ不便の計りっこが本当だろう」
「それはこわしだ」
「いや、閣下の御趣意にもそむく」
「何故?」
「既に火蓋を切った以上は日を定めて戦うなんて八百長はあるまい。出し抜き合うのが心得だから」
「ハッハヽヽ」
 と閣下は立場として何方の肩も持てない。
「折り合うものか何うか、一つ御相談下さい。私は一寸失敬します」
 と言って、座をはずした。
 吉川君が頑張り続けた。この一事によって形勢がきまるような意気込みで反対した。
「そんなことを言ったって、もう宣戦布告じゃないか? 今更おそいよ」
「それじゃ君は何か予定でもあるのか?」
「無論あるさ。僕は宣戦布告と同時に一艘撃沈してやるんだ」
悉皆すっかり海軍の感化を受けたね」
 と瀬戸君は皮肉を言った。
「僕かい? 撃沈されるのは」
 と安達君が念を入れた。
「うむ。手近の奴から片付ける」
「大きく出た」
「見てい給え」
 と吉川君はもう勝ち誇っていた。
「ところで、安達君、今日はこれから何うなるんだろう?」
 と瀬戸君はもう吉川君を相手にしなかった。
「さあ」
「早速不便だぜ。斯うやって待っているのかい?」
「図々しいもの勝ちなら仕方がない。僕もこのまゝ頑張るよ」
「しかし気の利かない話だね。三人揃って待っているなんかは」
「誰か出て来てくれないと居心いごころが悪いよ」
 と安達君も立場の不自然を感じ始めた。
「これは矢っ張り日を定めて貰うんだね。三人いると思うと、佳子さんだって出悪でにくいよ」
「うむ。佳子さんに定めて貰おう」
「それが宜い。僕は分らず屋とはもう交渉を断つ」
 折から吉川君は腕時計に見入って、
「チェッ」
 と舌鼓を鳴らした。
「君だって困るだろう? 立場が間違っているんだ」
「いや、僕も辛抱較べをしたいんだけれど、生憎のことに今朝は約束がある」
「誰だい?」
よんどころない人だ」
ざまを見やがれ」
 と安達君は聊か溜飲を下げた。
「失敬する。もう時間だ」
 と吉川君は急いで立って行ってしまった。
 安達君と瀬戸君はそのまゝ応接室で待ち続けた。しかし佳子さんは姿を見せなかった。瀬戸君が一寸廊下へ出て、
「閣下は?」
 と女中に訊いて見た。まさかお嬢さまはとも言えなかった。閣下は来客中だとのことだった。もうお昼に近かった。
「これは悉皆すっかり吉川君に気を利かされてしまったよ」
「何故?」
「今日は紹介式丈けだ」
「成程」
「帰ろう」
「馬鹿を見た」
 と二人は早速退出した。奥さんが玄関へ見送ってくれた。主人が来客中で失礼申上げましたという申訳だった。安達君は門のところで瀬戸君に別れた。いつもと違って、誘う勇気もなかった。

早速の行動


「安達さん。先刻さっき佳子さんが丸尾さんの奥さんと御一緒にお通りになりましたよ」
 と大谷夫人は待っていたように出迎えると直ぐ報告した。女中のお株を奪うぐらい過敏になっていたのである。
「はゝあ」
「それから間もなく吉川さんがお帰りになりました」
「はゝあ」
「丸尾さんのところへ佳子さんが上って、後から吉川さんがお出になったんじゃございますまいか?」
「それに相違ありません」
「分っていらっしゃいましたの?」
「いや、今うけたまわって思い当ったんです。矢っ張り凄いな、吉川君は」
「感心していちゃ駄目よ」
悉皆すっかり出し抜かれました」
 と安達君は溜息をつきながら、ありのまゝを物語った。
「私、丸尾さんの奥さんに顔を潰されましたわ」
「先ずそんな形です」
「あなたも気が利きませんのね」
「さあ」
「奥さんの様子でお分りになりそうなものじゃありませんか?」
「吉川君が附き添いだと言いましたから、単にそれ丈けの役目だろうと思っていたんです」
「初めから予定の行動よ」
「然うです。吉川君はよんどころない人と先約があると言って帰って行きました」
「それまで仰有られて、あなたはお分りになりませんでしたの?」
「はあ。僕は叔父さんか何かだろうと思って、ざまを見ろと言ってやったんです。しかし此方こそ態を見てしまいました」
「駄目ね」
「尤も気がついたところで仕方がなかったんです」
「馬鹿にされるよりも宜いでしょう。先方むこうは横手を拍って笑っていますわ」
忌々いまいましいな、これは」
「私もつい油断があったんですわ。あなたについて上れば宜かったんですけれど」
「しかしこれは吉川君一人の智恵でしょうか?」
「いゝえ。丸尾さんの奥さんの差金よ。あの方、悪智恵の問屋ですわ」
「僕は吉川君と同じ学校を卒業したんですから、こんなに違うとは思いません」
「呑気なことを仰有っていますのね。学校で教える学問とは一緒になりませんわ」
劈頭へきとう第一に一発食ったんですから、撃沈されないまでも、これは形勢に関係します」
「宜いわ。私、この敵は屹度討って上げますから」
 と大谷夫人は歯ぎしりをしないばかりだった。安達君は自分の不敏の致すところと考えて気の毒でならなかった。間もなく女中の注進があった。
「奥さま、橋本さんのお嬢さまが唯今お帰りになりました」
「よし」
 と安達君は二階へ駈け上ったが、もうおそかった。表をチンドン屋が通っていた。
 もう一方、吉川君は一時間余り前に橋本家を辞し去ると直ぐ、宙を飛ぶようにして、丸尾家をおとずれた。自分の家の隣りだ。昨今は殊に出入りが頻繁になっている。
「奥さん、唯今」
「何うぞ」
「はあ」
此方こちらへ」
 と丸尾夫人は客間へ案内してくれた。佳子さんが来ていた。社交家の丸尾夫人はその後橋本家へ数回抜け駈けして、奥さんと佳子さんに取り入ったのである。
「先刻は失礼申上げました」
 と吉川君は鄭重に手をつかえて、佳子さんの御機嫌を伺った。
「私こそ」
「あれから直ぐに此方へ?」
「はあ」
「大勢で押しかけて、お騒がせを致しました」
「いゝえ、一向」
「逃げるのが勝ちですよ」
「あれから随分御ゆっくりでございましたわね」
 と佳子さんは待っていたようだった。
「ナカ/\抜けられなかったものですから、つい失礼しました」
「お父さんのお談義が長かったんでございましょう?」
「いや、閣下の御訓示はあれ丈けでした」
「皆さんは?」
「未だ応接間で待っています」
「私を?」
「はあ」
「まあ/\、お気の毒さまね」
「三人で待とうと言うんです。僕、可笑おかしくなってしまいました」
「でも少しお人がお悪いでしょう?」
「閣下の御教訓を応用したんです」
「早速ですわね」
「ハッハヽヽ。未だ待っているんですから痛快です」
 と吉川君は凱歌を揚げた。
「お父さんやお母さんがお相手をして下さいましょう」
「しかし僕が帰る時、丁度お客さまが見えたようでした」
「それじゃ私、もう失礼させて戴きますわ」
「いや、構いませんよ」
「でも……」
「大丈夫です。カフェーで女給を待つ要領ですから、幾らでも辛抱します」
「…………」
「御心配ございませんわ。お母さんにチャンと申上げて、お許しを受けて参ったんですから」
 と丸尾夫人は佳子さんをくつろがせることに努めた。
「吉川さん」
「はあ」
「伺いますが、カフェーの女給を待つ要領って、何方どなたの要領でございますか?」
「安達君と瀬戸君の要領です」
「そう仰有いましたの? お二人が」
「さあ」
「あなたの御想像?」
「はあ」
「それじゃあなたの御要領でございましょう?」
 と佳子さんは突っ込んだ。斯う遠慮のないところを見ると、二人の間の交渉は安達君の推測以上に発展している。安達君は三越で一遍顔を合せて会釈して貰ったのを至上の光栄と思っているのだから甘い。
「参りましたな、これは」
「カフェーの女給さんそのものとしては無論結構でございましょうけれど」
「いや、結構じゃありません」
「しかし私には私の趣味がありますから、私と女給さんの間を聯想で結びつけてなんか戴きたくありませんの」
「失礼申上げました」
「御参考までよ。オホヽヽ」
「サン/″\ね、吉川さんは」
 と丸尾夫人が調子を合せた。
「矢っ張り信用がないんです」
「お坊っちゃんですから、つい詰まらないことで引っかゝりますのね」
「それも確かにあるんです」
「いゝえ、お坊っちゃんじゃございませんわ。然う見せかけていらっしゃるのよ」
 と佳子さんは益※(二の字点、1-2-22)辛辣しんらつだった。
「降参します」
「道で待っていて話しかけるなんかは不良にお近くありませんの?」
「そんな覚えはない積りですけれど」
「二三度ございましたわ」
「以来慎みます。尤もこれからは自由にお宅へ伺えるんですから、そんな必要もなくなりました」
ずるい人ね、奥さんにお願いして皆さんに鼻を明かせて」
「その辺は閣下が認めて下さいます」
「お父さんはお父さん、私は私よ」
毛生けはえ薬よりも罪が軽いでしょう。しかし痛快です、未だ待っていると思うと」
 と吉川君は兎に角満足だった。
「私、矢っ張り馬鹿ね」
 と丸尾夫人が溜息をついた。
「まあ! 何故?」
「あなたに悉皆すっかりだまされていたんですから」
「あら!」
「未だ吉川さんとお話をなすったことがないように仰有いましたから、私、全くその積りでいましたの」
「表向きはないんですもの。吉川さんがお悪いのよ。たすくをダシに使って、種々のことを仰有るんですから。一遍なんか弼と一緒に音楽会へ参りましたら、吉川さんがチャンと来ていらっしゃいましたわ」
「策士ね」
とてもよ」
「吉川さん、私、あなたにもコロリと瞞されましたわ」
「ハッハヽヽ」
 と吉川君は頭を掻いたが、寧ろ得意のように、
「僕、何と申上げましたか?」
「初対面に近いんですからと仰有いましたわ」
「ハッハヽヽ」
「それで佳子さんを御案内申上げたものゝ、お二人の間のお話のつなぎを何うしようかと思っていましたら、私なんか差置いて、直ぐにもう御議論ですもの」
「失敬しました」
「私、呆れてしまって、初めのうち、唯々黙って拝聴していましたの」
「時代が違うんです」
「あらまあ!」
「奥さんや御主人がお若かった頃とは一緒になりません」
「瞞された上にお婆さん扱いにされゝば世話はございませんわ」
「仲人って、大抵そんなものでございましょう」
 と佳子さんも厳しい。
「まあ/\踏んだり蹴たりでございますわね」
「オホヽヽヽ」
「御冗談は兎に角、私、安心致しました。吉川さんのお母さんに何うやら顔が立ちそうですから」
「何故でございますか?」
「この分では当然吉川さんに白羽の矢が立ちましょうから」
「いゝえ、私、慎重よ。ほかのお二人とも分け距てなく御交際を願って、不良分子の一番少い方をお択び致しますわ」
「僕、不良分子なんか絶対にありません」
 と吉川君が主張した。
「然う仰有るのが嘘の証拠よ。不良分子のない男の方ってものはありませんって。みんな程度の問題ですって」
「それなら僕は最小限度の不良分子の持主です」
「持主でなくて、荷主でございましょう」
「何ういう意味ですか」
「山ほど持っていらっしゃいますから」
「参ったな、これは。奥さん、何うぞ御証明を願います」
「奥さんだって見す/\瞞されていらっしゃりながら、御証明をなさる程の何でもございませんでしょう」
「まあ/\」
 と丸尾夫人が驚いた。
「オホヽヽヽ」
「するとそれ以下の何って折紙がつくんでございますわね」
「オホヽヽヽ」
 と佳子さんは笑い崩れた。
 主客がこの通り陽気だから、話が益※(二の字点、1-2-22)弾んだ。吉川君は敵艦を撃沈しないまでも、確かに抜け駈けの功名だと思った。接近は親しみを生み、親しみが理解に導く。丸尾夫人は無論縁談という軌道から外れないように心掛けた。
「それはお嬢さまのことでいらっしゃいますから、種々いろいろと御理想がございましょうね?」
「ございますとも」
「お話し下さいませんか? 御参考の為めに」
「理論よりも実際に当って吟味する方が早うございますわ。矢張り御交際ってことはお父さんもお母さんもよくお考え下さいました」
「私も経験がございますから、お嬢さまの御理想を当てゝ御覧に入れましょうか?」
「何うぞ。時代が違いますから、何んなものでございましょうか?」
「ひどいわ、見括みくびって」
「御冗談よ」
「第一、人格でございましょう?」
「人格は第三」
「あらまあ!」
「人格なんか後天的なものですから、私が奥さんになれば、監督して向上させて上げますわ」
「まあ/\」
「それぐらいの自信がなければ駄目だと思いますの」
「すると僕なんか有望の方ですね」
 と吉川君が口を出した。
「決して御失望なさるにも及びませんわ」
「有難いです」
はずれましたから名誉回復よ。第一は秀才でございましょう? 学才と申しましょうか?」
 と丸尾夫人が続けた。
「学才は第二よ。これも勉強次第で何うにでもなりますから」
「第一は何あに?」
風采ふうさい
「まあ/\」
「これは努力しても改まりませんから、初めから好いのを択びたいと思います」
「承わって見れば一々御道理ごもっともでございますわ」
「風采の好い方と申しても、私、ドン・ファンは大嫌い。男性らしいサッパリした眉目秀麗の方を望みます」
「すると吉川さんあたりは申分ございませんわね」
「はあ。学才の方も人格の方も夫れ/″\条件に当てまっていらっしゃいますわ」
「お褒めになったんですか? おけなしになったんですか?」
 と吉川君、痛し痒しだった。
「三拍子揃っているに越したことはありませんけれど」
「矢っ張り心細い方です」
「もう一つありますの、一番大切のことが」
「何ですか?」
「意気投合。これは神秘的の問題ね」
「はゝあ」
「秀才で男性的で人格に申分なくても、私の気に入らなければ仕方ありませんわ。吉川さん、精々御機嫌を取って戴きます」
 と佳子さんは求婚者よりも役者が一枚上だ。

軍師の不機嫌


 吉川君に出し抜かれた安達君は元気とみ沮喪そそうした。初めからこんなことでは何うなるのだろうかと思った。矢張り丸尾夫人は気転が利く。吉川君が要領の好いところへ軍師が遣り手だから敵わない。此方こっちのも相応だけれど、いつも先を越される。今朝は殊に油断があった。軍師諸共物の見事に一杯食わされた。何分お化粧に手間のかゝる人だから、いざという場合に即刻の出動が叶わない。自分もうっかりしていたが、大谷夫人も確かに責任がある。あゝなら斯う、斯うならあゝと理論丈け巧者で実行が伴わない。頼まれもしないのに見張り番をしていて報告してくれたお清の方が殊勲者だ。幾ら精巧な消防機関でも出動しなければ何にもならない。安達君は失望の余り大谷夫人が恨めしくなった。
 清が上って来た。奥さんが一寸ということだった。
「お清さん、先刻は見張り番を有難う」
「何う致しまして」
「気が利きます」
「丸尾さんの奥さん、又お出掛けよ」
「はゝあ、橋本さんへですか?」
「いゝえ、通り越したそうですから市場でしょう。市場が安いものですから、あすこは何でも市場ですって」
「よく然う見張り番の目が届きますね」
「お隣りのに頼んであります」
「成程」
「これよ、奥さんは」
「何れ?」
「これ」
 と清は※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみに両方の人差し指を当てた。頭痛膏の意味だ。御機嫌の悪い時に貼るから、清には低気圧の信号になっている。尚おお隣りの女中は清の学校友達だ。清が郷里くにから呼んで世話をしたのである。
「安達さん、私、これから丸尾さんへ伺って参りますわ」
 と奥さんは姿見に向っていた。
「さあ。何んなものでしょうか?」
あんまりですもの。吉川さんお一人なら、丸尾さんはお仲人なこうどですから、何をなさろうと御自由ですけれど、三人競争ってことが始めから分っているんでございますからね。横暴ってものよ」
「はあ」
「それも知らない同志なら兎に角、始終顔を合せているんですから、斯ういう関係になれば、却って控え目にするのが作法でしょう? こんな勝手な真似を黙っていると癖になりますわ」
「しかしかどが立ちましょう?」
「角は先方むこうから立てゝ来ているんですから構いません」
「いらっしゃることは考えものですね。先方が否定したら、何うなさいますか?」
「それは嘘ぐらいつきますわ、あの奥さんのことですから」
「吉川さんはお見えになりませんでしたと言われても、反駁することが出来ません。水掛け論になって、結局此方が負けます」
「それじゃ丸尾さんの方に理窟があるんでございますか?」
「なくても情勢の上から勝味があります。考えてやっているんですから、遁辞が設けてあります。何の御用でいらっしゃいましたかということになって、恥をお掻きになると詰りません」
 と安達君は諫止することに努めた。奥さん同志の勝負は何方どっちへ転んでも構わない。もっと緊急な問題がある。
「…………」
「僕としては差当り丸尾さんよりも橋本さんへ伺って戴きたいんですが、何うでございましょうか?」
「それも考えているんですけれど、こんなムシャクシャした気分で上りますと、私何を申上げるかも知れませんから、あなたに御迷惑がかゝって参ります。橋本さんの奥さんも橋本さんの奥さんよ。丸尾さんが何うして取り入ったか存じませんが、少し片手落ちじゃございませんか?」
 と大谷夫人は八つ当りだった。警戒しなかった安達君は目端めはしかない。
「それは丸尾夫人が吉川君に附き添って伺ったからでしょう。別に意味があるとは思われません。それですから、奥さんも伺って下されば佳子さんを寄越して下さるかも知れません」
「私、行き届かなくて済みませんでした」
「いや」
「あやまりますから、もう然う仰有らないで下さい。私だって見す/\出し抜かれたと思うと泣きたいくらい口惜しいんですから」
「奥さん、僕、そんな意味で申上げたんじゃありません」
「何うせ私は丸尾さんに敵いません」
「奥さん」
「あなたは元々丸尾さんの御贔屓でいらっしゃいますから」
「そんなことがあるもんですか」
「いゝえ、いつか吉川さんとのお話し中に、それはマダム丸尾の方が若い丈けにと仰有いました」
「…………」
「清がチャンと注進しています」
「それは吉川君が言ったんです」
 と安達君は差当り取り繕う外仕方がなかった。同時に清の見張り番が自分の上にも及んでいるのに気がついた。
「宜うございますよ、もう」
「奥さん、僕、困ります」
「丸尾さんへ伺うのが御迷惑なら思い止まりますから」
 と大谷夫人は手がつけられない。
 安達君は二階へ逃げて考え込んだ。美人競争というものは実に深刻なものだと思った。日頃朗か一方の奥さんだ。それが発作的ほっさてきに狂乱のようになる。成程、マダム丸尾の方が若い丈けに目を惹くと言った。それは丸尾家が吉川君の借家へ越して来てから間もないことだったように覚えている。して見ると、奥さんは以来二三年含んでいたのである。丸尾夫人を褒めたには相違ないけれど、その直ぐ後から、しかしこゝの奥さんの方が柄が大きいから品位があると言った。僕は奥さんにあの通りの妹があれば年が二つ三つ上でも宜いから貰うと冗談を言った。清はそれを聞かないで、初めの方丈け注進したのだ。しかしそんなことを今更主張したところで本気にして貰えない。馬鹿な話だ。出し抜かれた上に内輪揉めが起った。悪い時は何処までも悪い。
「あゝ、詰まらない。気晴らしに公園へでも行って見ようか?」
 と安達君は気分転換を思い立った。
「何処へいらっしゃいますの?」
 と奥さんが丁度階段の下にいた。
「一寸その辺まで」
「あなたは私に同情ってものがっともございませんのね」
「僕、然う叱られると困るんです」
「あれくらいのことを申上げるのは御懇意ずくですわ。面当てがましく直ぐにお出掛けにならなくても宜うございましょう?」
「散歩ですよ」
「私、御相談がございますの」
「承わりましょう」
 と安達君は散歩を思い止まって、お茶の間へ従った。叶うことなら御機嫌を解きたい。軍師にお冠を曲げられては、この際大いに困る。
「安達さん、今の詰まらないお話、もう忘れて戴きますわ」
「僕、考えて見たら、二三年前のことでした」
「もう宜いのよ」
「吉川君が僕の家の借家へ美人が越して来たと言って自慢したんです。僕のところの方が若いぞと主張しましたから、それは若い丈けに注目を惹くと答えたんです」
「若いったって、二つか三つよ、精々のところ。それを五つも六つも若いように宣伝しているんですから」
「僕はその直ぐ後から奥さんのことを主張しました。しかしそれはお世辞に聞えるといけませんから差控えます。但し、し奥さんに奥さんと瓜二つの妹さんがあれば、二つ三つ年が上でも僕は貰うと冗談を言ったくらいです」
「それも清が申しましたわ」
「はゝあ」
「あなたは嘘をおつきになっても後が続きませんわね。先刻は吉川さんの所為せいになさいましたけれど、もう逐一白状でございます」
「済みません」
「もう宜いのよ。それよりも吉川さんを徹底的に出し抜く御相談よ」
 と奥さんはもう大分落ちついていた。
「御名案がございますか?」
「吉川さんの会社の課長さんにお頼みして、吉川さんを当分九州あたりへ出張させて戴きます」
「しかし、そんなことは出来ますまい」
「私、主人と相談して見ます。同じ実業界ですから、主人の友達の中に吉川さんの方の課長さんの友達がいないとも限りません。主人はあれでナカ/\顔が広いんですから」
「駄目ですよ。出張は公務です。何んな親友を知っていても、註文は利きません」
「でも課長や支店長の一存よ、宅の銀行なんかは」
「仮りに御主人が然ういうことを頼まれたとしたら何うでしょう? 引受けましょうか?」
「主人は堅人かたじんですけれど、私、兄が吉川さんの会社の課長なら都合が好いと思いますわ」
「お願いして出張させますか?」
「首よ、一遍に」
「ハッハヽヽ」
 と安達君は無暗に嬉しかった。敵の首は話丈けでも心持が好い。
 未だ夕刻に間があったから、兎に角、大谷夫人が橋本さんへ伺うことになった。イヨ/\交際が始まるから御挨拶にというのは表向きで、実は偵察だ。
「私、斯うなれば仕方ありませんから、取り入りますわ。奥さんが御機嫌買いなら、却ってやりうございます」
「御迷惑をかけます」
「私も競争よ。社交の修業になりますから」
 と大谷夫人は出動の準備に取りかゝった。
 安達君は安心して二階へ引き返した。もう散歩の必要もない。昼から吉川君を出し抜くことばかりに屈託して、瀬戸君を忘れていた。此奴が又大敵だ。何んな狂言を書くかも知れない。頭は一番好い。吉川君にしてやられたことを知らずに帰って行ったが、そのまゝっとしている筈はない。仲人のところへ相談に出掛けたに定っている。閣下の弟の友人だと言ったが、矢張りその奥さんが軍師についているのだろうか? 兎に角、今日は姿を見せなかった。
「これはいけない」
 と安達君は急に思い当った。あの折、女中が来客中だと言った。直接聞かなかったが、瀬戸君が廊下へ出てそう確めて来た。それから急に帰ろうと言い出した。あれだ。閣下自身がお相手をするところを見ると、丸尾夫人や大谷夫人の比でなく、余程の有力者に相違ない。
 安達君はもう奥さんがソロ/\出掛ける時分だろうと思って、下りて行って見たら、奥さんは電話にかゝっていた。
「はあ。はあ/\。無論差支ございません。御一緒に願います。はあ。どう致しまして。恐れ入りました。それでは後程。さよなら」
 と何となく耳寄りだった。
「橋本さんからですか?」
「はあ。もう下りていらっしゃいましたの? 御都合次第で早耳ね」
「有望ですか?」
「御招待よ、あなたと私と、今晩六時ですって」
「僕は今晩は先約があります」
「嘘でしょう?」
「はあ。一寸見識を立てたんです。お供致します」
「詰まらない体裁ね」
「漸く運が向いて来ました。天を拝し、地を拝し……」
「調子づくものじゃありませんよ」
「ハッハヽヽ」
「幸い主人は本店の重役さん達と御一緒で晩くなりますから」
 と奥さんは一寸振り廻した。大谷支店長は信用が篤い。日曜は一日ゴルフで重役連中に魚交ととまじりをする。奥さんが社交の修業を必要とするように言ったのもその辺に含蓄がんちくがある。

公平な取扱い


 安達君は再び橋本家の応接間に自身を見出した。朝来て又晩だ。成程、頻繁になったと思った。変化の為めという大谷夫人の注意に従って、羽織袴だった。待つ間もなく、佳子さんと奥さんが現れた。年長者同志の間、安達君と佳子さんも気を利かした。佳子さんは無論のこと、安達君も可なり度胸が据っていた。
「妙な形式の御縁談が始まりまして、私も佳子もこのところ当分気を使います。お相手がお一方ひとかたでありませんから、ついチグハグになってしまって、兎角行き届き兼ねます。その辺は何うぞ悪からず御諒察をお願い申上げます」
 と橋本夫人は早速言訳を申述べた。
「何う致しまして。私達こそ我儘を申上げて恐縮でございます」
「安達さん、度々御足労をお願い申上げます」
「いや、一向。お邪魔ばかり致します」
 と安達君も然るべくやる。
 直ぐに日本間へ移って、食卓についた。閣下も加わった。大きな円いテーブルに五人だった。安達君と佳子さんは並んで坐った。
「お父さん、御窮屈でも模範を示して戴きます」
 と佳子さんが笑いながら註文をつけた。
「少しは宜かろう」
「お勧めになってはいけません」
「よし/\」
 と酒のことだった。しかし閣下はナカ/\少しのようでなかった。食事が始まると間もなく、
「大谷さんの御主人さまは何ういう御趣味でいらっしゃいますか?」
 と橋本夫人が話題を持ち出した。
「以前は謡曲をやっていましたが、昨今はゴルフがおもでございます」
「あれはこの頃大流行おおはやりでございますね。私の弟もやっております。御主人さまは余程お上手でいらっしゃいましょう」
「いゝえ、本店の重役さん達に勧められまして、つい近頃始めたばかりですから、好い加減なものでございましょう。お附き合いでございますから」
「おうたいの方はお古いんでいらっしゃいますか?」
「はあ。これはもう長いことやっています。しかし時々半年ぐらい間が切れますから、一向上達は致しません」
「主人も若い頃勧められて始めたことがありますが、不器用な性分ですから、芸事は一切向かないようでございます」
「何う致しまして」
「御酒の方は如何でいらっしゃいますか?」
「ほんのお附き合いでございます」
「結構でございますね。主人は御酒を戴いてくだを巻く外に能がありません」
「いや、これでも歌を作る。柄にない芸当があるんですよ」
 と閣下が主張した。
「お父さんのはこれね」
 と佳子さんが言った。
「何だい?」
「これよ」
 と指折り数える手真似だ。閣下は三十一文字みそひともじを一々勘定して嵌め込む手堅い歌人らしい。
「お嬢さまは作歌の方も御堪能ごたんのうでいらっしゃいましょう?」
「何う致しまして。私、悉皆お父さんの御性格を受け継いでいますから」
「まあ/\」
 と大谷夫人は返す言葉に困った。否定すれば閣下の不器用を肯定することになる。
「何も出来ませんわ」
「御冗談ばかり」
「お饒舌しゃべりぐらいのものでしょう。お得意は」
 と佳子さんは謙遜だった。
「僕も駄目です。不器用では誰にも負けません」
 と安達君は何か言う必要を感じて告白した。しかしこれでは佳子さんを同類に引っ張り込む形になる。
「確かに器用の方じゃありませんね」
 と閣下が直ぐに認めてくれた。
「はあ」
「実は今日はサン/″\ですよ、安達君」
「閣下でございますか?」
「いや、あなたですよ」
「はゝあ」
「最初吉川君があなたと瀬戸君を出し抜きました。それから瀬戸君があなたを出し抜きました。あなたは二人に出し抜かれているんです」
「はゝあ」
「三人の中で一番の正直者はあなたでしょう」
「さあ」
「知らないでいるんですから後生ごしょうが宜しい」
「いや、何うも変だと思い当ったことがありました」
「吉川君は鮮かでした。神速ってものでしょう。丸尾夫人もナカ/\やります。大谷さん、あなたはお人が好い」
「実はそれで安達さんに叱られました」
「いや、人間は瞞されるくらいの方が貴いんですよ」
「お褒めにあずかって恐縮致します」
「ハッハヽヽ」
「吉川君のは直ぐに分りましたが、瀬戸君は何ういう具合に出し抜いているんでございますか?」
 と安達君は切っかけがハッキリしなかった。
「溝淵閣下が見えました。瀬戸君は豪い人を仲人に引っ張り出しました」
「はゝあ」
「私同様もう古手ふるてですけれど、一時は鳴らした陸軍の戦術家です。瀬戸君のお祖父さんのお弟子さんだそうですよ」
「はゝあ」
「弟の友人ですが、二三度お目にかゝって肝胆相照らしました。面白い人です」
「本当の軍師でございますね」
「はあ。瀬戸君は軍師の命を受けて、あなたを誘ったんです。一緒に帰る風をして、直ぐに引き返して参りました」
「はゝあ」
「これも神速でしたよ。恐らくあなたが彼方あっちを向くと直ぐに駈け込んだのでしょう。間もなく佳子が帰って参りました。それから後は独り舞台でした」
「一杯食わされました」
「それで余りお気の毒に思いましたから、公平を期した次第わけです。これで今日は皆五分々々になります」
「有難うございました」
「お気をおつけにならないと田代たしろ六さんのような目に会わされますよ」
「田代さんと仰有ると?」
「例の毛生え薬を貰ってつけた先生です。田代六三郎と申します。田代六さん、一升徳利げて。何故か徳利、が高い」
「和歌でございますか?」
「田代六さんは太っていますが、小男です。これは私の名吟ですよ。六さんの丈が低いと言わずに、一升徳利の方が高く見えると利かしたのです。対照コントラストの妙を極めていましょう?」
「はあ」
「勘定して見ると、和歌にはなっていませんが、三味線に乗りますから当時仲間の間に流行りました」
「名作です」
「田代六さん、一升徳利提げて。何故か徳利、丈が高い」
 と閣下は大分酔っていた。
 食事が済むと直ぐに、奥さんが、
「佳子や、安達さんを洋間の方へ御案内申上げて、お話を伺ったら何うですか? 私はこゝで奥さまのお相手を致しますから」
 と当事者二人を解放してくれた。安達君は佳子さんに従って、応接間へ戻った。
「安達さんにはいつか三越でお目にかゝったまゝでございますわね」
「はあ」
「あら、もう一遍ございますわ」
「今朝です」
「いゝえ」
「それじゃいつですか?」
「四五日前の夕方よ。あなたはお気づきになりませんでしたけれど、電車が二つ続いて、私は後のに乗っていましたの。あなたの方が一足ひとあしお先でした」
「はゝあ」
「私が後からついて行くのを御存知なしに、あなたは家の門のところで立ち止まって、一寸お覗きになりましたわ」
「ハッハヽヽ。悉皆すっかり見届けられてしまいました」
「と」
「はあ」
「嘘よ、皆」
「やあ」
「オホヽヽヽ」
 と佳子さんは先ず荒ごなしだった。
「仕方ありません。今日は何うせ出し抜かれる運命です」
「私もお蔭さまで悉皆すっかり草臥くたびれてしまいましたわ。昼前が吉川さんでしょう。これは簡単に征伐して上げましたけれど、瀬戸さんはナカ/\頭の好い人ですから骨が折れました」
「矢張り御征伐ですか?」
「はあ」
「それじゃ僕も覚悟しなければなりません」
「私、何ういうものか、困らせて上げるのが面白いんです。敵討ちよ、矢っ張り」
「何の敵討ちですか?」
「もう二三年恨みが積っていますわ。たすくからかいながら、種々いろいろのことを仰有って私を困らせたんですから」
「僕はそんなでもなかったでしょう?」
「いゝえ、皆似たり寄ったりですわ。その代り斯うなって見ると、御遠慮なしに直ぐお話が出来て宜うございますわね」
「はあ」
「今度は私が困らせて上げる番よ」
「吉川君は困りましたか?」
 と安達君は偵察の積りだった。
「丸尾夫人が御一緒でしたから、つい御遠慮しましたが、この次から本式よ」
「僕も大谷夫人を呼んで参りましょうか?」
「何うぞ」
「ハッハヽヽ。来たって撃退します」
「年寄りはうるさいわ」
「可哀そうに、泣きますよ」
「オホヽヽヽ」
「まだ若い積りですから」
「丸尾さんの奥さん、あなた、何うお思いになって?」
「さあ。敵の参謀としてですか?」
「いゝえ、あゝいう方を美人とお思いになりますの?」
「それは評判ですけれど、何んな美人でも駄目です。太陽の前には月が青褪めます」
「まあ。ナカ/\隅に置けませんのね」
 と佳子さんは悉皆舐めてかゝっている。
「丸尾夫人は僕も敵です」
「今度は大谷さんの方の御関係と二重になりましたからね」
「話を聞いて見ると、丸尾夫人の方が悪いんです」
「それは盾の半面でございましょう。丸尾さんの方には丸尾さんの方の理由がありますから」
「何んな理由があるんですか?」
「そんなこと、私、存じませんけれど」
閑話休題かんわきゅうだい
「何かございますの?」
「いや。ハッハヽヽ」
 と安達君、必ずしも口重でない。尤も一生懸命だ。
 吉川君の次に瀬戸君が話題に上った。瀬戸君は卒業すると直ぐに手を廻し始めたのらしい。後から割り込んだものだから一言挨拶があって当然と主張したのも決してその場の行きがかりでない。
「或日、郵便受に学生新聞が入っていましたの。あなたの方の学校のよ。それで皆さんの席順が分りました」
 と佳子さんが言った。
「すると三月の末ですね」
「はあ」
「僕が一番下でしたろう?」
「ビリじゃありませんでしたけれど」
「中軸ですよ、これでも」
「瀬戸さんは三番とは下らないと仰有っていました。その通りでしたわ、一番にはなれませんでしたけれど」
「そんな通信をあらかじめしていたんですか」
たすくが然う申しましたの」
「成程」
「それを思い合せて、私、新聞をお入れになったのは瀬戸さんに相違ないと鑑定しましたの」
「奴にきまっています。小刀細工の名人ですから」
「反感をお持ちになっちゃ駄目よ。秀才は秀才として認めて差上げるのが公平でございましょう?」
「はあ」
「私、好いところは何処までも認めて、厳正な採点を致しませんと、お父さんお母さんに申訳が立ちませんから、何うぞそのお積りで」
「それは僕だって瀬戸君が秀才ってことには異存を申しません。寧ろ友人として誇りとしているくらいです」
 と安達君も元来は公明正大だ。
「あなただって、好いところが沢山ございますわ、学校の御成績はお悪くても」
「へゝえ」
「お悪いと申上げても、瀬戸さんや吉川さんに較べてのお話でございますよ」
「吉川君よりも好いんです。しかし席順が下になっていますから、今更何と言っても仕方ありません」
「あなたの好いところは御性格そのものよ。お父さんも認めていらっしゃいますわ。一番正直ですって」
「出し抜かれたんですから、自慢になりません」
「天真爛漫のところが好いんでございましょう」
「もう結構です」
「オホヽヽ」
「薄馬鹿扱いです」
「確かに瀬戸さんや吉川さんをお学びになる必要がございますわね」
 と佳子さんは好い気になってからかう。
「有難うございます」
「然う/\。学生新聞のお話でした。又参りましたの。今度は就職者氏名というところに瀬戸さんが出ていました。筆頭よ、而も」
「これは瀬戸君の宣伝を伺いに上ったようなものです」
「私、これは申込の準備工作でしょうと思っていましたら、果して第一着でございました」
「いつ頃でしたか? 申込みは」
一月ひとつきばかり前よ」
「それじゃ準備工作に半年かゝったんですね」
「仲人の吟味に念を入れたんですって。その代り溝淵閣下よ。とてえらい人よ」
「はゝあ」
「参謀本部から引っ張り出したんですから、瀬戸さんも必勝を期していらっしゃいますわ」
「しかし現役じゃないでしょう?」
「お古いんですって。大将よ」
「はゝあ」
 と安達君は悉皆気を呑まれてしまった。
 それから続いた話の模様によると、佳子さんは瀬戸君を第一、吉川君を第二、安達君を第三と定めているらしかった。安達君たるもの慌てざるを得ない。
「安達さんは学生時代にスポーツは何をおやりになりましたの?」
 と佳子さんは漸く安達君を問題にしてくれた。
「野球に庭球、それから水泳ですかな。しかし皆好い加減なところです」
「選手じゃございませんでしたの?」
「何うして/\」
「弼はあなたのことを何でも名人だと言って、感心していましたわ」
「一寸宣伝したんですよ。子供は直ぐに本気にします」
「然う/\、馬の名人だと申しました」
「馬は本当に名人です」
「お郷里くにに沢山飼ってあるんでございますってね?」
「はあ。僕のところは金持ちでなくて馬持ちです。一匹差上げましょうか?」
「オホヽヽヽ」
「ハッハヽヽヽ」
 と安達君は一町続きのエレベーターを思い出した。佳子さんが笑ったのも大谷夫人から夢の話が伝わっていたのだろう。
「馬ってお金のかゝるものですってね?」
「そんなことはありません。僕、今に一頭持って来て乗り廻そうと思っているんです」
「大変よ」
「何故ですか?」
「先刻溝淵閣下が馬のお蔭で貧乏になったお話をなさいましたわ。少佐になった時、初めて馬を戴いたんですって。少佐から馬に乗って出勤が出来るんですから、一国一城のあるじになったような心持で大威張りだったそうでございます。ところが、お上から戴く飼葉料かいばりょうが少いんですって。その上に厩のある家へ引っ越して、馬丁に給料を払うんですから、忽ち悲鳴を揚げてしまったと仰有いましたわ」
「成程、馬丁は僕が勤めても、厩が必要ですね」
「はあ」
「厩のある家を借りると、僕なんか月給が家賃で悉皆飛んでしまいます」
「それですから馬なんか飼うことはおやめになって戴きますわ」
「断然やめます」
「オホヽヽヽ、もうあなたが及第してしまったようなお話ね」
 と佳子さんは調子が好い。
 安達君は時の移るのを忘れて話し込んだ。大谷夫人がもう先刻退出したことを女中から聞き知って、
「それでは僕も失敬致します」
 と決心をつけた。惜しくはあるし、切っかけがなかったのだった。
「お待ち下さい。時間割を申上げますから」
「訪問日のですか?」
「はあ」
「吉川君は反対しましたが、定めて戴く方が皆の為めに好都合です」
「皆さんよりも私の為めよ。一人で三人の相手をするんじゃ敵いませんわ」
「成程、お察し申上げます」
「月火は瀬戸さん、水木は吉川さん、金土はあなた」
「結構です」
「夜分丈け」
「はあ。日曜は何うなりますか?」
「日曜はお休み」
「成程」
「あなた方は一週二日でも、私の方は寧日ねいじつなしですから」
御道理ごもっともです」
「その代りに日曜には私の方から奇襲的に訪問して差上げるかも知れません」
「はゝあ」
「私、気の向いたところへ伺います」
「是非何うぞ」
「その時御不在のようなら資格消滅よ。宜くて?」
「日曜の何時ですか?」
「それは申上げられませんわ。気の向いた時です。自分にも分りません。しかし、女ですから、日のある中でございましょう」
「すると日曜の日中は、何処へも出られませんね」
「当り前でしょう、それぐらい。クリスチャンは日曜を神さまに捧げるじゃございませんか?」
 と佳子さんは自ら任ずるところが高い。

用意周到の瀬戸君


 瀬戸君は元より有力者を仲人に頼んで押しを利かせる積りだったけれど、溝淵閣下のような大物が手に入るとは思わなかった。最初は全然心当りがなくて困った。卒業と就職を報告しながら、懇意な先輩を訪れて歩いた。その序に当って見る。実はその方が主眼だった。しかし橋本家と交際のあるものは一人もなかった。それから父親の友人数名を思い出した。その中に文部省の技師上りで謡曲うたいの師匠をしているのがある。父親も東京にいる頃、その人から手ほどきを受けた。瀬戸君は当時中学生だった。諸星もろぼしさんとお父さんが遠吠えをするから勉強が出来ないと言って、母親に苦情を申入れたことがある。しかしこれへ当って見る気になって訪ねて行ったら、よく覚えていてくれた。卒業して就職したことを話すと、諸星さんはもう謡曲の入門に来たと早合点をして、
「今日はこれからお稽古が始まりますから、聴いていらっしゃい」
 と言った。
「はあ」
「私のところは弟子の方が皆豪いんです。今日は溝淵閣下がお見えになります」
「陸軍大将ですか?」
「はあ」
「大将閣下なら郷里くにの先輩です」
 と瀬戸君は興味を催した。会ったことはないが、郷党の出世頭だ。
「それから松村閣下と橋本さん。これは何方も海軍です。軍人の古手に限りますよ。金がないから威張りません。皆先方むこうから足を運んで来てくれます」
「橋本さんと仰有ると閣下でしょう? 矢っ張り」
「いや、大佐です。兄さんはお二人とも閣下ですけれど、愚弟の方です」
「兄さんは狸穴まみあなにいらっしゃるんじゃありませんか?」
「それまでは存じません」
 と諸星さんは簡単に打ち切ったが、瀬戸君はもう占めたと思った。
 間もなく溝淵閣下と松村閣下と橋本大佐が揃った。瀬戸君は紹介して貰った。溝淵閣下と同郷だということを諸星さんが申添えた。
「矢張り宿毛すくもですか?」
「はあ」
「宿毛の瀬戸君というと瀬戸軍平さんのお身寄りじゃありませんか?」
「孫です、僕は」
「これは奇遇だ。私は軍平先生の弟子ですよ。郷里の小学校でお教えを受けました」
「はゝあ」
「四五年前に帰った時、一寸お目にかゝりましたが、以来お達者でしょうな?」
「元気です」
「もう大分御高齢でしょう? 私の先生ですから」
「七十八か九です」
だそんなところですか? 私が六十一だから、成程、その辺でしょう」
「閣下のお名前は子供の時から承わっていました。お目にかゝって光栄に存じます」
「いや、もう老骨の役に立たずです。閑人ひまじんですから、遊びに来て下さい」
「伺わせて戴きます」
 それで話が切れたところへ、
「これは驚きましたな。閣下も矢張り小学校の産物でございますか?」
 と橋本大佐が感想を洩らした。
「何も驚くことはなかろう」
「実は寺子屋産だとばかり思っていました」
「馬鹿にしちゃいけない」
「ハッハヽヽ」
「失礼ですが、橋本さんのお兄さんは狸穴にいらっしゃる閣下じゃございませんか?」
 と瀬戸君が訊いた。
うですよ」
「僕、橋本さんの直ぐ御近所に下宿しています」
「はゝあ」
「甥御さんのたすくさんが僕のところへ時々遊びにおいでになります」
「奇遇ですな、これも」
「何分宜しく」
「今日から御入門ですか?」
 と橋本さんは見当違いをしていた。
 当の橋本閣下でなくても、その弟を知っている人なら充分用が足りる。心当りが一遍に二人出来た。瀬戸君は謡曲の先生よりも溝淵閣下を適任者と認めたこと言うまでもない。早速訪問した。しかし差当りは閣下の信任をつちかうことに努めた。その必要から謡曲の方も諸星さんについて習い始めた。才物だからく。橋本大佐も目にかけてくれるようになった。それから頃合ころあいを見計らって閣下に事情を打ち明けたら、直ぐに引受けてくれたのである。
 瀬戸君はこの通り仲人が豪い上に橋本大佐が後見についているから、悠々として迫らない。瀬戸君が申込んだと聞いて突飛だと思った吉川君は考えが浅い。これは学校の成績にも当てまる。瀬戸君は努力家だ。吉川君や安達君が窺い知り得ない苦心をしている。唯出来るのではない。資するところが多いから自信がある。瀬戸君は縁談に於ても自信家だった。らゆる手数てかずを尽して成功を待っている。下宿の主婦とは随分懇意だけれど、安達君のように相談を持ちかけない。単に某名流の令嬢と話が始まっていると報告した丈けだった。
「閣下、今朝こんちょうは有難うございました。お忙しいところをお煩わせ申上げて、恐縮に存じます」
 と瀬戸君は早速お礼に馳せ参じた。宣戦布告の晩だった。
「いや、一向。うだったね? あれから」
「お蔭さまで印象が好いようでございます」
「令嬢と話したかね?」
「はあ」
「あれは家あたりのと違って、ナカ/\おキャンらしい」
「ドン/\突っ込んで来ますから、うっかりしていると此方こっちが受太刀になります。何しろ征伐してやるという意気込みです」
「征伐? 何ういう意味だろう?」
「将来頭の上らないようにする積りだろうと思います」
「此方で征伐してしまうんだ。女に負けていちゃ駄目だ」
 と溝淵閣下は元気が好い。
「しかし簡単に勝ってしまうと、感情を害しますから、かず離れずというところを行く方針です」
「貰いたい一心であんまり御機嫌を取ると、それこそ後から頭の上らないようになる」
「その辺も考えています」
「ほう。忘れていたが、先刻橋本閣下から電話があった。日を定めるそうだ。月火両日が君だ」
「はゝあ」
「その積りで」
「日曜はうなりますか?」
「さあ。それは聞かなかった。月火両日の晩ということだった。う君に伝えてくれということだったから丁度好い」
「有難うございました。早速又明日の晩伺います」
「見給え。君が矢張り筆頭だ。今日出し抜いた上に明日明後日と続くから、充分機先を制してしまうんだ」
「はあ。お蔭さまで好都合です」
「相手は何うだね?」
「あれから会いませんが、もうソロ/\出し抜かれたと気がついて、歯ぎしりをしているかも知れません」
「鮮かだったね。橋本閣下も感心していられたじゃないか?」
「ハッハヽヽ」
「あの調子だ」
「はあ」
「しかし内容がもっと深刻でないと利き目が薄い。今度は一つ積極的にガンと食わせるんだね」
「僕も何か考えます」
「此方が一歩進むことは先方むこうが一歩退くことだから、何んなことがあっても譲歩しちゃいかん」
「はあ」
「その二人が陸軍のものだと、一掃的にやる法があるんだけれど」
うなさいますか?」
「田舎の連隊へ追いこくってしまう」
「ハッハヽヽ」
「君は腕力は何うだね? 自信があるか?」
「さあ」
「土佐っぽうは強い筈だ。『だんめた、行くぞ』とやる」
「何ういう意味ですか?」
「談詰めたというのは言論の終り、行くぞというのは腕力の始まりを意味する。行くぞと言った時はもう行っている。これが古来土佐人の喧嘩の作法だ」
「初めて伺いました」
「この争いは早晩談詰める。その折は早く行き給え」
「しかし腕力は禁止です。腕力を出したものは資格を失うと橋本閣下が規定して下さいました」
「それは表向きさ」
「いや、佳子さんの姉さんの場合に実例があったんです」
 と瀬戸君は聞いているまゝを伝えた。
「それじゃそこを利用して、相手二人に喧嘩をやらせたらうだろう?」
「やりませんよ」
「いや、やらざるを得ないように仕掛ける。何か離間策があるだろう?」
「考えて見ますが、何うやらこのまゝで勝てそうな形勢です」
「自信があるかね?」
「はあ」
「それじゃ何か事件が起ったら、又相談に来なさい。然ういう時、巧く浪に乗ると早い。君が事件を起すのも一法だ。何かやらなければいかん。わしも考えて置く」
 と溝淵閣下は何処までも頼もしかった。

宣伝と教訓


 瀬戸君は小学校から大学まで優良の成績で通して来たのだから元来模範的だ。余り策を弄する必要はなかったのだが、成功を確実にする為めに、唯さえ申分ないところへ余所よそ行きを加えた。尚お将来佳子さんを支配する積りだから、暗々のうちに教訓を心掛けた。随って話が兎角道理に落ちて、自己宣伝のにおいがする。
「瀬戸さんは朝はお早いんでございますか?」
「はあ。この頃は五時です」
「まあ/\」
「東の空が紅いです。夕焼よりも朝焼の方が余っ程綺麗ですよ」
「私なんか寝坊ですから、見たことがございません」
「朝の時間は頭が好いから大切ですよ。僕は日本中の人がみんなもう一時間早く起きることにすれば、能率が挙がって、国家が富むだろうと思います」
「しかし一時間早く起きれば後がそれ丈け早く草臥くたびれますから、結局同じことでしょう」
「いや、習慣になれば平気です。僕は実行しています。僕は五時から六時半まで必ず読書をします」
 というような具合だ。宣伝らしくもあれば、教訓らしくもある。そこへ行くと吉川君あたりは違う。
「寝坊をして後れそうになると円タクです。三十銭に値切るんです」
「ひどいのね」
「しかしお金が惜しいんじゃないんです。値切るほど速く走ってくれるからです。遅刻はボーナスに影響しますから。三十銭なら円タクに乗っても引き合います」
「一寸伺いますが、ボーナスってものはお金でございましょう?」
「無論ですよ」
「それじゃ結局お金が惜しいんじゃございませんか?」
 と佳子さんは遣り込める機会がある。元来困らせてやると公言しているのだから、少し困ってやれば宜いのに、瀬戸君は試験場の心得だ。相手を実力で敬服させようと努力する。
「僕は毎朝始業の十分前に学校に着きます」
「御規則通りね。修身の」
「はあ?」
「常に十分前に着く人は成功するんでございましょう? オホヽ」
「しかし僕のは習慣です。学生時代からうでした。詰まり僕はその方が便利なんですね。手柄でも何でもありません」
「学校の方はお忙しいんでございましょう?」
「子供相手ですから、講義は知れたものですけれど、事務が厄介です。早く母校へ帰りたいです」
「お帰りになれば教授ね」
「助教授です、初めは。僕は卒業した時、助手になって母校に残れと言われたんですけれど、助手は二十円ですからね。もうこの上親のすねを齧りたくないと思って、稼ぐことを考えました」
「…………」
「しかし事務なんかで頭を使うくらいなら、一のことつぶしにしてしまう方が宜かったんです」
「潰しと仰有いますと?」
「会社へ入ることです。三井へでも三菱へでも入れたんです」
 と瀬戸君は本気になるほどいけない。成績の好いことはもう充分認められているのだけれど、相手二人と比較して貰いたいのだ。
「何かもっと面白いお話ありません?」
「さあ」
写真帳アルバム、御覧に入れましょうか?」
 と佳子さんは退屈してしまう。
 しかし瀬戸君も緊張していないと調子が好い。安達君とは正反対だ。
「僕、これでも人命救助をしておかみから御褒美を貰ったことがあるんですよ」
「本当?」
「中学生時代に郷里へ帰った時です。海水浴場でした。泳ぎを知らない巡査を助けたんです」
「まあ/\」
「ブク/\やっているものがありましたから、つかまえて来て引き揚げたら、巡査ってことが後から分りました。泳げないくせに深いところへ入ったんです」
「アベコベね、助ける人が助けられたんですから」
「それですから新聞がデカ/\と書き立てました。僕はお褒美に金五円戴きました」
「お安いものね」
「しかし中学生の五円です。味を占めて、以来游ぎを知らない巡査を探しているんですけど、もう見つかりません」
「オホヽヽヽ」
「ハッハヽヽ」
「もうございません? ういうお話」
「今度は失敗談です。これは吉川君も安達君も関係がありますから、差障さしさわりのところは含んで置いて戴きます」
「大丈夫よ」
「元来の責任は僕にあるんですから、僕は後から恨まれました。二三年前のことです。僕の郷里から出た土佐太夫という義太夫語りがあります。その人の後援会があって、僕は先輩から切符を三枚押しつけられました。吉川君と安達君に一枚ずつ買って貰って、三人で出掛けたと思って下さい」
「思って上げますわ。オホ」
「歌舞伎座でした。人形芝居です。歌舞伎座も人形芝居も皆初めてでしたから、珍らしかったんです。休憩時間に三人で話しているところへはかま穿いた人が来て、『お三人ともうぞ此方こちらへ』と言いました。僕は後援会ってことが頭にありましたから、これは御馳走が出るのだろうと思ったんです。丁度もう夕食の刻限でした。ついて行くと外です。自動車が待っていて、それへ案内されました。別に二人洋服の男がいつの間にか僕達の後ろについて来ていました。『何処へ食事に行くんですか?』と僕が訊いたんですけれど、三人は押し込むようにして、僕達三人を車の中へ入れてしまいました。同時に自分達も乗り込んで、窓のカーテンを下しました。『何処へ行くんですか?』『今に分るよ』と今度は返辞が荒いんです。その筈ですよ。つれて行かれた先は警察でした」
「まあ/\」
「吉川君はシク/\泣き出しました。僕達は一人々々調べられました。三人組の強盗の嫌疑がかゝったんです」
「無論人違いでございましょう?」
「当り前ですよ」
「オホヽヽヽ」
「その日の暁方に僕達の同級生の湧井という男の家へ三人組の強盗が入ったんです。僕達は湧井君から詳しい話を聞いていました。安達君が夕刊を持っていて、休憩時間に廊下のところで、『君、出たよ』と言って、僕に見せたんです。僕は読みながら、『違っているね、これは』と言いました。吉川君もよく知っていますから、『入ったところも出たところも違っている』と言って、記事の批評を始めたんです」
「それがお悪かったんでございましょう」
「えゝ。その次の休憩に取っ捉まったんですから」
「それから何うなりましたの? 警察の方は」
「僕達は○○大学の学生ですと言ったんですけれど、夏のことでカン/\帽に着流しでしたから、証明が出来ません。もう一つ具合の悪いことに、安達君の袂に捩子廻ねじまわしが入っていたんです」
うしてそんなものを持っていらしったんでしょう?」
「ラジオを直したまゝ入れて忘れていたんだそうですけれど、警察ではそんなことを言ったって承知してくれません。吉川君は泣きながらお父さんの身分を申立てました。鉄道省技師工学博士です。しかし本当にしてくれません。電話をかけて下さいと吉川君は大きな声で泣き出しました」
「まあ/\」
「間もなく吉川君のお父さんが見えて、嫌疑が晴れました」
「でも、ひどいのね、強盗なんて。何ぼ何でも」
「しかし考えて見ると無理もないんです。湧井君から悉皆すっかり聞いて、新聞の記事よりも詳しいところをしゃべっていたものですから、テッキリ犯人と思い込まれてしまったんです」
「御人相も多少一致していたんじゃございませんでしょうか?」
「はあ。警察の人も然う言って笑っていました。学生は矢張り学生らしい風をして出歩く方が宜いでしょうって。実際恰好も歌舞伎座の一等席と調和を欠いていたんです」
「屹度うよ。怪しいと思って目をつけていたところへ怪しいお話をお始めになったからですわ」
「あれには懲りました。折角の人形芝居をロク/\見ない中に挙げられてしまったんです」
「オホヽヽヽ」
「後から大笑いでしたが、その時は何うなることかと思いました。僕の責任だと二人は言うんです。僕が誘ったに相違ありませんが、新聞を出したのは安達君です。話さえ始まらなければ問題は起らなかったんですから、安達君の責任です。しかし安達君の説によると、吉川君の人相が強盗の一人に一番好く似ていた証拠に、吉川君が一番厳しく調べられたから、此奴こいつも責任があるというのです」
「面白いわ。もうございません?」
「そんなに度々あっちゃ溜まりませんよ」
 と瀬戸君も斯ういう話ばかりしていれば、佳子さんに喜ばれるのだが、秀才だという意識が強くなると、必ず倦怠を催させる。
「安達さんには新聞に出るほどの武勇伝がございましたわね」
「しかしあれは事実無根です。隣りの書生の手柄を奪ったんですから」
「あなた。何か武勇伝はございません?」
「さあ。ないこともありませんよ」
「一つ何うぞ」
「考えて見ます」
「あら、御創作じゃ駄目よ」
「ハッハヽヽ」
ずるいのね」
「いや、事実談です。壮漢を数名走らせました」
「まあ。豪いのね」
「後から僕が血相を変えて、韋駄天のように追って行きました。しかし先方むこうは追いつかれまいとして一生懸命です」
「何の時?」
「学校の運動会です」
「まあ」
「これをランニング競走と申します」
「美事引っかゝりましたわ。ナカ/\おやりになりますのね」
 と佳子さんは褒めてくれた。
 瀬戸君はこの通り、やればやれるのである。法螺ほらも吹けば吹ける。人命救助の話がその後問題になった。
「それは嘘ですよ」
 と吉川君が断定した。
「真面目で仰有いましたわ」
「申込書の賞罰のところに書き入れてありましたか?」
「書いてございませんの」
「嘘だからです。まさかそれまでは欺けません」
「私、悉皆すっかり本気にしてしまって、大いに敬意を表して上げましたわ」
「第一、瀬戸君自身が殆んど泳げないんです」
「あらまあ!」
「僕は一緒にプールへ行ったことがありますが、とても人を助ける腕前じゃありません。せいの立つところ丈けで活躍しているんです」
「中学生時代ですわ。その後御勉強ばかりなすってお忘れになったのかも知れません」
游泳およぎってものは一旦覚えれば、もう忘れるものじゃありません。中学生時代なんて、それが怪しい」
「お郷里の海水浴場でございますって」
「場面を遠方へ持って行ったのも怪しいです」
「それじゃ私、だまされたんでございますわ」
「恐らく話がアベコベでしょう。巡査に助けて貰ったんです」
「おまわりさんが助けられるなんて、前代未聞でございますからね」
「彼奴、臆病ものです。危険を冒して人を助けることなんか絶対にしません」
「でも、土佐人は強いと仰有っていましたわ。談詰めたってこと、あなた、御存知?」
「知りません」
「談詰めた、行くぞ。と仰有ると、もう血の雨が降るんでございますって」
「大分この頃は大きなことを言っているようですね」
「でも修身講話よりもうございますわ」
「安達君はこの頃何うですか?」
「お目にかゝりませんの?」
「はあ」
「御丈夫よ」
「相変らず僕の素っぱ抜きをやるでしょう?」
「でも、あの方丈けは嘘を仰有いませんわ」
「はゝあ」
「それだものですからとお断りになる時は嘘ですから、直ぐに分りますわ」
「悉皆癖を見られてしまったんですね」
「あなたのだって、私、もう見貫いてしまいましたの」
 と佳子さんは慧眼けいがんを誇った。

第三者の講評


 安達君は日曜を四つ待ち暮らしたけれど、佳子さんの奇襲訪問に接することが出来なかった。吉川君も瀬戸君も同様だった。佳子さんは一週に二晩御機嫌を取って貰えば、もう沢山らしい。しそれ以上を望むようなら、その候補者に傾いているのだろう。この故に奇襲訪問がメートルになる。従って三人とも首を長くして待っている。
「奥さん、今日は何うでございましょうかね?」
 と又日曜の朝、安達君は軍師の意見を求めた。
「未だよ。五分五分の形勢ですから」
「僕と吉川君ですか?」
「はあ。本当に互角ね」
「瀬戸君はもっといんでしょうか?」
「いゝえ、少し落伍しています」
「本当にうなら有難いんですけれど」
「私、一日置きに伺って、佳子さんにも奥さんにもお目にかゝりますから、大抵見当がつきますわ」
「丸尾さんも一日置きですか?」
「はあ。仲人まで日がきまってしまいましたの」
 と仲人は二重の競争になっている。
 久しぶりで小宮君が訪ねて来た。これは又許嫁の若子さんの御機嫌を取るので余念がない。親友四人、揃いも揃ったものだ。
「昨今は日曜の午前丈け自由行動を許して貰っている」
 と小宮君はもうそれだった。
「御無沙汰しちゃった」
「忙しいのかい?」
「うむ。何かとね」
「こゝへ来れば、一石二鳥だ。大いに話そうと思ってやって来たんだ。早速だが、吉川君を呼んでくれ給え」
「来ないよ、吉川君は」
「何故?」
「日曜は出ないんだ」
「それじゃ此方から押しかけよう」
「僕も日曜は出られない」
うして?」
次第わけがあるんだ」
「喧嘩したんだろう?」
「いや、違う」
「それじゃ何ういう次第わけだい?」
「話そうか?」
 と安達君は決心して、一部始終を物語った。小宮君は一向驚かなかった。学生時代に始終一緒で薄々感づいていたから、
「イヨ/\始まったのか? 君達二人は当り前だけれど」
 と言って、瀬戸君の立候補丈けを案外に思ったようだった。
「三人混戦さ」
「成程、思い当った」
「何かあったのかい?」
「この前の日曜に瀬戸君のところへ行ったんだよ。此方へ誘って来ようと思ったら、日曜は出ないと言っていた」
「待っているのさ」
「面白いな、これは」
「誰のところへお鉢が廻るだろうか?」
「さあ。吉川君と君は丁度好い勝負だ」
「二人で取っ組んでいる間に、瀬戸君にさらわれるんじゃなかろうかと思うんだ」
「瀬戸君は駄目だろう」
「何故?」
「若子さんが言っていた。瀬戸さんって人は秀才が鼻の先にぶら下っていますわねって」
「秀才だから怖いんだよ」
「いや、それがかえって祟っているんだ。君と吉川君の方がグッと評判が好い。殊に君が好い」
うして分る?」
「若子さんが言っている」
「何だ? 僕は若子さんを貰うんじゃないよ」
「貰われて溜まるものか?」
「仕方がないんだね」
「私、安達さんが一番好きよ。サッパリしていてと言うんだ」
「若子さんが何と言ってくれても、佳子さんの方の足しにはならない」
「いや、若子さんの言うことはやがて佳子さんの言うことだ。何方も似たり寄ったりの現代女性だからね」
「若子さんは我儘かい?」
とても。自分でもう言っている」
「佳子さんも然う言っている」
「見給え」
「君を遣り込めるかい?」
「僕は遣り込められ通しだよ」
「時間を間違えると憤るかい?」
「憤るとも。今日だって十二時キッカリに帰らなければ、早速お冠だ。知らないわよと来て、口をきいて貰えない」
「然ういう時は君の方からあやまり閉口するんだろう?」
 と安達君は語るに落ちている。
「閉口はしない。冗談を言って御機嫌を取る」
「成程」
「君も大分やられているんだろう?」
「うむ。実は昨夜は出勤の時間が少しおくれたんだ。すると佳子さんは口をきいてくれない。僕にばかり喋らせている」
「然ういうものだよ」
「お憤りになったんですかと訊いて見た。常識は何処につけていますのと来た。君、常識は何処へつけて置くものだろう?」
「訊いて見給え」
「叱られるよ。此方こっちはあやまる一方さ」
「あやまる方が弁解よりも早い。先方むこうは単に権威を感じたいんだから」
「時々ひどい目に会わされる」
「それが宜いんだよ。その度に交渉が深くなるんだから」
「成程」
「吉川君も恐らく君と同じようだろう。しかし瀬戸君は違う。好漢、惜しむらくは兵を知らない」
「知っているんだよ。陸軍大将を仲人に頼んで画策しているんだから」
「いや、これは正面攻撃の問題じゃない。瀬戸君は見合なら有望だけれど、求婚交際コート・シップとなると、君の恐れている成績が却って祟る。女というものは秀才を鼻の先にぶらさげている人間が嫌いだ。もっと人間味のある人間、即ち僕の如きものを好む」
「又始まった」
「瀬戸君の悪口を言うんじゃないが、あの男は長所が欠点だ。秀才という自覚は結構だけれど、その為め飛んでもない考え違いをしている。学校で成績の好かったものは社会へ出ても特別待遇を受ける資格があると思っているんだ。これは君の目にも見えるだろう?」
「見える」
「そんな大それた料簡で交際したって、御機嫌の取れる筈がない。女性というものは特別待遇をしてくれるものを喜ぶんだ。要求と要求がカチ合ってしまう」
「成程」
「僕は太鼓判をして置く」
「何に捺すんだい?」
「瀬戸君が間もなく競争圏外へ駆逐されるということを保証する」
「それから?」
「それ丈けさ。後は君と吉川君の一騎討ちだ。大いにやり給え」
「何方だろうね?」
「そこまでは分らない。あるいは君かとも思うんだ。若子さんが君が一番好きだと言っていたから」
 と小宮君は又若子さんの標準に戻った。
「何か策はないかね?」
「さあ。あっても授けられない。僕は君にも吉川君にも親友だ」
「君と若子さんとの話はいつ頃から始まってういう経過を取ったんだね? チャンときまるまでに」
「幾度も話したじゃないか?」
「実はよく聞いていなかったんだ。しかし今度は参考になるから、改めて伺いたい」
「無論参考になるけれど、同時に不公平になるから話さない。僕はもう吉川君のところへも寄らないで帰る。勝負のつくまでは何方にも会わないことにしよう」
「恐ろしく堅いんだね」
「そこを若子さんにも認めて貰っているんだ」
「又始める」
「ハッハヽヽ」
「僕は実は君に発表するのを恐れていたんだ。君は何方かというと僕達よりも瀬戸君と関係が深いから」
「深いよりも古いんだ。それ丈けに奴の性格が分っている。実はこの間議論をして癪に障っているんだ」
「ふうむ」
「今も言った通り、瀬戸君は学校の成績が人生全般の尺度だ。点数で人間の値打をめている。御承知の通り、僕は四人の中で一番ビリだ。学校でも点数で甲乙をつけて、お前は今度は仮及かりきゅうだなんて言うんだから、瀬戸君に馬鹿にされても黙っていたけれど、社会へ出た今日はもう承知出来ない」
「成程」
「この間、僕のところは支配人初め皆小店員上りだと言ったら、それじゃ駄目じゃないかって、頭ごなしさ。点数で定めるくらいだから、学校を出ていない人間は存在さえ認めない。しかし僕は考えが違う。大いにやったんだよ」
「成程」
「学校ってものがなかった時代を考えて見ろと言ってやった。秀吉は何処の大学を卒業したかと言ってやった」
「ハッハヽヽ」
「学校で点数の取りっこをするのはスポーツに過ぎない。僕はういう意見だが、んなものだろう?」
「さあ、俄かに首肯し難い」
「頭のスポーツだと思うんだ。碁や将棋の類だと認める。碁打ちや将棋差しはそれ自身としては豪いだろうが、碁将棋が強いからって、大臣や重役にはなれない。その方は又別だ」
「そんな議論をしたのかい?」
「うむ。点数の取りっこが上手だって、代議士にもなれないと言ってやった」
「瀬戸君は何と答えた?」
「彼奴は議論と来ると自信があるから、厭に落ちついている。『見てい給え。今に成績の悪い奴等が悲鳴を揚げるから』と言った。考えて見ると君達のことだ」
「ふうむ」
「成程、種々いろいろと思い当る。正月年始に来る時には顔を洗って来給えと言った。僕は博士論文にしては早過ぎると思ったが、奴、正月までに君達二人を片付ける積りだ」
 と小宮君は尚お話し続けて、十二時キッカリに間に合うように帰って行った。

横取り仲人


 瀬戸君は溝淵閣下を度々訪れた。報告と相談の為めだった。
「何うだね?」
 といつも閣下の方から膝を進めて訊いてくれるのは有難かった。
「相変らずでございます」
曠日弥久こうじつびきゅうというところかな?」
「はあ」
「持久戦なら実力者が当然勝つ。もうソロ/\何とか旗色が分りそうなものだが」
「形勢渾沌こんとんでございます」
「一つ何かやったらうだろう? 唯待ってばかりいたんじゃ、埓が明かん」
「策の施しようがないんです。塹壕戦ですね、先ず」
「よし。考えて置こう」
「何分宜しく」
 と瀬戸君もいつも同じことだった。橋本家の様子を伝えて、それから世間話のお相手をする。閣下の前で謡曲をやって直して貰うこともある。
 或晩、瀬戸君が辞し去った後、
「何うだろうね? 瀬戸は」
 と溝淵閣下が奥さんに話しかけた。
「何でございますか?」
「あれは陸軍なら軍刀組だ。申分ない」
「本当にハキ/\していらしって、頭の好いお方のようでございます」
「何うだろうね?」
「はあ?」
「富士子の婿に」
「まあ!」
 と奥さんは全く意外だった。
「丁度好いようじゃないか?」
「しかしお仲人を引受けていらっしゃるんですから」
「いや、構わん。横取り仲人だ」
「そんなこと」
「一体三人の中から一人選ばせるなんて、橋本君も贅沢の沙汰だ。計略を用いて取ってしまう」
「大変でございますよ」
「いや、わしは初めから考えていたんだ。第一、同郷で身許が分っている。橋本君も娘があるんだから、此方の心持を諒察してくれるだろう」
 と溝淵閣下は平気なものだった。その都度つど瀬戸君に向って考えて置くと言ったのはこのことらしい。
「…………」
「富士子はうだろう? 瀬戸とは二三度顔を合せているね」
「はあ」
「何と言っている?」
「別にこれってことも申しません」
「一つ意向を訊いて御覧」
「富士子に異存がなければ、お嫁に貰って戴けるんでございますか?」
「それは無論だ。此方が仲人を引受けているんだからお手のものさ」
「兎に角、訊いて見ましょう」
 と奥さんも娘の為めに好い婿が欲しい。一番の末っ子だ。これが片付けばもう悉皆すっかり安心が出来る。
 富士子さんは矢張り綺麗な人だから自信がある。両親から橋本令嬢の話をしきりに聞かされていたが、負けない積りだった。何のことやあると思っている。
「三人のお相手をするなんて、変な人ね。お母さんはそんな方に感心していらっしゃいますの?」
「感心なんかしませんけれど、ういう御家風だそうですから」
「私、そんな人、志操堅固な令嬢とは存じませんわ」
「でもお目にかゝって見ると、極く無邪気な方よ」
「流行の朗かタイプ?」
「えゝ」
「綺麗?」
「先ず美人の方でございましょう」
「引き眉でもしていらっしゃるんでしょう?」
「そんなこともありません。極く当り前のお嬢さんよ。お前にもお目にかゝりたいと仰有っていました」
「御免こうむりますわ」
 ということになっていた。
 志操堅固な溝淵令嬢富士子さんはお母さんから瀬戸君の問題を持ち出された時、
いやなことよ、私。橋本さんで嫌われた人なんか!」
 と先ず一しゅうした。それぐらいの見識はあるのが当り前だ。
「然ういう意味じゃございませんのよ。瀬戸さんは一番の秀才ですから、橋本さんの方も一番形勢がお宜しいんですって」
「それなら橋本さんのお嬢さんをお貰いになれますから、願ったり叶ったりでございましょう」
あんまり好い候補者ですから惜しいと仰有いますの、お父さんが」
「でも橋本さんのお嬢さんがお好きなんですから」
「それが何とも分りませんわ、単に競争の為めの競争かも知れませんから」
 とお母さんもこの辺、ナカ/\容易でない。
「私、兎に角、御免蒙りますわ」
「それじゃ瀬戸さんが何うしてもお前が欲しいと仰有ったら何う?」
先方むこうで断られておいでになって、そんなことを仰有るなら、私を侮辱しているんですわ」
「お父さんお母さんがついていますのよ。かりそめにもお前が引けを取るようなことなら、お父さんお母さんが先にお断り致しますわ」
「するともっと変なことになりますのね」
んなことに?」
「横取りってことになりますわ」
「早いお話が先ず然うね。嫌われた人を此方へ廻して戴くのなら不見識ですけれど、お父さんは横取り仲人が予定の行動だと仰有っています。初めからお考えになって、九、十、十一と三月も人物試験をなすった後、これなら大丈夫とお見込が立ったんでございますって」
「でも私、そんな意味で瀬戸さんにお目にかゝっていませんもの」
「私も今までお父さんの御方針に一向気がつかなかったんですけれど、おいでになる度にお目にかゝって、申分ない人だと思っていますの」
「お父さんお母さんのお気に召しても、私の気に入らなければ駄目でございますわ」
「それは無論お前本位よ。お前のお婿さんですもの。学校の先生は嫌い?」
「そんなことはありませんけれど」
「将来○○大学へ戻って、教授にも博士にもなれるんですから、本当に前途有望ってものでしょう」
「それも伺っていますけれど、私、風采にも註文がございますから」
「立派な人じゃございませんか?」
「よく拝見していないんですもの。二三度偶然お目にかゝったばかりですから」
「それじゃ今度お出になった時、ゆっくりお話を伺って見たらうですか?」
うね。お母さんはお加減が悪いってことにして、私がお接待に出ればうございますわね」
「えゝ」
「それじゃ然うして見ますけれど、私、大抵お断りよ。橋本さんへ日参をなさる御精神が感心出来ませんから」
「無理にとは申しませんわ」
 とお母さんはその辺で満足した。好い婿だと思っているけれど、横取りということがやましい。
 瀬戸君は大変な仲人を選び当てた。その次に溝淵閣下を訪問した時は見合だった。もっとも自分は然うと気のつく筈もない。佳子さん相手の折と違って、為めにするところがなかったから、態度が申分なかった。風采はもとより橋本さんの方で及第をしている。富士子さんは好い印象を受けた。
「お父さん、私、瀬戸さんなら、御交際を願っても宜うございますわ」
わしが三月に亙って考査を重ねた丈けのことがあるだろう」
「でも橋本さんの方の御成績がお悪いんじゃございません?」
「いや、彼方あっちが好いから此方こっちへ欲しい。悪いようなら彼方へ譲る。つまり橋本さんで手放すようならお断りで、手放さないようなら是非欲しいというんだから、此方は少し註文が無理だ」
「大変御無理じゃございませんか?」
「何うも矛盾していると思って、よく考えて見たら、その筈さ。横取りってことになるんだから」
「橋本さんでお気を悪くなさりはしませんでしょうか?」
「多少は仕方がない。お父さんは後から平身低頭してあやまる積りだ。橋本さんも親心は分っているんだから、快く理解してくれるだろう」
「私、横取りなら気が進みますの」
流石さすがわしの娘だ」
「しかし先方むこうでお断りを受けた方なら絶対に御免蒙りますわ」
「それは先刻の話でも分っているだろう。相変らず互角の形勢だと言っていたじゃないか?」
「はあ」
わしは何かやらんとらちが明かんから喧嘩をしろと勧めて置いた」
「はあ」
「三人の候補者の中で一番優勢らしい。成績が好いんだ。陸軍なら正に軍刀組だ。お父さんもお母さんも決してお前の引け目になるようなことはしない」
「お父さんお母さんの思召おぼしめしに従わせて戴きます」
「宜しい。然るべく取計らう。今度はお父さんも楽だ」
「何故でございますか?」
「味方の陣地へ大砲を打っ放すんだから、狙いのはずれる心配がない」
 と閣下は満足だった。
「オホヽヽヽ」
たまが敵方から飛んで来たようにお見せになる丈けが御苦心でございましょう」
 とお母さんも流石に大将夫人だ。
「三人もあるんだから、一人ぐらい取ってやる方が問題を簡単にする。橋本君からお礼を言われても宜いんだ」
「瀬戸さんは今度いつお見えになりますの?」
「来週の今晩だ。一週間毎に報告に来るんだが、もっと早く呼びつけても宜い」
「私、橋本さんの方からお断りして戴くのなら、厭でございますわ。いやしくも断られたかたなんか相手に致しません」
「断って貰うには頼まなければならん。俺は頭は下げない。橋本君ぐるみ引っかけてやる」
「まあ/\」
「お父さんに任せて置きなさい」
「宜しくお願い申上げます」
 と富士子さんは決心がついた。

神算鬼謀


 翌日、溝淵閣下は橋本閣下を訪れた。以来月余、夫人に一度足を運ばせたきり、全く御無沙汰をしていたところを見ると、草鞋わらじ千足の仲人でない。確かに初めから横取りの意思があったのである。御無沙汰のお詫びをした後、
「実は橋本閣下、私は今日は坊主になってまかり出なければならないのですが、この禿頭はげあたまに免じて、特別の御用捨ごようしゃを願います」
 と切り出した。
「何と仰有いますか?」
「切腹ものです。面をかぶって伺いました。何とも申訳がありません」
「閣下、何うもお話が籔から棒で領解に苦しみます」
「瀬戸の件です。飛んだものを御推薦申上げました」
「はゝあ」
「無論本人としては申分ありません。成績の好い青年ですから、大丈夫と思っていましたが、斯ういうことは矢張り慎重の上にも慎重に調査しませんと、後から取り返しのつかないことが起ります。昨日偶然聞き込んだのであります」
「何でございますか? 一体」
「昨日郷里から親戚のものが見えました。その男の話によりますと、瀬戸の家は血統に故障があります」
「はゝあ」
「知らないでいればそれまでの話ですが、いやしくも耳に入った以上は仲人として黙っていられません。瀬戸の家からは代々発狂者が出るということであります。私は若い頃、瀬尾という家がうだと聞いていましたから、瀬尾の間違だろうと申しましたが、親戚のものは始終郷里にいますから確かです。瀬戸家と瀬尾家は親類同志で、両方とも伝統的にいけないと申しました」
「はゝあ」
「これはうしたものでございましょうかな」
「さあ」
「私から瀬尾に、いや瀬戸に申しつけて、差控さしひかえさせるのが責任かと存じます」
「一つ家内に相談して見ましょう」
 と橋本閣下は奥さんを呼んで、手短かに話した。他に互角の競争者が二人あれば、一寸でも欠点のあるものは除外される。奥さんは無論二の足だった。橋本閣下も首を傾げて、結局、瀬戸君を断ることになった。
「閣下、これは差当り必ず御口外下さらないように」
「はあ」
「溝淵が東京で郷党の素っぱぬきをしたと言われると立場に困ります」
 と溝淵閣下は如才ない。差当りと断っている。後から種を明かしてあやまる積りだから、充分に嘘をつく。
「その点は心得ましたが、瀬戸君の方は閣下からお願い申上げます」
「はあ。私から因果を含めましょう」
「矢張り御縁がなかったんですな」
「気の毒ですよ。本人に責任のないことですから」
「佳子にも申しません」
「何分差当り御内聞に」
「しかし瀬戸君が急に見えなくなると不審に思いましょう」
「その辺も宜しくお取りつくろいを願います」
「承知しました」
「他の二人は大喜びをすることでしょう。ハッハヽヽ」
「二人にも然るべく取り繕う必要があります。別に有力な縁談が始まったとでも申して置きましょう」
 と橋本閣下は一寸凄いことを言った。
 瀬戸君は速達で溝淵閣下のところへ呼びつけられた。直ぐに出頭したら、閣下と二人きりの対談だった。
「何うだね? 形勢は」
「あのまゝでございます。だ次の番が廻って来ません」
「実は君に一つ注意したいことがあって、御足労を願った」
「有難うございました。余りいつも同じことですから、もう何か策を使っても好い時分でしょう」
「いや、策ではない。今朝俺は海軍の軍医上りの友人に会った。丁度橋本家へ偵察に出掛けようと思って支度をしたところへやって来たものだから、橋本ってことを言ったら、その男が橋本家のかゝりつけの医者だった」
「はゝあ」
「此奴を手なずけて置くのも一法と考えて、君の縁談のことを話したんだ。すると奴、薄笑いをしている。君は何を笑うかと訊いたら、橋本閣下の令嬢は美人には相違ないが、閣下は仲人をお断りになる方がお勝ちでしょうと言うんだ」
「はゝあ」
「病気があるんだそうだ」
ういう御病気ですか?」
「それをナカ/\言わないんだ。橋本家から内聞に頼まれているから堪忍してくれとあやまるんだ。しかし俺は承知しない」
「はゝあ」
「到頭言ったよ」
「何ういう御病気ですか?」
「それが甚だ具合が悪いんだ。士君子しくんしとして云いにくいんだ」
「はゝあ」
「医者は単に夜間やかんしとねひたす病気ですと言った。俺もそれで想像がついたから、君も常識で判断してくれ給え」
「…………」
「分ったかね?」
「夜間褥を浸す病気」
「赤ん坊のようなものだ」
「はゝあ。分りました」
「それじゃ困るだろう? お嫁さんに貰うんだから」
「…………」
「敢えて辞さないと言うかね?」
「本当でしょうか?」
「嘘を言うものか、橋本家のかゝりつけの医者で、年来その治療に肝胆を砕いているんだから」
「直らないものでしょうか?」
「そこまでは聞かなかったが、持病だろうと思う」
「僕、一つその医者と相談して見たいんです」
「それはわしが困る。俺が責めたものだから、内証で打ち明けたんだ。医者には病気の種類によって、職業上の秘密がある」
「…………」
「俺を信じてくれなければ困るな」
「無論、僕は閣下を師父と仰いでいますけれど、ういう病気は直ると思っていますから」
「直る直らないの問題でなくて、俺は有坂、いや、その医者から聞いたところをそのまゝ君に伝えるのが責任だと感じたまでだ」
「はあ」
「知らなければ兎に角、耳に入った以上は仲人として、注意して置く必要がある。知っていながら、そんなお嬢さんを何故世話したかと君のお祖父さんなりお父さんなりから詰問された場合、返答が出来ない」
「御親切有難うございます」
「何うするかね?」
「御心配には及びません。僕は然ういう病気は必ず直ると思っています。実は僕の中学時代の親友にそんなのがあったんです」
「ふうむ」
「級担任の先生が催眠術をかけて直しました。それで僕は催眠術に興味を持って、先生から習いましたから、僕の力で直せる積りです」
「ふうむ。君が催眠術をかけるのかね?」
「はあ。自信があります。し僕でいけないようなら、先生を頼みます。先生は学校の方よりもその方が大家たいかです」
「成程」
 と溝淵閣下は驚いた。実は種々いろいろと病気を考えた末、これなら本人にも家の人にも確めることの出来ないと思うのを持ち出したのだが、偶然にも相手はそれを直す方便を持ち合せていたのである。
「僕、これで一寸玄人くろうとです」
「それは好都合だったな」
「病癖は大抵暗示で直ります」
「兎に角、今の話は絶対に含んで置かんといかん」
「はあ」
「病気という程のものでない。殊に君の手で直せるものなら問題にならん。俺も安心した。今まで通りに油断なくやるんだね」
「何分宜しく」
「一つ策を考えるかな?」
「はあ。お願い申上げます」
「今晩はゆっくり話して行き給え」
「しかしお邪魔じゃございませんか?」
「いや、一向。久しぶりで『竹生島ちくぶしま』をやって見ないか?」
「さあ」
「この頃は稽古の方は何うだね?」
「怠けています」
「それはいけない。一つやって見給え」
「御清聴を汚します」
 と瀬戸君は一番やってのけた。無論未熟だから調子が外れる。閣下はそのはずれる程度によって毒瓦斯どくガスき目を試めす積りだったが、瀬戸君は案外の成績だった。
「如何でございましたか?」
 と奥さんが後から訊いた。
「失敗したよ」
「まあ!」
「策を誤った。しかし富士子には黙っていなさい」
「はあ。矢張り彼方あちらはナカ/\お諦めになりませんか?」
う一ちょうせきに行くまい」
「そんな風でしたら、お沙汰止みになさる方が富士子の為めじゃございませんでしょうか?」
「いや、橋本君の方のが利いている」
「此方の毒瓦斯政略と仰有るのは何ういうお仕掛けでございましたか?」
「いや、もう兵を語らずだ。その中に又出直す。ハッハヽヽ」
 と閣下は笑うばかりだった。

毒瓦斯の利き目


 橋本家では既に溝淵閣下に因果を含められた筈の瀬戸君が平気でノコ/\やって来たものだから、閣下と奥さんは顔を見合せて首を傾げた。当然先方むこうから遠退くだろうから、その時でおそくないと思って、佳子さんには未だ何とも言ってない。瀬戸君は昨今可なり形勢が好かったのである。溝淵閣下のところへ行けば、相変らずだと言っていても、それは閣下なり夫人なりに出動を願いたいからの駈引で、自分では遙かに吉川君と安達君をしのいでいる積りだった。手心が分って来た。佳子さんは頭の好い証明よりも軽い世間話を喜ぶ。修身講話よりも冗談の方が応接間に調和する。それで昨今は大いに心掛けている。
「佳子さん、面白いお話があるんですよ」
 と瀬戸君は間もなく取りかゝった。
「何あに?」
「僕は今日は学校の帰りを校長のところへ引っ張られて、晩餐の御馳走になったものですから、もう少しでおくれるところでした」
「丁度キッカリよ」
「その代り面白いお話を聞いて来ました。僕の方の校長は酒飲みです。或晩、酔っ払って、円タクに乗ったんです。乗ったと思うと、よろけて、もう一方の入口から外へ落ちてしまいました。酔っていると時間の長短が分らないんだそうです。もう家へ着いた積りで、『幾ら?』と運転手に訊きました。『一円』『宜しい』自動車は只儲けをして走って行ってしまいました。校長は元のところで頻りに家を探していました」
「秀逸ね」
「これで酔っても本性を違えないと言って自慢している先生ですから、恐れ入ります」
「オホヽヽヽ」
「しかし痛快な人ですよ。学問も好かったらしいです。商科大学を一番で卒業しています」
「あなたは御信用があるんでございましょう?」
「さあ、悪いことはない積りです。今日なんかも、是非来いと仰有って、否応いやおうを言わせません。しかし後から考えて見ると、先生、魂胆があったんです」
「何あに?」
「いや、これはやめて置きます」
「仰有いよ」
「申上げましょうか? 実は縁談を勧められたんです」
「まあ/\、結構でございますこと」
「ハッハヽヽ」
「何んなお嫁さん?」
 と佳子さんは興味を持ったようだった。
「一向分りません。固辞こじして受けずですから」
「さあ、うでございましょうか?」
「本当です。実はもうきまっていますと申上げました」
「定っていらっしゃいますの?」
「はあ」
「何処の何というお方? 奥さんは」
「ハッハヽヽ」
「私、そんな責任は負いませんよ。今から直ぐおいでになって、お取消しをなすったら如何いかが?」
「武士に二言なしです。それこそ信用にかゝわります」
「何ういう身分のお方?」
「直ぐお断りしたものですから、内容は伺いませんでした」
 と瀬戸君、忠勤振りを示した積りだった。同時に秀才だから方々から狙われているという含蓄がんちくもあった。早くお定めにならないと御損をしますということになる。
「校長先生、御機嫌がお悪かったでしょう?」
「いや、そんな料簡りょうけんの狭い人じゃありません。後は世間話でした」
「吉川さんも御縁談があったんでございますって」
「はゝあ」
「三つも四つもあるのをお断りしているんですって。これは少し宣伝ね。丸尾夫人のお話ですから」
「あの奥さん、始終お見えになりますか?」
「はあ」
「大谷夫人は如何ですか?」
「あの方も負けてはいらっしゃいませんわ」
「僕丈けですね、仲人が冷淡なのは」
「大将閣下夫人ですもの、う軽々しく御出動なさいませんわ。でもこの間閣下がお見えになりましたわね」
「僕のこと、何とか仰有っていましたか?」
「私、お目にかゝりませんの。つい出歩いていたものですから」
「何処へお出掛けになりましたか?」
「丸尾さんのところへ伺いました。吉川さんもよ」
「はゝあ」
「嘘よ。昼間ですもの。会社がありますわ」
 と佳子さんは一寸からかったのだった。
「奇襲訪問はだでしょうね?」
「はあ」
「僕のところは遠くて足場が悪いから損です」
「自然後廻しになりますわね。私、知らないんですから」
「地図を描いて置きましょう」
「大崎の駅からお近いんでしょう?」
五反田ごたんだですよ。心細いですな。いて置きます」
 と瀬戸君は学校の帰りだったから、用意が好かった。ノートから一枚き取って、詳細な地図をしたためた。
「宣伝が足りませんのね。私、大崎とばかり思っていましたの」
「駄目です。これは溝淵閣下よりも校長を顧問にする方が早いかも知れません」
「何故?」
「校長は奇策縦横です。今晩も『君、若し君が運転手だったら何うする? 考えて見給え』と言って、素晴らしい着想を発表しました。秘伝ですけれど、公開しましょうか?」
「私、運転手じゃございませんから」
「しかし応用が利きます。自動車の席のカバーに五十銭銀貨を一枚紋つきのようにクッキリ染め抜いて置くんですって、如実に五十銭と見せる為めには刺繍の方が宜かろうと申しました。自動車を値切る時、窓に捉まって中を覗く人があるでしょう?」
「はあ」
「然ういう連中を引っかけるんです。覗いて見ると席のところに五十銭銀貨が一枚落ちています。運転手は前を向いていますから知りません。廃物利用って気になります。もう値切りません。少し高くたって、五十銭戻し税がつく積りです。しかし乗ってからっと取ろうとすると、何とまあ、お呪禁まじない種玉子たねたまごだというんです」
「オホヽヽヽ」
ずるい人間の心理を穿うがち得た名案でしょう?」
「はあ」
「僕なんか大丈夫ですけれど、吉川君あたりが引っかゝりましょう」
「まあ、突如いきなり人身攻撃?」
「ハッハヽヽ」
「駄目よ」
「安達君あたりは馬鹿正直ですから、『運転手さん、五十銭落ちていますよ』と念を入れて、かえって笑われましょう」
うかも知れませんわね」
 お話し続けているところへお母さんが現れた。いつもは放任してあるけれど、溝淵閣下から話があったから気になって様子を見に来たのだった。
「佳子や、お前、夕方のお薬を戴きましたの?」
 とお母さんはそれが唯一ゆいつの用向きのように訊いた。
「あら、私、忘れていましたわ」
「いけませんよ」
「戴いて参ります」
 と佳子さんは急いで出て行った。これが瀬戸君に求婚者として致命的な思いつきを与えた。
「何処かお悪いんでございますか? 佳子さんは」
「いゝえ、一向」
「しかしお薬をおあがりになるんですから」
「何とかいう独逸ドイツの健康剤でございます。お医者さまに勧められて、この間からめしに服用していますの」
「お医者さんは軍医の方ですか?」
「はあ」
「その健康剤が利きますか?」
「何うでございましょうか? 何処も悪いんじゃございませんから」
「…………」
「あれは物を気にする性分でございまして、以前同級生で仲の好い方がこの頃胸の病気におかゝりになったものですから、自分も心配してお医者さまに見て戴きました」
「はゝあ」
「何のこともございませんけれど、何か用心のお薬をと申すものですから、お医者さまが健康剤をお勧め下さいました」
「成程」
「神経質のものは困りますわね」
「奥さん」
「はあ!」
「僕、佳子さんの御病気が分っているんでございます」
「まあ!」
「直す法も知っています」
「しかし佳子はあの通り丈夫で何処も悪いんじゃございませんよ」
「病気と申上げると、語弊ごへいがあります。病癖でございます。それから、それにともなう恐怖心……」
「瀬戸さん、失礼ながら、あなたは何かお考え違いをしていらっしゃいますわ」
「いや、僕丈けには決しておかくしになるに及びません。実は僕それについて、奥さんに折り入って御相談申上げたいと思っていたところですから」
 と瀬戸君が一生懸命になった時、佳子さんが戻って来た。
ういうお話でございますか?」
 と奥さんは合点に苦しむばかりだった。
「佳子さんがお見えになりましたから、何れ又改めて」
「一向構いませんのよ」
「いや」
「何あに? 瀬戸さん」
 と佳子さんが怪しんだ。
 瀬戸君はその晩帰りに又奥さんにお目にかゝった。持久戦で焦り気味のところだったから、手柄を立てゝ、一気呵成かせいに勝ちを制する積りだった。病癖については士君子の口にし難いところとして明言を避けたが、自分の力で矯正出来るから御安心下さるようにと繰り返して主張した。溝淵閣下から封じられていたから、当り触りのない程度を守ったのである。その為めひと合点がてんになってしまって、相手には何のことか見当がつかない。遠廻しに徹底させようとするから苦しい。目を白黒していた。奥さんは好い加減にあしらって送り出した後、直ぐに閣下に相談した。
「して見ると、溝淵閣下の懸念は矢張り本当に根拠があるんだよ」
「無論でございますわ」
「もうソロ/\始まっているんだ」
「何を言っていらっしゃるのか分りませんの。表情が如何にも煩悶的でございました」
「閣下に因果を含められて、軽い発作ほっさを起したのかも知れない」
うも当り前じゃございませんよ」
 と閣下夫婦は再び首を傾げた。
「お母さん、瀬戸さんは何ういう御相談でございましたの?」
 と佳子さんが聞きたがった。
「一向分りませんの、唯お前に病癖があると仰有る丈けで」
「病癖?」
「はあ。お前は何か瀬戸さんに申上げたことがありますの?」
「何かって何あに?」
「ヒステリーか何かと思われるようなことを」
「いゝえ、一向」
「お前には士君子の口にし難いような病癖があるんですって」
「まあ!」
「人聞きが悪いじゃありませんか?」
「何て失礼な人でしょう!」
 と佳子さんは憤慨した。
「何のことだろうね? しかし」
 と閣下が疑問にした。
「想像がつきませんわ」
 とこれは奥さんだった。
「士君子の口にし難い病癖と。病気じゃないんだね?」
「はあ。病気では語弊があると仰有いました」
「すると万引だろうか?」
「厭よ。お父さん」
 と佳子さんは泣きそうになった。
「娘をこれ丈け侮辱されゝば沢山だ」
「矢っ張りもう少し来ているんでございますわ」
狂人きちがいなら言論自由だけれど」
うとしか思われませんわ。目を白黒していらっしゃるんですもの」
 と奥さんは悉皆すっかり誤解してしまった。
 翌朝、橋本閣下が溝淵閣下を訪問して、瀬戸君の資格が完全に消滅した。溝淵閣下は素より異存がなかった。橋本閣下から話を聞いて、今更毒瓦斯政略の成功に驚いた。瀬戸君はその晩又橋本家へ出頭したけれど、佳子さんは病気で寝ているとのことだった。

有力な同情者


 夕食の卓上だった。帰りは大谷さんの方が早い。ゆっくり一風呂浴びて、銀行の支店長から円満な家庭の主人に戻る余裕がある。安達君の方は日の短い昨今、退出時刻にもう暗くなる。ナカ/\忙しいけれども、求職時代に較べると、心持は豊かだ。それに絶えず描く空想がある。その夕刻も橋本家の門を覗いて、家に帰りついたのである。
「安達さん、今日は好いことがございましたのよ」
 と大谷夫人がニコ/\しながら言った。
「何ですか?」
「吉報よ」
「僕、成功ですか?」
う一足飛びには参りませんけれど、瀬戸さんが落伍なさいました」
「はゝあ」
「もうあなたと吉川さん丈けの競争でございます」
「本当ですか?」
「こんなこと、御冗談にも嘘は申上げられませんわ。今晩は心ばかりのお祝いよ」
 安達君は尾頭おかしらつきに目を留めて、もう疑わなかった。大谷夫人は大いに心掛けてくれたのだった。
「有難うございます」
「今日橋本さんへ伺って、種々とお話を承わっている中に、佳子さんがついお口をおすべらせになりましたの。私、矢っ張り足数は運ぶものだと思いました」
うしたんでしょうね? あの才物が」
「他に有力な御縁談が始まったのらしいんですって。奥さんは念を使うかたですから、当らず触らずに然う仰有ったんでしょうけれど」
「すると権利消滅ですね」
「はあ」
「いつからでしょうか?」
「そこまでは立ち入って伺いませんでしたけれど、無論最近のニュースよ。丸尾さんの奥さんも未だ御存じないんですから」
 奥さんが得意の鼻を高くしたところへ、大谷さんが横から口を出した。
うちのおかみさんはお饒舌しゃべりをして歩くから、早く耳に入るのさ」
「ハッハヽヽ」
「安達君、お芽出度う」
「有難うございます」
「形勢が好いと見えますな」
「はあ。お蔭さまで」
「しかし勝ってかぶとを締めるんです」
「無論油断は出来ません。人の身の上はやがて自分の身の上です。うっかりしていると、この次は此方が尾頭つきで祝われてしまいます」
「相手の失敗を待っているような形になって、具合が悪いですけれど、乗りかけた舟です。仕方ありません。最善の努力を尽すんですな」
「はあ。この上とも何分宜しく」
「この次は吉川さんを祝って上げる番よ。丸尾夫人も引っくるめて。オホヽヽヽ」
 と奥さんは相変らず必勝を期していた。
 安達君は鯛の塩焼に箸をつけながら、果してもう一遍祝って貰う機会があるだろうかと思った。人柄が好い丈けに、自信力が足りない。イヨ/\吉川君と一騎討ちだけれど、此奴が又ナカ/\の強敵だ。しかし瀬戸君が退却したのは兎に角大きな寛ろぎだった。奴、何うしたのだろう? 本当に他に好い縁談があって手を引いたのだろうか? それとも引かざるを得ないような羽目に陥ったのだろうか? いや、全体が策かも知れない。すると大変だ。策士のことだから、何んなはかりごとめぐらすかも分らない。と気がついて、うっかり安心は出来ないと思った。折から小宮君の言葉が一種の霊感のように頭の中にひらめいた。それは瀬戸君が早晩失脚して安達君と吉川君の一騎討ちになるだろうということだった。悉皆すっかり当っている。そこで安達君は報告の為め、食後小宮君へ電話をかけたら、もう知っていたには驚いた。
「早耳だね」
「君の方が晩耳おそみみだよ。心細いな。今頃改まって報告かい?」
「今日聞いたんだ」
「僕は四五日前から知っている」
「ふうむ」
「何うだい? 来ないか?」
「さあ」
「実は他にも聞き込んだことがあるんだ」
「策を授けてくれるかい?」
「うむ」
「それじゃ行く」
「待ち給え。若子さんが……」
 と言って、小宮君は引っ込んだきり、ナカ/\出て来ない。奴、電話にかゝってまでも若子さんを吹聴ふいちょうすると思って、安達君は少々苦々しく感じた。
「もし/\」
「…………」
「もし/\」
「失敬々々。若子さんが湯に入っていたものだから」
「これから出掛けるよ」
「実は今晩は若子さんが銀座へ行きたいと言っているんだ」
「それじゃ駄目か?」
「いや、君が来るなら、又今度にするって」
「済まないね」
「構わない、直ぐやって来給え」
 安達君は早速日本橋まで円タクを飛ばした。余り早く着いたものだから、小宮君は未だ入浴中だった。待っている間を若子さんが応対してくれた。
「お出掛けのところを」
「いゝえ、いつでもいんでございますから」
「あれから悉皆すっかり御無沙汰申上げました」
「お忙しいんでございましょう?」
「はあ」
「大変な御競争でいらっしゃいますってね」
「日曜が利きませんから」
「清二郎から悉皆承わっています」
 と若子さんは小宮君を呼び捨てだった。
「一々種が挙がっていると思うと、面目次第もありません」
「少しもお構いございませんわ」
「さあ」
「吉川さんをお学びになる必要がございましょう。この間お見えになって、天下の大勢を滔々とうとうと論じていらっしゃいました」
「はあ」
とても綺麗なお方でいらっしゃいますってね。三人がかりで御競争をなさるくらいですから、無論並一通りじゃございませんでしょうけれど」
「気象の勝った人ですから、僕なんか覚束おぼつかないんです」
「清二郎も以前はお仲間だったんじゃございません?」
「そんなことは絶対にありません」
「私、早速訊いて見ましたの」
「無論否定なすったでしょう?」
「はあ。肯定なんかすれば承知しませんわ」
「大丈夫です。小宮君は真面目一方でした」
「何とも分りませんわ」
「僕や吉川君とは違っていました。それに狸穴組まみあなぐみといっても、始終一緒じゃなかったんですから」
「然う申して弁解していました」
「人格者を気取っている瀬戸君あたりよりも、小宮君の方が余っ程人格者です」
「その瀬戸さんが落伍したと仰有って、吉川さんは迚も痛快がっていらっしゃいましたわ」
「知っていたんですか?」
「はあ。※(二の字点、1-2-22)わざわざ御報告にいらっしゃいましたの」
「はゝあ。矢っ張り機敏ですな。あの男は」
 安達君は首を傾げて考え込んだ。四五日前に来て話したとすると、事件そのものはその直前としても、一週間前に起っている。今日初耳とは大谷夫人も迂濶だと思った。言葉の途切れたところへ、小宮君が現れた。
「失敬々々」
「やあ」
「一寸若主人の見識を示したところだ」
「何うして?」
「かなり待たせたろう? もっと待たせてやろうかと思ったが、未だ修業が積んでいないから、急いで上って来てしまった」
 と小宮君は冗談を言った。
「あら、濡れていますわ」
 と若子さんがハンカチを出して、額の辺を拭いてやる。安達君、見せつけられるのは覚悟の前だった。
こしらえが悉皆すっかり若旦那らしくなったよ。昔日せきじつの面影なしだ」
うかね? 自分でも努力しているんだ」
「僕達とは違う」
「この着物も若子さんのお見立てだ。一寸渋い好みだろう?」
「僕には分らないけれど、もう悉皆板についているようだ」
 と安達君は調子を合せた。
「何を着せても似合いませんのよ。あら、下前したまえが下っていますわ」
 と若子さんは屈んで、グイッと上前うわまえを引いた。小宮君は奴凧やっこだこの形になって、よろける真似をした。馬鹿々々しくて見ていられないけれど、今更仕方がない。
 安達君は若子さんが退出すると直ぐに用談に移った。
「瀬戸君自身から聞いたんじゃないんだってね?」
「うむ。吉川君が来て話したんだよ。僕の予言は適中するだろう?」
「一寸驚いたよ」
「イヨ/\君と吉川君の一騎討ちだ。うなると何うも黙って見ていられない」
「僕の方が形勢が悪いのかい?」
「門外漢には分らないけれど、吉川君は気焔きえん当り難いものがある。もう間違ないようなことを言っている」
「ふうむ」
「君は何うだい? 自分の見積りは」
「漸く互角のところまで漕ぎつけた積りだけれど、何だか急に前途が暗くなってしまった」
「吉川君は試験の時に出来なくても出来たと思うたちだから、気焔の通りに実際が行っているか何うか分らない。しかし互角ってことはないらしい」
「おや/\」
「吉川君は橋本家の内情によく通じているんだ。かなり進んでいなければ、あれ丈けの知識は得られない」
「それは軍師が好いからさ。大谷夫人を恨むんじゃないが、丸尾夫人の方が万事に要領を得ている」
「兎に角、瀬戸君の落伍問題でも分る。吉川君の方が先に知っている。君は今頃ぎつけて、鬼の首でも取ったように報告するんだから心細い」
「他は推して知るべしか?」
「その辺だ」
「仕方がない。僕はもうわらを掴む。何分宜しく」
「何を掴むって?」
「藁だよ。溺れるものは藁をも掴む。何分宜しく」
「そんな失敬な頼み方はなかろう?」
「何とかしてくれ。弱い方を助けるのが江戸っ児だろう?」
「僕はいつかも言った通り、公平の立場を取って、何処までも高みの見物の積りだったけれど、若子さんが承知しない。君の味方についてやれと頻りに言うんだ」
「これは有難い」
「友情じゃない。友情なら不公平になるけれど、若子さんに対する愛情の為め、要求を容れて、一つ君の力になってやる」
 と小宮君は又若子さんだった。しかしこの場合、安達君は不服がなかった。
「女房に頭の上らない男も斯ういう時には調法だ」
「何だって?」
「いや、此方のことだ。何分宜しく」
「吉川君は少しひどいんだ。女性というものを侮辱している」
「何うして?」
「君達と競争をする上に、もう一口かけてるんだ」
「ふうむ」
「現にもうやっているんだ。此年中ことしじゅうに橋本さんの方がきまらないようなら、もう一方は此方で承知さえすれば貰えるんだからと言っている。これは海軍中将どころじゃない。重工業会社の重役だから、将来出世の足しになる」
しびれを切らして、方向転換をしてくれゝば有難いけれど」
「佳子さんのような気むずかしい人よりもと言って、母親マザーが頻りに勧めるのらしい。吉川君はその人の写真を持って来て見せたよ。あゝいうことは一体ういう心理状態だか分らない」
両天秤りょうてんびんをかけるんだろう」
「普通の見合なら、それでも宜かろうけれど、佳子さんと交際しているんだから、斯ういう二重取引は感心出来ない。僕達の場合にして見ても、僕は若子さんにまさる女性はあり得ないと思い込んだんだからね」
「…………」
「若子さんも僕に勝る男性はあり得ないと思い込んだんだ。両方でこの人ならと思い込んでこそ、本当の夫婦だろう? おい。何うだい?」
「うむ」
「しっかりしろよ」
「よし/\」
 と安達君は故障を申入れる立場でない。
「ところが吉川君は他に幾らでもあり得ると思っているんだ。若子さんはそんな自由な思想の持主じゃないから、憤慨してしまったんだよ。吉川さん、それは余りじゃございませんかと切り込んだ」
「成程。これは面白い」
「しかし吉川君は当り前だと言うんだ。先方むこうだって三人候補者を集めて置いて、その中からり取るんだからって」
「先方にも横暴なところがあるんだよ」
「それは三人に申込まれたんですから、佳子さんだって仕方がないじゃありませんかって、議論になったんだ。僕は無論若子さんの組さ。三人で大いにやったよ」
「成程」
「吉川君は先方の心持が分らないのに絶対的誠意を尽すのは愚だと言うんだ。瀬戸君の場合を持ち出して、『愚な奴は結局あんな目に会わされても泣き寝入りになる。しかし僕が瀬戸君だったら、青い顔をして引っ込まない』と言っていた」
「瀬戸君は青い顔をして引っ込んだのかい?」
「吉川君は見て来たようなことを言うんだよ」
気味きびが悪いな」
「斯う啖呵たんかを切ると言うんだ。『お生憎さま。あなたばかりが女性じゃありません。此方はもうチャンとこんなのがあるんです』と言って、即座に写真を見せると言うんだ」
「その写真を始終持っているのかね?」
「うむ。使うようなことはあるまいけれど、切札だと言っている。それじゃそのかたにも失礼じゃありませんかって、若子さんは又憤慨してしまった」
「しかし流石に吉川君だ。考えている。万一の場合、恥をかゝない用心をしているんだ」
「君もそんな軽薄組かい?」
「僕は大丈夫だ」
「それ丈けの智恵はあるまいと僕達は見ているんだ」
「ひどいね」
「ハッハヽヽ」
「しかし僕だって、万一の場合を考えているよ」
「何うする?」
「兎に角、見っともない死方はしないから、安心してくれ給え」
「脅かしても駄目だよ」
「ハッハヽヽ」
「用心をしてかゝるのは真剣でない証拠さ。未だ理性が残っているから分別が働く。本当に思い込んだら、無我夢中になって、恥も外聞も忘れてしまうものだぜ」
「しかしそれは成功を見越しての話だろう?」
「見越すということが間違っている。見越すのは分別が働く証拠さ」
「極端だな、君は」
「少くとも、若子さんと僕は然ういう関係だった」
「君達の方はもう結構だよ」
「若子さんは佳子さんに会ったことがないけれど、同性としての同情を持っている。この際佳子さんの為めに尽すのは、あゝいう軽薄な考えを持っている吉川君よりも田舎漢いなかものの君を推薦することだと言っている」
「有難いな。田舎漢でもい」
「しかし手の出しようがない。新聞を見て、相撲の贔負ひいきをするような関係だ」
「それじゃ何にもならない」
「応援だもの。ボールを拾ってやる次第わけには行かない」
「手は下さなくても、献策ってことは出来る筈だ」
「そこだよ」
「此方は藁でも掴む」
「失敬なことを言うなよ。これでも成功者だ。一肌脱ぐとなれば、若子さんに活動して貰う。今晩は僕の一料簡で君を呼んだんじゃない」
「策があるのかい?」
「あるとも」
 と小宮君は甚だ頼もしかった。

操縦自在


 瀬戸君は仲人の溝淵大将から速達で呼びつけられた。佳子さんが病気にかこつけて面会を断った翌日だった。早速出頭したら、閣下は書斎へ通してくれた。しかし腕組みをしたまゝ、頻りに溜息をついて、ナカ/\切り出さない。
「閣下」
「困ったよ、瀬戸君」
「僕、察しています。橋本閣下からお断りがあったんでございましょう?」
「君は矢っ張り頭が好いな。実は昨日橋本君が自身で見えたのだ」
「僕も昨晩伺って、様子が変っていると思いました」
「令嬢にお目にかゝったかね?」
「いや、玄関払いでした。手の裏をかえしたようです。実は今晩御報告かた/″\御相談に伺う積りでいたところへ、速達のおハガキを頂戴致しました」
「思いがけないことになってしまったよ。それがわしの口からは話しにくいんだ。全責任が俺にある」
「そんなことはございません。何か僕に落度があったんです」
「いや、君そのものは申分ない。俺が不用意のうちに余計なことを言ったものだから、妙な誤解をこうむってしまった」
「何ういうお話でございますか?」
「要するに令嬢の疑心暗鬼じゃ。婦女子というものは得てういう誤解をするものらしい」
「何の誤解ですか?」
「瀬戸君、兎に角、俺が万事善意でやったということを認めて貰いたい」
「閣下、それはもうお言葉までもございません」
「その初め、俺は君を橋本君へ推薦する時、昨今の付き合いじゃないと言った。年来の交際だから、人物を保証すると取りつくろった。これによっても、俺に悪意のなかったことを君は察してくれるだろう」
「閣下、僕はんなことになっても、決して閣下をお恨みに存じません。それは飛んでもない御遠慮でございます」
「君が然う理解してくれゝば、俺も話が楽だ。実はこの間橋本家へ上った折、奥さんが家の富士子の縁談のことを訊いた。俺はその答えをしながら君を褒めた。元来、君の縁談を督促する為めに出掛けたのだから、君の話が出ていたので、つい、瀬戸君が陸軍将校だったら一も二もないんですがと言ってしまった。それ丈けなら宜かったのだろうが、その後が余計だった。長い交際でお互に気心も分っていますけれど仕方のないものですとやった。俺が君を惜しむほど君の印象が好くなる積りだったが、今考えて見ると猿智恵だった」
「はゝあ」
「奥さんは令嬢に話したのらしい。令嬢が早合点をしたのか、奥さんが誤解したのか、兎に角、瀬戸さんは溝淵令嬢と年来相思の間柄だけれど、軍人でない為めに許されないということになってしまった」
「はゝあ」
「飛んでもない誤解だと俺は橋本君に弁解したけれど、橋本君はあの通り融通の利かない男だ。奥さんに焚きつけられたまゝを信じ切っている」
「…………」
 瀬戸君は俯向いて、深い溜息をつくばかりだった。成程、態度一変、玄関払いを食わせる筈だと思い諦める外仕方がなかった。
「のみならず、君が令嬢を侮辱したと言って、俺に食ってかゝった」
「はゝあ」
「君は令嬢に何か穏かならぬことを言って、感情を害した覚えはないかね?」
「そんなことは絶対にありません」
「何うも合点が行かない」
「…………」
「他に縁談があるようなことは言わなかったかね?」
「それは申しました」
「あるのかね? 他に」
「実は校長から勧められたのがあったものですから」
「それは断らなければいかんよ」
「断りました。その断ったことを話したんですけれど」
「校長からと言ったろうね?」
「はあ」
「それなら富士子の分と誤解する筈もない。もう外にはあるまいね?」
「ありません」
「俺はそんな話の為めに令嬢が機嫌を悪くしたものだから、君がつい失言したのかと想像していた」
「失言なんてことは決してありません」
「兎に角、橋本君は君が令嬢に難癖をつけたと言って、ひどく憤慨している」
「何ういう難癖ですか?」
「令嬢のことをヒステリーだと言ったと主張するんだ」
「橋本閣下は失敬です。無実の罪を着せて、僕をしりぞける積りです」
「俺も多少癪に障っているけれど、喧嘩をすれば、話がこわれてしまう」
「するとだ見込があるんですか?」
「談詰めたという程のこともなかろう。しかし斯う感情論にからまってしまうと、円満な解決はナカ/\むずかしい。覚悟をして貰わなければならん」
「はあ」
「橋本君は分らず屋だ。海軍部内の分らず屋番付に横綱として出ているそうじゃないか?」
「張り出し大関です」
「するとまだあの上があるのかな? 海軍には」
「…………」
「常識の判断でも分ることだ。令嬢を貰う為めに詰めかけている君が令嬢の病癖を言い立てゝ、侮辱をする筈はない」
「閣下」
「何だね?」
「病癖というお言葉で思い当りました。僕、実は例の病癖のことを奥さんに申上げました」
「ふうむ?」
「丁度然ういう切っかけになったものですから」
「困るよ、君」
「…………」
「秘密を守ってくれと頼まれているじゃないか?」
「はあ」
「それで憤ったんだな、橋本君は。成程。何ういう病癖かと詰問したら、ヒステリーか何かのようにと逃げた。ハッハヽヽ」
「…………」
「君は何故問題に触れた?」
「実はお母さんが佳子さんにお薬を飲むようにと仰有ったものですから、丁度好い機会だと思ったんです」
 と瀬戸君は自分の立場の弁解もあるから、その折の関係を詳しく説明した。
「功を急いだね」
「はあ。考えて見ると然うでした」
「君の心持は諒とするけれど、先方むこうで秘している問題に此方から進んで触れたのは処置として実に拙劣だった」
「詰まらないことをしました」
「もっと交際が進んでからなら兎に角、今のところでは差出がましい」
「はあ、尚早でした」
「難癖をつけたと思われるのも無理はない。君、これはもう脈がないぜ」
「仕方ありません。自ら招いたんですから」
「俺がなまじ注意をしたのが悪かった」
「いや、僕の軽率が祟ったんです」
「尤も黙っていては仲人として不親切になる。何方にしても、俺は板挾みじゃ」
「閣下に責任はございません」
「断って置くが、橋本令嬢の病癖は今後とも秘して貰わないと、俺が困る」
「大丈夫です」
「それからもう一つある。無論君の責任じゃないけれど、今度のことは迷惑が家の富士子に及ぶ」
「はあ」
「あれもこれから縁談だ。馬鹿な誤解が伝わって、相思の人があったような噂が立つと、俺は何うして宜いか分らない」
「僕の為めに種々いろいろなことが起って、本当に申訳ございません」
「しかし富士子には話してない。憤るからね、聞けば」
「はあ」
「君を書斎へ呼び込んだのも他聞たぶんはばかるからだ。橋本君の方は君が令嬢の病癖に恐れを為して逃げ出したということに取り繕って置く」
「はあ」
「事実、君は令嬢に嫌われたのでも何でもない。単に問題に触れた為めに、行き違ってしまったのだから」
「病癖があるんですから、一種の疵物きずものです。僕もこれまでの縁と思って諦めます」
「その方が宜い。俺も聞き込まなかった昔は兎に角、妙に責任を感じていたんだから」
「御心配をおかけ申上げました」
「何あに、構わん。一向お役に立たなかったが、こんなことばかりはあるまい。これに懲りず、今まで通りに遊びに来てくれ給え」
「はあ。この上とも御指導をお願い申上げます」
うだね? 一番唸るか?」
「今晩はこれで御免蒙ります」
いじゃないか?」
流石さすがに勇気沮喪そそうしています」
「それじゃ日曜にやって来給え。もう令嬢の奇襲訪問とかという奴もなかろうから安心だろう?」
「さあ」
「未練があるのかい?」
「ありません」
「多少打撃を受けたろうが、こんなことは人生の大問題じゃない」
「無論小問題です。学位を取って、橋本家を見返してやります」
「その意気が大切じゃ」
 と溝淵閣下は例によって操縦自在だった。年が親子ほど違う上に千軍万馬の名将だから、策士の瀬戸君も歯が立たない。悉皆すっかり引っかゝってしまって、少しも疑うところがなかった。
「しかし閣下」
「何だね?」
「未練はありませんけれど、競争に負けたと思うと残念です」
「負けたのではない。然るべき時機に退却したのさ」
「いや、退却を余儀なくされたんですから、このまゝなら矢張り負けたんです。しかしこゝに五分五分の勝負にする法があると思います」
「何うするんだね?」
「相手二人を同じように失脚させてやります」
「成程」
「僕は爆弾を投下してやります」
「何ういう爆弾だね? 病癖のことを言いらすと俺が迷惑する」
「御安心下さい。閣下に御迷惑はかけません。僕は年来の交際で二人の弱点をよく知っていますから、それを利用します」
「君は興奮しているね」
「…………」
「無理もない。同情する。差当り俺の言うことは耳に入るまいが、然ういう態度は最初の規約にそむきはしまいか? 競争は競争、友情は友情ということだったじゃないか?」
「はあ」
「君はもう競争から引き退ったのだから、後に残るものは友情だろう?」
「…………」
「何う転んでも恨みを残さないというのが、君達の所謂いわゆる、競争は競争、友情は友情だろうと思って、俺は心ひそかに敬服していたのだ」
「…………」
「こゝ少時しばらくの間は冷静に考えて見るんだね。それから行動を開始してもおそくはあるまい」
「はあ」
「何うだね? 俺との約束を守ってくれないか? この問題については万事俺の指図に従うということだった」
「はあ」
「残務についても一切俺に相談してくれ給え。俺も乗りかけた舟だ。この上とも及ばずながら力になって、必ず君の顔を立てる。御恩のある軍平先生のお孫さんに世間から後ろ指を差させるようなことは決してしない積りだ」
「何分宜しくお願い申上げます」
 と瀬戸君は今までの関係からう直ぐに軍師と縁を切る次第わけにも行かなかった。

奇襲訪問


 三人の求婚者の中、吉川君は初めから優勢だった。小宮君の批評通り、自分の立場を実際以上に見積る傾向があるけれど、鉄道省技師工学博士というお父さんの背景がいている。屋敷周囲まわりの地所家屋が物を言う。それから吉川君自身だ。理窟づめの瀬戸君や正直一方の安達君よりも軽いだけに調子が好い。頭は兎に角、常識が発達して、一番世間慣れている。風采も申分ない。
「本当なら無条件で此方こっちのものよ。邪魔ものが入ったから、長びくんですわ」
 と仲人の丸尾夫人が歯痒がる。
「しかし一ぴき頓死しました」
「オホヽヽヽ、頓死ね、本当に」
いまだに原因不明ですか?」
「はあ。奥さんは何うしても仰有いませんの。しかし何か思わしくないことがあったに相違ありませんわ」
「不思議ですな。彼奴は僕達の仲間では一番の方正家ほうせいかです。模範をもって任じていたんですから」
「如何にも堅人かたじんのように見えますけれど、何かあったんでございましょう」
「いや、絶対にありません。とても堅いんです。僕と違って、何処を叩いたって埃なんか出やしません」
「俊彦さん」
「はあ」
「そんなことかりそめにも仰有るものじゃございませんよ」
「何んなことですか?」
「あなたはお口がお軽過ぎますわ。僕と違って埃なんか出ないと仰有れば、あなたは出る勘定になるじゃありませんか?」
「多少は仕方ありません。人間です」
「それがいけませんのよ。聖人君子のように構えていらっしゃらなければ」
「いや、それが却って考えものです。瀬戸君はあの調子でやり過ぎたのかも知れません」
「何の調子?」
「聖人ぶってお説法をするんです」
「お説法をなさらないまでも、精々お堅くお見せかけにならないと失策しくじりますよ」
「これはイヨ/\信用がない。見せかけると来ている」
「オホヽヽヽ」
「冗談も言ったり、堅くも見せかけたり、両方やっていて、役者がナカ/\忙しいんです」
「もう少時しばらくの御辛抱ですわ。お父さんの御地位が物を申します。橋本さんだってお考えになりますわ。お嬢さんの生活ってことが大切ですから、この辺の地所家屋と北海道の馬を較べて見ていらっしゃるでしょう」
「兎に角、北海道一人になりました。土佐犬が残らなくて宜かったです。僕は馬よりも犬の方が苦手ですから」
「陸軍大将閣下も斯うなると一向値打のないものね」
「大将は余り骨を折らなかったんじゃないでしょうか? 土佐犬の失敗は何うしても合点が行きません」
「北海道さんの方は一生懸命ですけれど、これは資格のない人の後押しをなさるんですから、御大抵じゃございますまい」
「しかしあの奥さんはよく気がつきますよ」
「まあ!」
「本当です。至れり尽せりです」
「まあ/\、私を前に置いて」
「ハッハヽヽ」
「何方の念が先に届きますか、近い中にお分りになりましょう」
「何か好いことがあるんですか?」
「それは申上げません。私は大谷夫人と違って、縁の下の力持になる外に、何の取柄もない不束ふつつかものでございますから」
「恐れ入りました。しかし何ですか?」
「意地にも申上げられません。その折、何うぞお慌てになりませんように」
「はてな」
 日曜の朝、吉川君は例によって晩かった。一週一回の休日は先ず朝寝から楽しむ。二階の書斎を一国一城として、干渉を許さない。独り息子だから、万事我儘一杯だ。しかしいつにないことに女中が起しに来た。
「若旦那さま」
「何だい?」
「奥さまが……」
うるさいよ。今日は日曜だ」
「お客さまがお見えになりましたから……」
「誰だい? 煩いな、朝っぱらから」
「橋本さんのお嬢さまでございます」
 吉川君は飛び起きた。大変々々と呟いて、階段を駈け下りた。顔を洗う。安全剃刀でガリ/\やる。寝乱れた髪を頻りにくしけずる。漸く端正なかたちになって応接間へ急ぐ途中、部屋から出て来たお父さんに突き当る。失礼々々。佳子さんはお母さんと話していた。
「やあ。これは/\」
「朝からお邪魔に上りました」
「ようこそ。先日は失礼」
「私こそ」
「さあ。うぞ」
 お母さんは気を利かして、間もなく引き退った。
「吉川さん」
「はあ」
「本当に奇襲訪問になってしまいましたわね」
「有難うございます」
「あなた、まだ御食事前でいらっしゃいましょう?」
「はあ。いつになく寝坊をしたものですから」
「それですから、本当の奇襲訪問よ」
あわてました」
「証明がお顔に残っていますわ」
「もう大丈夫です」
「いゝえ、血が出ていますわ」
「はゝあ」
「モミアゲのところよ」
 吉川君は手を当てゝ見た。
「成程。剃刀で引っかけたんです」
「左の方にもございますよ」
「あれは刃を換えると何うも失策ります」
「寝坊をしていて、お慌てになった楽屋裏が悉皆すっかり見えてしまいましたわね」
「世の中は斯ういうものです。滅多に朝寝はしないんですけれど」
「あら、日曜はいつも晩いとお母さんが仰有いましたわ」
「いや、それはこの二三週間のことです。日曜は自分の時間だと思っていますから、普通としてはむしろ早い方です」
「もう宜いのよ。兎に角、待っていて下さらないことが分ったんですから」
「待っていたんです」
「嘘よ」
「果報は寝て待てということがあります」
ずるいのね、吉川さんは」
「ハッハヽヽ」
「私、もう失礼させて戴きますわ。御食事前にお邪魔申上げては相済みませんから」
っとも構いません。僕は日曜はいつもお昼と一緒です」
「御覧なさい。悉皆すっかり告白なすったじゃありませんか?」
いさぎよく降参します。頭の好い人にはとてかないません」
 と、これが吉川君の常套手段だ。やり込められて御機嫌を取る。瀬戸君と反対だ。気が置けないから親しみを感じる。少くとも積極的に嫌われるということがない。
 佳子さんは相手を困らせれば宜いのだ。満足して話し込んだ。
「吉川さん、申上げようと思って忘れていました。昨夜、面白いことがあったのよ」
「何ですか?」
「銀座へ参りましたの。土曜日ですから、たすくにねだられて」
「成程」
「会社員らしい若い人が私を呼び止めましたの。手帳と万年筆を出して、サインをしてくれと仰有るんです。私を女優と間違えたんですわ」
「ハッハヽヽ」
人中ひとなかでしょう。私は真赤になってしまいました。安達さんが憤慨して、『君、失敬じゃないか?』って。オホヽヽヽ」
「安達君も一緒でしたか?」
「はあ。『これは橋本閣下の令嬢だ』って、私を銀座で宣伝して下さいましたの」
「御迷惑でしたろう?」
「いゝえ。後から父が大笑いを致しました。土曜日は安達さんの番ですけれど、弼がねだったものですから、父が応接間を銀座まで延長して下さいました」
「お父さんも御一緒でしたか?」
「はあ」
「成程」
「それですから、私、公平を守って、今日お伺い申上げましたの」
 と佳子さんは弁解の積りだった。しかし公平を守っての奇襲訪問では有難味が薄らぐ。ねがわくは此方こちらの為めに断然公平を破って貰いたい。
 吉川君は写真が道楽で、年来やっているから、製作の芸術写真をお目にかけた。説明と自慢をした後、
「佳子さん、丁度好い機会ですから、庭で活動写真を取らせて戴きましょうか?」
 と申込んだ。
「さあ。私、もうお暇しなければなりませんわ」
「お手間は取らせません」
「パテー・ベビー?」
「はあ。技師の腕前を信じて下さい」
「弼も一緒にお願い出来ません?」
「結構です。電話をかけましょう」
「矢っ張り考えていらっしゃいますわね」
「何ですか?」
「唯のお写真と違って、映画なら、又拝見に上らなければなりませんわ」
「ハッハヽヽ」
「土曜日の晩に限るなんて仰有っちゃ困りますよ」
「何うも頭の好い人には敵いません。此方の考えていることを悉皆先に仰有ってしまうんですから」

一気呵成の足掻き


 正式に競争が始まってから、二月余り過ぎて、もう間もなく年が改まる。吉川君は瀬戸君が落伍して以来、独り舞台のような気がする。学問才気共に兄貴分の土佐犬は怖かったけれど、北海道の馬は元来甘く見ている。ポッと出だから、出し抜き好い。スタートを切る時の先手が未だに利いている。現に奇襲訪問も自分の方が先に受けた。そればかりでない。佳子さんの活動写真を写して、その封切りを見に来て貰った。あれは思いつきだった。一回の訪問を二回に延長したのだから、頭が働いている。馬には一寸出来ない芸当だ。
「吉川さん、今晩お伺いしたこと、安達さんには内証よ」
 と佳子さんが言ってくれた。家へ送り届ける途すがらだった。都合の好い時は何処までも都合が好い。一緒に映っている令弟の弼君は丁度試験最中で来られなかったのである。
「無論黙っていますが、何故ですか?」
「不公平になりますから」
「しかし先方むこうは御一緒に銀ブラの光栄をになっていますよ」
「あんなこと、勘定に入りませんわ、安達さんの訪問日ですもの」
「それじゃ僕の訪問日にも応接間を銀座まで延長して戴けませんか? 一遍で結構ですから」
「お安い御用よ。弼にねだらせますわ」
「はゝあ。すると安達君の時も弼君を御利用になったんですか?」
「違いますわ。あれは偶然よ」
「二人丈けじゃいけませんか?」
「駄目よ。日本は西洋と違いますって」
「誰が仰有るんですか?」
「父も母も」
「丸尾夫人が御一緒なら宜いでしょう?」
「さあ。奥さんから仰有って戴けば、何うかなるかも知れませんわね」
「それじゃ僕、丸尾夫人に頼んで置きます」
「吉川さん、又不公平になりますけれど、明日の晩、宅へ出張映写ってことにお願い出来ませんでしょうか?」
「お安い御用です。伺わせて戴きます」
「弼も明日で試験が済みますから」
「今晩は残念がっていたでしょう」
「はあ。来たがったんですけれど、止めました」
「明日の晩ゆっくり御覧に入れます」
「これも安達さんには内証よ」
「承知しました。この頃は些っとも会わないから大丈夫です」
「安達さんは兎に角、大谷さんの奥さんって方、とても積極的でいらっしゃいますから」
「丸尾夫人と何方ですか?」
「似たり寄ったりですわ。私、困ってしまいますの」
 吉川君はこの会話を後から頭の中で繰り返して意を強うした。負けてはいないと思ったが、確かに勝っている。安達さんは兎に角、というのが決定的だ。お人好しだから、見括みくびられている。それにしても、土佐犬の退却が有難い。何か重荷を下したような心持がすると思うと瀬戸君の件だ。
「猛犬がくたばった。宜かった、本当に。馬は未だ健在だけれど、何処までも駄馬だから、恐れるに足らない」
 と吉川君は昨今意気軒昂たるものがある。
「俊彦さん」
「はあ」
「もう此方のものよ、これ丈け続けて出し抜けば」
 と丸尾夫人も得意だ。
「奇襲訪問も此方が先に取ったのが成功でした。あれから目に見えて経過良好です」
「此方が先にと仰有るのは彼方が後になる場合のことでございましょう?」
「然うですよ」
「後にも先にも彼方へはいらっしゃいませんわ」
「確かですか? それは。その辺がハッキリすると、僕ももっと大胆に行動が出来るんですけれど」
「偵察が届いています。未だいらっしゃいませんし、いらっしゃる思召もございません」
「何うして分りますか?」
「私、橋本さんで落ち合った時、あの奥さんの目の前で佳子さんにお礼を申上げましたの。すると佳子さんが御迷惑そうな表情をなさいました。大谷夫人に至りましては、オホヽヽヽ」
「何うしたんですか?」
「初め真青になりましたの。それから真赤になりましたわ。あの方七面鳥よ。私、あの奥さんの生地きじが白粉焼けであざになっていることまで存じ上げているんですから」
「恐ろしいものですな、女同志の何てものは」
「何? 俊彦さん、女同志の何て?」
「観察眼です」
 と吉川君は誤魔化した。実は嫉妬心という意味だった。
「あんな失礼な人ってありませんわ。昨今は斯ういう経緯いきさつになっていますから仕方ありませんが、初めから挑戦的ですもの」
「それは両雄並び立たずでしょう。ハッハヽヽ」
「でも、私、あんな人、問題にしていませんわ」
 と丸尾夫人は口先で否定しても、事実は仲人競争よりも美人競争の方が強い動機になっている。
「しかし兎に角……」
「何あに?」
「ハッハヽヽ」
「綺麗な方だと仰有いますの?」
「はあ。公明正大のところ」
「そんなこと、公明正大じゃありませんわ」
「失礼申上げました」
「いゝえ、構いませんのよ、些っとも。お綺麗な方をお綺麗だと仰有るんですから」
「余談は兎に角、僕の方です。奇襲訪問を先取さきどりしたんですから、形勢は無論好いと思っているんですけれど」
「俊彦さんは卑怯ね」
「何故ですか?」
「御自分で余談をお出しになって置いて、お逃げになるんですから」
「逃げるって次第わけでもありませんけれど」
 と吉川君は不覚を免れない。丸尾夫人に絶対価値を与えて犬馬の労を取って貰えば宜いのに、ついからかうものだから事面倒になる。尤も諢うのは丸尾夫人が若くて綺麗だからだ。無論吉川君も然うと意識はしていない。丸尾夫人も大谷夫人と競争の余り、そこまでは気がつかない。
「御参考の為めに承わらせて戴きますわ。何ういう方をお綺麗とお認めになるのか、私、仲人として知って置く必要があると思いますから」
「申上げるまでもなく佳子さんのような人です」
「でも、この間のお写真もお気に召したじゃございませんか?」
「あれは第二候補です」
「それじゃ大抵の方がお気に召しますのね。私、一生懸命になって御奔走申上げても、張合がございませんわ」
「用心の為めです、万一の場合、恥をかゝないように」
「大谷さんの奥さんは何処がお気に召しますの? 俊彦さん」
 と丸尾夫人は真向から攻め寄せた。夫人としては吉川君が佳子さんを貰うよりも、この方が重大問題だ。
「それじゃ申上げます。学生時代の話ですから、もう時効にかゝっているんですけれど、或日、連中が安達君のところに集まっていた時、僕が『妻をめとらば……』と口吟くちずさんだんです。種々いろいろと註文が出ました。話が弾んでいるところへ、大谷夫人が上って来たんです。すると皆真赤になって黙ってしまいました。夫人がお茶をすすめて下りて行った後、一同顔を見合せました。『何うだい?』『あれだよ』『あれだ』『あれだ』って四人とも意見が一致しました。一人、調子づいて、奥さんの坐っていた跡に敬礼をしたものがありました」
「誰! それは」
「ハッハヽヽ」
「あなたね」
「正直の話」
「不良よ、あなたは。私、佳子さんに申上げますわ」
真平まっぴらです」
「オホヽヽヽ」
「予科時代でしたから、未だ鑑識眼が発達していなかったんです」
「お綺麗には相違ありませんが、民間の方ですから、お好みが下町風ですわ。そこがカフェーの女給しか見たことのない若い方々のお気に召したんでございましょう」
「はあ」
「私、奥さんはダリヤの花のように濃艶あでやかでいらっしゃいますと言って上げますの。品位がないという意味ですけれど、そんな皮肉の分る方じゃございませんわ」
「橋本さんのところで度々お顔が合うんですか?」
「はあ。でも具合の悪いものね。出し抜いて置いて、知らん顔をしているんですから」
「それはお互でしょう」
「あら、此方こちらがいつ出し抜かれましたの?」
「さあ」
「張合がありませんわ、私」
「無論此方が優勢です。奇襲訪問を先にせしめているんですから」
「俊彦さん、先刻から度々承わりますが、その先にと仰有るのがお考え違いよ。先にも後にも彼方へは全然いらっしゃいませんわ」
「しかしそれは事実か何うか疑問です」
「偵察が届いていますわ。白粉おしろい焼けの底痣そこあざまで分っているんですから」
「やることは先方むこうだって相応そうおうやっているに違いありません」
「それですから、私、何方どちらの念が届きますか、近い中にお分りになりましょうと申上げて置いたんでございますわ」
「はゝあ。それじゃ、あれは奇襲訪問の前触れでしたか?」
「取りめてあればこその前触れでございましょう?」
「成程」
「万事御贔負の大谷夫人が取計らって下すったのかも知れませんわね」
「重々恐れ入りました。この通りです」
 と吉川君は鄭重に頭を下げた。
「方角がお違いにはなりませんか?」
「もう勘弁して戴きます」
「オホヽヽヽ」
「奥さんのお蔭で奇襲訪問を此方こっちが独占したんですから、形勢は無論好いと思っているんですけれど」
「けれど、何あに?」
「お言葉に甘えて、僕、一つ御相談申上げたいことがあるんです」
「俊彦さん、私、先刻から苦情を申上げていますのよ。派手な方と違って、宣伝は致しませんけれど、一向認めて戴けませんから」
「認めています。つい冗談を申上げたんですから、もう御機嫌を直して戴きます」
「私、真面目なお話の中に大谷夫人のことなんか仰有られると心持が悪くなりますわ」
「済みません。以来慎みます」
「何ういう御相談?」
「これから年末年頭で少時身体が楽になりますから、この機会を利用して、一気呵成に事を決したいと思うんですが、何んなものでしょう?」
「それは私も考えています。形勢がお宜しいにしても、長引いている中に何んな邪魔が入らないとも限りませんから、急ぐに越したことはございません」
「ついては訪問日に出掛けて行って御機嫌を取る丈けじゃ手ぬるいです。そんなことなら先方むこうでもやっているんですから、いつまでも果しがありません」
「何うなさいますの? それなら」
「そこが仲人の腕でしょう」
「まあ。強制的ね」
「二人を誘って銀座へクリスマスセールを見にお出掛けになるとか、元旦を利用して二人をお招きになるとか、頭の働く人なら、策が幾らもあるんですから」
「まあ/\」
「要するに、二人が手を握り合う機会を提供して戴きます」
「俊彦さん、それは御依頼? それとも御要求?」
何方どっちだか分りませんが、何分宜しく。確かにもう一息というところまで来ているんですから」
 と吉川君は短兵急だった。
「計らいましょう。及ばずながら」
「僕から指定するようで済みませんが、第一はクリスマス市です」
「承知致しました」
「第二第三第四はお考えのあることゝ存じますから、お委せ申上げます」
「恐喝的ね、俊彦さんは」
「真剣ですよ、斯うなれば、もう」
「私も張合が出て参りますわ」
「張合よりも智恵を出して下さい」
「まあ/\」
「何かありますか?」
「私、クリスマスで思い出しました。主人の友人にアメリカ大使館の書記官がいます。アメリカ人よ、無論。外交官丈けに、奥さんがとてもお綺麗な人ですわ。私の訪問着姿に感心して、一揃えお拵えになったくらいの日本贔負でいらっしゃいます。御一緒に写真を取りましたわ。その写真がアメリカの雑誌に出たそうでございます」
「その奥さんが何うしたんですか?」
「主人も私もその方のお宅のクリスマスに毎年御招待を受けますから、今からお願いして置いて、お二人を御同伴申上げましょう」
「これは有難いです。ういうところなら、佳子さんも喜んで一緒に来て下さいましょう」
「迚も素晴らしい機会が提供されますのよ。握手どころじゃございませんわ」
「何ういう機会ですか?」
「思いつきですわ、これは。民間夫人と違って、国際的よ、私の社交範囲は。褒めて戴く値打がございましょう?」
「何うも前置が長いですな」
「本式のクリスマスよ。一晩アメリカへ帰ったような心持になって騒ごうというのですから、万事彼方あちらの習慣を守ります。天井から宿り木の吊してある部屋がございます。御存じでしょう? その宿り木の下では誰が誰を捉えて接吻しても、無罪放免ってことになっています」
「成程」
「無論お祭り騒ぎの冗談ですけれど、彼方ではそれを求婚の意思発表に利用するものがあるんですって」
「無罪放免なら、求婚でなくてもやります。やり徳です」
「まあ。俊彦さんも余りお心掛の好い方じゃございませんわね」
「ハッハヽヽ」
「然ういう西洋の茶目さんが待ち伏せしていますから、うっかり通れませんわ。でも、何うしてもそこを通らなければならないようになっていますの。大威張りで通るのはふとちょのお婆さんばかりよ」
「ハッハヽヽ」
「私なんか皆に狙われていますから、容易じゃございません」
「取っ捉まりはしませんでしたか?」
「いゝえ。主人と手を取り合って通りました。序に夫婦同志で機会を利用して上げましたわよ」
「何です? 馬鹿々々しい」
「オホヽヽヽ」
「僕は真面目になって御相談申上げているんです」
「相済みません。オホヽ」
「しかし奥さんは矢っ張り違います。御交際がお広い上にお考えがお新しいです。そのクリスマスは是非お取計らいを願います」
「承知致しました。未だ/\ございますよ。よく考えて見て、年末年頭の番組を拵えて置きましょう」
 と丸尾夫人は何処までも軍師として策動してくれる。

相応の成績


 最初から押され気味の安達君は兎角自信がない。形勢が好いと思って喜ぶと、もう一方瀬戸君なり吉川君なりがその上を越している。瀬戸君の失脚は大きい寛ぎだったけれど、自分の運命の前駆のようにも考えられる。銀座への同伴を大躍進の積りで大谷夫人に誇ったら、吉川君はその直後に奇襲訪問の光栄を先取していたのである。大谷夫人も偵察が能く届く。
っとも悲観なさるには及びませんよ。いずれは丸尾の奥さんに利息をつけてお返し申上げるんですから」
 と言って激励してくれた。
「万一見込がないようなら、僕は今の中に諦めます」
「気が弱いのね、あなたは」
「瀬戸君さえいけなかったんですから、考えさせられます」
「佳子さんの態度に何か思い当るようなことでもありますの?」
「いや、一向変りませんけれど、吉川君に出し抜かれていることは目前の事実です」
「一辺に悉皆すっかり出し抜いて上げれば宜いのよ。此方は最後の勝利ですわ」
「それがナカ/\覚束おぼつかないんです。積り積って最後になるんですから。それに先方むこうは……」
「先方は何あに?」
「小宮君も言っているんです」
なんて?」
「互角ってことはないんですって。何でも先方むこうの方が先ですって。黙って見ていられないと言っていました」
「安達さん」
「はあ」
「私だって一生懸命にやっているんでございますよ」
「それは分っています。感謝しているんです」
「いゝえ。感謝なんかなさいませんわ。私のやり方が足らないと思っていらっしゃるんですわ」
「そんなことはありません」
「私、丸尾の奥さんになんか負けない積りですけれど、御主人がお役所の下廻りで出張ばかりしている御家庭とは立場が違いますわ。家を外にして出歩けませんから、つい/\せんを越されて、本当に申訳ありません」
「奥さん、僕は決して不平を申上げているんじゃありません」
「それじゃ今のまゝでいんでございますか?」
「さあ。僕としては満足ですけれど」
「小宮さんに智恵をつけられておいでになりましたのね」
「智恵をつけられたって次第わけでもありませんが、もっとやって貰えと小宮君が言っているんです」
「私だって考えていますわ。でも、丸尾の奥さんのように毎日家を外にして出て歩けませんからね」
「分っています。それですから、僕としては実際この上もう望めません」
「それですから、小宮さんに望ませますの?」
「先ずその辺です。矢っ張り駄目だ」
「何が?」
「直ぐ分ってしまうんですから」
「オホヽヽヽ」
「苦しまぎれです」
「駈引をなさるお口の下から、それですからが出ますからね」
「成程。ハッハヽヽ」
「出し抜かれているようでも、要所々々に釘を差してあるんですから、御心配に及びません。お正月って機会がございますわ。見ていて戴きます」
「何分宜しく。行って参ります」
 と安達君は丁度訪問日だった。
 初めの中と違って、佳子さんは必ずしも直ぐに応接間へ現れない。大抵待たせる。昨今それが追々長くなるのも気がかりの一つだった。安達君は電気ストーブの側に陣取って、先週見た雑誌の頁をはぐり始めた。間もなく戸が開いたから振り返ったら、たすく君がニコ/\笑いながら入って来た。
「いらっしゃい」
「今晩は。又お邪魔に上りました」
「僕、待っていたんです」
「試験はもうお済みですか?」
「はあ」
「お休みですね、それじゃ」
あと三日です。僕の学校は試験が済んでから又授業があるから厄介です」
「成績は分りましたか?」
「三番でした」
 と弼君は得意だった。中学校の三年生だ。
素敵すてき々々」
「二番上りました」
「勉強家は違います」
「英語はあなたに質問したところが出たんです」
「はゝあ」
「吉川さんは駄目ですね」
「何故ですか?」
「僕に嘘を教えました。うも変だと思って、先生に訊いて見たら、間違っているんです。矢っ張り瀬戸さんの方が出来ます」
「あれは先生を勤めているくらいですから」
「あなたも出来ます。お父さんが誰が一番出来るかとお訊きになりました。もう先ですけれど」
「何とお答えになりましたか?」
「一番は瀬戸さん、二番はあなた、吉川さんは落第ですって」
「吉川君はうして落第ですか?」
 と安達君は覚えず椅子から乗り出し気味になった。
「誤魔化すんです。出来なくても、何とかこじつけるんです。変だと思って後から先生に訊いて見ると、大抵間違っています」
「成程」
「あなたのように、こゝは何うも分りませんと仰有いません」
「然ういうこともお父さんに申上げたんですか?」
「はあ。正直では安達さんが一番、瀬戸さんが二番、吉川さんは落第」
「ハッハヽヽ」
「お母さんもお訊きになりました」
「何をですか?」
「誰が一番好きですかって」
「それなら僕が一番でしょう?」
「然うですよ。吉川さんが二番、瀬戸さんは落第でした」
「何ういう理由わけですか?」
「瀬戸さんは僕を頭から馬鹿にしていたんです。その証拠には僕と話していても、姉さんが入って来ると悉皆すっかり忘れてしまいます。吉川さんも少しうです。活動写真なんか写してくれますけれど、ほんの付けたりです。僕が高飛をするところをと頼んだら、もうフィルムがないと言いました。フィルムはチャンとあるんです」
「はゝあ」
「僕を利用する丈けです。しかしあなたは違います。いつかなんか、姉さんが来ても僕と話し込んでいて、叱られたじゃありませんか?」
「ハッハヽヽ」
「僕、お世辞じゃありませんよ」
「有難う。そんなことをお母さんに申上げたんですか?」
「はあ。嘘でないから宜いでしょう?」
「無論構いませんけれど」
「僕は中学生だからって、馬鹿にして貰いたくないんです」
 と弼君はいつになく存在を主張した。安達君は意を強うするところがあった。気がつかなかったけれど、弼君に好い印象を与えていたのは大きな仕合せだと思った。佳子さんの弟だ。少年でも確かに採決の一票を持っている。
「安達さん」
「はあ」
「僕、今晩はメンタル・テストの問題を考えているんです」
「お父さんの真似ですか?」
「いや、冗談のメンタル・テストです。学校で流行はやっているんです」
洒落しゃれですか?」
「この頃の中学生はもっと進歩していますよ」
「謎でしょう?」
「それとも違います。一つ見本を御覧に入れましょうか?」
「何うぞ」
「枡で人間を量る商売があります。何でしょうか?」
「さあ」
「大きな四角の枡です。それで朝から晩まで人間を量る商売です。ナカ/\せわしいです」
「分りません」
「エレベーター・ガールです」
「成程」
「四角の枡です。人間を量って乗せます。これは僕が考えたんです」
ういうのなら分ります。僕は洒落で解くのかと思ったものですから」
「洒落は吉川さんから教育をお受けになったんですってね」
「吉川君はそんなことまで素っぱ抜いたんですか?」
「ハッハヽヽ」
「名誉回復です。もう一つ出して下さい。今度は当てます」
 と安達君は身構えをした。
「人間を切って食う商売があります。何ですか?」
「さあ」
「これは僕の友達が考えたんです。皆分らなくて降参しました」
「待って下さいよ。人間を食って、いや、切って食って……」
「人間を切って食う商売です」
「考えます」
とてもむずかしいんですよ。滅多にない商売です。専門です」
 と弼君が安達君を困らせて喜んでいるところへ、佳子さんが入って来た。
「いらっしゃいまし」
「今晩は」
「お待たせ申上げました」
「いや、一向、侍々さむらいさむらい!」
 と安達君は佳子さんに挨拶すると同時に、弼君の方も忘れなかった。
「サムライ?」
「はあ。弼さん、侍でしょう?」
「違います」
「それじゃ首斬役人です」
「違います」
「はてな。分らない」
「現代の職業です。それだから面白いんです」
「何あに? 一体」
 と佳子さんが訊いた。
「メンタル・テストです。姉さんも同類項でしょう。とても分りません」
 と弼君が勝ち誇った。
「生意気ね」
「ハッハヽヽ」
「彼方へいらっしゃいよ」
「安達さん、僕、もう失敬します」
「分りましたよ、弼さん。剣劇の俳優でしょう?」
 と安達君が引き止めた。
「違います」
「何ですか? それじゃ」
解剖学かいぼうがくの先生です」
「成程」
「二つとも落第でしたね」
「食うってのが生活の意味ってこと丈けは分っていたんですけれど」
「安達さん」
 と佳子さんは声を励ました。弼君は逃げて行ってしまった。
「はあ」
「あなたは弼のところへお遊びにおいでになりましたの?」
「然うじゃありませんけれど」
「それじゃ仇討ちのお積り? 私がお待たせ申上げましたから」
「決してそんな意味じゃありません」
「…………」
「佳子さん」
「私、金曜日は特別にせわしいんでございますから。お茶からお花へ廻って、帰ると直ぐにお食事でしょう。お湯に入っても、あなたにお待たせしたくないと思って、ロク/\温まらないで上って参りましたのよ」
「何うも済みませんでした」
「それも考えて下さらずに、わざと弼とばかりお話をしていらっしゃるんですもの」
「つい失礼申上げました」
 と安達君、今晩は意識的に弼君の歓心を買っての失敗だった。一票に重きを置き過ぎた。
し風邪を引けば、あなたの所為せいよ」
「何うぞ此方へ。此方の方が暖いでしょう」
「結構よ、こゝで」
「この椅子の方がお楽です。佳子さん、何うぞ」
「まあ/\、急に待遇が改まりますのね」
「怖いです」
「オホヽヽヽ」
「ハッハヽヽ」
「安達さん、今のはメンタル・テストよ」
「はゝあ」
「私が憤れば、あなたもお憤りになるかと思って、試めして上げましたのよ。尤も少しは腹が立ちましたけれど」
「僕、つい、うっかりしていたんです」
「宜いのよ、もう」
「或は退去を命じられるのかと思いました」
「まさか。お客さまですもの」
「以来気をつけます」
「私、存在を無視されるのは大嫌いでございますからね。でも、含んでいたんじゃ分りませんから、思ったまゝを申上げる方が宜いでしょう?」
「はあ」
「私、母から我儘だと言われていますが、少しうかも知れませんわ」
「そんなことは絶対にありません」
「本当?」
「ハッハヽヽ」
「御覧なさい」
 と佳子さんは睨む真似をした。
 久しぶりで橋本閣下が応接間へ顔を出した。安達君はメンタル・テストの続く晩だと思った。閣下は何うも苦手だ。
「銀行の方は何うですか?」
「相変らずです」
「年末は特別にせわしいでしょうな?」
「はあ。大晦日の晩までやるんだそうです」
「貧乏※(「鬥<亀」、第3水準1-94-30)ですな。その代りボーナスが沢山貰えましょう?」
「駄目です。僕なんかは銀行の為めになっているか何うか分りません」
 というような問答がいつの間にか修養論に移っていた。何か精神修養をおやりですかと訊かれたから、やっている方が好いと思って、昨今習字をやっていると答えた。実は大谷さんが年来やっている。ナカ/\の天狗だ。安達君は或晩字が拙くて困るとこぼしたら、指導してやると言われて、退きならず、一週間ばかり前から始めたのだった。
「書をやるとは若い人に似合わない心掛ですな。あれは精神が落ちついて、好い修養になりましょう」
「修養よりも必要があるんです。とても拙いんですから」
うせこの頃の人はみんなペンを使いますから、筆を持たせると形がつきません。お互っこですけれど、字の特別に巧いのは何となく奥床おくゆかしいものです」
「ペンで間に合う積りでいましたが、筆を用いなければならないこともあるんです。この間は大いに感じました。それが発憤の動機になっています」
「何ういうことですか?」
「同僚が結婚したんです。皆で贈物をしたら、お礼状が来ました。筆で奉書に書いてあるんです。課長を筆頭に三十人ばかり連名ですから、一丈もありました。それが張り出しになりましたが、字が迚も拙いんです。皆寄ってたかって、悪口を言っているんです。尤も本人は新婚旅行中でした」
「成程」
「訊いてみましたら、然ういうお礼状は必ず毛筆という習慣ということでした」
「それで早速発心ほっしんしたんですね」
「いや、然うじゃありませんけれど」
「ハッハヽヽ」
「結婚問題と習字とは関係ありませんが、兎に角、人に笑われたくないと思ったんです。それだものですから……」
 と安達君は慌てゝしまって、いつもの癖を出した。
「結構ですよ。用意周到に越したことはありません」
「用意の意味じゃありません。一種の精神修養の積りです」
「思い立ったことです。折角おやりなさい」
「はあ」
「何うぞ御ゆっくり。お邪魔致しました」
 と言って、橋本閣下は出て行った。
「安達さん」
「はあ」
「お習字は少しお早手廻しじゃございません?」
 と佳子さんがからかった。
「申訳ありません」
「いゝえ」
「ついあんなことを言ってしまったんです」
「構いませんのよ」
「こんなに汗をかきました」
 と安達君は額を拭いた。正直者はこんな具合で矢張り相応のところをやっているのである。習字までして待っていてくれると思えば、佳子さんも決して悪い心持はしまい。

最後の手段


 吉川君は年末年頭を利用して、一気呵成かせいに事を決する積りだったが、丸尾夫人調製の番組プログラム悉皆すっかり腐ってしまった。クリスマスセールへの同伴さえかなわなかった。米人のクリスマスへ丸尾氏夫婦と一緒に招かれて行って、
「これですね」
 と恨めしそうに宿り木を見上げた。佳子さんは風邪を引いて、暮から松の内を引き籠ったのである。大したことはないが、ハッキリしない。何れ全快の上とあって、差当り面会謝絶だった。安達君としては没計もっけの幸いだったかも知れない。銀行は大晦日の夜更けまでせわしいから、年末の活躍を一切封じられている。
 元日に吉川君と安達君の顔が合った。安達君の方から年賀に出掛けたのだった。久しぶりで上り込んだが、余り話が弾まなかった。
「君が来てくれたから、僕はもうこれで失敬するよ。お互に簡便主義で行こう」
 と吉川君が言った。親友も争奪戦をやっていると何うしてもこだわる。競争は競争、友情は友情。これは立派な言葉だけれど、実行がむずかしいと考える余裕さえお互に持ち合わせない。瀬戸君に至っては年賀状も寄越さなかった。
 安達君は二日に小宮君を訪れた。年賀だから、いてもいなくても構わない積りだったが、丁度居合せて、引っ張り込むように迎えてくれた。
「君、一足違いだったよ。今瀬戸君が帰ったところだ。その辺で会いはしなかったかい?」
 と小宮君が残念がった。
「あんな野郎に会いたくもねえ」
「何だい?」
「ハッハヽヽ」
「惜しいことをした。君が会えば、少しは加減が分ったろうに」
「然うだったね。御機嫌は好かったかい?」
「問題には一切触れない。溝淵閣下から堅く戒められていると言ったばかりだ」
「何ういう意味だろう?」
「訊いても見ない。失敗したものを追究するのは可哀そうだ。それよりも君の方は何うだね?」
「一向埓が明かない」
「形勢不利か?」
「少し不利のまゝ停滞している。佳子さんは病気だよ」
「ふうむ」
「大したことはない。風邪を少しこじらせたんだから」
 若子さんが出て来て、例によって下にも置かないように斡旋あっせんしてくれる。但し見せつける意味もあるから、安達君は恐れ入る。
「時に安達君」
「うむ」
「僕達はイヨ/\定ったよ。節分過ぎに式を挙げる」
「それはお芽出度う」
「見給え。若子さんが顔を隠している」
「若子さん、お芽出度うございます」
「有難うございます」
 と若子さんは流石に赤くなっていた。
「気の毒だな」
「遠慮は要らない」
「君の方を計らう積りでいて、つい忘れてしまった」
「ひどいね」
「しかし研究はしてあるんだよ。世の中は狭い。若子さんの小学校時代の親友が佳子さんと同じ女学校を卒業している。確か同級生の筈だ」
「ふうむ」
「その人が結婚すれば、若子さんは家同志の関係だから、披露会に招待される。その人に頼んで佳子さんを招待して貰えば、若子さんと佳子さんの間に関係がつく」
「成程」
「万一その人が佳子さんの親友なら、もう此方のものだ。若子さんはその人を通して、佳子さんを動かすことが出来る」
「これは有難いな。その人はいつ結婚するんだい?」
「それが分らないんだ」
「何だい? 詰まらない」
「しかし若子さんと同い年だから、その中に何とかなるに定っている」
「そんなことを言っている間に吉川君が取ってしまうよ」
「形勢そんなに急かい?」
「急だとも。佳子さんが病気だから、差当り助かっているようなものだ」
「丈夫なら危いのかい?」
「思い当ることがあるんだ」
「馬鹿だなあ。それならうと何故早く言って来ないんだ?」
「昨日思い当ったんだもの。久しぶりで吉川君に会ったら、態度が悉皆すっかり変っていた。お前はもう駄目だと言わないばかりだった」
「よし。日本橋の兄さんが一肌脱ぐ」
「頼むよ」
「その人から直接佳子さんを動かして貰う」
「しかし親友か知ら? 佳子さんの」
「親友でなければ、その人から親友に頼む。又頼まただのみでも事が足りる。単に爆弾を一発投下すれば宜いんだ」
「爆弾って?」
「吉川君は両天秤をかけているじゃないか? それを知らせるのさ。現に第二候補者の写真を肌身につけているんだ。僕はそんな不誠実な求婚者に勝たせるのは女性を侮辱することだと思っている」
「しかし……」
「何だい?」
「尋常の手段で行きたいな」
「手段は選ばない約束のようだったぜ。それに先方むこうだって何んなことをやっているかも知れない」
「先方は無論さ」
此方こっちもやるんだ。吉川君の遣口は第二候補者にも済まない。万一の場合の用心に引っ張って置くなんて、不誠実極まる。此方は正義の立場から弾劾だんがいするんだから些っとも構わない」
「それじゃイヨ/\負けそうになったらやってくれ給え」
「見込があるのかい?」
「少しある。兎に角、正々堂々と勝ちたいんだ」
 と正直者は矢張り気が弱い。

有られもないこと


「私、何う考えても面白くありませんわ」
 安達君の軍師大谷夫人は美しいと自任している顔を曇らせた。夫君の大谷さんが持て余していた。安達君は自分の為めに起った問題だから、甚だ具合が悪い。間もなく二階へ逃げて行った。
「もう好い加減にしなさい。詰まらない」
 と大谷さんがたしなめるように言った。
「本当に人を馬鹿にしている奥さんですわ。陰へ廻って、変なことばかりするんですから」
「何あに、偶然そうなったんだろう。もとの時間割を瀬戸君が抜けたまゝ利用したんだから」
「それにしても暮に吉川さんの番で終っているんですから、今度は安達さんの番よ。吉川さんから始めるって法はありませんわ」
「その辺を考えないで、うっかりもとの順番で始めたのさ」
うさせたのよ、丸尾さんの奥さんが。私の顔を潰す為めに」
「さあ」
「始終橋本さんへあがって、お喋りばかりしていらっしゃるんですから、出し抜いたにきまっていますわ」
「それほど悪謀わるだくみのある人でもあるまい」
「変な人ね、あなたは」
「何だい?」
「自分の家内が侮辱されているのに、余所よその奥さんの贔負ひいきをなすって」
「贔負でも何でもない」
「でも、弁解じゃありませんか?」
「公明正大の判断さ」
「すると私が悪いんでございますか?」
 と奥さんは多大の興奮を示した。
何方どっちも悪くない。悪いといえば、両方悪いんだ」
「詰まりませんわ、私。あんな人と一緒にされたんじゃ」
わしも詰まらない。馬鹿々々しい競争の飛沫とばしりを浴びて、不機嫌な顔をされるんだから」
「あなたが身に沁みて同情して下さらないからですわ。直ぐに馬鹿々々しいと仰有って、勘定の方が先に立つ人ですから」
「結局勝てば宜いんだろう?」
「勝てませんわ、うなっちゃナカ/\」
「そんなに形勢が悪いのか?」
「現に出し抜かれているじゃありませんか? 先方むこうは奥さんばかりでなく、御主人まで本気になって、種々いろいろと計略をめぐらすんですから」
「俺にも出馬しろと言うのか?」
「はあ。一度ぐらい橋本さんへ伺って戴きます」
「切っかけがないよ」
「年頭ですから、安達さんが始終上ってお世話になっているお礼を申上げてもうございましょう?」
「今更取り入るようで可笑しいだろう」
「取り入らなければ駄目ですわ。先方は御夫婦二人がかりよ。七重の腰を八重に折っても、勝たせて戴かなければならないところですから」
「場合によってはうでもする。行く必要があるなら行くから、機嫌を好くしてくれ。銀行から帰って、ふくれっつらをされると面白くない」
「私も気をつけますけれど、あなたも本気になって下さい。安達さんが可哀そうですわ」
「元気がないようだね、昨今」
「出し抜かれているんですもの。あなたには何も仰有いませんけれど、私にはイヨ/\これはカルモチンものですなんて心配になるようなことを申します」
「馬鹿だな」
「安達さんも顔が潰れますけれど、私達だって元来もともと私達が後楯うしろだてになって始めたことですから、こゝで負けたんじゃ好い恥をかきます。それでなくても、私、あの奥さんには以前からの行きがかりがあるんですから」
 と大谷夫人、これは美人競争のことだった。見立ての柄を派手だと言われた恨みを忘れない。数え立てれば、その他幾つもある。それと安達君の求婚競争がからまっているから、関係がナカ/\複雑だ。
 松の内を過ぎて、佳子さんが悉皆すっかり回復したのだった。又訪問が始まる。安達君は当然自分の番の積りでいたら、吉川君が口開けだった。暮に吉川君の番で終ったにも拘らず、又吉川君の番から始まる。安達君たるもの首を傾げざるを得ない。この不公平な取り扱いは丸尾夫人の干渉によると大谷夫人が気を廻したのである。
「安達さん、私、何うしても黙っていられませんわ」
「宜いですよ。仕方ありません」
「癖になります。橋本さんの奥さんにも道理わけを伺って見ましょう」
「それ丈けはお控え下さい。僕の立場が悪くなるばかりですから」
 と安達君は慌てた。大谷夫人が丸尾夫人と争うのは構わない。掴み合っても心委こころまかせだが、佳子さんのお母さんの気持を悪くするようなことがあると万事休す。
 丸尾夫人と大谷夫人は時折橋本家で顔が合う。大谷夫人は丸尾夫人が始終入り浸っているように考えるけれど、必ずしも然うでない。自分が行っているところへ丸尾夫人が来ることもある。しかしそれは勘定に入れない。その反対の場合丈けが印象に残る。面と向えば、お互に礼譲の限りを尽すけれど、胸の中は反感に燃えている。今までも鄭重を極めた婉曲な皮肉の遣り取りが幾度もあった。今度は歯にきぬ着せず言ってやる決心の大谷夫人は機会を待つこと数日にして、丸尾夫人の履物を橋本さんの玄関先に見つけた。丸尾夫人も未だ来たばかりと見えて、橋本夫人と挨拶を終ったところだった。夜前近所に火事があって一寸騒いだから、それが差当りの話題になった。
「主人が出張中でございますから、私、何うなることかと思って、本当にハラ/\致しました」
 と丸尾夫人は何につけても御主人が官海に活躍していることを吹聴する。しかし大谷夫人に言わせると、正月早々地方へ出て行くのは下廻りだ。
「火事も恐ろしゅうございますが、もっと恐ろしいものがございますわ」
「地震でございますか?」
「いゝえ、火事泥ってものがございますから」
「でも、宅へはお役所の人達が直ぐに駈けつけて下さいました」
「宅へも銀行の人達が悉皆すっかり集まってしまって、その騒ぎの方が大きいくらいでございました」
「宅では主人が出張勝ちですから、同僚の方々に特別にお頼みしてございますの」
「お役所は会社や銀行と違って、小使さんが多うございますから、あゝいう時には調法でございますわね」
 と胸に一もつある大谷夫人は甚だ辛辣しんらつだった。
「…………」
「丁度風下に当っていましたから、宅でもい心配を致しました」
 と橋本夫人丈けは額面通りの意味で、為めにするところが少しもない。
「奥さま、私、安達さんの現金なのには驚きました。家よりもお宅でございます」
「オホヽヽヽ」
「火の手を見ると直ぐにお宅へ駈けて行ってしまって、もう帰って参りません」
「有難うございました。屋根を守ると仰有って、弼と二人で屋根から見物でございました」
「私、後からからかってやりましたの。家は何うでも宜いんですかって」
「オホヽヽヽ」
「すると頭を掻いて、つい忘れたんですって。オホヽヽヽ」
 ういう折から必ず負けないで主張する丸尾夫人が妙に黙り込んでいた。それによって、大谷夫人は吉川君が橋本家へ駈けつけていないのだと察した。
「吉川さんはお宅の方へ御加勢でございましょう?」
「はあ。火元に近い上に御自分の家作かさくでいらっしゃいますから」
 と丸尾夫人は弁解した。
「御無理もございませんわ」
「…………」
「地震加藤ってものでございましょう」
「はあ?」
「矢張り心のある方へ馳せつけます」
「宅は主人が出張中ですから、お父さんお母さんのお指図でおいで下すったんでございましょう」
「安達さんよりも実がございますわね」
「さあ」
「評判でございますわ」
 と大谷夫人、つい余計なことを言ってしまった。尤も日頃あきたらず考えていたところである。主人出張勝ちの若い綺麗な奥さんの家へ、仲人を頼んでいるにしろ、家主やぬし店子たなこの関係があるにしろ、若い吉川君が遠慮なく出入するのは現象として面白くない。それは大義名分論だけれど、その懇談の結果が直接此方へ響く。従って公私両面から感心しないことゝ思っていたのである。
 間もなく橋本夫人が座を外した。丸尾夫人は待っていたように、大谷夫人の方へ向き直った。
「奥さま」
「はあ」
「評判と仰有るのは何でございますか?」
「そんなこと、私、申上げましたか知ら?」
「私、確かに承わりました。吉川さんは実があると仰有った後に」
「まあ。あんなこと」
「あんなことでは済みませんでしょう。私、御説明を伺わせて戴きます」
「あなたが吉川さんの後押しをなすって、こゝへお百度をお踏みになることは近所の方々が皆御存じでいらっしゃいますから、評判でございましょう?」
「それ丈けの意味とは取れませんでした」
「他に何かございますの?」
「…………」
「しかし私、この機会に日頃考えているところを申上げましょうか? お望みならば」
「承わりましょう」
「御主人が御出張勝ちの若い奥さまのところへ若い吉川さんが始終お伺いするってことは何んなものでしょうかと、私、お近しく願っている丈けに、陰ながら、お案じ申上げていますの」
「そんなこと、余計なお世話でございますよ」
「無論お立派な人達のことですから、余計なおせっかいに相違ありませんが、世間体ってものがございますわ。盲千人目明き千人の世の中でございますからね」
「…………」
「私、自分の知合の淑女の方には矢張り淑女らしいたしなみを守って戴きたいと思いますの」
「…………」
「お分りになって下すって? 私の老婆心から申上げるんでございますから」
「卑怯ね、あなたは」
「何故?」
「吉川さんの形勢が好いものですから、中傷なさるんですわ」
「中傷? まあ、奥さま」
「いゝえ、口惜しまぎれに別の方面から故障を仰有おっしゃるんでございますわ」
うお取りになるなら、それで結構でございます」
「そんな御注意、私、お受け致しません。第一、失礼じゃございませんか?」
「何方が失礼? 奥さま。あなたのような横暴な人ってありませんよ」
「何が横暴でございますか?」
「申上げましょう。暮に吉川さんの番で終っていますのに、又吉川さんの番で始まっているじゃございませんか?」
「そんなこと、橋本さんの御都合ですから、私、存じませんわ」
「御存じないと仰有るなら仕方ありませんけれど、御辞退なさるのが当り前でございましょう? 公明正大の競争なら」
「私、辞退なんか出来ませんわ。吉川さんの訪問日じゃございませんか?」
「…………」
素々もともと木曜日は吉川さんの日でございますよ。偶然木曜日に終って又偶然木曜日に始まったからって、責任に問われては、私、迷惑致します」
「その偶然に意味がございましょう?」
「日曜と大祭がかち合っても文句は申されませんわ」
「問題が違いますよ」
「違いません」
「…………」
「…………」
 何方も黙ってしまった。橋本夫人が佳子さんを伴って入って来たのだった。佳子さんが中心になって、話が弾んだ。大谷夫人と丸尾夫人は辛抱較べをした。この際、早く帰った方が負けになるような気がしたのである。立った後で何か批評をされるに定っている。そこで二人は昼近くになって、一緒に辞し去った。玄関まではお互に譲り合ったが、大谷夫人は門を出ると直ぐに歩を速めて、見返りもせず、筋向いの家へ帰り着いた。
「御免下さい」
「…………」
「御免下さい」
「誰か見えましたよ」
 と女中を促したら、
「丸尾さんの奥さまでいらっしゃいます」
 と目を円くして取次いだのにはすくなからず驚いた。家までついて来たのである。大谷夫人は玄関へ出てしょうじたが、丸尾夫人はお辞儀をするばかりで応じない。
「こゝで失礼させて戴きます」
「まあ、何うぞ」
「いゝえ」
「こゝではお高くてお話が伺えません。何うぞ、奥さま、何うぞ」
「それではほん一寸ちょっと
「何うぞ御ゆっくり」
あんまり強情を張るようで失礼でございますから」
 と折れて、丸尾夫人は客間へ通った。
 斯う改まって訪ねて来られて見ると、今更喧嘩腰にもなれない。大谷夫人は今しがたの経緯いきさつがあるから、その為め冷遇したと思われたくなかった。丸尾夫人にしても、カン/\になって後を追って来たものゝ、上り込んでしまって、下にも置かないように扱われたら、張り詰めていた気がゆるんだ。
「始終お門を通らせて戴きながら、全くの御無沙汰で何とも申訳ございません」
「何う致しまして。私こそ一度お伺いさせて戴きたいと思いながら、出無精でぶしょうめまして、本当に相済みません」
「時に奥さま、先刻はつい失礼申上げました。何うぞ水にお流し下さいませ」
「私こそ調子に乗って、飛んでもないことを申上げて、今更後悔しています。うぞあしからず」
「いゝえ。私もあれから考えました。うっかりしていましたが、仰有られて見ると、その通りでございますから、御注意に従って、気をつけることに致します」
「そんなに仰有って戴くと、何ともお答えの申上げようがございません」
「それから木曜日のお話でございますが、あれは全く……」
「もう結構でございますから」
「いゝえ、申上げて置きませんと気が済みません。あれは全く、私、些っとも関係のないことでございます。橋本さんの奥さまが日をお定めになって、それが偶然木曜日だったものですから、吉川さんの番から始まりました。その証拠に吉川さんは木曜丈けで、後金曜土曜と安達さんの方が続いておりました」
「申訳ございません。そこまで考えずに、ひがんだことを申上げて今更恥じ入ります」
 女は矢張り気が弱い。言う丈け言う積りで来た人とそれを承知で迎えた人が直ぐに妥協して、少時しばらく世間話に打ち興じた。お互に然う悪い料簡の人でもないと思った。問題さえなければ、お附き合いが出来ると考えた。しかしその夕刻、大谷夫人は再び丸尾夫人の誠意を疑わなければならないことになった。昼から買物に行って帰って来たら、女中が、
「奥さま、大変でございますよ。丸尾さんの奥さんが二千円のダイヤをお落しになりました」
 とけたたましく報告した。
「まあ/\、何処へ?」
「家のお玄関かお座敷かも知れないと仰有って、女中さんを見せに寄越しました。指輪の爪が弛んでいたものですから、落ちたんでございますって」
「そんなこと言って来られちゃ迷惑しますわ。お前、何とお答えしたの?」
「さあ」
「何て?」
「玄関を探しましたけれど、見つかりませんから」
「分らない人ね。何てお答えしたの?」
「私は存じませんが、奥さまがお気づきになって仕舞ってお置きになったかも知れませんからって」
「馬鹿な人ね。私、知りませんよ、そんなもの」
「こゝか橋本さんで落したに相違ないように女中さんが言うものですから」
「橋本さんへも訊きに上りましたの?」
「これから上ると言っていました。橋本さんへ伺って帰りにこゝへお寄りになった丈けですから、何方どっちかに相違ないと奥さんが仰有っているそうでございます」
「迷惑千万ですわ、そんな責任を負わせられては」
 と大谷夫人は早速丸尾家へ説明に出掛ける積りだったが、もう時刻が時刻だった。間もなく御主人と安達君が夫れ/″\銀行と会社から帰って来た。

火事泥


 夕食の卓上、二千円のダイヤが屈託くったくになった。大谷さんは奥さんの訴えに耳傾けて、むずかしい顔をしていた。何うも丸尾夫人の為めに問題ばかり起る。
「好い迷惑だね。家にあるように思われたんじゃ」
「私、これから伺って参りますわ」
「何を伺いに?」
「いゝえ、一寸上って、説明して参ります」
「お前が行くには及ばない。清をやりなさい」
「清じゃ分りませんよ」
「構わない。早く警察へ届けろと言わせなさい。心持が悪い」
 大谷夫人は結局女中もやらなかった。そんな無法なことを言って来るものを相手にする必要はないという大谷さんと安達君の結論に従ったのである。しかし矢張り気になった。
「私、橋本さんへ伺って参りますわ。橋本さんなら宜いでしょう?」
 と御主人に断った。橋本さんへも女中が探しに行ったと聞いたから、何ういう態度を取っているか、参考にしたいと思ったのだった。
「御門までお供致しましょうか?」
 と安達君が調子づいた。冗談が本当になって、ノコ/\ついて行った。月曜日だったから、自分の番でも吉川君の番でもなかった。しかし元気の好いところを見ると、金土両晩とも可なり成績が好かったのらしい。尚お夜前には火事で駈けつけて奇功を奏していた。
 大谷夫人が案内を求めたら、佳子さんが現れた。
「佳子さん、相済みませんが、又お邪魔に上りました」
「ようこそ。うぞ」
「お差支さしつかえございません? 実は心配ごとが出来たものですから」
 と言って、大谷夫人はわざと締め残して置いた格子戸を見返った。
「あら! 安達さんね?」
 と佳子さんが見つけた。安達君が一寸覗いたのだった。
「はあ、尻尾を振って、御門までついて参りましたの」
「安達さん」
「はあ」
「卑怯よ。お隠れになるのは」
「…………」
「いらっしゃいよ」
 安達君は得たり賢しと、お相伴をして、そのまゝ上り込んだ。大谷夫人は挨拶を簡略に済ませて、早速用件に移った。
「佳子さん、先刻丸尾さんのところの女中さんが言っておいでになりませんでしたか?」
「参りました。二千円のダイヤでございましょう?」
「はあ。宅へも参りました。私、心持が悪くて、心持が悪くて」
「オホヽヽヽ。奥さまは御正直でいらっしゃいますわ」
「まあ! 何故? 嘘?」
「ダイヤが指輪から落ちたことは本当でございましょう。でも、二千円のダイヤなら、奥さんが御自分で目の色を変えて探しにお出になりますわ」
「私なんか、人様のものでも、斯うして慌てくさって、お伺いするんですから」
「奥さま。あれ、仏蘭西フランスダイヤよ」
「あらまあ!」
「二三十円のものでしょう、精々。私、せんからチャンと見ていますから、些っとも驚きませんの」
「それを二千円なんて吹っかけて、まあ、何て人でしょう?」
「私、何故警察へ早くお届けになりませんのって、女中さんに訊いたら、御主人さまが局長さんと御一緒に御出張中ですからって」
「宣伝ね、何でも」
「オホヽヽヽ」
「流石に佳子さんはお目が高いですな。第一、頭が違います」
 と安達君が褒めた。
「誰と違って? 安達さん」
 と大谷夫人は態と故障を申立てた。
「ハッハヽヽ」
「詰まりませんわ、私。本気になって心配して、馬鹿にされるんですから」
「オホヽヽヽ」
「あら、あなたまで御同感?」
後生ごしょうの好い方でいらっしゃいますわ。ねえ、安達さん」
「はあ。本当です。ハッハヽヽ」
 と安達君は大袈裟に笑った。正直者、先ずもって調子が好い。
 大谷夫人は安達君を残して、直ぐに引き揚げた。気を利かしたのである。期せずして、安達君の為めに尽すことが出来た。美人競争の相手が偽ダイヤをめているという発見はすくなからず意を強くするものらしい。鬼の首でも取って来たように、大谷さんに報告した後、
「こんなものよ、あんな人、うせ」
 と勝ち誇った。
「もう結構だ」
「まだございますのよ。安達さんの方が」
「ふうむ」
「何う? あなた」
「何が?」
「私の腕前。一寸火事泥をやって、安達さんを置いて参りました」
「成程」
「抜け目がないでしょう? これで取り返したから、溜飲が下ります」
「安達君もお前と同じことで、景気が好いと元気づくけれど、悪いと忽ちペチャンコだ」
「矢っ張り出し抜かなければ駄目よ。今までは此方が正直過ぎたんですわ」
「斯ういう特別エキストラが利くのは勝味のある証拠だ。安達君、大いにやっているんだろう」
 と大谷さんも喜んだが、そこへ小宮君から安達君へ呼び出しの電話がかゝって来た。大谷夫人が代って聴き取った。
「今晩は橋本さんへ上っています。いゝえ、特別エキストラです。はあ。番じゃないんですから有望でしょう? はあ。出し抜きましたの。はあ。昨今とても調子が好いのよ。いゝえ。オホヽヽヽ、はあ。はあ/\。そんな急用? 重大事件? はあ。分りました。それじゃ早速伺わせます。はあ。さよなら」
 女中が橋本家へ走った。安達君はたまに出し抜いたと思ったら、早速呼び返されて、甚だ不本意だった。
「奥さん、何ですか? 急用って」
「小宮さんが直ぐにおいで下さいって」
「困りますな。僕、又引き返す積りにして来たんですから」
「重大事件ですって。今晩の機会を遁すと、形勢が何う逆転するかも知れませんと仰有いますの。あなた、お力添えをお頼みしてあるんでしょう?」
「はあ」
「早くいらっしゃいよ。佳子さんの方は私、又特別エキストラを拵えて上げますわ」
 と大谷夫人が促した。

罪亡しの罪作り


 安達君は早速小宮君のところへ駈けつけたが、瀬戸君が来ていたのに驚いた。落伍以来初めて顔を合せたのだった。
「やあ。これは/\」
 と正直者の安達君は何となく具合が悪かった。しかし瀬戸君は例によって図太い。
「相変らず馬鹿なことをやっているのかい?」
 と強気に出た。
「うむ」
「好い加減にして目を覚ましたら宜かろう?」
「乗りかけた舟で仕方がない」
「形勢は何うだ?」
「余り香しくない」
「九分一分と初めから見ている。吉川君のものだ」
「自分は何うしたんだ?」
 と流石の安達君も腹が立った。
「おい/\。安達君」
 と小宮君が呼びかけた。
「失敬々々」
「主人にロク/\挨拶もしないで」
「土佐犬が吠えるからさ。失敬した。時に重大事件ってのは何だい?」
「僕と瀬戸君の方寸で君の運命が定るんだ。瀬戸君と喧嘩をしちゃ駄目だよ」
「ふうむ」
「その後の形勢は何うだ?」
「何うも面白くない」
「しかし今晩は特別エキストラだってじゃないか?」
「それは僕だってたまには出し抜くさ」
「調子が好いと言って、奥さんが喜んでいたぜ」
「実はこの三四日少し盛り返したようだけれど、君に安心されると困る。矢っ張り形勢不利の積りで策をめぐらせてくれ給え」
「駈引をしないで、本当のところを話してくれ」
「迚も危いんだ。それだものだから……」
「それだものだから?」
「大谷夫人も心配している」
「ハッハヽヽ」
「何だい?」
「形勢は好い方だろう。嘘をついても駄目だ」
「実は少し好いんだ」
「松が取れたら行動を開始しようと思っていたところへ、瀬戸君が耳寄りの話を持ち込んでくれたんだ。持つべきものは友達だよ」
「何だい? 瀬戸君が味方についてくれるのかい?」
「うむ。それで来ているんだ」
「瀬戸君」
「…………」
「瀬戸君、失敬した」
 と安達君は正直丈けに現金だ。
「おれは知らない。土佐犬だなんて言われて、味方につくものか?」
「つい吉川君の真似をしたんだ」
「目先の見えない人間は仕方がない。君と吉川君は何処までも好い相棒だよ」
「まあ/\、う憤るな」
「君は僕がおっぽり出されたと思っているのか?」
「さあ」
「僕は感ずるところあって自分から手を引いたんだ。君達のような目先の見えない連中と一緒にされちゃ困る。君は一体あの佳子さんを申分ない淑女と思っているのか?」
「それは思っている。思っていればこそじゃないか?」
「何うしても貰いたいか?」
「貰いたい」
「後悔しても僕は知らないよ」
「何かあるのかい?」
「僕は閣下から封じられているから、絶対に口外しないけれど、貰った後で君が困るだろうと思うんだ」
「何故困る?」
「それが言えない」
「気になるね。変なことを言い出して」
「しかし君さえ辛抱すれば宜いことだ」
「何だい?」
「言えない」
「僕は何んなことがあっても困らない。辛抱で済むことなら辛抱する」
屹度きっとだな」
「うむ」
「それなら宜い。予め念を押して置くんだ」
「味方についてくれるか?」
「それは別問題だ」
「何だ? 詰まらない」
「人に物を頼むからには礼儀を守り給え」
「失敬したと言っている」
「頭を下げろ」
 と瀬戸君は相変らず傲然たる態度だった。
「土佐犬と言ったのは悪かった」
 と安達君は仕方なしに頭を下げた。
「ところで、小宮君、僕が話そうか?」
「うむ。その方が早い」
「安達君、実は僕は閣下から相談を受けたんだよ」
「橋本閣下からかい?」
「いや、溝淵閣下だ。ついては僕の立場を打ち明ける。僕は溝淵閣下の令嬢を貰うことにきまった」
「ふうむ?」
「しかし今晩は時間がないから、うなるまでの経過は割愛かつあいしよう。小宮君あたりと違って、鼻の下の寸法が短いから、元来その任でない。兎に角、以前から出入していたんだから、その辺のところは君の常識で宜しく察してくれ給え」
婉曲えんきょくにやったね」
「ハッハヽヽ」
 と瀬戸君は得意のようだった。
「一寸の間に新生面を開拓したとは驚いた。君は矢っ張り腕がある」
「少しは違う積りだ」
えらいよ」
「おい、刺戟しちゃいけない」
 と小宮君が遮って、
「僕はもうサンザ聴かされたんだから」
「ハッハヽヽ」
「それにしてもお芽出度い。祝意を表する」
「有難う。ところで問題が君に移る。溝淵閣下は義理の堅い人だから、昨今煩悶はんもんしているんだ。僕から仲人を頼まれて僕を橋本家へ紹介した関係があるから、橋本閣下へ具合が悪い。佳子さんの候補者を横取りしたことになる。それも一番学業成績の好い奴を」
「後の方は余計だろう」
「いや、橋本家でも今更残念がっている。そんな様子が見えるだろう?」
「さあ。僕は自分の方が手一杯だから、訊いても見なかったけれど」
「兎に角、橋本家へ申訳がないから、この際僕に劣らぬ秀才を選抜して差向けたいと言い出したんだ。僕が一も二もなく賛成したら、うだろう?」
「さあ」
「君達は二人とも何処かへ吹き飛ばされてしまう。然ういう事情も知らずに安閑としているんだから、目先が利かないと言われても仕方あるまい」
「それは少し困るね。僕は吉川君丈けでも持て余しているんだから」
「僕も君達の立つ瀬があるまいと思って、慌てゝ止めたんだ。すると閣下は二三日考えた後、僕を横取りした罪亡つみほろぼしに二人の中何方か人物の好い方に定めてやる努力をしたいと言い出した。余程気に病んでいるのらしい。僕に参謀として働けと言うんだ。君と吉川君では何方が将来見込があるかと訊くんだ」
「成程」
「僕は人間としては北海道の方が肥料こやしが利いていると答えた。学業成績のことは前に話してあるから、今更嘘がつけない」
「厳しいな」
「人格者として推薦したんだ。幸い閣下は学問よりも人格に重きを置く。人物としては君の方が吉川君より数等上だと言って、君が始終出し抜かれていることを話した」
「余り好人物と思われても困るよ」
「いや、その辺に手ぬかりはない。僕はやるとなれば徹底的だ。種々いろいろの方面から、君が人格に於いて吉川君に勝ることを立証して置いた」
「有難う。吉川君にはっと気の毒だけれど」
「構うものか? 僕が手を引いた時、吉川君は僕のところへ葉書を寄越した。『何うだ? 土佐犬!』とある。僕はそれを吉川君の人格の証明として、閣下に見せてやった」
「ふうむ」
「閣下も土佐人だ。憤ったぜ。土佐節なら、武士に通じるけれど、犬とは何だ? 君はこんなことを言われて黙っているのかって、叱られてしまった」
「僕は黙っていてかったな」
「何だい? 同感だったのかい?」
「いや、兎に角、君にいられるとかなわないと思っていたから寛いだのさ。しかし友人の失脚を喜ぶようじゃ情けないとツク/″\思った」
「それが君の好いところだ。しかし僕のは失脚じゃない。中将令嬢から大将令嬢へ転向したんだ」
「僕は溝淵閣下から橋本閣下へ推薦して貰えるのかい?」
「そんな形式は取らない。溝淵閣下は橋本閣下から恨まれているんだから、釈明は後からのことにして、手っ取り早く毒瓦斯どくガスを使うんだろう」
「毒瓦斯?」
「鈍いぞ。要するに、吉川君を追い退けて、君丈けを戦場に残す仕掛けさ。陸軍の人だから、その辺は種々と作戦があるんだ」
 と目先の見える筈の瀬戸君はこの毒瓦斯政略に美事かゝっていながら気がつかない。
「成程。しかし気の毒だな、些っと」
「吉川君にかい?」
「うむ」
「それじゃこのまゝにして取られてしまい給え」
「厭だよ、それは」
「策は何をやっても差支ない約束だった」
「うむ」
「実を言うと、閣下は君達二人に重きを置いていない。友人の息子で陸軍大学に入っているのを推薦したがっている。今日もその話を持ち出したから、僕は慌てゝ小宮君に相談に来たんだ」
「成程」
「行こう、これから」
「何処へ?」
「溝淵閣下のところさ。会って話せば印象が強まる」
「さあ」
 と安達君は考え込んだ。
「煮え切らない男だな」
「…………」
「安達君、君はそれほど自信があるのか?」
 と小宮君はもどかしくなって口を出した。
「自信はないけれど、僕は吉川君にそれほどの恨みがない。口惜しい時には何でもしてやろうと思うけれど、いざとなると駄目だ」
「吉川君の問題じゃない。別に候補者の立つ危険があるんだ」
「それも分っている。しかし然うなれば運命だ」
「一気呵成に押し切る気はないか?」
「ない」
「意気地のない奴だな。僕達がこれほど力を入れているのに」
「自分を推薦して貰うんでなくて、相手をおとしいれることになるから御免蒙る」
「安達君、君は矢っ張りえらい」
 と瀬戸君が感心した。
「…………」
「僕は君が飛びついて来ると思ったんだ。自分の心持で君を忖度そんたくし過ぎた」
「何あに、気が弱いんだ」
「君に較べると、僕は誠実を欠いている。君や吉川君のことを余り好く言っていなかったんだ。その為め、閣下が別の候補者を立てゝ罪亡しをすると言い出したんだ。僕に責任がある」
「そんなことはないよ」
「僕はこれから閣下のところへ行って、君のことを話す。君の態度丈けでも、閣下は君の人格を認めてくれるだろう。他の候補者を持ち込むことは僕が責任を持って差控さしひかえて貰う」
「それなら宜しく頼む」
「豪いんだか馬鹿だか分らない。僕はもう相談に乗ってやらない」
 と小宮君の方が却って機嫌を悪くした。

横取りの宣伝


「瀬戸さん、昨日のお話、何うなりましたの?」
 と富士子さんは応接間へしょうじると直ぐに訊いた。瀬戸君は昨今学校の帰りを毎日溝淵家へ寄ることにしている。可なり廻り道になるけれど、それはいとうところでない。富士子さんが待っていてくれる。溝淵閣下の画策宜しきを得て、冬休みの間に悉皆すっかり意気投合したのである。
「それよりも富士子さん」
「はあ」
「御覧下さい」
 と言って、瀬戸君は一通の封書をポケットから探り出した。
「お父さまから?」
「はあ。父も母も大喜びです。溝淵閣下令嬢ならば家門の光栄とございます。父の先輩の長倉という人を仲人に頼むそうです。実は僕は父に来て貰いたかったんですけれど、忙しいと見えて、三月会議で上京するから、その辺のところを宜しく御理解願うようにと申して参りました」
 富士子さんは手紙に目を通した。瀬戸君は両親からの返事を富士子さんに見せる約束だった。御機嫌取り専門にかゝっている。しかし一箇所具合の悪いところがあったから、インキで消した。それでも尚お墨書きの文字が透いて見えるから、更に墨で抹殺して置いた。相変らず用意周到だ。
「瀬戸さん」
「はあ」
「こゝのところはあなたがお消しになりましたの?」
「いや、父が消したんです」
「でも、インキと両方よ」
「然うですね」
「インキで消した上に墨が塗ってありますわ。あなたのお父さま、随分御念をお入れになる方ね」
 と聡明な富士子さんは早速問題にした。
「ハッハヽヽ」
「何あに」
「矢っ張り頭脳明晰めいせきでいらっしゃいます。迚も敵いません」
 瀬戸君は転向が速い。感づかれた上は強情を張るよりも冗談にしてしまう方が軽く済むと思ったのである。
「あなた?」
「ハッハヽヽ」
「何うも変だと思いましたわ」
「説明申上げます」
「宜いのよ、もう。何うせお消しになるくらいですから、本当のことは仰有いませんわ」
「僕、嘘は決してつきません」
「でも、御自分でお消しになって、お父さんの所為になさるのは嘘でございましょう?」
「そこを説明させて戴きます。実は僕、あなたに叱られると思ったものですから」
「何故?」
「この三行です。危険を冒して、ありのまゝを申上げます。『前にもこの令嬢ならでは人生の幸福覚束なしと有之候が、今度は大丈夫と存申候』と書いてあったんです」
「大抵そんなことだろうと存じましたわ」
「申訳ありません」
「何う致しまして。人生の幸福をお求めになったら如何いかが?」
「僕はあなたを貰わなければ前途に光明が認められないと書いてやったんです。真剣ですよ、今度は。少くともその証明になると思います」
「…………」
 富士子さんは瀬戸君を横取りしたと信じているけれど、佳子さんの話が出ると直ぐに機嫌を悪くする。一時にしろ、瀬戸君の胸臆を支配していた人だと思うと、面白くない。瀬戸君はそれを承知しているから、簡便の為めに小刀細工をしたのだが、見透かされてしまって、却って問題が紛糾ふんきゅうして来た。
「富士子さん、僕、橋本さんの方のことなんかもう些っとも考えていないんですから」
「お考えになっても御自由よ」
「今までも度々申上げました通り、交際している中に飛んでもない我儘娘ってことが分って、此方こっちから御免蒙ったんです。見込違いをした外に責任はありません。先方むこうから断られたとでもいうのなら兎に角」
「それじゃ佳子さんの方は今でもあなたに好意を持っていらっしゃるとお思いになりますの?」
「あゝいう自分勝手の人ですから、もう僕のことなんか問題にしていますまい」
「私、今でも問題にしていて戴きたいと思いますわ」
「何故ですか?」
余所よそで嫌われるような人、大嫌いですもの」
「決して嫌われてなんかいなかった積りです。これは閣下も御承知の筈です」
「それじゃ橋本さんへ人生の幸福を求めにいらっしゃったら宜いでしょう。未だ充分間に合いますわ」
 と富士子さんは焦れ始めると分らなくなる。佳子さんが好意を持っていたとすると嫉妬を感じる。持っていなかったとすれば、瀬戸君の値打が下る。何方どっちにしても心持が悪い。
「僕は学校の教師です。会社員なんかと違って、自重しなければならない立場ですから、友達と求婚の競争をすることは元来気がとがめていたんです。仲の好い同志が陥れ合うなんて、浅ましい話だと思いました。この辺の消息はお父さまからお確め下さい。僕は推薦して戴いた関係上、万事を閣下に打ち明けたんです。もう一方、実はその頃から……」
「その頃から何あに?」
「時折あなたにお目にかゝりましたから……」
「…………」
「もう悉皆すっかり熱がなくなってしまって、閣下にお頼みして橋本さんの方をお断りして戴いたんです」
 と瀬戸君は釈明に努めた。
「結構よ、もう」
「いや、御納得の行くまで申上げます」
「一寸いじめて上げたのよ。私だって、あなたが見す/\橋本さんから嫌われる方とは思いませんわ」
「僕も自信があったんです。いや、敢えて主張は致しません」
「何故?」
「叱られますから」
「オホヽヽヽ」
「過去は過去として、もう問題にしないように願います。僕だって、あなたに嘘をつく気はないんですけれど、この手紙をそのまゝ御覧に入れると、又説明が厄介だと思って、つい消したんです。正当防衛ですよ」
「余り正当でもありますまい」
「忽ち見透かされてしまいました。矢っ張り猿智恵でした」
「私、あなたなんかに誤魔化ごまかされませんわ。甘く見ていらっしゃるから、こらしめの為めよ」
「怖いです、実際」
「私が?」
「いや。ハッハヽヽ」
「そのお手紙、お父さんお母さんに御覧に入れて下さい。御安心なさいますから」
「はあ」
「私が拝見したことは内証よ」
「何故ですか?」
「変じゃありませんか? 私、佳子さんなんかと一緒のように思われちゃ困りますわ」
「佳子さんはもう禁物です。地獄へ落ちよ!」
「まあ!」
「ハッハヽヽ」
「オホヽヽヽ」
「しかしこの消したところが具合が悪いですから、口頭で然るべく申上げましょう」
「それでも宜いでしょう。お父さまお母さまが喜んで下すったことを充分仰有って戴きます」
 と富士子さんは漸く機嫌を直した。
「閣下はお宅ですか?」
「諸星さんへ伺って、未だお帰りになりません。お稽古日よ、今日は」
「成程。然うでしたね。お母さまは?」
「居ります」
「直ぐに申上げましょうか?」
「宜いのよ、未だ。父と母と揃った時にして戴きます。それよりも昨日のお話、何うなりましたの? 北海道さんの方は」
「あれから小宮君のところへ寄って呼び出しました。富士子さん、僕、発表しましたよ」
「私達のこと?」
「はあ」
「あらまあ!」
「立場を明かにして置かないと、閣下の御意思を伝えることが出来ません。小宮君も安達君も驚いていました。栄転だと言うんです。中将から大将ですから」
「オホヽヽヽ」
「横取り……というと語弊があるかも知れませんが、『何んな令嬢だい? 君を横取りしたのは』と言って、二人ともあなたに多大の敬意を表しました」
「敬意じゃございませんわ」
「兎に角、あなたのことを頻りに訊くんです。僕は然るべく答えて置いて、閣下の御心境を詳しく話しました。僕を横取りした関係上、責任を感じて……」
「厭ね、横取り/\って。小宮さんの許婚いいなずけの方も聞いていらしったんでしょう?」
「はあ」
「私、困りますわ」
「何あに。世の中は取るか取られるかです。食うか食われるかですよ。第一候補者を横取りした責任上、閣下は僕に勝るとも劣らないような秀才を賠償ばいしょうとして橋本家へ差向けるかも知れないと言っておどかしてやりました。安達君、流石に顔色を変えましたよ」
「父は送り兼ねませんわ。昨夜またそのことを仰有っていましたから」
「それはあなたが責任を負っておいさめ下さい。余り可哀そうです。安達君にしても吉川君にしても、僕と比較するから見劣りがするんですけれど、大体としては申分ない青年ですから」
 と瀬戸君はもう自己宣伝をする必要もないのに、これが持って生れたやまいだ。
「安達さんは家へお見えになりますの?」
「いや、張合のない男です。見す/\形勢が悪いのに、友人を陥れたくないから、干渉しないでくれと言いました。僕は仕方なしに、人格を褒めて引き下りましたが、あの調子じゃ矢っ張り結局吉川君にしてやられます。小宮君は初めから安達君に力瘤ちからこぶを入れていましたから、人の好意を無にするのかって、憤ってしまいました」
「父に会って推薦して戴けば早いんですけれど」
「僕もそれを勧めたんです」
「私、お目にかゝっていませんから、何方に贔負ってこともありませんけれど、北海道さん、少し足りないんじゃございませんの?」
「そんなこともありませんが、気が弱いんです。ひどい目に会わされた時は何でもしてやろうと思うけれど、いざとなると然うも行かないと言っていました。吉川君と違います。吉川君は此方が何もしないのに、何でもしてやろうって気があるんです」
「それじゃ矢っ張り吉川さんのものね」
「このまゝなら、狡い奴の方の勝ちです。あるいはもう大勢が定っているのかも知れません」
「吉川さんって人、そんなにいけませんの?」
「いや、悪い人間じゃないんですが、小才こさいが利く丈けに、軽薄なところがあります。現に安達君としのぎを削りながら、万一の用心の為めに、別の縁談を受けつけて引っ張っているんですから」
「まあ/\」
「小宮君のところへ来て、自慢そうに話したそうです。小宮君も若子さんも余り不誠実だと言って憤慨していました。こゝですよ、富士子さん」
「何処?」
「あなたなら、何方をお採りになりますか? 佳子さんの為めにです。佳子さんから第一候補者を横領した償いに、第二最良セコンドベストを選定して差上げる場合」
「又横領? 人聞きが悪いわ」
「抽象的に身の上相談の一題目としてお考えになっても差支ありません」
「それは無論安達さんですわ」
「若子さんもう主張しました。そこで僕は爆弾投下ってことに小宮君と相談を定めて参りました」
「何うなさいますの?」
「吉川君は、その候補者も気に入っているんです。写真を肌身放さず持って歩いているそうですから、不都合千万でしょう」
「そんなにお気に召したら、そのかたをお貰いになれば宜しいじゃありませんか?」
「そこが吉川流です。万一、佳子さんに断られた場合に、『あなたばかりが女性じゃありません。実はこの通りもう定っているんです』と啖呵たんかを切って、見せつけてやると言ったそうです」
「まあ。ひどい人ね」
「爆弾投下の値打がありましょう?」
「密告なさいますの?」
「はあ。吉川君、木端微塵こっぱみじんになって、すっ飛んでしまいますよ」
「瀬戸さん」
「はあ」
「ホールド・アップ!」
「はあ?」
「ホールド・アップよ。手をお挙げ下さい。私、あなたのポケットを探して見ますから」
「僕は大丈夫です」
「念の為めよ」
 と富士子さんは冗談にかこつけて、瀬戸君のポケットをあらためた。或は佳子さんの写真が秘め忘れてありはしまいかと思いついたのだった。しかし問題になるようなものは何も入っていなかった。
「公明正大、天地神明に恥ずるところがありません」
「当り前ですわ」
「僕も一つ、ホールド・アップをさせて戴きましょう」
「厭よ」
「この辺に何か入っているんじゃありませんか?」
「あら! オホヽヽヽ」
「ハッハヽヽ」
「厭よ。オホヽヽヽ」
「ハッハヽヽ」
 と瀬戸君が調子に乗って追究しているところへ、
「賑かだね」
 と言って、溝淵閣下が入って来た。瀬戸君は忽ちバネ仕掛けのように姿勢を正して、
「閣下、今晩は」
「未だ日が暮れておらんぜ」
「…………」
「何か面白い話があるのかね」
「はあ」
「仲間入りをさせて貰おう」
 と閣下は富士子さんのすすめた椅子を引き寄せた。
「お父さん、橋本さんのところ、相変らず白熱戦でございますって」
 と富士子さんが取り繕った。
「白兵戦というものだよ」
「はあ。白兵戦で互角の勢いだそうでございます」
「矢張り段違いの候補者を送る方が早いだろう。瀬戸君はその何とかいったね、その……」
「安達君ですか?」
「うむ。安達君安達君。いつでも忘れてしまう。安達君に会ったかね?」
「はあ。閣下のお考えを申伝えました。しかし律義者です。友人を陥れたくないから、干渉はして貰いたくないと言っています」
「ふうむ。形勢が好いのか?」
「いや、押されているらしいです。それにも拘らず、何処までも正々堂々の陣を張る決心ですから、援助してやりたいと思います」
わしが第一候補者を横領して責任を感じていることを話してくれたかね?」
「はあ」
「充分徹底しているかな?」
「閣下が賠償として陸軍の秀才を送ると仰有っていることまで詳しく話しました」
「もう一人は吉川君といったね?」
「はあ」
「安達君に話して置けば、吉川君にも通じるか知ら?」
「さあ。この頃は出し抜き合いですから、恐らく往来ゆききはしていないんでしょう」
「君は吉川君に会う機会はないかね?」
「差当り顔を合せたくないんです。小宮君と二人で安達君の後援をするんですから」
「その小宮君にも充分話してくれたろうね?」
「はあ」
「誰よりも橋本閣下に俺の胸中を理解して貰いたいんだが、あすこへは面でもかぶらないと行かれない」
 と閣下はこれが全部策略だったから呆れる。横取りをしたから賠償の責任があると言って騒ぎ立てれば、瀬戸君が橋本家から姿を消した説明がつく。富士子さんも元来横取りをした積りでいる。万事二人の為めだった。陸軍の候補者というのは案山子かかしに過ぎない。橋本家の方は安達君に定っても吉川君に定っても大同小異だと思っている。何れ後日橋本閣下に一切を告白して勘弁して貰う。

不思議な廻り合せ


 瀬戸君は夕食の御馳走になった後、富士子さんの目くばせに従って、
「実は閣下、昨日両親から返事が参りました」
 と切り出した。夫人も同席だった。
「ふうむ。無論御異存はないんだろう?」
「はあ。光栄至極ですから、早速然るべき仲人を立てゝ形式を踏ませて戴きたいと申して居ります」
「それは結構だ。善は急げと言って、斯ういうことは早い方がい」
「父は三月に会議があって上京しますから、それまでのところを長倉卓郎という友人にお頼みしたそうです。自分で伺わなければならないのですが、年度替りで忙しい時期ですから、悪しからず御諒察を願ってくれと申して居ります」
「長倉卓郎。ふうむ」
「御存じでいらっしゃいますか?」
「知っているどころじゃない。若い頃、俺の家に書生をしていた男だ」
「はゝあ」
「矢張り郷里のものだよ。○○重工業の重役を勤めている」
「道理で、地位としても申分ない人のように書いてありました」
「長倉と懇意かな。君のお父さんはお幾つだね?」
「五十一です」
「長倉は五十七八だね。郁子いくこ
 と閣下は夫人に訊いた。
「三か四でございましょう」
「いや、もっと取っている。髭が白くなったと言っていたもの」
「あれ以来お見えになりませんわ」
「うむ。兎に角、君のお父さんよりは上だけれど、晩学だったから、大学で一緒だったのだろう」
「父の先輩だと書いてありました」
 と瀬戸君が言った。
「それじゃ確かに五十七八だよ」
「精々四か五ですわ」
 と夫人は主張した。この老夫婦は何方でも宜いような記憶の問題にこだわる癖がある。閣下は昔の通り頭が好い積りだけれど、夫人はそれを認めない。富士子さんは又始まりましたという意味を伝える為めに、瀬戸君の顔を見て微笑を洩らした。果して五十七八と五十四五の争いが続いたけれど、
「五十七八にしても、兎に角、若い頃家で勉強して御出世をなすった長倉さんに仲人をして戴けば、幸先さいさきが好いと申すものでございましょう」
「五十三にしても四にしても、申分ない。お前は強情で困る」
 というような事で、長倉さんを認めることには全く一致した。
「富士子は長倉さん、よく存じ上げているでしょう?」
「さあ」
もっともこの頃はいつにもお見えになりませんから」
「お髭を落して来て、お父さまに叱られた方じゃございません?」
「然うよ」
「あの方なら、存じ上げています。お父さまがあんなことを申上げたから、もうお見えにならないんじゃございませんでしょうか?」
「そんな次第わけでもありますまい。お父さまのむずかしいことは昔からよく御承知ですから」
「何うしたんですか?」
 と瀬戸君は富士子さんを見返った。閣下と長倉さんの間に経緯いきさつがあっては困る。
「お髭が白くなったものですから、若返りの為めに剃り落したんでございましょう。しかしういうことは宜しくないって、お父さまからお小言を戴きましたの」
「はゝあ」
「瀬戸君、これは君にも参考になることだから、序に話して置く。去年あたりだったよ」
 と閣下は威張ったが、
「もう一昨年でございますわ」
 と早速夫人に揚げ足を取られた。
「うむ。明けたから一昨年になると言おうと思っていたんだ。長倉がやって来た。何となく顔のが伸びていたから、直ぐに気がついた。髭がない。大分白くなって年寄に見えるから剃ったと言うんだ。俺は何うも然ういう軽薄なことが気に入らん。長年顔の飾りを勤めていたものを、白くなったからといって、弊履へいりを捨てるように落すのは人情にそむく。何うだね? 君は然う思わないか?」
「成程、御道理ごもっともです」
「お前は然ういう料簡りょうけんで部下を使っているのかと訊いてやった。長倉は頻りに弁解した。むしろ自衛策だと言うんだ。年寄に見えると首になる心配があるから、皆髭を落したり髪を染めたりすると言うんだ。しかし俺はそんな卑怯な真似は嫌いだから、大いにお説法をしてやった。人間には愛惜あいせきの情というものがなくてはならん。俺は同じ万年筆を三十年近く使っている。情が移ると、安物でも手放せない。品物にしても然うだ。まして髭は自分の体も顔という看板の特徴じゃないか? 首が怖い為めに剃るなんて法はない」
「成程」
「長倉は黙って聴いていたが、突如いきなり食ってかゝって来た。閣下のようにもう功成り名遂げた人は恥も外聞もなく、そんな禿頭を被って太平楽を並べていられるんですと言うんだ。失敬じゃないか?」
「ハッハヽヽ」
可笑おかしいのか?」
「いや」
「俺も売り言葉に買い言葉で、そんな間の伸びた面は見るのが厭だから、今度来る時は元の通りに髭を生やして来いと呶鳴りつけてやった。以来、奴、やって来ないんだよ」
「すると矢っ張り生やさないんじゃないでしょうか?」
「然うかも知れない」
「困りましたな、これは」
「何あに、君が行って頼めば来るよ」
「随分お忙しいんでしょうね」
「その頃は課長だったけれど、昨今は重役だから、単に遊びにやって来る暇もないんだろう」
「僕、その中に伺って参ります」
悉皆すっかり事情を話すが宜い。お父さんは俺と長倉の関係を知っていられるんだろう。丁度好い人間を指定して下すった」
 と閣下は至極満足のようだった。
 帰りにはいつも富士子さんが門まで送る。
「瀬戸さん」
「はあ」
「明日又お寄り下さる?」
「伺います」
「長倉さんの方は?」
「今度の日曜です。御都合を問合せて手紙を出して置きました」
「早手廻しね」
「しかし困りました」
「何故?」
「さあ」
「お髭の問題?」
「それもありますけれど、もう一つ」
「何あに?」
「長倉さんは閣下に頭が上らないようですから」
「それは昔の関係があるから仕方ないでしょう」
「然ういう人に仲人をして戴くと、僕……」
「何あに?」
「将来あなたの頭を押えることが出来ないだろうと思います」
「まあ! 押える積り?」
「ハッハヽヽ」
「失礼ね」
 瀬戸君は差当り安達君の方よりも自分のことだった。日曜の朝、長倉さんを訪問した。打ち合せて置いたから、直ぐに会って貰えた。髭があるか何うかと心配していたら、チャンと生やしていたには可笑しくなった。重役と聞いて恐れを為すような瀬戸君ではないが、父親からの手紙で用件が分っていたから、話し易かった。長倉さんの方から一々訊くようにして、
「承知しました。お安い御用です」
 と快く引受けてくれた。
「何分宜しくお願い申上げます」
「仲人も斯う定っているのを纒めるのは何の造作もありません。しかし君はナカ/\豪いですな。私は閣下の性格をよく知っていますが、とてもむずかしい人です。現代の青年は皆屑だと言って居られました」
「時折叱られるんです」
「それにしても閣下がお婿さんに御所望なさるようなら折紙つきです」
「いや、閣下の前へ出ると頭が上りません」
 と瀬戸君は流石に謙遜の態度を忘れなかった。
「何うせ時折の御説法は免かれません。毎日お宅へ伺うんですか?」
「はあ」
「始めると長いでしょう? 閣下は」
「お説法ですか?」
「えゝ、名人ですよ。理窟のないところへ理窟をつけます。私なぞはこの年になっても、頭から叱りつけられます」
 と言って、長倉さんは覚えず髭へ手をやった。身に沁みているのらしい。
「矢張り軍隊にいられた頃の癖が残っているんでしょう」
「然うですよ。大将ですから、有らゆる人間を部下と思っているんです。取っ捉まると面倒ですから、滅多に伺いません。何とか言ってはいらっしゃいませんでしたか?」
「いや、一向」
「実はこの前、一寸からかったものですから、喧嘩別れの形になったんです。初め閣下は明治四十年に買ったという万年筆を出してお見せになりました。実は以前にも一度拝見したことがあるんですけれど、折角ですから黙っていました。『俺は明治四十年以来この万年筆を使っている。品物も情が移ると捨て難い』という御感想でしたから、相槌を打っていましたら、君は何故髭を剃ったかとお訊きになりました」
「はゝあ」
「その頃感ずるところあって、髭を剃り落したんです。若い人には想像がつきますまいが、私ぐらいの年になると老人に見られたくないと思って苦労をします。禿頭は観念するとしても、白髪頭を染めたり短く刈り込んだり、皆相応手当をしています。私はそれを話したんです。白いと老朽らしく見えて早く首になる危険がありますから剃りましたと有りのまゝを答えました。すると閣下は非常な勢いで攻撃して来ました。万年筆の感想はその前置きだったんです。品物さえ長く使った後は情が移って捨て難いのに、長年生やしていた髭を白くなったから老朽に見えると言って剃るのは卑怯未練の利己主義だ。然ういう料簡の人間は命が惜しくなれば国を売ると仰有って、迚も厳しい御叱責でした」
「はゝあ」
「芸者や女給に持てたいという陋劣ろうれつな料簡だろうと人身攻撃に及びましたから、私はやり返しました。閣下のような登りつめて上のない御仁ごじんは平気で頭を光らせていられましょうが、腕一本で妻子を養って行く会社員は然う参りませんと言ってやったんです。憤りましたよ」
「ハッハヽヽ」
「しかし御恩になった閣下に口答えをしたのは済みません。厭な心持がしましたよ。それから或日、鏡を見ると、我ながら卑怯未練な顔だと感じました。長年の髭がなくなったから、変に間が伸びているんです。首を恐れている顔だと思うと面白くありません。又生やしました。給局[#「給局」はママ]、閣下の御意見に従ったことになります」
「成程、しかしお見受けしたところ、そんなにお白くもないようです」
「これは黒チックを塗ってあるんです」
「はゝあ」
「今度はチックで誤魔化すのは卑怯だと仰有るかも知れません。むずかしい人です。しかし豪いところは確かにあります」
「万年筆のお話は私も承わりました。もう三十年近く使っていらっしゃるそうです」
「あれは何年でも使える筈ですよ。閣下はペンが傷めば、ペンを替えるんです。軸が傷めば軸を替えるんです。ペンも軸ももう何代か替っています。それを明治四十年に買った万年筆だと堅く信じていて、お説法の材料にまで使うんですから、此方だってついからかってやりたくなりますよ」
「ハッハヽヽ」
 長倉さんは瀬戸君を奥さんに紹介した。奥さんは用件を聞き知っていたと見えて、祝意を表してくれた。瀬戸君は長倉さんしか頭になかったが、成程、媒妁ばいしゃくには奥さんが重大な役割を勤めると気がついて、又改まって頼み入れた。
「あなた、瀬戸さんは○○大学でいらっしゃいますよ。お手紙に書いてございました」
 と奥さんが何か問題のように長倉さんの注意を呼んだ。
「うむ。○○大学だよ」
「お尋ねすれば分るかも知れませんわ」
う/\。しかし数が多いんだからね」
「何でございますか?」
 と瀬戸君が訊いた。
「去年矢張り経済学部を卒業した人ですが、吉川俊彦ってのを御存じありませんか?」
「吉川君! 知っています。親友です」
「それは/\」
「矢っ張り伺って見るものでございますわ」
 と奥さんは如何にも満足のようだった。
「吉川君を御存じでいらっしゃいますか?」
「いや、未だ会っていませんけれど、実は娘と縁談が始まっているんです」
 と長倉さんが答えた。
「はゝあ」
 瀬戸君はつい声を上ずらせて、まったと思った。それくらい驚いたのである。四五日前に小宮君から聞いた縁談だ。吉川君はその令嬢の見合写真を万一の場合のお守りにして、求婚戦場を馳駆ちくしているのだった。
んなお方でいらっしゃいますか?」
 と奥さんが膝を進めた。
「さあ」
「お写真も戴いていますし、調査もしていますけれど、あなたの御親友なら、あなたにお尋ねするのが一番近道でございます」
「御縁談と承わりますと責任がありますから、有りのまゝを申上げます。好いところもありますけれど、悪いところもあります。さあ、何とお答えしたら、一番適切でしょうか?」
「御腹蔵ないところを仰有って戴きます」
「一口に申上げれば才子です」
「学校の御成績は中軸のところでしたから、秀才って方じゃございませんわね」
「はあ、努力家じゃありません。しかし頭は好いんです」
「人物は何うですか? 人格は」
 と長倉さんは枝葉よりも根幹を問題にした。
「人格者という方じゃありません。然ういう方面は自ら任じていないんです。極く当り前のところでしょう。僕達の仲間は皆然うです」
「悪いところと仰有るのは何ういうところが悪いんですか?」
「さあ、積極的にこれってこともありませんが、お坊っちゃんです。裕かな家庭に甘やかされて育った長男ですから、我儘があります。それ丈けでしょう」
「酒は飲む方ですか」
「やります。しかし元来好きでないのに、飲む方が豪いと思っているんです。僕は一遍忠告してやったことがあります」
「そんなに飲むんですか?」
「いや、考えが間違っているというんです。偽善でなくて偽悪の態度があります。お坊っちゃんってことを自分でも意識していますから、努めて然うでない風をするんでしょう」
「何か悪い評判をお聞きになったことはありませんか?」
「それは絶対にありません。僕は六年間毎日顔を合せていましたから、その点は断言出来ます」
「すると先ず極く普通ですな」
「はあ、親友ですから贔負目があるかも知れませんけれど、決して悪い人間じゃありません。僕は気むずかしい性分ですから、し吉川君に並外れて好くないところがあれば、もううに御免蒙っている筈です」
「大体分りました」
「お話が進んでいるんですか?」
「それが妙に延び/\になっているんです。厭なら厭と言って断ってくれゝば宜いのに、いつまでも引っ張っていて埒が明きません。一体、仲人が緩慢です。会社の技師ですが、吉川君のお父さんのお弟子さんですから、遠慮ばかりしているんです」
「十月に始まって、もう年を越しています。あんまりお手間がかゝりますわ」
 と奥さんも訴えた。
「長いですな」
「何か御事情があるんじゃございませんでしょうか?」
「さあ」
 と瀬戸君、知っているけれど、言うことが出来ない。
「吉川さんとは時々御一緒になりますの?」
「いや、卒業後はお互に忙しいものですから、滅多に会いません」
「実は他にもお話がありますけれど、吉川さんの方が先口ですから、お待ち申上げているんでございます。あなた」
「うむ」
「瀬戸さんから吉川さんに直接御意向を伺って戴く次第わけには参りませんでしょうか?」
「然うだね。あんまり長くなる」
 と長倉さんも持て余しているのだった。
「僕、仲人を差置いては失礼ですから、非公式になら、吉川君に会って意向を確めるのはお安い御用です」
「然うして戴きましょうか? あんまり誠意のない話ですから、もう此方から断っても宜いんですけれど、縁というものは何ういうところにあるものか知れません。今日初めてお目にかゝる瀬戸君が偶然吉川君の親友だというのも何か特別の意味があるのではないかと思われます」
「僕も驚いているんです。実は四五日前に友達が吉川君の縁談の評判をしていました。うっかり聞いていましたから、別口だと悪いと思って、申後もうしおくれましたが、お宅のお話に相違ありません」
「はゝあ。何ういう評判でしたか?」
「吉川君はお嬢さんのお写真をポケットに入れて歩いているそうです」
「別口じゃないでしょうか?」
「いゝえ、美津子のよ。後から小型のを御所望して参りましたから差上げました」
 と奥さんが意気込んだ。
「成程」
「そんなに心掛けていて下すって、何故手間が取れるんでございましょうね?」
「僕、それを突き止めて参ります」
 と瀬戸君は義勇兵だ。
「これは急に発展して来ました」
「御縁があるんでございますわ、矢っ張り」
「今までは間接の調査だったから、好いと言われても不安があったけれど、瀬戸君の親友なら間違ない」
 と長倉夫婦は大喜びだった。
「しかしお嬢さんの御意向もございましょう?」
「無論これから見合をしての話ですけれど、君のお蔭で人物がハッキリ分りました。一安心です」
「本当にお蔭さまでございますわ」
「然う仰有られると、僕、責任を感じるんですけれど」
「早速ですけれど、瀬戸君、一つこれから御足労を願えませんでしょうか」
「今直ぐですか?」
「御予定がおありでしたら、明日でも結構です」
「これから一寸閣下のお宅へ伺いますから、昼から行って、晩に又御報告に上りましょう」
「然うして戴ければ、この上ありません」
「瀬戸さん、うぞ宜しく。しかし宅からということでなしに、あなたお一人の御資格でお願い申上げます」
「当らずさわらずに探りを入れて来ます」
 と瀬戸君は引受けたものゝ、胸中甚だ苦しかった。吉川君の態度次第ではこの縁談を打ち壊すのが長倉令嬢の為めだと思っていたのである。

偵察訪問


 長倉家を辞した瀬戸君は直ぐその足で溝淵家へ廻った。長倉さんが仲人を快諾してくれたことを報告する為めだった。富士子さんが待っていて、
「瀬戸さん、もうお電話がございましたよ」
 と言った。早速伺いますからと時間の都合を問い合せて来たのだった。気の早い人だ。成程、吉川君へもこれから直ぐにと足許から鳥の舞い立ったように頼む筈だと思った。
 溝淵閣下は瀬戸君の報告を聴き取って、
「結構々々」
 とうなずいた。
「今日おいで下さるんですか?」
「いや、断った」
「はゝあ。何ういう次第わけでございますか?」
「あの男は考えが足らん。然う簡単に運ばれては困る。斯ういうことは、かつぐのではないが、世の中の仕来りを重んじて、黄道吉日きちにちを選ぶものだと教えてやった」
「成程」
「しかし来るだろう。久しぶりだから、御無沙汰のお詫びなら差支ないと言って、反省を促して置いた」
「閣下にかゝっちゃ敵いませんな。とても苦手のように仰有っていました」
「ハッハヽヽ」
「ところで、閣下、驚いたことがあります」
「当てゝ見ようか?」
「一寸御想像がおつきになりません」
「長倉は髭を生やしていたろう?」
「はあ」
「俺は天眼通じゃないが、長倉の心持丈けは直ぐ分る。矢っ張り見込のある男だよ」
「しかし僕の驚いたのは髭の問題じゃありません」
「何だね?」
「長倉さんのところのお嬢さんと吉川君の間に縁談が始まっているんです」
「はてね」
「○○大学なら吉川ってのを知りませんかとお訊きになったものですから分ったんです。知っているどころじゃありません」
「はてね」
「慌てましたよ、僕は。世の中は広いようで、案外狭いものです」
 と瀬戸君は詳しく物語って、吉川君の意向を探る依頼を受けたことにまで及んだ。
「はてね」
 と閣下は腕組みをして考え込んだまゝだった。
「瀬戸さん」
 と富士子さんが乗り出した。
「はあ」
「あなた、そんな御縁談に御賛成なさいますの?」
「いや、吉川君の態度は無論不都合です」
「橋本さんの方の形勢が定るまで待たせて置く積りなんて、そんな不誠実な方、私、長倉さんのお嬢さまを存じ上げていませんけれど、大反対よ」
「瀬戸君、それは富士子の言う通り、わしも甚だ感心しないな。君は引っ張っている事情を知っていながら、何故黙っていたんだね?」
「御夫婦とも今までお待ちになるくらいですから、可なり進んでいらっしゃるんです。何うも頭から実はあの男はとは申上げられませんでした」
「成程。それも然うだろうな。しかし注意してやらなければいかん」
「無論その積りですけれど、少し考えがありました」
「何ういう考えだね?」
「友人としては先ず吉川君の不誠意を責めて、反省を促すのが順序だと思いました。ち壊す方なら、いつでもやれます。もう一方、余所よそなら兎に角、長倉さんの御家庭のことですから、閣下と奥さんに御相談申上げてからにする方が穏当だと思ったんです」
「成程。しかし相談の余地もなかろう。長倉が来たら、俺から話して置こう」
「あなた、それじゃ瀬戸さんのお心持が通りませんわ。瀬戸さんは御調査の上で見込がないようなら申上げると仰有るんでございますから」
 と夫人がさえぎった。
「見込はあるまい。そんな男なら」
「此方からも富士子のことをお願い申上げるんですから、慎重に考えて差上げなければなりませんわ。瀬戸さんが事情を御存じなのは何よりの好都合じゃございませんか?」
「事情が分っている丈けに黙っていちゃ悪かろう」
 と溝淵閣下は一てつだったけれど、結局、郁子夫人の主張が通った。それは相身互の立場から入念に調査して、及ぶ限り建設的の努力をするということだった。
 瀬戸君は去年の晩秋尻尾を巻いて退却して以来、初めて戦線へ再び足を踏み込む。その後別途の征服を遂げたから、威信にはかかわらないと思っているものゝ、流石に感慨無量だった。先ず橋本家の門前を通らなければならない。具合の悪いことに、佳子さんの弟のたすく君がノコッと出て来た。正面まともに顔を合せてしまったから退っ引きならない。
「やあ、弼さん」
「久しぶりですね」
「お変りありませんか?」
「はあ」
「お父さんお母さんは?」
「元気です」
「…………」
「…………」
「今日は一寸ちょっとそこまで」
 と瀬戸君は筋向いの大谷家を頤でしゃくって、又門内を見返ったら、佳子さんが出て来るところだったから、
「失敬します」
 と言って、歩き出した。占まったと思った。先方むこうでも気がついて立ち止まったようだった。弼君は佳子さんと一緒に何処かへ出掛けるのらしかった。
 瀬戸君は一直線に大谷家へ突進した。吉川君を訪ねるのが目的だったけれど、その前に安達君に会って形勢を確めて置きたかったのである。安達君は無論在宅だった。日曜は奇襲訪問を期待して外出しないことを知っている。
「この間は失敬。よく来てくれたね」
 と安達君は大喜びをして迎えた。
「何うだい? その後の形勢は」
 と瀬戸君は早速用件に取りかゝった。
「悪いことはないけれど、楽観を許さない。実はこゝの奥さんに叱られてしまった。折角君達が言ってくれるのに断るって法はないって」
「小宮君は憤っていたよ」
「あれから何か言っていたかい?」
「馬鹿につける薬はないそうだ。君はあれから間に合ったかい?」
「うむ。佳子さんが待っていてくれると思うと、気が落ちつかなくて、つい失敬した」
「兎に角、形勢は好い方だね?」
「試験の後と同じことで自分でつける点数だから、好いと思っても、案外悪いのかも知れない。しかし互角には行っている積りだ」
「君が然う言うなら、確実だろう」
「いや、自分が言うんだから、怪しいんだ」
「要するに未だ混戦状態を脱していないんだな」
「うむ。何しろ先方むこうは義理人情を捨てゝかゝっているんだから。此方こっちも時々やってやる気になるんだけれど」
「やってやれよ」
「いや、この間言った通り、僕はもう覚悟をしている」
「矢っ張り運命に委せるのかい?」
「うむ。足掻いて細工をしても駄目だ。誰が誰を貰うなんてことは天命できまるものらしい。それだから僕は失敗しても、死ぬことはやめた」
「馬鹿だな。死ぬ気だったのかい?」
「死ぬ気はないけれど、万一の場合を思うと、種々の死に方を考える。僕はゾクッとしたよ。斯ういう馬鹿な人間が自殺をするんだろうと思って」
「ふうむ。正直者だな、矢っ張り君は」
「僕は人事を尽して天意をつ。しかし先方が余りひどい人事を尽すから癪にさわる。斯ういうことは何うも面白くない。僕は君にだって随分失敬している」
「何うして?」
「君が引っ込んだ時、落伍したのかと思って、尾頭つきで祝ったんだ」
「ひどいことをしやがるな」
「ハッハヽヽ」
「しかし僕のは落伍じゃない」
「分っているよ。事情は兎に角、邪魔ものが一人くたばったと思って、葡萄酒で祝盃を挙げたんだ。ところが、その君が僕の加勢を申出てくれたんだから、この間は胸にこたえた。此奴、矢っ張り正直者だと思ったら、本当に気の毒になったよ」
「何方が正直者だ?」
「お互はこんな競争をする柄じゃないんだ。吉川君丈けは生れつきの悪人だけれど」
 と安達君も流石に悟り切れない。現在の競争者は例外だった。
 大谷夫人が上って来た。下宿人の来訪者に接するにも鏡と相談するのだから念が入る。その代り相変らず若々しい姿を現した。
「瀬戸さん、お芽出度うございます。安達さんから悉皆すっかり承わりました。中将から大将へ御昇進だそうでございまして」
「恐れ入ります」
「早速ながら、一部始終のロマンスを拝聴させて戴けませんでしょうか?」
「駄目ですよ。ハッハヽヽ」
「もう御確定でいらっしゃいますの?」
「はあ。先ず」
「それは/\。御披露会に末席を汚させて戴ければ、光栄と存じ上げます」
 と大谷夫人は如才ない。以前は安達君の敵として警戒したけれど、最近安達君に示した好意を聞き知って、充分手なずけて置く積りだった。
「一寸困ります」
「まあ! 何故?」
「奥さんのような綺麗な人にお出を願いますと、折角のお嫁さんが映えませんから」
「まあ/\、巧いことを仰有って撃退なさいますのね」
「いや。ハッハヽヽ」
「私、御案内をお待ち申上げていますわ、本当に」
「何分宜しく。矢っ張り僕が口開けでしょう」
 と瀬戸君も調子が好かった。
「矢っ張り成績のお宜しい方は違いますわ。御就職にしても御縁談にしても、とどこおりなくお運びになるんでございますから」
「すると……」
 と安達君が口ごもった。
「何あに?」
「僕は如何にも奥さんに御迷惑をかけているようですな」
「然ういう意味で申上げたんじゃございませんわ」
「いや。僕は何でも長びく性分ですから」
「おひがみになっちゃ駄目よ」
「奥さん、安達君の方ですが、僕達、この間秘密を授けると言ったんですけれど、正直な性分ですから、受けつけてくれません」
 と瀬戸君が問題に触れて、吉川君の不誠意に及んだ。しかし縁談の相手が自分の仲人の娘ということは明さなかった。手っ取り早い爆弾投下策を話した。
種々いろいろと御親切に有難うございます」
「何うでしょうかね?」
「やって戴けばお話が早いんですけれど、安達さんは御自信がおありなんでございましょう」
「安達君」
「うむ」
「僕達は尽す丈けのことを尽している。君が受けつけてくれないんだから、もう責任はないよ」
「先刻言った通りだ。縁ってものは何うしても一種の天意だと思っている」
「それじゃもう御機嫌取りもやめる方が宜かろう」
「人事は尽すさ」
「爆弾投下も人事だぜ」
「まあ/\、待ってくれ給え。去年のような形勢だと、苦し紛れに頼むんだけれど」
「それじゃ本当に優勢かい? 昨今は」
「試験の後で自分がつける点数みたいなものだから……」
「又同じことを言っている」
とても駄目よ、この人は。私、頭痛がして参りますの、歯ぎしりばかりするものですから」
 と大谷夫人は呆れているようだった。
 瀬戸君は安達君のところを切り上げて、吉川君を訪れた。此奴は少し手強てごわい。その積りで用心を怠らなかったが、玄関で顔を合せると直ぐに、
「何しに来た?」
 と真向から浴せかけられたのには驚いた。
「久しぶりだからさ」
此方こっちはチャンと偵察が届いている。安達君のところへ寄って相談して来たろう?」
「寄ったよ。しかし何も相談はしない。道順だ」
「絶対に中立か?」
「うむ」
「それなら上れ」
「妙に神経をとんがらかしているんだね」
 吉川君は部屋へ案内すると直ぐに、
「兎に角、有難う」
 とお礼を言った。ニヤ/\笑った表情が意味ありげだった。
「何だい?」
「イヨ/\僕のものだ。敵として一番恐ろしかった君が落伍してくれたから、後は無人の境だ。北海道は元来問題じゃない」
「悲観していたよ」
「何とか言って、偵察を頼まれて来たんじゃないか? 君は恨めば僕だ」
「何を恨むものか?」
「元来競争は競争、友情は友情って約束だったからな。しかしよくやって来たね。君は矢っ張りつらの皮が厚い」
「何故?」
「僕が君なら、佳子さんを見返すようなのを貰わない限り、この界隈へ足踏みが出来まいと思うんだけれど」
「実はその報告がてらやって来たんだ。僕はもう定ったよ」
「ふうむ」
「溝淵閣下の令嬢を貰う。落伍したんでも何でもない。仲人に横領されてしまったんだ。自分ながら次第わけが分らない」
「綺麗な人かい?」
「その辺は想像に委せる。僕だって乗りかけた舟だ。然う簡単には手を引かない。しかし※(「足へん+宛」、第3水準1-92-36)もがいている君には毒だから、詳しい経緯いきさつは差控える。ハッハヽヽ」
「肱鉄を食って転向か?」
「馬鹿を言い給え。溝淵閣下は元来僕を推薦してくれた仲人だから事情をよく知っている。道理を積って見給え。余所よそで断られるような不見識な人間を娘の婿に懇望する筈はない」
「成程ね」
「安達君あたりもその辺を誤解しているようだけれど、僕は敢えて説明しない。今に分ることだから」
 と言いながらも、瀬戸君は可なり長く説明した。矢張り気になるのだった。
「然ういうことなら本当にお芽出度い。矢っ張り君が一番兄貴で一番先だ」
「僕の次が君だろう」
「その積りでいる」
「人間の悧巧順だよ」
「へゝえ」
「ハッハヽヽ」
「すると小宮君が一番悧巧ってことになるよ」
「あれは養子だから事情が違う。しかし結局一番悧巧かも知れない。君や安達君よりも人間が出来ている」
「さあ。会ったかい? 近頃」
「うむ」
「彼奴は何うも安達組らしい。君が最近会ったとすると警戒を要する」
「大丈夫だよ。僕は自分の報告に行った丈けだから」
「僕のことを何とか言っていやしなかったか?」
「然う/\、君は別に縁談をやっているんだってね? 不誠意極まると言って、頻りに憤慨していたよ」
「ハッハヽヽ。正直者だよ、彼奴も」
「何ういう縁談だい?」
「縁談としては申分ないんだ。家でも進んでいる。しかし僕は矢っ張りロマンスで行きたい。少しずるいようだけれど、確答を与えないで引っ張っているんだ。万々一佳子さんに断られた日には好い恥をかくからね。その時の用心さ。しかし素晴らしいんだぜ。写真を見せようか?」
 と吉川君は吊してあった洋服を見返ったが、衝動的に思いとどまった。瀬戸君は苦手だ。幾分遠慮がある。
「宜いよ。僕は余所の令嬢になんか興味がない」
 と瀬戸君は釣り出す為めに無関心をよそおった。
「或会社の重役の令嬢だよ。背景も橋本さんなんかよりグッと好い勘定だけれど、乗りかけた舟だからね。見す/\北海道の馬匹ばひつに渡したくない」
「安達君が馬で僕は犬か?」
「ハッハヽヽ。いつかは失敬した。しかしあれがあの時のいつわらざる感情だから、こんな競争はするものじゃないよ」
「すると佳子さんの方が駄目になれば、その令嬢を貰うんだね?」
「うむ。実は斯ういうのがあるんですと言って、写真を突きつけてやる」
「詰まらない虚栄心に囚われているんだな」
「男の見識だよ。此方のものにしたければこそ、下から出て御機嫌を取るけれど、まかり間違えば居直るのさ」
「もっと冷静にはなれないかい? 僕なら佳子さんとその人の比較研究が急務だ」
ファザーマザーも然う言うんだけれど、僕は気が立っているから、差当りそんな余裕がない。それに先方むこうはいつまでも待ってくれる。父の子分みたいな男が仲人だから自由が利く」
「しかし君はそれで責任を感じないのかい?」
「感じないね、一向」
「斯ういうのにかゝっちゃ敵わないな」
「橋本家でも薄々知っているんだよ」
 と吉川君、これは手だった。少し喋り過ぎて不安を感じた。小宮君はくみし易いが、瀬戸君は極端な正義派だから恐ろしい。
「ふうむ?」
「丸尾夫人を通して、三つも四つも縁談があるようににおわしてある。実際チョク/\あるんだよ、僕は。余所よそから話のないのは働きのない人間の証拠だろう。北海道とは違う」
「安達君だってないとは限るまい」
「あるものか? あんな奴。ないと言っていたよ、佳子さんが」
「そんなことまで話すのかい?」
「うむ。僕は縁談を一々報告するんだ。責任を明かにすると同時に責任を負わせる。理詰めで行っているから、もう落城が近い」
「これは矢っ張り君のものだろうな、結局するに」
「君がいると危いんだが、もう問題じゃないと思うんだ」
「実は僕は君と安達君を比較して、九分一分の成功率だと言ったことがある」
「それは馬から聞いたよ。その辺が常識の判断というものだろう」
「いや、あれは安達君が候補に立つと時局が益※(二の字点、1-2-22)紛糾ふんきゅうするから、思い止まらせる為めの駈引だったのさ。まさか九分一分なんてことはない」
「君もナカ/\狡いよ」
「顧れば一場の夢さ。ハッハヽヽ」
 瀬戸君は尚お少時しばらく話して辞し去ったが、もう決心がついていた。相許した親友だけれど、昨今の吉川君は調子が悉皆すっかり上ずっていて誠意がない。もう取り繕わずに事実ありのまゝを話すのが長倉氏に対する道だと考えながら、大谷家の前へ差しかゝったら、安達君が門のところに待っていた。
「瀬戸君、一寸寄ってくれ。大事件だ」
「何だい?」
「奥さんが若子さんに爆弾投下の一件を頼んでしまったんだ」
「ふうむ?」
「この間君達に会った晩、帰ってから話したら、人の好意を無にすると言って、大変御機嫌が悪かった。その後も勧めたけれど、僕が煮え切らないものだから、今朝僕に無断で小宮君のところへ行って頼んでしまったんだ。先刻君が帰った後で告白した。実は然うでもしないと迚も見込がないんだそうだけれど、何うしようかね?」
「構わないよ。君は困るか?」
「いや、皆でやってくれるなら仕方がない」
「それよりも吉川君に何か弱いところを握られているか何うかってんだ。奴、直ぐに返報をするから、両方爆発してしまったんじゃ何にもならないよ」
「僕は断然清浄潔白だ」
「それなら些っとも心配ない」
「まあ、寄ってくれ。相談がある。僕はそれほど形勢が切迫していると思わなかったから、悉皆すっかり慌てゝしまったんだ」

爆弾の使者


 佳子さんはもとの同級生の中で一番親しい香川さんを応接間へ迎えた。重大事件の報告を持って来るという電話がかゝったから、待っていたのだった。実は佳子さんは暮から正月へかけての病臥中御見舞を受けたけれど、全快後まだ御礼に行って居なかったものだから、
「別に御催促申上げたのじゃございませんのよ。無論お貸になっていますけれど」
 と早速思い知らせた。香川さんは貸借の勘定がやかましい。お互の訪問の回数を手帳につけて置く。
「もう悉皆お宜しくて?」
「はあ。お蔭さまで。上ろう/\と思いながら、つい/\失礼申上げました」
「もうそんなにお言訳を仰有らなくても宜いのよ。これで私が三つお貸してあることさえお分りになって下されば」
「まあ/\。私、そんなにお借りしているんでしょうか?」
「狡いわ。嘘とお思いなら、今度おいでになった時、帳簿を御覧に入れましょう」
「それには及びません。精々お返し申上げます。今日を入れて三つ?」
「今日を入れゝば四つよ」
「あらまあ! 私、何ぼ何でも、そんなに御無沙汰申上げた覚えはありませんわ」
「いゝえ、御縁談以来私の方からばかり伺っていますわ。一度お出下すった丈けよ」
「二度伺いましたわ」
「一度は私が留守でしたから、勘定に入れてありませんの」
「狡いわ、あなたこそ」
「オホヽヽヽ」
「三つってことにして戴いて、その中に必ずお返し申上げます」
「何うぞ。ところで例のお話、もうソロ/\でございましょう?」
 と香川さんは佳子さんの縁談の形式に興味を持っている。自分もこれからだから参考になる。尤も佳子さんは三人の候補者の中一人が手を引いたということ丈けしか話していない。親しい間柄だけれど、口の軽い人だから、警戒するように母親から申渡されている。
「いゝえ、ナカ/\よ、だ」
「御念が入りますわね」
「大問題ですもの」
「差当り何方に傾いていらっしゃいますの? 吉川さん? 安達さん?」
「あらまあ!」
 と佳子さんは驚いた。
「オホヽヽヽ」
「何うして名前を御存じ?」
「評判よ、同級生間の」
「厭ね。でも、私、名前なんか誰にも申上げませんのよ。あなたにも申上げないくらいですから」
「それが余りあなたのお親しくない人のお口から私の耳へ入ったんですから、世間の評判が察しられますわ」
「重大事件って、そのお話?」
「追々に申上げましょう。私、喜田さんから承わりましたの。思いがけない方面でしょう? 悉皆すっかり知っていらっしゃいますの。世間って狭いものですわね」
「何うして喜田さんが御存じでしょう?」
「落伍なすった方は瀬戸さん。一名土佐犬ですって」
「あらまあ!」
「もう一人小宮さんって方がございましょう?」
「厭ね、あなたは。まるで探偵ですわ」
「その小宮さんの御婚約の若子さんって人からお話が伝わりましたの。御存じ? 若子さんを」
「私、小宮さんも若子さんもお噂に承わっている丈けですけれど」
「若子さんと喜田さんは小学校時代の同級生で、お家同志も何か関係があるんですって。斯う手品の種を申上げてしまえば簡単ですけれど、重大問題よ」
「喜田さんは何の恨みがあって、私のことを言い触らすんでございましょうね?」
「いゝえ、私に丈け特別に仰有ったのよ。評判と申上げたのは余興ですわ。私、絶対にお口止めして置きましたから、その方は些っとも御心配ありません。全然好意よ。若子さんも喜田さんも私も。私、若子さんって方の態度に感心しました。一応あなたのお耳に入れるのが女性としての責任だとお考えになって、態※(二の字点、1-2-22)喜田さんのところへおいでになったんです。喜田さんも若子さんからお話を承わると直ぐ、私のところへ駈けつけて下すったんですから、私、お礼を申上げましたわ」
「何あに? 一体、私に知らせたいことってのは」
「重大事件よ」
 と香川さんは胸を二つ叩いて見せた。
「何が重大事件? 早く仰有って下さいよ」
「二つ心臓のある人がお宅へ出入りしていますから、御警戒が必要ですって。吉川さんのことよ。別に御縁談が進んでいらっしゃるんですって」
「まあ。そんなお話?」
 と佳子さんは相手の期待に反して一向平気だった。
「お驚きになりません?」
「えゝ。御縁談なら吉川さんにしても安達さんにしても、おありになるのが当り前でしょう。でも、そんなこと、私、些っとも構いませんのよ」
「可なり進んでいても?」
「進む筈はありませんわ。お二人とも何の為めに私のところへお出になると思っていらっしゃいますの?」
「自信家ね、あなたは」
「実際のところ、お二人が負けず劣らず誠心誠意でいらっしゃいますから、私、何方にもめ兼ねているんでございますわ」
「それじゃ私、担がれたんでしょうか?」
「安達さんの方の策動よ、屹度きっと。両方に軍師がついていてデマを飛ばし合いますから、油断がなりません。吉川さんは別の御縁談が進んでいらっしゃるから、お断りする方が宜いと仰有るんでしょう?」
「詰まり然ういうことになりますわ。万一の場合、啖呵を切る為めポケットに何か護身用のものを入れているというお話ですから」
「中傷が少し激し過ぎますわ。兎に角、父の人物試験に及第した方よ」
「紳士でいらっしゃいますから、お出しになるものがピストルなんかと違って、もっと理性的でしょう。いとも美しい令嬢のお写真だったら、あなた、何うなさいますの?」
「…………」
「あなたばかりが女性だと思っていらっしゃると大間違ですよと仰有るんですって」
「香川さん、本当?」
「又聞きですから、私、保証は致しませんけれど、唯のデマとは違いましょう。若子さんは何なら直接あなたにお目にかゝって申上げても宜いと仰有っていたそうでございますから」
「すると矢っ張り根拠がございますのね」
「喜田さんにしても、あなたの為めをお考えになって直ぐにおいで下すったんですから、兎に角御用心丈けはなさる方が宜いでしょう」
「分りました。お二人とも本当に御親切から仰有って下さるんですから」
「私は何うなりますの?」
「矢っ張り御親切でしょう」
「まあ! でしょうなんて」
「オホヽヽヽ」
「張合がありませんわ。折角重大事件を報告して差上げたのに」
 と香川さんは憤る真似をした。二人は話し始めると長い。佳子さんは香川さんの親切に酬ゆる為め、縁談の進捗を詳しく打ち明けて、善後策を相談したのだった。
 その翌日が丁度問題の吉川君の番に廻り合せた。佳子さんは平素に異るところなく、一晩機嫌よく応対した後、マントルピースの上から小筥を取って、
「吉川さん、これ皆安達さんのよ」
 と言いながら、内容を示した。手帳、紙入、名刺入、受取証、映画の番組、電車の回数券等だった。しかし安達君のではない。安達君のポケットにありそうな品目を考えて、寄せ集めたのだった。
「何うしたんですか?」
「身体捜索をさせて戴きましたの」
「はゝあ?」
 と吉川君は覚えず立ちかけた。
「未だお宜しいでしょう?」
「はあ」
「私の発案よ。でも、念の為めですから、父と母に一応目を通して戴きました。あなたも何う?」
「何ですか?」
追剥おいはぎのようで失礼ですが、ポケットの中のものを悉皆すっかりこゝへお出し下さい」
 と佳子さんは初めは声が震えたけれど、もう凛然たるものだった。
「…………」
「私、疑うのじゃございませんけれど、いつか一度踏みたいと思っていた形式よ。安達さんにもお願いしたんですから、何うぞ悪しからず」
「手帳と紙入と回数券ですね。それぐらいあるでしょう」
「一切よ。ホールド・アップ式にお願い致します。お手をお上げ下さい」
「佳子さん、それは御無理です」
「何故?」
「信用して下すっても宜いでしょう。自分で出しますから」
「それじゃ私、何かおかくしになると認めますよ」
「仕方ありません」
 と吉川君は両手を上げた。佳子さんは極めて事務的にポケットを一々探って、内容を卓子テーブルの上に並べた。問題の写真はチョッキの内隠しに入っていた。
「これは何あに? 吉川さん」
「実は昨日それを会社の同僚から預ったものですから、誤解を招くと思って、つい躊躇したんです。同僚の妹さんの縁談を頼まれたんです」
「…………」
「御納得の行くように詳しく説明させて戴きます」
「もう結構よ」
「いや、物が物ですから、お父さんお母さんが変にお思いになると困ります」
「吉川さん、私、もう失礼させて戴きます。頭痛がして参りましたから」
 と佳子さんはそのまゝ部屋から出て行ってしまった。常識の発達している吉川君はもう引き止めようとしなかった。品物をポケットへさらい込むが早く玄関へ急いだ。流石の策士も奇襲を食って慌てたのだった。寒中にもかかわらず、額に汗をかいていた。

大団円


 それから後は四方八方落着が速かった。翌日、橋本夫人が吉川君の仲人の丸尾夫人を訪れた。用件は言うまでもない。遺憾ながら御縁がなかったのである。吉川君の両親はこれで吉川君の夢が覚めると思って、余り力を落さなかった。元来求婚競争を喜んでいなかったのである。吉川君も斯うなれば、男らしく諦める外に道がない。両親の勧めに従って、長倉家の縁談を真面目に扱うことに同意した。しかしその翌晩、仲人が改めて断りに来たのには驚いた。
 長倉家では求婚競争に熱中している青年の為めに娘を犠牲にしたくないという歯に衣着せぬ口上だった。吉川君が事実無根を主張したら、仲人はその場丈けの話として、長倉氏が先輩と仰ぐ溝淵閣下から注意を受けたことに言い及んだ。
「分った。これで悉皆分った」
 と敦圉いきまいて、吉川君は立ち上った。
「何うした? 俊彦」
「土佐犬の仕業です」
「うむ?」
「僕、これから談判に行きます」
「好い加減にするものだ。この上世間へ恥をさらしたいのか?」
 とお父さんが戒めた。吉川君はその晩寝られなかった。何としても口惜しい。瀬戸君に宛てゝ絶交状を認めた。土佐犬、貴様は日曜に探りに来たんだ。いや、既に画策して置いて、様子を見に来たんだ。畜生! というような激越な文句に満ちていた。両方の縁談を瀬戸君が壊したと理解したのだった。
 佳子さんは秋からの交際で、才走った吉川君よりも真面目一式の安達君の方へ傾かざるを得なかった。吉川君が十のものを二十三十にも見せたがるに対して、安達君は自分の値打を実際よりも低く見積っている。従って吉川君には随分嘘があった。安達君は大きな看板をかけない代りに、佳子さんを失望させたことがなかった。橋本閣下夫婦にしても、黙って見ていたが、安達君の純真を愛した。令弟の弼君に至っては、徹底的に安達君が贔負だった。ういう形勢のところへ爆弾が投下されたから、吉川君は一も二もなく破滅して、安達君の独り舞台になったのである。而も安達君は差当り自分の優勢に気がつかない。大谷夫人が若子さんに悪いことを頼んだと思って、責任を感じている。
「安達さん」
 と佳子さんが少時しばらく途絶えた話の後を呼びかけた。
「はあ」
「あなたはこれから一週間ぐらい往来をお歩きになる時、余程気をつけて下さらないと困りますよ」
「何故ですか?」
「考えてばかりいらっしゃると、自動車にかれますから」
「何を考えるんですか?」
「後から母が申上げましょう」
「はゝあ?」
 と声を筒抜けさせて、安達君は椅子から少し辷った。断りを言われると思ったのだった。脚が震えた。
「私……」
「はあ?」
「決心がつきましたの。吉川さんの方、お断り致しましたの」
「本当ですか?」
「あらまあ! オホヽヽヽ」
 と佳子さんが笑い出した。安達君は乗り出す拍子に椅子から辷り落ちたのだった。後からその時の心理状態を説明した。撃退の前触れと覚悟して中腰になっていたところへ意外の吉報だったから、つい重心を失ったのだという。
 それから一月ばかりたって、溝淵閣下が橋本家を訪れた。以来御無沙汰していたが、佳子さんと安達君の縁談がイヨ/\纒まったと聞き知って、お祝いにまかり出たのである。切り口上で慶びを申述べた後、
「実は橋本閣下、これから先は坊主になって申上げなければならないのですが、この禿頭に免じて、特別の御用捨を願います」
「何ういうお話ですか?」
「切腹ものです。面をかぶって伺いました」
「閣下はこの前にもその通りのことを仰有られたように覚えていますが、一体何ですか?」
「瀬戸の件です」
「成程、この前も瀬戸君の件でした。しかしあのお話なら、精神異状の傾向があるという御注意でしたから、私の方からお礼を申上げなければなりません」
「いや、然う仰有られると、穴へでも入りたいような心持になります。実はその後縁がありまして、瀬戸を私の娘の婿に貰うことになりました」
「はゝあ? それは又何ういう次第わけですか?」
「血統に精神異状の傾向があるように申上げましたが、あれは真赤な嘘でした。仲人を引受けて面倒を見ている中にナカ/\出来の好い男ということが分りましたし、同郷のもので素性がよく知れていますから、人手に渡すよりも自分の娘にという不料簡を起して、つい策を弄しました」
「はゝあ」
「全く相済まぬことですが、娘の可愛いさはお互ですから、後日申上げれば、閣下も快く諒として下さると思いまして……」
 と溝淵閣下は瀬戸君に手を引かせた細工まで告白した。
「驚きましたな、これは。今となっては私の方も申分ない婿を得ていますから、苦情は申しませんけれど、閣下も随分横着でいらっしゃいますな」
「重々恐れ入ります」
「自分が揃えたものから一番目ぼしいのを掻っ払われて、快く諒とする人間は滅多にありませんよ。これがお互の若い時代で自分の求婚だったら、決闘を申込むところです」
「自分の問題なら手を出しませんよ」
「何うでしょうか知ら?」
「ハッハヽヽ」
「私は余所よその奥さんやお婿さんを横取りしたことはありませんが、随分気の咎めるものでしょうな?」
「人聞きの悪いことを仰有っちゃ困ります。婿丈けです。それも一生にたった一遍です」
「ハッハヽヽ」
 と橋本閣下も深く咎めなかった。
 瀬戸君は吉川君の絶交状に対して、書翰箋二十枚に亙る返書を送った。爆弾投下は自ら手を下したのではないが、相談に与って充分意思のあったことをかくさなかった。経緯いきさつ悉皆すっかり打ち明けて、もっと真面目になれと忠告した後、長倉家の方も君の態度次第で話のりを戻すことが出来ると伝えた。しかし返事が来なかったのみならず、間もなく安達君と小宮君が絶交状を受取った。理由は自分の胸に訊いて見ろというのだった。
 その中に小宮君と若子さんの結婚式が来た。安達君と瀬戸君は披露会に列席して、隣り合いに坐った。
「こゝへ吉川君が来ていれば申分ないんだがな」
 と安達君が囁いた。
「うむ。僕も然う思っていたところだ」
「あれは何うなるんだろう?」
「仕方がないよ、もう」
「僕達は妻を得て友を失うことになるのかな?」
「何うも然うらしい。僕は考えて見たんだ。僕が吉川君の立場にいたら、矢っ張り吉川君の態度を取る。競争は競争、友情は友情なんて、理窟の問題じゃないよ」
「僕だって然うかも知れない。しかし爆弾さえやらなかったら、斯うはならなかったろうと思うんだ。小宮君までだからね」
「その代り君が危かろう」
「うむ」
「爆弾は君の為めばかりじゃないんだ。長倉氏への義理にも僕は黙っていられなかったんだから」
「兎に角淋しいよ」
「僕は惜しい。彼奴だって決して悪い人間じゃないんだから」
「矢っ張り誰か一人斯ういう立場になるんだね」
「競争は競争、友情は友情なんて言っていても、僕は成功した奴が二人から絶交を食って、二三年の中に小宮君が仲裁してくれると見越しをつけていたんだ。しかし君も僕も成功して、失敗者の吉川君が三人と絶交してしまったんだから可哀そうだよ」
「二三年の中に何とかなるまいかね?」
とても駄目だろう。君の言う通り、誰か一人斯うなる運命だったんだから」
 と瀬戸君は諦めているようだった。





底本:「佐々木邦全集7 求婚三銃士 嫁取婿取 家庭三代記 村の成功者」講談社
   1975(昭和50)年4月20日第1刷
初出:「講談倶樂部」大日本雄辯會講談社
   1934(昭和9)年10月〜1935(昭和10)年12月
※「サラリーマン」と「サラリー・マン」、「智慧」と「智恵」、「安心」と「安神」、「諒解」と「領解」、「逆捩じ」と「逆捻」、「嵌めて」と「篏めて」、「番附」と「番付」、「附合い」と「附き合い」と「付き合い」、「贔屓」と「贔負」、「泳ぎ」と「游ぎ」、「兎に角」と「兎角」、「埓」と「埒」の混在は、底本通りです。
※「父親」に対するルビの「ファーザー」と「ファザー」の混在は、底本通りです。
入力:橋本泰平
校正:芝裕久
2022年4月27日作成
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