菎蒻

尾崎士郎




 底冷えのする寒さで眼がさめた。夢からさめたあとの味気なさのせいでもあるが横の蒲団に枕をならべて眠っている妻と子供の顔がにぶい電灯のかげの中にたよりなくうきあがって見える。自分の力で支えきれないような不安がどっと胸にこみあげてきたのである。生活の重みに堪えられないというかんじではなくずるずるとすべり落ちた小市民的な感情の中で何時いつの間にかわれとわが運命の落ちつくさきを思いがけなくも見届けたという気もちなのである。すると、眼にうつる部屋の中の調度や、床の間をうずめている子供の玩具類までが、どっしりと根をおろした生活の中でまだ完全な父親としての覚悟を持ちきれないでいる自分の心に、もうどうにもぬきさしのならぬ人間生活の一断面を見せつけるような宿命感を呼びさますのである。ああこれが生活の実体であった、――と今更のように考えなおさずにはいられないような瞬間の佗びしさに胸をしめつけられるような思いで鷺野伍一はそっと起きあがるとすぐに雨戸をあけた。不意につめたいものが頬をかすめて吹きつける粉雪の白さが眼に沁みるようである。伍一は慌てて雨戸をしめると、
「おい、雪だよ」
 と浮ついた声で、眠っている妻をよびおこし、そのまま蒲団の中へもぐりこんだ。妻の登代は「う、う」とうめくように呟きながらうす眼をひらいたと思うと添寝をしていた四つになるマユミ(女の子の名前)の、蒲団のそとへはみだした肩を片手でおさえながら自分の方へひきよせた。もうそろそろ三月だというのに季節はずれな気候の変化がだしぬけにひとすじの明るさを彼の胸にそそぎいれた。言って見れば残された青春のまぼろしを心のどこかにさぐりあてたというほどの気もちで彼は雪が二日も三日も降りつづいてくれればいいがと心に念じながら、そのままぐっすりと眠ってしまったらしい。まもなく、誰かが玄関口でさけんでいる疳高い声が聞え、やがてせきこんだ調子のするどさがうつらうつらとしている伍一の神経にチカチカと迫ってくると、彼は急に不穏な予感に襲われながらとび起きた。
 玄関の障子の前に立っているのは二、三日前にわかれたばかりの従弟の小橋多吉であった。彼は半分すぼめたままの雪の降りつもった傘を格子戸の上に立てかけたまま伍一の顔を見ると飛びつくような声で、
「知ってますか、今朝のことを?」
 雪の中を外套も着ないで歩いてきたのであろう、よれよれの紺絣の着物がびしょびしょにぬれているのも平気で、
「いよいよはじまったんです、――今朝」
 こみあげてくる声が咽喉につまって、彼の眼が急に異様な輝きを帯びてきた。
「何がさ?」
 と言いながら伍一はわざとらしくつめたい表情をしてみせた。その手に乗るものかという気もちである。しかし、そうは言っても、何時もの、途方もないことをしゃべりだしては伍一の感情を大きくぐらつかせておいてからそのすきにうまい口実を見つけだして小遣こづかいをせびってゆくときのあの多吉とは少し様子がちがうようでもある。前の晩にやってきた代々木の叔母から、多吉がちかごろ近所の鰻屋の娘に夢中になってそのために方々の知合いに不義理をかさねて困っているという話をさんざん聞かされたあとだったので、多吉の思いつめた真剣な表情にぶつかると伍一はふふんと鼻であしらうような恰好をしないではいられなかった。
「えっ、――ほんとにどうしたんだい?」
「新政府が、――新政府が出来るんですよ、今朝いよいよ」
 吐き出すような調子で多吉が声をはずませた。
「新政府?」
「じゃあ――」
 と、彼はもどかしそうに、
「知らないんですね、今朝のことを、――総理大臣から要路の大官まで根こそぎにやられたんです。日本はこれからどうなるかわかりませんよ」
 青くひきしまった彼の頬がぴくぴくと顫えた。
「いよいよ」
 と多吉は半分あけ放したままになっている表の木戸口を振りかえりながら、「われわれの時代が来ましたよ。――黒幕には丈ちゃんがいるんです、みんな丈ちゃんの立てた計画どおりになって」
 落ちつこうとあせればあせるほど声の調子はますますみだれてくる。あとからあとからとこみあげてくる昂奮のために心の平衡をうしなった彼の眼がどうにも収拾のつかないほど湧きかえる空想の焦点を定めかねておののくように顫えているのを、伍一は半ば気圧けおされるような思いでしっかりとうけとめながら、
「とにかくあがったらどうかね。そんなところに立っていないで」
「そうしちゃあいられないんですよ、今日一日が勝敗の瀬戸際なんです、いざとなったら僕も一役買って出なくっちゃあ」
「買って出るって――?」
「何も彼も根こそぎに変ってしまうんですよ、ああ何も彼も、とにかくバタバタと事は決ってしまうんですからね」
「まア、それにしても」
 と言いながら伍一は玄関の左手にある応接間のドアをあけた。多吉もあとからついてあがって来たが籐椅子によりかかると女中の持ってきた番茶をひと息に飲みほし、
「とにかく大へんなことをやりましたよ」
 と、ケロリとしている伍一の顔を不満そうに眺めながら、その日の未明に蹶起けっきした青年将校の一団が幾手かにわかれて要路の大官の屋敷を襲い、今、警視庁を占領してそこに立てこもっているというはなしをしたあとで、
「僕も、――」
 と言ってから、しばらくもじもじしていたが、
「いよいよ、立つときがきましたよ、時が来たんです、時が」
 ひとりでに胸の底からのぼってくる言葉をどうにもおさえきることができないというかんじだった。そこへ、台所口で近所の薬屋の御用聞きと話をしている登代がドアのそとから呼びかけた。
「大へんよ、――今ね、あそこで電話をかけているひとのはなしをきいたんだけど、今朝、総理大臣も教育総監もそれから大蔵大臣もみんな殺されてしまったんですって」
「ほんとうかい?」
 と言いながら伍一はやっと意識の上にうかびあがってくる現実の情景を頭の中にハッキリ描きだした。多吉の話をきいているときには何か空虚な空々しいものがかんじられて、半信半疑でいたものが急に防ぎきれない力となって身近に迫ってきたのである。
「とにかくおれは舟形の家まで行って来よう――ことによったらその足で東京まで行くことになるかも知れないからね」
 もう押しかくすことのできない心の狼狽を多吉に見透かされないために、「まあ酒でも一ぱいひっかけて落ちついた方がいいよ、おれはすぐかえってくるからな」
 と、わざと落ちついた声でにやりと笑ってみせてから急いで洋服に着替えると廊下の柱を両側からおさえて二、三度ぶっつかってみた上に、こんどは畳の上で四股を踏む真似をして左右の足の弾力をためし、さあ来いという身構えをつくりあげてから玄関へ出た。「大丈夫?」と不安そうによびかける妻の声をうしろに聞きながして格子戸をあけると、伍一は急に自分の肉体に思いがけない変質作用が起ったような緊張を覚えた。降りつもる雪のためにかたちを変えてしまった市街の輪廓や、遠い森や丘までが彼の眼にはまったくあたらしいもののように映ってきて、その朝、眼をさましたときのもやもやとした不安の性質が自然現象の変化をとおして彼の心の中にぬきさしのならぬかたちを現わすのであった。それは当然起るべきことが起ったというかんじではなく、もはや自分の力で推しはかることのできない運命に身をまかせているような気もちである。雪の中を歩いていると個人の力で防ぎきれない悲惨な情景がすでに遠くすぎ去った歴史のうすくぼやけた回想の中にうかびあがる一つ一つの場面のように彼の頭をかすめるのであった。するとあたらしい空想に胸をときめかせている多吉の顔も何時の間にかこの運動の外廓的な雰囲気の中にちこんでいったらしい多吉の兄の丈吉の顔も、すべて歴史の断面をよぎる無数の幻影の中の一つのように思われてくる。そう言えば多吉のような男はこういう変乱のどさくさの中には昔から数かぎりなくあった民衆煽動者の一人にちがいないであろう。自分がどんなにすぐれた男であるかということを自分に言いきかせないでは一日たりとも生きられないような不安が、彼にしてみればこの偶然のきっかけの中で「時が来た!」とよびかけるのも当然であるが、しかし、それも彼が民衆の代表者となろうと考えているわけではなく、何かこの混乱の動きに調子を合せないではいられない気もちなのである。伍一はこの二、三年間、彼の家にずるずるべったりの居候生活をつづけてきた多吉が、現実の惨苦を身にしみじみとあじわえば味うほど、貧困の中に喘いでいる彼の一家を何とかして救い出そうとあせりぬく気もちを道化じみた彼の姿勢の中からかんじないではいられなかった。まかりちがったらおれだって文芸院総裁ぐらいにはなれるぞ、――と本気で自分にささやきかけながら精一ぱいの幻覚をもちこたえている彼の顔が急に伍一の頭の中で言われようのないいじらしさをもってはればれと輝いてくるのである。それと比べると多吉の兄の丈吉の顔は切実な現実の中からうかんでくるだけに悲劇的な印象によってぬりつぶされてしまっている。自分の身にふりかかる危険の予想はむしろ丈吉のひた向きな感情の中に芽をふいているとも言えよう、――伍一はひやりと胸に来るものをかんじて足早にあるきだした。
 舟形の家は彼の家から十町足らずのところにある。郊外の屋敷町はしいんとしずまりかえってときどきトタン屋根からすべり落ちる雪のかたまりがずしんずしんと大きな音を立てた。舟形は戸をしめきった二階の書斎の中でぼんやり机にもたれていたが勢いこんで入っていった彼の顔を見ると、
「どうだい?」
 とせせら笑うような微笑をうかべた。「何かはじまったそうじゃないか、――」
「だからさ」
 伍一は長火鉢の前へぐったりと腰をおろした。「今日の結婚式はどうなるのかと思ってね?」
「別にどうというわけでもないだろう、おれたちにとっちゃあ」
 舟形は高をくくったような落ちつきを見せながら言った。「正午ひるすぎになってから出かけてみようと思うんだがね――」
 その日彼等の先輩である老作家、秋山無弦の長女が新進作家の高垣と結婚することになって舟形はその媒酌人になっているのである。しかし、此処ここで舟形とはなしているともう事件はっくに通り去ってしまったような気もちになり、考えようによっては朝飯も喰べずに家をとびだしてきた自分が多吉と同じ幻影におびやかされているようにも思われてきたが、「とにかく雪見酒で景気をつけてから出かけようよ、どうジタバタしたところで今から仕方がないんだから」と言いながらニタリと笑う舟形の顔を見ると、急に一刻もじっとしていられないような焦躁に襲われるのであった。もう一本もう一本と何時の間にか腰を落ちつけて飲み出そうとする舟形を無理にせきたてるようにして外へ出たのは正午少し前で、雪はもうすっかりやんではいたが灰色の空は前よりも一層重苦しい色に掩われ雪の道は歩くごとにつるつるとすべるほど氷りついていた。市場の前から出るバスで国道へ出て通りかかった円タクに乗換えると、「やりましたね」――と若い運転手がはずみのついた声でうしろを振りかえった。何時何分に誰が殺されて誰が助かったというはなしを彼は得意そうにまくしたてたあとで、「どうなりますかね、これからの日本は?」
 伍一がだまっていると彼はあの大蔵大臣だけは生かしておきたかったとか、こんなにバタバタやられたんじゃあ今に大臣になり手がなくなるんじゃないかと、ひとりごとのように呟いていたが、自動車が東京へちかづくにつれて窓にうつる街の空気はしいんと鳴りをひそめながらも何処かに無気味なものを孕んでいることが眼に見えるようであった。森川町へゆく舟形と日比谷の交叉点でわかれると伍一はざわざわとうごく人波を押しわけてその日の朝、暴徒に襲われたというA新聞社の方まで歩いていったが、町角や電柱の前にかたまっている群集の眼はやっとひと幕終ったあとの次の舞台を待ち望んでいるような好奇の感情にみちみちていた。襲撃された筈のA新聞社の前には自動車が二、三台置いてあるきりで格別変った様子もなかったがひっそりとしているだけに不穏なかんじがまだ何処かにかげをひそめている。何処へ行くというあてもないので伍一は急に新聞社をたずねる気もちになり訪問用紙に名前を書いて三階の応接室へ通されるとまもなく学芸部員の後藤が何時ものような落ちついた顔をしてはいってきた。彼は咳きこんだ態度で軍隊の動静をたずねる伍一の顔につめたい微笑をなげながら無感動な調子で殺された大官の名前をあげてから、「此処へも特務曹長の肩章をつけた男が五、六人の兵士をつれてやってきたそうですがね、工場へ入って活字のケースをひっくりかえしていったくらいで、――」と言いながら急に言葉を外らすのであった。いずれにしても若い将校たちの蹶起が民衆の感情と何処か微妙なところで喰いちがっていることを伍一は昂奮に声を顫わせてまくしたてたが、しかし、相手が一向乗って来そうにもないので拍子ぬけのしたかたちで、「じゃあ」といって立ちあがった。その足ですぐちかくにある「日本新聞聯盟」を訪ねると顔見知りの社員が四、五人ストーブをかこんで何かしきりに話しこんでいた。何処にもまだ正確な情報は入っていないらしく、陸軍大臣が射殺されたというような情報が入ってきたと思うとすぐそのあとから流言だということがたしかめられるというような程度で、次から次へと伝えられる噂を耳にしているうちに、不穏な空気の中で少しずつ民衆の感情からはなれてゆく将校たちの存在が、伍一の頭の中で次第に悲劇的な色彩をふかめて描きだされてくるのである。雪の夜に死を決して立った若い将校たちの顔が、殺された大官よりも一層悲劇的な印象を彼の心によび起すのも不思議であったが、しかし結局残るものは正義が何処にあるかということではなくてチラチラとひらめくようにとおりすぎる劇的な場面への追想だけであった。間一髪のところで民衆とのあいだに大きな溝の出来あがってしまったことが今となると急に惜しいことのようにも思われ、変化の行末を見届けたという気もちが、もう一度あたらしい幕のひらくのを待っている民衆のざわめきの中に何時のまにかまぎれこんでいる自分の姿をかんじさせるのであった。謄写版刷になった報道が入ってくるごとに伍一は一つ一つ丹念に眼をとおしていったが数時間のあいだにじりじりと攻勢から守勢にしりぞいた青年将校の動き方には一つのことをやり終せたという落ちつきがあらわれ、それが知らぬ間に彼の心の中で空虚な、白けた敗北的なかんじに変りかけていた。全国から若い同志が民間の情熱をすぐって立つという最初の予想さえも次第次第に影のようにうすれかけているのである。夕方そこを出た伍一が、その夜の結婚披露の宴席である東京ビルデングの地下室にあるレストランの扉をあけたときにはもう控室は半数以上の来会者で埋っていたが、彼が入ってゆくと、
「よう、鷺野!」
 と隅の方から太い声が聞え顔じゅう髯だらけの男が煙草をくゆらしながらゆっくりと立ちあがった。どきっとして見あげると二十年前、彼が社会主義青年であった頃の同志の一人で今はある右翼団体の頭目として幅を利かせている帆上佐久良であった。この雰囲気の中では帆上も話相手がないらしく一つのテーブルに陣どってひとりだけしょんぼり頬杖をついていたが、「君か!」と鷺野がなつかしそうに答えると慌てて横の空椅子を片手でずらしながら、
「めずらしいのう、――何年になるか、おれは高垣のおやじと親友なんで誘われてやってきたが、ことによったら君にも会えるかと思ってな」
 あたりを憚らぬ大声でハ、ハ、ハ、ハ、と笑いながら彼の手をしっかりとにぎりしめたのである。笑顔には昔のおもかげがかすかに残っていたが、左翼から右翼にうつるとこうも変るものかと思われるほど態度から物の言い方までもがらりと変って今は何処から見ても押しも押されもせぬ憂国の志士であった。
「どうじゃ」
 と言いながら帆上佐久良は肩をそびやかした。「いよいよやりおったのう、ひとつ大きなやつをどかんと放してしまえばいいんじゃが」
 彼は民衆の冷然として落ちついているのが歯がゆくてならないというかんじでひとわたり会衆の顔を睨めまわした。
「どかんとぶっ放さなくっちゃ駄目だ、それからでないと仕事が出来んわい」
 そこへ小柄な品のいい一人の老紳士がちかづいてくると彼は慌てて、「高垣君!」と太い声でよびとめた。
「紹介しよう、――鷺野伍一君じゃ」
「やあ、これは」
 と言って老紳士が丁寧に頭を下げた。伍一も恭々しく答礼をして、身体の向きの変ったとたんにひょいと座をはずした。低い衝立で仕切ってある次の部屋へゆくと片隅のテーブルに十人あまりの男が円陣をつくってかたまっている。まん中にどっしり腰を据えてあふれるような調子でしゃべっているのは彼と同じ村に住んでいるB新聞記者の内狩だった。情報の報告はひととおり終ったところらしく彼は声の調子にまかせて、あのときはああすべきであった、このときはこうすべきであったと、もっともらしい批判を下しはじめたが、しかし意見に大した確信があるわけではなく、むしろたのしそうにしゃべりつづけている自分の姿に陶酔しきっているというかんじだった。まもなく食卓がひらかれたので、会衆が一時にざわざわと立ちあがった。しかし別室の、設けられた席につくと文壇関係者の中でも主だった人の顔の見えないのが急に外の空気の険悪さを思い起させるほど落ちつきのないものに変ってきた。花婿の友人である若い作家やジャーナリストがかわるがわる立ちあがって次々と祝辞を述べはじめたが、パチパチと起る拍手にも気勢がなく言葉がとぎれるごとに街頭に起る不安の幻影が何処からともなく忍びこんできて、こういう宴会にふさわしいどよめくような感興は何時まで経っても湧いて来なかった。やがて一人立ち二人立って空席がだんだんふえてくると伍一もじっとしていられない気もちになり、ちらっと前の席から眼配せして内狩のあとから、便所へゆくようなふりをして表の扉をあけると先に出た批評家の秋庭が内狩とならんで彼の方を向いて立っていた。
 時間はまだやっと八時を少しすぎたばかりでもあるし、このまま別れてかえるにもかえりきれないかんじで、「何処かへゆこうか!」と伍一が言うと、
「さア」
 と、内狩はどっちつかずの返事をしてから、
「今夜あたりが一ばん危いんじゃないか、このままかえった方が無事らしいな」
 呟くような声で言ったが、しかし、右に省線の駅のあかりの見える四つ角まで来ても方向を変えようとはせず、名残惜しそうにあたりを振りかえっていた。銀座の表通りにはさすがにほとんど人通りはなかったが、雪はまだ街の片隅につみあげられ、どの屋根からも雫が滴り落ちていた。もう戸をしめる用意をしている店が多く、氷りついた路上に灯火のかげのゆれているのさえ何故ともなくうす気味のわるいかんじで、歩きながら伍一は、「行こうか、行くまいか」――と、何べんとなく自分の心に念を押してから左手にひらけた横町へまがっていった。そこから二つ目の四つ角の百合のいる酒場の扉をあけると外の空気とはおよそ不調和なざわめきがたちまちしいんとしずまって、テーブルを占めている客の顔が一せいに扉の方をふりかえった。誰ひとり声高に話しているものもなく、あたらしい客が入ってくるごとに物におびえたような視線がチカチカと入りみだれる。十二、三人いる女給たちも三分の一はやすんでいたが、三人が入口にちかいテーブルに腰を据えると奥の方からそっと立ちあがった百合が笑いかけた。
「やっぱり」
 と、彼女はうきたつような調子で伍一の耳へ口を寄せると、
「ねえ、きっと来て下さると思ったのよ」
 声にも表情にも何か見透しつかない不安の中へ誘いこまれてゆくようなひた向きなものがひそんでいる。どうにでもなれというほど捨鉢なかんじでもないが、見えざる暴力に対して心を湧き立たせているような溌剌とした情感が彼女の顔をひきしめているのだ。伍一の好みからいうとまったく逆な型の女であったが、表情をかすめる陰影の変化がときどき彼女を二十二、三の若さにひきもどすかと思うと、何かの拍子でだしぬけに長い生活の習慣がムキ出しにあらわれ、その顔がみるみるうちに生きることに不敵になりきった四十女の太々しさにぬりつぶされる。言わば実体からぬけだした魅力の幻影だけが伍一の心の中に、どんな雰囲気にも適応のできる擬態だけで生きている女の印象をつくりあげているのであったが、それが今夜は外から来る不安のために一層肉体的に見えるのであろう。
「ねえ、ほんとにうれしかったの!」
 彼女は二、三杯のビールでやっと一つの雰囲気の中におさまりかけた三人の顔へ乱れた視線をちらつかせながら、
「こんな気もちがまだ自分に残っていたのが不思議なくらいよ」
 伍一は心の中で自嘲的なうす笑いをうかべたが、じっと自分を見つめている女の思いがけない真剣な表情にぶつかると不意にぬきさしのならぬ気もちに襲われ、こいつはいかんぞ、と自分をたしなめながら、もう一度百合の言葉をたしかめるために、うすくぼやけた電灯の光りの中で急にあたらしい希望にかがやきだした女の顔を見据えた。伍一は飲みさしのビールをぐっとひっかけてから、
「今夜は大へんなことになるかも知れないぜ」
「だからどうなの?」
「君たちも早くかえらなくっちゃあ」
「だって」
 眼球の上にかすかに残っているかすり傷のような翳が百合の顔を悲しげな相貌につくりかえた。「まだいらっしたばかりじゃないの、もう二十分、――せめて二十分、それにいろいろはなしもあるんだけれど、何だか今夜はうれしくって仕方がないのよ」
「うれしいって、――一向うれしそうでもないじゃないか?」
「そりゃあ」
 と、百合はしなだれかかるように肩をすぼめて、
「厭んなっちゃうわね、思うことは何一つ言えやしないんだもの、――犬なら尻尾を振るところなんだけれど」
 睨むような眼つきをしてから、くつくつと口ごもるように笑いだしたが伍一は妙に白けた気もちになってうしろの壁にもたれかかった。「何しろ形勢がどう変るかわからないんだし、それにうっかり」
「うっかり?」
 せせら笑うように鼻をゆがめて「どう、今夜は?」と思わせぶりな表情をしてみせる百合の顔を彼はドギマギしながら何時の間にか好色的な微笑で迎えているのであった。
 客は誰ひとり腰をあげようともしなかった。そこへ四、五人の会社員風の男がどやどやと入ってくると、彼等はまん中の席にひとかたまりになりぼそぼそとした調子で何かしきりに論じはじめた。女給たちは何時の間にか彼等の周囲にあつまってしきりに聴耳を立てているのであった。

           *

 形勢はまだどう動くかわからないような状態にあったが、しかしどう変ったにしたところでだしぬけに民衆をおびやかすような異変はこれで一段落を告げたというかんじが街の隅々から湧きあがってきた。生きることの支柱をうしなってうろついていた市民的な感情が、逆に叛乱軍の非を鳴らそうとする傾向に変ってきたのである。しかし、戒厳令が布かれたところで危機はまだ通り去ったわけではなく流言におびえていた民衆がこんどは逆に流言をまき散らそうとしているのであった。一刻ごとに数のふえてくる無責任な煽動者たちは自分のつくった幻覚に戦きながら険悪な状態を長びかせることによってせめてもの生甲斐をかんじようとしていたのである。伍一の家の書斎に近所に住んでいる同業者の小説家や画家があつまってきたのは三日目の夜であった。彼等はそれぞれこの憂うべき現象について一家言を吐いていたがそこへ新聞記者の内狩が半分以上当てになりそうにもない情報を持って入ってくると急に一座が緊張してきた。内狩の顔はまことしやかな情報をつたえるというだけではなく何か悲壮な英雄的な昂奮にみちているようであった。
 彼は誰の意見が強硬で誰の意見が軟弱であったというようなことまで見てきたような調子で話すのであったが、しかし、彼の同僚がその日、叛乱軍の本部にあてられている赤坂のホテルを訪問してきたところによると、青年将校たちは目的を貫徹するまでは最後までがんばる決心でいるという。
「とにかく、死を決してやったんだからね、尋常一様の覚悟じゃないにきまっているよ」
 内狩が眼をパチパチとうごかすと、
「だけど君」
 と、片肘で上体を支えながら畳の上に寝そべっていた洋画家の八代がむくむくと起きあがった。「これ以上がんばったらいよいよ彼等は悲境に陥るだけじゃないか、――僕は悲しむ、壮烈なる彼等の決心のために」
「それがまだどうなるかわからないんだよ、正規軍にしたところで、ただ遠巻きにしているというだけでこっちから手を下すというわけにはゆかないからな」
 内狩はそう言ったあとで急に沈痛な表情になって、
「ときすでにおそしだ」
 と低い語調で言った。「――やるなら昨日のうちさ、それをほっといて、時をすごしていたのがいけないんだ、やっぱり彼等の失敗は機会をうしなったというところにあるんじゃないか、例えば明智光秀が本能寺を攻めたときだって」
 内狩の智識の出所は近ごろ彼の愛読している『太閤記』であったが、しかし、この雰囲気の中では誰も彼の卓抜な意見に耳をかたむけようとしていた。
「ねえ、――やっぱり僕はそう思うよ、本能寺をおとしいれた光秀が何故京都あたりでいい気になって戦勝の夢に酔い中国からひっかえしてくる秀吉の軍勢に備えようとしなかったかというんだ」
 内狩は前かがみになって下からじろっと一座を睨みつけながら、調子に乗って光秀が山崎の合戦にやぶれて名も知らぬ一土民の竹槍にもろくも敗残の身をぐさりとやられるところまでひと息に弁じだしたが、そこまでくるとさすがに彼も話が横みちへ外れすぎたことにひけ目をかんじたらしく、文学青年の丸川が「ハハア」と感心するのを照れくさそうな微笑でまぎらしながら、――
「とにかく、一つの錯覚は民衆が動いてくることを信じたところにある」
「いや」
 と、その言葉を今までだまって聞いていた舟形がさえぎった。「彼等はあれだけで当初の目的を貫徹しているんだよ、これ以上何を望むところがあるのかね、――これから先き民衆運動に移ろうとするのは無理だよ、むしろこんな大事件を起した責任を明かにするために国民の前に責任を明かにするべきじゃないか」
「それもそうだが」
 と、八代が言った。「一体どうなるのかね、おれたちは?」
「どうにもなりゃしないさ――どんな時代が来たところでおれたちの生活がこれ以上悪くなる筈はないんだからな、むしろ僕は」
 舟形は言いかけて急に沈痛な表情になった。「文壇なんていうものが一掃されてしまった方がいいんじゃないかと思うよ」
「ところが」
 丸川が眼鏡越しに昂奮した眼をかがやかした。「――これ以上悪い状態が出てきますよ、どっちへころんだところで政治的権力は一方的にかたむくことはわかりきっているし、そうなったら残るものは政府的思想を宣伝するための通俗ジャーナリズムだけになるんじゃないかな、僕は今にきっとあそこの荒物屋のおやじやそば屋のおやじが肩で風を切って歩き廻るような時代が来ると思いますよ」
「そうも言えるがね、――しかし案外そうじゃないかも知れないよ」
 内狩は何か言おうとして口をもぐもぐさせていたがそれきりでだまってしまった。それからまた話は一転して軍の勢力関係に移っていったが言葉がとぎれると今にも彼等の生活が根こそぎにうち壊されるような、――もはや昨日まで夢みていた未来というものが、そのおぼろげなかたちさえ消え去ったあとの味気なさだけが残るのであった。しかし、それから酒が出ると話はまた前にもどって彼等は何時の間にか元の観覧席におさまり舞台の上の俳優の動静について勝手な意見を闘わしていたが、話がはずむにつれてまだまだおそろしいものが何処かに影をひそませているという気がしてきた。それが急にあたらしい好奇心に変ってきたのである。危険はすでに通り去ったようでもあるし、いよいよこれから本格的にあらわれて来そうでもある。安心と不安とが胸一ぱいにひろがって、誰も彼も言おうとして口に出して言い切れないものを残したままでかえっていったのは十時少しすぎだったが、伍一はこれから東京の叔母の家へゆこうという丸川をおくって郊外の駅まであるき、そのままひっかえして、駅から右へ一町ほど行ってすぐ左にひらけている石畳の広い坂みちをのぼってくると、坂の上からながれてくる電灯の灯かげの中に長い影を曳いてせかせかとあるいてきた男が黙って擦れちがったまま二、三歩行ってからすぐ立ちどまって、
「鷺野君!」――と呼びかけながらくるりとうしろを振りかえった。
 彼の近くの高台に住んでいる先輩の島であった。文学者にはめずらしいほどの事業的才能に恵まれている島が丸ノ内のT劇場の支配人になってから滅多に会う機会はなく道であっても、「やア」と何時も威勢のいい声をかけて足早に通りすぎてゆくくらいが関の山であったが、それが今夜は急になれなれしく呼びかけられたので、伍一は虚を突かれたかたちで、
「どこへゆくんです、今頃?」
「それがね」
 五十を過ぎている島の顔が青年らしい若々しさに張りきって見えた。「――今、寝ようと思っているところを電話で起されちゃってね、何でも正規軍」
 と、言ってから、
「どっちがどうなのか僕にもよくわからないがね、とにかく、帝国劇場を本拠にした一部隊が警視庁と対峙していていつ何が起るかわからないような状態なんだそうだ、ところが夜になって警備の兵士が劇場のそばの料理屋にどやどやと入ってきて今、飲めや唄えの大さわぎをしているというんで万一のことがあっちゃいけないから来てくれというんだよ、――ありがたくないね、今頃からひっぱり出されるのは」
 しかし、彼は格別危険におびえているという風でもなく、
「失敬」
 と威勢のいい声で片手を帽子にあてたと思うとくるりと向きを変えて急ぎ足にあるいていった。伍一の頭に疲れて酔っぱらった兵卒のむれが食卓をかこんで口々に叫んだり、浪花節を唸ったり唱歌を唄ったりしている情景がうすくさびれた物語の中の風景のようにとぎれとぎれにうかんでくる。石のようにかたくなった雪は道の両側に高くつみあげられ、夜風の寒さの中から酒気に煽られた兵卒のわめきちらす声が聞えてくるようであった。もう形勢はどう動かすこともできないところまで来ているらしい。家へかえってくると彼が出てゆくのとほとんど入れちがいにやってきたという多吉が茶の間の長火鉢の前にしょんぼり坐っていたが、彼の顔には前の日のような精気がなく、左の眼から耳にかけて繃帯をしているのさえ何か痛々しいかんじであった。「どうしたのかい?」と彼がたずねると、
「いや」
 と、しきりに頭をかきながら、
「それよりも兄貴のことで心配しているんですよ」
「丈ちゃん――?」
「それがね、昨日まではハッキリしなかったのが、だんだん外部関係がわかってきたらしいんですよ、――今朝も民衆聯合を指導していた根本という人が夫婦で僕の家へ逃げこんできたんですがね、兄貴は兄貴で夕方出たきりかえってこないんですよ、今のところではまだ兄貴の関係していることは警察にも憲兵隊にもわかっていないらしいけれど、やがてわかることはきまっているんですからね」
 彼のはなしによると丈吉は聯合の幹事長をしている永富から情報をうけとる手筈になっていたのであるが、今朝約束の時間に訪問すると、形勢が変ってきたために永富の態度が急にぐらついてきたといって憤慨していたそうである。しかし、丈吉がどの程度まで関係があったかということにも疑えば疑える節が残っていたが、多吉はもう昨日の昂奮は洗い去ったあとのようなケロリとした顔をして、
「どうしたもんですかね、――」
 と、げっそりした声で言ってから忌まいましそうに舌舐めずりをして、
「まったくどっちを向いたって人のふんどしで相撲をとろうとしているようなやつ等ばかりですよ、兄貴の友人の岩越弁護士だって昨日は朝から晩までペコペコしながら兄貴の行く先々へついて廻っていたようなやつが今日になるとどうでしょう、わるいことをまるで丈ちゃんのせいのようにして喰ってかかるような始末ですよ、その岩越が昨日、丈ちゃんといっしょに「山王ホテル」の本部へゆく自動車の中で、君、大丈夫だろうかな、というんで、もちろん大丈夫さといって答えると、いや、僕だって大臣ぐらいにはなれるだろうなと耳うちしたというんで、あとになって大笑いしちゃったんだが」
 多吉はもう雪の日の朝、政治面へ打って出ようという決心をもらしたことなぞは忘れてしまったような調子で皮肉そうなうす笑いを洩らした。すると、常識の限界から飛び出すまいとつとめている人間がやっぱり心の底ではだしぬけにあらわれる偶然を待ち望んでいるということが伍一の心にますます不確かな民衆の動きをかんじさせるのであった。
「それで、丈ちゃんは一体何処にいるの?」
「そいつがわからないんですがね、しかし、兄貴はしっかりしていますよ、唯、いよいよとなったときの用意だけは今のうちにしておかないと」
 幻想の消えつくしたあとのげっそりとした疲れが多吉の顔にうかんでいる。伍一はそのままひとりで書斎へ入ったが、しかし不安は叛乱軍よりもむしろ丈吉と自分との関係の中にどっしり根をおろしているように思われる。そのかんじはあくる日になると一層つよくなってきたのである。夕方になって次々と配達される号外には短い報道の中にもいよいよ叛乱軍の最後の運命のちかづいたということを暗示するような暗い翳がちらついていた。伍一は書斎の窓をあけて遠い街々の屋根にまだかすかに残っている雪のあとがキラキラと輝くのを眺め、この数日間不安に湧き立った青春がふたたび元の位置にひきもどされて小さい生活の中にしおれてゆくのをまざまざと見せつけられるような哀感に襲われた。そこへ、格子戸が勢いよくあいて早退けで社からかえってきた内狩の声が聞え、彼はあがってくるとすぐポケットの中から謄写版で刷った一枚の紙きれをとりだした。
「これを今日飛行機で陣地の上から配ったんだよ、――もう駄目だね、こうなったら」
 彼のはなしによると日暮れがたであったが「近衛師団長」の機智で山王台の上から帰営ラッパを吹き鳴らすと急に隊を組んでいた兵卒のむれが一角からくずれるようにうごきだしたというのである。
「それで、どうしたんだい、将校たちは?」
「ハッキリしたことはまだわからんがね、代表者の野村大尉が悲壮な訣別演説をしたそうだ、――それからみんな一斉に自決したという説もあるんだがどうもこいつは怪しいね、生き残ったとしたら何だか少し寂しいよ、死刑になることはわかりきっているんだし」
「あんなときにはやっぱりひと思いに死ねないものかね?」
「そりゃあ――」
 と、内狩はだんだん冷静な表情になって、
「覚悟はしているだろうが、いざとなると万一という気もちも出てくるにちがいないからな」
 悲劇はむしろそこにある――と、伍一は思わず心の中で呟いた。感激のクライマックスをとおりすぎた人間の冷やかな眼にうつる末路の現実が彼の頭に救われようのない惨忍なものをかんじさせるのである。人間が生命いのちがけでやる仕事には必ず一時に魂の燃えつくすような幻影が伴うものだ。生きていることの意味は結局この幻影の中に存在をたしかめるときにだけあるのではあるまいか。あたらしい現実がかたちを整えてうきあがってくるときには感激は消え去って箸にも棒にもかからぬ何ものかが必ず過去に残されるのだ。内狩がかえったあとで窓にもたれている伍一の眼に忍びよるうす闇をとおして雪の色が堪えがたき生々しさを残してうかんでいる。すると、三日前の朝、降りしきる雪の中を足音高く行進してくる軍隊の先頭に立って昂奮した瞳をかがやかしていた若い将校の顔が、彼の頭をかすめ去るのであった。
 多吉の兄の丈吉が憔悴しきった顔をしてやってきたのはもう夜が更けてからだったが、彼は外套をぬいで茶の間に腰を据えると、
「ああ」
 と、かすれるような溜息を吐きながら神経的に首を烈しく振ってみせた。「いよいよ決心すべきときですね」
 おさえきれない思いがうるんだような彼の眼にチカチカとひらめくのを見ると伍一は何も彼もわかっているという風に二、三度軽くうなずいてみせてから、
「それでどうするの、丈ちゃんは?」
「そのことでね」
 と、丈吉が沈みきった声で言った。「相談しようと思っているんですよ、――外部の関係者は今日までに百人ちかくいるんですがまったく連絡がついていないらしいんです、だから当分どこかに身をひそめてハッキリした情報をつかんでから進退を決めようと思っているんですが」
「しかし、情報といったってもう大勢はきまっているんだからね」
「ええだけど」
 たるんだような力のない声で彼は考え込むように眉をひそめた。「まだほかの情勢がどう変るかもわからないし」
「それにしたって、今となっちゃどうしようもないじゃないか、――それより問題は丈ちゃん自身の進退だね」
「そいつがどうしていいか見当がつかないんですよ、やっぱり自首して出るか、それともどこかへ逃亡しようかと考えあぐんでいるんですが」
「どっちとも僕には言えないが、どうせつかまるもんなら自首してしまった方がいいんじゃないかな?」
「それも考えるんですがね」
 声が涙にくもってくるのを彼はぐっとおさえて、無理にもまだ何処かにたのむべきものが残っているという気もちをかきたてようとしている様子であったが、
「どんなに追いつめられても」
 と言いながら苦しそうな笑いをうかべた。「自首すべきじゃないと思います、ああ僕にだって」
 眼鏡越しに伍一を見る丈吉の眼がだんだん嶮しい輝きを帯びてきた。「まだ骨がありますよ、つまり僕には生きているかぎり一つの仕事が残っているということになるんです」
「そいつはわかっているがね」
 伍一は次第に切迫してくる感情を避けるために、「おい酒を持って来い」ととなりの部屋にいる登代に命じてから、
「だけど君、――そのことはまた別じゃないか、すくなくとも僕の認識の中では今度の事件についての君の役割は終っているよ。それにもし君が逃亡したとなったら家の方じゃ大へんなことが持ちあがるぜ」
「そうなんだ」
 と丈吉が沈痛な声で答えた。八人の弟妹の顔や、老父母の顔が彼の瞳をかすめたのであろう、丈吉はときどき襲いかかる三日前の幻影――まだ彼の頭の中では消えがたい影を曳いている、――に胸をときめかせながら、
「僕にはまだ、今あらわれている事実だけでは信じられないものがあるんです、だからハッキリどうにもならぬという見極めがつくまで何処かへ身を潜めていようと思うんだが」
 しかし、すぐひとりごとのようなぼそぼそとした声になって、
「だけど、やっぱり自首するのがほんとうかも知れないな、――しかしこの身体で二タ月も三月も留置場へつながれていたんじゃあすぐにまいってしまうと思うんですよ、ああ、やっぱり気にかかるのは家のことだな、取調べは長びくにきまっているし」
 自分の陥ちこんだ運命をまだハッキリ自覚しきれないもどかしさのために彼は絶えず下唇をじっと噛みしめたり、烈しい貧乏ゆすりをしたりしていたが、酒が入ると少し気もちが楽になってきたらしく、「疲れたな!」と呟きながらごろりと横になった。それから急にむくむくと起きあがって、
「今日、来なかったかしら、多吉は?」
「じゃあ会わないんだね、――夕方かえった筈なんだが」
「夕方?」
 丈吉の眼が嶮しくつりあがった。「何をしてるんだろう、困っちまうな、――あいつは家のことだけを心配してるんだから、それはそれでいいんだけれど」
 前の晩にも多吉は「うなぎ屋」の店で一杯やっているうちに別のテーブルで飲んでいた仕立屋の職人とこんどの事件のことがきっかけで喧嘩をはじめ、「表へ出ろ!」と威勢よく怒鳴って大見得を切ったまではよかったが、表へ出るとすぐにしたたかうちのめされてそのまま路上にへたばってしまったというのである。
「とにかく軽率すぎますよ、あいつはもう自分の一生涯が終ったような気もちでいるんですからね、――もう少し落ちついたらいいと思うんだけれど」
 丈吉はヒステリカルな調子でだしぬけに笑いながら、
「とにかく最初の日の威勢のよさったら大へんなものですよ、近所に住んでいる自動車の運転手をうまくだまして、一日じゅう危険区域を乗り廻していたんだそうですからね、運転手もまた妙なやつで、多吉といっしょにいさえすれば何かいいことがあると思ったんですね、到頭二日目の午後になってから大損をしたといってさわぎだしたというんですが」
「なるほどね」
 伍一の眼には皺くちゃのニコニコ絣を着た多吉が勝手放題な法螺ほらを吹きちらしながら自動車の中にふんぞりかえっている恰好までがありありと見えるようであった。その日ぐらしの運転手が「ことによったら」と思うのももっともであったが、しかしこのどさくさの中で望み得べくもない奇蹟を夢みてうろついている人間が、いよいよ駄目だという見当がつくと急に自分の姿に立ちかえるときのおどろきが彼の頭に笑い去ることのできない幻影となって残るのであった。二、三本の酒で急に調子づいてきた丈吉は伍一と同じ部屋で枕をならべて横になってからでも、かすかな寝息を立てたと思うと急にゲラゲラと笑いだしたり、しばらく経つと落ちついた声で外廓的な政治団体についてこまごまとはなしだしたかと思うと、途中で言葉を途切らせ、「やっぱり自首すべきじゃない」なぞとひとりごとを言ったりしていたが、となりの人声で眼をさました四つになるマユミが眠っている母の腕をすべりぬけてむくむくと床を這いだし、「おじちゃん!」と呼びながら襖をあけて入ってくると、
「ああ、――」
 と、丈吉は感傷的な瞳をかがやかしながら蒲団の上へ起きなおって、マユミを膝の上へしっかりと抱きあげた。「ああいいな、いい子、どうしたの、――今夜はおじちゃんとねんねしようね」
 彼は自分の背中を狭苦しい蒲団のそとへはみ出すようにしてマユミの寝る場所をつくってやり、きょとんとしている子供の顔を長いあいだ見つめていた。しかし、この感傷的な場面さえも伍一の頭の中では何時の間にか戯画化されたかたちに変っている。――哀愁が彼の胸の底を足早に通りすぎる陽ざしのようにかすめ去ったことも事実ではあるが、それがために丈吉の感傷に調子を合せようという気もちにはならず、胸をわくわくさせるような幻影の一掃されてしまったあとの寒々とした感情だけが堪えがたきもの、忍びがたきものの中につづいてきた自分の生活を思い出させるのであった。それはやがて、彼の頭の中で蒼ざめた青年将校たちの顔になり、うすぼやけた黄昏の空気をゆすぶってひびいてくるラッパの音になり、希望でもなければ絶望でもないあらゆる悲惨な事実を歴史のひと閃きの中で見失ってしまう宿命的なたよりなさに変ってきた。すると事件は何一つ終ったのではなく、あとからあとから起ってくるということにまだ堪えてゆかれそうな自分が始末に負えない人間のようにも思われてくるのであった。

           *

 丈吉が大阪にいる友人をたずねて東京を逃げ落ちる決心をしたのはあくる日の朝だった。玄関で前かがみになって靴の紐を結んでいる丈吉のうしろから、伍一が「駅まで送ってゆこうか?」と声をかけると彼は慌てて立ちあがり、
「いいんですよ、――そんなことをされたんじゃあ」
 と、言いかけてから、障子のかげから顔を出してきゃっきゃっとさわいでいるマユミを見るとこみあげてくる気もちを微笑にまぎらし、
「いい子だね、――待っているんだよ、今におじちゃんがおみやをどっさり持ってかえってくるからね」
 肩をおさえようとして伸ばした手をマユミは無心な素振りでそっとらしながら障子のかげにかくれたが、丈吉は上から見おろしている伍一の顔に愛惜の思いをこめた視線を投げて、「御厄介ですが多吉のことだけよろしく」と急に紋切型の言葉で挨拶してから格子戸をあけると、マユミがぬっと顔をだし、
「おじちゃん」
 と、疳高い声で呼びかけた。「おみやを忘れちゃ駄目よ」
 すると丈吉は眼をしょぼしょぼとさせながら、
「さよなら、――ね、さよなら」
 と、幾度となく会釈をして出ていった。雨になりそうな空模様で、木の根や垣根の下に氷りついている雪がほこりをあびてうす黒い色に変っているのが急に伍一の胸に痛々しいかんじを唆った。その朝の新聞は事件の報道でうずまっていたが、青年の将校はNという大尉がひとり自決しただけであとは憲兵隊の手にひきわたされたという記事のすぐあとに民間の関係者で前の日の夕方までにつかまった人たちの名前が書きつらねてあった。伍一は急に丈吉を追窮する官憲の手がだんだんちかづいてくることをかんじ、その日の朝、登代が丈吉からあずかったという手帳をすぐ焼きすてるように登代に命じてからすぐ二階へあがったが、事件がようやく鎮まったあとであたらしい噂に湧きかえる街々のざわめきが頭ににじむようにひろがってきて机の前に坐ってみても仕事は少しも手につかなかった。階下したでは登代が女中に内密で丈吉の手帳を焼きすてる場所に困り狼狽した揚句、まだ火の燃え残っている煉炭風呂のかまどの中へ投げ入れたのでぶすぶすと音を立てて夕方まできな臭い紙のにおいを発散させながらくすぶっていた。多吉の家の前へ憲兵が一人と私服の刑事が二人張番をするようになったのはその日の午後だったが、家のものは近所へ用達しにゆくほかには禁足同様に外出を禁じられ訪問者は片っぱしから厳重に調べられた。四、五日経つと憲兵はいなくなって私服の刑事だけになったが、多吉は何時の間にか刑事たちとも親しくなり、彼もいっしょになって丈吉の行方をさがしているのであった。ある日の午後、こっそり伍一の家へやってきた。「このままにしてほうっておいたら何時までつづくかも知れませんよ、――それに丈ちゃんだって一生涯かくれているというわけにはゆかないんだから」
 と、彼は家に残ったものの迷惑を考えないで勝手に逃げ廻っている丈吉に対する非難をまじえた言葉をもらしながら何とかして自首させる工夫はあるまいかと考えあぐんでいる様子だったが、伍一あてに届いた大阪の友人からの、「ニモツトドイタアンシンセヨ」という電報を見ると、急に悲壮な気もちになり、
「どうでしょう、――いっそのこと支那へでも逃げてしまったら」
 と、ひとりごとを言ったりするのであったが、しかし、次第に追求が烈しくなるにつれてやっぱり丈吉に自首させるよりほかに仕方がないということに彼の一家の意見が一致してくると、多吉は、自分にも多少心あたりがあるからと、刑事をうまく説き伏せて伍一から旅費をうけとり一人で大阪へ立っていったが、二、三日経つと丈吉とつれだってかえってきた。
 彼以外の民間関係者がことごとく挙げられたという新聞の報道がもう逃げ場所のなくなっていることを観念させたらしく、丈吉はその夜、伍一の家で別れの小宴をひらいたときにも、前とはがらりと変ったあかるい調子で逃亡中につくったという漢詩風の文章を読みあげたりして愉快そうにはしゃいでいた。やるだけのことをやったというかんじにやっと落ちついたらしく、ひと晩ぐっすり眠ってから、次の朝、多吉につれられてN署へ出頭していったが、多吉は夜になってかえってくると「バカにしていやがる」と忌まいましそうに顔をしかめてみせた。「まるで一杯喰わされたようなものですよ、丈ちゃんを迎えにゆく前に僕はあの刑事と約束をしていたんですがね、きっと君の署へ自首させるからというと顔色を変えて、是非そうしてくれというんです、そしたらこっちも礼を厚うして待遇するからというんで僕は意気揚々と乗込んだんですがね、ところが行ってみると僕等を待たせておいてからすぐ丈ちゃんを検束してしまったんです、だから僕が、それじゃあ君、話がちがうじゃないかと突込むと、いや順序としてこうやっておくだけですと言うんです」
「仕方がないさ」
 と、伍一が無感動な声で答えた。その夜、久しぶりで訪ねてきた内狩と彼は二階の書斎でしばらく話していたが話が少しもはずまなかった。「考えてみるとあの二、三日は楽しかったな」と、げっそりした声でうすら笑いをもらす内狩の顔にみずみずしい青春のおとろえが目立ち退屈な生活の翳がながれていた。もう四月も終りにちかづいて、銀座裏の酒場では「まだおそくはない」という叛乱軍の兵士に呼びかけた師団長の言葉が女給の殺し文句に変ってひとしきり流行はやっていたが、情熱に彩られた青年たちの幻像はようやく民衆の記憶からうすれかけようとしていた。丈吉の取調は延びのびになって、憲兵隊に呼び出されたのは間もなく梅雨期に入ろうとする頃で、しかし、それも一応の形式を整えるだけのものにすぎなかった。一日で取調が終ると彼はそのまま元の留置場へつれ戻されたが、同じことが何べんとなくくりかえされているうちに病弱な彼の肉体はじりじりと衰ろえていった。はじめのあいだはときどき差入れにゆく多吉に、このつぎはうなぎ飯、そのつぎは天丼と好きな註文をならべていたが、外の形勢が変ってくるにつれてだんだん自由が許されなくなり、多吉が面会に行っても無駄足を踏むことが多く、五月も終りにちかづこうとしているのに憲兵隊からの呼出しは来なかった。何とかして都合をつけて一ぺんだけ会いに来てくれという丈吉の言葉を多吉が伍一につたえたのは七月のはじめであったが、それから二、三日経って伍一が多吉といっしょに出かけてゆくとすぐ高等視察室に通され、しばらく待っていると五ヶ月ぶりで見る丈吉が歩くのも大儀そうな足どりで入ってきた。彼は、しかし想像していたよりもずっと元気でマユミと同じ蒲団の中で眠ったことがどうしても忘れられないと言い、二、三日前も七つになる妹の夢を見て、「信子!」と大声でさけんだ声を看守が部長に報告したので、「信子」という女の存在について取調べられたというようなはなしをして寂しそうな微笑をうかべた。多吉が、持ってきたアイスクリームの缶をテーブルの上において、
「どうかね、一口」
 と、すすめると、彼は横の席にいた刑事の方を向いて、「どうです、吉川君」と呼びかけた。垢のしみついたワイシャツの上からうすい褞袍どてらを着ている男が窓にもたれていたが、るそうな眼でちらっとうしろを振りかえると黙って立ちあがり丈吉のすすめるアイスクリームをうまそうに頬ばった。丈吉はちらっと伍一の顔を見て、
「同志の本堂君です、――二人で同じ留置場にいるんでまだ助かるんですが」
 と、ささやきかけると、やっと二十五、六に見える頬骨のとがった本堂が消えるようなうす笑いをうかべた。しかし、そのまま彼は元いた窓のそばの椅子に腰をおろし、正午ちかい夏の照りつける陽ざしに乾いた下の電車みちにじっと視線を落していた。電車線路のすぐ上は小高い丘になっていて、丘の上には高い銀杏いちょうの木がそびえ、右へだらだらにのびた崖の上には掘立小屋のような小さい家が雑然とならび、高い物干竿におしめの乾してあるのが見える。そのうしろには赤松の林がつづき、低い崖の下には丸い土管がつみかさねてある。その横にある小ぢんまりとした一軒家の竹垣がくずれて生活のにおいが何処からともなくながれてくるような一廓であった。丈吉の話によると本堂青年は宣伝用のパンフレットを印刷したことが祟ってあげられたのだという。
「兄弟二人とおっかさんとの三人ぐらしで、小さい印刷屋をやっていたのが兄弟二人ともやられているんです」
 伍一はだまってうなずいてみせた。見るに忍びないものが、窓框まどがまちせかけた片肘にあごを乗せて視力のうすれた眼でぼんやり外の風景にみとれている彼の横顔の中に深い翳を刻んでいる。伍一は自分の身ぢかにいる丈吉よりもむしろちらっと瞳をかすめただけのこの青年のうち萎れている姿の方に心をひかれた。そこへ、眉の濃い口髭を生やした小柄な男がぬっと入ってくると、丈吉は身を引くようにして立ちあがり、伍一の耳に、「主任です」とささやいてから、
「あの、――」
 と、隅の席に腰をおろした男の方へ顔を向けた。「紹介しましょう、これが僕の親戚の鷺野伍一です」
「ほう」
 ちょび髭の男は丁寧に頭を下げた伍一の方を振向こうともせず、ちらっと腕時計をすかすように見て、
「おい、だいぶ時間が立ちすぎたぞ」
 と、つっけんどんな声で言った。すぐ前の席にいた刑事が、「さア、かえるかな」と丈吉を促しながら腰をあげた。一瞬間、嶮しい感情が丈吉の顔にあらわれたが、しかし彼は何時の間にか自分をおさえる習慣をつくってしまったのであろう、怒りを噛みころした唇をかすかに顫わせただけで伍一の方を向いた顔は「ごらんのとおりです」と言わんばかりの微笑をふくんでいた。窓に凭れかかっていた本堂はぴくっとして立ちあがり、何か弁解をするためにしばらく口をもぐつかせていたが、すぐ刑事に追い立てられるように出ていった。
「何か君、――差入れるものでもあったら」
 と伍一は多吉に目くばせしてから、横を向いている主任の方へ、「どうもいろいろありがとうございました」と静かな表情で礼を述べ、そのまま暗い階段を下りてゆくと、多吉があとからすぐ下りてきたので、
「何か言っていた?」
 と、訊くと、
「ええ」
 口ごもった彼の顔がぼうっと赤くなった。「鰻が喰べたいというんですが」
「鰻を――?」
「前に僕が届けてやったことがあるんで、そいつを思いだして」
 街へ出ると伍一はだまって電車の停留場まで歩き、丈吉に差入れをするための金をわたしてから一ぺん自分の家へかえろうという多吉とわかれたが、その夜、一時すぎまで机に向って仕事をしていると、しずまりかえった街の方から串本ぶしを唄う声が聞えてきたかと思うと乱れた下駄の音が次第に彼の家へちかづき、耳をすますと多吉の声になった。夜中に酔ってかえってきた多吉にたたき起されることも前にはたびたびあったが、こんなに大びらに唄をうたってくることはめずらしい。伍一が不快そうに顔をしかめたとき、女中がやっと起きたらしく格子戸をガタガタとゆすぶりながら錠をはずしているらしい気配がしたが、外にいる多吉はそんなことには無頓着で、「可愛いお前のあですがた」と、同じ文句を何べんとなくくりかえしながら門の潜り戸のあくのを待っていた。伍一は妙な胸さわぎを覚え、階下がしいんとなるまで机の前にじっとしていたがやがてそっと立ちあがると、表に向いている雨戸をあけた。月のない夜で、雨気をふくんだ夜風がうすらつめたく、遠いもののかたちは闇にとざされて見えなかったが、立っているうちに百合の顔がぼうっとうかんでくると落ちついた生活の表層が急に波立つような不安が湧いてきた。好きだというほど積極的なかんじでもなかったのが、ふとした動機で肉体の関係が生じてから伍一は、此処で踏み止まろう、いや此処で、いよいよ此処で、――と自分に言いきかせているうちにずるずると手繰りよせられてもはや退っぴきならぬところまで来てしまったのであった。そう言えば女のことだけではなく、今は覚悟もなければ決心もない、唯、ぬらりくらりとした感情の動きが知らぬ間に彼の生活の実体をつくりあげてしまっていた。危険に身をさらして立とうとする情熱が前にはすぐうしろにある過去の回想の中から足並早くちかづいてきて、絶えず挑みかかる幻影を払いのけることさえなかなか困難であったのに、今はあとを振りかえることも億劫なほど青春は遠くうす濁った影によって掩いかくされてしまっているのだ。絶望もなければ哀傷さえもなく、生きている事実を事実として眺めようとする気もちが、どのような危険に対しても巧みに身をかわすことによって彼自身を思いがけなくも大胆な無感動な人間につくり変えてしまっているのである。今は、残して来たものと、残そうとするものとの見極めもつかぬほど朦朧とした想念だけが何の計画もなく前へ前へと彼を駆り立てるのだ。夜風が樹立をゆるがす音が伍一の耳に悲しい音を立てて鳴りはじめた。すると半歳前の、雪の日に起った惨劇の記憶が過去の思い出としてではなく、胸の底から未知の幻覚となってうきあがってきた。そして、ぬらりくらりとした正体のつかめないもの、――へし曲げようとしても圧し潰そうとしても粘りづよい弾力をもってはねかえしながら、しかし、すぐへなへなと萎れてゆく、つめたく無気味な触感が現在を生きぬけようとする彼の心の手ざわりとして残された。





底本:「尾崎士郎短篇集」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年4月15日第1刷発行
底本の親本:「悪の序章」近代文化社
   1948(昭和23)年10月
初出:「中央公論」中央公論社
   1937(昭和12)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:入江幹夫
校正:フクポー
2021年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード