一、私は少年時代から大隈重信が好きである。彼に取材する歴史的小説を書くことは、この数年来の計画の一つであり、「早稲田大学」は、その重要な骨骼を示すべきものである。昭和二十七年十月、早稲田大学創立七十周年にあたり、この作品の完成がこれと軌を一にしたことは、作者の
一、「学校騒動」は「早稲田大学」に随従して成った作品であるが、大正六年に発生したこの騒擾には作者もまた一学生として関与しているので、これを歴史的事件として取扱うためには取材に伴う環境がなまなましすぎた。登場人物が実名と仮名と別々になっている。最初はすべてを実名によって統一したが、小説として虚構された部分もあり、それが現存の人物に迷惑を及ぼすことを避けようとする意図のためである。しかし、それがために事実の解釈に作者の意識を加えたということはない。鹿を追う猟師山を見ず、という言葉があるが、私は当時まだ二十歳になったときで、子供の世界から、やっと足を踏みだしたばかりである。一介の乳臭児に複雑にして表裏
一、「大隈重信」を「早稲田大学」と改題したのは、文藝春秋編輯長車谷君の要請に応じた結果である。私としてはどっちでもいいが、自分の立場からいえば「大隈重信」の方がぴったりする。それに、「早稲田大学」というと、私が現代の早大出身の文学者を代表して母校の歴史を描くがごとき観を呈してくるが、私にそのような意図の微塵もないことは明白であり、もし、そう考える人間があるとしたら滑稽至極である。私は、ある意味において早稲田の反逆児であり、在学三年にして除籍された。言わば早大出身の不良学生である。現在は校友のはしくれに名を列しているが、往事を回想すれば一種妙な気持でもある。これを特に大書したいのは読者諸君のあいだに万が一、私が早大出身の秀才であったというがごとき誤解の発生することを防ぐとともに、早大出身の文学者並びに文学志願者を安心させたいためでもある。私は私の「早稲田大学」を書くのであるから諸君は諸君の「早稲田大学」を書いたらよろしい。私が政治経済科の出身で文科出身でないことも
一、「風蕭々」は、「早稲田大学」の後半にある霞ヶ関事件に取材した作品である。これは刺客、来島恒喜の立場から執筆したもので、これは頭山満翁在世中、玄洋社故老一致して、あらゆる素材を提供され、これがために私は福岡を数回訪れて、史実の正確を期した。
昭和二十八年十月
著者