河鹿

尾崎士郎




 川ぞいの温泉宿の離室に泊っている緒方新樹夫妻はすっかり疲れてしまった。彼等はお互いの生活の中から吸いとるかぎりのものを吸いとってしまっていた。愛することにも、憎むことにも彼等にとっては最早何の新しさも残っていなかった。彼等は全く同じ二つの陥穽の中に陥っているようなものだった。互いに、小さな感情で反撥し合うことと、残滓にひとしい小さな愛情の破片を恵み合うこととの退屈な習慣の繰返しによって、彼等は辛うじて自分たちが対立しているということを感ずるだけであった。こういう生活は何時いつかは破れなければならない。――緒方新樹はそう思った。彼に従えば、つまり、これは誰れが悪いのでもない、彼等の結合が既に不自然であったのだ。彼等は生理的に男であることと女であることとの区別をのぞいては全く同じ気質を持った人間であったから。――
 ある晩、二人は寝床の中でこういう会話をした。最初、緒方新樹を揺り起したのは妻のA子である。
「ねえ、あなた、――わたしたちはこうやって暮しているうちに自分をすっかり擦り減らしてしまうような気がするじゃないの、それがわたし急におそろしくなったの。だからね、わたしいいことを考えたのよ。わたしたちはすっかりわかれてしまうことにするの。そうしてね、勝手な空想をするの。空想の中であなたがほかの女と一所に何処かへ逃げていってしまったっていいわ。わたしがひとりのこされる。ね、そうするとわたしたちの生活がもっと生々してくるわ。ほんとうにわかれるんじゃないのよ。世間体だけそうするの」
「なるほど、そいつはいい方法だ。早速はじめることにしよう。だがね、おれはお前ほど空想的でないから動くのが厭だ。――おれの方に残される役を振りあててくれ」
「あなたは莫迦に冷淡なのね、あなたはそんな風な言い方をして平気なの、――わたしはもうあなたにはまるで要らないものになってしまったのね、あなたはわたしがほかの男と逃げていったりするのを黙って見て居られるの?」
「お前は自分勝手な奴だな。――お前がおれにとって要らないものになってしまっているよりも以上に、おれはお前にとって要らないものになってしまっているじゃないか。おれたちの生活はそんな子供だましのような方法でゴマ化すことはできなくなってしまっているんだぞ。――だから」
「だからどうしたの?」
「だからおれはもっと根本的なことを考えているんだ――」
「根本的なこと? じゃあ、わたしたちはもうほんとうにすっかりわかれてしまうの?」
「そんなことはおれにもわからないさ。兎に角だ、おれはもうこういう話をすることにも疲れているんだ。おれは一人きりになりたい。そしておれの生活をとり戻したいのだ。おれはお前のかげを背負って歩いているようなものだ。お前がおれの敵だったら、おれはだしも救われるだろう、だが、そうじゃない。おれたちは味方同志だ。憎み合っている味方同志だ。それにこんな古ぼけた痴話喧嘩のテーマを幾つ積みあげたところで同じことだ。お前は何にもおれに遠慮する必要はないのだからな、お前の新しいきずなにとびつけばいい。――こういうときには人間は自分を不幸にすることを恐れてはいけない」
「とんだ御説法だわね。そんなに自分を不幸にしたければ、あなたが御自身で決行なさるがいいわ。あなたは何時だって、自分のことだけしか考えていらっしゃらないくせに」
「おれが?、――なるほど、おれは自分のことを考えているさ。だが、お前がおれよりも以上に自分のことを考えていないと言えるか」
「あなたは理窟がお上手なのね。わたしは一度だって、あなたとわたしとを別々のものにして考えたことなんかないのよ。それだのにあなたは何時もわたしのことと御自身のこととの間にはっきりとした境界をつけていらっしゃる。――わたしから離れよう離れようとなさるのがよくわかるわ。それを考えるとわたしはほんとにあなたにお気の毒でならないと思うのよ。ね、あなた。わたしたちはもうおしまいになってしまったのね」
 緒方新樹はもう我慢がならなくなった。彼は自分の頭の中の冷静が次第に乱れてくるのを感じた。A子の声が耳のそばで挑みかかるようにがんがん鳴りはじめた。彼の頭の中をA子との結婚生活が始まってからの数年間の記憶が入れ乱れて通っていった。その回想はすべて不快で濁っている。一瞬間、彼は自分が非常に不誠実で狡猾な、無価値な男のように思われてきた。すると、A子とわかれることが、何かしら献身的な行為のように思われてきたのである。そうだおれはわかれてやろう。おれはほんとうに一人きりになろう。――彼はわざと身体を反対側にねじ向けた。陽に輝いた白い砂浜を控えた海が彼の頭の中に現われてきた。その砂浜の丘の上にある宿屋の二階でごろりと横になっている自分の姿を想像した。おれは一人で旅に出よう。そう思うと、彼は急に自分の前に一つの新しい道がひらけてくるのを感じた。だが、これは何も今に始まったことではない。彼は、痴話喧嘩のあとで必ず自分の空想が同じ順序を追ってこういう気持に到達するのだという自嘲的な想念によって烈しくむちうたれながら、次に来るA子の言葉を待っていた。此処ここでおれはセンチメンタルになってはいけない。――と彼は思った。しかし彼が空想の限界を飛び越えるために心の構えを立て直したとき、彼は背中に忍びよってくるA子のすすり泣く声を聞いた。すると、彼は何か一つの強い衝動がおびき出されてくるのを感じた。
「ねえ、あなた、――ほんとうにわたしたちはもうおしまいになったの、ね、ね」
 A子の身体のぬくもりが彼の身体に迫ってきた。二つの掌が、吸盤のようにぴったりと彼の背中に吸いついた。馬鹿野郎、貴様はひっこんでいろ! 緒方新樹は胸の底から疼くようにのぼってくる衝動に向ってこう叫びかける、おれは今大事なときなのだ。
「ねえ、あなた、ほんとうなの?」
「ほんとうだ」
「じゃ、わかれてしまうのね?」
「そうだ。――」
 しかしそう言ってから彼は、急に心の中がげっそりして虚ろになってしまったような気がした。A子が彼の背中にしがみついて烈しく泣きはじめた。その泣声が、彼の胸の中にひろがってきた。彼は少しずつ自分がうしろへ引き戻されてゆくのを感じた。
「おい。お前はじっとしているんだ。おれは一寸ちょっとそとを歩いてくるから」
 緒方新樹はついと身をかわすようにして立ちあがった。彼はうしろにA子の声を聞いたような気がしたが、しかし、彼はわざとその声を払いのけるもののように縁側の障子をぴしゃりとしめた。星の冴えた夜である。彼は宿の裏手の草道伝いに水際までおりていった。彼の眼の前にはまん中にある大きな岩のために川の流れが二つにわかれ岩の横腹には波の飛沫を浴びた水苔がうす闇の中に光っている。彼はその前にしゃがんでじっと岩の横腹を見詰めていた。すると断続的に岩に殺到してくる白い浪がしらの尖端から黒いものが岩にとびつき、そのままずるずると上の方へ這いあがってゆくのを見た。
 一つ、二つ、三つ、――と、彼は水苔を縫うように、ぬらぬらと這ってゆく異様な生物の行方を追っているうちに、やがてそれが河鹿であるということに気がついた。闇の中に人間の模型のような四本の手足が、ちょうど裸体の人間を見るようにぺったりと滑かな岩の面にへばりついている。
 そのとき、一匹の河鹿が、岩角にしゃがんだと思うと流れの方に頭を向けて、美しい声で鳴きはじめた。すると、また一匹、また一匹、といった風に、岩をめぐって澄みとおった鳴き声が川波の音を潜ってひびいてきた。それは何か異常な衝動にしかけられているもののように彼の耳に迫ってきた。その鳴声は彼の心に生々しい性慾を喚び起した。彼は力無く蒲団の上にぐったりとよこたわっている妻の姿を想像した。妙な、不愉快な感情が彼の胸をかすめた。彼が慌てて立ち上ろうとしたとき遠い川岸から一斉に河鹿の鳴き声がむらがるように起ってきた。――その鳴き声は流れとともに近づいてきた。一匹の河鹿が岩角に縋りつきするすると巧みな腰つきで上に這いあがった。つづいて、もう一匹もう一匹と、転ろがるように咽喉を鳴らしながらのぼってくる。――最初の一匹が、前にいた河鹿に近づいて、うしろから、ひょいと胴体にとびついた。とびつくと、そのまま両足をだらりと下へのばした。鳴き声の調子が急に変った。と、見る間に二つ折り重ったままじりじりと岩をすべりおりた。やがて、彼の眼の前を雌と雄の二匹の河鹿が、胸をぺったりと吸いつけて下流の方へ流れていった。次の一組が現われた。そして、あとからあとからと同じ恰好をした二匹の河鹿が、頭だけを二つの流れの上に擡げるようにして下流の闇の中へかくれてゆく。絶え間なしに続いてゆく河鹿の行列を眺めているうちに緒方新樹は妙に心が晴ればれとしてきた。彼は酔っぱらったようにごろりと砂原の上に横になり、低い声で唄をうたいはじめた。彼の頭の上には星のうかんだ空がひろがっていた、彼は自分の唄う声が川波の音の中に消えてゆくのにじっと耳を澄ませながら、自分の心は今、非常に荘厳な何ものかに当面しているのだ、という気持になった。すると、彼の幻想の中で河鹿の行列のあとから、妻の身体をうしろから抱きすくめて悠揚として流れて行く自分の姿が神々しいもののように描きだされてきたのである。





底本:「尾崎士郎短篇集」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年4月15日第1刷発行
底本の親本:「鶺鴒の巣」新潮社
   1939(昭和14)年5月
初出:「新潮」
   1927(昭和2)年9月
入力:入江幹夫
校正:フクポー
2020年1月24日作成
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