早稲田大学

尾崎士郎





 新秋の一日、――私は大隈おおくま会館の庭園の中を歩いていた。午後の空が曇っているせいか、手入れの行きとどいた庭園でありながら、何となく荒廃したかんじが視野の中にあふれている。昔は樹立のふかい、雅趣のゆたかな庭であった。時代とともに錆びついた色彩が、チラチラと記憶の底からよみがえってくるだけに、今はあとかたもなく変りはてた、がらんどうの広場をゆびさしながら、此処が昔は落葉に埋もれたほそい道で、老侯爵は毎日必ず食後の散歩をされるのが習慣になっていました、――と、自信にみちた調子で語りつづけるN氏の声から、私は何の印象をさぐりあてることもできなかった。
 戦災で焼け落ちたあとに、「大隈会館」と呼ばれている、あたらしくつくられた集会所式の建築が、私の記憶の中に残る古色蒼然たる庭園の風致と調和していないためでもあった。
 昔は底の知れぬほど宏大であると思った庭が、これほど小じんまりとした寸の詰った地域に限られていることにさえ私は先ず驚愕の眼をみはった。まだ季節は九月も半ばをすぎたばかりで風のつよい日であったが残暑はしっとりと大気の底にねばりついている。雲は低く垂れさがってはいたけれども、しかし新秋の爽かさは、ときどき、しいんと身うちに迫るようであった。庭園の周囲にあった杉の並木も、ことごとく戦災のために枯れつくして、昔ながらの形をとどめている樹木なぞは一本も残ってはいないというのだから、荒廃のかぎりをつくしたものらしい。その焼あとの中から、これだけの原形をさぐりだすことさえ容易な仕事ではなかったかも知れぬ。
 その日の午後、私は新橋駅から自動車を走らせ、正門前らしいところで車をとめると、すぐ本部に、あらかじめ打合せのしてあったN氏を訪ねた。N氏は三十年前、私の在学時代の先輩である。私はN氏の案内で、正午すぎのひとときを、足にまかせて校庭の内部を彷徨さまよい歩いた。歩きながら私の心はたちまち幻怪な思いに打ちのめされた。私の記憶の底に三十年間いつも同じかたちで夢のようにたたみこまれている学校のすがたは、もはや影さえも残してはいない。私は数年前、久しぶりで矢来坂上にあるS出版社を訪れ、その帰りみちに何の計画もなしに、わざわざ自動車を遠廻りさせて学校の前を通りすぎたことがある。季節はちょうど今と同じ九月であったが、おそらく懐旧やる方なしという思いに唆られたものであろう。正門の前に自動車を待たせ、ふらふらと校庭の中へ足を踏み入れたとたんに、私は奇妙な光景にぶつかった。三十年間、母校の校庭を歩いたことのない私にはもはやどこに何があるのか見当のつくべき筈もなかった。門を入ったときから何かただならぬ気配をかんじていたが、正面の教室らしい大建築の正面に演壇が設けられ、小柄な一人の学生が何かわめくような声で叫んでいた。
 その前には「レツド・パーヂ反対」と大書したプラカードを持った学生が列を組んでならんでいた。学生の数は多く見つもっても二百人か三百人程度と思われたが、この一団の学生の周囲に、雑然と入りみだれた群集(もちろん彼等も学生であったが)が立っていた。正面に整列している学生の一隊と彼等をとりかこんでいる雑然たる群集とのあいだには、一見しただけで、ぬきさしのならぬ感情の距離があり、ひた向きな正面の一隊とくらべると群集の表情はほとんど無感動といってもいいほど低徊的であった。
 演壇に立っている指導者らしい男の声は私の耳にはよく聴きとれなかったが、一段落つくごとにプラカードがうごき、それにぴったりと調子を合せたように、整列している学生の列から、わあっと嵐のような叫び声が起った。私は群集の列を押し分けるようにして前へ出ていった。演壇の両側には、生徒監ともつかず、教授ともつかぬ中年の背広服を着た紳士が立っている。近づくにつれて、彼等の顔には、この殺気立った空気と結びつくことのできないような、冷たくこちんとした感情が翳のように沁みついていることがハッキリわかった。演壇に立って、煽動演説をやっている男は、自分の声に響きのないことがもどかしくてたまらないらしく、絶えず上体をはげしくゆすぶりながら、しきりに声を張りあげようとしているが、しかしいくらあせっても彼の声は中途でかすれてしまう。私は片手で頭をおさえながら、じっと彼の声に耳を澄ました。
「諸君、学校は学生の学校である、学生は自由に教室に出入りする権利がある、その教室の使用を禁ずるとは何事であるか、――われわれはこの横暴なる学校当局に対して」
 そこまで聞いたとき、私は妙な気恥かしさのために、われ知らず胸がきゅうんと締めつけられた。妙な、――というのは、この青年の声の中に三十年前の自分の姿をぼうっと思いうかべたからである。しかし、今、私の前で広場の正面に列をつくり、スクラムを組んであたかも組織された軍隊のように整然と隊伍を整えている学生の表情は一定の法則を保って硬化してしまっているように見える。私の耳に聞えた言葉は三十年前とほとんどかわるところのない響きをもつ同じ言葉であったにしても、しかし、この雰囲気はあまりにも冷たく陰惨であった。彼等の集団の上にうかびあがった表情の中には、もはや三十年前の学生生活をいろどる底のぬけた明るさもなければ、無際限にひろがってゆく青春の、野放図な動きさえもない。むしろ、一種の律儀といってもいいほど小さなわくの中にとじこめられた感情の神経的な動きを見るだけである。立っているうちに次第に切なく、味気ない思いにうちのめされてゆく私のうしろから、そのときだしぬけに異様などよめきが起った。慌てて振りかえってみると、ひとりの背広服の男が数人の学生に両腕をおさえられて、ぐいぐいと力まかせにひきずられながら、前へ前へとおし出されてゆくところなのである。
 ああ、そこにも三十年前の情景が同じ翳をうかべている。今まで黙々として傍観していた群集は急に活気づいたように動きだした。背広服の男はおそらく学生に偽装した刑事なのであろうか。すると、演壇に立っていた指導者らしい男が、またしても咽喉からしぼりだすようなしわがれた声で何か叫んだと思うと、正面に陣どっていた一隊が、スクラムを組んだまま前へ進んでゆく。
 私はもはや、そこに居たたまれない気持ちで自動車を待たせてある正門の方へ引っかえした。
 一瞬にして消え去った情景ではあったが、私が眼のあたり見たものは、伸びやかな夢を孕む学生生活が自然にかもしだす「青春の場」へ、何の遠慮もなく土足で踏み込んでくる陰鬱な政治の足音である。夢と香りにみちた若さのひとときを根こそぎに奪い去ってゆく、骨組のがっちりとした大人の表情である。私は時の変化をこれほど心に沁みてかんじたことはなかった。
 私はともすればチグハグになる自分の感情を、一つの方向にねじ向けたまま、N氏の案内で校庭の中を足にまかせて歩きながら、今や私の記憶の外へ完全にはみだしてしまっている宏壮な建築を眩しい思いで仰ぎ見るのである。
 輪奐りんかんの美、――というほどではないにしても、これが私の若き日をすごした学校だとはどうしても考えることのできないほど、今日の「早稲田大学」は堂々たる外観を備えて聳えている。私は、母校という感情につながる、さまざまな色彩や形や、きらめくような思い出とはまったく縁もゆかりもなくなってしまっているような、遠いところへ来てしまったという感懐にうたれた。
 変っていないのは私の上級生だったN氏の顔だけで、どの建築にも見おぼえのある筈はなく、擦れちがう学生たちの、精彩にみちた若々しい顔にぶつかると私はどきっとして胸をときめかすのである。どの顔にも彼等の表情をかすめる、あたらしい時代の翳が、何の淀みもなくくっきりとうかびあがっている。どこを歩いても私にとっては結局同じことであった。私の記憶では正門を入るとすぐ左側に青いペンキの剥げ落ちた木造二階建の講堂があり、その横に田舎の中学校の雨天体操場を思わせるトタン屋根の学生控所があった。教室という教室は木造の二階建で、唯一つ、小高い丘の上から赤い煉瓦のあたらしい色を湛えて嶄然とうかびあがっていた恩賜館の建築も、今はどこにあるのか見当もつかぬ始末である。
 その頃は正門から少しはなれて高等予科の門があり、その門が小さい通路をへだてて鶴巻町の一角を領有している大隈侯爵邸と向いあっていた。
「ほら、――此処から真正面に見えるホールの入口のところに大きな石が見えるでしょう」
 庭園の奥にある、小さい流れの前へ来たところでN氏が立ちどまった。「あそこが、大書院のあったところで、昔ながらの原形をとどめているのは、あの沓脱ぎ石だけです」
 N氏は、きょとんと眼を瞠っている私を振りかえった。あのへんが侯爵夫妻の寝室で、こっちが、応接室のあったところです、とそれらしい地点をゆびさしながら、一つ一つ丁寧に説明するN氏の声を私は虚ろな思いで聴きながしたまま、ゆるやかな曲折を描く小川の水面に視線をおとした。底がすけて見えるほど浅い流れに雲のかげが映っている。
 その流れの音に、じっと身を澄ましていると、夢のごとくに過ぎた三十年前の思い出が私の心に湧くようにひろがってくる。今は校庭のどのあたりになるか方角さえもわからなくなっているが、昔は正門を入ると、すぐ突きあたりに、大きく傾斜面をひろげた芝生があり、われ等の総長、大隈重信の銅像がその正面にあった。その情景を思い描くだけでも、なつかしさに心のひきしまる思いであるが、始業式と卒業式の祭典の開かれるのはこの芝生の広場で、ざわめきたつ全校の学生がそれぞれの位置に整列している左手の通路を、杖を片手に、びっこを曳きながら、ゆるゆるとのぼってくる大隈老侯の姿ほど、世にはなやかであり、荘厳であり、英雄的な感銘をあたえるものはなかった。
 振鈴が鳴りわたると、今まで、がやがやと騒いでいた学生の列が急にしいんと鳴りをしずめる。今、思いだしただけでも胸がおののき、両足がふるえるようだ。式帽であるツバのない菱形の制帽を心持ち斜めにかむり、真紅のガウンを羽織った老侯のあとから、高田早苗、天野為之、坪内雄蔵の三長老が同じ恰好で悠々と通路をのぼってくるときの壮観は文化の粋を誇るといっても嘘ではあるまい。これにつづく、田中穂積、塩沢昌貞、金子馬治、等々の教授が、つぎつぎに壇上に席を占めると、やがて、老侯がゆったりと立ちあがる。彼の身のこなし方から発声法まで大きくふくよかな親和力にみちあふれて、自然にかもしだされるユーモアが、みるみるうちに若い学生たちの感情を和やかな雰囲気の中へたたみこんでしまう。彼こそは人生の達人というべきであった。私が大隈重信をはじめて見たのは私の中学時代、――それもたしか二年か三年の頃であったから、年代的に言えば彼が長い失意の時代を経て、ふたたび総理大臣たるべき偶然の機運に恵まれた直前であった。そろそろ八十にちかい頃だったと思う。民間の一布衣として全国遊説の途にのぼっていた彼が、私の中学のあった岡崎へ立ち寄ったときである。そのとき、駅から岡崎の市街まで鉄道馬車が通じていたが、全市(当時はまだ岡崎町であった)は、この維新の元勲を迎えようとする人波によってごった返していた。私たちが駅の前に整列していると、汽車が着いて、従者の肩に両腋を支えられながら、ゆったりとした足どりでプラットホームを歩いてきた。この老人の姿は今でもありありと私の眼先きにちらつくようである。その頃、岡崎の町に、はじめて一台だけ出来たゴム輪の人力車が彼を乗せて私たちの前をすべってゆくとき、俥の上に上体を反りかえるようにして乗っていた老政客は軽く右手をあげ、山高帽子のふちをおさえて宙に浮かせるような恰好をしながら、いかにも満足したらしい微笑をうかべた。そのときの、若々しく屈托のないかんじにくらべると、大正六年、私が高等予科に入学したとき、始業式に臨んだ彼の姿にはすでに老衰の色が濃く、辛うじて壇の上に自分の身体を支えているというかんじが、彼自身、私たちを失望させまいと努力しているだけにひとしお痛々しい思いをふかめた。態度と物腰だけは、いかにも昔のとおりであるが、身体全体からうける印象にはすでに精彩が失われていた。
 彼の言葉は非常に低く、最初のうちはほとんど聴きとれなかったが、しかし学生たちにとっても彼のしゃべってる言葉の内容なぞはもはやどうでもよかった。当時の、彼に好意を寄せる新聞用語をもってすれば、この楽天的な大人物は、高遠の理想を一枚看板とする大風呂敷と呼ばれていた。高遠の理想というものは、まったく茫漠として、学問や思想をもってしては到底捕捉することのできるものではない。当時においてさえ、いかに考えても彼はすでに旧式の古典的人物であり、彼の識見と抱負に耳を傾けようとする学生はほとんど一人もいなかった。ただ、この大風呂敷の中へひとりでにまきこまれてゆく楽しさだけが、何の批判もなしに私たちの心へぐいぐいと迫ってくるのである。
 私は彼の右手が高く、ゆるやかな動きをみせて、あたかも舞台の上に立つ名優の所作のごとく、同じ位置を幾度いくたびとなく旋廻するのを見た。
 前の席を占めている学生のあいだから割れるような拍手が起った。その波がしずまるのをじっと眺めてから、彼は上体を前へ乗りだした。
「青年は勇気を持たねばならぬ。勇気は常に自由と独立の精神から生れる」。
 われ等の総長は、口をへの字なりにおしゆがめ、それからぐっと肩をそびやかした。
「諸君は知るであろう、――ワーテルローの一戦において、ナポレオンを一敗地にまみれしめたところの」
 ゆっくりゆっくりと、押しだすように出てくる言葉が、此処ここまできて急に途切れた。一瞬間、老侯爵は心持ち首を右にかたむけ、二、三度同じような素振りで芝生をうずめる学生の列を見わたしたと思うと、急に、くるりとうしろを振りかえった。誰れの眼にも、彼のそうするのがいかにも自然であると思われるほど、落ちつきのある身のこなし方であった。
 一座は、たちまち水を打ったようにしいんとなった。
「浮田博士はおらぬか、――吾輩の政治顧問である浮田博士は?」
 その声には、彼が会衆を前に、身体を斜めにして叫んでいるにもかかわらず、彼の演説よりも大きく、つよいひびきがこもっていた。すると、華奢な身体つきをした、ほそおもてのフロックコートを着た初老の紳士が、演壇の左側に位置を占めている教授席のしの方から及び腰になって小刻みに老侯爵の前にちかづいてきた。政治史を担当する浮田和民うきたかずたみ博士である。われ等の総長は、かすかな微笑をうかべ、前かがみになっている博士と何かひそひそと話し合っている様子であったが、おそらく二人の会話はものの一分とはかからなかったであろう。われわれが、ハッと気がついたときには老侯爵は早くも以前の姿勢にかえっていた。彼は右手を高くあげた。
「その、ウエリントンである、ナポレオンをやぶったウエリントンが」。
 会場の隅々から湧き立つ拍手のあとから、どっと、あふれるばかりの哄笑が起った。そのあとから、また拍手が鳴りひびく。彼はウエリントンの名前をわすれていたのである。それを何の悪びれるところもなく、聴衆を前にして彼自ら信頼している政治顧問を呼んで訊きかえす態度の明るさが、何の凝滞も遅疑すらもない彼の演技を一層素晴らしいものにしてしまったのである。老侯爵はなお格調の正しい口調で、ゆっくりゆっくりとしゃべりつづけていたが、このとき学生たちの感激はほとんど絶頂に達していた。
「ウエリントンは万雷のごとき熱情をこめた拍手をもって彼を迎える大英国の民衆に向って言った。ワーテルローの勝利は自分一個の負うべき偶然の運命ではない、自由と独立の精神を体得して、余すところなき子弟の教育の然らしむるところである。――満堂の諸君よ、およそ青年たるべきものは野心と勇気を持たねばならぬ。ウエリントンは偶々たまたまナポレオンを相手とするワーテルローの戦場において彼の真髄を発揮したが、およそ高遠なる理想を行わんとする場所は人生の到るところにある、吾輩は諸君に向って何ものかになれなぞというケチなことは申さぬ、学生たるべき諸君は先ずおのれの心を屈して学問を修得すべきである。然る後に、諸君はひとたび校門を出ずるや、百里を往くものは百里、千里を往くものは千里、――諸君はいかなる外来の力に妨げられることなく思う存分の活動に任ずべきである。吾輩が早稲田大学を創造した動機も此処ここにあり、精神もまた此処にある。学者たるもよく、政治家たるもよく、あるいは商人たるもよく、天下の改革に任ずる国士たるもよく、諸君がいかなるところに能力を発揮するにしても、早稲田大学によって学び得た確固不抜の精神は必ずや諸君を天下の第一人者たらしむるであろう。これこそ独立自由の研究から得られたところのものであり、特定の政略や目的によって生じたものではない。およそ、思想や政策は人が変り時代が変れば必ずその形体は一変する。然るに学問の独立、自由の研究を根底とする学校の精神は、将来いかに時代が変化したところで断じて変るものではない。変らぬどころか、次第に進歩発達して絶対に退くことのないところのものである。すなわちわが早稲田大学は安全に堅固に、永久に存在することは火を看るよりもあきらかである。早いはなしが、今、吾輩が此処に立ってしゃべっている壇上のうしろには吾輩の銅像が立っている、――かかる場所に吾輩の銅像を立てられたことは校友諸君の絶大なる好意に基くものであるんである。これを吾輩一個人の光栄と名誉のためと考うるならば、まことに不徳不才、自らかえりみて慚愧のいたりに堪えざるところであるが、この銅像の中には、早稲田大学の前身である「東京専門学校」の創設にあたって、苦心惨憺、ついに血を吐いて倒れた小野梓おのあずさ君をはじめ、本日此処に列席されている高田早苗たかださなえ[#ルビの「たかださなえ」はママ]君、それから天野為之あまのためゆき君、坪内雄蔵つぼうちゆうぞう君たちによる異常なる努力と献身的精神が日本における新教育の基礎を築いたものであると信じている。その大精神、すなわち、ようやく形を整えた早稲田大学の学風と学問に対する校友諸君の忠実にして熱烈なる意志が、この銅像となってあらわれたと信じて、吾輩は喜び勇んでこれを受諾した次第である。もはや、ひとたびこの銅像が立った以上、何ものの力をもってしてもわが早稲田大学をつぶすことは出来ないであろう。考えようによっては、これは学校にとって一つの装飾であり、墓である。墓といえば不祥のようであるが、すなわち紀念物である。決して吾輩の徳を顕わすというわけのものではない。永久の紀念物である。吾輩は骨を銅像の下にうずめようという意志は一つもないが、この銅像の中には吾輩の精神が宿っている。わが早稲田大学も今後、時勢の変化に伴って学校の形態もおのずから変ってゆくであろう、しかし、この銅像の存するかぎり、われ等の理想は永遠であり不朽である。興廃浮沈は吾輩の関するところではない。――早稲田の学風を慕って来り学ばんとする青年の跡を絶たぬかぎり、学園の前途は洋々たる希望にみちみちているんである」。
 この日、老侯爵は特に上機嫌であったらしく、ふたたびうしろを振りかえって教授席にいた高田博士と視線がぶつかると、
「のう、高田君、坪内君、天野君」。
 と、ほがらかな微笑をうかべ、大きく無造作な態度で呼びかけると、嵐のような拍手が鳴りひびいた。


 早稲田大学の前身である東京専門学校の創立は、明治十五(一八八二)年十月であるから、大隈重信は数えて四十五歳であった。その頃から福沢諭吉と交遊の深かった彼が、当時、日本唯一の私学であった慶応義塾の経営に助力していたことも確かであるが、彼が進んであたらしい私学の創立を企てたのは、その前の年、伊藤博文、黒田清隆、山県有朋、井上馨等の薩長派から政府転覆の陰謀を策するものであるという理由の下に致命的な排撃をうけ、ついに参議の職を去らなければならない運命に陥ったことに端を発する。当時の政情と、これに伴う人間関係は複雑多岐にわたって、大隈排撃の根抵がどこにあったかということも一方的な解釈だけをもってしては容易に処理のつかないものがある。例えば北海道の利権払下の問題に対して黒田(清隆)の計画を全面的に否定したことと、それから大隈年来の主張である国会開設の意見があまりにも急激にすぎて、政府要路の綜合的認識と調和しなかったというようなことも、表面の理由ではあるが、必ずしも直接の動機ではない。むしろ彼等の感情を極度に悪化した根本の原因は、大隈参議が民間の改革派を代表する福沢諭吉と気脈を通じて、事ごとに政府部内の意見を混乱させ、それがために内閣の維持を危殆に瀕せしめようとしているという流言の作用したところにある。これがために大隈の失脚と同時に、慶応出身の官吏は一人残らず誰彼れの差別なく職を追われた。政府主脳部の感情は極度に激化してきたのである。
 民間の輿論は、しかし、このときほとんど大隈の支持に傾いていた。やっと四十を過ぎたばかりの、中年の闘志に燃え立つ大隈がこの屈辱的でもあれば、考えようによっては彼の政治的生命を断つにひとしい桂冠に甘んずべき道理もない。敢然として野に下った彼は、百歩を退いて育英の事業に身を挺しようとしたのではなく、むしろ彼の政治的理想を将来につなごうとする積極的な動機が期せずして「東京専門学校」という形をとってあらわれてきたのである。その頃、青年を愛する彼の周辺には多くの人材があつまっていた。小野梓、矢野文雄をはじめとして、鳩山和夫、犬養毅、尾崎行雄、砂川雄俊、高田早苗、中江篤介(兆民)等々の、むしろ一種の混沌雑然たる雰囲気の中に、次の時代を形成する精神的要素が彼を中心として動こうとする気配を示していた。
 私学の設立については彼がひと方ならぬ関心をもっていたことはもちろんであるが、しかし、「東京専門学校」は彼の参議辞職と同時に油然として湧きあがった反政府的空気の中から徐々に形を整えてきたのである。その首唱者は、彼にとって唯一の秘書であり参謀であり、同時にふところ刀である小野梓であった。
 小野は大隈の信頼をうけて会計検査官の位置についていたが、大隈と身命を共にして官途を去り、国会開設運動を強化することによって民間の空気を煽るために同志を糾合した。
 自分を窮地に陥れた薩長政府にひと泡吹かせてやろうという気持も大隈の胸の底に鳴りをしずめていたであろう。閑地についた彼は小野の献言によって、今まで彼とつながりのあったジャーナリストたちと一層緊密に結びつくと同時に、小野の紹介による有為の青年をことごとく彼の傘下にあつめた。
「報知新聞」の矢野文雄、毎日の沼間守一をはじめとして、新聞界の大元老である「朝野新聞」の成島柳北なるしまりゅうほくを中心とする革新的ジャーナリズムが次第に大隈の政治的意見に接近してくる頃には、小野の周囲には八方から有能な青年があつまってきた。その中心分子が期せずして東京大学の学生であったことはもっとも革新的な空気が此処に横溢していたからである。高田早苗、坪内雄蔵、市島謙吉、天野為之、岡山兼吉、山田一郎、等々の学生が、文科と言わず法科と言わず、ほとんど共通して政治的な革新思想の持主であったことは、上下を通じて政治一色に塗りつぶされた時代的空気の然らしむるところである。
 その頃、雉子橋きじはし(現在の九段坂下)にあった大隈邸の、中庭を前にする十畳の応接室は朝から訪客でごったかえしていた。畳の上に敷いた絨氈の上に、片隅のテーブルの上のランプからあかるい灯かげが流れ、夜更くるまで若やいだ声が低い天井に鳴りひびいているのも珍らしいことではない。その沸ぎりたつ空気の中へ、結城紬の袷を着ながしのまま痩躯鶴のような成島柳北が、一杯機嫌で蹌踉そうろうとしてあらわれてくることもあった。
 こういう雰囲気の高まるにつれて、自由と独立を標榜する東京専門学校の設立はいよいよ急速に実現する手筈が整った。大隈は彼の世襲財産と目すべきものをことごとく金に代えて、その頃彼の、ささやかな別荘のあった西北の郡部、早稲田村にあたらしく土地を買って、丘陵をうしろに控えた田園の一隅、茶畑の中に、建坪八十坪あまりの、木造二階建の本校舎と講堂、これに隣接する小さな寄宿舎をつくった。大隈別邸は、校舎の門から傾斜を描いて左右にひろがっている茗荷畑をへだてて新設の講堂と向いあっている。
 校舎が完成して、開校式のひらかれたのは十月二十一日であるが、その二、三ヶ月前から全国に趣意書を配布して大々的な学生募集を行った。
 趣意書の内容は一応型どおりの、模範国民の養成からはじまって、「学理と応用、研究と実践、理想と常識とを兼備したる良国民を陶冶することを目的とするにあり」――というところに眼目がおかれていたが、独立自由の学風をもって官学の固陋なる教育方針に対抗する、というような文句が特にうきあがって見えたのも、一方において、板垣(退助)の自由党に対し、大隈を主班とする立憲改進党が発足して、いやが上にも国民の政治熱を煽っていた頃であってみれば、時の内閣が「東京専門学校」を大隈による政府攻撃の一翼であると考えたのも理由のないことではなかった。
 開校式のひらかれた当時の校長は大隈と前夫人とのあいだに生れたひとり娘、玖磨子の養子英麿ひでまろであったが、実質的に学校の経営一切を担当していたのは小野梓である。
 その開校式の席上で、来賓として出席した人たちの挨拶の中には、内閣の文教方針と、言論自由を抑圧しようとする態度を非難するものが多く、当時のジャーナリストを代表して登壇した成島柳北は卓をたたいて藩閥政府の非を鳴らした。「私が東京専門学校に望むところは権力に屈して一身の安泰をはかろうとする当世才子の出現ではなくて、真に国民を永世に利するの士のあらわれることである。施政の要務を知って民間の精神を代表するものもこの学校から出るであろう。自治の大本に基いて改新の勢力をさかんならしむるの士も、この空気の中から生れるに相違ない。しかし、私のもっとも望んで止まざるところは、おのれの信ずるところを堂々と行い、権勢を恃んで民心をおさえ、天下の政治を壟断しようとする卑劣頑陋の小人に一撃を喰わし、これを悔悟反省せしむる人物の出現である」。
 維新当時、幕府の陸軍奉行であった「柳橋新誌」の作者である老いたるジャーナリスト、柳北の語る言葉は、ほそくかすれてはいたけれども、しかし聴くものの肺腑をえぐるようなつよい響きがこもっていた。
 募集に応じて入校した学生はわずかに八十人、教師は高田、坪内、天野を中心として七人に過ぎなかったが、今まで森と田圃にかこまれ、夜は雁が渡り、狐や狸が出没するといわれたこの片田舎に、忽然として新校舎が出来、肩を怒らした青年学徒の横行濶歩する姿が東京市民の耳目を聳動したことは明かである。
 私(作者)の知るかぎりにおいて、大正初年から十年ちかくまで、学校の裏門から戸塚の通りへ出て、山吹の里にちかい源兵衛町の方へ下ってゆくと、戸山ヶ原につづく武蔵野の原形が残っていた。江戸川の上流を挟む地域は眼もはるかな田圃で、ところどころに森があり、雑木林があった。目白の学習院へゆくまでの高原の道には家らしい家もなく、右に山県有朋の住む椿山荘の、三万坪にあまる広大な庭園は深い繁みに掩われて、しいんとしずまりかえり、歩きながら雉子や山鳥の声を聞くことも一再ならずであった。
 当時の早稲田は校舎の二階からの眺望はことごとく田園の風景で、神楽坂へ出るまで人家はほとんどなく、通路といえば穴八幡へ通ずる馬場下の道よりほかになかったらしい。今は繁華な街に変っている高田の馬場も、雑木のふかい高原であった。落葉を踏んで歩かねばならないようなほそい道で、人力車の通ることさえ容易ではなかったと言われている。
 この田圃の一角が埋ずめられて、次第に新開地の様相を呈してきたのは、開校式のあった翌年、大隈が雉子橋の邸宅をひきはらって早稲田に居をうつしてからである。その頃から大隈の楽天的な性格は学生たちの人気を博し、彼独特の大風呂敷によって次第に民間の情熱を大づかみに結集していった。最初の計画では、彼自ら総理となり、副総理に河野敏鎌を置き、小野梓を幹事長として、馬場辰猪ばばたつい箕浦勝人みのうらかつんど等をそれぞれ重要なポストに配置して改進党を組織し、更に党員の中から別の人材を抜擢して、新聞経営を行い、此処ここに一大宣伝力を発揮した上に、東京専門学校によって、後につづくべき新時代の基礎を築こうというつもりであったらしい。新聞は「報知新聞」を買収して、矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄等に一任し、東京専門学校だけは政党的立場から超越した学問の府たらしめるという理想の下に事を運ぶ予定だったが、しかし経営の主体が小野であり、彼の傘下にあつまる少壮政治家は自由に学校へ出入していたので、学生たちも学業の余暇には時事を論じ、政策を批判して、将来の大臣宰相を気どるという風潮は、外の空気が国会開設問題で湧きたっているだけに、政治科も文科も法科も、ことごとく政治的色彩を帯びてきたのは当然の帰結である。
 西南戦争からうけた打撃は、政府部内にもまだ生々しい傷痕を残しているときであったし、私学に対する警戒と、大隈の進退に疑惑の眼を向けていた政府の首脳者、特に大隈と親交のふかい伊藤(博文)と井上の意見は東京専門学校の存在を黙視することのできないという結論に到達した。警視庁に命じて内情を探索させ、場合によっては学校を閉鎖させるという準備が内密のうちに進められていたのも自然の成行である。その頃、高田早苗はシェクスピアの戯曲をテキストとして英文学の講座を受持ち、坪内雄蔵(逍遥)は憲法論を担当していた(これが逆になったのは早稲田大学と改称され、文科が新設されてからである)。坪内はこの頃から「春廼家おぼろ」という変名で、数種の政治小説を発表した。その発表機関が、改進党にもっとも縁のふかい「江湖新聞」や「東京絵入新聞」であったし、彼の僚友である高田も天野も市島も、一方では改進党に入党して政治活動をつづけていたので、文学によって立つ坪内もまた自ら進んで、彼の身辺に渦を巻く潮流に押し流されていった。
 大隈の理想は、保守、急進の二大政党を基盤とする立憲政治の実現であったが、板垣を中心として、ルソーの民約論を信条とする急進的立場をもつ自由党に対し、改進党は英国流の漸進主義(彼等はこれを秩序的進歩主義と呼んでいた)を綱領として発足したが、政治的立場において当然、保守党的役割に任ずべき改進党と自由党との差は紙一重のところにあった。その動きは東京専門学校にも微妙な影響を及ぼしてきた。
 しかし学校の設立を聴いて、全国からあつまってくる学生の数は次第に多くなり、彼等はおいを担って上京するというよりも、むしろ風雲を望んで駈けつけるというかんじの方がつよかった。それが政府部内の意見を一層強化する結果になってあらわれてきたのである。
 これはひとり東京専門学校だけではなく、官立の東京大学(後の帝大)をはじめ、当時私学の二大双璧ともいうべき慶応義塾と同志社においても学生が政治的認識をあきらかにして時代の改革に志したことは共通の現象であった。ひとり東京専門学校だけが眼の敵にされ、政府の圧迫によって、その存在が、しばしば危殆に瀕した根本の理由は、経営の主体が大隈であり、政府にとって一大敵国の観を呈しつつある改進党と表裏一体の関係をもつものという認識に基くものである。事実、民衆の眼には、もっとも急進的であるべき自由党が、いつの間にか藩閥政府に接近して、その与党のごとく映ってきたにもかかわらず、漸進主義の改進党が逆に藩閥政府打倒の標識を高くかかげ、純粋野党としての色彩を濃厚にしてきたことは皮肉な現象であった。
 学校の内部には学生を偽装した刑事が忍び込むようになったのもその頃である。政府はこのときすでに民間の反政府的な政治結社に弾圧を加えるとともに、学生の政治的集会を禁止していた。それ故、命令をうけて忍びこんでいた刑事たちは、それが教室の中であろうと校外の草原の上であろうといささかも容赦しなかった。
 誰も彼れも木綿の紋付に、よれよれの小倉袴という風体である。高田教授のシェクスピアの時間で――その日は「マクベス」の講義が終って、教授の姿が扉のそとへ去ると、一人の学生が矢庭に教壇の上へ立ちあがった。
「諸君、――国会開設は今や目睫もくしょうの間に迫りつつある、いやしくも日本国民として生をうけているかぎり学生といえども、われ等はこの国家の大問題を等閑視するわけにはゆかぬ」。
 ヒヤ、ヒヤ、という叫びが起った。
「然るに、政府は当然民間の情熱を代弁して立つべき自由党を買収して、藩閥政府の命脈を保たんがために卑劣な工作を暗黙のうちにつづけている」。
 彼は右手を高く宙にふりあげた。「そればかりではない、地方の官吏に命じてわが東京専門学校に入学を志す青年士弟に暴圧を加え、公職を濫用して学校を誹謗し、これに反対するものは理由なくしてこれを留置して憚らぬという態度を示しつつある、諸君、われ等はこれを黙視して権力に屈服することに甘んずることが出来るかどうか!」。
 ドカンとテーブルをたたいて、ぐっとうしろへ反りかえった(彼等が演壇に立つときは判で押したように大隈の演説口調が沁みついていた)
 ゆるがすような拍手が起って、その男が降壇すると学生たちはつぎつぎと演壇の上へあらわれた。こういう情景は毎日のようにくりかえされている。やっとひと騒ぎすんで、学生たちがどやどやと教室の外へ雪崩れるように出てゆこうとしたとき、同じ恰好をしたもう一人の男がひょいと横合いから出てきて最初に演壇に立った学生の肩をおさえた。
「君、ちょっと話があるんだが」。
「何じゃい?」。
「今の問題なんだがね、――まア、ゆっくり話そう、そこへ腰かけてくれたまえ」。
 その学生をかこんで二、三人の同じ恰好の男が、彼の腰かけた机をとりかこんだ。
「つまり、さっきの、政府が学校に弾圧を加えているという話なんだが、それを誰から聞いたか、ハッキリ言ってくれたまえ」。
 冷たく光る眼の色であった。学生の扮装を脱ぎすて職業的な刑事に立ちかえったその男の顔にはかすかな妥協もゆるさぬような威厳がこもっている。しまった、と思ったときはもうおそい。二、三回問答をしたあとで、その学生は三人の刑事にかこまれたまま引き立てられるように学校の門を出ていった。これがキッカケとなって同じような事件がつぎつぎと起った。神楽坂下の縄のれんで、一杯やりながら、時事を談じていた学生の一人がとなりのテーブルにいた仲間の学生から矢庭に片腕をおさえられ、そのまま外へつれだされたこともあった。誰れが学生で誰れが刑事であるかわからぬような不安は刻々に増大してきた。外から迫る不穏な空気が次第に切迫するにつれて学生たちの感情も激化し、事前に教室へまぎれこんできた密偵を発見してこれを校庭にひきずりだし袋だたきにしたことも二度や三度ではなかった。この噂がつたわると、今に東京専門学校は廃校の憂目に遭うであろうというまことしやかな流言が撒きちらされた。政府はあらゆる手段を講じて陰に陽に学校の経営を妨害した。銀行に命じて貸出を禁止し、経済の面から糧道を絶って自発的に廃校させるという深刻な計画を立てた。とはいえ、日に日に民間に[#「民間に」は底本では「民間の」]勢力を扶植してくる改進党と大隈自身の動きを無視して、断乎たる処置をとるだけの勇気はなかった。それがために眼に見えない圧迫はますます険悪化して、官立学校に教職を奉ずるものは東京専門学校に関係してはならぬという内訓を発すると同時に、今度は逆に学校の内部に働きかけ、利権によって教授陣の崩壊を企てようとした。――ようやく日の眼を見たばかりの東京専門学校の前途に危機は刻々に迫ってきたのである。


 最初八十人だった学生が、その翌年には倍数になった。それから臨時募集をするごとに学生の数は加速度にふえてきた。止むなく校舎を増築することになったが、工事の進行中、銀行が貸出を禁止したので、学校はその月から教師や事務員の俸給を支払うことさえ出来ないような状態になってきた。
 大隈も、学校というものが、眼に見えないような設備のために、これほど金のかかるものだということは今まで予想もしなかったらしい。ほとんどその財力を改進党と新聞の経営にそそぎ入れていた彼にはもはや辛うじて自分の生活を支えることだけが精いっぱいで、それ以外の余裕はなかった。当時の会計記録によると、学生の月謝が一円で、専任教師の最高額が三十円、あとは十円もしくは五円の小額に過ぎず、その俸給さえも停滞しがちであったところへ、突然銀行から融資の道を失ったので、支払は一ト月二タ月とおくれ、教師たちの中にはたちまち生活に窮するものもあり、独身の教師は大隈の邸内に起居して自炊生活をしながら教壇に立つという悲境に陥ったが、しかし、それにもかかわらず学校の内部は日を逐うて充実してきた。学生はすでに三百を越え、教師の数も開校当時とくらべると倍数にのぼっている。それに外部から応援する講師たちの中にはこの窮状を耳にして無報酬でいいからと進んで申入れをするものもあった。三宅雄二郎(雪嶺)、志賀重昂等も政党政派の立場をはなれて学校の支持のために乗りだしてきた。
 小野梓はこの経営難を突破するために、ほとんど日夜、不眠不休で駆けまわり、私的関係の借財を重ねて、ようやく一ト月一ト月を過していたが、その日ぐらしのゴマ化しの永続すべき筈もなかった。ついに大隈の提案で彼の旧藩主、鍋島侯爵にたよって金融の道をひらく決心をしたけれども、そのことを探知した政府は、すぐさま鍋島家へ非公式の使者を送り、宮内省の名義をもって、反政府的な言動を逞うしている大隈に融資するがごときことは聖上への聞えも悪く、鍋島家の将来に一大禍根を残すであろう、――という内意をつたえた。事実、大隈は上位の参議でありながら明治大帝の信任はなはだうすく、剛腹をもって聞えた彼が、伊藤、井上を相手に一戦を試みることさえもなく、進んで百歩をしりぞいて野に下ったのも、彼等の決意が暗に宮廷の感情によってかたちづくられたものであることを知っていたからである。
 結局、経営の任にあたるものが小野を中心に幾度いくたびとなく協議した挙句、一円の月謝を八十銭増額して校費の補給にあてることになったが、この計画の実行がいかに勇断を必要としたかということは、その頃、官立大学をはじめ、およそ何にかぎらず、専門学校と名づくべきものの月謝は一円が通り相場であって、これに八十銭を増額することは、まったく類例のないことであった。それ故、当然学生の反対があり、思いがけぬ紛乱の生ずることを覚悟しなければならぬ。それでなくてさえ、平地に波瀾の生ずることを期待している学生たちが、これをキッカケに騒ぎ立てようとする兆候を認めた彼等の苦心は尋常一様のものではなかった。小野も高田も市島も三日三晩、反対の気勢をあげている学生たちを説き伏せるために駈けずり廻った。ようやく事無きを得たものの、早くも三百名を越えた学生を収容する学校の運営には、なお他に工作をめぐらして資力を獲得しなければならぬ。
 小野の苦衷を察した大隈は、思いあまって、その頃、残忍非道の高利貸として知られていた横浜の平沼専蔵から金一千円を借りて、やっと窮途に備えることができた。利子は毎年二回払込むことになっていたので、幹事、市島謙吉が大隈の代理として期日の迫るごとに利子を持って横浜に通うのが常例とされていた。しかし、大隈に心酔していた平沼は期日が来ても格別催促をするようなこともなく、市島が行くごとに、座敷へあげて彼を激励した。元金の一千円も彼は最初から返してもらう気はなく、数年の後、学校へ寄附してしまった。これが東京専門学校寄附金の最初であると言われている。このような曲折にみちた激しい時代的環境の中で、ともかくも東京専門学校がそれも唯、存在を保ったというだけではなく、年毎に発展していったということは、今から考えると、あまりにも不思議な出来事である。
 第一回の卒業式がひらかれたのは明治十七(一八八四)年七月で、政治科は四人、法律科は八人、総長大隈重信の名義によって、それぞれ得業生の証書が授与された。卒業式場は、ようやく竣工したばかりの新講堂である。青葉をゆるがして窓から吹き入る風はすがすがしく、講壇をはさんで左に評議員、右に教授の席が設けられたが、しかし、その日、当然式辞を述ぶるべき筈の小野梓は見るかげもなく憔悴して、椅子に自体を支えていることさえ容易ではなかった。絶えず軽い咳をつづけながらハンカチで口をおさえている姿が、列席の人たちの眼に切なく物哀れな印象をあたえた。学校の経営に奔走して心しずかに休息する日もなかった彼は、同じ年の五月、条約改正問題が起ると、これに反対して「条約改正論」を執筆し、一世の輿論を喚起しようとしている最中、宿痾の肺を犯されて喀血し、病床に就いたまま、動くことのできない身の上になってしまった。卒業式の式典に彼が病を冒して出席したのは、半生の努力を傾けた成果のあとを、せめて眼のあたり眺めようという念願からであったろう。しかし、その日帰宅して床に伏すと、彼はまたもや喀血したが、その気魄にはいささかの衰えもなく、闘病生活を重ねながら三年にわたる彼の講義の大集成ともいうべき「国憲汎論」の校正を終って、その巻頭に掲出するための題言の代りに一首の歌を書き残した。

逢ひ見んと契ることばのなかりせばかばかりふかくものはおもはじ

 彼の情熱は底をはたいて東京専門学校の経営とその内容を充実するためにつかわれた。彼は私費を投じて図書室を完備しただけではなく、日本の文化を推進するために、外国書を販売する書店を神田小川町につくって、ロンドン、パリ、ベルリン、ニューヨークの書店と直接契約を結んで学術書の輸入につとめた。書店の名である東洋館(現在の冨山房)は、彼の雅号をそのまま適用したものである。彼の家はかもめの渡しにちかい浅草橋場のちかくにあったが、二階の書斎は、そのまま彼の病室に変った。空には次第に紺碧の色がふかさを加えてくる。彼は綿のようにふんわりとうかんでいる雲の翳を眺めながら、病床を訪れる友人たちに向って、彼の夢みていた学校の経営と抱負について語りつづけた。彼の腹案によれば東京専門学校は、あと二年と経たぬうちに「早稲田大学」と改称され、政治科、法科のほかに、商科、文科、理工科を加え、民間の精英をすぐる学問の府として一大殿堂を築きあげる予定であった。
「高田君、――君が本腰を入れてくれるのはこれからだ、どんな些細なことでも必ず坪内と天野と相談してやってくれたまえ」。
 高田がだまってうなずくと、小野は長く伸びた頬ひげを撫でながら、ぐったりと寝返りをうった。しかし、彼の声も秋のふかまるにつれて次第にほそくかすれてきた。十二月に入ると医師から絶対安静が言いわたされ、面会は禁止になった。ついにあくる年の一月十一日、朝から曇っていた空が正午すぎから雪になった。その日の夕方、彼は三十五歳を一期として消えるように息をひきとった。


 小野の死が、残された人たちにあたえた衝撃は大きかった。ある意味で、東京専門学校にとっては致命的といっていいほど深刻なものがあったが、それにも増して大隈の悲嘆は誰れの眼にも痛々しく映った。
「まるで一ぺんに両腕をもがれたようなものだ」。
 大隈はげっそりした声で呟いた。
 しかし、彼の残した東京専門学校は、その後、数年ならずしてあたらしい実を結んで、明治十九年三月には、経営の主体ともいうべき、高田早苗、天野為之、坪内雄蔵、田原栄、市島謙吉等のあいだに学校を独立の経済に委ねようという議が起って、改進党からもはなれ、大隈総長からの補給も辞して、自立経営によって天下の公器たる実を全うするという案が満場一致で可決された。学生の数はすでに千を超えているし、専任教授の数もふえ、東京専門学校は今や一種独特の学風をもつ、私立大学として押しも押されもしない存在を保っている。
 見わたすかぎり縹渺ひょうびょうとかすむ田圃と森であった早稲田村は学校が創立されて数年経たぬうちに新市街となり、鶴巻町、山吹町というような町名がつぎつぎとあらわれてきた。特に矢来坂から江戸川に通ずる中間をつらぬいて校門に達する鶴巻町の街路は、政界の長老であり維新の元勲であるよりも以上に、今や在野の大政治家として、国内だけではなく、ようやく世界的存在に化しつつあった大隈の訪問客で連日引きも切らぬというありさまである。彼の身辺はにわかに怱忙を極めてきた。
 三十にして名を成した彼も、今や五十の坂を越えて、青年期には冷厳いやしくもせず、果敢な闘士的風格を備えて、才気縦横、ひとたび論敵を前にすれば否が応でも相手の屈服するまで追いつめねば止まなかった男が、鬢髪びんぱつ霜を加えるに及んで、言葉にも態度にも一種の社交性にみちた親和力があふれ、それが野党政治家としての彼の輪郭を一層大きくハッキリとうきあがらせた。
 今まで、手を代え品を代えて学校の経営を妨害していた政府要路の空気も年とともに一変して、これを積極的に支持しないまでも、従来のように卒業生の就職にまで干渉するようなことはなくなっていた。東京専門学校は内容的に言えば政治専門学校であり、学生の気風はほとんど一人残らずといってもいいほど大隈の影響をうけて、第一流の野党政治家たることを志していた。数年間にわたって政府の圧迫が、彼等を官途に就くことを禁じていたことによって新聞記者や弁護士たらんことを望む気風が彼等の前途に決定的な方向をあたえるようになったことは当然の結果であろう。社会の木鐸、無冠の帝王という言葉が流行したのもこの頃で、それ等の卒業生の数が増大するにつれて、政権からはなれた大隈に対する民間の人気はいよいよ抜くべからざるものになってきた。
 内閣の首班である伊藤博文が外遊から帰ってきたのは十七年七月、――すなわち、東京専門学校が第一回の卒業生を出した年で、世を挙げて文明開化の欧化思想によって塗りつぶされようとしていた。伊藤は帰朝すると早々、ドイツの例にならって華族制十箇条を定め、維新の改革に功労のあったもの、ならびに廃藩制によって、その地位が宙ぶらりんになっている旧藩主、合せて五百五人を選んで公、侯、伯、子、男の五爵を授け、これにつづいて、翌十八年十二月、今までの太政官職による内閣を一変してあたらしく大臣制度を採用した。
 民間の一布衣ほい、大隈重信が大隈伯に変ったのはこのときである。第一次新内閣の顔触れは、総理大臣、伊藤博文。外務大臣、井上馨。内務大臣、山県有朋。大蔵大臣、松方正義。陸軍大臣、大山巌。海軍大臣、西郷従道。司法大臣、山田顕義。文部大臣、森有礼。農商務大臣、谷干城。逓信大臣、榎本武揚。――以上の十人である。
 この新内閣が組閣とともに第一に着手した仕事が条約改正問題であったことは、内閣の自発的政策というよりもむしろ民間の輿論に調和しようとする意図に基くものであった。
 日本が列国に伍して独立国たるべき実質内容を備えるためには、何を措いても先決問題として安政以来、各国と、そのときどきの偶然に応じて締結した条約を根本的に改正する必要がある。すでに国内革命を終って新発足した日本が、徳川幕府の締結した条約に拘束されて事ごとに外国の制肘を受けるということは国家的形体を保つことを妨げるにひとしい。改正どころか、むしろ進んで破棄せよ、――というような暴論さえ横行しはじめた頃であったから新政府が成立早々、この国家的課題に解答をあたえることが国民に対する義務であるという考え方は、もはや決定的なものになっていた。
 安政元年、ペルリとのあいだに締結された神奈川条約十二条をはじめとして、万延から、文久、慶応にかけて、維新前の条約国は、オランダ、ロシヤ、イギリス、ドイツ、フランス、ポルトガル、スエーデン、ベルギィ、イタリア、デンマルクと合せて十一ヶ国に及んでいる。
 これ等の条約はことごとく領事裁判権と最恵国約款を認めているので、国内の改革についても日本政府独自の判断をもってすることのできないような煩瑣な手続を労することが多く、その中でも当面の問題として内地雑居、居留地の問題、つづいて裁判権の問題、海関税の問題は焦眉の急に迫られているといっていい。これ等の条約は安政五年から百七十一ヶ月目に改正を得るという但書きがついているので、すでに明治五年から、時の政府は諸外国と折衝をはじめているのであるが、それがために幾度びとなく使臣が派遣されていたにもかかわらず、明治五年には時の外務卿副島種臣が自ら衝にあたって交渉し、治外法権の撤廃を強調して、これに対するフランスの好意的解答につづいて、各国の意見も一致しようとしたところを英国公使の反対によって不成立となり、つづいて十一年、寺島宗則が外務卿の時代には、治外法権と海関税の問題の解決を求むることは困難であることを察して、税権の恢復だけを切りはなして政府的意見を提出したところが、このときも英国公使の反対によって、またしても不成立に終った。
 その頃まで、条約改正に無関心であった国内の輿論が汪然として湧きたってきたのは、伊藤内閣が組織され、新外務大臣としての井上が乗りだして来てからである。外遊から帰った伊藤は、問題解決の前提としてヨーロッパの習慣を規準とする国民生活の改革を企てた。一種の新生活運動ともいうべきものであって、先ず衣食住の改良をはじめとして、男女の交際の上にも外国の様式をとり入れ、内地に住む外国人との交歓を目的とする夜会、園遊会を奨励した。鹿鳴館の建築が完成して、日夜、ダンス・パアティが設けられるようになったのもこの頃であるが、内閣閣僚をはじめとして、上層階級の貴顕紳士が日夜、宴会とダンスに耽って政務を等閑に附しているという噂がつたわるにつれて、民間の意見は俄かに険悪な様相を帯びてきた。
 開化的風潮に反対する国粋運動が此処に端を発したことはいうまでもない。このような環境の下に井上が、年来の大問題であった条約改正を断行する任を帯びたことはそれ自体、宿命的な不幸というべきであった。急速なる実行と、外国人の感情を和らげることに眼目をおいた井上案が、民間の一角から擡頭してきた憂国志士の眼に軟弱極りなきものとして映ったことは当然である。治外法権についての井上案は五つの項目に岐れていたが、その第一項目の中に、「治外法権は全くこれを撤去せず、先ず変更すべし、而してこれを変更せんには外人をして外国法律とのあいだにおいて二重の身分を有せしむべし。云々」という文句のあることから、これを屈辱的外交として非難する声は猛然として全国から湧き起ってきた。非難は民間だけではなく、閣僚の一人である谷干城が、情実内閣、軽佻外交の非を挙げ政府の反省を促す意見書をたたきつけて大臣の職を去ってから、もはや条約改正反対の火の手は、いかなる力をもってしても防ぐことのできないものに変ってきた。谷の意見は条約改正よりもむしろ、欧化思想による道義の頽敗を招いた責任を政府に問わんとするところに重点が置かれていたが、時の内閣顧問であり、法律取調委員であったフランス人、ポアソナードが、政府の諮詢に答えて提出した意見書は、意外にも剛毅果断をもって鳴る井上の息の根を止めるに足るほど激烈を極めたものであった。「(前略)かくのごとき屈辱的条約はおそらく日本人の甘受することのできないものであろうと思う。もし、この成案がいよいよ締結されたとしたら日本国民中、これに反対するのあまり外国人に暴行を加うるものなしとも限られぬ。仮りにそのような事態を生じた場合、外国政府は当然居留民保護を名として日本の内政に干渉を加うるようになるであろう。改正案は今日なお変更のできないというわけのものではない。政府は再考熟思、反省の上善処されたい、云々」。


 ポアソナードの意見が、「ロンドン・タイムス」から転載されて、「時事新報」に掲載されると、たちまち国内は煮えかえるような騒ぎになった。その騒ぎは一日一日と強烈の度を加えてくる。
 新聞の論調は次第に殺気を帯びてくるし、民間有志によってひらかれる政府反対の演説会は、到るところ聴衆が堂外にあふれた。演壇に立つ弁士の声は痛烈を極め、臨席の警官が幾度となく中止を命じたが、これに応ずるものは一人もなく、武装警官隊が煽動者を拉致しようとすると、怒り狂った群集はどっと警官隊に迫って、これを袋だたきにするという始末である。
 全国からあつまる民間の有志は連日会合をひらいて決議を行ったが、そのたびごとに険悪な空気は、いよいよおさえがたいものになってきた。もはや、建白や勧告なぞというなまぬるい手段を云為する時機ではない。群集の一部は早くも暴徒化して、直接行動に出ようとする計画を立てている。日本刀を腰にして総理大臣官邸や外務大臣官邸の前を徘徊する壮士の数は政府の弾圧が加わるにつれて、あとからあとからと数がふえてくる始末で、伊藤、井上をはじめ閣僚たちは自由に外出することもできないような不安におびやかされた。
 もはや、政府の威力をもって押しとおすべき時機は過ぎた。このとき、政府は憲法草案起草中の伊東巳代治から、この改正案撤回の勧告をうけたので全閣僚列席の上、伊東の意見を詳細に聴取してから、ついに無期延期が決議され、七月二十九日(二十年)、井上外務大臣の名義をもって、日本政府は各国政府に対し、諸法律編成の完備を期することを先決問題とすべき事情下にあるが故に、条約改正はそれから以後に持ち越す予定である、――という不得要領な通告を発した。
 しかし、時機すでにおそしである。政府は条約改正延期によって激昂する民心を抑え得るものと考えていたが、ひとたび火の手をあげた打倒藩閥政府の運動は改正案撤回などによって停止することのできないところまで来てしまっていた。自由党はこの空気を巧みに利用して党勢拡張の運動に転化しようと企て、言論集会の自由、地租税の軽減、外交政策の挽回という三大方針を掲げて国民に呼びかけたが、これに対して改進党は、民論圧迫のための法令禁止、藩閥政府打倒の標識を押し立てて民心の糾合につとめた。この運動の主体となったものは多く両党の中核体ともいうべき青年層であったが、彼等は伊藤内閣の総辞職を要求する意味においては共同戦線を張って各所に聯合演説会をひらいた。これがために警官隊と壮士団との衝突は次第に激化してきた。時の警視総監三島通庸は、ついに最後の腹をきめたらしく、十二月二十六日の午後、急速な措置の下に抜打ち的な保安条例を発布して、在京中の反政府的思想の所有者と目すべき六百人あまりの、論客、文筆業者、新聞雑誌記者を、発令後二十四時間内に皇居から三里以外の距離を保つ地点に退去すべきことを指令した。その犠牲者の中には、星亨、林有造、中島信行、尾崎行雄、中江篤介(兆民)等の名前が挙げられている。
 この法令の適用は峻烈を極め、命に応ぜずして姿をくらましたものは禁錮三年の刑に処するということが言いわたされた。この日、三島は全市にわたって彼の管轄下にある巡査の非番召集を行い、忘年会という名目で部下を芝公園にあつめ、酒樽をならべて冷酒を饗応し、彼自らも痛飲した上で、出動を命じた警官隊を激励した。「諸君は威信をもって事を行うことを忘れてはならぬ、もし不逞の徒が命令を拒み、あるいは反抗した場合は一刀の下に斬り捨てても差支えない」。
 退去命令をうけた人たちは一言半句の抗弁も釈明もゆるされず、家族と別れを惜しむ余裕もなく、ほとんど着のみ着のままで、何処をあてともなく東京を去っていった。氷雨の降る夜の街には不穏な妖気が漂い、不安と動揺の中に明治二十年の大晦日が近づいてきた。三島通庸の手によって発せられた保安条例は、当然民衆の力によって葬り去らるべき政府の運命を僅かに数ヶ月持ち越したというだけのことで、その意味においては鬼総監の勇断はたしかに効果を奏したと見るべきであろう。しかし、この暴圧がもたらしたものが逆のかたちを示すことぐらいは伊藤博文ともあろう男にわからぬ道理はない。伊藤にしてみれば、このような、だしぬけに生じた最悪の状態の下に彼の内閣を瓦解させたくはなかった。おそらく彼としては三島のような単純にして忠実、――大邸宅の裏口によく「猛犬アリ」と書いてある、その猛犬にもひとしいような男に命じて、伊藤内閣崩壊の危機を間一髪のあいだにのがれ去ったことは、もっとも賢明な方法であったと言えないこともない。
 早稲田の新邸に引きこもって、動蕩する時代の動きを、何の作為もなしにじっと冷眼視していた大隈の眼の底には雲行のけわしい晩秋の空の色が急にいきいきとした精彩を帯びて映ってきた。何ものかが自分の出現を待っているという気持がこれほどぴったりと彼の皮膚に泌みとおったことはあるまい。通路を一つへだてて向いあっている東京専門学校の講堂では、弁論部の学生が毎夜のようにあつまって演説の練習をしている。「条約改正是なるか非なるか」――というのが数日間つづいた討論の題目であったが、保安条例の発令を境にして学生たちのかもしだす雰囲気は、次第に国粋論一方に傾こうとする兆候を示してきた。国粋論も欧化論も、しかし大隈重信の大風呂敷の中では無造作にごたごたと、つつみこまれてしまっている。彼はこみあげてくる微笑を臍下丹田にしっかりとおさえつけながら、応接室にあふれた新聞記者や青年論客たちの質問に答えていた。「伊藤も井上も苦しいところにさしかかった。――このような大問題を解決するためには先ず私心を捨てて、大勢の動きを見透すだけの度量がなければならぬ。無力なものが無力にたよろうとすれば、途方もないゴマ化しを行うよりほかに仕方がない。条約改正問題を解決するためには先ず民意を問う必要がある。今日の政府がおかした誤りは対外条約の改正問題にあるのではなく、むしろ、国民を欺いて、抱負もなく識見もない内閣を持続するために、条約改正問題を適当に利用したところにある」。
 部屋の中にはストーヴが燃え、言葉がとぎれるごとに武蔵野の高原をわたって吹きつける木枯が、すさまじい唸りを立てて応接室の窓をゆすぶる。一席弁じ終ると大隈は安楽椅子のクッションの中へぐったりと身体を沈めた。


 その年が暮れて、あくる年の一月、条約改正問題の発生以来、無為にして半年ちかく、民論の反対を押切って存続を保っていた伊藤内閣もついに総辞職を決行すべき時機が近づきつつあった。彼は身を引いて枢密院議長となり、彼と気脈を通じている薩派の黒田清隆を起用して組閣の準備を進めることになった。
 一月中旬のある朝。警護の巡査を同乗させた黒塗の馬車が二台、砂塵を捲いて吹きつける風の中を鶴巻町の大通りに高く車輪の音をひびかせながら大隈邸に向って走ってきた。
 邸内へ入って、正面玄関の前で馬車をおりたのは意外にも時の総理大臣と、農商務大臣の黒田清隆である。朝が早いので応接間にはまだ一人の訪客もいなかったが、大隈は二人の来訪を知るとすぐ大書院の横にある私室にとおし、綾子夫人に命じて酒肴の用意を整えさせた。
 来たるべきものはついに来たのである。大隈はその数日前から伊藤の女婿、末松謙澄を通じて新内閣に外相として入閣することの下交渉をうけていたが、伊藤の計画では彼の内閣を総辞職する前に閣僚一部の改造を行い、時機の来たるを待って黒田に譲ろうというもくろみであった。大隈は民意に順応して自ら責を負うべき伊藤が、たとい一ヶ月にしても二ヶ月にしても居坐るというのは憲政の常道にはずれているという意見を固執してゆずらなかったが、末松謙澄は伊藤の留任は国内的な意味ではなく、今まで条約改正問題で交渉をつづけてきた諸外国に対して日本政府の面目を保つ必要から、一時伊藤内閣を存続させる形式を残しておいて、いよいよ大隈案の成立した時に黒田にゆずる段どりであり、従って黒田内閣の使命が条約改正問題解決を主眼とするかぎり、大隈なしには絶対に組閣のゆるされぬ性質のものであることを強調した。
「今は上下の意見が期待しているのはあなたのほかにはありません、――黒田伯はもちろん、伊藤も心からあなたに頭を下げてお願いしたい、といっているのです、いろいろ周囲の御事情もあろうと思いますが、国家非常の難局を前にしてこの際私情は一切水に流していただきたい」。
 大隈は、これについては、いよいよ出馬するとなったら、一身を犠牲にする覚悟がなければならぬ。唐突のお話に対してこの席ですぐ御返事を申上げるというわけにもゆかぬから改進党の諸君とも協議の上御返事申上げようといって言葉を濁した。しかし、このときすでに彼の腹は決っていた。
 その朝、伊藤は彼と顔を見合すと、すぐ右手を差しだした。
「大隈さん、――久しう御無沙汰をいたしましたのう、そう、あれから七年、いや、早いものじゃ」。
 横にいた黒田は軽く目礼しただけで物を言わなかったが、席へつくと綾子夫人の注ごうとする酒を片手でおさえながら、大隈の方を向いてにやりと笑った。
「近頃はもうずっと禁酒しとります、せっかくだから白湯でも頂戴しようか」。
「それは珍らしい話じゃ、――急に何か発心でもされましたか?」。
 黒田はかすかな苦笑いをうかべた。七年前の彼は豪酒をもって鳴らした男で、飲むにつれて顔の色は蒼白に変り、どろんと眼が坐ってくると参議の列席する前で誰彼れという見境いもなく悪罵のかぎりをつくし、感情の激するにまかせて相手に盃をたたきつけたり、暴力をふるって殴りつけることさえ一つの習性のようになっていた。
「ところで、――今度の組閣について、われわれのやってきた理由は、あんたにもわかってもらえるじゃろう」。
 伊藤が重々しく口をひらくと、黒田が瞳を凝らして大隈の顔を見つめた。「大隈はん、もう何も言わぬ、おいどんには理窟も何もなか、――何事もよかごと頼む、今度だけは一つ、おいどんを助けてもらいたい」。
 硝子戸越しに見える庭園の片隅にはもう早咲きの梅の蕾がふくらみかけている。会見は三十分あまりで終った。玄関で別れようとするとき、黒田は力いっぱい大隈の手をにぎりしめた。
「大隈はん、恩に着ますぞ、おいどんは薩摩武士じゃ、おはんを見殺しにはせん」。
 その日の夕方、河野敏謙がやってきて大隈と長いあいだ話しこんでいた。高田と矢野(文雄)がやってきたのはそれから間もなくである。「大隈伯入閣近し」という新聞記事が全国の話題にのぼってきたのは、それから数日経ってからである。この噂がひろがるにつれて、改進党の内部にも賛否両様の意見が対立し、大隈邸は朝から夜にかけて訪客でごった返していたが、東京専門学校の学生たちのあいだにも連日のように議論が沸騰していた。彼等の意見は在野政治家としてすでに世界的人物であるべき大隈が、自ら組閣の大命をうけて立つというならばともかく、今まで口を極めてその非を鳴らしていた伊藤内閣に外務大臣として席を列ぬるがごときは、薩閥政府に屈服するものであるという考え方において一致していた。急進派の代表者は学生会議の決議文を携えて大隈に直諫ちょっかんしようとして殺気立っていたが、高田は、大隈の入閣問題はなお未定であり、もし入閣するとしても、国会開設の期日と、開設後は必ず院内多数党の首領をもって組閣の責任者たるべしという条件つきであるという釈明をして、いきりたつ学生たちをおさえた。大隈の入閣説につづいて板垣の入閣説がつたえられたのは、それから半月ほど経ってからであるが、物情騒然として湧き立つ中に、その年の春が過ぎて、四月三十日、伊藤は内閣総理大臣を黒田にゆずって枢密院議長となり、同時に大隈の入閣が正式に公表された。新内閣の顔触れは、外務大臣、大隈重信。海軍大臣、西郷従道。陸軍大臣、大山巌。司法大臣、山田顕義。大蔵大臣兼内務大臣、松方正義。文部大臣、森有礼。逓信大臣、榎本武揚。農商務大臣、井上馨以上の八人であるが、前内閣失政の当面の責任者ともいうべき井上が農商務大臣として居据ったということによって、ひとたび鳴りをしずめていた国内の輿論はふたたび轟々ごうごうと湧きあがってきた。
 新内閣に対する国民の唯一つの魅力は、七年間、政権から遠ざかっていた大隈が、長い交渉の果てに諸外国から小突き廻され、横紙破りの井上でさえ手に負えなくなって投げだした条約改正案をいかに処理するかというところにある。必ずしも輿論が挙げて自分に味方しているとも考えられぬが、しかし内閣の成敗が自分ひとりの双肩にかかっていることだけはもはや疑うべき余地もない。大隈は満々たる自信をもってこの難事業にとりかかった。
 当時の国際情勢からいえば、井上案にしたところで、必ずしも屈辱的な改正ではなく、日本を未開国として成立した従来の条約と対照すれば、むしろ最大限の権利を主張したもので、何人が衝にあたったところで、日本に対する外国の認識が一変しないかぎり、これ以上の要求を貫徹することの困難なことは、あまりにも見え透いている。伊藤が文明開化を標識とする新生活運動を起すことによって外国の歓心を得ようとしたことも条約改正を容易ならしめようとする意図にもとづくものであったが、しかしそのような苦肉の策も、欧化思想を排撃する国粋論者の政府打倒の目標にされたばかりではなく、国会開設を前にひかえて政治運動の好餌となり、事情を知らぬ国民は、唯、国辱外交という言葉に眩惑されて国粋論に共調する結果になったのである。内閣法律顧問ポアソナードの発言がこれを刺戟したこともたしかであるが、事の誤りは各国各様の立場を持っていることに対して井上が聯合談判の形式をとったところにある。
 大隈は各国の情勢を仔細に調査した上で個別の交渉を開始することに決定した。そのとき、アメリカには公使として陸奥宗光、ドイツには西園寺公望、英国には岡部長職、フランスには田中不二麿がいたが、彼がもっとも期待したのは陸奥と西園寺の二人である。彼はこの二人に詳細な訓令を発した。各国の熱望して止まぬ内地雑居を許す代りに領事裁判権の撤去を実現することに主眼をおいた改正案である。
 改正案の内容は、しばらく極秘に附したままで交渉をつづけていたが、偶々、アメリカとの折衝中、「ロンドン・タイムス」にその内容が発表された。それが国内の新聞によって報道されると、たちまち割れかえるような騒ぎになってきた。
 大隈案が井上案よりも進んでいるのは実行的内容を明かにしたのと、井上の欧化主義の逆を行き、一切合財日本中心に処理の方法を考えようとしたところにある。彼は政治が民意と結びつくことなしには成立つものでないことを知っていた。それに尠くとも条約改正問題に関するかぎり、憲政常道論をふりかざして立つ彼の意見が自由党の協調を得ることに充分自信を持っていたからでもある。彼は廟堂にあってもなお自分が野党であることを疑わなかった。前任者、井上の失敗は全ジャーナリズムの反撃をうけて身うごきもできなくなったところにある。然るに大隈はすでに改進党直系の新聞と密接な関聯を保つ上に、当時の進歩的思想をことごとく彼独自の大風呂敷の中へつつみこんでしまっているのだ。いわんや、内に良妻綾子夫人あって、伊藤、井上のごとく鹿鳴館に長夜の宴を張ったり、新橋柳橋に痴人の夢をむさぼるということもない。彼の盟友である福沢諭吉が、「時事新報」の社説で、「大隈伯を外務大臣として迎えたことは、近来稀に見る政治上の快事にして、われ等はこれをもって官民調和の一端をひらくものであることを信じて疑わぬ」――と、積極的に支援の言葉を述べていることをもってしても輿論の大半がいかに彼の人物と力量に信頼していたかということがわかる。
 これに対して、よしんば多少の国粋主義者(今日の右翼)が反対したとしても、自分を支持する輿論が、井上の場合のごとく、単なる欧化主義者として自分を窮地に陥れることは絶対にあるまいと思っていただけに民衆の激昂は彼にとってはまったく寝耳に水であった。
 彼の改正案は、表面だけ井上案の補修という形式を整えてはいたが、しかし細部の条項に亙っては、飽くまで日本中心であって、例えば裁判権の問題についても井上案が、「外国に関する訴訟事件を審理するため、日本政府は外国判事三十五名乃至ないし四十名と検事十一名とを置くこと」という厖大な数を指定しているのに対して、大隈は、「外国人、被告となりたる訴訟事件を審理するため、日本大審院に外国判事四名を置くこと」とあっさり片づけてしまっているし、法廷の用語は、日本語英語の二種とす、――という井上案に対しても、大隈案は、「法廷の用語は日本語とす。その他一切日本政府の随意たること」と補正している。
 しかし、「ロンドン・タイムス」によって発表された改正案の要項中、反対論者の感情をもっとも刺戟したのは内地雑居の問題であって、大隈が双務的な方法をとるために交換的に譲歩した部分だけが異常なセンセイションを起したのである。その第一項に規定された「指定の年月以後、外国人は現行の条約による居留地の区域以外、日本帝国のいずれの地方に於ても自由に旅行し、通商し、又は自由に或る物件を所有することを得べし。但しこの特許の使用によって生じたる事件について外国人は全く日本の司法権を遵奉すべし、」――という言葉に拘泥した過激論者は、いたるところに集会して民衆を煽り、反対の気勢をあげた。それ等の慷慨の士の中に、条約改正案の内容について大隈の計画と彼の真意について正しい認識をもっているものはほとんどいなかった。いわんや、微妙にして複雑な国際関係なぞは彼等の関知するところではない。日に日に昂まってくる反対の声は、相手が井上とちがい、改進党を背景にして、堂々と対抗しようとする実力をもっているだけに一層、狂熱化してきたのである。
 ジャーナリズムもまた、賛成、反対の二派に分れて、それぞれ論陣を張ったが、このときの賛成派は、大隈直営の「報知新聞」をはじめとして、「朝野新聞」、「毎日新聞」、「改進新聞」、「読売新聞」。反対派の急先鋒は、「日本新聞」、「東雲新聞」、「絵入自由新聞」、「東京新報」、等々であったが、反対派の中でも三宅雪嶺、杉浦重剛、陸羯南等の日本主義を標榜する論客のあつまる日本新聞の論調はもっとも激越であった。
 しかし、日を経るにつれて、条約改正中止運動は前任者である井上の場合とくらべて一層深刻な様相を呈し、次第に倒閣運動に転回する気配が濃厚になってきた。両派の演説会は毎晩のように開かれるし、これに呼応する朝野の名士の数も増大し、民間有志によって元老院建白が行われたり、閣僚はもとより、閣外にある伊藤博文の身辺にまで不穏な空気が低迷している。全国の有志から黒田総理大臣宛に届いた建白書は六万数千という数に達した。
 枢密顧問官であった鳥尾小弥太が、二、三の同僚とともに大隈邸を訪問し、激論数刻の後、席を蹴って去ったという記事が「日日新聞」に発表されたのは、その年の八月十六日である。続いて八月二十日には、明治大帝から宮内大臣、土方久元に命じて、勝麟太郎(安房)に意見書を提出するようにという通達があった。勝は斎戒沐浴して草案を起稿し、大隈条約は金甌無欠の国体を毀損するものであるという意見を詳細に書いて御前に提出した。
 閣僚の一人である逓信大臣、後藤象二郎が鳥尾一派の強硬派と結んで条約改正反対を声明したのは同じ月の二十八日である。後藤は組閣後、半歳ほど経ってから入閣し、最初のうちは大隈の改正案に同意する立場をとっていたが、大勢の動きを察して俄かに心境の変化を来したのである。これを端緒として閣僚の態度も急に軟弱化し、大隈を支えるものは首相の黒田を除いては榎本武揚一人だけになってしまった。むしろ、間接に責任の半ばを負担すべき井上さえも反対派に協調する動きを示しかけたほどであるから他は推して知るべしである。元勲内閣と呼ばれた黒田内閣は維新の功臣を網羅していたが、首相の黒田は結局、伊藤の傀儡的役割をつとめるに過ぎず、政権の中心は依然として伊藤にあった。
 伊藤も黒田内閣の組閣当初は大隈推薦者であるとともに支持者であり、彼と盟約をとり交わして一蓮托生を誓った間柄であるにもかかわらず、しかし今となると大隈の引責辞職によって激化する民心を抑えるよりほかに手段のないことを自認するにいたった。
 それ故、伊藤は黒田を招いてしばしば大隈に対する辞職勧告を迫ったが、政治的系統においては、薩長勢力の重大なる一要素であった黒田は、組閣当時、自ら大隈を訪ねて、多言を弄せず、「大隈はん、何事もよかごと頼みますぞ」といった言葉を弊履のごとく捨て去る男ではなかった。
 身に迫る危険を自覚しながら、孤立無援の環境の中にあって、国内の混乱を前に動揺する色もなく、予定の計画どおり、諸外国に対して着々と交渉を進めていた大隈に対して黒田は彼一流の野放図な態度で声援をあたえた。
「大隈はん、わしがおりますぞ、おはんと約束したことは忘れやせん、勇気をもってやりなはれ」。
 政策も抱負も、今や内閣の運命さえも黒田にとっては物の数でもない。彼は生れながらにしてそういう男であり、単純直截、唯、大隈に対する然諾をまもることにのみ汲々としていた。しかし、閣僚の多くは彼の先輩であって、黒田ひとりがいかに大隈を支えようとしても、もはや彼の力の及ぶところではない。
 民間反対派の中核体ともいうべき、大同協和会、大同倶楽部、保守中正党、日本倶楽部、玄洋社の五団体が蹶起して、全国的な大運動を開始したのは、それからまもなくである。その頃になると、反対派の有志たちにも、大隈の腰の粘りに対しては、尋常一様の方法では解決のつかぬことがハッキリわかってきた。各派の代表者の密議が谷干城の邸宅でひらかれたが、あつまるものは浅野長勲、三浦観樹、杉浦重剛、三宅雪嶺、千頭清臣、頭山満、等々の長老たちである。彼等の意見は最後の手段に訴える一歩手前まで来ていた。黒田と大隈が内閣に地位を保っているかぎり、行くところまでゆくことは、もはや疑う余地もない。これを動かす力が伊藤にないとすれば上奏するほかに道はないのだ。いよいよ、意見が一致すると、その大役を浅野長勲が買って出たが、谷が横合いから口を挟んで自分が参内するといいだした。それを三浦が、いや、おれにまかせろといって谷の言葉をさえぎった。谷と三浦のあいだに二、三回押問答があったが、三浦の意見によると、条約改正反対という内容がわかったら、宮内省で警戒して拝謁の手続をとる筈がない。ところが三浦は現職が学習院長であるから、ほかの理由で拝謁のできる資格を備えている。――そこで、浅野も谷も止むなく三浦にゆずることになって、翌日三浦は単身参内して上奏の役目を果した。
 先きに勝安房からの進言もあり、そこへ三浦が上奏したので宮廷内の空気は俄かに緊張してきた。
 大隈は、しかし、このような裏面工作の行われていることを夢にも知らなかった。彼は用意周到な態度をもって在外公使に密接な連繋を保ち、最初の順序どおり、各国個別の交渉をつづけていたが、その頃まで渋滞していたアメリカとの折衝は陸奥宗光の努力によって、本国からアメリカ公使館にあてて、日本政府の意見に同意するという通告が入った。それが大隈につたえられたのは八月五日であるが、彼はそのことを黒田に報告しただけで、ほかの閣僚にはひた隠しにかくしていた。ところがこれにつづいて、ドイツもまたベルリンで西園寺公使とのあいだに調印を終え、難物だと思ったロシヤも大隈の改正案に同意の旨をつたえてきた。残るは英国だけで、英国は安政条約の中に規定された最恵国条款を楯にとって容易に承認しようとしなかった。それを手を代え品をかえて、矢継早の訓令を加藤(高明)に向って発しているあいだに国内の形勢は危急を告げてきたのである。
 もはや、上下の意見が最後の段階まで来ていることを予感した伊藤は外遊中の内務大臣、山県有朋に電報を打って国内の事情を訴え、すぐさま帰国すべきことを要請した。山県を乗せたアメリカ汽船、オシヤニック号が横浜に入港したのは十月三日の午後である。


 十月六日の「東京日日新聞」は「山県の帰朝で局面一変か、条約改正問題清算期に入る」と二段にわけ、その横に「政界の風雲漸く急」――と、初号活字三段ぬきの誇大な記事を掲載している。民間の噂は早くも山県内閣の成立をつたえていたが、彼の帰朝とともに、薩長政治家の往来は、俄かに頻繁になってきた。新聞記事が「(前略)一昨日の御陪食にはかしこきあたりの思召しにて伊藤議長は病を押して参内せられたりと申すが右は山県伯帰朝につき御前にて会食せしめんとの御思召にや如何」と報じているところから察すると、山県は陛下の御前において伊藤から事情を詳しく聴取したものらしい。
 山県を加えて閣議が外相官邸でひらかれたのは十月十四日の夜である。その席上で山県は改正案の進行について大隈の説明を求めた。大隈から経過を聴いた上で山県は黒田をかえりみ、冷やかな態度でいった。
「大隈君の立場も諒承したが、国内の動揺に対しては陛下の宸襟を悩ますことひととおりではない、もし、このままに放置しておいたら如何なる事態の発生を見るかもわからぬ、伊藤枢密院議長もそのことを特に憂慮されている様子であるから、この際、一時交渉を中止し、内閣の方針を明らかにすることが先決問題であろうと思うが、黒田総理大臣はいかに考えられるか?」。
「いや、そのことは、一切、大隈外務大臣にまかしてごわす、――何一つ文句はござりません」。
「断行か中止か、総理大臣としての御意見は?」。
「断行あるのみでごわす」。
 黒田はむっつりおしだまったまま席に就いた。そのあとで後藤象二郎が立ちあがって条理整然たる反対意見を述べた。これに対して大隈の長広舌があり、改正派と中止派とが交るがわる立って激論を闘わしたが、ついに結論を見るに到らず、一旦休息の上、論議をつづけているうちに、いつの間にか夜があけてきた。「東京日日新聞」はその日の閣議の模様を報道した中に次のような言葉を挟んでいる。「上を下への混雑湧くがごとき中に黒田伯のみは断然として毫も動かるるの色はなく、あたかも不動明王が猛火を背負って泰然自若たるの色あり。大隈伯もまた猛火の中に纏を持ちて四方八方の勢いに当らるるごとき状あるは両伯の勇気のほど驚き入るのほかなし。云々」。
 結局九人の閣僚の中で、改正案の賛成者は大隈を除いて、黒田と榎本の二人に過ぎなかった。――大勢はすでに中止に傾いていることは明白であったが、しかし、黒田は内閣総理大臣であり、彼の意見を無視して、多数決による結論に達することはできないので、いよいよ同じ月の十八日、御前会議によって最後の断を下すことになった。
 その日の朝、早稲田の大隈邸には夜あけがたから、来訪者があった。門をたたいて面会を強要したが、護衛の警部が出て、二、三回押問答した上で追いかえした。壮士たちは口々に漢詩を声高く朗吟しながら、伯爵邸の石塀づたいに裏道を江戸川の方へ引返していった。
 つめたく大気の澄みとおった朝であった。大隈は朝飯がすむと、久しぶりで邸内の雑木林の中の道を歩きながら深呼吸をした。昔ながらの習慣だったが、この一、二ヶ月そんな余裕はなかった。
 会議のひらかれるのは午前十時である。
 その日、いつになくすがすがしい気持であったのは、天気のいいせいもあったが、しかし大勢の動きはもう大体推量がついていたし、今日の御前会議にしたところで彼に詰腹を切らせようという段どりの下に行われようとしていることは明白であった。力尽きたというかんじではなく、むしろ、最後までやりとおしたという気持が彼の心に英雄的な昂奮を唆るのである。大隈は、もはや身に迫る危険なぞを意に介していなかった。前の晩、彼の手もとへ届けられた黒田の手紙にも黒田らしい人間味があふれていた。彼はフロックコートのポケットの中へ入れてきたその手紙をもう一度とりだして膝の上でひろげてみた。
「――追々、事態の進捗に際し彼是れくちばしを入れ、破壊を旨とするがごときは真に国家を憂うるものにあらず、御同様、男子の本分を現わすはこのときにあり、断じてこれを行えば鬼神もこれを避く、勇気満面に有之候」。
 くりかえし読み終ってから大隈は下唇を噛みしめながら黙ってうなずいた。
 午前十時きっかりにひらかれた御前会議は病気欠席の通告のあった井上を除く全員が出席して、各自思い思いの意見を述べているうちに、いつのまにか正午になった。小憩の後、会議はふたたびつづけられ、午後三時になると聖上陛下が出御された。
 すると、黒田が立ちあがって大隈に向い、厳かな態度で、始終の顛末をくわしく述べられたいと言いわたした。大隈は荘重な態度で交渉の経過を述べ、現在の国際関係を順調にみちびくためにはこの改正案を実行にうつすよりほかに最善の方法はあるまい、という意見を強調した。すると、後藤(象二郎)が緊張した面持ちで立ちあがった。彼の意見はこの前の閣議の席で試みた反対論と内容は同じであったが、その日は特にフランス帰りの法学者、光明寺三郎に草稿をつくらせ、それをテーブルの上でくりひろげながら、「八月二日の閣議で決定した外人法官のことは帰化人の意味であることを貴君(大隈を指す)は、殊更諸外国に通告しないのは何がためであるか」と難詰し、更に言葉を転じて、外人に土地の所有権を与える不都合を責め、大隈の改正案は国権を誤るものであると極言した。
 後藤が着席するのを待って、すぐ山県が立ちあがった。山県の詰問も相当に辛辣を極めたが、大隈は終始黙々として耳を傾けていた。
 彼等がしゃべっているあいだ明治大帝は一言も発せられなかった。四時を過ぎると、黒田がだしぬけに立ちあがって御座所に向い、入御あらせられることをお願いした、御前会議に最後の決定をあたえないで終らせようというのが黒田の腹であったが、大隈の引責辞職と否とにかかわらず、黒田内閣の命運が旦夕に迫っていることは誰れの眼にもハッキリと映っていた。午後四時半、宮廷を退出すると大隈は、ひと先ず霞ヶ関の官邸へ帰るつもりで、馬車を走らせて桜田門をぬけ、外務省正門にちかい坂にさしかかった。
 濠の水面には夕陽のかげが落ちている。今日の閣議で、さすがに全身に疲労をおぼえた彼はぐったりと馬車のうしろによりかかり、身体をうごかすはずみで傾きかかったシルクハットに片手をかけたときであった。一人の男が外務省の塀のかげから、ゆっくりと大股に歩いてきた。彼はその頃流行ったボタンの五つついたモーニングに縞ズボンを穿き、大きな蝙蝠傘を大事そうに抱えていた。やっと三十になるかならぬぐらいの年頃であろう。ほそ面の眼に光りのある青年の顔が、夕陽をうけた外務省のナマコ塀を背景にしているだけにくっきりとうかびあがって見えた。
 あたりはしいんとして物音一つ聞えなかった。蝙蝠傘を抱えた青年は最初、通路を横断して濠ばたの方へぬけようとしたところへ、だしぬけに大隈の乗っている馬車が走ってきたので、通りすぎるのを待とうとして立ちどまったように見えた。しかし、一瞬間、馬車が外務省の正門につづく坂にさしかかろうとしたとき、矢庭に抱えていた蝙蝠傘を投げすてるが早いか、おそろしい速さで馬車に向って駈けよってきた。
 あっという間もなかった。彼は馬車に近づくが早いか、ハンカチーフにつつんだ丸いものを馬車に向って投げつけた。彼は前に片足をつきだし、力いっぱいに投げつけたせいか、勢いあまって馬車をかすめ坂の中途にある外務省の門の石柱にあたって、たちまち大爆音が起ったと見るまに、馬車の周囲は濛々と立ちのぼる白煙にとざされてしまった。その破片が馬車の前の部分にあたったらしく、大地が震動して馬車はそのまま横倒しになったかと思われたが、大隈は、とたんに組み交わしていた両脚に異常なショックをうけ、
「馬鹿!」。
 と、大声に呶鳴りつけた。馬丁は肩から背中にかけて裂傷をうけたらしく、血が上衣の破れ目からふきだしていたが、これに屈せず、馬にひと鞭つよくあてて馬車を省内にある官邸の玄関前まで走らせた。一町ほどの距離を保って、二人曳きの俥で大隈の馬車に尾行していた護衛巡査はこの爆音を聴くが早いか俥からとびおりた。大隈の馬車を追いかけようとしたとき、うすれてゆく煙の中から、モーニングに山高帽をかぶった紳士が坂下の石橋の上に立っている姿をみとめたので、すぐ駈け寄っていったが、人品卑しからぬ上に、平然と落ちついている男を見て、これが犯人だとは思わなかったらしい。
 巡査は狼狽のあまり、咳き込むような早口で、
「大臣は御無事でしたか?」。
 と問いかけた。すると、その男はすぐ、
「御無事でした」。
 と言いながら官邸のある坂の方角をゆびさした。
「犯人はどこへ行きました?」。
 たたみかけて問いかける巡査の言葉の終るか終らぬうちに、その男は、
「あっちです、――虎ノ門の方角です」。
 と、落ちついた声で答えた。巡査は彼を外務省の官吏だと思ったらしい。くるりと向きを変えるが早いか濠に沿った道を一散に駈けだした。石橋の上に立っていた青年は突嗟に上衣のポケットに右手を差し込むが早いか、白鞘の短刀を抜いて一気に頸動脈をふかくつき刺し、橋上にパッタリと倒れた。
 官邸の門前に馬車を乗りつけた大隈は右足に痺れるような痛みをかんじた。傷をうけたという意識がないので、すぐさま立ちあがろうとしたが腰をもたげることが出来ず、玄関口からとびだしてきた二人の属官に両肩を支えられて、やっと馬車からおりた。一歩前へ歩きだしたとたんに急に烈しい痛みが全身に沁みひろがってきた。血はあふれるように滴り、馬車のとまっている広場から玄関まで白い砂利の上に血の痕が点々と残っていた。
 そのとき、偶然にも三宅坂の方から歩いてきた海軍軍医総監の高木兼寛が徒歩で桜田門の前を通りかかり、石橋の前に倒れている男を見て、容易ならぬ事態を察したらしい。彼は三宅坂を下りきったところで、たしかに異様な爆音を聴いた。もしやと思って外相官邸の前までくると、壊れかかった馬車が横づけになっている上に白砂を染めている血痕を見て、たしかにやられたのは大隈だと直感した。
 時を移さず高木が駈けつけたことによってすぐさま応急手当を施すことができた。そのとき大隈は両足をだらと前になげだしたまま、属官に運ばせたウイスキーをコップのまま呷りつづけていたが、高木を見ると、
「よう」。
 と、片手をあげ、低い声で呼びかけた。「足よりも顔をやられたようだ」。
 高木が顔をしらべてみると、火の粉を浴びたところだけが黒くなっていた。それも左の眼の下と頬骨のへんに、地ぶくれのしたような痕を残してはいるが、しかし火傷というほどのことでもなかった。彼はすぐ鋏でズボンを切り、傷口をしらべてみると、傷はくるぶしと下腿にあって、くるぶしの傷は腿の傷よりもふかく、骨が砕け肉が爛れて血があふれるように噴きだしている。外皮が紫色になっているところから察すると爆弾の破片が肉の中に喰い入っているらしい。その頃から大隈の顔は蒼白となり、しきりに苦痛を訴えるので、高木は足の上の部分を氷で冷やし、モルヒネの皮下注射をして、一時的な処置をした上で、大学病院からベルツ教授と佐藤進医師を呼び、急を聴いて宮廷から派遣された三人の侍医と相談の上、このまま片足を切断することに一決した。傷口は繃帯で巻いてあったが、血はソファーの下にある絨氈の上に止め度もなく滴り落ちていた。そこへ、大隈夫人が矢野文雄とともに駈けつけてきた。そのあとから高田、天野の二人がやってきた。官邸の内部はたちまちごったがえすような騒ぎになったが、出血がどうしてもとまらぬので、テーブルをつなぎ合して臨時の手術台をつくり、切開の準備を整えていた医師たちも、互いに顔を見合せたまま躊躇しているのを暗黙のうちに察したらしく、大隈は、
「愚図愚図するな、早く切れ!」。
 と大声で叫んだ。十月二十日の「時事新報」はこのときの手術の模様を次のような言葉で報道している。「手術は佐藤国手これにあたり、高木総監これを助けたり。佐藤国手の外科施術に巧みなるは世人の普知するところなるが、この日は特に意をこめて先ず外皮を割き、肉を切り、骨は鋸をもって引切り、大小の血脈を一々その管にて締め、石炭酸をもってその裁断口を灌漑し、外皮をもってこれを包むや、護謨ゴム管を透して薬剤注入の用意をなし、全くその手術を終りたるは八時半なりし。その裁断は膝上およそ二寸七、八分にして、大腿骨だいたいこつおよそ三分の一より下にありしと」。
 新聞記事の書き方から察しても、明治以来、未曾有の大手術であったことが理解される。切断後、切口の痛みが烈しいために大隈はひと晩じゅう睡眠をとることができず、絶えず、眼を開いては「ウイスキーを持って来い」と叫びつづけていたが、あくる日の明け方ちかくなってから、やっとうとうとと眠りはじめた。


 爆弾を投げた青年が玄洋社員で、福岡から藩閥政府倒壊の志を抱いて上京してきた来島恒喜くるしまつねきであることはすぐにわかった。彼には煽動者もなければ連類者もなく、遺書らしいものさえもふところに忍ばせてはいなかった。
 しかし、この凶変によって、条約改正問題はまったく立ち消えとなり、二年間に及んだ大隈の努力も水泡に帰した。大隈の傷が完全に快癒したのはあくる年の春であったが、黒田内閣の総辞職とともに閑地についた彼は、毎朝、松葉杖をつきながら郊外の道をゆるやかな足どりで歩いていた。五月のはじめ、学生と教授たちの発起で彼の慰労会が、東京専門学校の講堂で催されたとき、彼は邸宅から運ばせてきた安楽椅子によりかかり、始終微笑を口に湛えながら、そのときの思い出を、ゆるやかな例の口調で語りつづけた。「吾輩に爆弾を投げた来島も、愛すべきやつじゃった。彼は吾輩の倒れるのを見て目的を達したと思ったらしい。哀れなやつじゃ。しかし、吾輩は彼を愛する。彼は爆弾を投げると同時に短刀をぬいて自刃した[#「自刃した」は底本では「白刃した」]。来島の最後は赤穂浪士の最後よりもすぐれている。えらい。たしかにえらい。彼は人を殺して自分だけが生きようなぞというケチな料簡は持っていなかった。赤穂浪士は不倶戴天の仇である吉良上野の首級を挙げるとすぐに何故吉良邸で割腹しなかったか。その動機においては赤穂浪士と来島とは天地霄壌しょうじょうの相違があるが、その結果においては来島の方が天晴れである。大久保を殪した島田一郎のごときは非凡な豪傑だったそうであるが、現場では腹を切らないで縲絏るいせつの恥かしめをうけ刑場の露と消えたのは見苦しき最後である。そこへくると来島というやつは実に眼先きの見えた悧巧なやつじゃった。吾輩を傷けるために、わざわざ外務省門外の狭いところを選んだごときは馬鹿では到底出来る芸当ではない」。
 大隈は、彼のすぐ左側に席を占めていた坪内逍遥をふりかえって、
「のう、坪内君」。
 と、だしぬけに呼びかけた。「君は小説家だからよく覚えておく方がいい。ああいう狭い道を通るときには厭でも馬車を徐行させなけりゃならんからな、――あそこに眼をつけたところがなかなかいい。吾輩はあいつのために片足を奪われたが、東京専門学校のあるかぎり、吾輩の足のかけ代えは何本でもある。しかし、なかなか可愛いところのあるおもしろいやつじゃった」。
 国会開設を前にひかえて彼はもう条約改正問題なぞはケロリと忘れたように、ハ、ハ、ハ、ハ、――と高らかな調子で笑いながら窓の外に眼をうつした。青葉をわたる風のさわやかな午後であった。





底本:「早稲田大学」岩波現代文庫、岩波書店
   2015(平成27)年1月16日第1刷発行
底本の親本:「早稻田大學」文藝春秋新社
   1953(昭和28)年10月20日発行
初出:「早稻田大學」文藝春秋新社
   1953(昭和28)年10月20日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「大隈重信」です。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:フクポー
校正:孝奈花
2022年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード