学校騒動

尾崎士郎





 その年(大正六年)、二十歳になったばかりの西方現助は、ある日の午後、寄宿舎の門を出て鶴巻町の大通りへぬけようとする曲り角で彼の先輩である東山松次郎に会った。東山は浴衣を着て両袖を肩にたくしあげている。彼は苦学力行の士であった。政治科在学中から「青年雄弁」という雑誌を経営し、自分でその社長になっている。小柄でいつも色艶のいい頬をしていた。――精悍で、キビキビしているだけに、素ばしっこく、ぬけ目のないかんじが一挙一動の中にくっきりとうかびあがっているのである。どの大学や専門学校でも雄弁会全盛の時代なので、彼がその頃売れだしたばかりの「野間清治」の向うをはって、「青年雄弁」の発行を企てたことはたしかに着眼の妙を得たものであった。西方現助は予科生の頃に、東山の雑誌の編輯長で、「早稲田大学雄弁会」に羽振りを利かせていた木尾鉄之助にたのまれて、「青年雄弁」の臨時記者になり、その頃、新帰朝者として英文科の教授になったばかりの坪内士行の演劇論に関する談話筆記をやったことがある。もちろん、報酬なぞを意識においてやった仕事ではない。むしろ、そういう仕事に関与しているというだけで彼は内心得意でもあれば、そのとき自分を推挙してくれた木尾に対して尠なからず感謝もしていた。
 それから、もう一年が経っている。現在の西方は堺枯川の経営する、売文社に出入して、ひとかどの革命家を気どっていた。もはや「青年雄弁」などを眼中に置いてはいない。天皇の行幸される日とか、何か政治的事件の起りそうなときには必ず朝から西方に尾行(巡査)がついている。幸徳事件以来、そういう習慣が不文律のようになって、ずるずるとつづいているらしい。その頃、堺枯川を中心とする幾つかの学生グループがあって、帝大(現在の東大)からは、学校内に新人会という組織をつくっている宮崎竜介、赤松克麿、三輪寿壮、新明正道等の学生が堺の家に出入りをしていたし、明治大学からは佐々木味津三、村瀬武比古等が別のグループをつくってちかづいていた。その中で、売文社系統の実際運動に直接関与しているのは早稲田大学に籍をおいている西方現助と青木公平だけである。その証拠にはこの二人には必ず尾行がつき、時によっては、尾行も一人だけではなく、学校の表門と裏門に立って授業が終って出てくるのを待っていることもあった。
 東山はその年の三月、学校を卒業して、「青年雄弁」に専らになっていたが、西方の姿をみとめると、
「ああ、君」。
 と、親しそうな声をかけながらちかづいてきた。
「重大な問題が起っているんだ、これだけは是非とも君たちに相談しなきゃならんと思っているんだが」。
 彼は四つ角にある病院から二、三軒先きにあるミルクホールをゆびさした。それから先きに立って歩きだした。その頃、カフェーというものはなく、学校の周囲にも二、三軒の「西洋料理屋」があるだけであった。学生たちのあつまる場所といえばミルクホールのほかにはなかった。東山は氷の入ったミルクを注文し、誰れもいないテーブルの片隅に腰をおろすと、彼の特徴である滑らかな演説口調で、その重大問題について語りだした。
 彼のはなしによると、現在の学長である天野為之博士の任期がまだ終っていないにもかかわらず、学校の内部には早くも前学長である高田早苗博士をかつぎあげようという陰謀が企てられているというのである。
「高田博士は君も知っているとおり、大隈内閣の成立と同時に学長の職をなげうって文部大臣として入閣した人だ。その高田博士が、こんど大隈内閣が総辞職したからといって、ふたたび学長の椅子に就こうなぞというのはもってのほかですよ、――われわれは、もちろん天野博士に対して何の恩怨もないが、学問の自由と独立のために、権勢を笠に着て乗り出そうとする高田博士反対の運動に参加すべき義務があると思う、学校は大隈老侯の私物ではない、全学生のものです、これをほったらかしておいたら学校はたちまち政争の道具になってしまうことは火を睹るよりも明白である、――君、立ってくれたまえ、天野博士のために」。
 彼の顔は興奮のために汗ばんでいる。それがために一層若々しく見えた。
「そうですか、そいつは容易ならんことですね」。
 立ってくれたまえ、と言われただけで西方現助の心にはすでに立ちあがる決心がついていた。
「個人の問題はともかくとして、これはわれわれが解決すべき社会問題です」。
 西方はひと息にしゃべってから、つめたいミルクをぐっと飲みほした。
「そうだよ、君――まさしく社会問題だ、いや、西方君、どうもありがとう、君が動いてくれれば政治科の大勢はきっと動く」。
 東山は前かがみになって西方の手をにぎりしめた。「じゃあ、君は、今夜五時半から矢来倶楽部で有志の会合をひらくことになっているから必ず出席してくれたまえ、もし君の知人がいたら何人来たってかまわないからね」。
 陽ざかりの街へ出ると、東山は、「じゃあ、五時半」――と、くりかえしていった。そのままくるりと向きを変え、反対側の小路の方へせかせかとした足どりで帰っていった。
 寄宿舎にかえると、西方はすぐ自分の部屋へ入って荷物の整理をはじめた。暑中休暇で寄宿生の大半は郷里へ帰っていたので、残っている学生は彼のほかに二、三人しかいなかった。賄方も昨日かぎりでいなくなった。寄宿舎は事務員二人を留守番に残し今日いっぱいで閉鎖することになっている。西方が、その夏の帰郷を中止したのは、あたらしく売文社内に設けられた講習会の聴講生になるためだったが、彼はその数日前に下戸塚の、戸山ヶ原にちかい街はずれに素人下宿の二階を借りて、そこへ移ることにきめていた。荷物といっても蒲団と本箱と机があるだけである。本は大部分質屋に入っているし、人力一台あればいつでも運んでゆくことができる。西方は事務員にたのんで、荷物を玄関まで運びだした。俥賃を倹約するために事務員と二人で、下戸塚の下宿へ荷物をかつぎこみ、そのまま、もう一度寄宿舎へひっかえしてくると、門の前にある、がらんとした大弓場から青木公平が出てきた。
 彼は西方の顔を見るが早いか、ふところの中から一枚の夕刊新聞をとりだした。
「おい、見たかい、――ロシヤでは、とうとうはじまったぞ」。
 門の前に太い榎の老木が二本ならんでいる。西方は木かげになった幹によりそいながら青木のわたした新聞をひろげてみた。ロシヤに革命が起って、あたらしく、ケレンスキー内閣の成立したことを仰々しい見出しで書きたてている。上段には、ほそおもての、角刈りみたいな頭をしたケレンスキーの顔が、輝くばかりの精彩にみちてうかんでいた。まだ三十を過ぎて間もないらしい。この青年革命家の風貌には見るからに貴公子というべき純粋なかんじがある。それは闘志を忍ばせた美しい眼が、どことなく弱々しい表情とぴったり調和して、智的な、逞しさが西方の胸に犇々ほんほん[#ルビの「ほんほん」はママ]と迫るようである。
「今夜、堺の家で新人会の連中と顔合せの会をやることになっているんだ、――それで、さっきから大弓場で待っていたんだが、今夜はきっとおもしろいぞ」。
「そうかい」。
 西方は、うなずきながら青木の顔を見あげた。眼鏡をかけた青木は、若いくせに、脳天までつるつるに禿げた頭ににじむ汗を絶えず手拭でふいていた。
「ところが、こっちにも大事件が起ったんだ、さっき、そこで東山君に会って聴いたんだが」。
 手短かに天野学長排斥の陰謀について話したが、青木は一向気乗りがしないらしく、
「そいつは君、――どっちがどうとも言えないね、僕はむしろ人間的には高田の方が好きだよ」。
「いや、好き嫌いの問題じゃない、こういう動きの中にも革命の縮図があるよ、堺のところは少しぐらいおくれたっていいんだから、君も五時半までに矢来倶楽部へやって来いよ」。
 青木は、東山の策謀に乗ることは危険だということを、くりかえし、しゃべっているうちに、やっと彼自身の落ちつき場所をさぐりあてたらしい。
「じゃあ、おれは今から家へかえって電話で堺に連絡しておくからな、――少しぐらい、おくれたって必ず行くよ、僕等は僕等で、学生としての意見をまとめておく必要がある、それがために一応彼等のいうところを聞くという意味においてだ」。
 西方も青木も、天野博士にも高田博士にも会ったことは一度もなかった。だから彼等が学校の内情について知る筈はなかった。西方は大隈内閣の倒壊についても、司法大臣である尾崎行雄が、閣僚の一人である大浦兼武の涜職行為に対して断乎として司法権の独立を押しとおしたということに多少の魅力をかんじているだけである。時間はまだ、やっと四時を少し過ぎたばかりだった。青木とわかれると西方はすぐ鶴巻町に住んでいる同級生の新藤喬を訪ねた。新藤の家は岡山在の名門であるが、長男の彼が早稲田に入学するとともに一家を挙げて引っ越してきて、今は鶴巻町の通りで洋服屋をやっている。両親とも人ずれのしない、育ちのよさをむきだしにした素人っぽいかんじが店頭に坐っていても何となく商売とぴったりしないものがあった。洋服屋といったところで自分で裁断したり、仕立てたりするわけではない。職人を傭ったり、仕事をほかへ廻したりしているので、店の経営は順調にはいっていなかった。
 それに新藤の友人たちが、つぎつぎと洋服をつくり、完全に支払うものがないので父親は相当に困っていた模様である。西方もその一人で、彼は一年前に月賦でつくった背広の代金をまだ半分以上残していた。
 学生のいなくなった鶴巻町の午後はしいんとして、人通りもほとんど途絶えている。西方が入ってゆくと、新藤洋服店の中はがらんとして誰れもいなかった。しかし、二、三度声をかけると、階段をバタバタと駈けおりてくる足音が聞え、今まで二階で昼寝をしていたらしい新藤が、うすよごれた浴衣の前をかき合せながらおりてきた。
「今日は、ちょっと相談があって来たんだが」。
 西方が店先きに腰をかけようとすると、新藤は、
「まア、あがりんされ、ええがな、ええがな」。
 といいながら、無理矢理に彼を二階へ押しあげてしまった。
 猫背で、ずんぐりとふとっている新藤は政治科一年の教室の中でも一種の老成した学生として風格を備えている。同じクラスの中には、田舎で長いあいだ新聞記者をしたものもあれば、小学校の教員をしたり、小さな会社を経営しているものもあって、三十をすぎた彼等は県会議員や市会議員の選挙運動に参加した経験をもっているので、みんな教室の中では、ひとかどの政客を気どっていたが、そういう、ぴったり板についた田舎政治家のあいだに伍しても、新藤だけは、中学からすぐ入って来た学生とは思われないほど挙措動作に、押しも押されもしない世馴れた落ちつきがあった。もちろん、それは彼が体験から得たものではなく、生れながらに彼の身についているものである。
「さっき、東山君に会って聴いたんだが」。
 と西方が切りだした。二階は天井が低く、表通りに面した窓にほそい格子がはまっているので風通しがわるく、その上、部屋の中には洋服の切れ地や古雑誌が雑然と散らかったままになっているので、向いあってしゃべっているだけですぐ息苦しくなってくる。天野博士擁立の問題で、今日五時半に矢来倶楽部に会合があるからいっしょにゆかないかという話をすると、新藤は、万事わかったというかんじで何べんとなく大きくうなずきながら、
「なるほど、高田は悧巧だけんのう」。
 露わに出した毛のふかい向う脛をごしごし、こすりながらいった。「それに君、大隈だって高田の方が可愛いいにきまっとる、――そりゃ、天野は気の毒じゃ」。
「だから、僕等は天野の立場に同情するとともに、学制改革の運動を起すべきだと思うんだ、学校は個人の私有じゃないんだからな」。
「そりゃそのとおりじゃが、今日の会合は天野派じゃろが?」。
「そうだよ」。
「弱ったね、僕は」。
 新藤は、格別当惑している様子でもなく、急にはずみのついた声で笑いながら、
「僕は君と行を共にしようと思うとるが、僕が天野派の運動しよるときいたら高田のやつ、きっと怒るじゃろな」。
「君は高田博士を知っているのかい?」。
「いや、知らん、――知らんいうたら両方とも知らんが、まア、ええ、ええ、ひとつ天野のためにひと肌ぬごう」。
 彼は教室の中で、仲間同志があつまるときに、いつもやる老政客を気どるときと同じ態度で、
「じゃがなア」。
 と、ひとりでうなずいてみせた。「誰れも学生は学校におりゃせんものなア、こいつはうっかりするとやられるぞ、東山のひとり舞台になると話がややこしくなる」。
「しかし、革命の縮図を示すことは出来るよ、――学生の行動は純粋無垢だ、おれたちは天野派でもなけりゃ高田派でもないんだからな」。
「そういえば、君、――ロシヤでは革命をやりおったな、やっぱり能力のあるやつはどこからか出て来よる、とにかく、そういう時勢になってきたんじゃ」。
 新藤喬は、自然に煽られる空気の中で、何の不安もなくどっかりと胡坐をかいた。「東山だって今に何をやりだすかわかりゃせん、やるなというたところで、これだけは仕様がないしのう」。
 彼にとって、革命という言葉は、たしかにどこかにあるにはちがいないが、それは自分たちとは縁もゆかりもないような遠いところにあるもので、よしんば眼の前で何事かが起ったとしても、こいつは政治とは別問題である。いってみれば革命はいつでも花火のように打ちあげられ、あっと見とれる間に消えてしまうものなのである。例えば、学長の更迭問題で、ひと騒ぎ起ろうとするときに、「革命の縮図」なぞという言葉をひけらかしていい気になっている西方現助なぞは、格からいって元老院議員ともいうべき新藤からみれば、これはまったく子供の寝言みたいなものである。
「こりゃ、むろん、恩賜館組もうごくぞ、彼等にとっちゃ絶好の機会だからな」。
 新藤の声は自信にみちみちている。恩賜館組というのはその頃、木造建築で埋まっている校舎の中で、たった一つ恩賜金を基本にして建築された煉瓦づくりの建物で、その五階の一室を倶楽部のようにしてあつまっていた若い教授の一団をさすのであるが、その中で学生のあいだに、もっとも人気のあったのは政治哲学を担当していた大山郁夫だった。
 新藤は二タ月前、学校の内部に銅像問題が起ったときにも恩賜館組の教授を歴訪して学生の立場を了解してもらったことがある。銅像問題は、当時の学校当局が大隈侯爵夫人の銅像を中央校庭の隅にある大隈総長の銅像とならべて建てようとする計画を事前に知った学生が騒ぎだした運動であるが、その計画は最初から若い教授と、一部の学生のあいだから起る反対を予想して、内密のあいだに工事が進められていた。そのキッカケをつくったのは西方たちのいる政治科のYクラスであるが、最初、大田茂という、一見して右翼の壮士を思わせる、でっぷりと肥った学生が、一人で各科の教室を説いてまわった。その鈍重で一風変った動作のために大田には半ば軽蔑の意味をふくんで「西郷どん」というあだ名がついていたが、彼は外部の校友から使嗾されたらしく、ちょうど授業の終った頃を見はからって教壇にのぼると、持ち前の咄々とした調子で、首尾一貫しない演説をはじめた。それをみんな面白半分にきいているうちに、こんどは学生のあいだに、いつのまにか銅像設立反対と賛成の両派ができてしまった。何か機会さえあれば騒ぎたてようというすきをねらっていた彼等にとっては思いがけない好餌であった。そのときは西方も新藤も、どっちに賛成したわけでもなく、唯、恩賜館組がこの運動とは別に「学制改革」の運動を起そうとしていることを探知したので、あれに近づこうという計画を立てただけのことである。
 しかし、威勢のいいのは、もちろん反対論者の方で、彼等の意見を綜合するとこういうことになる。われわれは学校の創設者である大隈老侯の銅像を日夜校庭に仰ぐことを誇とするものであるが、しかし、侯爵夫人と学校と何の関係があるか。彼女は昔、どこかの芸妓であって、それが、何かのはずみで大隈重信夫人になっただけのことではないか。僅かに侯爵夫人であるというだけの理由で彼女の銅像を校庭に仰ぎみるのは自由と独立とを標榜するわれ等の恥辱である。もし、どうしても夫人の銅像が建てたいというなら大隈侯爵邸に建てるべきである。
 名物男の大田は故意にか偶然にか咄々として語る舌足らずの言葉のために、声涙ともに下るといってもいいような感動的な印象をあたえてしまった。言葉が行きつまると彼は必ずくるりとうしろを向いて黒板の上へチョークで大きく「小野梓」と書いた。
「もし、強いて校庭に銅像を建てようとするならば学校を今日あらしむるために血を吐いて倒れた小野梓の銅像こそ建てるべきではないか!」。
 これは大田の発言ではない。銅像反対派の学生が一つおぼえのようにくりかえす文句である。
 こういう空気が混沌として湧きあがってきたとき、ちょうど学期試験がはじまり、それと同時に、学内の形勢を看取した学校当局が銅像設立の工事を俄かに中止したので、銅像問題はうやむやのうちに葬られてしまった。しかし、西方が新藤と親しくなったのは、この銅像問題のときに行を共にしたということだけではなく、この老政客を気どる風変りな青年は、学校の行事になっている全校をすぐる大弁論大会で、政治科から代表者を選出するために、四、五人の候補者が立候補したとき、彼もまた有力な候補者であったにもかかわらず、途中から立候補を断念して、どうか諸君、私への投票は西方現助君にゆずっていただきたい、私は感ずるところあって辞退します――と、彼独特の落ちつきはらった態度で意外な言明をやりだした。おそらく、そういう心のゆとりを示してみたかったのであろう。それがために西方への投票がふえる筈もなかったが、しかし、校外で、ませた大人のやることを何のいや味もなく平然としてやってのけたことによって新藤の人気が倍加したことだけは確かである。
 新藤と話をしているうちに、鶴巻町の往来は夕涼みの人たちで急に賑やかになってきたので、西方は今度引越した素人下宿を彼に教えておくために外へ出た。学生のいなくなった学生街というものには一種異様な空気が漂っているもので、両側にならんでいる古本屋や理髪店の前には同じような縁台がおかれ、平素はほとんど顔を見せたこともないような若い衆や娘たちが、のうのうとした気持ではしゃぎまわっている。
 彼等は国民亭という洋食屋でライスカレーを喰べると、下戸塚から馬場下へぬけ、それから二人で肩をならべて矢来倶楽部のある暗い坂をのぼっていった。


 玄関をはいると、二十畳ぐらいの広さの広間がすぐ真正面に見えた。六時に近かったが参会者は十二、三人しかいなかった。あつまっているのは、ほとんど一人残らず上級生の大人ばかりである。
 やっと、数がふえて二十人あまりになったとき東山松次郎が立って、キビキビした調子で学校当局の横暴について語り、今こそ全学生は天野学長のために奮起すべきであるといって、感動的なゼスチュアをまじえながら、ぐいぐいと畳みかけてくるような熱弁をふるったが、聴衆の数がすくない上に、あつまっている連中は、ほとんど顔見知りのひとくせある学生政客ばかりで、東山が降壇すると、みんな挨拶のような拍手を送っていた。しかし東山の持っている情報も漠然とした輪郭を示す程度のもので、学校内部で、だれがどのような陰謀を行っているのかまるで見当もつかなかった。
 そこへ、雄弁会の先輩である、杉ヶ枝高二、保谷仁太郎、越永安平等の、実際政治運動に体験のある連中がどやどやと入ってきた。その晩、神楽坂上にある寄席、神楽坂倶楽部で選挙権拡張についての政談演説会があり、弁士として出場した彼等は、途中で一杯やってきたらしく、一人一人演壇に立っては校内の情弊を打破し、早稲田をして真に自由と独立の学府たらしめよ、というようなことを滔々とやりだした。彼等にとっては高田や天野の問題よりも、むしろ今夜彼等が神楽坂倶楽部で行った普通選挙断行論の方が、はるかに切実な問題であった。それに、ケレンスキー内閣の成立は極度に彼等の感情を刺戟していたので、議論はいつのまにか学長問題をとび越えて、学校内部の民主的改造論にまで飛躍していた。
「われすでにルビコンをわたる、何ぞ学長問題をや」。
 年齢はすでに三十を過ぎ、在学十年と伝えられている杉ヶ枝高二は紅潮を呈した童顔を輝やかしながら、ドカンとテーブルをたたいた。新藤と郷国を同じくしていた彼は、おそろしく身軽な男で、学資がなくなると一年ちかく休学して郷里の新聞社で働き、貯金がたまるとすぐ上京して学業をつづけるというような生活を何べんとなく繰返えしている。ちょうど、大隈内閣のあとをうけた寺内内閣の下で総選挙が行われたばかりのその年は彼にとっては書き入れどきだった。国民党の応援弁士として全国を駈けずりまわってきた杉ヶ枝は、あと一年で卒業できるだけの余裕を充分残していた。
 最初は思いがけない闖入者のために天野学長擁立のための相談会はうやむやのうちに葬られそうな形勢だったが、東山はこの機会を見逃さなかった。彼は弁論の練習会がひとわたり終った頃に昂然として立ちあがった。「諸君、学校の民主化を徹底することは天野学長の理想でもあれば抱負でもある、――どうか内外一致してわれわれの念願を達することに全力をつくしていただきたい」。
 賛成、賛成、――という叫び声が会場の隅々から起った。
 そこへ、頭を坊主刈りにした、丸顔の、端正なかんじのする四十前後の紳士と、同じ年恰好ではあるが丈の高い、でっぷりとふとった、一見して運動家というタイプの男が入ってきた。東山はすぐ二人を会衆に紹介した。坊主刈にした紳士は東洋経済新報の理事をしている岩橋勘山で、もう一人は天野学長の秘書である加藤清だった。
「ちょうどよかった、諸君一切の事情は岩橋君がもっともよく御存じだろうと思うから詳細に聴いて下さい」。
 東山が、そういって二人を演壇の前へ押し出そうとすると、岩橋は屈託のない微笑をうかべながら、
「いや、坐った方がいい、その方が話もとおるし、何も演説をするために来たんじゃないからね」。
 澄んだ声で、こちんとした態度が、ざわざわとうごきだしたこの場の雰囲気に何となくそぐわないかんじだったが、彼はそんなことには無頓着で、まん中の空席へ腰をおろした。
「実に不愉快な報告をしなければならなくなったことを残念に思うんですが」。
 彼は終始飾り気のない柔らかな調子ではなしだした。「僕も出来るかぎり円満に解決しようとして努力したつもりですが、今となってはもう万事休すというところですな」。
「ちょっと伺いますが」。
 と西方と青木と二人ならんでいる学生席の、いちばんうしろの席にいた新藤が中腰になって顔を前へつきだした。
「われわれは、いわゆる、天野派ちうわけなんですが、これに対抗する高田派ちうものが学校の内部にあるんですか?」。
「ありますとも」。
 岩橋は、膝を大きくゆりうごかしながらいった。
「天野派が高田派を排斥するんじゃなくて、高田派が徒党を組んで天野博士の排撃を企てたことが原因なんです」。
「すると、大隈総長もそのことを御存じですか?」。
「もちろんです」。
 彼は、周囲にあつまっている参会者の顔をじろっと眺めて、
「僕は諸君に天野派になってくれというために来たんじゃないですよ、事実をありのままにおはなししますから、これに対する判断は諸君の御自由にまかせて下さい」。
 そういってから横にいる加藤の顔へ視線をうつした。
「あれはいつだったかね、先月の十九日か、二十日か――君がはじめてやってきたのは?」。
「十九日」。
 と、加藤が重々しい調子で答えた。
「そうです、とにかく順序として最初から話しましょう、ここにいられる秘書の加藤君が社の方へ僕に何かたのみたいことがあるといって訪ねて来られた、それが十九日なんです、そのときの加藤君のはなしによるとこの八月に天野学長の任期が切れることになっている、ところが、それと同時に、もう一度高田博士を学長に復活させるという計画が内々のうちに進んでいることがわかった、当の天野博士にとってはそんなことは寝耳に水なんだから、これは明かに陰謀である」。
「そうだよ、まったくひどい、こっちは下相談一つうけていないんだからね」。
 加藤が小刻みに同意を求めるような仕草で下※(「月+咢」、第3水準1-90-51)にぐっと力を入れるのを、岩橋は片手で制止しながらいった。「とにかく、まア、一種の陰謀というわけですね、それで加藤君のさぐりだしたところによると、坪内、市島、浮田三長老が、二十一日の午前に主だった教授をあつめ、午後には在京中の評議員を招集して、抜打的に話をまとめる手筈になっているから何とかこいつを阻止するために尽力してもらいたいというはなしなんです、ところで率直にいうと、僕は天野博士に関係のふかい東洋経済に勤めてはいるものの、在学中には一ぺんも会ったこともないし、唯、社の恩人として正月の年賀に行ったことがある程度で、天野さんが学長として果して適任であるかどうかなんてことはよくわからないんですよ、こんどの問題についても僕はハッキリ断っておきますが、どうしても高田さんを排斥して天野さんを学長にしろなぞといっているんじゃない、ただ、ひとたび学長を中途でやめて台閣に列した高田博士が、こんど文部大臣をやめたから、すぐ元の位置へ就こうというのは、こいつはちょっと納得がゆかないんです、それも正々堂々たる評議員会や教授会が是非にといって高田さんに懇請したというならばともかく、人の知らぬ間に自分で膳立てをつくってしまうなんて法はないでしょう、これについて私の意見をいえば、大学はあまりに長く高田博士の専制下にあって、それが、いろいろな人事問題にも影響している、その上、高田博士以外に人物がないというならば止むを得ないとしても、長い歴史の中で早稲田生えぬきの人材も相当に生れている、田中穂積でもいいし、塩沢昌貞でもいいし、金子馬治でもいい、この際、新時代に即応するためには、むしろ新人を抜擢した方がいいんじゃないかと思うんです、早いはなしが、高田、坪内、天野の三博士にしたところでその功労に酬ゆる道はいくらでもあるでしょう」。
「ヒヤ、ヒヤ」。
 と、誰れかの叫ぶ声が聞えた。
「そこへですね、加藤君がこの話を持ちこんできたものだから、とにかくやってみましょうといってお引受した次第です、ところが何しろ時日が切迫している、そこで教授では波多野精一と永井柳太郎の両君、評議員では、朝日新聞の松山忠次郎と、弁護士の若林成昭、それに代議士の斎藤隆夫、まア、やっとこれだけの人に会って事情を話したわけです、むろん事実をお伝えしたというだけのことで、だから一つ天野博士を助けてくれなんていうことを頼んだわけじゃないです、ところが、予定どおり教授会と評議員会がひらかれてみると、空気が極めて険悪である、その席上で市島、坪内の両氏が天野は無能だといって、聴くに堪えぬ人身攻撃をはじめた、こういうところにも暗い翳があるんですが、話がまるで感情的になっているんで、実情を知らない教授も評議員もびっくりしたんです、それがために結果は逆になって、会の空気は天野博士擁護という方向へかたむいてしまったんです、学校側では自分たちの非を棚にあげて僕のことを策動の本家のようにいっているそうだが」。
 岩橋の顔には、かすかな表情の変化もあらわれなかった。
 新藤が、西方のほうを向いて、何でも物事に感心したときにやる彼の癖で、首をぐっとかがめながら、にやりと笑った。
「然るにだ」。
 岩橋は急に声の調子をおとした。「憲政会の校友の中から、高田博士の大学復帰は、博士自身にとっても大学にとっても、彼が憲政会に所属する政治家であるかぎり、純粋な意味においては政治的背信行為であるという反対論が起ってきたのだ、大隈侯爵はむろんそれを知っているし、高田博士も知っている、――それで、七月一日に、大隈侯のあっせんによって、学内の元老である高田、坪内、天野の三博士が呼びだされ、この問題をいかに処理するかという方法について相談がまとまった」。
「それは」。
 それはといって、新藤が、また首をひっこめる真似をした。「よかったな、――わしも、そう思っとったところじゃ、大隈はとにかく高田ともあろうものが」。
「しいっ」。
 と、制する声が部屋の隅々から聞えると新藤は、へらへらと笑って、頭をかきながら、
「こらえてくれよ」。
 といって、またへらへらと笑った。岩橋は新藤を見て、一瞬間きょとんとした顔をしてみせたが、すぐあとをつづけて、
「いや、そのとおりになれば、ほんとによかったんだ、そのときの条件は実に理想的である、第一、恩賜館組の少壮教授をはじめ、全学生の要求だった学内の民主制確立、第二、今後の学長は、今までの評議員会のほかに教授と校友によって一つの組織をつくり、すべての運営をこれに委ねること、第三、新校規が承認され、その運営方針が決定するまで任期の如何にかかわらず、天野博士が留任すること――先ず大体こんなところなんだが、これは大隈のお声がかりだから、ちゃんと維持員会の決議も得て、実行するばかりになっていたんだ、そこへ、教授の一部、特に恩賜館組の首脳部が横槍を入れたんだ」。
 会衆の顔がひきしまった。東山が、ううんと唸るような声をだして、全身で見得を切るような恰好をしてみせた(東山自身はそんなことを少しも意識していないのだが、他人から観察すると彼はいつでも動作が芝居気たっぷりのように見える)
 とたんに岩橋の眉がぴりっとひきしまった。「この決議どおりになっていたら何の問題もなかったんですよ」。
「そのとき、恩賜館組はどういう申入れをしたんです?」。
「いや、それがさ、――申入れだけならいいんだけれど、われわれはもはや一日といえども、天野学長の下に教鞭をとるわけにはゆかぬといって、辞表をそれも学長に提出するんじゃなく総長のところへ持っていったんだ」。
「それを総長はどういう風に処理したんですか?」。
 会場へ、あとからやってきた校友で、その頃、「東京日日新聞」の記者をしていた箱田宇名吉が、気ぜわしく吃りながら訊きかえした。
「そのへんのことは僕にもわからんがね」。
 落ちついてはいるが、岩橋の興奮していることは彼の太い眉がぴくぴくうごいていることをもってしてもわかる。
「つまり、結果としては当面の人物である高田、坪内の両博士が、維持員会員である自分たちの力ではこの紛糾を拾収することは不可能であるといって二人とも総長に辞表を出したんだ」。
「それを大隈は受理したわけですね?」。
 東山がいった。
「そうだろうと思う、――単なる意見具申じゃないよ、明かに天野に対するストライキだ、だって、君、そうだろう。高田にしたって名誉学長なんだからな」。
 誰かが何とか言おうとしたが、岩橋の発言の方が早かった。「そりゃ、彼等にしたって理由はあるさ、何年何月何日どこそこの会合でやった天野の演説が不穏であったとか、彼は内心、自分を中心とする学制改革の方法を考え、大隈の勢力を学校から駆逐しなければ学校の民主化を行うことはできぬ、といったとか、いや、実をいえば、たしかに、そのことは天野の口から聞いたこともある、だからといって天野がこれを実行に移す手段を考えていたわけじゃない、そんなことを一つ一つ詮議していうなら、高田だって東京専門学校時代に、大隈が黒田内閣に外務大臣として入閣したとき、――ほら、桜田門で玄洋社の来島恒喜に爆弾をなげられたときだよ、高田は学校を教育の府として独立させるために、大隈の経済から独立させなきゃならんといったことがある、その舌の根の乾かぬに」。
「そりゃ、しかし」。
 新藤が例の調子でいった。「もう四十年も前のはなしですからなア」。
 彼に従えば、四十年も経てば舌の根も乾いている筈であろう。岩橋の説明を聴いているうちに彼は横にいる東山の顔が気になって仕方がなかった。――一ぺんも会ったことのない大隈に心酔している彼は自分の乗りだす機会が、だんだんちかづいてきたことをかんじたらしい。もっとも、かんじたというだけで、どこへ乗りだしていいのか彼自身にもハッキリしなかったが。
「ところで」。
 と、岩橋が急に儼然とした態度でひらきなおった。彼はこの席上にも高田派のスパイが潜入していることをかんじたらしい様子だった。
「これは誰が言いだしたのかわからないが天野の周囲には学校を乗っとって、経営を自分たちの手でやろうという陰謀をたくらんでいる男がいる、という風評が立った、これは、君まるで逆だよ」。
 岩橋が声を立てて笑ったのはこのときがはじめてである。「学校側が、それほど事態を深刻に考えているなら、何よりも先ず天野の反省を求むべきじゃないか、事実の有無にかかわらず、いきなり大隈のところへ持ち込むというのはどうかしている、――これを耳にした大隈が、何だ天野がという気持になるのは当然だろう、もっとも、学校側が大隈に対して、どんな風に報告したかわからないんだからね、大隈はすぐ天野をよんで、すぐ辞職しろと、それは君、どなりつけるような勢いで叱咤したそうだ、ところが、天野にもうすうす内情は、もうわかっている、天野博士だって馬鹿じゃないからね、やめろと言われたからって黙ってひきさがるわけにはゆかんよ、彼はむろん理由を聞き糺した、すると、理由は学内の平和を保つためだというんだ、そんなら、学長たる自分が進んで学校内に波瀾をまきおこすなぞということを考えるべき理由もなければ道理もない、ほかの理由ならばともかく、そういう理由の下に辞職するわけにゆかぬと言いはった、――つまり、現在までに報告すべきことはこれだけなんだがね、僕はこの問題をもっと簡単に考えていたんですが、此処ここまで発展してきた以上は、尠くとも天野博士と一脈のつながりを持つ僕としては、独自的な立場においても天野のために全力をつくしてこの妖気を一掃する必要がある、しかし、だからといって諸君に僕と行を共にしてくれなぞというのではない、唯、僕に私利もなければ私心もないことだけは理解していただきたい、そして更に、もしだ、諸君の中で僕の意見に賛同して下さる方があるなら天野博士のためにひと肌ぬいでもらいたいというわけなんだが」。
 岩橋は、片手でズボンの膝をたくしあげるようにして胡坐をかいた。
「そりゃ、大いにやるべきだ」。
 保谷仁太郎が下※(「月+咢」、第3水準1-90-51)を前へつきだした。彼は専門部の三年生であるが、試験をうけるだけで、ほとんど一年じゅう学校には出席していなかった。若いくせに泥鰌ひげを生やしている彼は、もはや完全な大人だった。
「こりゃ、岩橋さん、あんたの問題だけじゃない、全学生に訴えるべき問題ですよ」。
「そうだよ」。
 と青木公平が太い声でどなった。「先ず、組織をつくって運動の基礎をかためておく必要があるな」。
 来会者は、ふたたび車座になって、がやがやと騒ぎだしたが、結局、東山の発言にもとづき、満場一致で「吾等ハ正義ノ立場ニ於テ高田博士ノ再選ニ反対シ、建校ノ精神タル自由独立ノ実ヲ全ウスルコトヲ期ス」――という決議を行った。


 時間はまだ十時をすぎたばかりだったが、散会してから紀尾井坂にある堺枯川の家を訪ねると十一時を過ぎてしまうので、西方現助は江戸川から大塚へ帰る青木と、矢来下にある映画常設館、羽衣館の前でわかれ、新藤と二人で鶴巻町の通りを正門に向って歩いていった。
「やりおるのう、岩橋は」。
 新藤の顔には興奮が残っている。街の左手にある寄席がはねたばかりで、暗い街には人の影がちらちらと動いていた。「こりゃ、君、うっかりすると大へんなことになるわい、わしゃ、一度、大隈に会うて、よう話してやろう思うちょるんだが」。
 彼は老侯爵の晩節がこのような事件のために曇りを生ずることを本気でおそれているのである。「大隈が高をくくっとるからいかんのじゃよ、高田と天野が話し合えばすむことじゃないか、――何しろ、君、さわぐことの好きな連中ばかり揃うとるんじゃから」。
 今夜の会合にしたところで、もし岩橋が出席しなかったら、何のために集ったか見当もつかぬ結果になるところだった。とにかく正規の学生といえば、年齢的にいっても、新藤と西方のほかには青木がいるくらいのもので、地方の学生は、ほとんど残らずといってもいいほど帰省していたし、東京に家を持っている連中も避暑に出かけたり、旅行中だったりして市内にくすぶっている男はほとんどいなかった。つまり、学生という言葉に該当する、朝、時間どおりに教室へはいって、倫理(修身)や体操の時間にも、きちんきちんと出席して、ノートをとったり、弁当を食べたりする学生は一人もいなかった。
 もちろん、彼等といえども学生にはちがいないが、親の脛をかじって、学業の余暇を、せいぜいミルクホールへ出かけたり、毎日一定の時間をノートの清書によって過すような学生ではない。彼等は、それぞれ自分勝手なアルバイト(現在の言葉)によって学資を稼ぎ、金さえあれば新宿吉原とわたり歩いて、仲間同士が顔を合すときは必ず天下国家を論じて、濶達無礙な生活をおくっている。ミルクホールの給仕女なぞを眼中においているやつは一人もいなかった。つまり彼等は学校というわくの中にいるのではなくて、実社会とすれすれのところに生きている一種の風雲児なのである。作者は前章において、学生名士である杉ヶ枝高二が郷里の美作で新聞記者をやったり、政党の応援弁士として活躍しながら学業を継続していることについて語ったが、これはひとり杉ヶ枝だけではない。その晩、神楽坂倶楽部でひらかれた政談演説会で大向うをうならせた越永安平は、毎朝まいあさ新聞配達をした上に、何とかいうタチのわるい法律事務所にかよって三百代言の代りをつとめていたし、保谷仁太郎は街の艶歌師の中でも、もう相当な顔役になっていた。
「こりゃ、いかん、いかん」。
 新藤は、歩きながら、ぺっぺっと唾液つばを吐いた。「恩賜館組がみんな高田派ちうことになると、学生は大半高田派になっちまうわい、岩橋は真面目すぎるけんのう、わしゃ、あの人物を葬るに忍びんよ」。
「しかし、よかったな、今夜の岩橋の態度は」。
「そりゃ立派にゃちがいないが、あそこへ学長秘書の加藤がはいってくるとすっきりせんのう――わしゃ、今夜ひと晩考えてみるが、天野が無能ちうのは、こりゃほんとかも知れん、いや、岩橋も若いよ、若い、若い、うっかりすると東山にみんなやられちまうぞよ」。
 学生老政客の新藤は、ひとりで、ぶつぶつ呟きながら、新藤洋服店と、ペンキで書いた看板の出ている家の前までくると、
「まア、ええわい、ええわい――今夜はこらえてくれよ」。
 といって片手をあげ、裏木戸の方へ曲っていった。
 西方はその晩から下戸塚の素人下宿の二階で起居することになった。あくる朝、二階の部屋で眼をさますと、五十ちかい女主人がはいってきて、この方が朝早くお見えになって、玄関でしばらく待っていらっしゃいましたといいながら、うろんそうな瞳をかがやかした。「警視庁巡査、鱈野一五郎」と印刷してあるほそ長い名刺である。
 そこへ、裾の切れた袴を長く穿き、角帽を被った新藤がはいってきた。
「おい、もう天野派の本部が出来たよ、あつまっとるのは柔剣道の学生ばかりじゃ、わしゃ、ことによるとぬけるかも知れん、東山とは合わんのじゃ、こらえてくれよ」。
 彼の説明によると、新藤洋服店から五、六軒先きにある玉突屋の二階が天野派の事務所になり、その入口には「革新団本部」という大きい標札が掲げられた。加藤清がそこにがんばっていて、在京の学生たちは朝から続々とつめかけている。
 西方現助が下宿の女主人に朝の新聞を借りると社会面には、もう前の晩の会合の記事が出ていた。「学長問題激化す」――という三段ヌキの見出しで、昨夜の会合が校友学生の自発的な集りとして報道され、西方現助は政治科の学生を代表して出席したことになっていた。それだけではなく、天野派の学生は革新団を組織して、反学校運動の第一歩を踏みだしたということまで書いてある。
 西方は朝飯を食べるとすぐ新藤といっしょに馬場下へ出て、ミルクホールへはいり、その日の新聞を読んだ。どの新聞の記事も天野派に対して同情的であり、中には東山の写真を出して彼の談話を掲載している新聞もあった。
 その足で昨日まで玉突屋だった「革新団本部」を訪ねると、二階の板敷の部屋は、二つならべてあった玉突台が片隅に押しやられ、小さなテーブルが幾つとなく階段の正面においてあった。
 そのテーブルをかこんでいる一団の人たちの中には昔、野球部の選手だった若い教授の河野安通志や、大口松次郎の顔も見えた。大口はYクラスで、「モダン・ユーロープ」の講義をしている。彼は西方の顔を見るが早いか、
「待っていたよ、君」。
 といって彼の肩をたたいた。「何しろ機先を制しなくっちゃ駄目だからね、君たちでひとつ学生を勧誘する遊説隊を組織してくれたまえ」。
 どの顔にも精彩がみちみちている。もう一つ、うしろにある別のテーブルでは加藤清がうしろ向きになって、何かしきりに考えるような恰好をしながら、机の上にひろげた原稿用紙の上に何か書きつけている。浴衣の上から袴をはいた学生が一人、せかせかと階段を駈けのぼってきて加藤の机の上へ、小型の本を二、三冊、投げるようにおいた。「やっと、これだけ見つかりましたよ」。
 彼はおつりだといって、袂の中から大小入りまざった銀貨をざらざらとテーブルの上へこぼした。
 加藤は、クロース表紙の破れた小型の本をとりあげると、しきりに頁を繰っていたが、ううんと、軽くひとりでうなずきながら一気にペンを走らせた。小型の本は唱歌の教科書で、加藤は「革新団」の団歌をつくろうとしているのである。やがて、彼が重そうに腰をあげた。
「さア、出来たよ、ふしはアムール河だ、いいかい、――僕が先ず歌ってみるから」。
 彼は人差し指を前につきだし、自分で拍子をとりながらうたいだした。

「森かげくらく月落ちぬ
 ひとよ眠りの夢さませ
 正義のつるぎ腰に佩き
 破邪顕正の道行かん」

 学生時代、仙台にいた頃土井晩翠の薫陶をうけたという彼は自分のつくった新体詩に、すっかり満足しきっている調子で、四節にわかれている唱歌をうたい終ると、
「こいつを千枚、いや、――千枚じゃ足りんな、一万枚ばかり印刷するか、おい君」。
 彼は階段の上り口に立っていた文科の学生を手招いた。
「日清印刷ね、知っとるだろう、あそこの事務所に黒泉という人がいるからね、僕の名刺を持っていって、すぐ印刷してくれるように頼んでくれたまえ」。
 その日の新聞を読んで、何の気なしにふらふらとやってきた彼は加藤が何ものであるか知らなかったし、自分の名前を聴こうともしないで威圧的な命令を下す横柄な男に対してかすかな反感をおぼえたらしい様子だったが、しかし加藤の手から名刺と、封筒に入れた原稿をうけとるとすぐ階段をおりていった。
 玉突屋の二階に新設された「革新団本部」に、どこから誰が運びこんできたのか、楽隊の大太鼓とラッパが据えつけられたのは、それから二、三日経ってからである。新聞記事は連日、運動の進行について、学長問題の赤熱化してきたことを報じていた。毎朝十時頃になると、開け放しにされた玉突屋の二階からひびいてくる太鼓の音は、人通りのまばらな鶴巻町の通りに流れ、そのあいだを人力車に乗った新聞記者が、引っきりなしに往ったり来たりしている。
 西方と青木は、毎朝、運動の指令本部みたいになっている天神町の「東洋経済」の二階で会い、いっしょに革新団の事務所へ出かけていった。「東洋経済」には大抵岩橋勘山がいて、その日の情勢の変化がわかった。岩橋のところへは毎日必ずきまって知名な政治家やジャーナリストがやってきて、たった一つしかない二階の応接間は訪問客でいっぱいになっている。相当に秘密を要するような相談をしているときもある様子だったが、しかし岩橋は終始あけっ放しで自分たちのいる応接間へ学生たちを通し、時にはその話の中へ彼等をひき入れてしまうこともあった。此処へ来ると、刻々に動いてゆく情勢の変化が手にとるようにわかる。新聞の論調も天野派に対して必ずしも有利ではなく、天野派の背後に大きな黒い影がうごいているという臆測が少しずつ、かたちをあらわしかけていた。
 この社には岩橋のほかに大学の先輩である社長の木村銅太郎がいたが、彼は学生時代から天野博士の指導をうけ、卒業するとすぐに博士の経営下にある「東洋経済」に入社して今日の地位を築きあげた男であるから、本来ならば岩橋よりもむしろ彼の方が中心になって動くべきであるが、早くも五十をすぎて、天神ひげを生やしたこの温厚な老人は一切を岩橋に托し、――というよりも、むしろ自分は超然として運動の外に卓立し、岩橋の行動を冷静な眼で傍観視しているというかんじだった。
 新聞は競って両派の動静について報じているし、校友や学生の会合は毎日のように場所を変えては開かれていた。しかし、学生の動きはほとんど天野派に集注し、それが次第に外部へ微妙なひろがりを持ってゆくのに対して高田派は、大隈老侯処断という最後の切り札だけにたより、内部工作によって事件を明るみへ出さずに暗黙のうちに解決しようとしていた。
 それが、いよいよ積極的な攻撃態勢に変ってきたのは、唯一の恃みともいうべき、大隈の説得が最後の段階において決裂してしまってからである。残るところは今や、全国に散在している帰省中の学生と校友だけである。在京の学生課員は一人残らず動員されて、「学長問題経過概要」という題目の小冊子を父兄にあてて配布した。政治力を持つ校友のあいだにも意見は二つにわかれ、彼等の意見は、まだ両者の調停に一縷の望みがあることを信じているらしい模様だったが、しかしそれがために全国評議員会が招集されたときはすでに時機を逸していた。
 民衆はビリケン首相といわれた寺内元帥を首班とする反動内閣に愛想をつかしきっていたときではあったし、その強圧政策が祟って全国の都市に米騒動を誘発する気配がみちみちている上に、三菱造船所では賃銀問題に関して、かつて見ることのできなかったような大同盟罷業が起り、それが次第に、あたらしい労働運動を促進する機会をつくろうとしている。一方、内閣の対外方針は軟弱であるという立場から右翼の感情が激化し、これに刺戟された憲政会所属の代議士が集結して「国民外交会」の発会式をあげ、その中心に大隈を引っぱり出そうとする運動が起っているかと思うと、一方では早稲田の法学部で憲法論を講じていた副島義一と福本日南が中心となって「対外同志会」の発会式をあげ、憲政会の運動に対抗しようとしている。それに、欧洲戦争は次第に終末にちかづき、ドイツの敗北は決定的な方向に動いているばかりでなく、戦争景気に乗じて政治力を利用し、ひと儲けしようとする商人に対し奸商取締令が警視庁から公布されると、民衆の感情は急速に激化してきた。
 ロシヤ革命の様相にも徐々に変化があらわれ、ケレンスキー内閣の運命も旦夕に迫っている様子である。学校側が目の仇敵としているのは当の天野博士や革新団ではなく、純理論的に彼等を指導している岩橋勘山という妙な男がいるということが次第に明るみへさらけだされてきたらしい。
「とうとう、ケレンスキーがわれ等の学園にも出てきたね」。
 と、市島春城(謙吉)がいう。
「いや、それもよし、これもよし、ケレンスキーをしてケレンスキーたらしめよ、まアゆるゆると時を待つさ、――われわれ建校の精神がケレンスキーの出現ぐらいでゆらぐもんじゃない」。
 坪内雄蔵は、ほそおもての顔に皮肉な微笑を湛えながらいった。早稲田大学の前身である東京専門学校の昔にさかのぼると、高田、坪内、天野の三人は、当時の言葉をもってすれば、三博士として学校建設の功労者であることはたしかであるが、しかし、彼等の中で高田、坪内に比較すれば天野の存在は、学校とのつながりにおいてもはるかにおくれているし、彼を大隈に推薦した小野梓が学校の後事を托したのは高田であって天野ではない。坪内は文学者であるから運営の実際面に関与するところはないとしても、この三人が一体となることによってのみ学校の存続を保ち得るのである。それ故もし、高田が大隈内閣の一員として席を占めたことによって、彼が教育者としての立場を失うとすれば、天野もまた、明治二十三年、佐賀県選出の代議士として衆議院に席を列したことがあるではないか。そんなことを今になってとやかくいう必要はない。高田が大隈の懇請に従って入閣したのは、これがために早稲田大学を放棄したのでないことは明白である。それを今にして天野が校内における高田閥を云為し、所謂いわゆる天野派の野心家たちを駆り立てて、高田の政治的色彩を追求するのはどうかしている。天野にしたところで、その後、彼が松方内閣の選挙干渉によって落選の悲運に遭い、改進党員としての議席を失うことがなかったとしたら、彼の政治的生涯は今日もなお存続している筈である。学制改革もいいし、学校の民主化もいい。しかし、これを行うがために高田を排斥するという理由はないであろう。教授会が、もし組織の改造を要求したとすれば高田もまたその決議を尊重することは明白である。それを教授の過半数、ならびに少壮教授の集団である恩賜館組が進んで高田派たるべきことを表明しているときに、少数の不平分子を狩りあつめ、進んで平地に波瀾をまき起そうとするのは自家の権勢慾に固執しようとするものである。
 むしろ、今日に及んでは天野の反省を待つまでもなく、泣いて馬謖を斬るべきであるという強硬論が、ようやく学校主脳部の感情を支配するようになってきた。
 学校側が次第に積極的な態度をとって対外宣伝に乗りだしてくる頃には、「革新団」の結束はいよいよ鞏固になり、剣道部の総大将である伴重吉を主心とする実行組は、運動部を基本にして一つの組織をつくりあげていた。最初のうち玉突屋の二階へ毎日のように顔を出していた雄弁会所属の学生政治家たちは、ほとんど姿を見せなくなってしまい、不言実行を綱領とする筋骨隆々たる学生たちの、鶴巻町の通りを肩で風を切って横行濶歩する姿が、街の住民たちの眼にも険悪な空気のちかづきつつあることを予想させるようになってきた。久しく会わなかった新藤喬が、熊本から上京してきた堅木実とつれだって、下戸塚の下宿へ西方を訪れたのは、八月もそろそろ終りに近づこうとする、大気の爽やかな、ある朝であった。
「いや、どうも、えらいことになっちゃったなア」。
 新藤は声をひそめるようにして、あたりに気をくばりながらいった。彼の顔はまったく、いつもの精彩を失っている。「わしゃァ、君、とうとう脱落したよ。――そのことを最初から君に相談しようと思うとったけん、君にはまた別の考えもあろう思うてな、単独で伴君にわけを話したんじゃ、つまり、僕としては、どっちの言い分に味方したらええのかわかりゃせん、しばらく考えてみるから僕の自由にさせてくれいうたところが」。
 新藤は自嘲的なうすら笑いを口辺にただよわした。「伴君が怒りよってのう、――もっとも、あの男はようわかっとるんじゃが、ほかの連中もおったし、その前でいうたのがわるかったのかも知れん、わしゃ、いきなり、たたきつけられたよ」。
 場所は革新団の集合所として、学校の許可なぞは眼中におかずに彼等が自由に出入りしていた寄宿舎の広間である。新藤は起きあがるごとに、二、三度つづけざまに殴られ、投げ倒された。彼は両手で頭を抱える恰好をしてみせながら、
「そりゃ、わしもそのくらいのことは覚悟しとったから何の抵抗もせんじゃった、裏切ったといえば、たしかに裏切ったにちがいないんじゃからのう、――伴君はもう一度考え直せと、しきりに言いおったが、わしは唯、こらえてくれ、こらえてくれというだけじゃ」。
「その話を、さっきも新藤から聴いて愕然としたところだ」。
 堅木実が口を尖らしていった。彼の父親は郷里の熊本で新聞社長をしている。「僕は東京の新聞をむさぼるように読みながら、実は革新勢力の中心にそびえている君の姿を夢のように頭に描いとったよ、一種うらやましいような、妬ましいような」。
 話し方に一種の癖のある、疳高い調子で彼は言葉をつづける。「つまり、やったな、というかんじさ、この運動がロシヤのケレンスキー革命と時を同じゅうして起ったというところにも僕の好奇心を唆るに足るものがある、高田も天野も僕にとっちゃどうでもいい、新聞を自分勝手の流儀で読んでいると、はじめは学長問題に終始していたのが、だんだん学制改革とか校内の民主化とかいう方面へ移行してくる、こいつは西方のやつ、いよいよ思う壺にはまったな、というかんじさ」。
 堅木はがくりと肩を前へおとした。「ところがさ、やっと汽車が東京へ着いて、改札口を出ようとすると、ぐっと右肩をおさえられた、ちょっと来てくれというんだ、腕まくりをした強そうなやつでね、そのあとについてゆくとたった今、汽車からおりたばかりと見える菱形の帽子を被った男が、ずらりとならんでいる、その前にテーブルがおいてあって柔剣道の学生がテーブルをかこんでいる、それよりも、テーブルの横には「革新団本部」と書いた高張提灯が立っているのにはおどろいたな、おれの眼の前で、なぐられているやつもいたよ、そのうちに、剣道部の学生の中から、おれと同郷の別院という男が、おう、堅木君といって呼びかけながら、おれを脇へつれていったよ、あそこで天野派か高田派かといって聴かれたら天野派だといった方がいいぞというんだ、そんなことを注意されなくたって、おれは、むろんそのつもりだったから、すぐテーブルの上の連名簿に署名したよ、――それだけなんだがね、実はすぐにも君の動静が知りたくって、よっぽど口に出して聴こうと思ったが、あの雰囲気はまるで、おれの頭の中でつくりあげた空気とは別のものなんだ、これはとんでもないことになったと思った、今朝、新藤に会って、大略、――いや、それも、ほんの僅かなんだが実情に近いものにふれたというわけさ」。
「しかし、まだ望みがないわけじゃない、僕はあたらしい学生運動の起るのはむしろこれからだと思っている」。
 西方現助の胸の底を、つめたいものがかすめてとおった。鶴巻町の革新団本部の中においてさえ、半月前とくらべると、彼の立場は今や伴重吉の支配下におかれた一宣伝部員に過ぎなかった。毎日、本部へ来て待機している新聞記者のその日の経過を説明したり、つぎつぎと実情を聴くためにやってくる学生に、同じ言葉と同じ調子で事件の概要を話すことが彼の役目であるが、しかし、そういう仕事を担当している青木と西方の周囲には、日に日に勢力を扶植しつつある武断派に対抗するための別の雰囲気が結成されようとしていた。この微妙な感情の動きを、長いあいだ学生生活から遠ざかっている岩橋勘山が知る筈はない。むしろ、実行力をありあまるほど持っている伴重吉とその一党は、信念のつよさにおいても、純粋で素朴な言語動作においても、文治派と自称する学生たちとくらべると本気で天野博士に同情し、高田博士と博士に従属する学校幹部を本気で憎んでいる。西方と青木が彼等に対して何となくひけ目をかんずるのは、武断派の学生の大部分が卒業を間近に控えた大人であり、年齢に開きがあるだけではなくて、文治派の連中が議論に時をすごしているあいだに、どのような難問題もすぐこれを実行に移して、片っぱしから結論をつくりあげてゆく、ひた向きな情熱と、いつでも一致団結することのできる単純な実行力の持ち主であるということである。
「しかし、まアいい、――君が無事であったということだけでも」。
 堅木実が、眼をしばだたきながら西方の手をにぎりしめたとき、下宿の女主人が階段をあがってきた。鱈野一五郎が玄関でいいから是非お目にかかりたいといって待っているというのである。


 鱈野一五郎が、ほそい名刺を持った尾行巡査であるということは前章において述べたごとくである。――西方が玄関口へ出てゆくと、彼は低い声で、実は新宿警察から、あなたをつれて出頭しろという命令をうけたんです、と早口にいった。「大した問題じゃないですから、時間はかからんでしょう」。
「だけど、君、――理由が明白でないのに出頭しろというのはおかしいじゃないか?」。
 鼻の下に、ちょび髭を生やした鱈野は、やっと二十歳になったばかりの西方の顔に、卑屈な愛想笑いを浴びせかけながらいった。「そんな大ゲサな話じゃないですよ、多分何かの証人という程度で」。
「じゃあ、こっちにも用事があるんだから、ひまが出来てから出かけてゆくよ」。
「そいつは困りますね、私の立場も考えて下さい、――ちゃんと命令をうけてやってきたんですから」。
「すると、どうしてもつれてゆくというわけだね?」。
「まさかね、首に縄をつけてひっぱってゆくわけにもゆきませんが」。
 何をこの若造め、――というかんじが、彼の眉にぴりっと閃いた。世馴れた刑事の表情はもう相手を軽く見くびってしまっている。「とにかく、私が責任を持ちます、往復一時間はかからんでしょう、そんなに世話をやかせるもんじゃありませんよ」。
「いや、どうしてもというなら、検事の令状を持って来たまえ」。
「むろん、正式にはそうすべきですが、たぶん、あなたはすぐ承知してくれるだろうと思って非公式な手続きをとったんですよ、ひとつ、今日のところはまげて私のために」。
「だから、さっきから理由をきいているんじゃないか、――学校の問題で、僕は今、途方もなくいそがしいんだ」。
「わかっていますよ、とにかく主任に会っていただけばわかることですから」。
 押問答をかさねてゆくうちに、西方現助はとうとう、鱈野刑事の誘いの手にかかってしまった。きょとんとしている新藤と堅木を残して彼が外へ出たのは十時少し過ぎだった。歩きながら、西方は電柱や板塀に貼りつけてある革新団主催、学長問題演説会と書いたビラを見た。そういう演説会は毎晩のように開かれていた。その晩の場所は江戸川べりの貸席清風亭で、ビラにはごたごたとならんでいる弁士の中に彼の名前も書いてあった。裏通りを歩いて、若松町から電車に乗ると新宿の終点まで十分とはかからなかった。電車の沿線は野趣の豊かな田園で、角筈の終点から遊廓街がひらけている。現在の繁華街は残らず遊廓で普通のしもた家は一軒もなかった。入口の大門のあたりは朝がえりらしい嫖客がうろついている。角帽を被った西方現助はステッキをついて肩をそびやかし、見ようによっては彼の叔父さんとも思われそうな尾行巡査をつれて、しいんと鳴りをしずめている遊廓街の横町を左に曲った。すぐ右手にそびえている青いペンキの剥げ落ちた二階建の病院風の建物が新宿警察署なのである。鱈野刑事の顔をみると、受付にいた若い巡査が椅子から腰をあげてお辞儀をした。一瞬間、鱈野巡査の態度は一変して、急に鋭い視線をじろっと西方の顔に投げたと思うと、若い巡査に耳打ちをして、そのまませかせかと事務室の方へはいっていった。入口から幅の広いコンクリートの廊下が奥の方へつづいている。若い巡査は儼然とした面構えで、こっちへ、といいながら長い廊下を歩き、すぐとっつきの扉をあけた。
「此処で待っているんだ」。
 西方現助は、やられた、と思った。あきらかに鱈野一五郎に一杯喰わされたのである。小さな部屋の中には誰もいなかった。扉のそとの廊下を往復する靴音は絶え間なしに聞えていたが、誰れも入ってくるものはなかった。西方は椅子から立ちあがってみたり、また坐ってみたりしながら一時間あまり同じ動作をくりかえしていると、だしぬけに扉があいて四十前後と思われる、白い夏服を着た肥った男がぬっと顔をつきだした。
「おい、昼飯は未だだろう?」。
 西方は、とたんにむっとして睨みかえした。「それよりも、こっちは急いでいるんだから早く用事を聴きたいんだが?」。
「そいつは、おれにはわからんね」。
「じゃあ、すぐ鱈野君を呼んでくれよ」。
「もういないよ、――さっき出ていったばかりだから夜になったら帰るだろう」。
 扉をパタンとしめた。それから十分ほど経つと、雑役夫みたいな男が、うるしの剥げた箱弁当とお茶を持ってはいってきた。無表情のまま、それを机の上において出ていった。西方は空腹をかんじてはいたが、しかし胸がきゅうんと押しつまって、箱弁当を食う気にはなれなかった。しばらく経つと、またさっきの巡査がはいってきた。
「おい、こっちへ来るんだ」。
 西方が何か言おうとするのを見向きもしないで彼は廊下を突っ切り、左手にある傾斜の急な階段をのぼっていった。西方現助はわざと桜のステッキで床板をたたきながら、肩を怒らして階段をのぼっていった。
 すぐ上が小さな会議室で、扉をあけると、西方の眼の前に一種奇妙な光景がひらきだされた。彼を案内してきた巡査よりも、ずっと上役らしい金モールの肩章をつけた巡査が窓を背にして立ち、その前に、一見して三十前後と思われる骨骼の秀でた男が、長椅子に腰をおろしたまま、立っている巡査の顔を下から睨みつけるようにして、おそろしい早口で何かまくし立てている。髭の剃りあとを青くうかばせた頬の肉が怒りにおののいて、今にもとびかかろうというかんじだった。ちらっと見た瞬間、西方現助は、そこにいるのが社会主義者の荒畑寒村であることに気がついた。半年ほど前、堺枯川が立候補したとき、本郷の大和座でひらかれた「政見発表演説会」で、演壇に立っている彼の姿をたった一ぺんだけ見たことがある。
 西方がはいっていったので、荒畑もいくぶん声の調子を和らげながら、
「とにかく、おれが直接にもう一度話してみるから警視庁へ電話をかけて正力松太郎を呼べ、その上で、もし貴様たちが勝手な判断をして、おれの検束を長びかせていることがわかったら承知しないぞ」。
 話の様子から察すると、荒畑が警視庁に電話をかけ、方面監察官の正力松太郎とのあいだに一応諒解が成立したにもかかわらず、係官である上役の巡査がどうしても実行しようとしないらしい。それを荒畑が憤激して巡査に食ってかかっているのである。まもなく、電話をかけることに話がまとまったらしく、巡査は逃げるように出ていった。西方は彼の前に腰をおろし以前大和座でお目にかかったことがあります、というと、
「ああ、西方君」。
 と、荒畑は急にくつろいだ表情を見せながらまるで人が一変したように屈託のない微笑をうかべた。「君のことは堺君から聞いていましたよ、――いや、これは妙なところで会いましたね」。
 袂の中から敷島の袋を出し、一本ぬきだして口にくわえた。「君たちの学校では学長の問題で騒いでいるようですな、僕は局外者だから内情は知らないが、高田を学長にする方がほんとうじゃないかと思いますね、天野も任期が終ったのに、まだ頑張ろうというのは少し無理ですよ、――われわれから言わせたら、むしろ坪内を学長にしたらどうかと思うんだが」。
 西方たちが夢中になって行動を起している学長問題も荒畑にとっては大した興味もなさそうに思われた。それよりも彼にとっては数日前から南葛方面に不穏な形勢を生じようとしている米騒動の方に特別の関心があるらしく、
「いくら警官の総動員をやったところで駄目ですよ」。
 言いかけて、声高に笑いだした。「何か事件があると、われわれを検束することを義務のように思っていやがるんですからね、今朝も翻訳の仕事を持って、ある商店へ行こうとするところをつかまっちゃったんです」。
 西方が話題を変えて、ケレンスキー革命について彼の意見を求めたが、荒畑は、これにもあまり気乗りがしないらしく、
「いや、あれはちょうど芝居の三番叟みたいなもので、必ず、ああいう前奏曲があってから、いよいよほんとうの芝居にうつるんです、ケレンスキーの運命もそろそろ終っている頃じゃないかな」。
 電話をかけにいった巡査はなかなかあがって来なかった。いつのまにか時間が経ってしまったらしく、窓の外には西陽が落ち、夕闇が庭をめぐる樹木の繁みから迫ってきた。屋根とすれすれに枝を張っている椎の木の梢が風に煽られ、そのたびごとに長く伸びた枝が音を立てて硝子窓をたたくのである。ひょいと腰をあげて窓越しに見ると、中庭の広場にいかめしく武装した警官の一隊が整列していた。風は夕方から急につよくなったらしく、窓にあたる唸りにも力がこもり、部屋の中はみるみるうちに暗くなってきた。広場に集結している警官隊は一組ごとにランタンをぶら下げている。そこへ雑役夫が火のついた蝋燭を持って入ってきた。
「今夜は故障があって電灯が点かないそうです」。
 荒畑は雑役夫の方へは見向きもしないで、
「ざまアみやがれ」。
 と窓の方を向いて怒鳴ったが、それだけではまだ気がすまないらしく、衝動的に立ちあがるが早いか窓にちかづいて、両手をかけ、ぐっと上へひきあげた。窓があくと、どっと吹きつける風で蝋燭の火が消えたので、部屋の中はたちまち真っ暗になった。広場には第二の部隊が整列したところで、ランタンの小さい灯かげが若い巡査たちの逞しい姿を照らし、夜目にもあざやかに佩劔はいけんがキラキラと光っていた。一人の隊長が何か声高に命令しているらしく、
「本部隊の警戒区域は」。
 と、その男の叫んでいる声が途中から風に吹きとばされていた。その吹きちぎれた濁み声のひとふしに煽られて、「何しろ風がつよいから各自充分に注意して」。
 そこだけ大きく窓の中へ流れ込んできたとき、荒畑寒村が、
「畜生!」とさけんで半身を窓のそとへ乗りだした。
「こんな風が何だ、――今に大きい風が吹くぞ、何も彼も根こそぎにさらってゆくような大きい風が」。
 彼は矢庭に、ぴしゃりと窓をしめた。すぐ荒々しい靴音が階段をのぼってきた。挑みかかるような面構えをしてとびこんできたのは別の巡査である。彼は怒気を含んだ眼で正面から荒畑の顔を睨みつけた。「検束の時間を経過しましたから、あたらしく引きつぎます、すぐ門の外へ出て下さい」「門の外へ出て、それからどうするのだ」。
「正式に留置場へはいってもらうんです」。
「よし、署長に会おう、――貴様にはわからん、それが正力の返事かどうかハッキリ聴こう」。
 荒畑は神経的な怒号をつづけながら、立ちあがるが早いか扉をぱたんとあけ、階段をおりていった。


 新宿署の楼上にある会議室で、西方現助は実に退屈な、それでいて焦躁にみちた二日間をすごした。一体何のために警察が自分をこんなところに置きっぱなしにしているのか彼には皆目わからなかった。鱈野だけはついに姿を見せなかったが、刑事や巡査がやってきては、来るごとに学校騒動の噂をしたり、ときにはわざわざ新聞を持ってきて見せてくれたりした。これだけ距離をおいてぼんやり遠くから眺めていると、天野派の運動が一日ごとに浮き腰になっていることがハッキリわかるようである。
 もう、帰省中だった学生はほとんど東京にもどっているし、彼等の大多数は、天野派ともつかず高田派ともつかぬ、まったく別の立場に立って冷静に事態を観望しているように見える。
 新宿署内で会った刑事や巡査たちも彼に対しては格別の悪意や憎悪感を持ってはいなかった。警視庁の方針としても、学校騒動が学長問題に終始しているかぎり、これを政治的事件として対処する気持のないことも明白だった。なるべく警官の干渉を避けるという方針を立てているらしい。保護検束をうけて三日目の夕方、彼は不意に署長の部屋へよびだされた。署長は、やっと四十をすぎたばかりと思われる、病身らしい、着実な風貌を備えた男である。彼は、肘を机の上におき片手で頬を支えながら眉をぴりぴりと顫わせた。「さっき岩橋君がやってきて君のことを非常に心配していたよ」。
 署長は性急に咳きこむような調子で、
「君のことは警視庁の命令で、学校の問題とは無関係に行われたんだ、一昨日は本所に暴動が起って、民衆の空気が険悪になっているから社会主義者を検束するということに方針がきまったんです、――君は伴君のところへ出入りしているらしいね?」。感情をあけすけにして物をいう態度が西方現助の心に、この男の職能につきまとう尊大で横柄なかんじをあたえなかった。彼が、そうです、と答えると、署長は不安そうに眼をしばだたきながら、
「もちろん僕が君の思想に関与する理由はないが、つまらん誤解をうけないように自重してもらいたいね、学校も大へんな事態に際会しているし、君のことも部下の報告によって大体見当がついたから、本来なら方面監察官の諒解を仰いで処理するところなんだが、今日は僕の独断で君を釈放するよ、岩橋君もきっと安心するだろう、帰ったらすぐ訪ねてくれたまえ」。これで万事片づいたというかんじで、彼はもう暗くなりかかっている窓の方へ視線を外らした。何となく男性的な、無駄のないキビキビした署長の言葉にすっかり満足した西方現助は一種の感動にちかい興奮をおぼえながら外へ出た。
 若松町でおりるところを、肴町までゆき、神楽坂をのぼって天神町へ出ると、「東洋経済」の前で、門の中から出てきた顔見知りの剣道部の学生に会った。彼は西方が新宿警察に留置されていたことを知らないらしく、両腕に抱えている大きなチラシの束の一つを慌てて彼にわたした。「さっきから、みんな君を待っていたぜ、――まだ五時半だな」と言いながら腕時計をちらっと見た。「もう四時すぎから会場は学生でぎっしり詰っている、さっき僕がいったときは山吹町の通りは通行禁止になって、巡査が交通整理をしとった、今夜は永井柳太郎も出るそうだから入場無料じゃもったいないくらいだよ」。
 西方現助は眼界が急に一変して、胸がわくわくするようなあたらしい衝動に駆りたてられた。矢来下へ出ると、広い通りを学生のむれが、ぞろぞろと鶴巻町の方へ歩いてゆく。街角の蕎麦屋の前には大きな立看板が出ている。会場は山吹町にある早稲田劇場で、立看板には天野派の教授や、重だった校友の名前がずらりとならび、その中にはさまれている西方現助という名前が自分とはまるで別の人物のような精彩を放っている。
 彼が新宿署にいた三日間のあいだに、運動は、たしかに急速なひろがりをみせてきた。高田派だろうと天野派だろうと、そんなことはどっちだっていいことである。もはや誰れ一人として事件の性質を究明したり、これに対して冷静な判断を加えようとしているものはいなかった。新学年の開始を直前に控えた学校側は、一切の妥協的工作や他人まかせの緩和政策を根こそぎに放棄したらしく、現在学長の職を保っている天野博士を無視して維持員会を開いた。その席で金子馬治(筑水)以下六名のあたらしい理事が任命された。当分学長を空席にしたまま、理事の合議制によって学校の運営にあたろうというのである。これと同時に、何の調査もなければ下相談もなく、天野派の運動に参加したり、幾分の賛意を示したというだけの理由で、伊藤重治郎、井上忻治、原口竹二郎、永井柳太郎の四教授が免職された。運動の中枢部にいた武断派の学生の中からも伴重吉以下六名が放校処分をうけた。学生の処分は、生徒控所の掲示板に貼りだされ、教授の免職は葉書一枚をもって当事者に通達された。市内で発行する十五の大新聞はいずれも、大隈侯爵が、激怒のあまり、廃校せよと叫んだということをつたえていた。
 学校側の態度が強化したことがわかると、「革新団」に立てこもる学生たちは、放校処分をうけた六人の学生をかこんで祝盃をあげた。玉突屋の二階では朝から楽隊の太鼓が鳴りつづけている。ふたたび学生の街に一変した鶴巻町の通りには、加藤清のつくった「革新団」の歌を高唱する声が夜更くるまでつづいていた。西方現助のいない三日間のうちに、武断派学生の感情は殺気立ち、ミルクホールや食堂で、この運動について冷静な批判を下しているものがあると、彼等は隊を組んで乗り込み、誰彼れの差別もなく路上にひきずり出して殴ったり蹴ったりした。地方から上京してきた学生のほとんど大部分は、中立派であったが、学校側の態度が強化するにつれて次第に反天野派的色彩をおびてきた。学生のあいだに大山郁夫とならんで、もっとも人気のあった永井柳太郎の罷免は彼等の心に尠からぬ衝撃をあたえた。小大隈というあだ名で呼ばれ、彼は青年時代から大隈に私淑し、もっとも大隈の恩寵をうけていた。片足を失ってからは、いよいよ彼の風采容貌は大隈に似てきた。大隈の落し子ではないかという噂までまことしやかに流布されていた永井である。その永井が学生のあいだに最初のうちは高田派の中心人物と見られていたにもかかわらず、天野派の一員として馘首されたことは、学生たちの感情に、何か悲劇的な処理のつかぬものを植えつけてしまったらしい。流言蜚語は神楽坂から高田の馬場までひろがる、学生の住む区域にあとからあとからと撒きちらされた。西方現助が興奮にどよめく人波を押しわけて、早稲田劇場の裏口からはいってゆくと、演壇のうしろに張られた幕のうしろで、その日、登壇する手筈となっている弁士と演題を書いた紙の整理をしていた学生のむれの中から青木公平がひょいと立ちあがった。
 彼はとびつくようにして西方の肩をおさえた。「待っていたよ、――ああ、ほんとによかった、おれが独断で、君の演題をつけてしまったから諒解してくれたまえ、君が来なかったら、おれひとりで武断派に対抗するつもりだった」。
 青木は西方の耳に口をよせてささやいてから、こんどはみんなに聞えるような大きい声でいった。「永井の態度が曖昧なんだ、最初は必ず出席するといったくせに、あとになって急にことわってきたんだが、――どうもハッキリしないね」。「おれは、しかし」。
 西方が当惑したように顔をしかめてみせた。「新宿署にいるとき、じっくり考えてみたんだが、もうこの運動はおれたちがやろうと思っていたこととはまったく別の方向へそれてしまったよ、今のおれにいうべき言葉があれば、それは純粋な学生の運動にかえれということだけだ、おれが前に革命の縮図だといった言葉だって、学校を混乱に陥れるという意味じゃない、青年の情熱に訴えて現実を正視するというところにだけ」。西方が続いて何か言おうとしたとき、大道具の立てかけてある壁際から唸るような怒号が起った。腹這いになって、ビラやチラシの整理をしていた学生たちがざわざわと立ちあがった。
 剣道部で羽振りをきかせている友塚半吾の首筋をおさえた一人の学生が、うしろへぐっと腰をひきながら友塚の頬桁をなぐりつけている。怒号しているのは友塚で、太い髭を生やした友塚の平っぺたい顔が、咽喉を締めつけられるごとに仰向けになり、苦しそうに息を吐きながらもがいている。彼はもうしたたかに酔っているらしく、あやうく倒れそうになるところをやっと片足で支えると、こんどは猛然として攻勢に出てきた。
「おい、止せ」。青木が身をおどらすようにして二人のあいだへとびこんでいった。ほかの学生がどっと左右から二人の腕をおさえてひきはなした。
 西方が、ひょいと闇の中をすかしてみると、幕の方へ、よろよろと倒れるように歩いてきた小柄な男の顔が彼の眼の前にうかびあがった。西方の胸がわなわなとふるえてきた。友塚とつかみあっていた学生は三日前に下宿の二階でわかれた新藤だった。
「何しよるか、あいつ、――こうなったらおれだってやるぞ」。彼は苦しそうに息を吐きながら、とぎれとぎれの声でいった。「こらえてくれ、こらえてくれと、あれほどいうちょるのに、何じゃ、いかに暴力がつよいからいうて」。
 しかし、すぐ彼は周囲にあつまっている学生たちの方を向いて、
「すみませんでした、ほんとに、こんなところで、ああ、わしもなっちょらんわい」。苦しそうな愛想笑いをうかべたと思うと気まりわるそうにあたりを見廻わした。とたんに西方と視線がぶつかると、
「何じゃ、ここにいたのかい、――いやもう、何もかも、くしゃくしゃじゃがな」。
 入口では、道路をうずめている学生たちが、たがいに犇めきあいながら前へ前へと押しだしてくるので、会場はみるみるうちに大混乱に陥った。それを制止しようとして「革新団」の幹部が舞台の上へ出て、声高に叫びながら両手をあげると、それをキッカケにたちまち割れかえるような拍手の波がどっと押し寄せてきた。西方が気がついたときには、もう新藤の姿はどこにも見えなかった。大道具の立てかけてあるうすい壁のうしろが楽屋になっているので、ほそいすき間から覗いてみると、畳を敷いた三畳ぐらいの部屋の、障子がとりはずしてあるので、中に坐っている人の姿がハッキリ見えた。うしろ向きになっているのは岩橋勘山であるが、彼と向いあっている男の顔にはハッキリ見覚えがあるような気がした。しかし誰だかよくわからなかった。そのとき、うしろからちかづいてきた青木が、
「知ってるかい、――三木だよ、三木武吉だよ」。
 と低い声でささやいた。西方は見るからに偉丈夫というかんじの、狼のような顔をした三木の顔に視線を集注していた。彼は一見すると老人のようでもあるが、それでいて何となく若々しい。その三木が、ぼそぼそと何かいったと思うと畳の上へ両手をついた。西方現助はどきっとして眼を瞠った。


 西方現助は演壇の右手にある花道の横に立っている学生の列のうしろに立って、前にいる男の肩越しに舞台の方を眺めていた。東山松次郎の開会の辞が終って、罷免された教授が次々と立つごとに聴衆の拍手は低い天井に鳴りひびいた。フロックコートを着た伊藤重治郎が、謹厳な態度で、商科の教授に似合わぬ美辞麗句をつらねた演説をはじめると、学生たちは言葉がとぎれるごとに拍手をおくった。伊藤の演説は一時間以上にわたったが、しかし内容は非常に実際的で、ケンブリッジやハアバートの校内設備、――特に図書館の充実について長い説明をはじめると聴衆の顔には次第に倦怠の色がうかんできた。彼等が聴こうとしているのは、そのような遠大な理想ではなく、現在彼等が当面している学長問題であった。伊藤の演説は堂々として一糸乱れぬ論理の落ちつきを示していたが、学生たちは豊富な内容や、冷静な歴史的批判に耳を傾けようとはしていなかった。彼等が求めているのは、現実の混乱の中にあって彼等の心を煽り、われ知らず喚きたてずにはいられないような烈しい言葉だけである。楽屋裏で、その晩の進行係をつとめている浅木はそのことに気がつくと、ほんとうは出ても出なくてもいいような校友や学生たちのあいだから弁士をさがし出そうとしたが、しかし適当な男はどこにもいなかった。彼は偶然そこへ来合せていた越永安平の姿をみとめると、無理矢理に彼を演壇に押しだした。越永はその晩演説をする予定の中に加えられてはいなかったが、気軽な彼は演壇へのぼると、すぐ寺内内閣の弾劾をはじめ、それを巧みに学長問題に結びつけた。越永が降壇すると東山が立って、派手なゼスチュアを交えながら学校の攻撃をはじめた。そのあとから校友がつぎつぎと立ったが、学生たちはもう弁士の言葉なぞに耳を傾けてはいなかった。
「永井を出せ、永井を」。
 と怒号する声が場内の隅々から聞えたと思うと、入口にちかいところにかたまっていた聴衆の列の一角がくずれだした。
 岩橋勘山が楽屋からとびだしてきたときには、「革新団」と書いた高張提灯を、先頭にした学生の渦が、どよめくような唸りを立てて、山吹町の通りを右に、学校の方角に向って動きだしていた。その晩、政治家を代表する校友として、単身、早稲田劇場へ乗込んできた三木武吉から、岩橋は今夜だけは学生に不穏な行動がないようにということを繰返えし懇願されていた。三木は議会の内部に、天才的な野次で声名を保っている雄弁会出身の青年政治家だったが、彼は激昂した学生たちを支配する群集心理の動きを極端におそれていた。ことによると、彼等は大隈侯邸を襲撃するかも知れないし、そんな事態がもし発生したとすれば、万一を警戒して侯爵邸に待機している警官隊と正面衝突するようになることは当然の勢いであろう(当時の方面監察官であった正力松太郎は、予め形勢の動きに備えて、三百人の武装警官を侯爵邸内に張り込ませていた)
「老侯は今、病気なのだ、――これ以上心労をかけるに忍びぬ、岩橋君、僕は高田派を代表して来たんじゃない、個人的立場において君の情誼に訴えるのだ」。
 傲岸不屈をもって聞えている三木武吉は、頼む、といって岩橋の前へ頭を下げた。岩橋が自分の力の及ぶかぎり必ず尽力するといって別れてからまだ二時間あまりしか経っていなかった。
 しかし、今となっては、もはや防ぐべき道はない。辛うじて彼の出来ることは何処という目標を持たぬ学生の波が、大隈侯爵邸の前をしずかに素通りしてくれるようにと、先登に立った男たちを説得することだけである。そのとき、動きだした群衆の最初の列は鶴巻町の大通りへさしかかっていた。高張提灯が前へ前へと、右に左にぐらつきながら動きだしたと思うと、こんどはどこからか、大運動会のときに使う優勝旗が群衆の先頭に立った。その列だけが、狭い下戸塚の坂をのぼってゆく。ふかい樹立のかげから家々の灯かげが点々とうかんでいる。月のいい晩で、大気はもう水のようにつめたかった。月あかりに照らしだされた坂道にはもう秋の気配がみちみちている。西方現助はいつの間にか下戸塚の坂をのぼる列の中に加わっていた。どこへゆくのか見当もつかぬ。やがて前に動く群衆の歩調が少しずつゆるやかになったと思うと、先に立った優勝旗が小さな門の前でぴたりととまった。西方現助は群衆を押しわけるようにして前へ出ていった。そのとき、表の木戸があいて、彼の眼の前に着物を着た永井柳太郎の全身がうかびあがった。学生たちは門をはさんで狭い道の右と左にわかれた。誰も口をひらくものはなかった。永井は左手を帯のあいだにはさみ、心持ち肩を怒らすような恰好をしながら、興奮のさめたあとで、きょとんと眼を瞠っている学生の列を眺めた。張りのある、ひびきにみちた声が学生たちの頭をかすめて消えてゆく。「諸君の来訪を感謝する、もちろん私も諸君と行を共にすべきであるが、一生の恩誼を蒙る大隈老侯は今病床にあり、しかも病あつしと聞いて一切の言動を避けて蟄居している私の心事を諒解していただきたい」。
 早稲田劇場を出て、鶴巻町から下戸塚の坂をのぼるときは永井を詰問しようという考え方において彼等は一致していた。それが、自分から進んで門をひらいて出てきた永井の姿を見た瞬間、学生たちはたちまち、いつも講堂で彼の演説を聴くときの、爽やかな音楽に恍惚とするときのような満足感に堪能してしまった。彼等は永井の誠実と老侯を思う愛情を疑わなかった。
 学生たちは黙々として、左へつづく小路の方へ歩きだした。まったく冷静になりきったその列が馬場下の坂を下って、正門の方へ曲ろうとする四つ角にある蕎麦屋の前まで来たときには、人の数もまばらになり、一人ずつ別の方角を目ざして、うす暗い街の方へ消えていった。西方が正門の前まで来たときには、もはや二、三十人の学生が残っているきりだった。しかし、鶴巻町でわかれてすぐ学校へ乗込み、講堂を占領した一団は早稲田劇場を出るときから持ちつづけている興奮に駆りたてられながら、ぎっしり講堂を埋めていた。そこでは主催者のない演説会がひらかれ、天野派の校友や学生たちが、誰に指名されるわけでもなく、一人が終ると一人が立つというふうに、勝手に演壇にのぼっていった。そこへ、騒擾以来、一ぺんも顔を見せたことのない天野博士邸を訪問した武断派の一党が、校歌をうたいながら乗込んでくると、講堂の中はふたたび湧きたつような活気を呈してきた。
 学生の列が正門に雪崩れ込むとすぐ、事務室に残っていた職員たちは一人残らず大隈侯邸に難を避けた。玉突屋の二階に陣どっていた革新団の事務所はその晩のうちに学校の事務室に移され、学校は完全に占領された。
 各社の新聞記者が、まもなく、ぞろぞろと事務室へ入ってきた。片隅のテーブルの上には酒のびんがならび、彼等は茶碗についだ冷酒をぐいぐいと呷った。もう、そろそろ一時を過ぎる時間だったが、新聞記者たちは、つぎつぎと入ってくる情報を待つために動こうとしなかった。岩橋を中心とする革新団の首脳部は講堂の真下にある会議室にあつまり、今後の方策について協議をかさねていたが、そこへ校友の一人が入ってきて、学校側が嘆願したために警視庁は家宅侵入罪として強行処断を行う準備にとりかかっているということをつたえた。
「集合!」。
 と叫ぶ声が校庭の片隅から聞え、剣道部の森高が熟柿臭い酒気を吐きながら講堂へ入ってきた。聴衆席には、まだその場を立ち去りかねている二百人あまりの学生が残っていた。加藤清が演壇に立ち、感激に声をふるわせながら彼の心境を説明していた。こんなに早く、バタバタと彼等の勝利の日が出現しようとは夢にも思わなかったであろう。
「私がどんな思いで今夜の喜びに接する日を待っていたか、ああ諸君、天は正義に味方する、天野博士がいかなる思いで今日までの苦艱を忍んで来られたか、私は今や言うべき言葉もない」。
 しかし、感激にむせんでいるのは加藤ひとりだけで、聴衆はほとんど彼の言葉を聴いてはいなかった。彼等はただ、だしぬけに出現したこのような一夜を茫然として過しているだけである。生理的な若さが、このような途方もない時間を、少しでも長く持ちこたえようという気持を駆りたてるのだ。まだ何かが起るぞという期待だけが彼等の好奇心をゆすぶりうごかすのである。加藤の演説の終らぬうちに森高は手をあげて聴衆に呼びかけた。
「剣道部員は一人残らず道場にあつまって下さい」。
 彼等の先輩である憲政会の代議士、三木武吉が本所深川の暴徒三千人をひきつれて学校を奪還するために押寄せてくるというのである。三千人といえば一個聯隊にあまる兵力であろう。それをせいぜい二十人や三十人の剣道部員の力で防ぎとめることのできる筈はない。
「一体、その情報はどこから入ったのだ?」。
 事件の勃発当時から革新団につめかけ、個人的感情においては天野派の味方であった「中外商業」の小田島が事務室に残っている新聞記者たちを前にして、ふふんとせせら笑うような微笑をうかべた。「バカも休み休み言えよ、そんな大人数が行進してくるのを警察がほったらかしておく法はないじゃないか」。
 しかし、彼といえども、この大ニュースをみすみす一蹴し去るわけにはゆかなかった。「三木武吉が深川の暴徒をあつめてやってくるというだけでいい、――ところで、どうなったんだい、家宅侵入罪の方は?」。
 東山が血色のいい顔をしてはいってきた。「御報告します、校友、野間五造氏を介して正力方面監察官に会見を申込んだところが、実にこころよく会ってくれました。警視庁の態度は慎重を極めています、学内の問題に警察権を行使すべきではないという意見なのです、唯、希望としては速やかに学校当局と連繋した上で解決の方法をとってもらいたいということでした、それで、すぐ大隈侯爵邸に出かけたのですが門をとざして交渉に応じようとしないのです、実に不誠意極まる」。
 卓上電話のベルは絶え間なしに鳴りつづけていた。剣道場には電灯が輝き、面、胴をつけ、竹刀を持った学生がぞろぞろと出てきた。正門と裏門の扉はかたく閉じられ、武装した彼等はふた組にわかれて校内の警戒に当った。一夜はみるみるうちに明けていったが、三千人の暴徒はついに姿をあらわさなかった。
 大隈侯邸に移った学校当局は、革新団からの再三の交渉にも応じようとしなかった。病床に横臥したまま、新任理事からの報告を聴いていた大隈は、善後処理についての生半可な意見などに耳を傾けてはいなかった。
「事態の拾収に自信が持てないようだったら廃校にするがいい、――おれの手でつくった早稲田大学だ、おれが廃校にするのに誰れも文句をいうやつはあるまい」。
 窪み落ちた彼の眼にはいつものような底光りがなく、げっそりと痩せおとろえた頬の蒼黒く、くすんでいるのが見るからに痛ましかった。





底本:「早稲田大学」岩波現代文庫、岩波書店
   2015(平成27)年1月16日第1刷発行
底本の親本:「早稻田大學」文藝春秋新社
   1953(昭和28)年10月20日発行
初出:「早稻田大學」文藝春秋新社
   1953(昭和28)年10月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:フクポー
校正:孝奈花
2023年8月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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